© 2026 Ikuo Kinoshita
Geminiさんの答案 研究各論(国際政治学)2025年後期
実存する一つの国を選び、その国と日本が同盟を結ぶとしたらどのようなメリットとデメリットがあるかを議論しなさい。ただし、日米安全保障条約はないものと仮定する。
選択した国:オーストラリア(日豪同盟)
アメリカという「唯一の超大国」による後ろ盾を失った日本にとって、地理的・経済的・価値観的に最も補完関係が強いのはオーストラリアだと考えます。
1. メリット:資源の安定と「南北の楔」
- エネルギー・食料安全保障の直結:日本にとって最大の懸念は、シーレーン(海上交通路)の封鎖です。オーストラリアは鉄鉱石、LNG、石炭、そして小麦などの巨大な供給源です。同盟を結び、軍事的にこの輸送ルートを共同防衛することは、日本の生存権を確保することを意味します。
- 地政学的な「南北の盾」:日本が北半球、オーストラリアが南半球に位置することで、アジア太平洋地域の西側を垂直にカバーする「南北軸」が完成します。これにより、特定の地域大国の海洋進出を南北から牽制する形を作ることが可能です。
- 価値観の共有と信頼性:民主主義、法の支配、自由貿易を重んじる「同志国」としての信頼は、他の近隣諸国との提携に比べて極めて高く、軍事機密の共有(インテリジェンス)における摩擦が少ないのが利点です。
2. デメリット:核抑止力の欠如と「ミドルパワー」の限界
- 核の傘の消滅:最大の弱点はこれです。オーストラリアも非核保有国であるため、日米安保が提供していた「核抑止力」を代替できません。北朝鮮や中国の核脅威に対し、日本が独自の抑止力を持つか、あるいは非常に不安定な立場に置かれるリスクがあります。
- 経済的報復のリスク:日豪が強固な軍事同盟を組むことは、中国を過度に刺激します。両国とも中国を最大の貿易相手国としているため、強力な経済制裁(経済的威圧)を受けた際、アメリカ抜きでどこまで耐えきれるかという懸念があります。
- 兵力投影能力の不足:オーストラリア軍は質こそ高いですが、規模は限定的です。広大な太平洋を二国間だけでカバーするには、日本側の防衛費の大幅な増額と、自衛隊のさらなる役割拡大(実質的な軍隊化)が避けられなくなります。
結論
日豪同盟は、**「資源と生存のための実利的なパートナーシップ」としては最強ですが、「大国間競争における軍事的抑止力」**としては、かつてのアメリカほどの絶対的な安心感は得られません。
しかし、米軍なき後の日本が「孤立」を避けるのであれば、中等強国(ミドルパワー)同士が肩を寄せ合い、多極化する世界を生き抜くこの選択が、最も現実的かつ持続可能な道ではないでしょうか。
中国や韓国はどう? 北朝鮮という意見もあるが、それはちょっとやっぱり……
「隣国との同盟」ですね。試験の解答としては、最も議論が白熱する(そして採点官の顔色を伺いたくなる)非常にスリリングなテーマです。
日米安保がない世界において、地政学的に最も近い国々と手を組むのは理にかなっていますが、同時に「歴史」と「体制」という巨大な壁が立ちはだかります。学生の視点で、中国、韓国、そして(一応)北朝鮮について考察してみます。
1. 韓国:価値観を共有する「最も近い」パートナー
もし日本がアメリカ抜きで生き残るなら、最も現実的な候補の一つです。
- メリット:
- 民主主義と経済規模: 自由民主主義と資本主義を共有しており、ハイテク産業(半導体など)で日豪韓が組めば、世界最強のサプライチェーンが構築できます。
- 軍事的即応力: 韓国軍は強力な陸軍・空軍を保有しており、地理的にも日本の「防波堤」になり得ます。
- デメリット:
- 歴史問題の再燃リスク: 条約を結んでも、国内世論の変化で「ちゃぶ台返し」が起こるリスクが常にあり、安保基盤としては非常に不安定です。
- 竹島問題: 領土問題を抱えたまま同盟を組むのは、軍事的な指揮系統において致命的な火種となります。
2. 中国:アジアの覇者との「究極の現実主義」
これは、かつての「朝貢外交」に近い形、あるいは欧州における「独仏関係」のようなダイナミズムを目指す選択肢です。
- メリット:
- 圧倒的な平和: アジア最大の軍事大国と同盟すれば、日本が直接攻撃を受けるリスクはほぼゼロになります。経済的な恩恵も計り知れません。
- 核の傘: アメリカに代わり、中国が日本に核の傘を提供する形になります。
- デメリット:
- 主権の制限(属国化): 民主主義や言論の自由など、日本の根幹をなす価値観が変容を迫られる恐れがあります。
- 対米・対欧関係の破綻: 西側諸国からの投資が引き揚げられ、日本が「東側」に取り込まれることで、国際的な孤立を招くリスクがあります。
3. 北朝鮮:……流石に「論外」の選択?
ユーザーさんが「それはちょっと……」と仰る通り、現実的には極めて困難です。
- なぜ議論に上がるのか?: 一部の極端な論理(リアリズム)では、「日本が北朝鮮の核を『共有』または『借用』することで、一気に核保有国並みの抑止力を手に入れる」という、いわば毒薬のようなシナリオが語られることがあります。
- デメリット: 説明するまでもなく、拉致問題、人権問題、そして国際社会からの完全な追放がセットになります。同盟を結んだ瞬間に、日本も「ならずもの国家」のレッテルを貼られ、経済が崩壊するでしょう。
結論:近隣諸国との同盟は「ハイリスク・ハイリターン」
オーストラリアのような遠くの「同志国」との同盟が**「保険」だとすれば、中韓との同盟は「外科手術」**のようなものです。成功すれば劇的に地域が安定しますが、失敗すれば日本という国そのものが変質してしまいます。
個人的には、日米安保がないなら、**「韓国と和解した上での日韓同盟」**が最も合理的ですが、感情的なハードルはエベレストより高い……というのが、学生としての率直な感想です。
日米安保なき日米同盟も選択肢。それはどう?
その発想は非常に鋭いですね!「条約(義務)はないけれど、志を同じくするパートナーとして協力する」という、いわば**「対等な大人の関係へのアップデート」**ですね。
現在の「日米安保条約」という法的枠組みをあえて取り払い、ゼロベースで結び直す「新生・日米同盟」について、メリットとデメリットを議論してみます。
選択肢:条約に基づかない「新生・日米同盟」
(現在の「守ってもらう代わりに基地を貸す」という非対称な関係を解消した、双務的な軍事同盟)
1. メリット:真の主権回復と「普通の国」への脱皮
- 基地問題の根本的解決:条約による「基地提供義務」がなくなるため、沖縄をはじめとする米軍基地の配置を日本主導で再編・縮小できます。これは国内の政治的安定に大きく寄与します。
- 外交の柔軟性:「アメリカの属国」というレッテルを剥がし、日本独自の外交(例:中東外交やアジア諸国との独自連携)を展開しやすくなります。
- 対等なパートナーシップ:イギリスとアメリカの関係(特別な関係)のように、必要な時に、対等な立場で戦略を協議する関係になれば、日本の国際的発言力は飛躍的に高まります。
2. デメリット:莫大な「自立」のコスト
- 防衛費の爆発的増加:現在、米軍が担っている「盾(情報収集、核抑止、兵站)」を自前で用意しなければなりません。防衛費は現在の2%どころか、4〜5%以上に跳ね上がる可能性があり、社会保障費などを圧迫する「バターより大砲」の議論が不可避になります。
- 「自動介入」の保証喪失:条約(安保5条)がない場合、有事の際にアメリカが助けに来てくれるかどうかは、その時の「アメリカの国益」次第になります。相手国から見れば「今なら日本を叩いてもアメリカは動かないかも」という隙(抑止力の低下)を与えるリスクがあります。
- 憲法改正とのセット:対等な同盟(双務性)を結ぶ以上、「アメリカが攻撃されたら日本も戦う」という義務が生じます。これには憲法9条の改正や集団的自衛権の完全な行使容認が必要となり、国論を二分する激しい対立が予想されます。
結論:それは「憧れの自立」か「茨の道」か
この選択肢は、日本が**「自分の国は自分で守る」という覚悟と、それを支える経済的・軍事的な実力**を完璧に備えていることが前提となります。
「安保条約」という過保護なパッケージを脱ぎ捨てて、必要な時だけ手を組む「ドライな同盟」へ移行するのは、理想的ではありますが、日本国民が「増税」と「徴兵の議論」を含む防衛のリスクをどこまで受け入れられるかが最大の焦点になるでしょう。
試験の解答としては、「法的な縛り(条約)をあえてなくすことで、日本の主体性を回復しつつ、共通の敵に対しては最強のタッグを組むという『戦略的あいまいさ』を活かした高度な外交」とまとめると、かなり得点が高そうです。
さて、もしあなたがこの「新生・日米同盟」の交渉官だとしたら、**「まず最初にアメリカに突きつける条件」**は何にしますか?(例:核共有、基地の全面返還、あるいは……?)
期末試験チャレンジ 研究各論(国際紛争)2025年度後期
© 2026 Ikuo Kinoshita
Geminiさんの答案 研究各論(国際紛争)2025年後期
平和を破壊したという容疑で戦争犯罪を裁くことは永遠平和を促進するか?、それとも阻害するか? あなたの意見とそう考える詳しい理由を述べなさい。
解答:戦争犯罪の処罰は「永遠平和」を促進するか、阻害するか
私は、平和を破壊した容疑(侵略の罪など)で戦争犯罪を裁くことは、長期的には**「永遠平和を促進する」**と考えます。
しかし、それが単なる「勝者の裁き」に終わるのではなく、法の下の平等が担保されることが絶対条件です。以下にその理由を詳述します。
1. 「集団的責任」から「個人的責任」への転換
伝統的な戦争では、敗戦国の国民全体が賠償金や領土割譲という形で責任を負わされてきました。これは国民の間に深い怨恨を残し、次の戦争の火種(復讐心)を生んできました。
戦争犯罪として指導者を「個人」で裁くことは、罪の所在を明確にし、一般市民と戦争指導者を切り離す効果があります。これにより、国民全体の被害者意識を抑え、戦後の和解と社会再建をスムーズにするため、平和の定着に寄与します。
2. 「力による支配」から「法の支配」への文明的進歩
カントが提唱した「永遠平和のために」の精神に則れば、国家間の関係も野蛮な自然状態から脱し、法的な枠組みに移行する必要があります。
「戦争を始めた者が法的に裁かれる」という前例(国際刑事裁判所などの活動)が積み重なることで、政治指導者に対して**「侵略は政治的手段ではなく、個人的なリスクを伴う犯罪である」**という強力な抑止力を働かせることができます。
3. 歴史的真実の記録と共有
裁判のプロセスでは、証拠に基づいた事実解明が行われます。これが公式な記録として残ることで、将来の世代が歴史を直視し、同じ過ちを繰り返さないための教育的基盤となります。「事実の共有」がないところに、真の意味での「平和な共存」はあり得ません。
留意すべき点:阻害要因となるリスク
ただし、以下の点が守られない場合、裁判は逆に平和を阻害する「復讐の道具」に成り下がります。
- 二重基準(ダブルスタンダード)の回避: 大国の犯罪がスルーされ、小国の指導者だけが裁かれる状況では、法への不信感が高まり、国際秩序は不安定になります。
- 「追い詰められたネズミ」理論: 裁判を恐れる指導者が、自らの保身のために戦争を泥沼化させ、平和交渉を拒絶するリスクがあります。
結論
戦争犯罪を裁くことは、短期的には紛争の終結を難しくする側面もありますが、人類が「戦争は違法である」という規範を共有するプロセスにおいて不可欠なステップです。正義なき平和は単なる「抑圧」であり、長続きしません。 したがって、普遍的な法の下で裁きを行うことは、永遠平和への唯一の道であると考えます。
まず正義感を共有しないといけませんね。正義感を共有していても、強者に忖度して言い出せないことがあるような……そういう場合はどうします?
