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消費社会

週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここでの幸福とは緊張の解消である。労働や季節や性といった複雑なものはすべて均質化されている。彼がショッピングモールを例に、消費の加速度的な増加を描写したのは1970年、つまり半世紀前、のことであった[1]

ポストモダンの消費はモダンの消費とはまったく違う、とボードリヤールは語る。筆者がそれを体験したのは1980年ごろ、池袋の西武百貨店においてであった。マズロー的に言い換えれば、モダンの消費は生理・安全・承認の欲求が主であったが、ポストモダンでは自己実現や審美の欲求が中心となる、ということであろう。

ボードリヤールは、財は使用価値に基づいて買われるのでなく、差異表示記号として消費される、とも見抜いた。ショッピングモールの事例に、差異表示記号としての消費という命題を当てはめると、どれだけリラックスできるかという使用価値は問題ではなく、ショッピングモールを歩く自分を確認することに意味がある。では、その自分、あるいは社会的に差異化された存在、は主体的に選んで、受け入れたアイデンティティであるのか? ボードリヤールは次のように言う。

消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を越えてしまうのである[2]

あたかも消費社会全体が人間を縛りつけているかのような書きぶりである。私は均質化された消費社会の世界市民である、という自己確認であれば、実害は小さいかもしれない。しかし、下層階級の奴隷根性やフーリガニズムを美徳とするコードが存在し、それを強いる差異の秩序などというものがあるとすれば、そんなコードは断固、廃止すべきである。

マルクスとエンゲルスであれば、いわゆる虚偽意識に関して違うことを言うであろう。偽のコードを信じ込ませる詐欺に引っかかるとすれば、それは無力な個人の現実があるからである。『ドイツ・イデオロギー』から引用する。

すなわち、意識の形態や産物はすべて、精神的な批判によってではなく、つまり「自己意識」やら、「妖怪」「幽霊」「妄念」といったものへの転化やらによってでなく、これら観念論的な戯言の発生源となっている実在的な社会的諸関係の実践的転覆によってのみ、解消されうるということである。――批判ではなく、革命こそが歴史の駆動力であり、また宗教や哲学やその他の理論の駆動力でもある[3]

筆者はマルクスとエンゲルスほど自らが正しいと信じていないので、革命でなく、批判をする。

今回のテーマは、グローバリゼーションは人間の抑圧なのか、人間の解放なのか、具体例を挙げながら論じなさい、である。人々がこれほど多量の消費を享受しているのはグローバリゼーションのおかげと言って過言でない。その点はこれでよいのかもしれない。しかし、どこかで変調が生じ、崩壊しないともかぎらない。この秩序を誰が作っているのか?、ということさえよく分からないからである。市場の流行を操る企業と、GDPの数字を司る国家官僚、そして愚民政策を実践する政治家の周辺が怪しいが、本当にそうであろうか?

消費の高度化は貿易のパターンを変化させた。伝統的な比較優位論では、貿易をする国は、生産が相対的に得意な財に特化する。生産の得意、不得意は、自然、労働、あるいはテクノロジーといった条件による。同一産業では生産の得意、不得意を決める条件は似通っているので、産業内貿易は考えにくい。

ポール・クルグマンが1980年代に提唱した新貿易理論は、同一産業内でも一国は同時に輸入国でも輸出国でもある事実を説明する。ブランドによって製品に少しずつ差異があれば、消費者は価格だけでなくその好みに依存して買う製品を選び、この多様性愛好こそ産業内貿易の原因である、と彼は言う。価格だけで競争していれば、収穫逓増の産業は自然独占になり、世界で一つの巨大企業に支配される。身近な例を挙げれば、ガソリン車産業では日本・ドイツ・韓国がそうであるように、いくつかの世界ブランドが国境を越えて消費者の支持を奪い合っている。

新貿易理論は先進国間の貿易においては、勝者の国と敗者の国に分かれるのでなく、ウィン・ウィンの関係が可能であることを示唆した。貿易紛争が激しかった1980年代には一つの安心材料になったであろう。1990年代は先進国中心の秩序であったので、消費者が物質文明を享受するというのは「歴史の終わり」の世界像として違和感なかった。しかし、グローバリゼーションの歴史はそれで終わりではなく、未来があったのである。

新貿易理論ではなく、新新貿易理論というものがある。後者によると、輸出を行う企業はごく少数の生産性が高い企業である。念のため確認すると、労働生産性とは、付加価値額を労働時間で割ったものである。さらに、輸出にとどまらず、外国直接投資を行う企業はきわめて少数である。つまり、グローバル市場での競争に生き残った企業は、生産性が高く、関係者の所得も高い。逆に、保護された産業は、生産性と所得が低下する[4]

日本市場だけでシェアが高いブランドは、孤立した生態系を持つガラパゴス島だけでしか栄えられない生き物に喩えられる。新新貿易理論の対偶も真なりとすれば、ガラパゴス企業の働き手は所得が上がらない。ガラパゴス企業を生き残らせるための政策は、国家戦略としては再検討されるべきである。

グローバルな巨大企業が単に収益の規模のみならず所得においても一人勝ちしている。それは学者の理論だけでなく一般人の日常感覚でも、不平等・格差・貧困の社会問題として捉えられている。「ウォール街を占拠せよ」という運動が2011年にニューヨークで起きた。若者たちが、資産家が巨利を上げるウォール街において抗議のデモを繰り広げた。

富裕層への反感を高めたのがパナマ文書事件であった。2016年、タックスヘイブン(租税回避地)利用者のリストがパナマの法律事務所から流失し、資産家だけ特別な節税ができることが公然となった。

格差について、元世界銀行副総裁ジョセフ・E・スティグリッツは2012年の著書『世界の99%を貧困にする経済』で、人口1パーセントの富裕層と人口99パーセントの貧困層との格差が拡大している、と主張する。彼が列挙する大企業に有利で、労働者に不利な諸制度は、こうした議論に真実味を与える。筆者は要約しようと考えたが、どの項目も知ってほしいのでリストにして示す。

  • 不十分な失業手当・年金・健康保険・公教育
  • 証券化商品、銀行救済、高利貸しとクレジットカードによる略奪
  • 合法的な独占的行為
  • 大企業に有利な法律・規制・補助金
  • グローバリゼーションによる賃金低下
  • 高所得層の家計に有利な税制
  • 免除されない学資ローン
  • 訴訟の費用負担

こうした優遇は大企業による政治家へのロビイング等、レントシーキングの仕業である[5]。学資ローンについての指摘は、ウォール街を占拠せよ、の運動に参加した学生たちに影響を与えた。

他方、古典中の古典であるマルクスの『資本論』に比べられたのが、2013年に出たトマ・ピケティの『21世紀の資本』である。その中心命題は、民間資本収益率rが経済成長率gよりも高いという関係が長期にわたって存在する、ということである。歴史的に、資産家の所得の伸びが全人口の平均所得の伸びを上回ってきたこと、すなわち、貧富の差が拡大してきたことをこれは意味する。ピケティは対策として財産への累進課税を拡大することを提案した[6]。データ分析によって客観的に証明した、というのが、彼の研究の功績とされる。

人間はもはや国家よりも資本に支配されているのであろうか? この命題は「グローバリゼーション」の回で見たネグリとハートの『帝国』が描いた世界観に近い。国民国家が形骸化し、多国籍企業とそのパートナーである富裕層の言いなりになってしまった、という見方である。

資本の支配という結果について筆者に異論はないが、原因には筆者なりの考えがある。誰かの政治的な意図によってでなく、ビジネスの仕組み全体が資本に味方している。

ビジネス主体としての企業を理解するために、ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』から引用する。

企業の目的は顧客の創造である。したがって、企業は二つの、ただ二つだけの企業家的な機能をもつ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。他のものはすべてコストである[7]

企業の目的は顧客の創造であって利潤の極大化ではない。もともと需要がある商品を供給するだけの企業はあまた存在するが、それはマネジメント(経営)という彼のテーマにとって興味深い対象でない。従業員・事業所・資金といった経営資源の配分さえ、彼にとっては二次的な「コスト」である。顧客の創造のために企業が有する機能は、一つはいまは存在しない潜在的欲求がどこにあるかを探るマーケティングであり、一つは欲求を現実の需要へと変える努力のなかで生み出されるイノベーションである。

顧客の創造、というのは企業による積極的な働きかけでどこまでも事業が拡大することをほのめかし、しかも他企業との価格競争で利潤がすり減る不安も小さい。現実には、遠い場所に店を建てて人を雇い、品物や原料を仕入れるコストがかさむので、無限に顧客が創れるわけでない。人は顧客にされずにすんでいた。

IT(情報技術)のイノベーションは、顧客の創造にかかるコストを劇的に低下させた。実店舗よりもショッピングサイトのほうが運営費が安く、世界中からアクセスができる。amazonや楽天市場といったeコマース企業は20世紀に起業されていたが、今やスマートフォンとフィンテックのサービスで生活のすべてがネットのなかで完結する。スマートフォンは電話に始まり、GPS、インターネット、SNS、カメラ、本人確認、そしてAI(人工知能)へと進化した。

特に、生体認証やワンタイムパスワードをつうじた本人確認機能は、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、あるいは銀行振込による決済を安全にし、フィンテック、すなわち「ITを活用した革新的な金融サービス事業」の利用を本格化させた[8]。PayPal、LINE Pay、Apple Pay、PayPay、楽天ペイ、あるいはd払いは、旧来の銀行や信販会社のお株を奪っている。マイナンバーとの連結は納税や診療さえもオンラインサービスにした。

amazon primeやNetflixへの月額料金・年額料金によるサブスクリプションは、それらのサービスが1回の取引で終わらず日常必需品になった帰結である。便利で、品ぞろえが豊富で、安価なサービスを消費者は独占の危険を知りながら、使い続ける。

インターネットの個人利用はセルフメイドのホームページから広がったが、すぐに業者のSNSに駆逐された。2ch、mixi、Twitter(現X)、LINE、Instagram、そしてTikTokと主役は変わったが、SNSはつねに娯楽や仕事の定番メディアであった。政治でも、バラク・オバマ候補が当選した2008年の大統領選挙において、陣営によるSNSのメッセージが選挙活動に貢献した。2011年のアラブの春では、市民はSNSを連絡手段にして体制を揺さぶった。

SNSは個人にとってばかりでなく、ビジネスにとっても不可欠である。X、Instagram、それにTikTokはテレビや新聞にひけをとらない商品広告のメディアである。もちろん、YouTubeははるか以前にそうした地位を築いていた。個人はただ楽しんでいるのかもしれないが、企業は人だかりのあるところを探している。ウェブ広告費は市場シェアと連動しているからである。

お分かりであろう。ITは顧客の創造のコストを引き下げ、企業の役割を政府とならぶものにした。Google、Apple、Microsoft、Meta(旧Facebook)、amazonなどのビッグテック(巨大IT企業)は生活に必須なサービスを提供するプラットフォーマーになったが、それにふさわしい社会的責任を負わなければならない。

かならずしも企業ばかりが実行者というわけではないが、インターネットには問題行動がはびこっている。ハッキング、プライバシー侵害、フェイクニュース、著作権侵害、児童ポルノ、闇バイト、オンラインカジノ……と枚挙にいとまがない。

巨大企業にも邪悪な履歴があり、Facebook個人情報不正収集事件で、同社はクイズを装って個人情報を不正に収集し、ケンブリッジアナリティカという会社に売却した。ケンブリッジアナリティカは収集した情報を分析し、選挙など投票行動に影響を与えるために利用した[9]

AI(人工知能)もIT同様、効率性ゆえ、問題行動に拍車をかける。AIの回答はハレーションという現象のためによく間違える。AIに倫理を守らせるには人に有害な行動を禁じる命令を外部から与えてやらねばならない。Xは2025年暮れに写真に写った人の服を脱がせる機能をAIのGrokに搭載した。これが人間の尊厳を冒していると世界中で非難された。

ITとAIは問題行動の温床というだけでない。プラットフォーマーはじめサービス提供企業に政府も人々も依存している。極端な例ではあるが、スペースX社の衛星通信サービスであるスターリンクは、戦時下のウクライナでライフラインになった。

グローバル経済と国民経済とでは貧富の格差は前者のほうが大きくなる。所得には雲泥の差があるのに商品は同一価格になるので貧困層の生活実感はより厳しい。負の側面はGDPや株価が上昇している間は見えず、恐慌や戦争が起きてはじめて露わになる。マルクスやレーニンといった革命家たちは革命のために恐慌と戦争を待望したが、筆者は起きるまえに対策を講じることを勧める立場である。

ドラッカー自身は企業万能論者でなかった。彼は社会的責任が企業にはあると考えた。確かに政府の専制には警戒していたが、企業は国家主権に政治的に挑戦してはならないし、グローバル企業は他国の主権を脅かしてならない、と彼は考えた[10]

インターネットに対する政府の規制は不可欠である。現状はまるで体に悪い食品や医薬品が野放しにされているようなものである。WWW(ワールドワイドウェブ)に接続したインターネットは国境を越えるため、外国サイトへのアクセスをブロッキング(遮断)しなければ規制は中途半端におわる。各国が思うがままに規制をかけると、それに納得しない外国からの不満がつのる。私人の自称保安官による破壊やハッキングは国際紛争につながりかねない。国家に支援されたサイバー戦争はグレイゾーン戦争としてすでに始まっているという見方もある。

グローバリゼーションがもたらした外国に起因するリスクはインターネットにとどまらない。人間と動物の感染症も国境をまたぐリスクである。新型コロナウイルス(COVID-19)は2020年の初めに報道が始まり、世界全体で累計7百万人以上が死亡した(2026年2月時点)[11]。初めの3年間、多くの都市がロックダウンされたり、外出禁止にされたりした。国境で感染を封じこめようと各国は出入国を規制した。中国が感染源であると大統領が名指ししたアメリカ合衆国ではアジア系の人々へのヘイト行為が頻発した。

牛の感染症であるBSE(牛海綿状脳症)は今世紀初めに騒動になった。肉牛の産地イギリスとEU諸国の関係が悪化した。日本に影響したところでは、感染牛が発見されたアメリカ合衆国からの牛肉・牛肉製品の輸入が2003年から2年間、禁止された。牛丼チェーン店のなかには、代わりに豚丼を出すところもあった。BSEと同様にプリオンの摂取が原因とされる変異型クロイツフェルトヤコブ病による死亡例が2004年、日本で報告された。

外国由来のリスクといえば、輸入食品の安全に対する関心はその表れである。2007年から2008年にかけての毒入り中国製餃子事件により、2008年2月における中国から日本への食品輸入額は前年比28パーセント落ちこんだ[12]。悪意ある混入でなくても、農薬・添加物・遺伝子組み換え生物が健康に与える影響に対する心配は根強い。生産過程を取り巻く社会や環境を想像できないことが不信感や誤解の背景にある。

これらのようなリスクへの対応は、排外主義を強めるか、国際協力を強めるか、のいずれかによらなければ不可能である。前者では、外国のヒト・モノ・カネ・情報を排斥して当面のリスクは減らしても、不信感と誤解は増すばかりであるので、国際関係は確実に悪化する。

本書のタイトルどおり、グローバルガバナンスを唱えるのが道理というものである。国家でなく、グローバル社会そのものが税金を個人や企業から集め、対策を講じることが検討されてしかるべきである。為替取引にトービン税という税金を課す従来からある提案は正当であるものの、金融界は反対するであろう。現実に国際的に集金しているのはUNICEF、赤十字、あるいは人道NGOの募金くらいであり、国家主権により強制徴収は阻まれる。

あえてここでは、グローバルガバナンスに反対する言説をとりあげる。著名な投資家ジョージ・ソロスは師匠の哲学者カール・R・ポパーにならって、「開かれた社会」を標榜した。ポパーは、権力者の理想が人々の生活を暴力的に破壊することに警鐘を鳴らし、理想というものに対する警戒感を定着させた[13]。この意味で師匠にならってソロスがやり玉に挙げたのが、国連支持者が使い始めたグローバルガバナンスという言葉であった。

われわれは、ここからどこに向かうのだろう。グローバル・ガバナンス(地球統治)の設計図をまず作成するというやり方は、開かれた社会の原理に反するだろうし、無益な作業でもあるだろう。すでにあるものでスタートして、改革すべきは何かを見きわめていかなければならない[14]

ソロスがグローバルガバナンスという言葉で具体的に何を指したかは分からないが、世界の著名政治家が結集するグローバルガバナンス委員会が国際連合の大改革を提案する報告書を1995年に公開したことは念頭にあったろう[15]。冷戦終結で高まっていた改革の機運は旧ユーゴスラビアやルワンダの紛争によってすでに落日にあり、提案は腰砕けとなった。

ここで問いたいのは具体的な国連改革の成否ではない。人類はもはや共同体であり、グローバルなリスクに対策をとるパートナーシップとしてのグローバルガバナンスまで必要性を否定するのか?、ということである。

ソロスの開かれた社会という考え方には疑問がある。難民が外国に避難できる意味で開かれているのはよいが、富裕層が脱税したり、犯罪者がトンズラしたりする意味での開かれた社会は害悪である。日産自動車の社長であったカルロス・ゴーンは不正の容疑で東京地方検察庁に逮捕されたが、2019年、レバノンに逃亡した。ソロスが移民であった出自を根拠に開かれた社会を主張するのは説得力があるが、国連改革まで批判するのはもう少し理由が必要である。

2021年、世界の大多数の国が各国の法人税を15パーセント以上にすることに合意した。福祉・教育・保健・安全基準・治安・防衛のような公共サービスを行うためには、企業と富裕層にもそれくらいの税負担をしてもらわなければ過少供給になる。企業と富裕層はタックスヘイブンに自らの資産を移し、税負担から逃げてきた。企業と富裕層に逃げられてはならじ、と国家のほうは法人税を下げることで転出を思いとどまってもらおうとした。アメリカ合衆国のドナルド・J・トランプ大統領は2期目の就任早々この合意から離脱した。合意は同国を除いて実行されることになった。

国際政治学では、イギリスの学者へドリー・ブルが「新しい中世」の可能性を論じたことがある。欧州共同体のような地域的国際機構や州・県・都市のような地方政府を意識したものであったが、NGOや多国籍企業のようなトランスナショナルな組織も言及されている。該当箇所を引用する。

もし、近代国家が市民に対する権威と市民からの忠誠心を、一方において地域的・世界的な諸機関と、他方においてサブナショナルな諸機関と共有し、主権の概念が当てはまらないまでになるならば、新中世という形態の普遍的政治秩序が出現したということができるかもしれない[16]

いまのところは国連も自治体も国家の主権を脅かすほどの力はない。脅かすものがあるとすれば一つはEUである。EU加盟国は主権を維持しているものの、脱退したイギリスに続く国は現れない。それだけ経済と文化の統合が進んでいるからであるが、主権という法制度はそれだけしぶということでもある。もう一つ主権を脅かすものがあるとすれば覇権国アメリカ合衆国である。トランプ大統領は関税政策にせよ、中東やラテンアメリカへの政策にせよ、他国の権利を国家主権でない「何か」として捉えている。この「何か」の詳細やそれが持続可能かは現在の段階では明確でない。

これまで見てきたグローバルなリスクを解決し、人々が消費の拡大を享受すれば、それで人間は幸福なのであろうか? 消費を拡大することが幸福そのものであるならば、マクロ経済指標であるGDPの数値を上げること、すなわち経済成長、だけを追えばよい。

経済成長最優先の修正を求める声はパンデミック以前から起きていた。代表的なものは幸福論であり、主観的幸福のアプローチと客観的幸福のアプローチがある。前者では、ブータンのGNH(国民総幸福)が有名である。1979年にジクミ・シンゲ・ワンチュク国王が発案したもので、暮らし向き、健康、教育、コミュニティの活力、良い政治、時間の使い方、文化の多様性、生態系、そして心の健康の諸領域で主観的に幸福かどうかを尋ね、集計したものである[17]

客観的幸福のアプローチに関しては、フランスのニコラ・サルコジ大統領に招かれたノーベル経済学賞受賞者たちから成るスティグリッツ委員会が2010年に答申をした。生活の質や持続可能性も幸福には必要である、というのが提言の主旨である[18]。国連の持続可能な開発目標(SDGs)につながる発想であった、と振り返ることもできる。 ブータンのものも、フランスのものも、健康・教育・余暇・文化・環境といった多様な指標を経済成長に置き換える点は共通している。企業が実現してくれる潜在的欲求のほうは企業に任せればよい。それで残されたグローバルガバナンスの課題は、一つは温暖化や紛争のリスクを除去することであり、もうひとつは消費社会で自活できない貧困層や紛争下の人々に手を差し伸べることである。本書で振り返った歴史の経験がそのことを証明している。


[1] ジャン・ボードリヤール、『消費社会の神話と構造』、普及版、今村仁司、塚原史訳、紀伊國屋書店、1995年、18-20ページ。

[2] ボードリヤール、『消費社会の神話と構造』、68ページ。

[3] マルクス、エンゲルス、『ドイツ・イデオロギー』、廣松渉、小林昌人訳、岩波書店、2002年、87-88ページ。

[4] 田中鮎夢、『新々貿易理論とは何か:企業の異質性と21世紀の国際経済』、ミネルヴァ書房、2015年。

[5] ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界の99%を貧困にする経済』、2012年。

[6] トマ・ピケティ、『21世紀の資本』、みすず書房、2014年。

[7] P・F・ドラッカー. 『マネジメント上―課題、責任、実践 ドラッカー名著集13』、Kindle版、ダイヤモンド社、2012年、107ページ。

[8] 柏木亮二、『フィンテック』、日本経済新聞出版社、Kindle版、2016年。

[9] “ケンブリッジ・アナリティカ廃業へ フェイスブックデータ不正収集疑惑で,” BBC, May 3, 2018, http://www.bbc.com/japanese/43985373, accessed on December 27, 2023.

[10] P・F・ドラッカー. 『マネジメント下―課題、責任、実践 ドラッカー名著集15』、Kindle版、ダイヤモンド社、2012年。

[11] The World Health Organization, “WHO COVID-19 dashboard,” https://data.who.int/dashboards/covid19/deaths?n=o, accessed on February 28, 2026.

[12] “中国からの食料品輸入、28%減 2月前年比,” アサヒ・コム, March 26, 2008, http://www.asahi.com/business/update/0326/TKY200803260051.html, accessed on August 8, 2008.

[13] カール・R・ポパー、『開かれた社会とその敵 第一部』、小河原誠、内田詔夫訳、未来社、1980年、194-195ページ。

[14] ジョージ・ソロス、『グローバル資本主義の危機』、大原進訳、日本経済新聞社、1999年、325ページ。

[15] The Commission on Global Governance, Our Global Neighbourhood (Oxford: Oxford University Press, 1995).

[16] Hedley Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics (New York: Columbia University Press, 1977), pp. 254-255.

[17] 枝広順子、草郷孝好、平山修一、『GNH(国民総幸福)―みんなでつくる幸せ社会へ』、海象社、2011年。

[18] ジョセフ・E・スティグリッツ、ジャンポール・フィトゥシ、アマティア・セン、『暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案』、福島清彦訳、金融財政事情研究会、2012年。

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ノーベル平和賞

ノーベル賞には権威がある。しかし、選考がつねに正しいわけでない。功績とされるもののなかには、平和に貢献しなかったもの、動機が不純なもの、なぜ平和への貢献であるのか分からないもの、もある。今回のテーマは、最新のノーベル平和賞受賞者について、経歴、授賞の理由とされた活動、そしてあなた自身の評価を書きなさい、である。

アルフレッド・ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。彼が巨万の富を築いたのは1867年にダイナマイトの特許を取得したからである。その材料であるニトログリセリンは液体で爆発しやすかったので、扱いが難しかった。爆発を管理しやすくしたダイナマイトは土木工事はもちろん、戦争においてももてはやされた。彼は1896年に亡くなったが、遺産の一部を基金にして賞を贈ることが遺書に書かれていた。

1901年、最初のノーベル賞が贈られた。平和賞ができたことには彼の友人であった平和運動家ベルタ・フォン・ズットナーの影響が大きかった。彼女には1905年に平和賞が授与された。

平和賞を選考するのは、遺言のとおり、ノルウェー・ノーベル委員会である。5人の委員はノルウェーの議会によって任命される。選考に偏りがあると感じる人は、ノルウェーの国会議員の価値観に違和感を持っていると考えられる。

以下では過去の受賞者について概観する。議論のために、平和運動、グローバルガバナンス、軍縮、人権、人道、和解、経済、そして環境への功績に分類する。

平和運動は、市井の人々による戦争への反対である。20世紀の前半にはこの分類での受賞者は多かったものの、冷戦時代に低調になった。そうした人々には、利害とか、名声とかいったものを超えた使命感があったであろうし、他の人々もそうした行動を英雄視した。今、平和運動がはやらないのは、国家権力をまえに、人々の声がいかにたやすく圧殺されるか歴史が示したからである。

この分類に含まれるのは、1902年のシャルル・ゴバとエリー・デュコマン、1905年のベルタ・フォン・ズットナー、1907年のエルネスト・モネータとルイ・ルノー、1910年の常設国際平和局、1921年のカール・ブランティングとクリスティアン・ランゲ、1927年のフェルディナン・ビュイソンとルートビヒ・クビデ、1930年のナータン・セーデルブロム、1931年のジェーン・アダムズとニコラス・バトラー、1935年のカール・フォン・オシエツキ、1946年のジョン・モットとエミリー・ボルチ、そして1976年のベティ・ウィリアムズとマイレッド・コリガン・マグワイアである。

グローバルガバナンスに分類されるのは、国際連盟とか、国際連合とか、世界秩序を司る仕組みの構想と運営に関わった受賞者たちである。先覚者たちは国際仲裁を提案していたが、現実主義が強くなった第二次世界大戦以降、理想主義者やユートピアンと彼らは酷評される。運営に携わった受賞者には、政治家、学者、そして国際機構とその高官の名が見える。

この分類に含まれるのは、1901年のフレデリック・パシー、1903年のウィリアム・クリーマー、1904年の万国国際法学会、1908年のフレデリック・バイエルとポントゥス・アルノルドソン、1909年のエストゥルネル・ド・コンスタン、1911年のトビアス・アッセルとアルフレッド・フリート、1912年のエリフ・ルート、1913年のアンリ・ラフォンテーヌ、1919年のT・ウッドロウ・ウィルソン、1920年のレオン・ブルジョワ、1929年のフランク・ケロッグ、1937年のロバート・セシル、1945年のコーデル・ハル、1957年のレスター・B・ピアソン、1988年の国連平和維持軍、2001年の国際連合とコフィ・アナン、そして2012年のEUである。

軍縮は、武器に対する市民の恐怖に訴えかけ、今も昔も、平和賞の大きな柱である。受賞者には市民運動家もいれば、最高意思決定者もいて、バランスが取れている。

1997年に受賞したNGOの地雷禁止国際キャンペーンとその中心人物ジョディ・ウィリアムズは当初は対人地雷でなく、地雷全体の禁止を目標にしていた。大国の米ロ中は対人地雷禁止条約にいまでも距離をとるものの、彼女たちは世論を盛り上げ、条約締結を成し遂げた。イギリスのダイアナ元妃が後押ししたのも印象深かった。

