(表紙の画像はAIによって作成された)
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、吉田松陰が伊藤博文を「周旋の才あり」と評したそうだ。元ネタは何かな、と思ったが、そういう趣旨を松陰が書いた手紙があるそうだ(伊藤之雄、『伊藤博文』)。後世から見れば、伊藤のキャラクターを決定づけるほど的を射た評価だ。彼は計算高いが、亡くなるまで自方に損な取引はしなかった。しかし、第2次日韓協約ほど、この才能が痛惜な結果をもたらした例はなかったろう、と後世に生きる私は感じる。
教科書での関連する記述

教科書
まず1905(明治38)年、アメリカと非公式に桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定(第2次)して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。これらを背景として日本は、同年中に第2次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、漢城に韓国の外交を統括する統監府をおいて、伊藤博文が初代の統監となった。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 263。
教科書
朝鮮半島では、日本は日露戦争開始以降、3次にわたる日韓協約を結ぶなかで統監府を設置して韓国を保護国化し、支配を強めた。
木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 272。
保護国化のご都合主義
日本史教科書を読んで分かるように、保護国化=第2次日韓協約=韓国保護条約だ。その条文を『日本外交年表並主要文書』で確かめよう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3024866/1/274
(館内のみ無料)
保護国化とは韓国から外交権を奪ったことだった。日本史教科書は親切にも、米英も協力したことを、桂・タフト協定と第2次日英同盟に触れて教えてくれる。事実だけを淡々と伝えて、「自虐」にならないよう気をつけているのだろう。自虐と自省は違うと思うのだが……
あるいは、保護国化と直接統治とでは大差があるという考え方もあるかもしれない。保護国化の影響は対外関係中心に発生するにすぎず、現地の制度や文化を根絶やしにする直接統治とは区別できる、とみなせばだ。モロッコやトンガの王室のように李朝が存続していたら、創氏改名もなかったろう。
しかし、保護国化から併合まで短期間で進んだことを考えると、李朝の存続に意義があると日本政府が見ていなかったことは明らかだ。
保護国化は一時的な落としどころだったのだろう。軍部にとっては、満洲の植民地を守るため、他の列強を排除した橋頭保が絶対に必要だった。他方で、英米はじめ列強は半島における日本の経済的独占を許さないので直接統治は選択肢から排除される。しかも、いきなりそれを強行すれば韓国の民衆を立ち上がらせ、治安を悪化させてしまう確率が大だった。
伊藤博文個人は伊藤之雄氏の言うように理想の韓国統治を目指したかもしれない(『伊藤博文をめぐる日韓関係』)。しかし、自力で韓国をわが物としたのだから、と考えた陸海軍と内閣は、保護国化をゴールと考えなかっただろう。
伊藤博文の説得
韓国側は、なぜこんな保護国化を受け入れたのか? 受け入れてない、という答えが一方にある。協約の無効論には、強制があったという説と締結手続きに瑕疵があったという説がある。日本側では有効論が強いので、ナショナリズムともからんで、論争は尽きない。国際法の論争については海野福寿氏の『韓国併合史の研究』が詳しい。
韓国の皇帝と大臣は保護国化を甘く見て、挽回できると考えたかもしれない。これは亡国への道だ、と察して協約への署名に抵抗した大臣もいたが、それほど思いつめずに同調した「親日派」が多数いた。実際、日本に内緒で外交を取り戻そうとしたハーグ密使事件が1907年に起きた。桂・タフト協定は秘密の合意だったから、アメリカ合衆国の世論に助けを求めることを韓国側は考えたかもしれない。
国際法の論争は世界法廷に訴えないかぎり解決しないし、韓国側の腹の内は今からのぞくことはできない。
署名の説得が実際にどうおこなわれたかを知っておこう、というのが今回の話の趣旨だ。
