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地域統合

地域統合とは何であろうか? 地域の区分に従った近隣諸国どうしの協力・依存・交流、またはそれらが深化・拡大していく過程、と定義できる。具体的には、アフリカ連合(AU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)、カリブ共同体(CARICOM)、中米統合機構(SICA)、湾岸アラブ諸国協力理事会(GCC)、中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、欧州連合(EU)、米州機構(OAS)、そしてアラブ連盟(LAS)がある。欧州サッカー連盟(UEFA)は政府間のものでない。イスラム協力機構(OIC)は地域的なものでない。最後の二つはここで扱わない。

今回のテーマは、地域統合の事例を具体的に挙げ、それらの任務を分類しつつ、統合の深化と拡大について論じなさい、である。

統合の深化には、二つの意味がある。一つは新しい分野が加わることであり、まるで液体が器からあふれ出るようであるので「スピルオーバー」と英語で表現されることがある。もう一つは、表決において国家主権を最大限に尊重する全員一致ではなく、地域単位の決定を容易にする多数決を採用することであり、ナショナリズムを超えるという意味でスプラナショナル(超国家的)と呼ばれる。カリフォルニア大学バークリー校教授のアーネスト・B・ハース教授により、スピルオーバーとスプラナショナリズムの用語は広められた[1]

他方、統合の拡大とは、参加する国の数が増えることである。これによって、統合された地域に住む人口も、土地の面積も増えることになる。

近代の歴史はグローバリズムと地域主義との争いであった。19世紀、世界の中心であったヨーロッパで絶対君主制が復活すると、米州ではモンロー・ドクトリンが唱えられた。20世紀には、ヨーロッパの国際連盟と西半球のパンアメリカン連合が並び立った。冷戦も、西側の自由世界と東側の社会主義共同体との地理的な競争と見ることができる。

第二次世界大戦後、国際連合と国際貿易レジームはいずれもグローバリズムを唱え、地域主義が強まることを警戒した。国連憲章の第8章はそれを反映し、平和と安全を維持するための地域的制度は存在してもかまわないが、してよいのは平和的紛争解決だけで武力行使はしてならない、と定めた。北大西洋地域を防衛する任務が国連憲章第8章と紛らわしいNATO(北大西洋条約機構)は憲章第51条に基づく同盟である。NATOが集団的自衛権の発現として武力行使を許されるのは、国連安保理の集団安全保障が働くまでの一期間にすぎない。

貿易については、冷戦が終わるまで、普遍的なGATT(関税及び貿易に関する一般協定)が大黒柱であった。地域内で関税をなくして財の移動を促す関税同盟および自由貿易地域は、同協定第24条において認められたものの、域外国との貿易を阻害しないよう釘を刺されてもいた。協定第24条のもと結成されたのが、欧州経済共同体(EEC)であり、EUにつながる源流の一つであった。

こういった法的根拠は第二次世界大戦以降のものであるが、欧州統合の前史ははるかに長い。カール大帝、アンリ・ド・サンシモン、ビクトル・ユゴー、リヒャルト・クーデンホーフカレルギー、そしてアリスティード・ブリアンらが先駆者として名が挙がる。

クーデンホーフカレルギーは母親が東京出身の日本人、青山みつ、であるのでマスコミで特集されることがある[2]。息子のリヒャルトは著書『パンヨーロッパ』を1923年に世に問い、思想界の寵児となった。パンヨーロッパ運動は彼とブリアンを主要人物として一定の支持者を得た。

民族自決が第一次世界大戦直後の風潮であり、それがもたらした東ヨーロッパの分裂にクーデンホーフカレルギーは危機感を抱いた。

最後にはロシア・ナポレオンがロシア革命に次ぐに至り、彼は東ヨーロッパの諸小国より彼のライン連邦を組織し、その援護下にヨーロッパに最後の一撃を与うるに至るであろう。ヨーロッパをこの運命より救うべくなお時は存する。この救済を称してパン・ヨーロッパという。すなわちポーランドよりポルトガルに至るすべての国家の国家連合への政治的経済的結合である[3]

つまり、ソビエト連邦が東ヨーロッパを傘下に収め、その勢いで西ヨーロッパまで征服してしまう、とクーデンホーフカレルギーは恐れた。そうならないためには、パンヨーロッパという国家連合を結成して、対抗しなければならない。

パンヨーロッパは段階を追って発達する。まず、会議を招集し、何をするか決める。つぎに事務局を立ち上げる。さらに、仲裁条約や保障条約を結び、関税同盟を組む。最終的には、ヨーロッパ合衆国という連邦になる。それは英語を公用語とし、アフリカを開発する[4]。思わず、植民地主義の本音が出てしまっているが、当時はそうするほうが受けが良かったのであろう。

第二次世界大戦後の欧州統合は、現実の課題に応じることから始まった。ザールラントには、ヨーロッパ有数の炭鉱が存在した。これが第一次大戦後、ドイツとフランスの間で取り合いになった。ザールラントは国際連盟のもと行政が行われ、炭鉱施設はフランスの所有になったが、住民投票の結果、ドイツの領土になった。

第二次大戦後、ドイツとフランスはザールラントの奪い合いを繰り返すのか? この疑問に答えたのがフランスのロベール・シューマン外務大臣であった。彼が声明を発したのは1950年5月9日である。第二次大戦のヨーロッパ戦線は1945年5月8日に終わった。現在、5月9日はヨーロッパの日に指定されている。

シューマン・プランは「フランスとドイツにおける石炭および鉄鋼の全生産を、他のヨーロッパ諸国も参加できる機構の共通最高機関のもとに置く」ことを提案した。最高機関の任務は何かというと、鉄鋼および生産の近代化と品質改善、共通の市場条件、共通の輸出政策、そして労働者の生活条件向上における均等化である。つまり、日本の経済産業省と厚生労働省労働基準局がしているような仕事である。

シューマン・プランをもとに1952年に発足したのがECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)である。初代の委員長はジャン・モネというフランスのエリートであった。シューマン・プランを考えたのもシューマンではなく、実はモネであった。

シューマン・プランの政治上の意義は明らかに平和である。石炭と鉄鉱石を組み合わせると鋼鉄になる。「産業のコメ」として鋼鉄の用途は広いが、当時は戦車や軍艦のような主力兵器に不可欠であった。フランスとしては、鋼鉄をドイツがとり戻せば枕を高くして眠れない。ザール炭田を両国が奪い合って、戦争を繰り返す時代に戻ることは避けねばならなかった。

シューマン・プランには経済上の目的もあった。フランスにおける鉄鋼の価格は国際市場よりも高かったので、それを引き下げて外国製品に駆逐されないようにする必要があった。また、鉄鋼は自動車などの材料でもあるので、自国製造業の競争力を上げるため、西ドイツとの市場統合により効率化しなければならなかった[5]

このように、シューマン・プランの目的は、政治的には加盟国を結束させること、経済的には世界市場での競争力を上げることであった。その後、統合の成果が加盟国にとって満足なものであるかぎりは、深化と拡大が繰り返されることになる。

1958年には分野を問わず、西ヨーロッパを関税同盟にするEECが発足した。同じ年には、原子力発電を導入するためユーラトム(欧州原子力共同体)が設立された。農業補助金をめぐる論争が絶えないCAP(共通農業政策)は1960年に始まった。ECSCの最高機関とEECおよびユーラトムの両委員会は1967年に統合されて欧州委員会となり、3共同体はまとめてEC(欧州共同体)と呼ばれることになった。

1980年代に日本が経済的にライバル視されるようになると、1987年に単一欧州議定書(SEA)がECでは作成され、1992年にモノの移動が自由である共通市場が完成した。スピルオーバーは自動的に進んだというよりも、国際環境の変化に適応してのものであった。

1990年代、欧州統合は共通市場から別の分野へと「あふれ出た」。共通外務・安全保障政策(CFSP)と呼ばれる政治分野や司法分野に活動の範囲を広げたのはマーストリヒト条約である。これが1993年に発効して、EUが発足した。

冷戦終結後、グローバリゼーションが競争を加速すると、EUは1999年の通貨統合で受けて立った。前年にはECB(欧州中央銀行)が設けられ、2002年に共通通貨ユーロの紙幣・硬貨が発行された。

ただし、21世紀になってからはつまずきも少なくない。EU加盟国は連邦にかぎりなく近づく欧州憲法制定条約に2004年に署名した。それはEU大統領と呼ばれる理事会常任議長と、EU外相と呼ばれる外務・安全保障政策上級代表を置くなど野心的な内容であったが、フランスとオランダでの国民投票で批准が否決されてしまった。代わって、ヨーロッパの旗や歌の部分を憲法条約から削除したリスボン条約(改革条約)が2007年に署名された。理事会常任議長と外務・安全保障政策上級代表の規定はリスボン条約に残ったため、EU大統領とEU外相は置かれている。

拡大の面では、2026年の時点でEUの加盟国は27か国である。1972年までは6か国であった。加盟国は多様性に富むが、よいことばかりでない。第1に、貧しい国も抱え込んだため、2009年の世界経済危機後にはギリシャの債務問題に取り組まなければならなくなった。第2に、東ヨーロッパへの拡大によって、隣接するウクライナでクリミア半島と東ウクライナの問題が起きると、政治的な対応が必要になった。第3に、域内からの移民流入に戸惑うイギリスは2016年に国民投票を行い、離脱を支持する票が多数を占め、2020年に離脱した(ブレグジット)。

ロシアはヨーロッパに含まれないのか? OSCE(欧州安全保障協力機構)は、全欧という点をセールスポイントにする組織である。それどころか、北米のアメリカ合衆国とカナダまで入っていて、冷戦時代の西側、東側、そして中立・非同盟諸国の対話を引き継いでいる。1970年代はデタント(緊張緩和)が進み、1973年に中部欧州相互兵力削減交渉(MRFA)が始まった流れである。

東西間における対話の動きが最高潮に達したのが1975年、中立国フィンランドの首都ヘルシンキにおいて開かれたCSCE(欧州安全保障協力会議)である。この会議は安全保障だけでなく、人権においても成果を上げた[6]

ベルリンの壁が崩壊して、冷戦終結の晴れ晴れとした雰囲気がヨーロッパを覆った。1991年に東側の同盟であるワルシャワ条約機構は解散した。空白地帯となった東ヨーロッパに、どのような安全保障の秩序を立て直すのか注目された。

CSCEは一つのヨーロッパの担い手になると信じられた。1995年には、もはや会議でなく、国際機構としてのOSCEへと衣替えをした。その後しばらくは、ロシアとその他の共通の枠組みとして一定の意義があるという評価もあった。

冷戦崩壊の立役者であるミハイル・ゴルバチョフ大統領をはじめ、ソ連/ロシアの人々はNATOの解散を信じていた。そうなっていれば、本当の意味での全欧が欧州統合のゴールになったであろうが、NATOの側は必死に生き残ろうとした。

初めにNATOが主張したのは、自らは協調的安全保障のための組織である、という自己理解であった。1990年の首脳会議は、友好の手を中東欧にまで拡大し、協力することを提案した。そして、そのための機関や枠組みが、まるで手品のように次々と繰り出された。例えば、北大西洋協力理事会(NACC)、平和のためのパートナーシップ(PfP)、NATO・ロシア常設合同理事会(PJC)、欧州大西洋パートナーシップ理事会(EAPC)、そしてNATO・ロシア理事会(NRC)である。特に、平和のためのパートナーシップはウクライナにも適用された。これはNATOによる善意の表れであったろうか? それとも、NATO拡大の布石であったろうか? 客観的に言えることは、ソ連崩壊からの数年間、東ヨーロッパにロシア中心の同盟が復活するのを阻む効果があったことである。

NATOの次の自分探しは新戦略概念であった。1991年の首脳会議は、紛争予防・危機対応を主眼とする新戦略概念を採択した。ボスニアヘルツェゴビナ紛争においては、NATOによる空爆が1995年の和平合意を促した。さらに、紛争後の治安を守るため、NATO主導のIFOR(実施部隊)が同地に展開した。翌年にこれがSFOR(安定化部隊) になり、2004年にEUが責任を引き継ぐまでNATOの役割は続いた。

EUの側はNATOの強化にいかに対応したであろう? EUの共通外務・安全保障政策はフランスが後押しして設けられた。NATOが強くなりすぎると、米英の発言力が高まるので、それに対抗するのが狙いであった[7]。現実には、対抗するにはアメリカ合衆国は強すぎたし、逆に弱くなればなったで対抗する意味がない。このディレンマゆえに、EUの役割は中途半端であった。

さて、1999年のコソボ戦争においても空爆したのはNATOであり、同地にNATO主体のKFOR(国際安全保障部隊)が展開した。対テロ戦争では、アフガニスタンの首都カブールは2003年からNATOのISAF(国際治安支援部隊)が治安の指揮・調整を担った。

NATOは不要論を封じ込めることに成功したものの、東側陣営の崩壊によって生じた力の空白は埋められておらず、そこに敵対的な新勢力が台頭する可能性は消えていなかった。

東方拡大、という冷戦終結の総決算がついに始まった。1997年の首脳会議はチェコ共和国・ハンガリー・ポーランドを招き、加入の交渉に取り掛かった。ロシアの承諾を得たかったビル・クリントン合衆国大統領はその年、国内の混乱から抜け出せないロシアのボリス・エリツィン大統領に取引を持ち掛けた。

わたしがエリツィンに、NATOの拡大にロシアの合意を得たいという要望を伝えると、エリツィンは、内密――本人の言葉を使うなら「クローゼットのなかで」――の約束で、NATOの拡大を旧ワルシャワ条約機構加盟国までに限定してほしい、旧ソ連のバルト諸国やウクライナを除いてほしい、と言った。わたしは、それには応じられなかった。―後略―

―前略―わたしはエリツィンに、NATOの拡大とNATOとのパートナーシップに同意するなら、新加盟国の領内に当面軍隊やミサイルを配備しないことと、新G8や世界貿易機関(WTO)などの国際組織へのロシアの加盟を後押しすることを約束するという提案を述べた。この提案が受け入れられて、交渉は成立した[8]

チェコ・ハンガリー・ポーランドのNATO加盟は1999年に実現した。21世紀になって、旧ソ連のバルト3国を含むほとんどの東ヨーロッパ諸国が加盟した。東方拡大によってロシアとNATOを隔てる緩衝地帯は消失した。

ウラディミル・プーチンが大国の復活という課題を担ってロシアの大統領に就任したのは2000年のことである。アメリカ合衆国がイラク戦争に手こずっているのを見きわめ、逆襲を開始した。

プーチンが目をつけたのは1990年に署名された欧州通常戦力条約(CFE)である。NATOの東方拡大によって東西のバランスが崩れた以上、条約が定める兵力は現実に合わなくなった。適合化合意というものが1999年に署名されたものの、これは未発効のままであった。それを理由に、プーチンは欧州通常戦力条約の履行を2007年に停止し、最終的に、ロシアは条約から脱退した。

旧ソ連諸国は、ロシアへの求心力と遠心力によってかき回された。CIS(独立国家共同体)は、ソ連崩壊とともに独立した諸国から成る経済共同体であるが、脱退が相次いだ。今もなお求心力が働く諸国はCSTO(集団安全保障条約機構)の加盟国であり、ロシアと親ロシアのアルメニア・ベラルーシ・カザフスタン・キルギス・タジキスタンから成る領土保全のための機構である。

ロシアからの遠心力が強く働く国々は、民主主義と経済発展のための機構GUAMに集う。この友好組織にはジョージア・ウクライナ・アゼルバイジャン・モルドバが加盟する。ロシアまたはその友好国であったアルメニアによって領土を占領された経験が、遠心力の原動力である。

こうした構図も、2022年に始まったウクライナ戦争によって決定的に変化しようとしている。中立国であったフィンランドは2023年に、スウェーデンは2024年にNATOに加盟した。旧ソ連諸国の間でも、ベラルーシは戦争協力をつうじてロシアに引き寄せられた一方、アゼルバイジャンに領土を奪還されたアルメニアはロシアから決別するかもしれない。

ヨーロッパ、そして「モンロー・ドクトリン」の回で扱った米州以外の諸地域で、国際統合はどうなっているであろうか?

冷戦初期の東アジアは戦争地帯であった。ソ連と中国が一緒になってアメリカ合衆国に対抗し、朝鮮戦争、インドシナ戦争、あるいはその他の領土紛争により引き裂かれた。事態を変えたのは1967年に5か国の外相が発したバンコク宣言によるASEANの結成である。

ASEAN結成初期の主な原則を二つ挙げる。一つ目は国家強靭性である。国家が破壊活動により脅かされないよう加盟国は努める、ということであり、内戦とクーデターに悩む東南アジアでは有効な戦略であった。反面、民主主義や自由は二の次とされた。

もう一つのASEANの原則は、加盟国の領域を中立地帯とすることである。東南アジアにおける紛争の多くは米ソの代理戦争であったので、外部勢力の干渉を排除することは紛争を鎮める上で役に立った。特に、中国がソ連と手を切ってアメリカ合衆国側についてからはうまくいった。

しかし、ASEANの周囲は、なおパッチワーク状であった。アメリカ合衆国との「同盟」が日米安全保障条約・米韓相互防衛条約・米比相互防衛条約と三つ残った。各国のイデオロギーは自由主義のところもあれば、共産主義のところもあった。イスラムが政治に影響を与える国もある。

冷戦後はASEANが東アジアの中核となって、多様な国々がさまざまな分野で対話する舞台となった。安全保障対話の枠組みはASEAN地域フォーラム(ARF)である。南沙諸島、またの呼び名をスプラトリー諸島、という南シナ海の海域の領有権が争われる。中国による軍事拠点化が周辺国の懸念を招き、ARFの場を使って協議が行われた。

ASEANを核とした枠組みを発展させ、東アジア首脳会議(EAS)が毎年、行われている。冷戦が終わってすぐの1990年、マレーシアのマハティール首相が東アジアを単位とした経済グループを提案し、EAEC(東アジア経済協議体)という仮の名前で議論された。これにはアメリカ合衆国を外す意図がかいま見られ、また、経済における日本脅威論が唱えられて実を結ばなかった。15年たつと、日本脅威論は(幸か不幸か)すっかり影を潜めた。2005年にクアラルンプールで第1回の東アジア首脳会議が開かれた。2011年からはアメリカ合衆国とロシアも参加した。

上海協力機構(SCO)は中国とロシアという二つの大国と、カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタンの中央アジア5か国から成る組織であった。旧ソ連の中央アジアと中国の新疆ウイグル自治区はムスリムが多く、イスラム主義の拡大を加盟国は恐れる。また、対テロ戦争に伴い、地域に接するアフガニスタンに進出したアメリカ合衆国の影響力もそれらは懸念したであろう。このような次第で、上海協力機構は安全保障、特にテロ対策、に力を入れる。

2024年までにベラルーシ・インド・パキスタン・イランがに加わり、SCOは10か国の組織となった[9]。ユーラシア大陸の大半が加盟国の領土で覆われた。西側のG7に対抗する枠組みが発展するとすれば、BRICSとならぶ有力候補がこれである。

アジアの地域統合として南アジア地域協力連合(SAARC)やアジア太平洋経済協力(APEC) も取り上げるべきかもしれない。ASEANやヨーロッパのEUに比べれば、協力の度合いはどうひいき目で見ても見劣りがする。他の地域についてもそれらに勝る地域統合は存在しない。

最後に、アフリカ連合(AU)と湾岸アラブ諸国協力理事会(GCC)に触れてこの回を終える。

AUはアフリカ全域を覆う地域機構である。前身であるOAU(アフリカ統一機構)は1963年に発足した。本部はエチオピアのアディスアベバである。「アフリカの統一」はアフリカの年と言われた1960年ごろのスローガンであったので、2002年にAUと呼び名を変え、イメージを一新した。

AUの目標は設立規約を読むと、政治・経済・社会・文化・開発・科学・保健と壮大と呼べるほどすべてを含む。設立以来の共同事業では、アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)という開発計画やダルフールにおける平和維持活動が記憶に残る。グローバリゼーションをめぐるアフリカの態度が知りたい時、何かと気になる存在である。

GCCは、中東の地域大国であるエジプト・イラク・イランに囲まれた湾岸の君主国から成る。加盟国はオマーン・クウェート・カタール・サウジアラビア・バーレーン・アラブ首長国連邦である。イラン・イラク戦争が勃発した翌年の1981年に設立された。サダム・フセイン大統領の絶頂期には、イラク・エジプト・北イエメン・ヨルダンがACC(アラブ協力会議)を結成し、GCCと対抗関係にあった[10]。 GCCは時々、活性化して経済での統合に進むことがある。加盟各国にはそれぞれの事情があって、ニュースで聞こえてくるのは国家間の不協和音ばかりである。ただし、アラブのイスラム君主国というきずなは強いので、関係が薄れることはない。


[1] Ernst B. Haas, The Uniting of Europe: Political, Social and Economical Forces (London: Stevens & Sons, 1958); and Ernst B. Haas, Beyond the Nation-State: Functionalism and International Organization (Stanford: Stanford University Press, 1964).

[2] 木村毅、『クーデンホーフ光子伝』、鹿島出版会、1976年。

[3]ーデンホーフ・カレルギー、『クーデンホーフ・カレルギー全集1』、鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会、1970年、54-55ページ。

[4] クーデンホーフ・カレルギー、『クーデンホーフ・カレルギー全集1』、164-166ページ。

[5] Matthias Kipping, La France et le origines de l’Union europeénne: Intégration économique et compétitivité internationale, traduit par Olivier Mannoni (Paris: Comité pour l’histoire économique et financiére, 2002).

[6] 植田隆子編、『欧州安全保障協力会議(CSCE) 1975-92』、日本国際問題研究所、1992年。

[7] Stanley Hoffmann, “French Dilemmas and Strategies in the New Europe,” in Robert O. Keohane, Joseph S. Nye, and Stanley Hoffmann, ed., After the Cold War: International Institutions and State Strategies in Europe, 1989-1991 (Harvard University Press, 1993).

[8] ビル・クリントン、『マイライフ クリントンの回想』、下、楡井浩一訳、朝日新聞社、2004年、436ページ。

[9] The Shanghai Cooperation Organisation, “About Shanghai Cooperation Organisation,” https://eng.sectsco.org/20170109/192193.html, accessed on March 4, 2026.

[10] 小串敏郎、『王国のサバイバル』、日本国際問題研究所、1996年、531-532ページ。

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地域主義はグローバリズムの対義語である。また、それはナショナリズムの対義語でもある。かつて地域主義の指導者であったアメリカ合衆国は、いつの間にかグローバリズムの指導者になってしまった。初期の合衆国は当時の世界でも珍しい共和主義または民主主義の政治体制であったが、小国がイギリスやフランスといったグローバルな大国に対抗するため、弱い仲間どうしまとまろうとしたのが地域主義の始まりである。今回のテーマは、アメリカ13植民地が独立して以来の米州における地域主義について論じなさい、である。

アメリカの13の植民地が1776年に独立宣言を発した。翌年に採択した連合規約は1781年に発効し、ユナイティッド・ステイツ・オブ・アメリカが誕生した。独立した主権国家の集まりであれば、合衆国でなく諸国連合や諸邦連合と呼ぶべきでないか? 諸邦代表からなる連合会議は国連総会のようであり、執行権を行使する連合委員会は国連安保理のような合議体であった。

もっとも外交では、アメリカ諸邦連合は国家連合よりも一つの国家に近く、ベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファーソンら共通の外交使節を派遣した。イギリスとの平和条約である1783年のパリ条約に署名したのはそれぞれの邦ではなく、連合の代表3人であった。

アメリカ合衆国憲法が1787年に採択され、翌年に発効すると、ユナイティッド・ステイツ・オブ・アメリカは名こそ変わらなかったにせよ、国家連合から連邦へと変質した。強い執行権が大統領一人に与えられ、首都のワシントンDCがまもなく建設された。各州の独立意識が高いままであったことは内紛の種であり、のちに南北戦争を引き起した。

弱者が連帯するシナリオは、アメリカ合衆国が連邦になってほかに共和国がなくなると行き詰まった。初代大統領のジョージ・ワシントンは退任を翌年に控えての告別演説(1796年)で「諸外国に関するわれわれの行動の一般原則は、通商関係を拡大するにあたり、できるかぎり、政治的結びつきをもたないようにすることであります」と述べた[1]。これは地域主義でなく孤立主義である。

ワシントンの死後、共和国の仲間を増やす好機が訪れた。かつてスペインの領土であったラテンアメリカ諸国が独立したのである。スペインは重商主義を採用し、自らの植民地と外国との貿易を許さなかったが、実際は海賊と密貿易が横行し、オランダやイギリスがその富を狙っていた。

ナポレオン戦争によってスペイン本土が乱れると、植民地は次々と独立した。それらは北米の元イギリス植民地にならって、共和制を採用した。イギリスは晴れてラテンアメリカの貿易相手となり、新しく独立した国々を支えるつもりであった。

いきなり訪れた試練はヨーロッパの正統主義であった。ウィーン会議が打ちだしたそれはフランス革命以前の君主による支配を復活する原則であり、イギリスを除くヨーロッパの君主国から成る神聖同盟が結成された。ラテンアメリカの旧主であるスペインのボルボン家が復活を企てると噂が流れた。アラスカからロシアが北米の西海岸に南下しようとしていた動きも気がかりであった。イギリスはアメリカ合衆国に共同で対処しようと持ち掛けた。

アメリカ合衆国としては植民地化に反対するというメッセージをはっきりさせる必要があった。しかし、イギリスはヨーロッパの君主国であり、また、カナダに植民地を持っていたのでパートナーにするにはふさわしくなかった。ジェイムズ・モンロー大統領は1823年、モンロー・ドクトリンとして知られることになる原則を一般教書のなかで明らかにした。

このような関心からはじまった討議において、また両国がその結果結ぶかもしれない協定において、合衆国の権利と利益が包含される基本的原則として、つぎの点を主張するのがこの際適切と判断されました。すなわち、南北アメリカ大陸は、これまでとり続け維持してきた自由と独立の状態によって、今後、ヨーロッパ列強のいかなる国によっても将来の植民の対象とみなされてはならない、という原則であります[2]

神聖同盟はラテンアメリカに上陸せず、当面の危機は去った。しかし、例えばメキシコに対するフランスの武力行使は繰り返され、操り人形の皇帝が立てられたこともあった。

新独立国は弱者がまとまり強国に対抗する地域主義を試みた。グランコロンビアのシモン・ボリバル大統領は米州諸国を招いて、全アメリカの国家連合を作ろうとした。ところが、1826年のパナマ会議に北の巨人アメリカ合衆国の使節は参加せず、国家連合条約は不発効に終わった。