ICANという略称で知られる2017年の受賞者、核兵器廃絶国際キャンペーン、は核兵器の廃絶を実現していない。達成したのは核兵器禁止条約の締結である。宗教は信じる者には救世主が現れると説くが、受賞者が説く核兵器の廃絶は訪れるであろうか? 授賞はアドボカシーの意義を問いかけてもいる。

日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は被爆後、79年目にしてノーベル平和賞を授与された。3回の国連軍縮特別総会に駆けつけ、世界の人々に核兵器の恐ろしさを伝えた。戦争責任があった日本の国民であったことから、原爆を落としたアメリカ合衆国側の警戒もあった。不利な要因を無効にしたのは、止まらない戦争と軍拡への反感であった。

この分類に含まれるのは、1934年のアーサー・ヘンダーソン、1959年のフィリップ・ノエルベーカー、1962年のライナス・ポーリング、1974年の佐藤栄作、1982年のアルバ・ミュルダールとアルフォンソ・ガルシアロブレス、1985年の核戦争防止国際医師会議、1990年のミハイル・ゴルバチョフ、1995年のパグウォッシュ会議とジョセフ・ロートブラット、1997年の地雷禁止国際キャンペーンとジョディ・ウィリアムズ、2005年の国際原子力機関とムハンマド・エルバラダイ、2009年のバラク・オバマ、2013年の化学兵器禁止機関、2017年の核兵器廃絶国際キャンペーン、そして2024年の日本被団協である。

人権の分野での授与は、国連憲章と世界人権宣言ができて以降、増加した。受賞者は、他人のためでなく自分のために権利を主張する人々が多い。ロックスターのように、そうした自己主張の強さが現代人には魅力なのである。受賞者の住む国の政府や社会と衝突することもあるが、それにめげず闘う信念に人々は共感する。

1989年に受賞したダライラマ十四世は、非暴力によってチベット人民の権利を主張する。中国から逃げるまえには、彼は宗教指導者であり、事実上の君主であった。中国政府は彼の統治を批判する。彼が主張しなければ世界の誰もが中国政府の言い分を受け入れ、チベットの人々が選挙によって自ら政治指導者を選べないことに違和感を抱かないであろう。

2014年の受賞者マララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティは、ともに教育を受ける子供の権利を主張した。パキスタンの少女であるマララは宗教的な原理主義からの弾圧に屈せず、教育を受ける権利を主張した。インドの成人男性であるサティーアーティは、子供たちが教育を受けられるように活動した。

この分類に含まれるのは、1951年のレオン・ジュオー、1960年のアルバート・ルツーリ、1964年のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、1968年のルネ・カサン、1969年の国際労働機関、1974年のショーン・マクブライド、1975年のアンドレイ・サハロフ、1977年のアムネスティインターナショナル、1980年のアドルフォ・エスキベル、1983年のレフ・ワレサ、1984年のデズモンド・ムピロ・ツツ、1986年のエリー・ウィーゼル、1989年のダライラマ十四世、1991年のアウンサンスーチー、1992年のリゴベルタ・メンチュウ、1993年のネルソン・マンデラとフレデリック・デクラーク、1996年のカルロス・ベロとジョゼ・ラモスホルタ、2000年の金大中、2003年のシーリーン・エバーディー、2010年の劉暁波、2011年のレイマ・ボウィとタワックル・カルマン、2014年のマララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティ、2021年のマリア・レッサ、2022年のアレシ・ピャリャツキとメモリアルと市民的自由センター、そして2023年のナルゲス・モハンマディである。

人道は一貫してノーベル平和賞の授与対象である。人権と違って、自分ではなく、他人を救う活動である。1979年の受賞者であるマザー・テレサのように、自己犠牲のイメージが平和賞にあるとすれば、それはこの分野の成果である。

1901年の第1号受賞者は赤十字の父とされるアンリ・デュナンである。1917年には赤十字国際委員会、1944年にはふたたび赤十字国際委員会、1963年にはみたび赤十字国際委員会と赤十字・赤新月社連盟が受賞した。赤十字は傷病兵や捕虜を救うための組織であるから、人道に尽くすのは当然といえば当然である。1963年の受賞は、赤十字規約が決議されて百周年の記念である。

1922年のノーベル平和賞は、難民のための活動に贈られた。フリチョフ・ナンセンは北極点を目指したノルウェーの探検家であったが、第一次大戦後の混乱下で捕虜の帰還と食糧の配給に身をささげた。1922年からは国際連盟の事業として、彼は難民救護を指導した。死後の1938年、彼にちなんで名づけられた国際連盟のナンセン国際難民事務所に平和賞は授与された。

1954年と1981年に、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)にノーベル平和賞は授与されたが、実績というよりも期待に対して贈られたと評するべきである。1954年にUNHCRは資金難で、そのことを各国政府に訴えるための授与であったからである[1]。1981年の受賞は、1970年代におけるアジア・アフリカ・ラテンアメリカでの実績が認められたことによる。

2018年には、ともに戦時における性暴力と闘ったコンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲとイラクのナーディーヤ・ムラードが授与された。ムクウェゲは医者であり、暴力がはびこる同国で被害者の治療に当たった。ムラードは少数派のヤジディ教徒であるが、イスラミックステイト(IS)に性奴隷にされてしまった。彼女は他の女性のために声を上げて、人々に惨状を知らしめた。

この分類に含まれるのは、1901年のアンリ・デュナン、1917年の赤十字国際委員会、1922年のフリチョフ・ナンセン、1938年のナンセン国際難民事務所、1944年の赤十字国際委員会、1947年の米国フレンズ奉仕団と英国フレンズ奉仕団、1952年のアルベール・シュバイツァー、1954年の国際連合難民高等弁務官事務所、1958年のドミニク・ピール、1963年の赤十字国際委員会と赤十字赤新月社連盟、1965年の国際連合児童基金、1979年のマザー・テレサ、1981年の国際連合難民高等弁務官事務所、1999年の国境なき医師団、2018年のドニ・ムクウェゲとナーディーヤ・ムラード、そして2020年の世界食糧計画である。

和解は敵対していた者どうしが仲直りしたり、仲直りを第三者が助けたりすることである。実際に殺し合いを止めた功績には説得力がある。ただし、和解を導くには一定の政治力が必要であるので、一般市民は受賞するのが難しい。

1906年の受賞者はアメリカ合衆国の大統領シオドア・ローズベルトであった。日露戦争の講和を仲介し、疲れ切った日本とロシアにポーツマス条約を結ばせた。すでに日本とイギリスは日英同盟を結び、ロシアとフランスには露仏同盟があったことから、ヨーロッパの国には仲介は難しかった。受賞によって彼のタカ派的、帝国主義的な棍棒外交は中和された感じになり、平和への積極姿勢は合衆国外交のレガシーとなった。

1925年のオースティン・チェンバレンと、1926年のアリスティード・ブリアンおよびグスタフ・シュトレーゼマンは、それぞれ英仏独の外相としてノーベル平和賞を授与された。なぜ、チェンバレンだけ早かったか?、というと、1925年には受賞の該当者がいなかったので、1926年になってからドーズ案のチャールズ・ドーズとともに受賞が決まったのである。フランスとドイツの和解をイギリスが仲介したロカルノ条約締結は1925年10月のことであった。

1961年のダグ・ハマーショルドもイレギュラーな受賞であった。ノーベル賞は生前授与が原則であるが、彼の受賞は死後であった。彼は国連事務総長として、中東やコンゴ民主共和国の紛争の解決に取り組んだ。その最中にコンゴの隣国である現在のザンビアにおいて、乗っていた飛行機が墜落して亡くなった。

1971年のビリー・ブラントは西ドイツの首相であった。第二次世界大戦や冷戦において対立関係にあったソ連やポーランドとデタント、つまり緊張緩和、を試みる東方政策を採用した。受賞の翌年には、分断国家の片割れであった東ドイツと相互に政府承認をする両ドイツ基本条約を結んだ。

1973年には、アメリカ合衆国大統領補佐官であったヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムの政治家であったレドゥクトへの授与が発表された。授与理由は、ベトナムから米軍が撤退する条件を定めるパリ協定の交渉に二人が功績があったからである。和平と言いつつ、米軍が支えていた南ベトナムの政権はのちに崩壊した。レドゥクトは受賞を辞退したが、北ベトナムは戦争を続けていたからである。

1978年に受賞したのは、イスラエルの首相メナヘム・ベギンとエジプトの大統領アンワル・アル・サダトであった。2002年には、彼らのキャンプデイビッド合意を仲介した功績でアメリカ合衆国元大統領ジミー・カーターが受賞した。この合意は両国間の平和の土台となった。

1987年の受賞者はコスタリカの大統領オスカル・アリアスサンチェスであった。彼は中米紛争の終結に向け努力し、合意の成立に貢献した。コスタリカは非武装中立を宣言した国として知られる。なかなか真似できないユニークな政策である。

1994年にはパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤセル・アラファト、イスラエル首相のイツハク・ラビン、そして同国外相のシモン・ペレスが受賞した。3人はオスロ合意によってパレスチナの自治とイスラエルの国家承認を約束した。キャンプデイビッド合意をイスラエルは守っていた。

1998年は北アイルランドの政治家であるジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブルに与えられた。二人は北アイルランドをめぐるイギリスとアイルランドの合意を主導した。北アイルランドの和平は、そこに住むカトリックとプロテスタントのうち、前者がイギリスから分離してアイルランド共和国に併合されることをあきらめる代償であった。

2008年の受賞者マルッティ・アハティサーリはフィンランドの元大統領ではあるが、国連の特使として、インドネシアのアチェに自治を与える和平合意に貢献した。国連の高官の受賞者にはハマーショルドのほか、パレスチナ問題に取り組んだ1950年の受賞者ラルフ・バンチがいる。

2016年の平和賞はコロンビアの大統領であるフアン・マヌエル・サントスに贈られた。彼は長年にわたる政府とコロンビア革命軍との戦争を和平に導き、後者を武装解除した。彼は大統領に就任するまえから、紛争の終結に向けて努力していた。

以上のように、和解に対するノーベル平和賞受賞者たちの功績はいずれも見事なものであった。ところが、近年、名声を傷つけることが起きた。

2019年のノーベル平和賞はエチオピアの首相アビー・アハメド・アリに贈られた。彼は国境紛争を抱える長年の敵、隣国エリトリア、と2018年、和平協定を結んだ。エリトリアと境界を接するエチオピアの州がティグレ州である。アビー・アハメド・アリは大胆にも2020年、同州を支配するティグレ人民解放戦線(TPLP)を攻撃した。受賞理由となった和平協定が戦争の原因になってしまった。エチオピアの北部では飢餓と難民が発生した。

この分類に含まれるのは、1906年のシオドア・ローズベルト、1925年のオースティン・チェンバレン、1926年のアリスティード・ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマン、1936年のカルロス・ラマス、1950年のラルフ・バンチ、1961年のダグ・ハマーショルド、1971 年のビリー・ブラント、1973年のヘンリー・キッシンジャーとレドゥクト、1978年のメナヘム・ベギンとアンワル・アル・サダト、1987年のオスカル・アリアスサンチェス、1994年のヤセル・アラファトとシモン・ペレスとイツハク・ラビン、1998年のジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブル、2002年のジミー・カーター、2008年のマルッティ・アハティサーリ、2011年のエレン・ジョンソン・サーリーフ、2015年のチュニジア国民対話カルテット、2016年のフアン・マヌエル・サントス、そして2019年のアビー・アハメド・アリである。

経済と環境の分野はピースビルディング、すなわち平和構築、と称される活動に含まれる。富を循環させたり、乱開発を止めたりすることが平和の礎になるという考え方である。

2004年の受賞者はケニアのワンガリ・マータイである。彼女は国境を越え、アフリカの大地に植林した。「持続可能な開発、民主主義、そして平和への貢献」が受賞の理由であったが、彼女は女性と民主主義のためにも戦った。日本では「もったいない」という言葉とともに有名である。

ヌハマド・ユヌスは、貧しい人々のビジネスに少額融資を行い、生活を助けるマイクロクレジット機関のグラミン銀行をバングラデシュで広め、2006年のノーベル平和賞を授与された。

この分類に含まれるのは、1925年のチャールズ・ドーズ、1949年のジョン・オア、1953年のジョージ・マーシャル、1970年のノーマン・ボーローグ、2004年のワンガリ・マータイ、2006年のグラミン銀行とムハマド・ユヌス、そして2007年の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とアル・ゴアである。


[1] “Office of the United Nations High Commissioner for Refugees Facts,” Nobel Prize Outreach, https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1954/refugees/facts/, accessed on February 24, 2026.

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平和運動

国際政治は国家が主役である、という。しかし、グローバル社会は国家だけからできているわけでない。諸国家の政策が偏っているならば、それを正す必要がある。今回のテーマは、各国政府によるもの以外にどのような軍縮・軍備管理に向けた運動があるか具体的に述べなさい、である。

古来、ブッダやイエスの事績に見えるように、平和主義は宗教とともにあった。近代においても、平和運動の源流は宗教であった。特に、クエーカー(キリスト友会)の典礼はキリスト教各派のなかでも形式ばらないものであったため、宗教色の薄い社会運動への橋渡しとなった。信者の一人で、17世紀後半にペンシルベニア植民地を建設したウィリアム・ペンはヨーロッパの平和案を示したことでも知られる。クエーカーの団体は反戦や人道の活動が認められて1947年にノーベル平和賞を受賞したが、信者の絶対数が少なく運動の広がりに限界があった。

世俗的な平和運動はナポレオン戦争後に現れた。全国団体のアメリカ平和協会は1827年、元船長のウィリアム・ラッドらにより結成された。反戦運動が盛り上がったのは、メキシコから広大な領土を奪った米墨戦争(1846-1848年)である。アメリカ平和協会にとって、それは奴隷州を拡大するための戦争であった。協会の会員は北部側に多く、奴隷制を拡大するものには何であれ反対であった。奴隷制への反対と戦争への反対は相乗効果を発揮した。

どうしたことか、アメリカ平和協会は南北戦争(1861-1865年)を支持してしまった。これは「戦争」でなく「反乱」の鎮圧であり、奴隷制をしく南部は「悪」である。当時のアメリカ合衆国における平和運動は、北部人の、北部人による、北部人のための運動、と片づけてしまえるものであった。南北戦争に反対する少数の純粋な平和主義者はいたものの、北部エスタブリッシュメントのなかでは傍流であった。

19世紀のフランスで平和運動はサンシモン主義者のものであった。その始祖アンリ・ド・サンシモンはビジョンを持っていた。平和的階級である新興の「産業者」が、軍人である旧来の貴族に代わって支配する、というものである[1]

サンシモンのヨーロッパ連合論(1814年)はユニークであった。ヨーロッパ連合は、ドナウ川とライン川を結ぶ運河を掘削する。また、地球全体にヨーロッパ人が住めるようにする[2]

弟子たちによって、サンシモン主義はさらに洗練された。対立の元凶は「人間による人間の搾取」である。それを「地球の開発」に転換すれば平和になる。主人と奴隷の関係を断ち、各人を適材適所に配置するべきである[3]。実際、サンシモン主義者からは、インフラストラクチャーの建設とそれへの投資に携わる企業家が輩出した。

こうした各国の運動家が集ったのが、革命翌年の1849年に開かれたパリ平和大会であった。議長は作家のビクトル・ユゴーであり、アメリカ合衆国からはアメリカ平和協会の面々、フランスからはサンシモン主義者の数人が発言した。イギリスからは、自由貿易論者のリチャード・コブデンやチャーティストのジョセフ・スタージが参加した。全代表は600~700人に上り、観衆は2千人を数えた。仲裁、国際会議、軍縮、戦債反対などについて決議が採択された。エミル・ド・ジラルダンという新聞発行人も発言し、自紙の1面で大会のニュースを報道した[4]。平和会議は、自由主義者が革命に勝利したことを祝う祭典のようであった。

平和運動が他の種類の運動の副産物として勢いづいたことは明らかである。社会主義者にとっても、平和は自らのイデオロギーに花を添える付け合わせであった。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』(1848年)は、平和がプロレタリア革命のおまけであるとアピールした。

諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相応する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。

プロレタリア階級の支配は、それをますます消滅させるであろう。―後略―

一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて、同じように一国の他国に対する搾取も廃止される。

国民の内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅する[5]

労働者の世界団体であるインターナショナルはたびたび戦争反対を表明した。第一インターナショナルは1868年に反戦を宣言し、2年後に勃発した普仏戦争にも反対した。第二インターナショナルは戦争準備や戦債に反対し、1900年のボーア戦争や1904年の日露戦争に反対した[6]

ところが、第一次世界大戦が始まると、社会主義者たちは戦争に協力する側についた。それに先立つ7月の危機では、フランス統一社会党の党首、ジャン・ジョレス、がその勃発を止めようと尽力した。ショービニストの凶弾が彼の命を奪い、水泡に帰した[7]

平和運動に幻滅したり、冷笑したりする者が現れたであろう。運動は一部の勢力が何らかの利害に基づいて行うものだ、と。

しかし、原子爆弾が広島と長崎に使われると、平和運動はますます盛んになった。1950年のストックホルムアピールは初期の反核運動である。核兵器の禁止、原子力の国際管理、そして核兵器使用の戦争犯罪という内容にはおかしなところはないように感じられる。全世界で5億を超える署名を得たが、3億以上は中国とソ連においてであった。日本では650万筆の署名を得た。

アメリカ合衆国でストックホルムアピールは共産主義者の陰謀と非難された。確かに、アピールの中心人物であったマリー・キュリーの娘とその夫のジョリオキュリー夫妻、アメリカ合衆国の歌手ポール・ロブソン、あるいは画家のパブロ・ピカソは共産主義者であった[8]。この運動は引き続き朝鮮戦争とインドシナ戦争に反対していくが、しだいに、ソ連を支持する共産党員とそれ以外に分裂し、前者の団体である世界平和評議会はFBIとCIAの監視対象であった。

冷戦の不幸な対立は日本も襲った。1954年のビキニ環礁における水爆実験によって、各地で原水爆禁止の署名運動が始まった。原爆投下から10年後の1955年8月6 日に第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、それを受け、原水協、すなわち原水爆禁止日本協議会、が成立した。右寄りの労働組合を母体とした民社党はこの動きに対抗し、別に核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)を1961年、結成した。現在、それは核兵器廃絶・平和建設国民会議になっている。原水協の分裂は止まらず、ソ連の核実験再開を支持する共産党員とそれ以外が対立した社会党系の原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が1965年に生まれ、原水協は共産党員を中心とする団体となった[9]

その一方で1956年、被爆者団体としての日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が設立された。世界的にこの運動は評価され、2024年にノーベル平和賞を授与された。

労働運動の対立がくさびとなった分裂は、無関係な一般の人々には幻滅であった。そうした人々の受け皿となったのが「べ平連」として知られる「ベトナムに平和を!市民連合」であった。名前のとおり、ベトナム反戦を目的に1965年、始まったこの運動は米軍兵士の脱走を支援した。中心人物の小田実は、市民運動を名乗る理由をこう説明する。

ただ、ここで留意しておきたいのは、デモ行進には、作家が作家、家庭の主婦が家庭の主婦、工場の労働者が工場の労働者の「職能」をふりかざさないでおたがい「市民」として加わって来ているように、社会主義者も社会主義を、自由主義者は自由主義をふりかざすことなしに「市民」として歩いているということだ[10]

当時は新鮮な市民運動であったものの、時間の経過とともに色あせることは避けられなかった。冷戦後には、ベ平連も実はソ連から援助を受けていたことが明るみに出た。

では、どうすれば平和運動は立場の違いを乗り越えることができるのか? 研究者である村上公敏と木戸蓊は次のように助言する。

―前略―平和運動は、その対象に「政策」をおくことによって、政治的見解の差異をこえて、統一行動を展開しうるものとしてあること、したがって「真の原因」の「バクロ」が運動の中心である必要はないこと、『平和のために闘う』ということの意味は、実は、危険な「政策」と闘うことであること、「政策」を対象にすえることによってのみ、グローバルに、通常人すべてを組織しうること、これらのことが認められる[11]

危険な政策と闘うことで広い連携を成し遂げると言うが、そのようなことが現実にあるのか?

1982年6月、ニューヨークで百万人が反核デモに参加した。国連では第2回軍縮特別総会が開かれていた。核兵器の廃絶に期待を寄せる多くの市民は、タカ派のレーガン政権に危うさを感じていた。西ヨーロッパでは、中距離核戦力の配備に対する反対運動が高まっていた。原子力発電に反対する環境団体も加わり、反核運動は西側世界全体に広がった。ミハイル・ゴルバチョフがモスクワで権力を握ると、米ソ関係は協力へと転じ、軍縮は実現した。

原爆開発を指揮したJ・ロバート・オッペンハイマーは国益に尽くした一方で、原子力を国際化する夢は夢で終わった。レオ・シラードが反対した広島・長崎への原爆投下は実行されてしまった。科学者が国家から自由になることは意外と難しい。

科学者による活動の一つに、1945年12月のブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ誌の発刊がある。マンハッタン計画に参加した科学者たちが原子力の国際管理のために始めたものである。目玉はドゥームズデイクロック(終末時計)であり、人類最後の日の午前0時まであと何分、と核戦争への残り時間をデザイナーが表紙のために描いたものであった。国際管理が挫折すると、軍備管理に消極的な政治情勢に対する警鐘と理解されるようになった。

他方、ラッセル・アインシュタイン宣言は原爆投下10年の節目をまえに発せられた。バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインを中心として、平和的な国際紛争の解決を求める科学者たちが署名したものである[12]。これは1955年7月のことであったが、3か月まえにアインシュタインは亡くなっていた。

世界の科学者に向けられたラッセル・アインシュタイン宣言は、科学者の軍備管理NGOであるパグウォッシュ会議を生み出した。第1回の会議がカナダのパグウォッシュという海辺の村で1957年に持たれたので、この名になった。科学は国際間の対立がある論争に中立的な解決策を与える潜在力を持ち、同会議は核兵器にとどまらず、化学兵器と生物兵器の管理に向けた国際交渉を助けている。パグウォッシュ会議は1995年、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名した科学者ジョセフ・ロートブラットともに、ノーベル平和賞を受けとった。

日本には科学者京都会議がある。中間子の存在を予言してノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹は、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名した一人であった。彼は1962年に朝永振一郎や坂田昌一とともに第1回科学者京都会議を開いた。この会議は政府・政党・宗教団体等から完全に独立した組織運営を目指し、軍縮を提唱した[13]

自治体は市民に身近な政府機関であり、民主主義の学校と喩えられる。自治体の非核都市宣言は平和運動が最も多く勝ちとってきたものである。

最初の非核都市宣言は1958年に愛知県半田市で行われた。ビキニ環礁での核実験、ラッセル・アインシュタイン宣言、そして原水爆禁止世界大会の一連の流れを引き合いにしつつ、核非武装を二本立てで宣言した。自衛隊の核武装を行わないという日本全体の非武装と、「本市は永久に核兵器による武装化がされないことを保障」するという半田市独自の非武装であった[14]。日本の自治体に核兵器が持ち込まれる差し迫った危機は、外国の軍艦や軍隊が出入りする港や基地の周囲にある。

半田市に続く自治体はなかなか現れなかった。意外にも、次の波は西ヨーロッパで起きた。中距離核戦力の撃ち合いが始まる恐怖感に人々はたまりかねていた。

イギリスのグリーナムコモンというところに空軍基地がある。1981年夏、女性たちが基地まで歩き、平和キャンプを始めた[15]。“Think Globally, Act Locally”という言葉があるが、地元からの非核化運動が盛んになった。

1982年、イギリスのマンチェスターでは、市議会が非核都市宣言を決議した。市域内で核兵器の製造と配備を行わないことをイギリス政府に求めたものである。この運動は自市だけの非核化では意味がないことを自覚し、近隣地域、イギリス全土、さらにはヨーロッパ全体が非核地帯になることを希望した[16]。ロンドン市もこれに呼応した。運動を後押ししたのは反核NGOの核軍縮キャンペーンであった[17]

外国の非核地帯運動に触発され、非核宣言を決議する日本の自治体が激増した。今世紀の初めには2千5百を超えたこともある[18]。日本非核宣言自治体協議体という団体によると、非核宣言自治体とは「核兵器の廃絶や非核三原則の遵守を求める内容の自治体宣言や議会決議を行った自治体」である[19]。核兵器の廃絶を求めるか、そうでないかは、国民のなかに意見の違いがある。

市民が自らの主張を認めさせる舞台には裁判所もある。広島・長崎の被爆者5人が原爆投下による傷害について日本政府に損害賠償を請求したのは下田事件である。東京地方裁判所が1963年に出した判決は下田判決といい、個人は国際法上の主体ではなく、また、サンフランシスコ平和条約も個人の損害賠償権を認めていないという理由で訴えを棄却した。原爆投下の違法性については、無防守都市への無差別爆撃であり、不必要な苦痛を与えたとし、認めた。

下田事件は一国内の問題として収められたが、当事者の国籍が複数にわたる紛争は国際裁判所に持ち込まれることがある。国際司法裁判所(ICJ)が出す判断には争訟事件に対する判決と国際機構からの要請に応えての勧告的意見がある。前者は特定の事件に対して法的拘束力を持ち、後者は一般的な問題について原則を明らかにするもので法的拘束力はない。

フランスの核実験は国際司法裁判所が扱った争訟事件である。太平洋のムルロア環礁で同国が行う大気圏内核実験の差し止めをニュージーランドとオーストラリアが求めた。1974年に国際司法裁判所は仮保全処分を下した。両国に被害を与えるような大気圏内核実験を避けるように、との内容である。最終的な同裁判所の決定は、フランスが実験を中止したため下されなかった。

地下核実験については、ムルロア環礁でフランスは続けた。環境保護団体のグリーンピースは虹の戦士号という船を抗議のために現地に向かわせた。1985年、この船が何者かにより爆破され、1人が死亡した。犯人はフランス政府の工作員であることが判明した[20]。表沙汰にできない手段を使ってでも、フランスは核実験を行いたかったのである。

国際司法裁判所の勧告的意見については、核兵器使用の非人道性をめぐるものがある。

ニュージーランドの市民グループが国際法学者のリチャード・フォークを1986年に招いて検討したことから始まった。争訟事件として核兵器使用の違法性を問う場合、どこかの核保有国を訴えることになる。強制管轄権を受け入れていない核保有国は裁判を回避するであろう。勧告的意見のほうは国連憲章第96条に定められ、総会または安全保障理事会が要請できるほか、その他の機関および専門機関も活動の範囲内で要請できる。これならば、それらの機関で可決されれば、核保有国は妨害することはできない。勧告的意見で違法性を問う方針が定まり、キャンペーンが始まった。1992年には、学者、医師、市民、NGO、ジンバブエ政府、メキシコ政府などから成る世界法廷プロジェクト(WPC)が発足して、運動の中心となった[21]

国際司法裁判所への要請は、世界保健機関(WHO)と国連総会が引き受けた。前者のものは門前払いとされたものの、後者のものには1996年、勧告的意見が出された。

国連総会による国際司法裁判所への質問は「いかなる状況において核兵器の威嚇あるいは行使は国際法のもとで許されるか」であった。勧告的意見は、核兵器の威嚇と使用は一般論として武力紛争法と人道法の原則・規則に違反する、というものであった。ただし、国家存亡がかかった自衛の場合には結論することはできない、とも加えられた。これは賛否同数で、裁判長のキャスティングボートでようやく通った意見である[22]

国際司法裁判所の勧告的意見は重要である。なぜなら、核抑止も、ミサイル防衛も、本当に核攻撃から私たちを守ってくれるか、確かでないからである。核兵器の使用は違法である、と述べるこの意見は、私たちを守ってくれるかもしれない。 個人には世界秩序を選択するために行動する自由がある。核兵器からの安全は、誰もが望むことである。ただし、その方法は人によって異なる。所属する国家をつうじて安全を求めるのもよい。他の市民とともに、国家に頼らず求めるのもよい。もちろん独力で求めるのもよい。今後、平和運動が国家をしのぐかは分からないが、この方法が消えてしまうことはないであろう。


[1] サン=シモン、『産業者の教理問答 他一編』、森博訳、岩波書店、2001年。 セバスティアン・シャルレティ、『サン=シモン主義の歴史 1825-1864』、沢崎浩平、小杉隆芳訳、法政大学出版局、1986年。

[2] クロード・アンリ・ド・ルーヴロワ・サン―シモン、「ヨーロッパ社会の再組織について」、『サン―シモン著作集』、第2巻、森博訳、恒星社厚生閣、1987年、230-233ページ。

[3] セバスティアン・シャルレティ、『サン=シモン主義の歴史 1825-1864』、沢崎浩平、小杉隆芳訳、法政大学出版局、1986年。

[4] Pierre Pellissier, Emile de Girardin: Prince de la Press (Paris: Denoel, 1985).

