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経済的ナショナリズム

国家と市場とのバランスが最も前者の側に傾いたのは第二次世界大戦中であった。今回のテーマは、両次大戦間期から戦中期にかけての経済的ナショナリズムと人権および戦争との関係を、実例を挙げて解説しなさい、である。

この時代における経済的ナショナリズムの主な源泉は、社会主義/共産主義、ニューディール、ナチズム(戦争経済)、そして開発途上国のナショナリズムの四つに分けられる。それらの共通点は生産の国家統制である。

生産の国家統制にとって最大の障害は基本的人権、なかんずく財産権、である。日本国憲法において関係しそうな条文をいくつか挙げる。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。

財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

財産権の不可侵は基本的人権のなかでも基本的なものである。また、それは近代というものそのものでもある。二つの歴史文書がそれを如実に示す。一つ目は1789年8月26日のフランス人権宣言第17条である。

所有権は一つの不可侵で神聖な権利であるから、何人も適法に認められた公共の必要が、明白にそれを要求し、かつ正当で事前の補償をなすという条件のもとでなければその権利を奪わるべきではない[1]

もう一つの文書は1789年9月25日のアメリカ合衆国憲法修正第5条である。

―前略―何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。何人も、正当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない[2]

こうした近代の約束事に強く反対したのがマルクスであり、レーニンであった。革命が起きれば、財産は没収されなければならない、と彼らは主張した。かといって、最終的には国家のもとに集中される、というわけでもない。初期の社会主義者は実はユートピアンか、アナーキストであったから、自発的な共同体を作って、財産は共有にする、といった発想をする傾向があった。第1の経済的ナショナリズムの源泉は、社会主義と共産主義である。

マルクスより半世紀若いウラディミル・レーニンでさえ、革命後の国家像を緻密に構想していたわけでなかった。政権が転がってくるとみると、慌てて『国家と革命』を著した。そこで述べられたのが、名高い、いや悪名高い「国家の死滅」という概念である。

国家が現実に社会全体の代表として起こす最初の行動は、社会を代表して生産手段を手中に収めることであるが、それは同時に国家としての最後の独自行動なのである。こうして社会関係に対する国家権力の介入は、各領域において次々と無用のものとなり、自然に永眠を迎える。人間に対する統治は、事務処理および生産工程の管理に場所を譲る。国家は「廃絶される」のでなく、死滅するのである[3]

つまり、国有化を遂行するまでは、国家をなくすわけにはいかない。遂行後も、人為によって廃止することはしない。もはや、生産現場の役職は当番のようなものにすぎず、上から下に命令するのでなく、調整をしたり、世話を焼いたりするだけである。そうしたものは国家とは呼べないので、国家は自然に死滅していく。このように、新しくできたソビエト政府にとって、国有化は最初で最後の不可欠な仕事であった。ついでに言えば、現実には、国家は死滅どころか強化された。

革命が成就すると実際に国有化の布告が行われた。1917年には土地と銀行が、1918年には揚穀機と穀物倉庫、貿易、そして工業企業が接収された。国有化の少なからぬ部分は布告を待たず革命のなかで農民や労働者が勝手に強奪した自然発生的なものであった[4]

革命まえのロシアは外国からの投資を受け入れていたが、これらも国有化の対象であった。英仏は、その他の請求、すなわち、戦前のロシア公債の不履行と戦中・戦後の損失・損害と合わせて、国有化された財産への補償をソビエトに請求した。

この請求が、先送りのお手本のような成り行きをたどる。イギリスは輸出を拡大する欲望に勝てず、補償の請求は後回しにして1921年にソビエトと貿易を再開した。請求が立ち消えにならないよう念を押して、請求を相互に承認する宣言が付された。内容は2点あり、第1は、いずれの締約国国民の請求も正式な平和条約で扱われること、第2は、ソビエト政府は財・サービスを提供した私人への補償の責任があることを原則として承認すること、であった。

ところが、イギリスの対ソ関係は右翼と左翼との政争に巻き込まれた。1924年のジノビエフ書簡事件では、コミンテルン議長の書簡が捏造され、英ソ関係に冷や水を浴びせた。3年後に、イギリスはソ連との外交関係を断絶してしまった。通商は再開されることになったものの、平和条約が結ばれる気配などなかった。請求の問題は1934年には、口頭で権利・請求を留保する、とイギリスが一方的に宣言するところまで追いこまれた。ソ連外交の勝利であった。ドイツではヒトラー政権が生まれており、イギリスは外交上、モスクワに接近する必要があった。同様の先送りは日ロ間の北方領土問題でも観察される。

要するに、ソ連は国有化が実現したのみならず、外国からの補償請求まで、うやむやに終わらせた。これは以後の革命政府に模範となった。

次の経済的ナショナリズムはニューディールとケインジアニズムである。ニューディールは1933年のフランクリン・D・ローズベルトの大統領就任に始まり、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』は1936年の出版である。

百日議会という言葉が知られるように、ローズベルトは就任早々、矢継ぎ早に政策を打った。民間資源保存局(CCC)は、無職の青年にキャンプで働く仕事を与えた。連邦緊急救済法は、各州の失業対策を援助した。TVA(テネシー渓谷開発公社)は、水力発電所建設と灌漑で貧困を克服する試みであった。全国産業復興法は、包括的な競争政策、労働政策、そして公共事業政策を実施した。事業促進局(WPA)は膨大な公共事業を行った。銀行法は連邦準備制度理事会を強化した。そして、ワグナー法(全国労働関係法)は団結権・団体交渉権・団体行動権(争議権)の労働三権を確立した[5]

本当のところ、アメリカ合衆国の本格的な経済回復は第二次世界大戦を待たなければならなかったとされる。しかし、人権を謳い、大戦で戦勝国になり、国連を作ったことから、ローズベルトの政策からは闇の部分はあまり感じられない。戦後期に合衆国で人気があった経済学者ポール・A・サミュエルソンの教科書は、そうした政策を称賛する。

米国:1940年以後の時期にアメリカは、どのようにして「民主主義の兵器庫」になると同時に、それまでなく高い民需の水準を享受することができたのであろうか。それは、主として失業のたるみを活用することによってであった[6]

第3の経済的ナショナリズムはナチズムである。ドイツではヒャルマル・シャハトが中心になって、失業対策が実施された。それは基本的に財政支出の拡大であった。すなわち、ラインハルト計画では住居・工場・機械を修理・改善し、同時にライヒス・アウトバーンを建設した。ベルサイユ条約を破り、再軍備を進めることも経済対策であった。ライヒス・アウトバーンの開通式において、子供のようにはしゃぐヒトラーの様子を彼は振り返る。

ともかくも私はフランクフルト・アム・マイン南方からダルムシュタットに向う最初の自動車道路開通式に、ヒトラーの車に同乗して処女運転に参加するようトットに招待されたが、もちろん私は喜んでこれを承諾した。私はヒトラーとともに、彼の車で、自動車道路の出発点に張られた白いテープを切り、ゆるやかに最初の自動車道路面に出た。至るところ両側には観衆が集り、熱狂した人々の歓迎をヒトラーは明らかに喜んでいた。

終点に着くとヒトラーは無数の扈従車が通過するのを見守っていたが、この車は三台づつ[訳書ママ]一列に並んで、後についてきたのであったから、ヒトラーは響きわたる声でこう叫んだ。

「三台づつ[訳書ママ]道に並んだって走れるんだ」と[7]

国家が介入して経済を立て直した点では変わらないが、この底流にある思想はニューディールとは正反対であった。ヒトラーは『わが闘争』において自らの経済観を次のように表明した。

「国家は経済的課題を実行するために、ある一定の制限された生活圏に経済的な契約者をまとめたものではなく、種の発展維持をいっそう可能ならしめ、摂理によって規定された自己存在の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織である」(220ページ)

「ドイツでは力の政策が高まったとき、いつも経済も隆盛になりはじめたが、経済側が民族の生活の唯一の内容となって、それによって理念的徳性が窒息したときは、ふたたび国家は崩壊し、やがて経済がそれにまきこまれたものである。

だが、国家を形成したりあるいはまた国家を維持するだけの力とは現実に何であるか、と問うならば、それを二、三のことばに要約しうる。すなわち全体のために個人を犠牲にする能力と意志である、と。」(223ページ)[8]

経済よりも国家、個人よりも全体を優先することがためらいなく宣言されている。戦争遂行のためにカネ・モノ・ヒトは捨てるようにつぎ込まれた。

サミュエルソンも、ドイツ人の選択を失業のショックによる一時の気の迷いがもたらした愚行のように論じる。

ドイツ:―中略―ヒトラーの戦争努力は、公式の宣戦がなされるはるか前、すなわち1933年にはじまっていた。その出発点は、彼が、暴力によることなく投票で権力の地位につくことができたほど失業が多い時期であった。そしてそれ以後の増産の大部分は、かねて失業状態にあった労働者や工場を活用することによって可能になったのであり、この増産部分は、民間消費を高めるためにではなく、ドイツの軍需品増強のために注ぎ込まれた[9]

ナチスのナンバー2といえば、国家元帥ヘルマン・ゲーリングであった。のちに占領地で絵画を略奪したことで悪名をはせたこの人物が、経済の責任者になった。1936年に始まった彼の四か年計画は、食料と原料の自給自足を目指し、価格統制を行った。もはや経済的合理性は一顧だにされず、経済相シャハトは抗議の辞任をした[10]

ドイツ版の国家総動員はナチズムに影響されて苛烈であった。それは一般的な収用でなく、ある特定の財産が対象であった。つまり、ユダヤ人財産の「アーリア化」であり、征服地財産の「ドイツ化」である。それは国有化でなく、私企業が「完全に独占化されカルテル化」された経済であった。この例としてゲーリング結合企業がある。それは持ち株会社のもとに、ヘルマン・ゲーリング鉱山冶金帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング武器・機械製造帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング内陸水運帝国工業所を擁した。ゆすりと用心棒行為によって乗っ取った子会社に、見栄っ張りのゲーリングが自分の名前を付けたのがこの財閥であった[11]

労働者たちは基本的人権を失った。国民労働奉仕団において、18歳から25歳の男子は軍需産業で6か月の強制労働をさせられた。また、ドイツ労働戦線は名こそ労働組合であるものの争議はしなかった。よく知られているその活動は歓喜力行団(クラフト・デュルヒ・フロイデ)であり、遠足などのレクリエーションを催した。この活動のために、小型車フォルクスワーゲンが開発された[12]

経営と労働が体制に組み込まれ、協調するこうした体制はコーポラティズムと呼ばれる。使用者側においても、使用者団体、カルテル、そして業界団体は自律的な組織でなく、国家の指導に従う機関という性格が強かった[13]

戦争が始まると人権無視はますます苛烈になった。ユダヤ人、ロマ、そして外国人といった二級市民扱いされた人々がアウシュビッツなど収容所で強制労働に従事させられ、やがてジェノサイドの餌食となった。初期には、国家社会主義を歓迎したドイツ人労働者もいたであろうが、のちには雇用契約の無効化、最高賃金の設定、そして労働条件の改悪などに苦しむことになる[14]

ヒトラーがしたかったこと、それは「新秩序」として知られる。このヨーロッパ帝国の中心には、世界首都ゲルマニアに変身したベルリンがあり、そこからいくつかの中心都市にアウトバーンがつながる予定であった[15]。ヒトラーが毎晩、食卓で語る夢は秘書が書き留めた。

「クリミアは美しい。アウトバーンで行けるようになればクリミアはドイツ人にとってのリヴィエラになるだろう。クレタ島は暑くて乾燥している。キプロスもいいが、クリミアには車で行けるし、途中にはキエフがある! クロアチアも旅行者の天国だ。戦争が終われば娯楽には事欠くまい。

鉄道にはどことなく非人間的なところがあるが、道路は人を結びつける。新しいヨーロッパに向けての前進だ! アウトバーンのおかげでドイツ国内の境界が消滅したように、ヨーロッパ諸国の国境もなくなることだろう。

ウラル山脈を国境とすれば十分だろうかという質問があるが、今のところは十分だと答えておこう。ボルシェヴィズム[ロシア共産主義―訳者注]を根絶することが大切なのだ。」、1941年7月5日-6日(43ページ)

「ルーマニアは独自の工業を持とうなどできるだけ考えない方がいい。農産物、特に小麦をドイツの市場へ送ってくれればいいのだ。お返しにこちらから必要な工業製品を送ろう。

ベッサラビアは穀倉そのものだ。これでボルシェヴィズムに染まっているプロレタリアートもいなくなり、ルーマニアには何の不足もなくなるだろう。」、1941年7月25日(53ページ)

「そこの大衆を教育しようなどと愚かなことを考えてはいけない。大衆は道路標識が分かればいいのだ。現在彼らは読むことができないが、そのままにしておかねばならぬ。しかし大衆が身ぎれいに暮らすことは許されるし、それは我々も望むところだ。