19世紀、特にその前半、のラテンアメリカは混乱の時代であった。中米連邦は1840年に解体した。分かれたエルサルバドル・ニカラグア・ホンジュラスはそれから10年間、再統一の努力をした。1907年に中米司法裁判所の設立条約が署名されるまで、さまざまな統一の試みがあった。

その間、北米の西部開拓は太平洋に到達した。大陸国家になったアメリカ合衆国は国外に目を向けたが、すべて外国の領土であったので、ラテンアメリカ諸国との関係強化を次の目標とした。1881年、スティーブン・G・クリーブランド大統領は米州会議を招集し、1889年に実現した。1890年に米州共和国通商事務局が設立され、2年後に米州共和国国際事務局に改称された。名前から察せられるように、関心は貿易にあった。自国の製品を売りさばきたいばかりでなく、工業化のために国内で採れない熱帯の物産を輸入する必要があった。

経済成長を遂げたアメリカ合衆国が初めて横柄な行動をとったのがベネズエラ国境事件であった。1895年、国務長官のリチャード・オルニーは史上、最も傲慢とされる言葉を書いた命令書を出した。曰く、「今日、合衆国はこの大陸上で実際には主権者であり、その命令は介入が向けられた臣民には法である。」

オルニー国務長官が傲慢な言葉を発した事情は、イギリスとベネズエラの領土紛争にアメリカ合衆国が首を突っ込んだというものであった。現在のガイアナはイギリスの植民地であり、ベネズエラとの境では金を産出した。モンロー・ドクトリンを奉じ、外部勢力による植民地化に反対する合衆国はイギリスと対立した。クリーブランド大統領は、イギリスが仲裁をのまなければ米国が勝手に委員会を作って決める、と演説し、結局、仲裁法廷が立ち上げられた[3]。独立国のガイアナとベネズエラとの国境紛争は21世紀になっても解決していない。

大国になったアメリカ合衆国にもはや陸上の敵はなく、海上の敵が課題であった。海軍中将アルフレッド・T・マハンのシーパワー理論は軍事だけでなく、それと生産と海運と植民地とを結びつける地政学であった。

例えば、西海岸は「東部との交通連絡は急行列車でなら速いが、いったん戦争になれば当然要求される人員と軍需物資を大量輸送するには時間がかかる」[4]。この問題はパナマ運河を支配することにより解決できる、とマハンは述べた。

地峡運河を経由すれば、ニューヨークよりサンフランシスコに至る航海距離が三分の一に短縮され、ニューヨークよりバルパライソに至る航程が半減されるため、東アジアに達する距離上の利点によって、ヨーロッパ諸国を相手に対等に競争することが可能になるからである[5]

パナマ運河の価値は西海岸に達するためだけでなく、東アジアへの航海のためにも重要であった。ただし、ハワイ諸島付近を安全に通過できることも必要であった[6]。ハワイ王国では1893年に革命が起こって翌年、共和国になり、1898年、アメリカ合衆国に併合された。合衆国はマハンのシーパワー論を応用するかのように、領土と植民地を拡大した。

パナマ運河の安全はカリブ海の制海権次第である、とマハンは論じた[7]。ハワイ併合と同年の1898年の米西戦争によって、カリブ海の要衝であるキューバは独立した。アメリカ合衆国はその憲法にプラット修正を組み込み、内政への干渉権やグアンタナモ基地の租借などを認めさせた。

パナマ運河が完成したのは1913年のことである。1903年にコロンビアでの混乱に乗じて、パナマを独立させ、アメリカ合衆国による運河の建設を容易にした。運河の両岸は「運河地帯」として合衆国の管理下に置かれた。その地位はイギリスのスエズ運河はもちろん、日本軍が駐屯した満州の関東州とも変わらなかった。米国史では、こうした拡大をキリスト教的な意識から「明白な天命」と呼ぶが、帝国主義以外の何物でもなかった。

帝国主義はモンロー・ドクトリンに新しい解釈をもたらした。シオドア・ローズベルト大統領のローズベルト・コロラリー(系論)である。それは単に外部勢力による植民地化を許さないということだけでなく、アメリカ合衆国には「国際警察権力」として「不法行為や無能が目に余」る国に介入する責任があると主張した。

支配ばかりがアメリカ合衆国の対ラテンアメリカ政策ではなく、対等なパートナーシップも深めようとした。1910年、上で触れた米州共和国国際事務局を発展させ、パンアメリカン連合が誕生した。1889年のワシントンDCでの米州会議を第1回と数えれば、第2回のメキシコシティ、第3回のリオデジャネイロ、第4回のブエノスアイレス……、と会議は回を重ね、そのホスト国となった国々はたがいに大国と認め合って、大使の階級に外交使節を格上げした。パンアメリカン連合の本部はホワイトハウス南の一等地であり、今はOAS本部になっている。

モンロー・ドクトリンは米州でアメリカ合衆国が勢力範囲を築く手段であったが、国際連盟の設立はそれに対するグローバリズムからの挑戦であった。当時の合衆国はモンロー・ドクトリンの名のもと、他国に出兵することを普通に行っていた。そうしたことを国際連盟は認めるのであろうか? 国際連盟規約はベルサイユ条約に組み込まれ、T・ウッドロウ・ウィルソン大統領の提案に基づき、1919年に作られたものである。

ウィルソン大統領は手をしっかりと打っていた。国際連盟規約第21条には「本規約ハ、仲裁裁判条約ノ如キ国際約定、又ハ「モンロー」主義ノ如キ一定ノ地域ニ関スル了解ニシテ平和ノ確保ヲ目的トスルモノノ効力ニ何等ノ影響ナキモノトス」と書き込まれた。国際連盟よりもモンロー・ドクトリンのほうが上であったのである。

アメリカ合衆国の帝国主義が終わりを迎えたきっかけはナチス・ドイツの台頭であった。イギリスから合衆国へと継承されつつあったグローバル大国の座をアドルフ・ヒトラーが脅かした。米州の結束を呼びかける必要があったが、帝国主義の汚名にまみれたモンロー・ドクトリンは旗印になりえなかった。

フランクリン・D・ローズベルト大統領が選んだキャッチフレーズは善隣政策であった。1936年、彼は次のように語った。

善隣政策を実施するにあたり、―中略―私は合衆国が武力介入に断固として反対する旨を表明してきた。

わが国は汎アメリカ会議で不介入の原則を具体化する協議をおこなった。わが国はキューバ共和国の国内問題に干渉する権利をわれわれに与えたプラット修正条項を廃棄した。わが国はハイチからアメリカの海兵隊を撤退させた。わが国はわれわれとパナマとの関係を相互に満足のいく基盤におく新しい条約に調印した。わが国はほかの米州諸国と相互の商業上の利益となる一連の通商条約の締結に乗りだした。また二つの近隣共和国の要請があれば、米州諸国間の最後の深刻な国境紛争の最終的な解決に支援の手を差しのべたいと希望している[8]

パンアメリカン連合の会議は場所をチリ、キューバ、そしてウルグアイと移して開かれたが、1938年におけるペルーでの第8回会議では非常時の空気が広がっていた。1941年末の真珠湾攻撃を受け、米州は総力戦の覚悟を決めた。年が明けての連合国宣言は日独伊三国同盟に対抗するグローバルな戦線であった。ラテンアメリカからはコスタリカ、キューバ、ドミニカ共和国、エルサルバドル、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、ニカラグア、そしてパナマが宣言に参加した。

日本は急ごしらえの大東亜会議を1943年に開いた。それはパンアメリカン連合の二番煎じであり、周回遅れの感は拭い去れなかった。

日本の出遅れは文化・芸術の分野でも際立った。「のらくろ」のようなアニメはあったものの、アメリカ合衆国ではあのウォルト・ディズニーが国策に協力していた。彼は1941年と1944年に、国務省に依頼され、スタッフとともにラテンアメリカを旅行し、アニメと実写で現地の文化を紹介した。『ラテンアメリカの旅』という映画はブラジルで1942年、合衆国で1943年に公開された。ホセ・カリオカはブラジルを象徴するカナリアをモデルとするキャラクターで、ドナルドダックと劇中で名刺交換をする。『三人の騎士』はメキシコで1944年、合衆国で1945年に封切られた。このなかではメキシコの鶏パンチートを加えた3羽が踊る[9]

結束力で枢軸国を圧倒した米州であったものの、例外もあった。アルゼンチンは日米開戦後も中立を維持した。1943年には、統一将校団がクーデターを起こし、フアン・D・ペロンが実力者になった。彼はイタリアで軍事を学び、親ファシストと見られた。妻はエビータことエバ・ペロンという女優で、彼女を主人公とするミュージカルは半世紀後、マドンナを主演として映画化された[10]

連合国の勝利が確実になり、国際連合の憲章を作るサンフランシスコ会議が開かれることになった。その参加条件は、日独に宣戦布告をしていること、であった。

サンフランシスコ会議が開かれる直前の1945年3月になって宣戦布告をしたアルゼンチンは会議の参加をソ連に反対された。米州諸国の力添えがあって、何とか参加は承認された。

国際連合憲章は連盟規約と違い、モンロー・ドクトリンのような地域主義を優先しない。第8章の地域的取極では、地域的取極・機関の存在は許すものの、国連の目的・原則と一致していなければならない(第52条)。また、それらの強制行動は、安保理の許可が必要である(第53条)。

米州諸国にとって、これは受け入れなければならない現実であった。枢軸国を倒したことには、イギリスとソ連の貢献が非常に大きかった。このグランドアライアンスを平和の時代にも生かそうとしたのが国際連合であった。

ソ連は永遠のパートナーでない、とアメリカ合衆国はすぐに気づいた。米州諸国は1947年、リオデジャネイロ条約(米州相互援助条約)という国連の時代にふさわしい同盟を改めて結んだ。OAS、または米州機構、という国連憲章第8章の地域的機関はその翌年に発足した。

アメリカ合衆国がOASに期待したのは共産主義の侵入を防ぐ役割であった。キューバ革命を成功させたフィデル・カストロに対して価値が試された。合衆国はOASにカストロ政権を除名させた。同じ1962年のキューバ危機では、ソ連の核ミサイルは撤去させたものの、カストロ政権を倒すことは当面、あきらめなければならなくなった。キューバ除名決議が停止されたのはやっと2009年になってからである。キューバとアメリカ合衆国の国交回復は2015年、フィデルの弟ラウル・カストロ国家評議会議長とバラク・オバマ大統領の間で成し遂げられた。

帝国主義の遺産の一つ、パナマ運河地帯、を返上すると決めたのはジミー・カーター大統領であった。彼は1977年にパナマ運河条約を結び、運河地帯は1999年に返還された。回顧録から引用する。

このうちひとつは、運河地帯のほとんどをパナマに返還し、運河の運営と維持にパナマも加え、両国の共同事業とするものである。われわれはパナマに対しては“上席のパートナー”として運河を運営し、これを防衛する権利を今世紀末まで持つことになったのだった。そして、今世紀が終わると同時に、現在パナマ運河地帯に駐留しているアメリカ軍はすべて引き揚げることになる。しかし、もうひとつの“中立化条約”によって、運河が外部からの脅威を受け、すべての国の船に平等で中立的なサービスを与えられない障害が起きた時には、アメリカ軍が運河防衛のために引き返して来る権利を永久に保有する[11]

しかし、帝国主義の過去はしばしば反米的な宣伝に利用される。ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は1999年に就任してから、反米的な発言をやめなかった。2009年の米州首脳会議では、オバマ大統領にアメリカ合衆国を批判した本を贈った。チャベスが2013年に亡くなり就任した後継者ニコラス・マドゥロ大統領は2026年に米軍により連行された。

グローバルな脅威に対して地域主義が有効なこともある。しかし、むやみに脅威が強調されて、別の目的のために地域主義が利用されることもある。地域主義それ自体は目的ではない。あくまで人間の自由のための一手段として、それは追求されるべきである。


[1] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、69ページ。

[2]   大下、有賀、志邨、平野編、『資料が語るアメリカ』、69ページ。

[3] Dexter Perkins, A History of the Monroe Doctrine (Boston: Little, Brown and Co., 1955), p. 181.

[4] アルフレッド・T・マハン、『アルフレッド・T・マハン』、麻田貞雄訳、第2版、研究社、1977年、282ページ。

[5] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、129ページ。

[6] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、95ページ。

[7] マハン、『アルフレッド・T・マハン』、130ページ。

[8] 大下、有賀、志邨、平野編、『資料が語るアメリカ』、190-191ページ。

[9] Walt Disney, Saludos amigos, 1942. Walt Disney Productions, The three caballeros, Burbank, Cal: Walt Disney Productions, 1945. ニール・ゲイブラー、『創造の狂気』、中谷和男訳、ダイヤモンド社、2007年。

[10] フォームの始まり

 Alan Parker and Robert Stigwood, Evita, [United States]: Cinergi, 1996.

[11] ジミー・カーター、『カーター回顧録―平和への願い』、上、日本放送出版協会、1982年、257ページ。

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人工知能

2020年に始まった新型コロナウイルスCOVID-19のパンデミック(世界的流行)は、人々を自宅に閉じ込めた。街から人影は消え、鉄道は空気を運び、国境をまたいだ人の移動はほぼ途絶えた。対面の会話はマスク越しになされ、誰かが咳をするのが聞こえると皆、恐怖感に襲われた。これが新しいノーマルなのだ、と信じた人もいたが、ソーシャルディスタンスはとりあえず3年間で終止した。

今回のテーマは、人工知能がもたらす社会への脅威を三つ選び、それらの原因と危険について説明しなさい、である。

アイザック・アシモフはソビエト連邦生まれのユダヤ人であり、アメリカ合衆国に移住してSF作家になった。ロボットと銀河帝国の作品が有名である。ロボットについての代表作に、1950年の『われはロボット』、1954年の『鋼鉄都市』、1957年の『はだかの太陽』、そして1986年の『ファウンデーションと地球』がある。

ロボットについてのアシモフの設定で名高いのがロボット工学三原則である。彼のロボットは単なる機械仕掛けで動く人形ではなく、真価は人工知能(AI)にある。それらは具体的な命令を与えられなくても自ら考えて人間に奉仕するが、三原則には従わなければならない。引用する。

第一条     ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条     ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条     ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

――『ロボット工学ハンドブック』、第五十六版、西暦二〇五八年[1]

ロボット工学三原則は『ロボット工学ハンドブック』に書かれた絶対的な倫理である。独占企業であるUSロボット&機械人間株式会社の企業責任において、倫理に反したロボットは作られない。三原則に違反すると、陽電子頭脳に障害が発生し、ロボットが壊れる仕組みである。

星々に人類が散って久しい世界でも、三原則を営利企業であるUSロボット&機械人間社が守り続ける理由は何か? 殺人ロボットも造らないとライバル企業との競争に負けてしまうのでないか? SF作家は物語の基本設定に関する疑問に答えなくてよいのであろう。

ロボット工学三原則は守られ続けるにせよ、それらの命令はあまりに一般的で、抽象的である。特に、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という第1条は個別的、具体的な状況に適用される際、本当に人間に危害を加えないのか疑わしい。危害を加える命令でなくても、危害を招く行動をロボットにさせることができるのでないか? 実際、ロボットの一部を凶器として使ったり、仕掛けをしておいて事故を誘発したりすることはアシモフが小説で使った題材である。あるいは、右によければ対向車、左によければ歩道、というような、どちらの選択をとろうとも人間への危害は避けられない場合はどうであろう?

第2条の人間の命令に服従する義務も疑わしい。知能が優る者、例えば大人、が知能が劣る者、例えば幼児、を言いくるめてしまうことは難しくない。ロボットが人間を保護するふりをして逆に操り人形にしてしまう着想は映画『アイ、ロボット』(2004年)で使われた[2]。自由が存在しないところで、自由が存在するかのように錯覚しているだけである。

ロボットの普及がもたらす現実に、人は心理的な葛藤を抱く。それが紛争をももたらすことをアシモフは鋭く予想する。社会は、ロボット化が進んだスペーサーワールドとロボット化を拒む地球とに分裂する。

スペーサーワールドとは、人類が移住したオーロラやソラリアなど50の惑星である。それぞれが独立した国家で、オーロラが最強である。スペーサー、すなわち、地球から移住した人間およびその子孫、とロボットが共存し、ロボットのおかげでスペイサーは豊かで、平和で、長生きである。まるで旧世界に対する新世界=アメリカである。

地球には、ロボットに殺されるというフランケンシュタイン・コンプレックスを信じる反ロボット派が存在し、ロボットを排除しようと暴動が絶えない。地球は人口が過密で、資源はスペーサーワールドに依存している。鉱物を掘るのは人間よりもロボットのほうが得意であるからである。スペーサー・シティ(宇宙市)は地球上に置かれたスペーサーの基地のようなもので、それに地球の人間は支配されている。まるで旧世界=ヨーロッパである。

なぜ、スペーサーワールドは豊かで平和で長生きなのか? 豊かさの原因は優秀な人工知能であるロボットの陽電子頭脳である。それのおかげで財とサービスの資源配分が効率的になるように経済が計画される。生産過剰も生産不足もなくなり、人々は価格を気にせず、オンデマンドでほしいものが手に入る。

平和は、ロボット工学三原則により、最強の兵器になりうるロボットが人間に危害を加えることが禁じられていることにより成り立っている。そもそも、スペーサーワールドには経済的な対立がないゆえに、殺人や戦争の原因もない(という)。

長生きであるのは、宇宙には病原体がないからである。逆に、病原体に対する免疫が体内にできていないので、他人からの感染を恐れて直接対面はせず、コミュニケーションはすべて三次元映像のビューイングをつうじて行われる。こうして、スペーサーは感染症にかからないため、寿命は百歳を大きく超える。

以上のように、スペーサーワールドとは安定した未来のイメージである。リスクをとらなくなるので、経済などの成長は止まる。しかし、すでにほしいものは何でも手に入るようになっているので、経済規模を大きくしなければならないという動機はない。

半世紀以上がたって、アシモフが描いたロボット世界のユートピアは真に迫っていたと分かる。新型コロナウイルス・パンデミックに伴うソーシャルディスタンスがなかったとしても、人々はきわめて衛生に敏感になった。インターネットの電子商取引はアシモフの考えていたものとは少し違うが、豊かさの水準を急速に向上している。残念ながら殺人マシンという形ではあるが、ロボット兵器は実現しつつある。彼が想像した鼻フィルターは、高機能マスクが鼻フィルターと口フィルターに分離すれば完成である。

スペーサーたちのソーシャルディスタンスは徹底している。人は自らの土地に一人で住む。対面で会わないのは他人だけでなく、家族もである。子供は引き離されて、親は育児をしない。

小説の設定は奇抜であるほど、そして葛藤が激しいほど面白い、とアシモフは知っていたにちがいない。テクノロジーの進歩がもたらす幸福が現代人には理解できず、実は不自由で管理されたディストピア(失望の世界)であることを彼は暗示したのでないか? 無理な作品設定の矛盾が広がるのを自ら楽しんだのでないか?

人工知能のユートピアまたはディストピアが到来するのは意外と近いかもしれない。シンギュラリティ、または特異点、という耳慣れない言葉を聞くことがある。『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』という本があって、そのなかでレイ・カーツワイルはシンギュラリティを次のように解説する。

一九五〇年代、伝説的な情報理論研究者のジョン・フォン・ノイマンがこう言ったとされている。「たえず加速度的な進歩をとげているテクノロジーは―中略―人類の歴史において、ある非常に重大な特異点に到達しつつあるように思われる。この点を超えると、今日ある人間の営為は存続することができなくなるだろう」[3]

フォン・ノイマンは、自ら発明したコンピューターがやがてとてつもない情報処理能力を発揮することを予言したのであろう。コンピューターの能力を否定する者はいない。「今日ある人間の営為」という言葉で何を彼が意図したか? そろばんや九九がなくなって電卓になるという程度のことではないであろう。カーツワイルが意図するのは、ロボットの頭脳が「パターン認識力や、問題解決能力や、感情や道徳に関わる知能」を獲得することである[4]。単純な計算などの能力はすでに人間を追い越しているので、人間に機械が置き換わる分野が増加すれば、財・サービスの供給は急速に自動化されるであろう。ロボットの数は人間の数と違い、無限に増やすことができる。

シンギュラリティが近いとすれば、人類はスペーサーへの道の入り口に立ったことになる。本当にそうであろうか?

人工知能が最も活躍すると期待される自動運転を例にとろう。人間がいない物理的空間のみであれば、自動運転は実用段階に入ったかもしれない。しかし、車道にとびだす子供や横断歩道でないところで道を渡る年寄りには対応できない。そうした危害は人間が運転する自動車であっても同じであるから、といって容認するわけにいかない。なぜか?

アシモフは「ロボットは人間に危害を加えてはならない」と書いたのをお忘れであろうか? 人間が運転するならば、交通ルールを守ろう、でよいが、ロボットであれば事故ゼロの高い要求水準が義務づけられる。自動運転車は、従来車をはるかに上まわる俊敏さで子供やお年寄りを避けなければならない。一番良いのは、生活空間と道路とを完全に分離して、鉄道のように人が立ち入れなくすることである。しかし、そうした新交通システムはもはや自動車とは別物である。

このように、話題の自動運転は当面、人間に取って代わるものでなく、人間を補助するものに限定されるべきである。普及のまえに立ちはだかるロボット三原則を無視してでも普及させようとすれば、葛藤が高まることを容認するか、葛藤を抑圧する法律と政府を強化するかのいずれかである。それを決めるのは政治である。

2025年、2期目のトランプ政権がアメリカ合衆国で発足した。大統領の当選に貢献した実業家イーロン・マスクはPayPal、テスラ、スペースX、OpenAI、X(旧Twitter)などを経営した経験がある。

イーロン・マスクの経営スタイルはスペースXのロケット発射実験が如実に示す。つまり、試行錯誤を恐れずに成功するまで実験を繰り返す、というものである。これが純粋に実験ならばよいのであるが、実用化が始まれば話は変わる。テスラの電気自動車を公道で自動運転することには賛成派と反対派の両方がいる。強行すると、Xに導入したGrokというAIが性的画像を生成することに抗議が集まったように、世間の反発を買う。

イーロン・マスクは早々に公職から退いたが、政治の重要性を人々に実感させた。

他方、サミュエル・H・アルトマンが最高経営責任者を務めるOpenAIはChatGPTという人工知能プログラムで注目を浴びる。ChatGPTはインターネット上の文章を学習し、すぐれた会話力でユーザの質問に答える。

しかし、ChatGPTはインターネットで語られている平均的なことを文章化するにすぎない。回答内容の真・善・美を吟味するのは人間に責任がある。実際、ハレーションと呼ばれる事実誤認が頻繁に起き、答えをそのまま使うことはできない。他人の文章を勝手に学習することは剽窃にあたらないか?、AIに書かせた文章のオーサーシップは誰のものか?、といった問題も解決していない。

以上のように、人工知能やロボットは便利で効率的かもしれないが、その普及には危害・不服従・紛争・権利侵害といったリスクが伴う。同時に、もっと根源的なリスク、すなわち労働力としての人間の尊厳が軽んじられるリスク、に人々は敏感になりつつある。

それにもかかわらず、あたかも手品のように人工知能が生成するテキスト・画像・音声・映像は世界を魅惑する。企業も、政府も、個人も、それらをもてはやし、ブーム自体が人工知能の功罪にかかわりなく社会を変える。以下ではアシモフが描いた未来社会でなく、短期的な人工知能の影響を検討する。

人工知能ブームの象徴はNVIDIAである。NVIDIAはもともと画像処理に適した半導体(GPU)を製造する会社として知られていた。この種の半導体が人工知能の運用にも向いていると分かると、NVIDIAの株価は上がり、製品の需要が高まった。

ブームは人工知能にとどまらず、電気機器に不可欠なレアアースの供給懸念や、積極的な研究開発、さらにはデータセンターの建設に広がった。中期的には、人工知能は莫大なエネルギーを消費する、といわれる。人工知能は経済を拡大し、国力を高めるとされるが、そのためには必要な資源を確保しなければならない。

こうして資源の争奪が始まろうとしている。2025年に中国はレアアースの輸出を規制した。他国の産業に打撃を与えたり、外交カードとして輸出を使ったりするための措置である。これが意味することは自由貿易の否定である。戦略資源は国産化するか、代替品を探すしかなくなった。ほしい資源を外交で獲得するには、相応の代償を払うか、威信を示さなければならない。ハイエクが『隷属への道』で否定した道である。

実は、相互依存からナショナリズムへとゲームを変える動きは保護主義的なトランプ政権の第1期に始まっていた。彼は就任翌年である2018年、安全保障を理由として、鉄鋼に25パーセント、アルミニウムに10パーセントの追加関税をかけた。同じ年に今度は中国を狙い撃ちにし、通商法301条に基づく不公正貿易国として追加関税を課した。さらに、中国の情報通信会社である華為(フアウェイ)の最高財務責任者をカナダ政府に逮捕させた。中国製品には秘密の情報収集機能が搭載されていると外国は疑うようになり、アメリカ合衆国は政府機関による華為製品の調達を禁止した。

2期目、トランプ大統領は貿易戦争の相手を拡大した。2025年の任期早々、カナダ・メキシコ・中国に対する関税を上げ、続いて全世界に対して鉄鋼・アルミニウムと自動車への関税を引き上げた。その後も、関税引き上げを自分の言うことを外国にきかせるためのカードとして使っている。

トランプの保護主義に始まり、パンデミックや人工知能ブームに引き継がれた流れは重商主義をすっかり定着させた。18世紀の重商主義は一次産品の供給を戦列艦で確保したが、現代版の重商主義国家は核兵器やミサイルをかざして関税や鉱物資源の駆け引きをする。国家間の利益は競合し、関係はヘドリー・ブルの言葉でいえば「ホッブズ的」になる。

そうした生産と軍事を支える負担は国民に重くのしかかる。関税を上げるということは、安い輸入品を手放すということである。軍事費は高い税金によってまかなわれる。遅かれ早かれ、国民は負担に不満を抱くようになろう。

ナショナリズムを徹底しようとすると、外国とのヒト・モノ・カネ・情報の出入りを遮断しなければならない。スパイやフェイクニュースの防止は誰でも思いつく方法である。近年は日本でも、軍事転用ができる物品を意味する軍民両用品の移転を規制する安全保障貿易管理が行われている。

いち早く、大胆にインターネットから自国を遮断して世界を驚かせたのは中国であった。SNSの微博、ネットショップのアリババ、動画の優酷、クレジットカードの銀聯、と、国内企業がそれぞれのサービスを支配している。

外国のIT企業は次々と中国から駆逐された。2008年チベット騒乱の後にTwitterが、2009年ウイグル騒乱の後にはFacebookが遮断された。さらに、Googleが2010年に中国から撤退し、2014年には中国からのアクセスもできなくなった[5]

中国が国外のインターネットを遮断する意図はIT産業の保護だけではない。国内の状況を外国に見られないように「竹のカーテン」で覆い隠したり、逆に、国民が外国の危険思想に触れないようにしたり、とまるで冷戦体制が再構築されているかのようである。

中国における国内情報通信の検閲は金盾(きんじゅん)と呼ばれる。検索エンジン、電子メール、そしてウェブサイトのワードが検閲されている。外国のインターネットとの遮断はグレートファイアウォール(GFW)といい、政権により有害と判断された情報は中国に入らなくなっている。個人は業者が提供するVPNを使ってグレートファイアウォールを迂回し、外国と情報をやり取りしているが、これはあくまで政府非公認の手法である。

目には目を、歯には歯を、とミイラ取りがミイラになり、世界は競争の時代に突入した。アシモフが描いた平和なユートピアであるロボット時代は遠い未来の話である。

これからの世界をリードするのはどの国か?十数年前、「G20は機能しない、G7は過去の遺物、G3は夢物語、G2は時期尚早」と論じたのはユーラシアグループ社のイアン・ブレマーであった[6]。彼は現状をGゼロ、すなわち、リーダーシップが欠如した世界、とした。G2は米中が協力して世界のリーダーを務める、というものである。

G2はトランプ大統領と習近平主席は試みるかもしれないが、世界のほとんどの国が納得できない秩序である。米中ばかりでなく、ロシアやヨーロッパも巻きこまないかぎり、平和で安定した秩序にはならない。仮に大国どうしで折り合いがついたとしても、それぞれの国民や中小国が蚊帳の外であれば、大国のリーダーたちの地位は安泰でない。

平和で豊かでもないのに、ロボット三原則が支配する未来に進むであろうか? 質問が逆である。平和な未来を作るために、人間はテクノロジーと社会をどのように管理すべきであろうか? 人工知能が行き着く先は宇宙旅行である。他の恒星系にジャンプするためのワープにも、惑星を破壊する強力な兵器にも、人知では扱えない桁外れのエネルギーが必要である。その陰で、人間は身体的にも精神的にも酷使されているはずである。人工知能を人間がコントロールできるまでの間に、人間の尊厳が維持される方法を考えださなければならない。その方法はUSロボット&機械人間社の企業倫理以上の何か――たぶんスペースガバナンスとして構想され、スペース憲法に書きこまれる新たな人権と行動規範――になるであろう。


[1] アイザック・アシモフ、『われはロボット』、Kindle版、早川書房、Kindleの位置No.23-28。

[2] Alex Proyas, Jeff Vintar, Akiva Goldsman, Laurence Mark, John A. Davis, Topher Dow, Wyck Godfrey, et al., I, robot, 2004.

