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集団安全保障

集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。

集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦状態はこの敵が武装解除されるまで続けられる。

国際連盟ができるまでの二百年間、そのような国家間の連合が本当にできるのか?、は人類最大の難問であった。これに、可能である、と納得できる説明を与えたのがカントである。

1795年に公刊されたカントの『永遠平和のために』は社会契約論における「自然状態」の論法を利用する。自然状態というのは架空の世界であり、この場合、諸国家はいまだに社会を成さず、ゆえに法も秩序もなく、ただ、にらみ合っている。自然状態では、国家はいつも戦争の口実を探している。理性が命じるのは、戦争を断固として処罰することを諸国家の義務とすることである。よって、すべての戦争を永遠に終結させる平和連合が存在しなければならない[1]

ここで注目すべきであるのは「理性が命じるのは」というくだりである。カントは以上の論理が理想にすぎないことを自覚している。しかし、彼は太陽系の起源について星雲説を唱えた科学者であったように、単なる理想主義者でない。

国家を強制して平和連合に加盟させることはできない、とカントは認めて、それが形成される別の過程を考える。平和連合に喜んで入る国は本性上、平和を愛する国である。そのような国は共和国である。こうした共和国が中心となって、諸国家が数珠つなぎになって平和連合を形成していく。共和国だけでなく、君主国も加わっていくであろう。こうして、平和連合は遠くにまで広がっていく[2]。これは現実に平和連合が形成されるであろうシミュレーションにほかならない。

1冊の『永遠平和のために』が二つの意味を持つことが分かったろう。一つは集団安全保障の理想であり、多国間の国際機構を作って、違反国を制裁する構想である。これは国際連盟や国際連合の設計図となった。もう一つは「民主主義の平和」であり、民主国間の同盟により侵略を抑止する構想である。こちらはNATOや日米安全保障条約の理念である。

今回のテーマは、同盟の問題点と集団安全保障の理想との関係について第一次世界大戦前後の例を引きながら論じなさい、である。国際連合の時代については「集団安全保障と自衛権」の回で扱われる。

国際連盟の設立に至るまでには、第一次世界大戦とそれに先立つ外交があった。19世紀後半、ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは巧みな外交手腕を発揮し、フランスを孤立させることに成功した。彼は1872年の三帝同盟によりロシアとオーストリアハンガリーを味方とし、1879年の独墺二国同盟でオーストリアハンガリーとのきずなを深め、1882年の独墺伊三国同盟をつうじイタリアをフランスに対抗させた。オーストリアハンガリーの同盟国であるドイツは、この同盟国がロシアと仲違いすると、巻きこまれないよう、1887年にロシアと再保障条約を結んだ。

ところが、辞任したビスマルクに替わって外交の指揮を執った皇帝ビルヘルム二世は成果を台無しにした。露仏同盟が1894年に結ばれ、逆にドイツは包囲される側になった。19世紀末に日本公使としてロシアに駐在した林董は次のように振り返る。

仏露同盟は、久しき前より世に聞こえたる所なるが、仏大統領訪問の時露帝が仏艦にて午餐の饗応を受けられし際の演説に於て、初めて我同盟国の語を公に用いられたりと云う[3]

つまり、露仏同盟は秘密条約であった。秘密といってもバレバレなのではあるが、秘め事を作る行為によって、国家間の疑心暗鬼を深めた。その後、林董は駐英公使になり、日英同盟を1902 年に締結することになる。なぜ、イギリスとの同盟が必要であったのか? 林は自らが清に赴任した際に起きた三国干渉に、その理由があるとした。彼の解説を引用する。

我輩は、日清戦争後、欧羅巴の列強合縦の結果が、極東に影響を及ぼし、三国干渉となって我に圧迫を加えたことを、直接に経験したのであるから、日本の孤立が到底不可能であるを感ずるの念も、特に痛切であったから、是非とも合縦の策を講ずるの必要を認め、―中略 ―「外交の大方針を定む可し」と題する一篇の論説を起草し、―中略―『時事新報』の社説に載せられたのである[4]

20世紀に入ると、同盟をめぐる世界の動きは激しくなった。1904年に英仏協商が結ばれた。日露戦争後に日本とロシアは接近し、1907年の日仏協商・日露協商・英露協商によって、露仏同盟と日英同盟が合流する形になった。これで第一次世界大戦の協商国対同盟国の対立構図ができあがった。

サラエボ事件と七月危機は外交史で最もよく取り上げられるテーマの一つである。オーストリアハンガリーの帝位継承者フランツフェルディナント大公がサラエボの町で、セルビア人青年により射殺された。オーストリアハンガリーにとっては、帝位継承者が暗殺されただけで屈辱である。オーストリアハンガリーは、犯行に使われた銃はセルビア軍将校から供与されたものと主張し、陰謀加担者を裁判し、それに自国の代表も参加させることなど要求した。セルビア側がこの要求を拒否したために、戦争の危機におちいった。

7月28日、オーストリアハンガリーはセルビアに宣戦布告をした。セルビアはヨーロッパの片隅である。なぜ、ここから世界大戦に発展したのか?

セルビアはロシアと同じスラブ民族であり、ロシアとしては見捨てるわけにいかなかった。ロシアとオーストリアハンガリーが戦争になれば、後者はドイツの同盟国であるので、今度はロシアとドイツが戦争になるであろう。実際、ドイツが、同盟責務を果たすつもりだ、とオーストリアハンガリーに伝えたのは、早くも7月5日であった。オーストリアハンガリーに和戦の選択を委ねたので、歴史家はこれを「白紙委任状」と呼ぶ。

ドイツとロシアが戦争になれば、後者との同盟義務にしたがい、フランスがドイツと戦争になる。全ヨーロッパを爆発させた火薬庫の導火線がサラエボ事件であったのはこうした理由による。

とはいえ、セルビアが攻撃されて、すぐにロシアは戦争にとりかかったわけでなかった。局地戦争で止めようと思えば、どこかで止められたかもしれない。それを妨げたのは、同盟の義務と軍事計画であったとされる。同盟の義務とは上で述べた「白紙委任状」のことである。軍事計画の弊害については、ドイツのシュリーフェン・プランの問題が知られている。

ドイツ陸軍の参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは露仏同盟に対応した作戦を立案した。ロシアも、フランスも、世界屈指の軍事大国であった。いくらドイツといえども、それらを一手に引き受けるのは容易でなかった。歴史家バーバラ・W・タックマンの文章を引用する。

彼が引退した一九〇六年に立案を完了したシュリーフェンの計画によると、戦争の期間は六週間とし、ドイツ軍の八分の七をフランス粉砕につかい、仕事がすんでこのドイツの大軍が引き返して来るまで、ロシアという第二の敵を東部戦線にくいとめておくために、残り八分の一を割り当てようというものだった。―中略―ドイツもフランスも動員完了には二週間あれば足りる。動員第五日目には大攻撃戦を開始できる態勢にある。―中略―ロシアは面積が広く、人口が多いうえに鉄道が少なく、大攻撃を開始するまでに六週間はかかる。それまでにはフランスを負かすことができるというのである[5]

実際には彼の引退後、シュリーフェン・プランは本来のものから手直しされた。とはいえ、ドイツが、難事業を遂げるためには先手を打たなければならない、と思いつめていたことは変わらない。

ロシアの立場になってみれば、国土が広大であるがゆえに、兵隊を動員して前線に連れてくるまでに長い時間が必要である。それゆえ、やはり先手先手で動かざるをえなかった。

7月31日にロシアが総動員令を発したことは、ドイツにとってはロシアを急いで片づけなければならないことはもちろん、その同盟国であるフランスとの戦争が不可避になることをも意味した。それゆえ、ドイツは8月1日にロシアに、同3日にフランスに対して宣戦布告した。「動員は戦争を意味する」、すなわち、ロシアの総動員がヨーロッパ大戦を決定づけた、と言われるのはこのためである。

イギリスは日英同盟以外では、戦争に参加する義務を負わなかった。それにもかかわらず、イギリスは第一次世界大戦に引きずり込まれることになった。理由は意外なところにあった。ドイツがベルギーの中立を侵した、というのである。フランスとドイツが直接、国境を共有しているところでは、ドイツの侵攻に対してフランス軍が迎え撃とうと身構えていた。そこで、ドイツ軍は守りが手薄なベルギーを横断して、フランス領に侵入した。

確かに、ベルギーを永世中立国としたのは、1839年に結ばれたロンドン条約であった。その名称からも分かるように、オランダから独立したばかりのベルギーに、イギリスが肩入れして結ばれたものであった。名誉を傷つけられたというのは、当時の感覚では戦争事由になりえた。ただし、数百年前からこのかた、大陸ヨーロッパの統一を防ぐのがイギリスの勢力均衡政策であったから、中立侵犯は後付けの理由であった。

8月7日にイギリスと同盟を結ぶ日本が参戦した。真意は疑いなく、ドイツがアジアと太平洋に持っていた領土と利権を奪うためであった。ヨーロッパへの派兵は申し訳程度に行われた。

ドイツのシュリーフェン・プランは、パリを目の前にしたマルヌでの戦闘でドイツが敗れたことで挫折した。ロシアには、タンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍が勝利を収めたものの、全体の戦況は膠着した。1916年におけるソンムの戦いは決戦というにふさわしい大会戦であったものの、イギリスの攻勢は死体の山を築いただけで、勝敗を決するには至らなかった。

こうして、セルビアに対する局地戦争は全ヨーロッパを巻き込む大戦争へと拡大した。

アメリカ合衆国が1917年、参戦して、ヨーロッパ大戦は名実ともに世界大戦になった。合衆国の戦争事由は、貨物船ばかりか旅客船をも含むUボート、すなわちドイツの潜水艦、による無差別攻撃であった。戦況は協商国側に有利に傾き、話題は戦後構想に移った。

T・ウッドロウ・ウィルソンは、再選を賭けた1916年の大統領選挙で、ヨーロッパの戦争に自国を加わらせないために市民が選んだ候補者であった。翌年、ウィルソンが探し出した戦争に介入する口実が「勝利なき平和」であった。彼は、勝者と敗者の不平等な講和でなく、軍縮のような永遠の平和をもたらす講和を提案した。自陣営の英仏はすでに多くの兵士が命を失っていたのに、「勝利なき平和」で両国民は納得できたであろうか?

ウィルソンの提案は1918年、14か条にまとめられた。その1は公開外交であり、「公開の平和の規約」を求めた。その4は「各国の軍備が国内の安全を満たすだけの最低限度に削減される十分な保障の取り決め」である。最後の14番目は「大国か小国かを問わず、政治的・経済的独立と領土保全の相互保障を与える目的で具体的な規約のもと作られる諸国民の一般的結びつき」である。これらが国際連盟規約と軍縮条約をもたらすことになる。

ウィルソン的な理想主義はアメリカ外交全般の傾向であるとも言われる。有名なのはジョージ・F・ケナンの『アメリカ外交50年』における解説である。

外国政府に勧めて、崇高な道徳的・法律的原則の宣言に署名させることによって、われわれの外交政策上の目的を達成しようとする傾向は、アメリカの外交のやり方に強力かつ永続的な力を及ぼしているように思われる[6]

実際には、ウィルソンの理想主義は他の交戦国との交渉が始まる前から後退していた。彼はハウス大佐という個人的な友人を対外的な交渉者に任じた。停戦の直前、ハウスは14か条の後退を許してもらおうとウィルソンに問い合わせた。公開の規約は秘密交渉を排除しない、とか、公海の自由といっても封鎖はよい、とかは残念ではあるが後退が必然的な事項であった。しかし、イタリアに南ティロルを、イギリスにパレスチナ・アラビア・イラクを、ギリシャにイズミルを、といった他国の領土要求の容認は「勝利なき平和」の大義名分を台無しにした[7]

パリ講和会議は1919年の1月から6月まで開かれた。議事を牛耳ったのは戦勝国の諸大国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、そして日本であり、最高理事会と称された。その他22の主権国家も会議に参加した。交渉はケドルセー、すなわちパリのフランス外務省、で進められたものの、合意の署名式は郊外のベルサイユ宮殿「鏡の回廊」で行われた。

平和の基盤となるべきベルサイユ条約は15編から成る。第1編は国際連盟規約であり、以下、ドイツとヨーロッパに関する規定が続き、第13編にILO(国際労働機関)の憲章が組み込まれた。

集団安全保障という観点では、ベルサイユ条約のなかでも国際連盟規約、特に戦争の違法化と制裁に関わる部分が問題となる。「締約国は 戦争に訴へさるの義務を受諾し」という一節があるのであるが、それは前文、つまり法的拘束力がないところ、に書かれている。これが当てにならないということが、後に不戦条約が作られる原因となった。

他方、侵略を許さない、ということであれば第10条が国際連盟のバックボーンである。条文を示すと、「聯盟国は、聯盟各国の領土保全及現在の政治的独立を尊重し、且外部の侵略に対し之を擁護することを約す」とある。確かに、後段は違反国への制裁を約束している。

この規約第10条が積極的に適用されれば、満州事変も、エチオピア侵攻も、チェコスロバキア解体も、連盟は対応できたはずである。それができなかったのは、軍事力が心もとなかったからで、連盟規約そのものの問題ではなかった。軍事力が足りなかったのは後で見るようにアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。

連盟規約の特徴の一つは、平和的紛争解決のために第12条から第15条までの条項を充実させたことである。ただし、それらは加盟国間の紛争にかぎられた手続きである。

国際連盟による紛争の平和的解決は、外交交渉がうまくいかなければ仲裁または司法的解決に、それらもうまくいかなければ理事会による審査で解決する、というものである。理事会の審査においては、その場で解決できなければ、報告書に勧告を記す。勧告は紛争当事国以外の全会一致によって合意あるものとなり、それを遵守する国と戦争することは禁じられる。紛争当事国のいずれかが要求すれば、紛争の審査は総会に回される。当事国は仲裁判断・常設国際司法裁判所判決・理事会報告書が出てから3か月間は戦争に訴えてはならない。

以上のとおり、連盟による平和的紛争解決の手続きは窮屈なくらい緻密に作られていた。理想主義が法律主義的と評されるのはこのためである。

リットン審査委員会、またはリットン調査団、は満州事変に関しての理事会審査の過程で設けられた。1931年9月18日に柳条湖事件が起きた。南満州鉄道の線路が何者かにより爆破されたと伝えられたが、実は日本の関東軍による自作自演であった。これに乗じて、関東軍は翌日、大都市の奉天を占領した。日本は当初、こうした軍事行動は領土獲得を目的としたものではないとし、撤退の方針を明らかにしていたため、連盟の理事会はその主張を承認した。

ところが翌年、満州国が樹立され、紛争は長引いた。リットン審査委員会の報告書は1932年9月に署名された。内容は、第1に線路の爆破は軍事行動を正当化しない、第2に連盟の指導のもと満州の自治と中立を実施する、というものであった[8]。その趣旨は満州を国際管理下に置くことにあり、中国側による主権の主張とも完全には一致しなかった。

満州事変の審査は理事会から総会へと移されていたが、リットン報告書よりも厳しい決議が1933年2月に採択された。それが不満で、日本代表の松岡洋右は退場した。数日後に、日本は連盟からの脱退を通告した。

当時の日本は大国とみなされていたが、大国を一方の当事者とする紛争解決は連盟でなくても簡単でない。連盟の対応で問題であったのは、極東情勢への介入をその後やめてしまったことである。連盟から脱退した国との紛争解決やそうした国への制裁がやりにくい、という規約の欠陥を、悪しき形式主義が助長してしまった。

平和的紛争解決が失敗すれば、制裁を国際連盟はすることになっていた。それが定められた連盟規約第16条は問題が山積であった。まず、制裁の対象は紛争解決の手続きを守らずに戦争した国だけであった。紛争解決の義務があるのは加盟国だけであるから、非加盟国は制裁の対象にならない、とも主張できてしまう。つぎに、制裁の内容である。きちんと書かれているのは通商・金融関係の断絶と交通の防止だけであり、腰が引けた印象を与える。そうした関係断絶や交通防止に使う兵力の分担は理事会が勧告することになっていたが、海軍と空軍で往来を遮断する程度の、とても全面戦争とは呼べない制裁が想定されていた。

これらの懸念が現実になったのがイタリアへの制裁であった。イタリアは現在のソマリアの南部を植民地としていた。そこと境を接するエチオピアは当時、アビシニアと呼ばれ、連盟国であった。

1934年、ソマリアとエチオピアの境界付近でイタリアとエチオピアの武力衝突が起きた。これをワルワル事件という。翌年、両者に事件の責任はない、という仲裁判断が出た。真の紛争解決は、ワルワルがどちらの領土に属するか?、を判断するものでなければならなかったはずである。

このように中途半端な解決が図られた挙句、その2か月後にイタリアはエチオピアに侵攻した。ただちに、連盟総会は、経済制裁を調整する委員会の設置を勧告した。その結果、金融制裁とゴム・すず・アルミ・マンガンの禁輸が実行された。禁輸品目には、鉄、石炭、そして石油といった本当の意味での戦略物資は入っていなかった。制裁の効果はなく、1936年にエチオピアは併合されてしまい、連盟の制裁は終了した[9]

以上のように、国際連盟の集団安全保障は、とりあえずは実行されるものの、手心が加えられ、実効性に乏しいものであった。仏作って魂入れず、の喩えどおり、大切であるのは手続きよりも意志であり、それがあれば第10条によって侵略に立ち向かうこともできたであろう。

サラエボ事件後の七月危機を反省して国際連盟規約は作られた。七月危機の原因である同盟政治は繰り返してならない過ちであった。規約の第20条は規約と両立しない連盟国間の条約は今後は結ばず、以前のものは廃棄する、と定めた。

例えば、A国とB国に紛争があって、これから理事会で審査しよう、という状況になったとする。本来は、現場や書類を調べて報告書に公正な勧告を書き込むべきである。しかし、第三者のC国がA国の同盟国であったとすれば、C国は審査結果を待たずにA国の味方となろう。A・C同盟が十分に強ければ、連盟は制裁を思いとどまるか、負け戦覚悟で制裁しなければならない。

このように、集団安全保障と同盟とは並び立たない。同盟を禁止するか、集団安全保障を同盟より優先するかしなければならない。連盟規約第20条の「功績」は、しいて言えば日英同盟を廃棄させたことにある。第二次世界大戦後、国際連合が同盟をどう扱ったかについては「集団安全保障と自衛権」の回で述べる。

2度目の世界大戦を国際連盟が防げなかった最大の原因は、提唱者であり、最強の国でもあったアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。では、なぜ加盟しなかったかというと、上院に反対派がいて規約を批准できなかったからである。反対派の一部はベルサイユ条約に留保を付して骨抜きにしようとした。その代表は孤立主義者として知られたヘンリー・C・ロッジ上院議員であった。さらに極端に、国際連盟自体が許せない、という和解不能派という議員たちもいた。代表はウィリアム・E・ボーラ上院議員であった。

孤立主義者たちがロッジ留保と呼ばれる留保を付けようとした条項はいくつもあった。なかでも、侵略に対して領土および独立を守るという第10条が激しく批判された。なぜなら、それは連盟理事会に侵略から守る手段を具申するように求めるからである。孤立主義者にとっては、戦争を宣言するのはアメリカ合衆国の連邦議会の権限であり、軍隊の最高司令官はアメリカ合衆国の大統領であることは自国憲法に書いてあって、妥協できなかった。言い換えれば、連盟が勝手に戦争を命じたり、軍事作戦を立てたりすることは国家主権の侵害であった。

第10条をめぐるもの以外でロッジ留保が要求された条項には、委任統治、国内管轄権、そして山東半島の権益があった。山東半島のものは、ドイツから奪った権益を日本が得ることに中国が不満で、アメリカ合衆国に働き掛けた結果であった。ウィルソンが任期を終えたのち、ボーラ議員が提案して開かれたワシントン会議で問題は話し合われ、日本は権益を返すことになる。それはともかく、ウィルソンがベルサイユ条約を守るために留保を許さなかったため、批准できなかった。

アメリカ合衆国が連盟に入らなかったせいで、軍事力による制裁の実効性は怪しくなった。「仲裁、安全保障、軍縮」の平和殿堂の三本柱が唱えられ、基本戦略の練り直しが行われた。このうち「安全保障」を強化しようとした1923年の相互援助条約草案が失敗してからは、「仲裁」に期待が寄せられた。仲裁に国際法上の紛争だけでなく、あらゆる紛争を付託するのを国家の義務としよう、というジュネーブ議定書が1924年に作成された。エドワード・H・カーは手厳しく当時の雰囲気を書いている。

抽象的な合理主義が優勢になり、だいたい1922年からはジュネーブの潮流はユートピア的な方角に力強く向いた[10]

もちろん、ジュネーブは国際連盟の本部があった町である。

国際連盟における集団安全保障の問題点を復習する。第1にアメリカ合衆国の不加盟、第2に理事会と総会の間の任務の重複である。満州事変とエチオピア侵攻の決議がともに総会で行われたように、何のために理事会が置かれているのか分からなくなった。第3に全会一致の議決である。もっとも、国際連合でも、安全保障理事会での拒否権によってしばしば決定が妨げられる似た問題がある。第4に脱退が容易であること、第5に軍事的な制裁が限定的であることである。これらの結果、加盟国は集団安全保障に不安を感じ、ふたたび同盟に頼っていくことになった。

その一方で、同盟にも欠点がある。ジョン・H・ハーツという学者が言った「安全保障のディレンマ」がそれである。ある国が軍拡に励んでも、他国も軍拡でそれに応じ、世界全体の軍備支出と戦時の犠牲者は増大する。あるいは、ある国が同盟の構築に励んでも、他国もまた対抗する同盟を構築する[11]。 やはり集団安全保障や軍縮は必要なのである。国際連盟の失敗を理想主義者の愚かさと片づけられない理由がそこにある。


[1] カント、『永遠平和のために』、宇都宮芳明訳、岩波書店、1984年。

[2] カント、『永遠平和のために』。

[3] 林董、『後は昔の記他―林董回顧録』、由比正臣校注、平凡社、1970年、284-285ページ。

[4] 林、『後は昔の記他―林董回顧録』、306ページ。

[5] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、上、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、6-7、61-62ページ。

[6] ジョージ・F・ケナン、『アメリカ外交50年』、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波書店、2000年、67ページ。

[7] Harold Nicolson, Peacemaking 1919 (Safety Harbor: Simon Publication, 2001), pp. 13-15, 34.