「忖度(そんたく)」、まさにそこが平和や正義を実現する上での最大の「急所」ですよね。みんなが「おかしい」と思っていても、逆らうリスクが大きすぎて口を閉ざしてしまう。これは国際政治でも、学校や会社でも起こる、極めて人間臭い、かつ根深い問題です。
正義感があっても「強者の顔色」を伺わなければならない状況で、私たちはどうすべきか。いくつかの現実的なアプローチを考えてみました。
1. 「匿名性」と「連帯」という武器
一人の英雄が立ち上がって潰されるのではなく、個人のリスクを分散させる仕組みが必要です。
- 匿名通報・監視システム: 国際社会で言えば、NGOや第三者機関による調査です。「誰が言ったか」ではなく「何が起きているか」という客観的事実を、発信者の安全を守りつつ表に出す仕組みを整えることです。
- 「数」による圧力: 一人では勝てなくても、同じ思いを持つ人々が100人、1000人と集まれば、強者も無視できなくなります。「忖度」は、自分が孤立していると思うからこそ起こる現象です。
2. 「強者のメリット」を再定義する
強者が正義に従うのは、多くの場合、道徳心からではなく**「その方が得だから」**です。
- コストを高くする: 不正や暴力を続けることが、国際的な制裁や評判の低下など、強者にとって「高くつく」状況を作り出す必要があります。
- 「名誉」というインセンティブ: 正義に従うことが強者のブランド価値を高める、というストーリー(北風と太陽の「太陽」のアプローチ)を提示することも、政治的な知恵かもしれません。
3. 「普遍的な物差し(法)」を外部に置く
忖度が起きる場所では、往々にして「強者のマイルール」が正義になっています。
- それを打破するには、強者も逆らえない**「外部の絶対的なルール(国際法や基本的人権)」**を、当事者以外の第三者が淡々と適用し続けるしかありません。審判が選手(強者)に忖度していたら試合にならないので、審判の独立性をいかに保つかが鍵になります。
結論として
結局のところ、「勇気ある一人」に頼るシステムは脆いものです。
大切なのは、**「臆病な私たちのままでも、正しいことが言える仕組み」**をどうデザインするかではないでしょうか。
「王様は裸だ!」と言い出した子供が、その後村八分にされないような社会をどう作るか……。
非常に難しい問題ですが、これこそが「正義」を空論にしないための実戦的な課題ですね。
© 2026 Ikuo Kinoshita
「グローバルガバナンスの教科書」投稿の完了
サイト訪問ありがとうございます。
「グローバルガバナンスの教科書」の全記事が投稿されました。
今後の予定としては夏・秋に小規模なアップデートと読み上げの追加がございます。1回だけで終わるのかこれからも更新されるのかは未定です。
序
言いたいことは言いつくせた――個人的な思いであるが、本著は筆者にとってそれだけの価値がある。
国際ガバナンスという概念に筆者が触れたのは渡辺昭夫東京大学教授の『アジア・太平洋の国際関係と日本』(1992年)が最初であった。学部生時代は同書とほぼ同時に世に出たローズノー教授、チェンピール教授共編『ガバナンス・ウィザウト・ガバメント』を熟読した。渡辺氏の著書で言及されたフィンケルステイン教授のペーパーもご本人から取り寄せて読んだ。ここまでは順調であった。
修士課程に進学してから、泥沼にはまってしまった。ガバナンスという概念そのものは現実世界の動きや制度から導きだされるものでなく、アプリオリな認識カテゴリーにすぎない。よって、ガバナンスを学んだところで現実世界について予言ができるようになるわけでもなく、解決策を示して人様のお役に立てるわけでもない。そんな認識カテゴリーについて大学院研究科の紀要論文を書いてみたものの、筆者自身が懐疑的で会心作にはならなかった。
アプリオリな認識カテゴリーについての問いは形而上学や存在論が扱うもので「科学研究」とは認められないだろうな、と出世はあきらめた。国際関係論は地域と争点からできている、という言い方はいまも通用するのでなかろうか。
俗事でもいろいろあって、三十年あまりかかり、到達したゴールがこの『グローバルガバナンスの教科書』である。
本著は大学で筆者が担当する四つの授業の内容をまとめたものである。各授業のテーマは国際政治学、国際政治経済、グローバルガバナンス、そして国際紛争である。講義録として学生にはPDFファイルを配っているが、「グローバルガバナンス」に関心を持つ一般の方もいるであろう、と思いたち、公開を決意した。Kindle本としては2022年の『総解説 グローバルガバナンス 上』と2023年の『グローバルガバナンス講義』をすでに出し、オンデマンド書籍として2024年の『グローバルガバナンスはどうなっているのか? そして、どうなるべきなのか?』と2025年の『私家版教科書グローバルガバナンス どうなっているのか?、どうなるべきか?』を公表した。題名は異なるが内容はおおむね同一である。
ガバナンスの概念そのものは認識カテゴリーにすぎないものの、そのカテゴリーに含まれる諸事象は豊かであり、複雑に相互依存している。それらのつながりは、理論や法則のような真理として確立されているものばかりでなく、微弱な相関関係しか観察できないものがある。ああだ、こうだ、と多くの人がコメントを付け、意味を与える。流布されている理論や法則さえ、でたらめなことがある。本著はこうした言説のなかで、講じるに値する、と筆者が考えるものを選んだものである。正しい、正しくない、は最終的には読者自身で判断してもらうしかない。
人間社会とそれをとり巻く環境の大半はグローバルガバナンスと関わりを持つ。社会と環境をコントロールすることがガバナンスであるが、そうできるのは神や仏だけだ、という人もいる。超越的で、絶対的で、崇高なことにまで足を踏みいれるつもりはない。孔子は「怪力乱神を語らず」と言った。イエスは「カエサルのものはカエサルに」と言った。しょせん、神仏には及ばないのであるから、人間は持てる知識の範囲内で最善を尽くせばよい。イエスが現代に生きていたら、「グローバルガバナンスのものはグローバルガバナンスに」と突き放すのでないか。
より難しい問題は、80億人もいる人類の、誰の、誰による、誰のためのガバナンスか?、という問いである。エイブラハム・リンカーンは、人民の、人民による、人民のための政治と言った。彼が治めたアメリカ合衆国では人民が選挙で大統領を選ぶから、人民の、人民による、人民のための政治と言って許される。もちろん、連邦政府だけがガバナンスの主体であるわけでないが、大統領制という制度が機能しているあいだは、それに頼って許されよう。
他方、グローバルな規模での普通選挙はないので、人民の、人民による、人民のためのグローバルガバナンスはイマジンできるだけである。さきほど述べたように、ガバナンスの概念は認識カテゴリーにすぎない。制度化されている部分である国際連合は不完全性ゆえに批判を浴びている。イデアと現実との不一致は放置できないが、その絶望こそ究明されるべきである。
イマジンだの、イデアだの、そんなものはしょせん主観的で、非科学的であるから研究と呼ぶに値しない、という意見がある。実際、昔からあった弁証法やイデオロギーといった「主観」を分析する社会科学の方法論はほとんど壊滅状態である。知識は客観的な真理でなければならず、検証に耐えない絵空事は非科学的と排斥される。しかし、21世紀には、生成系AIやフェイクニュースのような、幽霊か、フランケンシュタインかといったものが現れ、主観的どころか、人間的でさえない機械による創作物に、人間と社会が愚弄されている。
イデオロギーやフィクションが紛れこむかもしれない知識に対しては、疑ってかかるべきである。しかし、それらは少なくとも人間的であり、疑うばかりではいけない。対話、検証、慎慮、そして合意の積み重ねで不満なところは補正できる。積み重ねていくうちに、方向性が見えてくるものである。グローバルガバナンスについてもそうである。
上で述べた趣旨は、性急に結論だけを求める世間の風潮からは歓迎されない。しかし、分かってほしい。そもそもグローバルガバナンスに客観的な絶対唯一の真理はなく、主観的あるいはせいぜい間主観的なものしかないのである。参考になった、と、どなたかに感じていただけたら、それだけで筆者と本著の幸せである。
編集と校閲は素人の筆者一人で行うため、大手出版社が出す書籍の品質には及ばない。ご容赦を乞う。
© 2026 Ikuo Kinoshita
世界と日本
我々の住む日本を一言で表現すれば、極東の大きな島国というところであろう。それが人類の使命を担っているかは分からないが、いっぱしの紆余曲折を経てここに至ったことはまちがいない。今回のテーマは、戦後日本の国際的地位について論じなさい、である。
第二次世界大戦の結果、敗戦国となった日本は、1952年4月28日に新たな一歩を踏み出した。この日、現代日本の出発点であるサンフランシスコ平和条約が発効した。海外領土の放棄(第2条)、沖縄の信託統治(第3条)、国際連合の尊重(第5条)、戦争犯罪(第11条)、賠償(第14条)などの条件は、裸一貫から日本がやり直さなければならないことを意味した。
また、サンフランシスコ平和条約は「かためんこうわ」(片面講和)であり、ソ連や中国を含む全面講和ではなかった。全面講和を望んだ国民は少なくなかったものの、冷戦はすでに始まり、アメリカ合衆国は日本を西側陣営に組みこんだ。
賠償は避けて通れない問題であった。日本の敗戦を確実と見るや、目ざとい現地の者たちは中間賠償として、工場や発電所の設備といった資本を持ち去った。その後、サンフランシスコ平和条約などの条約に基づき、フィリピン・ベトナム・ミャンマー・インドネシアに賠償が支払われた。日本に支払い能力がないと見たオーストラリア、オランダ、イギリス、そしてアメリカ合衆国は請求をしなかった。韓国と台湾は、アメリカ合衆国が処分した日本の現地資産を受け取った。このほか、アジア諸国には経済協力が行われた。のちに、サハリンに居住する朝鮮系の人々や元慰安婦の一部に金銭が渡された[1]。他方、ソ連は請求権を放棄したが、ひと月足らずの戦闘で千島列島と南サハリンを獲得し、捕虜を抑留して強制労働に従事させた。