[3] レイ・カーツワイル、『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』、Kindle版、NHK出版、2012年、Kindleの位置No.328-332。

[4] カーツワイル、『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』、Kindleの位置No.286-288。

[5] 山谷剛史、『中国のインターネット史 ワールドワイドウェブからの独立』、星海社、2015年。

[6] イアン・ブレマー、『Gゼロ後の世界』、北川格訳、日本経済新聞社、2012年、53ページ。

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武器移転と傭兵
人を殺したり、傷つけたりすることは特別なことであるはずである。よほどのこと、例えば疑いえない正義、のようなものがなければ、正当化の余地さえない。であれば、殺人や傷害のために使われた武器や兵士には罪があるのでなかろうか? 金儲けのために武器や兵士を売るならなおさらである。今回のテーマは、武器移転と傭兵(民間軍事会社を含む)をめぐる諸問題について論じなさい、である。 この70年あまり、現実に人を殺してきた武…
言いたいことは言いつくせた――個人的な思いであるが、本著は筆者にとってそれだけの価値がある。 国際ガバナンスという概念に筆者が触れたのは渡辺昭夫東京大学教授の『アジア・太平洋の国際関係と日本』(1992年)が最初であった。学部生時代は同書とほぼ同時に世に出たローズノー教授、チェンピール教授共編『ガバナンス・ウィザウト・ガバメント』を熟読した。渡辺氏の著書で言及されたフィンケルステイン教授のペーパーもご本人…
Geminiさんの答案 研究各論(国際政治経済)2025前期
アメリカ合衆国に対する日本の国際収支における「デジタル赤字」はなぜ拡大しているのか? そして、なぜそれは問題視されるのか? 具体例を挙げて、論理的に説明しなさい。 大要因とその問題点 1. はじめに 「デジタル赤字」とは、日本の国際収支統計における「サービス収支」のうち、通信・コンピュータ・情報サービスや著作権使用料など、デジタル関連の取引において支払額(輸入)が受取額(輸出)を上回っている状態を指す。202…
ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題
(表紙の画像はAIによって作成された) 軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼と政治家…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。 教科書での関連する記述 教科書 また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン…
国連総会
https://youtu.be/5S62o3m3tMA 「人類の議会」という言葉で国際連合を理解するのは、アメリカ合衆国の歴史家ポール・ケネディである。この言葉には逸話がある。ハリー・S・トルーマン大統領は国連創設の任を前任者から託された。その思いを伝えるために、詩の一節を引用した。イギリスの詩人アルフレッド・テニソンが1837年に作った「ロクスリーホール」という幻想的な詩であった。空飛ぶ船が戦い、血が流れたが、人類の議会に世…

消費社会

週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここでの幸福とは緊張の解消である。労働や季節や性といった複雑なものはすべて均質化されている。彼がショッピングモールを例に、消費の加速度的な増加を描写したのは1970年、つまり半世紀前、のことであった[1]

ポストモダンの消費はモダンの消費とはまったく違う、とボードリヤールは語る。筆者がそれを体験したのは1980年ごろ、池袋の西武百貨店においてであった。マズロー的に言い換えれば、モダンの消費は生理・安全・承認の欲求が主であったが、ポストモダンでは自己実現や審美の欲求が中心となる、ということであろう。

ボードリヤールは、財は使用価値に基づいて買われるのでなく、差異表示記号として消費される、とも見抜いた。ショッピングモールの事例に、差異表示記号としての消費という命題を当てはめると、どれだけリラックスできるかという使用価値は問題ではなく、ショッピングモールを歩く自分を確認することに意味がある。では、その自分、あるいは社会的に差異化された存在、は主体的に選んで、受け入れたアイデンティティであるのか? ボードリヤールは次のように言う。

消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を越えてしまうのである[2]

あたかも消費社会全体が人間を縛りつけているかのような書きぶりである。私は均質化された消費社会の世界市民である、という自己確認であれば、実害は小さいかもしれない。しかし、下層階級の奴隷根性やフーリガニズムを美徳とするコードが存在し、それを強いる差異の秩序などというものがあるとすれば、そんなコードは断固、廃止すべきである。

マルクスとエンゲルスであれば、いわゆる虚偽意識に関して違うことを言うであろう。偽のコードを信じ込ませる詐欺に引っかかるとすれば、それは無力な個人の現実があるからである。『ドイツ・イデオロギー』から引用する。

すなわち、意識の形態や産物はすべて、精神的な批判によってではなく、つまり「自己意識」やら、「妖怪」「幽霊」「妄念」といったものへの転化やらによってでなく、これら観念論的な戯言の発生源となっている実在的な社会的諸関係の実践的転覆によってのみ、解消されうるということである。――批判ではなく、革命こそが歴史の駆動力であり、また宗教や哲学やその他の理論の駆動力でもある[3]

筆者はマルクスとエンゲルスほど自らが正しいと信じていないので、革命でなく、批判をする。

今回のテーマは、グローバリゼーションは人間の抑圧なのか、人間の解放なのか、具体例を挙げながら論じなさい、である。人々がこれほど多量の消費を享受しているのはグローバリゼーションのおかげと言って過言でない。その点はこれでよいのかもしれない。しかし、どこかで変調が生じ、崩壊しないともかぎらない。この秩序を誰が作っているのか?、ということさえよく分からないからである。市場の流行を操る企業と、GDPの数字を司る国家官僚、そして愚民政策を実践する政治家の周辺が怪しいが、本当にそうであろうか?

消費の高度化は貿易のパターンを変化させた。伝統的な比較優位論では、貿易をする国は、生産が相対的に得意な財に特化する。生産の得意、不得意は、自然、労働、あるいはテクノロジーといった条件による。同一産業では生産の得意、不得意を決める条件は似通っているので、産業内貿易は考えにくい。

ポール・クルグマンが1980年代に提唱した新貿易理論は、同一産業内でも一国は同時に輸入国でも輸出国でもある事実を説明する。ブランドによって製品に少しずつ差異があれば、消費者は価格だけでなくその好みに依存して買う製品を選び、この多様性愛好こそ産業内貿易の原因である、と彼は言う。価格だけで競争していれば、収穫逓増の産業は自然独占になり、世界で一つの巨大企業に支配される。身近な例を挙げれば、ガソリン車産業では日本・ドイツ・韓国がそうであるように、いくつかの世界ブランドが国境を越えて消費者の支持を奪い合っている。

新貿易理論は先進国間の貿易においては、勝者の国と敗者の国に分かれるのでなく、ウィン・ウィンの関係が可能であることを示唆した。貿易紛争が激しかった1980年代には一つの安心材料になったであろう。1990年代は先進国中心の秩序であったので、消費者が物質文明を享受するというのは「歴史の終わり」の世界像として違和感なかった。しかし、グローバリゼーションの歴史はそれで終わりではなく、未来があったのである。

新貿易理論ではなく、新新貿易理論というものがある。後者によると、輸出を行う企業はごく少数の生産性が高い企業である。念のため確認すると、労働生産性とは、付加価値額を労働時間で割ったものである。さらに、輸出にとどまらず、外国直接投資を行う企業はきわめて少数である。つまり、グローバル市場での競争に生き残った企業は、生産性が高く、関係者の所得も高い。逆に、保護された産業は、生産性と所得が低下する[4]

日本市場だけでシェアが高いブランドは、孤立した生態系を持つガラパゴス島だけでしか栄えられない生き物に喩えられる。新新貿易理論の対偶も真なりとすれば、ガラパゴス企業の働き手は所得が上がらない。ガラパゴス企業を生き残らせるための政策は、国家戦略としては再検討されるべきである。

グローバルな巨大企業が単に収益の規模のみならず所得においても一人勝ちしている。それは学者の理論だけでなく一般人の日常感覚でも、不平等・格差・貧困の社会問題として捉えられている。「ウォール街を占拠せよ」という運動が2011年にニューヨークで起きた。若者たちが、資産家が巨利を上げるウォール街において抗議のデモを繰り広げた。

富裕層への反感を高めたのがパナマ文書事件であった。2016年、タックスヘイブン(租税回避地)利用者のリストがパナマの法律事務所から流失し、資産家だけ特別な節税ができることが公然となった。

格差について、元世界銀行副総裁ジョセフ・E・スティグリッツは2012年の著書『世界の99%を貧困にする経済』で、人口1パーセントの富裕層と人口99パーセントの貧困層との格差が拡大している、と主張する。彼が列挙する大企業に有利で、労働者に不利な諸制度は、こうした議論に真実味を与える。筆者は要約しようと考えたが、どの項目も知ってほしいのでリストにして示す。

  • 不十分な失業手当・年金・健康保険・公教育
  • 証券化商品、銀行救済、高利貸しとクレジットカードによる略奪
  • 合法的な独占的行為
  • 大企業に有利な法律・規制・補助金
  • グローバリゼーションによる賃金低下
  • 高所得層の家計に有利な税制
  • 免除されない学資ローン
  • 訴訟の費用負担

こうした優遇は大企業による政治家へのロビイング等、レントシーキングの仕業である[5]。学資ローンについての指摘は、ウォール街を占拠せよ、の運動に参加した学生たちに影響を与えた。

他方、古典中の古典であるマルクスの『資本論』に比べられたのが、2013年に出たトマ・ピケティの『21世紀の資本』である。その中心命題は、民間資本収益率rが経済成長率gよりも高いという関係が長期にわたって存在する、ということである。歴史的に、資産家の所得の伸びが全人口の平均所得の伸びを上回ってきたこと、すなわち、貧富の差が拡大してきたことをこれは意味する。ピケティは対策として財産への累進課税を拡大することを提案した[6]。データ分析によって客観的に証明した、というのが、彼の研究の功績とされる。

人間はもはや国家よりも資本に支配されているのであろうか? この命題は「グローバリゼーション」の回で見たネグリとハートの『帝国』が描いた世界観に近い。国民国家が形骸化し、多国籍企業とそのパートナーである富裕層の言いなりになってしまった、という見方である。

資本の支配という結果について筆者に異論はないが、原因には筆者なりの考えがある。誰かの政治的な意図によってでなく、ビジネスの仕組み全体が資本に味方している。

ビジネス主体としての企業を理解するために、ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』から引用する。

企業の目的は顧客の創造である。したがって、企業は二つの、ただ二つだけの企業家的な機能をもつ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。他のものはすべてコストである[7]

企業の目的は顧客の創造であって利潤の極大化ではない。もともと需要がある商品を供給するだけの企業はあまた存在するが、それはマネジメント(経営)という彼のテーマにとって興味深い対象でない。従業員・事業所・資金といった経営資源の配分さえ、彼にとっては二次的な「コスト」である。顧客の創造のために企業が有する機能は、一つはいまは存在しない潜在的欲求がどこにあるかを探るマーケティングであり、一つは欲求を現実の需要へと変える努力のなかで生み出されるイノベーションである。

顧客の創造、というのは企業による積極的な働きかけでどこまでも事業が拡大することをほのめかし、しかも他企業との価格競争で利潤がすり減る不安も小さい。現実には、遠い場所に店を建てて人を雇い、品物や原料を仕入れるコストがかさむので、無限に顧客が創れるわけでない。人は顧客にされずにすんでいた。

IT(情報技術)のイノベーションは、顧客の創造にかかるコストを劇的に低下させた。実店舗よりもショッピングサイトのほうが運営費が安く、世界中からアクセスができる。amazonや楽天市場といったeコマース企業は20世紀に起業されていたが、今やスマートフォンとフィンテックのサービスで生活のすべてがネットのなかで完結する。スマートフォンは電話に始まり、GPS、インターネット、SNS、カメラ、本人確認、そしてAI(人工知能)へと進化した。

特に、生体認証やワンタイムパスワードをつうじた本人確認機能は、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、あるいは銀行振込による決済を安全にし、フィンテック、すなわち「ITを活用した革新的な金融サービス事業」の利用を本格化させた[8]。PayPal、LINE Pay、Apple Pay、PayPay、楽天ペイ、あるいはd払いは、旧来の銀行や信販会社のお株を奪っている。マイナンバーとの連結は納税や診療さえもオンラインサービスにした。

amazon primeやNetflixへの月額料金・年額料金によるサブスクリプションは、それらのサービスが1回の取引で終わらず日常必需品になった帰結である。便利で、品ぞろえが豊富で、安価なサービスを消費者は独占の危険を知りながら、使い続ける。

インターネットの個人利用はセルフメイドのホームページから広がったが、すぐに業者のSNSに駆逐された。2ch、mixi、Twitter(現X)、LINE、Instagram、そしてTikTokと主役は変わったが、SNSはつねに娯楽や仕事の定番メディアであった。政治でも、バラク・オバマ候補が当選した2008年の大統領選挙において、陣営によるSNSのメッセージが選挙活動に貢献した。2011年のアラブの春では、市民はSNSを連絡手段にして体制を揺さぶった。

SNSは個人にとってばかりでなく、ビジネスにとっても不可欠である。X、Instagram、それにTikTokはテレビや新聞にひけをとらない商品広告のメディアである。もちろん、YouTubeははるか以前にそうした地位を築いていた。個人はただ楽しんでいるのかもしれないが、企業は人だかりのあるところを探している。ウェブ広告費は市場シェアと連動しているからである。

お分かりであろう。ITは顧客の創造のコストを引き下げ、企業の役割を政府とならぶものにした。Google、Apple、Microsoft、Meta(旧Facebook)、amazonなどのビッグテック(巨大IT企業)は生活に必須なサービスを提供するプラットフォーマーになったが、それにふさわしい社会的責任を負わなければならない。

かならずしも企業ばかりが実行者というわけではないが、インターネットには問題行動がはびこっている。ハッキング、プライバシー侵害、フェイクニュース、著作権侵害、児童ポルノ、闇バイト、オンラインカジノ……と枚挙にいとまがない。

巨大企業にも邪悪な履歴があり、Facebook個人情報不正収集事件で、同社はクイズを装って個人情報を不正に収集し、ケンブリッジアナリティカという会社に売却した。ケンブリッジアナリティカは収集した情報を分析し、選挙など投票行動に影響を与えるために利用した[9]

AI(人工知能)もIT同様、効率性ゆえ、問題行動に拍車をかける。AIの回答はハレーションという現象のためによく間違える。AIに倫理を守らせるには人に有害な行動を禁じる命令を外部から与えてやらねばならない。Xは2025年暮れに写真に写った人の服を脱がせる機能をAIのGrokに搭載した。これが人間の尊厳を冒していると世界中で非難された。

ITとAIは問題行動の温床というだけでない。プラットフォーマーはじめサービス提供企業に政府も人々も依存している。極端な例ではあるが、スペースX社の衛星通信サービスであるスターリンクは、戦時下のウクライナでライフラインになった。

グローバル経済と国民経済とでは貧富の格差は前者のほうが大きくなる。所得には雲泥の差があるのに商品は同一価格になるので貧困層の生活実感はより厳しい。負の側面はGDPや株価が上昇している間は見えず、恐慌や戦争が起きてはじめて露わになる。マルクスやレーニンといった革命家たちは革命のために恐慌と戦争を待望したが、筆者は起きるまえに対策を講じることを勧める立場である。

ドラッカー自身は企業万能論者でなかった。彼は社会的責任が企業にはあると考えた。確かに政府の専制には警戒していたが、企業は国家主権に政治的に挑戦してはならないし、グローバル企業は他国の主権を脅かしてならない、と彼は考えた[10]

インターネットに対する政府の規制は不可欠である。現状はまるで体に悪い食品や医薬品が野放しにされているようなものである。WWW(ワールドワイドウェブ)に接続したインターネットは国境を越えるため、外国サイトへのアクセスをブロッキング(遮断)しなければ規制は中途半端におわる。各国が思うがままに規制をかけると、それに納得しない外国からの不満がつのる。私人の自称保安官による破壊やハッキングは国際紛争につながりかねない。国家に支援されたサイバー戦争はグレイゾーン戦争としてすでに始まっているという見方もある。

グローバリゼーションがもたらした外国に起因するリスクはインターネットにとどまらない。人間と動物の感染症も国境をまたぐリスクである。新型コロナウイルス(COVID-19)は2020年の初めに報道が始まり、世界全体で累計7百万人以上が死亡した(2026年2月時点)[11]。初めの3年間、多くの都市がロックダウンされたり、外出禁止にされたりした。国境で感染を封じこめようと各国は出入国を規制した。中国が感染源であると大統領が名指ししたアメリカ合衆国ではアジア系の人々へのヘイト行為が頻発した。

牛の感染症であるBSE(牛海綿状脳症)は今世紀初めに騒動になった。肉牛の産地イギリスとEU諸国の関係が悪化した。日本に影響したところでは、感染牛が発見されたアメリカ合衆国からの牛肉・牛肉製品の輸入が2003年から2年間、禁止された。牛丼チェーン店のなかには、代わりに豚丼を出すところもあった。BSEと同様にプリオンの摂取が原因とされる変異型クロイツフェルトヤコブ病による死亡例が2004年、日本で報告された。

外国由来のリスクといえば、輸入食品の安全に対する関心はその表れである。2007年から2008年にかけての毒入り中国製餃子事件により、2008年2月における中国から日本への食品輸入額は前年比28パーセント落ちこんだ[12]。悪意ある混入でなくても、農薬・添加物・遺伝子組み換え生物が健康に与える影響に対する心配は根強い。生産過程を取り巻く社会や環境を想像できないことが不信感や誤解の背景にある。

これらのようなリスクへの対応は、排外主義を強めるか、国際協力を強めるか、のいずれかによらなければ不可能である。前者では、外国のヒト・モノ・カネ・情報を排斥して当面のリスクは減らしても、不信感と誤解は増すばかりであるので、国際関係は確実に悪化する。

本書のタイトルどおり、グローバルガバナンスを唱えるのが道理というものである。国家でなく、グローバル社会そのものが税金を個人や企業から集め、対策を講じることが検討されてしかるべきである。為替取引にトービン税という税金を課す従来からある提案は正当であるものの、金融界は反対するであろう。現実に国際的に集金しているのはUNICEF、赤十字、あるいは人道NGOの募金くらいであり、国家主権により強制徴収は阻まれる。

あえてここでは、グローバルガバナンスに反対する言説をとりあげる。著名な投資家ジョージ・ソロスは師匠の哲学者カール・R・ポパーにならって、「開かれた社会」を標榜した。ポパーは、権力者の理想が人々の生活を暴力的に破壊することに警鐘を鳴らし、理想というものに対する警戒感を定着させた[13]。この意味で師匠にならってソロスがやり玉に挙げたのが、国連支持者が使い始めたグローバルガバナンスという言葉であった。

われわれは、ここからどこに向かうのだろう。グローバル・ガバナンス(地球統治)の設計図をまず作成するというやり方は、開かれた社会の原理に反するだろうし、無益な作業でもあるだろう。すでにあるものでスタートして、改革すべきは何かを見きわめていかなければならない[14]

ソロスがグローバルガバナンスという言葉で具体的に何を指したかは分からないが、世界の著名政治家が結集するグローバルガバナンス委員会が国際連合の大改革を提案する報告書を1995年に公開したことは念頭にあったろう[15]。冷戦終結で高まっていた改革の機運は旧ユーゴスラビアやルワンダの紛争によってすでに落日にあり、提案は腰砕けとなった。

ここで問いたいのは具体的な国連改革の成否ではない。人類はもはや共同体であり、グローバルなリスクに対策をとるパートナーシップとしてのグローバルガバナンスまで必要性を否定するのか?、ということである。

ソロスの開かれた社会という考え方には疑問がある。難民が外国に避難できる意味で開かれているのはよいが、富裕層が脱税したり、犯罪者がトンズラしたりする意味での開かれた社会は害悪である。日産自動車の社長であったカルロス・ゴーンは不正の容疑で東京地方検察庁に逮捕されたが、2019年、レバノンに逃亡した。ソロスが移民であった出自を根拠に開かれた社会を主張するのは説得力があるが、国連改革まで批判するのはもう少し理由が必要である。

2021年、世界の大多数の国が各国の法人税を15パーセント以上にすることに合意した。福祉・教育・保健・安全基準・治安・防衛のような公共サービスを行うためには、企業と富裕層にもそれくらいの税負担をしてもらわなければ過少供給になる。企業と富裕層はタックスヘイブンに自らの資産を移し、税負担から逃げてきた。企業と富裕層に逃げられてはならじ、と国家のほうは法人税を下げることで転出を思いとどまってもらおうとした。アメリカ合衆国のドナルド・J・トランプ大統領は2期目の就任早々この合意から離脱した。合意は同国を除いて実行されることになった。

国際政治学では、イギリスの学者へドリー・ブルが「新しい中世」の可能性を論じたことがある。欧州共同体のような地域的国際機構や州・県・都市のような地方政府を意識したものであったが、NGOや多国籍企業のようなトランスナショナルな組織も言及されている。該当箇所を引用する。

もし、近代国家が市民に対する権威と市民からの忠誠心を、一方において地域的・世界的な諸機関と、他方においてサブナショナルな諸機関と共有し、主権の概念が当てはまらないまでになるならば、新中世という形態の普遍的政治秩序が出現したということができるかもしれない[16]

いまのところは国連も自治体も国家の主権を脅かすほどの力はない。脅かすものがあるとすれば一つはEUである。EU加盟国は主権を維持しているものの、脱退したイギリスに続く国は現れない。それだけ経済と文化の統合が進んでいるからであるが、主権という法制度はそれだけしぶということでもある。もう一つ主権を脅かすものがあるとすれば覇権国アメリカ合衆国である。トランプ大統領は関税政策にせよ、中東やラテンアメリカへの政策にせよ、他国の権利を国家主権でない「何か」として捉えている。この「何か」の詳細やそれが持続可能かは現在の段階では明確でない。

これまで見てきたグローバルなリスクを解決し、人々が消費の拡大を享受すれば、それで人間は幸福なのであろうか? 消費を拡大することが幸福そのものであるならば、マクロ経済指標であるGDPの数値を上げること、すなわち経済成長、だけを追えばよい。

経済成長最優先の修正を求める声はパンデミック以前から起きていた。代表的なものは幸福論であり、主観的幸福のアプローチと客観的幸福のアプローチがある。前者では、ブータンのGNH(国民総幸福)が有名である。1979年にジクミ・シンゲ・ワンチュク国王が発案したもので、暮らし向き、健康、教育、コミュニティの活力、良い政治、時間の使い方、文化の多様性、生態系、そして心の健康の諸領域で主観的に幸福かどうかを尋ね、集計したものである[17]

客観的幸福のアプローチに関しては、フランスのニコラ・サルコジ大統領に招かれたノーベル経済学賞受賞者たちから成るスティグリッツ委員会が2010年に答申をした。生活の質や持続可能性も幸福には必要である、というのが提言の主旨である[18]。国連の持続可能な開発目標(SDGs)につながる発想であった、と振り返ることもできる。 ブータンのものも、フランスのものも、健康・教育・余暇・文化・環境といった多様な指標を経済成長に置き換える点は共通している。企業が実現してくれる潜在的欲求のほうは企業に任せればよい。それで残されたグローバルガバナンスの課題は、一つは温暖化や紛争のリスクを除去することであり、もうひとつは消費社会で自活できない貧困層や紛争下の人々に手を差し伸べることである。本書で振り返った歴史の経験がそのことを証明している。


[1] ジャン・ボードリヤール、『消費社会の神話と構造』、普及版、今村仁司、塚原史訳、紀伊國屋書店、1995年、18-20ページ。

[2] ボードリヤール、『消費社会の神話と構造』、68ページ。

[3] マルクス、エンゲルス、『ドイツ・イデオロギー』、廣松渉、小林昌人訳、岩波書店、2002年、87-88ページ。

[4] 田中鮎夢、『新々貿易理論とは何か:企業の異質性と21世紀の国際経済』、ミネルヴァ書房、2015年。

[5] ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界の99%を貧困にする経済』、2012年。

[6] トマ・ピケティ、『21世紀の資本』、みすず書房、2014年。

[7] P・F・ドラッカー. 『マネジメント上―課題、責任、実践 ドラッカー名著集13』、Kindle版、ダイヤモンド社、2012年、107ページ。

[8] 柏木亮二、『フィンテック』、日本経済新聞出版社、Kindle版、2016年。

[9] “ケンブリッジ・アナリティカ廃業へ フェイスブックデータ不正収集疑惑で,” BBC, May 3, 2018, http://www.bbc.com/japanese/43985373, accessed on December 27, 2023.