[8] 臼井勝美、『満洲国と国際連盟』、吉川弘文館、1995年。

[9] F. P. Walters, A History of The League of Nations, reprint (London: Oxford University Press,

1969).

[10] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan and co., 1940), p. 40.

[11] John H. Herz, “Idealist Internationalism and the Security Dilemma.” World Politics 2, no. 2 (1950): 157–80.

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平和的紛争解決

国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との関係を国際制度の変遷に言及しながら論じなさい、である。

国際の平和と安全を危うくするおそれがある紛争は平和的に解決しなければならない、と国連憲章第6章第33条1は定める。当事者どうしの交渉で解決できればよいものの、たがいに妥協を拒否してしまうとうまくいかない。そこで、第33条1は「審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他」を挙げて、平和的解決を催促する。これらはいずれも第三者を交えた過程である。それに続く第33条2・第34条・第35条・第36条は、安全保障理事会に第三者として紛争解決に関わってもらおうと設けられた仕組みである。

国際裁判の起源は諸説ある。古代ギリシャのアンピクテュオニアは有力候補の一つである。それは神殿への信仰に基礎を置くポリスの集団であり、日本語で「隣保同盟」と訳される。古代ギリシャの神殿というと、その一つで開かれたオリンピックを思い出す。諸ポリスは競技大会の開催中には休戦をした。また、デルポイのアポロン神殿は神託によってギリシャ世界の政治に大きな影響を与えた。日本の神社が祭りや武芸の奉納とならんで、神託や氏子の紛争解決を行ったのと同類のことである。アンピクテュオニアは確かにポリス間の紛争を仲裁した。しかし、宗教的な権威を背景とする点で現代の国際裁判と本質的に異なる。

中世の仲裁としては、ローマ教皇が行ったものが知られる。1493年、教皇のアレクサンデル六世は大西洋上に教皇子午線を引いた。「余は、福者ペテロにおいて余に与えられし全能の神の権威と、余が地上において執行するイエス=キリストの代理者職の権威において」、と彼はスペイン王に土地を与えた[1]。これに従うと、全アメリカはすべてスペイン側に入るはずであった。

ところが、海の覇者であったポルトガルは教皇子午線を認めなかった。1494年、ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約に合意した。この条約はブラジルをポルトガル側に組み入れた。ブラジルでポルトガル語が話されるのはこれが原因である。教皇の神通力はルネサンスによって衰え、近代の国際裁判は宗教的要素を極力、排することになった。

最初の近代的な国際裁判は1794年のジェイ条約によって付託された。英米間で委員会が作られ、領土紛争や個人の賠償事件を解決した。ただし、この「裁判」は今日的意味でのそれと趣を異にする。私たちは裁判というと、裁判所が存在し、裁判官がいて、そこに当事者が事件を持ち込めば手続きが始まり、法律に基づいて判決が出て、判決に当事者が従い、公的機関がそれを執行する、と考える。これは国際裁判においては司法的解決と呼ばれる方式に近い。

ジェイ条約に基づく国際裁判は司法的解決でなく、仲裁という方式のものであった。仲裁には大きく二つの特徴がある。第1に、事件の付託には当事国の同意が必要である。付託合意のことを、コンプロミーとフランス語起源の用語でいうことがある。第2に、常設的な裁判所に訴えるわけでなく、アドホックに、すなわち付託合意のたびに、裁判所が組織される。この二つ目の特徴は、仲裁人または仲裁裁判官は付託合意のたびに選ばれる、と言い直せる。ジェイ条約に基づく英米間の委員会は実はこの点で例外的であった。なぜなら、国際仲裁の場合は中立的な第三国の仲裁人にキャスティングボートを持たせるのが普通であるが、この委員たちは当事国である英米の国民であったからである。

仲裁の意義を世界に認めさせたのはアラバマ号事件であった。アラバマ号は南北戦争で合衆国の船を60隻以上も仕留めた南部連合の軍艦である。南部連合の軍艦は、リバプールなど中立であるはずのイギリス本国で建造されていた。アメリカ合衆国はこれを中立義務への違反と非難し、賠償を請求した。

英米は戦争の危機に瀕した。両国は1869年にジョンソン・クラレンドン条約を結んで、事件を仲裁に付託しようとした。ところが、条約は批准されなかった。合衆国の上院外交委員長であったチャールズ・サムナーが条約に反対したからである。

背景には、カナダがイギリス領であり、そこと接するアメリカ合衆国の北東部ニューイングランドに根強い反英感情が存在したことがあった。サムナーはマサチューセッツ州選出であった。

手詰まりを打開したのは政治情勢の変化であった。イギリスのウィリアム・E・グラッドストン首相は、普仏戦争に伴う他国の勝手な動きに対応できずにいた。他方、アメリカ合衆国ではユリシーズ・S・グラント大統領が目ざわりなサムナーの追い落としを狙っていた。政敵たちを出し抜こうと、グラッドストンとグラントはワシントン条約を1871年に締結した。

1871年のワシントン条約は領土、漁業権、私有財産、そして中立法に関わる事件を、ジュネーブに置かれた国際仲裁法廷に付託した。アラバマ号事件に対する仲裁判断は1,550万ドルの賠償金をイギリスに科した。参考までに、ロシアからアラスカを1867年にアメリカ合衆国が購入した代価は720万ドルであった。賠償額は戦争を防いだ「道徳的価値と比べれば、天秤のうえのホコリのようにつまらぬもの」とグラッドストンは自画自賛した。アラバマ号事件に触れた冒険小説の『八十日間世界一周』は、事件がいかに話題になったかを描く。

この「世界一周の件」は、あたかも新たなアラバマ号事件でも起きたかのごとき情熱と熱狂をもって論じられ、語られ、解剖された。ある者はフィリアス・フォッグの側についた。他の者は彼に反対の立場を表明し、この人々がほどなく圧倒的多数となるのだった[2]

ワシントン条約の成功は、国際仲裁への付託を増やした。1880年代から1930年代まで、それは主要な国際制度であり、戦争を避けることに貢献した。

日本もそうしたグローバルな傾向から自由でなかった。仲裁における日本の履歴は、苦力貿易の違法性を争った1873年のマリアルス号事件に始まった。これは勝訴と評価される。事実上の奴隷貿易を取り締まった行為はロシアの皇帝によって、合法と認められた。

続く1902年の家屋税事件は図らずも、外国人に対する不信感を生む結果になった。有能な外交官であった石井菊次郎は後年、回想して、「之より我国に於ては内外紛争を仲裁裁判に付託するも公平なる裁判は得られないとの感想が起こった」と述べる[3]

外国人を居留地に閉じ込めていた時代、外国人に土地所有権を認めなかったかわりに、永代借地権を認め、その土地の上に建てられた家屋での収入を非課税とした。明治政府は宿願であった条約改正を果たし、居留地を廃止して、外国人に土地所有権を認めることになった。もはや土地所有権も認められるので、日本政府は永代借地上の家屋に課税を始めた。意外にも、ヨーロッパ諸国はこれに異を唱えた。勝訴する自信があった日本が常設仲裁裁判所に付託したところ、敗訴してしまった。それから一世紀近く、日本は仲裁から遠ざかった。

1999年のみなみまぐろ事件は、国際海洋法裁判所における手続きと仲裁裁判所における手続きの二つがともに国連海洋法条約に基づき、同時に進んだので混乱しやすい。みなみまぐろは高度回遊性の種であるので、日本は生息域に近いオーストラリアおよびニュージーランドと、みなみまぐろ保存条約を結んだ。この条約のもと、調査漁獲の計画を作ることになったが、計画ができないまま、日本は調査漁獲を行った。オーストラリアとニュージーランドは国際海洋法裁判所と仲裁裁判所に訴えた。国際海洋法裁判所は日本の調査漁獲は違反であると暫定措置を出した。ところが、仲裁裁判所のほうは、自裁判所は日本の調査漁獲を扱う管轄権を持たないとし、国際海洋法裁判所の暫定措置は無効と判断した[4]。日本が勝訴であったか、敗訴であったか、判断しがたい。

さて、武力紛争は非武力紛争がエスカレートして起こるものである、という前提に立てば、非武力紛争を仲裁によって解決できれば、戦争は起こらない。この観点を平和的紛争解決という。

平和的紛争解決の難点は、非武力紛争を仲裁に付託する合意がなかなかできないことである。逆に言えば、付託合意が容易になれば、平和的紛争解決は成功しやすくなる。義務的一般仲裁条約では、一方の締約国が訴えれば、自動的に他方の締約国との仲裁手続きが開始されることにして、紛争解決の難点をとり除く。19世紀の終わりから、たくさんの義務的一般仲裁条約が結ばれた。

付託合意ができたならば、第2段階として仲裁裁判所が組織されねばならない。その制度化のために結ばれたのが国際紛争平和的処理条約であった。この条約は1899年の第1回ハーグ平和会議で採択された。この会議はオランダのハーグ市にある宮殿ハウステンボスにおいて開かれたが、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけにこたえたものであった。

国際紛争平和的処理条約に基づいて、常設仲裁裁判所(PCA)が設立された。その仲裁裁判官は固定しておらず、次のように選ばれる。締約国が出した候補者の名簿があり、そこから紛争当事国が各2名の仲裁裁判官を選ぶ。この4名が1名の上級仲裁裁判官を選ぶ。選ばれた5名の仲裁裁判官がその事件の裁判部を構成する。常設仲裁裁判所は、「常設」でも、「裁判所」でもない、と皮肉られるが、それは当たっている[5]

第1回ハーグ平和会議は、戦争法と人道法の進歩でも大きな成果を上げた。ハーグ陸戦条約、ジュネーブ条約を海戦に適用する条約、そして、交戦手段に関する三つの宣言(毒ガス・ダムダム弾・気球からの爆撃)が採択された。

ところが、第1回ハーグ平和会議の3か月後、イギリスはボーア戦争を始め、平和の理想は傷ついた。会議に参加していたアメリカ合衆国の海軍教官、アルフレッド・T・マハン、は義務的一般仲裁条約に反対した。それは自国の国益に反するから、という理由であった[6]

PCAはピースパレス(平和宮)というマンションのような名前の建物に入居している。このハーグに建てられた城館風の擬古的な近代建築は、アメリカ合衆国の鉄鋼王にして慈善家のアンドルー・カーネギーによる150万ドルの寄付をもとに建てられ、1913年に彼も参列して開館した[7]

PCAは21世紀になっても注目される。南シナ海問題では、中国が岩や暗礁を占拠し、領有を主張する。フィリピンは国連海洋法条約に基づき、常設仲裁裁判所に付託した。2016年、ミスチーフ礁など中国が「島」と称して領有を主張するものは「低潮高地」であり、領海および排他的経済水域を設定できない、とPCAは判断を示した。

第一次世界大戦の結果、国際連盟が設立され、やや遅れて常設国際司法裁判所(PCIJ)が開廷した。PCAと違い、PCIJでは固定した裁判官たちがピースパレスで勤務した。その意味で、真に「常設」的な「裁判所」であり、仲裁と司法的解決の違いはここにある。

国内システムの裁判所と似てきたが、一方の当事者が訴えても他方が裁判所の管轄権を受け入れなければ、審理が行われない問題が解決されたわけでない。PCIJの設立に伴い、義務的一般仲裁条約と同じように義務的一般司法的解決条約を結んで付託の自動化を約束する国々が現れた。

それとともに、PCIJ規程では新しい自動化の方式が発明された。特別議定書の手続きを定めるその第36条2にしたがうと、紛争が発生する以前に、裁判所の権限を受け入れる旨の宣言を特別議定書でした国は訴訟の被告となった時に裁判を拒めない。

PCIJの後身である国際司法裁判所(ICJ)においても、やはり規程の第36条2に、強制管轄権受諾に関する宣言の定めがあり、それを受諾し、他国に訴えられた国はICJの管轄権に服することになる。日本は1958年にこの宣言をした。

国際連盟によって平和的紛争解決は「平和殿堂の三本柱」の一つとされた。三本柱とは、紛争解決(仲裁)、安全保障、そして軍縮である。紛争が起きたならば、まずは仲裁など平和的解決の努力をする。仮にそれが失敗しても、軍縮をしていればすぐには侵略はできない。それでも情勢がよくならないならば、連盟の加盟国が力を合わせて侵略を制裁――集団安全保障――する。

平和の三本柱を組み込んだものが、1924年に署名されたジュネーブ議定書、すなわち国際紛争平和的処理議定書、であった。しかし、この議定書はイギリスが批准しなかったため反故になり、平和殿堂は幻と消えた。

審査と調停は、仲裁および司法的解決と同様、第三者による紛争解決手続きである。審査は合法や違法を判断せずに、事実認定のみを行う点が両者と異なる。

1904年のドガーバンク事件は日露戦争中、バルティック艦隊が日本海に来る途中に起きた。同艦隊が北海でイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して撃沈したのである。イギリスと日本には日英同盟があったので一時は英露関係のゆくえが心配された。両国を周旋したフランスの努力のかいあって、国際審査委員会が作られ、砲撃を正当化する事実はなかった、と審判した。ロシアは賠償し、事なきを得た。

ドガーバンク事件の解決により、審査が平和のために有用であると分かり、注目された。ブライアン条約は第一次世界大戦の直前、アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・J・ブライアンがワシントン駐在の外国使節団に呼びかけて結ばれた一連の条約である。それは常設の審査委員会を締約国間に設置する、という内容であった。二十いくつも、この提案に応じる国があったが、平和には貢献しなかったと考えられる。

調停は第三者が調停案を勧告する方式である。家庭裁判所の調停ならば、知っている人は多いであろう。調停案には仲裁判断と違って法的拘束力がない。調停役を買って出る国はあまりない。紛争当事者の恨みを買うことがあり、また、よほどの威信や権威が調停役にないと、せっかくの案が尊重されないからである。それゆえ、世界機構にこそ調停役を果たすことが期待される。国際連盟規約の第15条と国連憲章の第36条は、それぞれ連盟理事会と安全保障理事会による勧告について定める。

「1丁目1番地」という言葉は「第1の前提」や「最優先されるべきこと」といった意味である。国連憲章の第1条1は何であろうか? それは国連の目的の第1である国際の平和および安全の維持である。その方法の一つが「平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること」という条文である。このように高い期待が寄せられる国際司法裁判所(ICJ)は十分に活用されてきたか?

第二次世界大戦後、国際連盟が国際連合に取って代わられたのと対応し、PCIJはICJに置き換えられた。PCIJの日本人裁判官のなかには裁判長を務めた安達峰一郎がいた。ICJの裁判官には、前職が最高裁判所長官の田中耕太郎、同じく東北大学教授の小田滋、国連大使の小和田恒、そして東京大学教授の岩沢雄司がいる。

国際司法裁判所の15人の判事は加盟国が指名した候補者の名簿から、安保理と総会によって選挙される。裁判所の最終的な決定には判決と勧告的意見がある。判決は、当事国により付託される争訟事件に対してのものである。勧告的意見は、総会や国連専門機関によって尋ねられた問題へのものである。以下では、判決と勧告的意見の実例をいくつか見る。

初めての争訟事件はコルフ海峡事件であった。事件は1946年に起きた。イギリスの軍艦がアルバニアの領海であるコルフ海峡を通った際に、機雷に触れて爆発した。国際司法裁判所は1949年に、イギリス軍艦による無害通航権を認めてアルバニアに賠償を命じた。その一方で、イギリスがアルバニア領海の機雷を掃海する権利は認めなかった[8]。当事国が出るところに出て、解決できた、という点では国際裁判所の役割が果されたと評価できる。

領土紛争の例としてプレアビヒア寺院事件を取り上げる。これはタイとカンボジアとの争訟であるが、カンボジアがフランスの植民地であった1904年に、タイとフランスとのあいだで条約が結ばれ、これに基づき作成された1908年の地図では、プレアビヒア寺院の遺跡はカンボジア側に含まれた。この遺跡に対して、タイが領有権を主張した。

タイは1954年に遺跡を占拠し、そこにあった骨董品を移動させてしまった。国際司法裁判所は1962年、寺院はカンボジアに帰属し、タイは骨董品を返還しなければならないと判決した。ところが紛争は収まらず、武力衝突さえ発生した。2011年、カンボジアは1962年の判決の意味と範囲を説明するよう国際司法裁判所に要請した。2013年の判決は、遺跡周辺の土地の帰属については裁判所は判断しない、というものであった[9]

2025年、カンボジアとタイのあいだに大規模な国境紛争が起きた。国境問題そのものを解決することが重要であるが、これまでタイはその問題での管轄権を国際司法裁判所に認めていない。

1984年に提訴されたニカラグア事件は、超大国がICJを侮辱して痛々しい記憶を残した。アメリカ合衆国は自国が過去に行った強制管轄権の受諾をいとも簡単に覆した。

ニカラグアの左翼政権を揺さぶるため、アメリカ合衆国はニカラグアの領海と内水に機雷を敷設するなど主権侵害を行った。両国は国際司法裁判所の強制管轄権を受諾していたため、前者が提訴しようとしたところ、その間際にアメリカ合衆国が受諾を撤回した。それでも、裁判は始まり、機雷敷設等の行為を集団的自衛権の発動とするアメリカ合衆国の主張をICJは認めなかった。

日本が当事者となった争訟に、南極海捕鯨事件がある。国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨を禁止したため、日本は科学的研究のための調査捕鯨としてクジラを獲っていた。捕鯨の禁止を主張するオーストラリアは2010年、日本が科学的調査と称しているものは商業捕鯨であるとして、南極海での捕鯨を中止させるよう国際司法裁判所に訴えた。国際司法裁判所は2014 年、オーストラリアの主張を認め、日本に中止するよう命令した。2019年、日本は国際捕鯨委員会を脱退した。

勧告的意見については、パレスチナ占領地壁構築事件を取り上げる。ヨルダン川西岸地区は第三次中東戦争の占領地である。2000年のインティファーダ、すなわち人民の武力闘争、はその土地のユダヤ人の安全を脅かした。イスラエル政府は2002年、ユダヤ人居住地を囲うフェンスや有刺鉄線を建設した。しかし、これは、壁によってユダヤ人の土地とパレスチナ人の土地を分割し、イスラエルによる領有の主張を既成事実にする企てではないか?、と危惧された。そこで、国連総会は国際司法裁判所にその違法性について勧告的意見を求めた。国際司法裁判所からの答えは、壁は違法であり、すべての国は壁を承認しない義務を負う、というものであった[10]。 国際司法裁判所の紛争解決はつねに明快な結果をもたらしたわけでない。仮に判決や勧告的意見にたどり着いたとしても、紛争の根源は未解決であったり、不満な当事国は回避策を探したりしたからである。


[1] 大沼保昭、藤田久一訳、『国際条約集 2003年度版』、有斐閣、2003年、757ページ。

[2] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年、74ページ。

[3] 石井菊次郎、『外交余録』、岩波書店、1930年、256ページ。

[4] “国際海洋法裁判所 (ITLOS:International Tribunal for the Law of the Sea),” 外務省, January 4, 2024, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaiyo/itlos.html, accessed on February 15, 2025.

[5] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 246.