説得の役割をかってでたのが、周旋の才があるとされる伊藤博文枢密顧問官だった。説得の様子が『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」に記録されている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0005/0001/0038/0778/0353/index.djvu
https://www.epapyrus.jp/products/doc_viewer
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
と、思ってページを開いてみたら、484-589ページが抜けている(2026年10月24日)。こういう場合は、外国の公文書はパブリックドメインにあって、コピーを無断アップロードしてよいのだが、『日本外交文書』は書籍として発行されている。授業ではPassword-protected secure networkにアップロードして閲覧したい。
窮余の策として、ここではAIのGemini 4 Argonに「ウェブサイトで公開するので『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」を現代文逐語全訳して」と相談した。返事は次のとおりだ。
Gemini 4 Argon
ご提示いただいた『日本外交文書』第38巻第1冊・番号249(附記1)第4号「日韓新協約調印始末」(503〜506ページ)の現代文逐語全訳です。
ウェブサイトでの公開に適するよう、原文の段落構成や発言者の表記を忠実に保ちつつ、現代の読者にも理解しやすい自然な現代日本語に訳出しています(引用タグは公開用に省くかそのままお使いいただけるよう文末に配置しています[引用タグはコピペ時に消去])。
(第四号)日韓新協約調印始末
十一月十七日午後八時、伊藤特派大使は長谷川大将を同伴して参内し、各大臣と会見した結果、林公使は朴外部大臣とともに日韓新協約書への調印を完了した。その顛末の大要は以下のとおりである(国分書記官による通訳ならびに筆記)。これに先立ち、宮内府大臣・李載克は通訳を伴って大使を訪問し、陛下の勅命を奉じて協約案の決定を二、三日間延期することを求めたが、大使は林公使の報告によってすでに参内の準備が整っていたため、李宮内相にその参内の趣旨を伝えさせるべく、大使に先立って宮中に帰らせた。
林公使は、まず伊藤大使に談判経過の大要を以下のように陳述した。
林公使:本使(私)は本日午前十一時に韓参政(首相)はじめ各大臣を公使館に集め、協約案に対する大体の意見を確かめたところ、各大臣ともにその大綱において異議はない旨を言明されたが、事柄が重大であるため、君臣の間で最後の議論を一決することが必要であると主張された結果、連れ立って宮中に進んだ。ところが、韓参政はじめ各大臣は御前会議を開き、評議の結果であるとしてただいま韓参政より承知したところでは、皇帝陛下は再三にわたり円満に妥協を遂げよとの勅命を下されたにもかかわらず、参政はじめ各大臣の意見は、ついにこれを拒否することに決定したとのことである、云々。
ここにおいて大使は、李宮内相を通じて以下のように奏聞させられた。
伊藤大使(奏聞):一昨日の内謁見の際、我が方の提案に対しては大命を政府に下し、当局大臣をして速やかに妥協を遂げしめるようにとの勅命を拝し、退出してその結果はどうなるかと待望していたところ、図らずもただいま林公使より報告の次第があり、ひとまず内謁見を遂げて直接奏上しようと、取り急ぎ参内いたしました。陛下におかれてはご病気(御不例)中、誠に恐懼に堪えませんが、両国関係上の重大事件である以上は万やむを得ない次第ですので、願わくは御寝床のもとにお召しになり謁見を賜りますならば、これに勝る幸いはございません。
李宮内相は内殿に入って奏聞するところがあり、その勅答は以下のとおりであった。
皇帝陛下(勅答):朕は直ちに大使を引見すべきはずであるが、昨日大使が見られたとおり咽喉部に腫物を生じ、言葉を交わすのにすこぶる苦痛を感じるため、思うようにできないのを遺憾とする。協約案に至っては、朕の政府大臣をして商議・妥協を遂げさせようと思う。願わくは、卿(あなた)がその間に立って周旋し、うまく妥協の道を開かれんことを。
李宮内相は、またこれをもって各大臣に伝えた。