[10] P・F・ドラッカー. 『マネジメント下―課題、責任、実践 ドラッカー名著集15』、Kindle版、ダイヤモンド社、2012年。

[11] The World Health Organization, “WHO COVID-19 dashboard,” https://data.who.int/dashboards/covid19/deaths?n=o, accessed on February 28, 2026.

[12] “中国からの食料品輸入、28%減 2月前年比,” アサヒ・コム, March 26, 2008, http://www.asahi.com/business/update/0326/TKY200803260051.html, accessed on August 8, 2008.

[13] カール・R・ポパー、『開かれた社会とその敵 第一部』、小河原誠、内田詔夫訳、未来社、1980年、194-195ページ。

[14] ジョージ・ソロス、『グローバル資本主義の危機』、大原進訳、日本経済新聞社、1999年、325ページ。

[15] The Commission on Global Governance, Our Global Neighbourhood (Oxford: Oxford University Press, 1995).

[16] Hedley Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics (New York: Columbia University Press, 1977), pp. 254-255.

[17] 枝広順子、草郷孝好、平山修一、『GNH(国民総幸福)―みんなでつくる幸せ社会へ』、海象社、2011年。

[18] ジョセフ・E・スティグリッツ、ジャンポール・フィトゥシ、アマティア・セン、『暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案』、福島清彦訳、金融財政事情研究会、2012年。

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消費社会
https://youtu.be/WFPud-QUSm4 週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここで…
帝国主義
https://youtu.be/YQf68SlZnnk 人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化し…
国際法の発達
https://youtu.be/Q2qWLEDi81s 国際法は法なのか?、という問いがしばしば投げかけられる。法でない、と言う場合、理由はさまざまである。条約が結ばれていても遵守されるとはかぎらない。理想が書かれているだけで、そもそも現実とはかけ離れている。条約に入っていない国は縛られない。さらには、秩序は法ではなく力が支えている、と枚挙にいとまがない。 国際法の根拠はラテン語の格言で、パクタ・スント・セルワンダ、すなわち…
ノーベル平和賞
ノーベル賞には権威がある。しかし、選考がつねに正しいわけでない。功績とされるもののなかには、平和に貢献しなかったもの、動機が不純なもの、なぜ平和への貢献であるのか分からないもの、もある。今回のテーマは、最新のノーベル平和賞受賞者について、経歴、授賞の理由とされた活動、そしてあなた自身の評価を書きなさい、である。 アルフレッド・ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。彼が巨万の富を…
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ノーベル平和賞

ノーベル賞には権威がある。しかし、選考がつねに正しいわけでない。功績とされるもののなかには、平和に貢献しなかったもの、動機が不純なもの、なぜ平和への貢献であるのか分からないもの、もある。今回のテーマは、最新のノーベル平和賞受賞者について、経歴、授賞の理由とされた活動、そしてあなた自身の評価を書きなさい、である。

アルフレッド・ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。彼が巨万の富を築いたのは1867年にダイナマイトの特許を取得したからである。その材料であるニトログリセリンは液体で爆発しやすかったので、扱いが難しかった。爆発を管理しやすくしたダイナマイトは土木工事はもちろん、戦争においてももてはやされた。彼は1896年に亡くなったが、遺産の一部を基金にして賞を贈ることが遺書に書かれていた。

1901年、最初のノーベル賞が贈られた。平和賞ができたことには彼の友人であった平和運動家ベルタ・フォン・ズットナーの影響が大きかった。彼女には1905年に平和賞が授与された。

平和賞を選考するのは、遺言のとおり、ノルウェー・ノーベル委員会である。5人の委員はノルウェーの議会によって任命される。選考に偏りがあると感じる人は、ノルウェーの国会議員の価値観に違和感を持っていると考えられる。

以下では過去の受賞者について概観する。議論のために、平和運動、グローバルガバナンス、軍縮、人権、人道、和解、経済、そして環境への功績に分類する。

平和運動は、市井の人々による戦争への反対である。20世紀の前半にはこの分類での受賞者は多かったものの、冷戦時代に低調になった。そうした人々には、利害とか、名声とかいったものを超えた使命感があったであろうし、他の人々もそうした行動を英雄視した。今、平和運動がはやらないのは、国家権力をまえに、人々の声がいかにたやすく圧殺されるか歴史が示したからである。

この分類に含まれるのは、1902年のシャルル・ゴバとエリー・デュコマン、1905年のベルタ・フォン・ズットナー、1907年のエルネスト・モネータとルイ・ルノー、1910年の常設国際平和局、1921年のカール・ブランティングとクリスティアン・ランゲ、1927年のフェルディナン・ビュイソンとルートビヒ・クビデ、1930年のナータン・セーデルブロム、1931年のジェーン・アダムズとニコラス・バトラー、1935年のカール・フォン・オシエツキ、1946年のジョン・モットとエミリー・ボルチ、そして1976年のベティ・ウィリアムズとマイレッド・コリガン・マグワイアである。

グローバルガバナンスに分類されるのは、国際連盟とか、国際連合とか、世界秩序を司る仕組みの構想と運営に関わった受賞者たちである。先覚者たちは国際仲裁を提案していたが、現実主義が強くなった第二次世界大戦以降、理想主義者やユートピアンと彼らは酷評される。運営に携わった受賞者には、政治家、学者、そして国際機構とその高官の名が見える。

この分類に含まれるのは、1901年のフレデリック・パシー、1903年のウィリアム・クリーマー、1904年の万国国際法学会、1908年のフレデリック・バイエルとポントゥス・アルノルドソン、1909年のエストゥルネル・ド・コンスタン、1911年のトビアス・アッセルとアルフレッド・フリート、1912年のエリフ・ルート、1913年のアンリ・ラフォンテーヌ、1919年のT・ウッドロウ・ウィルソン、1920年のレオン・ブルジョワ、1929年のフランク・ケロッグ、1937年のロバート・セシル、1945年のコーデル・ハル、1957年のレスター・B・ピアソン、1988年の国連平和維持軍、2001年の国際連合とコフィ・アナン、そして2012年のEUである。

軍縮は、武器に対する市民の恐怖に訴えかけ、今も昔も、平和賞の大きな柱である。受賞者には市民運動家もいれば、最高意思決定者もいて、バランスが取れている。

1997年に受賞したNGOの地雷禁止国際キャンペーンとその中心人物ジョディ・ウィリアムズは当初は対人地雷でなく、地雷全体の禁止を目標にしていた。大国の米ロ中は対人地雷禁止条約にいまでも距離をとるものの、彼女たちは世論を盛り上げ、条約締結を成し遂げた。イギリスのダイアナ元妃が後押ししたのも印象深かった。

ICANという略称で知られる2017年の受賞者、核兵器廃絶国際キャンペーン、は核兵器の廃絶を実現していない。達成したのは核兵器禁止条約の締結である。宗教は信じる者には救世主が現れると説くが、受賞者が説く核兵器の廃絶は訪れるであろうか? 授賞はアドボカシーの意義を問いかけてもいる。

日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は被爆後、79年目にしてノーベル平和賞を授与された。3回の国連軍縮特別総会に駆けつけ、世界の人々に核兵器の恐ろしさを伝えた。戦争責任があった日本の国民であったことから、原爆を落としたアメリカ合衆国側の警戒もあった。不利な要因を無効にしたのは、止まらない戦争と軍拡への反感であった。

この分類に含まれるのは、1934年のアーサー・ヘンダーソン、1959年のフィリップ・ノエルベーカー、1962年のライナス・ポーリング、1974年の佐藤栄作、1982年のアルバ・ミュルダールとアルフォンソ・ガルシアロブレス、1985年の核戦争防止国際医師会議、1990年のミハイル・ゴルバチョフ、1995年のパグウォッシュ会議とジョセフ・ロートブラット、1997年の地雷禁止国際キャンペーンとジョディ・ウィリアムズ、2005年の国際原子力機関とムハンマド・エルバラダイ、2009年のバラク・オバマ、2013年の化学兵器禁止機関、2017年の核兵器廃絶国際キャンペーン、そして2024年の日本被団協である。

人権の分野での授与は、国連憲章と世界人権宣言ができて以降、増加した。受賞者は、他人のためでなく自分のために権利を主張する人々が多い。ロックスターのように、そうした自己主張の強さが現代人には魅力なのである。受賞者の住む国の政府や社会と衝突することもあるが、それにめげず闘う信念に人々は共感する。

1989年に受賞したダライラマ十四世は、非暴力によってチベット人民の権利を主張する。中国から逃げるまえには、彼は宗教指導者であり、事実上の君主であった。中国政府は彼の統治を批判する。彼が主張しなければ世界の誰もが中国政府の言い分を受け入れ、チベットの人々が選挙によって自ら政治指導者を選べないことに違和感を抱かないであろう。

2014年の受賞者マララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティは、ともに教育を受ける子供の権利を主張した。パキスタンの少女であるマララは宗教的な原理主義からの弾圧に屈せず、教育を受ける権利を主張した。インドの成人男性であるサティーアーティは、子供たちが教育を受けられるように活動した。

この分類に含まれるのは、1951年のレオン・ジュオー、1960年のアルバート・ルツーリ、1964年のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、1968年のルネ・カサン、1969年の国際労働機関、1974年のショーン・マクブライド、1975年のアンドレイ・サハロフ、1977年のアムネスティインターナショナル、1980年のアドルフォ・エスキベル、1983年のレフ・ワレサ、1984年のデズモンド・ムピロ・ツツ、1986年のエリー・ウィーゼル、1989年のダライラマ十四世、1991年のアウンサンスーチー、1992年のリゴベルタ・メンチュウ、1993年のネルソン・マンデラとフレデリック・デクラーク、1996年のカルロス・ベロとジョゼ・ラモスホルタ、2000年の金大中、2003年のシーリーン・エバーディー、2010年の劉暁波、2011年のレイマ・ボウィとタワックル・カルマン、2014年のマララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティ、2021年のマリア・レッサ、2022年のアレシ・ピャリャツキとメモリアルと市民的自由センター、そして2023年のナルゲス・モハンマディである。

人道は一貫してノーベル平和賞の授与対象である。人権と違って、自分ではなく、他人を救う活動である。1979年の受賞者であるマザー・テレサのように、自己犠牲のイメージが平和賞にあるとすれば、それはこの分野の成果である。

1901年の第1号受賞者は赤十字の父とされるアンリ・デュナンである。1917年には赤十字国際委員会、1944年にはふたたび赤十字国際委員会、1963年にはみたび赤十字国際委員会と赤十字・赤新月社連盟が受賞した。赤十字は傷病兵や捕虜を救うための組織であるから、人道に尽くすのは当然といえば当然である。1963年の受賞は、赤十字規約が決議されて百周年の記念である。

1922年のノーベル平和賞は、難民のための活動に贈られた。フリチョフ・ナンセンは北極点を目指したノルウェーの探検家であったが、第一次大戦後の混乱下で捕虜の帰還と食糧の配給に身をささげた。1922年からは国際連盟の事業として、彼は難民救護を指導した。死後の1938年、彼にちなんで名づけられた国際連盟のナンセン国際難民事務所に平和賞は授与された。

1954年と1981年に、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)にノーベル平和賞は授与されたが、実績というよりも期待に対して贈られたと評するべきである。1954年にUNHCRは資金難で、そのことを各国政府に訴えるための授与であったからである[1]。1981年の受賞は、1970年代におけるアジア・アフリカ・ラテンアメリカでの実績が認められたことによる。

2018年には、ともに戦時における性暴力と闘ったコンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲとイラクのナーディーヤ・ムラードが授与された。ムクウェゲは医者であり、暴力がはびこる同国で被害者の治療に当たった。ムラードは少数派のヤジディ教徒であるが、イスラミックステイト(IS)に性奴隷にされてしまった。彼女は他の女性のために声を上げて、人々に惨状を知らしめた。

この分類に含まれるのは、1901年のアンリ・デュナン、1917年の赤十字国際委員会、1922年のフリチョフ・ナンセン、1938年のナンセン国際難民事務所、1944年の赤十字国際委員会、1947年の米国フレンズ奉仕団と英国フレンズ奉仕団、1952年のアルベール・シュバイツァー、1954年の国際連合難民高等弁務官事務所、1958年のドミニク・ピール、1963年の赤十字国際委員会と赤十字赤新月社連盟、1965年の国際連合児童基金、1979年のマザー・テレサ、1981年の国際連合難民高等弁務官事務所、1999年の国境なき医師団、2018年のドニ・ムクウェゲとナーディーヤ・ムラード、そして2020年の世界食糧計画である。

和解は敵対していた者どうしが仲直りしたり、仲直りを第三者が助けたりすることである。実際に殺し合いを止めた功績には説得力がある。ただし、和解を導くには一定の政治力が必要であるので、一般市民は受賞するのが難しい。

1906年の受賞者はアメリカ合衆国の大統領シオドア・ローズベルトであった。日露戦争の講和を仲介し、疲れ切った日本とロシアにポーツマス条約を結ばせた。すでに日本とイギリスは日英同盟を結び、ロシアとフランスには露仏同盟があったことから、ヨーロッパの国には仲介は難しかった。受賞によって彼のタカ派的、帝国主義的な棍棒外交は中和された感じになり、平和への積極姿勢は合衆国外交のレガシーとなった。

1925年のオースティン・チェンバレンと、1926年のアリスティード・ブリアンおよびグスタフ・シュトレーゼマンは、それぞれ英仏独の外相としてノーベル平和賞を授与された。なぜ、チェンバレンだけ早かったか?、というと、1925年には受賞の該当者がいなかったので、1926年になってからドーズ案のチャールズ・ドーズとともに受賞が決まったのである。フランスとドイツの和解をイギリスが仲介したロカルノ条約締結は1925年10月のことであった。

1961年のダグ・ハマーショルドもイレギュラーな受賞であった。ノーベル賞は生前授与が原則であるが、彼の受賞は死後であった。彼は国連事務総長として、中東やコンゴ民主共和国の紛争の解決に取り組んだ。その最中にコンゴの隣国である現在のザンビアにおいて、乗っていた飛行機が墜落して亡くなった。

1971年のビリー・ブラントは西ドイツの首相であった。第二次世界大戦や冷戦において対立関係にあったソ連やポーランドとデタント、つまり緊張緩和、を試みる東方政策を採用した。受賞の翌年には、分断国家の片割れであった東ドイツと相互に政府承認をする両ドイツ基本条約を結んだ。

1973年には、アメリカ合衆国大統領補佐官であったヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムの政治家であったレドゥクトへの授与が発表された。授与理由は、ベトナムから米軍が撤退する条件を定めるパリ協定の交渉に二人が功績があったからである。和平と言いつつ、米軍が支えていた南ベトナムの政権はのちに崩壊した。レドゥクトは受賞を辞退したが、北ベトナムは戦争を続けていたからである。

1978年に受賞したのは、イスラエルの首相メナヘム・ベギンとエジプトの大統領アンワル・アル・サダトであった。2002年には、彼らのキャンプデイビッド合意を仲介した功績でアメリカ合衆国元大統領ジミー・カーターが受賞した。この合意は両国間の平和の土台となった。

1987年の受賞者はコスタリカの大統領オスカル・アリアスサンチェスであった。彼は中米紛争の終結に向け努力し、合意の成立に貢献した。コスタリカは非武装中立を宣言した国として知られる。なかなか真似できないユニークな政策である。

1994年にはパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤセル・アラファト、イスラエル首相のイツハク・ラビン、そして同国外相のシモン・ペレスが受賞した。3人はオスロ合意によってパレスチナの自治とイスラエルの国家承認を約束した。キャンプデイビッド合意をイスラエルは守っていた。

1998年は北アイルランドの政治家であるジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブルに与えられた。二人は北アイルランドをめぐるイギリスとアイルランドの合意を主導した。北アイルランドの和平は、そこに住むカトリックとプロテスタントのうち、前者がイギリスから分離してアイルランド共和国に併合されることをあきらめる代償であった。

2008年の受賞者マルッティ・アハティサーリはフィンランドの元大統領ではあるが、国連の特使として、インドネシアのアチェに自治を与える和平合意に貢献した。国連の高官の受賞者にはハマーショルドのほか、パレスチナ問題に取り組んだ1950年の受賞者ラルフ・バンチがいる。

2016年の平和賞はコロンビアの大統領であるフアン・マヌエル・サントスに贈られた。彼は長年にわたる政府とコロンビア革命軍との戦争を和平に導き、後者を武装解除した。彼は大統領に就任するまえから、紛争の終結に向けて努力していた。

以上のように、和解に対するノーベル平和賞受賞者たちの功績はいずれも見事なものであった。ところが、近年、名声を傷つけることが起きた。

2019年のノーベル平和賞はエチオピアの首相アビー・アハメド・アリに贈られた。彼は国境紛争を抱える長年の敵、隣国エリトリア、と2018年、和平協定を結んだ。エリトリアと境界を接するエチオピアの州がティグレ州である。アビー・アハメド・アリは大胆にも2020年、同州を支配するティグレ人民解放戦線(TPLP)を攻撃した。受賞理由となった和平協定が戦争の原因になってしまった。エチオピアの北部では飢餓と難民が発生した。

この分類に含まれるのは、1906年のシオドア・ローズベルト、1925年のオースティン・チェンバレン、1926年のアリスティード・ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマン、1936年のカルロス・ラマス、1950年のラルフ・バンチ、1961年のダグ・ハマーショルド、1971 年のビリー・ブラント、1973年のヘンリー・キッシンジャーとレドゥクト、1978年のメナヘム・ベギンとアンワル・アル・サダト、1987年のオスカル・アリアスサンチェス、1994年のヤセル・アラファトとシモン・ペレスとイツハク・ラビン、1998年のジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブル、2002年のジミー・カーター、2008年のマルッティ・アハティサーリ、2011年のエレン・ジョンソン・サーリーフ、2015年のチュニジア国民対話カルテット、2016年のフアン・マヌエル・サントス、そして2019年のアビー・アハメド・アリである。

経済と環境の分野はピースビルディング、すなわち平和構築、と称される活動に含まれる。富を循環させたり、乱開発を止めたりすることが平和の礎になるという考え方である。

2004年の受賞者はケニアのワンガリ・マータイである。彼女は国境を越え、アフリカの大地に植林した。「持続可能な開発、民主主義、そして平和への貢献」が受賞の理由であったが、彼女は女性と民主主義のためにも戦った。日本では「もったいない」という言葉とともに有名である。

ヌハマド・ユヌスは、貧しい人々のビジネスに少額融資を行い、生活を助けるマイクロクレジット機関のグラミン銀行をバングラデシュで広め、2006年のノーベル平和賞を授与された。

この分類に含まれるのは、1925年のチャールズ・ドーズ、1949年のジョン・オア、1953年のジョージ・マーシャル、1970年のノーマン・ボーローグ、2004年のワンガリ・マータイ、2006年のグラミン銀行とムハマド・ユヌス、そして2007年の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とアル・ゴアである。


[1] “Office of the United Nations High Commissioner for Refugees Facts,” Nobel Prize Outreach, https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1954/refugees/facts/, accessed on February 24, 2026.

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国際法の発達
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戦争に命が懸けられるのは根深い社会問題が背景に横たわるからである。他方で、戦争はテクノロジーの問題でもあり、テクノロジーは戦争の形を変化させる。惨禍を何とかしようと思うならば、社会も、テクノロジーも管理するべきである。今回のテーマは、時代により戦争の原因と形態はいかに変化したかを例示しながら論じなさい、である。 戦争について述べる時、まず戦争を定義するべきである。ゲリラ戦は含まれるか? 革命下のアナ…

平和運動

国際政治は国家が主役である、という。しかし、グローバル社会は国家だけからできているわけでない。諸国家の政策が偏っているならば、それを正す必要がある。今回のテーマは、各国政府によるもの以外にどのような軍縮・軍備管理に向けた運動があるか具体的に述べなさい、である。

古来、ブッダやイエスの事績に見えるように、平和主義は宗教とともにあった。近代においても、平和運動の源流は宗教であった。特に、クエーカー(キリスト友会)の典礼はキリスト教各派のなかでも形式ばらないものであったため、宗教色の薄い社会運動への橋渡しとなった。信者の一人で、17世紀後半にペンシルベニア植民地を建設したウィリアム・ペンはヨーロッパの平和案を示したことでも知られる。クエーカーの団体は反戦や人道の活動が認められて1947年にノーベル平和賞を受賞したが、信者の絶対数が少なく運動の広がりに限界があった。

世俗的な平和運動はナポレオン戦争後に現れた。全国団体のアメリカ平和協会は1827年、元船長のウィリアム・ラッドらにより結成された。反戦運動が盛り上がったのは、メキシコから広大な領土を奪った米墨戦争(1846-1848年)である。アメリカ平和協会にとって、それは奴隷州を拡大するための戦争であった。協会の会員は北部側に多く、奴隷制を拡大するものには何であれ反対であった。奴隷制への反対と戦争への反対は相乗効果を発揮した。

どうしたことか、アメリカ平和協会は南北戦争(1861-1865年)を支持してしまった。これは「戦争」でなく「反乱」の鎮圧であり、奴隷制をしく南部は「悪」である。当時のアメリカ合衆国における平和運動は、北部人の、北部人による、北部人のための運動、と片づけてしまえるものであった。南北戦争に反対する少数の純粋な平和主義者はいたものの、北部エスタブリッシュメントのなかでは傍流であった。

19世紀のフランスで平和運動はサンシモン主義者のものであった。その始祖アンリ・ド・サンシモンはビジョンを持っていた。平和的階級である新興の「産業者」が、軍人である旧来の貴族に代わって支配する、というものである[1]

サンシモンのヨーロッパ連合論(1814年)はユニークであった。ヨーロッパ連合は、ドナウ川とライン川を結ぶ運河を掘削する。また、地球全体にヨーロッパ人が住めるようにする[2]

弟子たちによって、サンシモン主義はさらに洗練された。対立の元凶は「人間による人間の搾取」である。それを「地球の開発」に転換すれば平和になる。主人と奴隷の関係を断ち、各人を適材適所に配置するべきである[3]。実際、サンシモン主義者からは、インフラストラクチャーの建設とそれへの投資に携わる企業家が輩出した。

こうした各国の運動家が集ったのが、革命翌年の1849年に開かれたパリ平和大会であった。議長は作家のビクトル・ユゴーであり、アメリカ合衆国からはアメリカ平和協会の面々、フランスからはサンシモン主義者の数人が発言した。イギリスからは、自由貿易論者のリチャード・コブデンやチャーティストのジョセフ・スタージが参加した。全代表は600~700人に上り、観衆は2千人を数えた。仲裁、国際会議、軍縮、戦債反対などについて決議が採択された。エミル・ド・ジラルダンという新聞発行人も発言し、自紙の1面で大会のニュースを報道した[4]。平和会議は、自由主義者が革命に勝利したことを祝う祭典のようであった。

平和運動が他の種類の運動の副産物として勢いづいたことは明らかである。社会主義者にとっても、平和は自らのイデオロギーに花を添える付け合わせであった。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』(1848年)は、平和がプロレタリア革命のおまけであるとアピールした。

諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相応する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。

プロレタリア階級の支配は、それをますます消滅させるであろう。―後略―

一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて、同じように一国の他国に対する搾取も廃止される。

国民の内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅する[5]

労働者の世界団体であるインターナショナルはたびたび戦争反対を表明した。第一インターナショナルは1868年に反戦を宣言し、2年後に勃発した普仏戦争にも反対した。第二インターナショナルは戦争準備や戦債に反対し、1900年のボーア戦争や1904年の日露戦争に反対した[6]

ところが、第一次世界大戦が始まると、社会主義者たちは戦争に協力する側についた。それに先立つ7月の危機では、フランス統一社会党の党首、ジャン・ジョレス、がその勃発を止めようと尽力した。ショービニストの凶弾が彼の命を奪い、水泡に帰した[7]

平和運動に幻滅したり、冷笑したりする者が現れたであろう。運動は一部の勢力が何らかの利害に基づいて行うものだ、と。

しかし、原子爆弾が広島と長崎に使われると、平和運動はますます盛んになった。1950年のストックホルムアピールは初期の反核運動である。核兵器の禁止、原子力の国際管理、そして核兵器使用の戦争犯罪という内容にはおかしなところはないように感じられる。全世界で5億を超える署名を得たが、3億以上は中国とソ連においてであった。日本では650万筆の署名を得た。

アメリカ合衆国でストックホルムアピールは共産主義者の陰謀と非難された。確かに、アピールの中心人物であったマリー・キュリーの娘とその夫のジョリオキュリー夫妻、アメリカ合衆国の歌手ポール・ロブソン、あるいは画家のパブロ・ピカソは共産主義者であった[8]。この運動は引き続き朝鮮戦争とインドシナ戦争に反対していくが、しだいに、ソ連を支持する共産党員とそれ以外に分裂し、前者の団体である世界平和評議会はFBIとCIAの監視対象であった。

冷戦の不幸な対立は日本も襲った。1954年のビキニ環礁における水爆実験によって、各地で原水爆禁止の署名運動が始まった。原爆投下から10年後の1955年8月6 日に第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、それを受け、原水協、すなわち原水爆禁止日本協議会、が成立した。右寄りの労働組合を母体とした民社党はこの動きに対抗し、別に核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)を1961年、結成した。現在、それは核兵器廃絶・平和建設国民会議になっている。原水協の分裂は止まらず、ソ連の核実験再開を支持する共産党員とそれ以外が対立した社会党系の原水禁(原水爆禁止日本国民会議)が1965年に生まれ、原水協は共産党員を中心とする団体となった[9]

その一方で1956年、被爆者団体としての日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が設立された。世界的にこの運動は評価され、2024年にノーベル平和賞を授与された。

労働運動の対立がくさびとなった分裂は、無関係な一般の人々には幻滅であった。そうした人々の受け皿となったのが「べ平連」として知られる「ベトナムに平和を!市民連合」であった。名前のとおり、ベトナム反戦を目的に1965年、始まったこの運動は米軍兵士の脱走を支援した。中心人物の小田実は、市民運動を名乗る理由をこう説明する。

ただ、ここで留意しておきたいのは、デモ行進には、作家が作家、家庭の主婦が家庭の主婦、工場の労働者が工場の労働者の「職能」をふりかざさないでおたがい「市民」として加わって来ているように、社会主義者も社会主義を、自由主義者は自由主義をふりかざすことなしに「市民」として歩いているということだ[10]

当時は新鮮な市民運動であったものの、時間の経過とともに色あせることは避けられなかった。冷戦後には、ベ平連も実はソ連から援助を受けていたことが明るみに出た。

では、どうすれば平和運動は立場の違いを乗り越えることができるのか? 研究者である村上公敏と木戸蓊は次のように助言する。

―前略―平和運動は、その対象に「政策」をおくことによって、政治的見解の差異をこえて、統一行動を展開しうるものとしてあること、したがって「真の原因」の「バクロ」が運動の中心である必要はないこと、『平和のために闘う』ということの意味は、実は、危険な「政策」と闘うことであること、「政策」を対象にすえることによってのみ、グローバルに、通常人すべてを組織しうること、これらのことが認められる[11]

危険な政策と闘うことで広い連携を成し遂げると言うが、そのようなことが現実にあるのか?