[6] バーバラ・W・タックマン、『世紀末のヨーロッパ―誇り高き塔・第一次世界大戦前夜』、大島かおり訳、筑摩書房、1990年。A. T. Mahan, Armaments and Arbitration, or the Place of Force in the International Relations of States (New York: Harpers & Brothers, 1912), pp. 93-94.

[7] アンドリュー・カーネギー、『カーネギー自伝』、坂西志保訳、中央公論新社、2002年、288-289ページ。

[8] 松井芳郎編、『判例国際法』、第2版、東信堂、2006年、150-155ページ。

[9] 松井編、『判例国際法』、136-140ページ。

[10] 松井編、『判例国際法』、630-635ページ。臼杵陽、『イスラエル』、岩波書店、2009年、201ページ。

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会議外交

永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。

今回のテーマは、19世紀外交を旧外交および会議外交の観点から論じなさい、である。19世紀は旧外交のもとであったものの、会議外交が国際秩序を定める一つの方式として定着した。ベンサムが提案した「議会」が実現に一歩、近づいたことになる。

しかし、会議外交の話題に進む前に旧外交について知っておく必要がある。この用語はイギリスの外交官、ハロルド・ニコルソン、によって広められた。彼自身の解説を引用する。

絶対君主制の時代には、国はその住民とともに、支配君主の絶対的所有物とみなされていた。かくして、[フランスの-訳者注]ルイ十四世や、それ以上に、[ロシアの-訳者注]エカテリーナ二世や[プロシアの-訳者注]フリードリヒ大王は、対外政策の遂行、平和か戦争かの問題を自己の掌中に保持していたのである[2]

つまり、旧外交とは、戦争・平和・同盟などに関する意思決定権を絶対君主が握っていたことをいう。これは17世紀と18世紀には統治一般の原則でもあり、民主主義と相反した。

閨房外交という用語がある。閨房が寝室という意味であることから、君主の私生活により影響される外交のことである。ニコルソンはマムズベリー伯ジェイムズ・ハリスの回想録を引用する。1779年、ロシアのエカチェリーナ二世を誘って同盟を結ぶため、イギリス政府はハリスをサンクトペテルブルクに派遣した。容姿がよかったので、女帝のお気に入りになったという。ハリスの日記からの引用である。

―前略―仮装舞踏会で、コルサコフ氏が余の許へやってきた。そして、自分のあとについて来て欲しいと言って、裏道を女帝陛下専用のお化粧室へと余を案内した。そして余を女帝陛下に御紹介申し上げるやただちに退室した[3]

フランスのベルサイユ宮殿を訪れれば、寝室が公務の場であった光景を思い浮かべることができる。閨房外交は常態であったのである。

宗教改革までは、封建的な序列がそのまま通用した。教皇が諸国をリストに載せる際の1504年における順序が残されている。それによると、ローマ教皇が首位で、神聖ローマ帝国皇帝がそれに次ぎ、皇帝の推定相続人、フランス王、スペイン王、アラゴン王、イングランド王……と続いた。

ところが、宗教改革後、プロテスタントに転じた国々は、これまで絶対的な基準であった教皇の権威を認めなかった。国家の地位を上げるためには、もはや各国の自助努力によるしかなかった。

各国は都合の良い根拠を示して、自己の地位を主張した。例えば、王号の古さを根拠として持ち出す国があった。フランスは482年におけるクロービスのフランク王即位、スペインは718年におけるアストゥリアス王国成立、イングランドは827年におけるエグバートのイングランド統一、とまるで小学生の口げんかのように競いあった。これは国際法秩序のなかでの古さであり、東洋のオスマン帝国や日本は19世紀にそこに入ってからの年数しかカウントされなかった。

席次争いの熾烈さを伝える事件がある。1661年、ロンドンでフランスとスペインの使節団が馬車の順番をめぐって暴力事件を起こした。この争いはちょうど百年後に、ブルボン家内の格式の問題として解決された[4]

こうした封建主義を根底から覆したのがナポレオン・ボナパルトであった。彼は神聖ローマ帝国を1806年に滅ぼした。最高位の外交官である大使の交換はフランス宮廷と大国とのものに限定し、ボナパルト家を頂点とする事実上のヨーロッパ帝国を築こうとした[5]。彼は旧外交のパーツを使って自らのピラミッドを組み立てたのである。しかし、家柄的には成り上がり者であり、また、国境を好き放題に改編したので、結局、旧勢力の包囲網によって彼は倒された。

ナポレオンの没落後、封建秩序が復古された。舞台となったのは1814年から翌年にかけてのウィーン会議であり、ナポレオンと戦った大同盟が戦後処理を行った。

物見遊山の客を含めるとウィーン会議のために10万人が押し寄せた。政府関係者だけでなく、今でいうNGOやロビイストも来ており、ドイツ書籍商組合は出版の自由や著作権の保護を訴えた[6]

「会議は踊る」といった遊びにかまけたイメージがウィーン会議には付きまとう。ホストであったオーストリア外相クレメンス・フォン・メッテルニヒは次のように弁解する。

元帥リーニュ大公の言葉、「<会議>は踊る、されど進まず」は、当時の新聞がこぞって取りあげた。<会議>のあいだ、ウィーンの市中には大勢の供揃えを引き連れた多数の君侯とたくさんの観光客がいた。これらの客人に社交界の慰めと楽しみを供するのは帝国宮廷の義務だった。しかし、祝宴と<会議>の仕事とに共通するものは何もなく、祝宴によって仕事に支障が生じることなど少しもなかった。<会議>の期間が短かったことがその具体的証拠である[7]

1931年のドイツ映画『会議は踊る』は、メッテルニヒが敵役のロシア皇帝アレクサンドル一世を遊興にうつつを抜かせるため、会議を踊らせた、という筋書きである。オーストリアとロシアが対立したことは史実である。では、何をめぐって対立したかというと、領土的解決の問題であった。

戦後処理の大方針は、戦争の惨禍と自由主義の蔓延を反省し、旧来の絶対君主に領土を回復させて安定したヨーロッパを再建することであったが、これにはコンセンサスが存在した。

細部で五大国の意見が鋭く対立したのは個別の領土的変更であった。ロシアはポーランドの領有を求め、プロイセンはザクセンを求めた。ザクセン王は親ナポレオンであったことがあだとなり、国を奪われようとしていた。

オーストリアとしては正統主義を貫くことで会議を成功させたかったので、正統な領土請求権があると考えられないロシアとプロイセンに屈するわけにいかなかった。思い通りにいかないロシア皇帝がメッテルニヒに決闘を申し込む、と噂さえ立った。ザクセンについては、策謀家として知られるフランス外相のタレランがザクセン王から金銭を受け取り、領土回復を取り計らったという[8]

オーストリア、フランス、そしてイギリスは攻守同盟の三国秘密協定を結んで、ロシアとプロイセンに対抗した。結局、ポーランドはロシア皇帝を国王とする同君連合に組み入れられ、かろうじて国家体制だけが残された。ザクセンは北半分がプロイセンに割譲されることで妥協が成った。

高坂正尭は、会議は踊るとはコンセンサスができるまで「待つため」、全体会議を開催するかわりに舞踏会を開催したことであると解説する[9]。仲間割れにより会議が決裂することを避ける機能を舞踏会は担ったことになる。

ウィーン会議で合意された最終議定書は、正統主義に基づきながらも戦勝国に戦利品を与える領土的変更を主な内容とした。その一方で、附属書で定められたことにも、見るべきものがあった。ドイツ連合憲法、スイスの永世中立、アフリカ人奴隷貿易廃止列国宣言、国際河川の自由航行、そして外交使節席次規則がそれである。

外交使節席次規則は第1条において、外交使節を大使、公使、そして代理公使の三つの階級に分けた。席次もこの順を原則としつつ、同一階級内では着任が早い順とされた。つまり、同一階級内では王号の古さも宗教への信心も無関係とされた。

ただし、大国と小国との峻別は残った。そもそも、大使か、公使か、を決めるのは双方の合意によるのであるから、一方が他方に、あなたの国は大使を派遣する資格がない、と言えば、大使は派遣できないことになる。つまり、自他ともに大国と認める国どうしだけが大使を交換できる。ビクトリア朝の初め、イギリスはフランス、ロシア、そしてトルコのみからしか大使を接受しなかった。そして、大使会議が行われる場合には、公使は出席を拒否された。

メッテルニヒはウィーン会議について後年、「こうして、ヨーロッパは可能な範囲内で、恒久的な平和を保証されたのだ」と自画自賛した[10]。それは五大国によるコンサート、つまり協調、であり、1818年のエクス・ラ・シャペル(アーヘン)、1820年のトロッパウ(オパバ)、1821年のライバッハ(リュブリャナ)、そして1822年のベローナと一連の会議へと引き継がれた。

ウィーン体制はさまざまな部品からできているが、ドイツ連合もその一つである。フランクフルトに連合議会があり、「連邦」と呼んでしまいたくなる。実際、ドイツ語では連合と連邦の区別はない。

ドイツ連合の主な役割は、ナポレオンを生んだフランスからの防衛である。連合軍にはプロイセンのような軍事大国から、田舎町くらいの極小国までが兵力を出す。

他方で、ドイツ連合は自由主義思想に対する防波堤でもあった。1819年のカールスバート決議は、危険思想の教育者を解雇し、図書・新聞を検閲し、そして革命運動を監視する委員会を置くという内容であった[11]

自由主義とは何か?、というと、政治的には、普通選挙で選ばれた議会の多数で法律を定める国家体制である。絶対君主の後継者たちは、身分制議会や制限選挙で自由主義の波をしのぎたかった。しかし、1848年にヨーロッパに広がった革命は容赦なく正統主義とウィーン体制を終わらせてしまった。

ところが、革命の波はロシアによって東から押し返された。そのロシアを西ヨーロッパの国々が負かしたのが1853年に始まったクリミア戦争である。聖地エルサレムの管理をめぐってロシアとオスマン帝国が対立し、オーストリアが仲介しようとしたものの、イスタンブールに駐在していたイギリスの大使がスルタンをたきつけて、ロシアとの軍事衝突が起きた。イギリス、フランス、そしてサルデーニャがオスマン帝国側に立って参戦し、勝負を付けた。

その講和会議が1856年のパリ会議である。結ばれたパリ条約は、オスマン帝国の独立と領土保全を他の締約国が保障し、さらにモルダビアとワラキアの自治が決められた。ロシアについては、黒海の非武装化が押し付けられた。パリ宣言という、交戦国と中立国との海洋における戦争法も作られた。

戦争の後始末という点では、1878年の第1回ベルリン会議も同じである。バルカン半島の領土をめぐって露土戦争が起きた。その講和であるサンステファノ条約では、ブルガリアの巨大な領土が構想されており、オスマン帝国が形だけの存在になる、とイギリスとオーストリアが危機感を持った。仲介人を買って出たのはドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクであった。当時の大国すべてがこの会議に参加した。オーストリアハンガリー、フランス、ロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、そしてオスマン帝国である。これらはたがいに大使を送る大国クラブであった。こうして、オスマン帝国はふたたび救われた。

パリ会議と第1回ベルリン会議は東方問題、すなわちオスマン帝国の問題、を扱った。1884年から翌年にかけての第2回ベルリン会議は、アフリカ大陸の分割を議題とした。コンゴを植民地にしようとするベルギーのレオポル二世が、大陸南部を支配下に収めようとするイギリスおよびポルトガルの動きに危惧を抱き、ビスマルクを頼って開かれたものである。これをきっかけに、それまで沿岸部だけであったアフリカの植民地化が内陸にまで及んでしまった。

ところで、日本語では同じくベルリン会議と呼ばれるものの、英語では、第1回のものはコングレスで、第2回のものはコンファレンスである。20世紀初頭まで、コングレスのほうが平和条約の交渉といった重要な議題を扱い、威厳のある印象を与える会議であった[12]。第一次大戦後には、コンファレンスのほうが一般的になる。

以上のように旧外交は、国内では絶対主義、国際的には大国と小国の峻別、という身分制を前提とした。20世紀に現れる「新外交」は、ニコルソンによると、国民全体を代表しての外交であり、平等な主権国家間のフラットな関係を前提とする。二国間の外交でも、国際連合等の多国間の外交でも、現代では新外交が一般的である。

外交官の出自についても旧外交と新外交には違いがある。旧外交では外交官は貴族の職業であった。007ことジェイムズ・ボンドに出くわしそうなゴージャスなホテルやリゾートのイメージである。パーティは私費でまかなわれ、自邸に招待するものであったので、外交官になるには財産資格まであった。他方、現代の外交官は庶民でかまわない。ただし、積極的に庶民を採用するか、これまでどおり名家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんを採用するか、は国により方針に違いがある。


[1] Jeremy Bentham, “Plan for an Universal and Perpetual Peace,” in Saint-Pierre, Rousseau, and Bentham, Peace Projects of the Eighteenth Century (New York: Garland, 1974), pp. 26-31.

[2] H・ニコルソン、『外交』、斎藤真、深谷満雄訳、東京大学出版会、1968年、54ページ。

[3] ニコルソン、『外交』、55ページ。

[4] Ernest Mason Satow, Satow’s Guide to Diplomatic Practice, edited by Lord Gore-Booth and Desmond Pakenham, 5th. ed. (London: Longman, 1979), pp. 21-22.

[5] 木下郁夫、『大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢』、社会評論社、2009年、53-55ページ。

[6] 幅健志、『帝都ウィーンと列国会議』、講談社、2000年、136-137ページ。

[7] メッテルニヒ、『メッテルニヒの回想録』、安斎和雄、安藤俊次、貴田晃、菅原猛訳、恒文社、1994年、241ページ、原著者注。

[8] ジャン・オリユー、『タレラン伝』、下、宮沢泰訳、藤原書店、1998年、995ページ。

[9] 高坂正尭、『古典外交の成熟と崩壊』、第4版、中央公論社、1994年、358ページ。

[10] メッテルニヒ、『メッテルニヒの回想録』、252ページ。

[11] Frederick K. Lister, The Later Security Confederations: The American, “New” Swiss, and German Unions (Westport: Greenwood Press, 2001), p. 122.

[12] Ernest Satow, A Guide to Diplomatic Practice, vol. II (London: Longmans, Green and Co., 1917), pp. 1-2.

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国際法の発達
https://youtu.be/Q2qWLEDi81s 国際法は法なのか?、という問いがしばしば投げかけられる。法でない、と言う場合、理由はさまざまである。条約が結ばれていても遵守されるとはかぎらない。理想が書かれているだけで、そもそも現実とはかけ離れている。条約に入っていない国は縛られない。さらには、秩序は法ではなく力が支えている、と枚挙にいとまがない。 国際法の根拠はラテン語の格言で、パクタ・スント・セルワンダ、すなわち…
領土保全
https://youtu.be/f6AEKT52dDg 領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸…
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テロリズム
テロリズムは二つの意味で論争的な暴力である。一方で、それは勝ち負けでなく、論争の存在を公にさらすことが目的である。暴力による破壊には、当然視されていること、あるいは既定のことを疑わせる効果がある。他方で、暴力を振るうことは正当とも、不当とも、人によって評価が分かれる。意図または目的といった主観的な要素はテロリズムの定義からぬぐいされず、それらが正しいと思う人にはテロリズムは正当である。民族解放の…
Geminiさんの答案 研究各論(国際政治経済)2025前期
アメリカ合衆国に対する日本の国際収支における「デジタル赤字」はなぜ拡大しているのか? そして、なぜそれは問題視されるのか? 具体例を挙げて、論理的に説明しなさい。 大要因とその問題点 1. はじめに 「デジタル赤字」とは、日本の国際収支統計における「サービス収支」のうち、通信・コンピュータ・情報サービスや著作権使用料など、デジタル関連の取引において支払額(輸入)が受取額(輸出)を上回っている状態を指す。202…

主権国家

なぜ存在するのか?、と、すでに存在する国家について問うのは哲学者くらいである。アリストテレスは、国家は人々が「よく生きるために存在する」と述べた。他の動物と違い、人間は、善と悪から善を、正と不正から正を選ぶことができる。そして、他人とその選択を共有することができ、国家を作る。ゆえに人間は政治的(ポリス的、国家的)動物である、と彼は導く[1]

このように、古代ギリシャの国家には強い存在理由があった。個人の主体的な選択によるというのは一種の社会契約論であり、フィクションである。直接民主制に参加することによる一体感が、フィクションの契約を事実であるかのように錯覚させた。男性市民としての連帯責任が、悪法も法なり、と観念させたにちがいない。アリストテレスの師であるプラトンが記した『ソクラテスの弁明』から引用する。

―前略―祖国が忍従を命ずるものは、それが殴打であれ、投獄であれ、また負傷もしくは戦死のおそれのある戦場に我らを送ることであれ、黙ってこれに忍従しなければならない。これは為すべきことでありまた法の要求するところである。我らは逃亡したり退却したりその持場を棄てたりすることなく、むしろ戦場においても、法廷においても、またどこにおいても、およそ国家と祖国との命ずるところはこれを実行しなければならない[2]

時代は下って、中世キリスト教世界においては、もはや住民全員がガバナンスに直接参加することはなかった。支配者と被支配者は分離された。民衆は無視されていたわけでない。トマス・アクィナスによると、統治の目的は死後の浄福、つまり天国に行くこと、である。しかし、役割を与えられるのはもっぱら聖職者と王である。王は、「神の法[神法-訳者注]に通暁し、いかにすればかれの治下にある民衆が善く生きることができるか、を主要な関心事としなければならない」。民衆の善き生活のために王が果たす役割は三つ、すなわち、平和、善き行為への導き、そして物資の充実である[3]。他方、民衆は導かれるまま、選択の余地はなく、受け身の存在であった。

今回のテーマは、近代国際システムの形成と国家理性の概念について論じなさい、である。国家理性またはレゾンデタ(raison d’État)とは、国家にとっての行動原則である。以下の議論は主にドイツ人政治学者フリードリヒ・マイネッケに依拠する。彼はベルリン大学教授などを歴任し、『近代史における国家理性の理念』を著した[4]。上の古代ギリシャと中世キリスト教世界の例は、それを補うために筆者が加えた。

国際システムを構成する単位は主権国家であり、それらが複数、存在してシステムを成す。主権には対内的なものと対外的なものの両面がある。中世の封建システムが崩壊し、近代の主権国家システムが形成されるには、その両方において変化が必要であった。すなわち、対内的主権では、王(主権者)に権力が集中しなければならず、対外主権では、帝権・教権が崩れ、外国の内政干渉が除かれねばならなかった。

日本とヨーロッパは似ているが、ここではヨーロッパを念頭に置く。一般民衆の上には世俗の権威と宗教の権威の二つが並び立った。世俗の権威では頂点に皇帝がおり、そのもとに王がいて、民衆の直接の領主である諸侯が皇帝を支えた。宗教の権威は教皇に発し、大司教、司教、司祭へと下り、民衆に到達した。

しだいに、帝権はオーストリア領内だけにしか及ばなくなった。その外では、別の世俗権力が他の権力を排除し、最終的に、国家を代表して外交を行うようになった。国家理性とは、この歴史的事業における試練に立ち向かい、運命を切り開いた主権僭称者たちの意識にほかならない。

皇帝を頂点とする世俗権力の崩壊が最初に起きたのはイタリアであった。小さな都市国家が分立し、それぞれが遠方の異国と通商をする経済力を持っていた。15世紀には、最初の外交使節と目されるニコデモ・ダ・ポントレモリがミラノを代表してフィレンツェに常駐した[5]。近代外交の特徴である相手国の首都に大使館または公使館を置くことがここに始まった。規模の小さな都市国家は絶えざる戦争に耐えきれず、ベネツィアと教皇庁(とサンマリノ)以外は滅びゆく運命にあった。

都市国家の一つ、フィレンツェ共和国、において名著が生まれた。ニッコロ・マキアベッリの『君主論』(1532年刊)である。宗教的な思考をした中世のアクィナスらと違い、彼は国家(stato)に注目した。国家は当時の語感では事実上の影響力・権威・権力といったものであったとされる。日本の戦国時代に喩えれば、役職の整った室町幕府というよりも、織田信長の上洛まえに彼の取り巻きであった家臣団といったところであった。ともかくも、同書は力の政治、すなわち「ライオンの力と狐の狡知」を指導者に教え、保身のためには軍事や策謀を駆使すべし、と勧めた。国際政治学における現実主義の始まりをマキアベッリに求める説がある。

マキアベッリの哲学は、当時の小君主が置かれた環境の厳しさを反映した。彼が求めたものは運命を克服するだけの力量を備えた君主であった。つまるところ、そうした人物は保身のためなら何も厭うものがない暴君である。人民は蹂躙されるだけの客体にすぎず、その幸福はまったく視野の外であった。こうした国家理性は教会勢力を敵に回した。『君主論』は暴君志願者の需要に応え、今なお出版部数を増やす。