[5] マルクス、エンゲルス、『共産党宣言』、大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波書店、1951年、65-66ページ。

[6] 村上公敏、木戸蓊、『世界平和運動史』、三一書房、1961年、10-11ページ。

[7] アルベール・トマ、『労働史講話』、日本労働協会、1974年、361-368ページ。

[8] 森瀧市郎、前野良、岩松繁俊、池山重朗、『非核未来にむけて―反核運動40年史』、績文堂出版、1985年、36ページ。

[9] 森瀧、前野、岩松、池山、『非核未来にむけて―反核運動40年史』、21-26、126-128ページ。

[10] 小田実、『「べ平連 」・回顧録でない回顧』、第三書籍、1995年、86ページ。

[11] 村上、木戸、『世界平和運動史』、83ページ。

[12] モートン・グロッジンス、ユージン・ラビノビッチ編、『核の時代』、岸田純之助、高榎尭訳、みすず書房、1965年、498-500ページ。

[13] 飯島宗一、豊田利幸、牧二郎、『核廃絶は可能か』、岩波書店、1984年。

[14] “半田市 – 日本非核宣言自治体協議会ホームページ,” 日本非核宣言自治体協議会, http://www.nucfreejapan.com/member/japan/area/info?pref=23&code=23205, accessed on February 23, 2026.

[15] 近藤和子、福田誠之郎編、『ヨーロッパ反核79-82』、新泉社、120ページ。

[16] 国際教育フォーラム編、『反核・軍縮宣言集1982年の証言』、新時代社、1983年、168-169ページ。

[17] 近藤、福田編、『ヨーロッパ反核79-82』、103ページ。

[18] 梅林宏道、ピース・アルマナック刊行委員会、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、緑風出版、2024年、217ページ。

[19] “よくある質問,” 日本非核宣言自治体協議会, http://www.nucfreejapan.com/%e3%82%88%e3%81%8f%e3%81%82%e3%82%8b%e8%b3%aa%e5%95%8f, accessed on February 23, 2026.

[20] 近藤、福田編、『ヨーロッパ反核79-82』、175ページ。

[21] NHK広島核兵器プロジェクト、『核兵器裁判』、NHK出版、1997年。

[22] 梅林、ピース・アルマナック刊行委員会、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、45ページ。

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持続可能な開発

このまま経済開発を優先して、環境を破壊し続けたら、経済開発自体が持続できなくなる。将来の世代にツケを回さず、現世代のあいだに、持続できるようなやり方へ経済開発を軌道修正するべきである――持続可能な開発は本来、このようなスローガンであったはずである。それが今は違うらしい。

2016年以降における国連の目標である「持続可能な開発目標(SDGs)」は、経済・社会・環境の三つの次元を含む。もはや、経済と環境のバランスだけが焦点ではなく、社会の次元が加わった。A/RES/70/1という国連総会の決議には、繁栄は自然と調和しなければならない、そして、平和は持続可能な開発の条件であり、結果でもある、と書いてある。繁栄という言葉は経済のことで、平和という言葉は社会のことであろう。新しい持続可能な開発のビジョンは、経済開発のやりすぎは自然を損ない繁栄をもたらさない、というだけでなく、差別や搾取をなくして社会を良くしないと、平和は失われ、自然も繁栄も脅かされる、と語る。

これを信じるか、信じないか、はあなた次第である。人々には選択の自由があるのであるから。今回のテーマは、経済開発、人間開発、そして持続可能な開発の間には関係があるのか、あるとすれば、どのようなものか、あなたの考えを述べなさい、である。

環境問題それ自体は、人類の誕生にさかのぼる。また、田中正造の逸話でよく知られた足尾鉱毒事件のように、19世紀、すでに社会問題になっていた。しかし、政策として予防的に取り組まれるようになったのは比較的、近年のことである。レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』は1962年に出版され、人々に問題の深刻さを認識させた。殺虫剤のDDTなど化学薬品が、いかに生態系を破壊するか描いたものである[1]

また、ローマクラブの報告書『成長の限界』の出版が1972年であったが、環境保護に必ずしも熱心でなかった経済界がその必要を認めたものであった。持続可能性の大切さを世間に伝えるうえで、最も功績があった研究でなかったろうか。人類が従来どおりの成長を続けると、資源の減少と汚染によって、1人当たりの食糧、1人当たりの工業生産、そして総人口の順に減少していく。これを防ぐために、産児制限と工業生産制限を行うことをローマクラブは求めた[2]

同じ1972年には、記念碑的なグローバルな環境イベントのストックホルム国連人間環境会議(UNCHE)が開かれた。114か国、1,300人あまりが参加したものの、東側諸国は不参加であった。主な成果の一つは人間環境宣言の採択である。これはワシントン条約(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」)とボン条約(「移動性の野生動物の種の保存条約」)の作成につながった。もう一つは国連環境計画(UNEP)の設立であり、国連は環境問題の対策本部を持った。国連の内部機関であるので、設立の本決定は後日、総会で決議された[3]

地球環境が人類の課題であるという認識は広まったものの、言行一致は簡単でない。ローカルな環境問題と違い、交渉当事者の主権国家は上から誰も命令できない存在である。その行動を縛るには、環境対策の意義を納得させ、約束してもらうほかない。しかし、誰しも自分の価値観や利害に反することはしたくないので、悲劇は終わらない。

「共有地の悲劇」という概念は、ギャレット・ハーディンによる1968年の同名論文によって世間に広まった。共有地には個人の所有権が及ばないので、皆が自分の家畜に牧草をたらふく食べさせて、牧草地は荒れ放題になる[4]。大気と海洋は最大の共有地であるため、この構図は地球環境問題にも当てはまる。人類は諸国家による外交という手段でそれらの問題を解決しようとしている。

ここで出てきた共有地、または共有資源、という財の類型にはなお説明が必要である。それは排除不可能性と競合性を特徴とする財である。村の牧草地は、すべての村人に放牧する権利があるから排除不可能である。食い尽くされた牧草は生えてくるまで食べられないから競合的である。

村でルールを作って制限するのは、資源管理の良い方法かもしれない。しっかり見張って、取り締まろう、と提案が出たとする。自家分の牧草が減ることになる村人は反対する。

共有地と似た財の類型に、公共財がある。公共財は排除不可能性は同じであるものの、非競合性という特徴が違っている。きれいな空気は公共財、という言われ方がされる。息を止めたままでいなさい、と、空気の消費から誰かを排除することは確かに不可能である。また、誰かが空気を吸ったからといって、別の誰かの呼吸と競合するわけでもない。地球環境問題に当てはめれば、純粋な空気が公共財である。問題は共有地の悲劇によって、空気に排ガスのような大気汚染物質、二酸化炭素のような温室効果ガス、そして、フロンガスのようなオゾン層破壊物質が混ざり、純粋でなくなることである。

以上のように、排除不可能な財の消費を規制することは難しい。共有地は早い者勝ちで消費され、資源が枯渇してしまう宿命である。公共財は維持経費を払わないフリーライダーの出現ゆえに失われる。どちらが厄介か、は言うことはできない。前者では、人間の欲深さに嫌気が差し、後者では、理想の欠如が嘆かわしい、というニュアンスの違いがあるだけである。

排除可能な場合は、利用者にルールに従わせればよいので、財の管理は行いやすい。消費が競合する私的財であっても、個人の放牧地であれば、課金して利用者数を制限し、利潤を上げられる。競合しない排除可能な財はクラブ財と呼ばれ、会員はクラブのサービスを満喫できる。

こうした財の分類には政策上の意味がある。排除不可能な財を排除可能な財に転換できるのであれば、資源管理は容易になりそうである。共有地を民営化したり、国立公園にして入山料を課したりすれば、枯渇や荒廃を止めることができる。一見すると、良さそうなアイデアである。

ノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムは、必ずしもそうではないと議論した。共有地であっても民営化や行政命令によらず、自発的な組合によるガバナンスが成功する場合がある。ただし、それは利用者間にコミュニケーションとルール変更権限があり、小規模な利用者の場合にかぎられる[5]。会合は頻繁に、永続的に行われなければならない。日本語で、車座になって話し合う、というような状況がそれに当たろう。彼女の学説に弱点があるとすれば、ガバナンスが内輪の当事者によって行われるので、人権、繁栄、あるいは平和のような高邁な理想は考慮されないかもしれない、ということである。

地球環境のガバナンスは国境を越える必要がある。そうした問題に関しては国家間外交による対応が普通である。オストロムが論じるような小規模な自己組織的な共同体によるガバナンスのほうが、本来、共有地には適しているかもしれない。また、ガバナンスはできるだけ有権者と近いところで行われる必要がある、という本書の原則ともグローバルな調整は一致しない。

とはいえ、小規模な自己組織的な共同体によるグローバルガバナンスはできない相談である。グローバルガバナンスには、多様な価値観、多様な利害を持った人々が参加するからである。捕鯨の管理はその好例である。クジラを殺すことに対して、クジラがかわいそうと感じる人と重要な栄養源と考える人とが規制の方法を議論しても、妥協点を見つけることはまず不可能である。

以下では、国家間外交による地球環境ガバナンスの歴史を振り返る。が、共存共栄の成功物語を期待してはいけない。国益と国力をめぐるゲームのなかで、何とか合意点を探るのが関の山であるからである。

最初に取り組まれた国際的な環境問題は越境大気汚染である。工業地帯を擁するヨーロッパでの地域的協力が先行し、1979年、ジュネーブ長距離越境大気汚染条約が採択された。その実効性は1984年、31締約国中10か国が自発的に硫黄排出物の30パーセント削減を宣言して前進した。翌年、ヘルシンキ議定書が作成され、30パーセント削減は21か国による公式な約束になった[6]

ジュネーブ条約とヘルシンキ議定書は、枠組み条約と議定書をつうじた国際ガバナンスのモデルケースである。進藤雄介の表現を借りれば、それは「協議ないし交渉の場(枠組み)の設定についてとりあえず合意するが、その結果として、いかなる議定書など国際的な約束が合意されるかは、今後の交渉次第という方式である」[7]。議定書が採択されるのは、枠組み条約の締約国会議という場合が多い。締約国会議の英語の頭文字をとったCOPをよく耳にする。

越境大気汚染は他地域でも起きている。ヨーロッパでは、工場の排煙が酸性雨になって、森を枯らし、湖の魚を殺している、というイメージで知れ渡った。東アジアでは1998年、東アジア酸性雨モニタリングネットワーク(EANET)の第1回政府間会合が開かれ、調査が続けられている[8]。中国では「空中鬼」と呼ばれるほどひどい被害があったそうであるが、その他の国ではそれほどの被害は報告されておらず、条約の作成に至っていない。微小粒子状物質(PM2.5)は人体の健康との関係で注目されている。日中韓三か国環境大臣会合(TEMM)のもと、対策がとられている。

1970年代には、開発経済の世界においても、成長優先への反省が語られだした。ODAが環境や人権を破壊していると告発され、イラン革命のように、近代化がかえって人々を反体制的にした事例が現れていた。世界は、ナショナリズムの英雄が巨大なインフラストラクチャーを建設するイメージで開発を論じることをやめた。

貧困削減が開発政策の新しいパラダイムになった。工業化をすれば、経営者と従業員、そして国家の運営に当たる官僚は豊かになるが、その他の人々はどうであろうか? 成長すれば貧困は解消するというトリクルダウンの説は疑われ始めた。代わって、ロバート・S・マクナマラ総裁が率いる世界銀行はベイシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)を1970年代初頭から掲げるようになった。何が人間の基本的なニーズか、というと、栄養・健康・教育である。

こうした流れは『人間開発報告書』の公刊によって加速された。 UNDP総裁特別顧問であるパキスタンのマブーブル・ハク博士の指揮で、1990年に最初の報告書が出た。彼と協力したアマルティア・センは次のように述べた。

このアプローチのちょっと否定的な面はPRに頼りすぎ、公衆の注目を得るためマブーブルはとてつもなく単純化せざるをえなかったことです[9]

人間開発の定義は、人間の選択の幅を広げること、である。その指数は、三つの機能である健康・知識・所得の諸指標から合成される。これらが大きくなれば人間ができることは拡大する。それが単なる経済開発と違うことは、1人当たりの年間所得が同じであっても、寿命と知識の水準に差がある国どうしを比べれば理解できる。1人当たりの年間所得が同じ500ドルでも、平均寿命が71歳で識字率が89パーセントの国もあれば、それぞれ44歳と27パーセントの国もある[10]。あなたは、どちらの国に生まれたいであろうか? これらの国の間では、人間の可能性に雲泥の差がある。

ただし、健康や教育は開発政策においてもてはやされるようになったものの、重視する理由は立場によってまちまちである。ハクやセンの立場では、寿命・知識・所得などから成るウェルビーイングそれ自体が目的であり、それらが欠如していることこそ貧困であると定義される。

それにたいし、健康や教育を経済成長という目的のための手段として扱う立場がある。寿命・知識は人的資本または「人材」としてくくられ、設備・不動産など物的資本や資源・環境など自然資本とともに経済成長の要因である[11]。新古典派経済学がこれである。貧困削減の理論と経済成長の理論とでは、同じ言葉を使っていても本質的な違いが隠れている。教育を手段と見る場合、それは長期的成長の決定的要因ではないという消極的な評価もある[12]。この評価を採れば、人間開発は実証的アプローチでなく、規範的なアプローチである。

同じように、成長の限界と持続可能な開発とは似て非なるものである。前者においては、成長を緩やかにするための産児制限と生産規制は全世界に求められ、途上国だけが免除されることはない。後者は、これから途上国が環境破壊を招く工業化をしないように、先進国が農業補助金の廃止や技術の移転によって途上国の成長率を高めることを要求する。途上国の出生率を下げることは、成長の限界論が主張する産児制限でなく、女性の地位向上によって成し遂げられねばならない。

こうした違いは、持続可能な開発の概念が国連総会に由来することから生じた。総会が設置を決めた通称ブルントラント委員会、つまり、環境と開発に関する世界委員会、は4年後の1987年に報告書「我ら共有の未来」においてこの概念を提唱した。ブルントラントというのは委員長を務めたノルウェーの政治家グロ・ハルレム・ブルントラントにちなむ。国連総会は多数派である途上国の意見を強く反映するために、報告書の真意は「持続可能」よりも「開発」の強調であった。

持続可能な開発は「衡平(エクイティ)」を先進国と途上国との関係に打ち立てようとする指針である。ここでの衡平とは、環境保護という抽象的な理念を途上国における開発の緊急性という特別な事情を考慮して、より広い正義の観点から補正することである。

例えば、国際制度を設計する際、両者の間で義務の格差を設ける。オゾン層の保護のためのウィーン条約の枠組みでは、フロンガスなどの削減率を具体的に定めるモントリオール議定書が作成された。そのスケジュールでは、途上国が規制を実施する時期を先進国より10年遅らせる。

また、技術と資金を先進国から移転するために、地球環境ファシリティ(GEF)という融資枠が世界銀行のもと1991年に設けられたのも、衡平を打ち立てる意図に発したことである[13]

持続可能な開発は、先進国と途上国との関係だけでなく、あらゆる関係を衡平にする概念へと発展した。それを実現する舞台としてリオデジャネイロ国連環境開発会議が1992年に用意された。英語の頭文字ではUNCEDであるが、地球サミットやリオサミットという通称でも知られる。

12歳のカナダ人少女セバン・スズキが演説に立ち、環境破壊を続ける大人たちに若者の怒りをぶつけた。世代間にも衡平が必要である、との理解が広がったのは地球サミットの成果であった。

国連環境開発会議において、気候変動枠組み条約が署名開放された。気候変動はその後30年間、地球環境をめぐる論争において最大の争点になった。

二酸化炭素が地球を温める、と温室効果理論をスウェーデンのスバンテ・アレニウスが提唱したのは百年以上まえである。1985年以降、世界気象機関(WMO)とUNEPの会議で取り上げられてふたたび脚光を浴びた。データや研究結果を科学的に検証するため、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が1988年に立ち上げられた。第1次評価報告書は1990年に出されたが、温暖化の進行と懸念が明記され、翌年の条約交渉開始を後押しした。温暖化の真偽がその後も争われるなかで、一連の評価報告書は取り組みを促す起爆剤であった。

政策策定に役立つ情報を提供する科学者あるいは専門家のネットワークを、国際政治学者のピーター・M・ハースはエピステミック・コミュニティ(認識共同体)と命名した。IPCCはまさにそうしたものであるが、2007年にノーベル平和賞を獲得した。ところが、2009年には関係する科学者の電子メールが流出し、クライメイトゲート事件と呼ばれる騒動に発展した。温暖化対策は、科学への信頼の上に成り立っているのであるから、科学者は倫理的な責任を負う。

温室効果ガスを削減する具体的な目標を定めた京都議定書は1997年のCOP3(第3回締約国会議)で採択され、1990年を基準として、日本は6パーセント、アメリカ合衆国は7パーセント、そしてEUは8パーセント減らすことを約束した。EUの目標は高いように見えるものの、それまで対策が不十分であった東ヨーロッパには削減の余地が残っていた。

アメリカ合衆国はアル・ゴア副大統領が京都議定書の採択に尽力したものの、ジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が就任した2001年に参加しないと決断した。中国とインドを含む開発途上国に温室効果ガス削減の義務がないことが理由であった。それでも議定書は発効した。日本は目標を国内の排出削減だけで達成することはできなかったが、営林事業(森林吸収源)ならびに他国での削減プロジェクト(京都メカニズムクレジット)に参入することにより義務を全うした[14]

アメリカ合衆国では2009年にバラク・オバマ大統領が就任し、温暖化対策を再開した。グリーン・ニューディールは世界金融危機で落ち込んだ経済を再建し、石油への依存を終わらせる二兎を追った。

オバマ政権は、京都議定書に続く国際合意としてパリ協定が2015年のCOP21で採択されるのを後押しした。パリ協定は世界全体で産業革命以降における気温上昇の目標を2度未満とした。各国は任意の目標を設けて5年ごとに取り組みを報告、さらに、国家間で支援を行う。途上国による目標の設定は、義務づけられずに、奨励されるにとどまった。ドナルド・J・トランプ政権は2019年にパリ協定から脱退したものの、ジョー・バイデン政権は2021年に再加入した。

生物多様性条約は、地球サミットにおいて気候変動枠組み条約とともに署名開放された。目的は生物多様性の保全、その持続可能な利用、そして、遺伝資源から得られる利益の公正かつ衡平な配分である。保全については、戦略計画をCOPで採択して、保護区の指定などの目標を示す。

生物多様性条約にはカルタヘナ議定書と名古屋議定書がある。カルタヘナ議定書は遺伝子組み換え生物の越境移動を規制する目的で作られた。名古屋議定書は遺伝資源の利用から得られた利益の公正・衡平な配分が目的であり、2010年に名古屋市で開かれたCOP10において採択された。

国際連合の推進する価値観は、「我ら共有の未来」から持続可能な開発目標に至るまで、驚くほど変わっていない。簡潔に表現すれば人間開発・衡平・持続可能性であり、この回の初めに述べた経済・社会・環境と見事に重なる。持続可能な開発の概念が登場した背景には、環境の重視はもちろん、開発途上国と先進国、女性と男性、そして労働者と経営者といったパートナーシップを衡平なものにしようという問題意識があった。この延長線上に、ミレニアム開発目標(MDGs)と持続可能な開発目標がある。

ミレニアム開発目標は、2000年のミレニアムサミットで採択されたミレニアム宣言に基づき、事務総長報告などを踏まえて作られた。2015年までに達成されるべき8つの目標とは、1に貧困、2に教育、3にジェンダー、4に乳幼児、5に妊産婦、6に感染症、7に環境、8にパートナーシップである。1・2・4・5・6は人間開発、3・8は衡平、そして7が持続可能性である。

統計指標でミレニアム開発目標の達成度を検証すると、つねに下位にくるのはサハラ砂漠以南のアフリカと南アジアであり、開発途上国に努力を促す結果であった。ちょうど中国とインドが高成長をしていた時期と目標期間が重なったことから、人口が圧倒的に多い両国が豊かになると、大多数の目標が達成されたように見えてしまう問題があった。

持続可能な開発目標は、国連総会が2015年に決議した「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(A/RES/70/1)に基づく17の目標である。1に貧困、2に飢餓、3に健康、4に教育、5にジェンダー、6に水、7にエネルギー、8に雇用、9に産業、10に平等、11に居住、12に持続可能性、13に気候、14に海洋、15に生態系、16に平和、17にパートナーシップである。1・2・3・4・6・8・9・11が人間開発、5・10・16・17が衡平、そして7・12・13・14・15が持続可能性、と大まかに分けられよう。

持続可能な開発目標はミレニアム開発目標と比較して、持続可能性の割合は確かに増した。ミレニアム開発目標は開発途上国向け、と陰口をたたいたが、その点は改良された。持続可能な開発目標は「誰一人取り残さない」と決意し、人口の多い国への過剰な依存をやめた。また、目標がより高いものになり、先進国の課題に対応した。

このように、持続可能な開発目標は多様化した。とはいえ、まだ欠けているものがある。一つに、それは選択の自由である。確かに、ウェルビーイングは十分に盛り込まれているものの、人間には娯楽、進歩、冒険、そして自己実現も必要である。もう一つ欠けているものは論争である。パートナーシップは重要であるが、目標を採用するか、しないかを決めるのは各レベルの主体である。批判が許されなければ、目標達成を口実にして権力にしがみつく専制政治家の思うつぼである。


[1] レイチェル・カーソン、『沈黙の春―生と死の妙薬』、新潮文庫、1974年。

[2] ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダース、ウィリアム・W・ベアランズ三世、『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』、大来佐武郎監訳、第52版、1994年、105、151ページ。

[3] 百瀬宏、『北欧現代史』、山川出版社、1980年。

[4] G. Hardin, “The Tragedy of Commons,” Science 162 (3859) (1968):1243-1248.

[5] Elinor Ostrom, Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action (Cambridge: Cambridge University Press, 2015).

[6] ピーター・H・サンド、『地球環境管理の教訓』、信夫隆司、高村ゆかり訳、国際書院、1994年、40ページ。

[7] 進藤雄介、『地球環境問題とは何か』、時事通信社、2000年、27ページ。

[8] 環境庁、『環境白書(総説)(平成12年度版)』、2000年、228ページ。

[9] Richard Jolly, Louis Emmerij, and Thomas G. Weiss, The Power of UN Ideas: Lessons from the First 60 Years (New York: United Nations Intellectual History Project, 2005).

[10] マルーブル・ハク、『人間開発戦略 共生への挑戦』、日本評論社、1997年、65ページ。

[11] ビノッド・トーマスほか、『経済成長の「質」』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2002年、4ページ。

[12] ウィリアム・イースタリー、『エコノミスト 南の貧困と闘う』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2003年、105ページ。

[13] L・E・サスカインド、『環境外交―国家エゴを超えて』、吉田庸光訳、1996年、170-171ページ。

[14] 環境省, “京都議定書第一約束期間の削減目標達成の正式な決定について(お知らせ),” April 5, 2016, https://www.env.go.jp/press/102374.html, accessed on February 23, 2026.