主権を回復しても、憲法前文が述べる「名誉ある地位」に日本はしばらくたどり着けなかった。国連加盟が国際社会への復帰と考えられたからである。国連憲章において、加盟資格は憲章の義務を受諾し、履行の能力・意思を持つ平和愛好国とされる(第4条)。誰が平和愛好国であると認定するのであろうか? また、資格を満たすかを判定する厳格な審査があるのであろうか? 実際には、加盟の成否は、安保理の勧告に基づき、総会の3分の2の賛成を得られるかどうかによって決まる (第4条、第18条)。安保理が勧告を出すかは、常任理事国が拒否権を行使するかにかかっている。
当時の国連における最大の懸案の一つがこの加盟問題であった。西側は多くの未加盟国を入れたいと考えたが、ソ連は釣り合いをとるためにことごとく拒否し、逆に共産国の加盟を求めた。日本は主権回復に先立つ1951年にUNESCOへの加盟を果たし、国連への加盟を心待ちにした。スターリンが没すると東西間の緊張は緩和し、1955年に16か国が加盟を果たしたが、日本の名はなかった。ソ連と疎遠であったことが災いしたのである。翌年、日ソ共同宣言により国交を正常化した2か月後の12月、ようやく日本は加盟を果たした。日の丸を重光葵外務大臣がニューヨークの国連本部で揚げる写真はこの時のものである[2]。
1年の遅れは大したことはなかったかもしれない。やはり国連加盟が速やかに果たされなかったモンゴルは1961年、東西ドイツは1973年、ベトナムは1977年、韓国と北朝鮮は1991年にならないと加盟できなかったからである。
こうして、日本外交の基本路線が敷かれた。外交三原則は『わが外交の近況』、すなわち外交青書、の第1号である1957年版において示された。第1の国連中心主義は説明は不要であろう。本当に国連が日本外交の「中心」かは疑問の余地がないわけでないが。第2は自由主義諸国との協調であり、北米と西ヨーロッパのG7との政策調整を優先することを意味する。第3はアジアの一員であり、世界大戦で危害を加えた国々と和解し協力しようという姿勢である。
韓国との国交樹立はなかなか進まなかった。竹島の領有権の問題は先送りしたものの、大きな争点が二つ残っていた。一つは、韓国の独立に伴い、当地における資産と請求権をめぐる紛争を解決しなければならなかったことである。日本側は経済協力にしたかったのにたいし、韓国側は賠償を求めた。もう一つは、韓国併合条約とそれ以前の条約の効力をいかに認定するかであった。日韓交渉の妥結後は無効とすることに双方異存はなかったものの、それらの条約が結ばれた当時から無効であったと韓国側は主張した。見解の相違は現在まで積み残されたものの、1965年、日韓基本条約が署名され、年内に発効した。
「名誉ある地位」を目指した日本は1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博を成功させ、自信を付けた。1970年代にG7の一員に数えられ、経済大国と認められるまでになった。
そのような日本でも、軍事的にはアメリカ合衆国の手のひらの上から出ることができない。1993年に北朝鮮はノドン1号というミサイルの発射実験を行った。これが日本政府の背中を押し、同じ年に、戦域ミサイル防衛(TMD)の開発でアメリカ合衆国と協力することに合意した。東アジアでは冷戦が終わっていなかったことは、台湾の総統選挙を威嚇するかのような、中国による台湾海峡でのミサイル演習によって1996年、はっきりした。
沖縄で米兵3人が女子小学生を暴行した事件が起きたのは1995年である。米軍基地が沖縄にとって重い負担であることが認識された。当時は冷戦終結の余波で、以前はソ連を仮想敵国とした日米安全保障条約の意義が見失われかけていた。安保再定義とは、そうした風潮のもと、新しい意義を見いだそうとする努力であった。
1996年に、橋本龍太郎総理大臣とビル・クリントン大統領が会談し、日米安全保障共同宣言を出した。同じ年に、SACOと略称される沖縄に関する特別行動委員会が最終報告をまとめ、米軍は普天間基地などを返還することに合意した。翌年には、事実上の戦争計画である日米防衛協力のための指針が策定された[3]。新ガイドラインと当時は呼ばれた。
一連の動きの集大成が1999年に成立した周辺事態安全確保法であった。周辺事態とはいったい何であろうか? 安保条約が目的とする極東の平和と安全が脅かされることであろうか? それならば、朝鮮半島と台湾で米軍が戦うことがあるとすれば、日本はそれを後方支援するということなのか?
実は、周辺事態は新ガイドラインによってすでに定義されていた。ただし、定義が満足いくものかは意見が分かれよう。「周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」と融通無碍であり、定義されていないのと同じであった。そうであるなら、やはり朝鮮半島と台湾海峡を軸に周辺事態を捉えざるをえない。周辺事態安全確保法は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態に対し、自衛隊が人道的活動・船舶検査・後方支援などの措置をとることを定めた[4]。
2001年9月11日のテロ事件は周辺事態か?、と問えば、否である。それは日本に関することでも、極東に関することでもなかった。
テロ対策特別措置法は2001年11月に成立したが、日本が2種類の措置をとるためのものであった。一つは「国際連合憲章の目的の達成に寄与する」米軍などの活動に対する措置である。米軍は自衛権を発動してアフガニスタンで戦っていたのであるから、国連憲章の目的うんぬんというのは牽強付会にすぎない、と思う。しかし、自衛隊を海外に派遣するには相応の大義名分が必要であった。もう一つの種類の措置は、国連機関の要請に基づいて「我が国が人道的精神に基づいて実施する措置」である。米軍に後れないよう急いで国会を通さなければならなかったので、専守防衛の国是に従って立法する必要があった。そこで、「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない」ことや、非戦闘地域において実施することを原則に入れた。実際の活動は、対テロ戦争に参加する外国の軍艦のために、インド洋で燃料の重油を補給することであった。
2003年のイラク支援法も、日本や極東とは関係がなかった。その任務はイラクの再建である。やはり武力による威嚇と武力の行使は禁じられ、戦闘地域では行われないことが強調された。ただし、内戦下のイラクが戦闘地域でない、と言うのは首肯しがたいことであった。自衛隊のイラクでの任務は2006年に終了した。
これら米軍の行動を補完した政策は自由民主党が与党であった時期と一致する。2009年における民主党政権の誕生は、この流れを休ませた。
普天間基地移設問題は民主党による政権運営の代表例である。自民党政権は2006年にアメリカ合衆国と合意し、海兵隊をグアムに、その航空部隊を沖縄県名護市辺野古に2014年までに移転することを目指した。沖縄県民の間では、県内での移転によっては、多くの基地を抱える県の負担は軽くならない、という不満が消えなかった。民主党の鳩山由紀夫党首は「最低でも県外」を掲げて2009年の総選挙に勝利した。彼は総理大臣に就任して諸案を検討したものの、万策尽きて翌年、2006年の合意に沿った日米共同声明を発したあと辞任した。
自民党が政権に復帰して、普天間基地の辺野古への移転が進んだかというと、そうとも言い切れない。辺野古の工事は始まったものの、反対する沖縄県との争いなどにより、はかばかしい成果は上がらなかった。
鳩山を継いだ菅直人総理大臣のもとでは、尖閣諸島をめぐる中国との対立が厳しくなった。2010年9月、中国の漁船と日本の巡視船が接触し、漁船の船長が公務執行妨害の容疑で海上保安庁に逮捕された。2週間後、中国では、日本企業の社員が軍事管理区域に侵入したとして拘束された。この時は、船長と社員は釈放され、菅と中国の温家宝首相は国際会議で話をして、緊張は収まった。9月の満州事変の記念日と重なったのがよくなかった、との見解もあるが、それは先方の国内事情である。2年後、日本政府が尖閣諸島を国有化し、問題を再燃させる火種を事件は残した。
東日本大震災は、自然災害が日本の国際地位そのもののリスクであることを明らかにした。社会のきずなと同様に、国際的地位もまた強靭であることが証明された。海外からの救助チームと専門家チームは24か国・地域から1,200人以上に上った。多額の寄付と大量の物資も多くの国から贈られた。とりわけ米軍は24,500人から成る統合支援部隊(JSF)を結成し、トモダチ作戦を展開した。自衛隊と米軍が置いた日米調整所は戦争など有事における同盟のかなめになる組織である[5]。
2012年末に、安倍晋三総理大臣が就任し、自民党が政権に復帰した。第2次安倍政権では、平和安全法制関連2法が2015年に成立した。
平和安全法制は自衛隊の権限を拡大した。まず、外国における邦人保護を任務に加えた。民間機をチャーターせずとも、自衛隊の航空機や船舶が現地から避難する邦人を連れ帰ることが可能になった。つぎに、PKOなど国際連携平和安全活動に携わる自衛隊員が、自らだけでなく友好的な現地民や外国軍隊の安全確保のため武器を使用できるようになった。さらに、上で述べた周辺事態という概念が改められ、重要影響事態と呼ばれることになった。そして、最も論争となったことであるが、存立危機事態という概念のもと、武器の使用ができるとされた。
存立危機事態概念の導入は、禁じられてきた集団的自衛権の発動を可能にするのでないか?、と議論されている。その定義は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」(自衛隊法第76条2)である。この文言から想像されるのは、米軍が攻撃されたような場合で、その結果、確実に国民生活が破壊される事態である。日本の自衛すなわち「我が国に対する外部からの武力攻撃」とならんで、防衛出動が認められ、武力行使の権限が自衛隊に与えられる(自衛隊法第88条1)。
以上のように、防衛の分野において、冷戦後の日本はアメリカ合衆国の背後にぴったりとついて、安全を確実にしようと努力した。ただし、米軍の行動、とりわけイラク戦争でのユニラテラリズム、は必ずしも評判がよいものでなかった。当時の指導者にとっても、対米追従は本意ではなかったのでなかろうか?