1982年6月、ニューヨークで百万人が反核デモに参加した。国連では第2回軍縮特別総会が開かれていた。核兵器の廃絶に期待を寄せる多くの市民は、タカ派のレーガン政権に危うさを感じていた。西ヨーロッパでは、中距離核戦力の配備に対する反対運動が高まっていた。原子力発電に反対する環境団体も加わり、反核運動は西側世界全体に広がった。ミハイル・ゴルバチョフがモスクワで権力を握ると、米ソ関係は協力へと転じ、軍縮は実現した。

原爆開発を指揮したJ・ロバート・オッペンハイマーは国益に尽くした一方で、原子力を国際化する夢は夢で終わった。レオ・シラードが反対した広島・長崎への原爆投下は実行されてしまった。科学者が国家から自由になることは意外と難しい。

科学者による活動の一つに、1945年12月のブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ誌の発刊がある。マンハッタン計画に参加した科学者たちが原子力の国際管理のために始めたものである。目玉はドゥームズデイクロック(終末時計)であり、人類最後の日の午前0時まであと何分、と核戦争への残り時間をデザイナーが表紙のために描いたものであった。国際管理が挫折すると、軍備管理に消極的な政治情勢に対する警鐘と理解されるようになった。

他方、ラッセル・アインシュタイン宣言は原爆投下10年の節目をまえに発せられた。バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインを中心として、平和的な国際紛争の解決を求める科学者たちが署名したものである[12]。これは1955年7月のことであったが、3か月まえにアインシュタインは亡くなっていた。

世界の科学者に向けられたラッセル・アインシュタイン宣言は、科学者の軍備管理NGOであるパグウォッシュ会議を生み出した。第1回の会議がカナダのパグウォッシュという海辺の村で1957年に持たれたので、この名になった。科学は国際間の対立がある論争に中立的な解決策を与える潜在力を持ち、同会議は核兵器にとどまらず、化学兵器と生物兵器の管理に向けた国際交渉を助けている。パグウォッシュ会議は1995年、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名した科学者ジョセフ・ロートブラットともに、ノーベル平和賞を受けとった。

日本には科学者京都会議がある。中間子の存在を予言してノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹は、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名した一人であった。彼は1962年に朝永振一郎や坂田昌一とともに第1回科学者京都会議を開いた。この会議は政府・政党・宗教団体等から完全に独立した組織運営を目指し、軍縮を提唱した[13]

自治体は市民に身近な政府機関であり、民主主義の学校と喩えられる。自治体の非核都市宣言は平和運動が最も多く勝ちとってきたものである。

最初の非核都市宣言は1958年に愛知県半田市で行われた。ビキニ環礁での核実験、ラッセル・アインシュタイン宣言、そして原水爆禁止世界大会の一連の流れを引き合いにしつつ、核非武装を二本立てで宣言した。自衛隊の核武装を行わないという日本全体の非武装と、「本市は永久に核兵器による武装化がされないことを保障」するという半田市独自の非武装であった[14]。日本の自治体に核兵器が持ち込まれる差し迫った危機は、外国の軍艦や軍隊が出入りする港や基地の周囲にある。

半田市に続く自治体はなかなか現れなかった。意外にも、次の波は西ヨーロッパで起きた。中距離核戦力の撃ち合いが始まる恐怖感に人々はたまりかねていた。

イギリスのグリーナムコモンというところに空軍基地がある。1981年夏、女性たちが基地まで歩き、平和キャンプを始めた[15]。“Think Globally, Act Locally”という言葉があるが、地元からの非核化運動が盛んになった。

1982年、イギリスのマンチェスターでは、市議会が非核都市宣言を決議した。市域内で核兵器の製造と配備を行わないことをイギリス政府に求めたものである。この運動は自市だけの非核化では意味がないことを自覚し、近隣地域、イギリス全土、さらにはヨーロッパ全体が非核地帯になることを希望した[16]。ロンドン市もこれに呼応した。運動を後押ししたのは反核NGOの核軍縮キャンペーンであった[17]

外国の非核地帯運動に触発され、非核宣言を決議する日本の自治体が激増した。今世紀の初めには2千5百を超えたこともある[18]。日本非核宣言自治体協議体という団体によると、非核宣言自治体とは「核兵器の廃絶や非核三原則の遵守を求める内容の自治体宣言や議会決議を行った自治体」である[19]。核兵器の廃絶を求めるか、そうでないかは、国民のなかに意見の違いがある。

市民が自らの主張を認めさせる舞台には裁判所もある。広島・長崎の被爆者5人が原爆投下による傷害について日本政府に損害賠償を請求したのは下田事件である。東京地方裁判所が1963年に出した判決は下田判決といい、個人は国際法上の主体ではなく、また、サンフランシスコ平和条約も個人の損害賠償権を認めていないという理由で訴えを棄却した。原爆投下の違法性については、無防守都市への無差別爆撃であり、不必要な苦痛を与えたとし、認めた。

下田事件は一国内の問題として収められたが、当事者の国籍が複数にわたる紛争は国際裁判所に持ち込まれることがある。国際司法裁判所(ICJ)が出す判断には争訟事件に対する判決と国際機構からの要請に応えての勧告的意見がある。前者は特定の事件に対して法的拘束力を持ち、後者は一般的な問題について原則を明らかにするもので法的拘束力はない。

フランスの核実験は国際司法裁判所が扱った争訟事件である。太平洋のムルロア環礁で同国が行う大気圏内核実験の差し止めをニュージーランドとオーストラリアが求めた。1974年に国際司法裁判所は仮保全処分を下した。両国に被害を与えるような大気圏内核実験を避けるように、との内容である。最終的な同裁判所の決定は、フランスが実験を中止したため下されなかった。

地下核実験については、ムルロア環礁でフランスは続けた。環境保護団体のグリーンピースは虹の戦士号という船を抗議のために現地に向かわせた。1985年、この船が何者かにより爆破され、1人が死亡した。犯人はフランス政府の工作員であることが判明した[20]。表沙汰にできない手段を使ってでも、フランスは核実験を行いたかったのである。

国際司法裁判所の勧告的意見については、核兵器使用の非人道性をめぐるものがある。

ニュージーランドの市民グループが国際法学者のリチャード・フォークを1986年に招いて検討したことから始まった。争訟事件として核兵器使用の違法性を問う場合、どこかの核保有国を訴えることになる。強制管轄権を受け入れていない核保有国は裁判を回避するであろう。勧告的意見のほうは国連憲章第96条に定められ、総会または安全保障理事会が要請できるほか、その他の機関および専門機関も活動の範囲内で要請できる。これならば、それらの機関で可決されれば、核保有国は妨害することはできない。勧告的意見で違法性を問う方針が定まり、キャンペーンが始まった。1992年には、学者、医師、市民、NGO、ジンバブエ政府、メキシコ政府などから成る世界法廷プロジェクト(WPC)が発足して、運動の中心となった[21]

国際司法裁判所への要請は、世界保健機関(WHO)と国連総会が引き受けた。前者のものは門前払いとされたものの、後者のものには1996年、勧告的意見が出された。

国連総会による国際司法裁判所への質問は「いかなる状況において核兵器の威嚇あるいは行使は国際法のもとで許されるか」であった。勧告的意見は、核兵器の威嚇と使用は一般論として武力紛争法と人道法の原則・規則に違反する、というものであった。ただし、国家存亡がかかった自衛の場合には結論することはできない、とも加えられた。これは賛否同数で、裁判長のキャスティングボートでようやく通った意見である[22]

国際司法裁判所の勧告的意見は重要である。なぜなら、核抑止も、ミサイル防衛も、本当に核攻撃から私たちを守ってくれるか、確かでないからである。核兵器の使用は違法である、と述べるこの意見は、私たちを守ってくれるかもしれない。 個人には世界秩序を選択するために行動する自由がある。核兵器からの安全は、誰もが望むことである。ただし、その方法は人によって異なる。所属する国家をつうじて安全を求めるのもよい。他の市民とともに、国家に頼らず求めるのもよい。もちろん独力で求めるのもよい。今後、平和運動が国家をしのぐかは分からないが、この方法が消えてしまうことはないであろう。


[1] サン=シモン、『産業者の教理問答 他一編』、森博訳、岩波書店、2001年。 セバスティアン・シャルレティ、『サン=シモン主義の歴史 1825-1864』、沢崎浩平、小杉隆芳訳、法政大学出版局、1986年。

[2] クロード・アンリ・ド・ルーヴロワ・サン―シモン、「ヨーロッパ社会の再組織について」、『サン―シモン著作集』、第2巻、森博訳、恒星社厚生閣、1987年、230-233ページ。

[3] セバスティアン・シャルレティ、『サン=シモン主義の歴史 1825-1864』、沢崎浩平、小杉隆芳訳、法政大学出版局、1986年。

[4] Pierre Pellissier, Emile de Girardin: Prince de la Press (Paris: Denoel, 1985).

[5] マルクス、エンゲルス、『共産党宣言』、大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波書店、1951年、65-66ページ。

[6] 村上公敏、木戸蓊、『世界平和運動史』、三一書房、1961年、10-11ページ。

[7] アルベール・トマ、『労働史講話』、日本労働協会、1974年、361-368ページ。

[8] 森瀧市郎、前野良、岩松繁俊、池山重朗、『非核未来にむけて―反核運動40年史』、績文堂出版、1985年、36ページ。

[9] 森瀧、前野、岩松、池山、『非核未来にむけて―反核運動40年史』、21-26、126-128ページ。

[10] 小田実、『「べ平連 」・回顧録でない回顧』、第三書籍、1995年、86ページ。

[11] 村上、木戸、『世界平和運動史』、83ページ。

[12] モートン・グロッジンス、ユージン・ラビノビッチ編、『核の時代』、岸田純之助、高榎尭訳、みすず書房、1965年、498-500ページ。

[13] 飯島宗一、豊田利幸、牧二郎、『核廃絶は可能か』、岩波書店、1984年。

[14] “半田市 – 日本非核宣言自治体協議会ホームページ,” 日本非核宣言自治体協議会, http://www.nucfreejapan.com/member/japan/area/info?pref=23&code=23205, accessed on February 23, 2026.

[15] 近藤和子、福田誠之郎編、『ヨーロッパ反核79-82』、新泉社、120ページ。

[16] 国際教育フォーラム編、『反核・軍縮宣言集1982年の証言』、新時代社、1983年、168-169ページ。

[17] 近藤、福田編、『ヨーロッパ反核79-82』、103ページ。

[18] 梅林宏道、ピース・アルマナック刊行委員会、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、緑風出版、2024年、217ページ。

[19] “よくある質問,” 日本非核宣言自治体協議会, http://www.nucfreejapan.com/%e3%82%88%e3%81%8f%e3%81%82%e3%82%8b%e8%b3%aa%e5%95%8f, accessed on February 23, 2026.

[20] 近藤、福田編、『ヨーロッパ反核79-82』、175ページ。

[21] NHK広島核兵器プロジェクト、『核兵器裁判』、NHK出版、1997年。

[22] 梅林、ピース・アルマナック刊行委員会、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、45ページ。

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持続可能な開発

このまま経済開発を優先して、環境を破壊し続けたら、経済開発自体が持続できなくなる。将来の世代にツケを回さず、現世代のあいだに、持続できるようなやり方へ経済開発を軌道修正するべきである――持続可能な開発は本来、このようなスローガンであったはずである。それが今は違うらしい。

2016年以降における国連の目標である「持続可能な開発目標(SDGs)」は、経済・社会・環境の三つの次元を含む。もはや、経済と環境のバランスだけが焦点ではなく、社会の次元が加わった。A/RES/70/1という国連総会の決議には、繁栄は自然と調和しなければならない、そして、平和は持続可能な開発の条件であり、結果でもある、と書いてある。繁栄という言葉は経済のことで、平和という言葉は社会のことであろう。新しい持続可能な開発のビジョンは、経済開発のやりすぎは自然を損ない繁栄をもたらさない、というだけでなく、差別や搾取をなくして社会を良くしないと、平和は失われ、自然も繁栄も脅かされる、と語る。

これを信じるか、信じないか、はあなた次第である。人々には選択の自由があるのであるから。今回のテーマは、経済開発、人間開発、そして持続可能な開発の間には関係があるのか、あるとすれば、どのようなものか、あなたの考えを述べなさい、である。

環境問題それ自体は、人類の誕生にさかのぼる。また、田中正造の逸話でよく知られた足尾鉱毒事件のように、19世紀、すでに社会問題になっていた。しかし、政策として予防的に取り組まれるようになったのは比較的、近年のことである。レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』は1962年に出版され、人々に問題の深刻さを認識させた。殺虫剤のDDTなど化学薬品が、いかに生態系を破壊するか描いたものである[1]

また、ローマクラブの報告書『成長の限界』の出版が1972年であったが、環境保護に必ずしも熱心でなかった経済界がその必要を認めたものであった。持続可能性の大切さを世間に伝えるうえで、最も功績があった研究でなかったろうか。人類が従来どおりの成長を続けると、資源の減少と汚染によって、1人当たりの食糧、1人当たりの工業生産、そして総人口の順に減少していく。これを防ぐために、産児制限と工業生産制限を行うことをローマクラブは求めた[2]

同じ1972年には、記念碑的なグローバルな環境イベントのストックホルム国連人間環境会議(UNCHE)が開かれた。114か国、1,300人あまりが参加したものの、東側諸国は不参加であった。主な成果の一つは人間環境宣言の採択である。これはワシントン条約(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」)とボン条約(「移動性の野生動物の種の保存条約」)の作成につながった。もう一つは国連環境計画(UNEP)の設立であり、国連は環境問題の対策本部を持った。国連の内部機関であるので、設立の本決定は後日、総会で決議された[3]

地球環境が人類の課題であるという認識は広まったものの、言行一致は簡単でない。ローカルな環境問題と違い、交渉当事者の主権国家は上から誰も命令できない存在である。その行動を縛るには、環境対策の意義を納得させ、約束してもらうほかない。しかし、誰しも自分の価値観や利害に反することはしたくないので、悲劇は終わらない。

「共有地の悲劇」という概念は、ギャレット・ハーディンによる1968年の同名論文によって世間に広まった。共有地には個人の所有権が及ばないので、皆が自分の家畜に牧草をたらふく食べさせて、牧草地は荒れ放題になる[4]。大気と海洋は最大の共有地であるため、この構図は地球環境問題にも当てはまる。人類は諸国家による外交という手段でそれらの問題を解決しようとしている。

ここで出てきた共有地、または共有資源、という財の類型にはなお説明が必要である。それは排除不可能性と競合性を特徴とする財である。村の牧草地は、すべての村人に放牧する権利があるから排除不可能である。食い尽くされた牧草は生えてくるまで食べられないから競合的である。

村でルールを作って制限するのは、資源管理の良い方法かもしれない。しっかり見張って、取り締まろう、と提案が出たとする。自家分の牧草が減ることになる村人は反対する。

共有地と似た財の類型に、公共財がある。公共財は排除不可能性は同じであるものの、非競合性という特徴が違っている。きれいな空気は公共財、という言われ方がされる。息を止めたままでいなさい、と、空気の消費から誰かを排除することは確かに不可能である。また、誰かが空気を吸ったからといって、別の誰かの呼吸と競合するわけでもない。地球環境問題に当てはめれば、純粋な空気が公共財である。問題は共有地の悲劇によって、空気に排ガスのような大気汚染物質、二酸化炭素のような温室効果ガス、そして、フロンガスのようなオゾン層破壊物質が混ざり、純粋でなくなることである。

以上のように、排除不可能な財の消費を規制することは難しい。共有地は早い者勝ちで消費され、資源が枯渇してしまう宿命である。公共財は維持経費を払わないフリーライダーの出現ゆえに失われる。どちらが厄介か、は言うことはできない。前者では、人間の欲深さに嫌気が差し、後者では、理想の欠如が嘆かわしい、というニュアンスの違いがあるだけである。

排除可能な場合は、利用者にルールに従わせればよいので、財の管理は行いやすい。消費が競合する私的財であっても、個人の放牧地であれば、課金して利用者数を制限し、利潤を上げられる。競合しない排除可能な財はクラブ財と呼ばれ、会員はクラブのサービスを満喫できる。

こうした財の分類には政策上の意味がある。排除不可能な財を排除可能な財に転換できるのであれば、資源管理は容易になりそうである。共有地を民営化したり、国立公園にして入山料を課したりすれば、枯渇や荒廃を止めることができる。一見すると、良さそうなアイデアである。

ノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムは、必ずしもそうではないと議論した。共有地であっても民営化や行政命令によらず、自発的な組合によるガバナンスが成功する場合がある。ただし、それは利用者間にコミュニケーションとルール変更権限があり、小規模な利用者の場合にかぎられる[5]。会合は頻繁に、永続的に行われなければならない。日本語で、車座になって話し合う、というような状況がそれに当たろう。彼女の学説に弱点があるとすれば、ガバナンスが内輪の当事者によって行われるので、人権、繁栄、あるいは平和のような高邁な理想は考慮されないかもしれない、ということである。

地球環境のガバナンスは国境を越える必要がある。そうした問題に関しては国家間外交による対応が普通である。オストロムが論じるような小規模な自己組織的な共同体によるガバナンスのほうが、本来、共有地には適しているかもしれない。また、ガバナンスはできるだけ有権者と近いところで行われる必要がある、という本書の原則ともグローバルな調整は一致しない。

とはいえ、小規模な自己組織的な共同体によるグローバルガバナンスはできない相談である。グローバルガバナンスには、多様な価値観、多様な利害を持った人々が参加するからである。捕鯨の管理はその好例である。クジラを殺すことに対して、クジラがかわいそうと感じる人と重要な栄養源と考える人とが規制の方法を議論しても、妥協点を見つけることはまず不可能である。

以下では、国家間外交による地球環境ガバナンスの歴史を振り返る。が、共存共栄の成功物語を期待してはいけない。国益と国力をめぐるゲームのなかで、何とか合意点を探るのが関の山であるからである。

最初に取り組まれた国際的な環境問題は越境大気汚染である。工業地帯を擁するヨーロッパでの地域的協力が先行し、1979年、ジュネーブ長距離越境大気汚染条約が採択された。その実効性は1984年、31締約国中10か国が自発的に硫黄排出物の30パーセント削減を宣言して前進した。翌年、ヘルシンキ議定書が作成され、30パーセント削減は21か国による公式な約束になった[6]

ジュネーブ条約とヘルシンキ議定書は、枠組み条約と議定書をつうじた国際ガバナンスのモデルケースである。進藤雄介の表現を借りれば、それは「協議ないし交渉の場(枠組み)の設定についてとりあえず合意するが、その結果として、いかなる議定書など国際的な約束が合意されるかは、今後の交渉次第という方式である」[7]。議定書が採択されるのは、枠組み条約の締約国会議という場合が多い。締約国会議の英語の頭文字をとったCOPをよく耳にする。

越境大気汚染は他地域でも起きている。ヨーロッパでは、工場の排煙が酸性雨になって、森を枯らし、湖の魚を殺している、というイメージで知れ渡った。東アジアでは1998年、東アジア酸性雨モニタリングネットワーク(EANET)の第1回政府間会合が開かれ、調査が続けられている[8]。中国では「空中鬼」と呼ばれるほどひどい被害があったそうであるが、その他の国ではそれほどの被害は報告されておらず、条約の作成に至っていない。微小粒子状物質(PM2.5)は人体の健康との関係で注目されている。日中韓三か国環境大臣会合(TEMM)のもと、対策がとられている。

1970年代には、開発経済の世界においても、成長優先への反省が語られだした。ODAが環境や人権を破壊していると告発され、イラン革命のように、近代化がかえって人々を反体制的にした事例が現れていた。世界は、ナショナリズムの英雄が巨大なインフラストラクチャーを建設するイメージで開発を論じることをやめた。

貧困削減が開発政策の新しいパラダイムになった。工業化をすれば、経営者と従業員、そして国家の運営に当たる官僚は豊かになるが、その他の人々はどうであろうか? 成長すれば貧困は解消するというトリクルダウンの説は疑われ始めた。代わって、ロバート・S・マクナマラ総裁が率いる世界銀行はベイシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)を1970年代初頭から掲げるようになった。何が人間の基本的なニーズか、というと、栄養・健康・教育である。

こうした流れは『人間開発報告書』の公刊によって加速された。 UNDP総裁特別顧問であるパキスタンのマブーブル・ハク博士の指揮で、1990年に最初の報告書が出た。彼と協力したアマルティア・センは次のように述べた。

このアプローチのちょっと否定的な面はPRに頼りすぎ、公衆の注目を得るためマブーブルはとてつもなく単純化せざるをえなかったことです[9]

人間開発の定義は、人間の選択の幅を広げること、である。その指数は、三つの機能である健康・知識・所得の諸指標から合成される。これらが大きくなれば人間ができることは拡大する。それが単なる経済開発と違うことは、1人当たりの年間所得が同じであっても、寿命と知識の水準に差がある国どうしを比べれば理解できる。1人当たりの年間所得が同じ500ドルでも、平均寿命が71歳で識字率が89パーセントの国もあれば、それぞれ44歳と27パーセントの国もある[10]。あなたは、どちらの国に生まれたいであろうか? これらの国の間では、人間の可能性に雲泥の差がある。

ただし、健康や教育は開発政策においてもてはやされるようになったものの、重視する理由は立場によってまちまちである。ハクやセンの立場では、寿命・知識・所得などから成るウェルビーイングそれ自体が目的であり、それらが欠如していることこそ貧困であると定義される。

それにたいし、健康や教育を経済成長という目的のための手段として扱う立場がある。寿命・知識は人的資本または「人材」としてくくられ、設備・不動産など物的資本や資源・環境など自然資本とともに経済成長の要因である[11]。新古典派経済学がこれである。貧困削減の理論と経済成長の理論とでは、同じ言葉を使っていても本質的な違いが隠れている。教育を手段と見る場合、それは長期的成長の決定的要因ではないという消極的な評価もある[12]。この評価を採れば、人間開発は実証的アプローチでなく、規範的なアプローチである。

同じように、成長の限界と持続可能な開発とは似て非なるものである。前者においては、成長を緩やかにするための産児制限と生産規制は全世界に求められ、途上国だけが免除されることはない。後者は、これから途上国が環境破壊を招く工業化をしないように、先進国が農業補助金の廃止や技術の移転によって途上国の成長率を高めることを要求する。途上国の出生率を下げることは、成長の限界論が主張する産児制限でなく、女性の地位向上によって成し遂げられねばならない。

こうした違いは、持続可能な開発の概念が国連総会に由来することから生じた。総会が設置を決めた通称ブルントラント委員会、つまり、環境と開発に関する世界委員会、は4年後の1987年に報告書「我ら共有の未来」においてこの概念を提唱した。ブルントラントというのは委員長を務めたノルウェーの政治家グロ・ハルレム・ブルントラントにちなむ。国連総会は多数派である途上国の意見を強く反映するために、報告書の真意は「持続可能」よりも「開発」の強調であった。

持続可能な開発は「衡平(エクイティ)」を先進国と途上国との関係に打ち立てようとする指針である。ここでの衡平とは、環境保護という抽象的な理念を途上国における開発の緊急性という特別な事情を考慮して、より広い正義の観点から補正することである。

例えば、国際制度を設計する際、両者の間で義務の格差を設ける。オゾン層の保護のためのウィーン条約の枠組みでは、フロンガスなどの削減率を具体的に定めるモントリオール議定書が作成された。そのスケジュールでは、途上国が規制を実施する時期を先進国より10年遅らせる。

また、技術と資金を先進国から移転するために、地球環境ファシリティ(GEF)という融資枠が世界銀行のもと1991年に設けられたのも、衡平を打ち立てる意図に発したことである[13]

持続可能な開発は、先進国と途上国との関係だけでなく、あらゆる関係を衡平にする概念へと発展した。それを実現する舞台としてリオデジャネイロ国連環境開発会議が1992年に用意された。英語の頭文字ではUNCEDであるが、地球サミットやリオサミットという通称でも知られる。

12歳のカナダ人少女セバン・スズキが演説に立ち、環境破壊を続ける大人たちに若者の怒りをぶつけた。世代間にも衡平が必要である、との理解が広がったのは地球サミットの成果であった。

国連環境開発会議において、気候変動枠組み条約が署名開放された。気候変動はその後30年間、地球環境をめぐる論争において最大の争点になった。

二酸化炭素が地球を温める、と温室効果理論をスウェーデンのスバンテ・アレニウスが提唱したのは百年以上まえである。1985年以降、世界気象機関(WMO)とUNEPの会議で取り上げられてふたたび脚光を浴びた。データや研究結果を科学的に検証するため、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が1988年に立ち上げられた。第1次評価報告書は1990年に出されたが、温暖化の進行と懸念が明記され、翌年の条約交渉開始を後押しした。温暖化の真偽がその後も争われるなかで、一連の評価報告書は取り組みを促す起爆剤であった。

政策策定に役立つ情報を提供する科学者あるいは専門家のネットワークを、国際政治学者のピーター・M・ハースはエピステミック・コミュニティ(認識共同体)と命名した。IPCCはまさにそうしたものであるが、2007年にノーベル平和賞を獲得した。ところが、2009年には関係する科学者の電子メールが流出し、クライメイトゲート事件と呼ばれる騒動に発展した。温暖化対策は、科学への信頼の上に成り立っているのであるから、科学者は倫理的な責任を負う。