ウクライナの南部とくにクリミアをおさえ、特別にドイツの植民地にしよう、現在住んでいる者は追い出せばいい。ドイツの植民者は農民兵となる。そのためには隊に関係なく古参兵を連れて行こう。」、1941年7月27日(57ページ)[16]

この目まいを催す計画には、冷徹さが同居した。反ナチスの経済学者が書いた『野蛮の経済学』は、新秩序の経済的意図を憶測している。それによると、ヨーロッパ各地の重工業をドイツが統制し、軍需を満たす。消費財はドイツに集中させ、他地域のものは空洞化させる。そして、ヨーロッパ各地の農業を奨励し、都市の抵抗運動を減らし、自給自足を成し遂げる[17]

戦争経済は自由主義のもとではありえない。特に、19世紀の遺物である金本位制は、ただちに財政と貿易を赤字に陥らせるであろう。フランツ・ノイマンはこう結論づける。「この経済体制の構造はプラグマティックである。それは、戦争を遂行するに必要なできるだけ高度な能率と生産性への要求によってのみ方向づけられている。」と[18]。価格統制、配給、為替管理、公債発行、不換紙幣、そして強制労働といったものが総力戦を可能にする。

しかし、広大な土地を占領したヒトラーの新秩序はもろくも崩壊した。それは選択の自由を許さない統制経済のもろさそのものでなかったろうか。

サミュエルソンの挙げる事例のなかで、ソ連のそれが最も悲惨である。米独のような失業率の低下という好影響もなく、独ソ戦の被害のみが注目される。

戦時のソ連の例は第三のケースをなす。ソ連の場合、戦前に失業者はほとんどなく、そのときすでにソ連経済は比較的低い生産可能性辺境線の上にあった。したがって、民需の犠牲の上に軍需をみたすよりほかなく、その結果として窮乏をともなったのである[19]

ところが、現実のソ連は「生産可能性辺境線」を超えて生産しようとした。ヨシフ・スターリンはラーゲリやグラークと呼ばれる強制収容所をたくさん作った。彼はそれらを効率的な生産方式であると信じていたので、できるだけ多くの人々の罪状をでっちあげて放りこんだ。囚人総数は一時、約200万人に達し、1929年から1953年までに1,800万人が収容所を経験した。特に、金の3分の1は収容所で産出されたものであった[20]

日本はどうであったろうか? 野口悠紀雄の1940年体制説は、この時期の総動員体制が伝統的企業を主体とする戦後の高度成長につながった、とする。例示されているのは、労使が協力する産業報国会(1937年)、株主の権利を制限する国家総動員法(1938年)、業界を統制する統制会(1941年)、自給と価格を管理するための食糧管理法(1942年)、そして、通貨・金融政策によって国家総力を発揮するために改正された日銀法(1942年)である[21]。そうした霞が関の護送船団方式またはディリジスムについては現在まで続いているという見方がある。

外国人労働者の虐待は日本でも行われた。秋田県で起きた花岡事件においては、連れてこられた中国人労働者が劣悪な待遇ゆえに、日本人を殺害し、逃亡を図ったものの、鎮圧された。このほか、徴用工や慰安婦の厳しい実態に関する報告は枚挙にいとまがない。

最後の経済的ナショナリズムは開発途上国のものである。発端はメキシコ革命が生んだ1917年憲法であった。その第27条は「地層中のあらゆる鉱物資源の所有権は国家に帰属する」と定めた[22]。同国の油田は当時、外国資本により支配されていた。帝国主義の最盛期であれば、むやみな国有化は違法性を問われ、欧米列強の武力行使を招くところであった。

ところが、1937年に事態が急変した。石油労働組合が賃金が低すぎるとゼネストを打った。翌年、メキシコの最高裁判所は労働者側を支持する判決を出した。あろうことか、石油会社は従わず、賃上げをしなかった。

ここで、ラサロ・カルデナスデルリオ大統領が石油産業の無補償国有化を命じた。それはマルクス・レーニン主義のようなイデオロギー的理由に発したものでなかった。途上国政府をなめてかかって、自分たちには手出しできまい、と驕った態度が原因である。収用された油田は、後に国営企業ペメックスになる。

裁判所に従わなかったのは外資の過ちであったものの、無補償であったことが素通りされるはずがなかった。米英の資本は補償を求めたので、メキシコ政府は1942年に米系企業と、1947年に英系企業と一定額での補償に合意した[23]

あっけない解決は、国際情勢に原因があったとみることができる。日本による真珠湾攻撃がメキシコとの和解をアメリカ合衆国に急がせた。メキシコは枢軸国に入らないまでも、それらに原油を売ることはできた。これは連合国側による禁輸に悩む日本には渡りに船となったはずである。うまくやれば、戦争も、経済制裁もなしに解決できることを示したこの国有化の意義は大きかった。

以上のように、第二次大戦期、経済的ナショナリズムは頂点に達した。歴史の転機となったのは、ローズベルトが1941年の一般教書演説で提唱した「四つの自由」である。第1は言論および表現の自由、第2は信教の自由である。第3の欠乏からの自由は個人の経済的な権利を確認した。すでに大恐慌からの景気回復ではなく、戦後の復興や人道的救済、さらには経済秩序そのものの建て直しが意図されていた。第4の恐怖からの自由は、戦争のない世界を作る決意であった。

四つの自由がいかに実現されるべきかをめぐっては、論争を経なければならなかった。戦後構想におけるナショナリズムと自由主義とのせめぎあいが始まった。

戦中におけるナショナリストの代表はイギリスのエドワード・H・カーである。開戦のころ、すでに『危機の20年』で、自由主義を批判していた。1942年の『平和の条件』では、より具体的に、ヨーロッパを単位とした計画経済を「ヨーロッパ計画庁」が中央集権的に行うことを唱えた。これはヒトラーの発想を継ぐものであると彼自らが明言している。また、新たな国際制度である原料・資源の国際プール機構、国際共同購入制度、生産様式の国際標準化、海運の国際共通管理、各国共通の必要に対する国際融資機構、そして、各国通貨の兌換のための国際機構を提案した。貿易は市場メカニズムでなく、価格統制まで行うと踏み込んだ[24]

対する自由主義者の代表はフリードリヒ・フォン・ハイエクである。1944年の『隷属への道』は正面からカーに論争を挑んだ。カーが考えている「未来社会の特徴をかいま見てみると、その社会は全面的に全体主義モデルに基づいているように思われる」[25]と歯に衣着せず指摘した。

介入主義が危険であるというハイエクの議論には説得力がある。まず、国家規模で計画化をすれば、資源は国家の独占的所有物とされ、私企業ではなく国家を交易主体とする流通へと統制される。これは国家間の摩擦や羨望を引き起こす。世界的に不足している資源を他国から買おうとしても、その国の当局からは、外国に回す分はない、とけんもほろろに断られよう。国家間で経済案件の交渉をすることは、市場での競り合いを、軍事力を背景にした脅し合いにしてしまう。他方、超国家的な当局による国際的経済計画は、会議の多数派により決められてしまうため、もっと危険である[26]。会議での多数派にイエスか、ノーか、と二者択一を迫られれば、不満な国はがまんするか脱退するしかない。市場での入札ならば、価格次第です、ということに収まろう。 『隷属への道』が出版された時には、すでにブレトンウッズ会議は開かれていた。IMFも、IBRDも、基本的には自由主義的な性格の国際機構であることは「ブレトンウッズ諸制度」の回で確認する。


[1] 横川新、『国際投資法序説』、千倉書房、1972年、64ページ。

[2] 米国大使館広報・文化交流部, “アメリカ合衆国憲法に追加され またはこれを修正する条項,” American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/laws/2569/, accessed on December 26, 2023.

[3] V・I・レーニン、『国家と革命』、角田安正訳、筑摩書房、2001年、36ページ。

[4] モーリス・ドッブ、『ソヴェト経済史』、上、野々村一雄訳、日本評論社、1974年、73-118ページ。E・H・カー、『ボリシェヴィキ革命 2』、宇高基輔訳、新装版、みすず書房、1999年。

[5] 新川健三編、「映像が語る20世紀 5 1933-1937」、DVD、セレプロ、n.d.。

[6] P・A・サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、都留重人訳、岩波書店、1981年、24ページ。

[7] H・シャハト、『我が生涯』、下、永川秀男訳、経済批判社、1954年、76ページ。

[8] アドルフ・ヒトラー、『わが闘争』、平野一郎、将積茂訳、角川書店、1998年。

[9] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、24-25ページ。

[10] シャハト、『我が生涯』、下、202ページ。フランツ・ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、みすず書房、1963年、205ページ。

[11] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、256、262-268ページ。

[12] A・J・Ryder、『ドイツ政治・外交史Ⅱ』、高橋通敏訳、新有堂、1981年、230-249ページ。

[13] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、209、212ページ。

[14] アラン・ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、鈴木主税訳、草思社、2003年、102ページ。

[15] ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、18-19ページ。

[16] アドルフ・ヒトラー、『ヒトラーのテーブル・トーク 1941-1944』、上、吉田八岑訳、三交社、1994年。

[17] J. Kuczynski and M. Witt, The Economics of Barbarism: Hitler’s New Economic Order in Europe (London: Frederick Muller, 1942).

[18] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、205ページ。

[19] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、25ページ。

[20] アン・アプルホーム、『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』、川上洸訳、白水社、2006年、16ページ。ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、103ページ。

[21] 野口悠紀雄、『新版 1940年体制』、東洋経済新報社、2002年、25ページ。

[22] 梅野巨利、『国際資源企業の国有化』、白桃書房、1992年、25ページ。

[23] 梅野、『国際資源企業の国有化』、31-60ページ。入江啓四郎、『開発途上国における国有化』、早稲田大学比較法研究所、1974年、119-123ページ。横川、『国際投資法序説』、189ページ。

[24] エドワード・ハレット・カ、『平和の条件』、高橋甫訳、建民社、1954年。

[25] F・A・ハイエク、『隷属への道』、西山千明訳、春秋社、1992年、235ページ。

[26] ハイエク、『隷属への道』、305-319ページ。

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領土保全
領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸国および国際連盟の対応について…
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カネは天下の回り物という。本来は、金銭は人々の手を転々と渡っていくものであるから、その持つ、持たないは時とともに変化する、という意味である。しかし、ここでは、金銭は人々の手を渡っていく中で、初めて付加価値の発生に貢献する、という意味で使っている。 経済学には、 流動性(リクイディティ)という用語がある。資産の処分しやすさ、というのがもともとの意味である。素人の描いた絵には値段が付かないが、名画ならば…
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身近に感じた高島野十郎展

昨日、日曜美術館で特集していた豊田市美術館の高島野十郎展に行ってきた。証拠写真。

細密な写実はこの方の明らかな強み。100年まえにはオーパーツといえる真に迫る描写。しかし、他人の評価は本来、どうでもよいのだろう。

孤高と評されるが、理解されない才能への自負を昇華させた、とも感じられ、凡人の私には、むしろそのプロセスが身近に思えた。

暗闇に照る蝋燭の火は「自灯明」か。孤高というより孤独。そもそも人生に高いも低いもないのだから、それが正しい。

私が柏市に彼が亡くなる直前、引っ越してきたのが親近感を抱いたもう一つの理由。ひょっとしたら、光が丘あたりですれ違ったかも(ない、ないw)

大恐慌

カネは天下の回り物という。本来は、金銭は人々の手を転々と渡っていくものであるから、その持つ、持たないは時とともに変化する、という意味である。しかし、ここでは、金銭は人々の手を渡っていく中で、初めて付加価値の発生に貢献する、という意味で使っている。

経済学には、 流動性(リクイディティ)という用語がある。資産の処分しやすさ、というのがもともとの意味である。素人の描いた絵には値段が付かないが、名画ならばすぐに売れる。土地、金銀、あるいは現金の流動性はすこぶる高い。金銀を貯めこんでも宝の持ち腐れであるとはアダム・スミスが指摘したことである。経済を拡大したければ、カネを回すことを考えるべきである。流動性は実際には、マクロ経済学において通貨量のこととして使われる。経済の統計データには名目と実質があるが、名目の値を大きく左右するのがこの流動性である。

ここで、金本位制についての議論に入る。これまで人類が掘った金(きん)はプール数杯分、という言われ方をする。つまり、1年や2年でそれほど増えるものではない。となれば、金本位制を採用すると、通貨量という意味での流動性は増えにくいので、経済成長のボトルネックになる。大人が子供の服を着ているようなものである。そこで、金の量をドル紙幣で補い、各国国内ではそれぞれの不換紙幣が通用する金ドル本位制という方法が第二次大戦後は採られることになった。それも矛盾があらわになり、不換紙幣のみが使われる管理通貨制が現在の制度である。