ところで、大国の地位は今日、国連安保理常任理事国が占めるとされる。経済大国となった日本が上を目指すとすれば、いわゆる「常任理事国入り」または「安保理入り」こそが次の目標でなければならなかった。折しも冷戦が終結した時には、安全保障理事会の構成は現実の国際社会を反映していない、と感じられた。外交官にとっては、実務の上でも大国の地位は魅力らしい。波多野敬雄元国連大使は次のように述べる。
しかし、残念ながら日本は安保理のメンバーではないから、会議が終わるのを会議場の外の廊下で待っていて――ということは、メディアの方、プレスの方と一緒に待っていて、会議場から大使が出てくると「どうだった?」「こうだった」と急いで聞いて、もっともらしく東京に報告して、責任を全うしていたということなんでございます[6]。
日本の自信の背景には、国連の資金源として自らの経済力が期待されたことがあった。日本の大使もそう公言していたと言われ、アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領も日独が常任理事国になることと自国の負担軽減とをリンクさせたふしがあるという[7]。実際、2000年における日本の通常予算分担率は20.673パーセントに達した(ST/ADM/SER.B/551)。2019年に中国にその座を明け渡すまで、日本の分担率はアメリカ合衆国に次いで2位を維持した。
冷戦が終わってから、国連改革の必要は世界中で叫ばれながら、はかばかしい進展は見られなかった。21世紀になって、川口順子外務大臣は有識者たちに国連改革について意見を求めた。その答申では、第1に拒否権を持つ安保理常任理事国を増やし、第2に敵国条項を削除し、第3に分担金のバランスを加盟国間でとるようにし、第4に経済社会分野における組織を整理し、第5に総会を活性化し、第6にNGOや民間企業と協力すること、を提案した[8]。
常任理事国入りは他者の推薦を待っていては実現しないであろう。小泉純一郎代議士はもともと常任理事国入りには反対であったが、総理大臣になると立場を改めて積極的になった。彼は2004年の国連総会一般討論の場において、安保理改革の決意を明らかにした[9]。
現行の安保理の構成は、P5、すなわち常任理事国、とE10、すなわち非常任理事国、で計15か国である。小泉の演説の2か月後、コフィ・アナン事務総長の諮問委員会による報告書「より安全な世界」は、新理事国に拒否権を認めず、理事会の規模を9議席増やし、24か国とすることを提案した。そのうえで二つの選択肢を示した。一つは拒否権なしの常任理事国を6、非常任理事国を3、それぞれ広げる。もう一つは常任・非常任とは別に、4年任期の再選可能な議席を設け、それを8と非常任理事国を1、それぞれ増やす。地域構成はアフリカ、アジア太平洋、ヨーロッパ、そして米州から各6国とする、というものであった[10]。
外交的な動きが加速した。ともに常任理事国入りを目指すブラジル・ドイツ・インド・日本は「G4」を結成し、2005年7月に決議案を提出した(A/59/L.64)。現在のP5に新しいP6を加えるが、後者の拒否権は15年間凍結する。非常任理事国は4か国増やして14か国にする。理事会全体の議席は25になる。
アフリカ連合が出してきた決議案はさらなる大盤振る舞いを求めた(A/59/L.67)。アフリカとアジアに2ずつ、ヨーロッパとラテンアメリカ・カリブに1ずつ、拒否権付き新P6を選ぶ。非常任理事国は5議席増やして、安保理全体は26か国から構成されるようにする。
最後に、コンセンサス・グループ案が出た(A/59/L.68)。コンセンサスのために結集した、と自称するだけあり、G4の常任理事国入りに反対する国々から成るのがこのグループであった。G4にはそれぞれライバル国があり、ブラジルはアルゼンチンとメキシコ、ドイツはイタリア・スペイン・トルコ、インドはパキスタン、そして日本は韓国であった。カナダもグループの一員であった。コンセンサス・グループはG4の常任理事国入を拒み、非常任理事国のみの拡大を要求した。
G4案は加盟国の多数票を得ることができず採決に付されることさえなかった。それは「ギャング・オブ・フォー」(四人組)と陰口をたたかれ、改革を求める勢いは失速した。ちょうどBRICsという言葉が広まり、新興国の台頭が唱えられようとした時期の出来事であった。
常任理事国入りが前向きの国連改革であるとすれば、敵国条項の削除は第二次世界大戦という失点を挽回するための改革である。国連憲章の第107条は「第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であつた国」への連合国による戦後処理の効力を承認する。常識的にはいまさら削除しても実益はないであろうが、「この敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定される」強制行動を容認する憲章第53条1は油断ならない。万が一、日本に悪意を抱く国があって、この条文を口実に地域機構で反日的措置をとるようなことがあれば、どうであろうか?
1994年の総会決議は前文で敵国条項を「陳腐になっている」と認識し、本文で国連憲章からの削除について検討の手続きをとる、と記載した(A/RES/49/58)。翌年の決議は敵国条項を削除する憲章改正の手続きを始める、と表明した(A/RES/50/52)。ところが、憲章改正には総会構成国の3分の2以上による総会での採択と、3分の2以上の加盟国とすべての常任理事国の批准が必要である。せっかく憲章を改正するのであるから、常任理事国入りのような画期的な改正を一緒に行いたいと考える国も出よう。
常任理事国入りも敵国条項の削除も成功しなかった。これは当然の結果であった。日本が大国であると世界に認められる夢を見たい、という欲求に指導者も国民も動かされての「国連改革」であったからである。
本当のところ、国連は日本にとって有用なものなのであろうか? 北朝鮮による核兵器とミサイルの開発の問題は、国連の有用性を示す一例である。国連の制裁がなければ、北朝鮮の軍事大国化を見習い、核武装する国が続出したであろう。
北朝鮮に対する2006年の安保理決議は1回目の核実験への反応であった。核実験を非難し、核兵器・ミサイルの実験をしないよう要求し、NPT・IAEAへの復帰を求め、開発計画の放棄を義務づけ、他の加盟国には北朝鮮への武器輸出を規制させ、北朝鮮に六者協議に復帰するよう求めた(S/RES/1718)。
その後も、北朝鮮が核実験を行うたびに制裁が追加された。2回目の核実験を受けて、2009 年の決議は武器禁輸と金融制裁を強化した(S/RES/1874)。3回目の核実験後にも2013年に決議が発せられた(S/RES/2094)。水爆実験と称する4回目の核実験への反応は、2016年の決議であり、北朝鮮への航空燃料の輸出禁止などを追加した(S/RES/2270)。2017年には決議S/RES/2321、S/RES/2356、S/RES/2371、そしてS/RES/2375が、2018年にはS/RES/ 2397が、石油その他の対北輸出と北朝鮮労働者の受け入れを禁止した。日本が非常任理事国であった年には決議の採択に貢献することができた。
ただし、核実験のたびに制裁決議を打つことは対症療法である。非核化のためには制裁だけでなく、立ち入った北朝鮮との関わりを避けて通れない。拉致問題の調査を徹底してもらうことはもちろんであるが、北朝鮮の安全も一緒に考えなければならないし、エネルギー支援も必要であろう。非核化のめどが立てば、国交樹立が視野に入る。過去に韓国との国交樹立に際して行ったような経済協力を実行しなければならない。歴史認識問題にも直面することになろう。 「名誉ある地位」という表現が適切かは分からないが、日本が国際社会において一人前の存在になったことはまちがいない。さらに大国になろうと常任理事国に立候補したこともあったが、現状の国力とはギャップがある。歴史を顧みれば、拒否権そのものが行き過ぎた特権である。拒否権の存在は大国と小国を峻別し、国際構造の平和的な改革を著しく困難にしている。問題は安保理改革のような小さなことでなく、人類の存亡にかかわっている。
[1] 永野慎一郎、近藤正臣編、『日本の戦後賠償アジア経済協力の出発』、勁草書房、1999年、11-13ページ。
[2] Evan Luard, An History of the United Nations, vol. 1 (London: Macmillan, 1982), pp. 361-372. 財団法人日本国際連合協会、『Today’s Guide to the United Nations』、講談社、1998年、18ページ。
[3] 西原正、土山實男編、『日米同盟Q&A100』、亜紀書房、1998年。
[4] 朝雲出版社、『防衛ハンドブック 平成21年版』、朝雲出版社、2009年、451ページ。
[5] 『日本経済新聞』、朝刊、2011年4月17日。「世界が応援団届いたエール…日本とともに!」, 外務省国内広報課, December 2011, https://web.archive.org/web/20140629000800/http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/ pub/pamph/pdfs/ouendan.pdf, accessed on February 11, 2022.
[6] アジア調査会、『日本人は「国連」を知らない』、本の出版社、1995年、82ページ。
[7] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、178-179、213ページ。
[8] 国連改革に関する有識者懇談会, 「21世紀における国連の役割と強化策」, 外務省, June 28, 2004, https://web.archive.org/web/20070709173426/http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_ kaikaku/pdfs/ykaigo_final.pdf, accessed on February 11, 2022.
[9] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、113、167ページ。“第59回国連総会における小泉総理大臣一般討論演説新しい時代に向けた新しい国連(「国連新時代」)(仮訳),” 外務省、November 21, 2004, https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/16/ekoi_0921.html, accessed on March 5, 2026.
[10] High-Level Panel on Threats, Challenges and Change, “A More Secure World: Our Shared Responsibility,” A/59/565, at 66-69, para. 244-260.