温室効果ガスを削減する具体的な目標を定めた京都議定書は1997年のCOP3(第3回締約国会議)で採択され、1990年を基準として、日本は6パーセント、アメリカ合衆国は7パーセント、そしてEUは8パーセント減らすことを約束した。EUの目標は高いように見えるものの、それまで対策が不十分であった東ヨーロッパには削減の余地が残っていた。

アメリカ合衆国はアル・ゴア副大統領が京都議定書の採択に尽力したものの、ジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が就任した2001年に参加しないと決断した。中国とインドを含む開発途上国に温室効果ガス削減の義務がないことが理由であった。それでも議定書は発効した。日本は目標を国内の排出削減だけで達成することはできなかったが、営林事業(森林吸収源)ならびに他国での削減プロジェクト(京都メカニズムクレジット)に参入することにより義務を全うした[14]

アメリカ合衆国では2009年にバラク・オバマ大統領が就任し、温暖化対策を再開した。グリーン・ニューディールは世界金融危機で落ち込んだ経済を再建し、石油への依存を終わらせる二兎を追った。

オバマ政権は、京都議定書に続く国際合意としてパリ協定が2015年のCOP21で採択されるのを後押しした。パリ協定は世界全体で産業革命以降における気温上昇の目標を2度未満とした。各国は任意の目標を設けて5年ごとに取り組みを報告、さらに、国家間で支援を行う。途上国による目標の設定は、義務づけられずに、奨励されるにとどまった。ドナルド・J・トランプ政権は2019年にパリ協定から脱退したものの、ジョー・バイデン政権は2021年に再加入した。

生物多様性条約は、地球サミットにおいて気候変動枠組み条約とともに署名開放された。目的は生物多様性の保全、その持続可能な利用、そして、遺伝資源から得られる利益の公正かつ衡平な配分である。保全については、戦略計画をCOPで採択して、保護区の指定などの目標を示す。

生物多様性条約にはカルタヘナ議定書と名古屋議定書がある。カルタヘナ議定書は遺伝子組み換え生物の越境移動を規制する目的で作られた。名古屋議定書は遺伝資源の利用から得られた利益の公正・衡平な配分が目的であり、2010年に名古屋市で開かれたCOP10において採択された。

国際連合の推進する価値観は、「我ら共有の未来」から持続可能な開発目標に至るまで、驚くほど変わっていない。簡潔に表現すれば人間開発・衡平・持続可能性であり、この回の初めに述べた経済・社会・環境と見事に重なる。持続可能な開発の概念が登場した背景には、環境の重視はもちろん、開発途上国と先進国、女性と男性、そして労働者と経営者といったパートナーシップを衡平なものにしようという問題意識があった。この延長線上に、ミレニアム開発目標(MDGs)と持続可能な開発目標がある。

ミレニアム開発目標は、2000年のミレニアムサミットで採択されたミレニアム宣言に基づき、事務総長報告などを踏まえて作られた。2015年までに達成されるべき8つの目標とは、1に貧困、2に教育、3にジェンダー、4に乳幼児、5に妊産婦、6に感染症、7に環境、8にパートナーシップである。1・2・4・5・6は人間開発、3・8は衡平、そして7が持続可能性である。

統計指標でミレニアム開発目標の達成度を検証すると、つねに下位にくるのはサハラ砂漠以南のアフリカと南アジアであり、開発途上国に努力を促す結果であった。ちょうど中国とインドが高成長をしていた時期と目標期間が重なったことから、人口が圧倒的に多い両国が豊かになると、大多数の目標が達成されたように見えてしまう問題があった。

持続可能な開発目標は、国連総会が2015年に決議した「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(A/RES/70/1)に基づく17の目標である。1に貧困、2に飢餓、3に健康、4に教育、5にジェンダー、6に水、7にエネルギー、8に雇用、9に産業、10に平等、11に居住、12に持続可能性、13に気候、14に海洋、15に生態系、16に平和、17にパートナーシップである。1・2・3・4・6・8・9・11が人間開発、5・10・16・17が衡平、そして7・12・13・14・15が持続可能性、と大まかに分けられよう。

持続可能な開発目標はミレニアム開発目標と比較して、持続可能性の割合は確かに増した。ミレニアム開発目標は開発途上国向け、と陰口をたたいたが、その点は改良された。持続可能な開発目標は「誰一人取り残さない」と決意し、人口の多い国への過剰な依存をやめた。また、目標がより高いものになり、先進国の課題に対応した。

このように、持続可能な開発目標は多様化した。とはいえ、まだ欠けているものがある。一つに、それは選択の自由である。確かに、ウェルビーイングは十分に盛り込まれているものの、人間には娯楽、進歩、冒険、そして自己実現も必要である。もう一つ欠けているものは論争である。パートナーシップは重要であるが、目標を採用するか、しないかを決めるのは各レベルの主体である。批判が許されなければ、目標達成を口実にして権力にしがみつく専制政治家の思うつぼである。


[1] レイチェル・カーソン、『沈黙の春―生と死の妙薬』、新潮文庫、1974年。

[2] ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダース、ウィリアム・W・ベアランズ三世、『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』、大来佐武郎監訳、第52版、1994年、105、151ページ。

[3] 百瀬宏、『北欧現代史』、山川出版社、1980年。

[4] G. Hardin, “The Tragedy of Commons,” Science 162 (3859) (1968):1243-1248.

[5] Elinor Ostrom, Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action (Cambridge: Cambridge University Press, 2015).

[6] ピーター・H・サンド、『地球環境管理の教訓』、信夫隆司、高村ゆかり訳、国際書院、1994年、40ページ。

[7] 進藤雄介、『地球環境問題とは何か』、時事通信社、2000年、27ページ。

[8] 環境庁、『環境白書(総説)(平成12年度版)』、2000年、228ページ。

[9] Richard Jolly, Louis Emmerij, and Thomas G. Weiss, The Power of UN Ideas: Lessons from the First 60 Years (New York: United Nations Intellectual History Project, 2005).

[10] マルーブル・ハク、『人間開発戦略 共生への挑戦』、日本評論社、1997年、65ページ。

[11] ビノッド・トーマスほか、『経済成長の「質」』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2002年、4ページ。

[12] ウィリアム・イースタリー、『エコノミスト 南の貧困と闘う』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2003年、105ページ。

[13] L・E・サスカインド、『環境外交―国家エゴを超えて』、吉田庸光訳、1996年、170-171ページ。

[14] 環境省, “京都議定書第一約束期間の削減目標達成の正式な決定について(お知らせ),” April 5, 2016, https://www.env.go.jp/press/102374.html, accessed on February 23, 2026.

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グローバリゼーション

今はインターネットにおいて、モノでも、カネでも、ヒトでも、情報でも、世界中がつながっている。それ以前はさぞかし不便であったことであろう。

それでも、交通と通信は日々、発達していた。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は、出版前年の1872年の世界を舞台とする。主人公はロンドンから、ドーバー、パリ、ブリンディシ、スエズ、ムンバイ、コルカタ、香港、横浜、サンフランシスコ、ニューヨーク、リバプール、そしてロンドンへと鉄道と船で移動した[1]

歴史学者のエリック・J・ホブズボームは1872年から24年まえの1848年であったなら、世界一周に11か月かかったであろう、と推測する[2]。その間に19世紀のグローバリゼーションが起きていた。グローバリゼーションの波は1度や2度ではなかったはずである。今回のテーマは、冷戦後の国際政治経済をグローバリゼーションという観点から論じなさい、である。

冷戦後のグローバリゼーションに先立って、大前研一がボーダレス・ワールドと呼んだ状況が生じていた。文字通り、国境のない世界であるが、「アメリカ、日本、ヨーロッパのいわゆる『トライアド』(三大戦略地域)で構成されているが、最近では台湾、香港、シンガポールなどの積極的な経済地域も参加するようになった」と解説される[3]。冷戦の終結に伴って、このトライアドに旧共産圏が吸収された。東側と深い関係にあった開発途上国はしばらく行き場を失い、混乱した。それが収拾に向かいだした時、グローバリゼーションは本番を迎えた。

以下では冷戦後を三つの時期に分けて論じる。第1期は、マルタ会談からITバブルの崩壊までの1989年から2001年であり、アメリカ合衆国の大統領ではブッシュ(父)政権とクリントン政権である。第2期は9・11テロから北京オリンピックまでの2001年から2008年までであり、ワシントンDCはブッシュ(子)政権である。第3期は世界経済危機からシリア内戦またはブレグジットまでの2008年から2016年であり、オバマ政権である。

モノのグローバリゼーションを決定づけたのは1993年におけるウルグアイ・ラウンドの妥結と1994年におけるマラケシュ協定の署名であった。成果を三つにまとめると、一に工業品関税の40パーセント低下、二にサービス貿易・貿易関連知的財産権(TRIP)・貿易関連投資(TRIM)の整備、三にWTO(世界貿易機関)の設立である[4]。にわかにグローバルな市場なるものが姿を現したわけであり、それに参加しない国は負け組に落ちることは必至であった。

WTOへの中国加盟が2001年、台湾加盟が2002年、そしてロシア加盟が2012年であり、これらをもってグローバルな市場は完成した。

商品(コモディティ)価格の下落をグローバリゼーションはもたらした。バナナ、コーヒー、ヤシ油、コメ、そして小麦の価格は1996年から2000年の間にいずれも長期的に低落した。それらの産地である開発途上国の交易条件は、ほぼ横ばいであった先進国に比べて明らかに低下した。バナナやコーヒーは生産国に収益が落ちる割合が低いため、生産者からの買取価格が不公正であるとの告発を長年、ぬぐえなかった。[5]

これを正すために、企業やNGOが直接、生産者から「公正な」価格で商品を買い入れ、小売りするフェアトレードが人気を博すようになった。すべてのバナナやコーヒーをフェアトレードで販売することはむろん不可能である。フェアトレード商品は利潤率が高いと言われるため、まだ広がっていく余地はある。

NGOのオックスファムは価格低下の問題について、自由貿易を掲げる先進国の農業補助金は二重基準であると批判し、一次産品機構を支持した[6]。補助金は農業か工業かを問わず、貿易パターンを混乱させる、という。

先進国の側は自由貿易の痛みを緩和しようと、一計を案じた。ヨーロッパと北米での地域主義がそれである。EC(欧州共同体)では、共通市場が1992年に成立した。共通市場はモノの移動だけを自由にする関税同盟よりも進んで、カネとヒトも自由に移動でき、それらのガバナンスと政策も共通化する。ユーロペシミズムと称された悲観論がささやかれた1980年代に、域外との競争に勝ち抜く切り札として、共通市場を成立させる単一欧州議定書(SEA)が合意された。この延長線上に1993年のEU発足があった。

示し合わせたかのように、カナダ、アメリカ合衆国、そしてメキシコの3か国は1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)を発足させた。すでにカナダと合衆国の間で存在していた自由貿易協定に、メキシコが加わったものであった。合衆国には、メキシコの安い労働力は自国の労働者にとって脅威であるとの認識があった。NAFTAの発足により、メキシコの製造業は繁栄したものの、アメリカ合衆国ではIT(情報技術)や金融といったニューエコノミーへの産業転換が進み、脅威にならなかった。

他方、開発途上国は冷戦後も飢餓・病気・債務・紛争に悩まされた。病気について言えば、本気になって国際社会が取り組み始めたのは21世紀になってからである。世界エイズ・結核・マラリア対策基金は、各国政府・NGO・国際機構のパートナーシップによって2002年に設けられた。翌年、アメリカ合衆国はエイズ救済のための大統領緊急計画(PEPFAR)を開始し、抗レトロウイルス薬の投与と禁欲・貞操・コンドームでエイズを予防することを支援した[7]

途上国の債務については、IMF・世界銀行が1996年に重債務貧困国(HIPC)を指定した。基準は、1993年時点で1人当たりGNPが695ドル以下、債務額が輸出額の2.2倍以上またはGNPの80パーセント以上の国であった[8]。これで債務救済が国際社会の取り組みになったことになる。

民間でも、さまざまなNGOが債務救済を目指して手を携えた。個人と違い、国家は破産できないので、債務を減免しないと貧困はなくならない、と主張した。この運動はジュビリー2000と名乗ったが、ジュビリーとはユダヤ教のヨベルの年のことで50年に1度、借金が帳消しになる。これにならい、西暦2000年を債務帳消しの年にしようと計画した。

主要国首脳会議でたびたびこの話題は取り上げられたものの、2000年は債務帳消しの年にならなかった。アフリカを中心とする18か国の債務帳消しが決まったのは、2005年のG8財務相会合においてであった。この成果を過小評価してならない。債務への不安がなくなって、開発途上国への投資が加速した。

このように、冷戦後の第1期において、先進国と開発途上国との間で所得の格差が広がった。格差拡大の代表的な告発に、世界銀行副総裁などを歴任した経済学者ジョセフ・E・スティグリッツによるものがある。ワシントン・コンセンサスが彼の批判の的であった。IMF・世界銀行・アメリカ合衆国財務省と、グローバルガバナンスを金融面で担う機関の本部は皆、ワシントンDCにある。それらに共通する思考パターンがワシントン・コンセンサスである。

ワシントン・コンセンサスの三本柱は、緊縮財政、民営化、そして市場の自由化である、とスティグリッツは指摘した。緊縮財政は債務返済を最重視して、教育や健康を犠牲にしてしまう。民営化はマフィアに国有財産を安く払い下げ、政治家に見返りの賄賂が渡る。市場の自由化によって、民族資本がグローバルな外資企業によって駆逐される。三本柱がいかに画一的に適用されたかの怪しげな噂話がある。ある国の報告書を作るのに別の報告書の文章をそっくりそのまま借用したところ、ワープロが「検索・置換」に失敗し、元の国名が残ったままの文書が配布されてしまった、という。まちがっているのは三本柱の原則自体でなく順序とペースで、金融界とアメリカ合衆国企業の利益ばかり図り、途上国の実情を考慮しないのが問題である、とスティグリッツは主張する[9]

格差拡大批判のきわめ付きはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「帝国」であろう。「帝国」はアメリカ合衆国を中心とするネットワーク状の権力であり、主権を境界内で行使してきた国民国家が衰退する間隙を縫い、地球全体を包摂する。この新たな主権者は法を定め、グローバライズする市場や生産を管理し、核兵器・貨幣・コミュニケーションを独占する[10]

ネグリとハートは、「帝国」は3層のピラミッド構造を成す、と主張する。第1の層には、G7、パリクラブ、ロンドンクラブ、そしてダボス会議に結束する国家のグループ、第2の層は、多国籍企業のネットワークとそれに従属する国家、第3の層は多種多様な人々を意味するマルティテュードであり、ネグリとハートはそれが「帝国」に抵抗することに期待を寄せる[11]

ネグリとハートは、「帝国」の指導者はどのように選ばれるのか?、意思決定はどのような過程で行われるのか?、といった具体的な細部を明かさない。これは陰謀論の特徴とも一致する。

世紀末に語られた、誰が決めたとも知れないグローバルスタンダードの噂は陰謀論と紙一重であった。ウィンドウズ95や英語はそうしたスタンダードの基本である。ISO(国際標準化機構)というNGOが決めた品質保証に関する規格であるISO9000シリーズと、環境システムに関する規格であるISO14000シリーズの認証を企業や公共機関は争うように取得した。BIS規制に至っては日本経済を破滅させるための陰謀として語られ、バーゼル1という銀行の自己資本比率を8パーセント以上とする基準は企業への貸し渋りによってバブル崩壊に追い打ちをかけた[12]。グローバルスタンダードへの批判は、純粋無垢な日本社会が負け組になった責任をすべて外国になすりつけた。

冷戦後世界における最強の産業は、ソフトウェア、インターネット、そして金融を代表とするニューエコノミーの業界であった。これらは作れば作るほど生産費が低くなり、経済学でいうところの収穫逓増になる。こうした産業は、企業の規模が大きければ大きいほど、自社商品の価格を下げることができるので、一人勝ち、つまり独占になりやすい。特に、ソフトウェアはダウンロード販売にすれば在庫を持たなくてよく、販売見込みを誤って生産管理につまずくことがない。経済全体でも、景気循環は緩やかになり、従来のような景気後退もない、ともてはやされた。

第1期が終わる兆候は現れていたが、一つはアメリカ合衆国におけるITバブルの崩壊であった。1990年代後半から、インターネット関連ベンチャー企業への過剰な投資が行われ、電子株式市場ナスダックはじめ世界の株価は軒並み高騰した。2001年、IT企業の株価はついに暴落し、ネット取引を活用して急成長したエネルギー企業エンロンは粉飾決算を暴露されて破綻した。ニューエコノミーは実体経済を反映しないバブルであった。

別の兆候は反グローバリゼーション・デモとWTOの挫折である。1999年、シアトルで開かれる予定であったWTO閣僚会議は新たな交渉であるミレニアム・ラウンドを立ち上げようとした。それに先行して、反グローバリゼーションのデモが市街地で発生し、環境・労働・人道・農業・平和・先住民・女性など700以上の世界中から駆け付けた団体が気勢を上げた。当局は催涙ガスとゴム弾を使用し、逮捕者が出た。シアトルに到着した閣僚たちは帰国せざるをえなかった[13]

改めてWTOでは、2001年に新貿易交渉であるドーハ開発アジェンダが立ち上がったものの、2011年に交渉は停止された。農業への補助金の問題で、先進国と開発途上国との歩み寄りが見られなかったからである。

環境保護論者もグローバリゼーションには懐疑的で、WTOは貿易をとるのか?、環境をとるのか?、と決断を迫った。食糧の貿易が増えれば、農薬の大量使用につながる。海産物の貿易が増えれば、漁業資源が枯渇する。木材の貿易が増えれば、森林が破壊される。野生生物の貿易が増えれば、絶滅の危険が生じる。交通手段が発達すれば、外来生物と感染症が侵入する。金融にも注文が付いた。IMFと世界銀行がコンディショナリティを付けると、緊縮財政のために自然保護の予算まで切り詰められてしまう。収益を上げようと、資源開発の規制を緩和すると、森林が伐採され、絶滅危惧種が密漁されてしまう[14]。これらの主張は論理的であったものの、経済と環境の二者択一を迫り、妥協を難しくした。

冷戦後の第2期は、対テロ戦争とイラク戦争という泥沼のなかでアメリカ合衆国が身動きのとれない状況で進行した。バラク・オバマが次期大統領に選ばれるまでに、アメリカ合衆国は消耗しつくした。

9・11事件が起きる以前から、グローバリゼーションとその推進者であるアメリカ合衆国への敵意は聞こえていた。1999年のユーゴスラビア空爆によって、ロシアと中国は合衆国との和解は無理であると悟り、伝統的な多極化の政策に戻った。ウサマ・ビンラディンが有名になるまえから、イスラム文明と西洋文明との衝突は話題になっていた。

21世紀には、自由貿易協定(FTA)がWTOの代わりに経済の開放性を担った。それは地域的または二国間のものであり、EUとNAFTAに触発されて広がった。

それまで多角主義を主張してきた日本もFTAの波に乗ることにした。ただし、単なる関税の引き下げや撤廃を取り決めた純粋なFTAではなく、経済連携協定(EPA)と称する「投資、人の移動、知的財産の保護や競争政策におけるルール作り」であった[15]。人の移動については、最初にインドネシアおよびフィリピンと看護師・介護福祉士の受け入れを合意した。FTAを称さない理由は上のものだけではなかったろう。選挙の票田である稲作農家を敵に回したくない政治家たちにとって、自由貿易を名乗らないほうが好都合であったからである。

第2期には、低下していた商品価格は一転して急上昇した。小麦・大豆・とうもろこしといった農産物はもちろん、原油やレアメタルといった鉱物でもそうであった[16]。一次産品のインフレーションは開発途上国の交易条件を改善したが、原因はつぎに述べるBRICSの台頭と、対テロ戦争やイラク戦争に伴う軍事費の上昇であった。

BRICSという言葉は、証券会社ゴールドマンサックスによる調査報告「BRICsについての大胆な予測:2050年への道程」で初めて使われた。その時は、ブラジル・ロシア・インド・中国の英語頭文字を並べたBRICに複数形の小文字sをつけてBRICsと総称していた。この報告書では、2050年までにBRICsは、カナダを除くG7の6か国の経済規模を超えると予想した。BRICs側もこうした評判を意識し始め、2009年から首脳会議を開いた。これに2011年、南アフリカが加わり、Sが大文字のBRICSが使われるようになった。

中国では、鄧小平が先富論を指導したことが功を奏し、世界の工場の様相を呈した。ほかにも、新興国または新興市場(エマージングマーケッツ)と呼ばれる国々が現れたが、先進国と途上国の中間に位置し、中南米、東アジア、そして東ヨーロッパに多く分布した。かつてそうした国々の開発は国際金融機関かODAの資金かによってまかなわれていたが、21世紀になると急速に民間資本の流入が増大した[17]。資金面でも、先進国から自立したのである。

自然資源の価格上昇は資源争奪をもたらしたが、アメリカ合衆国の高官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは1997年にそれを予言していた。旧ソ連のユーラシア内陸部には石油・ガス資源が埋蔵されており、世界から熱い視線が注がれた。その様子はチェス盤を前にして地理上の戦略を練るかのようであり、石油とガスを運ぶパイプラインがどこを通るのか?、が国際政治の重要な争点になった[18]。ウラディミル・プーチン大統領が治めるロシアは、パイプラインが通るチェチェンで起きた反乱を鎮圧し、資源国として繁栄を誇った。

第3期は、2008年の世界金融危機で始まった。当時、アメリカ合衆国の貧困層に貸し出されたサブプライムローンは、3年目から金利が跳ね上がる不利な金融商品であった。貧困層があえてそれを借りたのは、ローンで買った不動産の値上がりを見込んでいたからである。このローンの返済を組み込んで証券化したサブプライム債を、世界の投資家が買った。もし住宅価格が暴落したらどうなるか? 貧困層は返済できなくなり、世界の投資家は大損を被る。

リスクが現実になったのがサブプライム危機である。危機の拡大はベアスターンズ投資銀行の破綻で明白になった。2008年9月に、リーマンブラザーズ投資銀行が破綻し、このリーマン・ショックで世界金融危機は本格化した。翌年、ドバイ・ショックによって中小国の財政に不安が高まった。アラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国の政府系企業が債務返済の繰り延べを要請したのである。中小国の危機は拡大せず、先進国の危機と合流することはなかった。これは「切り離し」を意味するデカプリングと呼ばれた。

世界は、どう対応するかを模索した。BRICSのところで述べたように、G7の相対的な経済力は低下していた。リーマン・ショックの2か月後、第1回のG20金融サミットがワシントンDCで開かれた。参加したのはG7(プラスEU)とBRICSに加え、新興国のアルゼンチン・メキシコ・インドネシア・韓国・サウジアラビア・トルコ・オーストラリアであり、2011年までは年2回のペースで開かれた。危機への対策は金融政策、つまり、各国が政策金利を緩和して景気を刺激すること、に尽きた。中国のように、独自に大規模な公共投資を行う国もあった。

先進国から成るEUの経済は世界金融危機によって手痛い打撃を受けた。ポルトガル・イタリア・アイルランド・ギリシャ・スペインは財政不安がささやかれ、まとめてPIIGSと呼ばれた。それにつられて、ユーロの対ドル相場は長期的な低下の局面へと転じた。EUは南ヨーロッパ諸国を救済するため、資金をユーロ圏諸国、IMF、そして市場から調達した。さらに常設的な制度として、財政危機に陥った国への支援を目的に、欧州安定メカニズム(ESM)を立ち上げた。それでもギリシャは2015年にIMFからの債務を延滞した[19]

EUは下り坂の時代を迎えた。それまで加盟国が増えたことだけで、経済力と政治力が肥大化したが、新規加盟が一段落し、経済不安がささやかれると、求心力はたちまち失われた。ついに2016年、イギリスにおいてEU離脱を問う国民投票が行われ、離脱賛成が多数を制した。紆余曲折を経て、2020年にイギリスはEUを抜けた。これがブレグジットである。

国際関係の変調はヨーロッパだけでなかった。TPP(環太平洋経済連携協定)はそもそも2006年にシンガポール・ニュージーランド・チリ・ブルネイの4か国が締結した経済自由化の合意であった。これにアメリカ合衆国が加わる意思があると分かると、拡大の機運が高まり、2016年にオーストラリア・カナダ・日本・マレーシア・メキシコ・ペルー・アメリカ合衆国・ベトナムが加わって12か国が新協定に署名した。

ドナルド・J・トランプに大統領が代わった2017年、アメリカ合衆国は不参加を表明した。ブレグジットの場合もそうであったが、国内に孤立主義者と国際主義者の両方がいて、政策の綱引きをしている。同国を除く11か国は2018年、CPTPP協定(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)に署名し、2023年にそれらすべてで発効した。

唯一、安定した成長を続けたのが中国であった。国際関係においては、鄧小平の韜光養晦の教訓に従い、胡錦濤国家主席の時代まで隠忍自重した。東アジアにおいては他国の上に立とうとするのでなく、ASEANを核とする会議やフォーラムへの参加を重視した。2005年に初めて開かれた東アジアサミット(東アジア首脳会議)にも、アメリカ合衆国とロシアに先んじて、参加した。

ところが、2008年の北京オリンピックと2010年の上海万国博覧会を成功させたあたりから、様子が変わり始めた。習近平が次期の指導者としての地位を確実にし、2013年、正式に共産党総書記に就任すると、毛沢東にならって独裁者としてふるまい、アメリカと対決した。

経済について見ると、2014年のBRICS開発銀行と2016年のAIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立は、世界銀行やアジア開発銀行のような既存の国際金融機関への挑戦であった。2017年に北京で一帯一路会議が開かれ、中央アジアとインド洋一帯に巨額な資金が投じられた。中国が世界を指導する「中国の夢」にアメリカ合衆国は警戒し、トランプ政権は2018年、米中貿易戦争に踏み切った。

トランプ第1期政権の誕生をもってグローバリズムは終わったと表現するべきである。この政権は具体的な成果を残すことができなかったが、民主党のジョセフ・R・バイデン大統領も保護主義から脱却できなかった。


[1] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年。

[2] E・J・ホブズボーム、『資本の時代 1848-1875』、I、みすず書房、1981年、73-74ページ。

[3] 大前研一、『ボーダレス・ワールド』、田口統吾訳、プレジデント社、1990年、12ページ。

[4] 野林健、大芝亮、納家政嗣、長尾悟、『国際政治経済学・入門』、有斐閣、1996年、118-119ページ。

[5] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』、渡辺龍也訳、新評論、2006年、204、205ページ。マイケル・バラット・ブラウン、『フェア・トレードー公正なる貿易を求めて』、青山薫、市橋秀夫訳、新評論、1998年、128ページ。

[6] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』。

[7] ジェフリー・サックス、『貧困の終焉』、鈴木主税、野中邦子、早川書房、2006年。ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年。

[8] 橋本光平、『国際情勢早わかり2002年版』、PHP研究所、2002年、93ページ。

[9] ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、鈴木主税訳、徳間書店、2002年。

[10] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳、以文社、2003年。原著は2000年出版。

[11] ネグリ、ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』。

[12] 東谷暁、『グローバル・スタンダードの罠』、日刊工業新聞社、1998年。

[13] Janet Thomas, The Battle in Seattle: The Story Behind and Beyond the WTO Demonstrations (Golden: Fulcrum Publishing, 2000), pp. 7-8.