21世紀には、ビットコインなど暗号資産というものが現れた。供給量が「採掘」によって増える点で金と似ているが、地質からの採掘でなく、実は電子計算である。難しいことは私にも理解できないが、資産として金とビットコインは米ドルをヘッジするものであるとはいえる。

それはともかく、金本位制は、金という世界共通の交換手段をつうじて国際決済ができる非常に便利な制度であった。金を自国の兌換紙幣と結びつけるには、中央銀行のコミットメントが必要である。コミットメントとは、兌換紙幣の価値を金の量に釘づけること、私人と無制限に金を売買すること、そして、金を法定の国際準備として保有すること、である[1]。このコミットメントによって、各国通貨間の相対的関係、つまり為替相場、はほぼ決定する。「ほぼ」というのは、金の輸送費を加味していないからである。下に金本位制のもとの為替相場の例を挙げる。

金1オンス=20.67米ドル

金1オンス=4.247英ポンド

1ポンド=4.866ドル[2]

為替リスクが小さいので、金本位制は国境をまたいだ貿易と投資を助長する。さらに、それには貿易収支を自動的に調節する機能があるとされる。輸出が増加すれば、または、輸入が減少すれば、金が国内に流入してその量が増え、物価は上昇する。他国は高い自国の品を買わなくなるから、今度は輸出は減少し、輸入は増加する。逆に、輸出減少や輸入増加で金が外国に流出すれば、物価は下がり、今度は輸出が増えて、輸入が減る。このように、金の輸出入は自然に収束していき、IMFのような国際機構が経済政策に介入しなければならないということはない、とされる。

もちろん、国際収支は貿易収支だけから成るのでなく、投資や利子・配当の収支もある。輸出が好調な産業に外国から投資が押し寄せれば、輸出はさらに伸びるであろう。また、国境を越えて移動するのはカネとモノだけでなく、移民もある。物価水準が高いということは賃金も高いということであるから、輸入品の代わりに移民労働者が来る。すると長期的には、輸入はあまり増えず、輸出も減らない。金本位制のもとでの貿易収支の自動調節は、あくまで理論的なものである。

今回のテーマは、ベルサイユ条約の「経済的帰結」と大恐慌後における国際協調の失敗を、通貨(金融)と貿易の側面に着目して論じなさい、である。

第一次世界大戦後の惨状は人的損失もさることながら、経済もひどいものであった。ハイパーインフレーションはよく例に出されるが、開戦から1923年11月までに、ドイツの貨幣の価値は1兆分の1に下落した。

ハイパーインフレーションは、生活を困窮させるだけでなく、貿易も難しくする。仮に、外国から商品を仕入れ、それを売った代金で支払いをするとしよう。外国通貨建てで振り出された手形に対して後日、銀行をつうじて支払いをすることになる。ところが、期日までに外国通貨の相場が倍になれば、売り上げで仕入れ費用をまかなうことはできない。輸入は止まることになる。

ただし、外国の通貨を借りることができれば、貿易決済の代金を支払うことはできる。紙幣を増刷して、インフレーションを加速することもない。これを実際に行ったのがフランスであった。大戦において勝利に貢献したことが英米に評価されていたからできたことである。しかし、借金がいつまで続けられるかは不安であった[3]

当時、この指摘をしたのは、ジョン・M・ケインズであった。ドイツは賠償支払いのために、国際決済のための金を手放さなければならなくなった。他方、フランスはじめヨーロッパの国々は、戦費の調達を英米からの借款に頼り、返済の義務があった。ケインズは、立ち行かなくなると予言した。

―前略―満ち足りぬヨーロッパ諸国民が、ヨーロッパとアメリカ間のものであれ、ドイツと他のヨーロッパ諸国間のものであれ、自分たちの公正感や義務感から否応なく発しているのでもない理由に基づく外国への支払いのために、日々の生産物のかなりの部分を充当しうるように、今後一世代のあいだ自分たちの生活を律していこうなどという気に、いったいなるのであろうか[4]

ケインズは第一次大戦のパリ講和会議では、イギリス大蔵省の代表を務めたが、連合国の対独賠償要求に反対して辞任した。その経験をもとに著したのが『平和の経済的帰結』である。平和というのは、ドイツとの講和のことである。「平和条約は、ヨーロッパの経済的復興のための条項を何一つとして含んでいない」と彼は告発した。さらに次のように戦勝国の指導者たちを皮肉っている。クレマンソーとは当時のフランス首相、ロイド・ジョージとはイギリス首相、そして、大統領とはアメリカ合衆国大統領T・ウッドロウ・ウィルソンのことである。

―前略―クレマンソーは敵国の経済生活を粉砕することに、ロイド・ジョージはうまく取引して、一週間ぐらいは国民の気持ちを宥めておけそうな何物かを自国に持ち帰ることに、大統領は公明正大でないことはいっさい何事もすまいということに、心を奪われていた[5]

では、どうすれば経済は復興するとケインズは考えたのか? ベルサイユ条約を改正し、ドイツに対しては賠償を減額、ザール炭鉱を返還、上シュレジエンで住民投票、など報復色を薄める。連合国間では債務を棒引きする。アメリカ合衆国が世界各国に借款を与える。さらに、ソビエト連邦とは貿易を復活し、東ヨーロッパ・中央ヨーロッパにおいてドイツの経済的役割を認める、といった具合である。後世から振り返れば、穏当な提案であるものの、1919年当時においては寛大すぎた。

現実の世界は、時代の乱気流にもまれ、ついには統制を失った。1923年のルール占領は乱気流の一撃であった。賠償支払いが滞るドイツに対し、フランスとベルギーがルール地方を占領し、公私の財産を差し押さえ、その売却益を賠償の代わりとした。こうした経済生活の粉砕は憎しみを募らせるばかりで解決にならなかった。なぜなら、ドイツには金が本当になかったからである。

川に水を流そうとしても、源に水がなければ流れない。流れた先の海から水が蒸発し、雨になって源に降り注がなければならない。金は天下の回り物とはそのようなことで、どこかの国から金をドイツに持って行って、さらに世界経済のなかで幾度も回さなければ賠償は完済できなかった。

ルール占領の無益を知った1924年、恵みの雨をドイツに降らせる提案がアメリカ合衆国から発せられた。ドーズ案である。提案者のチャールズ・ドーズは後の副大統領であり、ノーベル平和賞にも選ばれた。ニューヨーク市場でドイツに対する公債を発行し、それを元手に稼いだ外貨で賠償の返済をさせる、というのが案の骨子であった。公債が募集されたニューヨーク外債市場は大いに発展した。

輸出の必要に駆り立てられるドイツにとって、ドーズ案は苦しかった。当時、ドイツのライヒスバンク総裁であったヒャルマル・シャハトは吐露している。

私には、ドイツがその産業を再建するには原料、食料、またある種の機械類を国外から輸入しなければならないことはよく分っていた。そのためには外国のクレディットを迎えることが絶対に賢明な策であった。―中略―ドーズ案によるわが国の支払年額は約二十億であった。これは外貨によらねばならなかった。その外貨の獲得は輸出超過による以外には道がなかった。さらに、今やこの新クレディットに対する利子と元金償却のための外貨を必要とするに到ったのであるから、わが国の対外債務は、あらゆる新外債をも含めて益々増大し、かくて我々の輸出努力の強化が益々必要となった[6]

ドーズ案は1929年のヤング案によって改定される。大恐慌を受け、1931年のフーバー・モラトリアムによって賠償支払いは中断し、翌年のローザンヌ会議で消却された。この期に及んで、ケインズの言うことに耳を傾けなかったことを後悔した者もいたはずである。

希少な金をいかに確保するかは、日本にとっても課題であった。それは幣原外交の隠れた目的であった。幣原外交とは、1920年代から1931年まで外務大臣を務めた幣原喜重郎の政策である。国際協調路線などとくくられることもある。具体的には、中国に対する不干渉やロンドン海軍軍縮条約の締結のように、武力に訴えることを慎むことを基本とした。不干渉と軍縮によって、軍事費を削る経済的な意図があったとされる[7]

このように、国家は輸出マシンとなって、たがいに金を奪い合った。金の量は決まっているので、勝者の影に必ず敗者がいるゼロサム・ゲームである。それでも、金本位制は貿易の復興に欠かせないとの認識に立ち、1922年のジェノバ会議は早期に金本位制に各国が復帰する指針を決めた。1925年に復帰したイギリスを皮切りに、主要国は1930年の日本を最後に金本位制に復帰した。これを再建金本位制という。

人類には、海に落ちるレミングの群のように恐ろしいハザードが待ち構えていた。1927年のポンドの危機がその始まりであった。イギリスはゼネストがあり、労働者の生活苦に目が行っていたため、自国通貨であるポンドの相場を下げたくなかった。フランスによる金買いは、過大評価されたポンドの相場を容赦なく下落させた。英仏独米の中央銀行は四か国会議を開き、アメリカ合衆国の金融緩和によって金を市中に吐き出させ、ポンドの下落を止めようとした。ところが、金融緩和の副作用として、ニューヨークの株式相場は高騰し、やがてはじけるバブルが膨らんだ。

ニューヨーク株式市場の暴落は、1929年10月の24日が暗黒の木曜日、29日が暗黒の火曜日と呼ばれる。58年後の1987年に起きるのはブラックマンデーである。ウォール街の惨状を伝える文章を引用する。

USスティールの暴落はひどいパニックを引き起こした。人々が口汚くののしり、突き飛ばしたり、小突いたり、ひっかいたりするので、ブリッジマンは第二ポストのなかに避難しなくてはならなかった。

あるメッセンジャー・ボーイは、群衆をかきわけていくうちに、不意に髪をぐいとひっぱられて動けなくなった。彼をつかまえている男は、破産したと金切り声をあげて、手を離そうとしない。恐ろしくなった若者はかろうじて身を振りほどいたが、つかまれていた髪の束は男の手のなかに残った。あまりの痛さに泣き叫びながら、メッセンジャーは取引所を逃げ出した。彼の髪の毛は二度とはえてこなかった[8]

阿鼻叫喚の日から株価は各国で3年弱、下がり続けた。イギリスや日本は素早く戻したが、ほとんどの国は戦争が始まるまで回復しなかった[9]。これが大恐慌である。

長期的な不況の原因を、マネタリズムの指導者であり、シカゴ大学教授などを歴任したミルトン・フリードマンは金融政策の失敗という観点から説明する。すなわち、FRB(連邦準備制度理事会)の優柔不断、 銀行救済案の破棄、政府債の買いオペの拒否、そして公定歩合の引き上げである[10]。一言でまとめれば、市場に流動性を供給しなければならないところ、不足をもたらす真逆の政策を打ってしまった、ということである。

ケインジアンの説明を述べれば、有効需要を国家が積極的に作り出さなかったから長期的な不況になった、ということになる。その政策については「経済的ナショナリズム」の回で述べる。

これら経済学的な説明に対し、国際政治経済学は覇権安定論によって大恐慌を説明する。チャールズ・P・キンドルバーガーの有名な記述を引用する。

1929年不況が非常に広い地域に及び、著しく深刻であり、大へん長びいたのは、①投げ売りされる商品に対して比較的に開かれた市場を維持する、②景気調整的な長期貸付を行う、③恐慌のさいに手形を割引くという三点において、イギリスは国際経済を安定させるために責任を負う能力をもたず、アメリカはその責任を負う意思をもたず、そのため国際経済システムが不安定になったという理由によるものであった[11]

①は売れない品物を誰かが買ってくれたら、生産者は被用者に賃金を払うことができ、経済全体が回復する、ということである。貿易の近隣窮乏化を不況の元凶と理解する。②の長期貸付は、例えば道路や鉄道といった大規模インフラストラクチャーのために資金を貸すことで、貸された国の労働者を失業から救うことができる。これはケインジアンの説明である。③は流動性の供給である。手形割引とは債権買い取りのことで、現金が今すぐ必要な事業者は倒産から逃れられる。関東大震災の際、決済が滞った手形が震災手形と呼ばれ、日本銀行が買い取ったが、これと同じ発想である。マネタリストの説明がこれである。以上は、諸学派の説を並べただけで、キンドルバーガーの独自性はない。

覇権安定論の特徴は、長期的不況からの救い手を覇権国、すなわちリーダー国家、に見いだす点にある。イギリスは金流出に悩んだのであるから、外国のモノを買ったり、カネを貸したりすることは不可能であった。アメリカ合衆国のほうは、ベルサイユ条約を蹴って、孤立主義のもとで繁栄していた。他国に手を差し伸べることが自らを助ける、と言われても、成功体験に反する余計なおせっかいであった。同国が孤立の誤りを反省して、世界を引っ張るのはヒトラーが世界征服に乗りだしてからのことであった。