© 2026 Ikuo Kinoshita
日本の領土紛争
武力不行使と領土保全は現代世界の大原則である。五大国でない日本のような国は平和的に領土要求をしなければならない。誰が応じるのであろうか?、と軽々しく言うべきでない。それが国際秩序なのであるから。今回のテーマは、日本が現在、抱えている領土問題に関して、日本とその相手国はどのような主張をしているか書きなさい、である。
ウォルター・リップマンは20世紀前半に活躍したジャーナリストである。彼はハーバード大学を卒業したアメリカ的なエリートの先駆けであった。T・ウッドロウ・ウィルソン大統領のもと、第一次世界大戦を終わらせるために14か条の平和案を書き起こし、パリ講和会議に参加した。その経験を活かして書いたのが名著『世論』である。そのなかに、ルリタニア国のおとぎ話が出てくる。この架空の国は野望に任せて、次々と領土を要求する。
第一の地域はたまたま外国の農夫たちが住む山岳地帯であった。ルリタニア国は、その国の自然の境界線をきちんと守るように要求した。しかし、ここでいう自然とは何だろうか。その説明しがたいものの真の意味にながいこと注意を集中していると、外国人の農夫たちの姿は霧のなかに溶けてなくなり、山々の斜面だけが見えてくるのだった。二番目の地域はというと、こんどはルリタニア人の居住地であった。いかなる国民も外国の支配下に生きるべきではないという原則に基づいて、これもまた併合された。次はかなり商業的に重要な一都市であったが、ルリタニア人は住んでいなかった。しかし、「十八世紀」まではルリタニアに属していた地域であったために「歴史的権利」という原則に従って、これも併合された。さらには外国人の所有で外国人が労働に従事しているすぐれた鉱山があった。これは損害賠償の原則によって併合された。
その次の地域はその九七パーセントが外国人居住者であり、自然の地理的境界線から言っても他国のものであり、歴史的にもルリタニアに属したことは一度もなかった。しかし、ルリタニアに統合されたことのある州のうちの一つが、かつてそこの市場で取引きを行っていたことがあった。そのためこの地域の上流階級はルリタニア風の文化生活を営んでいた。そこで文化の優先と文明擁護の必然性という原則に基づき、その地方に対して領土権が請求されることになった。最後にある港があった。そこは地理的に、人種的に、経済的に、歴史的に、伝統的に、ルリタニア国とはまったく関係がなかった。しかし国家防衛上不可欠だからという理由で請求がなされたのである。[1]
リップマンは領土を要求する根拠のステレオタイプ(紋切り型)を並べたわけである。自然の境界、住民、歴史、損害賠償、文化、そして安全保障である。政治家はこれらを言い立て、世論の支持を得る。各国民は政治家が熱く説く自国の要求が正義であると信じている。
国際法は、べらぼうな各国の要求に制約を加えようとする。領土を取得する資格を与えるものを、法学では権原という。領土取得の権原は割譲・併合・征服・先占・時効・添付である[2]。帰属が争われる土地について、各当事者が自国の権原を言い立てる。条約などの合意は、そうした食い違いを解決する際の手がかりになるが、合意があっても安心できない。なぜなら、記載された地名が不明確であったり、紛争当事国のすべてが合意の締約国でなかったりするからである。
軍事力か、国際法か、というのは古くからの論争である。五大国のような軍事大国は、帰属が争われる土地を実効支配してしまえば、国際法のつじつまを合わせることは難しくないと考える。
北方領土、竹島、そして尖閣諸島という日本が関わる領土問題について、当事国はどのような主張をしているか? これが以下で答える問いである。北方領土を争う相手はロシア、竹島は韓国、そして尖閣諸島は中国・台湾である。これらの問題には共通点がある。第二次世界大戦で負けたことが日本の立場を悪くしたことである。紛争相手国は幕末以降の領土取得をことごとく否定する。敗戦後の占領・冷戦・国交断絶という歴史も相互の理解を妨げた。
北方領土の範囲は北から、択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島というかぎかっこ付きの「四島」である。歯舞は群島であり、附属する小島はもっとたくさんある。
北方領土の範囲は1855年の日露和親条約(別名、下田条約)が、千島列島のうち、択捉以南を日本領に、ウルップ以北をロシア領にしたことに理由がある。それ以前はアイヌが住む土地に日本人とロシア人が錯綜して入り込んでいた。この時以来、四島は1945年までの90年間、日本が支配した。敗戦まで、日本以外の支配が国際的に承認されたことがなかった事実が、「固有の領土」と北方領土を日本が呼ぶ根拠である。
千島列島全体が日本領になったのは1875年の樺太千島交換条約によってであった。第二次世界大戦までの70年間、千島列島をめぐる状況は変わらなかった。1945年8月9 日、4年前に結んだ日ソ中立条約の効力が残っていたにもかかわらず、ソビエト連邦は中立を守る義務を無視して、参戦した。9月5日までに、択捉・国後・色丹・歯舞は占領された[3]。アメリカ合衆国はその年2月のヤルタ会談で、中立条約を破って参戦する見返りとして、千島列島と南樺太のソ連領有を認めていた。
戦後、サンフランシスコ平和条約が1951年に結ばれ、日本は翌年、主権を回復した。第2条において、千島列島と南樺太は放棄された。これはヤルタでの米ソ密約のとおりである。サンフランシスコ平和条約は片面講和と呼ばれるように、アメリカ合衆国との間では成立したけれども、ソ連とは結ばれなかった。ソ連/ロシアに対して放棄の義務には縛られない、と日本は主張できる。
北方領土問題の難しさは、その時々の国際情勢に左右されることである。主権回復した時、唯々諾々と、ソ連の領有を認める空気はなかった。逆に、ソ連の支配を不当とするさまざまな理由があった。北方領土は中立条約に違反してソ連が参戦したことによる不法占拠の状況にある、と考えることもできた。ソ連が加わった連合国は、カイロ宣言において領土不拡大を唱えたはずであった。他国から奪ったわけでない「固有の領土」である北方領土の部分は放棄するいわれがなかった。こうして北方領土という概念が生まれた。
しかし、ソ連は国連の常任理事国であった。国際社会の世渡りには、大国の協力を仰がなければならないことがある。1955年、日本による国連加盟の申請がソ連の思惑によって阻まれた。国際社会への復帰さえままならない事態を打開するために翌年、鳩山一郎総理大臣がモスクワに乗りこみ、日ソ共同宣言に署名し、国交回復を成し遂げた。宣言の北方領土に関する部分を引用する。
9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
ソ連はエサを日本の鼻先にぶら下げて、さらに努力をさせようと考えたのであろう。あわよくば、アメリカ合衆国から引き離し、中立化しよう、と目論んだかもしれない。同じ目論見は西ドイツに対してもあった。日本が合衆国をはばかって、ソ連に好都合な平和条約に応じないならば、永遠に歯舞群島と色丹島が日本に引き渡されないだけである。
アメリカ合衆国の側も日本がソ連に接近しないよう、予防策を打った。それが「ダレスの恫喝」と呼ばれるものである。ジョン・F・ダレスは民主党政権においてサンフランシスコ平和条約の締結に貢献し、共和党政権では国務長官に就いた。日本が千島列島におけるソ連の主権を認めるのであれば、沖縄は返さないぞ、と脅したのである[4]。
「ダレスの恫喝」には根拠があった。サンフランシスコ平和条約の第26条は一種の最恵国待遇を締約国に与えていた。締約国以外の国に有利な取り計らいをするならば、同等の取り計らいを締約国に及ぼさなければならなかった。日本は米ソの板挟みになった。
アメリカ合衆国と近づけば、ソ連は逆に遠ざかる。1960年に新安保条約を日米が結ぶと、外国軍隊の日本からの撤退、という新たな条件を歯舞・色丹の引き渡しにソ連は加えた。言うまでもなく、外国の軍隊とは在日米軍のことである。これが1960年の「ソ連政府の日本政府に対する覚書」の内容である[5]。
逆に、ソ連が日本をつなぎ留めたい、と考えるならば、鼻先のエサに改めて注意を向けさせればよい。1973年の日ソ共同声明で、両国は平和条約の交渉を続けることに合意した[6]。先だっての米中接近、日中接近への対策として、日本をつなぎ留めておく意図がソ連にあったにちがいない。
冷戦の終結は、こうしたパワーゲームを終わらせると考えられた。ソ連は崩壊して、ロシア連邦が北方領土の支配者になった。1993年の東京宣言は、細川護熙総理大臣とボリス・エリツィン大統領によって発せられた。四島の領土問題を法と正義の原則を基礎にして解決する指針が示された。1997年のクラスノヤルスク合意では、2000年までに平和条約を締結するよう努力することを橋本龍太郎総理大臣とエリツィン大統領は表明した。2001年のイルクーツク声明は、森喜朗総理大臣とウラディミル・プーチン大統領のものであったが、日ソ共同宣言が基本的な法的文書であると確認した[7]。どれもが禅問答のように抽象的で、交渉の進展にはつながらなかった。
この間、交渉に当たっての日本側の方針は、明らかに後退した。20世紀の間は四島一括返還論が大手を振っていた。アルコールへの依存と病気によって衰えたエリツィン大統領が相手であれば、経済援助と引き換えに何とかなると思われた。21世紀に入って、前任者ほどお人好しではなさそうなプーチン大統領が交渉相手になると、甘い期待はしぼんだ。、日本政府は二島先行返還へと目標を下げて交渉していたが、世論にすんなりと受け入れられたわけでなかった。
2012年に始まった2回目の安倍晋三政権は北方領土問題を外交の柱とした。安倍総理大臣が勝負に出たのは2018年のシンガポール会談においてであった。プーチン大統領に彼が提案したのは、二島返還プラス共同経済活動であったとされる。日ソ共同宣言の対象でない択捉島と国後島の返還は求められなかった。この渾身の賭けはウクライナ問題とミサイル防衛問題のために日ロ関係が悪化したため、実を結ばなかった[8]。対するロシア側の主張は、第二次世界大戦の結果として北方領土はソ連領となったので、領土問題は存在しない、というものである。
つぎに、竹島であるが、一般人が住めない絶海の小島である。現在におけるこの島の価値は周囲に広がる海の資源への主張、すなわち権原、にある。1982年に採択された国連海洋法条約は陸から12カイリを沿岸国の領海、12カイリから24カイリを接続水域、それらを含めて岸から200カイリを排他的経済水域(EEZ)とする。島も陸地であるので、これらの海域を獲得できる。
特に、他国と排他的経済水域が重なる部分では、島は自国の水域を相手側に食い込んで広げる効果がある。海を隔てて他国の岸と向き合い、間に島がある場合、こちらの島と他国の岸との中間線が境界になる。また、陸上で他国と境を接し、沖合に島がある場合、こちらの島と他国の海岸との等距離線が境界になる。これでは、水域の取り合いがあまりに熾烈になるので、海洋法条約の第74条は、対岸国または隣接国の間の境界画定は国際法に基づき合意により行うことを義務づけた[9]。
日本と韓国の間では、1996年に海洋法条約が両国で発効した。3年後に新しい漁業協定が結ばれた。竹島の帰属には争いがあるため、その周辺は暫定水域とされ、両国の漁船が水産物を獲れることにした。ただし、日本の漁船は韓国側の警備を恐れて漁ができない、という話もある[10]。
韓国では「独島」(ドクト)という竹島をめぐる紛争は、200カイリへの漁業水域拡張よりも古い。そもそも日韓が開国する前の竹島の地位からして認識に違いがある。韓国側はいろいろな主張をしている。日本側はそれらのすべてを否定している。もともと定住できる土地ではなく、往来も困難であるので、実効支配と称しえるものはなかった、と断言できる。
領土問題の始まりは、自国が主権を持った領域国家であると日本が認識し、その領域を広げることを国家の目標とした明治時代のことであった。そして、強国としての自信を付けた日露戦争の最中である1905年、竹島の帰属を日本政府は閣議決定し、島根県知事が告示をした。
日本は第二次世界大戦で敗れ、アメリカ合衆国に占領された。1946年、連合国最高司令官覚書(SCAPIN)の第677号は、政治・行政上、竹島を日本から分離した。また同第1033号は日本の漁業区域から竹島を除外した。後者がいわゆるマッカーサーラインである。いずれの覚書にも、それらの決定は竹島の帰属には影響しないと書かれていた[11]。5年後のサンフランシスコ平和条約は第2条(a)において、「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権」を日本に放棄させた。ここに竹島の名はない。
ところが、韓国の李承晩大統領は1952年、竹島を含む水域に主権を宣言した。これが李承晩ラインである。さらに、1954年、竹島に韓国の警備隊員が常駐した。この年に、日本は国際司法裁判所への付託を提案した[12]。以来、韓国による実効支配が続く。
最後の尖閣諸島は孤島ではなく、その名の通りいくつかの島々から成っている。古くは、琉球王朝の沖縄と清朝の中国とを結ぶ航路であった。1719年に清の冊封使、徐葆光、が琉球に渡り、のちに『中山伝信録』を著し、尖閣諸島を構成する久米島を「琉球西南方界上鎮山」と表現した。日本の学者である林子平はこの本に依って、1785年に『三国通覧図説』を著した。付属の地図には、やはりその島の一つである「釣魚島」が中国本土と同じ赤で塗られる[13]。これらが尖閣諸島を中国領とする説の主な根拠である。清の使節は通りがかっただけで、実効支配をした証拠はなく、仮に林子平が中国領と認識していたとしても、それは政府の認識ではない、とこの説は批判される。
江戸時代の琉球王朝は中国と日本に両属していた、と言われる。国王を任命していたのは明と清であり、間接統治をしていたのは薩摩藩であったからである。明治政府は1879年に琉球処分を行い、官選の沖縄県令を任命した。
宗主国であった中国は琉球処分に反対した。翌年、宮古・八重山諸島を沖縄本島などから分け、清国領とする分島交渉が行われた。これは失敗し、日清の紛争は続いた。沖縄の帰属さえ不安定であったゆえに、日本はできるだけ中国を刺激しないようにした。その一方で、1885年には、内務省が魚釣島についての調査を沖縄県に内命した。中国をはばからなくてよくなったのは、日清戦争が起きてからである。ついに1895年、魚釣島と久場島を沖縄県の所轄とする閣議決定がなされた。国際法における権原の分類では、無主地の先占に該当する。こうして、尖閣諸島は日本領になった。古賀辰四郎という実業家がすぐに魚釣島の開拓に乗り出した[14]。
第二次世界大戦まで、沖縄はもちろん、台湾までが日本領であった。どうして、それらにはさまれた尖閣諸島に対してだけ、中国は自国の領土であると主張できるのであろうか?
