国家と市場とのバランスが最も前者の側に傾いたのは第二次世界大戦中であった。今回のテーマは、両次大戦間期から戦中期にかけての経済的ナショナリズムと人権および戦争との関係を、実例を挙げて解説しなさい、である。
この時代における経済的ナショナリズムの主な源泉は、社会主義/共産主義、ニューディール、ナチズム(戦争経済)、そして開発途上国のナショナリズムの四つに分けられる。それらの共通点は生産の国家統制である。
生産の国家統制にとって最大の障害は基本的人権、なかんずく財産権、である。日本国憲法において関係しそうな条文をいくつか挙げる。
第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
財産権の不可侵は基本的人権のなかでも基本的なものである。また、それは近代というものそのものでもある。二つの歴史文書がそれを如実に示す。一つ目は1789年8月26日のフランス人権宣言第17条である。
所有権は一つの不可侵で神聖な権利であるから、何人も適法に認められた公共の必要が、明白にそれを要求し、かつ正当で事前の補償をなすという条件のもとでなければその権利を奪わるべきではない[1]。
もう一つの文書は1789年9月25日のアメリカ合衆国憲法修正第5条である。
―前略―何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。何人も、正当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない[2]。
こうした近代の約束事に強く反対したのがマルクスであり、レーニンであった。革命が起きれば、財産は没収されなければならない、と彼らは主張した。かといって、最終的には国家のもとに集中される、というわけでもない。初期の社会主義者は実はユートピアンか、アナーキストであったから、自発的な共同体を作って、財産は共有にする、といった発想をする傾向があった。第1の経済的ナショナリズムの源泉は、社会主義と共産主義である。
マルクスより半世紀若いウラディミル・レーニンでさえ、革命後の国家像を緻密に構想していたわけでなかった。政権が転がってくるとみると、慌てて『国家と革命』を著した。そこで述べられたのが、名高い、いや悪名高い「国家の死滅」という概念である。
国家が現実に社会全体の代表として起こす最初の行動は、社会を代表して生産手段を手中に収めることであるが、それは同時に国家としての最後の独自行動なのである。こうして社会関係に対する国家権力の介入は、各領域において次々と無用のものとなり、自然に永眠を迎える。人間に対する統治は、事務処理および生産工程の管理に場所を譲る。国家は「廃絶される」のでなく、死滅するのである[3]。
つまり、国有化を遂行するまでは、国家をなくすわけにはいかない。遂行後も、人為によって廃止することはしない。もはや、生産現場の役職は当番のようなものにすぎず、上から下に命令するのでなく、調整をしたり、世話を焼いたりするだけである。そうしたものは国家とは呼べないので、国家は自然に死滅していく。このように、新しくできたソビエト政府にとって、国有化は最初で最後の不可欠な仕事であった。ついでに言えば、現実には、国家は死滅どころか強化された。
革命が成就すると実際に国有化の布告が行われた。1917年には土地と銀行が、1918年には揚穀機と穀物倉庫、貿易、そして工業企業が接収された。国有化の少なからぬ部分は布告を待たず革命のなかで農民や労働者が勝手に強奪した自然発生的なものであった[4]。
革命まえのロシアは外国からの投資を受け入れていたが、これらも国有化の対象であった。英仏は、その他の請求、すなわち、戦前のロシア公債の不履行と戦中・戦後の損失・損害と合わせて、国有化された財産への補償をソビエトに請求した。
この請求が、先送りのお手本のような成り行きをたどる。イギリスは輸出を拡大する欲望に勝てず、補償の請求は後回しにして1921年にソビエトと貿易を再開した。請求が立ち消えにならないよう念を押して、請求を相互に承認する宣言が付された。内容は2点あり、第1は、いずれの締約国国民の請求も正式な平和条約で扱われること、第2は、ソビエト政府は財・サービスを提供した私人への補償の責任があることを原則として承認すること、であった。