大恐慌は供給過剰を招き、生産低下をもたらした。特にひどかったのはアメリカ合衆国であり、1929年から1930年の1年間と、1937年から1938年の1年間に、それぞれ約2割、低下した。ドイツとオーストリアも1929年からの1年間には1割を大きく超えて低下した。これに伴い失業率も、ドイツは3割を大きく超え、アメリカ合衆国も3割に近づいた[12]

対策として多くの国では1930年代、経済的ナショナリズムの政策を採用した。それは大きく四つに分けられる。一つ目は. 近隣窮乏化あるいはブロック化によって貿易の扉を閉ざすことである。関税を上げて、他国の商品を自国で売れないようにする。具体例には、アメリカ合衆国のスムート・ホーリー法がある。自国通貨の為替を切り下げるのも、輸入品の価格を上げるので、同じ効果がある。いずれにせよ、他国は報復関税で応えるので、みるみる世界貿易は縮小した。キンドルバーガーが示したグラフでは、1929年1月から1933年1月までの4年間に世界貿易の金額は3分の1になった[13]。開かれた市場を維持する覇権国が存在しなかったからである。

ブロック化とは、自国の経済圏を拡大して自給自足を図ることである。もともと植民地を多く有していたイギリスは速やかにポンド・ブロックを築いた。すでに独立した元自治領との間でオタワ協定を施行して、低い帝国特恵関税を適用した。

ドイツと日本のブロックは、第二次大戦に直結した。ドイツはハンガリーやチェコスロバキアといった南東ヨーロッパに手を伸ばした。次の標的は東のポーランドであり、そこへの侵攻は世界大戦の序曲であった。日本はすでに植民地にしていた台湾と朝鮮に加え、満州と華北に侵攻した[14]

近隣窮乏化とブロック化が大恐慌の原因であったことはまちがいない。しかし、それらをうまくやった国々は経済的に一息つくことができた。

ナショナリズムの二つ目は金本位制からの離脱であった。1931年にはイギリスはじめ多くの国が離脱した。大恐慌が始まってから金本位制に復帰(金解禁)した日本は金の流出が止まらず、1931年暮れに高橋是清が大蔵大臣に就いた翌日、慌てて金輸出を再禁止した。

世界経済の再建を目指した1933年のロンドン世界経済会議は失敗し、もはや、元に戻る筋書きは描けなくなった。すべての国が金を国外に出さないので、貿易は縮小するほかない。そうならないようにするには、ドイツがとった為替管理のようなやり方があるにはあった。次の引用は経済相を兼ねるようになったシャハトの回想である。バルカン諸国の農産物を高く買ってやって親独的にした、と述べている。

その後一連の諸外国との間に締結した貿易契約で、ドイツ側が輸入した代金はその国から借りた形に記入し、これでドイツの商品が自由に買えるようにしたのが清算勘定である。この方式は、とくにバルカン諸国や南米諸国に適用された[15]

なぜ、金本位制から抜けなければならなかったか? 貴重な国際決済手段である金の流出を止めたいのはもちろんであるが、景気対策のためにも必要であったからである。金本位制のまま財政支出を増やすと、財政と貿易の収支が赤字になってしまう。金本位制から離脱すれば、不換紙幣を乱発し、財政赤字をインフレーションで軽減し、通貨安で貿易収支を改善できるからである。

高橋財政と呼ばれる日本の積極的な政策は、高橋是清の金輸出再禁止によって可能となった。低金利と日銀引受による国債発行によって流動性を供給したのはマネタリストの政策である。時局匡救と称する公共事業で有効需要を創出したのはケインジアンの政策である。これらはデフレーションからの脱却に一定の効果があった。ただし、国債でまかなわれた支出拡大のかなりの部分が軍事費に回され、対外関係の悪化という副作用まで生んだ。

他の二つのナショナリスティックな政策は、ニューディールまたはケインジアンの総需要政策と階級対立を緩和するための福祉国家政策である。繰り返すが、それらについては「経済的ナショナリズム」の回で述べる。

この回の最後に、カール・ポラニーの『大転換』(1944年)を取り上げ、大恐慌の意味を掘り下げる。その意味とは19世紀文明の崩壊である。

19世紀文明は四つの制度から成った。一つは勢力均衡であり、平和を望むロスチャイルド家などの金融業者が外交に影響力を行使し、平和の百年をもたらした。第2に、この回で論じた国際金本位制である。第3は自己調整的市場であり、商品価格・賃金・地代・利子といった諸価格が需要・供給で決まる。第4は自由主義国家である。

ポラニーによると、勢力均衡・金本位制・自己調整的市場・自由主義国家はユートピアであった。貿易ではゆっくりと保護主義が広がっていたが、ついに国際金本位制が崩壊すると、19世紀文明は次の文明へと大転換した。すなわち、勢力均衡は戦争へ、金本位制は国民通貨へ、市場と国家の自由主義は干渉主義・ファシズム・ニューディールへと移行した[16]。一言で表現するなら、市場の時代から国家の時代へと変わったのである。 若干、筆者の解釈を加えると、19世紀文明はユーロセントリズムであり、金地金はその上流階級の共有財産であった。ところが、ソ連の共産主義とアメリカ合衆国のパンアメリカニズムが台頭し、さらに労働者階級が政治進出を果たすと、平等な分け前を要求し、金本位制のルールは立ち行かなくなった。発言権を増した多種多様なアクターたちの利益を集約するメカニズムが本当は必要であった。ロスチャイルド家の広大な血脈でさえ不十分であり、国際連盟は各国の右翼に支持されなかった。新旧の勢力はそれぞれ共産主義とファシズムに身を投じ、新秩序を作ろうと企てた。そのさまを「経済的ナショナリズム」の回で見る。


[1] Paul R. Krugman and Maurice Obstfeld, International Economics: Theory and Policy, 4th (Reading: Addison-Wesley, 1997), p. 513.

[2] 山本栄治、『国際通貨システム』、岩波書店、1997年、9ページ。

[3] J・M・ケインズ、『平和の経済的帰結』、早坂忠訳、東洋経済新報社、1977年、154、191ページ。

[4] ケインズ、『平和の経済的帰結』、220ページ。

[5] ケインズ、『平和の経済的帰結』、143ページ。

[6] H・シャハト、『我が生涯』、上、永川秀男訳、経済批判社、1954年、421-422ページ 。

[7] 佐古丞、『未完の経済外交 幣原国際協調路線の挫折』、PHP研究所、2002年。

[8] G・トマス、M・モーガン=ウィッツ、『ウォール街の崩壊』、下、常盤新平訳、講談社、284-285ページ。

[9] C・P・キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-39』、東京大学出版会、1982年、98ページ。

[10] ミルトン・フリードマン、ローズ・D・フリードマン、『選択の自由 自立社会への挑戦』、西山千明訳、日本経済出版社、2002年、185-222ページ。

[11] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、264ページ。

[12] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、254ページ。Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 11.

[13] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、148ページ。

[14] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、253、255ページ。

[15] シャハト、『我が生涯』、下、118ページ。

[16] カール・ポラニー、『大転換―市場社会の形成と崩壊』、吉沢英成、野口建彦、長尾史郎、杉村芳美訳、東洋経済新報社、1975年。

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マキアベッリのささやき

解散総選挙の噂が広がっている。今年秋の政権1年までに解散できなければ政治生命は終わる、と君主論に書いてあったのだろう。アメリカ大統領ならば戦争ができるが、日本の総理大臣にその選択はない。

なぜこのタイミングなのか? いろいろあるだろう。国会論戦の失言がこわいのかもしれない。広告代理店の工作が限界なのかもしれない。

国際政治の観点では、高市総理はトランプ派だ。今後、彼の後ろ盾は有利に働かない、と見切ったかもしれない。二人三脚の相手が転んでしまえば、長期政権は見込めない。

彼女の高支持率には写真映え、動画映えが大きかったと思う。また、反中ナショナリズムもプラスに作用した。総選挙でそれらの神通力は如何?

帝国主義

人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化したからである。今回のテーマは、帝国主義時代の植民地化について、武力行使をめぐる国際規範と経済的背景に言及しながら論じなさい、である。

列強による世界の分割は帝国主義の一面にすぎなかった。それは工業、資源、海軍、陸軍、そして貨幣を融通無碍に変化させる錬金術でもあった[1]。典型的な例はインド・ベンガルからの収奪であった。ナワーブという操り人形のインド人君主がいたものの、イギリスの東インド会社が防衛、徴税、警察、そして司法の実権を握っていた。彼らはインド人からの税収で物産を購入し、海外で売りさばいて会社の利潤にするノーリスクの事業を行った。イギリス政府は東インド会社に、40万ポンドを本国に納めることを1767年に命令した。

1858年に東インド会社は解散した。しかし、20世紀初めにおいても、イギリスの経常収支はインドでの収奪を前提とした。北米およびヨーロッパに対する赤字をインド、日本、オーストラリア、そしてトルコに対する黒字で補填していたのである[2]

他方、投資という観点から見れば、ヨーロッパは必ずしも収奪ばかりをしたわけでなかった。ロンドンは一次産品の国際取引所となり、「世界の手形交換所」や「世界の銀行」と呼ばれた。銀行の間でも役割分担ができていた。例えば、ロスチャイルド家は外国政府のために外債を発行し、マーチャントバンクのベアリング商会は産業に投資する、といった具合である。イギリスは綿花についてはアメリカ合衆国とエジプトに、鉱業についてはラテンアメリカに投資した。フランスはシベリア鉄道をはじめ大陸ヨーロッパの事業に融資した。鉄道ネットワークは先進国だけでなく中南米やインドにおいても急速に広がった。

投資を受け入れた諸地域のうちでも、ラテンアメリカは19世紀後半、きわめて高い1人当たりGDP成長率を見せた。勢いはアジアとアフリカはもちろん、南ヨーロッパをはるかにしのいだ[3]。19世紀におけるカネのグローバリゼーションが途上国の開発に寄与した面もあった。

こうした経済現象を背景に進んだのが、植民地化、すなわち白人にとってのより快適な居住、であった。快適な居住というのは、気候風土に始まり、法制度、宗教を基盤とする習俗、新聞などのメディア、さらには競馬場といった娯楽に至る。夏の暑さが厳しければ、高原の避暑地や海辺のビーチを白人は開発した。

では、どのように白人は植民地を支配したのであろうか? 一つは操り人形の君主制である。現地人の支配階級は君主と一部官僚にすぎず、陰の実力者は宗主国の高等弁務官(あるいは大使・総領事・政務官・駐在官)と軍司令官であった。宗主国は利権と債権をつうじて財政までも支配した。もはや白人を脅かす現地勢力はなく、安心な暮らしが保証された。

快適な居住を約束する法制度は治外法権であった。白人には現地人と違い、文明世界のルールが適用された。白人の裁判が白人の領事官によって行われる領事裁判権の制度はとりわけ効果的であった。ほかにも、免税・不逮捕・国旗掲揚といった特権免除があった。これらは白人に雇われた現地人の被保護者(プロテジェ)にも、代理領事への任命をつうじて与えられた。不平等への憤りが、次世代のナショナリストたちを育てた。

中南米が植民地化されることなく、ほとんどが独立を保ちえたのは、比較的に小さな修正で白人が投資する環境が整えられたからである。スペインやポルトガルの植民地であった時代に、法制度や習俗の西洋化が進んでいた。たまに操り人形になるのを拒む大統領が現れ、ならず者の意味をこめてカウディーリョと呼ばれた。列強は砲艦外交によって紛争を解決した。

帝国主義の先触れはスエズ運河の建設である。それが所在するエジプトは形の上ではオスマン帝国の領土に含まれた。実際には、サイードというエジプト総督(後に副王)が支配者であった。彼はフランス人のフェルディナン・M・ド・レセップスに建設の特許状を発行した。運河が開通したのは1869年である。

サイード自身もスエズ運河会社の大株主であった。彼の死後、株をイギリス政府に売って後継者は自らの借金を返済した。時のイギリス首相デイビッド・ディズレイリは株を買い取る資金をロスチャイルド家から借り入れた。ウィットをきかせて、担保はイギリス政府である、と彼は伝えたが、政府を担保に入れるほど運河は重要であった。虎の子の植民地インドと地中海とをつなぐ大動脈が他国に支配されれば、インドの支配が脅かされるからである。イギリス政府は最大の株主となり、フランス人の小口株主たちとともにスエズ運河会社の経営権を握った。

運河の経営だけでイギリスは満足しなかった。1882年、エジプトで外国人が襲撃された。フランスが誘いに乗らなかったので、イギリスは単独で軍隊を派遣した。駐留軍が居座ったことで、エジプトの副王は操り人形になりさがり、イギリスの総領事兼外交事務官が真の支配者になった。白人の安心な暮らしとビジネスが保証され、綿花の生産がエジプトの主要産業に発展した。