伊藤大使:予(私)が決して貴国の滅亡を強いるものではないことは、昨日すでに詳しく述べたとおりであるから、すでに諸君も諒解しておられるところであろう。しかるに勅命を奉ぜず、不忠であるがゆえに身を退くとの弁解であるが、これは政府大臣の職責を負う者のなすべきことではない。そしてその結果はどうなるか。上は陛下の御心(宸襟)を悩まし、下は国民の不幸を招くに至るものであって、つまるところ君主がどうなろうとも、国家がどうなろうとも顧みないということであり、ただ我が身の責任を免れようとの趣旨にほかならない。これはそもそも政府大臣たる者が甘んじてなすべきことであろうか。要するに、国家を処理するには果断を用いることにある。そうしないときは、国家の存亡興廃がこの一挙にかかっているのをどうするつもりか。そればかりか、ただいま陛下は勅命を各大臣に下して妥協を遂げよとのお沙汰であるのに、各大臣が無責任にもこの妥協を拒み、全面的にこの協約を排斥しようと試みられるようなことは、君臣の義において果たして妥当を得たものと言えようか。取りも直さず、自己の責任を逃れ、災い(累)を君主に及ぼすに等しい。ゆえにこの際、陛下が直ちに大命を当局大臣に下し、断じて本協約案に同意し速やかに調印を完了せよと命じられ、当局大臣がこれを奉行するか、あるいはまた、政府大臣が国家の利害に顧みてその意志を翻し、直ちに陛下の勅裁を仰いで決着をつけられるかの二つの道があるのみである。そしてその方法としては、首相たる韓参政が各大臣各自の意見を徴し、もし不同意を唱える大臣がいれば、それがどのような理由に基づくかをひとまず承知したい。
ここにおいて韓参政は、まず朴外相に向かってその賛否の意見を問うた。
朴外相:昨日林公使と会見した際にもほぼ私見(卑見)を述べておいたとおり、本協約案に対しては断然不同意であるため、これを外交談判として本大臣がその任に当たり妥協を遂げることは決してしないところであるが、もし命令となれば致し方ない次第である。
伊藤大使:そのいわゆる「命令」とはどのような意味であるか。陛下の御命令とあれば、これに服従して調印するとの御意見と解釈してよろしいか。
このとき朴外相は、図らずも「命令云々」という言葉で言質を取られたことを悔いる様子で、一、二弁疏するところがあったが、ついに前言を取り消し難いことを悟り沈黙した。
朴外相:(沈黙する)
韓参政:先刻林公使に向かって述べたとおり、我が陛下は貴方の提案に対し妥協を遂げよと再三お沙汰があったにもかかわらず、予(私)はこれを拒んだ。そして林公使が、勅命を奉じないのは不忠ではないかと詰問されるので、予もまた誠にそれが不忠であることを知るがゆえに、断然職を退き、処罰(斧鉞の誅)を請おうと思う。ただ願わくは、昨日大使へも哀訴したとおり、我が国の独立が自国の力によるものではないことをわきまえてはいるものの、せめてその形式だけでも残されることを切望する。また、その外交関係を形式の上で残すというのは、実に国体上、一縷(一線)の命脈を保全しようとの考えにすぎない次第であることを諒察されたい、云々。
伊藤大使:(朴外相に対し)しからば貴大臣は、絶対的に本協約案に反対と見なすことはできず、陛下の御命令が下れば調印されるものと見て差し支えないと信ずる。
韓参政は、その次席の閔度支部大臣に意見を求めた。
閔度相(泳綺):本大臣は、昨日大使と会見の席上、私見(卑見)を陳述する時間がなかったため何ら発言するところはなかったが、大体において本約案を否認するものである。
伊藤大使:しからば絶対的に反対される次第であるか。
閔度相:そのとおりである。
伊藤大使:しからばその次に移ろう。(韓参政は李法相を指す)
李法相(夏栄):本大臣は、昨日大使の御説明に答えた次第もあったが、なお思うに、日韓両国間にはすでに議定書が存在しており、これに次ぐに昨年七、八月頃に締結された協約をもってすれば、外交上の緊要なことはすべて貴国代表者の意見を聞くこととなっているため、今改めて新協約を締結する必要はないように思われる。
伊藤大使:それは昨日の御意見とは少し異動があると認められる。昨日の御意見では、新協約の締結を妥当と認められたかのようであったが、いかがかな。
李法相:そのとおりです。日韓両国間にはすでに外交に関する協約があるにもかかわらず、我が方において最近再三これに違背する行為をあえてしたのは我が方の失態であって、ついに貴国をして今回の提案を余儀なくさせたのは、返す返すも遺憾な次第である。これは自ら招いたものであって、誰を怨みようか。
伊藤大使:果たしてそうであれば、貴大臣の意見はひとまず本案に同意されるものと見て差し支えない。
