地域主義はグローバリズムの対義語である。また、それはナショナリズムの対義語でもある。かつて地域主義の指導者であったアメリカ合衆国は、いつの間にかグローバリズムの指導者になってしまった。初期の合衆国は当時の世界でも珍しい共和主義または民主主義の政治体制であったが、小国がイギリスやフランスといったグローバルな大国に対抗するため、弱い仲間どうしまとまろうとしたのが地域主義の始まりである。今回のテーマは、アメリカ13植民地が独立して以来の米州における地域主義について論じなさい、である。
アメリカの13の植民地が1776年に独立宣言を発した。翌年に採択した連合規約は1781年に発効し、ユナイティッド・ステイツ・オブ・アメリカが誕生した。独立した主権国家の集まりであれば、合衆国でなく諸国連合や諸邦連合と呼ぶべきでないか? 諸邦代表からなる連合会議は国連総会のようであり、執行権を行使する連合委員会は国連安保理のような合議体であった。
もっとも外交では、アメリカ諸邦連合は国家連合よりも一つの国家に近く、ベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファーソンら共通の外交使節を派遣した。イギリスとの平和条約である1783年のパリ条約に署名したのはそれぞれの邦ではなく、連合の代表3人であった。
アメリカ合衆国憲法が1787年に採択され、翌年に発効すると、ユナイティッド・ステイツ・オブ・アメリカは名こそ変わらなかったにせよ、国家連合から連邦へと変質した。強い執行権が大統領一人に与えられ、首都のワシントンDCがまもなく建設された。各州の独立意識が高いままであったことは内紛の種であり、のちに南北戦争を引き起した。
弱者が連帯するシナリオは、アメリカ合衆国が連邦になってほかに共和国がなくなると行き詰まった。初代大統領のジョージ・ワシントンは退任を翌年に控えての告別演説(1796年)で「諸外国に関するわれわれの行動の一般原則は、通商関係を拡大するにあたり、できるかぎり、政治的結びつきをもたないようにすることであります」と述べた[1]。これは地域主義でなく孤立主義である。
ワシントンの死後、共和国の仲間を増やす好機が訪れた。かつてスペインの領土であったラテンアメリカ諸国が独立したのである。スペインは重商主義を採用し、自らの植民地と外国との貿易を許さなかったが、実際は海賊と密貿易が横行し、オランダやイギリスがその富を狙っていた。
ナポレオン戦争によってスペイン本土が乱れると、植民地は次々と独立した。それらは北米の元イギリス植民地にならって、共和制を採用した。イギリスは晴れてラテンアメリカの貿易相手となり、新しく独立した国々を支えるつもりであった。
いきなり訪れた試練はヨーロッパの正統主義であった。ウィーン会議が打ちだしたそれはフランス革命以前の君主による支配を復活する原則であり、イギリスを除くヨーロッパの君主国から成る神聖同盟が結成された。ラテンアメリカの旧主であるスペインのボルボン家が復活を企てると噂が流れた。アラスカからロシアが北米の西海岸に南下しようとしていた動きも気がかりであった。イギリスはアメリカ合衆国に共同で対処しようと持ち掛けた。
アメリカ合衆国としては植民地化に反対するというメッセージをはっきりさせる必要があった。しかし、イギリスはヨーロッパの君主国であり、また、カナダに植民地を持っていたのでパートナーにするにはふさわしくなかった。ジェイムズ・モンロー大統領は1823年、モンロー・ドクトリンとして知られることになる原則を一般教書のなかで明らかにした。
このような関心からはじまった討議において、また両国がその結果結ぶかもしれない協定において、合衆国の権利と利益が包含される基本的原則として、つぎの点を主張するのがこの際適切と判断されました。すなわち、南北アメリカ大陸は、これまでとり続け維持してきた自由と独立の状態によって、今後、ヨーロッパ列強のいかなる国によっても将来の植民の対象とみなされてはならない、という原則であります[2]。
神聖同盟はラテンアメリカに上陸せず、当面の危機は去った。しかし、例えばメキシコに対するフランスの武力行使は繰り返され、操り人形の皇帝が立てられたこともあった。
新独立国は弱者がまとまり強国に対抗する地域主義を試みた。グランコロンビアのシモン・ボリバル大統領は米州諸国を招いて、全アメリカの国家連合を作ろうとした。ところが、1826年のパナマ会議に北の巨人アメリカ合衆国の使節は参加せず、国家連合条約は不発効に終わった。
