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平和活動

主権国家によるガバナンスが失敗しているのであれば、別の類型のガバナンスによって置き換えるべきでないか? エスニック集団間で激しい紛争が起きたならば、その国の中央政府に公平な仲介者としての役割を期待するのは難しい。外国、例えばアメリカ合衆国、にそうした役割を求めることもあるが、紛争当事者が望まない場合がある。そこで、国際連合の出番になる。今回のテーマは、国際連合その他の国際的枠組みによる平和活動の起源と変遷について説明しなさい、である。ただし、朝鮮戦争や湾岸戦争などいわゆる「国家間戦争」における国連の活動は除く。

国際連合の平和維持活動はPKOの略称で知られる。自然環境の厳しい条件下で、制服を着た要員が緊張した面持ちで服務しているイメージがある。どこに派遣されてきたかを見ると、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、中米・カリブ、そしてバルカン半島といった政治が不安定である地域が多かったことが分かる。別の回で論じたように、それらの国々は「弱い国家」または脆弱国家である。また、冷戦後に急増したことにも気づかされるが、国連安全保障理事会の常任理事国であるソビエト連邦/ロシアが拒否権を使わなかった時期と重なる。

現在、PKOと呼ばれるものは、初めて派遣された時からPKOと呼ばれたわけでない。1948年から展開しているUNTSO(国際休戦監視機構)は最初のPKOであった、と目されるものの、ピース・キーピング・オペレーションという国連の活動類型としては認知されていなかった。「平和維持」という用語が流布したのは1960年代初頭といわれる。PKOの派遣は紛争の発生を未然に防ぐ「予防外交」の一つであるが、この言葉がダグ・ハマーショルド国連事務総長によって使われたのは1960年のことである[1]。そのころようやく、PKOを含む予防外交の価値が認められるようになり、この用語が流布した。

PKOの価値を世界に知らしめた出来事はUNEF(国連緊急軍)の派遣である。スエズで戦うエジプトとイスラエルの両軍の間に分け入り、それらを引き離すために送られたものであった。これに先立って朝鮮戦争に派遣された国連軍は戦闘するための強制措置であり、戦闘させないためのPKOとは根本的に目的が異なる。安全保障理事会が朝鮮国連軍の派遣を決めると、欠席してきたソ連が不利を悟り、米軍に国連が味方することを拒否権によって妨げる動きを見せた。国際平和の責任を安保理が果たすことはできなくなり、総会が代わって責任を担うことを表明したのが1950年に採択された総会決議「平和のための結集」(A/RES/377)であった。

こうしてUNEFの派遣に際し、国連総会の緊急特別会期が舞台となった。アイデアを出したのはカナダの外務大臣レスター・B・ピアソンであった。彼の名はトロントのピアソン国際空港に留められる。1956年11月1日の議事は深夜0時を回って、未明まで続いた。最後にピアソンはエジプトとイスラエルに停戦を守らせるための案について演説した。明石康は翌年、日本人初の国連職員となった人であるが、数時間後の様子を臨場感たっぷりに描く。いつ眠ったのであろう? ピアソンとハマーショルドは。

ピアソンは、一一月二日の昼食をハマショルドとともにしたが、国連軍を具体的に結成する上での複雑な問題に思いをはせていたハマショルド総長の眼は、国連ビルから見下ろされるイースト川の白々と輝く川面を、とかく追いがちであった。しかし、昼食が終るころには、国連軍をつくる上での主な問題は、二人の間で大体検討しつくされていた[2]

この三日後に、総会はUNEFの結成を決議した(A/RES/1000)。1957年のノーベル平和賞はピアソンに与えられた。

PKOは国連憲章に規定がない「6章半」の活動とされる。第6章と第7章のどちらでもない、それらの中間に当たる、という解釈からである。第6章は非強制的に紛争の平和的解決を図ることを勧める。平和的解決といっても、第三者による仲介や司法的解決が念頭にあり、これらはPKOとは違う。PKOは必ず軍事要員を含むからである。軍事要員を伴う国連の活動といえば、憲章の第7章において定められる安保理の決定に基づく軍事的な強制措置である。UNEFは安保理により結成されたわけでも、強制措置であったわけでもない。6章半という表現は、憲章上にぴったりの根拠規定がないPKOに何とか根拠を見つけようと苦慮した末の造語であろう。

PKOの原則というものがある。停戦合意とは、当事者間に争いをやめる意思がなければ、PKOを派遣しないということである。中立・不介入とは、いずれの当事者にも肩入れしないということである。非強制とは、軍事的な手段を使って当事者を屈服させないことである。自衛の場合のみの武器使用とは、武器を使ってこちらから攻撃しないことである。国際的性格とは、一国だけで行うのでなく、必ず複数の国で実施することである[3]。これら厳格な原則は帝国主義の記憶が残っていた当時、PKOへの警戒感を緩めることに役立ったであろう。

UNEFは停戦監視および兵力引き離しというPKOに託された古典的な役割の例であった。それが評価されて、1988年、PKOにノーベル平和賞が授与された。翌年に冷戦が終結するとPKOの役割は劇的に変化した。選挙監視、文民警察、人道援助支援、難民・避難民保護、武装解除、そして地雷除去が主な活動に格上げされた。古典的な役割が国家間戦争の予防であったのにたいし、これらは冷戦後に注目されるようになった内戦終結と国家建設の課題に応えるものであった。

そのころ、日本は経済大国の自意識が芽生え、国際貢献が必要であるとの意見が叫ばれた。日本初のPKOは1989年におけるナミビアへの選挙監視(UNTAG)であったとされる[4]。ナミビアは南アフリカの支配から独立することになっていた。初の派遣は1992年のUNTAC(国連カンボジア暫定機構)であったとする説もある。ナミビアに派遣された要員が31人であったのにたいし、こちらは1,300人あまりを数えた[5]

PKOへの派遣は大きな政治問題となったが、それは自衛隊の違憲論が根強く存在したからである。いわゆる国際平和協力法は1992年6月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」として成立した。その名の通り、同法は初めはPKOを念頭に置いたものであった。あとで触れるように、この法律は幾度も改正されることになる。

国際平和協力法に、日本のPKO五原則が定められる。当事者間の停戦合意、PKOの実施と日本の参加に対する受け入れ側の同意、PKOの中立性、以上の三つが満たされない場合の中断・撤収、そして必要最小限の武器使用である[6]。最後の必要最小限の武器使用は緩められたものの、五原則はともかくも維持されている。

UNTACへの参加は、カネだけでなく汗も流す、という対外政策の大転換として行われたはずであった。実際、UNTACは内戦が続いたカンボジアを民主国家として再建する壮大な使命を負い、日本人の要員は幅広い活動に従事した。すなわち、紛争当事者間の停戦・武装解除の監視、選挙の準備・実施、行政の管理、難民帰還の支援、そして復旧の支援がそれに当たる[7]

しかし、日本国民の記憶に残ったのは命をカンボジアで落とした二人の青年に関する報道であったろう。文民警察に参加した国連ボランティア1名と警察官1名が殉職した。平和のための犠牲が尊かったことはまちがいないが、汗のみならず血を流す心の準備が国民の多くになかった。

国連の側はPKOを冷戦後の時代に適応するべく、野心的な計画を立てた。ブトロス・ブトロスガリ事務総長による報告書はアジェンダ・フォー・ピース、すなわち平和への課題、という題であり、安保理理事国の首脳たちによって採択された[8]

アジェンダ・フォー・ピースは、ナショナリズムの新たな主張がエスニシティ、宗教、社会、文化、そして言語をめぐる紛争を巻き起こしている、という認識に立つ。平和のために国連がとるべき行動は、予防外交・平和創造・平和維持・平和構築である。分かりやすく言い直すと、紛争のまえにとられるものが予防外交、紛争を止めるために行われるのが平和創造、紛争を止めたままにするのが平和維持、そして、紛争後に再発しないようにするのが平和構築である。

論争を呼んだのは、停戦の回復・維持のため、憲章第7章第43条が定める国連軍による武力行使を提案したことである。これは平和強制部隊と呼ばれたが、PKOの非強制原則とたもとを分かつものであった。

ほかでは、PKOを紛争のまだ起きていない土地に送り込む予防展開が提案された。この新しい手法は1995年に北マケドニアで実現した(UNPREDEP)。あとで述べるように、平和構築は広く長く続く国連の活動分野となった。

平和強制のテストケースとして注目されたのはソマリア紛争である。ソマリアはクラン、すなわち氏族、が社会の基本単位であるとされ、国家は脆弱であった。冷戦崩壊に伴う社会主義の権威失墜とともにムハンマド・シアド・バレ大統領の政権は倒れ、内戦になった。国際社会は当初、慎重に対処した。1992年に派遣されたPKOのUNOSOM(国連ソマリア活動)は、それほど難しくない停戦監視と人道援助物資輸送を任務とした。ならんで結成された多国籍軍のUNITAF(統一任務部隊)に加わった米軍も慎重であった。

ソマリアに平和が訪れる可能性が万にひとつでもあるとすれば、そのためには族長に武装を解除するよう呼びかける必要がある、国連はそう考えていた(ブトラス・ガリ[ママ―引用者]はそう表明していた)が、アメリカはこの要請をそっけなく拒絶した。―中略―アメリカ軍がソマリアに入った一週間後、部下がソマリア人から機関銃を没収しているのをみた将校は、即座にそれを返すように命じたくらいだ[9]

人道援助だけでは暴力そのものを止めることはできない。1993年、安保理決議S/RES/814が派遣を決めたUNOSOM II(第2次国連ソマリア活動)はアジェンダ・フォー・ピースの平和強制を実現したものであった。前文で憲章第7章を根拠に挙げ、本文で、武器禁輸ならびに難民および避難民の帰還・再定住のためには兵力を利用できる、と明記した。武器が手に入らなくなれば、暴力は収まるはずであった。

国際社会はソマリア人の抵抗を見くびっていた。1993年6月、パキスタン兵25人が殺害された。その後、米軍艦がソマリアに向かう映像が報じられた。10月になって、事件の犯人を捕らえるために米軍の特殊部隊であるレンジャー部隊およびデルタフォースが出動した。そのヘリコプター2機が墜落したショッキングな様子は映画『ブラックホーク・ダウン』で再現された[10]。兵士を救出するために起きた市街戦で米兵18人が死亡した。死体はさらしものにされ、侮辱を受けた。

ソマリアでは、大多数の人々はソマリ語を話し、イスラム・スンナ派を信じる。なぜエスニック紛争が起きるのか? 国家への帰属意識よりも、共通の祖先を持つとされる氏族への帰属意識のほうが強いからである。氏族といっても、実際には、日本の源氏や平家のように血脈のつながりはフィクションであろう。しかし、人々が国連決議や米軍の目的よりも氏族の立場から物事を考え、行動したことは本当である。高野秀行によれば、パキスタン兵殺害犯と同じ氏族の人間が米軍のスタッフに紛れ込んでいた。そうしたスタッフは情報を漏らして米軍の作戦を失敗に導いたであろう。米軍は肝心な犯人を取り逃がしたばかりでなく、氏族の長老を多数、殺してしまい、怒りに油を注いだとされる[11]。ソマリア人は自分たちの社会の規範に従って生きる。国連の権威と軍事力で人々を屈服できると発想したことがまちがいであった。

アメリカ合衆国の市民たちは、国連の平和強制はもうたくさん、と感じた。ブラックホークの墜落は国連への期待を失わせた。PKOの発展形として平和強制部隊がある、という道筋は閉ざされた。ブトロスガリ事務総長は続投できずに、1期だけで退任した。

国連の平和活動は別の道に活路を開いた。日本研究者のラインハルト・ドリフテは次のように分析する。

『平和への課題』はPKOの境界線を拡張し、一九九〇年代前半には各地に頻繁に展開されたが、ソマリア、アンゴラ、旧ユーゴスラビアにおける挫折によって加盟国は目を覚まし、また国連の財政難と政治的対立によってその後の任務は減少した。代りに平和構築(peace-building)、経済援助、停戦監視任務などに重点が移った。

この新しいアプローチは人道援助や紛争後の経済復興のような巨額の資金を要する事業活動が含まれるため、日本の経済力が役立ち、その意味で歓迎された。日本は一九九二年一二月の総会決議を経て「平和維持活動準備基金」を創設した[12]

コフィ・アナン事務総長に提出された2000年のブラヒミ報告は、もはや平和強制を唱えなかった(A/55/305-S/2000/809)。重点は平和構築に置かれ、なかでもDDR、すなわち武装解除・動員解除・社会復帰プログラム、に注目した。また、PKOをはじめとするミッションの早期展開が必要であると強調され、要員の提供をあらかじめ加盟国と取り決めておく国連待機制度(UNSAS)が提言された。日本政府もアフガニスタンの復興支援に際して「平和の定着」という言葉を使ってDDRほか平和構築への貢献を表明した[13]

平和構築というものは際限がない。なぜならば、平和に寄与するとされるものは何でも含まれるからである。例を挙げると、文化交流、開発援助、経済改革、共同プロジェクト、保健支援、農業プログラム、人道支援、難民および国内避難民の帰還・再定住、政治改革、選挙監視、市民社会支援、公務員訓練、人権擁護、憲法制定、戦争犯罪裁判、司法・法制改革、警察改革、先住民支援、メディア支援、教育支援、そして平和教育がある[14]

単なるビジネスであっても、異なるエスニシティに属する二人の人間が同じ職場で働けば平和構築になる。緒方貞子はボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRの事業を紹介する。

こうした状況下で、UNHCRは民族間の壁を克服するために、新たな措置を講じなければならなかった。組織体間を行き来するバスの運行、少数派を受け入れる自治体に優先的に追加援助を与える「開放宣言都市」プロジェクト、女性の職業訓練の促進をめざした「女性イニシアティヴ」、民族の和解をはかる「共生の想像」などを、次々と立ち上げた。とくに重要なことは、おびただしい残虐行為を体験した地域社会を再建するために、救済的なモデルを模索することであった。これは「復讐と赦し」、すなわち過度の追憶と過度の忘却の中間点を探ることであった。雇用の分かち合いからレクリエーションの共同参加まで、試験プロジェクト「共生の想像」は、和解に向けた最も独創的で建設的な準備段階を示すものであった[15]

平和強制への道は閉ざされたものの、PKOが衰退したわけでない。21世紀の初めには要員の数は増加した[16]。経費も膨らんだ。むしろ、平和活動の顕著な変化は、派遣する主体の間で役割分担が進んだことにあった。NATOやアフリカ連合(AU)のような地域的な国際機構や随時の連合の役割が増した。派遣されたミッションの数が増えたことから、そういえる[17]

平和活動における地域的枠組みの活用を旧ユーゴスラビア地域を例に見る。旧ユーゴスラビア全域を対象としたUNPROFORは1995年に再編され、クロアチアを対象とするUNCRO、ボスニアヘルツェゴビナを対象とするUNPROFOR II、そして北マケドニアを対象とするUNPREDEPに三分された。このうち、UNPROFOR IIは国連からNATOに翌年、移管され、IFOR(平和履行部隊)という名称になった。さらにそれは同年中にSFOR(平和安定化部隊)と改称され、2004年にEufor AlteaとしてEUに引き継がれた[18]。国連からNATOそしてEUへの移管はヨーロッパ諸国からの関心を反映した結果である。ロシアや中国との勢力争いもなかったので平穏に行われた。

対テロ戦争以後のアフガニスタンにおける役割分担は異なる形であった。2002年に送られたUNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)は軍隊を伴わない政治ミッションであったが、国連は大規模な平和構築事業を遂行した。緒方貞子は回想する。

安保理はISAFの配置を承認はしたが、国連自体は、カンボジア、コソヴォ、東ティモールの場合と違い、移行期間の行政責任を負わなかったことは重要である。アフガニスタン暫定行政機構は唯一の責任機関であり、ブラヒミが率いる国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が補佐にあたった。いくつかの国は特定の分野に関する主導的役割をすすんで引き受けた。アメリカとフランスはアフガン国軍を訓練し、立て直すことになった。ドイツは国家警察を訓練し、英国は麻薬産業の取り締まりを担当することになった。また、イタリアは司法改革の責任を負うことになり、日本は元兵士の動員解隊と社会復帰事業の支援を行うことになった[19]

そのかたわらで、米軍はテロとの戦い、すなわち「不朽の自由」作戦を続けた。ウサマ・ビンラディンは捕まっていなかったからである。カブール周辺の治安はNATOが指揮するISAF(国際治安支援部隊)に委ねられた[20]。それはアジェンダ・フォー・ピースが提案した平和強制の一種と呼べるかもしれない。YouTubeに上げられた動画を観ると、激しい銃撃戦によって反乱勢力を制圧したことが分かる。そうした戦闘はPKOの原則とは明らかに相いれない。国連は本当に強制措置がとれるのか? 兵士が国際法に違反したら、誰が裁判をするのか? 現在の国連と国家との一般的な関係を踏まえると、そうした仕事は国家に委ねてしまうのが短期的には無難である。

イラクでは、アメリカ合衆国が安全保障理事会の承認なく戦争を始めたことにより、国連に目立った役割は与えられなかった。多国籍軍とその暫定統治機構(CPA)がイラクを全般的に支配したからである。日本は2003年にイラク支援法(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)を定め、自衛隊を派遣した。占領行政は安保理に認知されたものの、国連自体の活動ではなかった。

ソマリア沖・アデン湾での海賊退治にも自衛隊が派遣されている。日本の海賊対処法(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律)は2009年に成立した。そこで定義された海賊行為とは、船舶強取・運航支配、船舶内の財物強取、船舶内にある者の略取、人質強要、そしてこれらのための準備行動である。ここにも国連の役割はない。

安倍晋三政権のもと、平和安全法制として2015年に国際平和協力法が改正された。もはやPKOばかりが自衛隊が参加する平和活動ではなくなった。国際連携平和安全活動への協力が新たに定められた。「国際連携」とは米軍や地域的国際機構と連携することである。治安や平和強制を主に実行するのはこれらの主体である。平和安全法制によって、自衛隊の武器使用が緩和された。それまでは自衛のためだけであったのが、現地の住民、活動関係者、そして同じ宿営地の外国軍隊を守るためにも認められることになった。 以上、見たように、冷戦後に期待された国連中心の「新国際秩序」は実現しなかった。代わりに、米軍や地域的国際機構による武力行使の後始末として、国連は治安や平和構築を引き受けることが多かった。大国はグローバルガバナンスの責任を負うつもりはなく、国益を追求するなかで応分の責任を果すにすぎない。それでも、平和は公共の利益であり、誰かが平和に関する説明責任を果たさなければならない。これこそ、他の主体にはできない国連の唯一無二の役割である。


[1] 香西茂、『国連の平和維持活動』、有斐閣、1991年。

[2] 明石康、『国際連合』、岩波書店、1985年、85ページ。

[3] 神余隆博、「国際平和協力とは何か」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年。

[4] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、 54ページ。

[5] “カンボジア和平及び復興への日本の協力,” 外務省, January 2007, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/kyoryoku.html, accessed on February 21, 2026.

[6] 神余、「国際平和協力とは何か」、193ページ。

[7] 中島久宜、「日本の参加実績」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年、223、225、229、232ページ。

[8] DPI/1247.

[9] リンダ・ポルマン、『だから、国連はなにもできない』、富永和子訳、アーティストハウス、2003年、 54ページ。

[10] Ridley Scott, Black Hawk down, 2001.

[11] 高野秀行、『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』、本の雑誌社、2013年、310-311ページ。

[12] ドリフテ、『国連安保理と日本』、111ページ。

[13] “Statement by H.E. Ms. Yoriko Kawaguchi, Minister for Foreign Affairs of Japan at the Tokyo Conference on Consolidation of Peace (DDR) in Afghanistan,” Ministry of Foreign Affairs, February 22, 2003, https://www.mofa.go.jp/region/middle_e/afghanistan/pv0302/ddr_state1.html, accessed on February 21, 2026.

[14] Michael Lund, “A Toolbox for Responding to Conflicts and Building Peace,” in Luc Reychler and Thania Paffenholz, eds., Peacebuilding: A Field Guide (Boulder: Lynne Reinner, 2001), pp. 17-18.

[15] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、394ページ。

[16] 東大作、『平和構築アフガン東ティモールの現場から』、岩波書店、2009年、35ページ。

[17] Sharon Wiharta and Kirsten Soder, “Appendix 3A. Multilateral Peace Missions in 2006,” in Stockholm International Peace Research Institute, SIPRI Yearbook 2007: Armaments, Disarmament and International Security (Oxford: Oxford University Press, 2007), p.130.