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グローバリゼーション

今はインターネットにおいて、モノでも、カネでも、ヒトでも、情報でも、世界中がつながっている。それ以前はさぞかし不便であったことであろう。

それでも、交通と通信は日々、発達していた。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は、出版前年の1872年の世界を舞台とする。主人公はロンドンから、ドーバー、パリ、ブリンディシ、スエズ、ムンバイ、コルカタ、香港、横浜、サンフランシスコ、ニューヨーク、リバプール、そしてロンドンへと鉄道と船で移動した[1]

歴史学者のエリック・J・ホブズボームは1872年から24年まえの1848年であったなら、世界一周に11か月かかったであろう、と推測する[2]。その間に19世紀のグローバリゼーションが起きていた。グローバリゼーションの波は1度や2度ではなかったはずである。今回のテーマは、冷戦後の国際政治経済をグローバリゼーションという観点から論じなさい、である。

冷戦後のグローバリゼーションに先立って、大前研一がボーダレス・ワールドと呼んだ状況が生じていた。文字通り、国境のない世界であるが、「アメリカ、日本、ヨーロッパのいわゆる『トライアド』(三大戦略地域)で構成されているが、最近では台湾、香港、シンガポールなどの積極的な経済地域も参加するようになった」と解説される[3]。冷戦の終結に伴って、このトライアドに旧共産圏が吸収された。東側と深い関係にあった開発途上国はしばらく行き場を失い、混乱した。それが収拾に向かいだした時、グローバリゼーションは本番を迎えた。

以下では冷戦後を三つの時期に分けて論じる。第1期は、マルタ会談からITバブルの崩壊までの1989年から2001年であり、アメリカ合衆国の大統領ではブッシュ(父)政権とクリントン政権である。第2期は9・11テロから北京オリンピックまでの2001年から2008年までであり、ワシントンDCはブッシュ(子)政権である。第3期は世界経済危機からシリア内戦またはブレグジットまでの2008年から2016年であり、オバマ政権である。

モノのグローバリゼーションを決定づけたのは1993年におけるウルグアイ・ラウンドの妥結と1994年におけるマラケシュ協定の署名であった。成果を三つにまとめると、一に工業品関税の40パーセント低下、二にサービス貿易・貿易関連知的財産権(TRIP)・貿易関連投資(TRIM)の整備、三にWTO(世界貿易機関)の設立である[4]。にわかにグローバルな市場なるものが姿を現したわけであり、それに参加しない国は負け組に落ちることは必至であった。

WTOへの中国加盟が2001年、台湾加盟が2002年、そしてロシア加盟が2012年であり、これらをもってグローバルな市場は完成した。

商品(コモディティ)価格の下落をグローバリゼーションはもたらした。バナナ、コーヒー、ヤシ油、コメ、そして小麦の価格は1996年から2000年の間にいずれも長期的に低落した。それらの産地である開発途上国の交易条件は、ほぼ横ばいであった先進国に比べて明らかに低下した。バナナやコーヒーは生産国に収益が落ちる割合が低いため、生産者からの買取価格が不公正であるとの告発を長年、ぬぐえなかった。[5]

これを正すために、企業やNGOが直接、生産者から「公正な」価格で商品を買い入れ、小売りするフェアトレードが人気を博すようになった。すべてのバナナやコーヒーをフェアトレードで販売することはむろん不可能である。フェアトレード商品は利潤率が高いと言われるため、まだ広がっていく余地はある。

NGOのオックスファムは価格低下の問題について、自由貿易を掲げる先進国の農業補助金は二重基準であると批判し、一次産品機構を支持した[6]。補助金は農業か工業かを問わず、貿易パターンを混乱させる、という。

先進国の側は自由貿易の痛みを緩和しようと、一計を案じた。ヨーロッパと北米での地域主義がそれである。EC(欧州共同体)では、共通市場が1992年に成立した。共通市場はモノの移動だけを自由にする関税同盟よりも進んで、カネとヒトも自由に移動でき、それらのガバナンスと政策も共通化する。ユーロペシミズムと称された悲観論がささやかれた1980年代に、域外との競争に勝ち抜く切り札として、共通市場を成立させる単一欧州議定書(SEA)が合意された。この延長線上に1993年のEU発足があった。

示し合わせたかのように、カナダ、アメリカ合衆国、そしてメキシコの3か国は1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)を発足させた。すでにカナダと合衆国の間で存在していた自由貿易協定に、メキシコが加わったものであった。合衆国には、メキシコの安い労働力は自国の労働者にとって脅威であるとの認識があった。NAFTAの発足により、メキシコの製造業は繁栄したものの、アメリカ合衆国ではIT(情報技術)や金融といったニューエコノミーへの産業転換が進み、脅威にならなかった。

他方、開発途上国は冷戦後も飢餓・病気・債務・紛争に悩まされた。病気について言えば、本気になって国際社会が取り組み始めたのは21世紀になってからである。世界エイズ・結核・マラリア対策基金は、各国政府・NGO・国際機構のパートナーシップによって2002年に設けられた。翌年、アメリカ合衆国はエイズ救済のための大統領緊急計画(PEPFAR)を開始し、抗レトロウイルス薬の投与と禁欲・貞操・コンドームでエイズを予防することを支援した[7]

途上国の債務については、IMF・世界銀行が1996年に重債務貧困国(HIPC)を指定した。基準は、1993年時点で1人当たりGNPが695ドル以下、債務額が輸出額の2.2倍以上またはGNPの80パーセント以上の国であった[8]。これで債務救済が国際社会の取り組みになったことになる。

民間でも、さまざまなNGOが債務救済を目指して手を携えた。個人と違い、国家は破産できないので、債務を減免しないと貧困はなくならない、と主張した。この運動はジュビリー2000と名乗ったが、ジュビリーとはユダヤ教のヨベルの年のことで50年に1度、借金が帳消しになる。これにならい、西暦2000年を債務帳消しの年にしようと計画した。

主要国首脳会議でたびたびこの話題は取り上げられたものの、2000年は債務帳消しの年にならなかった。アフリカを中心とする18か国の債務帳消しが決まったのは、2005年のG8財務相会合においてであった。この成果を過小評価してならない。債務への不安がなくなって、開発途上国への投資が加速した。

このように、冷戦後の第1期において、先進国と開発途上国との間で所得の格差が広がった。格差拡大の代表的な告発に、世界銀行副総裁などを歴任した経済学者ジョセフ・E・スティグリッツによるものがある。ワシントン・コンセンサスが彼の批判の的であった。IMF・世界銀行・アメリカ合衆国財務省と、グローバルガバナンスを金融面で担う機関の本部は皆、ワシントンDCにある。それらに共通する思考パターンがワシントン・コンセンサスである。

ワシントン・コンセンサスの三本柱は、緊縮財政、民営化、そして市場の自由化である、とスティグリッツは指摘した。緊縮財政は債務返済を最重視して、教育や健康を犠牲にしてしまう。民営化はマフィアに国有財産を安く払い下げ、政治家に見返りの賄賂が渡る。市場の自由化によって、民族資本がグローバルな外資企業によって駆逐される。三本柱がいかに画一的に適用されたかの怪しげな噂話がある。ある国の報告書を作るのに別の報告書の文章をそっくりそのまま借用したところ、ワープロが「検索・置換」に失敗し、元の国名が残ったままの文書が配布されてしまった、という。まちがっているのは三本柱の原則自体でなく順序とペースで、金融界とアメリカ合衆国企業の利益ばかり図り、途上国の実情を考慮しないのが問題である、とスティグリッツは主張する[9]

格差拡大批判のきわめ付きはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「帝国」であろう。「帝国」はアメリカ合衆国を中心とするネットワーク状の権力であり、主権を境界内で行使してきた国民国家が衰退する間隙を縫い、地球全体を包摂する。この新たな主権者は法を定め、グローバライズする市場や生産を管理し、核兵器・貨幣・コミュニケーションを独占する[10]

ネグリとハートは、「帝国」は3層のピラミッド構造を成す、と主張する。第1の層には、G7、パリクラブ、ロンドンクラブ、そしてダボス会議に結束する国家のグループ、第2の層は、多国籍企業のネットワークとそれに従属する国家、第3の層は多種多様な人々を意味するマルティテュードであり、ネグリとハートはそれが「帝国」に抵抗することに期待を寄せる[11]

ネグリとハートは、「帝国」の指導者はどのように選ばれるのか?、意思決定はどのような過程で行われるのか?、といった具体的な細部を明かさない。これは陰謀論の特徴とも一致する。

世紀末に語られた、誰が決めたとも知れないグローバルスタンダードの噂は陰謀論と紙一重であった。ウィンドウズ95や英語はそうしたスタンダードの基本である。ISO(国際標準化機構)というNGOが決めた品質保証に関する規格であるISO9000シリーズと、環境システムに関する規格であるISO14000シリーズの認証を企業や公共機関は争うように取得した。BIS規制に至っては日本経済を破滅させるための陰謀として語られ、バーゼル1という銀行の自己資本比率を8パーセント以上とする基準は企業への貸し渋りによってバブル崩壊に追い打ちをかけた[12]。グローバルスタンダードへの批判は、純粋無垢な日本社会が負け組になった責任をすべて外国になすりつけた。

冷戦後世界における最強の産業は、ソフトウェア、インターネット、そして金融を代表とするニューエコノミーの業界であった。これらは作れば作るほど生産費が低くなり、経済学でいうところの収穫逓増になる。こうした産業は、企業の規模が大きければ大きいほど、自社商品の価格を下げることができるので、一人勝ち、つまり独占になりやすい。特に、ソフトウェアはダウンロード販売にすれば在庫を持たなくてよく、販売見込みを誤って生産管理につまずくことがない。経済全体でも、景気循環は緩やかになり、従来のような景気後退もない、ともてはやされた。

第1期が終わる兆候は現れていたが、一つはアメリカ合衆国におけるITバブルの崩壊であった。1990年代後半から、インターネット関連ベンチャー企業への過剰な投資が行われ、電子株式市場ナスダックはじめ世界の株価は軒並み高騰した。2001年、IT企業の株価はついに暴落し、ネット取引を活用して急成長したエネルギー企業エンロンは粉飾決算を暴露されて破綻した。ニューエコノミーは実体経済を反映しないバブルであった。

別の兆候は反グローバリゼーション・デモとWTOの挫折である。1999年、シアトルで開かれる予定であったWTO閣僚会議は新たな交渉であるミレニアム・ラウンドを立ち上げようとした。それに先行して、反グローバリゼーションのデモが市街地で発生し、環境・労働・人道・農業・平和・先住民・女性など700以上の世界中から駆け付けた団体が気勢を上げた。当局は催涙ガスとゴム弾を使用し、逮捕者が出た。シアトルに到着した閣僚たちは帰国せざるをえなかった[13]

改めてWTOでは、2001年に新貿易交渉であるドーハ開発アジェンダが立ち上がったものの、2011年に交渉は停止された。農業への補助金の問題で、先進国と開発途上国との歩み寄りが見られなかったからである。

環境保護論者もグローバリゼーションには懐疑的で、WTOは貿易をとるのか?、環境をとるのか?、と決断を迫った。食糧の貿易が増えれば、農薬の大量使用につながる。海産物の貿易が増えれば、漁業資源が枯渇する。木材の貿易が増えれば、森林が破壊される。野生生物の貿易が増えれば、絶滅の危険が生じる。交通手段が発達すれば、外来生物と感染症が侵入する。金融にも注文が付いた。IMFと世界銀行がコンディショナリティを付けると、緊縮財政のために自然保護の予算まで切り詰められてしまう。収益を上げようと、資源開発の規制を緩和すると、森林が伐採され、絶滅危惧種が密漁されてしまう[14]。これらの主張は論理的であったものの、経済と環境の二者択一を迫り、妥協を難しくした。

冷戦後の第2期は、対テロ戦争とイラク戦争という泥沼のなかでアメリカ合衆国が身動きのとれない状況で進行した。バラク・オバマが次期大統領に選ばれるまでに、アメリカ合衆国は消耗しつくした。

9・11事件が起きる以前から、グローバリゼーションとその推進者であるアメリカ合衆国への敵意は聞こえていた。1999年のユーゴスラビア空爆によって、ロシアと中国は合衆国との和解は無理であると悟り、伝統的な多極化の政策に戻った。ウサマ・ビンラディンが有名になるまえから、イスラム文明と西洋文明との衝突は話題になっていた。

21世紀には、自由貿易協定(FTA)がWTOの代わりに経済の開放性を担った。それは地域的または二国間のものであり、EUとNAFTAに触発されて広がった。

それまで多角主義を主張してきた日本もFTAの波に乗ることにした。ただし、単なる関税の引き下げや撤廃を取り決めた純粋なFTAではなく、経済連携協定(EPA)と称する「投資、人の移動、知的財産の保護や競争政策におけるルール作り」であった[15]。人の移動については、最初にインドネシアおよびフィリピンと看護師・介護福祉士の受け入れを合意した。FTAを称さない理由は上のものだけではなかったろう。選挙の票田である稲作農家を敵に回したくない政治家たちにとって、自由貿易を名乗らないほうが好都合であったからである。

第2期には、低下していた商品価格は一転して急上昇した。小麦・大豆・とうもろこしといった農産物はもちろん、原油やレアメタルといった鉱物でもそうであった[16]。一次産品のインフレーションは開発途上国の交易条件を改善したが、原因はつぎに述べるBRICSの台頭と、対テロ戦争やイラク戦争に伴う軍事費の上昇であった。

BRICSという言葉は、証券会社ゴールドマンサックスによる調査報告「BRICsについての大胆な予測:2050年への道程」で初めて使われた。その時は、ブラジル・ロシア・インド・中国の英語頭文字を並べたBRICに複数形の小文字sをつけてBRICsと総称していた。この報告書では、2050年までにBRICsは、カナダを除くG7の6か国の経済規模を超えると予想した。BRICs側もこうした評判を意識し始め、2009年から首脳会議を開いた。これに2011年、南アフリカが加わり、Sが大文字のBRICSが使われるようになった。

中国では、鄧小平が先富論を指導したことが功を奏し、世界の工場の様相を呈した。ほかにも、新興国または新興市場(エマージングマーケッツ)と呼ばれる国々が現れたが、先進国と途上国の中間に位置し、中南米、東アジア、そして東ヨーロッパに多く分布した。かつてそうした国々の開発は国際金融機関かODAの資金かによってまかなわれていたが、21世紀になると急速に民間資本の流入が増大した[17]。資金面でも、先進国から自立したのである。

自然資源の価格上昇は資源争奪をもたらしたが、アメリカ合衆国の高官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは1997年にそれを予言していた。旧ソ連のユーラシア内陸部には石油・ガス資源が埋蔵されており、世界から熱い視線が注がれた。その様子はチェス盤を前にして地理上の戦略を練るかのようであり、石油とガスを運ぶパイプラインがどこを通るのか?、が国際政治の重要な争点になった[18]。ウラディミル・プーチン大統領が治めるロシアは、パイプラインが通るチェチェンで起きた反乱を鎮圧し、資源国として繁栄を誇った。

第3期は、2008年の世界金融危機で始まった。当時、アメリカ合衆国の貧困層に貸し出されたサブプライムローンは、3年目から金利が跳ね上がる不利な金融商品であった。貧困層があえてそれを借りたのは、ローンで買った不動産の値上がりを見込んでいたからである。このローンの返済を組み込んで証券化したサブプライム債を、世界の投資家が買った。もし住宅価格が暴落したらどうなるか? 貧困層は返済できなくなり、世界の投資家は大損を被る。

リスクが現実になったのがサブプライム危機である。危機の拡大はベアスターンズ投資銀行の破綻で明白になった。2008年9月に、リーマンブラザーズ投資銀行が破綻し、このリーマン・ショックで世界金融危機は本格化した。翌年、ドバイ・ショックによって中小国の財政に不安が高まった。アラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国の政府系企業が債務返済の繰り延べを要請したのである。中小国の危機は拡大せず、先進国の危機と合流することはなかった。これは「切り離し」を意味するデカプリングと呼ばれた。

世界は、どう対応するかを模索した。BRICSのところで述べたように、G7の相対的な経済力は低下していた。リーマン・ショックの2か月後、第1回のG20金融サミットがワシントンDCで開かれた。参加したのはG7(プラスEU)とBRICSに加え、新興国のアルゼンチン・メキシコ・インドネシア・韓国・サウジアラビア・トルコ・オーストラリアであり、2011年までは年2回のペースで開かれた。危機への対策は金融政策、つまり、各国が政策金利を緩和して景気を刺激すること、に尽きた。中国のように、独自に大規模な公共投資を行う国もあった。

先進国から成るEUの経済は世界金融危機によって手痛い打撃を受けた。ポルトガル・イタリア・アイルランド・ギリシャ・スペインは財政不安がささやかれ、まとめてPIIGSと呼ばれた。それにつられて、ユーロの対ドル相場は長期的な低下の局面へと転じた。EUは南ヨーロッパ諸国を救済するため、資金をユーロ圏諸国、IMF、そして市場から調達した。さらに常設的な制度として、財政危機に陥った国への支援を目的に、欧州安定メカニズム(ESM)を立ち上げた。それでもギリシャは2015年にIMFからの債務を延滞した[19]

EUは下り坂の時代を迎えた。それまで加盟国が増えたことだけで、経済力と政治力が肥大化したが、新規加盟が一段落し、経済不安がささやかれると、求心力はたちまち失われた。ついに2016年、イギリスにおいてEU離脱を問う国民投票が行われ、離脱賛成が多数を制した。紆余曲折を経て、2020年にイギリスはEUを抜けた。これがブレグジットである。

国際関係の変調はヨーロッパだけでなかった。TPP(環太平洋経済連携協定)はそもそも2006年にシンガポール・ニュージーランド・チリ・ブルネイの4か国が締結した経済自由化の合意であった。これにアメリカ合衆国が加わる意思があると分かると、拡大の機運が高まり、2016年にオーストラリア・カナダ・日本・マレーシア・メキシコ・ペルー・アメリカ合衆国・ベトナムが加わって12か国が新協定に署名した。

ドナルド・J・トランプに大統領が代わった2017年、アメリカ合衆国は不参加を表明した。ブレグジットの場合もそうであったが、国内に孤立主義者と国際主義者の両方がいて、政策の綱引きをしている。同国を除く11か国は2018年、CPTPP協定(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)に署名し、2023年にそれらすべてで発効した。

唯一、安定した成長を続けたのが中国であった。国際関係においては、鄧小平の韜光養晦の教訓に従い、胡錦濤国家主席の時代まで隠忍自重した。東アジアにおいては他国の上に立とうとするのでなく、ASEANを核とする会議やフォーラムへの参加を重視した。2005年に初めて開かれた東アジアサミット(東アジア首脳会議)にも、アメリカ合衆国とロシアに先んじて、参加した。

ところが、2008年の北京オリンピックと2010年の上海万国博覧会を成功させたあたりから、様子が変わり始めた。習近平が次期の指導者としての地位を確実にし、2013年、正式に共産党総書記に就任すると、毛沢東にならって独裁者としてふるまい、アメリカと対決した。

経済について見ると、2014年のBRICS開発銀行と2016年のAIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立は、世界銀行やアジア開発銀行のような既存の国際金融機関への挑戦であった。2017年に北京で一帯一路会議が開かれ、中央アジアとインド洋一帯に巨額な資金が投じられた。中国が世界を指導する「中国の夢」にアメリカ合衆国は警戒し、トランプ政権は2018年、米中貿易戦争に踏み切った。

トランプ第1期政権の誕生をもってグローバリズムは終わったと表現するべきである。この政権は具体的な成果を残すことができなかったが、民主党のジョセフ・R・バイデン大統領も保護主義から脱却できなかった。


[1] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年。

[2] E・J・ホブズボーム、『資本の時代 1848-1875』、I、みすず書房、1981年、73-74ページ。

[3] 大前研一、『ボーダレス・ワールド』、田口統吾訳、プレジデント社、1990年、12ページ。

[4] 野林健、大芝亮、納家政嗣、長尾悟、『国際政治経済学・入門』、有斐閣、1996年、118-119ページ。

[5] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』、渡辺龍也訳、新評論、2006年、204、205ページ。マイケル・バラット・ブラウン、『フェア・トレードー公正なる貿易を求めて』、青山薫、市橋秀夫訳、新評論、1998年、128ページ。

[6] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』。

[7] ジェフリー・サックス、『貧困の終焉』、鈴木主税、野中邦子、早川書房、2006年。ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年。

[8] 橋本光平、『国際情勢早わかり2002年版』、PHP研究所、2002年、93ページ。

[9] ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、鈴木主税訳、徳間書店、2002年。

[10] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳、以文社、2003年。原著は2000年出版。

[11] ネグリ、ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』。

[12] 東谷暁、『グローバル・スタンダードの罠』、日刊工業新聞社、1998年。

[13] Janet Thomas, The Battle in Seattle: The Story Behind and Beyond the WTO Demonstrations (Golden: Fulcrum Publishing, 2000), pp. 7-8.

[14] レスター・R・ブラウン、『地球白書2000-01』、浜中裕徳監訳、ダイヤモンド社、317、332ページ。

[15] “我が国の経済連携協定(EPA/FTA)等の取組,” Ministry of Foreign Affairs of Japan, January 8, 2026, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fta/, accessed on February 23, 2026.

[16] 山下知志、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、講談社、2008年、52、72、83ページ。

[17] 山下、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、90ページ。

[18] Z・ブレジンスキー、『ブレジンスキーの世界はこう動く』、山岡洋一訳、日本経済新聞社、1998年、173ページ。

[19] 『日本経済新聞』、夕刊、2012年6月11日。『日本経済新聞』、朝刊、2015年7月12日。

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エスニック紛争
人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。 イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊…
国連事務局
https://youtu.be/PsFF_ir1NpI 私たちは国連事務総長を無力であると言いすぎでないか? 目標をバリバリと達成するのがカッコイイ指導者であると思っていないか? そうした劇画的な指導者は独裁者と紙一重ではないか? そもそも、執行責任者とは、与えられた権限のなかで物事がうまく進むよう工夫する者でないか? アメリカ合衆国大統領も、日本の内閣総理大臣も、中国共産党の総書記も、同じでないか? 国連の場合、憲章が事務総長に与…
軍縮・軍備管理
軍縮は英語のディスアーマメントが訳されたものである。普通はアームズリダクションのこととされ、そちらはより明確に軍備を削減することである。現実に軍縮と称されるものは必ずしも量的に兵器・兵員の縮小を伴うものばかりでない。軍縮の例として引かれる1922年のワシントン海軍軍備制限条約は保有する軍艦の上限を定めただけであった。 広く軍備の規制をいうために、軍備管理(アームズコントロール)という表現がある。内容は多…
期末試験チャレンジ 研究各論(国際政治経済)2024年度前期
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期末試験チャレンジ 研究各論(グローバル・ガバナンス)2022年度前期
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テロリズム

テロリズムは二つの意味で論争的な暴力である。一方で、それは勝ち負けでなく、論争の存在を公にさらすことが目的である。暴力による破壊には、当然視されていること、あるいは既定のことを疑わせる効果がある。他方で、暴力を振るうことは正当とも、不当とも、人によって評価が分かれる。意図または目的といった主観的な要素はテロリズムの定義からぬぐいされず、それらが正しいと思う人にはテロリズムは正当である。民族解放のための闘争は正当である、という主張は近代の歴史において圧倒的に支持されてきた。

今回のテーマは、「テロと戦う」ことは是か非か、また、是とすればその手段はどうあるべきか、について論じなさい、である。

2023年における世界のテロリズムの事件数は7,382、死者数は21,596、とアメリカ合衆国政府は述べる[1]。世界の人口が約80億人であることを考えると、テロリズムで死ぬ確率は高くないと合理的に言える。ある合衆国の研究者によると、同国内でテロリズムによって死ぬ確率ははしごから落ちて死ぬ確率の8分の1、交通事故で死ぬ確率の15分の1にすぎない。テロリズムという言葉の使われ方は、社会と政治が作り出したものであり、定義自体が合衆国の国家主義的目的に従っている、とこの研究者は説く[2]。我々はテロリズムを恐れすぎなのか?

西側世界がテロリズムをことさら重視するのには理由がある。戦争や内戦といった紛争は脆弱国家で起き、犠牲者と平和活動もそうした地域に集中しているイメージがある。これはまちがいではないが、テロリズムに関しては、西ヨーロッパと北米の先進国でも死者が出ている[3]。2005年のロンドン地下鉄爆破、2013年のボストンマラソンでの爆発、2015年のパリにおける1月のシャルリエブド襲撃と11月のスタジアム・劇場襲撃は多くの犠牲者を出し、記憶に残る。病死より殺人を好んで伝えるのはお茶の間のニュースやワイドショーである。

ただし、国別死者数で見ると、テロリズムで大量の死者が出ているのはやはり開発途上国である。2023年では多い順に、シリア、パキスタン、イスラエル、コンゴ民主共和国、ナイジェリア、インド、ヨルダン川西岸、イエメン、マリ、そしてブルキナファソが上位に並ぶ[4]。国によっては、反乱軍やゲリラと呼びえる大きな組織がテロリズムに手を染め、自然と多くの死者が出る。

テロリズムの定義については、合衆国法典のものに本書は従う。すなわち、「サブナショナルな集団あるいは秘密諜報員によって非戦闘員の標的にむけて犯された、謀略的で政治的動機をもつ暴力」(22 USC 2656f(d))である。

「サブナショナルな集団」とは非国家の主体のことであり、国家と国際機構が行う暴力はテロリズムに含まれない。秘密諜報員は国家と雇用関係にあるスパイであるが、その破壊行為にかぎり、合衆国法典はテロリズムに含める。犯人の素性を特定しがたいからであろう。

「非戦闘員の標的」という限定は、戦時国際法が適用される戦争とテロリズムを区別するためである。平時における占領地の軍隊は戦時国際法上の戦闘員ではない。

実は合衆国法典の定義が一般的になる21世紀の初めまで、この定義には続きがあった。「暴力」を説明する「ふつうは聴衆に影響を与えるように意図されている」という節がついていた[5]。テロリズムは他の軍事力がそうであるような支配地の拡大が目的でなく、心理的効果、特に相手側の権威と戦意の失墜が目的であると示唆されていた。

心理的効果に関連して、クリスティン・C・ケッチャムとハービー・J・マクジョージの「力の増幅装置」という考え方がある。力の増幅装置にはテクノロジー、トランスナショナルな支持、そしてメディアの三つがある[6]。生物・化学兵器や放射能兵器で攻撃すれば、恐怖心を増すことができるし、犯行を支持する世論が外国で高まれば正当化されたと宣伝される。脅えさせるにせよ、味方につけるにせよ、テロリズムは大衆を意識した戦術である。

合衆国法典の定義はオーソドックスなものであるが、テロリズムにはさまざまな定義が与えられてきた。「安価な交戦手段」という定義は、テロリストの背後には国家の諜報部門があって、敵国の権威や戦意を下げるための攻撃をテロリストに依頼している、という仮定に基づく。預金口座に数百万円の報酬を振り込むだけでよいのなら、戦闘機や戦車を買うよりはるかに安上がりに敵の力を削ぐことができる。また、「政府による弾圧」という定義には近代史と同じ長さがあり、1789年のフランス革命以後しばらく、恐怖政治を行う革命派の政権が「テロリスト」と呼ばれた。今日でも、イスラエル軍によるパレスチナ人への弾圧こそ「国家テロリズム」である、という表現はこの用法に忠実である。逆に、政府に反抗して蜂起したサブナショナルな革命家がテロリストと呼ばれるのは1848年の二月革命以降であった[7]

テロリストは相手を罵倒するための言葉であるので、他人をテロリスト呼ばわりするのは品位に欠け、場合によっては名誉毀損にもなりうる。テロリストと呼ばれるのはかなり過激な思想を持つ者だけである。左翼と右翼という分け方でいうと、両極端である。

百年まえ、左翼の過激な思想を持つ人といえばアナーキスト(無政府主義者)であった。バーバラ・W・タックマンは第一次世界大戦に先だつ世相を次のように記す。

国家なき社会、政府も法律も財産の私有もなく、腐敗した諸制度が一掃され、人間は自由となり、神の意図した通りの善き者たりうるような社会、そういう社会のヴィジョンはまことに魅力的だった。そのせいで六人の国家元首が、一九一四年に先立つ二十年間に、暗殺される目にあった。一八九四年にはフランスのカルノー大統領、一八九七年にはスペインのカノバス首相、一八九八年にはオーストリアのエリーザベト皇妃、一九〇〇年にはイタリアのウムベルト国王、一九〇一年には合衆国のマッキンリー大統領、そして一九一二年は再びスペインの首相カナレハス[8]

第二次世界大戦後には、西側先進国の若者たちが左翼テロリズムに身を投じた。バーダー・マインホフ・グルッペことドイツ赤軍、イタリアの赤い旅団、そして日本赤軍が著名である。