そのころ、マルティン・ルターが95か条の論題(1517年)を示し、宗教改革が始まった。ドイツと北ヨーロッパのルター派、そして、スイス・オランダ・フランス・スコットランドのカルバン派が大きく勢力を伸ばし、カトリック教会と戦った[6]

封建時代の紛争は家と家との対立から起きた。ウィリアム・シェイクスピアが書いた戯曲『ロミオとジュリエット』の悲恋はイタリアの都市国家ベローナを舞台とするが、両家ともカトリックの信仰であった。宗教改革の時代には、家と家との争いに神をめぐる争いが加わった。教会は仲裁者であることをやめ、最も強硬な当事者になった。大貴族ともなれば、領地の礼拝がどの宗派になるかは住民を巻き込む公的な争点である。国民の大多数がカトリックであったフランスにおいては、ユグノーすなわちカルバン派の代表であったアンリ四世さえ改宗しなければならなかった。

宗教和議のモデルは1555年におけるアウクスブルクの宗教和議である。要点は二つであった。一つは、君主が領土の宗教を決定できること、ラテン語ではクイウス・レギオ、エイウス・レリギオである。もう一つは、その領地の宗教が嫌である者は移住しなければならないことである。どの宗派を信じる者が正統な君主であるか決まって、はじめて宗教和議は真の和議になる。真の和議を平和的に決められないので、結局は戦争になる。

宗教戦争は血なまぐさい。フランスのユグノー戦争では1572年にサンバルテルミの大虐殺が起きた。ユグノー側は、後にフランス王アンリ四世となるナバラ王アンリを擁した大貴族ブルボン家を主な戦力とし、これにイギリスやドイツ諸侯といったプロテスタント諸国が加勢した。対抗するカトリック側の中心は、ギーズ公アンリを始めとする大貴族ロレーヌ家であり、教皇庁やスペインが応援した[7]

では、その上に立つ王家はどうであったか? 王妃カトリーヌ・ド・メディシスが夫であり王であるアンリ二世の死後、摂政となり、家長となっていた。彼女は対立する両派のバランスを権力の基礎とするやじろべえ的な存在であった。それゆえ不安定で、無力であり、両派の妥協を目指した。

王に力がなければ主権の確立は夢物語である。それに気づいたポリティーク派という人々が現れ、国家の集権を第一に置く改革を主唱した。なかでもジャン・ボダンの『国家論六巻』(1576年)は「主権とは国家の絶対にして永続的権力である」と述べ、立法権、外交権、人事権、終審裁判権、恩赦権、貨幣鋳造権、度量衡統一権、そして課税権という固有の権限を挙げた[8]。ブルボン家がすったもんだの末、王位を得た後は、フランスは主権を強化し、絶対主義を打ち立てた。

同じころ、ヨーロッパ各地で軍隊の改革が行われた。長槍兵による槍衾の戦術が発達したことによって、騎士が没落し、傭兵であるフリーランサーが活躍するようになった。常備軍もマキアベッリによるフィレンツェでの導入は早すぎたものの、オランダではオラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウが行ったマスケット兵の軍事教練が成功した[9]。マスケット兵は金銭的費用はかかるものの、馬を養う広大な牧場は不要である。軍隊制度の変化は中央集権化に拍車をかけた。

ただし、神聖ローマ帝国だけは中央集権化に逆行した。一つの理由は、国家体制そのものの形骸化が進んでいたことにある。皇帝はハプスブルク家が1438年から1806年までほぼ独占した。これは権威が安定していたから、というよりも、帝位による特権はほとんどなかったために、多大な犠牲を払ってまで諸侯は独立戦争をする価値がなかったからである。帝国議会と帝国裁判所も、時とともに実質を失った。まるで室町幕府のようである。

権威失墜の一つの理由は、神聖ローマ帝国という名が示すように、帝国はカトリックと不可分の関係にあったことにある。宗教戦争である三十年戦争では、国教について妥協するつもりがないため、戦いは長期化した。

分権化したドイツを舞台とする三十年戦争は、内戦よりも国際戦争のイメージが合う。カトリック側の皇帝兼オーストリア大公はアルブレヒト・フォン・バレンシュタインに傭兵隊を指揮させ、同盟の主力となった。バイエルンとスペインがこれを支えた。対するプロテスタント側からはプファルツ、ザクセンバイマルなど多数の諸侯が参加し、ノルウェー、 スウェーデン、そして戦争後半のフランスと外国からの介入は間断なく続いた。長期化の原因は宗教の分裂だけでなく、国際的連帯にもあった。

内輪もめが果てしなく続いたドイツを尻目に、フランスは新しい歴史段階に入った。その大臣リシュリュー公は、カトリックの高位聖職者である枢機卿であったにもかかわらず、1635年に自国をプロテスタント側に立って参戦させた。中世においては十字軍がそうであったように、宗教的に正しいかどうかが理性の判断基準であった。ところが、リシュリューは徹底的な現実主義者であり、国家の行く末に思いをめぐらせた。リシュリューの言葉のなかから、ヘンリー・A・キッシンジャーは次のものを選んだ。

国家的な問題の中においては、力が持つ者がしばしば正しいのであって、弱い者は世界の多数を占める意見の中で何とか悪いと言われないようにすることのみが可能なのである[10]

力が第一、宗教は二の次である。少数者はいじめられるという勢力均衡の見方をリシュリューは重んじた。同じ人物が国内ではユグノーを弾圧し、貴族の権限を削り、絶対主義を強化した。国家が宗教から自由に独自の理性を持ち、対外政策を決定する、という国家理性が確立したのである。

三十年戦争を終わらせるため、ウェストファリア(ベストファーレン)地方の二つの都市で講和会議が始まった。スウェーデンとは新教都市オスナブリュックにおいて、フランスとは旧教都市ミュンスターにおいて、ドイツ諸領邦は講和交渉に臨んだ。

ウェストファリア条約は他の平和条約同様、重要な領土的解決を伴った。スイスとオランダは独立が正式に認められた。フランスはアルザス・ロレーヌを蚕食し始めた。スウェーデンはバルト海南岸まで獲得し、北方の強国になった[11]

より重要であったのは、条約が神聖ローマ帝国の国家体制を変質させたことである。ただし、帝国の主権が確立したのではなく、臣下である諸領邦の主権が確立した。いわば下剋上である。

まず、対内的主権については、宗教和議が成立した。領土の宗教は1624年1月1日の現状に固定し、君主も変更できない、というものである。ただし、住居のなかで私的に他の宗派を信仰することは自由である。帝国議会において宗教上の決定はコンセンサスに則って行うことが定められた。両宗派が対立する場合にはコンセンサスは不可能であるから、帝国は宗教的に意味あることはできなくなった、と解釈される[12]

対外的主権についても、帝国は完全に無力化された。皇帝はあらゆる決定に議会の承認を要するということであるから、帝国としての行動の自由はないに等しい。さらに、諸領邦は外国と条約を締結することができることになり、勢力均衡のプレイヤーになった。

領邦はもはや主権国家と呼べるのでないか? 17世紀後半、国際法学者のザムエル・フォン・プーフェンドルフは自問自答した。ドイツは君主制なのであろうか? 貴族制なのであろうか? それとも、民主制なのであろうか?、と。出した答えは、「制限された君主制」と「主権国家のシステム」の間を揺れ動く「何かいびつなモンスターのようなもの」であった[13]。神聖ローマ帝国の紋章は双頭の鷲である。帝国は、広げたその翼に諸領邦の紋章を配して描かれる。1羽なのか、何羽なのか分からないそのさまがプーフェンドルフには「いびつ」と感じられたのである。

ウェストファリア条約の結末を要約すれば、次のようになる。すなわち、もはや、教皇もハプスブルク家も、カトリックの信仰を強制することができなくなった。教皇と皇帝の権力が他の主権国家の上に君臨するのではなく、主権国家が自らの意思で外部の主権国家と関係を取り結ぶようになった。最後に、主権国家間を結びつける最重要の手段は、それらの間の条約となった。いわゆるグロティウス的な国際法秩序が打ち立てられたわけである。

「朕は国家なり」とルイ十四世は言ったとされる。君主に対する貴族の抵抗は弱まり、絶対主義と呼ばれる自由な権力行使を君主たちは楽しんだ。ところが、外国に対しては自由はなく、諸国は領土をめぐって戦争を繰り返した。どの国も単独では優位に立てないゆえに、国益に基づき判断して、他国と連携する。それこそ勢力均衡である。

プロイセンのフリードリヒ二世(大王)は勢力均衡外交の優等生であった。ドイツに対するフランスの意図について、彼の分析を引用する。日本語訳は石原莞爾である。

ヴェルサイユの政府は、オーストリイの権力が破滅すること、しかもそれが永久に滅亡するものと堅く信じてゐた。オーストリイの廃墟の上に、フランスは互に均衡を保ち得る四つの君侯を造らうと考へてゐた。すなはちハンガリイ王国とオーストリイ、シュタイエルマルク、ケルンテンとクラインとを包含すべきハンガリイ女王、ボヘミヤ、ティロールおよびブライスガウの主君としてのバイエルン選定侯、ニイダア・シュレジヤを併合するプロシャ、それから最後に、オーペル・シュレジヤとメーレンとによつて強大になるザクセン選定侯、この四人の隣人は永久に和解しないだらう。そしてフランスは、仲裁者の役割を引受けて、自ら任じた主権者を思ひのままに支配しようと心構へてゐた。さうなれば、共和政治の最もかがやかしい時代の、ローマ式政治が復活しただらう[14]

つまり、諸領邦をたがいに戦わせて漁夫の利を得ようとする分割統治がフランスの本意であった、と大王は見抜いた。オーストリア継承戦争(1740-1748年)では、プロイセンとフランスは共闘したものの、次の七年戦争(1754-1763年)では、オーストリアが宿敵フランスと組むという外交革命が起きたため、プロイセンはひるがえってフランスとザクセンに先制攻撃を加えた。対外政策における大王の国家理性とは、勢力均衡を正しく計算して勝利を収めることである。自ら陸軍参謀として満州事変を計画した石原はこれを訳して何を考えたか?

実はフリードリヒ二世は内政でも国家理性に大きな足跡を残した。上で見た好戦的態度に反し、王太子時代に『反マキアベッリ論』を著して、人民の幸福を顧みないマキアベッリを批判した。即位してはじめは「人民第一の従僕」と自称して人民に奉仕しようとしたが、宗旨替えして「国家第一の従僕」と唱えるようになった。「人民」と「国家」の間にはニュアンスの違いはあるが、被治者の幸福を国家理性の目的としたのは同じである。穿った見方をすれば、幸福とは何か?、を定義するのは君主である彼自身であるから、それらの標語は自己正当化以外の何物でもない。オーストリア継承戦争や七年戦争での戦いぶりを、どうしてマキアベッリ的でないと言えようか?

そうした絶対君主と国民とのギャップが許容できなくなるのは、フランス革命が起きてからである。国力を強くするには国民の団結が必要であると考えられた。それは自由を掲げて絶対君主たちを敗退させたナポレオンの記憶が鮮烈であったからであろう。そうした感覚をよく伝えるレオポルト・フォン・ランケの文章を引用する。

すべての国家成員の自由意志に拠る完全な一致団結無しに国運の偉大な伸展が獲得されるなんてことは断じて有り得ないよ。国家成員を一致団結せしめるような理念の隠れた働きがあってこそ始めて巨大な共同体が漸次出来上がって来るんだ。一人の天才が現れてこうした理念の活動を指導するなら、それはなんと言う幸運なことだろう[15]

以上の歴史では、国家と人々との関係は、すべて国家の側から決められた。それにたいし、個人、すなわち下からのニーズにより国家は作られるとする弁証法を考案したのはゲオルク・W・F・ヘーゲルであった。家族では足りないものを市民社会で補い、市民社会では足りないものを国家で補う。こうして人間が倫理的に生きるために不可欠な共同体としての国家が誕生した。とはいえ、国家が国民の福祉を精力的に追求すると、他国との戦争が避けられなくなる[16]

ヘーゲルの時代では、国家間の抗争は望ましいことであった。全世界の人々のためにグローバルガバナンスを実現しようという発想はなかった、とは言わないが、あくまで国家を手段としてそれは実行されるのである。カントは実在の国家によらず、超越論的な世界市民論に思いをはせたが、20世紀でも政治哲学の主流にはならなかった。


[1] アリストテレス、『政治学』、牛田徳子訳、京都大学学術出版会、2001年、8ページ。

[2] プラトン、『ソクラテスの弁明・クリトン』、久保勉訳、岩波書店、1964年、81ページ。

[3] トマス・アクィナス、『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』、柴田平三郎訳、慶応義塾大学出版会、2005年、84ページ。

[4] フリードリヒ・マイネッケ、『近代史における国家理性の理念』、菊盛英夫、生松敬三訳、新装版、みすず書房、1976年。

[5] Ernest Mason Satow, Satow’s Guide to Diplomatic Practice, edited by Lord Gore-Booth and Desmond Pakenham, 5th. ed. (London: Longman, 1979).

[6] 高沢紀恵、『主権国家体制の成立』、山川出版社、1997年、35ページ。

[7] 桐生操、『王妃カトリーヌ・ド・メディチ』、新書館、1982年。

[8] 佐々木毅、『近代政治思想の誕生』、岩波書店、1981年、39-40ページ。

[9] ウィリアム・H・マクニール、『戦争の世界史 技術と軍隊と社会』、高橋均訳、刀水書房、2002年、184ページ。

[10] ヘンリー・A・キッシンジャー、『外交』、岡崎久彦監訳、日本経済新聞社、1996年、73ページ。

[11] 高沢、『主権国家体制の成立』、51ページ。

[12] Stephen D. Krasner, Sovereignty: Organized Hypocrisy (Princeton: Princeton University Press, 1999), pp. 79-81.

[13] Samuel Pufendorf, The Present State of Germany, trans. by Edmund Bohun (London: Richard Chiswell, 1696), pp. 152-154.

[14] フリードリヒ二世、『我が時代の歴史』、石原莞爾、国防研究会訳、中央公論社、1942年、125-126ページ。

[15] ランケ、「政治問答」、『政治問答 他一編』、相原信作訳、岩波書店、1941年、35ページ。

[16] 岩崎武雄編、『ヘーゲル』、中央公論社、1997年。

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期末試験チャレンジ 研究各論(国際紛争)2025年度後期
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核軍縮・軍備管理レジーム
唯一の被爆国である日本は核軍縮から腰が引けていて、「究極的廃絶」とか、「現実的かつ漸進的なアプローチ」とか、「実際的かつ効果的な措置」とか唱えている。一歩ずつ進んでいこう、という趣旨であろうが、日暮れて途遠しの喩えどおり、ゴールにたどり着くか疑わしい。その点では、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領が唱えた「核兵器のない世界」も大差なかった。日米の核軍縮政策の実態は、廃絶でも虐殺でもなく、「核兵…
人工知能
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自由主義モデル

グローバルガバナンスについて語ることは、神や仏を語ることと、さほど変わらない。災害、貧困、病気、あるいは戦争などの苦しみを人類はまだ克服していない。数千年間、神や仏の救いを求める人々が聖像に託したものを、現在、グローバルガバナンスの概念が引き受けようとしている。

一握りの人々にとっては、グローバルガバナンスは理想主義的な国際連合のイメージである。それは慈悲深く、人類を救う世界政府である。理事会、総会、事務局、そして専門諸機関が描かれた機構図は、ありがたい現代のマンダラである。実際は、社会科学の概念にすぎないグローバルガバナンスに人間を救う力はない。

理念(イデア)を究めることによって、グローバルガバナンスの実像に迫ることはできないか? ガバナンスはコーポレートガバナンスが企業統治と訳されるように、統治を意味する。もともとは船のかじ取りを意味するギリシャ語がその語源であった。目的地に向かうにせよ、魚を釣るにせよ、船にはかじ取りが必要である。

船のかじ取りとガバナンスはたしかに似ている。船に目的地があるように、ガバナンスには目的がある。そこに到達するために、船は舵を取り、ガバナンスは意思決定をする。船はスクリューで進み、ガバナンスは官公庁などが推進する。

ジェイムズ・N・ローズノーという学者の場合は、「秩序プラス意図性」であるとガバナンスを解説した[1]。秩序とは、物事が規則に従っていることである。規則といっても、法律のような静的で画一的なものばかりでなく、物価・所得・出生率など統計諸指標をバランスをとりつつ管理する動的過程も含まれる。他方の意図性は機能や目的適合性と言い換えられる。どの目的や価値観を志向するかにはじまり、それを実現するためにはどの手段や指標を選ぶべきかが問題になる。

よって、本書は次のようにガバナンスを定義する。共同体において定められた意図または目的に注目し、現実がそれにどの程度、または、どのように従っているかがガバナンスである、と。

グローバルは地球的という意味であるから、グローバルガバナンスは地球統治という意味の空間的概念である。ただし、それをグローバルガバメント、すなわち地球政府や世界政府、ととり違えてはならない。

世界政府論の典型は、戦争をなくするには主権国家を廃止することが必要である、という主張である。ヒロシマ・ナガサキの翌年である1946年に論壇をにぎわさせたのはその一種であった。原子爆弾の製造を禁止することは国家主権に基づく国際連合にはできず、世界政府の手によらなければならない。ソビエト連邦に世界政府への加盟を要求し、拒まれれば戦争も辞さない。そう乱暴に議論したのはバートランド・ラッセルやアルバート・アインシュタインといった知の巨人たちであった[2]

このように、世界政府論は人類が理性を失った時代に唱えられる傾向がある。ソ連との第三次世界大戦にならず、本当によかったと思う。

現実のグローバル社会を見すえれば、最有力なアクター(行為主体)は世界政府や国際機構でなく、主権国家である。地球儀を眺めると、陸地を仕切るものは国境線であり、それらにとり囲まれたものが200ちかくの主権国家である。これら国家のネットワークが、グローバルガバナンスの空間的な骨組みまたは構造である。国際連合をはじめとする国際機構も、国家間の条約によって設けられた主権国家ネットワークの一部である。

グローバルガバナンスは、国際政治やグローバル政治とは違う。政治といえば、選挙や政治家に関わる権力闘争を指すのが一般的である。国際政治において、この見方は現実主義という学派によって代表される。その論者ハンス・J・モーゲンソーは教科書の題に『諸国民間の政治』と付けた。副題は「力と平和を求める闘争」である[3]。力だけでなく、平和も求めているのでグローバルガバナンスの観点は組みこまれている。

平和にせよ、繁栄にせよ、持続可能な開発にせよ、目的や意図性は人間が決める主観的なことである。それらは個人や集団により異なることもあれば、共通することもある。異なる場合はグローバルガバナンスという言葉より、権力政治という表現のほうがしっくりいく。

国際ガバナンスとグローバルガバナンスにも違いがある。国際ガバナンスは、国家間のネットワークだけであり、国家を固い殻に覆われたボールに見立て、その内部がどうなっているかを問わない、いわゆるビリヤードボール・モデルである。

国家の内側における統治であるナショナルガバナンスは国際ガバナンスと判然と区別される。ただし、ユニラテラリズムといって、一国だけでの政策が平和・繁栄に貢献することもあるので、かならずしもグローバルガバナンスと相反するわけでない。

これらとは別に、戦地における赤十字の人道活動のような非政府アクターによるトランスナショナルガバナンスもある。政策の参考にされるという点では、ニュースサイトの情報や大学等での研究もグローバルガバナンスに貢献する。

つまり、グローバルガバナンスは国際、ナショナル、そしてトランスナショナルの空間的なレベル、またはレイヤー、のガバナンスが合わさったものであり、下のように定式化される。

グローバルガバナンス

= 国際ガバナンス

+ ナショナルガバナンス

+ トランスナショナルガバナンス

+ α

αは念のために加えた。月など天体を含む宇宙、国家領域に含まれない南極や深海底、あるいは近年はサイバースペースといった諸空間も近年、無視できなくなってきたからである。

空間的には四つのレベルに分けられても、ガバナンスのメカニズムまで異なる本質を持つわけでない。近代社会で発達したメカニズムは、市場、政府、そして人権である。ただし、世界の文化や地域によって、どれが強く、どれが弱いかについては差異がある。アメリカでは市場と人権、社会主義国では政府が強い。伝統的な社会では家族や宗教が根強く、封建主義や神権政治が支配的である。

市場、政府、そして人権のメカニズムはナショナルなレベルで進化し、まとめて自由主義国家のモデルを形作った。グローバルガバナンス全体を理解するための土台として、この回ではそれぞれのメカニズムを解説する。なお、市場・政府・人権はおおむね経済学・政治学・法学の学問分野に相当することにも留意してほしい。