李学相(完用):本大臣は、先刻の御前会議において意見を述べた次第を改めて再陳いたしましょう。今回の日本の要求は、実に大勢のしからしむるところである。なぜならば、従来我が国の外交なるものは変幻極まりなく、その結果、日本は前後二回の大戦争に従事し、多大の犠牲を払ってようやく今日における韓国の地位を保全したものであるから、もはやこの上、我が国の外交から起こる結果によって東洋の平和を乱し、再び危地に陥れるようなことは到底堪えられないところであり、今この要求を提出するのは万やむを得ない事情から出たものである。言い換えれば、我が国が自らこれを招いたも同然である。そして今や日本は、すでに決意するところがあってこの要求をあえてした以上、必ずその目的を達しなければやまないであろう。かつ、日韓はすでにその強弱を異にし、我にこれを拒否する力がない以上は、いまだ感情が衝突せず、いまだ時機が切迫していない今日において円満に妥協を遂げ、日本の要求を受け入れると同時に我が方の要求をも受け入れさせ、双方合意の上での締結をなすに越したことはない、と奏聞いたしました。これは昨日大使と会見した際、双方が円満に妥協を見ようということであれば、字句等には多少修正の余地があるだろうと承知したことによるものである。
伊藤大使:果たしてそうであれば、貴大臣は全面的に御同意と認める。
李軍相(根沢):本大臣は、先刻の御前会議において大体李学相の意見に賛同を表したが、最後に韓参政より貴方の提案を否認しようとの意見を主張されたことにより、連帯責任の実を挙げるため、ひとえに首相の意見に一任しておいた。
伊藤大使:貴大臣の意見も、別に御不同意と認めることはできない。
李内相(址鎔):本大臣は、つとに日韓提携を必要として日韓議定書を締結した当事者である。また今回の協約案においても、李学相と同一の意見を抱いている者である。
権農相(重顕):本大臣も御前会議において李学相の意見に賛同を表した一人である。そして協約案中のある点の修正を主張する者である。
伊藤大使:韓参政に一言申し上げる。貴大臣が見られるとおり、各大臣の中で我が方の提案に絶対的不同意説を主張されるのは、貴大臣と閔度相のみである。そうであれば、通常の採決の常規として多数決により、貴首相は本問題を全面的に可決したものと認め、必要な形式を備えて御裁可を請い、調印を実行される職能がある。しかるに実際の情況は以上のとおりであるにもかかわらず、閣下は本案を拒否し、ついに日本と絶交しようとの意志を表示されるのか。予は我が天皇陛下の使命を奉じてこの任に当たっている。諸君に愚弄されて黙っている者ではない。
韓参政:いや、決して日本を排斥し、もしくは日本と絶交しようなどとは思いもよらない。本大臣は幾度も言明したとおり、韓国の独立はひとえに日本の力によると、また日本を差し置いて韓国には保全の道がないことを熱心に主張する者である。しかしながらこの協約に至っては、あれこれと思い巡らせた(思慮百端)がどうにもならず、ついに我が意を翻すことができない。いわゆる「匹夫の志も奪うべからず」というもので、これは識見が乏しいことと時勢に通じていないことの致すところであり、そして我が陛下の聖旨に背き、また閣僚と意見を異にするに至った。よろしく進退を決し、謹んで大罪(処罰)を待つほかないであろう。心中を御推察いただきたい。(これにより、むせび泣く[歔欷涕泣する]に至った)
伊藤大使:お気持ちを深く察しないわけではないが、君国のためには身を挺し、涙を揮って決行する勇気がなければならない。
ついで大使は李宮内相に向かって、
伊藤大使:ただいま見られるとおり、内閣大臣のうち韓・閔両大臣を除き、他はすべて異議がない。とりわけ朴外相は、陛下の命令とあればこれに服従するとのことである。ただ二、三の大臣の中に修正の希望がある。この顛末をまず入奏(陛下に奏上)されたい。
このとき韓参政は、会議の席を立って別室に退いた。