1972年、日本赤軍はイスラエルのロッド空港で虐殺を行ったが、パレスチナ・ゲリラと協力してのものであった。パレスチナ解放戦線(PLO)の諸派のうちハイジャックに積極的であったPFLP(パレスチナ人民解放戦線)はレバノンを根城とし、各国のテロリストを招き入れて訓練を施した。ライラ・ハリドという女性活動家はハイジャックを犯して拘束されたものの、他のハイジャック事件の乗客とのいわゆる人質交換で釈放された。彼女はパレスチナ・ゲリラのアイコンとして革命闘争に関心がある世界の若者を誘惑し、さながら女性版チェ・ゲバラであった。日本の全共闘世代への影響は1971年にパレスチナに渡り、日本赤軍を結成した重信房子と並ぶものがあった[9]

右翼の過激派としては、白人至上主義やカルト教団が知られる。イスラム原理主義などの宗教原理主義をそれらと同類と捉えれば、右翼に分類できるかもしれない。1995年、アメリカ合衆国のオクラホマシティ連邦ビルが爆破され、168人が死亡した。自動車に積んだ爆発物を使う手法は中東の諸事件を思い起こさせたが、犯人は白人至上主義者のティモシー・マクベイであった。

2011年にはノルウェーにおいて、白人至上主義者のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクが銃を乱射して多くの若者を殺した。右翼という語感は国家主義と強く結びつくにもかかわらず、マクベイとブレイビクは国家体制の転覆を企て、別のタイプの国家体制を打ち立てようとした。

民族解放運動にもテロリズムを行う集団がある。1914年、セルビアの青年がサラエボでオーストリアハンガリー帝国の帝位継承者を暗殺した。1916年の復活祭蜂起で立ち上がった人々は、アイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれた。1948年、ユダヤ人テロ組織がアラブの村で虐殺をした。今日、セルビア・アイルランド・イスラエルの民族の英雄たちをテロリストと呼ぶことにためらいを感じるかもしれないが、行為はまぎれもなくテロリズムであった。

もっとも、北アイルランドは独立に加われずイギリス領にとどまったため、IRAは闘争を続けた。1972年のイギリス陸軍による襲撃は一般住民を巻き添えにした。世界史上、いくつか存在する「血の日曜日事件」の一つがこれである。IRAが停戦に応じたのは冷戦後の1994年であった。

現在、私たちはパレスチナ人、タミル人、クルド人、チェチェン人、あるいはウイグル人の将来の建国者たちをテロリストと呼んでいるかもしれない。

PLOは1964年に結成されて以来、パレスチナ人を代表する。ヤセル・アラファトが議長になったのは1969年である。彼はPLOの一派であるファタハも率いた。西岸地区を追われ、ヨルダンに逃げたPLOは1970年の黒い9月事件によってレバノンに拠点を移した。これを恨んでファタハは実行部隊にブラックセプテンバーと名づけ、1972年のミュンヘンオリンピック事件などを引き起こした。

中東各地を転々としたのち、PLOが西岸地区に還ったのは1993年のパレスチナ暫定自治協定以後である。本部はラマッラに置かれる。アラファトは翌年、ノーベル平和賞さえ授けられた。パレスチナは多くの国から国家承認は受けているものの、まだ領土を実効支配していない。それどころか、パレスチナ人勢力は分裂し、1987年に生まれた最大の反主流派であるハマスがガザ地区を支配する。人々の支持は闘争的なハマスへと移ったが、2023年にイスラエルを攻撃し、逆にイスラエルに襲撃されて、ガザは徹底的に破壊された。

このように、テロリズムは単なる犯罪か?、それとも政治か?、割り切れないところがある。まちがいなく、テロリズムの行為だけとれば、それらは刑法が定める犯罪である。人を殺傷したり、誘拐したり、あるいは、物を壊したりすれば、未遂であれ、何らかの犯罪には当たるからである。公権力は犯罪には法秩序を守るために対応する。犯罪には刑罰で報いるのが一般的な方法である。もし、容疑者またはその共犯者が外国にいるとすれば、その国に身柄の引き渡しを要求するであろう。しかし、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)大統領は「司法という手段ではテロリズムを封じ込められないことが、9・11に明らかになった」と考えた[10]

テロリズムは政治でないか?、と考えてみよう。公権力は国家または政府の正統性に対する挑戦として対決しなければならない。単なる犯罪への処罰よりも、厳しい弾圧が加えられることがあるが、支持者からは逆に同情を受けることもある。政治犯が外国に逃亡した場合には、亡命を認め、庇護する国が現れるかもしれない。

もう一つの可能性として、テロリズムを戦争と捉えて対応する場合がある。その国は自衛権を発動する。攻撃した者またはその同盟者をかくまう外国も含めて攻撃の対象になる。相手が完全に無力化されるまで掃討は続けられる。

対テロ戦争は2001年に起きたテロ事件への対応であった。9月11日、旅客機がハイジャックされ、それらがニューヨーク・ワールドトレードセンターの2棟のタワーとアメリカ合衆国国防総省のペンタゴン庁舎に突入した。ハイジャックされてペンシルベニア州に墜落した旅客機に乗っていた人々を含め、約3千人の命が奪われた。この数字は他の大規模テロ事件のものより一ケタ多い。

翌日、ブッシュ大統領は「わが国にたいし、昨日、実行された計画的で殺害を狙った攻撃は、テロ行為以上のものだった。それらは戦争行為だった。」と演説した[11]。連邦議会は9月14日に、「二〇〇一年九月一一日に発生したテロ攻撃を計画、承認、実行、もしくは支援したと大統領が判断した国家、組織、人間、およびそうした組織もしくは人間をかくまうものにたいして、それらの国家、組織、人間のアメリカへのさらなる国家テロリズム行為を防ぐために、大統領がすべての必要で適切な武力を行使することを承認する」と決議した[12]。大統領の演説は国民を団結させるためのレトリックにとどまらず、法的にも戦争状態に入らせることになった。

国連の安全保障理事会はアメリカ合衆国政府の対テロ戦争への決意に配慮した。早くも9月12日に、前文で「個別的または集団的自衛の固有の権利を認め」る安保理決議S/RES/1368を決め、合衆国の武力行使に理解を示した。

では、米軍は誰と戦争したのであろうか? 9・11事件の首謀者はウサマ・ビンラディンとされる。 サウジアラビアの富豪の子として彼は生まれた。ソ連によるアフガニスタン侵攻に対抗して、現地でムジャヒディン(イスラム戦士)に資金や物資を提供した。彼のテロ組織アルカイダの創設は1988年とされる。一時、スーダンに住んだあと、タリバンが政権を握ったアフガニスタンに舞い戻った。アメリカ合衆国を敵とみなすようになった彼は1998年、ケニアとタンザニアにおける合衆国大使館を爆破した。9・11事件が起きた時、彼が最も怪しい人物であった。対テロ戦争は2011年にパキスタンで米軍が彼を殺害するまで10年近く続いた。

ビンラディンは個人にすぎない。戦争は国家と国家の間で行うものである。その一方で、ビンラディンをかくまうアフガニスタン政府には国際的な責任があった。アメリカ合衆国は9月20日、タリバンに次の要求をした。アルカイダ全指導者を引き渡すこと。不当に投獄した全外国国民を釈放すること。外国のジャーナリスト、外交官、そして援助関係者を保護すること。あらゆるテロリスト訓練キャンプを閉鎖すること。あらゆるテロリストとその支援者を引き渡すこと。テロリスト訓練キャンプに合衆国を立ち入らせること。そして、脅しの言葉を加えることを忘れなかった。「テロリズムに拠点を与えたり、支援したりし続けるあらゆる国は合衆国によって敵対的な体制とみなされるであろう」と[13]。ビンラディンは引き渡されなかった。

こうして始まった対テロ戦争には多くの国が支援を申し出た。その月のうちに、アメリカ合衆国が加盟するOAS(米州機構)はリオデジャネイロ条約が定める集団的自衛権を発動した。国連の安全保障理事会は決議S/RES/1373を通し、テロ行為の脅威と戦う必要を認めた。翌10月には、 NATO(北大西洋条約機構)が北大西洋憲章第5条の共同防衛を発動した。

「文明の衝突」という言葉は、東西対立が解消した冷戦後に、世界政治の新しい構図を示すものとしてもてはやされた。テロとの戦いをイスラムとの戦いとする見方は短絡的であると批判されたものの、テロ組織の多くがイスラムを掲げたことは事実であった。

これは20年後の今日でも変わらない。2023年に最多の死者を出したテロ組織を挙げると次のとおりである。ハマス、コンゴ民主共和国のイスラミックステイト、アルシャバーブ、イスラム・ムスリム支援団(JNIM) 、西アフリカのイスラミックステイト、イスラミックステイト本体(IS)、ボコハラム、フーシ過激派、シャーム解放機構、そして大サハラのイスラミックステイトが上位10組織である[14]。これらのすべてがイスラム原理主義を基盤とする。

イスラム世界は、東はパキスタンと中国西部、北はカザフスタン・コーカサス・バルカン半島、南はモザンビークとコンゴ川流域、西は大西洋までの広大な地域に及ぶ[15]。脆弱国家やPKO派遣地域と重なる土地は多い。しかし、敵とみなしてはならない。我々がテロリズムと呼ぶもののほとんどは地域社会の慣習や制度をめぐる争いである。いわゆる過激なイスラム原理主義者がそれに付け込んで、共感する者たちを世界的なネットワークにまとめ上げている。

「テロリスト」とは誰か? 「暴力の原因」の回で紹介した分析レベルの考え方を借りて整理する。まず、個人にテロリズムの原因があるとすれば、暴力崇拝者、宗教信者、そして孤立した人々といった人格がそれに当たる。1996年、ユナボマーと呼ばれた連続爆弾犯が逮捕された。彼は大学で教えたことがあるほど知能が高かった。むしろそれゆえに、産業社会を批判し、単独で犯行を繰り返した。人間の志向が多様化した現代では、暴力崇拝者、宗教信者、そして孤独な人々が一人も現れないようにすることは不可能である。

つぎに、国家・社会の特徴にテロリズムの原因があるとすれば、挙げられるのは、エスニック集団、貧困層、そして極左・極右活動家である。これらのうち、これまで論じてこなかったのは貧困層である。マルクス主義の信奉者など極左活動家は貧困の解消を主張してきた。しかし、貧困家庭に生まれた子供が成長してテロリストになるか?、というと話は別である。アラン・B・クルーガーという経済学者がそのことを調査した。1人あたりGDPおよび非識字率との回帰分析から、貧困および低い教育水準は各国の1人あたりテロ事件数を押し上げていない、という結論に達した。テロリストには貧困家庭出身者は少なく、むしろ高学歴者が多い[16]

最後に、国際システムにテロリズムの原因があるとすれば、反米活動家と国家支援テロリストが挙げられる。19世紀にアメリカ合衆国を毛嫌いする外国人はあまりいなかったであろうから、反米は超大国としての合衆国の役割、またはイスラエルへの支援に原因があると考えられる。国際社会で大きな役割を果たすようになると、軍隊を派遣された現地の人々からの反発が強くなる。また、合衆国に敵意を抱く国の指導者は、それこそ安価な交戦手段としてテロリストに便宜を図り、矛先を合衆国に向けるよう誘導する。

反米活動への対策として、アメリカ合衆国の国務省は1979年以来、テロ支援国家を指定している。2004年10月にイラクが、2006年5月にリビアが、2020年12月にスーダンが外され、キューバ(2021年に再指定)、北朝鮮(2017年に再指定)、イラン、そしてシリアの4か国が指定されている[17]。これらはアメリカ合衆国が一方的に決めつけたものである。他国から見れば、合衆国のほうこそ反体制派を励まし、時には武器さえ送って紛争を助長する、と映るであろう。

参考までに、アメリカ合衆国政府が2021年のデータに基づいて数えた実行犯の類型による事件数の割合を紹介する。テロリズムの事件数の55.3パーセントはジハーディストによるもの、37.5 パーセントはエスニックなナショナリストによるもの、7.6パーセントは左翼によるもの、そして13.9パーセントはイランが背後にいるものであった[18]

テロリズムの主体が多様であるのと同じく、使われる武器も多様である。アメリカ合衆国政府の資料によると、実行犯が使った上位の武器は、火器、爆発物、即製爆発装置(IED)、不明、発火物、乱闘、そして無人機の順である[19]。現実の危害はさほど印象的でない従来型の武器によって加えられる、というのは発見である。

しかし、上で触れたように、テクノロジーは力の増幅装置である。安全保障の専門家たちはハイテク化したテロリズムの危険を語ってきた。WMDは大量破壊兵器のことであるが、具体的には核・生物・化学の頭文字を採ってNBCと呼ばれる。核兵器には原子爆弾、水素爆弾、そして中性子爆弾がある。幸いにも、これらがテロリズムで使われたことはない。ただし、グレアム・アリソンは次のように言う。

一九九八年にウサマ・ビン・ラディンは「イスラムの核爆弾」と題する声明を出し、そのなかで「神の敵を恐れさせるためにできるかぎりの力を持って備えるのがイスラム教徒としての義務である」と宣言しています[20]

生物兵器と化学兵器は現実に事件で使われている。生物兵器については、9・11事件後に封筒に入った炭疽菌が郵送され、死者が出た事件が知られる。炭疽菌のほか、ツラレミア、コレラ、脳炎、ペスト、ボツリヌス菌、天然痘、ベネズエラ・ウマ脳炎、エボラ菌、マルブルク病、ラッサ熱、ボツリヌス毒素、ブドウ球菌、B型腸毒素、リシン、マイコトキシンなどが兵器として使われうる。化学兵器については1995年、オウム真理教が東京の地下鉄でサリンを発生させ、多くの死傷者を出した地下鉄サリン事件がある。ほかに、ソマン、タブン、VXガス、マスタードガス、ルイサイト、青酸ガス、塩化シアン、塩素、ホスゲン、クロロピクリン、MACE、催涙ガス、カラシ・コショウ・スプレー、ジベンゾオキザゼピンといった化学兵器がある[21]

上で言及した核兵器とは高いエネルギーの爆発を起こすものにかぎられる。そうでなくても、放射性物質は人体に毒である。その英語頭文字であるRと爆発物の頭文字EをNBCに加えて、CBRNEという言葉を使うことがある。B-NICEはCBRNEのRの代わりに放火のIを加えたものである。

2006年、元ソ連KGB職員アレクサンドル・リトビネンコがポロニウム210の中毒によって死亡した。翌年、イギリス政府は別の元KGB職員を容疑者として起訴し、ロシア政府に引き渡しを要求した[22]

また、汚い爆弾(ダーティボム)は使われたことはないが、放射性物質をまき散らす装置である。「靴箱にダイナマイト一本と放射性物質を入れただけのもの」もありえるとアリソンは言う[23]。これは大人数を殺すことはできないかもしれないが、放射能という得体のしれない物質によって恐怖感を与える。

さらに、原子力発電所を攻撃し、制御不能にして爆発させることが懸念されている。2011年に福島第一原発で津波がしたことと同じことを人の手ですれば爆発が起きる。

サイバーテロリズムはインターネットを通じた攻撃である。ホームページをダウンさせる程度のものであれば、テロリズムと呼ぶのは誇張であるが、コンピューターを操って、軍の装備や発電所などの機械を誤作動させることが可能である。

最後に、カウンターテロリズム、つまりテロ対策、について論じる。これもまた論争的である。安全をとるか、自由をとるか、は二者択一というわけにはいかない。安全は自由の前提ではあるが、人間は安全だけでは満足できない。結論は、安全も自由も両方、ということになる。

安全対策をしようとなれば、まずは法の網を整えよう、となる。グローバル社会では、他国の協力がなければ法の網は破れたままになる。国際的な取り組みと国内的な取り組みの両方を強化する必要がある。

国際的な取り組みでは、主な国々の間で合意を作ることが課題である。これが非常に難しい。9・11事件はそれができた類まれな例である。

大国が合意できた有名な例がもう一つある。ロッカビー事件、すなわち、1988年にパンナム機が爆破された事件、である。スコットランド上空で旅客機が爆破され、落ちた機体による地上の犠牲者を含めて270人が死んだ。国民に被害者が出たフランス、イギリス、そしてアメリカ合衆国はリビア人が犯人であるとして、彼らの引渡しをリビア政府に要求した。1992年、国連安保理は、まず、要求に応えるようリビアに求め(S/RES/731)、それが行われないと、リビアへの制裁を決議した(S/RES/748)。後者の決議の前文で、リビア政府がテロリズムを放棄しないのは「国際の平和及び安全に対する脅威を構成する」と認定された。最終的にイギリスに容疑者が引き渡され、スコットランドによる裁判が行われた。冷戦終結後、「新世界秩序」への期待が高まった特殊な時期の出来事であるにせよ、テロリストが平和的に裁かれた意義は重い。

国際的な合意を促すために、テロリズムを違法化する一連の条約が作られている。内容は、航空機の不法奪取防止(1970年)、国家代表等への犯罪の防止・処罰(1973年)、人質の禁止(1979年)、爆弾テロの防止(1997年)、テロ資金供与の防止(1999年)、そして国際組織犯罪の防止(2000年)と多岐にわたる。

国内的な取り組みとしては、カウンターテロリズムの実施がある。9・11事件を受けて、アメリカ合衆国は政府部局を改組した。2001年に国土安全保障局を設け、2年後には国土安全保障省に改めた。任務は、施設・電子情報の防護、感染症、入国管理・帰化、緊急事態、沿岸警備、輸送網、そしてシークレット・サービスに関する実務である。これまで他の官庁、すなわちFBI、国防総省、商務省、国立標準技術院、エネルギー省、調達庁、農業省、財務省、司法省、運輸省、連邦緊急事態管理局、入国不服審査会、とバラバラな所属であった部署が移管された[24]

9・11事件を受け、アメリカ合衆国では2001年、愛国者法が制定された。これは政府当局の捜査権を向上させたが、通信の自由を制限するものとして批判された。

出入国管理は国際テロリズムの実行犯を取り締まる基本的な取り組みである。出入国の審査を強化するため、PISCESというシステムをアメリカ合衆国は他国の空港などに置いて、テロリストを摘発する。個人情報を他国と共有して、旅行者のなかからテロリストを発見することが目的である。

日本の場合、2006年にIC旅券を導入し、パスポートに埋め込まれたチップに個人情報が記録されるようになった。翌年からは、外国人の入国審査において指紋と顔写真を撮っている。日本からアメリカ合衆国にビザなしで入国しようとする際に旅行者に義務づけられるESTAという電子渡航認証システムでの申請をはじめ、テロリズムの防止のためにさまざまな協力が行われている。

法令ばかりでなく、軍事もカウンターテロリズムの手段である。対テロ戦争は最大規模のものであったが、米軍はコロンビアやフィリピンをはじめとして世界各地に派遣された。外国軍によるテロリストの掃討は火に油を注ぐことになりかねない。国内に投入される場合でも、北アイルランドへのイギリス陸軍特殊部隊の出動は強い反発を受けた。

資金凍結という手段もある。テロリストはスポンサーからの報酬や費用を期待する。それが銀行口座に入金されないと、本人ばかりか自分が死んだ場合は遺族も生活に困るかもしれない。

開発援助が大事であるとも言われる。貧困そのものがテロリズムに向かわせるというより、貧困の原因を他人のせいにする言説が広まり、テロリズムを正義であると人々が信じることが危険である。開発援助は、自国が相手社会に敵対的でも無関心でもないことを示す証になる。国内で、個人や企業が寄付や喜捨をするのと同じ理由である。


[1] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 5, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[2] Benjamin Friedman, “Homeland Security,” Foreign Policy (July/August 2005), p. 22.

[3] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 28, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[4] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 29, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[5] U.S. Department of State, “Patterns of Global Terrorism, 2001, ” May 2002, http://www.state.gov/s/ct/rls/pgtrpt/2001/html/10220.htm, accessed on June 29, 2002.

[6] Jonathan R. White, Terrorism: An Introduction, 2nd ed. (Belmont: Wadsworth, 1998), p. 17.

[7] See White, Terrorism: An Introduction, p. 9.

[8] バーバラ・W・タックマン、『世紀末のヨーロッパ―誇り高き塔・第一次世界大戦前夜』、大島かおり訳、筑摩書房、1990年、73ページ。

[9] Koji Wakamatsu and Masao Adachi, Sekigun-P.F.L.P: Sekai Senso Sengen = Red Army / PFLP: Declaration of World War, 2009.

[10] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、235ページ。

[11] George W. Bush, “Remarks by the President In Photo Opportunity with the National Security Team,” Whitehouse, September 12, 2001, http://www.whitehouse.gov/news/releases/2001/09/20010912-4.html, accessed on November 18, 2001.

[12] ブッシュ、『決断のとき』、上、236ページ。

[13] The President, “President’s Address to a Joint Session of Congress and the American People,” Department of State, http://www.state.gov/s/ct/index.cfm?docid=4981, accessed on November 18, 2001.

[14] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 12, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[15] 板垣雄三編、『「対テロ」戦争とイスラム世界』、岩波書店、2002年、xxページ。

[16] アラン・B・クルーガー、『テロの経済学』、藪下史郎訳、東洋経済新報社、2008年、46ページ。

[17] Bureau of Counterterrorism, “State Sponsors of Terrorism,” United States Department of State, https://www.state.gov/statesponsorsofterrorism/, accessed on February 22, 2026.

[18] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 13, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[19] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 56, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[20] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、265ページ。

[21] 米国司法省、米国危機管理庁、『米国 対テロ現場対応心得』、ぎょうせい、2002年、23-24、29-34ページ。

[22] Alan Cowell and Steven Lee Myers, “Britain Charges Russian in Poisoning Case,” New York Times, May 22, 2007, https://www.nytimes.com/2007/05/22/world/europe/22cnd-Litvin.html, accessed on February 22, 2026.

[23] アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、269ページ。

[24] “Analysis for the Homeland Security Act of 2002,” Whitehouse, http://www.whitehouse.gov/deptofhomeland/analysis/hsl-bill-analysis.pdf, accessed on December 3, 2002.

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領土保全
https://youtu.be/f6AEKT52dDg 領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸…
人身売買
https://youtu.be/hvD0L3wud-g どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともあ…
国連総会
https://youtu.be/5S62o3m3tMA 「人類の議会」という言葉で国際連合を理解するのは、アメリカ合衆国の歴史家ポール・ケネディである。この言葉には逸話がある。ハリー・S・トルーマン大統領は国連創設の任を前任者から託された。その思いを伝えるために、詩の一節を引用した。イギリスの詩人アルフレッド・テニソンが1837年に作った「ロクスリーホール」という幻想的な詩であった。空飛ぶ船が戦い、血が流れたが、人類の議会に世…
難民と人道援助
紛争が起きれば、戦闘員だけでなく非戦闘員の被害も大きい。誤射や誤爆の巻き添えになるばかりでなく、破壊や避難によって、衣食住に支障が出る。着の身着のまま逃げ出せば、着る物も雨風をしのぐ所もない。店が閉まり、食品も届かない。健康が損なわれるのは時間の問題である。こうした事態は地震や水害のような天災でも同じであるので、非紛争地域の人たちにも他人事でない。今回のテーマは、難民・国内避難民など紛争下の文民…
ゲーム理論
ゲーム理論におけるプレイヤーはエゴイスト、つまり、自分の利益をできるだけ大きくしようとする者、である。エゴイストが複数いて、それぞれ、どの選択肢をとるか、を考える。エゴイストは利益になれば協力し、ならなければ協力しない。今回のテーマは、国際政治における協力は得か損か、場合分けしたうえで、ゲーム理論の用語を使って議論しなさい、である。 ゲーム理論の先駆者といえば天才の評判があるジョン・フォン・ノイマ…

武器移転と傭兵

人を殺したり、傷つけたりすることは特別なことであるはずである。よほどのこと、例えば疑いえない正義、のようなものがなければ、正当化の余地さえない。であれば、殺人や傷害のために使われた武器や兵士には罪があるのでなかろうか? 金儲けのために武器や兵士を売るならなおさらである。今回のテーマは、武器移転と傭兵(民間軍事会社を含む)をめぐる諸問題について論じなさい、である。

この70年あまり、現実に人を殺してきた武器は核兵器ではなく、小火器中心の小型武器であった。小火器といっても火を消すほうでなく、小型の銃器のことである。小型武器には、拳銃に始まり、ライフル、そして重機関銃までが含まれる[1]。自動小銃のロングセラー、ミハイル・カラシニコフが設計したAK-47、も小型武器である。自動小銃の特長は、誰でも使いこなせることにある。標的を倒すには一発の弾丸を命中させる腕前は必要ない。弾丸を連射しながら銃を振れば、弾幕が張られ、子供でも標的を倒すことができる。

小型武器と並んで規制が試みられるのが軽兵器である。軽兵器には携帯式地対空ミサイル(MANPAD)、対戦車誘導兵器、アンダーバレル擲弾発射器、自動擲弾発射器、非誘導対戦車ロケットランチャー、そして迫撃砲が含まれる[2]。MANPADはアフガニスタンにおいてソビエト連邦軍のヘリコプターを撃墜し、撤退に追いやった。ムジャヒディンにそれを供与したのはアメリカ合衆国のCIAである。映画『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』は供与に尽力した下院議員を描いた。皮肉にも、9・11事件後、合衆国の側がMANPADの恐怖におののくことになる[3]

小型武器と軽兵器は工場で製造される武器である。厄介であるのは、一般人でも自作できる武器があることである。特にIED、つまり即製爆発装置、は自作の爆弾であり、街なかでのテロリズムに使われる。国際連合の決議などで紛争地への武器の流入を止めても、現地で作られてしまう。イラク戦争では反乱側がIEDを使い、米軍を悩ませた。

最近の紛争で必ず話題になるのがドローンと呼ばれる無人機である。その存在は1990年代、アメリカ合衆国が攻撃用ドローンMQ-1プレデターを使い始め、知れ渡った。その後、偵察用のRQ-4グローバルホークと攻撃用のMQ-9リーパーという大型ドローンが米軍によって配備された。他方、イスラエルは自律的に目標を発見して自爆し、それを破壊するハーピーという新しい概念の兵器を開発した。現在は多くの国が、高性能か低性能かを問わず、多種多様なドローンを進化させている。ウクライナ戦争では、イラン製のドローンをロシアが大量に使用した。

小型武器と軽兵器の問題点は、貧しい土地の紛争当事者でも安く買え、禁輸の網をかいくぐり入手しやすいことである。日本の外国為替及び外国貿易法(外為法)をはじめ、各国には武器の輸出にたいする規制がある。ところが、合法的な送り先への正規の輸出と見せかけ、紛争地の違法な行き先へと武器が横流しされている。製造者は合法的な取引であると信じていても、ブローカーが証明書類に記載された目的地とは異なる行き先に密輸してしまう[4]

武器を密輸するために、輸送に使う飛行機や船を違法にチャーターしなければならないかもしれない。違法行為は黙認されることもあるし、場合によっては、目こぼしされるかもしれない。諜報機関が密輸に関わることもあろう。この手の武器供与は、国益・正義・自由といったきれいな言葉で正当化される。『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』におけるムジャヒディンへの援助がそうであり、供与側の国民も支持しかねない。武器移転が絶えないのには、根深い背景がある。