ところが、イギリスの対ソ関係は右翼と左翼との政争に巻き込まれた。1924年のジノビエフ書簡事件では、コミンテルン議長の書簡が捏造され、英ソ関係に冷や水を浴びせた。3年後に、イギリスはソ連との外交関係を断絶してしまった。通商は再開されることになったものの、平和条約が結ばれる気配などなかった。請求の問題は1934年には、口頭で権利・請求を留保する、とイギリスが一方的に宣言するところまで追いこまれた。ソ連外交の勝利であった。ドイツではヒトラー政権が生まれており、イギリスは外交上、モスクワに接近する必要があった。同様の先送りは日ロ間の北方領土問題でも観察される。
要するに、ソ連は国有化が実現したのみならず、外国からの補償請求まで、うやむやに終わらせた。これは以後の革命政府に模範となった。
次の経済的ナショナリズムはニューディールとケインジアニズムである。ニューディールは1933年のフランクリン・D・ローズベルトの大統領就任に始まり、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』は1936年の出版である。
百日議会という言葉が知られるように、ローズベルトは就任早々、矢継ぎ早に政策を打った。民間資源保存局(CCC)は、無職の青年にキャンプで働く仕事を与えた。連邦緊急救済法は、各州の失業対策を援助した。TVA(テネシー渓谷開発公社)は、水力発電所建設と灌漑で貧困を克服する試みであった。全国産業復興法は、包括的な競争政策、労働政策、そして公共事業政策を実施した。事業促進局(WPA)は膨大な公共事業を行った。銀行法は連邦準備制度理事会を強化した。そして、ワグナー法(全国労働関係法)は団結権・団体交渉権・団体行動権(争議権)の労働三権を確立した[5]。
本当のところ、アメリカ合衆国の本格的な経済回復は第二次世界大戦を待たなければならなかったとされる。しかし、人権を謳い、大戦で戦勝国になり、国連を作ったことから、ローズベルトの政策からは闇の部分はあまり感じられない。戦後期に合衆国で人気があった経済学者ポール・A・サミュエルソンの教科書は、そうした政策を称賛する。
米国:1940年以後の時期にアメリカは、どのようにして「民主主義の兵器庫」になると同時に、それまでなく高い民需の水準を享受することができたのであろうか。それは、主として失業のたるみを活用することによってであった[6]。
第3の経済的ナショナリズムはナチズムである。ドイツではヒャルマル・シャハトが中心になって、失業対策が実施された。それは基本的に財政支出の拡大であった。すなわち、ラインハルト計画では住居・工場・機械を修理・改善し、同時にライヒス・アウトバーンを建設した。ベルサイユ条約を破り、再軍備を進めることも経済対策であった。ライヒス・アウトバーンの開通式において、子供のようにはしゃぐヒトラーの様子を彼は振り返る。
ともかくも私はフランクフルト・アム・マイン南方からダルムシュタットに向う最初の自動車道路開通式に、ヒトラーの車に同乗して処女運転に参加するようトットに招待されたが、もちろん私は喜んでこれを承諾した。私はヒトラーとともに、彼の車で、自動車道路の出発点に張られた白いテープを切り、ゆるやかに最初の自動車道路面に出た。至るところ両側には観衆が集り、熱狂した人々の歓迎をヒトラーは明らかに喜んでいた。
終点に着くとヒトラーは無数の扈従車が通過するのを見守っていたが、この車は三台づつ[訳書ママ]一列に並んで、後についてきたのであったから、ヒトラーは響きわたる声でこう叫んだ。
「三台づつ[訳書ママ]道に並んだって走れるんだ」と[7]。
国家が介入して経済を立て直した点では変わらないが、この底流にある思想はニューディールとは正反対であった。ヒトラーは『わが闘争』において自らの経済観を次のように表明した。
「国家は経済的課題を実行するために、ある一定の制限された生活圏に経済的な契約者をまとめたものではなく、種の発展維持をいっそう可能ならしめ、摂理によって規定された自己存在の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織である」(220ページ)