[14] レスター・R・ブラウン、『地球白書2000-01』、浜中裕徳監訳、ダイヤモンド社、317、332ページ。

[15] “我が国の経済連携協定(EPA/FTA)等の取組,” Ministry of Foreign Affairs of Japan, January 8, 2026, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fta/, accessed on February 23, 2026.

[16] 山下知志、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、講談社、2008年、52、72、83ページ。

[17] 山下、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、90ページ。

[18] Z・ブレジンスキー、『ブレジンスキーの世界はこう動く』、山岡洋一訳、日本経済新聞社、1998年、173ページ。

[19] 『日本経済新聞』、夕刊、2012年6月11日。『日本経済新聞』、朝刊、2015年7月12日。

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テロリズム

テロリズムは二つの意味で論争的な暴力である。一方で、それは勝ち負けでなく、論争の存在を公にさらすことが目的である。暴力による破壊には、当然視されていること、あるいは既定のことを疑わせる効果がある。他方で、暴力を振るうことは正当とも、不当とも、人によって評価が分かれる。意図または目的といった主観的な要素はテロリズムの定義からぬぐいされず、それらが正しいと思う人にはテロリズムは正当である。民族解放のための闘争は正当である、という主張は近代の歴史において圧倒的に支持されてきた。

今回のテーマは、「テロと戦う」ことは是か非か、また、是とすればその手段はどうあるべきか、について論じなさい、である。

2023年における世界のテロリズムの事件数は7,382、死者数は21,596、とアメリカ合衆国政府は述べる[1]。世界の人口が約80億人であることを考えると、テロリズムで死ぬ確率は高くないと合理的に言える。ある合衆国の研究者によると、同国内でテロリズムによって死ぬ確率ははしごから落ちて死ぬ確率の8分の1、交通事故で死ぬ確率の15分の1にすぎない。テロリズムという言葉の使われ方は、社会と政治が作り出したものであり、定義自体が合衆国の国家主義的目的に従っている、とこの研究者は説く[2]。我々はテロリズムを恐れすぎなのか?

西側世界がテロリズムをことさら重視するのには理由がある。戦争や内戦といった紛争は脆弱国家で起き、犠牲者と平和活動もそうした地域に集中しているイメージがある。これはまちがいではないが、テロリズムに関しては、西ヨーロッパと北米の先進国でも死者が出ている[3]。2005年のロンドン地下鉄爆破、2013年のボストンマラソンでの爆発、2015年のパリにおける1月のシャルリエブド襲撃と11月のスタジアム・劇場襲撃は多くの犠牲者を出し、記憶に残る。病死より殺人を好んで伝えるのはお茶の間のニュースやワイドショーである。

ただし、国別死者数で見ると、テロリズムで大量の死者が出ているのはやはり開発途上国である。2023年では多い順に、シリア、パキスタン、イスラエル、コンゴ民主共和国、ナイジェリア、インド、ヨルダン川西岸、イエメン、マリ、そしてブルキナファソが上位に並ぶ[4]。国によっては、反乱軍やゲリラと呼びえる大きな組織がテロリズムに手を染め、自然と多くの死者が出る。

テロリズムの定義については、合衆国法典のものに本書は従う。すなわち、「サブナショナルな集団あるいは秘密諜報員によって非戦闘員の標的にむけて犯された、謀略的で政治的動機をもつ暴力」(22 USC 2656f(d))である。

「サブナショナルな集団」とは非国家の主体のことであり、国家と国際機構が行う暴力はテロリズムに含まれない。秘密諜報員は国家と雇用関係にあるスパイであるが、その破壊行為にかぎり、合衆国法典はテロリズムに含める。犯人の素性を特定しがたいからであろう。

「非戦闘員の標的」という限定は、戦時国際法が適用される戦争とテロリズムを区別するためである。平時における占領地の軍隊は戦時国際法上の戦闘員ではない。

実は合衆国法典の定義が一般的になる21世紀の初めまで、この定義には続きがあった。「暴力」を説明する「ふつうは聴衆に影響を与えるように意図されている」という節がついていた[5]。テロリズムは他の軍事力がそうであるような支配地の拡大が目的でなく、心理的効果、特に相手側の権威と戦意の失墜が目的であると示唆されていた。

心理的効果に関連して、クリスティン・C・ケッチャムとハービー・J・マクジョージの「力の増幅装置」という考え方がある。力の増幅装置にはテクノロジー、トランスナショナルな支持、そしてメディアの三つがある[6]。生物・化学兵器や放射能兵器で攻撃すれば、恐怖心を増すことができるし、犯行を支持する世論が外国で高まれば正当化されたと宣伝される。脅えさせるにせよ、味方につけるにせよ、テロリズムは大衆を意識した戦術である。

合衆国法典の定義はオーソドックスなものであるが、テロリズムにはさまざまな定義が与えられてきた。「安価な交戦手段」という定義は、テロリストの背後には国家の諜報部門があって、敵国の権威や戦意を下げるための攻撃をテロリストに依頼している、という仮定に基づく。預金口座に数百万円の報酬を振り込むだけでよいのなら、戦闘機や戦車を買うよりはるかに安上がりに敵の力を削ぐことができる。また、「政府による弾圧」という定義には近代史と同じ長さがあり、1789年のフランス革命以後しばらく、恐怖政治を行う革命派の政権が「テロリスト」と呼ばれた。今日でも、イスラエル軍によるパレスチナ人への弾圧こそ「国家テロリズム」である、という表現はこの用法に忠実である。逆に、政府に反抗して蜂起したサブナショナルな革命家がテロリストと呼ばれるのは1848年の二月革命以降であった[7]

テロリストは相手を罵倒するための言葉であるので、他人をテロリスト呼ばわりするのは品位に欠け、場合によっては名誉毀損にもなりうる。テロリストと呼ばれるのはかなり過激な思想を持つ者だけである。左翼と右翼という分け方でいうと、両極端である。

百年まえ、左翼の過激な思想を持つ人といえばアナーキスト(無政府主義者)であった。バーバラ・W・タックマンは第一次世界大戦に先だつ世相を次のように記す。

国家なき社会、政府も法律も財産の私有もなく、腐敗した諸制度が一掃され、人間は自由となり、神の意図した通りの善き者たりうるような社会、そういう社会のヴィジョンはまことに魅力的だった。そのせいで六人の国家元首が、一九一四年に先立つ二十年間に、暗殺される目にあった。一八九四年にはフランスのカルノー大統領、一八九七年にはスペインのカノバス首相、一八九八年にはオーストリアのエリーザベト皇妃、一九〇〇年にはイタリアのウムベルト国王、一九〇一年には合衆国のマッキンリー大統領、そして一九一二年は再びスペインの首相カナレハス[8]

第二次世界大戦後には、西側先進国の若者たちが左翼テロリズムに身を投じた。バーダー・マインホフ・グルッペことドイツ赤軍、イタリアの赤い旅団、そして日本赤軍が著名である。

1972年、日本赤軍はイスラエルのロッド空港で虐殺を行ったが、パレスチナ・ゲリラと協力してのものであった。パレスチナ解放戦線(PLO)の諸派のうちハイジャックに積極的であったPFLP(パレスチナ人民解放戦線)はレバノンを根城とし、各国のテロリストを招き入れて訓練を施した。ライラ・ハリドという女性活動家はハイジャックを犯して拘束されたものの、他のハイジャック事件の乗客とのいわゆる人質交換で釈放された。彼女はパレスチナ・ゲリラのアイコンとして革命闘争に関心がある世界の若者を誘惑し、さながら女性版チェ・ゲバラであった。日本の全共闘世代への影響は1971年にパレスチナに渡り、日本赤軍を結成した重信房子と並ぶものがあった[9]

右翼の過激派としては、白人至上主義やカルト教団が知られる。イスラム原理主義などの宗教原理主義をそれらと同類と捉えれば、右翼に分類できるかもしれない。1995年、アメリカ合衆国のオクラホマシティ連邦ビルが爆破され、168人が死亡した。自動車に積んだ爆発物を使う手法は中東の諸事件を思い起こさせたが、犯人は白人至上主義者のティモシー・マクベイであった。

2011年にはノルウェーにおいて、白人至上主義者のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクが銃を乱射して多くの若者を殺した。右翼という語感は国家主義と強く結びつくにもかかわらず、マクベイとブレイビクは国家体制の転覆を企て、別のタイプの国家体制を打ち立てようとした。

民族解放運動にもテロリズムを行う集団がある。1914年、セルビアの青年がサラエボでオーストリアハンガリー帝国の帝位継承者を暗殺した。1916年の復活祭蜂起で立ち上がった人々は、アイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれた。1948年、ユダヤ人テロ組織がアラブの村で虐殺をした。今日、セルビア・アイルランド・イスラエルの民族の英雄たちをテロリストと呼ぶことにためらいを感じるかもしれないが、行為はまぎれもなくテロリズムであった。

もっとも、北アイルランドは独立に加われずイギリス領にとどまったため、IRAは闘争を続けた。1972年のイギリス陸軍による襲撃は一般住民を巻き添えにした。世界史上、いくつか存在する「血の日曜日事件」の一つがこれである。IRAが停戦に応じたのは冷戦後の1994年であった。

現在、私たちはパレスチナ人、タミル人、クルド人、チェチェン人、あるいはウイグル人の将来の建国者たちをテロリストと呼んでいるかもしれない。

PLOは1964年に結成されて以来、パレスチナ人を代表する。ヤセル・アラファトが議長になったのは1969年である。彼はPLOの一派であるファタハも率いた。西岸地区を追われ、ヨルダンに逃げたPLOは1970年の黒い9月事件によってレバノンに拠点を移した。これを恨んでファタハは実行部隊にブラックセプテンバーと名づけ、1972年のミュンヘンオリンピック事件などを引き起こした。

中東各地を転々としたのち、PLOが西岸地区に還ったのは1993年のパレスチナ暫定自治協定以後である。本部はラマッラに置かれる。アラファトは翌年、ノーベル平和賞さえ授けられた。パレスチナは多くの国から国家承認は受けているものの、まだ領土を実効支配していない。それどころか、パレスチナ人勢力は分裂し、1987年に生まれた最大の反主流派であるハマスがガザ地区を支配する。人々の支持は闘争的なハマスへと移ったが、2023年にイスラエルを攻撃し、逆にイスラエルに襲撃されて、ガザは徹底的に破壊された。

このように、テロリズムは単なる犯罪か?、それとも政治か?、割り切れないところがある。まちがいなく、テロリズムの行為だけとれば、それらは刑法が定める犯罪である。人を殺傷したり、誘拐したり、あるいは、物を壊したりすれば、未遂であれ、何らかの犯罪には当たるからである。公権力は犯罪には法秩序を守るために対応する。犯罪には刑罰で報いるのが一般的な方法である。もし、容疑者またはその共犯者が外国にいるとすれば、その国に身柄の引き渡しを要求するであろう。しかし、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)大統領は「司法という手段ではテロリズムを封じ込められないことが、9・11に明らかになった」と考えた[10]

テロリズムは政治でないか?、と考えてみよう。公権力は国家または政府の正統性に対する挑戦として対決しなければならない。単なる犯罪への処罰よりも、厳しい弾圧が加えられることがあるが、支持者からは逆に同情を受けることもある。政治犯が外国に逃亡した場合には、亡命を認め、庇護する国が現れるかもしれない。

もう一つの可能性として、テロリズムを戦争と捉えて対応する場合がある。その国は自衛権を発動する。攻撃した者またはその同盟者をかくまう外国も含めて攻撃の対象になる。相手が完全に無力化されるまで掃討は続けられる。

対テロ戦争は2001年に起きたテロ事件への対応であった。9月11日、旅客機がハイジャックされ、それらがニューヨーク・ワールドトレードセンターの2棟のタワーとアメリカ合衆国国防総省のペンタゴン庁舎に突入した。ハイジャックされてペンシルベニア州に墜落した旅客機に乗っていた人々を含め、約3千人の命が奪われた。この数字は他の大規模テロ事件のものより一ケタ多い。

翌日、ブッシュ大統領は「わが国にたいし、昨日、実行された計画的で殺害を狙った攻撃は、テロ行為以上のものだった。それらは戦争行為だった。」と演説した[11]。連邦議会は9月14日に、「二〇〇一年九月一一日に発生したテロ攻撃を計画、承認、実行、もしくは支援したと大統領が判断した国家、組織、人間、およびそうした組織もしくは人間をかくまうものにたいして、それらの国家、組織、人間のアメリカへのさらなる国家テロリズム行為を防ぐために、大統領がすべての必要で適切な武力を行使することを承認する」と決議した[12]。大統領の演説は国民を団結させるためのレトリックにとどまらず、法的にも戦争状態に入らせることになった。

国連の安全保障理事会はアメリカ合衆国政府の対テロ戦争への決意に配慮した。早くも9月12日に、前文で「個別的または集団的自衛の固有の権利を認め」る安保理決議S/RES/1368を決め、合衆国の武力行使に理解を示した。

では、米軍は誰と戦争したのであろうか? 9・11事件の首謀者はウサマ・ビンラディンとされる。 サウジアラビアの富豪の子として彼は生まれた。ソ連によるアフガニスタン侵攻に対抗して、現地でムジャヒディン(イスラム戦士)に資金や物資を提供した。彼のテロ組織アルカイダの創設は1988年とされる。一時、スーダンに住んだあと、タリバンが政権を握ったアフガニスタンに舞い戻った。アメリカ合衆国を敵とみなすようになった彼は1998年、ケニアとタンザニアにおける合衆国大使館を爆破した。9・11事件が起きた時、彼が最も怪しい人物であった。対テロ戦争は2011年にパキスタンで米軍が彼を殺害するまで10年近く続いた。

ビンラディンは個人にすぎない。戦争は国家と国家の間で行うものである。その一方で、ビンラディンをかくまうアフガニスタン政府には国際的な責任があった。アメリカ合衆国は9月20日、タリバンに次の要求をした。アルカイダ全指導者を引き渡すこと。不当に投獄した全外国国民を釈放すること。外国のジャーナリスト、外交官、そして援助関係者を保護すること。あらゆるテロリスト訓練キャンプを閉鎖すること。あらゆるテロリストとその支援者を引き渡すこと。テロリスト訓練キャンプに合衆国を立ち入らせること。そして、脅しの言葉を加えることを忘れなかった。「テロリズムに拠点を与えたり、支援したりし続けるあらゆる国は合衆国によって敵対的な体制とみなされるであろう」と[13]。ビンラディンは引き渡されなかった。

こうして始まった対テロ戦争には多くの国が支援を申し出た。その月のうちに、アメリカ合衆国が加盟するOAS(米州機構)はリオデジャネイロ条約が定める集団的自衛権を発動した。国連の安全保障理事会は決議S/RES/1373を通し、テロ行為の脅威と戦う必要を認めた。翌10月には、 NATO(北大西洋条約機構)が北大西洋憲章第5条の共同防衛を発動した。

「文明の衝突」という言葉は、東西対立が解消した冷戦後に、世界政治の新しい構図を示すものとしてもてはやされた。テロとの戦いをイスラムとの戦いとする見方は短絡的であると批判されたものの、テロ組織の多くがイスラムを掲げたことは事実であった。

これは20年後の今日でも変わらない。2023年に最多の死者を出したテロ組織を挙げると次のとおりである。ハマス、コンゴ民主共和国のイスラミックステイト、アルシャバーブ、イスラム・ムスリム支援団(JNIM) 、西アフリカのイスラミックステイト、イスラミックステイト本体(IS)、ボコハラム、フーシ過激派、シャーム解放機構、そして大サハラのイスラミックステイトが上位10組織である[14]。これらのすべてがイスラム原理主義を基盤とする。

イスラム世界は、東はパキスタンと中国西部、北はカザフスタン・コーカサス・バルカン半島、南はモザンビークとコンゴ川流域、西は大西洋までの広大な地域に及ぶ[15]。脆弱国家やPKO派遣地域と重なる土地は多い。しかし、敵とみなしてはならない。我々がテロリズムと呼ぶもののほとんどは地域社会の慣習や制度をめぐる争いである。いわゆる過激なイスラム原理主義者がそれに付け込んで、共感する者たちを世界的なネットワークにまとめ上げている。

「テロリスト」とは誰か? 「暴力の原因」の回で紹介した分析レベルの考え方を借りて整理する。まず、個人にテロリズムの原因があるとすれば、暴力崇拝者、宗教信者、そして孤立した人々といった人格がそれに当たる。1996年、ユナボマーと呼ばれた連続爆弾犯が逮捕された。彼は大学で教えたことがあるほど知能が高かった。むしろそれゆえに、産業社会を批判し、単独で犯行を繰り返した。人間の志向が多様化した現代では、暴力崇拝者、宗教信者、そして孤独な人々が一人も現れないようにすることは不可能である。

つぎに、国家・社会の特徴にテロリズムの原因があるとすれば、挙げられるのは、エスニック集団、貧困層、そして極左・極右活動家である。これらのうち、これまで論じてこなかったのは貧困層である。マルクス主義の信奉者など極左活動家は貧困の解消を主張してきた。しかし、貧困家庭に生まれた子供が成長してテロリストになるか?、というと話は別である。アラン・B・クルーガーという経済学者がそのことを調査した。1人あたりGDPおよび非識字率との回帰分析から、貧困および低い教育水準は各国の1人あたりテロ事件数を押し上げていない、という結論に達した。テロリストには貧困家庭出身者は少なく、むしろ高学歴者が多い[16]

最後に、国際システムにテロリズムの原因があるとすれば、反米活動家と国家支援テロリストが挙げられる。19世紀にアメリカ合衆国を毛嫌いする外国人はあまりいなかったであろうから、反米は超大国としての合衆国の役割、またはイスラエルへの支援に原因があると考えられる。国際社会で大きな役割を果たすようになると、軍隊を派遣された現地の人々からの反発が強くなる。また、合衆国に敵意を抱く国の指導者は、それこそ安価な交戦手段としてテロリストに便宜を図り、矛先を合衆国に向けるよう誘導する。

反米活動への対策として、アメリカ合衆国の国務省は1979年以来、テロ支援国家を指定している。2004年10月にイラクが、2006年5月にリビアが、2020年12月にスーダンが外され、キューバ(2021年に再指定)、北朝鮮(2017年に再指定)、イラン、そしてシリアの4か国が指定されている[17]。これらはアメリカ合衆国が一方的に決めつけたものである。他国から見れば、合衆国のほうこそ反体制派を励まし、時には武器さえ送って紛争を助長する、と映るであろう。

参考までに、アメリカ合衆国政府が2021年のデータに基づいて数えた実行犯の類型による事件数の割合を紹介する。テロリズムの事件数の55.3パーセントはジハーディストによるもの、37.5 パーセントはエスニックなナショナリストによるもの、7.6パーセントは左翼によるもの、そして13.9パーセントはイランが背後にいるものであった[18]

テロリズムの主体が多様であるのと同じく、使われる武器も多様である。アメリカ合衆国政府の資料によると、実行犯が使った上位の武器は、火器、爆発物、即製爆発装置(IED)、不明、発火物、乱闘、そして無人機の順である[19]。現実の危害はさほど印象的でない従来型の武器によって加えられる、というのは発見である。

しかし、上で触れたように、テクノロジーは力の増幅装置である。安全保障の専門家たちはハイテク化したテロリズムの危険を語ってきた。WMDは大量破壊兵器のことであるが、具体的には核・生物・化学の頭文字を採ってNBCと呼ばれる。核兵器には原子爆弾、水素爆弾、そして中性子爆弾がある。幸いにも、これらがテロリズムで使われたことはない。ただし、グレアム・アリソンは次のように言う。

一九九八年にウサマ・ビン・ラディンは「イスラムの核爆弾」と題する声明を出し、そのなかで「神の敵を恐れさせるためにできるかぎりの力を持って備えるのがイスラム教徒としての義務である」と宣言しています[20]

生物兵器と化学兵器は現実に事件で使われている。生物兵器については、9・11事件後に封筒に入った炭疽菌が郵送され、死者が出た事件が知られる。炭疽菌のほか、ツラレミア、コレラ、脳炎、ペスト、ボツリヌス菌、天然痘、ベネズエラ・ウマ脳炎、エボラ菌、マルブルク病、ラッサ熱、ボツリヌス毒素、ブドウ球菌、B型腸毒素、リシン、マイコトキシンなどが兵器として使われうる。化学兵器については1995年、オウム真理教が東京の地下鉄でサリンを発生させ、多くの死傷者を出した地下鉄サリン事件がある。ほかに、ソマン、タブン、VXガス、マスタードガス、ルイサイト、青酸ガス、塩化シアン、塩素、ホスゲン、クロロピクリン、MACE、催涙ガス、カラシ・コショウ・スプレー、ジベンゾオキザゼピンといった化学兵器がある[21]

上で言及した核兵器とは高いエネルギーの爆発を起こすものにかぎられる。そうでなくても、放射性物質は人体に毒である。その英語頭文字であるRと爆発物の頭文字EをNBCに加えて、CBRNEという言葉を使うことがある。B-NICEはCBRNEのRの代わりに放火のIを加えたものである。

2006年、元ソ連KGB職員アレクサンドル・リトビネンコがポロニウム210の中毒によって死亡した。翌年、イギリス政府は別の元KGB職員を容疑者として起訴し、ロシア政府に引き渡しを要求した[22]

また、汚い爆弾(ダーティボム)は使われたことはないが、放射性物質をまき散らす装置である。「靴箱にダイナマイト一本と放射性物質を入れただけのもの」もありえるとアリソンは言う[23]。これは大人数を殺すことはできないかもしれないが、放射能という得体のしれない物質によって恐怖感を与える。

さらに、原子力発電所を攻撃し、制御不能にして爆発させることが懸念されている。2011年に福島第一原発で津波がしたことと同じことを人の手ですれば爆発が起きる。

サイバーテロリズムはインターネットを通じた攻撃である。ホームページをダウンさせる程度のものであれば、テロリズムと呼ぶのは誇張であるが、コンピューターを操って、軍の装備や発電所などの機械を誤作動させることが可能である。

最後に、カウンターテロリズム、つまりテロ対策、について論じる。これもまた論争的である。安全をとるか、自由をとるか、は二者択一というわけにはいかない。安全は自由の前提ではあるが、人間は安全だけでは満足できない。結論は、安全も自由も両方、ということになる。

安全対策をしようとなれば、まずは法の網を整えよう、となる。グローバル社会では、他国の協力がなければ法の網は破れたままになる。国際的な取り組みと国内的な取り組みの両方を強化する必要がある。

国際的な取り組みでは、主な国々の間で合意を作ることが課題である。これが非常に難しい。9・11事件はそれができた類まれな例である。

大国が合意できた有名な例がもう一つある。ロッカビー事件、すなわち、1988年にパンナム機が爆破された事件、である。スコットランド上空で旅客機が爆破され、落ちた機体による地上の犠牲者を含めて270人が死んだ。国民に被害者が出たフランス、イギリス、そしてアメリカ合衆国はリビア人が犯人であるとして、彼らの引渡しをリビア政府に要求した。1992年、国連安保理は、まず、要求に応えるようリビアに求め(S/RES/731)、それが行われないと、リビアへの制裁を決議した(S/RES/748)。後者の決議の前文で、リビア政府がテロリズムを放棄しないのは「国際の平和及び安全に対する脅威を構成する」と認定された。最終的にイギリスに容疑者が引き渡され、スコットランドによる裁判が行われた。冷戦終結後、「新世界秩序」への期待が高まった特殊な時期の出来事であるにせよ、テロリストが平和的に裁かれた意義は重い。

国際的な合意を促すために、テロリズムを違法化する一連の条約が作られている。内容は、航空機の不法奪取防止(1970年)、国家代表等への犯罪の防止・処罰(1973年)、人質の禁止(1979年)、爆弾テロの防止(1997年)、テロ資金供与の防止(1999年)、そして国際組織犯罪の防止(2000年)と多岐にわたる。

国内的な取り組みとしては、カウンターテロリズムの実施がある。9・11事件を受けて、アメリカ合衆国は政府部局を改組した。2001年に国土安全保障局を設け、2年後には国土安全保障省に改めた。任務は、施設・電子情報の防護、感染症、入国管理・帰化、緊急事態、沿岸警備、輸送網、そしてシークレット・サービスに関する実務である。これまで他の官庁、すなわちFBI、国防総省、商務省、国立標準技術院、エネルギー省、調達庁、農業省、財務省、司法省、運輸省、連邦緊急事態管理局、入国不服審査会、とバラバラな所属であった部署が移管された[24]

9・11事件を受け、アメリカ合衆国では2001年、愛国者法が制定された。これは政府当局の捜査権を向上させたが、通信の自由を制限するものとして批判された。

出入国管理は国際テロリズムの実行犯を取り締まる基本的な取り組みである。出入国の審査を強化するため、PISCESというシステムをアメリカ合衆国は他国の空港などに置いて、テロリストを摘発する。個人情報を他国と共有して、旅行者のなかからテロリストを発見することが目的である。

日本の場合、2006年にIC旅券を導入し、パスポートに埋め込まれたチップに個人情報が記録されるようになった。翌年からは、外国人の入国審査において指紋と顔写真を撮っている。日本からアメリカ合衆国にビザなしで入国しようとする際に旅行者に義務づけられるESTAという電子渡航認証システムでの申請をはじめ、テロリズムの防止のためにさまざまな協力が行われている。

法令ばかりでなく、軍事もカウンターテロリズムの手段である。対テロ戦争は最大規模のものであったが、米軍はコロンビアやフィリピンをはじめとして世界各地に派遣された。外国軍によるテロリストの掃討は火に油を注ぐことになりかねない。国内に投入される場合でも、北アイルランドへのイギリス陸軍特殊部隊の出動は強い反発を受けた。

資金凍結という手段もある。テロリストはスポンサーからの報酬や費用を期待する。それが銀行口座に入金されないと、本人ばかりか自分が死んだ場合は遺族も生活に困るかもしれない。

開発援助が大事であるとも言われる。貧困そのものがテロリズムに向かわせるというより、貧困の原因を他人のせいにする言説が広まり、テロリズムを正義であると人々が信じることが危険である。開発援助は、自国が相手社会に敵対的でも無関心でもないことを示す証になる。国内で、個人や企業が寄付や喜捨をするのと同じ理由である。


[1] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 5, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[2] Benjamin Friedman, “Homeland Security,” Foreign Policy (July/August 2005), p. 22.