李宮内相が入奏する前に、字句の修正・添削を施すよう李法相、李学相、権農相らが主張するところがあった。ゆえに大使はその希望を受け入れ、協約案第一条中「外国に対する関係及び事務を全然自ら監理指揮すべし」とあるうちの「全然自ら」を削除するようにとの李法相の提議を受け入れてこれを削除し、また新たに「第五条 日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証す」との一条を加えることを、権農相が我が天皇陛下の御親翰中に記してあるのを援用して主張したため、大使は自ら筆を執って記入された。また第三条中「統監は専ら外交に関する事項を管理するため京城に駐在し云々」の字句を挿入したのは、これは李学相の意見に基づき「内政に干渉せず」との字句を挿入するよう主張したものの、大使は「内政に干渉せず云々」の字句を残すことを避けようと努められ、ついに前述の文字を加えて折り合いをつけられた。そして協約全体にその有効年限を付記することを二、三の大臣の中で提唱した者があったが、林公使は固く執ってこれを受け入れなかった。ここにおいて、この修正約案を携え、李宮内相の要求により内閣大臣中の一名を同伴して入奏することとなり、李内相(址鎔)が同道して内殿に入った。
しばらくして李内相と李宮内相が出てきて、陛下は同修正案を満足に思し召して裁可を与えられるはずのところ、もう一箇条、陛下の御希望として「韓国が富強を成し遂げ、その独立を維持するに足る実力を蓄えるに至れば、この約案を撤回する」旨の字句を挿入することを特に大使に懇望される、とのお沙汰に基づき、大使は聖意を満足させるため自ら筆を執って協約書の前文中に「韓国の富強の実を認むる時に至る迄」の文字を加え、再び李内相と李宮内相をして天覧(聖覧)に供させたところ、陛下は特に満足である旨を仰せられた。ここにおいて朴外相は、その官印を外部の主任者に持参させるべき旨を電話で命じ、別室にて協約案の清書(浄書)に取りかかった。すなわち、日本語文は塩川・前間の両通訳官、韓国語文は内閣主事二人が担当して清書した。(このとき大使は別室で韓参政に会って慰諭するところがあり、宋の末路における文天祥の故事を引き合いに出し、国家の柱石の臣たる者が国事に対処することの困難を説いて懇ろに慰労されると、韓参政は深くこれに感謝した)
以上をもって一切円満な妥協を見たため、酒や菓子などの饗応があった。 大使は調印のため林公使をその席に留めることとし、各大臣に別れを告げて宮中を退出されようとするにあたり、皇帝陛下は特に李宮内相をして以下の勅語を伝えさせられた。
皇帝陛下(勅語):今ここに新協約の成立を見るに至ったのは、両国のために慶賀すべきことである。朕は病身のためいささか疲労を覚えたので、これより寝に就くこととする。卿もまた老体の身で深夜(深更)に及び、さぞ疲労を感じたことであろう。帰館して速やかに寝に就かれよ。
大使が宮中を退出されたのは十八日午前零時二十分、林公使が朴外相と協約の調印を完了したのは同日午前一時である。
私には伊藤博文の説得が緊迫感を作りだし、署名を急かせようとしたものに感じられる。皆様の感想を伺いたい。
言葉も文化も違う外国人に彼の周旋テクニックが通じたとは思えない。よしんば大臣たちへの説得が成功だったとしても、外交は相手の国民を説得しなければならないものだ。その後、頻発することになる民衆の抵抗運動は保護国化の計画がそもそも実現不能だったことを証明した。
イギリス外交官はどう見たか
https://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C3653622
第2次日韓協約をアジアに駐在するイギリス外交官はどう見たか? イギリス国立公文書館(TNA)の外務省文書FO 881/8703で追う。
伊藤はソウルに出発するまえ、イギリスの駐日大使に自らの役割を語った。保護国化の手本はイギリスだ、と言ったのだ。それを聞いたクロード・マクドナルド大使自身が有能な植民地経営者だった。 まるで、冒険をともに楽しむ仲間のようだ。エジプトでイギリスがどれだけ血を流してきたかを伊藤は知っていたのだろうか。知っていたとしても、関心外だったのだろう。
イギリス駐日公使
Marquis ITO informed me this afternoon in the course of an interview that the Japanese Goverrnment had decided to approach the Corean Government with a view to entering into an agreement for taking over the foreign relation of that country. He was now proceeding to Corea mainly for this purpose, so as to explain the situation to the Corean Emperor and Government.