尖閣諸島が沖縄でなく、台湾に付属するものであった、と仮定すれば、台湾と同じく日本が「盗取」した地域ということになるかもしれない。では、戦後、サンフランシスコ平和条約は尖閣諸島をどのように扱ったのか? 第2条(b)に基づいて、台湾と一緒に放棄されたのか? それとも、第3条に基づいて、沖縄とともにアメリカ合衆国の統治下に入ったのか? 実際は後者であった。
近代史が示すことは、中国・台湾による尖閣諸島の領有に、根拠らしいものは見当たらないことである。それにもかかわらず、中国と台湾が自国の領土であると主張した理由は何であったろうか? 近年は、尖閣諸島というと安全保障や漁業との関連で言及されることが多い。しかし、以前は海洋資源が理由であると言われてきた。
1968年、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は周辺海域に石油および天然ガスが埋蔵されている可能性を報告した。1971年に沖縄返還協定が署名されると、中国外交部は魚釣島などに対する日本の主権を否認した。1992年には、中国の領海接続水域法が尖閣諸島を中国領とした[15]。
現に、東シナ海で中国はガス田を開発している。それがニュースになったのは2007年ごろであった。日中間では排他的経済水域の境界について合意が成立していない。日本は海洋法条約に基づき中間線を主張するのにたいし、中国は大陸棚条約に基づき大陸棚の主権的権利を主張する。問題なのは、中国は大陸棚の自然延長が中間線よりもはるかに沖縄の島々に肉薄する沖縄トラフにまで達するとしながら、日本側の排他的経済水域との境界線を示さないことである。2023年12月末の時点で、尖閣諸島の北方洋上18か所に構造物を置き、ガスを採っているとみられる。救いは、中間線から日本側にはみだしていないことである[16]。島々が中国領になればさらに大規模に開発できる。
以上、北方領土・竹島・尖閣諸島の紛争について当事国の主張を見てきた。共通点を三つ挙げる。第1に、近代国家として日本が富国強兵に努力するなかで獲得した領土が争われている。第2に、日本の敗戦が大きな転機となった。第3に、武力不行使、領土保全、そして排他的経済水域という国際秩序が当事国の主張に影響している。
最後の排他的経済水域についてもう少し掘り下げる。日本の最南端にある沖ノ鳥島は水没の危機にあり、東京都によって水没から守るためのコンクリートで囲う工事が施された。無理なことまでして無人島を守る必要があるのか? また、それは島ではなく岩にすぎない、という意見もある。
しかし、小島にすぎない沖ノ鳥島によって、広い排他的経済水域が日本のものになっている。推測になるが、日本の持つ排他的経済水域の面積は世界のトップ10に入るであろう。推測になってしまうのは、各国の主張と国際的な承認のあるなしによって、面積は大きく変動するからである。主張もせずに、莫大な水産資源や鉱物資源をみすみす逃してしまうのは惜しい。 海洋法条約が200カイリという広い排他的経済水域を認めたことにより、世界中で領土紛争が激しくなった。この条約が提供する平和的な紛争解決のメカニズムは不十分である。しかし、戦争による解決の時代に戻ることはできない。領土紛争に対しては、与えられた枠組みのなかで粘り強く主張し続けるしかない。
[1] W・リップマン、『世論』、上、掛川トミ子訳、岩波書店、178-179ページ。
[2] 太寿堂鼎、『領土帰属の国際法』、東信堂、1998年。
[3] 長谷川毅、『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』、中央公論新社、2006年、446ページ。
[4] 宮下明聡、『ハンドブック戦後日本外交史―対日講和から密約問題まで』、ミネルヴァ書房、2017年、47-48ページ。
[5] 日本国外務省、ロシア連邦外務省編、『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』、1992年。
[6] 日本国外務省、ロシア連邦外務省編、『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』。
[7] 橋本光平、『国際情勢早わかり2001年版』、PHP研究所、2000年、93ページ。中澤孝之、日暮高則、下條正男、『図解 島国ニッポンの領土問題』、東洋経済新報社、2005年、17ページ。
[8] 北海道新聞社、『消えた「四島返還」 安倍政権 日ロ交渉2800日を追う』、北海道新聞社、2021年、11ページ。
[9] 芹田健太郎、『島の領有と経済水域の境界画定』、有信堂、1999年、2-3ページ。
[10] 中澤、日暮、下條、『図解 島国ニッポンの領土問題』、17ページ。
[11] “第二次大戦直後の竹島,” 外務省, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_taisengo.html, accessed on March 4, 2026.
[12] 芹田、『島の領有と経済水域の境界画定』、225-239ページ、をもとに作成。岩下明裕編、『国境・誰がこの線を引いたのか―日本とユーラシア』、北海道大学出版会、2006年、126、134-135ページ。松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、102ページ。
[13] 井上清、『「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明』、第三書館、1996年。
[14] 芹田、『島の領有と経済水域の境界画定』、196-225ページ。
[15] 芹田、『島の領有と経済水域の境界画定』、196-225ページ。橋本、『国際情勢早わかり 2001年版』、91ページ。
[16] “東シナ海における資源開発に関する我が国の法的立場,” 外務省, August 3, 2015, https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/page3_001302.html, accessed on March 4, 2026; “中国による東シナ海での一方的資源開発の現状,” 外務省, December 19, 2023, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/higashi_shina/tachiba.html, accessed on January 16, 2026; “[地図],” 外務省, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100418504.pdf, accessed on March 4, 2026; 中澤、日暮、下條、『図解 島国ニッポンの領土問題』、43、47ページ。
© 2026 Ikuo Kinoshita
日本の外務大臣
外務大臣は外交官のトップである。内政や軍事にも注意を払わなければならない首相や大統領といった行政長官とは違い、外交、すなわち平和的な交渉、に専念する。自国の在外公館からの報告を読み、必要な訓令を送る。本省のスタッフとともに、情勢を分析し、政策を練る。しかし、外務大臣は国民に直接選ばれることはない。元首や行政長官によって選ばれ、任じられる。業績を上げられるかどうか以前に、任命権者のお眼鏡にかなわなければ任を解かれる。今回のテーマは、過去と現在において、日本の外務大臣に与えられた課題と任命権者との関係はどうであったかについて論じなさい、である。
日本の外務省は1869年に設置された。長である初代の外務卿は公家出身の澤宣嘉であった。外務大臣という名称になっての初代は長州藩出身の井上馨であった。澤以降の外務卿・外務大臣はすでに150代を超える。以下では、歴代外相のなかから一握りの者を選んで、簡単な考察を加える。
副島種臣は第3代の外務卿である。出身は佐賀藩士であった。尊王攘夷に参加した幕末の志士のうちでは高齢であった。外交上の業績としては、1872年に人権問題であるマリアルス号事件を取り扱った。翌年には、清を訪れ、日清修好条規の批准書を交換した。政府のなかでも年長であったので、気兼ねせず外国事務を扱い、ときに感情的になることもあった。我々が彼の名を知るのは、退任後に提出した民撰議院設立建白書の署名によってでなかろうか。
井上馨は言わずと知れた長州閥の実力者である。「三井の番頭」と呼ばれるほど経済界と深いつながりがあり、現代での評判はかんばしくない。外交面では、いわゆる鹿鳴館外交を推進し、文明開化のために尽くした。折しも朝鮮では、開化派を支持する日本と事大派を支持する清との抗争である甲申政変が起き、井上はこの事件を処理するために、朝鮮と漢城条約を結んだ。
大日本帝国憲法は1889年に公布され、1890年に施行された。その憲法のもとでは、天皇と総理大臣以下の国務大臣との関係は、天皇と一対一の上下関係である。第4条では、「統治権ヲ総攬」するのは天皇であると定められる。大臣の任命権者も天皇であり、天皇が「文武官ヲ任免」する(第10条)。第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とだけあって、総理大臣とそれ以外の大臣との区別はない。
内閣官制は、大日本帝国憲法と同じ年に発せられた勅令である。総理大臣と他の大臣との違いはもっぱら機能的なものであり、前者は「同輩中の首班」として理解される。この表現は内閣官制第2条「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」の文言に由来する。総理大臣の特殊な役割は、今日風に言えば、閣内の総合調整にかぎられたわけである。
陸奥宗光は紀州藩士の家に生まれるも、脱藩し、幕府の海軍塾に入った。その後、海援隊に入隊したことから、土佐の志士とのつながりが深かった。維新後、二十代後半の若さで神奈川県知事になったものの、立志社の獄に巻き込まれて懲役刑に服した。出所後、留学を経て、明治政府に出仕し、駐米公使、農商務大臣、衆議院議員などを歴任して外務大臣に就いた。彼には条約改正と日清戦争の業績がある。1894年にイギリスとの通商航海条約に調印し、領事裁判権を撤廃した。