[18] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年、136ページ。緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、129ページ。

[19] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、352ページ。

[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、353ページ。

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難民と人道援助

紛争が起きれば、戦闘員だけでなく非戦闘員の被害も大きい。誤射や誤爆の巻き添えになるばかりでなく、破壊や避難によって、衣食住に支障が出る。着の身着のまま逃げ出せば、着る物も雨風をしのぐ所もない。店が閉まり、食品も届かない。健康が損なわれるのは時間の問題である。こうした事態は地震や水害のような天災でも同じであるので、非紛争地域の人たちにも他人事でない。今回のテーマは、難民・国内避難民など紛争下の文民は何を必要とし、国際社会は何を提供できるのか?、そして、提供にあたっては何に注意しなければならないのか?、を論じなさい、である。

難民といえば人類の課題である。人類の課題といえば国際連合である。UNHCRは国連難民高等弁務官という役職のことでも、国連難民高等弁務官事務所という組織のことでもある。1950年に国連総会の決議によって設置された。日本人の緒方貞子は1991年から2000年にかけ、冷戦後の混乱下、高等弁務官を務めた。彼女は2003年から2012年には日本の対外援助の中心機関である国際協力機構(JICA)の理事長にもなった。

緒方貞子は総理大臣を務めた政治家、犬養毅、の曽孫であり、聖心女子大学を卒業後、アメリカ合衆国の名門大学院に学び、上智大学教授となった。なぜそのようなことを書くかというと、日本の人道活動はお嬢様たちに支えられているところがあるからである。緒方貞子は彼女たちのあこがれであったろう。

こうした人道活動の威信の高さは日本だけのことでない。UNHCRの本部があるジュネーブは国連人権理事会と赤十字国際委員会もあり、世界における人権と人道の首都と目される。世界でとりわけ物価の高い都市でもあるジュネーブの高邁な理想が人々を引きつける。

さて、UNHCRのウェブサイトによると、2025年6月末には世界には1億1730万人の避難民がおり、うち4,250万人が難民、6,780万人が国内避難民であった。ほかは、難民地位条約とは異なる法的地位にあるパレスチナ難民、庇護希望者、そしてさまざまな地位のもとにあるベネズエラからの国外避難民である。難民の出身国の上位3か国は、シリア、ウクライナ、そしてアフガニスタンである(パレスチナ難民とベネズエラ難民は除く)[1]。ウクライナではロシアによる突然の侵攻で、国土の東半分が危険な戦場になってしまった。シリアは内戦のために人口の3分の1以上が国内外に散った。アフガニスタンは40年以上、平和から遠ざかり、周辺国に難民があふれる。ほかでは、ミャンマーから逃げたロヒンギャの人々について覚えているであろう。仏教徒の多いこの国で、ラカイン州に住むムスリムは外国人とみなされ、迫害されている。

避難民とか、難民とか、庇護希望者とかいった言葉の使い分けに困惑を感じたかもしれない。パレスチナ難民には特別な定義があり、1948年の第一次中東戦争以前にパレスチナに住みながら、同戦争によって家を失った人と、そうした人の男系子孫を指す。

一般的に難民と呼ばれるのは、1951年に採択された難民地位条約第1条A(2)の定義を満たす人々である。条約には「千九百五十一年一月一日前に生じた事件の結果として」という要件が書かれているが、現在は1966年の難民地位議定書により、これにしばられない。それゆえ、難民の定義は次のとおりである。

―前略―人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの

常居所を有していた国に留まる者は、定義に含まれないため、難民と呼ばれず国内避難民(IDP)と呼ばれる。ほかにも、いわゆる「経済難民」や「環境難民」が難民に当たらないことが分かる。上で触れたベネズエラからの避難民には実は経済難民が含まれる。庇護希望者は、難民と認定されていない人々のことであり、難民よりもさらに不安定な地位にある。

難民地位条約によって、難民が手にした最大の権利はノン・ルフールマンの原則である。ルフールマンとは「送還」のことである。恐怖を感じる領域に難民を追放したり、送還したりすることは同条約第33条によって禁じられる。

ノン・ルフールマンの原則によって、恐怖を有する者の心配がすべてなくなるわけでない。避難を始めた者は、外国にたどり着けないかもしれない。あと一歩というところまで来ても、目的国から入国を阻まれるかもしれない。入国できたとしても、難民として認定されないかもしれない。認定されたとしても、衣食住と職にありつけないかもしれない。故郷に恐怖の原因がなくなり帰ろうとしても、生計を立てられないかもしれない。

そうした不安に応えたのが緒方貞子であった。1991年の湾岸戦争後、クルド人の反乱をイラク軍が鎮圧した。着の身着のまま逃げ惑う人々は、他国にたどり着けない国内避難民の地位にあった。 困ったことに、隣国のトルコにとって、クルド人は自国内で独立を目指す者たちの同胞であり、友好的な存在でなかった。安保理決議S/RES/688は、あらゆる資源を使って難民と避難民の必要に応えるよう国連に求めた。次の回想は、彼女がそうした求めに真剣に対応した表れである。

つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は、法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという法的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか?[2]

こうした試練を経て、UNHCRの活動は国内避難民への援助にまで広がった。UNHCRはイラク、トルコ、そしてイランに拠点を構え、難民と国内避難民に保護を与えた。

冷戦後の紛争に対して、食糧援助の必死の努力がなされた。ボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRによる食糧の空中投下を、緒方貞子は次のように述べる。

何千人もの人々が空中投下された援助物資を拾おうとして山腹に急いだが、通常、援助をもっとも必要としている人々、つまり女性、子ども、到着したばかりの人々は、非常食が入った包みを手にすることができなかった。不幸なことに、何人かが投下品の直撃を受けて亡くなり、また落下場所に殺到した人同士の衝突によっても命を落とした。

それでも、空中投下は包囲下にあったボスニア東部・中部の町や集落に食糧、医薬品、その他の必需物資を配布するための最後の手段として役に立った。時が経つにつれて、配布の手順は改善され、住民が秩序正しく物資を受け取れるように、前もって予告のビラが撒かれた。食糧もすぐに食べられる非常食のパックから、女性が調理すれば家族にも行き渡るよう穀類の大きな包みが投下された[3]

WFP(世界食糧計画)による食糧支援は、公共広告機構のCMによって、一般人にもおなじみである。この機関は国連経済社会理事会(ECOSOC)とFAO(国連食糧農業機関)が主体となって1963年に設立された。主な任務は緊急事態での食糧援助である。2023年には約1億300万人を支援した[4]

アフガニスタンでの対テロ戦争において、WFPは食糧援助の主役であった。小麦の入った袋はトラック輸送や空中投下で配られた。米軍も食糧を投下したが、きめ細かく対面で食糧を配る国連機関と違い、米軍は空中投下しかしなかったので、最も必要な人々に届かないと批判された[5]

UNHCRは難民および国内避難民という「人」をめぐる総合的な機関であり、キャンプという「住」を提供する。「人」が「子供」であればUNICEF(国連児童基金)が参加し、「教育」にはUNESCO(国連教育科学文化機関)が携わる。WFPは「食」に特化し、WHO(世界保健機関)は医学の立場から「健康」について助言する。これらは現場における国際機構のパートナーである。WFPが農業技術を必要とすれば、同じくローマに本部があるFAOと連携する。WFPが挙げるパートナーは国際機構ばかりでなく、各国政府、NGO(非政府組織)、そして企業もある。

WFPが設立されるはるか以前、戦争に敗れ、子供たちが腹をすかせた日本の家庭に、アメリカ合衆国のNGOであるCAREから食糧が贈られた[6]

そうした食糧援助の先駆者はイギリスのオックスファムである。1942年、ドイツに占領されたギリシャは飢餓で苦しんでいた。オックスフォードの町の人々が飢えた人々に食糧を送るため設立したのがオックスファムである。現在、それは紛争や自然災害に衣食住を提供するだけでなく、チャリティショップを営み、フェアトレードの産品や寄付された物を売る。

こうした諸アクター間のパートナーシップについて、緒方貞子の言葉を借りる。

国家再建には広範囲なアクター(行動主体)の揺るぎないパートナーシップが必要である。復興過程にあるさまざまな組織や地域社会の強化と結束に最も重要な影響をもつのは、国家そのものである。同様に、復興の成否に不可欠なのは、紛争直後に安全な環境を形成する役割を任された軍隊と警察である。人道機関は紛争を乗り越えた人々の生活を正常に戻すために、当面の短期的救援を提供する。UNHCRの場合、その役割は、難民・国内避難民が故郷に戻って、元の地域社会に再定住するよう、手助けをすることである。開発機関は初期段階に計画と資金などの資源を携えて参入し、復興の初期段階から確実な中・長期的にいたる持続可能な開発への任務を遂行することになる[7]

日本におけるNGO・企業・政府間のパートナーシップには、ジャパン・プラットフォームという組織があり、企業および政府の資金・物資・サービス・人材を紛争や災害の被害者を救うNGOに支援するため仲介している。支援企業と受け入れNGOの名前には有名なところが多くある[8]

難民や国内避難民の生活に対して、国連や外国の援助があることは心強い一方、重要な意思決定が現場から離れた国際機構の本部や先進国のNGOによってなされることへの批判がある。

代表的なそうした議論はペシャワール会の中村哲医師によって語られた。彼は1980年代にハンセン病を治療するためにパキスタンのペシャワールに移住した。医療活動においては、「外国人のショーで終わる」ことがないよう、現地人とチームを組んだ[9]。ペシャワール会は当初、ハンセン病を診る中村を日本から支援するための組織であったが、現地にいるのはハンセン病患者だけでないので広く患者を診ることになり、病院が建てられた。紛争が続くアフガニスタンに近いペシャワールには、絶えず難民が押し寄せた。

21世紀になると、対テロ戦争が始まり、アフガニスタンの復興が課題になった。ペシャワール会は病院の経営だけでなく、アフガニスタンの灌漑と農業に取り組むようになった。用水路の建設という途方もない事業が活動の中心になった。

現場の必要に応えることを第一とした中村哲は、国際機構や先進国の援助に違和感を抱き続けた。1980年代末に、軍事介入していたソ連が撤退すると、アフガニスタンに援助ブームが訪れた。その際の国連の人道援助について、中村は苦言を呈する。

「国連の難民帰還の青写真によれば、パキスタン三五〇万人の難民を出身地方別に分け、数十万人単位に管理施設を設置、一年分の食糧と耕作に必要な農具と種籾をあたえて帰す、というものであった。これは事情を知らぬものには説得力があったが、現地の国連職員自身がやるせない気持ちをかこっていた。その声はジュネーブまで届かなかった。

難民がのこのこと種籾をかついで帰れる状態ではなかった。アフガニスタン内部で全農村の半分が壊滅、無数の地雷の埋設、戦死した労働力、不安定な政治的受け入れ態勢は、人びとをのっけから国連不信におとしいれた。」(103-104ページ)

「ソ連軍撤退以前に四〇をこえなかった難民援助団体は、一九八九年には二百団体に上り、復興援助ラッシュがはじまった。例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。」(105ページ)[10]

中村哲は2019年にアフガニスタンにおいて殺されてしまった。彼の思想に触れると、人道援助をめぐるパートナーシップについて考え直さなければならないと実感する。我々はつい、国連を中心に置いた構図を考えてしまう。しかし、本当は個々の難民を中心に置かなければならない。

ルワンダの虐殺は、難民と人道援助というテーマを論じるうえで避けて通れない。それはエスニシティ間の対立に端を発した。歴史的に、遊牧民であったトゥツィ族と農耕民であったフトゥ族の間には因縁がある。ルワンダがベルギーの植民地であった時には、少数派のトゥツィ族が優遇されて、外国の支配に協力した。独立を達成すると、多数派のフトゥ族が権力を握った。

紛争の導火線に火をつけたのは1994年の事件であり、ルワンダ大統領の乗った飛行機が墜落した。フトゥ族によるトゥツィ族の虐殺が始まり、100万人ともいわれる死者が出た。ところが、トゥツィ族系の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が逆襲に転じ、加害者と被害者の構図が入れ替わった。

ルワンダ虐殺の加害者であった旧政府要人とフトゥ族が追われる立場になった。この時点で、論争の的になるフランス軍による人道的介入、すなわちトルコ石作戦、が行われた。

介入の背景には、フランスに本拠を置く有名なNGO、国境なき医師団(MSF)、の影響があったとされる。このNGOは、ビアフラ紛争において赤十字が内政不干渉の立場から現地政府に妥協したことに不満で1968年、結成された。しかし、ベルナール・クシュネルらが脱退し、1980年に世界の医療団を結成した。政治的に、国境なき医師団は保守であり、世界の医療団は革新である。保守系の内閣がトルコ石作戦が実行された時点で政権を担っていた[11]

トルコ石作戦の背景には、従来からのフトゥ族政権に対するフランス政府の肩入れもあったとされる。トゥツィ族が殺されている最中には、国連は平和維持軍(PKF)の増派を渋り、各国は軍隊を送らなかった。加害者であったフトゥ族をあえてフランスが助けたのには理由があった、と緒方貞子が述べている。

フランスはすでにルワンダに深く関わっており、フツ族政権に対する肩入れは強かった。一九七五年に締結した軍事協力協定に基づき、フランスは何年にもわたりルワンダ政府に軍事訓練を行い、装備を提供してきた。また、武器禁輸措置が発動されたにもかかわらず、一九九四年六月までルワンダ政府軍に武器を供給していた。四月と五月にキガリから外国人が国外退去した際、フランスはフランス人だけではなく、ルワンダの支配層である多数のエリートがザイールやフランスや他の「友好的な」国々に脱出する手助けもした。一九九四年六月二二日、安保理決議九二九は、フランスに二カ月間の人道援助活動を承認した[12]

フランス生活が長い重光哲明医師は人道援助を伴う外国の介入を批判する。それは犠牲者を作り、隠蔽する。介入の内容は被害者の求めと無関係である。介入の目的は現状維持と原状回復でしかない。その方針は、現場から離れた組織の条件に基づいて決定される。援助される技術、機器、そして資源は介入後は放棄されてしまう。現場における既存の権力ヒエラルヒーは温存されたままである。介入した者がまとめた報告は客観性に乏しい。介入する強者を頂点とするヒエラルヒーは強化されさえする。介入する側に身体的危険性があれば、介入が実行されることはない[13]

トゥツィ族のルワンダ愛国戦線が内戦に勝ち、人道ゾーンは消滅し、フランス軍の作戦は終わった。フトゥ族はザイールと当時、呼ばれた隣のコンゴ民主共和国に逃げた。ゴマという町に難民キャンプが設けられ、国連平和維持軍が展開し、NGOが援助に加わった。こう書くと、危機も一服したように聞こえるが、きれいな水が不足していたために衛生状態は悪く、病人が出た。UNHCRは死者を4万人と推定する[14]。異常であったのは肉体的な健康状態だけでなかった。信じがたいことにルワンダにおける権力構造がキャンプ内に温存されていた。これも緒方貞子が証言する。

難民はみな旧体制の政府関係者たちに寄付金を支払う義務があり、それは彼らがいつかルワンダ新政権に反撃をしかけ、勝利して本国に帰るという最終目的のためであった。世帯ごとに毎月、献金が強要された。必要とあれば、人道援助組織から配布された食糧や物資を売ってでもこの支払いを捻出しなければならなかった。キャンプで小売業を営んで得た利益や非合法取引で得た収益にも同じシステムが適用された[15]

『ホテル・ルワンダ』のような映画では、トゥツィ族はかわいそうな被害者として描かれる[16]。観客の多くは、今でもフトゥ族が悪玉で、トゥツィ族が善玉であると理解しているであろう。上のように、1996年には加害者と被害者は完全に逆転していた。ルワンダの新政府軍がゴマの難民キャンプを攻撃したのである。ここでも緒方貞子に頼る。

キャンプが襲撃されて、ルワンダに戻らなかった難民が四方八方に逃げ回っているのが現状であった。マシシを越えて北へ向かい、ウガンダ国境を越えた難民もいれば、南方へ逃げ、フィジを経由してタンザニアへ向かった難民もいた。しかし、大多数は西へ向かい、散り散りになってザイール奥地に姿を消した。難民の多くは、あるいは守られるのを当てにし、あるいは残るよう強要されて、軍事指導者とともに行動しつづけた。さらに多くの難民が次々に命を落とした[17]

ジャングルに消えたフトゥ族の残党は、アナーキーなコンゴ民主共和国東部に存在する武装勢力の一つ、FDLR-FOCA、となった[18]。ルワンダのトゥツィ族政権は、一つには復讐を恐れて、もう一つはこの土地の豊富な地下資源にひかれて、直接攻撃したり、武器支援をしたりと介入を続けた。支援対象の一つは武装勢力M23とされる。

コンゴ民主共和国東部におけるアナーキーの被害者は女性たちであった。それを世界に伝えたのはドニ・ムクウェゲ医師である。2018年のノーベル平和賞は戦争における性暴力の被害者たちを治療した彼に与えられた。

ようやくフランスのエマニュエル・マクロン大統領は2021年にルワンダ虐殺をめぐる自国の責任を認めた。そこに至るまで、ルワンダはフランスと外交関係を断絶し、イギリスの植民地でないにもかかわらずコモンウェルスに加盟した。人道援助をしたがためにフランスは憎まれた。

食糧を与え、医療を施すというところだけ見れば、人道援助は非の打ち所がないかのようである。しかし、それも人間社会の一部である以上、過ちは起こる。過ちが判明したならば、たださなければならない。

UNHCRのデータによると、2025年6月末において、難民およびベネズエラ国外避難民のうち71パーセントは低所得国か中所得国に滞在し、66パーセントは隣国にいる[19]。これが意味することは、先進国や第三国は難民をあまり受け入れていないということである。第三国とは、難民の出身地と認定地以外の国であり、アメリカ合衆国やオーストラリアが代表例として思い浮かぶ。安い労働力の需要がそれほど高くなければ、難民の受け入れは経済的負担はもちろん、治安や排外主義など受け入れ国に重苦しい社会問題をもたらす。豊かな国は、資金拠出のみでグローバルな人道危機をやりすごす誘惑に勝つことができない。

しかし、内戦であるにしても、紛争の責任はグローバル社会全体にある。難民の問題をカネだけで済ますことは国際感覚の麻痺であり、こうした麻痺は国の将来に暗い影を投げかける。

この回の最後に、緒方貞子が日本の難民政策をいかに認識していたかを引用する。「伝統」という言葉に彼女がこめた意味は何であろうか?

伝統と政策が相まって、日本が受け入れた難民はほとんどいなかった。人道的配慮から難民と認定されるか、長期在留資格を与えられたアフガン人の総数は二〇〇一年末で六二人である。難民資格の認定を求める庇護希望者にとって、最終決定は地方裁判所レベルの訴訟に委ねられている。二〇〇二年に私がアフガニスタン復興に積極的に関わるようになった後に、難民認定を却下されたケースについて非公式の弁護を法務省に対して行った。日本がアフガニスタン再建に重要な貢献を行い、私も個人的に復興努力に関与している肝心なときに、難民申請者を国外に追放しないように法務省に要請したのである。日本政府は判決を遅らせて、アフガニスタンが平和と安定の達成にさらに近づいてから、申請者を帰国させることはできないのであろうか? とはいえ私は法廷審理に直接影響を与えることはできなかった。入国管理局は難民と認定されなかった庇護希望者を国外追放の手段に訴えるよりも、むしろ自主的に帰国するように圧力をかける傾向があった[20]


[1] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.

[2] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、49-50ページ。

[3] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、107ページ。

[4] “Emergency Relief,” World Food Program, https://www.wfp.org/emergency-relief, accessed on February 21, 2026.

[5] 「空爆恐れず、援助再開へ―アフガンで活動の国連各機関」、『朝日新聞』、朝刊、2001年11月3日。

[6] 渡部茂己、阿部浩己、『国際組織』、ポプラ社、2006年、164ページ。

[7] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、397ページ。

[8] “オールジャパン体制の緊急支援を世界へ届ける日本発の仕組み,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/first.html, accessed on February 21, 2026; “加盟NGO一覧,” ジャパン・プラットフォーム, December 2025, https://www.japanplatform.org/about/ngo/index.html, accessed on February 21, 2026; “支援企業・団体,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/about/company.html, accessed on February 21, 2026.

[9] 中村哲、『アフガニスタンの診療所から』、筑摩書房、1993年、106ページ。

[10] 中村、『アフガニスタンの診療所から』。

[11] 重光哲明、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、勝俣誠編、『グローバル化と人間の安全保障』、日本経済評論社、2001年。

[12] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、213ページ。

[13] 重光、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、85-108ページ。

[14] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、217ページ。

[15] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、236ページ。

[16] Terry George, A. Kitman Ho, Keir Pearson, Don Cheadle, Sophie Okonedo, Joaquin Phoenix, Desmond Dube, et al., Hotel Rwanda, 2005.

[17] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、237ページ。

[18] “Highlights: Key Findings and Chapter Summaries of Small Arms Survey,” in Small Arms Survey 2015 (Cambridge: Cambridge University Press, 2015), p. 19.

[19] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.

[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、343-344ページ。

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https://youtu.be/-1ZsPTM2fMw 地域主義はグローバリズムの対義語である。また、それはナショナリズムの対義語でもある。かつて地域主義の指導者であったアメリカ合衆国は、いつの間にかグローバリズムの指導者になってしまった。初期の合衆国は当時の世界でも珍しい共和主義または民主主義の政治体制であったが、小国がイギリスやフランスといったグローバルな大国に対抗するため、弱い仲間どうしまとまろうとしたのが地域主義の…

人道法と戦争法

戦争はしないのが一番よい。第一次世界大戦と第二次世界大戦は何千万という単位の死者を出した。戦後でも朝鮮半島、カンボジア、ベトナム、エチオピア、ルワンダをはじめ、百万人以上の死者を出した紛争は9を数える[1]。国際法を整えれば、死者をどのくらい減らせるか?

武力紛争をめぐる国際法が本領を発揮するには、いくつものハードルがある。問題の行為を違法とする条約がない、とか、管轄権が否定されて裁判が行われない、といったものが代表的である。これらを克服して国際法が整備されても、犠牲者がなくなるわけでない。戦争は「クリーン」になっていくかもしれないが、それゆえに、戦場の悲惨さに鈍感になってしまうおそれもある。

とはいえ、戦争の犠牲を小さくしたい願望は理解できる。今回のテーマは、人道法と戦争法がいかに発達してきたか述べなさい、である。

十字軍の昔から、戦場には医療と看護がつきものであり、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)がその名残である。赤地に白十字の旗は何かに似ていないか? 修道女と修道士がキリスト教圏で傷ついた兵士を救ってきた歴史を変えた人物が二人いた。

フローレンス・ナイティンゲールは修道女が行った仕事を近代化し、専門の看護師がシステマティックにそれを行うことを進言した。軍人や医師とごちゃまぜになっていた指揮命令の系統を独立させ、給食・与薬・湿布貼りなどの任務を専門化した[2]。戦場では修道女のように中立的ではなく、彼女はイギリス軍に所属してイギリス兵を救う交戦当事者であった。クリミア戦争への従軍では、陸軍病院における女性看護師の総監督を務めた。

アンリ・デュナンは1859年にイタリアを旅行中、フランス軍とオーストリア軍の戦いに遭遇した。村人とともに両軍の兵士を分けへだてなく救護し、『ソルフェリーノの思い出』に体験を記した。これ自体は感動的な話ではあったが、兵士が民間人に化けて敵に近づく背信行為やスパイは各国に警戒され、中立の第三者が救護をするアイデアはなかなか採用されなかった[3]

デュナンのアイデアに基づく赤十字規約が決議されたのは1863年であった。現在の赤十字国際委員会(ICRC)に当たるジュネーブの赤十字委員会はこの規約で特別な役割を与えられ、各国で立ち上げられる赤十字社および赤新月社の仲立ちを任された。赤十字国際委員会の委員は交戦国にならない中立国スイスの国民のみであるので、敵対国の委員が口論するとか、紛争当事国の委員が自国政府の代弁をするとかいうことはないであろう。

各国の赤十字・赤新月社は自国の政府とふだんから連絡をとり、物資や要員も用意しておく。戦時には、交戦国の赤十字・赤新月社は自国軍を救護し、中立国の赤十字・赤新月社に支援を要請する。中立国から派遣された要員は赤十字の腕章を着用する。

1864年には、ジュネーブ条約がスイス政府の招いた国際会議で採択された。交戦国の義務は、救急車・病院・要員の中立を尊重する、傷病兵を国籍によって分けない、救急車・病院・退去者に旗を立てる、である。要するに、赤十字のマークを付けた人と物は攻撃の対象にしてはならない、ということである。

これら赤十字国際委員会、ジュネーブ条約締約国、各国赤十字・赤新月社、そして国際赤十字・赤新月社連盟が集まって、国際会議を開く。戦場における中立を支える制度の充実がうかがえる。

赤十字は傷病兵の救護だけでなく、多くの分野に活動範囲を広げた。1930年代のスペイン内戦では、交戦団体間における捕虜の交換を仲介した。第二次世界大戦では、飢餓に苦しむ占領下のギリシャに食糧を海上輸送した。ナチスの絶滅収容所からユダヤ人を救出した。広島の被爆者のため、進駐軍から供与された医薬品と医療器材を配給した[4]

交戦国からの中立が原点であったジュネーブ条約は1949年、ジュネーブ諸条約と総称される4本の条約へと発展した。第1条約は陸戦、第2条約は海戦、第3条約は捕虜、そして第4条約は文民を対象とする。これらには共通の第3条があり、内乱・内戦にも適用されると明記された。赤十字など人道団体によるさまざまな活動も認知された。

にもかかわらず、傷病兵・難船者・捕虜・文民の保護が十分であるかについては、現代も論争がある。9・11後の対テロ戦争で、アメリカ合衆国はテロ組織アルカイダの幹部とされる人物を勾留し、「水責め」と称される訊問を行った[5]。訊問を許可したジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が司法によって裁かれなかったことは言うまでもない。確かに、ジュネーブ第3条約の観点からは、テロリストは軍隊の構成員であるのか?、水責めは健康に重大な危険をもたらすのか?、CIA職員による訊問に戦時国際法は適用されるのか?、といった論争はある。しかし、仮に法に触れなかったとしても、法規範の迂回を試みる逃げの姿勢そのものが非難に値した。勾留先にグアンタナモ基地が選ばれたのは、合衆国の人権基準も、所在地のキューバの人権基準も適用されないからであった。