闇の武器移転がなぜ問題かというと、小型武器・軽兵器そのものが人を殺すというよりも、無責任な取り扱いが多くの命を奪うからである。2017年時点で、世界には10億丁の火器があったとされるが、うち4割はアメリカ合衆国の文民の所有であり、軍の所有は13パーセントにすぎない[5]。他方、火器による死者は、その翌年である2018年のデータでは、世界全体で223,300人いて、アメリカ合衆国は12,332人、南米は75,743人、アフリカは43,276人、中米・カリブは39,389人である[6]。ラテンアメリカとアフリカは火器の所有率は高くないにもかかわらず、火器を使った犯罪と紛争が多発している。

殺傷に使われた武器は闇から闇へと世界を巡る。実際、戦争で捕獲された兵器が諜報機関によって別の紛争地に供給されたという噂は少なくない。足がつかないように、ソ連製の武器をCIAやモサドがどこかの武装集団に供与した、といった類のものである。紛争後には、使われた武器を回収するべきである。

DDRという用語は、武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、そして再統合(Reintegration)の頭文字である。Disarmamentは国家が行うと「軍縮」と訳されるが、武装集団が行う場合には武装解除のほうがしっくりいく。動員解除も古い言い方では「復員」というが、若者はこの言葉を知らないかもしれない。再統合は社会復帰のことである。元兵士が新しく仕事を見つけるために、例えば大工仕事といった職業訓練を施すようなことが含まれる。

武器貿易条約(ATT)は、無責任な武器移転を止める切り札として作られた。2013年に国連総会で採択され、翌年、発効した。小型武器・軽兵器を含む通常兵器の輸出入データ提供を締約国に求め、特定の場合におけるそれらの移転を禁止する内容である。特定の場合とは具体的に、国連安全保障理事会による措置に違反する場合、国際合意に違反する場合、そして、ジェノサイド・人道に対する罪・ジュネーブ条約違反・文民攻撃などで使われるとの情報がある場合のことである。

武器貿易条約がなかった時代にも、武器移転を管理しようとする試みはあった。輸出入データについては、国連は軍備登録制度を運営している(https://www.unroca.org/)。1991年にECと日本が主導して国連総会決議「軍備の透明性」(A/RES/46/36L)が可決され、戦車、装甲戦闘車両、大口径火砲システム、戦闘用航空機、攻撃ヘリコプター、軍艦、そしてミサイルおよびその発射基の移転について国連への報告を促した。小型武器と軽兵器は任意で各国は報告することができた[7]。紛争地への影響について考慮を求める国連決議も存在した[8]

日本の場合、輸出管理の長い歴史があり、紛争との関連はその一環で考慮された。武器輸出三原則は1967年に佐藤栄作総理大臣によって表明された。第1は共産国向けの輸出であり、すでに冷戦下における西側の一員として対共産圏輸出統制委員会(ココム)に加わっていた日本には目新しいのものでなかった。これにたいし、第2の国連決議により武器等の輸出を禁止されている国向けの場合と、第3の国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けの場合は、国際情勢に反応した時宜を得たものであった。前年に、国連安保理はアフリカ系住民を差別する南ローデシア(現在のジンバブエ)への武器の輸送を禁止する決議S/RES/232を行っていたからである。

1976年、三木武夫総理大臣が表明した政府統一見解によって、武器輸出三原則はまったく別物になった。三原則対象地域以外についても、武器の輸出を慎む、と決め、事実上すべての移転が禁止されたからである。これにより、日本は「死の商人」という汚名にまみれることはなくなったが、防衛産業は狭い国内市場で採算をとらなければならなくなり、割高で実戦使用のない兵器を国民は買わなければならなくなった。日米安全保障条約という強いきずなを持つアメリカ合衆国への技術移転や国際平和協力への貢献といった特例的な武器移転が場当たり的に認められていった。

安倍晋三内閣のもと、2014年に閣議決定された防衛装備移転三原則は、佐藤内閣、三木内閣、そしてその後の諸例外を整理し直したものと理解できる。禁止される移転先は、時代遅れの対共産圏向けから国際約束違反の場合へと改められたが、第2の安保理決議違反と第3の紛争当事国向けの原則は同じである。かつては例外とされた国際平和協力と国家安全保障の目的の移転は、晴れて認められたが、厳格な審査に付される。新たな原則として、移転先の政府に日本の事前同意がなければ目的外使用と第三国移転を許さないことが加えられた。

防衛装備移転三原則は、国際共同開発や安保協力をつうじた武器の輸出を可能にし、衰えた日本経済を救ってくれると期待された。2015年には、装備品についての国際協力を図るため、防衛装備庁が設立されている。

ところが、安保協力をつうじた武器輸出の大型案件になると期待されたオーストラリアへの潜水艦売却の商談は他国にさらわれてしまった。オーストラリアはその後も有力な取引先とみられているが、日本とはクアッドという日米豪印の首脳外交でパートナーを組むだけで、同盟国というわけでない。オーストラリアと似た立場のイギリスおよびイタリアと日本が共同開発する戦闘機を第三国に輸出できるかも議論された。

2022年には、ロシアに攻撃されたウクライナを支援するため、日本は防衛装備品である防弾チョッキを戦地に送った。そこは禁止されている紛争当事国でないか、と批判されても防弾チョッキならば、殺傷性はない、と反論できた。

防衛装備移転三原則が作られ10年が経つ。移転の基準はなし崩し的に曖昧になっていないか? 日本政府の「原則」は、国会の承認もなく、閣議決定だけで変えられる。この国の政治風土として、形式的、技術的に可否を判断しようとする法学部的発想があり、もっともらしい「原則」が一応、作られる。しかし、紛争にどう向き合うか?、というのは倫理学の問題であり、安保協力をどれだけ重視すべきか?、は国際関係論の問題である。武器を輸出して衰退から脱しよう、という経済的観点の妥当性からして問われるべきである。閣議決定だけで事を済ませようとするのでなく、立法府・司法府を含めた三権分立の原則に基づきチェックを加えるべきである。

世界の武器輸出は安保理常任理事国をはじめとした大国が売上高の多くを占める。大国は経済的・軍事的観点から、武器輸出を止めるつもりは毛頭ない。国力が強く、安保理の拒否権まで持つ大国に取引をやめさせることはきわめて難しい。紛争地での代理戦争、国家間の軍事的緊張、あるいは軍事費の増大による人々の貧困の一因はまさに武器貿易であるにもかかわらずである。

軍産複合体という言葉がある。1961年、アメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は退任時の演説で、民主主義が軍需産業に脅かされていると警鐘を鳴らした。

巨大な軍部と巨大な軍需産業とのこの結合はアメリカ人にとって新しい経験である。その全面的な影響力――経済的、政治的、さらには精神的なものも――があらゆる都市に、州政府に、連邦政府機関に認められる。―中略―われわれはその重大な意味の確認を怠ってはならない。―後略―

政府内の諸会議において、この軍産複合体が不当な影響力を、みずから求めたと否とにかかわらず、手に入れることがないよう、われわれは警戒していなければならない[9]

もちろん、これはスピーチライターが書いたものであるが、アイゼンハワー大統領自身、軍需産業の影響を認めたからこそ自らの口で原稿を読んだ。この部分に続いて、政治が科学技術エリートの虜になる危険を語ったが、聴いた者は核兵器やミサイルの開発を思い出したであろう。

傭兵とは、義務によるのでなく金銭によって雇われる兵士または軍隊である。志願兵も金銭によって雇われるといえるが、傭兵は比較的に短期の雇用であるか、外国に雇われるかする点で一般の志願兵と区別される。

歴史、特に西洋史、にはたびたび傭兵が登場する。古代ギリシャでは、哲学者クセノポンが率いる傭兵隊がペルシャから逃げた。中世の末期には、領邦君主の臣下であった家士が独立し、傭兵騎士として活躍するようになった。近代の入口では、スイス傭兵やドイツのランツクネヒトといった槍兵の雇用が普及した。そのころ、最も有名な傭兵隊長であったアルブレヒト・フォン・バレンシュタインは、ビジネスとしての戦争に成功し、金融、調達、そして徴税にわたる財務システムを構築した。アメリカ独立革命が起こると、鎮圧のためにヘッセン傭兵をイギリスは派遣した。インドの植民地支配のためには、セポイやグルカといったアジア人の傭兵が使われた。現代では、フランスの外人部隊が知られる。

近代に先立つ傭兵のイメージは好ましいものでない。金銭欲が強い一方で、茶番というか、なれ合いというか、本気で戦わないという評価が定着している。ロジェ・カイヨワの文章を引用する。

一般に、戦いは多くの死者をともなうものではなかった。―中略―傭兵たちの戦いかたには戦意がなく、一度敵と遭遇すればたちまち部署を放棄した。彼らの行なう戦いは、しばしばみせかけだけのものだった。合計二万の軍勢が四時間にわたって戦いながら、わずか一人の戦死者しか出なかったという例を、マキャヴェリは引いている。しかもそれは、落馬したためだったという[10]

なぜ、こうした語られ方がされるかというと、フランス革命に始まる徴兵制の優秀さを強調するためである。カイヨワは次のように述べる。

法のまえでの平等は、兵役義務の平等でもあった。徴兵制という考え方も、国土防衛の必要にせまられて生じたものでなく、共和国を強化するという意志から生まれてきたのであった。そのころ、軍隊は民主主義の学校とされていた。将校は、兵士によって選ばれた。新兵たちの熱意は、軍人としての熱意よりも、祖国を愛する市民としての熱意であった。暴君を打ち、自由を護り、国のために尽くすことこそ問題であった[11]

確かに、徴兵制が1793年に導入されてから、フランス軍は驚くほど強くなった。ナポレオンがなぜヨーロッパを制覇できたか?、を説明するには市民の心に灯った愛国心はもってこいの原因である。忘れられがちであるが、傭兵の時代と徴兵制の時代の間には貴族の職業軍人から成る常備軍の時代があった。彼らの質がそれほど劣っていたとは思えない。むしろ徴兵制の特長は質ではなく量である。革命後の長い戦争で職業軍人が死に絶えても、国民皆兵であれば兵士を補充できたからである。

このように理解すると、ナポレオン戦争や2度の世界大戦のような消耗戦でなければ、傭兵にも活躍の場があることになる。現代の民間軍事会社(PMCまたはPMF)は実際、ワンポイントで依頼に応える少数精鋭の集団である。南アフリカ軍の元将兵が集ったエグゼクティブアウトカムズ社(EO)はアンゴラ政府やシエラレオネ政府の求めで戦った。ミリタリープロフェッショナルリソーシズインコーポレーティッド社(MPRI)はボスニアヘルツェゴビナのクロアチア系住民を訓練した。ブラウン&ルートサービシズ社(BRS)は米軍の大手請負であるハリバートン社の子会社で、コソボ難民を守る後方支援をした[12]。ワグネルはロシア政府のお抱えで、2022年のウクライナ侵攻における主力の一つであった。

民間軍事会社はカネさえ払えば、厄介なことはすべて引き受けてくれ、便利である、と考えられている。兵士を募集し、武装させ、訓練をするのには手間がかかる。交戦法規を守らせなければならないし、年金も払わなければならない。

特に、国連は国家と違い、自ら兵士を募ることができないので、部隊を派遣する困難はいっそう大きい。ルワンダ虐殺の際、国連はそれを止める措置を何も打てなかった。事務総長になるまえのコフィ・アナンは平和維持活動担当の事務次長であったが、ルワンダで傭兵を使うアイデアを持っていた。そのことを緒方貞子は明かす。

この間に、アナン事務次長は、英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員が一九八一年に設立したディフェンス・システム社(DSL)に、民間委託するという選択肢も可能であると教えてくれた。

―前略―DSL社が見積もった費用は、向こう二年間で約二億五〇〇〇万ドルであった。私はこれほど巨額の資金をドナー国から調達するなど、到底できないとわかっていた。それに政治的・人道的性格を合わせもつこの作戦が失敗した場合、民間会社はどういう形で責任を負えるのか、私には見当がつかなかった[13]

殺すにせよ、殺されるにせよ、紛争地での作戦には命がかかっている。依頼する側に、緒方が言う通り、相応の責任が降りかかる。

研究者のピーター・W・シンガーは、民間軍事会社の六つの性格を指摘した。第1に、紛争地の外から来た外国人である。第2に、国家から独立し、契約のみに縛られる。第3に、動機は経済的なものである。第4に、兵士の募集は遠回りな方法で行われる。第5に、組織は一時的である。第6に、任務は戦争のみである[14]。要するに、経済的な、金銭的な動機だけに忠実であり、現地の人々や国際法はもちろん、場合によっては国家その他の雇用主さえ裏切るかもしれない。

いわゆる愛国心が民間軍事会社にはない、ということだけでも、さまざまな懸念を呼び起こす。紛争を長期化させるのではないか? であれば、平和が脅かされる。国家を乗っ取って搾取するのではないか? であれば、主権が脅かされる。現地社会を混乱させるのではないか? であれば、安定が脅かされる。人道法や戦争法を破るのではないか? であれば、法の支配が脅かされる。政府に戦争を行わせるロビイングをするのではないか? であれば、民主主義が脅かされる。

民間軍事会社が起こした無責任な行為は実在する。一つは赤道ギニアクーデター未遂事件である。2004年、イギリスの特殊部隊SASの元将校で、エグゼクティブアウトカムズに勤めたことがあるサイモン・マンらが赤道ギニアのクーデターを共謀した。一味はジンバブエ防衛産業から武器を買って決行に備えた。ところが、ロゴロジスティクス社の傭兵70人がジンバブエで逮捕され、企ては失敗した。これに加担したマーク・サッチャー(マーガレット・サッチャー元イギリス首相の息子)にも有罪判決が下された[15]

次の事件はイラクで起きたブラックウォーター事件である。ブラックウォーター社は米軍から請け負った民間軍事会社である。2007年、正当防衛というわけでもなく、市民17人をバグダッド市内で殺害した。ブラックウォーターはアメリカ合衆国国務省と蜜月の関係にあるため、犯罪がもみ消される傾向があったとされる[16]。『朝日新聞』は次のように解説する。

イラク戦争後、米軍人に刑事・民事上の免責特権を与えた「暫定占領当局(CPA)指令17号」は今も有効とされる。米政府の契約業者の民間人にもそれは適用されると解釈され、イラクの法律に対しては治外法権を振りかざせる。軍人の行き過ぎた武力行使や私的な暴力は、イラクで免責されても、米国の軍法会議にかけられる。だが、ブラックウォーター社のように国務省の契約業者を規制する法はない[17]

正規の米軍ならこのような非人道行為をしなかったのでないか、と言われる。正規兵に対しては軍事裁判の制度がある。ブラックウォーター社は社員も、組織も、法令順守の意識がおろそかであったのであろうが、そのような会社に委託した、国家としてのアメリカ合衆国にも責任がある。企業と国家の側の責任意識が一般的に希薄であったとしたならば、事件は氷山の一角であった可能性がある。当時、イラクでどのくらいの民間軍事会社が活動していたのか、スティーブ・ファイナルは次のように見積もる。

イラクの傭兵の数は、はっきりわかっていない。国際平和活動協会やイラク民間警備会社協会(PSCAI)のような連合組織や同業者組織ができても、変わりはなかった。こういった組織の幹部やロビイストたちは、結局は金のために戦争をやる傭兵だろうと指摘されると、青筋を立てて怒る。推定数は二万五〇〇〇人ないし七万五〇〇〇人もしくはそれ以上というように、たいへん幅がある。国防総省は二万五〇〇〇人と推定している。金で雇われ武装してイラク各地で活動している人間が、一個師団分いることになる。会計検査院の推定はその倍近い四万八〇〇〇人である[18]

イラクで民間軍事会社の社員は遊び半分に罪のない人々に発砲していた、という報告がある[19]。身内や知人が殺された市民は占領軍に敵意を抱く。この敵意が自爆テロを含む激しい抵抗の一因であったことは否定できない。憎しみの連鎖は拡大し、多国籍軍やその傘下の兵士だけでなく、その他の外国人や一般市民も殺したであろう。

最後の事件は、ロシアで2023年にクーデターを企てたワグネルの乱である。ワグネルとはウラディミル・プーチン大統領の側近であったエフゲニー・プリゴジンが創設した民間軍事会社である。ウクライナ戦争にはロシア軍の一翼として参加した。アフリカでも広範な活動をしていることで知られる。2023年6月、ウクライナで苦戦する理由を国軍指導部に帰し、モスクワに進軍しようとした。民間軍事会社に頼りすぎれば、ロシアさえ脆弱国家に成り下がりかねない。 武器にせよ、兵士にせよ、無責任な移転は多くの人命を奪うことになる。


[1] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” The Small Arms Survey, June 2008, pp. 8-9.

[2] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” pp. 8-9.

[3] Mike Nichols, Aaron Sorkin, Tom Hanks, Julia Roberts, Philip Seymour Hoffman, and George Crile, Charlie Wilson’s war, 2018.

[4] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” pp. 115-122.

[5] Small Arms Survey, “Small Arms Survey reveals: More than one billion firearms in the world,” The Small Arms Survey, June 18, 2018.

[6] Small Arms Survey, “The Small Arms Survey’s Global Violent Deaths (GVD) Database, 2018,” The Small Arms Survey, August 2020.

[7] “About,” The United Nations Register of Conventional Arms, https://www.unroca.org/about, accessed on February 22, 2026.

[8] For example, A/RES/43/75I.

[9] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、218ページ。

[10] ロジェ・カイヨワ、『戦争論』、秋枝茂夫訳、法政大学出版局、1974年、26-27ページ。

[11] カイヨワ、『戦争論』、120ページ。

[12] P・W・シンガー、『戦争請負会社』、山崎淳訳、NHK出版、2004年。

[13] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、241ページ。

[14] シンガー、『戦争請負会社』、101ページ。

[15] “Equatorial Guinea Questions Thatcher over Coup,” The Guardian, February 18, 2005, http://www.guardian.co.uk/equatorialguinea/story/0,15013,1417428,00.html, accessed on February 22, 2026.

[16] スティーヴ・ファイナル、『戦場の掟』、講談社、2009年。

[17] 『朝日新聞』、2007年10月12日、朝刊、6ページ。

[18] ファイナル、『戦場の掟』、56ページ。

[19] ファイナル、『戦場の掟』、67-68ページ。

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会議外交
https://youtu.be/QMvumq8NaYA 永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。 今回のテーマは、19世…
国連事務局
https://youtu.be/PsFF_ir1NpI 私たちは国連事務総長を無力であると言いすぎでないか? 目標をバリバリと達成するのがカッコイイ指導者であると思っていないか? そうした劇画的な指導者は独裁者と紙一重ではないか? そもそも、執行責任者とは、与えられた権限のなかで物事がうまく進むよう工夫する者でないか? アメリカ合衆国大統領も、日本の内閣総理大臣も、中国共産党の総書記も、同じでないか? 国連の場合、憲章が事務総長に与…
覇権の衰退
https://youtu.be/6YeeFFKYP-o 紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経…
人身売買
https://youtu.be/hvD0L3wud-g どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともあ…
ブレトンウッズ諸制度
https://youtu.be/ulheun5RbKc 経済秩序に関する戦後構想は、フランクリン・D・ローズベルトが演説した四つの自由のうち、欠乏からの自由が始まりである。欠乏というのは、何かが足りないことである。足りないのがモノであるとすれば、生産、交換、売買、あるいは贈与によって補うことで、欠乏から自由になる。 四つの自由演説から7か月後の1941年8月、ローズベルトとイギリスのウィンストン・チャーチル首相は大西洋憲章に合意し…

平和活動

主権国家によるガバナンスが失敗しているのであれば、別の類型のガバナンスによって置き換えるべきでないか? エスニック集団間で激しい紛争が起きたならば、その国の中央政府に公平な仲介者としての役割を期待するのは難しい。外国、例えばアメリカ合衆国、にそうした役割を求めることもあるが、紛争当事者が望まない場合がある。そこで、国際連合の出番になる。今回のテーマは、国際連合その他の国際的枠組みによる平和活動の起源と変遷について説明しなさい、である。ただし、朝鮮戦争や湾岸戦争などいわゆる「国家間戦争」における国連の活動は除く。

国際連合の平和維持活動はPKOの略称で知られる。自然環境の厳しい条件下で、制服を着た要員が緊張した面持ちで服務しているイメージがある。どこに派遣されてきたかを見ると、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、中米・カリブ、そしてバルカン半島といった政治が不安定である地域が多かったことが分かる。別の回で論じたように、それらの国々は「弱い国家」または脆弱国家である。また、冷戦後に急増したことにも気づかされるが、国連安全保障理事会の常任理事国であるソビエト連邦/ロシアが拒否権を使わなかった時期と重なる。

現在、PKOと呼ばれるものは、初めて派遣された時からPKOと呼ばれたわけでない。1948年から展開しているUNTSO(国際休戦監視機構)は最初のPKOであった、と目されるものの、ピース・キーピング・オペレーションという国連の活動類型としては認知されていなかった。「平和維持」という用語が流布したのは1960年代初頭といわれる。PKOの派遣は紛争の発生を未然に防ぐ「予防外交」の一つであるが、この言葉がダグ・ハマーショルド国連事務総長によって使われたのは1960年のことである[1]。そのころようやく、PKOを含む予防外交の価値が認められるようになり、この用語が流布した。

PKOの価値を世界に知らしめた出来事はUNEF(国連緊急軍)の派遣である。スエズで戦うエジプトとイスラエルの両軍の間に分け入り、それらを引き離すために送られたものであった。これに先立って朝鮮戦争に派遣された国連軍は戦闘するための強制措置であり、戦闘させないためのPKOとは根本的に目的が異なる。安全保障理事会が朝鮮国連軍の派遣を決めると、欠席してきたソ連が不利を悟り、米軍に国連が味方することを拒否権によって妨げる動きを見せた。国際平和の責任を安保理が果たすことはできなくなり、総会が代わって責任を担うことを表明したのが1950年に採択された総会決議「平和のための結集」(A/RES/377)であった。

こうしてUNEFの派遣に際し、国連総会の緊急特別会期が舞台となった。アイデアを出したのはカナダの外務大臣レスター・B・ピアソンであった。彼の名はトロントのピアソン国際空港に留められる。1956年11月1日の議事は深夜0時を回って、未明まで続いた。最後にピアソンはエジプトとイスラエルに停戦を守らせるための案について演説した。明石康は翌年、日本人初の国連職員となった人であるが、数時間後の様子を臨場感たっぷりに描く。いつ眠ったのであろう? ピアソンとハマーショルドは。

ピアソンは、一一月二日の昼食をハマショルドとともにしたが、国連軍を具体的に結成する上での複雑な問題に思いをはせていたハマショルド総長の眼は、国連ビルから見下ろされるイースト川の白々と輝く川面を、とかく追いがちであった。しかし、昼食が終るころには、国連軍をつくる上での主な問題は、二人の間で大体検討しつくされていた[2]

この三日後に、総会はUNEFの結成を決議した(A/RES/1000)。1957年のノーベル平和賞はピアソンに与えられた。

PKOは国連憲章に規定がない「6章半」の活動とされる。第6章と第7章のどちらでもない、それらの中間に当たる、という解釈からである。第6章は非強制的に紛争の平和的解決を図ることを勧める。平和的解決といっても、第三者による仲介や司法的解決が念頭にあり、これらはPKOとは違う。PKOは必ず軍事要員を含むからである。軍事要員を伴う国連の活動といえば、憲章の第7章において定められる安保理の決定に基づく軍事的な強制措置である。UNEFは安保理により結成されたわけでも、強制措置であったわけでもない。6章半という表現は、憲章上にぴったりの根拠規定がないPKOに何とか根拠を見つけようと苦慮した末の造語であろう。

PKOの原則というものがある。停戦合意とは、当事者間に争いをやめる意思がなければ、PKOを派遣しないということである。中立・不介入とは、いずれの当事者にも肩入れしないということである。非強制とは、軍事的な手段を使って当事者を屈服させないことである。自衛の場合のみの武器使用とは、武器を使ってこちらから攻撃しないことである。国際的性格とは、一国だけで行うのでなく、必ず複数の国で実施することである[3]。これら厳格な原則は帝国主義の記憶が残っていた当時、PKOへの警戒感を緩めることに役立ったであろう。

UNEFは停戦監視および兵力引き離しというPKOに託された古典的な役割の例であった。それが評価されて、1988年、PKOにノーベル平和賞が授与された。翌年に冷戦が終結するとPKOの役割は劇的に変化した。選挙監視、文民警察、人道援助支援、難民・避難民保護、武装解除、そして地雷除去が主な活動に格上げされた。古典的な役割が国家間戦争の予防であったのにたいし、これらは冷戦後に注目されるようになった内戦終結と国家建設の課題に応えるものであった。

そのころ、日本は経済大国の自意識が芽生え、国際貢献が必要であるとの意見が叫ばれた。日本初のPKOは1989年におけるナミビアへの選挙監視(UNTAG)であったとされる[4]。ナミビアは南アフリカの支配から独立することになっていた。初の派遣は1992年のUNTAC(国連カンボジア暫定機構)であったとする説もある。ナミビアに派遣された要員が31人であったのにたいし、こちらは1,300人あまりを数えた[5]

PKOへの派遣は大きな政治問題となったが、それは自衛隊の違憲論が根強く存在したからである。いわゆる国際平和協力法は1992年6月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」として成立した。その名の通り、同法は初めはPKOを念頭に置いたものであった。あとで触れるように、この法律は幾度も改正されることになる。

国際平和協力法に、日本のPKO五原則が定められる。当事者間の停戦合意、PKOの実施と日本の参加に対する受け入れ側の同意、PKOの中立性、以上の三つが満たされない場合の中断・撤収、そして必要最小限の武器使用である[6]。最後の必要最小限の武器使用は緩められたものの、五原則はともかくも維持されている。

UNTACへの参加は、カネだけでなく汗も流す、という対外政策の大転換として行われたはずであった。実際、UNTACは内戦が続いたカンボジアを民主国家として再建する壮大な使命を負い、日本人の要員は幅広い活動に従事した。すなわち、紛争当事者間の停戦・武装解除の監視、選挙の準備・実施、行政の管理、難民帰還の支援、そして復旧の支援がそれに当たる[7]

しかし、日本国民の記憶に残ったのは命をカンボジアで落とした二人の青年に関する報道であったろう。文民警察に参加した国連ボランティア1名と警察官1名が殉職した。平和のための犠牲が尊かったことはまちがいないが、汗のみならず血を流す心の準備が国民の多くになかった。

国連の側はPKOを冷戦後の時代に適応するべく、野心的な計画を立てた。ブトロス・ブトロスガリ事務総長による報告書はアジェンダ・フォー・ピース、すなわち平和への課題、という題であり、安保理理事国の首脳たちによって採択された[8]