自由主義国家のモデルは市場・政府・人権を調和させることを求める。すなわち、政府は秩序を守り、政策を施行する。市場は財産権に基礎を置き、資源配分を効率化しつつ、人々の選択を多様化する。人権は政府の圧制と市場の暴走から個人の生活を守るだけでなく、政府そのものが民主的な投票によって組織されることを保障する。

古代から絶対主義にいたるまで、政府はともすれば個人を抑圧した。自由主義国家の特徴は、政府の力を制限し、個人の自由を十全に働かせ、市場と人権による幸福を促す点にある。

市場は自由な選択、つまり最適化、を実現する分権的なメカニズムである。いかなる財を、いかなる量、生産・取引・消費するか、の決定はそれぞれの経済主体に委ねられる。各自が利潤を極大化しようとした結果、分業と交換が行われ、社会全体の生産は効率的になり、拡大する[4]。アダム・スミスは分業の端緒を次のように想像する。

たとえば、狩猟民または牧羊民の種族のなかで、特定の者が他のだれよりも手ばやく巧妙に弓矢をつくるとしよう。かれは、弓矢をその仲間の家畜やしかの肉としばしば交換し、そうするうちに、けっきょくこういうふうにするほうが自分で野原にでかけて行ってそれらを捕えるよりもいっそう多くの家畜やしかの肉を獲得できる、ということを発見するようになる。それゆえ、自分自身の利益に対する顧慮から、弓矢の製造ということがだんだんとかれのおもな仕事になるのであって、そこでかれは一種の武器製造人になる[5]

貨幣が発明されると、商品には価格が付いた。価格、または価格体系という数字のセット、は比較と演算が可能である。そうした情報の重要性を唱えたのがフリードリヒ・A・フォン・ハイエクである。

価格に反映されたり凝縮される情報の全体はまったく競争の産物である。競争は特別な諸事情を探求する機会をもつ人に有利にそれをおこなう可能性を与えるだけでなく、そのような機会があるという情報を他の当事者に伝達することによって、一つの発見的手続きとして作用する。市場ゲームの競争的努力が広範に保有されている知識の活用を保証するのは、コード化された形でのこの情報伝達によるのである[6]

価格という情報に基づいて、参加者は相互作用する。シナリオがあるわけでない。強制があるわけでない。この意味で市場は分権的で自生的な秩序である。なければならないのは、何よりも、競争を阻害しないためのルールである。

商品が安く買えて、高く売れるということは、それまで以上に消費できることにほかならない。生産、支出、そして所得の拡大をもたらすメカニズムは「神の見えざる手」[7]とたたえられる。なかには市場の動きについていけず、非情にも失業する者もいる。それでも、大きくなった社会全体のパイから失業者に補償すれば問題は解決する。

「最大多数の最大幸福」という意味での功利主義は市場メカニズムとは本来、異質の思想である。それは設計を伴うからである。市場が自然発生的とすれば、設計は人為である。ハイエクが主張するのは、政府は設計には手を染めず、市場競争が持続可能であるためのルールの管理に徹するべきである、ということである[8]

スミスもまた、投資に関して、資本家は「どのような政治家または立法者などがこの個人のためにそうしうるよりもはるかによく判断しうる」と資本家の役割を評価する[9]。なぜ、資本家は政治家よりも資本の管理にすぐれているのか? 投資は、値上がりしそうな商品を先読みし、その生産に資本を投じておいて多くの配当を得る行為である。個人が排他的に資本を占有し、処分する権利を有することにより、最も注意が行き届き、最も適切な判断ができ、最も迅速に行動することができる。古くはアリストテレスが妻子を共有すること(!)を批判したことにさかのぼる私有財産擁護論の一つがこれである。

最大の人数の人に共通なものは。最小の配慮しか得られない。なぜなら人びとは私的なものは、これをもっとも気遣うけれども、公共のものは、これを顧みることが少ないか、各人に割当てられた分しか関心をもたないからである。他の理由はさておき、他人が気遣っていると思うと、人はもっと軽んじるようになる[10]

以上をまとめると、個人の関心、情報、そして財産を基本要素として作用するのが市場である。他人のものや公共のものを管理する際、政府は脇役に徹するべきである、とスミスとアリストテレスは言っている。なぜなら、自分のものほどの関心を他人や公共のものには持てないからである。

ハイエクは自分が関心を持てることは身の回りのものだけであると言う。

すなわち人間の精神が事実上理解できることのすべては、自分を中心とする狭い範囲の事柄であるという事実、そしてたとえかれが完全な利己主義者であろうと、またはこの上もなく完全な利他主義者であろうと、かれが事実上関心をもつことができる[傍点-訳者注]人間の必要は社会のすべての構成員の必要のなかではほとんど無視しうるほど小さい部分に過ぎないという事実がこれである[11]

事情を最もよく知る当事者間で、売買はじめ諸契約は交渉されるのが理想であるというハイエクの見方では、政府が社会のすべてのことを決めることは好ましくない。なぜなら、政府の担当者もまた、身の回りのことしか知らないからであり、世界中に散らばっている現場の情報のほとんどについて無知であるからである。

政府の役割は市場メカニズムへの信奉が強い近代では皆が大賛成というわけでない。より辛辣な政府に対する見方は、そもそも政府は特定集団による不当な私物化によって脅かされている、というものである。ハイエクの場合、マルクス主義のように政府をブルジョワジーによる「搾取の道具」と決めつけない。しかし、その危険があると見るのは、次の一節から明らかである。

民主的諸制度の発展史全体は、特定集団が自分たちの集合的利益に利するように政府装置を誤用するのを妨げるための、不断の闘争の歴史である。この闘争はもちろん終止符をうったわけではなく、組織化された利害関係者の共謀によって形成される多数派が決めるものを一般的利益と定めるのが今日の傾向である[12]

最大多数の最大幸福は多数者の専制を正当化する思想である。多数者も、少数者も、自由になるための方法の一つは、合意できる部分だけに政府の役割を制限することである。ここまでは筆者もそのとおりであると考える。

合意できる部分だけに政府の役割を制限する方法として、ハイエクが勧めるのは結果でなく手段、つまりルールについてだけ、政府が調整することである。

どの特定利益が他の利益より選好されるべきかということにかんする合意が必要であるということになれば、利害の一致ではなく、あからさまな対立が存在することになろう。そのような社会における合意や平和を可能にするには、個々人に目的についての合意を求めることなく、多種多様な目的に貢献できて、自分自身の目的追求の助けになると各人が考える手段についての合意だけを求めることである。そして、特定目的についての合意が可能な小集団を越えて、そうした合意の不可能な大きな社会[強調-訳書]の構成員にまで平和的秩序を拡張できるかどうかは、目的についてではなく手段についてだけ合意すればいいような協力方法を発見できるかどうかにかかっている[13]

ルールについてだけ合意し、結果を放任するという解決策は、実行可能でないと筆者は考える。あるルールからどのような結果になるか、だいたい予想が付くからである。弱肉強食にも、悪平等にも、ルールのさじ加減によって、どうにでも結果は動かせる。公正さを装いつつ、実際は結果を予想しながらルールを考案するのは、わが国では霞が関の官僚たちが得意とすることであろう。ハイエクはアメリカ合衆国の立法府と司法府を信頼しているので、日本の立法過程がいかに官僚主義に都合がよいか、には思いいたらない。

それより、市場を信奉するスミスやハイエクさえ喜んで受け入れる政府の役割があることに注目したい。

私的なインセンティブだけでは必要な供給がなされない場合、政府を含む公的なガバナンスが求められる。寄付と料金だけで、道路や軍隊はまかなえない。災害や感染症流行の時には、正確な情報を伝え、場合によっては強制しながらも、個人の行動を導かなければならない。犯罪には刑罰で、腐敗には綱紀粛正で報いるべきである。選択できない規格品であっても、すべての人に供給されなければならない財やサービスがあるのであれば、その供給を優先する制度を作らなければならない。例えば健康保険である。ましてや、緊急事態になればあらゆる選択機会は失われるから、そうした事態への対応はすべてに優先する。

外部性という経済学の概念は、公的介入が必要な多くの場合を説明できる。教科書はこの概念を次のように定義する。

外部性は、経済活動により、第三者にスピルオーバーする費用または便益が生まれることである[14]

道路はライフラインと呼ばれるほど広い範囲に便益を与える。学校は卒業生の生涯所得を上げるだけでなく、技術や社会慣習など文明そのものをレベルアップする。国家安全保障や災害対応は、ふつう個人が認識しないリスクを社会全体で計算に入れて、はじめてなりたつ。

アダム・スミスも国家の義務として、国防費、司法費、公共事業費、教育費、宗教費、そして、元首の威厳を維持する経費を挙げた。最後のものは宮殿などである[15]。ハイエクも、ルールの調整だけを政府の任務と考えるわけでない。スミスが挙げたものに加えて、治水、度量衡、土地登記、地図、統計、品質証明を並べる[16]

スミスとハイエクが挙げた政府活動は公共財の一種である。公共財とは便益、すなわち正の外部性、を社会に与えるものであり、自然環境や健康もそのうちに数えられる。社会資本やグッドガバナンスといった人間活動を含める場合もある。これらに政府が介入するべきであることにはコンセンサスがある。

他方、経済活動が第三者に、費用すなわち負の外部性を与える場合、例えば工場が有害ガスを出すような場合にも、政府が規制、補償、課税、仲介、さらには直接供給などで関わらなければならないことがある。

正負の外部性に対処するために政府は必要である。確かにハイエクは、人間の関心と知識は身の回りの狭い範囲にしか及ばない、と見抜いたものの、政府をなくすわけにはいかない。

社会のネットワークをイメージしよう。直接つながっている相手を1次の距離、一つ空けると2次の距離……、と呼ぶと、人間の関心が及ぶ狭い範囲とは、せいぜい3次か4次くらいまでの、次数が低い相手までのネットワークである。家族関係では3親等のいとこくらいまでである。

霞が関の官僚はどのくらいの人々まで、関心と知識が及ぶであろうか? 永田町の政治家、都道府県・市町村の地方公共団体、外国政府、そして各種団体あたりは日常の接触があろう。しかし、都心から離れた辻々や津々浦々の庶民生活までは目が行き届かない。こうした一極のネットワークでは不可視の部分が大きくなるので、地方自治が必要になる。さらに遠く、外国のジャングルや砂漠で生きる人々のことなど見当もつかない。それゆえ、グローバルガバナンスはナショナルガバナンス以上に多数の中心に分散してネットワークを張りめぐらさなければならない。

中心からは不可視の場所にも有権者(コンスティテュエンシー)がいる。そこの有権者たちが自由な選択を共同的に行う状況にない、という事態はあってならない。ナショナルなレベルの選挙で民主主義が達成されていても、それで終わりではない。辻々や津々浦々の有権者の声を聴くためには地方自治が最も確かである。ハイエクは次のように言う。

ある特定の地域や地方の住民の必要だけを満たす多くの集合財の場合には、サービスの管理および課税も、中央当局ではなく地方当局の手に委ねられるならば、いっそうきめ細やかにこの目標に接近できる[17]

有権者とは、守られるべき基本的な権利を有し、それを実現するためにガバナンスに参加する人または集団である。ギリシャ語のかじ取りを意味する語源には船員しか有権者はいなかったが、現代のガバナンスは、政府と住民とそれらを取り囲む人々がセットになってはじめて成立する。不可視の有権者がなくなるようにガバナンスのネットワークを張りめぐらせることが要請される。連邦国家は、州を中央政府と併存させて、この課題に応える。

また、ヨーロッパの国際統合においては補完性(サブシディアリティ)の原則がある。EU(欧州連合)は、国・地域・地方では十分になしえないことだけを行う国際機構である[18]。ブリュッセルの欧州委員会は加盟国の多くの有権者にとっては遠いところであって、その指揮下にあるエリートたちにガバナンスのすべてを委ねてしまうことに不安がある。

ガバナンスのネットワークというイメージは、古くはアナーキズムの一派が掲げてきた。ロバート・ノジックは、守るべき権利を生命・財産・賠償取り立ての「自然権」に絞り込み、個人がそれらだけを相互に扶助しあう保護協会を構想した。ノジックやハイエクの1世紀まえに、国家主権を主張せず、自発的契約を基礎とするガバナンスを唱えたのはピエールジョゼフ・プルードンである[19]。『連合の原理』から引用する。

―前略―連合した諸国家に対し、それらの主権、領土、市民の自由を保証し、それらの紛争を調整し、全般的な措置によって安全と共通の繁栄にかかわる一切に備えることを目的とする契約、この契約は責任を負う利害の大きさにもかかわらず、本質的に限定されたものである。―中略―私は連合の権限は、実際に量的に、村や地方の権限を超えることは決して許されない、といいたい。同様に村や地方の権限は、人間や市民の権利や特典を超えることは許されない。そうでなかったら、村は共同体となろう。連合は君主制的中央集権に戻ることとなろう。単なる代理人であり、従属的な役割である筈の連合の権威は、優越するものとみなされることであろう。―中略―連合した諸国家は、県に、州に、支部ないし出先機関に変わることであろう[20]

もちろん、ネットワークを分散する方法は、地理的なものだけでなく、機能的なものもある。実際、執行府では省庁や大臣に責任を分散させることが広く行われている。1960年代には、ロバート・ケネディがアメリカ合衆国の対外政策について次のように書いた。

国務省以外の多くの政府機関や省庁が、外交分野で主要な責任および権限をもっている。そのなかにはペンタゴン(国防総省)、CIA(中央情報局)、AID(国際開発局)、さらに関与の度合いはそれらより小さいが、USIA(海外情報局)その他の独立あるいは半独立の省庁が含まれている[21]

外交官のネットワークである国務省とは別に、ペンタゴンは世界に軍人のネットワークを持ち、CIAは公安関係者の、USAIDは援助関係者とのコネを持つ。そうした省庁によるサービスの対象には企業や業界団体や専門家といったクライアントがぶら下がる。

こうしたクライアントが政治過程に組み込まれることを職能的な代表制と呼ぶ。それをさらに発展させるべきかどうか、は議論あるところである。なぜなら、コーポラティズムという職能的代表制がファシズムの政治体制に採用された過去があるからである[22]。とはいえ、円滑なガバナンスの遂行には、一般市民の声と同様、業界団体や労働組合といったクライアントの声を吸い上げるほうがよい場合がある。賃金の水準は、経営者の代表と労働者の代表の意見を政府が聴きながら決められることはまれでない。

これまで、市場と政府について見た。最後は人権である。選択の自由に不可欠であるのは自由権と財産権であり、市場取引の基礎でもある。有権者の立場でガバナンスに参加するには、選挙権、請願権、そして表現の自由が保障されなければならない。生存権や教育を受ける権利は、人権の根底にある人間の尊厳を実質的なものにする。

日本のような所得水準が高い自由主義国家では、人権は守られて当たり前である。しかし、世界中で人権は守られているのか?、つまり普遍的人権は達成されているのか?、と問うと、不安になってくる。

とはいえ、この思想そのものの歴史は古い。240年前、ドイツの哲学者イマヌエル・カントは「世界市民的見地における普遍史の理念」という遠大な構想の論文を著した。自由の濫用による人間間の敵対を止めるため、法はまず、国家の内部で作られた。しかし、この結果、国家の間で敵対が始まってしまった。戦争を止めるためには、国際同盟を結んで共通の法を作らなければならない。これは人類によって最後に解決される問題である、というのが内容である[23]

カントはあまりに時代に先行しすぎた。1784年には、フランス人権宣言も発せられていなかった。

1941年に、アメリカ合衆国大統領、フランクリン・D・ローズベルト、が「四つの自由」について演説した時、世界は自由の勢力とそうでない勢力とで真っ二つに割れていた。7年後の国連総会における世界人権宣言が初めてグローバルな機関が人権を数え上げた。そのことをハイエクは次のように批判した。

そこでは最初の二一カ条のなかに古典的な市民の権利を列挙した後に、新しい「社会的・経済的権利」を表現することを意図した七項目の保障がさらにつけくわえられている。これらの付加条項のなかで、提供する義務また負担を誰にも負わせることがないままに、「社会の一構成員として、あらゆる人に」特定の利益にたいする積極的な請求権の充足が保障されている。またその文書は、裁判所が特定の事例についての内容が何であるかを決定できるような仕方でこれらの権利を定めることに完全に失敗している[24]

つまり、誰も給付の責任を負わないままに、それを受け取る権利の理想だけを国連総会が謳ってみせたとしても、絵に描いた餅である、と言う。これが書かれた1970 年代における最貧国の実情を想像すると、援助国にも、援助機関にも、絶望的な貧困をすぐに根絶する力はなかった。実際、「国連開発の十年」というキャンペーンは冷笑の的であった。当時の人々がグローバルガバナンスという言葉を知っていたとしても、恥ずかしくて口に出せたか分からない。

21世紀の今日では、事情は違うはずである。経済学者のハイエクが経済的権利を標的にしたのは、高福祉は自らの信条に反するからであったろう。しかし、生存権をつうじて最低限度の健康な生活を保障することは人間の尊厳を守ることであり、人間の尊厳こそ人権の実質である。給付を頭ごなしに否定すべきではない。

人権を実現するには、そのためのメカニズムが整っているほうがよいのは確かである。アマルティア・センは、民主国では飢餓は起きない、という言説で知られる。

もしその政府が、選挙、自由な報道や検閲されない公然の批判を通じて公衆に責任を負うことになったとすれば、政府もまた――非難、そして最終的には否認を避けるために――飢饉を撲滅すべく最善を尽くす十分な理由を持つことだろう[25]

同じことは、伝染病や犯罪にも言える。民主主義がガバナンスにとって重要であるという命題からは、少なくとも二つの結論が導き出される。一つは植民地では対策が遅れることである。植民地政府にとっては、本国政府との関係が最重要である。現地住民に対する関心は低く、情報収集や分析に思い込みや偏向が交じりやすい。独立を勝ち取ることによって、住民はようやく有権者となり、自分たちのガバナンスを持つことができる。奴隷制、モノカルチャー、虐殺、自然破壊などの害悪が植民地統治下では避けられない。

もう1点は、検閲を受けないニュースメディアの重要性である。センが指摘するのは、民主主義のもとでは政府を非難する野党が存在しており、それが政策を正す圧力となることである[26]。事実に基づく情報はデマや噂に対する有効なワクチンである。

内心の自由と表現の自由は報道の前提である一方で、進歩の必要条件でもある。飛行機、原子力、そしてロケットの技術は、いずれも民間での自由な研究開発がなければ、孵化し、巣立つことはなかった。仮に、独裁国家が官僚組織や政府資金を駆使して開発したようにみえても、実は自由な社会からスパイや連行によって盗まれたものである。表現の自由では、完全な真理に対してであっても、異議をさしはさむことには意味がある。そう断言したのはジョン・スチュアート・ミルであった。異議こそ逆に真理の根拠を明らかにし、真理を生き生きとしたものにするからである[27]

実際、全体主義の国では、科学は政治に従属させられ、ゆがめられる。DNAの二重らせん構造の発見がノーベル賞を受けて十年がたった1960年代前半、ソビエト連邦ではルイセンコ学説というものが支配的地位を占めていた。この学説は発芽後に植物が獲得した形質が次世代に遺伝するというものである。トロフィム・ルイセンコは全連邦農業科学アカデミー総裁として君臨した。彼はマルクス・レーニン主義の名を借りて、自説に従わない学者たちに弾圧を加え、逮捕までさせた。検閲と外国からの隔離がルイセンコ学説を生き永らえさせ、その権威が失墜したのは、擁護者であったニキータ・フルシチョフ共産党第一書記が失脚してからであった[28]。 以上が自由主義国家をモデルとしたナショナルガバナンスである。もちろん、世界の国々はすべてが自由主義国家というわけでない。異質な体制の国家をどう評価すればよいか? 非自由主義国家と自由主義国家との間では、戦争など、国際関係はどのようになりやすいか? 問われるべき問題は枚挙にいとまがない。


[1] James N. Rosenau, “Governance, Order, and Change in World Politics,” in James N. Rosenau and Ernst-Otto Czempiel, eds., Governance without Government: Order and Change in World Politics (New York: Cambridge University Press, 1992), p. 5.

[2] Emery Reves, The Anatomy of Peace, 9th ed. (New York: Harper & Brothers, 1946). バートランド・ラッセル、「戦争の防止」、モートン・グロッジンス、ユージン・ラビノビッチ編、『核の時代』、岸田純之助、高榎尭訳、みすず書房、1965年、96-103ページ。アルバート・アインシュタイン、『科学者と世界平和』、井上健訳、中央公論新社、2002年、11ページ。

[3] Hans J. Morgenthau, Politics among Nations: The Struggle for Power and Peace, 5th ed. (New York: Alfred A. Knopf, 1973), p. 27.