第一次世界大戦でトルコが敵国になると、イギリスは遠慮なくトルコの宗主権を否認し、副王をスルタン(王)に昇格させた。真の支配者の階級も高等弁務官に格上げされた。その後、両国の関係は、保護権が廃止されて対等の主権国家になったり、同盟条約が結ばれたり、高等弁務官が大使に格上げされたり形は変わっても、エジプトは植民地のままであった。イギリス軍はカイロとアレクサンドリアに駐留し、運河地帯への駐兵権を持っていた。

スエズ国際海水運河株式会社の株主総会と理事会はパリで開かれた。しかし、特許状の定めにより、運河会社は1969年に解散され、資産はエジプトに移ることになっていた[4]。本当に運河はエジプトに返還されるのか? 1956年にスエズ戦争が起きるまえ、誰もこの疑問に答えられなかった。

植民地化のテクニックはこの事例で明かされている。1882年の外国人襲撃は決定的であった。白人を保護できなければ、国家責任を問うため武力行使するのが当時の常識であった。国家責任論、すなわち植民地化を「される側」が悪いという論理、が国際法の一部であった。国家は自らの不法行為、すなわち故意・過失による損害、に責任を負う。契約不履行、不法な殺傷・逮捕・財産権侵害、裁判拒否、そして反乱に対する相当な注意義務違反がそうした不法行為の典型的なものであった。債務不履行、公債不履行、そして役務代金不払も武力行使の理由になった。賠償金を払ったり、保護国化に同意したりすることが責任の取り方であった。

アメリカ合衆国はキューバでの武力行使の大義名分に圧制の除去と民主主義を挙げたが、付け足しの理由にすぎなかった。きっかけはスペインへの反乱から自国民を保護するために派遣された米国軍艦メイン号の爆発であった。原因は事故とも、スペイン側の仕掛けたものとも、アメリカ合衆国側の自作自演とも言われるが定かでない。イエロージャーナリズムと呼ばれた好戦的な世論が合衆国で高まり、ついに米西戦争(1898年)が勃発した。圧倒的な勝利の結果、合衆国はキューバを保護国化したのみならず、プエルトリコを属領化し、フィリピンを植民地化した。

義和団事件の端緒も自国民保護である。日清戦争以後、列強は鉄道敷設はじめ利権漁りを加速した。ドイツの場合は、ビールの名産地になる青島を含む山東省の膠州湾を自国民保護の理由で1897年に占領し、利益範囲とした。これが排外主義の火に油を注ぐ結果となり、義和団という武装勢力が宣教師や外交官を殺し、北京に迫った。清は義和団の側につき、列強に宣戦を布告した。列強の八か国連合軍は義和団と清を蹴散らし、翌1901年に北京議定書(辛丑和約)を結ばせた。

清が支払うことになった莫大な賠償額の算定に当たっては、清の関税徴収を取り仕切ってきたイギリス人官吏の意見を聴いた。つまり、いくらまでならば清は払えるかを見積もって、最大限、払わせたのである。まるで鶏が産む卵をことごとく横取りするようなもので、国家の家畜化であった。良心がとがめたのか、アメリカ合衆国は、受け取った額の一部を現在、中国一、二を争う名門である清華大学の設立に拠出した。

1902年のベネズエラ封鎖は債権回収を目的とした。ドイツは「威信」を守るためと称し、1898年以降の革命および反乱の期間に累積した債務不履行や損害の総額を請求した。大きなところでは、ドイツ国民が経営する食肉処理場とその債権者に対するカラカス知事の契約不履行や、大ベネズエラ鉄道をめぐる債務不履行といった経済取引をめぐるものがあった[5]

これに対する反発は米州から起きた。かねてより、債権回収に武力が行使されたラテンアメリカでは、カルボ・ドクトリンが叫ばれてきた。カルロス・カルボというアルゼンチンの国際法学者・外交官は、私人は外国政府との契約上の紛争において自国政府に介入を求めない、ということを国際法の原則として唱えた。

カルボの後輩に当たるアルゼンチン外相ルイス・ドラゴはベネズエラ封鎖に対し、「政府の債務は武力干渉もヨーロッパの国による米州諸国領土の占領も招かない」という原則を声明した[6]。政府が自国民の保護のための外交をすることを外交的保護権というが、債権回収のために武力を使う外交的保護権を否定するのがドラゴ・ドクトリンである。

次の年、アメリカ合衆国の仲介により、ドイツにイギリスとイタリアが加わった請求国とベネズエラの間に議定書が結ばれた。やはり関税収入を支払いに充て、混合請求委員会による仲裁で私人への分配額を決定することになった。

アメリカ合衆国大統領はシオドア・ローズベルトであった。前政権で海軍次官を務めていたところ米西戦争が起き、志願兵としてキューバに渡り、ラフライダーという部隊で戦った。大統領となってからの棍棒外交というあだ名からも知られるように、彼にはタカ派のイメージがある。ベネズエラ封鎖事件では、1904年暮れにローズベルト・コロラリーと呼ばれることになる発言をした。

慢性的な不法行為や無能が文明社会の絆にひびをいれれば、米州であれ、どこであれ、最終的にはどこかの文明国による干渉を必要とすることもある。合衆国は西半球でモンロー・ドクトリンを奉じており、こうした不法行為や無能が目に余れば、不本意ではあるが、国際警察権力の行使を余儀なくされるかもしれない[7]

これは単に不法行為や債務不履行を許さないということだけではない。モンロー・ドクトリンはヨーロッパによる米州の植民地化を禁じており、それにつながりかねない列強の干渉は好ましくない。よって、アメリカ合衆国自身が干渉をするというのである。いわば、米州を自らの勢力範囲であると宣言したようなものであった。一方で、ラテンアメリカがキューバとプエルトリコを除き植民地化を免れたのはこの原則の成果と言って過言でない。

モロッコにも列強は手荒く圧力をかけ、責任を果たせないと認定して独立を奪った。1905年にドイツ皇帝ビルヘルム二世はタンジールに上陸した。翌年、フランスは国政の改革を求めてアルヘシラス会議を開いた。次の年に外国人が襲撃され、フランス軍が居留民保護のために上陸したカサブランカ事件が起きた。これでモロッコはフランス保護領、スペイン保護領、そしてタンジールに三分割されていく。

露骨な帝国主義に対抗し、国際法で武力行使を禁止しようとする運動が高まりを見せた。1907年、ポーター条約(契約上の債務回収の為にする兵力使用の制限に関する条約)が結ばれた。契約上の紛争にかぎり武力行使を禁じたものである。実際の効果は疑わしく、適用範囲が契約に限定されたばかりか、第2条で、仲裁で解決する努力をすれば、それがうまくいかなくても武力行使をしてもよい、という抜け穴が用意されていた。

別の動きにカルボ条項があった。これは上のカルボ・ドクトリンを進出企業と現地政府との契約のなかに明記するものである。あらかじめ、自国政府に頼らないことを企業側に約束させて、外国の干渉を阻止しようと現地政府は企んだ。しかし、国際法の学説では、私人の利益を外交的に保護する権利は国籍がある国家の側にあり、国家の権利は私人により放棄できるものではない、とカルポ条項の効果を否定する意見がある。

より決定的な動きは1945年の国際連合憲章である。その第2条4に、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」とある。国家責任を問うための武力行使は国際連合の目的と両立しないであろうから許されないし、植民地化の結果も当然、政治的独立を奪うことになる。

さらに、外国人への特別扱いを否定する動きがあった。1974年に国連総会で決議された国家の経済的権利義務憲章(A/RES/3281)がそれである。総会決議であるため、それ自体で法的拘束力があるわけでないが、国際世論の状況を示すものではある。第2章第2条2(a)に、「いかなる国家も外国投資に対し特恵的待遇を与えることを強制されない。」という文言がある。つまり、自国民に与えないものを、なぜ外国人に与えなければならないのか、という国内標準主義の主張である。帝国主義時代に列強が、これはあなたの国の責任であるから償いなさい、と文明国標準主義に拠って弱者に押し付けたことを想起すると、弱者の意見に耳を傾けさせるこの条項は隔世の感がある。

これまで見てきたような帝国主義の原動力とは何であったのか?

古典中の古典と言うべきジョン・A・ホブソンの『帝国主義論』(1902年)は、帝国主義の原因は私的な特殊利益である、と論じる。具体的には、牧場経営者、銀行家、高利貸し、投資家、醸造業者、鉱山所有者、製鉄業者、造船業者、海運業者、輸出品製造業者、貿易商、宣教師、学校、労働組合、陸海軍人、在外公館員、そして技術者など得をする者たちが団結した結果とする[8]

ホブソンの説としてほかに有名であるのは、帝国主義は過剰生産のはけ口という理論である。国内の富裕層は消費性向が低いので、国外に市場を作って買わせなければならない。市場を求めて、という点は、カルテルやトラストが国内の独占・寡占を維持しながら外国で商品を売りさばく必要を論じたヨゼフ・A・シュンペーターの説明と共通する[9]

経済的利益のなかでも、金融資本を帝国主義の元凶とする見方が根強い。金融資本の影響があったことは事実である。帝国主義末期に「ドル外交」という言葉が流行した。そのころのエピソードに次のようなものがある。ちなみに、シフは日露戦争の際、高橋是清の融資依頼に応じたユダヤ人として有名である。

―前略―クーン・ローブ商会が関税を担保にドミニカ共和国への融資を検討した際、同商会のジェーコブ・シフがロンドンの業務提携先に「向こうが借金を返さない場合、誰がこの関税を徴収するのだ?」と問い合わせたら、「お宅の国か、わが国の海軍さ」と答えが返ってきたという[10]

金融資本への警戒は古くからあり、1879年、世界一周中のユリシーズ・S・グラント前アメリカ合衆国大統領が明治天皇に謁見した折、次のように助言した。

凡そ国の最も厭うべきは外国に債を負うより大なるは無し―中略―誠に埃及西班牙又は土耳古を見よ其景況実に憐む可し一国の財源は皆悉く外国の抵当と為り一も我所有と称するを得へきものなきに至る而て埃及の藩王は外国に其譲位を迫られ又西班牙の如きは莫大なる外債の為に各種の内国税を非常に増収し加之上下の税吏私曲を逞し堂々たる富国も殆ど将に衰亡せんとするの勢なり[11]

ウラディミル・レーニンの壮大な理論も金融資本を重視する。1916年に書かれたものであるから世界大戦はすでに始まっていたが、世界の分割を金融の論理がもたらしたと彼は説明する。国内への投資ではもはや利潤率が低下したため、金融資本は高い利潤率を求めて外国に出ていかなければならない。投資は保護されなければならないので政治的な支配が必要になる。こうして、資本主義の最終段階としての帝国主義が進んでいく[12]

投資と政治的な支配との関係が強く主張された分野といえば鉄道の敷設である。ドイツの帝国主義として知られる3B政策は、ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、そしてバグダッドを鉄道で結ぶ構想であった。第一次世界大戦においてドイツ、オーストリアハンガリー、そしてトルコは中央同盟諸国としてともに戦うことになった。

オーストリアハンガリーは仮想敵国ロシアの友邦セルビアを通らずに、ヨーロッパとトルコを結ぶ計画を立てた。その路線は1908年に併合したばかりのボスニアヘルツェゴビナを通って、コソブスカ・ミトロビツァからテッサロニキに至るものであった[13]。次の皇帝となる予定であったフランツフェルディナント大公が暗殺された場所がボスニアヘルツェゴビナのサラエボであったことはよく知られる。同国が無理をしてでもボスニアヘルツェゴビナを支配する必要があった理由が鉄道計画の存在であったとしても不自然でない。

投資ではなく、資源獲得の必要が、国家を対外進出させ、紛争につながるという学説もある。アメリカ合衆国では、ナズリ・シュクリとロバート・C・ノースが計量分析を行った。人口でも、GDPでも、エネルギーでも、国家の成長は資源需要を増大させる。するとその国は対外進出を図り、軍事力を増強する。国々は衝突し合うようになり、ライバルの国も軍事力増強によって応える。シュクリとノースは、ドイツの成長とその結果としての第一次大戦に注目した[14]

以上のように、帝国主義においては、巧妙に経済的利益と政治的支配が両立される。日清戦争後、帝国主義に参加した日本はどうであったか? 必死に政治的支配を確立しようとしたが、それで多くのものを失ってしまった。韓国併合を振り返ってこの回を締める。

日清戦争によって朝鮮を清の属国から独立国にする目的を果たした日本であったが、陸奥宗光外相が『蹇蹇録』でどう述べようと、それが真の最終目的であったかは疑わしい。清に代わって、ロシアという強敵が現れた。親ロシアの王妃である閔氏を三浦梧楼公使が首謀者となって殺害したことで、王はますますロシアに頼ることになってしまった。さらに、ロシアは義和団事件に世界が目を奪われている間に、満州を占領し、軍事圧力を強化した。

対する日本はイギリスと同盟を結び、どうにか日露戦争に勝利できた。戦中に第一次日韓協約、戦後に第二次日韓協約で保護権を確立した。

ところが、朝鮮の支配は完成しなかった。保護権にもかかわらず、韓国皇帝は独自外交を目指し、第2回ハーグ平和会議に代表を送ったのである。日本はこれを残念として、第三次日韓協約を押し付け、統監を送って直接統治に切り替えた。さらに、統監の伊藤博文が暗殺されると、韓国を併合した。李氏の王朝を操り人形にすることに失敗したのである。 その後も宣川事件や三一事件といった抵抗は収まらなかった。以上の歴史は、政治的支配と経済的利益を両立させる帝国主義の目標を日本が達成できなかったことを物語る。


[1] See Paul Kennedy, Strategy and Diplomacy, 1870-1945 (London: Fontana Press, 1984).