イラク戦争に関しても、アブグレイブ刑務所に収監された被拘禁者が虐待された。被拘禁者を米軍兵士が侮辱する姿を撮った写真はセンセーショナルであり、その兵士は有罪判決を受けた。

1948年のジェノサイド条約は、非人道的行為を違法化する点では戦時のジュネーブ諸条約に似るが、平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、ジェノサイド(集団殺害)は犯罪であると定める。犯罪という言葉が示すように、締約国はそれを処罰することを約束している。

ナチスの残党アドルフ・アイヒマンをイスラエルの諜報機関モサドはアルゼンチンで捕まえ、自国に連れて裁判にかけた。アルゼンチンの主権とジェノサイドの処罰をイスラエルは天秤にかけ、後者を選んだのである。

残念なことに、ジェノサイドはその後も行われた。1995年のスレブレニツァの虐殺では7千人が犠牲になった。当時、国連難民高等弁務官であった緒方貞子の回想を引用する。BSAとはボスニアヘルツェゴビナにおけるセルビア人の軍隊である。

七月一一日の朝六時ごろ、スレブレニツァはセルビア軍に制圧された。―中略―一万五〇〇〇人のボスニア系男性は飛び地を出て周辺のセルビア領地へと移動しはじめた。この避難民の集団に対して、BSAは女性、子ども、高齢者を男性たちと引き離し、車に乗せてスレブレニツァから追放した。―後略―

―前略―チームは国連保護軍とセルビア軍兵士が最後のムスリム人グループをセルビアのバスに連行するところを目撃した。途中で、チームのメンバーは地元のセルビア系住民から、大勢の人々がブラトナッツのサッカー場のそばに拘束されたままで、その方角からときどき銃声がした、と聞かされた[6]

子供も、エスニック集団に劣らず、戦場において保護すべき対象である。子供兵士、児童兵士、または少年兵が生まれる原因には、人身売買、貧困、宗教、ナショナリズム、誘拐、孤児、暴力、薬物などがあるとされる[7]。子供兵士は他の社会的な病理によってもたらされるもので、健全な社会であれば、親はわざわざ子供を兵士として差し出さない。

1989年に採択された児童の権利条約は、15歳未満の者を軍隊に採用することを差し控え、それ以上の者でも18歳未満の者は最年長者から採用することを締約国に求める(第38条3)。また、その選択議定書は18歳未満の者を敵対行為に参加させないことを定める。しかし、子供兵士がはびこっているところでは、国家でなくゲリラが子供たちに戦わせている。子供兵士を禁じる国際法はほかにもあるが、世界には国際法の力が及ばない土地が残っている。

人道法と並ぶ武力紛争法の流れに戦争法がある。人道法がジュネーブ法と呼ばれるのに対応し、戦争法はハーグ法ともいう。

プロレスに喩えると、ジュネーブ法とハーグ法の違いは理解しやすい。戦闘員はレスラーに当たり、リング内でルールに従って闘わなければならない。ジュネーブ法は戦闘外に置かれる者を指定する。レスラーがロープをつかんだり、リングから出たりすれば、攻撃してはならない。戦場で傷病兵を攻撃してはならないのと同じである。また、レフェリーや観客も攻撃してはならない。中立の赤十字や非戦闘員の市民を攻撃してならないのと同じである。

他方、ハーグ法は戦闘員間の闘う方法についてのルールである。それはリング内で相手レスラーを攻撃する際に、目・のど・股間を攻撃してはならないことや凶器を使ってならないことと似ている。

ハーグ法において、条約として先行したのは害敵手段、特に武器性能、に関する制限であった。

1868年のセント・ペテルスブルク宣言は、銃弾のなかに破裂・爆発・燃焼する物質を詰めて使うことを禁止した。それらが射ち込まれた体内で破裂・爆発・燃焼すると痛いし、生命に危険を与えるからである。なぜ禁止するかの理由が前文に書かれていて興味深い。戦闘の「唯一の正当な目的は敵の軍事力を弱めること」という。当時は無差別戦争観で、国家間の決闘として戦争は理解された。敵の兵士を戦闘不能にしたならば、それ以上の苦痛を与えたり、命を奪ったりすることは目的の範囲を超え、「人道の法に反する」と信じられた。

ハーグ法と呼ばれるゆえんは、1899年にオランダのハーグで第一回ハーグ平和会議が開かれ、ハーグ陸戦規則が作成されたからである。その前文であるマルテンス条項は戦争法の精神を謳ったものとされる。すなわち、戦争法の行動規範はまだ完備していないが、そうなるまえでも文明国間の慣習や人道の法則、公共の良心に従って、人々や交戦者は保護されなければならない。本当にこれが守られていたならば虐殺は歴史のなかの偶発的な事故にすぎなかったであろうが、原子爆弾は意図的に都市を目標として使われた。

毒ガスは第一次世界大戦において実戦使用が始まった。窒息剤の塩素やホスゲンに始まり、殺傷性が高く、イーペルというベルギーの町で1917年に使われたイペリットガスのようなものまで現れた[8]。毒ガスと窒息剤を総称して化学兵器という。1925年には、これらと細菌兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書が署名された。締約国であったイタリアはエチオピアとの戦争でイペリットガスを使った[9]

日本について、化学兵器を日中戦争で使ったという説がある。イラン・イラク戦争ではクルド人に対してイラク軍により使われた。使用ばかりでなく、生産も貯蔵も不可とした化学兵器禁止条約は1993年に署名された。

非人道的な武器の規制では、対人地雷とクラスター爆弾に対するものがある。対人地雷は人間の接近や接触で爆発する地雷で、車両によって爆発する地雷は含まない。紛争が終わっても地中に残され、それを踏んだ普通の人々から手足を奪い続けている。対人地雷禁止条約は特に大国からの反対が強く、国連の会議ではなく、有志の国々を集めたオタワ・プロセスをつうじて作成された。オタワ・プロセスはカナダ主催のオタワ会議において1996年に始まり、翌年、ノルウェーのオスロで条約を採択した。使用・貯蔵・生産・移譲を禁止し、すでに設置されたものは廃棄するのが締約国の義務である。

クラスター爆弾は収束爆弾ともいわれ、爆弾のなかに子爆弾が入っていて、空中で散らばる。やはり、紛争後も子爆弾の不発弾が破裂し、人体を傷つける。2007年、ノルウェー主催の会議でオスロ・プロセスが始まった。翌年のダブリン会議でクラスター爆弾禁止条約が採択され、その年末にオスロで署名された。

対人地雷禁止条約とクラスター爆弾禁止条約には、米中ロといった大国が入っていない。核兵器禁止条約もそうであるが、大国とそれ以外との断絶は広がっている。

次は何が禁止されるであろう? 2013年に、キラーロボット、すなわち完全自律型兵器、を禁止させるため、ヒューマンライツウォッチらNGOがストップ・キラーロボット・キャンペーンを結成した。それとも、放射線が人体に悪影響を与える劣化ウラン弾が禁止されるであろうか? いずれにせよ、実戦用に配備されている間は、なかなか国家はその兵器の禁止に加わらないものである。

ハーグ法が規制するものは非人道的な武器ばかりでない。ハーグ陸戦規則の第25条は無防守都市の攻撃を禁止する。第27条は宗教・技芸・学術・慈善のための建物、歴史的記念物、そして病院にはなるべく損害を与えないように、と定めた。第一次世界大戦において、さっそく、それらの施設は損害を受けた[10]

原爆を投下された広島は無血開城する無防守都市でなかったものの、軍事目標でなかったことはまちがいない。一発の原爆によって14万人の犠牲者が巻き添えとなり、多くの建物や文物が破壊された。より小さな規模で類似のことがその後の歴史で繰り返されている。巻き添えや誤爆の問題に国際法が十分に対応しているとは思えない。それらについても、ノーモア・ヒロシマである。

単に条約を結ぶだけでなく、違反者を裁くようになれば、人道法に知らんぷりを決めこむわけにいかなくなる。第二次世界大戦後、勝者による敗者の裁判が行われた。ニュルンベルク裁判と東京裁判である。それらにおいて、戦争犯罪は平和に対する罪、通例の戦争犯罪、そして人道に対する罪に分けられた。平和に対する罪を犯した者がA級戦犯であるが、開戦を導いた政治指導者たちのことであるので、今回は論じない。通例の戦争犯罪とは、ハーグ陸戦規則など戦争法への違反であり、その違反者がB級戦犯である。最後の人道に対する罪は、文民に対する殺人、絶滅、奴隷化、追放などの非人道的な行為であり、違反者はC級戦犯である。

国際刑事裁判がつぎに注目を浴びたのは、半世紀後のユーゴスラビア紛争においてであった。国連安保理決議S/RES/827は、1991年以来の旧ユーゴスラビア領域における国際人道法違反を裁く国際法廷を1993年に設立した。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)は2001年、ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ前大統領をハーグ郊外スヘフェニンヘンの拘置所に収監した。ベオグラードでは抗議のデモが起きた。彼は2006年に死去したため、判決は出なかった。

2016年、ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人指導者ラドバン・カラジッチにICTYは、スレブレニツァでのジェノサイドに関して禁錮40年の判決を下した。ところで、「旧」ユーゴスラビアとなぜ呼ぶか?、というと、それが解体した後に「新」ユーゴスラビアが編成されたからである。

国際法違反への処罰は順調にルール化されているようにみえた。1994年には、安保理決議S/RES/955に基づき、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)がタンザニアのアルーシャに設けられた。ルワンダで1994年に犯されたジェノサイドその他の罪を裁くのが任務である。

いうまでもなく、安全保障理事会は「国際の平和及び安全」に責任を持つ大国中心の機関である。そうした大国の意向が強く働く機関の決定で、裁判所が作られたり、作られなかったりしてよいのか? 法の支配に反しないのか?

これ以上、安保理決議によって作るのはよくないと考えてか、常設的な国際刑事裁判所(ICC)を設立するための国際会議がローマで開かれた。国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が1998年に採択され、60か国の批准を得て、2002年に発効した。

自国民がICCに訴えられることを嫌がる国もある。そういう国は規程に入らなければよい、というだけではすまない。ICCの管轄権は、容疑者・被告人が国籍を持つ国が規程締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合だけでなく、犯罪が発生した国が締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合にも及ぶ。こうしたことから、他国への派兵が多いアメリカ合衆国は、自国民を告訴しないよう各国に求める。ビル・クリントン大統領は国際刑事裁判所規程に署名したものの、次のジョージ・W・ブッシュ(子)政権は書名を撤回した[11]

ICCに対しては一部の国に不公平感がある。スーダンの大統領であったオマル・ハサン・アフマド・アル・バシルは就任中、ダルフール紛争について人道に対する罪・戦争犯罪・ジェノサイドの容疑で逮捕状が出された。ヨーロッパ人が裁く側で、その他は裁かれる側でないか、という認識が広がっている。当初、積極的であったアメリカ合衆国がそうであるように、国際刑事裁判に対する熱意は1990年代よりも冷え込んでいる。

国内における大規模な暴力を裁判で処罰しようとすると、対立が再燃しかねない。真実和解委員会は国際刑事裁判へのオルタナティブである。南アフリカのネルソン・マンデラ大統領は1995年、デズモンド・ムピロ・ツツ大主教を議長とする17人の委員を任命した。

白人とアフリカ人、アフリカ人と白人、そしてアフリカ人とアフリカ人の間の暴力を、公開ですべて明らかにする、というのが南アフリカ真実和解委員会の任務であった。しかし、刑罰を科すと人種間の対立が再燃するので、犯人は免罪とすることにした。1998年に報告書が出て、多数の暴行が明らかになった[12]

ネバー・アゲイン!をコンセプトとする真実和解委員会はシエラレオネでも設けられた。シエラレオネ内戦といえば、反政府勢力であるRUF(革命統一戦線)が市民の腕を切断する残虐な行為で1990年代後半に世界を震え上がらせた。RUF側はこれは真実でないと反論している[13]。反論のすべてが真実でないにしても、RUFの側には言い分がある。

シエラレオネでは、真実和解委員会ですべてを許すことはしなかった。別にシエラレオネ特別裁判所を国連と共同で2002年に設置し、戦争犯罪に最大の責任がある13人だけを訴追した。RUF議長のアハメド・フォディ・サンコーも13人に入っていたが、彼は審理が始まるまえに死んでしまった。隣国リベリアの大統領で、反乱を支援したチャールズ・テイラーも裁判にかけられた。彼は判決が下された9人のうちの一人であり、2012年に禁固50年の判決を受けた[14]

このやり方に続いたのはカンボジアであった。1970年代の虐殺を裁くポル・ポト派特別裁判所は同国と国連との合意により、外国人を裁判官に加え、21世紀になって設けられた。ポル・ポト派がプノンペンを支配していた時代の国家元首が人道に対する罪やジェノサイドの容疑で訴追され、有罪判決が下された[15]

国際刑事裁判所と真実和解委員会に加えて、国内裁判所を使う場合もある。ティモールレステは三本立ての実例であり、国際刑事裁判所に当たる重大犯罪パネルと真実和解委員会は国連PKOであるUNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)によって組織され、それとは別にインドネシアの国内裁判所も自国民の裁判を行った。

国内裁判所を人道法の裁判のために使うことには懸念もある。イラクの大統領であったサダム・フセインは米軍の捕虜となったあと、イラクの国内裁判所が出した判決によって2006年、処刑された。権威が失墜した政治家の裁判はその国の政治情勢に左右されてしまう。 武力紛争の分野で法の支配が完成するのは当分、先であろう。手探りながらも、経験を積むことはムダでないと信じたい。


[1] ケンブリッジ現代社会国際研究所、猪口孝編、『ヴィジュアル・データ百科 現代の世界』、原書房、2008年、103ページ。

[2] ナイチンゲール、『ナイチンゲール著作集』、湯槙ます監修、第2版、現代社、1983年、35-140ページ。

[3] 井上忠夫、『戦争と救済の文明史』、PHP研究所、2003年、58ページ。

[4] マルセル・ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、丸山幹正訳、増補版、勁草書房、1991年、86-87、165、266ページ。

[5] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、257-260ページ。

[6] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、120-121ページ。

[7] P・W・シンガー、『子ども兵の戦争』、小林由香利訳、日本放送出版協会、2006年。

[8] 井上尚英、『生物兵器と化学兵器』、中央公論新社、2003年、27ページ。

[9] ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、42ページ。

[10] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、下、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、185ページ。

[11] ビル・クリントン、『マイライフ クリントンの回想』、下、楡井浩一訳、朝日新聞社、2004年、741ページ。

[12] Robert I. Rotberg, “Truth Commissions and the Provision of Truth, Justice, and Reconciliation,” in Robert I. Rotberg and Dennis Thompson, eds., Truth v. Justice: The Morality of Truth Commissions (Princeton: Princeton University Press, 2000), p.5.

[13] Philippe Diaz, Philippe Peccatier, and Richie Havens, The Empire in Africa, Cinema Libre Studio, 2007.

[14] “Eleventh and Final Report of the President of the Special Court for Sierra Leone,” The Hague (2013).

[15] 伊藤学、「ポル・ポト派元最高幹部2人に終身刑 カンボジア、特別法廷が判決」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年8月7日。

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エスニック紛争

人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。

イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊を編成しところかまわずならず者をひっとらえ、この国の民衆に実例を示すのだ[1]

今回のテーマは、世界各地のエスニック紛争を3件挙げ、言語・宗教・人種など集団間における対立の概要を説明しなさい、である。ただし、それらの事例は本文で取り上げられるものに限定しない。さまざまな事例を検討し、新しい論点がないかを調べることが大事である。

政治にとどまらず、経済でも、文化でも、おそらく何でも、現代世界の基本単位はネイション・ステイト、つまり国民国家、である。国民とは何であるのか? どのように作られるのか?

国際政治学の古典的な学説にカール・W・ドイチュの国民統合論がある。彼は民族(a people)の本質はコミュニケーションであると見抜いた。民族、または国民、であるということは言語や文化への服従を迫られることである。国民国家の形成によって、支配民族とその他の民族が生まれる。政府・教育・経済制度など公式的組織でも、世論・威信・シンボルなど非公式的組織でも、使われる言語は支配民族の言語である。被支配民族は、それらの組織で使われる言語または文化におけるコミュニケーションの能力を獲得すること、すなわち同化、を強いられる。コミュニケーションに参加する機会はすべての住民が同じでなく、都市のほうが農村より高い。第一次産業より第二次産業が高く、第二次産業より第三次産業が高い。経済成長や技術革新によっても増加する。以上のコミュニケーションに参加する全体量のことをコミュニケーション動員とドイチュは呼ぶ[2]

ドイチュはオーストリアハンガリー帝国のもとにあったプラハに生まれ、アメリカ合衆国に移民した。生まれた時のチェコにおける支配民族はドイツ系であり、役所と新聞の言語はドイツ語であった。しかし、すでに非農業人口ではチェコ系がドイツ系を上回っていた。第一次世界大戦の結果、チェコスロバキアが独立すると、チェコ語が支配的な言語となった。劣勢となったドイツ系はドイツ語人口比率が高いズデーテン地方(チェコ語ではズデティ)において分離運動を始め、ナチスに期待した。1938年のミュンヘン会談でズデティはドイツに割譲された。ドイチュがアメリカ合衆国に移民したのはこの時である。ナチスが第二次世界大戦で敗れると、チェコのドイツ系はもはやそこに住み続けることはできなくなり、ドイツ語人口は全滅した[3]

ドイチュが挙げるフィンランドの例はこれほど劇的でない。もともとフィンランドを支配していたのはスウェーデンであり、1811年にロシア領になっても、支配的な言語はスウェーデン語であった。フィンランドの独自言語であるフィン語がそれと並んで公用語になったのは1863年であった。ゆっくりとした変化はありながらも、スウェーデン語は依然として支配的であった。

ドイチュは人口統計で説明する。1880年におけるフィンランドのスウェーデン語人口は29万5千人、フィン語人口は175万6千人であった。すでにフィン語が圧倒的に強いという印象を受けるが、都市人口だけを比較すると、スウェーデン語人口は6万6千人、フィン語人口は10万人であった。それまでの特権的な地位を考慮すると、スウェーデン語は劣勢といえない。これが60年後の1940年になると、総人口ではスウェーデン語が35万4千人、フィン語が332万7千人、都市人口では、スウェーデン語が13万9千人、フィン語が71万5千人であった[4]。フィンランドは1918年にロシアから独立し、第二次世界大戦ではソ連と戦うほど強烈なナショナリズムを育てた。

そのころには、フィン語はスウェーデン語を圧倒していたのでないか? 反証がある。ムーミンという架空の生き物が出てくる童話は1940年代に世に出た。それはスウェーデン語で書かれた。フィンランドのスウェーデン語は世界中の人々に長く親しまれる文芸作品を生み出す力を残していた。そのコミュニケーション動員は使用人口の多少にかかわらず、非常に高かったといえる。

ドイチュの次の世代の国民国家論といえば、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」である。彼はコミュニケーションというよりメディアの重要性に目を付け、グーテンベルクの活版印刷に象徴される出版資本主義を国民国家の起源とする。エリート向けのラテン語書籍だけでなく大衆向けの俗語書籍が流通し始めた。

―前略―この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし爆発的な相互作用であった[5]

書籍の流通は無限に広がるわけでなく、書かれた言語が使われる地理的な範囲のなかでしか広がらない。その範囲が国民国家の領土となる。ただし、『想像の共同体』という書名のとおり、共同体は想像されたものにすぎない。この留保がアンダーソンの特徴である。我々がナショナリズムとして思い浮かべる好戦的で排外的なものは公定ナショナリズムとアンダーソンは呼び、19世紀後半、民衆的国民運動への応戦として、「国民と王朝帝国の意図的合同」により作られたものとする[6]

ドイチュとアンダーソンを比較すると、前者は静的で理論としてはストイックであり、後者は動的で野心的に何でも説明しようとする。しかし、ここで指摘したいのは両者の共通点である。コミュニケーションにせよ、メディアにせよ、共通の言語が国民国家の基礎であるという点である。

確かに、ドイツとオーストリア、中華人民共和国と中華民国、アメリカ合衆国とイギリス、といった具合に、同一言語でありながら政治問題が原因で別個の2国民になったものがある。現在、政治的な理由がなくなればそれらは一つの国家に戻るかといえば、言語以外の文化やイデオロギーの違いが生まれていてそうとは言い切れない。国民の境界を規定する絶対的な差違はない一方で、別個の国家でありながら同じ言語であることが、双方の関係を特別にしている。

今回は、サブナショナルな、すなわち国民よりも小さい集団に注目する。サブナショナルな集団には、企業のように金銭的利益を争うもの、政党やNGOのように主義主張を争うもの、スポーツのチームのように勝敗を争うものなどがある。ここで扱われるのは、より基本的なアイデンティティの差異に基づくエスニック集団であるが、言語は差異の一つでありうるが、エスニシティを分ける唯一絶対の差異ではない。

エスニシティとは何か? 定義には客観的アプローチと主観的アプローチがある。客観的アプローチでは、祖先・文化・宗教・人種・言語の観点における差異がエスニシティの境界である[7]。主観的アプローチはフレドリック・バルトのものが知られるが、その焦点は「集団が囲い込む文化の中身ではなくて、集団を規定するエスニックの境界」である[8]

エスニック境界の維持に付随するものは、異なる文化を持つ人々が社会的に接触するという状況でもある。エスニック集団は、行動において顕著な差異を示す場合にのみ、すなわち文化的差異が継続している場合にのみ、有意な単位として存続するのである[9]

つまり差異を意識するようになればそれがエスニック集団の境界になるし、意識しなければ同じ集団のメンバーのままでいることになる。メンバー間に何らかの共通点があり、他者との間には境界が存在すると意識する集団がエスニック集団であり、そうした集団と他者との間で起こる紛争がエスニック紛争である。

エスニシティの差異そのものはなくならないので、紛争は多くの犠牲者を生み、当事者間で解決することが難しい。国際社会には、何ができるのか? 以下では強制措置、自決、自治、独立、選挙、普遍的人権、そして憲法を検討していく。

地球上のほとんどの陸地は主権国家に分けられている。国際社会がいかにエスニック紛争に介入するかという問題は、それらの主権といかに折り合いをつけるかという問題である。国際連合憲章第2条4が武力の行使を慎むことを義務づけることにも注意が必要である。

強制措置には経済制裁のような非軍事措置と武力行使を意味する軍事的措置があり、国連憲章第7章に基づき、安全保障理事会の決定として行われる。しかし、いくつか問題がある。まず、国際の平和および安全の維持・回復のためでなければならないので、大規模な暴力が発生していない段階でエスニック紛争に適用することは難しい。つぎに、国連憲章第2条7は国内管轄事項に国連は介入できないと定めるので、深刻な段階に至っていない政治論争などには使えない。もちろん、安保理の決定に拒否権を持つ常任理事国が反対したらおしまいである。