「ドイツでは力の政策が高まったとき、いつも経済も隆盛になりはじめたが、経済側が民族の生活の唯一の内容となって、それによって理念的徳性が窒息したときは、ふたたび国家は崩壊し、やがて経済がそれにまきこまれたものである。
だが、国家を形成したりあるいはまた国家を維持するだけの力とは現実に何であるか、と問うならば、それを二、三のことばに要約しうる。すなわち全体のために個人を犠牲にする能力と意志である、と。」(223ページ)[8]
経済よりも国家、個人よりも全体を優先することがためらいなく宣言されている。戦争遂行のためにカネ・モノ・ヒトは捨てるようにつぎ込まれた。
サミュエルソンも、ドイツ人の選択を失業のショックによる一時の気の迷いがもたらした愚行のように論じる。
ドイツ:―中略―ヒトラーの戦争努力は、公式の宣戦がなされるはるか前、すなわち1933年にはじまっていた。その出発点は、彼が、暴力によることなく投票で権力の地位につくことができたほど失業が多い時期であった。そしてそれ以後の増産の大部分は、かねて失業状態にあった労働者や工場を活用することによって可能になったのであり、この増産部分は、民間消費を高めるためにではなく、ドイツの軍需品増強のために注ぎ込まれた[9]。
ナチスのナンバー2といえば、国家元帥ヘルマン・ゲーリングであった。のちに占領地で絵画を略奪したことで悪名をはせたこの人物が、経済の責任者になった。1936年に始まった彼の四か年計画は、食料と原料の自給自足を目指し、価格統制を行った。もはや経済的合理性は一顧だにされず、経済相シャハトは抗議の辞任をした[10]。
ドイツ版の国家総動員はナチズムに影響されて苛烈であった。それは一般的な収用でなく、ある特定の財産が対象であった。つまり、ユダヤ人財産の「アーリア化」であり、征服地財産の「ドイツ化」である。それは国有化でなく、私企業が「完全に独占化されカルテル化」された経済であった。この例としてゲーリング結合企業がある。それは持ち株会社のもとに、ヘルマン・ゲーリング鉱山冶金帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング武器・機械製造帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング内陸水運帝国工業所を擁した。ゆすりと用心棒行為によって乗っ取った子会社に、見栄っ張りのゲーリングが自分の名前を付けたのがこの財閥であった[11]。
労働者たちは基本的人権を失った。国民労働奉仕団において、18歳から25歳の男子は軍需産業で6か月の強制労働をさせられた。また、ドイツ労働戦線は名こそ労働組合であるものの争議はしなかった。よく知られているその活動は歓喜力行団(クラフト・デュルヒ・フロイデ)であり、遠足などのレクリエーションを催した。この活動のために、小型車フォルクスワーゲンが開発された[12]。
経営と労働が体制に組み込まれ、協調するこうした体制はコーポラティズムと呼ばれる。使用者側においても、使用者団体、カルテル、そして業界団体は自律的な組織でなく、国家の指導に従う機関という性格が強かった[13]。
戦争が始まると人権無視はますます苛烈になった。ユダヤ人、ロマ、そして外国人といった二級市民扱いされた人々がアウシュビッツなど収容所で強制労働に従事させられ、やがてジェノサイドの餌食となった。初期には、国家社会主義を歓迎したドイツ人労働者もいたであろうが、のちには雇用契約の無効化、最高賃金の設定、そして労働条件の改悪などに苦しむことになる[14]。
ヒトラーがしたかったこと、それは「新秩序」として知られる。このヨーロッパ帝国の中心には、世界首都ゲルマニアに変身したベルリンがあり、そこからいくつかの中心都市にアウトバーンがつながる予定であった[15]。ヒトラーが毎晩、食卓で語る夢は秘書が書き留めた。
「クリミアは美しい。アウトバーンで行けるようになればクリミアはドイツ人にとってのリヴィエラになるだろう。クレタ島は暑くて乾燥している。キプロスもいいが、クリミアには車で行けるし、途中にはキエフがある! クロアチアも旅行者の天国だ。戦争が終われば娯楽には事欠くまい。
鉄道にはどことなく非人間的なところがあるが、道路は人を結びつける。新しいヨーロッパに向けての前進だ! アウトバーンのおかげでドイツ国内の境界が消滅したように、ヨーロッパ諸国の国境もなくなることだろう。