[2] S・B・ソウル、『イギリス海外貿易の研究』、久保田英夫訳、文真堂、1980年、81ページ。

[3] アンガス・マディソン、『世界経済の成長史1820-1992年』、金森久雄監訳、政治経済研究会訳、東洋経済新報社、2000年、9ページ。

[4] 今尾登、『スエズ運河の研究』、有斐閣、1957年。小林元、『国際政治と中東問題』、故小林元教授遺著刊行会、1964年。

[5] Holger H. Herwig, Germany’s Vision of Empire in Venezuela, 1871-1914 (Princeton: Princeton University Press, 1986), p. 99.

[6] The United States Department of State, Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, with the Annual Message of the President, 1903 (Washington: Government Printing Office, 1904), p. 4.

[7] Theodore Roosevelt’s Annual Message to Congress, December 6, 1904.

[8] ホブスン、『帝国主義論』、上、矢内原忠雄訳、岩波書店、1951年。ホブスン、『帝国主義論』、下、矢内原忠雄訳、岩波書店、1952年。

[9] ホブスン、『帝国主義論』、上。ホブスン、『帝国主義論』、下。シュンペーター、『帝国主義と社会階級』、都留重人訳、岩波書店、1956年。

[10] ロン・チャーナウ、『モルガン家』、上巻、青木栄一訳、日本経済新聞社、1993年、176-177ページ。

[11] 外務省編、『日本外交年表並主要文書 上』、原書房、第5版、1988年、76ページ。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に改めた。

[12] レーニン、『戦争と平和、帝国主義』、平野義太郎編、大月書店、1970年。

[13] ハーバート・ファイス、『帝国主義外交と国際金融 1870-1914』、柴田匡平訳、筑摩書房、1992年、238ページ。

[14] Nazli Choucri and Robert C. North, Nations in Conflict: National Growth and International Violence (San Francisco: W. H. Freeman and Co., 1975), p. 29.

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相互依存

関税は商品の代金とは別にかかる費用である。関税を下げれば、国境を越えて商品は移動しやすくなる。これが自由貿易の考え方である。自由貿易が行われる国々の住民は、余計な費用をかけずに商品を売ったり、買ったりでき、選択の自由は飛躍的に増す。

しかし、同じ商品を国内で作っていた業者にとっては、外国からより低い価格で商品が買えるとなると、自分が作ったものが売れなくなってしまう。輸入を減らして国民の仕事を守れ、という保護主義の要求は、選挙をつうじて意思決定者に直接、伝えられる。市場メカニズムのメリットが保護主義のそれに勝ることを国民に説得するのも政治家の責任であるが、これがなかなか行われない。

今回のテーマは、19世紀中葉、自由貿易がいかなる歴史的過程を経て実現し、またそれが契機となって生まれた相互依存をめぐる言説がいかなる展開をたどったか、である。

保護主義の例としては穀物法が引き合いに出される。ナポレオン没落後、大陸封鎖が崩壊したことにより、イギリスへのヨーロッパ大陸からの穀物輸入が再開され、地代に依存する地主には生産物の値崩れが懸念された。そこで1815年に穀物法が定められ、外国産穀物に輸入制限を課した。穀物価格の高値安定は、中産階級と労働者階級には不評であった。家計の消費支出に占める飲食費の割合をエンゲル係数といい、家計の貧困度合いを示す指標として使われる。食費が上がるとエンゲル係数は上がる。

ちょうどそのころ世に出たのが、デイビッド・リカードの比較優位説または比較生産費説であった。『経済学および課税の原理』から、ポルトガルとイギリスの分業が有利であると論じる該当の部分を引用する。

イギリスは、毛織物を生産するのに一年間に100人の労働を要し、またぶどう酒を醸造しようとすれば、同一期間に120人の労働を要するような事情のもとにあるとしよう。したがって、イギリスは毛織物の輸出によってぶどう酒を輸入し、購入することが、自国の利益であるとみなすであろう。

ポルトガルは毛織物を90人の労働で製造しうるにもかかわらず、その生産に100人の労働を要する国からそれを輸入するであろう。なぜなら、ポルトガルにとっては、その資本の一部分をぶどう栽培から毛織物製造へと転換することによって生産しうるよりも、一層多くの毛織物をイギリスから交換入手するぶどう酒の生産にその資本を投下する方が、むしろ有利だからである[1]

リカードが言う通りかどうか、厳密には、通貨の交換レートや人口比の情報を教えてもらうまで結論を持ち越すべきである。しかし、ここでは彼に敬意を払い、ポルトガルはぶどう酒に特化し、イギリスは毛織物に特化すると双方に便益がある、と信じよう。関税を下げて貿易を活発にすれば、国際的に、最適化、すなわち最善な選択肢の探索、が進む。国民単位で物事を見れば、消費を最大にするのはいずれの国民にとっても自由貿易である。

その一方で、イギリスの土地貴族たちは地代が下がれば、少ない所得しか手にすることができなくなる。現実には、その心配はなかった。なぜなら、議会には多くの土地貴族が選ばれており、穀物法を守ることができたからである。カール・マンハイムは、イデオロギーを観念の存在拘束性の一例とした[2]。地主としての存在に拘束された土地貴族たちは、都合のよいイデオロギーを世間に広め、穀物法を続けさせた。

イデオロギーであるという点では、マンチェスター学派の経済学も異なるところはない。穀物すなわち飲食費が安くなれば、労働者の賃金も安くなる、と彼らは主張した。当然、賃金が安くなれば企業の利潤は大きくなる。現代における最低賃金の制度を知る者には理解しがたい考え方ではあるが……

マンチェスター学派の代表は、キャラコ捺染業を営み、庶民院に選出されていたリチャード・コブデンである。彼の拠点がマンチェスターであった。同じくこの工業都市に拠点を置いたジョン・ブライトとともに、反穀物法同盟の中心人物となった。コブデンとブライトはブルジョワジーを代表するといえる。中産階級、とも呼ばれるが、それは王侯貴族から見ればそうなるというだけで、実際には富裕層である。

最後に、労働者階級のイデオロギーはどうであったろうか? 貴族という共通の敵がいたために、19世紀前半にはブルジョワジーとプロレタリアートは共闘の関係にあった。カール・マルクスは当時を振り返って、次のように書く。

―前略―工場主であるコブデンやブライトを先頭に立てた穀物法反対同盟が世間にまき散らしたあつかましいパンフレット類でさえ、土地所有貴族にたいするその攻撃によって、けっして科学的ではないにしても歴史的ではある関心を示した[3]

ブルジョワジーと労働者の共闘といえば、選挙法改革の争点もそうである。国民の多数派が支持する候補者が議員に当選し、議会の多数派が法律を改廃するようになれば、穀物法もなくなるであろう。それは最大多数の最大幸福にはちがいないが、土地貴族という敗者が明らかにいた。

自由貿易への最後のひと押しとなったのは、じゃがいも飢饉、つまり1845年から1846年にかけてのアイルランド大飢饉であった。国内で飢えている人がいるのに、穀物輸入に制限を課し続けることはできなかった。風刺漫画の雑誌には、長身のコブデンが子供姿のロバート・ピール首相を自由貿易に連れていく姿が載った。ついに、穀物法は廃止された。今度は、自由貿易によって肥え太ったライオンの姿、つまり王者イギリスの数年後を描いた漫画がそこに載った[4]

ここまでは、国内政治の話である。つまり、イギリスが一方的に外国からの穀物輸入を増やした。次は、二国間条約が自由貿易を推し進めた話である。

フランスのナポレオン三世は戦争によって多くの敵を作り、イギリスとの友好を必要としていた。そこで、イギリスとの関税引き下げ協議に着手し、フランスはミシェル・シュバリエを、イギリスはコブデンを代表に選んだ。1860年に結ばれたのが英仏通商条約の特恵貿易協定である。これはコブデン条約とも呼ばれ、自由貿易のシンボルとして人々の心に刻まれた。新たな関税率は両国の産業構造に変化をもたらし、イギリスは工業に、フランスは農業に特化した。

自由貿易は最盛期を迎えた。通商条約は全ヨーロッパ大陸とアメリカ合衆国に伝播し、1870年代には40本を数えた[5]。1875年には工業製品に対するイギリスの関税は0パーセントに低下した[6]。これこそ19世紀のグローバリゼーションであった。

ただし、通商のグローバリゼーションは、主権国家の自由意思だけに基づき、広がったわけでない。半文明国、例えば当時の中国や日本、にとって、自由貿易は押し付けられたものであった。自由貿易帝国主義という用語でそれが解説されることがある。なぜなら、砲艦外交という軍事的な脅迫によって、国家主権を奪ったからである。

中国の場合、アロー戦争が行われ、その講和のために、1858年の天津条約が結ばれた。日本においてこれに対応する内容を持つのは、黒船来航の翌年に結ばれた日米和親条約とアロー戦争を見ながら交渉された日米修好通商条約である。後者は天津条約同様、片務的最恵国待遇、領事裁判権、そして協定関税を伴う不平等条約であった。半文明国と文明国との関係は、文明国どうしのものとは異質であった。

自由貿易は有無を言わせぬ勢いで広がったが、自国産業を守る動きも広がった。経済学における国民学派、すなわちナショナリスト、の興隆である。ドイツでは、ゲオルク・フリードリヒ・リストが1841年に『政治経済学の国民的システム』を書いた。そこで説かれた幼稚産業の保護を目的とする輸入代替工業化は、工業を農業より優先し、完全な農業国が、いかに外国工業品を締めだし、国内工業品を輸出するまでになるか、を段階を追い描く[7]

リスト自身、ドイツ関税同盟を設立するために奔走した経験があり、輸出大国のイギリスから国内市場を守るため、関税同盟が大きな役割を果たすことを知っていた。ドイツの諸国は関税同盟を結ぶだけでなく、1871年にはプロイセン王国を中心とする統一国家に合体した。ドイツ帝国は1879年に新関税政策を採用し、保護主義を強化した。これに追随して、他の国々も工業製品の関税率を上げ、自由貿易の時代は終わりを告げた[8]

話題を相互依存、英語でインターデペンデンス、に転じよう。それは自由貿易の状況を国際関係に応用した理論である。次のコブデンの手紙において、理論としてすでに完成している。

―前略―ヨーロッパの植民地政策は過去150年の間、戦争の主要な源泉であったのです。他方、自由貿易は交流を促進し、国々が互いに依存する(mutually dependent)ことを確かにすることによって、必然的に、政府から人民を戦争に駆りたてる力を奪います[9]

相互依存論は、貴族主義に対抗してブルジョワジーが作ったイデオロギーであった。貴族主義は保護関税によって国富を減少させる。貴族の子弟である軍人は戦争を起こす。植民地は増え、防衛費がかかり、関税を上げねばならない。国富はさらに減少する。

それにたいし、民主主義は自由貿易をもたらして、国富を増大させる。国際紛争を仲裁によって平和的に解決する不干渉政策を貫けば、自由貿易は維持できる。平和は軍縮による減税を可能とし、国富は増大する。

第一次世界大戦のころ、相互依存を宣伝したのがジャーナリストのラルフ・ノーマン・エンジェルであった。彼は「大いなる幻想」(1910年)において、領土を増やせば富も増える、と見るのは楽観的な幻想である、と唱えた。ところが、時を置かずに世界大戦が起きたことで、現実主義者の引き立て役として教科書に登場させられることになった。

しかし、エンジェルはまちがえていたわけでなかった。例えば、ドイツは征服しても損をする、と書いているが、理由はもっともなことばかりである。敵の人命を奪うことは、自らの市場を破壊することである。敵の財産を差し押さえても、こちらの被害を償えるわけでない。敵の領土を併合しても、その土地の富の所有者はその土地の住民のままである。敵の領土を植民地にしても、それを防衛するのに費用がかかり、経済的には損である。エンジェルは、戦争は起きない、と言ったわけではない。戦争は損である、と言ったにすぎない。