強制措置には実績がある。1962年以降、国連総会はアパルトヘイト非難決議を繰り返した。総会決議はアパルトヘイトが国際的関心事項であることを確認する意味はあったものの、解決に向けた即効性はなかった。1976年、学校でのアフリカーンス語の強制に反対するデモに参加した子供を射ち殺したことが発端で、ソウェト蜂起という暴動が起きた。翌年、安保理は南アフリカへの武器禁輸決議S/RES/418を行った。南アフリカをかばってきた常任理事国のアメリカ合衆国が同国を非難する側に回り、白人体制を揺さぶった。

自決・自治・独立でエスニック集団を守ることも国連憲章は予定していた。自決は第1条2に国際連合の目的の一つとして挙げられ、エスニック集団が国民国家として独立するか、国家内で自治を得るかの基礎であると考えられる。主権国家の地位は得られなくても、自治は国連も応援する義務であることを憲章第73条bは明らかにする。国際人権規約のA規約・B規約は、ともに第1条で人民の自決権を定め、それを促進し、尊重することを締約国の義務とする。

とはいえ、自治でさえ、すんなりと認められるわけでない。自治とは何かについて国連憲章が詳しく定義しているわけでないからである。例えば、中華人民共和国には自治区というものがある。その憲法第4条は少数民族が集まって住んでいる地方に区域自治を行うと定める。ところが、自治機関について具体的に定める憲法第6節には、自治区・自治州・自治県の住民がその意思を集約する方法、例えば選挙や住民投票といった手続き、の規定を見つけることができない[10]

もっとも、中国における自治の問題は「少数民族」にとどまらない。人口の大半が漢民族とされるものの、方言の間での会話が困難であるくらい、漢民族自体が多様性に富むからである。

こうした議論から、選挙が重要であることは明らかである。世界人権宣言第21条3は、定期的な普通選挙での秘密投票によって人民の意思は表明される、とする。同様の投票方法は国際人権規約B規約第25条でも定められている。自由主義と社会主義とが対立してきた国際連合は、冷戦が終わった1990年代に選挙や民主化を推進した[11]。協調的な時代が終わった今日では、グローバルな機関が民主化の推進で一致結束できる情勢にない。仮にできたとしても、多数決の手段である選挙は必ずしも少数派を守らないので、別の方法によりエスニック集団を保護することが必要である。

少数派の人権を守るよう、その国の政府に国際連合が要求しても、内政不干渉を理由に拒まれるかもしれない。しかし、国連憲章第1条3は人権の尊重を国連の目的の一つに挙げる。普遍的人権の擁護は「内政」ではないので、本来、加盟国は内政不干渉を口実に要求を拒むことはできない。ほかにも、世界人権宣言、ジェノサイド条約、人種差別撤廃条約、国際人権規約A規約・B規約をはじめ、枚挙にいとまがないほどの国際人権文書が引用できる。

自治・選挙・人権は、それらを盛り込んだ憲法を制定して守るのがベストである。自治・選挙・人権は補い合う関係にあり、セットで保障されるべきであるからである。もちろん、主権国家にたいし、理想的な憲法を押し付けることは容易でない。絶対君主制やイスラム国家は立憲主義そのものを否定する。一度はそうした憲法が制定されても、タリバンがふたたび政権を奪ったアフガニスタンのように、憲法は停止されるかもしれない。

これまで議論してきたもの以外にも、PKO(平和維持活動)、保護する責任、あるいは人道援助といった方法によって、人々を守ることができる。これらについては別の回に論じる。

以下ではエスニック紛争の実例をいくつか検討し、エスニシティの境界線がどこにあったかを確認する。

ナイジェリアは人口2億人を超える地域大国であり、多くのエスニック集団がある。宗教によって北部のムスリムと南部のキリスト教徒に大きく分けられるが、それらのなかで言語や文化により細分化される。最大の紛争は、1967年に南部のイボ族などがビアフラ共和国を建てて独立しようとしたビアフラ戦争である[12]。この戦争は鎮圧されたものの、南部には、石油産業の巨額な収益が地元に還元されていない、と不満が根強く、2000年ごろは、ニジェール川デルタ解放運動(MEND)をはじめとする抵抗団体がテロリズムを繰り返した。北部でも過激なイスラム・ゲリラであるボコハラムなどが非人道的な行為を続ける。

以前、ナイジェリアの首都はアフリカ大陸最大の都市と目される港町のラゴスに置かれた。あまりに南に偏っていたため、中央部のアブジャに1991年、首都移転が行われた。それにもかかわらず、エスニック集団間の距離は縮まっていない。

スリランカはシンハラ人の多くが仏教徒、タミル人の多くがヒンドゥー教徒である。ムスリムとキリスト教徒も、それぞれ全人口の一割弱を占める。シンハラ人とタミル人は言語も違うし、文化も違う。独立してしばらくたち、シンハラ側でも、タミル側でもナショナリズムが高まった。タミルイーラム解放の虎(LTTE)は自爆テロという激しい手段に訴えて独立を求めた。このグループは島の北部を実効支配していたが、2009年に政府軍が拠点を制圧し、内戦の終結を宣言した。

北アイルランドの紛争をめぐる境界線は、カトリックとプロテスタントの宗派の線に沿う。以前、カトリック側は王制のイギリスから分離し、共和制のアイルランドに帰属することを望んだことから、リパブリカンと呼ばれていた。その組織の軍事部門はアイルランド共和国軍(IRA)であり、政治部門はシンフェイン党である。他方のプロテスタントは、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国を支持することにちなんでユニオニストと呼ばれ、なかでも強硬派はロイヤリスト(Loyalist)と呼ばれた。王党派の意味のロイヤリストとはスペリングが違う。

リパブリカンは1922年のアイルランド自由国、すなわちのちのアイルランド共和国、の独立に取り残されたという感覚であった。人口の観点では少数派のカトリック側がアイルランドとの統合が幻想である現実を受け入れた結果、1998年に北アイルランド和平合意が成立した。アイルランド共和国軍は武装解除に応じ、流血は抑えられている。

クルド人の総数は正確には分からないが、トルコ、イラク、イラン、シリアなどに分布し、大多数はムスリムである。クルド語はイラン系の言語であるので、トルコ語またはアラビア語が支配的なトルコ・イラク・シリアでは少数派として認識され、過去には弾圧された。シーア派が多数であるイランでも、クルド人はスンナ派が多いことや、山岳民族であることから、独自のエスニシティであると認識されるのであろう。イラクにはクルド自治区があり、一大勢力を成す。2017年の住民投票では独立への賛成が多数を占めたものの、独立は達成されなかった。シリアでも、クルド人勢力は中央政府から自立して活動している。

多島海であるインドネシアには「想像の共同体」の言葉がよく当てはまる。島々の文化はそれぞれであり、首都ジャカルタがあるジャワ島の文化と異なっている。

1963年、インドネシアは、オランダの植民地であったイリアンジャヤの統治を始めた。ここには現在も独立運動がある。

1975年、ポルトガルの植民地であったティモールレステをインドネシアは侵略した。これをヨーロッパ諸国は強く非難し、アジア通貨危機後の2002年、ティモールレステは独立した。

アチェは20世紀初めまでスルタンが支配したムスリム国家であった。1970年代に独立闘争が激化した。2004年のスマトラ沖地震による大津波の影響で翌年、自由アチェ運動(GAM)は自治を定める和平協定を政府と結んだ。仲介したフィンランドの元大統領マルッティ・アハティサーリに2008年のノーベル平和賞が授与された。

モロとは、フィリピンのパラワン島やミンダナオ島に住むムスリムであり、キリスト教が主流のフィリピン政府に対する抵抗運動を行った。9・11事件後、アルカイダの一味として米軍に掃討されたアブサヤフのようなテロ組織もある。その一方で、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はフィリピン政府と和平交渉を行い、2012年、バンサモロ自治政府を樹立することに合意した。

コーカサスにはさまざまな紛争がある。ナゴルノカラバフ紛争は、ソ連解体後にアゼルバイジャン領であるナゴルノカラバフ自治州とその周囲の土地をアルメニアが奪取して占領した問題である。同州にはギリシャ語に近い言語を話す古い正教徒のアルメニア系住民が多いが、占領された周囲の土地には、トルコ語に近い言語を話すムスリムのアゼルバイジャン人も多く住む。アルメニアはロシアと親しく、アゼルバイジャンは手を出せなかったが、2020年と2023年に、アゼルバイジャンは武力によって土地を奪い取り。多くの住民が故郷を去ってアルメニアに向かった。2024年、アゼルバイジャンは実効支配を再開した。

ジョージアの主要な言語はコーカサス諸語の一つであるジョージア語で、宗教は正教である。その国境のなかに、南オセチアとアブハジアでの二つのエスニック紛争を抱える。南オセチアのオセット人は、多くはイラン語系の言語を話す正教徒である。アブハジアのアブハズ人はコーカサス語系のアブハズ語を話すスンナ派ムスリムまたは正教徒である。

ロシアは2008年に南オセチアに武力行使したジョージアを排除するため出兵し、逆に南オセチアとアブハジアを占領してしまった。さらに、両地域を国家として承認し、大使館さえ置く。日本ではかつてロシア語の「グルジア」という国名が使われたが、今は英語のジョージアが使われている。 世界にはきりがないほどエスニック紛争がある。近年、スコットランド、クルド、カタルーニャ、そしてニューカレドニアで、独立を問う住民投票が行われた。2014年にクリミアで行われた住民投票は、ロシア軍の介入によるものであったため、効果を認めない意見が強い。万が一、武力闘争になってしまっても、考え直して双方が相手の言うことに耳を傾けるべきである。


[1] アンドレ・マルロー、『ナポレオン自伝』、小宮正弘訳、朝日新聞社、2004年、202ページ。

[2] Karl W. Deutsch, Nationalism and Social Communication (Cambridge: The MIT Press, 1953, 1966).

[3] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 145.

[4] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 129.

[5] ベネディクト・アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、白石さや、白石隆訳、NTT出版、1997年、82ページ。

[6] アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、148ページ。

[7] ゼボルド・W・イサジフ、「さまざまなエスニシティ定義」、青柳まちこ編、『「エスニック」とは何か』、新泉社、1996年、86ページ。

[8] フレドリック・バルト、「エスニック集団の境界」、青柳編、『「エスニック」とは何か』、34ページ。

[9] バルト、「エスニック集団の境界」、35ページ。

[10] 「中華人民共和国憲法」、2018年3月11日修正。

[11] 杉浦功一、『国際連合と民主化』、法律文化社、2004年。

[12] 室井義雄、『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』、山川出版社、2004年。

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Geminiさんの答案 研究各論(国際政治経済)2024年度前期
カーボンフットプリント(CFP)という概念がある。「製品・サービス1のライフサイクルにおける温室効果ガス排出量をCO2量に換算し表示するもの」と定義される。 経済産業省と環境省によると、CFPは下のように算定される。 「CFPは製品のライフサイクル(原材料調達、生産、流通・販売、使用・維持管理、廃棄・リサイクル)におけるGHG排出量をCO2量に換算し表示するものです。以下の流れで算定します。 ① 算定対象製品のライフサイ…
湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と
(表紙の画像はAIによって作成された) 地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。 地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。 日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。 教科書での関連する記述 教科書 湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見…
普遍的人権
https://youtu.be/52BYfykXUDI 人権外交について具体例に言及しながら論じなさい、というのが今回のテーマである。人権は市民革命の時代から、もっぱら国内の法規範であった。普遍的人権、というのは、それを万国、全世界に広げようという発想である。これもローズベルトの四つの自由が発端であった。それ以来、行われてきた人権外交は、壮大な人類の実験と呼んでよい。 第二次世界大戦後の秩序を、アメリカ合衆国では国務省が立…
大恐慌
https://youtu.be/1N1qPADK_Bg カネは天下の回り物という。本来は、金銭は人々の手を転々と渡っていくものであるから、その持つ、持たないは時とともに変化する、という意味である。しかし、ここでは、金銭は人々の手を渡っていく中で、初めて付加価値の発生に貢献する、という意味で使っている。 経済学には、 流動性(リクイディティ)という用語がある。資産の処分しやすさ、というのがもともとの意味である。素人の描いた絵には…
テロリズム
テロリズムは二つの意味で論争的な暴力である。一方で、それは勝ち負けでなく、論争の存在を公にさらすことが目的である。暴力による破壊には、当然視されていること、あるいは既定のことを疑わせる効果がある。他方で、暴力を振るうことは正当とも、不当とも、人によって評価が分かれる。意図または目的といった主観的な要素はテロリズムの定義からぬぐいされず、それらが正しいと思う人にはテロリズムは正当である。民族解放の…

脆弱国家

脆弱国家はフラジャイル・ステイトと英語でいうが、ワレモノ国家という意味である。国家が壊れてしまっては国民を守ることができず、また、国土もバラバラになってしまう。今回のテーマは、脆弱国家とはどのようなものかを解説し、紛争との関係を議論しなさい、である。

現代における世界の紛争はどのような状況にあるのか? スウェーデンにある世界最古の大学の一つ、ウプサラ大学、に最新の紛争データを作成し、それを分析するプログラムがある[1]。そこで見られる図表を眺めると、グローバルなトレンドが把握できる。

冷戦終結から2024年までの紛争発生地がプロットされた世界地図を眺めると、おなじみのパターンが目に入る。サハラ砂漠のふちと熱帯雨林にまたがる太い帯がアフリカ大陸を東西に横断し、アラビア半島の南端に至る。北へ地中海東岸に飛び、パレスチナ・レバノン・シリア・イラクとさらに北のウクライナに二つの塊がある。その東、太平洋まで連なるホットスポットは、アフガニスタンおよびパキスタンのタリバン支配地域を通り、ベンガル湾に沿ってマレー半島まで逆U字の弧を描き、フィリピン諸島とパプア島に至る。米州にはメキシコからコロンビアまで紛争地帯が中米を縦貫し、アマゾンまで続く[2]。サミュエル・P・ハンティントンが語った文明の断層線が見えるかのようである。

現代はアフリカ・アジア・中東・中米が紛争多発地帯であるが、過去はどうであったろうか? アジアとアフリカは一貫して多い。中東では1956年・1967年・1973年の戦争、イラン革命、湾岸戦争、イラク戦争、そしてアラブの春といった紛争の年に増えた。ヨーロッパは1990年代における旧ソ連と旧ユーゴスラビアの崩壊と2014年のウクライナ危機の時期に上昇している。米州は1980年代の中米紛争がピークを成した[3]

冷戦後に内戦が増えたという説がある。国家間紛争、国際化した国内紛争、そして国内紛争の構成比を追うと、冷戦後はまず国内紛争の比率が増え、2010年代に国際化した国内紛争が増えた[4]。東西対立を背景とした代理戦争がなくなり、内戦が目立つようになった。近年はかつてのベトナム戦争のように、内戦にロシアはじめ大国が介入する事例が増えている。

強靭な国家では国内紛争は起こらない。国際化した国内紛争も、外国がつけ入るスキが国家構造に存在したから起きた。現代の紛争を理解する鍵は脆弱国家にある。

カナダの学者カレビ・J・ホルスティといえば、生前には国際政治学の教科書の著者として名を成した。彼が晩年に著した『国家、戦争、戦争状態』は1996年当時に起きていた冷戦後の紛争を的確に分析した。彼の時代には脆弱国家という言葉は使われていなかった。それが使われるにはもう一つのステップがあったことはあとで触れる。彼は「弱い国家」という言葉を使った。破綻国家という言葉も使っているが、専門用語としては弱い国家が採用されている。

国家は「垂直的正統性」と「水平的正統性」が欠けると弱い国家になる、とホルスティは論じた。垂直的正当性は、社会科学を学んだ者にはなじみ深いマックス・ウェーバーの支配の3類型である。彼によると、支配者が一般人に及ぼす権威には、合理的支配、伝統的支配、そしてカリスマ的支配の三つがある。合理的支配の例は官僚制で、人は自分の生活を守ってくれると信じているから役所に税金を払い、言うこともきく。伝統的支配は家父長制で、子供は人生経験の長い親の言うことをきき、その延長として、長い歴史を持つ王朝に敬意を払う。カリスマ的支配の例は宗教指導者や革命家であり、常人にはなしえない奇跡を見せて、人々の批判を寄せつけない。

これにたいし、ホルスティが言うところの水平的正当性は通常、国民統合と呼ばれるものである。共同体のなかに複数のエスニック集団があるとしよう。部族主義がはびこって、共通の政府を作ることさえできない場合もある。集団間の関係が平等で公正であることも一種の正統性であるといえる。それがあれば、エスニック集団は独立を目指すことも、他の集団を支配しようとすることもなく、共通の政府のもとで共存することができる。

旧ユーゴスラビアの例を挙げてホルスティの正統性論を解説する。分裂以前には、スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、そしてマケドニアの六つの自治共和国があった。エスニック集団はより多く、しかも混住していた。主な宗教は正教、カトリック、そしてイスラムであった。言語はスラブ系とアルバニア系に大きく分けられるが、文字の違いがあってはるかに複雑であった。

「モザイク国家」の統合を可能としたのはヨシップ・ブロズ・チトー首相(のちに大統領)のカリスマ的支配であった。彼はヒトラーに抵抗するパルチザンを率いて勝利し、戦後はスターリンに歯向かった。スターリンの死後には非同盟運動の盟主として1980年の自身の死まで活躍した。国際的な名声が連邦をまとめるのに貢献した。

冷戦が終結すると連邦の解体は早かった。1991年にクロアチアとスロベニアが独立を宣言し、翌年1月にはEC(欧州共同体)が両国を承認した。これを青信号と理解したのか、3月、ボスニアヘルツェゴビナが独立を宣言した。ECが新国家を承認したのは早くも翌月であった。ボスニアヘルツェゴビナにはセルビア系の住民が多く住み、ムスリムとクロアチア系が独立を主導すればセルビア系が不安に感じるのは予想できたことであった。

ボスニアヘルツェゴビナ紛争は国際化した内戦であった。ユーゴスラビア軍、クロアチア軍、そしてムジャヒディンが参加した。国連やNATOといった国際機構も介入した[5]。ロシアがセルビア系住民に味方していれば、和平合意はさらに先延ばしされたであろう。現実には、ロシアは経済が混乱をきわめ、国際合意を妨げる余裕はなかった。それはともかく、垂直的正統性が水平的正統性を補えなくなった時、ユーゴスラビアは分裂した。

国家正統性には基礎があり、ホルスティは理念・制度・物理に分けて論じる。国家の理念を強化するのは社会契約やイデオロギーの共有である。実際になされていなくても、皆が同意するにちがいないルールが社会契約である。アメリカ合衆国のメイフラワー協約や明治政府の五箇条の御誓文のようなものを彼は意図したのでないか。共産主義や自由主義のような国家のイデオロギーに共感する者が多ければ、国家は強くなり、反発する者が多ければ、それは弱くなる。制度については、誰が権力を握るかのルールが定着していることが重要である。選挙による政権交代に国民の信頼があれば、暴力による権力奪取は失敗する。不公平な富・権力の分配や腐敗の蔓延は多くの国民を離反させる。文民統制がきかない国家では、軍がクーデターを繰り返し、国民は政治に無関心になる。国家の物理的基礎になるのは、特に領土の実効支配である。反政府勢力の支配地や無法地帯が広がれば、国家主権は疑われる。他国との境界がはっきりしていない場合も同様である[6]

分配の不公平という問題では、自然資源の分け前をめぐるものが紛争を招きやすい。かつてスーダン南部と呼ばれた土地では石油が出た。住民は北部のアラブ系ムスリムと違い、アフリカ系、つまり黒人、のキリスト教徒であった。数十年にわたってゲリラのSPLA(スーダン人民解放軍)が独立を求めて戦った。2005年に和平が成立し、2011年に住民投票の結果、南スーダンが独立した。その直後に国内の勢力の間で勃発した内戦は2018年まで続いた。石油の取り合いはコロンビア、チャド、ナイジェリア、そしてインドネシアでも紛争につながった[7]

シエラレオネの紛争ダイヤモンドは、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)をきっかけに知られるようになった[8]。背景にはアハメド・フォディ・サンコーを議長とするRUF(革命統一戦線)の反乱があった。RUFは隣国リベリアと民間軍事会社に支援され、ダイヤモンドを資金源にした。それが内戦の火に油を注いだことから、ダイヤモンド産業は密輸撲滅に真剣に取り組むようになった。キンバリー・プロセスは、輸出ダイヤモンドが紛争関連でないことを示す政府の証明書を付ける制度であり、企業・政府・国連・NGOが合意した。

鉱物が紛争の資金源になるのは石油とダイヤモンドだけでない。コンゴ民主共和国のコルタンは電子部品の材料で高値で売れる。企業の側には、紛争地産の鉱物を輸入しない社会的責任がある。

軍の統制も国家正統性の鍵である。文民の政府が国軍を統制できるか、という問題だけでない。私兵または民兵は規律が正規兵より劣り、非人道的な行為に及びやすい。古典的な例はナチスの突撃隊である。冷戦後では、ボスニアヘルツェゴビナにおいて警察が組織した突撃隊がムスリムを虐殺し、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)によりメンバーが有罪判決を受けた[9]。ルワンダでは、フトゥ族の団体インテラハムウェがラジオでプロパガンダを放送し、トゥツィ族の虐殺を扇動した。スーダンのダルフールでは、アフリカ系の住民をアラブ系民兵ジャンジャウィードが虐殺した。ロシアのワグネルはウクライナへの侵攻に従事する一方、自国政府に反乱を起こした。

弱い国家の状態から抜け出すのは簡単でない。ホルスティは、国家が強さを獲得しようとする際のディレンマを論じる。強権がかえって抵抗を招き、国家を弱くしてしまう。反抗的な地方政権・宗教集団・エスニック集団に対する強制措置は、国家の支配権利である垂直的正統性をむしばんでしまう。政治過程からの重要な集団の排除は水平的正統性を破壊する。強制と排除に対する人々の反応はさまざまである。忍耐する者、移民する者、アングラ化する者、発言する者、反乱する者がいる。「破綻国家」とはこうしたディレンマを解決できない国である。当時、ホルスティが挙げた国々はレバノン、ソマリア、チャド、ウガンダ、リベリア、モザンビークであった[10]

国民統合が絶望的である国々は現に存在する。代表例はレバノンである。レバノンの国民はキリスト教、イスラム、その他の宗教に分かれ、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム・スンナ派というように権力の分担が行われる。

宗派対立が決定的になった1975年、レバノン内戦が勃発し、シリア軍が進駐した。1978年に平和を回復し、政府を支援するため、国連平和維持活動のUNIFIL(国連レバノン暫定軍)が派遣された。そのかいなく、イスラエルがパレスチナ人ゲリラを掃討する目的で1982年、侵攻した。イスラエルが庇護するマロン派がパレスチナ難民を虐殺するサブラ・シャティーラ難民キャンプ虐殺事件が起きた。

レバノン内戦を終わらせるタイフ合意(国民和解憲章)は1989年に成立した。立法府の議席数はキリスト教宗派とイスラム教宗派に半分ずつ配分されることになった。多民族国家では選挙で勝利した政党が権力を独占することは許されない。平和は独占でなく挙国一致によりもたらされるからである。内戦中、国軍は弱いままに放置されたが、UNIFILが支援してそれを強化し、諸派を武装解除して、外国勢力を排除することが課題になっている。

破綻国家という呼称は、呼ばれる側の身に立てば、ずいぶん失礼である。破綻国家インデックスなるものがファンド・フォー・ピースという団体により作成され、『フォーリンポリシー』誌上で公表される。『フォーリンポリシー』はサミュエル・P・ハンティントン教授によって創刊され、カーネギー平和財団により発行される外交エリートが読む雑誌である。このインデックスは2014年に脆弱国家インデックスへと改称された。

脆弱国家インデックスの世界地図を見て気がつくのは、冒頭で挙げた紛争地図のプロットとインデックスの数値が高い地域が一致することである。アフリカ・中東・南アジア・東南アジア・中南米である。2024年のランキングでは、最下位はソマリアであり、スーダン、南スーダン、シリア、コンゴ民主共和国、イエメン、アフガニスタン、中央アフリカ共和国の順に続く[11]

脆弱国家インデックスは何に基づいて作成されるのか? 客観的な数値データばかりでなく、専門家の判断やメディアの文字情報に基づく内容分析が使われ、非常に広範な分野の指標から合成される、という。軍事・公安、代表制・派閥、和解・分断、マクロ経済、経済的平等、移民、政府・参政権、公務員・公共政策、人権・メディア、人口・健康、難民・国内避難民、そして外国の介入といった分野である[12]

紛争地域と認識されずとも脆弱な国家であった例としてジンバブエが挙げられる。2024年の脆弱国家インデックスでは18位とされる。1980年にジンバブエが独立した時、首相のロバート・G・ムガベは民族自決の英雄であった。大統領には1987年に就任し、アフリカではよくある長期政権を築いた。問題が知れ渡ったのは白人が所有する農地の強制収用を始めた2000年ごろからである。イギリス女王を盟主とするコモンウェルスから2003年に脱退した。彼をモデルにしたと思われる映画『ザ・インタープリター』は2005年に封切られた[13]。翌年、ジンバブエ・ドルのハイパーインフレーションは知らぬ者ないものとなった。最悪の経済情勢のもと行われた2008年の大統領選挙は不正選挙と外国で批判された。やっと2017年にムガベは辞任し、2年後、死去した。

ところで、ホルスティは、弱い国家と武力紛争とは関係があると、地域と紛争数の相関を示して主張した。戦争地帯はアフリカ・旧ソ連・中東・中米・南アジア・バルカン半島である。不戦地帯は東南アジアと東アジアである。平和地帯はカリブ・南太平洋・南米である。多元的安全共同体は北米・太平洋・西ヨーロッパである[14]。これも紛争の地図と脆弱国家の地図と一致する。四半世紀もまえの本であるが、現代とほとんど変わらない。 国家にはあるべき姿があり、それを満たせないと紛争が起こる、という仮説は正しそうである。しかし、国境線を引き直すようなことは特殊な事例では可能かもしれないが、一般的にやろうとするとパンドラの箱を開くことになる。無理な解決は、第2、第3のホロコーストやアパルトヘイトを生みかねない。脆弱国家をバラバラにしない最も手堅い方法は、対話と事実調査をつうじ、コンセンサスを築くことである。


[1] Uppsala Conflict Data Program, “UCDP Data,” https://ucdp.uu.se/, available on February 17, 2026.