[4] アダム・スミス、『諸国民の富 (一)』、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1959 年、98ページ。

[5] スミス、『諸国民の富 (一)』、120ページ。

[6] F・A・ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、新版、篠塚慎吾訳、春秋社、1987年、162ページ

[7] アダム・スミス、『諸国民の富 (三)』、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1965年、56ページ

[8] ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、11ページ。

[9] スミス、『諸国民の富 (三)』、57ページ。

[10] アリストテレス、『政治学』、牛田徳子訳、京都大学学術出版会、2001年、 53ページ。

[11] F・A・ハイエク、「真の個人主義と偽りの個人主義」、嘉治元郎、嘉治佐代訳、F・A・ハイエク『個人主義と経済秩序』、春秋社、2008年、17ページ。

[12] ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、14ページ。

[13] ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、10ページ。

[14] ダロン・アセモグル、デヴィッド・レイブソン、ジョン・リスト、『ミクロ経済学』、電子版、東洋経済新報社、2020年、317ページ。

[15] アダム・スミス、『諸国民の富 (四)』、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1966 年、5-224ページ。

[16] F・A・ハイエク、『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、新版、渡部茂訳、春秋社、1988年、67ページ。

[17] ハイエク、『法と立法と自由Ⅲ 自由人の政治的秩序』、68-69ページ。

[18] Article 5(3) of Consolidated version of the Treaty on European Union.

[19] ロバート・ノージック、『アナーキー・国家・ユートピア: 国家の正当性とその限界』、嶋津格訳、木鐸社、1992年。ハイエク、「真の個人主義と偽りの個人主義」、23-24ページ。

[20] ピエール・ジョゼフ・プルードン、『プルードン Ⅲ』、長谷川進、江口幹訳、三一書房、1971年、371-372ページ。

[21] ロバート・ケネディ、『13日間 キューバ危機回顧録』、毎日新聞社外信部訳、中央公論新社、2001年、97-98ページ。

[22] Ph・C・シュミッター、G・レームブルッフ、『現代コーポラティズム―団体統合主義の政治とその理論』、山口定監訳、木鐸社、1984年。

[23] イマヌエル・カント、「世界市民的見地における普遍史の理念」、福田喜一郎訳、『カント全集』、14巻、岩波書店、2000年、1-22ページ。

[24] ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、143-144ページ。

[25] アマルティア・セン、「講演 飢餓撲滅のための公共行動」、アマルティア・セン『貧困と飢饉』、黒崎卓、山崎幸治訳、岩波書店、2017年、302ページ。

[26] セン、「講演 飢餓撲滅のための公共行動」、302ページ。

[27] J・S・ミル、『自由論』、塩尻公明、木村健康訳、岩波書店、1971年、107-108ページ。

[28] ジョレス・メドヴェージェフ、『生物学と個人崇拝―ルイセンコの興亡』、現代思潮新社、2018年、349ページ。

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「グローバルガバナンスの教科書」投稿の完了
サイト訪問ありがとうございます。 「グローバルガバナンスの教科書」の全記事が投稿されました。 今後の予定としては夏・秋に小規模なアップデートと読み上げの追加がございます。1回だけで終わるのかこれからも更新されるのかは未定です。

なぜ自由を指針とするべきか?

客観的幸福も、主観的幸福も、ガバナンスの指針としては不十分であると論じた。では、どのような指針が適当であるのか? 持続可能な選択の自由という考え方を筆者は支持する。長所も、短所も、それにはある。これを説明することが今回のテーマである。

手始めに、認識論での長所を説明する。選択の自由を論じることは幸福それ自体を論じるよりもたやすい。二つの理由がこれにはある。

一つは、幸福は主観性を排除するのが難しいが、選択の自由はそうではないことである。「幸福の追求」はアメリカ独立宣言において「不可侵の権利」として挙げられた。これはうまいやり方で、それぞれの市民が別の幸福を追求していても、平等に扱うことができるし、優劣をつける必要もめったにない。選択の自由というのは「幸福の追求」と非常に近い概念である。どのようなものが選択されるとしても、その選択自体は自由である、という理屈は共感を得られやすい。

もう一つは、選択の自由を評価するのに、社会における選択の全体を知る必要がないことである。最大多数の最大幸福は、人類なり、各国なり、幸福の総量が計算できなければ、どの政策が最大の幸福をもたらすかを判断できない。ある政策が個人にもたらす幸福量は、個人が属する国籍、階級、ジェンダー、エスニシティなどによって異なり、幸福最大化は不利な集団の犠牲のもとで行われる。多様な人々の自由な生き方を尊重するならば、無理な幸福最大化は回避されるであろう。

功利主義に基づく厚生経済学では、社会的余剰を幸福の総量とみなして、その最大化が共同体にとっての正解とされる。集計されるのは金銭的な尺度で測られた客観的幸福である。これを徹底的に適用すれば、きわめていびつな意味での幸福になる。極端な功利主義は命の価値さえも金銭的に表示する[1]。さすがに、金銭表示の幸福を唯一の原理とするべきである、と主張する者はいないはずである。

選択の自由も、どのくらいの数の人々が自由で、どのくらいの数の人々が自由でない、といったかたちで集計量を計算できないわけではない。アメリカ合衆国のフリーダムハウスという機関がしていることが、まさにこれである。しかし、社会全体の量を集計せずとも、特定の個人がより自由になったか、といった相対的変化が分かれば部分的な評価をすることができる。実は、功利主義でも最大多数と言いださなければ、部分的評価はできる。しかし、最大多数のスローガンがなければ、功利主義は単なる私利私欲であり、社会正義の観点がまったくなくなってしまって、ガバナンスの指針として論じるに値しない。

認識論を超え、実体論においても、持続可能な選択の自由という考え方に長所はあるか?、を以下で問う。実体論とは、選択の自由が人々と社会を実際にどう良くするのか、という観点である。

選択の自由からは三つの効果が派生する。第1に、多様な価値観の承認(機能主義)、第2に、選択する機会の増加(最適化)、そして第3に、知的進歩の加速(知性主義)である。

第1に、選択肢が増えるということは、選択肢の背後にある価値観も増えるということである。つまり、多様な価値観が選択の自由によって承認されることになる。社会が分業によって複雑になると、多種多様な職業が生まれ、そのそれぞれに独自の職業倫理が発達する。このように、選択の自由は社会における機能分化の前提であって、それがなければ経済成長は起こりえない。分業のすばらしさに気づいた社会学者はエミール・デュルケムである。

こうして、われわれはつぎの問題にみちびかれる。分業は、より広大な諸集団においても同じような役割をはたしていないだろうか。すなわち、周知のように分業の発達した現代社会では、分業の機能は社会体[コール・ソシアル-訳者注]を統合し、その統一を確保するところにあるのではないか、ということだ。われわれがいま観察してきた諸事実は、現代社会においてもさらに豊かに再生産されていること、これらの巨大な政治社会もまた、種々の仕事の専門化によってのみよく均衡を保ちえていること、分業は社会的連帯の唯一の根源とはいえないまでも、少なくともその主要な源泉であること、以上のことを想定することはきわめて正当である[2]

ここで主張されているように、分業する諸集団はそれぞれ足りないものがあるーー相互依存しているーーからこそ、それらを補うために、協力する。デュルケムによると、機能分化した社会は機能が未分化である社会よりも強制的措置に頼る必要がない。それにたいし、最大多数の最大幸福の原理に基づく社会は「多数派の専制」への誘惑に抗しきれず、少数派に抑圧的になるおそれがある。

いくら、価値観は多様だ、と言っても、あらゆる行為が容認されるべきである、という意味ではない。規制すべきか、そうでないか、は問題の性格を吟味してから判断されるべきである。

喫煙は代表的な例である。喫煙にはストレス解消の効果がある一方で、周囲の人の健康や感情を害する。このような場合、「自由主義国家モデル」の回で述べる外部性が生じているので、法規制をかけてしかるべきである。危険なスポーツや日々の飲酒のように、一見、他人に迷惑をかけないようでも、健康保険制度のもとで医療費の上昇をつうじて他人の負担になることには、ある程度の制限はかけてよいであろう。

では、昼寝や瞑想のように、他人の迷惑にならない選択はどうか? それらは無料であるので、GDP(国内総生産)を押し上げることはない。しかし、人によっては無上の快楽であり、心身の健康にもよい。選択の自由という指針が最も生きてくる実例である。

第2に、当たり前のことであるが、選択が自由になると、選択する機会が増加する。これがなぜ良いことなのかというと、選択のたびに最適化ということが行われるからである。ミクロ経済学の教科書には次のように解説されている。

経済学では、経済主体は最適化を試みると考える。すなわち、経済主体は利用しうる情報をもとにして、「実現可能」な最善の選択肢を選ぼうとする、と考える。ここで実現可能とは、予算の範囲内にあってかつ実際に選択しうる、という意味だ[3]

つまり、一定の費用内で、できるだけ高い便益を生む選択肢が選ばれる。これを費用便益分析という。便益を快楽、費用を苦痛、と読み替えるならば、ベンサムの功利主義と非常に似ている。違うのは、選択の自由という条件を重視するか、得られる功利性という結果を重視するか、である。

最適化の対象は、貨幣経済を前提とした財・サービスに限定されない。経済学でいうところの「財」は、哲学では「善」、つまりどちらも英語ではグッドかグッズである。財/善は売買だけでなく、物々交換によって、贈与によって、または、無料経済(フリーミアム)によっても入手できる。無料経済と命名したクリス・アンダーソンの著書から引用する。

無料経済とはこういうことである。ブログやSNSを無料で読んだり書いたりする。利用者が享受する楽しみは課金サービスから得られるものに引けを取らない。それらのサービスが広告料を払う企業を巻き込む「三者間市場」のビジネスモデルであれば、この活動はなお国民所得を増加させる。また、寄付によって運営されるWikipediaのような「贈与経済」であっても、それは誰かが稼いだ所得が寄付されたものである。しかし、純然たる個人の趣味で作成されたウェブサイトのような「無償の労働」にはそうしたことがない。金銭上の付加価値も、所得の移転も、一切、生まないのである。これはつまり、国民所得という概念では人々の幸福を一部しか捕捉できないことを意味する。GDP成長率を参考にするのは構わないが、もはやそれ自体が最優先の目標であってはならない[4]

昼寝や瞑想のように余暇に行う活動は、所得は生まなくても、幸福は生む。ミクロ経済学の機会費用という考え方を使えば、無料の財/善を経済価値に換算できる。この方法は権威ある教科書において紹介されている。

ネットサーフィンの例で言うと、それに費やす時間があれば、何か別のことができていたかもしれない。バスケットボール、ジョギング、空想にふける、寝る、友だちに電話する、たまった電子メールを読む、演習問題を解く、アルバイトの仕事をする、などだ。ネットサーフィンに時間を費やしている間、あなたはこうした別の活動をする時間を犠牲にしていることになる(有給の仕事をしながら並行してこっそりフェイスブックをしているならば別だが――その場合には、上司を友だちリストに入れないほうがいい)[5]

機会費用はあくまで物の考え方であって、逆に捉えれば経済価値に換算することの意義を疑問視させもする。時間当たりの報酬が高い人であれば、機会費用で換算した昼寝の価値も上がってしまう。これはおかしくないであろうか? これ以上、このテーマに深入りしない。選択の自由は最適化をつうじて、功利性を高める結果をもたらすことが伝われば十分である。

選択の機会が増えることにも短所はある。「幸福を指針とするべきか?」で紹介した幸せな農民と不満な成功者の例のように、心配のしすぎや、上には上があることを知ることで主観的幸福感が下がることがある[6]。こう考えてはどうであろうか? 幸せな農民は、取り越し苦労はしないほうがよい、と正しく選択しているのかもしれない。ただし、政府の情報統制や愚民政策によって無知であるだけであれば、そもそも選択の自由は存在しなかったことになる。それどころか、将来的にこの農民は、それまで政府に従ってきたことで享受した幸福感を無にするような不幸に陥るリスクが高い。例えば、自然災害や戦争が起きた時である。

第3に、選択の自由は知的進歩を加速する。批判や代替案の提示が知的進歩の前提であるからである。単なる思想の自由だけでは不十分で、選択して行動するなかから次の展開が生まれてくる。こうした主張の先鋭さでは、ジョン・スチュアート・ミルに肩を並べる論客はいない。

人間が高貴で美しい観照の対象となるのは、彼自身のうちにある個性的なものをすべて磨りへらして画一的なものにしてしまうことによってではなくて、他人の権利と利益によって課された限界の範囲内で、個性的なものを開発し喚起することによるのである。そして、およそ人間の事業はそれを行なう人々の性格を分けもつものであるから、右と同じ過程を経て、人間の生活もまた、豊富で多彩で生気溌剌としたものとなり、高い思想と崇高な感情とに対してより豊かな栄養を与えるものとなり、さらに、民族を、限りなく所属するに値するものとすることによって、すべての個人を民族に結びつけるところの紐帯を一層強固なものとするのである。各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値あるものとなりうるのである。そこに彼自身の生存に一層大きな生命の充実が存在する。そして諸々の構成単位によりおおくの生命が宿るとき、それらの単位から成っている集合体もまたより多くの生命をもつ。人一倍強い人間性の持主に、他人の権利を侵害させないようにするために必要なかぎりの抑圧は、これを欠くことができないが、しかしこれに対しては、人間の成長という観点から見ても、十分にこれを償うものがあるのである[7]

社会全体のなかで摩耗しない個性を許容することは、斬新な商品の開発に結び付く。典型例といえば、Apple社創業者の一人であるスティーブ・ジョブズであろう。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の言葉通り、違法薬物を評価し、フルーテリアン(くだもの中心の食生活をする人)であった[8]。それらは彼がきわめて個性的であったことを示すエピソードにすぎないが、カリグラフィーへの興味に表れたデザインセンスの鋭さは否定しようもない。彼の生んだ商品は世界中で売れ、富をアメリカ合衆国に吸い上げている。

技術革新とはどのようなものか?、という問いは、ヨゼフ・A・シュンペーターの「新結合の遂行」という言葉によって解説される。従来の結合を解体し、新しい組み合わせで財貨、生産方法、販路、供給源、そして組織を創造することである[9]。そうした新結合を実践するのが企業者の役割である。例えば、トマス・エディソンは一流の企業者であった。彼のような天才が周囲の凡人によってつぶされず、「1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」が許容される社会でなければ、知的進歩は加速しない。

他方、選択の自由を指針とすることには短所もある。何より、GDPのような精密に数値化された一義的な政策目標を提示することができない。GDPには経済統計が存在するが、自由は抽象的で、多義的で、解釈的であるために測定できない。

事実、自由主義は政治思想の用語として手あかが付いている。しかも、レセフェール(自由放任)から、進歩的なリベラル、そして、アナーキズムに近いリバテリアンなどさまざまである。

これら主義主張には、それぞれ弱点がある。レセフェールは高い成長率をもたらすものの、環境や社会への負の外部性が高い。リベラルは社会の目標がはっきりしていることには理解をえられやすいが、財政負担が重く、また、腐敗の温床になる。リバテリアンは個人が孤立したソーシャルディスタンスのもと最高水準の自由が得られるが、アナーキーのもとでは緊急事態に対応できず、生命が脅かされることもある。

外部性、腐敗、そして緊急事態が生じている場合には、持続可能性のために自由な選択は抑制されざるをえない。持続可能性の問題については、「自由主義国家モデル」と「持続可能な開発」の回において、より深く考える。

最後に、伝統的共同体において、自由な選択は可能であろうか?、というテーマに触れて、この回を閉じる。自由な社会は近代になって現れた。それ以前の共同体において、取引というものはまったく異なる意味を帯びていた。贈与論で知られるマルセル・モースは次のように解説する。

現代に先行する時代の経済や法において、取引による財、富、生産物のいわば単純な交換が、個人相互の間で行われたことは一度もない。第一に、交換し契約を交わす義務を相互に負うのは、個人ではなく集団である。契約に立ち会うのは、クラン(氏族)、部族、家族といった法的集団である。ある時は集団で同じ場所に向かい合い、ある時は両方の長を仲介に立て、またある時は同時にこれら二つのやり方で互いに衝突し対立する。さらに、彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つ物だけではない。それは何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市であり、経済的取引は一つの項目に過ぎない。そこでの富の流通は、いっそう一般的で極めて永続的な契約の一部に過ぎない。最後に付け加えたいのは、このような給付と反対給付は、進物や贈り物によってどちらかといえば任意な形で行われるが、実際にはまさに義務的な性格のものであり、これが実施されない場合、私的あるいは公的な戦いがもたらされるようなものであるということである。われわれは、これらすべてを「全体的給付体系」と呼ぶことを提案した[10]

伝統的社会では、取引は義務であって自由な選択ではなかった。宗教と同じように、現状に満足している者の主観的幸福感は強烈であろうが、不満を抱く者には逃げ道がなかった。満足な者と不満な者を分ける主な要因は共同体内の身分であった。それはタテの関係であって、ヨコの関係ではなかった。不自由のもとで、機能主義、功利主義、そして知性主義は本来の力を発揮しなかった。

共同体に不満な者が自由な社会の存在を知ったならば、どうなったであろうか? 自由をうらやみ、忠誠は揺らぎ、最終的には離反に至ったろう。

伝統的共同体は、自由化とは別の方法で進歩を見せ、離反を止めるかもしれない。それは上からの改革と呼ばれる。しかし、日本の幕末や帝政ロシア末期の改革は、旧体制が進化しきれずに崩壊した例である。離反を防ぐために効果的であるのは、やはり、宗教改革時代の異端審問官やジョージ・オーウェルが考えた「真実省」のような思想弾圧である。 自由な社会においても、伝統文化や宗教は息づいている。それは伝統的社会においてとは逆に、社会の多様性や寛容を高めるであろう。また、民族衣装、宗教施設、あるいは伝統芸能は観光業や文化産業にとってビジネスになる。その一方で、もはや社会の主流の座から降りた宗教界の側では、原理主義者やカルト教団によるテロリズムの形をとって、自由への反発は表面化する。


[1] マイケル・サンデル、『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』、鬼澤忍訳、早川書房、2010年、57-66ページ。

[2] エミール・デュルケーム、『社会分業論』、田原音和、筑摩書房、2017年、117ページ。

[3] ダロン・アセモグル、デヴィッド・レイブソン、ジョン・リスト、『ミクロ経済学』、電子版、東洋経済新報社、2020年、11ページ。

[4] クリス・アンダーソン、『フリー』、小林弘人訳、NHK出版、2011年、を見よ。

[5] アセモグル、レイブソン、リスト、『ミクロ経済学』、13ページ。

[6] グラハム、『幸福の経済学』、77ページ。

[7] J・S・ミル、『自由論』、塩尻公明、木村健康訳、岩波書店、1971年、127ページ。

[8] ウォルター・アイザックソン、『スティーブ・ジョブズ』、I、井口耕二訳、講談社、2012年、84、119、151ページ。

[9] シュムペーター、『経済発展の理論』、上、塩野谷祐一、中山伊知郎、東畑精一訳、岩波書店、1977年、183、198-199ページ。

[10] マルセル・モース、『贈与論』Kindle 版、筑摩書房、Kindle の位置No.125-135。

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幸福を指針とするべきか?