エンジェルは1933年にノーベル平和賞を贈られた。次の文章は複合的相互依存という概念を説明したものであるが、現在でも色あせない。

―前略―近代金融の複合性はニューヨークをロンドンに依存させ、ロンドンをパリに依存させ、パリをベルリンに依存させたが、それは史上かつてない程度である。この相互依存は以下のような昨日できたばかりの文明の利器を日常で使用した結果である。それらは、速達、電信による金融・商業情報の即時伝達、そして一般的に通信速度の信じられない進歩であり、百年も経っていない前のイギリスの主要都市間よりも半ダースのキリスト教国の首都を金融的により密接に連絡できるようにし、相互に依存させている[10]

日本の自由貿易論者といえば、東洋経済新報社主幹で、戦後、内閣総理大臣になった石橋湛山が挙げられる。満州事変に際して彼が書いた記事は、資源確保が軍事活動の目的である、という論拠の弱点を見抜いていた。

そしてわが国には鉄、石炭等々の原料が乏しいから、満蒙の地を、その供給地としてわが国に確保することが、国民経済上必要欠くべからざる用意だと称うる。これも現在までの事実においては全く違う。満蒙は何等わが国に対して原料供給の特殊の便宜を与えていない。が仮に右の説が正しとするも、もしただそれだけの事ならば、敢て満蒙にわが政治的権力を加うるに及ばず、平和の経済関係、商売関係で、優々目的を達しえる事である[11]

コブデンから石橋湛山に至る考え方は、古典的自由主義と称される。その特徴は、国家は国内の支配的集団に代表され、その利益が満たされれば国際関係は調和する、と見ることである。支配的集団とはベンサムのいう「最大多数」であり、具体的には中産階級である。国家は力関係で競うことはない。戦争は一部の特殊利益が自分たちの利益だけを図った結果である。

それにたいし、20世紀末にアメリカ合衆国で広まったのが新自由主義である。利己的な国家どうしも自己利益のためには協力する、というのがその中心的な主張である。古典的自由主義が前提とした個人や集団、あるいはマルクス主義が依って立つ階級ではなく、新自由主義は国家そのものを単位とみなす。また、国家間に対立が存在する場合でも、国際法や国際機構といった制度によって協力するよう仕向けることができる、と考える。後者の立場は新制度主義と呼ばれる。

新自由主義と学界の支持を競ったライバルの新現実主義も、国家中心の見方をする。違いは、国際制度を重視するか、軍事力を重視するか、といった程度しかないという議論さえ出た[12]。相互依存に対する見解をめぐっては、古典的自由主義と新現実主義とが対極にあり、新自由主義は折衷的な位置にある。

新現実主義の代表はケネス・N・ウォルツである。彼は相互依存を「神話」と呼んで批判する。それは平和につながるのでなく、国どうしの接触や交流が増えることで、偶発的な紛争を起きやすくする。相互依存という言葉そのものにも欠陥がある。それは国力が不均衡であるのを曖昧にし、互恵的な相互依存関係が存在するかのような幻覚を与えてしまうからである[13]

要するに、強者は依存せず、依存は弱者だけがするものである、とウォルツは言いたい。大国は外国に対して統制力を行使しうると同時に、自国を隔離することもでき、それが国際関係の安定を実現する。地理的に広大で経済的にも先進国である国は資源が一時的に不足しても、速やかに自足体勢を整えることができる。供給元の多様さ、備蓄、そして技術進歩といったものは大国のほうが勝っている。例えば、アメリカ合衆国は天然ゴムの供給が滞った時に、技術力によって、合成ゴム産業を育成できた[14]

新自由主義は、新現実主義の主張を一部認めつつ、強者はつねに有利、というような結論は巧みに避ける。ロバート・O・コヘインとジョセフ・S・ナイに、『力と相互依存』という共著がある。わざわざ、力、という言葉を題に入れ込んで、新現実主義と折り合いをつけるかのようである。

コヘインとナイが考案した概念が「脆弱性(バルネラビリティ)」である。それは、政策変更が可能という条件下で、国外に起因する費用の影響、と定義される。政策次第で外国の影響を緩和できる国、例えば大国、は脆弱でない、つまり、依存はしていないことになる。ただし、「敏感性(センシティビティ)」、つまり、政策変更が不能という条件下で、国外に起因する費用の影響、は、大国であっても小さくないかもしれない[15]。その場合、短期的に敏感性が大きくても、長期的には非脆弱であり、依存とはいえない。

天然ゴムの供給が止まった時、合成ゴム産業を育成する政策で切り抜けた、というウォルツの挙げる例は、アメリカ合衆国が脆弱でなかったことを示す。また、ウォルツの挙げる例ではないが、原油価格が上昇した場合、産油国の王様に、増産をよろしく、と電話をかけたり、中東に空母を派遣して力を誇示したりして価格高騰を抑えることは、同国の大統領がよく使う手である。こうした対策をとる時間がなく、ショックで一時的に価格が高騰している状態が敏感性である。脆弱性と敏感性という概念は巧妙に練られている。

つまり、新自由主義は非脆弱性という意味での大国の力については新現実主義にたいして異論はない。脆弱性や敏感性は国際協力でカバーできると主張する点が違うだけである。そうした共通性から、両者を「総合」して一本化する可能性がしばしば唱えられてきた。しかし、それで統一理論ができあがると考えるのは早計である。それぞれが関心を寄せる軍事力の世界と国際制度の世界がそもそも違う。研究関心が異なれば、理論も異なってしかるべきである。

最後に相互依存論の二つの亜種を紹介する。一つは天谷直弘の「町人国家」であり、1980年に発表された。彼は通商産業審議官であり、エネルギー問題に造詣が深かった。当時は高度成長を遂げた日本を経済大国ともてはやす風潮もあったが、日本の限界をわきまえた謙虚な所説を述べた。

今日の国際社会を見ると、そこには徳川社会の構造と一脈相通じるものがあるように思われる。たとえば、日本は商工をもって立ち、米国やソ連は士農工商を兼備し、多くの発展途上国は農をもって立っている[16]

必要あれば、産油国に対して「油乞い」もしなければならず、時には七重の膝を八重に折っても「武士」に許しを乞わねばならぬこともあるであろう[17]

もう一つは、リチャード・ローゼクランスの「貿易国家」(1986年)である。

一方には、ソ連と(ある程度)までアメリカを主役とする、ルイ十四世の時代にまでさかのぼる領土主義の世界があり、他方には、大西洋と太平洋の周辺に形成された、一八五〇年代のイギリスの政策に由来する海洋主義と貿易の世界がある。―中略―海洋主義と貿易の世界に属する国々は、自給自足が幻想であることを認識している。貿易が比較的自由で開放的でありさえすれば、経済を発展させ生活の必需物資を手に入れるのに新しく領土を獲得する必要はない、と考えている。今日の西ドイツと日本は、一九三〇年代に武力で獲得しようとした原材料と石油を、国際貿易で手に入れ、平和のうちに繁栄している[18]

いずれの考察も米ソの衰退が喧伝されていた1980年代に発表された。当時は、軽武装で経済を優先するいわゆる吉田ドクトリンの立場から、軍事偏重の米ソを冷ややかに見る風潮が特に日本で強かった。その一方で、非大国が協力して、良いグローバルガバナンスが維持できるかには戒める意見があった。「フリーライダー(ただ乗り)」と日本は批判され、ウォルツが説くような大国の統制力への畏敬が残っていた。21世紀の今日においても、大国によるガバナンスか?、小国によるガバナンスか?、という問いは未解決である。


[1] リカードウ、『経済学および課税の原理』、上巻、羽鳥卓也、吉澤芳樹訳、岩波書店、1987年、191-192ページ。

[2] カール・マンハイム、「イデオロギーとユートピア」、『マンハイム オルテガ』、高橋徹訳、第4版、中央公論社、1988年。

[3] カール・マルクス、『資本論』、1、岡崎次郎訳、大月書店、1972年、33ページ。

[4] ジャグディシュ・バグワティ、『保護主義』、渡辺敏訳、サイマル出版会、1988年、23、35ページ。

[5] David Lazer, “The Free Trade Epidemic of the 1860s and Other Outbreaks of Economic Discrimination,” World Politics, 51 (4) (1999), p. 473.

[6] Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 40.

[7] フリードリッヒ・リスト、『経済学の国民的体系』、小林昇訳、岩波書店、1970年、60ページ。

[8] Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes, p. 40.

[9] Cobden to Henry Ashworth, April 12, 1842, quoted in John Morley, The Life of Richard Cobden, 13th ed. (London: T. Fisher Unwin, 1906), pp. 230-231.

[10] Norman Angell, The Great Illusion: A Study of the Relation of Military Power in Nations to Their Economic and Social Advantage, 1911 (New York: Garland Publishing, 1972), pp. 46-47.

[11] 石橋湛山、『小日本主義 石橋湛山外交論集』、増田弘編、草思社、1984年、108-109ページ。

[12] Robert O. Keohane, “Institutional Theory and the Realist Challenge After the Cold War,” in David A. Baldwin, ed., Neorealism and Neoliberalism: The Contemporary Debate (New York: Columbia University Press, 1993). Joseph M. Grieco, “Anarchy and the Limits of Cooperation: A Realist Critique of the Newest Liberal Institutionalism,” in Baldwin, ed., Neorealism and Neoliberalism: The Contemporary Debate.

[13] ケネス・N・ワルツ、「国家間の相互依存という神話」、C・P・キンドルバーガー編、『多国籍企業―その理論と行動』、藤原武平太、和田和訳、日本生産性本部、1971年。Kenneth N. Waltz, “The Myth of National Interdependence,” in Charles P. Kindleberger, ed., The International Corporation (Cambridge: M.I.T Press, 1970), pp. 205-223.

[14] ワルツ、「国家間の相互依存という神話」。Waltz, “The Myth of National Interdependence,” pp. 205-223.

[15] Robert O. Keohane and Joseph S. Nye, Power and Interdependence, 2nd ed. (New York: HarperCollins, 1989), p. 14.

[16] 天谷直弘、『日本町人国家論』、PHP研究所、1989年、45ページ。

[17] 天谷、『日本町人国家論』、48ページ。

[18] リチャード・ローズクランス、『新貿易国家論』、土屋政雄訳、中央公論社、1987年、25-26ページ。

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集団安全保障
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木下が語る木下藤吉郎の出自

とはいっても、子孫でもなければ同郷でもない。まったくの赤の他人だ。

しかし、言っておきたいことがある。北条早雲にせよ、斎藤道三にせよ、前半生が定かでなかった戦国大名の出自はほぼ作り話だった。伊勢新九郎は素浪人でなく、名家のおぼっちゃんだったし、油売りは道三本人でなく、父のイメージだった。

このように、文献にはごちゃごちゃ書かれているが、当事者以外が書いたもの以外はあてにならない。人間を描くにはその根幹部分を理解する必要がある。

木下藤吉郎の場合、頭角を露わした根幹は墨俣築城や調略など美濃攻めだ。となれば、美濃に隣接した土地が拠点であるべきだ。例えば、犬山城はかつて木下城といったが、美濃攻めの拠点としては最適だ。

また、Wikipediaに次の記述がある。

Wikipedia

秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓を農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説がある。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、小和田哲男は、秀吉は元々苗字持ちでなく、木下家利の婿養子の名目で木下祐久と改名した杉原定利の娘おねと結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという説を紹介している[148][注釈 48]。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性が指摘されている[注釈 49](ただし、おねの実家の苗字については天正12年に杉原氏宗家が秀吉から改易処分を受けたことにより、木下氏を名乗るようになったとする堀越祐一の指摘がある[20])。黒田基樹は、確定するのは困難であるものとしつつ、母・仲については加藤清正などの縁戚による人脈出身者の多さから彼女の出自は有力百姓の出身と考えられ、その彼女の婚姻相手である弥右衛門もまた一定の上層百姓であったのではないかと推測している[150]。黒田はその後の著作でこの問題を再検討し、百姓身分で結婚が可能であったのは江戸時代でも年貢・公事などの租税の対象となる耕地を所有していることが前提であり戦国期も同様であることから、元は一定の上層階層の百姓の家であったのが後日没落したと考えた方が妥当であるとしている。また、黒田は当時の社会では没落して社会的身分を喪失すると名字も喪う(名乗れなくなる)ことに留意すべきと述べている[25]。その上で『明智軍記』に記された「当初”中村藤吉郎”を称して木下雅楽助の組に配属され、後に信長から直臣に取り立てられた際に寄親の木下雅楽助から”木下”の名字を与えられた」という記述に一定の整合性を認め、秀吉あるいは父親が出身地から「中村」を称していたが、秀吉が父からの世襲ではなく自ら家を興したことを強調するために当時の寄親とされる木下雅楽助から「木下」の名字を授かって「中村」から名字を変えた可能性、もしくは家の没落によって一度は名字を失ったために織田家に仕官するにあたって「中村」を称し、後に改めて「木下」の名字を授かった可能性があるとしている[30]