[2] Shawn Davies, Therese Pettersson, Margareta Sollenberg and Magnus Öberg, “Organized Violence 1989-2024, and the Challenges of Identifying Civilian Victims,” Journal of Peace Research 62(4) (2025).

[3] Davies, Pettersson, Sollenberg and Öberg, “Organized Violence 1989-2023, and the Challenges of Identifying Civilian Victims.”

[4] Davies, Engström, Pettersson and Öberg, “Organized Violence 1989-2023, and the Challenges of Identifying Civilian Victims.”

[5] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年。

[6] Kalevi J. Holsti, The State, War, and the State of War (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), pp. 82-98.

[7] イヴ・ラコスト、『ラルース地図で見る国際関係 現代の地政学』、猪口孝、大塚宏子訳、原書房、2011年、250ページ。クリストファー・フレイヴィン、『地球白書2002-03』、家の光教会、255ページ。

[8] Edward Zwick, Leonardo Di Caprio, and Djimon Hounsou, Blood Diamond, Warner, 2006.

[9] 多谷千香子、『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』、岩波書店、2005年、114-115ページ。

[10] Holsti, The State, War, and the State of War, pp. 99-122.

[11] The Fund for Peace, “Global Data ,” https://fragilestatesindex.org/global-data/, accessed on February 17, 2026.

[12] The Fund for Peace, “Fragile States Index Annual Report 2021,” Washington, D.C., The Fund for Peace, 2021), pp. 4-5; and The Fund for Peace, “Fragile States Index and Cast Framework Methodology,” Washington, D.C., The Fund for Peace, 2017.

[13] Sydney Pollack, Nicole Kidman, Sean Penn, and Catherine Keener, The interpreter, Universal Studios, 2005.

[14] Holsti, The State, War, and the State of War, pp. 24, 141-149.

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脱植民地化
https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…
集団安全保障
https://youtu.be/py3TVxAbaL8 集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。 集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦…
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国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…
平和運動
国際政治は国家が主役である、という。しかし、グローバル社会は国家だけからできているわけでない。諸国家の政策が偏っているならば、それを正す必要がある。今回のテーマは、各国政府によるもの以外にどのような軍縮・軍備管理に向けた運動があるか具体的に述べなさい、である。 古来、ブッダやイエスの事績に見えるように、平和主義は宗教とともにあった。近代においても、平和運動の源流は宗教であった。特に、クエーカー(キ…
期末試験チャレンジ  研究各論(国際政治経済)2025年度前期
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暴力の原因

暴力というものの定義は非常に広い。狭義には、物理的な、直接的な破壊行為、つまり刑法でいえば暴行罪、傷害罪、殺人罪、不同意わいせつ罪、不同意性交罪、あるいは器物損壊罪に当たるものである。問題なのは、どこまで定義を広げるかである。

著名な平和学者、ヨハン・ガルトゥング、は「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する」と定義する。

ガルトゥングの暴力定義における一つ目の論点は、精神的な損傷が含まれることである。筆者は傷害罪に問われるほどの精神的苦痛は含まれると考えるが、侮辱罪に当たる行為は一概に判別することはできないと考える。

暴力定義におけるもう一つの論点は、ガルトゥングの言う影響力の行使が、直接に誰かが攻撃するものにとどまらず、主体を特定しがたい「構造的暴力」を含むことである。彼はそうした暴力を社会的不正義と言い換える[1]。貧富の差は寿命、学力、階級などの格差を生む。貧しい人の寿命が短いのであれば、それは傷害や殺人と同じではないか、という指摘は傾聴に値する。筆者は、政府による故意の政策が間接的であれ、寿命を縮め、かつ、そうした事態を避ける努力を政府が尽くさないのであれば暴力である、と考える。

今回のテーマは、暴力の諸原因を個人、国家、そして国際システムの諸レベルに分けて論じなさい、である。我々が知っている諸紛争の原因は異なるであろう。パレスチナ紛争は? アルジェリア戦争は? ベトナム戦争は? カンボジア内戦は? イラン・イラク戦争は? 湾岸戦争は? ソマリア内戦は? 旧ユーゴスラビア紛争は? ルワンダ虐殺は? 対テロ戦争は? イラク戦争は? シリア内戦は? イスラミックステイト(IS)は? ミャンマーは? ウクライナは?

最初に用語の整理をしておかなければならない。上の諸紛争には、戦争と呼ばれるものと内戦と呼ばれるものが含まれる。戦争は激しい殺し合い一般に使われるが、特に国家間のものを、ここではそう呼ぶ。サブナショナルな集団(国内集団)どうしの紛争は内戦である。内戦をシビルウォーというように、英語ではウォーすなわち戦争ではない。内戦は国家を代表する政府とサブナショナルな集団の間でも行われる。その他、サブナショナルな紛争にはクーデター・テロリズム・犯罪が含まれる。これらを総称してこの回では暴力と呼ぶ。

国際政治学においては、暴力の原因について古典的な教科書がある。新現実主義者ケネス・N・ウォルツが1959年に著した『人間、国家、そして戦争』である[2]。この本は分析レベルの考え方を紹介したことで知られる。レベルは三つあり、第1イメージすなわち人間の行動、第2イメージすなわち国家の構造、そして第3イメージすなわち国際システムから成る。ウォルツは、第3イメージの国際システムがアナーキーであることが戦争の原因である、と結論するが、筆者はそれにとらわれずに三つのイメージを議論する。

第1イメージの人間については、近代初期の哲学が人間本性を戦争の原因と考えた。代表例は言わずと知れたトマス・ホッブズの自然状態に対する見方である。彼の言葉として知られる「人間は人間に対して狼である」とか、「万人の万人に対する闘争」とかいったものが人間の好戦性を表現する。そうした闘争を止めるには、人々が政府に権力を与え、それを畏怖するようになること以外にない、と彼は論じた。こうした議論への反証は簡単であり、天使のように利他的な人も存在することを示せばよい。

精神分析にも人間の好戦性に関する知見がある。代表的なものは、ジクムント・フロイトの破壊衝動論である。1932年、ナチスが議会の第一党になると、ユダヤ人の身に危険が迫った。国際連盟の知的協力国際委員会が提案し、アルバート・アインシュタインからフロイトに書簡が送られた。彼からの返事に、破壊衝動のことが書いてある。

フロイトによると、人間の衝動には2種類ある。一つはエロスであり、これは愛への衝動である。もう一つがタナトスであり、破壊衝動であり、憎しみへの衝動である。憎しみが外面化すると戦争になり、内面化すると病理になる。そして、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない!」とフロイトはさじを投げる。ただし、破壊衝動を和らげる方法が一つある。それは文化の発展である。文化を吸収した人間は、性的な機能が失われていく。知性が強まり、衝動をコントロールし、攻撃本能を内に向けるようになる。フロイトは「戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と自らの発見に感嘆する[3]

文化によってタナトスを昇華する、という結論は、分かりやすく、一般的であり、処方箋もあって魅力的である。しかし、エロスはどう測定するのか?、実証できるのか?、と問われたら、答えに窮する。エロスとタナトスを適当に組み合わせて説明すれば、占いのように何でも当てられる、という批判が根強い。

心理学の他学派からの影響もある。ハロルド・ラスウェルといえば、アメリカ政治学を学ぶ者は必ず名を聞く政治学者である。彼は権力を追い求める心理を「価値剥奪に対する補完の一手段」であると分析した。価値剥奪というのは、人より自らが劣ると感じることがあって、本当は尊敬されたいのに、身のまわりでは満たされない状態である。そうした人は「私的動機を公の目的に転移し、公共の利益の名において合理化する」。彼は歴史上の人物たちが価値剥奪を補完するため権力を追求した、と例を挙げた。プロイセンのフリードリヒ二世は目のまえで友人を父に殺された。ロシアのピョートル一世はおじが暴徒に殺された。カール・マルクスは教職を得られなかった。ナポレオンは背が低かった。エリザベス一世は女性としての魅力に欠けると思っていた。ミラボーには天然痘の痕があった。フランクリン・D・ローズベルトは小児麻痺であった[4]

ラスウェルは好戦性の分析はしておらず、権力追求者の性格を強迫型・劇化型・冷徹型の三つに類型化した。強迫型性格の者は「人間関係を処理する仕方がきわめて窮屈で、何かに憑れているようなタイプ」であり、「綿密に一つ一つ区切りをつけ、その細部に至るまでいささかもゆるがせにしない」。これは官僚に向いた性格である。劇化型性格は「他人に即座の情緒的反応を要求」し、「自己顕示性、浮気性、挑発性、義憤性などの気味がある」。「色々な工作をしては他人を「アッと言わせる」ことに専ら関心のあるタイプ」であり、「仕事の細部の分類にはルーズであるが、その規模と豊かさにおいてまさっている」。向いているのは煽動家である。冷徹型性格は「完全に自覚しうるあらゆる情念がすっかり搗き固められ、感動を奪われてしまった」人であり、判事に適している[5]

ラスウェルの理論は森羅万象を説明できると自己主張せず、多様な事例を類型化する点で、経験主義または実証主義に則っている。彼の行動主義パラダイムは後続する研究を生み出し、そのなかにはシャイな人格と好戦性との相関を指摘するものもある[6]。アドルフ・ヒトラーの攻撃性とシャイなところは関係があるかもしれない、と言われれば、うーん、そんな気もしてくる。

行動主義政治学は指導者の人格類型に注目したが、そもそも、個人に紛争を起こすことなど可能なのであろうか? 世の中を動かすのは特定の個人の思想と行動であるという考え方をグレイトマン・セオリーという。ドイツがポーランドに攻めこんだことにヒトラーの人格は影響したであろうが、それだけであろうか? ドイツの政治制度や国際システムに問題はなかったであろうか?

実はウォルツの本にはあまり書いていないのであるが、宗教の違いも紛争の原因である。宗教その他の信仰は、個人の問題であると同時に国家の問題でもある。指導者の問題であると同時に、一般の人々の問題、あるいは指導者と人々との関係の問題である。

『旧約聖書』には、ユダヤ人がバアルやアシュトレトという外来の神々を信じたために、神がお怒りになり、他の部族にユダヤを略奪させた、という記述がある[7]。これが本当ならば、宗教は最も古く記された紛争の原因である。

宗教にとどまらず、人間のアイデンティティに根差す紛争は血なまぐさく、長期にわたりがちである。そのことを論じて話題となったのが、サミュエル・P・ハンティントンが著した『文明の衝突』である。

ハンティントンが論じたフォルトライン紛争とは、「異なる文明圏の国家や集団のあいだに起こる、共同社会間の紛争」である。村単位のより狭い地方で起きるコミューン戦争と違い、フォルトライン紛争は宗教の違いが最重要な原因で、別個の文化圏に属する集団間で起きる。フォルトラインというのは英語で「断層線」のことであり、ここがずれると大地震になる。20世紀末、そうした紛争が急増した。原因の一つは若者人口の増加であった、とハンティントンは指摘する[8]

宗教の違いは人間個人の内面に属するので第1イメージともいえるし、国家的広がりにおける異教の共存に紛争の種はあるから第2イメージともいえる。第1.5イメージという言い方が許されるならばそういうべきである。

宗教だけでなく、他者にたいする偏見一般が戦争の原因であり、ゆえに、文化の普及と平和教育は神聖な義務である、とするのはUNESCO(国連教育科学文化機関)憲章の前文である。定番の名文であるが引用する。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となつた。

ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによつて可能にされた戦争であつた。

第2イメージの暴力の原因に話題を戻す。

マルクス主義にとって暴力の原因は資本主義国家である。フリードリヒ・エンゲルスによると、有産階級と無産階級(プロレタリア)との対立は歴史的な必然であり、それは国家の起源にさかのぼる。太古、財産は共有であったが、財産を私物化する者が現れ、奪われないようにする目的で警察や軍隊を組織し、国家なるものが作られた。有産階級はこうして蓄えた私有財産を資本として、無産階級を不当に安い賃金で働かせた[9]。つまり国家とは搾取の道具である。

エンゲルスはこの理論を練り上げる以前の1848年、カール・マルクスとともに『共産党宣言』を発表した。個々の労働者がプロレタリア階級となり、共産党を結成するさまを描く。国家は資本家の道具であるから、労働者は祖国を持たない。革命が成就した暁には、国家間の敵対は消え失せる。マルクスとエンゲルスは「万国のプロレタリア団結せよ!」と世界の労働者に呼びかける[10]。資本主義国家がなくなれば、暴力もなくなるのである。

19世紀には、労働者の世界団体として第一インターナショナルと第二インターナショナルが設立された。第一次世界大戦が始まると、あろうことか、西ヨーロッパの社会主義政党は自分の国の戦争遂行に協力するようになった。ウラディミル・イリイチ・レーニンはこの事実を捉えて、日和見的な社会主義政党を非難した[11]

マルクス主義の古典に忠実であったのが、小林多喜二が1929年に出した『蟹工船』である。プロレタリア文学などというとシリアスに聞こえるが、漁船で革命が発生し、大日本帝国の軍艦が弾圧しに来る、という筋はむしろコミカルである。「金持ちの手先」である将校と漁船の上層部が毎晩、サロンでパーティを開くというベタな描写には失笑を禁じえない[12]

暴力の原因を、国家の政治体制に求める意見もある。ドイツ帝国では、連邦参議院の議決を経て、その議長であるドイツ皇帝が宣戦布告をするのが憲法の規定であった。連邦参議院の代表は構成国から派遣され、国民によって選ばれたわけでないので、その意味で民主的でなかった。

第一次世界大戦において、アメリカ合衆国が対独参戦した原因には潜水艦による無差別攻撃、メキシコへの反米的な働きかけ、あるいはアングロサクソンのきずななどいくつかある。T・ウッドロウ・ウィルソン大統領が国民への演説で選んだ開戦の理由はその非民主性であった。ドイツの人々は「チェスのポーンや道具のように」戦争に駆り出された、と述べた[13]。ポーンは将棋の「歩」に当たる。後ろに下がることもできなければ、進軍命令を「いやだ」と拒むこともできない。

戦争の原因を資本主義と独裁に求めることには共通点がある。それらが国家の属性に注目する点だけでない。平和な世の中を築くには、資本主義なり、独裁なりを絶やさなければならない。革命には多くの血が流れるであろう。マルクス主義も民主主義も一見、平和を唱えるようでありながら、非妥協的で血なまぐさい十字軍の顔も持つ。

今日では、暴力の原因を国民の欲求段階に求める諸説に勢いがあるが、起源はエイブラハム・H・マズローの基本的欲求のヒエラルヒー説と考えられる。

マズローによると、人間の最も基本的な欲求は生理的欲求である。水分、糖分、たんぱく質、脂肪、ホルモンなどの体内バランスが、渇き、食欲、睡眠欲、性欲等を呼ぶ。これに次ぐのが安全の欲求である。「安全で秩序だった予想できる法則性のある組織された世界」を人は欲する。宗教、世界観、科学、哲学、神経症、脳損傷、そして権威といった心理的な秩序もあれば、戦争、病気、天災、犯罪、社会の解体、そして疾患といった物理的・社会的なものもある。より高次の欲求は所属と愛の欲求である。友達、恋人、妻、子ども、近隣、一族、階級、そして同僚がほしくなる。その上に承認の欲求がある。評判、信望、地位、名声、栄光、優越、承認、注意、重視、威信、そして評価であるが、欠乏しても人は死なない贅沢な欲求である。これさえ超越すると、自己実現の欲求に至る。他人の愛情や評価を意に介せず、わが道を行くことであり、「自分がなりうるものにならなければならない」とマズローは表現する[14]

マズローの説は暴力の原因に応用できそうである。生理的欲求の段階では、他者と組織的に戦う元気はないが、水と食べ物のためならば個人レベルの暴力をいとわない。集団としての安全欲求が強まれば、軍備を怠らず、過剰防衛を辞さなくなる。もっぱら自己実現が関心であれば、他者との関係そのものはもはや紛争原因にならない。

基本的欲求のヒエラルヒーを国家単位で応用した先駆的研究は、ロナルド・イングルハートの『静かなる革命』(1977年)である。西側の先進国でも、20世紀の初めは貧しかった。第二次世界大戦のころには、貧しさに加えて戦争で命を奪われるリスクも大きかった。イングルハートが発見したことは、戦後の豊かさを経験した世代では、生理的欲求と安全欲求といった物質主義の価値観は弱く、所属・承認と自己実現の諸欲求、すなわち脱物質主義の価値観、が強いことである。実際、1970年代には、政治参加、環境保護、そしてジェンダーといった争点への関心が高まった[15]

国際的な文脈に欲求段階を置いたのは、田中明彦の『新しい中世』である。彼は平均寿命が60歳未満で、政治体制の自由度が低い国々を「混沌圏」と呼んだ。長生きができないのは生理的欲求と安全欲求が十分に満たされないからであり、飢餓や内戦に悩まされている可能性もある。より寿命が高い、または政治体制の自由度が高い国々は「近代圏」であり、人々は国家間の戦争が不安である。近代国家としての体裁を整えるためにナショナリズムが必要であり、外国との摩擦が生じやすい。「新中世圏」は所得水準が高く、政治体制の自由度も高い先進国である。人々はナショナリズムよりも個人の幸せを求め、相互依存とトランスナショナリズムでそれを手に入れようとする[16]

分析レベルに従って、人間、そして国家と見てきた。最後が第3イメージの国際システムである。ウォルツが引く鹿狩りの比喩はジャンジャック・ルソーの『人間不平等起原論』が出所である。

太古、約束を守ること、そして、それを破った者を罰すること、の重要性を人間は知らなかった、とルソーは想像する。一匹の鹿を村人たちは囲い込んで捕えようとした。輪を小さくしていき、一斉に捕まえようと身構えたその時、一羽の兎がある村人の足元で跳ねた。彼はその兎に夢中になり、持ち場から離れた。鹿は走り去った。彼に罪の意識はなく、他の村人も持ち場を離れたことを罰しようと思わなかった[17]。次の日、皆、忘れていた。

鹿狩りの村人たちに国際システムにおける諸国家は似ている。思いのままに行動しても、罪の意識もなければ、それを罰する裁判所や警察もない。法を作り、罪を罰する王が現れて、人類は進歩したというのが常識であるが、ルソーは逆にそれを悪徳への道と考えた。いずれにせよ、ウォルツにとっては国際システムのアナーキー、すなわち無政府状態、が戦争の究極的な原因であった。

一方、アナーキーであっても戦争状態とはかぎらないとする説もある。代表的なものは、イギリスの国際政治学者であるヘドリー・ブルの国際社会論である。アナーキーであるから戦争状態になる、という説を、ホッブズの受け売りであると批評した。政府に権力を渡して、人々がそれを畏怖する時だけ秩序が保たれる、という議論を、国際システムには政府がないので諸国家は戦争状態にある、と機械的に類推した、と批判したのである[18]

ブルは、近代国際システムはホッブズの戦争状態とは似ていない、と主張する。それはアナーキーではあるものの、社会を形成している。そのような国際社会では「一群の国家が共通利益と共通の価値を意識し、たがいの関係において自らがルールに拘束されている」と理解している[19]

ブルの見解にはうなずかされる。鹿狩りの村人たちと一緒にするのはやめてほしい。上に立つ王がいなくても、責任感に満ち、自発的に協力する優れた人々はいる。国家もそうであり、国際社会には一定のルールがある。ただし、それを破る国もあれば、ルール自体が不備であることもあるので戦争は起きる。国際社会という捉え方だけでなく、世界システムやグローバルシステムという捉え方もある。国家以外の個人や集団がいて、良かれ悪しかれ国家の権威に服さないことがある。 ウォルツの述べた国際アナーキーの言説は国連の力不足や国家の自衛権に関しては妥当ではあるものの、戦争のすべてを説明するものでない。暴力にはさまざまな原因があり、それらを複眼的に捉えることが必要である。分析レベルの概念は有用であるものの、第3イメージが国際システムの本質であると主張する意味においてではない。第1、第2、第3のそれぞれのイメージにおいて、まだ十分に認識されていない要因はないであろうか?、とブレインストーミングする道具として有用なのである。


[1] ヨハン・ガルトゥング、『構造的暴力と平和』、高柳先男、塩屋保、酒井由美子訳、中央大学出版部、1991 年、5、11-14ページ。

[2] Kenneth N. Waltz, Man, the State and War: A Theoretical Analysis (New York: Columbia University Press, 1959).