19世紀、特にその前半、のラテンアメリカは混乱の時代であった。中米連邦は1840年に解体した。分かれたエルサルバドル・ニカラグア・ホンジュラスはそれから10年間、再統一の努力をした。1907年に中米司法裁判所の設立条約が署名されるまで、さまざまな統一の試みがあった。
その間、北米の西部開拓は太平洋に到達した。大陸国家になったアメリカ合衆国は国外に目を向けたが、すべて外国の領土であったので、ラテンアメリカ諸国との関係強化を次の目標とした。1881年、スティーブン・G・クリーブランド大統領は米州会議を招集し、1889年に実現した。1890年に米州共和国通商事務局が設立され、2年後に米州共和国国際事務局に改称された。名前から察せられるように、関心は貿易にあった。自国の製品を売りさばきたいばかりでなく、工業化のために国内で採れない熱帯の物産を輸入する必要があった。
経済成長を遂げたアメリカ合衆国が初めて横柄な行動をとったのがベネズエラ国境事件であった。1895年、国務長官のリチャード・オルニーは史上、最も傲慢とされる言葉を書いた命令書を出した。曰く、「今日、合衆国はこの大陸上で実際には主権者であり、その命令は介入が向けられた臣民には法である。」
オルニー国務長官が傲慢な言葉を発した事情は、イギリスとベネズエラの領土紛争にアメリカ合衆国が首を突っ込んだというものであった。現在のガイアナはイギリスの植民地であり、ベネズエラとの境では金を産出した。モンロー・ドクトリンを奉じ、外部勢力による植民地化に反対する合衆国はイギリスと対立した。クリーブランド大統領は、イギリスが仲裁をのまなければ米国が勝手に委員会を作って決める、と演説し、結局、仲裁法廷が立ち上げられた[3]。独立国のガイアナとベネズエラとの国境紛争は21世紀になっても解決していない。
大国になったアメリカ合衆国にもはや陸上の敵はなく、海上の敵が課題であった。海軍中将アルフレッド・T・マハンのシーパワー理論は軍事だけでなく、それと生産と海運と植民地とを結びつける地政学であった。
例えば、西海岸は「東部との交通連絡は急行列車でなら速いが、いったん戦争になれば当然要求される人員と軍需物資を大量輸送するには時間がかかる」[4]。この問題はパナマ運河を支配することにより解決できる、とマハンは述べた。
地峡運河を経由すれば、ニューヨークよりサンフランシスコに至る航海距離が三分の一に短縮され、ニューヨークよりバルパライソに至る航程が半減されるため、東アジアに達する距離上の利点によって、ヨーロッパ諸国を相手に対等に競争することが可能になるからである[5]。
パナマ運河の価値は西海岸に達するためだけでなく、東アジアへの航海のためにも重要であった。ただし、ハワイ諸島付近を安全に通過できることも必要であった[6]。ハワイ王国では1893年に革命が起こって翌年、共和国になり、1898年、アメリカ合衆国に併合された。合衆国はマハンのシーパワー論を応用するかのように、領土と植民地を拡大した。
パナマ運河の安全はカリブ海の制海権次第である、とマハンは論じた[7]。ハワイ併合と同年の1898年の米西戦争によって、カリブ海の要衝であるキューバは独立した。アメリカ合衆国はその憲法にプラット修正を組み込み、内政への干渉権やグアンタナモ基地の租借などを認めさせた。
パナマ運河が完成したのは1913年のことである。1903年にコロンビアでの混乱に乗じて、パナマを独立させ、アメリカ合衆国による運河の建設を容易にした。運河の両岸は「運河地帯」として合衆国の管理下に置かれた。その地位はイギリスのスエズ運河はもちろん、日本軍が駐屯した満州の関東州とも変わらなかった。米国史では、こうした拡大をキリスト教的な意識から「明白な天命」と呼ぶが、帝国主義以外の何物でもなかった。
帝国主義はモンロー・ドクトリンに新しい解釈をもたらした。シオドア・ローズベルト大統領のローズベルト・コロラリー(系論)である。それは単に外部勢力による植民地化を許さないということだけでなく、アメリカ合衆国には「国際警察権力」として「不法行為や無能が目に余」る国に介入する責任があると主張した。
支配ばかりがアメリカ合衆国の対ラテンアメリカ政策ではなく、対等なパートナーシップも深めようとした。1910年、上で触れた米州共和国国際事務局を発展させ、パンアメリカン連合が誕生した。1889年のワシントンDCでの米州会議を第1回と数えれば、第2回のメキシコシティ、第3回のリオデジャネイロ、第4回のブエノスアイレス……、と会議は回を重ね、そのホスト国となった国々はたがいに大国と認め合って、大使の階級に外交使節を格上げした。パンアメリカン連合の本部はホワイトハウス南の一等地であり、今はOAS本部になっている。