豊臣秀吉 – Wikipedia

織田一門ともされる名家の木下家を斎藤道三のように乗っ取ってのし上がったと考えるのが、封建時代の出世のしかたとしては自然だろう。道三もそうだがお家乗っ取りは評判が悪いので、徹底的に痕跡を消したのだろう。

織田一門の木下家が犬山の領主だったとすれば、鳥肌物の一致だが……いずれにせよ、物語としては面白くない。史実は往々に砂をかむような話だ。

世界システム

中世イタリアの物語『デカメロン』はペストの流行から避難する話である。この流行は何年もかけてユーラシア大陸を横切り、物語が始まった1348年には、エジプトからヨーロッパに広まったところであった[1]。2009年のインフルエンザ・パンデミック(H1N1)はメキシコから、2020年のコロナウイルス・パンデミック(COVID-19)は中国から、あっというまに全世界に広まった。地球はもはや一つの感染システムである。

今回のテーマは世界システムである。その概念と歴史を国民国家と市場に言及しながら説明してみよう。

まずは、システムという概念に注目する。『広辞苑』によると、「複数の要素が有機的に関係しあい、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合体。組織。系統。仕組み。」とある[2]。ソーラーシステムは英語で「太陽系」のことで、発電装置のことではない。太陽系は単なる物体としての星々の集合体ではなく、恒星の周りを惑星が公転する、とか、惑星の周りを衛星が回る、とか「全体としてまとまった機能を発揮する要素の集合体」である。

世界システムは宇宙を含むか?、という問いはチャレンジングである。イーロン・マスクであれば、イエス、と言うであろう。しかし、彼はふつうでない。大多数の人々の意識が向かう先は地球上にかぎられる。多数決に従えば、世界システムは大気・海洋・陸から成る地球と生物を含む生態系である。人間活動に着目すれば、政治・軍事のサブシステム、経済・生産のサブシステム、そして社会・人格のサブシステムに分けられる。

国境線は宇宙からは見えないが、世界システムの理解にきわめて重要である。なぜなら、主権国家とそれらのネットワーク、すなわち国際システムこそが基本枠組みであり、世界の動きを考える際の手がかりであるからである。侵すことのできない国境が主権国家の領域をとり囲み、例外として、南極や公海といった共有地、そしてパレスチナのような線引きできないでいる紛争地帯がある。

中世には、これは違っていた。全国レベルの支配者は、狭い所領を一所懸命と守る封建領主に反抗され、不安定な存在であった。彼または彼女は宗教勢力とも権力を分かち合わなければならなかった。生産力は低く、王さえ、強大な軍隊をいつも手元に置いておけなかった。徒歩や馬での移動は妨害に遭いままならず、地の果ての安全はドラゴンや鬼などの魔物によって阻まれた。

近代では、暴力によって国土を分裂させるような反抗は常態でない。生産力は上がり、中央政府の実効支配は地の果てに及ぶ。ヒト・モノ・カネ・情報の移動を妨げる土着勢力はもはやない。

近代世界システムの概念が生まれるきっかけを作ったのは、フランス史アナール学派のフェルナン・ブロデルである。彼の『世界時間1』という本に、ヨーロッパ「世界-経済」の拡大を示す図が載っている。正距方位図法で描かれた世界地図の上に引かれた海上交易路の線は、1500年では地中海・大西洋・北海・バルト海をつなぐだけであったのが、1775年には大西洋とインド洋の一帯に伸び、中国とメキシコの間の太平洋航路も点線ながら描かれている[3]

ヨーロッパ世界拡大のクライマックスは、新大陸の征服であった。そのテーマでは、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』が読まれている。今のペルーにあったインカ帝国はスペイン人に滅ぼされた。168人のスペイン人にインカ軍8万人が敗れたのは、持ち込まれた天然痘、鉄の武器、そして馬のせいであった。さらなる根本原因は、ユーラシアが南北アメリカよりも動植物が多様で、面積が大きく、人口が多く、地理的な障壁が低いからであった。つまり、凶悪な病原菌への抵抗力がつき、人を乗せて戦うのに適した動物が進化できた。また、大規模な文明の誕生が早く、人々の経験が蓄積し、鉄器が発明された。ユーラシア大陸のなかでも世界の主導権を握りえたのは、政治的に統一されておらず、それゆえに文明の硬直化が起きていなかったヨーロッパ諸国であった[4]

さて、世界システム論といえば、イマニュエル・ウォーラーステインの名前が思い浮かぶ。彼の認識枠組みは近代社会の特徴をうまく言い当てている。経済と政治をその広がりによって国民単位と世界単位に分けた。理論的には、国民経済、世界経済、国民国家、そして世界帝国の四つの類型があることになる。現実の近代世界システムは、このうち、世界経済と国民国家の組み合わせであり、国民経済として単独で存立したり、世界帝国として自己完結したりはしない。一国において不足した資源があれば、通常、世界経済のなかで、貿易によって市場をつうじ、調達される。歴史上、国民経済を拡大して帝国を作ろうとする試みがあった。しかし、ナポレオン帝国とヒトラーの「生存圏」といったものはいずれも失敗した[5]。日本の満州・モンゴルの「生命線」もそうなった。ドナルド・J・トランプのMAGAはどうであろう?

資本主義世界経済論もまたウォーラーステインの研究を魅力的にしている。他の従属論と呼ばれる学派では、先進地域と開発途上地域とに世界を二分するのが普通であるが、彼の場合は、中核、半辺境、そして辺境に三分する。生産要素や原料が生産される段階から最終生産物が売られる段階までの一連の流れを、商品連鎖というが、先進的な地域である中核と開発途上である辺境との間を半辺境が結びつけ、中核と半辺境の間、そして半辺境と辺境の間で不等価交換が発生する。マージンの大きい商品は先進的な中核で生産される。投資は利潤が目的であるから、マージンの大きい商品の生産に集まり、やがてその商品は過剰生産になり、最終的には、マージンの小さい辺境あるいは半辺境の生産物に転落してしまう。転落が起きる前に技術革新を成し遂げた地域のみが、中核の地位を維持し続ける[6]

具体的な製品を想像すれば、世界システム論に同意できるかもしれない。白黒テレビはカラーテレビに駆逐され、カラーテレビはハイビジョンに追いやられ、ブラウン管は液晶・有機ELパネルに取って代わられた。電話では、はじめに固定電話があり、携帯電話が現れ、スマートフォンが広まった。古くなったテクノロジーでも、半辺境の国で作られ続け、安い価格で売られている。

この理論の面白いところはほかにもある。一つは半辺境という地位を設定することにより、従属論のように先進地域と開発途上地域との格差は広がる一方でないことが織り込まれたことである。1980年代から1990年代、アジアNIES(新興工業経済地域)のような新興国をうまく説明できると世界システム論は評価されたものである。それから、やはり当時、はやっていた大国の興亡論とともに、技術革新が国家の栄枯盛衰と関係あることを人々に意識させた。

再度、ブロデルに注目したい。彼は時間を三つに分けた。一つは「事件(エベーヌマン)」である。自身の言葉では「歴史的大事件と並べて、日常生活の平凡な出来事、たとえば火事、鉄道事故、小麦価格、犯罪、芝居、洪水」と表現されている。二つ目は「変動局面、重合局面(コンジョンクテュール)」である。これは1回きりの出来事ではなく、「10年、四半世紀、―中略―半世紀」にわたり、「価格曲線、人口動態、賃金動向、利率変化、生産調査―中略―厳密な流通分析」といった統計をつうじて認識される。三つ目は「長期的持続(ロングデュレ)」であり、 何世紀にもわたる。それはゆったりとした歴史の大きな枠組みであり、「構造」、「地理的束縛」、「ラテン文明」などと記述されることがある。資本主義もそうした一種の文明である[7]

ブロデルの時間観はウォーラーステインの研究に大きな影響を与えた。特に、変動局面に相当するコンドラチェフの波に、二人とも注目した。それは経済活動の上下運動でありながら、いわゆる景気循環よりも周期が長く、半世紀を1周期とするので、長期波動とも呼ばれる[8]

ウォーラーステインは、覇権国の交代とコンドラチェフの波とを結びつける。新しいテクノロジーの活用によって成長の波に乗った国は、世界戦争に勝って覇権国になる。覇権国は突出した海軍力によって世界貿易を支配する。やがて覇権に挑戦する国が現れるが、次の覇権が誰に帰するかは世界戦争の過程で決まる[9]。コンドラチェフの波は半世紀周期で、覇権国は1世紀が単位であるため、この相関関係を実証するだけのデータが足りない。また、フェリペ二世のスペインやルイ十四世およびナポレオンのフランスといった陸の覇者を外してよいのか?、あるいは、三十年戦争や七年戦争を覇権戦争としないのか?、といった論者による理論構成の違いがある。覇権循環論は科学と呼べるほどの緻密さはないが、興味深い歴史哲学である。

上のように近代世界システムは非常に大きな分析枠組みであり、本書の内容はほとんどそこに収まってしまう。本書は重商主義から自由主義に転換して以後を扱うが、その前史に触れておく。

大航海時代の駆動力は貴金属(金銀)の略奪と採掘であった。略奪と採掘が一段落すると、経済取引によって貴金属を得ることが目的になった。貴金属の蓄積を優先する経済政策を重商主義という。輸入を制限し、輸出を奨励すると、金貨と銀貨が手元に残る。しかし、航路と植民地は海賊と敵国に狙われるので、通商は海軍によって守られなければならなかった。軍事費をまかなうためにも、貴金属が国庫から尽きないことが必要であった。通商、海軍、そして植民地経営を総合的に行ったのが、フランスの財務大臣であったジャンバティスト・コルベールであった。

イギリスも、航海法によって貿易を規制した。第1に、輸出入は自国の船で行わなければならなかった。第2に、植民地は本国としか貿易できなかった。植民地側は反発し、アメリカ十三植民地の独立を招くことになる。第3に、高い輸入関税が課せられた。これらの保護主義政策はライバルのオランダから海軍と植民地を守るのが目的であり、自由貿易の父アダム・スミスさえ支持した[10]

スミスの『諸国民の富』(1776年)は、重商主義の全盛期に著された。彼の自由貿易論が実現したのは七十余年後、彼の死後のことであった。一つには平和が、もう一つには国内政治の変化が必要であった。そこに至るまでの道のりは「相互依存」の回で述べる。 では、18世紀後半までは、持続可能な選択の自由に、何も進展はなかったのか? そうではない。国民国家が主役となったのは、封建領主がもはや個人を縛ることができなくなったからである。領主に個人の内面を縛る力を貸してきたローマ教会が弱体化したのが原因であった。個人の知的レベルは上がり、聖職者は人々の疑問に答えられなくなった。科学者ガリレオ・ガリレイは物理現象をよりよく説明した。個人は経済活動や娯楽に関してまで、聖職者の言うことを聴くのは窮屈であったし、国家の側は、領主と教会から権威を奪って、実効支配を強化した。ともに力を高めた個人と国家であったが、両者のバランスは時とともに変化することになる。それはこれから述べる国際政治経済の一大テーマである。


[1] ボッカッチョ、『デカメロン』、上、平川祐弘訳、Kindle 版、河出書房新社、2017年。

[2] 新村出編、『広辞苑』、第5版、岩波書店、1998年、1171ページ。

[3] フェルナン・ブローデル、『世界時間1』、村上光彦、みすず書房、1996年、20-21ページ。

[4] ジャレド・ダイアモンド、『銃・病原菌・鉄』、上、倉骨彰訳、草思社、2012年、153、327ページ。

[5] I・ウォーラーステイン、『史的システムとしての資本主義』、川北稔訳、岩波書店、1997年。

[6] ウォーラーステイン、『史的システムとしての資本主義』。

[7] フェルナン・ブローデル、「長期持続」、井上幸治編、『フェルナン・ブローデル 1902~1985』、新評論、1989年、15-68ページ。

[8] ブローデル、『世界時間1』、93ページ。イマニュエル・ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界』、本多健吉、高橋章訳、藤原書店, 1993年。J・S・ゴールドスティン、『世界システムと長期波動論争』、岡田光正訳、世界書院、1997年、346ページ。

[9] ゴールドスティン、『世界システムと長期波動論争』。

[10] アダム・スミス、『諸国民の富 (三)』、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1965年、72ページ。

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領土保全
領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸国および国際連盟の対応について…
帝国主義
人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化したからである。今回のテーマは…
平和的紛争解決
国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…

ベネズエラ侵攻の意味

意味として確実に言えることは、そうとうおかしなことになっている、という感覚。1989年のパナマ侵攻でも同じことを感じたが、そのあとに起きたのは世界の民主化とイラクのクウェート侵攻だった。トレンドを作ったのは民主化のほう。

三巨頭(プーチン、習近平、トランプ)は全員、老い、精気が抜けている。しかし、地球は動いている。アウトオブコントロールというか、フリーホイールな感じがこの年の前半を支配するのでないか。

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