The Marquis insisted that he had no intention of interfering in any way with the functions of the Japanese Minister in Seoul, and he would not negotiate or sign the Agreement, but would confine himself to paving the way and explaining matters.
His Excellency further mentioned that before long a high official will doubtless be appointed as Resident or High Commissioner, with functions and powers similar to those exercised in Egypt by Lord Cromer.
The foregoing is confidential.
Sir C. MacDonald to the Marquis of Lansdowne, 1 November 1905, FO 881/8703, p. 24.
調印までの経過については、ジョン・ジョーダン駐韓弁理公使の報告がある。「日韓新協約調印始末」に対応する箇所を引用する。こちらの情報源は主に韓国側だという。
イギリス駐韓弁理公使
It should be mentioned that the approaches to the Palace were strongly guarded by Japanese gendarmes, that Japanese troops patrolled the streets all the day, and that a very formidable display of force was visible in all the more important quarters of the city.
In response to Mr. Hayashi’s summons, Marquis Ito and General Baron Hasegawa, attended by the members of their respective suites, arrived at the Palace shortly before midnight, and a peremptory request was made for an audience, coupled with at intimation that, if it were refused, they would proceed by force into the presence of the Emperor. This produced the desired effect, and all the members of the Cabinet, with the exception of the Prime Minister, who seems to have found refuge in an opportune fit of mental derangement, agreed to the Japanese demands. A telephone message was sent to the Foreign Office for the seal, and the Agreement was signed at 1·30 this morning.
Sir J. Jordan to the Marquis of Lansdowne, 18 November 1905, FO 881/8703, p. 49.
これを強制と呼んでよいのか? 宮殿と街が軍隊に制圧されていたのをどう評価するか? 皇帝に謁見してはなぜいけないのか? 必ず意見が分かれる論点なので、私自身は判断しない。ソウルという街は数十年間、政争ですさんでいたので、一触即発の何かがあったかもしれない。
アナロジーを使えば、王政復古の大号令を発した京都御所と同じ状況だった。雄藩の兵隊が、旧幕府への温情を求める松平春嶽と山内容堂を黙らせた。「玉」すなわち君主を手中に収めてしまえば、重臣たちは言われるがままだ。体のいい人質になるだからだ。言うまでもなく、主権国家を相手にした政略ではない。
外交権の東京への移動にともない、ソウルにあったイギリスの公使館は撤収し、同国は領事館を残すだけになった。イギリスは日本政府の方針に当然のごとく従っている。本当は、第三国と韓国との紛争でイギリスは周旋の労をとる、という条約が19世紀に結ばれていた。なんでそれをしてくれないのか、という韓国側の抗議は黙殺された(FO 881/8703, pp. 35-37)。
まとめ
「日韓新協約調印始末」では、協約の署名に反対した韓国の首相を、伊藤は南宋の政治家、文天祥、の名を挙げて慰めた。モンゴルの侵略に最後まで抵抗し、殉じた愛国者になぞらえたのだ。文天祥の「正気の歌」を愛吟したのは幕末の志士たちだった。愛国心に異なるところがあろうか? 雲の上の高みから見下ろす伊藤に、坂の下で斃れた攘夷の同志たちはいかに見えたろう。文明化が激しく非難される時代が来るとは想像もしなかったにちがいない。
過去課題
『日本外交年表並主要文書』で明治38年11月17日に調印された日韓協約を確認し、この協約下で韓国と第三国との関係において「統監」が果たす役割をあなた自身の言葉で解説したうえで、韓国の国益はそれで十分に実現されるのかについて議論しなさい。
『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」において、伊藤博文は「普通採決ノ常規」と称し、多数決で可決したと言っているが、各大臣の発言内容や閣議の状況からいって賛成と反対は何人対何人であったとあなたは考えるか? どの大臣が賛成でどの大臣が反対かをできるだけ理由を示して特定し、何人対何人であったかあなたの意見を書きなさい。
1905年までの時点で、いかなる人的犠牲をエジプトに与えながらイギリスはエジプトを植民地化し、統治したのか調べて解説しなさい。
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