ウラル山脈を国境とすれば十分だろうかという質問があるが、今のところは十分だと答えておこう。ボルシェヴィズム[ロシア共産主義―訳者注]を根絶することが大切なのだ。」、1941年7月5日-6日(43ページ)
「ルーマニアは独自の工業を持とうなどできるだけ考えない方がいい。農産物、特に小麦をドイツの市場へ送ってくれればいいのだ。お返しにこちらから必要な工業製品を送ろう。
ベッサラビアは穀倉そのものだ。これでボルシェヴィズムに染まっているプロレタリアートもいなくなり、ルーマニアには何の不足もなくなるだろう。」、1941年7月25日(53ページ)
「そこの大衆を教育しようなどと愚かなことを考えてはいけない。大衆は道路標識が分かればいいのだ。現在彼らは読むことができないが、そのままにしておかねばならぬ。しかし大衆が身ぎれいに暮らすことは許されるし、それは我々も望むところだ。
ウクライナの南部とくにクリミアをおさえ、特別にドイツの植民地にしよう、現在住んでいる者は追い出せばいい。ドイツの植民者は農民兵となる。そのためには隊に関係なく古参兵を連れて行こう。」、1941年7月27日(57ページ)[16]
この目まいを催す計画には、冷徹さが同居した。反ナチスの経済学者が書いた『野蛮の経済学』は、新秩序の経済的意図を憶測している。それによると、ヨーロッパ各地の重工業をドイツが統制し、軍需を満たす。消費財はドイツに集中させ、他地域のものは空洞化させる。そして、ヨーロッパ各地の農業を奨励し、都市の抵抗運動を減らし、自給自足を成し遂げる[17]。
戦争経済は自由主義のもとではありえない。特に、19世紀の遺物である金本位制は、ただちに財政と貿易を赤字に陥らせるであろう。フランツ・ノイマンはこう結論づける。「この経済体制の構造はプラグマティックである。それは、戦争を遂行するに必要なできるだけ高度な能率と生産性への要求によってのみ方向づけられている。」と[18]。価格統制、配給、為替管理、公債発行、不換紙幣、そして強制労働といったものが総力戦を可能にする。
しかし、広大な土地を占領したヒトラーの新秩序はもろくも崩壊した。それは選択の自由を許さない統制経済のもろさそのものでなかったろうか。
サミュエルソンの挙げる事例のなかで、ソ連のそれが最も悲惨である。米独のような失業率の低下という好影響もなく、独ソ戦の被害のみが注目される。
戦時のソ連の例は第三のケースをなす。ソ連の場合、戦前に失業者はほとんどなく、そのときすでにソ連経済は比較的低い生産可能性辺境線の上にあった。したがって、民需の犠牲の上に軍需をみたすよりほかなく、その結果として窮乏をともなったのである[19]。
ところが、現実のソ連は「生産可能性辺境線」を超えて生産しようとした。ヨシフ・スターリンはラーゲリやグラークと呼ばれる強制収容所をたくさん作った。彼はそれらを効率的な生産方式であると信じていたので、できるだけ多くの人々の罪状をでっちあげて放りこんだ。囚人総数は一時、約200万人に達し、1929年から1953年までに1,800万人が収容所を経験した。特に、金の3分の1は収容所で産出されたものであった[20]。
日本はどうであったろうか? 野口悠紀雄の1940年体制説は、この時期の総動員体制が伝統的企業を主体とする戦後の高度成長につながった、とする。例示されているのは、労使が協力する産業報国会(1937年)、株主の権利を制限する国家総動員法(1938年)、業界を統制する統制会(1941年)、自給と価格を管理するための食糧管理法(1942年)、そして、通貨・金融政策によって国家総力を発揮するために改正された日銀法(1942年)である[21]。そうした霞が関の護送船団方式またはディリジスムについては現在まで続いているという見方がある。
外国人労働者の虐待は日本でも行われた。秋田県で起きた花岡事件においては、連れてこられた中国人労働者が劣悪な待遇ゆえに、日本人を殺害し、逃亡を図ったものの、鎮圧された。このほか、徴用工や慰安婦の厳しい実態に関する報告は枚挙にいとまがない。