[3] アルバート・アインシュタイン、ジクムント・フロイト、『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡』、浅見昇吾編訳、花風社、2000年、23-59ページ。

[4] H・D・ラスウェル、『権力と人間』、永井陽之助訳、第19版、東京創元社、1985年、46-47、49ページ。

[5] ラスウェル、『権力と人間』、77-78、103ページ。

[6] Saul Friedlander and Raymond Cohen, “The Personality Correlates of Belligerence in International Conflict: A Comparative Analysis of Historical Case Studies,” Comparative Politics, vol. 7, no. 2 (January 1975): 155-186.

[7] 士師記2

[8] サミュエル・ハンチントン、『文明の衝突』、鈴木主税訳、集英社、1998年、383、386、394-399ページ。

[9] エンゲルス、『家族・私有財産・国家の起源』、土屋保男訳、新日本出版社、1999年、145ページ。

[10] マルクス、エンゲルス、『共産党宣言』、大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波書店、1971年、52ページ。

[11] レーニン、『国家と革命』、宇高基輔訳、岩波文庫、1957年、23ページ。

[12] 小林多喜二、『蟹工船・党生活者』、新潮社、2008年、132、134-135ページ。

[13] Ray Stannard Baker and William E. Dodd, eds., The Public Papers of Woodrow Wilson, War and Peace (New York: Harper & Brothers, 1927), Vol. I, pp. 11-12.

[14] A・H・マズロー、『人間性の心理学』、産能大学出版部、1987年、55-90ページ。

[15] R・イングルハート、『静かなる革命』、三宅一郎、金丸輝男、富沢克訳、東洋経済新報社、1978年。

[16] 田中明彦、『新しい中世―21世紀の世界システム』、日本経済新聞社、1996年。

[17] ルソー、『人間不平等起原論』、本田喜代治、平岡昇訳、岩波書店、1933年、88-89ページ。

[18] Hedley Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics (New York: Columbia University Press, 1977).

[19] Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics.

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機能的国際機構
https://youtu.be/b8ERLTL_dyI 「人間というものは、なんらかの社会的紐帯ですでに結ばれている程度においてしか、平和の欲求をもたないものである」とエミール・デュルケムは言う[1]。個人をメンバーとするグローバル社会のきずなは家族ほどには緊密でない。人種や言語の壁がある。国家をメンバーとする国際社会のきずなも平和を保証するまでではない。国々は軍隊を養い、戦争に備えている。であるので、国際連盟や国際連合の安…
集団安全保障
https://youtu.be/py3TVxAbaL8 集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。 集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦…
グローバリゼーション
https://youtu.be/uxriMZOqqiE 今はインターネットにおいて、モノでも、カネでも、ヒトでも、情報でも、世界中がつながっている。それ以前はさぞかし不便であったことであろう。 それでも、交通と通信は日々、発達していた。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は、出版前年の1872年の世界を舞台とする。主人公はロンドンから、ドーバー、パリ、ブリンディシ、スエズ、ムンバイ、コルカタ、香港、横浜、サンフランシスコ、ニ…
国力
第二次世界大戦へと至る歴史は、国際政治の「現実」を直視させた。戦争で頼りになるのは力であり、力を競い合うのは国家である。そして、勝つのは強いほうの国家である。ならば、強い国家を作るか、強い国家と組むかしないと負けてしまう。多くの人が、これこそ現実、と考えた。 現実主義という言葉をこの分野において広めたのはエドワード・H・カーである。現実主義は「あったこと、と、あること、から、あるべきこと、を演繹す…
高陞号の撃沈はギャンブルだった
(表紙の画像はAIによって作成された) 東郷平八郎は神として崇められる対象です。日本海海戦の功績は圧倒的でした。日本は大国になりました。 すこし前の日清戦争でも、東郷平八郎は正しい判断をしたとされます。本当にそう言ってよいのでしょうか? 戦争はギャンブルです。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝敗は確率の掛け算で、サイコロを振るのは神です。日本は常勝の神国じゃなかった、と思い知ったときには遅すぎました。 教科書で…

N番目国問題

1番はアメリカ合衆国、2番はソ連、3番はイギリス、4番はフランス、5番は中国。ここまでは核兵器不拡散条約の認める核兵器国である。以下は推測となるが、6番はイスラエル、7 番はインド、8番は南アフリカ、9番はパキスタン、10番は北朝鮮であろう。N番目国問題というのは、Nは自然数、つまり1以上の整数、のことで、1、2、3、4、5……、と核保有国の数が増えていくという問題である。今回のテーマは、核兵器不拡散条約で定められた核兵器国以外に核保有が拡散するのを防ぐにはどうしたらよいか論じなさい、である。

この問題を考える際の着眼点として、核保有の動機が国によって違うことが挙げられる。近隣に核保有国がないにもかかわらず核兵器を持とうとする国は、政権存続の切り札であると考えている。指導者の威信は高まるし、米軍でさえ簡単には手が出せなくなる。ある国が核保有すると、その宿敵の国に拡散する傾向があることも注目に値する。覇権国は拡散を止めようとするものの、原子力の平和利用を援助した歴史があり、国益で政策がブレたのでないか?、と疑われる。

もう一点、加えると、核保有が容易であると考えられる理由の一つに、材料の集めやすさがある。著名な研究者のグレアム・アリソンによると、1発の核弾頭を作るのに、「ウラン235ならば十六キロ弱、プルトニウム239ならば四キロあれば、実用に耐える核兵器が作れ」るという[1]。これは一人の人間が持ち運ぶことができる重さである。

核分裂性物質が手に入れば、核爆弾の組み立てである。国家が核武装する場合でも、いきなり出力の大きな完成した水素爆弾ではなく、原子爆弾から実験を行うものである。沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』という映画では、中学校の理科教員が核兵器を製造していたが、それはないであろう[2]。大ざっぱな設計図からでは、特に爆縮を成功させるために、試行錯誤を要するからである。

冷戦が終わって、旧ソ連から核兵器関係の技術者が流出しないかが心配された時期があった。国際科学技術センター(ISTC)はそうした人材を雇ってつなぎ留めておくため、日本、アメリカ合衆国、EC(欧州共同体)、そしてロシアが資金を出して設立された。2006年には職員の数は200人を超えたという[3]。核兵器の秘密は守られている、と考えるほうが非現実的である。

以下では、今日まで拡散が懸念されたことがある国々について、動機と歴史を確認する。

北朝鮮の場合、韓国とその背後にいるアメリカ合衆国という宿敵がいた。最初の実験炉はソ連から提供され、1960年代に稼働した。韓国の側にも核兵器開発計画があったものの、1979年に朴正熙大統領が暗殺され、全斗煥政権が発足した時、アメリカ合衆国の圧力により中止されたという。

北朝鮮は核兵器不拡散条約に1985年、加入した。IAEAの保障措置受け入れは拒否したので、加入した意味はほぼない。薄く切ったサラミのように見せかけの譲歩を繰り返すことから、北朝鮮の外交戦術はサラミ・スライシングと表現される。

1991年、北朝鮮は韓国とともに、南北相互査察を含む朝鮮半島非核化宣言を出した。翌年にIAEAとの保障措置協定に署名したところまではよかったものの、1993年になってIAEAの特別査察要求を拒否し、さらに核兵器不拡散条約からの脱退を表明した。準中距離弾道ミサイルのノドン1号を発射し、周辺国に冷や水を浴びせた。

振り返れば、北朝鮮を守っていたソ連と中国の後ろ盾がなくなっていた。ソ連は国家自体が崩壊した。中国は1992年、核兵器不拡散条約に入り、北朝鮮に核兵器を持たせない陣営に加わった。

目まぐるしく事態は変わり、1993年の6月に北朝鮮は核兵器不拡散条約からの脱退を中断した。1年後、アメリカ合衆国の元大統領ジミー・カーターが金日成主席と会談した。驚きの展開が頂点に達したのは1994年7月における金日成の死であった。

一連の動きが行き着いた先が米朝枠組み合意であり、1994年10月に署名された。要点は、軽水炉への転換とその支援、朝鮮半島非核化、そして核兵器不拡散条約への服従である。翌年、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が設立された。これは12か国の国際コンソーシアムであり、北朝鮮の電力をまかなう軽水炉を操業するための組織であった。いわば縮小版の原子力の国際管理を北朝鮮に応用する試みである。この枠組みを窮屈すぎると感じてか、北朝鮮は1998年、準中距離弾道ミサイルのテポドン1号を発射した。衛星の打ち上げと発表されたのは国際世論への配慮からであろうが、実質において核弾頭と変わりはない。

2年後の2000年、平壌において、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記が南北首脳会談を行った。平和統一への期待を高める出来事であったものの、核兵器とミサイルについて不安を解消する実際の行動は何もなかった。

米朝枠組み合意が破綻したのには、いくつかの原因があった。一つはプルトニウムの再処理ばかりに気を取られ、ウラン濃縮を禁止しなかったことである。秘密に北朝鮮がウラン濃縮をした場合、遠心分離機を回す電力を送るたくさんの電線を偵察衛星で見つけることしか徴候をつかむ術はない。もう一つは、ミサイル実験を禁止しなかったことである。迎撃するのが難しい弾道ミサイルの開発は、周辺国に反感を生じ、北朝鮮の孤立を深めた。最後に、外交関係の正常化が進まなかったことが挙げられる。米朝枠組み合意に、両国関係は最終的に大使級に格上げされると明記されていたのに、米韓日は北朝鮮を国家として扱わなかった。

米朝枠組み合意の破綻は2003年、公然のものになった。核兵器不拡散条約からの脱退を声明した3か月後、北朝鮮は核保有を認めた。外交的な話し合いである六者協議がその年の夏に始まった。これは南北と米中日ロにより構成された。2005年には、核兵器・核計画の放棄と平和利用の権利を述べた共同声明が出されたものの、翌年、北朝鮮がしたことはテポドン2号の実験であった。それはテポドン1号より大幅に射程が長かったが、中距離ミサイルであるのか、あるいはそれ以上、飛ぶのかまでは分からなかった。薄切りのサラミのような譲歩をしつつ、約束の抜け穴を見つけて挽回をする。これが金一族の常套手段であった。

同じ2006年の秋、北朝鮮は初の核実験を行った。他国の怒りを六者協議での譲歩でかわしたばかりか、アメリカ合衆国から自国のテロ支援国家指定を解除させるという譲歩まで引き出した。2009年に六者協議は破綻し、2回目の核実験が行われた。

若い最高指導者、金正恩、の登場は世界を驚かせた。父の金正日が2011年に亡くなり、最高指導者の地位を継いだのである。2012年にミサイル実験、2013年に3回目の核実験、2016年に4回目(水爆と自称)と5回目の核実験、2017年にICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験と6回目の核実験、と意気軒高であった。

2018年と2019年に起きたことは幻であった。2018年の元日、平昌オリンピックへの参加を北朝鮮が表明したのに始まり、4月の南北板門店宣言につながった。韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長は、「完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標」を確認し、国際社会の支持と協力を得るため、積極的に努力すると合意した[4]

続いて6月、ドナルド・J・トランプ大統領と金正恩委員長がシンガポールで出した共同声明で、北朝鮮は板門店宣言を再確認し、半島の完全な非核化に向けて取り組むことを約束した。9月、金と文は具体的な非核化の措置を記した平壌共同宣言を発表したものの、限定的な措置しか記されておらず、翌年のハノイにおける米朝首脳会談も成果がなかった。今度のサラミは厚切りであっただけに、幻であったと知った世界の落胆は大きかった。トランプは任期を終えた。

日本はといえば、非核化の要求と専守防衛で北朝鮮の核兵器開発に対応してきた。非核化要求を裏打ちするのは経済制裁であり、それには国連安保理決議に基づくものと日本独自のものがある。他方、専守防衛の手段はミサイルの迎撃であり、巨額な予算を投じてイージス艦やペトリオットの整備が進められた。このほか、国民保護法が制定されてミサイル警報が鳴ったり、敵基地攻撃のためのミサイルが導入されたりした。現在も、タカ派は核武装や核シェアリングを求め、ハト派は非核地帯を議論している。

インドとパキスタンは北朝鮮に先んじて核保有をした。インドの宿敵は中国である。中国が1964年に原爆実験をすると、インドは核兵器の開発を始めた。

インドは核兵器不拡散条約には加わらず、原爆を製造した。1974年に、平和目的核爆発という名目で実験を行った。実際には戦争で使う核兵器の実験と変わりないのに、作戦名は「スマイリング・ブッダ」と平和主義者の名を騙った。

1998年に、水爆実験をインドは行った。17日後、宿敵であるパキスタンが原爆実験で応じた。

1974年のインド核実験の翌年に、パキスタンの核兵器の父アブドル・カディール・カーンがヨーロッパから帰国している。4年後、アメリカ合衆国が開発を断念させようと経済制裁を科したことから見て、研究は急速に進んだようである。当時はソ連とインドが親しかったので、対抗する合衆国とパキスタンも親しかった。

冷戦が終わると、アメリカ合衆国は容赦なく核兵器開発を理由にパキスタンへの武器援助を止めた。中国はインドを共通の敵とするパキスタンにミサイル技術を移転したが、それを理由にアメリカ合衆国は1990年代前半、経済制裁を科した。パキスタンの弾道ミサイルは北朝鮮が輸出したものともされる[5]

当時の日本には軍縮外交の意志と経済大国としての自信があり、1992年の政府開発援助大綱は「開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器およびミサイルの開発・製造、武器の輸出入等」への注意を促した。インドとパキスタンには核兵器不拡散条約と包括的核実験禁止条約に署名・批准するよう、日本は申し入れた。1998年の核実験への制裁として、日米のみならず、スウェーデン、ドイツ、そしてオランダが経済援助を控えた。G8サミット、ジュネーブ軍縮会議、国連安保理なども非難声明を出した。

2001年9月11日のテロが起きると、アルカイダが拠点とするアフガニスタンに近いインドとパキスタンは、対テロ戦争の重要なパートナーになった。小泉純一郎政権は経済援助を再開した[6]

イスラエルはより早く核武装していたはずである。国家存亡の分かれ目において、核兵器を自衛のために使う、という状況はこの国において最も起こりそうである。

1956年のスエズ動乱でソ連のミサイルに脅されたのは英仏ばかりでなかった。翌年、イスラエルにフランスが原子炉および再処理施設の建設を支援する秘密協定が結ばれたとされる。この原子炉をイスラエルは平和目的のものであると発表した。アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領はIAEAの査察を1961年に要求した。イスラエルはIAEAではなく合衆国の査察であればと受け入れた[7]。核分裂性物質の入手には成功し、核爆弾を作った。

1973年の第四次中東戦争では核攻撃が準備されたと言われる。曖昧に否定も肯定もしない、いわゆる曖昧戦略、が核保有に関するイスラエルの政策であり、正確なところは分からない。

近隣諸国の核武装にはイスラエルはきわめて神経質であった。引き合いにだされるのはイラクのフランス製オシラク炉を1981年に空爆した事件である。イスラエルは選択肢から武力行使を外さず、2007年にシリア、2025年にイランの核施設を空爆した。

武力行使のリスクについて、イスラエルは計算しているはずである。湾岸戦争において通常弾頭を載せたスカッドミサイルをイラクに撃ち込まれた時、反撃するのを思いとどまった。

イランはまだ核武装していないが、軍事力・経済力・人口・領土など地域大国としての資格を満たしている。日本もそうであるが、やればできる国を非保有国のままにしておくことは核不拡散レジームの重要な使命である。

イランはパフラビー朝のもと核兵器の開発をしていたとされ、アメリカ合衆国から導入した原子炉が稼働していた[8]。イラン革命後はアメリカ合衆国と敵対関係になり、開発は続けられた。

平和目的と称するウラン濃縮が国際社会で問題化したのは、対米強硬派として知られるマフムード・アフマディネジャド大統領が在任中の2006年のことであった。 国連安保理はその4年後、イランへの制裁を強化している。2012年、イランはフォルドゥのウラン濃縮施設において純度20パーセントのウラン235を製造し始めた。

2013年のイラン核合意は、イランのハサン・ロウハニ大統領とアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領のもと、それぞれの外相であるモハマド・ジャバド・ザリフとジョン・ケリーを含むP5+1が交渉した成果であった。P5+1とは安保理常任理事国およびドイツである。内容は、3.67パーセントを超える濃縮ウラン貯蔵の禁止、使用済み核燃料再処理の禁止、そして経済制裁の緩和であった。20パーセントよりも3.67パーセントのほうが兵器級ウランの材料には遠い。イラン核合意はイランが合意に従っている間は核兵器製造の一歩手前で止めておく効果があったが、トランプは2018年に合意から離脱した。

第2期トランプ政権は2025年にイランの核施設を攻撃した。2026年、米軍とイスラエル軍は最高指導者アリ・ハメネイを殺した。これによって新たな核合意に達するか、イランの体制変化が起こるか、といったことは殺害直後の段階では分からない。

ここまでは現在も続く諸懸案を検討した。以下では解決した問題を振り返る。

イラクの経験は、核兵器の拡散を力ずくで止めようとすることがいかに困難か、の教訓である。

核兵器不拡散条約の署名とソ連製の研究用原子炉の稼働をイラクが行ったのは1968年であった。サダム・フセイン大統領就任後の1981年、上述のオシラク炉がイスラエルに空爆された。それにもめげず、ウラン濃縮計画が1980年代半ばに始まった。

湾岸戦争に負け、核兵器開発が露見した。開けてびっくりで、予想よりも多い核関連施設が見つかった。1991年4月の安保理決議S/RES/687により、UNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)が設けられた。米国籍の査察官が追放されるなど、イラクとアメリカ合衆国はしばしば対立し、1998年には、クリントン政権の空爆計画をコフィ・アナン国連事務総長が回避するよう取り計らった。翌年にUNSCOMはUNMOVIC(国連監視検証査察委員会)に改組された[9]

大量破壊兵器は生物・化学兵器を含む。イラクはジュネーブ議定書を批准したので、それらの使用は国際法違反であったが、イラクはイラン・イラク戦争で化学兵器を使った。1988年、サリン、タブン、VXなどを混合したカクテル・ガスが撒かれるハラブジャ事件が起き、少数民族のクルド人が犠牲になったのである[10]。大量破壊兵器を現実に使ったことがあるという汚名は後年、サダム・フセイン大統領に不利に働いた。UNSCOMは化学兵器を徹底的に廃棄した[11]

対テロ戦争に勝利したかにみえたアメリカ合衆国は次の攻撃目標をイラクに定めた。国連安保理の承認を得ようとしたものの、2002年の安保理決議S/RES/1441は武力行使の権限を与えなかった。2003年、アメリカ合衆国はイラクが大量破壊兵器を開発している「証拠」を提示して開戦してしまい、年末にサダム・フセインを拘束した。案の定、大量破壊兵器は見つからず、翌年、多国籍軍の調査団であるイラクサーベイグループは、公式な開発計画はなかった、と結論した。

なぜ、独裁者は核兵器を持とうとするのか? アメリカ合衆国に対する抑止力を得て、国民に威信を示すためであろう。似た話はリビアにもあった。

リビアのカダフィ大佐は1970年代から1980年代に核兵器の開発を積極化した。2000年から2001年には、六フッ化ウランを濃縮し、核兵器の設計図を入手した。

イラク戦争は核兵器を秘密に開発していた国々を恐怖に陥れたらしく、2003年末からリビアは恭順の態度をとり始めた。大量破壊兵器の不開発と査察受け入れを宣言し、IAEA保障措置の追加議定書に翌年、署名した。さらに、北朝鮮などと武器取引はしないと宣言し、アメリカ合衆国から経済制裁の解除を引き出した[12]

カダフィにとって、核兵器開発の断念が正しい判断であったかは分からない。2011年の「アラブの春」において反乱が勃発し、彼は殺されてしまったからである。リビアはイラクと同様、内戦で地獄のようになった。

核兵器を全廃した例はないのか? ロシア以外の旧ソ連3か国を除くと、南アフリカが唯一の例である。

キューバ危機後にアフリカ統一機構(OAU)が出したアフリカの非核化に関する宣言に白人が支配する南アフリカは縛られなかった。むしろ反アパルトヘイト陣営との紛争が激しくなり、核兵器開発の徴候が見られた。1979年、アメリカ合衆国の人工衛星が南大西洋で2回の閃光を探知した事件は、南アフリカまたはイスラエルの核実験でなかったかと疑われた。いずれにせよ、南アフリカは核兵器を保有していた。1993年に、かつて6発ないし7発の核兵器を保有していた、と公表されたが、実は数十発のサッカーボール大の小型戦術核兵器であったとの証言がある[13]

アパルトヘイトの廃止は、核兵器がその役割を終えたことを意味した。1990年、フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領のもとで核兵器は解体された。翌年には核兵器不拡散条約への加入が閣議決定された。こうしたお膳立てができて1994年、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれた。アフリカ大陸全体の非核化は1996年に署名開放されたペリンダバ条約が実現した。 国力の強化を至上のこととする立場を採用すれば、核武装は一見、良い方法である。しかし、上の諸事例からうかがえることは、国民がそれで幸福になるのか?、自由になるのか?、非常に疑わしいということである。民主主義があるイスラエルとインドに関しては国防上、不可欠であり、国民を抑圧していない、という意見があるかもしれない。しかし、核武装によって安全保障が高まった証拠はない。北朝鮮、イラク、そしてリビアについては核武装の目的は国内での抑圧そのものにあるとしか考えられない。核兵器は国内外の矛盾を封じ込める手段であって、矛盾を解決する手段でない。矛盾を解決するほうが良い方法であることは言をまたない。


[1] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、256ページ。

[2] 長谷川和彦、レナード・シュナイダー原作、沢田研二、菅原文太、池上季実子、北村和夫、神山繁、佐藤慶、風間杜夫、『太陽を盗んだ男』、キティ・フィルム、1979年。

[3] “旧ソ連の科学者・技術者の流出に係る国際科学技術センター(ISTC)の協力・支援 (14-06-01-15),” 国立研究開発法人日本原子力研究開発機構, February 2008, https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-06-01-15.html, accessed on February 17, 2026.

[4] “板門店宣言全文,” 日本経済新聞, April 27, 2018, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29946230X20C18A4000000/, accessed on February 17, 2026.