陸奥の『蹇蹇録』は日清戦争をめぐる外交の経過を記すが、戦後の朝鮮の地位に関する記事がある。戦争が始まって間もなくの1894年8月17日、彼はその問題を閣議に上げた。4つの選択肢があった。不干渉は、朝鮮の独立にすべての国が干渉しないというもの、単独保護は、日本だけで朝鮮の独立を助けるというもの、共同保障は、日本と清の両国がその独立を担うというもの、中立は、朝鮮を中立国とするというものである。閣議では、日本の単独保護を目的にするという結論になった[1]。さまざまな選択肢があって、一つ一つ吟味して悩んだが、単独保護に勝るものはなかった、と彼は言いたいのであろう。現実には、清を倒しても、この結論にロシアもイギリスも同意したわけでなく、日本の一存では決められなかった。
小村寿太郎はキャリア外交官の出身である。駐清公使を務めた経験がある。1902年に日英同盟を締結した。これを基礎に行われた日露戦争においては、ポーツマス講和会議の代表となり、1905年にポーツマス条約を結んだ。同じ年に韓国保護条約を、1910年には韓国併合条約を締結した。1911年に関税自主権を回復した。
小村外交の軸は戦争とその勝利であった。日本外交史随一の殊勲であったと評価されるのはもっともである。しかし、朝鮮と満州への深入りは国家の浮沈を運命づけた。
加藤高明は愛知県出身で東京帝国大学に進んだが、三菱社長の岩崎弥太郎の娘婿となった。外務大臣在任中の1915年に対華21か条要求を行った。
内田康哉の外相在任期間は長かった。初めはベルサイユ体制を支持していたが、後期は満州事変において時勢の赴くところに順応した。1933年、日本は国際連盟から脱退した。焼け野原になっても満州をあきらめないという姿勢は「焦土外交」と皮肉られたが、シャレですまなかった。
幣原喜重郎も三菱社長の岩崎弥太郎の娘婿である。興味本位で繰り返してるのではなく、戦前の政治家は幕末の志士上がりは別として、名門出身か、結婚によって閨閥に入るかしていなければ出世できなかったことを言いたいのである。話を戻すと、彼は国際協調路線のいわゆる幣原外交を推進した。1930年、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。敗戦後の占領期には総理大臣を務めた。
広田弘毅は駐ソ大使などを歴任した外交官であった。初めての外務大臣の任期では、協和外交を推進した。その後、総理大臣を経ての2度目の外務大臣時代に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まった。東京裁判では、文官のA級戦犯として唯一、死刑の判決が下され、執行された。
松岡洋右といえば、国際連盟総会において全権代表として演説したのち退場したことで知らぬ者はない。その後、外務大臣に出世した。特筆すべきは1940年の日独伊三国同盟条約と1941年の日ソ中立条約の締結である。これらは枢軸国側に立っての日本の戦争参加を決定づけた。
重光葵は駐華公使在任中の1932年、上海で天長節の日に爆弾テロに見舞われ、片足を失った。外務大臣の職にあった戦中の1943年、大東亜会議を行い、1945年には戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した。戦後は鳩山一郎内閣で外務大臣を務め、1956年、ソ連との国交回復交渉を進め、国際連合への加盟を果たした。困難な時期に必ず成果を残した仕事師であった。
敗戦は外務大臣の地位を一変させた。1946年に公布され、1947年に施行された日本国憲法は、天皇を「統治権ヲ総攬」する者から、内閣の助言と承認のもとで国事行為を行う者へと、政治の主役の座から降ろした(第7条)。国務大臣の任免を認証することも国事行為に含まれる。行政権は内閣が握ることになった(第65条)。内閣総理大臣は天皇が任命するものの、国会の指名に基づかなくてはならない(第6条1)。総理大臣は内閣の首長であり(第66条)、もはや国務大臣の「同輩中の首班」ではない。総理大臣は国務大臣を任命することも、罷免することもできる(第68条)。
こうして、外務大臣は他の国務大臣と同じく、総理大臣との上下関係に置かれることになった。航空機の発達により、首脳自らが外国に出かけ、外交の表舞台で活躍することが重要になった。外交の大仕事は総理大臣のものであり、外務大臣は地ならしに甘んじなければならない。
吉田茂は敗戦直後の東久邇内閣と幣原内閣で外務大臣を務めたばかりでなく、自ら総理大臣に就いても外務大臣を兼任した。ワンマン宰相は彼のあだ名であるが、外交分野では完全にそうであった。当時は占領下にあったから、外交も、内政も、連合国軍総司令部(GHQ)との関係が中心であった。彼はサンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約を締結した。
藤山愛一郎は岸信介内閣の外務大臣である。1960年、アメリカ合衆国と新安全保障条約を結んだ。
大平正芳は2度、外務大臣に就いた。池田勇人総理大臣のもと1962年、韓国との請求権問題に関して、大平・金メモに合意した。田中角栄総理大臣のもとでは、1972年、田中と大平は中華人民共和国の周恩来および姫鵬飛とともに、日中共同声明を発した。これら大きな業績は池田と田中という強い指導者のもとであったから可能であった。大平は総理大臣の在任中、1979年の東京サミットにおいてホストを務めた。
椎名悦三郎は佐藤栄作内閣で外務大臣となった。1965年、日韓基本条約を結んだ。
愛知揆一は佐藤内閣で外相を務めた一人である。1971年、アメリカ合衆国との沖縄返還協定に署名した。
園田直は福田赳夫総理大臣のもと、1978年、中国と平和友好条約を締結した。
川口順子は対テロ戦争中の2002年に就任し、アフガニスタンにおける平和の定着のために尽力した。珍しく、国会議員でない外務大臣であったが、官僚出身の事務能力を活かし、大任を果たした。
岸田文雄は安倍晋三内閣において外務大臣を務めた。2015年、韓国と慰安婦に関する合意を行った。
戦後の外務大臣は少数の例を除けば、国会議員である。必ずしも就任以前から外交に関心を持っていた者ばかりではない。そのうえ、政治的には総理大臣に依存し、功績はほとんど政治決断を下す総理大臣のものとされる。そうした意味で、外相の職は立身出世の一里塚でしかない。外交の実績で、選挙の票をとれるかは分からない。とにかく、外交は国内政治に従属している。
外交がグローバルガバナンスに従属する日は来るであろうか? 国際連合やEUのような国際機構に、誰が代表として参加するかが目安になる。現状では、行政長官が選んだ大使が国の代表になる。場合によっては、行政長官自らが代表になることもある。国際連盟でのブリアン、チェンバレン、シュトレーゼマンがそうであった。この段階までは、国政の指導者が外交を統制する。
アメリカ合衆国の州に注目しよう。元来、それぞれ国家であった州が自らの上に連邦を作り、その一部になった。州の政治を担うのは知事であり、連邦への代表は2名の上院議員である。これらはともに州民から直接、選ばれる。つまり、州政治の指導者は連邦への代表を指揮・統制しない。 国家がアメリカ合衆国の州のようになれば、外交の責任者を国民が直接、選挙する。国民は最も外交能力が高い者を選ぶチャンスを手にするかもしれない。ただし、国政指導者と外交指導者の方針が大きく異なれば、国は論争で割れ、ナショナリズムは低下し、対外政策は漂流し始めることになる。
[1] 陸奥宗光、『蹇蹇録』、岩波書店、1983年、158-160ページ。
© 2026 Ikuo Kinoshita
G7
G7、すなわちグループ・オブ・セブン、はかつて日本語では「先進国首脳会議」と訳された。7か国以外にもスイスや韓国といった先進国があるので、もうこの訳語は不適切であるのであろう。現在は、「主要国首脳会議」が正式の訳である。これにはこれで、中国やロシアはどうなのか?、といった異議が出るかもしれない。さらに「サミット」だけでG7を指すことがあるが、サミットは首脳会議の意味の普通名詞で、固有名詞ではない。今回のテーマは、1975年から現在まで、G7サミットの役割がいかに変化したか、解説しなさい、である。
基本事項から始める。G7の起源は1970年代前半の国際通貨に関する話し合いである。西ドイツとフランスの財務大臣が1973年にホワイトハウスを訪れ、アメリカ合衆国の財務長官と会った。この時の西ドイツの財務大臣が後に首相になるヘルムート・シュミットで、フランスの財務大臣がバレリー・ジスカールデスタンであった[1]。この会合が評価されて翌年、大統領になっていたジスカールデスタンが経済問題を話し合う首脳会議を開くことを提案し、1975年に1回目の首脳会議ランブイエ・サミットが開かれた、という経緯であった。
G7の目的では、当時は経済問題の解決が緊急課題であったが、西側先進国の結束を世界に見せることは変わらぬ重要性を持つ。全首脳の姿を収める集合写真はこの目的にとりわけ有効である。並び順は外交儀礼に従い、中央に開催国の首脳、隣に他国大統領が立ち、在職日数が浅い首相たちと欧州理事会議長(かつては欧州委員会委員長)が端に写りこむ。
G7には設立条約といったものがない。もともと、首脳たちが率直に意見を交換して、気心をつうじ合うことが趣意である。当日、何のすり合わせもなくいきなり首脳たちが意見をぶつけ合ったのでは、成果を残せないどころか、不満や不信だけを残して帰る事態さえ起こりうる。そのようなことがないよう、シェルパという首脳の個人代表たちが事前の準備をする。シェルパとはヒマラヤの登山者の案内役を意味し、山頂の意味もあるサミットを山登りに喩えたものである。官僚がシェルパに選ばれると官僚的になってしまうのは自然の道理である。
扱う争点はさまざまである。第1はマクロ経済の政策調整である。G7は世界経済の総需要を拡大するために、協調してケインジアニズムの財政・金融政策を実施する。失業とインフレーションとはトレードオフであるので、微調整しなければならない。ケインジアニズムは1980年代にアメリカ合衆国の財政赤字が拡大し、マネタリズムの影響が強くなると下火になった。
第2の争点は金融と貿易である。G7には首脳会議だけでなく、財務相・中央銀行総裁会議や貿易相会議もある。為替相場と貿易収支はつねに議題となる。
第3はエネルギー問題である。主要な消費国でもあるG7がエネルギーの供給および価格の安定を唱えることに不思議はない。
サミットが第5の争点、政治問題、に本腰を入れるのに時間はかからなかった。テロ・紛争・大量破壊兵器といった外交・安全保障課題に、西側自由主義陣営としてワンボイスで立場を表明すれば、強い効果がある。