アジェンダ・フォー・ピースは、ナショナリズムの新たな主張がエスニシティ、宗教、社会、文化、そして言語をめぐる紛争を巻き起こしている、という認識に立つ。平和のために国連がとるべき行動は、予防外交・平和創造・平和維持・平和構築である。分かりやすく言い直すと、紛争のまえにとられるものが予防外交、紛争を止めるために行われるのが平和創造、紛争を止めたままにするのが平和維持、そして、紛争後に再発しないようにするのが平和構築である。

論争を呼んだのは、停戦の回復・維持のため、憲章第7章第43条が定める国連軍による武力行使を提案したことである。これは平和強制部隊と呼ばれたが、PKOの非強制原則とたもとを分かつものであった。

ほかでは、PKOを紛争のまだ起きていない土地に送り込む予防展開が提案された。この新しい手法は1995年に北マケドニアで実現した(UNPREDEP)。あとで述べるように、平和構築は広く長く続く国連の活動分野となった。

平和強制のテストケースとして注目されたのはソマリア紛争である。ソマリアはクラン、すなわち氏族、が社会の基本単位であるとされ、国家は脆弱であった。冷戦崩壊に伴う社会主義の権威失墜とともにムハンマド・シアド・バレ大統領の政権は倒れ、内戦になった。国際社会は当初、慎重に対処した。1992年に派遣されたPKOのUNOSOM(国連ソマリア活動)は、それほど難しくない停戦監視と人道援助物資輸送を任務とした。ならんで結成された多国籍軍のUNITAF(統一任務部隊)に加わった米軍も慎重であった。

ソマリアに平和が訪れる可能性が万にひとつでもあるとすれば、そのためには族長に武装を解除するよう呼びかける必要がある、国連はそう考えていた(ブトラス・ガリ[ママ―引用者]はそう表明していた)が、アメリカはこの要請をそっけなく拒絶した。―中略―アメリカ軍がソマリアに入った一週間後、部下がソマリア人から機関銃を没収しているのをみた将校は、即座にそれを返すように命じたくらいだ[9]

人道援助だけでは暴力そのものを止めることはできない。1993年、安保理決議S/RES/814が派遣を決めたUNOSOM II(第2次国連ソマリア活動)はアジェンダ・フォー・ピースの平和強制を実現したものであった。前文で憲章第7章を根拠に挙げ、本文で、武器禁輸ならびに難民および避難民の帰還・再定住のためには兵力を利用できる、と明記した。武器が手に入らなくなれば、暴力は収まるはずであった。

国際社会はソマリア人の抵抗を見くびっていた。1993年6月、パキスタン兵25人が殺害された。その後、米軍艦がソマリアに向かう映像が報じられた。10月になって、事件の犯人を捕らえるために米軍の特殊部隊であるレンジャー部隊およびデルタフォースが出動した。そのヘリコプター2機が墜落したショッキングな様子は映画『ブラックホーク・ダウン』で再現された[10]。兵士を救出するために起きた市街戦で米兵18人が死亡した。死体はさらしものにされ、侮辱を受けた。

ソマリアでは、大多数の人々はソマリ語を話し、イスラム・スンナ派を信じる。なぜエスニック紛争が起きるのか? 国家への帰属意識よりも、共通の祖先を持つとされる氏族への帰属意識のほうが強いからである。氏族といっても、実際には、日本の源氏や平家のように血脈のつながりはフィクションであろう。しかし、人々が国連決議や米軍の目的よりも氏族の立場から物事を考え、行動したことは本当である。高野秀行によれば、パキスタン兵殺害犯と同じ氏族の人間が米軍のスタッフに紛れ込んでいた。そうしたスタッフは情報を漏らして米軍の作戦を失敗に導いたであろう。米軍は肝心な犯人を取り逃がしたばかりでなく、氏族の長老を多数、殺してしまい、怒りに油を注いだとされる[11]。ソマリア人は自分たちの社会の規範に従って生きる。国連の権威と軍事力で人々を屈服できると発想したことがまちがいであった。

アメリカ合衆国の市民たちは、国連の平和強制はもうたくさん、と感じた。ブラックホークの墜落は国連への期待を失わせた。PKOの発展形として平和強制部隊がある、という道筋は閉ざされた。ブトロスガリ事務総長は続投できずに、1期だけで退任した。

国連の平和活動は別の道に活路を開いた。日本研究者のラインハルト・ドリフテは次のように分析する。

『平和への課題』はPKOの境界線を拡張し、一九九〇年代前半には各地に頻繁に展開されたが、ソマリア、アンゴラ、旧ユーゴスラビアにおける挫折によって加盟国は目を覚まし、また国連の財政難と政治的対立によってその後の任務は減少した。代りに平和構築(peace-building)、経済援助、停戦監視任務などに重点が移った。

この新しいアプローチは人道援助や紛争後の経済復興のような巨額の資金を要する事業活動が含まれるため、日本の経済力が役立ち、その意味で歓迎された。日本は一九九二年一二月の総会決議を経て「平和維持活動準備基金」を創設した[12]

コフィ・アナン事務総長に提出された2000年のブラヒミ報告は、もはや平和強制を唱えなかった(A/55/305-S/2000/809)。重点は平和構築に置かれ、なかでもDDR、すなわち武装解除・動員解除・社会復帰プログラム、に注目した。また、PKOをはじめとするミッションの早期展開が必要であると強調され、要員の提供をあらかじめ加盟国と取り決めておく国連待機制度(UNSAS)が提言された。日本政府もアフガニスタンの復興支援に際して「平和の定着」という言葉を使ってDDRほか平和構築への貢献を表明した[13]

平和構築というものは際限がない。なぜならば、平和に寄与するとされるものは何でも含まれるからである。例を挙げると、文化交流、開発援助、経済改革、共同プロジェクト、保健支援、農業プログラム、人道支援、難民および国内避難民の帰還・再定住、政治改革、選挙監視、市民社会支援、公務員訓練、人権擁護、憲法制定、戦争犯罪裁判、司法・法制改革、警察改革、先住民支援、メディア支援、教育支援、そして平和教育がある[14]

単なるビジネスであっても、異なるエスニシティに属する二人の人間が同じ職場で働けば平和構築になる。緒方貞子はボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRの事業を紹介する。

こうした状況下で、UNHCRは民族間の壁を克服するために、新たな措置を講じなければならなかった。組織体間を行き来するバスの運行、少数派を受け入れる自治体に優先的に追加援助を与える「開放宣言都市」プロジェクト、女性の職業訓練の促進をめざした「女性イニシアティヴ」、民族の和解をはかる「共生の想像」などを、次々と立ち上げた。とくに重要なことは、おびただしい残虐行為を体験した地域社会を再建するために、救済的なモデルを模索することであった。これは「復讐と赦し」、すなわち過度の追憶と過度の忘却の中間点を探ることであった。雇用の分かち合いからレクリエーションの共同参加まで、試験プロジェクト「共生の想像」は、和解に向けた最も独創的で建設的な準備段階を示すものであった[15]

平和強制への道は閉ざされたものの、PKOが衰退したわけでない。21世紀の初めには要員の数は増加した[16]。経費も膨らんだ。むしろ、平和活動の顕著な変化は、派遣する主体の間で役割分担が進んだことにあった。NATOやアフリカ連合(AU)のような地域的な国際機構や随時の連合の役割が増した。派遣されたミッションの数が増えたことから、そういえる[17]

平和活動における地域的枠組みの活用を旧ユーゴスラビア地域を例に見る。旧ユーゴスラビア全域を対象としたUNPROFORは1995年に再編され、クロアチアを対象とするUNCRO、ボスニアヘルツェゴビナを対象とするUNPROFOR II、そして北マケドニアを対象とするUNPREDEPに三分された。このうち、UNPROFOR IIは国連からNATOに翌年、移管され、IFOR(平和履行部隊)という名称になった。さらにそれは同年中にSFOR(平和安定化部隊)と改称され、2004年にEufor AlteaとしてEUに引き継がれた[18]。国連からNATOそしてEUへの移管はヨーロッパ諸国からの関心を反映した結果である。ロシアや中国との勢力争いもなかったので平穏に行われた。

対テロ戦争以後のアフガニスタンにおける役割分担は異なる形であった。2002年に送られたUNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)は軍隊を伴わない政治ミッションであったが、国連は大規模な平和構築事業を遂行した。緒方貞子は回想する。

安保理はISAFの配置を承認はしたが、国連自体は、カンボジア、コソヴォ、東ティモールの場合と違い、移行期間の行政責任を負わなかったことは重要である。アフガニスタン暫定行政機構は唯一の責任機関であり、ブラヒミが率いる国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が補佐にあたった。いくつかの国は特定の分野に関する主導的役割をすすんで引き受けた。アメリカとフランスはアフガン国軍を訓練し、立て直すことになった。ドイツは国家警察を訓練し、英国は麻薬産業の取り締まりを担当することになった。また、イタリアは司法改革の責任を負うことになり、日本は元兵士の動員解隊と社会復帰事業の支援を行うことになった[19]

そのかたわらで、米軍はテロとの戦い、すなわち「不朽の自由」作戦を続けた。ウサマ・ビンラディンは捕まっていなかったからである。カブール周辺の治安はNATOが指揮するISAF(国際治安支援部隊)に委ねられた[20]。それはアジェンダ・フォー・ピースが提案した平和強制の一種と呼べるかもしれない。YouTubeに上げられた動画を観ると、激しい銃撃戦によって反乱勢力を制圧したことが分かる。そうした戦闘はPKOの原則とは明らかに相いれない。国連は本当に強制措置がとれるのか? 兵士が国際法に違反したら、誰が裁判をするのか? 現在の国連と国家との一般的な関係を踏まえると、そうした仕事は国家に委ねてしまうのが短期的には無難である。

イラクでは、アメリカ合衆国が安全保障理事会の承認なく戦争を始めたことにより、国連に目立った役割は与えられなかった。多国籍軍とその暫定統治機構(CPA)がイラクを全般的に支配したからである。日本は2003年にイラク支援法(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)を定め、自衛隊を派遣した。占領行政は安保理に認知されたものの、国連自体の活動ではなかった。

ソマリア沖・アデン湾での海賊退治にも自衛隊が派遣されている。日本の海賊対処法(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律)は2009年に成立した。そこで定義された海賊行為とは、船舶強取・運航支配、船舶内の財物強取、船舶内にある者の略取、人質強要、そしてこれらのための準備行動である。ここにも国連の役割はない。

安倍晋三政権のもと、平和安全法制として2015年に国際平和協力法が改正された。もはやPKOばかりが自衛隊が参加する平和活動ではなくなった。国際連携平和安全活動への協力が新たに定められた。「国際連携」とは米軍や地域的国際機構と連携することである。治安や平和強制を主に実行するのはこれらの主体である。平和安全法制によって、自衛隊の武器使用が緩和された。それまでは自衛のためだけであったのが、現地の住民、活動関係者、そして同じ宿営地の外国軍隊を守るためにも認められることになった。 以上、見たように、冷戦後に期待された国連中心の「新国際秩序」は実現しなかった。代わりに、米軍や地域的国際機構による武力行使の後始末として、国連は治安や平和構築を引き受けることが多かった。大国はグローバルガバナンスの責任を負うつもりはなく、国益を追求するなかで応分の責任を果すにすぎない。それでも、平和は公共の利益であり、誰かが平和に関する説明責任を果たさなければならない。これこそ、他の主体にはできない国連の唯一無二の役割である。


[1] 香西茂、『国連の平和維持活動』、有斐閣、1991年。

[2] 明石康、『国際連合』、岩波書店、1985年、85ページ。

[3] 神余隆博、「国際平和協力とは何か」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年。

[4] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、 54ページ。

[5] “カンボジア和平及び復興への日本の協力,” 外務省, January 2007, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/kyoryoku.html, accessed on February 21, 2026.

[6] 神余、「国際平和協力とは何か」、193ページ。

[7] 中島久宜、「日本の参加実績」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年、223、225、229、232ページ。

[8] DPI/1247.

[9] リンダ・ポルマン、『だから、国連はなにもできない』、富永和子訳、アーティストハウス、2003年、 54ページ。

[10] Ridley Scott, Black Hawk down, 2001.

[11] 高野秀行、『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』、本の雑誌社、2013年、310-311ページ。

[12] ドリフテ、『国連安保理と日本』、111ページ。

[13] “Statement by H.E. Ms. Yoriko Kawaguchi, Minister for Foreign Affairs of Japan at the Tokyo Conference on Consolidation of Peace (DDR) in Afghanistan,” Ministry of Foreign Affairs, February 22, 2003, https://www.mofa.go.jp/region/middle_e/afghanistan/pv0302/ddr_state1.html, accessed on February 21, 2026.

[14] Michael Lund, “A Toolbox for Responding to Conflicts and Building Peace,” in Luc Reychler and Thania Paffenholz, eds., Peacebuilding: A Field Guide (Boulder: Lynne Reinner, 2001), pp. 17-18.

[15] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、394ページ。

[16] 東大作、『平和構築アフガン東ティモールの現場から』、岩波書店、2009年、35ページ。

[17] Sharon Wiharta and Kirsten Soder, “Appendix 3A. Multilateral Peace Missions in 2006,” in Stockholm International Peace Research Institute, SIPRI Yearbook 2007: Armaments, Disarmament and International Security (Oxford: Oxford University Press, 2007), p.130.

[18] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年、136ページ。緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、129ページ。

[19] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、352ページ。

[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、353ページ。

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難民と人道援助

紛争が起きれば、戦闘員だけでなく非戦闘員の被害も大きい。誤射や誤爆の巻き添えになるばかりでなく、破壊や避難によって、衣食住に支障が出る。着の身着のまま逃げ出せば、着る物も雨風をしのぐ所もない。店が閉まり、食品も届かない。健康が損なわれるのは時間の問題である。こうした事態は地震や水害のような天災でも同じであるので、非紛争地域の人たちにも他人事でない。今回のテーマは、難民・国内避難民など紛争下の文民は何を必要とし、国際社会は何を提供できるのか?、そして、提供にあたっては何に注意しなければならないのか?、を論じなさい、である。

難民といえば人類の課題である。人類の課題といえば国際連合である。UNHCRは国連難民高等弁務官という役職のことでも、国連難民高等弁務官事務所という組織のことでもある。1950年に国連総会の決議によって設置された。日本人の緒方貞子は1991年から2000年にかけ、冷戦後の混乱下、高等弁務官を務めた。彼女は2003年から2012年には日本の対外援助の中心機関である国際協力機構(JICA)の理事長にもなった。

緒方貞子は総理大臣を務めた政治家、犬養毅、の曽孫であり、聖心女子大学を卒業後、アメリカ合衆国の名門大学院に学び、上智大学教授となった。なぜそのようなことを書くかというと、日本の人道活動はお嬢様たちに支えられているところがあるからである。緒方貞子は彼女たちのあこがれであったろう。

こうした人道活動の威信の高さは日本だけのことでない。UNHCRの本部があるジュネーブは国連人権理事会と赤十字国際委員会もあり、世界における人権と人道の首都と目される。世界でとりわけ物価の高い都市でもあるジュネーブの高邁な理想が人々を引きつける。

さて、UNHCRのウェブサイトによると、2025年6月末には世界には1億1730万人の避難民がおり、うち4,250万人が難民、6,780万人が国内避難民であった。ほかは、難民地位条約とは異なる法的地位にあるパレスチナ難民、庇護希望者、そしてさまざまな地位のもとにあるベネズエラからの国外避難民である。難民の出身国の上位3か国は、シリア、ウクライナ、そしてアフガニスタンである(パレスチナ難民とベネズエラ難民は除く)[1]。ウクライナではロシアによる突然の侵攻で、国土の東半分が危険な戦場になってしまった。シリアは内戦のために人口の3分の1以上が国内外に散った。アフガニスタンは40年以上、平和から遠ざかり、周辺国に難民があふれる。ほかでは、ミャンマーから逃げたロヒンギャの人々について覚えているであろう。仏教徒の多いこの国で、ラカイン州に住むムスリムは外国人とみなされ、迫害されている。

避難民とか、難民とか、庇護希望者とかいった言葉の使い分けに困惑を感じたかもしれない。パレスチナ難民には特別な定義があり、1948年の第一次中東戦争以前にパレスチナに住みながら、同戦争によって家を失った人と、そうした人の男系子孫を指す。

一般的に難民と呼ばれるのは、1951年に採択された難民地位条約第1条A(2)の定義を満たす人々である。条約には「千九百五十一年一月一日前に生じた事件の結果として」という要件が書かれているが、現在は1966年の難民地位議定書により、これにしばられない。それゆえ、難民の定義は次のとおりである。

―前略―人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの

常居所を有していた国に留まる者は、定義に含まれないため、難民と呼ばれず国内避難民(IDP)と呼ばれる。ほかにも、いわゆる「経済難民」や「環境難民」が難民に当たらないことが分かる。上で触れたベネズエラからの避難民には実は経済難民が含まれる。庇護希望者は、難民と認定されていない人々のことであり、難民よりもさらに不安定な地位にある。

難民地位条約によって、難民が手にした最大の権利はノン・ルフールマンの原則である。ルフールマンとは「送還」のことである。恐怖を感じる領域に難民を追放したり、送還したりすることは同条約第33条によって禁じられる。

ノン・ルフールマンの原則によって、恐怖を有する者の心配がすべてなくなるわけでない。避難を始めた者は、外国にたどり着けないかもしれない。あと一歩というところまで来ても、目的国から入国を阻まれるかもしれない。入国できたとしても、難民として認定されないかもしれない。認定されたとしても、衣食住と職にありつけないかもしれない。故郷に恐怖の原因がなくなり帰ろうとしても、生計を立てられないかもしれない。

そうした不安に応えたのが緒方貞子であった。1991年の湾岸戦争後、クルド人の反乱をイラク軍が鎮圧した。着の身着のまま逃げ惑う人々は、他国にたどり着けない国内避難民の地位にあった。 困ったことに、隣国のトルコにとって、クルド人は自国内で独立を目指す者たちの同胞であり、友好的な存在でなかった。安保理決議S/RES/688は、あらゆる資源を使って難民と避難民の必要に応えるよう国連に求めた。次の回想は、彼女がそうした求めに真剣に対応した表れである。

つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は、法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという法的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか?[2]

こうした試練を経て、UNHCRの活動は国内避難民への援助にまで広がった。UNHCRはイラク、トルコ、そしてイランに拠点を構え、難民と国内避難民に保護を与えた。

冷戦後の紛争に対して、食糧援助の必死の努力がなされた。ボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRによる食糧の空中投下を、緒方貞子は次のように述べる。

何千人もの人々が空中投下された援助物資を拾おうとして山腹に急いだが、通常、援助をもっとも必要としている人々、つまり女性、子ども、到着したばかりの人々は、非常食が入った包みを手にすることができなかった。不幸なことに、何人かが投下品の直撃を受けて亡くなり、また落下場所に殺到した人同士の衝突によっても命を落とした。

それでも、空中投下は包囲下にあったボスニア東部・中部の町や集落に食糧、医薬品、その他の必需物資を配布するための最後の手段として役に立った。時が経つにつれて、配布の手順は改善され、住民が秩序正しく物資を受け取れるように、前もって予告のビラが撒かれた。食糧もすぐに食べられる非常食のパックから、女性が調理すれば家族にも行き渡るよう穀類の大きな包みが投下された[3]

WFP(世界食糧計画)による食糧支援は、公共広告機構のCMによって、一般人にもおなじみである。この機関は国連経済社会理事会(ECOSOC)とFAO(国連食糧農業機関)が主体となって1963年に設立された。主な任務は緊急事態での食糧援助である。2023年には約1億300万人を支援した[4]

アフガニスタンでの対テロ戦争において、WFPは食糧援助の主役であった。小麦の入った袋はトラック輸送や空中投下で配られた。米軍も食糧を投下したが、きめ細かく対面で食糧を配る国連機関と違い、米軍は空中投下しかしなかったので、最も必要な人々に届かないと批判された[5]

UNHCRは難民および国内避難民という「人」をめぐる総合的な機関であり、キャンプという「住」を提供する。「人」が「子供」であればUNICEF(国連児童基金)が参加し、「教育」にはUNESCO(国連教育科学文化機関)が携わる。WFPは「食」に特化し、WHO(世界保健機関)は医学の立場から「健康」について助言する。これらは現場における国際機構のパートナーである。WFPが農業技術を必要とすれば、同じくローマに本部があるFAOと連携する。WFPが挙げるパートナーは国際機構ばかりでなく、各国政府、NGO(非政府組織)、そして企業もある。

WFPが設立されるはるか以前、戦争に敗れ、子供たちが腹をすかせた日本の家庭に、アメリカ合衆国のNGOであるCAREから食糧が贈られた[6]

そうした食糧援助の先駆者はイギリスのオックスファムである。1942年、ドイツに占領されたギリシャは飢餓で苦しんでいた。オックスフォードの町の人々が飢えた人々に食糧を送るため設立したのがオックスファムである。現在、それは紛争や自然災害に衣食住を提供するだけでなく、チャリティショップを営み、フェアトレードの産品や寄付された物を売る。

こうした諸アクター間のパートナーシップについて、緒方貞子の言葉を借りる。

国家再建には広範囲なアクター(行動主体)の揺るぎないパートナーシップが必要である。復興過程にあるさまざまな組織や地域社会の強化と結束に最も重要な影響をもつのは、国家そのものである。同様に、復興の成否に不可欠なのは、紛争直後に安全な環境を形成する役割を任された軍隊と警察である。人道機関は紛争を乗り越えた人々の生活を正常に戻すために、当面の短期的救援を提供する。UNHCRの場合、その役割は、難民・国内避難民が故郷に戻って、元の地域社会に再定住するよう、手助けをすることである。開発機関は初期段階に計画と資金などの資源を携えて参入し、復興の初期段階から確実な中・長期的にいたる持続可能な開発への任務を遂行することになる[7]

日本におけるNGO・企業・政府間のパートナーシップには、ジャパン・プラットフォームという組織があり、企業および政府の資金・物資・サービス・人材を紛争や災害の被害者を救うNGOに支援するため仲介している。支援企業と受け入れNGOの名前には有名なところが多くある[8]

難民や国内避難民の生活に対して、国連や外国の援助があることは心強い一方、重要な意思決定が現場から離れた国際機構の本部や先進国のNGOによってなされることへの批判がある。

代表的なそうした議論はペシャワール会の中村哲医師によって語られた。彼は1980年代にハンセン病を治療するためにパキスタンのペシャワールに移住した。医療活動においては、「外国人のショーで終わる」ことがないよう、現地人とチームを組んだ[9]。ペシャワール会は当初、ハンセン病を診る中村を日本から支援するための組織であったが、現地にいるのはハンセン病患者だけでないので広く患者を診ることになり、病院が建てられた。紛争が続くアフガニスタンに近いペシャワールには、絶えず難民が押し寄せた。

21世紀になると、対テロ戦争が始まり、アフガニスタンの復興が課題になった。ペシャワール会は病院の経営だけでなく、アフガニスタンの灌漑と農業に取り組むようになった。用水路の建設という途方もない事業が活動の中心になった。

現場の必要に応えることを第一とした中村哲は、国際機構や先進国の援助に違和感を抱き続けた。1980年代末に、軍事介入していたソ連が撤退すると、アフガニスタンに援助ブームが訪れた。その際の国連の人道援助について、中村は苦言を呈する。

「国連の難民帰還の青写真によれば、パキスタン三五〇万人の難民を出身地方別に分け、数十万人単位に管理施設を設置、一年分の食糧と耕作に必要な農具と種籾をあたえて帰す、というものであった。これは事情を知らぬものには説得力があったが、現地の国連職員自身がやるせない気持ちをかこっていた。その声はジュネーブまで届かなかった。

難民がのこのこと種籾をかついで帰れる状態ではなかった。アフガニスタン内部で全農村の半分が壊滅、無数の地雷の埋設、戦死した労働力、不安定な政治的受け入れ態勢は、人びとをのっけから国連不信におとしいれた。」(103-104ページ)

「ソ連軍撤退以前に四〇をこえなかった難民援助団体は、一九八九年には二百団体に上り、復興援助ラッシュがはじまった。例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。」(105ページ)[10]

中村哲は2019年にアフガニスタンにおいて殺されてしまった。彼の思想に触れると、人道援助をめぐるパートナーシップについて考え直さなければならないと実感する。我々はつい、国連を中心に置いた構図を考えてしまう。しかし、本当は個々の難民を中心に置かなければならない。

ルワンダの虐殺は、難民と人道援助というテーマを論じるうえで避けて通れない。それはエスニシティ間の対立に端を発した。歴史的に、遊牧民であったトゥツィ族と農耕民であったフトゥ族の間には因縁がある。ルワンダがベルギーの植民地であった時には、少数派のトゥツィ族が優遇されて、外国の支配に協力した。独立を達成すると、多数派のフトゥ族が権力を握った。

紛争の導火線に火をつけたのは1994年の事件であり、ルワンダ大統領の乗った飛行機が墜落した。フトゥ族によるトゥツィ族の虐殺が始まり、100万人ともいわれる死者が出た。ところが、トゥツィ族系の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が逆襲に転じ、加害者と被害者の構図が入れ替わった。

ルワンダ虐殺の加害者であった旧政府要人とフトゥ族が追われる立場になった。この時点で、論争の的になるフランス軍による人道的介入、すなわちトルコ石作戦、が行われた。

介入の背景には、フランスに本拠を置く有名なNGO、国境なき医師団(MSF)、の影響があったとされる。このNGOは、ビアフラ紛争において赤十字が内政不干渉の立場から現地政府に妥協したことに不満で1968年、結成された。しかし、ベルナール・クシュネルらが脱退し、1980年に世界の医療団を結成した。政治的に、国境なき医師団は保守であり、世界の医療団は革新である。保守系の内閣がトルコ石作戦が実行された時点で政権を担っていた[11]

トルコ石作戦の背景には、従来からのフトゥ族政権に対するフランス政府の肩入れもあったとされる。トゥツィ族が殺されている最中には、国連は平和維持軍(PKF)の増派を渋り、各国は軍隊を送らなかった。加害者であったフトゥ族をあえてフランスが助けたのには理由があった、と緒方貞子が述べている。

フランスはすでにルワンダに深く関わっており、フツ族政権に対する肩入れは強かった。一九七五年に締結した軍事協力協定に基づき、フランスは何年にもわたりルワンダ政府に軍事訓練を行い、装備を提供してきた。また、武器禁輸措置が発動されたにもかかわらず、一九九四年六月までルワンダ政府軍に武器を供給していた。四月と五月にキガリから外国人が国外退去した際、フランスはフランス人だけではなく、ルワンダの支配層である多数のエリートがザイールやフランスや他の「友好的な」国々に脱出する手助けもした。一九九四年六月二二日、安保理決議九二九は、フランスに二カ月間の人道援助活動を承認した[12]

フランス生活が長い重光哲明医師は人道援助を伴う外国の介入を批判する。それは犠牲者を作り、隠蔽する。介入の内容は被害者の求めと無関係である。介入の目的は現状維持と原状回復でしかない。その方針は、現場から離れた組織の条件に基づいて決定される。援助される技術、機器、そして資源は介入後は放棄されてしまう。現場における既存の権力ヒエラルヒーは温存されたままである。介入した者がまとめた報告は客観性に乏しい。介入する強者を頂点とするヒエラルヒーは強化されさえする。介入する側に身体的危険性があれば、介入が実行されることはない[13]