[5] 吉田文彦、朝日新聞特別取材班、『核を追うテロと闇市場に揺れる世界』、朝日新聞社、2005年、15ページ。

[6] 下村恭民、中川敦司、斎藤淳、『ODA大綱の政治経済学』、有斐閣、1999年、135-136ページ。田中均、『外交の力』、日本経済新聞出版社、2009年、167ページ。

[7] 山崎雅弘、『中東戦争全史』、学習研究社、2001年、213ページ。

[8] テレビ朝日、朝日放送テレビ、「サンデープロジェクト」、2007年6月17日放送。

[9] ウィリアム・リバーズ、スコット・リッター、 『イラク戦争―ブッシュ政権が隠したい事実』、星川淳訳、2003年、50ページ。ジェシカ・スターン、『核・細菌・毒物兵器』、常石敬一訳、講談社、2002年。今井隆吉、『IAEA査察と核拡散』、日刊工業新聞社、1994年、82ページ。

[10] 中川喜与志、『クルド人とクルディスタン』、南方新社、2001年、35ページ。

[11] スターン、『核・細菌・毒物兵器』、58ページ。

[12] 吉田、朝日新聞特別取材班、『核を追う テロと闇市場に揺れる世界』、80ページ。

[13] 『朝日新聞』、2005年4月11日、朝刊。吉田、朝日新聞特別取材班、『核を追う』、89ページ。

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相互依存
https://youtu.be/UcDZSVV0yqc 関税は商品の代金とは別にかかる費用である。関税を下げれば、国境を越えて商品は移動しやすくなる。これが自由貿易の考え方である。自由貿易が行われる国々の住民は、余計な費用をかけずに商品を売ったり、買ったりでき、選択の自由は飛躍的に増す。 しかし、同じ商品を国内で作っていた業者にとっては、外国からより低い価格で商品が買えるとなると、自分が作ったものが売れなくなってしまう。輸…
脱植民地化
https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…
人身売買
https://youtu.be/hvD0L3wud-g どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともあ…
エスニック紛争
人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。 イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊…
覇権の衰退
https://youtu.be/6YeeFFKYP-o 紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経…

非核地帯

非核地帯とは核兵器の非武装地帯である。そこには核兵器はないので、核攻撃の発源地にはならない。この意味で平和に貢献するともいえるが、核攻撃の目標にはなりうるわけで、その抑止を希望するのであれば地帯外の国に抑止力を期待しなければならない。もちろん、抑止を希望しない場合にそうした必要はないが、被弾の不安がなくなることが条件である。不安を取り払うことは簡単でないわけで、やはり何がしかの努力が必要である。非核地帯を設けようとする場合に乗り越えなければならない課題とは何か議論しなさい、が今回のテーマである。

西ドイツを核武装させてよいのか?、が非核地帯が国際政治の争点になった端緒である。それをさせたくなかったのはソビエト連邦であった。西ヨーロッパで核拡散が広がれば、東西間のバランスが崩れてしまう。自陣営の衛星国に核武装を認め、力を持たせる気はさらさらなかった。

そうしたソ連の意向をくんでか、1957年10月、ポーランドの外相アダム・ラパツキが東西ドイツとポーランドをおおう非核地帯の設置を提案した。それでは西ドイツ側が受け入れなかろう、と推し量ってか、翌年2月、チェコスロバキアを含める第二次案をポーランドは提案した。これらがラパツキ案である。かいなく、次の月、西ドイツ議会は核武装を決議した[1]

事の展開を苦々しく眺めていたのはアメリカ合衆国である。もともと、ソ連は東西ドイツを統一して中立国にすることを求めていた。、チェコスロバキアとハンガリーが結局、共産化された教訓を踏まえて、アメリカ合衆国はソ連が統一ドイツに親ソ政権を樹立することを警戒した。

非核地帯提案への賛否を判断する4基準なるものをアメリカ合衆国は作成した。第1に、地域内からの発意であること、第2に、地域内の全国家が含まれること、第3に、軍事上のバランスを乱さないこと、第4に、適切な検証および査察の規定があること、である[2]。ラパツキ案については、3と4に難があった。第3の基準については、アメリカ合衆国は核兵器で西ドイツを防衛するつもりであったから、非核化によって核兵器を持ち込めなくなってはバランスが崩れてしまう。第4の基準に関しては、鉄のカーテンのなかに査察員を入れてもらえるとは信じなかった。

西ドイツが最終的に核の傘を受け入れたことは、アメリカ合衆国には望ましい結末であった。

最初の非核兵器地帯が設立されたのはラテンアメリカにおいてである。キーパーソンはメキシコの駐ブラジル大使アルフォンソ・ガルシアロブレスであった。出発点は1962年10月のキューバ危機である。ガルシアロブレス大使は非核化を呼びかけるラテンアメリカ5か国大統領の共同宣言を調整し、1963年4月に実現した。国連総会も秋にラテンアメリカ非核化決議A/RES/1911を反対票ゼロで採択した。外務次官となったガルシアロブレスはラテンアメリカ非核化準備委員会の議長となり、1965年に交渉が始まった。彼にはこの功績で1982年のノーベル平和賞が授けられた。

1967年、ラテンアメリカ核兵器禁止条約(現在はラテンアメリカ・カリブ核兵器禁止条約)が署名された。別名であるトラテロルコ条約は、アステカ文明の遺跡があるメキシコシティの一地区トラテロルコに由来し、アステカ時代は首都テノチティトランの隣町であった。

トラテロルコ条約は、その後の非核兵器地帯条約のモデルとなった。内容を挙げる。禁止されるのは、核兵器の実験・使用・製造・生産・取得・受領・貯蔵・設置・配備・所有・管理である(第1条)。適用地域は、西半球におけるアメリカ合衆国の大陸部分およびその領海を除くラテンアメリカ・カリブ境界内である(第4条)。ラテンアメリカ・カリブ核兵器禁止機関(OPANAL)がメキシコシティに設立され(第7条)、それを中心に締約国の義務履行を検証するための管理制度が設けられる(第12条)。IAEAと保障措置のための協定を締約国は結ぶ(第13条)。平和目的核爆発を行うための制度が設けられる(第18条)[3]

成功の鍵は、発効のためのユニークな手続きであった。初めはラテンアメリカには非核化に反対する国々があり、当面、加盟は見込めなかった。ガルシアロブレスは、そうした国々が入らなくても条約を発効させる条文を考え出した。建前では地帯内のすべての国とすべての核兵器国による批准を必要としたが、希望する国についてはただちに発効、という非常に甘い条件を認めたのである(第29条)。そのかいあって、メキシコは署名した年内にトラテロルコ条約を発効させた。遅れていたアルゼンチンについては1994年、キューバについては2002年に発効した。

もう一点、述べておかなければならないのは、核兵器国側が非核化を約束する附属議定書Ⅱである。核兵器国は、非核化を尊重し(第1条)、締約国にたいして核兵器を使用せず、威嚇しない消極的安全保証をする(第3条)。核兵器不拡散条約での義務と違い、適用範囲であるラテンアメリカとカリブには、核兵器の貯蔵も許されない。

キューバ危機では、ソ連の核ミサイルがアメリカ合衆国に向けられ、軍事的緊張が急上昇した。トラテロルコ条約はこの地域においてそうした核兵器の配備を防ぎ、緊張緩和に大いに貢献することになった。その価値はヨーロッパにおける中距離核戦力条約に匹敵した。両条約とも、核戦力の対峙を引き離す効果がある。ラテンアメリカ・カリブ地域に核の傘は差し掛けられていないものの、それは長距離核戦力の脅威がもともと存在しないからである。非核化はヨーロッパでは部分的、ラテンアメリカ・カリブ地域では全面的、と違いはあるが、共通点は少なくない。

他の地域でも非核兵器地帯が作られた。南太平洋非核地帯条約、すなわちラロトンガ条約、は1986年に発効した。放射性廃棄物の投棄の禁止を含むことが、核兵器だけを規制するトラテロルコ条約と異なる。そうなった背景には、フランスの核実験や日本の核物質投棄計画への反対があった。

東南アジア非核兵器地帯条約、すなわちバンコク条約、は1997年に発効した。中央アジア非核兵器地帯条約(セミパラチンスク条約)とアフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)はともに2009年に発効した[4]。これらすべてにおいて、核兵器国は消極的安全保証の約束をした。

ほかにも、モンゴルが一国で非核兵器地帯を宣言したものがあり、国連総会にも1998年に歓迎された(A/RES/53/77D)。2000年にモンゴル国会は非核兵器地帯の地位を国内法で定め、五つの核兵器国も非核兵器地帯を保証する共同宣言をした(A/RES/55/33S)。

構想段階のものとして、中東の非核化がある。こちらはイスラエルが事実上の核保有国であるうえ、イランがウラン濃縮を進めていて実現していない。

北東アジアの非核化も検討課題である[5]。日本は非核三原則を持つが、朝鮮半島の非核化は挫折している。台湾の位置づけも難しい。消極的安全保証をはじめ、中国が踏み込んだ約束をしなければバランスを欠いていると評価せざるをえない。

特定空間の非核化というものがある。1959年に署名された南極条約は南極での軍事基地の設置と核爆発を禁止する。宇宙条約(1967年署名)は宇宙への大量破壊兵器設置を禁止する。月協定(1979年署名)は、月における武力の不使用・不威嚇ならびに月軌道・月面上における軍事施設の不設置を定める。海底核兵器禁止条約(1971年署名)もある。

これらの非核化が進めば、将来、核保有国を除くすべての空間で核兵器がなくなるかもしれない。そうなれば、核保有国はそれらどうしで核戦争をするのであろうか? 核武装する意味を失った核保有国は自発的に核爆弾を捨てないであろうか? 楽しい空想にとどまらずに、ぜひ実現してほしい。


[1] 近藤和子、福田誠之郎編、『ヨーロッパ反核79-82』、新泉社、232、238-239ページ。

[2] Annex A “Criteria for Nuclear Free Zone,” in “Eighteen-Nation Disarmament Committee US Disarmament Measures Paper #20 Nuclear Free Zones,” January 27, 1964, p. 1; DEF 18-9 Demilitarized & Nuclear Free Zones, 1962-1964; Pol. Affairs and Relations China Nuclear Test to SP 1B Ban on Bombs U.S. and U.S.S.R., Box 7; Records Relating to Disarmament and Arms Control, 1961-1966; General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, MD.

[3] 藤田久一、浅田正彦編、『軍縮条約・資料集』、第3版、有信堂、2009年、282-287ページ。

[4] 梅林宏道編、『イアブック「核軍縮・平和2009-10―市民と自治体のために』、NPO法人ピースデポ、2010年、78-79ページ。

[5] 梅林宏道、『非核兵器地帯―核なき世界への道筋』、岩波書店、2011年、150ページ。

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暴力というものの定義は非常に広い。狭義には、物理的な、直接的な破壊行為、つまり刑法でいえば暴行罪、傷害罪、殺人罪、不同意わいせつ罪、不同意性交罪、あるいは器物損壊罪に当たるものである。問題なのは、どこまで定義を広げるかである。 著名な平和学者、ヨハン・ガルトゥング、は「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこ…

核の傘

旧約聖書に「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。」[1]という節がある。もちろん、武具を捨てて平和的な道具を作ることをいう。これをもじって、『鋤から剣へ―民生核エネルギーの軍事的潜在力』という本が1977年に著された。すでに1974年、インドが核実験を成功させており、さらに核武装を行う国が現れる、と懸念されていた。この本は、3~6発の核兵器を製造するのに必要なプルトニウムを持つ国として、西ドイツ、イスラエル、ベルギー、南アフリカ、そして日本を挙げた。イスラエルと南アフリカはすでに核武装していたであろう。平和目的の原子炉のなかでプルトニウムは生成される。著者たちは「有用かつ安全な核活動と危険な核活動を分ける明確な線があったなら、すばらしかったろう」と記した[2]

この本の著者の一人はアルバート・ウォールステッターであった。彼は核拡散を極度に恐れるネオコンまたは新保守主義の先覚者である。ランド研究所に籍を置いた経歴がある専門家でもある。ネオコンたちはしばしばまちがいを犯したものの、鋤から剣へ、の警告自体は正しかった。その一方で、現実の核拡散はネオコンたちが懸念した速度では進まなかった。今回のテーマは、核の傘の長所と短所について、核兵器の保有国と非保有国の立場に分けて論じなさい、である。

核の傘とは、核大国が同盟国に差し掛ける拡大された抑止である。傘の下は、抑止が効いていれば攻撃されないので安全かもしれない。万が一、攻撃されてしまったならば高確率で火の海である。傘とはいっても、それは物理的にミサイルから守ってくれるわけではない。敵にミサイルを撃たせない心理的な傘である。

1956年のスエズ戦争において、ソ連は核兵器を使う威嚇をした。「ロケット兵器がイギリスとフランスに使われたら、あなたはこれは野蛮な行為とでも呼ぶのでしょう」とアメリカ合衆国に書簡を送り、運河地帯に派兵をした英仏を止めさせた。ソ連の威嚇は政治指導者たちに瀬戸際外交の現実を知らしめた。西ヨーロッパで原爆を持っていたのはイギリスだけであった。

西ドイツのコンラート・アデナウアー首相は核武装に傾いた。同国の科学者たちは異を唱え、「ドイツ軍を原子兵器で装備する計画は、下記に署名する原子科学者の憂慮に堪えない」と1957年4月、ゲッティンゲン宣言を発表した。「われわれは、水素爆弾に対する東西両陣営の恐怖の念が今日全世界の平和と一部における自由とを維持することに根本的に寄与していることを否定するものではない」と、核抑止により西ドイツの自由な体制が守られていることを理解していた。「西ドイツのごとき小国にとっては、今日明確に、かつ、自発的にすべての種類の原子兵器の所有を断念することが最もよく国を護り、世界の平和を促進する途であると信ずる。」と西ドイツの核武装を支持しなかった。同時に、原子力の平和利用はむしろ推進するつもりであると強調したが、中心となったのは不確定性原理で有名な物理学者ベルナー・ハイゼンベルクであった[3]

核武装を西ドイツは実行しなかった。西ベルリン市民はソ連に人質にとられていた。強引に核武装すれば、災難は西ベルリン市民のうえに降りかかったろう。

フランスはスエズ戦争で撤退し、アルジェリア戦争で苦しんだ。1960年、原爆実験に成功した。指導力に欠けた第四共和政を廃したシャルル・ドゴール大統領は国家威信を回復する目的で核武装を利用した。

しかし、多くのNATO加盟国は核保有をしなかった。米英仏は核保有国であり、西ヨーロッパの防衛のためにはNATO軍として核兵器も使うと言っている。保有していない加盟国が要求すれば、この3国は核攻撃をしてくれるのか? 核兵器の引き金を引くかを決める権利は、やはり3国だけが持つのでないか?

1962年、核戦力を加盟国が提供し、それを共同の指揮系統のもとに置く多角的核戦力(MLF)をNATOに設けることで米英が合意した。ところが翌年、これが編成された際に、フランスは参加しなかった。

ついに1966年、フランスはNATOの統合軍事機構から離脱した。NATOに加盟したままで、共同防衛に参加することは変わりない。しかし、フランス軍を外国人の指揮下には入れないし、外国軍が国土に駐留することもない。NATOの本部はパリからブリュッセルに移転した。フランスが軍事機構に復帰したのはニコラ・サルコジが大統領を務めた2009年になってからであった。

1970年代、米ソの長距離核戦力に上限が設けられた一方、中距離核戦力の強化が図られた。1977年にソ連のミサイルSS-20が配備される見通しであることがNATOで報告され、危険性が認識され始めた。やはり中距離の航続距離を持つバックファイア爆撃機も就役し、脅威を高めた。米ソ間のMADによって戦争は相互抑止されているはずであるのに、西ヨーロッパでは核戦力が増殖する奇妙な状況になった。

1977年、西ドイツのヘルムート・シュミット首相はデカプリングのおそれを指摘した。デカプリングとは、核保有国が同盟国への拡大抑止をとりやめることである。アメリカ合衆国に置かれたICBMは、ヨーロッパの都市や軍隊が核攻撃を受けても、報復攻撃してくれないかもしれない。ソ連もあえてアメリカ合衆国の本土に核攻撃を加えて、自領への報復を招くことは控えるであろう。米ソの間でそうした暗黙の合意ができてしまえば、廃墟となるのはヨーロッパだけである。

折しも交渉中のSALT IIでは、SS-20やバックファイアは規制の外になり、ソ連の中距離核戦力が一方的にヨーロッパを攻撃できる事態になりかねなかった。シュミットの指摘に、米ソも耳を傾けなければならなかった。SALT IIのもと、バックファイア爆撃機の生産を制限する、とソ連は声明したものの、SS-20は依然、規制の外であった。

NATOの二重決定は、SS-20とバックファイアにどう対応するかの答えであった。それは1979年12月の外相・国防相会合で行われた二つの決定である。第1の「近代化」とは、アメリカ合衆国の中距離核ミサイル、パーシングⅡ、のヨーロッパへの配備である。第2の「軍備管理」は、中距離核戦力の制限交渉を始めることである[4]

中距離核戦力の軍備管理交渉は1981年に開始され、1987年、それを全廃する中距離核戦力条約(INF条約)が署名された[5]。その間、ヨーロッパでの核戦争が本気で恐れられた時期があり、交渉が急進展したのはミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者に就いてからであった。

30年間、安心をもたらした中距離核戦力条約は2019年、アメリカ合衆国のドナルド・J・トランプ政権による通告に基づき失効した。安全保障担当補佐官であったジョン・ボルトンは述べる。

肝心なのは、INF条約に縛られている国が2カ国だけで、そのうちの一国が不正に違反を繰り返していた点だ。中距離ミサイルの開発が事実上阻まれているのは、世界でただ一国、すなわち米国だけだった。1980年代半ばにこの条約が発効した時点ではこの条約の存在は有意義なものだったとしても、現在ではすっかりその意味が失われている[6]

核の傘または拡大抑止についてのまとめをする。核保有国にとっての長所は核拡散を防ぎ、核の寡占を維持できること、短所は他国の核戦争に巻き込まれるリスクがあることである。

非核保有国にとっては、他国の抑止力に依存でき、核拡散を防いで世界平和に寄与するという長所が核の傘にある。短所では、第1にデカプリングのリスク、第2に同盟国への従属、第3に核廃絶の失速、が挙げられる。

日本の非核政策は西ドイツのものと重なる。ともに第二次世界大戦の敗戦国であり、平和国家である。1947年に施行された日本国憲法の第9条2はこう定める。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

平和憲法を持ちながら核兵器を持つことはできるであろうか? 固有の権利である自衛権の範囲のなかで、上陸してきた敵を水際で核防衛することは可能という人もいるかもしれない。

歴史的に、核武装にかぎらず、専守防衛を広く解釈することには自制が働いてきた。敵基地攻撃論に関して、1956年に社会党の石橋政嗣は「敵の基地から攻撃を受けた場合、報復攻撃はできるのか」と衆議院防衛委員会において質問した。防衛庁長官の船田中は、外国にある「敵の基地を攻撃することは憲法違反ではない。しかし、基地を攻撃するための長距離ミサイルや爆撃機を保有することは憲法に反する」と答えた。鳩山一郎総理大臣は「困りましたね。ミサイルを空中でぱっと受けとめる手はないですかね」とお茶を濁すしかなかった[7]。本音では、報復攻撃は日米安保条約のもと米軍の仕事であって、自衛隊が立ち入れる範囲ではない、という感覚があったろう。

他方、原子力発電では、自主が唱えられた。物理学者の武谷三男が1952年に示した原子力三原則、すなわち「自主、公開、民主」、が大きな影響を与えた。翌年のドワイト・D・アイゼンハワー大統領によるアトムズ・フォー・ピース演説は、各国による原子力の平和利用を援助するという意味で、自主の流れの追い風となった。アメリカ合衆国が日本に核物質を提供する枠組みである日米原子力協定が結ばれた1955年、読売新聞の主催により東京で原子力平和利用博覧会が開かれ、世論が盛り上がった[8]

その直後の1955年12月、原子力三原則を盛り込んだ原子力基本法と原子力委員会及び原子力安全委員会設置法が公布された。「公開」と「民主」という原則は、原子力委員会の任命に衆参両院の同意が必要という規定に反映された。1958年には、日米動力協定と日英動力協定が結ばれた。東海村で、コールダーホール型の原子炉が運転を始めたのは1966年のことであった。

発電が自主であれば国防は従属であった。中国の原爆実験は1964年であった。翌年、アメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領は日本にたいする核の傘を保証している。当時の池田勇人と佐藤栄作という二人の総理大臣はともに本心では核武装を望み、合衆国側にもそれを隠さず、それがジョンソンの発言につながったという[9]。これは不拡散政策を具申した1965年のギルパトリック報告書と同時期であり、核武装の企てはまったく手遅れであった。

1967年12月、佐藤栄作総理大臣は「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まない」と声明した。保有と製造の否定は、翌年の核兵器不拡散条約が求めるところでもあるので不思議はない。問題であるのは「持ち込まない」である。それはすでに署名が始まっていたラテンアメリカにおけるトラテロルコ条約なみに日本を「非核地帯」にするのに前向きである。

誰の核兵器を持ち込まないのか?、と問われれば、米軍のものとしか考えられない。米軍はどこで核戦争をするのか?、と問われれば、それは日本の領域ではなく、朝鮮半島か、台湾海峡か、インドシナ半島かである。その場合、日本は後方支援の拠点であり、核兵器は軍艦に載せたままで、横須賀なり、佐世保なりに寄港するだけでよかった。寄港は「持ち込み」ではない、というのが政府の見解で、その点は他の地域、例えばトラテロルコ条約のラテンアメリカ、でも曖昧である。

つまり、「持ち込み」は米軍の問題で、日本にとっての関心事でない。それでいて、日米安保条約があるので、日本政府としてはアメリカ合衆国の要求に従わざるをえない。万が一、国土を守るために米軍の核兵器を使うとしても、非核三原則は法律でないので、やめてしまえばそれまでだ、という心づもりであったにちがいない。

そうしたプラグマティック(実際的)な姿勢が実は問題である。日本政府の側に、なぜ外国の核兵器を国家主権にかけて領土に置かせないのか、の理由がない。核兵器は敵の核兵器の標的になることが隠されている。

佐藤栄作は非核三原則によって1974年にはノーベル平和賞まで与えられた。非核三原則の表明は、彼を国内政治の風圧から救ったであろう。1968年、米海軍の原子力空母エンタープライズが佐世保に入港することに反対し、激しい学生運動が起きた。学生たちにとっては細かいことを抜きに、ベトナムの人々を苦しめている米軍に加担することは、闘って阻止しなければならなかった。反米的な風潮に政権が対抗するには、非核三原則が風よけになった。

沖縄への持ち込みの密約はプラグマティズムが著しく現れた例である。1967年に日米首脳会談で沖縄返還が決定し、1969年に、有事における沖縄への核兵器持ち込みの密約があったとされる。当の密約とは、佐藤の密使としてアメリカ合衆国と交渉した大学教授の若泉敬が証言した合意議事録のことである[10]

証言された合意議事録と佐藤栄作の遺品から見つかった合意議事録とはほぼ同一であった[11]。遺品の合意議事録には、極東諸国の緊急事態に際し、米軍が当時の「核兵器貯蔵地である沖縄の嘉手納、那覇、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズ基地」を使うことができる、と書かれている。

有事に、武器のストックを戦地の周辺に置いておきたい、とか、沖縄の米軍基地に飛来する弾道ミサイルを迎撃するために核弾頭が必要だ、といった米側の希望を佐藤は受け入れたのであろう。署名の日の彼の日記には「後は後世史家の批評にまつのみ。」と書いてある[12]。1971年に沖縄返還協定が結ばれ、翌年、沖縄は返ってきた。佐藤はプラグマティズムの人であるので、しばらくは沖縄返還の祝賀気分が密約の噂をかき消してくれる、と見越したのであろう。

1968年1月、佐藤栄作総理大臣は核軍縮、核抑止への依存、そして原子力の平和利用を非核三原則に加えた四本柱を主張した。同じ年の7月に採択される核兵器不拡散条約と「持ち込まない」の突出を除けばこれは一致する。

非核兵器国の地位に甘んじたくないという反発が政府内でくすぶっていた。外務省は同じような立場にある西ドイツ政府に、非核兵器国の地位が固定化されることから生ずる懸念をぶつけてみた。1980年ごろまでに起こりうる事態として、インドの核武装と米中接近を挙げた。それらは条約から脱退する権利を与える至高の利益を危うくする事態である、と日本側は述べた[13]。インドは関係あるのか? 米中接近は国益を害するのか? これらの理由で核武装するのは無理筋であろう。

核保有への未練は政府内で消えなかった。核兵器不拡散条約採択の前年、それが禁止する平和目的核爆発を実施したいと外務大臣がアメリカ合衆国側に語ったという[14]。防衛庁長官は核武装の可能性を庁内で議論させた。中曽根康弘の回顧録から引用する。

私が防衛庁長官をやっていた一九七〇年、いまから三十年以上も前のことですが、実は日本の核武装の可能性について研究させたことがあります。当時、伊藤博文の孫が防衛庁の技官としてこの問題について一番勉強しているというので、彼をチーフにして専門家を集め現実の必要を離れた試論として核武装をするとすれば、どれぐらいのお金がかかるか、どのぐらいの時間でできるかといった日本の能力試算の仮定問題を中心に内輪で研究させたのです。

その結論は、当時の金で二千億円、五年以内でできる、というものでした。ただし、日本には核実験場がありませんでした[15]

誰から日本を守るため、米軍の核の傘が必要であったのか? 冷戦中はソ連であったろうか? 第三次世界大戦の危機は現実とも幻想とも正体がつかめないものであった。具体的な日ソ間の紛争とは、こちらから北方領土を奪回しないのであれば何があったのか?