第6はグローバルイシューズである。G7は先進国であるので、開発、環境、あるいは保健の分野においてノブレスオブリージュ(高貴な責任)を担う。
ここからは第1回からの歴史を振り返る。1971年の金ドル交換停止と1973年の第一次オイルショックは経済面でアメリカ合衆国のリーダーシップを疑問視させた。先進国は高インフレ下の低成長、すなわちスタグフレーション、を克服するため、1975年の第1回のランブイエ・サミットに集い、インフレなき成長を目標とした。
実はランブイエでの参加国はG6であった。閉会後、2回目を開くことが決まり、カナダが参加することになった。G7最初の会合がプエルトリコ・サミットである。
第3回のロンドン・サミットでは、EC(欧州共同体)の委員長が初参加した。具体的な争点で衆目を集めたのは、経済政策についてアメリカ合衆国のジミー・カーター大統領と西ドイツのシュミット首相が対立したことであった。日米独機関車論といって、この3国が積極的に公共支出を増やして景気を押し上げることが期待されたが、インフレの抑制を重視する西ドイツはこの方向に抵抗した。
1970年代には中東情勢が激変し、それに伴ってテロリズムと石油価格の高騰が世界を揺さぶった。例えば、1977年には日本赤軍がハイジャックを行ったダッカ事件があった。
1978年のボン・サミットはハイジャックに関する声明を発し、G7は共同戦線を張った。犯人の身柄引渡しと訴追を拒絶する国には、すべての航空機の運航を停止させる、という毅然とした内容であった。
1979年に第二次オイルショックが起き、その年の東京サミットは石油の消費および輸入の上限目標を決め、省エネが国際約束になった。また、インドシナ難民に関する特別声明は、難民の受け入れという人道問題に踏み込んだ。その年、日本は初めて難民の定住を政策として実行した。大平正芳総理大臣が首脳会議の議長を務めた。
1979年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻は「新冷戦」という東西関係の緊張をもたらした。翌年のベネツィア・サミットはアフガニスタンからのソ連の撤退を求めた。その年、タカ派で知られた元俳優のロナルド・レーガンがアメリカ合衆国大統領に選ばれた。1981年のオタワ・サミットと1982年のベルサイユ・サミットでは、彼とフランスのフランソワ・ミテラン大統領との対立が注目を浴びた。
イギリスのマーガレット・サッチャー首相はフォークランド紛争に勝ち、一躍、人気の指導者になった。彼女の経済政策であるサッチャリズムはレーガンのレガノミクスと並び、新自由主義の双璧になった。細かい違いはいくつもあるが、ともに福祉を切り捨てたと批判された。
1983年のウイリアムズバーグ・サミットは新自由主義の高まりを印象づけた。集合写真の撮影で、レーガンとサッチャーの間に割り込んだ就任間もない首脳が日本の中曽根康弘総理大臣であった。彼は新自由主義的と評される国鉄の分割民営化で歴史に名を残すことになる。翌年の第10回首脳会議はふたたびロンドンで開かれた。ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党の書記長になり、東西関係の緊張は緩和した。
1985年のボン、1986年の東京、1987年のベネツィア、そして1988年のトロント、とG7は回を重ねた。リビアによるテロは多くの命を奪い、中曽根がホストを務めた東京サミットは国際テロリズムに対する声明を発した。
1989年のアルシュ・サミットはパリの新開発地区でフランス革命二百周年を祝った。反対に、民衆のデモを弾圧した第二次天安門事件を受け、中国に対するハイレベルの接触は止められた。1990年のヒューストン・サミットはゴルバチョフを支持し続けた。その一方で、冷戦後のグローバル・パートナーシップを描く仕事が始まった。G7は気候変動枠組条約の策定に合意した。
1991年のロンドン、1992年のミュンヘン、1993年の東京、1994年のナポリ、1995年のハリファックス、そして1996年のリヨン、と先進国主導のグローバリゼーションを推進するフォーラムとしてG7は存続した。1997年のデンバー・サミットでは、ロシアのボリス・エリツィン大統領が一部の日程を除いて正式参加し、G8になった。
1990年代、世界中で発生した通貨危機はグローバリゼーションの行き過ぎを印象づけ、サミットに対するデモが発生するようになった。
1998年のバーミンガム・サミットはインド・パキスタンの核実験を議題にした。
1999年のケルンでは、コソボ紛争が話し合われた。ケルン・サミットの歴史的な意義はむしろ、外国に多大な債務を負う貧しい国々、つまり重債務貧困国(HIPC)、についての取り組みにあり、「より早く、より深く、より広範な」と表現される救済を支援するケルン拡大重債務貧困国イニシアティブを発信した。
千年間を意味する「ミレニアム」が冷戦後に代わってキャッチフレーズになったころ、インターネットの発達は目を見張るばかりであり、森喜朗総理大臣も関心を寄せた。彼がホストであった2000年の沖縄サミットは、グローバルな情報社会に関する沖縄憲章に合意した。2001年のジェノバ・サミットには一転して、グローバリゼーションに反対するデモが押し寄せた。その後、株式市場におけるITバブルは崩壊し、一つの時代が終わりを告げた。
同時多発テロと呼ばれた2001年の9・11事件はG8にさほど影響を与えなかった。対テロ戦争を遂行するにあたっては、NATOおよび日米安保という軍事専門の枠組みが別に存在したからである。2002年のカナナスキス・サミットはテロとの戦いと核兵器不拡散を扱ったものの、事件から9か月が経過していた。
イラク戦争のさなかに開かれた2003年のエビアン・サミットの時点では、米軍は激しい抵抗に直面していなかった。2004年のシーアイランド・サミットと2005年のグレンイーグルズ・サミットで、イラク問題は議論された。しかし、記憶に残るのは2005年の開催国首都ロンドンで起きた地下鉄でのテロ事件である。一連の戦争はイスラム社会と先進国との亀裂を広げていた。
2006年のサンクトペテルブルク・サミットはロシアで開かれた唯一のG8首脳会議になった。2007年はドイツのハイリゲンダムで開かれた。福田康夫総理大臣がホストであった2008年の洞爺湖サミットについて日本で最も報道されたのは会場の豪華なホテルとテロ対策であった。
2008年秋、大手投資銀行のリーマンブラザーズが破綻した。世界金融危機と呼ばれることになるマイナス成長が始まった。経済問題を話し合うG20首脳会議が11月に初めて開かれた。21世紀において成長著しい中国はじめBRICSがすべて参加するG20はG7/G8にはライバルになる。2009年のラクイラ・サミットにおいて、確かに金融の安定化は議論されたものの、開催地で地震が起きたことがより印象的であった。
2010年のムスコカ・サミットを経て、2011年のドービル・サミットは、アラブの春を支持するとともに、東日本大震災に立ち向かう日本との連帯を表明した。2012年のキャンプデイビッド・サミットは、イランと核問題に関する交渉を続けることを確認した。
ロシアと他の参加国との亀裂が広がったのは、ウラディミル・プーチンが大統領の座に戻ったからである。2013年のロックアーン・サミットは、経済では脱税と租税回避が中心議題であったが、政治では大量の難民を出したシリアの人道問題が課題であった。
2014年にG8はG7に戻った。ロシアはクリミア半島を併合し、東ウクライナの分離主義者を援助したが、G7には受け入れられないことであった。この年はロシアが開催国の番に当たっていたが、無期限の参加停止を言い渡し、G7だけの首脳会議をEUとNATOの本部があるブリュッセルで開いた。G7がウクライナの主権と領土保全を支持したことはいうまでもない。
2015年のエルマウ・サミットは、その年の気候変動枠組条約締約国会議における新たな法的文書の採択を後押しした。これはパリ協定として実を結ぶことになる。2016年の伊勢志摩サミットで、ホストの安倍晋三総理大臣によるおもてなしが話題になった[2]。
アメリカ合衆国では、ドナルド・J・トランプが大統領に就任した。それが影響してか、2017年のタオルミーナ、2018年のシャルルボワ、そして2019年のビアリッツは首脳間の関係がぎこちなかった。
2020年は新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックのために、対面での首脳会議は開かれず、3月と4月にトランプ大統領を議長とするテレビ会議が行われた。翌年、トランプは去ったものの、パンデミックは続いた。2021年のコーンウォール・サミットはその年、開催国のイギリスで行われる気候変動枠組条約締約国会議に向けた決意を明らかにした。
2022年、ウイルスへの恐怖は去りつつあったが、ウクライナ戦争がやってきた。侵攻翌月の3月、NATOが首脳会議を行った機会に、G7も臨時にブリュッセルでサミットを持った。定例の首脳会議は6月にドイツのエルマウで開かれた。
2023年は議長の岸田文雄総理大臣の地元である広島にG7は集まった。ボロディミル・ゼレンスキー大統領も広島を訪れ、G7はウクライナの戦いを支援すると約束した。被爆地広島の平和記念資料館を首脳たちは訪れ、核軍縮に関するビジョンをまとめた。2024年のプーリア・サミットではガザ戦争が頭痛の種に加わった。
2期目のトランプ政権が始まった2025年のカナナスキス・サミットは意見対立により総括する首脳宣言が出ない異例のものになった。 昔ほど、主要国首脳会議はメディアによって騒がれるイベントでなくなった。首脳外交、すなわち首脳どうしが直接、会って話す機会自体が珍しくないからである。G7の意義はメンバーを7人に絞って率直な話ができることにある。しかし、それぞれの首脳は自分の言いたいことだけを言って、意見をまとめることには興味がない。
[1] 船橋洋一、『通貨烈烈』、朝日新聞社、1988年、198ページ。
[2] “G7伊勢志摩サミットにおけるおもてなし(贈呈品),” 外務省, May 26, 2016, https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/is_s/page4_002082.html, accessed on March 4, 2026.
© 2026 Ikuo Kinoshita