幸福も、自由も、ともによいものである。哲学者も、政治家も、宗教家も、皆、よいと言うものであるから、もはや、ほめられも、けなされもされなくなった。しかし、よいものはよいものである。問題は、幸福と自由では、いずれがよいか?、である。グローバルガバナンスについて論じる本書は、その指針としてすぐれているのはいずれか?、の問いに答える義務がある。

今回は、幸福をガバナンスの指針とすることの長所と短所を吟味しなさい、がテーマである。

国家の目的は、福利とか、福祉とか、英語のウェルフェアから訳されるものを増進することである。そのように諸国の憲法には書いてある。もちろん日本国憲法にも、である。1787年のアメリカ合衆国憲法が最初であろう。この理念は君主制をとる国も巻き込んで広がった。

ジェレミー・ベンサムはイギリス人であったが、彼の『道徳および立法の諸原理序説』は1789年に公刊された。執筆はアメリカ合衆国憲法の制定やフランス革命とほぼ同時期である。

「最大多数の最大幸福」という『道徳および立法の諸原理序説』の一句は功利主義のスローガンとして有名である。「最大多数」が王侯貴族以外の平民を加えたなかでの多数であることは明白である(もっともはじめは財産資格が課された)。立法は国民の代表である議会で行われることであるから、功利主義は到来した議会制民主主義の要請に応えた思想であった。

分かりやすい「最大多数」に対して、「最大幸福」のほうは当時はもちろん、今日でも分かりにくい。幸福とは快楽から苦痛を差し引いたものである、とベンサムは説明する。功利主義という呼び名は功利性(ユティリティ)という用語に由来する。同じ単語が経済学では「効用」と訳され、基本概念として扱われる。彼は次のように解説する。

功利性の原理とは、その利益が問題となっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する[1]

つまり、事物が幸福をどれだけ上げるか、下げるか、が功利性である。経済学では、人は効用が高い財やサービスを選好する、という言い方をする。しかし、ここでは経済学の語感を弱めるために、人は功利性が高い事物から幸福を得る、と表現したい。図式化すると次の流れになる。経済学を学んだ人は括弧内の用語のほうがなじみ深いであろう。

事物(財) → 功利性(効用) → 幸福(厚生) → 行為(経済活動) → 事物(財)

人間はこうした高い幸福を与える事物を得るために行為をする。逆に言えば、高い幸福を与えるにもかかわらず、ためらったり、やりすごしたりして、その事物を得るために行為することを怠ることはない。ベンサムにとっては、人が功利性の高い事物を得るために行為をすることは自明の理である。本能と呼んでもよい。受け入れがたいかもしれないが、この方法論は、個人主義とか、合理主義とか呼ばれ、社会科学全般の基礎になっている。彼自身、これが論争の的になることに気づいていたらしく、開き直る。

その原理について、なんらかの直接の証明ができるであろうか。それは不可能であるように思われる。なぜならば、他のすべてのことを証明するために用いられる原理は、それ自体としては証明不可能のものであり、証明の連鎖は、その出発点を別のところにもたなければならないからである[2]

筆者も、功利性原理を正面から証明することは避けておく。自明の理や本能的なことはトートロジーであって、定義のなかに証明されるべきことが含まれてしまっているからである。

さて、これまでは個人の幸福の話であった。一つ前の「功利性の原理」で始まる引用のなかに、「すべての行為」という言葉が出てきた。実は、この言葉は下の引用の伏線である。

私はすべての行為と言った。したがって、それは一個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての行為をも含むのである[3]

ようやく、政府が実現すべき目標である最大多数の最大幸福につながった。ベンサムにとっての政府とは、特権階級の道具でなく、代議制民主主義のものであることははっきりしている。全国民に幸福を与える立法を行うことが政治家の義務とされる。これが彼の革命性であり、19世紀にわたって信奉者を得た理由であった。では、最大幸福を実現するため、政府はどのような手段をとるのか?

政府の仕事は、刑罰と報償によって、社会の幸福を促進することである[4]

政府の仕事はガバナンスと言い換えられる。つまり、ガバナンスの手段は刑罰と報償である。刑罰、すなわち否定的制裁、は苦痛を与えることによって、人々の行為を抑える。他方、報償、すなわち肯定的制裁、は快楽を与えることによって、人々の行為を促す[5]。大ざっぱであるが、無機的な機械ではなく生身の人間にとってのガバナンスとは何か?、の本質を突いている。

こうした功利主義を世界に拡大して、グローバルガバナンスの指針として採用することは無理ではない。例えば、国際連合が人類の最大多数の最大幸福のために制裁を発動するというイメージは、理想としては通用する。また、功利主義をマクロ経済学的に解釈すれば、最大多数の最大幸福は人々の消費の総額によって近似されよう。世界銀行の統計に表れる世界総消費の成長率をグローバルガバナンスの目標にすればよく、実際、似たことが行われてきた。

このように、ベンサムの理論は230年あまりまえのものであるにもかかわらず、直観的にはそれほどおかしなものではない。しかし、功利主義はさまざまな問題点が指摘されている。人間だけでなく、環境のことも考えるべきでないか? 立法に携わる政治家たちは、現実には、最大多数の利益を第一にしていないのでないか? さらに冷笑的に問えば、立法というものは社会の現実を変える力を持たないのでないか?

早い批判者の一人が功利主義の継承者であるジョン・スチュアート・ミルである。日本語の訳にも問題があるのではあるが、「快楽」というと、刹那的で肉体的なものが連想される。ミルは、ギリシャの快楽主義者であるエピクロス派が「豚」とあざけられた故事を引き、同派が、そしてミル自身も「精神的な快楽を肉体的な快楽以上に尊重した」と反論する[6]。そして、あの有名な、しかし、見下した感じのする対比を言い放つ。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている[7]

この議論は、幸福や快楽にはさまざまな次元があって、集計したり、合成したりするのは一筋縄ではいかないことを明らかにした。かのエイブラハム・H・マズローによる基本的欲求のヒエラルヒー説は、こうした多様性を咀嚼・吸収する名案といえるであろう。低次ではあるが、生存には欠かせない生理的欲求が最も強い。安全の欲求や所属と愛の欲求も、誰もが持つものである。さらに、承認の欲求、自己実現の欲求へと高次になるにつれて、満たされた一部の者だけが経験しうる境地へと上っていく[8]

衣食住はまぎれもなく生理的欲求の対象である。1970年代に世界銀行は、それらを教育などと並んで基本的人間ニーズ(BHN)と呼んで重点的に援助した。貧しい開発途上国では、低次の欲求が満たされていないことを直視した結果である。開発途上国の人々の幸福は最低限の生活を保障することである、という議論には説得力がある。

これと似た考えをしたのがノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センである。次の引用で「生活の良さ」と訳されるウェルビーイングは、心身の調子が良いことであるので、最低限度の健康な生活と言い換えられる。

個人の福祉は、その人の生活の質、いわば「生活の良さ」として見ることができる。生活とは、相互に関連した「機能」(ある状態になったり、何かをすること)の集合からなっていると見なすことができる。このような観点からすると、個人が達成していることは、その人の機能のベクトルとして表現することができる。重要な機能は、「適切な栄養を得ているか」「健康状態にあるか」「避けられる病気にかかっていないか」「早死にしていないか」などといった基本的なものから、「幸福であるか」「自尊心を持っているか」「社会生活に参加しているか」などといった複雑なものまで多岐にわたる。ここで主張したいことは、人の存在はこのような機能によって構成されており、人の福祉の評価はこれらの構成要素を評価する形をとるべきだということである[9]

彼の言う「機能」というものは何か目的の役に立つというより、心身が障害なく作動していることを表現している。この引用の部分を受けて、有名な概念であるケイパビリティ(潜在能力)が説明される。栄養、健康、病気、幸福、自尊心、そして参加といった、上で挙げられた各機能のリストとその達成度は、皆が画一的でなければならないわけでなく、個人が選択する自由がある。引用する。

これは、人が行うことのできる様々な機能の組合せを表している。従って、潜在能力は「様々なタイプの生活を送る」という個人の自由を反映した機能のベクトルの集合として表すことができる。財空間におけるいわゆる「予算集合」が、どのような財の組合せを購入できるかという個人の「自由」を表しているように、機能空間における「潜在能力集合」は、どのような生活を選択できるかという個人の「自由」を表している[10]

つまり、ケイパビリティは実現可能な諸機能の組み合わせの範囲であり、センにとっての自由とは機能間の配分が選択できるということにすぎない。喫煙のようにウェルビーイングに寄与するとは考えられない行為は、彼の定義する自由の範囲外にある。いくらセンが選択の自由を強調しようとも、その長いリストに喫煙は入りそうもない。

ある種の福祉の分析(例えば、発展途上国における極度の貧困を取り扱う場合)において、比較的少数の中心となる重要な機能(および、それに対応する基本的な潜在能力、例えば、栄養状態が良いこと、風雨をしのげる住居に住んでいること、予防可能な病気にかからないこと、早死にしないこと、など)だけで、かなりのことを主張することができる。経済開発におけるもっと一般的な問題を含めた他の文脈では、対象とすべき機能のリストはずっと長く多様なものになるだろう[11]

国連開発計画(UNDP)の人間開発指数(HDI)は、生命・教育・所得の指標から合成され、人々のウェルビーイングを国別に比較する人気のあるツールになっている。具体的には乳幼児の死亡率は身体的な、就学率は精神的な、年間所得は物質的な達成度がバランスよく配置されている。実際、HDIはセンのケイパビリティ論を基礎にして構築された。ただし、彼自身は、それがあまりに単純化されていると苦言を呈した。機能のリストは扱う問題によって増減すると書いている。生命・教育・所得だけのHDIは彼の想定よりもいっそう単純化されたものであったため、彼は不満であった。

このように、ケイパビリティ論の焦点は、物欲にまみれた通俗功利主義とは違い、人間の達成度に置かれるものの、幸福への一つのアプローチという点では類似している。そして、ここにも二つの問題点がある。

ケイパビリティ論が含む問題の一つはウェルビーイング、つまり心身の健康、が途上国の開発にテーマを絞るにせよ、ガバナンスの適切な目標か?、ということである。人間開発に寄与する物資を送ったり、施設を建てたりすることは、人道的に正しい行動であると映る。大地震などの災害では日本のような先進国であっても人道援助を受けとる。それにたいし、受けとらない中国のような国は哀れみや慈悲だけでなく、誇りや静穏を求めているであろう。貧困でなく不平等が問題だ、という孔子、マルクス、あるいはロールズといった大哲学者たちの声も無視できない[12]

二つ目の問題は、援助の計画が現地から遠い国際機構や各国の援助機関で計画されることである。援助対象の普通の人々の生の声はどうなっているのであろうか? 主権国家の代表というエリートたちに独占された外交も、時代遅れではなかろうか?

実はベンサムの功利主義の弱点も同じである。最大の幸福を生み出す最適な財とサービスはこれこれの種類、これこれの数量であるので、資源をこれこれだけ工場に配分し、最終消費者にこれこれのように分配しなければならない。こうした投入と産出の計画を立てることができて、初めて、最大多数の最大幸福という大風呂敷を広げることができるはずである。

これは重要な問題である。政府の「刑罰と報償」によって不幸になる個人がいるからである。そうした不幸は十分に補償や賠償をされるはずである、というのが功利主義の約束である。補償や賠償が行われるには、社会全体の幸福と個々人の幸福が正確に計算されなければならない。しかし、いいかげんな統計を持ち出し、政府は個人の犠牲を当然の義務であると言い張らないであろうか? 功利主義には、国民を奴隷としてこき使う国家の言い訳に利用される危険がある。

ここでオーストリア出身の経済学者、フリードリヒ・A・フォン・ハイエク、に登場してもらう。彼は市場重視の立場から功利主義者の大風呂敷を批判した。

私が常々驚かされてきたのは、真面目で精神のある人びとが、疑いもなく功利主義者はそうであろうが、どうして大部分の特定の事実にかんするわれわれの必然的な無知というこの決定的事実を深刻に受けとめずにすますことができたのかということである。また、かれらが説明しようと企てた現象の全存在、つまり行動ルールのシステムの全存在が実際にそうした知識の不可能性に依拠しているときに、われわれの個人的行為の特定の効果にかんする一つの知識を前提とする理論をどうして提案することができたのかということである[13]

人類における最大多数の最大幸福を構想することはあまりに壮大なプロジェクトであるがゆえに、人間の手に余ることである、と考えた先達がいたということである。

センのケイパビリティ論は対途上国援助については真価を発揮するかもしれないが、それ以外のテーマではうまくいくであろうか?

例えば、国連の2030年目標である持続可能な開発目標(SDGs)は、この弱点を克服しようとしている。それは先進国にも適用できる。なぜなら、貧困削減はもちろん、環境、ジェンダー、健康など、豊かな社会が取り組む課題が取り入れられているからである。その一方で、環境やジェンダーのようなリベラルな価値観こそ最優先の課題でなければならない、とは、途上国の多くの人々は認めないであろう。

最大多数の最大幸福とSDGsとの間には大きなズレがある。なぜなら、開発途上国と先進国、女性と男性、あるいは若者と中高年齢者といったグループ間のパートナーシップは、多数決原理ではなく衡平によってつながれなければならないからである。衡平というのは金銭のような単一尺度の価値によって一方的に補償されて成立するバランスではなく、あくまで、諸グループ間およびそれら内で納得して得られるコンセンサスである。そのようなコンセンサスをグローバルに達成できるのは、地球上のすべての主権国家を巻き込む集団交渉の場である国連総会しかない。実際、SDGsはA/RES/70/1という国連総会決議である。

ところで、客観的に幸福は測定できる、という前提に功利主義は立つ。その最たるものがあらゆるものを、交換される商品、として理解する経済学である。これにたいし、主観的な幸福感に注目するアプローチがあり、近年、力を増している。それはアンケートによって、自分はどの程度、幸福であるかを答えてもらい、国なり、地域なりでその結果を集計したものである。

所得の高い人が幸福感の強い人とはかぎらないし、所得の低い人が幸福感の弱い人ともいえないことは、生活体験から推測がつく。ある研究者は、所得が低いのに幸福感が強い人と所得が高いのに幸福感が弱い人との組み合わせを、悲惨な農民と不幸な億万長者、と呼ぶ。その原因の一つは「不幸な成長のパラドックス」であると結論づけられた。

このケースでは、自分たちの一人あたりGNPの平均水準について説明を受けた後、高成長率の国の回答者は平均して、低成長の国の回答者よりも幸福ではありませんでした(一人当たりGNPの水準と変化を区別するのは重要です。一人当たり所得が高い国の人々は平均して、より幸福だからです)。こうした結果を説明するものとして、経済成長の高まりに応じて頻繁に現れる不安定性と不公平性が挙げられます。

実際、人々は、不確実な状況よりも、良好な水準とはいえないまでも安定した状況に対して、より適応することができるようです[14]

生活の安定が幸福感を増すというのは興味深い。東洋の格言を引けば、恒産なくして恒心なし、ということであろう。ほかの研究では、貧しい人には宗教が、豊かな人には健康が幸福感を増す、という結論もあるそうである[15]。主観的幸福論が知的関心を刺激してくれることを否定するつもりはない。 本人が幸せならいいじゃないか、と日常的に言われる。しかし、グローバルガバナンスは幸福感の上昇を主な目的とすべきかといえば、ためらわざるをえない。主観的幸福を目的とするならば、悲惨な農民でなく、不幸な億万長者に手を差し伸べなければならない。この億万長者は自らの財産を費やすことによって、内面に隠れる不幸を追い払えばすむことである。家族や友人との関係という変数が主観的幸福感の要因であれば、公的支援にできることはかぎられる。自助というのもガバナンスの方法である。自助は本人が自由であれば実現する。ならば、自由をグローバルガバナンスの目的にすればよい。


[1] ベンサム、「道徳および立法の諸原理序説」、山下重一訳、関嘉彦編、『ベンサム J.S.ミル』、中央公論新社、1979年、82ページ。

[2] ベンサム、「道徳および立法の諸原理序説」、84ページ。

[3] ベンサム、「道徳および立法の諸原理序説」、82ページ。

[4] ベンサム、「道徳および立法の諸原理序説」、148ページ。

[5] ベンサム、「道徳および立法の諸原理序説」、109ページ。

[6] ミル、「功利主義論」、伊原吉之助訳、関編、『ベンサム J.S.ミル』、468ページ。

[7] ミル、「功利主義論」、470ページ。

[8] A・H・マズロー、『改訂新版 人間性の心理学』、小口忠彦訳、産業能率大学出版部、1987年。

[9] アマルティア・セン、『不平等の再検討』、池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳、岩波書店、1999年、60ページ。

[10] セン、『不平等の再検討』、60-61ページ。

[11] セン、『不平等の再検討』、64ページ。

[12] 国際政治学では次のものが知られる。C・ベイツ、『国際秩序と正義』、進藤榮一訳、岩波書店、1989年。

[13] F・A・ハイエク、『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』、新版、篠塚慎吾訳、春秋社、1987年、32ページ。

[14] キャロル・グラハム、『幸福の経済学』、多田洋介訳、日本経済新聞社、2013年、48-49ページ。

[15] グラハム、『幸福の経済学』、73-74ページ。

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湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と

(表紙の画像はAIによって作成された)

地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。

地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。

日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。

教科書での関連する記述

教科書

湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見が対立したが、翌1992(平成4)年に宮沢喜一内閣のもとでPKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣が可能になった。その後、自衛隊は1993年にモザンビーク、94年にザイール(コンゴ民主共和国)、96年にゴラン高原、2002年に東ティモールなど派遣されている。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 360、n. 2。

感謝されない日本

1990年代、いや今世紀になってもよく聞かされたのは、湾岸戦争での国際貢献で日本は感謝されなかった、という言説だ。調べると、それは次のようなことのようだ。

手嶋龍一

三月十一日の朝、ワシントン郊外ペセスダの自宅で『ワシントン・ポスト』紙を広げた日本の外交官はわが目を疑った。幾度も三十ヵ国の国名をなぞり「JAPAN」の文字がどこかにないか探し続ける。しかし、日本の名はついに見当たらなかった。

在ワシントンのクウェート大使館は『ワシントン・ポスト』や『ニューヨーク・タイムズ』など全米の有力紙に派手な全面広告を掲載した。クウェートの国旗が風に颯爽とひるがえり、平和を回復した中東地域の地図が描かれている。遥か北方にはロシア、そしてイギリスの彼方には、自由の女神を戴くアメリカ。いずれの国も鮮やかな色彩に染められ、七ヵ月ぶりに国土をその手に取り戻したクウェートの浮き立つような気持ちが表れている。

<ありがとうアメリカ。そしてグローバル・ファミリーの国々>

見出しに大きな活字を組み込んで、クウェートの国土と主権を奪還してくれたアメリカに心からの謝辞を呈している。
手嶋龍一、『一九九一年 日本の敗北』、新潮社、1996年、395-396ページ。

『ニューヨーク・タイムズ』をウェブで講読すると、過去の紙面が広告を含めて閲覧できる。そこで確かめた。でも、どうしても見つからない。それらしきものは3月4日のクウェート情報省による広告で、次のように書かれている。

Kuwait

FROM THE PEOPLE OF KUWAIT…
TO THE PEOPLE OF
THE UNITED STATES OF America…

Thank you!
The advertisement by the Kuwaiti Ministry of Information, New York Times, March 4, 1991, A13.

しかし、どこかの新聞に手嶋氏が引用するクウェートの広告が載ったのはまちがいない。なぜなら、当の『ワシントン・ポスト』に次の記事があるからだ。

Washington Post

Then the government of Kuwait published a full-page advertisement in at least one American newspaper to say “thanks” to the United States and the “United Nations Coalition.” This became a news item here because Japan was not one of the countries thanked by Kuwait. Germany, which had shown some of the same hesitation as Japan about aiding the coalition, was mentioned in the advertisement.

T. R. Reid, “Japan’s New Frustration:
Tokyo Says Its Gulf Role Was Misunderstood,” _Washington Post_, March 17, 1991, available at https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1991/03/17/japans-new-frustration/e5ea50e0-, December 5, 2024.    56f1-4380-a8f0-5e6b009b44a8/

版や地域によって、掲載される広告は違うのだろう。気になるのは、”in at least one American newspaper”と1紙以外の掲載は確認していない、ということだ。仮にワシントンDC周辺だけで、感謝の相手に日本が含まれない広告を載せる新聞が配達されたとして、それがどうというのだろう?