モンロー・ドクトリンは米州でアメリカ合衆国が勢力範囲を築く手段であったが、国際連盟の設立はそれに対するグローバリズムからの挑戦であった。当時の合衆国はモンロー・ドクトリンの名のもと、他国に出兵することを普通に行っていた。そうしたことを国際連盟は認めるのであろうか? 国際連盟規約はベルサイユ条約に組み込まれ、T・ウッドロウ・ウィルソン大統領の提案に基づき、1919年に作られたものである。
ウィルソン大統領は手をしっかりと打っていた。国際連盟規約第21条には「本規約ハ、仲裁裁判条約ノ如キ国際約定、又ハ「モンロー」主義ノ如キ一定ノ地域ニ関スル了解ニシテ平和ノ確保ヲ目的トスルモノノ効力ニ何等ノ影響ナキモノトス」と書き込まれた。国際連盟よりもモンロー・ドクトリンのほうが上であったのである。
アメリカ合衆国の帝国主義が終わりを迎えたきっかけはナチス・ドイツの台頭であった。イギリスから合衆国へと継承されつつあったグローバル大国の座をアドルフ・ヒトラーが脅かした。米州の結束を呼びかける必要があったが、帝国主義の汚名にまみれたモンロー・ドクトリンは旗印になりえなかった。
フランクリン・D・ローズベルト大統領が選んだキャッチフレーズは善隣政策であった。1936年、彼は次のように語った。
善隣政策を実施するにあたり、―中略―私は合衆国が武力介入に断固として反対する旨を表明してきた。
わが国は汎アメリカ会議で不介入の原則を具体化する協議をおこなった。わが国はキューバ共和国の国内問題に干渉する権利をわれわれに与えたプラット修正条項を廃棄した。わが国はハイチからアメリカの海兵隊を撤退させた。わが国はわれわれとパナマとの関係を相互に満足のいく基盤におく新しい条約に調印した。わが国はほかの米州諸国と相互の商業上の利益となる一連の通商条約の締結に乗りだした。また二つの近隣共和国の要請があれば、米州諸国間の最後の深刻な国境紛争の最終的な解決に支援の手を差しのべたいと希望している[8]。
パンアメリカン連合の会議は場所をチリ、キューバ、そしてウルグアイと移して開かれたが、1938年におけるペルーでの第8回会議では非常時の空気が広がっていた。1941年末の真珠湾攻撃を受け、米州は総力戦の覚悟を決めた。年が明けての連合国宣言は日独伊三国同盟に対抗するグローバルな戦線であった。ラテンアメリカからはコスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エルサルバドル、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、ニカラグア、そしてパナマが宣言に参加した。
日本は急ごしらえの大東亜会議を1943年に開いた。それはパンアメリカン連合の二番煎じであり、周回遅れの感は拭い去れなかった。
日本の出遅れは文化・芸術の分野でも際立った。「のらくろ」のようなアニメはあったものの、アメリカ合衆国ではあのウォルト・ディズニーが国策に協力していた。彼は1941年と1944年に、国務省に依頼され、スタッフとともにラテンアメリカを旅行し、アニメと実写で現地の文化を紹介した。『ラテンアメリカの旅』という映画はブラジルで1942年、合衆国で1943年に公開された。ホセ・カリオカはブラジルを象徴するカナリアをモデルとするキャラクターで、ドナルドダックと劇中で名刺交換をする。『三人の騎士』はメキシコで1944年、合衆国で1945年に封切られた。このなかではメキシコの鶏パンチートを加えた3羽が踊る[9]。
結束力で枢軸国を圧倒した米州であったものの、例外もあった。アルゼンチンは日米開戦後も中立を維持した。1943年には、統一将校団がクーデターを起こし、フアン・D・ペロンが実力者になった。彼はイタリアで軍事を学び、親ファシストと見られた。妻はエビータことエバ・ペロンという女優で、彼女を主人公とするミュージカルは半世紀後、マドンナを主演として映画化された[10]。
連合国の勝利が確実になり、国際連合の憲章を作るサンフランシスコ会議が開かれることになった。その参加条件は、日独に宣戦布告をしていること、であった。
サンフランシスコ会議が開かれる直前の1945年3月になって宣戦布告をしたアルゼンチンは会議の参加をソ連に反対された。米州諸国の力添えがあって、何とか参加は承認された。
国際連合憲章は連盟規約と違い、モンロー・ドクトリンのような地域主義を優先しない。第8章の地域的取極では、地域的取極・機関の存在は許すものの、国連の目的・原則と一致していなければならない(第52条)。また、それらの強制行動は、安保理の許可が必要である(第53条)。
米州諸国にとって、これは受け入れなければならない現実であった。枢軸国を倒したことには、イギリスとソ連の貢献が非常に大きかった。このグランドアライアンスを平和の時代にも生かそうとしたのが国際連合であった。