最後の経済的ナショナリズムは開発途上国のものである。発端はメキシコ革命が生んだ1917年憲法であった。その第27条は「地層中のあらゆる鉱物資源の所有権は国家に帰属する」と定めた[22]。同国の油田は当時、外国資本により支配されていた。帝国主義の最盛期であれば、むやみな国有化は違法性を問われ、欧米列強の武力行使を招くところであった。
ところが、1937年に事態が急変した。石油労働組合が賃金が低すぎるとゼネストを打った。翌年、メキシコの最高裁判所は労働者側を支持する判決を出した。あろうことか、石油会社は従わず、賃上げをしなかった。
ここで、ラサロ・カルデナスデルリオ大統領が石油産業の無補償国有化を命じた。それはマルクス・レーニン主義のようなイデオロギー的理由に発したものでなかった。途上国政府をなめてかかって、自分たちには手出しできまい、と驕った態度が原因である。収用された油田は、後に国営企業ペメックスになる。
裁判所に従わなかったのは外資の過ちであったものの、無補償であったことが素通りされるはずがなかった。米英の資本は補償を求めたので、メキシコ政府は1942年に米系企業と、1947年に英系企業と一定額での補償に合意した[23]。
あっけない解決は、国際情勢に原因があったとみることができる。日本による真珠湾攻撃がメキシコとの和解をアメリカ合衆国に急がせた。メキシコは枢軸国に入らないまでも、それらに原油を売ることはできた。これは連合国側による禁輸に悩む日本には渡りに船となったはずである。うまくやれば、戦争も、経済制裁もなしに解決できることを示したこの国有化の意義は大きかった。
以上のように、第二次大戦期、経済的ナショナリズムは頂点に達した。歴史の転機となったのは、ローズベルトが1941年の一般教書演説で提唱した「四つの自由」である。第1は言論および表現の自由、第2は信教の自由である。第3の欠乏からの自由は個人の経済的な権利を確認した。すでに大恐慌からの景気回復ではなく、戦後の復興や人道的救済、さらには経済秩序そのものの建て直しが意図されていた。第4の恐怖からの自由は、戦争のない世界を作る決意であった。
四つの自由がいかに実現されるべきかをめぐっては、論争を経なければならなかった。戦後構想におけるナショナリズムと自由主義とのせめぎあいが始まった。
戦中におけるナショナリストの代表はイギリスのエドワード・H・カーである。開戦のころ、すでに『危機の20年』で、自由主義を批判していた。1942年の『平和の条件』では、より具体的に、ヨーロッパを単位とした計画経済を「ヨーロッパ計画庁」が中央集権的に行うことを唱えた。これはヒトラーの発想を継ぐものであると彼自らが明言している。また、新たな国際制度である原料・資源の国際プール機構、国際共同購入制度、生産様式の国際標準化、海運の国際共通管理、各国共通の必要に対する国際融資機構、そして、各国通貨の兌換のための国際機構を提案した。貿易は市場メカニズムでなく、価格統制まで行うと踏み込んだ[24]。
対する自由主義者の代表はフリードリヒ・フォン・ハイエクである。1944年の『隷属への道』は正面からカーに論争を挑んだ。カーが考えている「未来社会の特徴をかいま見てみると、その社会は全面的に全体主義モデルに基づいているように思われる」[25]と歯に衣着せず指摘した。
介入主義が危険であるというハイエクの議論には説得力がある。まず、国家規模で計画化をすれば、資源は国家の独占的所有物とされ、私企業ではなく国家を交易主体とする流通へと統制される。これは国家間の摩擦や羨望を引き起こす。世界的に不足している資源を他国から買おうとしても、その国の当局からは、外国に回す分はない、とけんもほろろに断られよう。国家間で経済案件の交渉をすることは、市場での競り合いを、軍事力を背景にした脅し合いにしてしまう。他方、超国家的な当局による国際的経済計画は、会議の多数派により決められてしまうため、もっと危険である[26]。会議での多数派にイエスか、ノーか、と二者択一を迫られれば、不満な国はがまんするか脱退するしかない。市場での入札ならば、価格次第です、ということに収まろう。 『隷属への道』が出版された時には、すでにブレトンウッズ会議は開かれていた。IMFも、IBRDも、基本的には自由主義的な性格の国際機構であることは「ブレトンウッズ諸制度」の回で確認する。
[1] 横川新、『国際投資法序説』、千倉書房、1972年、64ページ。