日本は米軍中心の多国籍軍に130億ドルを支払い、応分の国際貢献を行なった。クウェートの在ワシントンDC大使館は折衝の蚊帳の外だったと思われる。それはともかく、自らの自由意思で行動して、悔いなし、と誇れる国民でありたいものだ。

リターンマッチ

実のところ、外務省は手をこまねいていたわけでなかった。

イラン・イラク戦争に際して、ペルシャ湾に掃海艇を派遣するよう1987年にアメリカ合衆国から要請されたことがあった。思いやり予算の増額など、選択肢から選ぶことを求める厳しいものだった(戦後外交記録HB門5類2項45目分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ243)。中曽根康弘総理大臣は派遣に前向きだったが、「カミソリ」こと後藤田正晴官房長官の説得により思いとどまった。GPSを使った安全航行システムの建設に資金を援助し、掃海艇派遣の代わりとした。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2022/2022-0603.pdf

後藤田の著書『内閣官房長官』(講談社、1989年)が外交史料館の戦後外交記録に抜粋されている(HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ250-253)。彼の意見とそれを支える見識には賛否あろうが、私には、彼への評価も、彼自身も、日本特有のセクショナリズムに拘束され、冷静な批評の対象となりえない気がする。そのうえ、有力政治家と官僚専門家のいずれが正しいか?、は永遠の問いだ。

イラクがクウェートに侵攻した1990年8月、さっそく外務省は掃海艇の派遣を検討し始めた。ところが、法的な問題が起こり、身動きがとれなくなった(戦後外交記録HB門5類2項45目分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ210-241)。それが招いた事態が『ワシントン・ポスト』の広告(?)と記事が示した「感謝されない日本」だった。

https://digitallibrary.un.org/record/102245/files/S_RES_678%281990%29-EN.pdf?ln=en

法的な問題とはこういうことだ。有名な国連安保理決議S/RES/678はクウェート解放のためのあらゆる措置を容認し、武力行使授権決議として知られる。同決議はまた、そうした措置への支援をあらゆる国に求めるが、自衛隊を支援に差し向けることは武力行使と一体化するとみられた。憲法9条が早期の派遣に二の足を踏ませた。

https://digitallibrary.un.org/record/110709/files/S_RES_687%281991%29-EN.pdf?ln=en

武力行使とみなされないためには、休戦条件を示した決議S/RES/687をイラクが受諾するのを待たなければならなかった。そして正式な休戦が確認されたのは1991年4月11日で、3月の感謝広告より掃海艇派遣の決定は遅れることになった。

他方で、掃海艇の派遣を急がなければならない事情があった。1200個敷設された機雷の除去は4月の時点で米英軍により半分程度、済まされていたからだ。

掃海艇派遣の決定についての政府声明は外交史料館の戦後外交記録に載っている。私が注目したのは次の部分だ。

日本政府

この海域における船舶の航行の安全の確保に努めることは、今般の湾岸危機により災害を被った国の復興等に寄与するものであり、同時に、国民生活、ひいては国の存立のために必要不可欠な原油の相当部分をペルシャ湾岸地域からの輸入に依存する我が国にとっても、喫緊の課題である。

戦後外交記録HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」のPDFページ141。

その後の対テロ戦争でも、イラク戦争でも、海賊対策でも、自衛隊が海外派遣されるたび繰り返し唱えられることになる原油の中東依存というフレーズはこの時に始まったのだろう。米軍が日本に駐留している原因の半分はこれであり、極東の平和および安全は残りの半分なのだ。

ただし、今回も後藤田のような意見が出てくる可能性があったので、外務省は機先を制して世論工作を入念に施した。経済団体連合会、船主協会、海員組合、そして中東君主国の湾岸協力会議(GCC)に派遣待望論を出させたのだ(分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ273)。

こうして、掃海艇4隻、掃海母艦1隻、そして補給艦1隻は現地へ旅立った。

まとめ

1992年、国連平和維持活動(PKO)への自衛隊の派遣を可能とするPKO法が成立し、同年、UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)に参加した。

しかし、UNTACの文民警察として勤務した日本人2名が殺害され、国民に衝撃を与えた。国際貢献の高い志にもかかわらず、国連PKOへの日本からの参加は活発とはいえない現状だ。

2010年ごろから、世界の分断は修復困難となり、国際社会の総意を体しての国際貢献の機会はますます減ることになった。

課題

  1. 後藤田正晴『内閣官房長官』(講談社、1989年、HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ250-253所収)を読み、1987年にペルシャ湾への掃海艇派遣に反対した後藤田官房長官の論拠をまとめ、あなた自身がその論拠に賛成するか、反対するかを述べて、それはなぜかを300字以内で議論しなさい。https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2022/2022-0603.pdf

  2. 国際情勢によって原油価格が値上がりすると、日本経済全体にとっていかなる影響があるとあなたは考えるか? 300字以内で議論しなさい。

  3. 1991年における湾岸戦争後の自衛隊掃海艇ペルシャ湾派遣と同じ種類の活動は、現行の「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(国際平和協力法、PKO協力法)ではいかなる枠組みで行われうるとあなたは考えるか? 「国際連合平和維持活動」または「国際連携平和安全活動」または「人道的な国際救援活動」または「国際的な選挙監視活動」からいずれか一つを選び、300字以内で議論しなさい。https://hourei.net/law/404AC0000000079.html

六四天安門事件と日本政府

上の気の弱そうな高校生が私です。竜のキャラクターに1988と書いてありますね。写真は祖母がとったのだと思います。天壇公園のあたりでは牛が歩いていました。目まぐるしく北京は変わりました。

1988年木下郁夫撮影

天安門から見える風景はというと、ネットで検索すると当時も今も変わりません。すごいですね。共産党政権がいかにこの景観を大事にしているか分かります。

天安門広場の南は平安京では朱雀大路に当たります。この北側も含めた「北京中軸線」は2024年にUNESCOの世界遺産に登録されました。中国統治の正統性を象徴するがゆえに、景観を残すのでしょう。

それだけに、天安門のまえで政府に意見を表明することは重大な意味を持ちます。政権に天命があるのかを問うことだからです。

教科書での関連する記述

教科書

しかし、学生や知識人のあいだでは共産党の一党支配の持続や、民主化なき経済改革への不満もつのっていった。1989年、彼らは北京の天安門広場に集まり、民主化を要求したが、政府はこれを武力でおさえ(天安門事件)、民主化運動に理解を示した趙紫陽総書記を解任して、江沢民を後任に任命した。

木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 346。

国際情勢は緊迫をきわめていた。東ヨーロッパ諸国の民主化運動にソ連のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長はどう反応するか? 世界はかたずをのんで見守った。その彼が前月に中国を訪問し、北京でも民主化への期待が高まった。

民主化に進めば地獄、退いても地獄。鄧小平はじめ共産党指導部の置かれた状況はそんなだった。中国で民主化? その帰結は、選挙? それとも内戦? と指導部にとっては失脚のリスクが高くてとれない選択肢だった。退いて体制固めをするほうが安全策だ。

体制固めというのは、すなわち学生たちの排除であって、多少なりとも実力行使を伴うだろう。そういった民主化の弾圧は国際世論からの批判にも腹をくくらなければならなかった。

鮮やかといえば鮮やかだった。夜陰に乗じて人民解放軍が広場に突入し、発砲音が聞こえるだけだった。6月4日になって流れた映像は歩道橋からつるされた死体や戦車のまえに立ちふさがる男の映像だった。天安門事件の真相は闇に包まれ、何人が亡くなったか今でも不明だ。

日本政府の対応

外務省外交史料館は30年経過した外交記録の目録を公開しているが、毎年12月には文書のコピーそのものを閲覧できるようにしている。アメリカ合衆国はジョージ・H・W・ブッシュ政権のフォーリン・リレイションズ・オブ・ザ・ユナイティッド・ステイツを公開していないので、日本のほうが進んでいるところもある。

https://history.state.gov/historicaldocuments/bush-ghw

外務省の公開外交記録をもとに、六四天安門事件を外務省がいかに認識し、いかにそれに対応したかを確認しよう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0545_03_01.pdf

戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」は横書きのものと縦書きのものの2種類があるが、ここでは初めの横書きのほうを話題にする。文書の表紙に記されたところでは、6月7日付だ。

冒頭の「中国の現状」という見出しのもとでは、鄧小平・楊尚昆・李鵬の強硬派ラインが勝ちつつあることを指摘する。改革派と呼ばれた趙紫陽らは2週間後に失脚したので、この見方は正しかったのだろう。

私が興味深く受け止めたのは、2とナンバリングされた文だ。

外務省

2. いずれは、より穏健な政策を追及する中国に戻ることが望ましいが、中国における民主化要求の力を過大評価することは誤り。農民を中心に中国人の大多数は政治的自由に無関心。

戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」

体制に打撃を与える火の手は広がらない、という外務省の観測は正しかった。他方、政治的自由に関心を持つ人々は少数派だから無視できる、とも読めるわけで冷徹な印象を与える。

新しい総書記には上海市長だった江沢民が就任し体制固めに区切りがついた。

改革・開放はそんなに偉いのか?

1989年のG7サミット(主要国首脳会議)はアルシュサミットだった。アルシュはパリの新開発地区に作られた奇抜なアーチ型のビルだ。この年はフランス革命二百周年にあたり、東ヨーロッパ情勢と絡みあい、自由の祭典となった。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_01.pdf

サミットでは7月15日、中国に関する宣言が合意された。上のリンク先には議長国のフランスが作った原案が載っている(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(1)「仏側原案 7.4」)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf

上のファイルの諸文書では、原案における非難をできるだけ抑え、対中制裁を実害のないものにしようと努力した(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(5)「仏側案への対応」など)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_03.pdf

最終的に合意された中国に関する宣言がこれだ(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の3「討議及び宣言」)。原案と見比べてどのような印象を受けるだろうか?

日本の働きかけの背景にあった考え方とは何だろう? サミットを締めくくる記者会見のために作られたと思われる想定問答がある(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0554_05_04.pdf

外務省

我が国としては、今次サミットの機会に次の二つのメッセージを中国に正しく伝えることが必要との立場を表明した。第一は、中国の学生運動に対する弾圧、就中武器を持たない学生、一般市民に対する武力の行使は、西側先進民主主義諸国が奉ずる基本的価値観に照らして容認し得るものではなく、それ故に、中国との関係を制約せざるを得ないということである。第二は、しかしながら、我々は、中国を孤立に追いやることを欲しておらず、中国が、単に言葉の上だけではなく、実際の行動により国際世論に耳を傾け、従来の「改革・開放」政策へのコミットメントが変わらない姿勢を示すのであれば、我々はこれに対する支援と協力を再開する用意があるということである。

戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」

まるでモンロードクトリンのような気負った文章だ。「二つのメッセージ」のうち、一つ目は当面は関係を制約し、さらなる弾圧は許さないという態度の表明だ。

問題は第二のメッセージだ。中国が弾圧をやめるならば、「改革・開放」を条件として「支援と協力」を再開する、と言っている。改革とは農業・工業・国防・科学技術の4個の現代化であり、開放とは経済協力と外資誘致だ。「孤立」という言葉をヒントにすれば、世界市場の相互依存のなかに中国をからめとることで、文化大革命のような排外的、攻撃的な政策をやめさせることができると日本は考えた、と解釈できる。

つまり、人権と民主主義はもとより中国には期待しない。平和共存さえ得られればよしとした。

まとめ

その後、中国は日本政府の期待どおり改革・開放につとめ、アメリカ合衆国に次ぐ経済規模を誇るまでになった。その一方、和平演変として平和のうちでの体制変化を恐れ、人権と民主主義に背を向けた。

市場を信奉しない中国は操作と寄生によって国家資本主義を営んでいるが、あまりに大きくなりすぎたゆえに世界市場のメカニズムを機能不全におとしいれている。相互依存による平和共存の夢も継続困難だろう。

天安門は変わらなくても、世界は変わるのだ。

課題

  1. 北京中軸線と総称される建築物群は何を象徴するのか? またはそれはどのような意味を持つのか? あなたの意見を300字以内で書きなさい。

  2. 1989年のアルシュサミットにおける中国に関する宣言のフランス原案にあった”continuations of executions”の句を日本政府は削除するよう求めたがそれはどのような理由によるものか? 300字以内で解説しなさい。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf

  3. 六四天安門事件発生後、日本政府は何を期待して中国政府に経済協力を行ったのか?、300字以内で解説しなさい。

国連軍縮特別総会最終文書のコンセンサス

(表紙の画像はAIによって作成された)

世界が合意する、というのは口で言うのは簡単ですが現実では難しいです。にもかかわらず、それに近いことができたことがありました。1978年の国連軍縮特別総会における最終文書がそれです。

最終文書の日本語訳は下のとおりです。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできません。

https://dl.ndl.go.jp/pid/11896416/1/194

英語原文は下のとおりです。

https://documents.un.org/doc/resolution/gen/nr0/107/51/pdf/nr010751.pdf

 最終文書のおかげで、1980年代、核軍縮の機運が大いに高まりました。アジェンダセッティング(課題設定)というやつです。

教科書での関連する記述

教科書

国連総会も核軍縮の必要を勧告する決議を多く採択し、1978年には国連軍縮特別総会[太字―引用者注]を開催した。

伊東光晴、『最新政治・経済』、新訂版、実教出版、2023年、p. 61。

日本史ではなく、政治・経済の教科書だが、国連軍縮特別総会のことが書いてあるとは驚き、感心した。1978年に小学生だった私の記憶にはないが、それよりまえの世代には感銘を与えたのだろう。

2024年、日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した。田中煕巳氏の演説を聴きながらこれを書いている。

受賞を伝えるニュースでよく流されたのは長崎の被爆者、山口仙二氏、が第2回国連軍縮特別総会で行なった「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説だった。NBC長崎放送のYouTube動画を貼る。

第2回国連軍縮特別総会は1982年のことで、反核運動は最も盛り上がりを見せた。欧米では核戦争が本気で恐れられていた。

この下地を作ったのが4年前の第1回国連軍縮特別総会でのコンセンサスだった。

拙著でごめん

合意を作り上げた指揮者はメキシコの外交官、アルフォンソ・ガルシアロブレスだった。彼の功績は知る人ぞ知ることだった。1982年のノーベル平和賞は彼とスウェーデンの学者、アルバ・ミュルダール、に授与されたからだ。両人はかつて国際連合本部で同僚だったことがある。

私はガルシアロブレスの伝記を書いた。彼が最終文書を作った意図を下のように記した。

木下

「軍縮哲学」を編む、という使命感に導かれていた。
後年、次のように語る。

国連憲章は核軍縮について一言も触れていない。サンフランシスコ会議から数週間後にヒロシマに原爆が落とされた。憲章は生まれた時から時代遅れであった、と。

その代わりとなる核軍縮の原則と目的を明らかにしたものが必要である。

毎年、通常会期には、大量の決議が審議される。そうした断片的な決議を反復するのではなく、宣言と行動計画の二本の文書にまとめねばならない、と準備委員会では発言した。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、181-182ページ。

しかし、意見の違いを埋めることはたやすくなかった。

木下

コンセンサスによる採択、というハードルは高かった。

言質を取られたくない核大国はもちろん、言質を取りたい非核兵器国も簡単には自らの主張を譲らなかったからである。

せっかく起草した文案も、異論がある箇所は角張った括弧[ ]で囲まれた。それらがすべて除去されない限り、コンセンサスの至上命題は達せられない。

「序文」は比較的に合意がやさしい節であった。四回の公式会合と、調整のための非公式協議を経て、起草部会は圧倒多数の同意によって、括弧が除去された草案を作業部会Aに引き渡した。

しかし、作業部会Bも含めて、他のすべての起草部会は、括弧を消すことができないままであった。

終盤に差しかかった六月二三日、交渉はアドホック委員会に引き渡された。残された多くの括弧を除去しなければ、コンセンサスには到達できない。

そこで、ガルシアロブレスを交渉の総責任者に指名し、他の調整役と一緒になって問題を解決するよう依頼した。

スーパーコーディネーター、の渾名を奉られた真の実力者が正体を現した瞬間であった。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、183-184ページ。

ところが、括弧の除去はスーパーコーディネーターをもってしても難事だった。特別委員会第14回会合の議事録が下のPDFだ。ヘッダーのA/S-10/AC.1/PV.14の下にパラグラフ番号の”39-40″と書いてあるページからがガルシアロブレスの発言だ。その”First”から始まるパラグラフで、彼は代表たちに何を頼んだか? 使われている比喩も興味深いので確かめてほしい。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-PV14.pdf

最終文書の採択までまだ紆余曲折はあるのだが、この話題で終わってしまわないように、それらは飛ばして最終局面だけ見よう。

木下

後がない木曜日、相次ぐ延期によって、開かれたのは午後一〇時四〇分であった。

もはや括弧は残されていなかった。

大団円と思いきや、ソ連の代表が、配布された決議案に異議を申し立てた。調整役たちとの合意事項が、そこに反映されていないというのである。

手直しを終えて、アドホック委員会が閉会したのは日付が変わった三〇日金曜日の午前三時すぎであった。今度こそ本当に最終文書は完成した。

その日の午後六時二五分、本会議が始まり、最終文書は採択された(A/RES/S-10/2)。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、186ページ。

政府代表の立場

日本代表団は第1回国連軍縮特別総会でいかなる役割を果たしたのか?

園田直外務大臣が5月30日の全体会合で演説した。園田というとこれに続いて日中平和友好条約で歴史に名を留めたが、大臣に再任されたことから知られるように、自民党の群雄の一人だった。

ただし、演説の内容は「非核三原則」、「唯一の被爆国」、「核兵器不拡散条約」、そして「核兵器廃絶」と定番であって、わずかに「非核地帯」への言及がリップサービスを感じさせるくらいだ(A/S-10/PV.9, para. 100-142)。もっとも、核兵器不拡散条約を日本は批准したばかりだから、定番の始まりという意義は大きいかもしれない。

キャリア外交官の小木曽本雄氏は特別委員会で発言した。それはインド決議案に対する修正案を提起するものだった。

軍縮の哲学を編む、というのがガルシアロブレスの意図であり、それゆえ軍縮に関する決議は最終文書の1本にまとめられる予定だった。インドはどうして別に独自案を提起したのか?

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L10.pdf

さらなる核兵器実験の停止が緊急に必要だ、とインド案は求めた。たった1条項の短い決議で、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める内容だ。

まことに結構な決議案にみえる。インドが提案したことを除けば。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

小木曽氏の修正案は「あらゆる核兵器国」を「あらゆる国家、特にあらゆる核兵器国」に直し、「核兵器のさらなる実験」の「核兵器」に言葉を足して「核兵器および他の核爆発装置のさらなる実験」と改めるものだった。

小木曽氏が修正を求めたのはなぜか? 考えよう。

結局、インド案は最終文書第51パラグラフのなかに吸収された。

最終文書

51. 効果的な核軍縮の過程の枠組における全ての国による核兵器実験の停止は、人類の利益に合致しよう。それは、核兵器の質的改善及び新型のかかる兵器の開発を停止し、また核兵器の拡散を防止するという上記の目的に顕著な貢献をなすであろう。この関連において、「核兵器実験を禁止する条約、及び本条約と不可分の一体をなす平和目的核爆発についての議定書」に関する目下進行中の交渉は速やかに締結されるべきであり、その結果は、条約案の国連総会への可及的速やかなる提出を目途として、多国間交渉機関による完全なる検討にゆだねるため提出されるべきである。総会による確認に次いで、可能な限り広汎なる加盟を誘引することのできる協定を達成するため、交渉当事者により全ゆる努力がなされるべきである。この関連において、本条約の締結までの間、仮に全ての核兵器国が核兵器実験を慎むこととなれば、国際社会は勇気づけられるであろうとの種々の見解が非核兵器国によって表明された。これとの関連で若干の核兵器国は異なった見解を表明した。

国際連合事務局編、『国連軍縮年鑑』、1978年版、外務省国連局軍縮課、[1980年]。

NGO代表の立場

日本のNGOが登壇したのは6月12日だった。田中里子氏は全国地域婦人団体連絡協議会の事務局長で、広島・長崎の被爆者ではない。地婦連は502人を擁する日本のNGOの代表団派遣連絡調整会議の事務局を担った。彼女が演説の冒頭で述べたところでは、2千万人の署名を集めたというから、その組織力はいかんなく発揮されたことだろう。『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に日本語で演説が掲載されている。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2273845/1/5?keyword=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%87%8C%E5%AD%90

田中氏の演説はNGO代表団のコンセンサスを反映したものだろう。しかし、それは日本政府の政策とは違っていた。「一日も早く核兵器の実験、使用、製造、貯蔵、拡散、配備を全面的に禁止する条約をつくること」を署名は要請した。2021年に発効した核兵器禁止条約と同じ内容だ。現在も、日本政府のほうはこの条約には参加しない方針だ。政府とNGOとのギャップは時に広がり、時に縮まり、つねに存在してきた。

同じ日には、立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)会長が演説した。ただし、世界宗教者平和会議という国際NGOの代表としてであった。

被爆者たちは総会で演説するのでなく、各国代表団などと個別に会っていた。この苦節何十年があっての2024年だったのだ。

まとめ

世界が一つになる、というのは世界政府ができることでも、地球連邦ができることでもない。我々の視界にある唯一のビジョンは、それぞれの政策に限ってコンセンサスができることだ。国際連合憲章の採択は、日本は不在だったが、初めてのそうした事件だった。近年では気候変動枠組条約の締約国会議(COP)が、温暖化防止のコンセンサスを目指している。

第1回国連軍縮特別総会における最終文書も、核兵器のない世界のおぼろげなビジョンを示した。それは立場の違う政府とNGOに共有され、ゴルバチョフとレーガンを結びつけたのだ。

課題

  1. 山口仙二氏による第2回国連軍縮特別総会における「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説は世界の人々が抱く核兵器・核軍縮に対する認識に関していかなる意義があったとあなたは考えるか? 1945年には世界の人々はこの問題についてまったく無知であったことを踏まえて300字以内で説明しなさい。

  2. 1978年の第1回国連軍縮特別総会において、インド政府代表は、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める決議案(A/S-10/AC.1/L10)を動議した。それに対し、日本政府代表の小木曽本雄氏は修正案(A/S-10/AC.1/L.13)を動議した。小木曽氏はインド決議案のどのような点が不満だったのか? 1970年代に起きた具体的な事件に言及して300字以内で解説しなさい。小木曽氏の修正案 https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

  3. 『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に掲載された第1回国連軍縮特別総会における田中里子氏の演説を読んで、「いいね!」と思った箇所を引用し、なぜ「いいね!」と思ったかを300字以内で説明しなさい。

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