ソ連は永遠のパートナーでない、とアメリカ合衆国はすぐに気づいた。米州諸国は1947年、リオデジャネイロ条約(米州相互援助条約)という国連の時代にふさわしい同盟を改めて結んだ。OAS、または米州機構、という国連憲章第8章の地域的機関はその翌年に発足した。
アメリカ合衆国がOASに期待したのは共産主義の侵入を防ぐ役割であった。キューバ革命を成功させたフィデル・カストロに対して価値が試された。合衆国はOASにカストロ政権を除名させた。同じ1962年のキューバ危機では、ソ連の核ミサイルは撤去させたものの、カストロ政権を倒すことは当面、あきらめなければならなくなった。キューバ除名決議が停止されたのはやっと2009年になってからである。キューバとアメリカ合衆国の国交回復は2015年、フィデルの弟ラウル・カストロ国家評議会議長とバラク・オバマ大統領の間で成し遂げられた。
帝国主義の遺産の一つ、パナマ運河地帯、を返上すると決めたのはジミー・カーター大統領であった。彼は1977年にパナマ運河条約を結び、運河地帯は1999年に返還された。回顧録から引用する。
このうちひとつは、運河地帯のほとんどをパナマに返還し、運河の運営と維持にパナマも加え、両国の共同事業とするものである。われわれはパナマに対しては“上席のパートナー”として運河を運営し、これを防衛する権利を今世紀末まで持つことになったのだった。そして、今世紀が終わると同時に、現在パナマ運河地帯に駐留しているアメリカ軍はすべて引き揚げることになる。しかし、もうひとつの“中立化条約”によって、運河が外部からの脅威を受け、すべての国の船に平等で中立的なサービスを与えられない障害が起きた時には、アメリカ軍が運河防衛のために引き返して来る権利を永久に保有する[11]。
しかし、帝国主義の過去はしばしば反米的な宣伝に利用される。ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は1999年に就任してから、反米的な発言をやめなかった。2009年の米州首脳会議では、オバマ大統領にアメリカ合衆国を批判した本を贈った。チャベスが2013年に亡くなり就任した後継者ニコラス・マドゥロ大統領は2026年に米軍により連行された。
グローバルな脅威に対して地域主義が有効なこともある。しかし、むやみに脅威が強調されて、別の目的のために地域主義が利用されることもある。地域主義それ自体は目的ではない。あくまで人間の自由のための一手段として、それは追求されるべきである。
[1] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、69ページ。
[2] 大下、有賀、志邨、平野編、『資料が語るアメリカ』、69ページ。
[3] Dexter Perkins, A History of the Monroe Doctrine (Boston: Little, Brown and Co., 1955), p. 181.
[4] アルフレッド・T・マハン、『アルフレッド・T・マハン』、麻田貞雄訳、第2版、研究社、1977年、282ページ。
[5] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、129ページ。
[6] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、95ページ。
[7] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、130ページ。
[8] 大下、有賀、志邨、平野編、『資料が語るアメリカ』、190-191ページ。
[9] Walt Disney, Saludos amigos, 1942. Walt Disney Productions, The three caballeros, Burbank, Cal: Walt Disney Productions, 1945. ニール・ゲイブラー、『創造の狂気』、中谷和男訳、ダイヤモンド社、2007年。
[10] フォームの始まり
Alan Parker and Robert Stigwood, Evita, [United States]: Cinergi, 1996.
[11] ジミー・カーター、『カーター回顧録―平和への願い』、上、日本放送出版協会、1982年、257ページ。
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