[3] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 28, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[4] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 29, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[5] U.S. Department of State, “Patterns of Global Terrorism, 2001, ” May 2002, http://www.state.gov/s/ct/rls/pgtrpt/2001/html/10220.htm, accessed on June 29, 2002.

[6] Jonathan R. White, Terrorism: An Introduction, 2nd ed. (Belmont: Wadsworth, 1998), p. 17.

[7] See White, Terrorism: An Introduction, p. 9.

[8] バーバラ・W・タックマン、『世紀末のヨーロッパ―誇り高き塔・第一次世界大戦前夜』、大島かおり訳、筑摩書房、1990年、73ページ。

[9] Koji Wakamatsu and Masao Adachi, Sekigun-P.F.L.P: Sekai Senso Sengen = Red Army / PFLP: Declaration of World War, 2009.

[10] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、235ページ。

[11] George W. Bush, “Remarks by the President In Photo Opportunity with the National Security Team,” Whitehouse, September 12, 2001, http://www.whitehouse.gov/news/releases/2001/09/20010912-4.html, accessed on November 18, 2001.

[12] ブッシュ、『決断のとき』、上、236ページ。

[13] The President, “President’s Address to a Joint Session of Congress and the American People,” Department of State, http://www.state.gov/s/ct/index.cfm?docid=4981, accessed on November 18, 2001.

[14] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 12, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[15] 板垣雄三編、『「対テロ」戦争とイスラム世界』、岩波書店、2002年、xxページ。

[16] アラン・B・クルーガー、『テロの経済学』、藪下史郎訳、東洋経済新報社、2008年、46ページ。

[17] Bureau of Counterterrorism, “State Sponsors of Terrorism,” United States Department of State, https://www.state.gov/statesponsorsofterrorism/, accessed on February 22, 2026.

[18] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 13, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[19] Development Services Group, Inc., “Annex of Statistical Information,” in Bureau of Counterterrorism, Country Reports on Terrorism 2023 (December 12, 2024), p. 56, United States Department of State, April 15, 2024, https://www.state.gov/wp-content/uploads/2024/12/2023_Statistical_Annex_Edited__508_Compliant-FINAL.pdf.

[20] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、265ページ。

[21] 米国司法省、米国危機管理庁、『米国 対テロ現場対応心得』、ぎょうせい、2002年、23-24、29-34ページ。

[22] Alan Cowell and Steven Lee Myers, “Britain Charges Russian in Poisoning Case,” New York Times, May 22, 2007, https://www.nytimes.com/2007/05/22/world/europe/22cnd-Litvin.html, accessed on February 22, 2026.

[23] アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、269ページ。

[24] “Analysis for the Homeland Security Act of 2002,” Whitehouse, http://www.whitehouse.gov/deptofhomeland/analysis/hsl-bill-analysis.pdf, accessed on December 3, 2002.

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武器移転と傭兵

人を殺したり、傷つけたりすることは特別なことであるはずである。よほどのこと、例えば疑いえない正義、のようなものがなければ、正当化の余地さえない。であれば、殺人や傷害のために使われた武器や兵士には罪があるのでなかろうか? 金儲けのために武器や兵士を売るならなおさらである。今回のテーマは、武器移転と傭兵(民間軍事会社を含む)をめぐる諸問題について論じなさい、である。

この70年あまり、現実に人を殺してきた武器は核兵器ではなく、小火器中心の小型武器であった。小火器といっても火を消すほうでなく、小型の銃器のことである。小型武器には、拳銃に始まり、ライフル、そして重機関銃までが含まれる[1]。自動小銃のロングセラー、ミハイル・カラシニコフが設計したAK-47、も小型武器である。自動小銃の特長は、誰でも使いこなせることにある。標的を倒すには一発の弾丸を命中させる腕前は必要ない。弾丸を連射しながら銃を振れば、弾幕が張られ、子供でも標的を倒すことができる。

小型武器と並んで規制が試みられるのが軽兵器である。軽兵器には携帯式地対空ミサイル(MANPAD)、対戦車誘導兵器、アンダーバレル擲弾発射器、自動擲弾発射器、非誘導対戦車ロケットランチャー、そして迫撃砲が含まれる[2]。MANPADはアフガニスタンにおいてソビエト連邦軍のヘリコプターを撃墜し、撤退に追いやった。ムジャヒディンにそれを供与したのはアメリカ合衆国のCIAである。映画『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』は供与に尽力した下院議員を描いた。皮肉にも、9・11事件後、合衆国の側がMANPADの恐怖におののくことになる[3]

小型武器と軽兵器は工場で製造される武器である。厄介であるのは、一般人でも自作できる武器があることである。特にIED、つまり即製爆発装置、は自作の爆弾であり、街なかでのテロリズムに使われる。国際連合の決議などで紛争地への武器の流入を止めても、現地で作られてしまう。イラク戦争では反乱側がIEDを使い、米軍を悩ませた。

最近の紛争で必ず話題になるのがドローンと呼ばれる無人機である。その存在は1990年代、アメリカ合衆国が攻撃用ドローンMQ-1プレデターを使い始め、知れ渡った。その後、偵察用のRQ-4グローバルホークと攻撃用のMQ-9リーパーという大型ドローンが米軍によって配備された。他方、イスラエルは自律的に目標を発見して自爆し、それを破壊するハーピーという新しい概念の兵器を開発した。現在は多くの国が、高性能か低性能かを問わず、多種多様なドローンを進化させている。ウクライナ戦争では、イラン製のドローンをロシアが大量に使用した。

小型武器と軽兵器の問題点は、貧しい土地の紛争当事者でも安く買え、禁輸の網をかいくぐり入手しやすいことである。日本の外国為替及び外国貿易法(外為法)をはじめ、各国には武器の輸出にたいする規制がある。ところが、合法的な送り先への正規の輸出と見せかけ、紛争地の違法な行き先へと武器が横流しされている。製造者は合法的な取引であると信じていても、ブローカーが証明書類に記載された目的地とは異なる行き先に密輸してしまう[4]

武器を密輸するために、輸送に使う飛行機や船を違法にチャーターしなければならないかもしれない。違法行為は黙認されることもあるし、場合によっては、目こぼしされるかもしれない。諜報機関が密輸に関わることもあろう。この手の武器供与は、国益・正義・自由といったきれいな言葉で正当化される。『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』におけるムジャヒディンへの援助がそうであり、供与側の国民も支持しかねない。武器移転が絶えないのには、根深い背景がある。

闇の武器移転がなぜ問題かというと、小型武器・軽兵器そのものが人を殺すというよりも、無責任な取り扱いが多くの命を奪うからである。2017年時点で、世界には10億丁の火器があったとされるが、うち4割はアメリカ合衆国の文民の所有であり、軍の所有は13パーセントにすぎない[5]。他方、火器による死者は、その翌年である2018年のデータでは、世界全体で223,300人いて、アメリカ合衆国は12,332人、南米は75,743人、アフリカは43,276人、中米・カリブは39,389人である[6]。ラテンアメリカとアフリカは火器の所有率は高くないにもかかわらず、火器を使った犯罪と紛争が多発している。

殺傷に使われた武器は闇から闇へと世界を巡る。実際、戦争で捕獲された兵器が諜報機関によって別の紛争地に供給されたという噂は少なくない。足がつかないように、ソ連製の武器をCIAやモサドがどこかの武装集団に供与した、といった類のものである。紛争後には、使われた武器を回収するべきである。

DDRという用語は、武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、そして再統合(Reintegration)の頭文字である。Disarmamentは国家が行うと「軍縮」と訳されるが、武装集団が行う場合には武装解除のほうがしっくりいく。動員解除も古い言い方では「復員」というが、若者はこの言葉を知らないかもしれない。再統合は社会復帰のことである。元兵士が新しく仕事を見つけるために、例えば大工仕事といった職業訓練を施すようなことが含まれる。

武器貿易条約(ATT)は、無責任な武器移転を止める切り札として作られた。2013年に国連総会で採択され、翌年、発効した。小型武器・軽兵器を含む通常兵器の輸出入データ提供を締約国に求め、特定の場合におけるそれらの移転を禁止する内容である。特定の場合とは具体的に、国連安全保障理事会による措置に違反する場合、国際合意に違反する場合、そして、ジェノサイド・人道に対する罪・ジュネーブ条約違反・文民攻撃などで使われるとの情報がある場合のことである。

武器貿易条約がなかった時代にも、武器移転を管理しようとする試みはあった。輸出入データについては、国連は軍備登録制度を運営している(https://www.unroca.org/)。1991年にECと日本が主導して国連総会決議「軍備の透明性」(A/RES/46/36L)が可決され、戦車、装甲戦闘車両、大口径火砲システム、戦闘用航空機、攻撃ヘリコプター、軍艦、そしてミサイルおよびその発射基の移転について国連への報告を促した。小型武器と軽兵器は任意で各国は報告することができた[7]。紛争地への影響について考慮を求める国連決議も存在した[8]

日本の場合、輸出管理の長い歴史があり、紛争との関連はその一環で考慮された。武器輸出三原則は1967年に佐藤栄作総理大臣によって表明された。第1は共産国向けの輸出であり、すでに冷戦下における西側の一員として対共産圏輸出統制委員会(ココム)に加わっていた日本には目新しいのものでなかった。これにたいし、第2の国連決議により武器等の輸出を禁止されている国向けの場合と、第3の国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けの場合は、国際情勢に反応した時宜を得たものであった。前年に、国連安保理はアフリカ系住民を差別する南ローデシア(現在のジンバブエ)への武器の輸送を禁止する決議S/RES/232を行っていたからである。

1976年、三木武夫総理大臣が表明した政府統一見解によって、武器輸出三原則はまったく別物になった。三原則対象地域以外についても、武器の輸出を慎む、と決め、事実上すべての移転が禁止されたからである。これにより、日本は「死の商人」という汚名にまみれることはなくなったが、防衛産業は狭い国内市場で採算をとらなければならなくなり、割高で実戦使用のない兵器を国民は買わなければならなくなった。日米安全保障条約という強いきずなを持つアメリカ合衆国への技術移転や国際平和協力への貢献といった特例的な武器移転が場当たり的に認められていった。

安倍晋三内閣のもと、2014年に閣議決定された防衛装備移転三原則は、佐藤内閣、三木内閣、そしてその後の諸例外を整理し直したものと理解できる。禁止される移転先は、時代遅れの対共産圏向けから国際約束違反の場合へと改められたが、第2の安保理決議違反と第3の紛争当事国向けの原則は同じである。かつては例外とされた国際平和協力と国家安全保障の目的の移転は、晴れて認められたが、厳格な審査に付される。新たな原則として、移転先の政府に日本の事前同意がなければ目的外使用と第三国移転を許さないことが加えられた。

防衛装備移転三原則は、国際共同開発や安保協力をつうじた武器の輸出を可能にし、衰えた日本経済を救ってくれると期待された。2015年には、装備品についての国際協力を図るため、防衛装備庁が設立されている。

ところが、安保協力をつうじた武器輸出の大型案件になると期待されたオーストラリアへの潜水艦売却の商談は他国にさらわれてしまった。オーストラリアはその後も有力な取引先とみられているが、日本とはクアッドという日米豪印の首脳外交でパートナーを組むだけで、同盟国というわけでない。オーストラリアと似た立場のイギリスおよびイタリアと日本が共同開発する戦闘機を第三国に輸出できるかも議論された。

2022年には、ロシアに攻撃されたウクライナを支援するため、日本は防衛装備品である防弾チョッキを戦地に送った。そこは禁止されている紛争当事国でないか、と批判されても防弾チョッキならば、殺傷性はない、と反論できた。

防衛装備移転三原則が作られ10年が経つ。移転の基準はなし崩し的に曖昧になっていないか? 日本政府の「原則」は、国会の承認もなく、閣議決定だけで変えられる。この国の政治風土として、形式的、技術的に可否を判断しようとする法学部的発想があり、もっともらしい「原則」が一応、作られる。しかし、紛争にどう向き合うか?、というのは倫理学の問題であり、安保協力をどれだけ重視すべきか?、は国際関係論の問題である。武器を輸出して衰退から脱しよう、という経済的観点の妥当性からして問われるべきである。閣議決定だけで事を済ませようとするのでなく、立法府・司法府を含めた三権分立の原則に基づきチェックを加えるべきである。

世界の武器輸出は安保理常任理事国をはじめとした大国が売上高の多くを占める。大国は経済的・軍事的観点から、武器輸出を止めるつもりは毛頭ない。国力が強く、安保理の拒否権まで持つ大国に取引をやめさせることはきわめて難しい。紛争地での代理戦争、国家間の軍事的緊張、あるいは軍事費の増大による人々の貧困の一因はまさに武器貿易であるにもかかわらずである。

軍産複合体という言葉がある。1961年、アメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は退任時の演説で、民主主義が軍需産業に脅かされていると警鐘を鳴らした。

巨大な軍部と巨大な軍需産業とのこの結合はアメリカ人にとって新しい経験である。その全面的な影響力――経済的、政治的、さらには精神的なものも――があらゆる都市に、州政府に、連邦政府機関に認められる。―中略―われわれはその重大な意味の確認を怠ってはならない。―後略―

政府内の諸会議において、この軍産複合体が不当な影響力を、みずから求めたと否とにかかわらず、手に入れることがないよう、われわれは警戒していなければならない[9]

もちろん、これはスピーチライターが書いたものであるが、アイゼンハワー大統領自身、軍需産業の影響を認めたからこそ自らの口で原稿を読んだ。この部分に続いて、政治が科学技術エリートの虜になる危険を語ったが、聴いた者は核兵器やミサイルの開発を思い出したであろう。

傭兵とは、義務によるのでなく金銭によって雇われる兵士または軍隊である。志願兵も金銭によって雇われるといえるが、傭兵は比較的に短期の雇用であるか、外国に雇われるかする点で一般の志願兵と区別される。

歴史、特に西洋史、にはたびたび傭兵が登場する。古代ギリシャでは、哲学者クセノポンが率いる傭兵隊がペルシャから逃げた。中世の末期には、領邦君主の臣下であった家士が独立し、傭兵騎士として活躍するようになった。近代の入口では、スイス傭兵やドイツのランツクネヒトといった槍兵の雇用が普及した。そのころ、最も有名な傭兵隊長であったアルブレヒト・フォン・バレンシュタインは、ビジネスとしての戦争に成功し、金融、調達、そして徴税にわたる財務システムを構築した。アメリカ独立革命が起こると、鎮圧のためにヘッセン傭兵をイギリスは派遣した。インドの植民地支配のためには、セポイやグルカといったアジア人の傭兵が使われた。現代では、フランスの外人部隊が知られる。

近代に先立つ傭兵のイメージは好ましいものでない。金銭欲が強い一方で、茶番というか、なれ合いというか、本気で戦わないという評価が定着している。ロジェ・カイヨワの文章を引用する。

一般に、戦いは多くの死者をともなうものではなかった。―中略―傭兵たちの戦いかたには戦意がなく、一度敵と遭遇すればたちまち部署を放棄した。彼らの行なう戦いは、しばしばみせかけだけのものだった。合計二万の軍勢が四時間にわたって戦いながら、わずか一人の戦死者しか出なかったという例を、マキャヴェリは引いている。しかもそれは、落馬したためだったという[10]

なぜ、こうした語られ方がされるかというと、フランス革命に始まる徴兵制の優秀さを強調するためである。カイヨワは次のように述べる。

法のまえでの平等は、兵役義務の平等でもあった。徴兵制という考え方も、国土防衛の必要にせまられて生じたものでなく、共和国を強化するという意志から生まれてきたのであった。そのころ、軍隊は民主主義の学校とされていた。将校は、兵士によって選ばれた。新兵たちの熱意は、軍人としての熱意よりも、祖国を愛する市民としての熱意であった。暴君を打ち、自由を護り、国のために尽くすことこそ問題であった[11]

確かに、徴兵制が1793年に導入されてから、フランス軍は驚くほど強くなった。ナポレオンがなぜヨーロッパを制覇できたか?、を説明するには市民の心に灯った愛国心はもってこいの原因である。忘れられがちであるが、傭兵の時代と徴兵制の時代の間には貴族の職業軍人から成る常備軍の時代があった。彼らの質がそれほど劣っていたとは思えない。むしろ徴兵制の特長は質ではなく量である。革命後の長い戦争で職業軍人が死に絶えても、国民皆兵であれば兵士を補充できたからである。

このように理解すると、ナポレオン戦争や2度の世界大戦のような消耗戦でなければ、傭兵にも活躍の場があることになる。現代の民間軍事会社(PMCまたはPMF)は実際、ワンポイントで依頼に応える少数精鋭の集団である。南アフリカ軍の元将兵が集ったエグゼクティブアウトカムズ社(EO)はアンゴラ政府やシエラレオネ政府の求めで戦った。ミリタリープロフェッショナルリソーシズインコーポレーティッド社(MPRI)はボスニアヘルツェゴビナのクロアチア系住民を訓練した。ブラウン&ルートサービシズ社(BRS)は米軍の大手請負であるハリバートン社の子会社で、コソボ難民を守る後方支援をした[12]。ワグネルはロシア政府のお抱えで、2022年のウクライナ侵攻における主力の一つであった。

民間軍事会社はカネさえ払えば、厄介なことはすべて引き受けてくれ、便利である、と考えられている。兵士を募集し、武装させ、訓練をするのには手間がかかる。交戦法規を守らせなければならないし、年金も払わなければならない。

特に、国連は国家と違い、自ら兵士を募ることができないので、部隊を派遣する困難はいっそう大きい。ルワンダ虐殺の際、国連はそれを止める措置を何も打てなかった。事務総長になるまえのコフィ・アナンは平和維持活動担当の事務次長であったが、ルワンダで傭兵を使うアイデアを持っていた。そのことを緒方貞子は明かす。

この間に、アナン事務次長は、英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員が一九八一年に設立したディフェンス・システム社(DSL)に、民間委託するという選択肢も可能であると教えてくれた。

―前略―DSL社が見積もった費用は、向こう二年間で約二億五〇〇〇万ドルであった。私はこれほど巨額の資金をドナー国から調達するなど、到底できないとわかっていた。それに政治的・人道的性格を合わせもつこの作戦が失敗した場合、民間会社はどういう形で責任を負えるのか、私には見当がつかなかった[13]

殺すにせよ、殺されるにせよ、紛争地での作戦には命がかかっている。依頼する側に、緒方が言う通り、相応の責任が降りかかる。

研究者のピーター・W・シンガーは、民間軍事会社の六つの性格を指摘した。第1に、紛争地の外から来た外国人である。第2に、国家から独立し、契約のみに縛られる。第3に、動機は経済的なものである。第4に、兵士の募集は遠回りな方法で行われる。第5に、組織は一時的である。第6に、任務は戦争のみである[14]。要するに、経済的な、金銭的な動機だけに忠実であり、現地の人々や国際法はもちろん、場合によっては国家その他の雇用主さえ裏切るかもしれない。

いわゆる愛国心が民間軍事会社にはない、ということだけでも、さまざまな懸念を呼び起こす。紛争を長期化させるのではないか? であれば、平和が脅かされる。国家を乗っ取って搾取するのではないか? であれば、主権が脅かされる。現地社会を混乱させるのではないか? であれば、安定が脅かされる。人道法や戦争法を破るのではないか? であれば、法の支配が脅かされる。政府に戦争を行わせるロビイングをするのではないか? であれば、民主主義が脅かされる。

民間軍事会社が起こした無責任な行為は実在する。一つは赤道ギニアクーデター未遂事件である。2004年、イギリスの特殊部隊SASの元将校で、エグゼクティブアウトカムズに勤めたことがあるサイモン・マンらが赤道ギニアのクーデターを共謀した。一味はジンバブエ防衛産業から武器を買って決行に備えた。ところが、ロゴロジスティクス社の傭兵70人がジンバブエで逮捕され、企ては失敗した。これに加担したマーク・サッチャー(マーガレット・サッチャー元イギリス首相の息子)にも有罪判決が下された[15]

次の事件はイラクで起きたブラックウォーター事件である。ブラックウォーター社は米軍から請け負った民間軍事会社である。2007年、正当防衛というわけでもなく、市民17人をバグダッド市内で殺害した。ブラックウォーターはアメリカ合衆国国務省と蜜月の関係にあるため、犯罪がもみ消される傾向があったとされる[16]。『朝日新聞』は次のように解説する。

イラク戦争後、米軍人に刑事・民事上の免責特権を与えた「暫定占領当局(CPA)指令17号」は今も有効とされる。米政府の契約業者の民間人にもそれは適用されると解釈され、イラクの法律に対しては治外法権を振りかざせる。軍人の行き過ぎた武力行使や私的な暴力は、イラクで免責されても、米国の軍法会議にかけられる。だが、ブラックウォーター社のように国務省の契約業者を規制する法はない[17]

正規の米軍ならこのような非人道行為をしなかったのでないか、と言われる。正規兵に対しては軍事裁判の制度がある。ブラックウォーター社は社員も、組織も、法令順守の意識がおろそかであったのであろうが、そのような会社に委託した、国家としてのアメリカ合衆国にも責任がある。企業と国家の側の責任意識が一般的に希薄であったとしたならば、事件は氷山の一角であった可能性がある。当時、イラクでどのくらいの民間軍事会社が活動していたのか、スティーブ・ファイナルは次のように見積もる。

イラクの傭兵の数は、はっきりわかっていない。国際平和活動協会やイラク民間警備会社協会(PSCAI)のような連合組織や同業者組織ができても、変わりはなかった。こういった組織の幹部やロビイストたちは、結局は金のために戦争をやる傭兵だろうと指摘されると、青筋を立てて怒る。推定数は二万五〇〇〇人ないし七万五〇〇〇人もしくはそれ以上というように、たいへん幅がある。国防総省は二万五〇〇〇人と推定している。金で雇われ武装してイラク各地で活動している人間が、一個師団分いることになる。会計検査院の推定はその倍近い四万八〇〇〇人である[18]

イラクで民間軍事会社の社員は遊び半分に罪のない人々に発砲していた、という報告がある[19]。身内や知人が殺された市民は占領軍に敵意を抱く。この敵意が自爆テロを含む激しい抵抗の一因であったことは否定できない。憎しみの連鎖は拡大し、多国籍軍やその傘下の兵士だけでなく、その他の外国人や一般市民も殺したであろう。

最後の事件は、ロシアで2023年にクーデターを企てたワグネルの乱である。ワグネルとはウラディミル・プーチン大統領の側近であったエフゲニー・プリゴジンが創設した民間軍事会社である。ウクライナ戦争にはロシア軍の一翼として参加した。アフリカでも広範な活動をしていることで知られる。2023年6月、ウクライナで苦戦する理由を国軍指導部に帰し、モスクワに進軍しようとした。民間軍事会社に頼りすぎれば、ロシアさえ脆弱国家に成り下がりかねない。 武器にせよ、兵士にせよ、無責任な移転は多くの人命を奪うことになる。


[1] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” The Small Arms Survey, June 2008, pp. 8-9.

[2] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” pp. 8-9.

[3] Mike Nichols, Aaron Sorkin, Tom Hanks, Julia Roberts, Philip Seymour Hoffman, and George Crile, Charlie Wilson’s war, 2018.

[4] Small Arms Survey, “Small Arms Survey 2008: Chapter 1,” pp. 115-122.

[5] Small Arms Survey, “Small Arms Survey reveals: More than one billion firearms in the world,” The Small Arms Survey, June 18, 2018.

[6] Small Arms Survey, “The Small Arms Survey’s Global Violent Deaths (GVD) Database, 2018,” The Small Arms Survey, August 2020.

[7] “About,” The United Nations Register of Conventional Arms, https://www.unroca.org/about, accessed on February 22, 2026.

[8] For example, A/RES/43/75I.

[9] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、218ページ。

[10] ロジェ・カイヨワ、『戦争論』、秋枝茂夫訳、法政大学出版局、1974年、26-27ページ。

[11] カイヨワ、『戦争論』、120ページ。

[12] P・W・シンガー、『戦争請負会社』、山崎淳訳、NHK出版、2004年。

[13] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、241ページ。

[14] シンガー、『戦争請負会社』、101ページ。

[15] “Equatorial Guinea Questions Thatcher over Coup,” The Guardian, February 18, 2005, http://www.guardian.co.uk/equatorialguinea/story/0,15013,1417428,00.html, accessed on February 22, 2026.

[16] スティーヴ・ファイナル、『戦場の掟』、講談社、2009年。

[17] 『朝日新聞』、2007年10月12日、朝刊、6ページ。

[18] ファイナル、『戦場の掟』、56ページ。

[19] ファイナル、『戦場の掟』、67-68ページ。

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南北問題
https://youtu.be/3Lm2lZn0ePE 南北問題という言葉の由来は、ロイズ銀行頭取オリバー・フランクスが1959年に開発途上国を「南」と表現したことにある。フランクスはイギリスの駐米大使を務めたことがあり、世界情勢に明るかった。「南」は最近、グローバルサウスと呼ばれる。地球の南部とわざわざ書き加えるのは、例えばアメリカ合衆国のそれのようなほかの南部と紛らわしいからであろう。今回のテーマは、南北問題の発生とそれに…
朝鮮戦争
冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて…
会議外交
https://youtu.be/QMvumq8NaYA 永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。 今回のテーマは、19世…
ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
核軍縮・軍備管理レジーム
唯一の被爆国である日本は核軍縮から腰が引けていて、「究極的廃絶」とか、「現実的かつ漸進的なアプローチ」とか、「実際的かつ効果的な措置」とか唱えている。一歩ずつ進んでいこう、という趣旨であろうが、日暮れて途遠しの喩えどおり、ゴールにたどり着くか疑わしい。その点では、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領が唱えた「核兵器のない世界」も大差なかった。日米の核軍縮政策の実態は、廃絶でも虐殺でもなく、「核兵…
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