トゥツィ族のルワンダ愛国戦線が内戦に勝ち、人道ゾーンは消滅し、フランス軍の作戦は終わった。フトゥ族はザイールと当時、呼ばれた隣のコンゴ民主共和国に逃げた。ゴマという町に難民キャンプが設けられ、国連平和維持軍が展開し、NGOが援助に加わった。こう書くと、危機も一服したように聞こえるが、きれいな水が不足していたために衛生状態は悪く、病人が出た。UNHCRは死者を4万人と推定する[14]。異常であったのは肉体的な健康状態だけでなかった。信じがたいことにルワンダにおける権力構造がキャンプ内に温存されていた。これも緒方貞子が証言する。

難民はみな旧体制の政府関係者たちに寄付金を支払う義務があり、それは彼らがいつかルワンダ新政権に反撃をしかけ、勝利して本国に帰るという最終目的のためであった。世帯ごとに毎月、献金が強要された。必要とあれば、人道援助組織から配布された食糧や物資を売ってでもこの支払いを捻出しなければならなかった。キャンプで小売業を営んで得た利益や非合法取引で得た収益にも同じシステムが適用された[15]

『ホテル・ルワンダ』のような映画では、トゥツィ族はかわいそうな被害者として描かれる[16]。観客の多くは、今でもフトゥ族が悪玉で、トゥツィ族が善玉であると理解しているであろう。上のように、1996年には加害者と被害者は完全に逆転していた。ルワンダの新政府軍がゴマの難民キャンプを攻撃したのである。ここでも緒方貞子に頼る。

キャンプが襲撃されて、ルワンダに戻らなかった難民が四方八方に逃げ回っているのが現状であった。マシシを越えて北へ向かい、ウガンダ国境を越えた難民もいれば、南方へ逃げ、フィジを経由してタンザニアへ向かった難民もいた。しかし、大多数は西へ向かい、散り散りになってザイール奥地に姿を消した。難民の多くは、あるいは守られるのを当てにし、あるいは残るよう強要されて、軍事指導者とともに行動しつづけた。さらに多くの難民が次々に命を落とした[17]

ジャングルに消えたフトゥ族の残党は、アナーキーなコンゴ民主共和国東部に存在する武装勢力の一つ、FDLR-FOCA、となった[18]。ルワンダのトゥツィ族政権は、一つには復讐を恐れて、もう一つはこの土地の豊富な地下資源にひかれて、直接攻撃したり、武器支援をしたりと介入を続けた。支援対象の一つは武装勢力M23とされる。

コンゴ民主共和国東部におけるアナーキーの被害者は女性たちであった。それを世界に伝えたのはドニ・ムクウェゲ医師である。2018年のノーベル平和賞は戦争における性暴力の被害者たちを治療した彼に与えられた。

ようやくフランスのエマニュエル・マクロン大統領は2021年にルワンダ虐殺をめぐる自国の責任を認めた。そこに至るまで、ルワンダはフランスと外交関係を断絶し、イギリスの植民地でないにもかかわらずコモンウェルスに加盟した。人道援助をしたがためにフランスは憎まれた。

食糧を与え、医療を施すというところだけ見れば、人道援助は非の打ち所がないかのようである。しかし、それも人間社会の一部である以上、過ちは起こる。過ちが判明したならば、たださなければならない。

UNHCRのデータによると、2025年6月末において、難民およびベネズエラ国外避難民のうち71パーセントは低所得国か中所得国に滞在し、66パーセントは隣国にいる[19]。これが意味することは、先進国や第三国は難民をあまり受け入れていないということである。第三国とは、難民の出身地と認定地以外の国であり、アメリカ合衆国やオーストラリアが代表例として思い浮かぶ。安い労働力の需要がそれほど高くなければ、難民の受け入れは経済的負担はもちろん、治安や排外主義など受け入れ国に重苦しい社会問題をもたらす。豊かな国は、資金拠出のみでグローバルな人道危機をやりすごす誘惑に勝つことができない。

しかし、内戦であるにしても、紛争の責任はグローバル社会全体にある。難民の問題をカネだけで済ますことは国際感覚の麻痺であり、こうした麻痺は国の将来に暗い影を投げかける。

この回の最後に、緒方貞子が日本の難民政策をいかに認識していたかを引用する。「伝統」という言葉に彼女がこめた意味は何であろうか?

伝統と政策が相まって、日本が受け入れた難民はほとんどいなかった。人道的配慮から難民と認定されるか、長期在留資格を与えられたアフガン人の総数は二〇〇一年末で六二人である。難民資格の認定を求める庇護希望者にとって、最終決定は地方裁判所レベルの訴訟に委ねられている。二〇〇二年に私がアフガニスタン復興に積極的に関わるようになった後に、難民認定を却下されたケースについて非公式の弁護を法務省に対して行った。日本がアフガニスタン再建に重要な貢献を行い、私も個人的に復興努力に関与している肝心なときに、難民申請者を国外に追放しないように法務省に要請したのである。日本政府は判決を遅らせて、アフガニスタンが平和と安定の達成にさらに近づいてから、申請者を帰国させることはできないのであろうか? とはいえ私は法廷審理に直接影響を与えることはできなかった。入国管理局は難民と認定されなかった庇護希望者を国外追放の手段に訴えるよりも、むしろ自主的に帰国するように圧力をかける傾向があった[20]


[1] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.

[2] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、49-50ページ。

[3] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、107ページ。

[4] “Emergency Relief,” World Food Program, https://www.wfp.org/emergency-relief, accessed on February 21, 2026.

[5] 「空爆恐れず、援助再開へ―アフガンで活動の国連各機関」、『朝日新聞』、朝刊、2001年11月3日。

[6] 渡部茂己、阿部浩己、『国際組織』、ポプラ社、2006年、164ページ。

[7] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、397ページ。

[8] “オールジャパン体制の緊急支援を世界へ届ける日本発の仕組み,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/first.html, accessed on February 21, 2026; “加盟NGO一覧,” ジャパン・プラットフォーム, December 2025, https://www.japanplatform.org/about/ngo/index.html, accessed on February 21, 2026; “支援企業・団体,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/about/company.html, accessed on February 21, 2026.

[9] 中村哲、『アフガニスタンの診療所から』、筑摩書房、1993年、106ページ。

[10] 中村、『アフガニスタンの診療所から』。

[11] 重光哲明、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、勝俣誠編、『グローバル化と人間の安全保障』、日本経済評論社、2001年。

[12] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、213ページ。

[13] 重光、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、85-108ページ。

[14] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、217ページ。

[15] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、236ページ。

[16] Terry George, A. Kitman Ho, Keir Pearson, Don Cheadle, Sophie Okonedo, Joaquin Phoenix, Desmond Dube, et al., Hotel Rwanda, 2005.

[17] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、237ページ。

[18] “Highlights: Key Findings and Chapter Summaries of Small Arms Survey,” in Small Arms Survey 2015 (Cambridge: Cambridge University Press, 2015), p. 19.

[19] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.

[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、343-344ページ。

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人道法と戦争法

戦争はしないのが一番よい。第一次世界大戦と第二次世界大戦は何千万という単位の死者を出した。戦後でも朝鮮半島、カンボジア、ベトナム、エチオピア、ルワンダをはじめ、百万人以上の死者を出した紛争は9を数える[1]。国際法を整えれば、死者をどのくらい減らせるか?

武力紛争をめぐる国際法が本領を発揮するには、いくつものハードルがある。問題の行為を違法とする条約がない、とか、管轄権が否定されて裁判が行われない、といったものが代表的である。これらを克服して国際法が整備されても、犠牲者がなくなるわけでない。戦争は「クリーン」になっていくかもしれないが、それゆえに、戦場の悲惨さに鈍感になってしまうおそれもある。

とはいえ、戦争の犠牲を小さくしたい願望は理解できる。今回のテーマは、人道法と戦争法がいかに発達してきたか述べなさい、である。

十字軍の昔から、戦場には医療と看護がつきものであり、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)がその名残である。赤地に白十字の旗は何かに似ていないか? 修道女と修道士がキリスト教圏で傷ついた兵士を救ってきた歴史を変えた人物が二人いた。

フローレンス・ナイティンゲールは修道女が行った仕事を近代化し、専門の看護師がシステマティックにそれを行うことを進言した。軍人や医師とごちゃまぜになっていた指揮命令の系統を独立させ、給食・与薬・湿布貼りなどの任務を専門化した[2]。戦場では修道女のように中立的ではなく、彼女はイギリス軍に所属してイギリス兵を救う交戦当事者であった。クリミア戦争への従軍では、陸軍病院における女性看護師の総監督を務めた。

アンリ・デュナンは1859年にイタリアを旅行中、フランス軍とオーストリア軍の戦いに遭遇した。村人とともに両軍の兵士を分けへだてなく救護し、『ソルフェリーノの思い出』に体験を記した。これ自体は感動的な話ではあったが、兵士が民間人に化けて敵に近づく背信行為やスパイは各国に警戒され、中立の第三者が救護をするアイデアはなかなか採用されなかった[3]

デュナンのアイデアに基づく赤十字規約が決議されたのは1863年であった。現在の赤十字国際委員会(ICRC)に当たるジュネーブの赤十字委員会はこの規約で特別な役割を与えられ、各国で立ち上げられる赤十字社および赤新月社の仲立ちを任された。赤十字国際委員会の委員は交戦国にならない中立国スイスの国民のみであるので、敵対国の委員が口論するとか、紛争当事国の委員が自国政府の代弁をするとかいうことはないであろう。

各国の赤十字・赤新月社は自国の政府とふだんから連絡をとり、物資や要員も用意しておく。戦時には、交戦国の赤十字・赤新月社は自国軍を救護し、中立国の赤十字・赤新月社に支援を要請する。中立国から派遣された要員は赤十字の腕章を着用する。

1864年には、ジュネーブ条約がスイス政府の招いた国際会議で採択された。交戦国の義務は、救急車・病院・要員の中立を尊重する、傷病兵を国籍によって分けない、救急車・病院・退去者に旗を立てる、である。要するに、赤十字のマークを付けた人と物は攻撃の対象にしてはならない、ということである。

これら赤十字国際委員会、ジュネーブ条約締約国、各国赤十字・赤新月社、そして国際赤十字・赤新月社連盟が集まって、国際会議を開く。戦場における中立を支える制度の充実がうかがえる。

赤十字は傷病兵の救護だけでなく、多くの分野に活動範囲を広げた。1930年代のスペイン内戦では、交戦団体間における捕虜の交換を仲介した。第二次世界大戦では、飢餓に苦しむ占領下のギリシャに食糧を海上輸送した。ナチスの絶滅収容所からユダヤ人を救出した。広島の被爆者のため、進駐軍から供与された医薬品と医療器材を配給した[4]

交戦国からの中立が原点であったジュネーブ条約は1949年、ジュネーブ諸条約と総称される4本の条約へと発展した。第1条約は陸戦、第2条約は海戦、第3条約は捕虜、そして第4条約は文民を対象とする。これらには共通の第3条があり、内乱・内戦にも適用されると明記された。赤十字など人道団体によるさまざまな活動も認知された。

にもかかわらず、傷病兵・難船者・捕虜・文民の保護が十分であるかについては、現代も論争がある。9・11後の対テロ戦争で、アメリカ合衆国はテロ組織アルカイダの幹部とされる人物を勾留し、「水責め」と称される訊問を行った[5]。訊問を許可したジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が司法によって裁かれなかったことは言うまでもない。確かに、ジュネーブ第3条約の観点からは、テロリストは軍隊の構成員であるのか?、水責めは健康に重大な危険をもたらすのか?、CIA職員による訊問に戦時国際法は適用されるのか?、といった論争はある。しかし、仮に法に触れなかったとしても、法規範の迂回を試みる逃げの姿勢そのものが非難に値した。勾留先にグアンタナモ基地が選ばれたのは、合衆国の人権基準も、所在地のキューバの人権基準も適用されないからであった。

イラク戦争に関しても、アブグレイブ刑務所に収監された被拘禁者が虐待された。被拘禁者を米軍兵士が侮辱する姿を撮った写真はセンセーショナルであり、その兵士は有罪判決を受けた。

1948年のジェノサイド条約は、非人道的行為を違法化する点では戦時のジュネーブ諸条約に似るが、平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、ジェノサイド(集団殺害)は犯罪であると定める。犯罪という言葉が示すように、締約国はそれを処罰することを約束している。

ナチスの残党アドルフ・アイヒマンをイスラエルの諜報機関モサドはアルゼンチンで捕まえ、自国に連れて裁判にかけた。アルゼンチンの主権とジェノサイドの処罰をイスラエルは天秤にかけ、後者を選んだのである。

残念なことに、ジェノサイドはその後も行われた。1995年のスレブレニツァの虐殺では7千人が犠牲になった。当時、国連難民高等弁務官であった緒方貞子の回想を引用する。BSAとはボスニアヘルツェゴビナにおけるセルビア人の軍隊である。

七月一一日の朝六時ごろ、スレブレニツァはセルビア軍に制圧された。―中略―一万五〇〇〇人のボスニア系男性は飛び地を出て周辺のセルビア領地へと移動しはじめた。この避難民の集団に対して、BSAは女性、子ども、高齢者を男性たちと引き離し、車に乗せてスレブレニツァから追放した。―後略―

―前略―チームは国連保護軍とセルビア軍兵士が最後のムスリム人グループをセルビアのバスに連行するところを目撃した。途中で、チームのメンバーは地元のセルビア系住民から、大勢の人々がブラトナッツのサッカー場のそばに拘束されたままで、その方角からときどき銃声がした、と聞かされた[6]

子供も、エスニック集団に劣らず、戦場において保護すべき対象である。子供兵士、児童兵士、または少年兵が生まれる原因には、人身売買、貧困、宗教、ナショナリズム、誘拐、孤児、暴力、薬物などがあるとされる[7]。子供兵士は他の社会的な病理によってもたらされるもので、健全な社会であれば、親はわざわざ子供を兵士として差し出さない。

1989年に採択された児童の権利条約は、15歳未満の者を軍隊に採用することを差し控え、それ以上の者でも18歳未満の者は最年長者から採用することを締約国に求める(第38条3)。また、その選択議定書は18歳未満の者を敵対行為に参加させないことを定める。しかし、子供兵士がはびこっているところでは、国家でなくゲリラが子供たちに戦わせている。子供兵士を禁じる国際法はほかにもあるが、世界には国際法の力が及ばない土地が残っている。

人道法と並ぶ武力紛争法の流れに戦争法がある。人道法がジュネーブ法と呼ばれるのに対応し、戦争法はハーグ法ともいう。

プロレスに喩えると、ジュネーブ法とハーグ法の違いは理解しやすい。戦闘員はレスラーに当たり、リング内でルールに従って闘わなければならない。ジュネーブ法は戦闘外に置かれる者を指定する。レスラーがロープをつかんだり、リングから出たりすれば、攻撃してはならない。戦場で傷病兵を攻撃してはならないのと同じである。また、レフェリーや観客も攻撃してはならない。中立の赤十字や非戦闘員の市民を攻撃してならないのと同じである。

他方、ハーグ法は戦闘員間の闘う方法についてのルールである。それはリング内で相手レスラーを攻撃する際に、目・のど・股間を攻撃してはならないことや凶器を使ってならないことと似ている。

ハーグ法において、条約として先行したのは害敵手段、特に武器性能、に関する制限であった。

1868年のセント・ペテルスブルク宣言は、銃弾のなかに破裂・爆発・燃焼する物質を詰めて使うことを禁止した。それらが射ち込まれた体内で破裂・爆発・燃焼すると痛いし、生命に危険を与えるからである。なぜ禁止するかの理由が前文に書かれていて興味深い。戦闘の「唯一の正当な目的は敵の軍事力を弱めること」という。当時は無差別戦争観で、国家間の決闘として戦争は理解された。敵の兵士を戦闘不能にしたならば、それ以上の苦痛を与えたり、命を奪ったりすることは目的の範囲を超え、「人道の法に反する」と信じられた。

ハーグ法と呼ばれるゆえんは、1899年にオランダのハーグで第一回ハーグ平和会議が開かれ、ハーグ陸戦規則が作成されたからである。その前文であるマルテンス条項は戦争法の精神を謳ったものとされる。すなわち、戦争法の行動規範はまだ完備していないが、そうなるまえでも文明国間の慣習や人道の法則、公共の良心に従って、人々や交戦者は保護されなければならない。本当にこれが守られていたならば虐殺は歴史のなかの偶発的な事故にすぎなかったであろうが、原子爆弾は意図的に都市を目標として使われた。

毒ガスは第一次世界大戦において実戦使用が始まった。窒息剤の塩素やホスゲンに始まり、殺傷性が高く、イーペルというベルギーの町で1917年に使われたイペリットガスのようなものまで現れた[8]。毒ガスと窒息剤を総称して化学兵器という。1925年には、これらと細菌兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書が署名された。締約国であったイタリアはエチオピアとの戦争でイペリットガスを使った[9]

日本について、化学兵器を日中戦争で使ったという説がある。イラン・イラク戦争ではクルド人に対してイラク軍により使われた。使用ばかりでなく、生産も貯蔵も不可とした化学兵器禁止条約は1993年に署名された。

非人道的な武器の規制では、対人地雷とクラスター爆弾に対するものがある。対人地雷は人間の接近や接触で爆発する地雷で、車両によって爆発する地雷は含まない。紛争が終わっても地中に残され、それを踏んだ普通の人々から手足を奪い続けている。対人地雷禁止条約は特に大国からの反対が強く、国連の会議ではなく、有志の国々を集めたオタワ・プロセスをつうじて作成された。オタワ・プロセスはカナダ主催のオタワ会議において1996年に始まり、翌年、ノルウェーのオスロで条約を採択した。使用・貯蔵・生産・移譲を禁止し、すでに設置されたものは廃棄するのが締約国の義務である。

クラスター爆弾は収束爆弾ともいわれ、爆弾のなかに子爆弾が入っていて、空中で散らばる。やはり、紛争後も子爆弾の不発弾が破裂し、人体を傷つける。2007年、ノルウェー主催の会議でオスロ・プロセスが始まった。翌年のダブリン会議でクラスター爆弾禁止条約が採択され、その年末にオスロで署名された。

対人地雷禁止条約とクラスター爆弾禁止条約には、米中ロといった大国が入っていない。核兵器禁止条約もそうであるが、大国とそれ以外との断絶は広がっている。

次は何が禁止されるであろう? 2013年に、キラーロボット、すなわち完全自律型兵器、を禁止させるため、ヒューマンライツウォッチらNGOがストップ・キラーロボット・キャンペーンを結成した。それとも、放射線が人体に悪影響を与える劣化ウラン弾が禁止されるであろうか? いずれにせよ、実戦用に配備されている間は、なかなか国家はその兵器の禁止に加わらないものである。

ハーグ法が規制するものは非人道的な武器ばかりでない。ハーグ陸戦規則の第25条は無防守都市の攻撃を禁止する。第27条は宗教・技芸・学術・慈善のための建物、歴史的記念物、そして病院にはなるべく損害を与えないように、と定めた。第一次世界大戦において、さっそく、それらの施設は損害を受けた[10]

原爆を投下された広島は無血開城する無防守都市でなかったものの、軍事目標でなかったことはまちがいない。一発の原爆によって14万人の犠牲者が巻き添えとなり、多くの建物や文物が破壊された。より小さな規模で類似のことがその後の歴史で繰り返されている。巻き添えや誤爆の問題に国際法が十分に対応しているとは思えない。それらについても、ノーモア・ヒロシマである。

単に条約を結ぶだけでなく、違反者を裁くようになれば、人道法に知らんぷりを決めこむわけにいかなくなる。第二次世界大戦後、勝者による敗者の裁判が行われた。ニュルンベルク裁判と東京裁判である。それらにおいて、戦争犯罪は平和に対する罪、通例の戦争犯罪、そして人道に対する罪に分けられた。平和に対する罪を犯した者がA級戦犯であるが、開戦を導いた政治指導者たちのことであるので、今回は論じない。通例の戦争犯罪とは、ハーグ陸戦規則など戦争法への違反であり、その違反者がB級戦犯である。最後の人道に対する罪は、文民に対する殺人、絶滅、奴隷化、追放などの非人道的な行為であり、違反者はC級戦犯である。

国際刑事裁判がつぎに注目を浴びたのは、半世紀後のユーゴスラビア紛争においてであった。国連安保理決議S/RES/827は、1991年以来の旧ユーゴスラビア領域における国際人道法違反を裁く国際法廷を1993年に設立した。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)は2001年、ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ前大統領をハーグ郊外スヘフェニンヘンの拘置所に収監した。ベオグラードでは抗議のデモが起きた。彼は2006年に死去したため、判決は出なかった。

2016年、ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人指導者ラドバン・カラジッチにICTYは、スレブレニツァでのジェノサイドに関して禁錮40年の判決を下した。ところで、「旧」ユーゴスラビアとなぜ呼ぶか?、というと、それが解体した後に「新」ユーゴスラビアが編成されたからである。

国際法違反への処罰は順調にルール化されているようにみえた。1994年には、安保理決議S/RES/955に基づき、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)がタンザニアのアルーシャに設けられた。ルワンダで1994年に犯されたジェノサイドその他の罪を裁くのが任務である。

いうまでもなく、安全保障理事会は「国際の平和及び安全」に責任を持つ大国中心の機関である。そうした大国の意向が強く働く機関の決定で、裁判所が作られたり、作られなかったりしてよいのか? 法の支配に反しないのか?

これ以上、安保理決議によって作るのはよくないと考えてか、常設的な国際刑事裁判所(ICC)を設立するための国際会議がローマで開かれた。国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が1998年に採択され、60か国の批准を得て、2002年に発効した。

自国民がICCに訴えられることを嫌がる国もある。そういう国は規程に入らなければよい、というだけではすまない。ICCの管轄権は、容疑者・被告人が国籍を持つ国が規程締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合だけでなく、犯罪が発生した国が締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合にも及ぶ。こうしたことから、他国への派兵が多いアメリカ合衆国は、自国民を告訴しないよう各国に求める。ビル・クリントン大統領は国際刑事裁判所規程に署名したものの、次のジョージ・W・ブッシュ(子)政権は書名を撤回した[11]

ICCに対しては一部の国に不公平感がある。スーダンの大統領であったオマル・ハサン・アフマド・アル・バシルは就任中、ダルフール紛争について人道に対する罪・戦争犯罪・ジェノサイドの容疑で逮捕状が出された。ヨーロッパ人が裁く側で、その他は裁かれる側でないか、という認識が広がっている。当初、積極的であったアメリカ合衆国がそうであるように、国際刑事裁判に対する熱意は1990年代よりも冷え込んでいる。

国内における大規模な暴力を裁判で処罰しようとすると、対立が再燃しかねない。真実和解委員会は国際刑事裁判へのオルタナティブである。南アフリカのネルソン・マンデラ大統領は1995年、デズモンド・ムピロ・ツツ大主教を議長とする17人の委員を任命した。

白人とアフリカ人、アフリカ人と白人、そしてアフリカ人とアフリカ人の間の暴力を、公開ですべて明らかにする、というのが南アフリカ真実和解委員会の任務であった。しかし、刑罰を科すと人種間の対立が再燃するので、犯人は免罪とすることにした。1998年に報告書が出て、多数の暴行が明らかになった[12]

ネバー・アゲイン!をコンセプトとする真実和解委員会はシエラレオネでも設けられた。シエラレオネ内戦といえば、反政府勢力であるRUF(革命統一戦線)が市民の腕を切断する残虐な行為で1990年代後半に世界を震え上がらせた。RUF側はこれは真実でないと反論している[13]。反論のすべてが真実でないにしても、RUFの側には言い分がある。

シエラレオネでは、真実和解委員会ですべてを許すことはしなかった。別にシエラレオネ特別裁判所を国連と共同で2002年に設置し、戦争犯罪に最大の責任がある13人だけを訴追した。RUF議長のアハメド・フォディ・サンコーも13人に入っていたが、彼は審理が始まるまえに死んでしまった。隣国リベリアの大統領で、反乱を支援したチャールズ・テイラーも裁判にかけられた。彼は判決が下された9人のうちの一人であり、2012年に禁固50年の判決を受けた[14]

このやり方に続いたのはカンボジアであった。1970年代の虐殺を裁くポル・ポト派特別裁判所は同国と国連との合意により、外国人を裁判官に加え、21世紀になって設けられた。ポル・ポト派がプノンペンを支配していた時代の国家元首が人道に対する罪やジェノサイドの容疑で訴追され、有罪判決が下された[15]

国際刑事裁判所と真実和解委員会に加えて、国内裁判所を使う場合もある。ティモールレステは三本立ての実例であり、国際刑事裁判所に当たる重大犯罪パネルと真実和解委員会は国連PKOであるUNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)によって組織され、それとは別にインドネシアの国内裁判所も自国民の裁判を行った。

国内裁判所を人道法の裁判のために使うことには懸念もある。イラクの大統領であったサダム・フセインは米軍の捕虜となったあと、イラクの国内裁判所が出した判決によって2006年、処刑された。権威が失墜した政治家の裁判はその国の政治情勢に左右されてしまう。 武力紛争の分野で法の支配が完成するのは当分、先であろう。手探りながらも、経験を積むことはムダでないと信じたい。


[1] ケンブリッジ現代社会国際研究所、猪口孝編、『ヴィジュアル・データ百科 現代の世界』、原書房、2008年、103ページ。

[2] ナイチンゲール、『ナイチンゲール著作集』、湯槙ます監修、第2版、現代社、1983年、35-140ページ。

[3] 井上忠夫、『戦争と救済の文明史』、PHP研究所、2003年、58ページ。

[4] マルセル・ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、丸山幹正訳、増補版、勁草書房、1991年、86-87、165、266ページ。

[5] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、257-260ページ。

[6] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、120-121ページ。

[7] P・W・シンガー、『子ども兵の戦争』、小林由香利訳、日本放送出版協会、2006年。

[8] 井上尚英、『生物兵器と化学兵器』、中央公論新社、2003年、27ページ。

[9] ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、42ページ。

[10] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、下、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、185ページ。

[11] ビル・クリントン、『マイライフ クリントンの回想』、下、楡井浩一訳、朝日新聞社、2004年、741ページ。

[12] Robert I. Rotberg, “Truth Commissions and the Provision of Truth, Justice, and Reconciliation,” in Robert I. Rotberg and Dennis Thompson, eds., Truth v. Justice: The Morality of Truth Commissions (Princeton: Princeton University Press, 2000), p.5.

[13] Philippe Diaz, Philippe Peccatier, and Richie Havens, The Empire in Africa, Cinema Libre Studio, 2007.

[14] “Eleventh and Final Report of the President of the Special Court for Sierra Leone,” The Hague (2013).

[15] 伊藤学、「ポル・ポト派元最高幹部2人に終身刑 カンボジア、特別法廷が判決」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年8月7日。

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