現在の中国に関しては、尖閣諸島や東シナ海に具体的な緊張の要因がある。台湾や東南アジア諸国に肩入れして、中国との紛争に巻き込まれることも考えられる。中国は、毛沢東が「中国はズボンをはかなくても核を持つ」と言ったとされるほど核兵器にこだわりを持つ[16]。アメリカ合衆国と中国は核ミサイルの照準を相互に外すことに1998年、合意したというが、それは一昔前のことである[17]。習近平国家主席の時代になり、中国は空母も核ミサイルも増やしている[18]

通常兵器には通常兵器で備える手だては日本にあるが、核兵器には立ち向かいようがない。戦略核戦力には、日米安全保障体制のもとでの核の傘に依存するが、そもそも米中の撃ち合いである。他方、中距離核戦力を使う交戦では、日本は戦場の一部になる。台湾有事にアメリカ合衆国が軍事介入すれば、米軍基地がある日本は自動的に巻き込まれる。かつてのヨーロッパをめぐる論争を踏まえれば、中距離核戦力は本質的に危険である。敵のミサイルが着弾するまでの時間的余裕がなく、抑止は信用できない。

日本の国益は核軍縮・軍備管理にあるにもかかわらず、それに慎重な意見がある。佐藤行雄元国連大使は自著のなかで、「国の安全保障に不可欠な拡大抑止の効果を弱めないように注意していくことも、日本の核軍縮外交の重要な課題だ。」と書く[19]。確かに、米中をライバルと見る時、アメリカ合衆国の側が一方的に核兵器を減らせば、日本の安全保障を損なうであろう。

では将来、米中の積極的安全保証と消極的安全保証のもとで、両国を除く東アジアが非核化する動きが出た場合、日本は反対するべきであろうか? 軍縮に反対する論者は、日本はデカプリングされ、核の傘は外される、と言うであろう。しかし、中距離核戦力以外によって、日本が核兵器の標的となる状況はかなり特殊な場合と考えられる。

ここで想起されるのが1994年に国連総会が核兵器使用の違法性についての勧告的意見をICJ(国際司法裁判所)に求めた際の日本政府の陳述書である。なぜか、当初は違法性を否定していた。梅林宏道は、核兵器の使用は「「実定国際法に違反するとまでは言えない」と、結局は削除に追い込まれた部分を、なぜ外務省条約局長は書きたかったのだろうか。それは、「核の傘」を守り、アメリカを守るために必要であったからである。」[20]と分析する。

米中ともに、核兵器を維持したいばかりか、使う権利も維持したいと考えている。核不拡散レジームにおける核兵器国の責任感というものが欠けている。 核戦争を戦うことを前提に、そこから逆算して安全保障を追求すれば、軍縮の可能性はほとんどない。国防の最終段階における自衛権の行使は否定しないが、ふだんは他国と軍事的緊張に陥らないよう相互に間合いをとり、方向を調整するほうがむしろ国防の強化になる。喩えるなら、終末時計を逆回転させるような達観した外交ができるという意味での「自主」であれば歓迎できる。


[1] イザヤ書、2、4。

[2] Albert Wohlstetter, Thomas A. Brown, Gregory Jones, David C. McGarvey, Henry Rowen, Vince Taylor, and Roberta Wohlstetter, Swords from Plowshares: The Military Potential of Civilian Nuclear Energy (Chicago: The University of Chicago Press, 1977), pp. 16 and 47.

[3] 久野収、『核の傘に覆われた世界』、平凡社、1967年、345-347ページ。

[4] 佐瀬昌盛、『NATO―21世紀からの世界戦略』、文芸春秋、1999年。

[5] シベリアおよび極東では中距離核戦力は半減で済まされるというのが、交渉途中での見立てであった。ソ連全土において全廃されることになったのは日本政府の要求によるとされる。五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編、『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』、朝日新聞出版、2008年、149-150ページ。

[6] ジョン・ボルトン、『ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日』、梅原季哉、関根光宏、三宅康雄訳、Kindle版、朝日新聞出版、253-254ページ。

[7] 石橋政嗣、『「五五年体制」内側からの証言』、田畑書店、1999年、101-102ページ。

[8] 日本放送協会、「BS1 スペシャル 核の“平和利用”知られざるもうひとつの東西冷戦」、2014年11月30日。

[9] 松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、194-195ページ。

[10] 若泉敬、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』、文芸春秋、1994年。有識者委員会、「いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告書」、外務省、2010年3月9日。

[11] 外務省の公文書から合意議事録は発見されていない。

[12] 伊藤隆監修、『佐藤栄作日記』、朝日新聞社、1998年、539ページ。

[13] 「“核”を求めた日本」報道において取り上げられた文書等に関する外務省調査報告書」、外務省、2010年11月29日、2ページ。

[14] 『日本経済新聞』、朝刊、2012年8月1日。

[15] 中曽根康弘、『自省録 歴史法廷の被告として』、新潮社、224-225ページ。

[16] 防衛システム研究所編、『核神話の返上』、内外出版、2009年、63ページ。

[17] 五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編、『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』、朝日新聞出版、2008年、149-150ページ。

[18] 防衛省、『令和2年度版防衛白書』、2020年、63ページ。

[19] 佐藤行雄、『差し掛けられた傘 米国の核抑止力と日本の安全保障』、 Kindle版、時事通信、2017年、Kindleの位置No.2846-2847。

[20] 梅林、『非核兵器地帯―核なき世界への道筋』、131ページ。

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核軍縮・軍備管理レジーム

唯一の被爆国である日本は核軍縮から腰が引けていて、「究極的廃絶」とか、「現実的かつ漸進的なアプローチ」とか、「実際的かつ効果的な措置」とか唱えている。一歩ずつ進んでいこう、という趣旨であろうが、日暮れて途遠しの喩えどおり、ゴールにたどり着くか疑わしい。その点では、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領が唱えた「核兵器のない世界」も大差なかった。日米の核軍縮政策の実態は、廃絶でも虐殺でもなく、「核兵器とともに生きる」といったところである[1]

冷戦後、核軍縮が進まないことにしびれを切らし、核保有国に廃絶を実行するよう要求した諸国は新アジェンダ連合と称した。ブラジル、エジプト、アイルランド、メキシコ、ニュージーランド、スロベニア、南アフリカ、そしてスウェーデンがそれであるが、スロベニアとスウェーデンは抜けてしまった。

今回のテーマは、核兵器廃絶と既存の軍縮・軍備管理レジームとの関係について論じなさい、である。それらのレジームがすべて前進すればいつか廃絶は可能かもしれない、と希望を抱かせる。しかし、歴史が教えたことはこれまでの道のりの困難と、持ち続けたい核保有国の執念であった。

ビキニ環礁での水爆実験はヒロシマとナガサキ以来、初めての大規模な民間人の被害を伴った。1954年に起きた放射能汚染によって、島民は病気や死に苦しみ、別の島に移住し、その後、帰ることはできなかった[2]

この惨事は日本で第五福竜丸事件として知られる。第五福竜丸は東京都の夢の島に打ち捨てられ、のちに建てられた展示館に今も保存されている。もともとマグロ漁船で、静岡県の焼津が母港であった。ビキニ環礁付近で操業中、放射性降下物を浴び、船員に脱毛などの症状が出た。この年のうちに、1名が死亡した。放射線被曝は新聞やニュース映画で報道され、日本各地で核実験禁止の署名運動が行われた[3]

文化をつうじても、放射能の恐怖は広まった。1959年の映画『渚にて』は、第三次世界大戦で絶滅寸前の世界が舞台である。シアトルも放射線によって死に絶えたはずであったが、そこから電信が送られてくる。内容は意味不明である。かろうじて人が生きているオーストラリアから調査団が派遣された。彼が見たものは……、というのがあらすじである。

日本では、井伏鱒二による小説『黒い雨』が1965年に出た。広島で起きた実話に基づいて被曝による体の変調を描く。中学や高校の教科書にも採用され、悲惨さを人々に知らしめた。今村昌平監督によって1989年に映画化された[4]

放射線への恐怖は全世界的に大気圏内核実験への向かい風となった。1958年にソ連が始めた核実験の一時停止にはアメリカ合衆国も追随し、1961年にソ連が再開するまで続いた。他国を畏怖させる示威効果のメリットを、国際世論を険しくするデメリットが上回った。

1963年に部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名・発効されたのは、放射線への恐怖感が原因であった。この条約は大気圏内、宇宙空間、そして水中での核実験を禁止したものの、地下核実験は禁止されなかった。

核実験を行えば、地震波なり、放射線なり、閃光なり、チリの発生なりで事実を隠すことができない。これが条約遵守の検証をたやすくし、部分的核実験禁止条約の締結につながった。ソ連水爆の父、アンドレイ・サハロフ、は次のように条約を評価する。

私は、部分的核実験停止条約が歴史的意義を持っていると見ている。この条約は、もし大気圏、水中、大気圏外で核実験が続行された場合犠牲となるであろう数十万、おそらくは数百万の人命を救ったことになる。だがもっと重要なことは、おそらくこの条約が熱核戦争の危険回避への第一歩であったことである。私は、この部分的核実験停止条約に自分が関係したことを誇りに思っている[5]

地下核実験は冷戦中は継続された。冷戦が終結して、ようやく大国は重い腰を上げ、1990年末のソ連を皮切りに、中国を除く国連安保理常任理事国が核実験モラトリアムに入った。

日本も1992年に閣議決定した政府開発援助大綱(ODA大綱)において、大量破壊兵器およびミサイルの開発・製造には注意を払うとした。ところが、中国は1995年の5月と8月に核実験を行った。日本は無償資金協力の凍結を決定した。翌年、中国は実験はあと2回でやめることを事前通告した[6]。日本の圧力が効いた背景には、まだ中国が日本の援助を必要としていたこともあったが、核実験への風当たりが世界的に強まっていたことが決定的であった。

包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択は、核兵器国と非核兵器国とのギブアンドテイクの産物であった。1995年に発効25年を迎える核兵器不拡散条約を、核兵器国は無期限に延長したかった。非核兵器国は、持つ国々の核実験を苦々しく眺めてきた。双方は譲歩して、核兵器不拡散条約を無期限延長する代わりに、包括的核実験禁止条約を採択することにした。

1996年に国連総会で採択された包括的核実験禁止条約は未発効である。核兵器国の核実験は止まっているので、条約の精神だけは尊重されていると言うことはできる。

包括的核実験禁止条約は「核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を実施」しないと約束する条約である(第2条1)。核兵器の実験は禁止されるが、実戦における核爆発は禁止されない。ほんのわずかなエネルギーを放出する流体核実験は禁止される。平和目的爆発も禁止される。爆発を伴わないで核分裂性物質の挙動を観察する「未臨界実験」には沈黙し、見解の相違がある。アメリカ合衆国は条約採択の翌年、採択後初の未臨界実験を行い、広島市長はこれに抗議した[7]

未発効といえども、包括的核実験禁止条約機関準備委員会(CTBTO)がすでにウィーンに存在し、発効後には包括的核実験禁止条約機関(同じくCTBTO)になる予定である。CTBTOはIAEAと協力しながら核実験を検証することになるが、監視の方法には地震波、放射性核種、水中音響、そして微気圧変動の観察がある[8]

包括的核実験禁止条約の発効が容易でないのは、要件として、指定された44か国すべての批准が必要とされるからである。うち未批准国は2025年8月現在、北朝鮮、中国、イスラエル、イラン、インド、パキスタン、アメリカ合衆国、ロシア、そしてエジプトの9か国である[9]

包括的核実験禁止条約発効要件国の不批准国は三つのグループに分けられる。一つは五大国であり、アメリカ合衆国・中国・ロシアである。二つ目は事実上の核保有国であり、核武装を自国の権利と考えている。最後のイランとエジプトは不保有国で、イスラエルにこれ以上、出し抜かれることを潔しとしない。三つのグループを批准させるには、強い平和の風が吹かなければならない。十年、数十年、半世紀、待ってみる価値のあることである。

カットオフ条約、あるいは核分裂性物質生産禁止条約、はつぎに作られるべきレジームとして長らく語られてきた。それは核兵器の材料となる高濃縮ウランとプルトニウムの生産を禁止するものである。核保有国といえども、手持ちのウランやプルトニウムがなければ、さらに爆弾を作ることができない。非核保有国がそれらなしで核武装できないのはもちろんである。とはいえ、核保有国を増やさないという目的のためには、すでに核兵器不拡散条約が存在する。カットオフ条約まで作る意味はあるのか?

ウランを濃縮したり、使用済み核燃料からプルトニウムを再処理したりすることは、アチソン・リリエンソール報告以来、原子力国際管理または核兵器不拡散の観点において、危険な活動に分類されてきた。ところが、核兵器不拡散条約はそれらの活動を禁止しない。単に、非核兵器国はIAEAと協定を結び、保障措置を受けることを約束する。核兵器国に至っては、IAEAの査察さえ受けない。多国間条約によって、ウラン濃縮とプルトニウム分離に強い規制をかけることがカットオフ条約の狙いである。

カットオフ条約の目的自体に異議はないが、物事には優先順位というものがある。カットオフ条約より厳しい義務を課すわけでない包括的核実験禁止条約さえ、まだ発効していない。ウラン濃縮とプルトニウム分離を国家主権の一部と主張する諸国を説得するのは並大抵でない。包括的核実験禁止条約の発効をタイムテーブルの先頭に置き、カットオフ条約はその次でよいのでないか。

さて、核軍縮・軍備管理の最も華やかな成果は、超大国間のそれであった。超大国というのは米ソまたは米ロのことである。2国は地球上の核兵器の大半を保有し、それらが合意すれば大量の核兵器を削減または規制できる。

最初の核軍備管理レジームはPTBTでなかった。キューバ危機によって核戦争が不可能であると判明した翌年の1963年、PTBTに先んじて結ばれた米ソのホットライン了解覚書がそれである。ホットラインといっても、ホワイトハウスとクレムリンとの直通電話でなく、テレタイプといってタイプライターで打った文字が電送され、印字される方法であった。スマートフォンのショートメッセージと似ている。目的は偶発的な交戦やそのエスカレーションを防ぐことである。

核軍拡が極限に達すると、これ以上の軍拡は無意味、というオーバーキル論が米ソ間で共有されるようになった。たがいに敵を殺し尽くすだけの兵器は持っているのであるから、不合理な軍拡をやめ、兵器の制限や削減をしよう、という結論に双方が至る。パリティが崩壊して情勢が不安定化する忌まわしい事態を防ぐ意義もある。

MADレジームの考えを条約にしたものがSALT I、すなわち第一次戦略兵器制限条約、である。署名は1972年であった。制限されたのは発射基の数であり、弾頭や重爆撃機の数は制限されなかった。それゆえ、1発射基あたりの弾頭数を増やせるMIRVと重爆撃機は有利であった。両機種に強いアメリカ合衆国にとって有利な条約であった。

「アメリカ側の資料では、米ソ両国は相手をいく度も破壊し尽くすほどの武器を準備しました」とリチャード・M・ニクソン合衆国大統領が言ったのを受け、「われわれも同じ結論に達しました」とソ連共産党のレオニード・ブレジネフ書記長が返した[10]。双方が核戦争で「勝つ」ことをあきらめ、戦略的安定性を共通の利益としたからこそ、MADレジームであるSALT Iに合意できた[11]

戦略的安定性を脅かしかねない一つの要因が、敵の弾道ミサイルを迎撃するABM(弾道弾迎撃ミサイル)であった。ABM条約はSALT Iと同じ日に署名された。米ソそれぞれ、首都周辺に100基、そしてICBMサイト周辺に100基、と、配備できるABM数を制限する内容である。当初は2か所であった配備地は、のちに1か所に減らされた。アメリカ合衆国がICBMサイト周辺を、ソ連がモスクワ周辺を選んだことは言うまでもない。

サハロフによると、ABMにソ連が見切りをつけた理由は二つあった。一つは、核ミサイルの迎撃を失敗させる技術的な方法が低費用でいくつもあることである。囮をバラまくのが代表的な方法である。もう一つは、ABMで敵の攻撃から守り切ることができるのであれば、MADが成立しなくなるからである[12]

1979年には、SALT II(第二次戦略兵器制限条約)が署名された。ところが、アメリカ合衆国の議会が批准しなかったため、不発効に終わった。その年末に始まったアフガニスタン侵攻がソ連への悪感情を高めてしまったからである。米ソ関係は新冷戦と呼ばれるまでに冷えこんだ。1年後に就任したロナルド・レーガン合衆国大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだ。

ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長の登場が事態を動かした。1987年、中距離核戦力条約(INF条約)が署名された。それは一つの武器種を「制限」から「削減」を超えて「全廃」までしてしまった。双方の信頼感は高まり、冷戦の終結につながった。アメリカ合衆国の通告に基づき、中距離核戦力条約が失効したのは2019年であった。

START I(第一次戦略兵器削減条約)は1994年に発効してから2009年に失効するまで、15年間の長きにわたって核軍縮レジームの屋台骨であった。米ソはそれまでおのおの1万発くらいの核弾頭を持っていたのを、6,000発に削減することに合意した。この条約にゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ(父)が署名したのは1991年であり、その年のうちにソ連が崩壊したため、ロシアだけが新独立諸国のなかで締約国となった。ベラルーシ・カザフスタン・ウクライナに配備されていた核兵器は、すべて撤去された。

START II(第二次戦略兵器削減条約)は核弾頭をさらに3,000~3,500発まで削減するため、米ロが1993年に署名した。当時は大ニュースであったものの、発効には至らなかった。

2002年のモスクワ条約は、SORTとも、戦略攻撃兵器削減条約とも称される。アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)大統領とロシアのウラディミル・プーチン大統領が署名した翌年に発効した。戦略核弾頭を2012年末までに1,700~2,200発へと大幅に削減するものであったが、これには裏があり、外した核弾頭は貯蔵でき、2013年以降は再配備できるとなっていた。新STARTの発効によってモスクワ条約は効力を失った。

新STARTは新戦略核兵器削減条約とも呼ばれる。START Iが失効した翌年の2010年に、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領とロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領が署名し、翌年、発効した。双方が核弾頭を1,550発に削減した。ウクライナ戦争によって米ロ関係が悪化し、アメリカ合衆国は無規制な中国の核兵器に不満であったことから、2026年に新STARTを失効させた。

前途は不安であるものの、現在まで米ロの戦略核兵器は削減される趨勢にある。最終的に、それらは廃絶されるのであろうか? それとも、ある一定数で固定されるのであろうか? 一定の数で固定されるとすれば、抑止またはMADに必要な数が目標水準の有力候補であろう。そうした弾頭数を見積もる試みは以前からあった。

例えば、このように考える。軍事目標、産業目標、そして予備戦力を積算すると、500~750発の核弾頭が必要である。奇襲攻撃によってそれらが破壊されることを考慮した保険措置として同数の弾頭を持っておく。1,000~1,500発が抑止に必要な数ということになる[13]。興味深いことに、これは新STARTの定める数とほぼ一致する。

核廃絶、あるいは核兵器のない世界、への道には、進歩的アプローチと包括的アプローチがあるとされてきた。進歩的アプローチとは、核不拡散レジームのような既存の諸レジームのもとで核兵器廃絶の目標に向かうものである。核兵器が非常に少量になった「最少化点」に到達してから、「グローバル・ゼロ」のための実効的な検証措置を備える核軍縮枠組みを検討することになる。これはアメリカ合衆国とその同盟国が支持している。包括的アプローチとは、廃絶までの諸局面を定める1本の包括的核兵器条約を交渉するものである。推進してきたのはコスタリカである[14]。言うまでもなく、後者のアプローチの結末が2017年に採択された核兵器禁止条約である。

アメリカ合衆国側と核兵器禁止条約側との対立は当分なくなりそうもない。米ロばかりでなく、英仏、そして中国が核兵器削減に合意するのは、CTBTを発効させるよりも難しい。

国際政治の順風が吹くのは「百年河清をまつ」より遠い未来であるかもしれない。それは人間の意思の力と科学の力との力比べである。核兵器を無能かつ陳腐にする兵器が発明されれば、人類は核兵器を棄てるであろうからである。廃絶でもなく、発明でもない可能性がある。それは人類が絶滅している場合である。


[1] Albert Carnesale, Paul Doty, Stanley Hoffman, Samuel P. Huntington, Joseph S. Nye, Jr., and Scott D. Sagan, Living with Nuclear Weapons (New York: Bantam Book, 1983).

[2] Howard French, “Dark Side of Security Quest: Squalor on an Atoll,” New York Times, June 11, 2001, p. 3.

[3] 第五福竜丸平和協会編、『母と子でみる第五福竜丸』、草土文化、1985年、17ページ。

[4] 井伏鱒二、『黒い雨』、新潮社、1966年。今村昌平、井伏鱒二、石堂淑朗、飯野久、田中好子、北村和夫、市原悦子、原ひさ子、『黒い雨』、東映、1989年。

[5] アンドレイ・サハロフ、『サハロフ回想録』、上、金光不二夫訳、中央公論新社、2002年、376ページ。

[6] 下村恭民、中川敦司、斎藤淳、『ODA大綱の政治経済学』、有斐閣、1999年、134-135ページ。

[7] “アメリカの臨界前核実験に対する抗議文(1997年7月3日),” 広島市, April 4, 2025,  https://www.city.hiroshima.lg.jp/atomicbomb-peace/1036662/1003073/1026932/1008481.html, accessed on February 16, 2026.

[8] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年、84ページ。

[9] 外務省, “CTBT署名・批准-地域別の状況,” August 2025, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000021240.pdf, accessed on February 16, 2026.

[10] アンドレイ・グロムイコ、『グロムイコ回想録』、読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年、424ページ。

[11] 斎藤直樹、『戦略兵器削減交渉―冷戦の終焉と新たな戦略関係の構築』、慶応通信、1994年、33-34ページ。

[12] サハロフ、『サハロフ回想録』、上、371ページ。

[13] 小川伸一、『「核」軍備管理・軍縮のゆくえ』、芦書房、1996年、313ページ。

[14] A/71/371, para. 33-46,

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