[2] 米国大使館広報・文化交流部, “アメリカ合衆国憲法に追加され またはこれを修正する条項,” American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/laws/2569/, accessed on December 26, 2023.
[3] V・I・レーニン、『国家と革命』、角田安正訳、筑摩書房、2001年、36ページ。
[4] モーリス・ドッブ、『ソヴェト経済史』、上、野々村一雄訳、日本評論社、1974年、73-118ページ。E・H・カー、『ボリシェヴィキ革命 2』、宇高基輔訳、新装版、みすず書房、1999年。
[5] 新川健三編、「映像が語る20世紀 5 1933-1937」、DVD、セレプロ、n.d.。
[6] P・A・サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、都留重人訳、岩波書店、1981年、24ページ。
[7] H・シャハト、『我が生涯』、下、永川秀男訳、経済批判社、1954年、76ページ。
[8] アドルフ・ヒトラー、『わが闘争』、平野一郎、将積茂訳、角川書店、1998年。
[9] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、24-25ページ。
[10] シャハト、『我が生涯』、下、202ページ。フランツ・ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、みすず書房、1963年、205ページ。
[11] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、256、262-268ページ。
[12] A・J・Ryder、『ドイツ政治・外交史Ⅱ』、高橋通敏訳、新有堂、1981年、230-249ページ。
[13] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、209、212ページ。
[14] アラン・ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、鈴木主税訳、草思社、2003年、102ページ。
[15] ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、18-19ページ。
[16] アドルフ・ヒトラー、『ヒトラーのテーブル・トーク 1941-1944』、上、吉田八岑訳、三交社、1994年。
[17] J. Kuczynski and M. Witt, The Economics of Barbarism: Hitler’s New Economic Order in Europe (London: Frederick Muller, 1942).
[18] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、205ページ。
[19] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、25ページ。
[20] アン・アプルホーム、『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』、川上洸訳、白水社、2006年、16ページ。ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、103ページ。
[21] 野口悠紀雄、『新版 1940年体制』、東洋経済新報社、2002年、25ページ。
[22] 梅野巨利、『国際資源企業の国有化』、白桃書房、1992年、25ページ。
[23] 梅野、『国際資源企業の国有化』、31-60ページ。入江啓四郎、『開発途上国における国有化』、早稲田大学比較法研究所、1974年、119-123ページ。横川、『国際投資法序説』、189ページ。
[24] エドワード・ハレット・カ、『平和の条件』、高橋甫訳、建民社、1954年。
[25] F・A・ハイエク、『隷属への道』、西山千明訳、春秋社、1992年、235ページ。
[26] ハイエク、『隷属への道』、305-319ページ。
© 2026 Ikuo Kinoshita
