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普遍的人権

人権外交について具体例に言及しながら論じなさい、というのが今回のテーマである。人権は市民革命の時代から、もっぱら国内の法規範であった。普遍的人権、というのは、それを万国、全世界に広げようという発想である。これもローズベルトの四つの自由が発端であった。それ以来、行われてきた人権外交は、壮大な人類の実験と呼んでよい。

第二次世界大戦後の秩序を、アメリカ合衆国では国務省が立案することになった。世界の憲法を作る意気込みであった。憲法の構成要素は権利章典と統治機構の二つに分けられる。世界の憲法であれば、もちろん統治機構は国際連合である。国際的権利章典の試案も実は国務省は1943年夏に作っていた。

そこから迷走が始まった。1943年秋にイギリスとソ連とともに発したモスクワ宣言において、国連の目的は、国際の平和および安全に限定された。アメリカ合衆国の国内ではNGOを中心に、人権を国連の柱としようとする動きが噴きあがった。ナチスによる焚書とホロコーストが正義心をかきたてたからである。1944年秋のダンバートンオークス提案に、経済社会協力を国連の一機能にすると盛り込まれたのは朗報であった。サンフランシスコ会議でもNGOは圧力を加え、人権に関する条項を国連憲章に記載させるのに成功した[1]

人権は数か所、国連憲章で言及されている。前文では人権への信念が確認され、第1条3では国連の目的の一つに数えられた。第13条1では総会によりその尊重が助長され、第68条では人権委員会が設けられることになった。ただし、第2条7では、国内管轄事項に国連が干渉する権限は否定される。ある問題が国際関心事項か、国内管轄事項かの振り分けは、加盟国間の政治によって決まることである。

NGOが最も重視していたのは人権委員会の立ち上げであった。挫折した権利章典を人権委員会に起草させようと目論んでいたからである。国務省は同委員会の委員長に前大統領未亡人のエレノア・ローズベルトをすえた。彼女は政治経験があり、この分野に通じていた。世界人権宣言は完成し、1948年に国連総会で採択された。ただし、こうした総会決議には加盟国の行動を縛る法的拘束力はない。

法的拘束力がある条約によって人権を保障したい、という願望は絶えなかった。1966年に採択された国際人権規約は拘束力のある条約であるが、本当は2本の別個の条約である。A規約とも、社会権規約とも呼ばれる「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(ICESCR)と、B規約とも、自由権規約とも称される「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)がある。

なぜ、2本になったかといえば、自由権規約は西側諸国が積極的で、東側諸国は及び腰であったからである。世界人権宣言の採択時、この対立はなかったのか? あった。自由権が入っていても、法的拘束力がない宣言をソ連は危険視しなかった。国際法に対する態度の違いは西側と東側の間だけにあったわけでない。日本とて、自由権規約の選択議定書については個人通報制度に関する第一選択議定書にも、死刑廃止に関する第二選択議定書にも入っていない。

これ以外にも、国連のもとで、人種差別撤廃条約(1965年)、女子差別撤廃条約(1979年)、拷問等禁止条約(1984年)、児童の権利条約(1989年)、障害者権利条約(2006年)、強制失踪条約(2006年)などが採択された。その他、国連の制度として、1993年に国連人権高等弁務官が置かれた。これはNGOが30年間近く要求してきたものがようやく実ったものである[2]。さらに、2010年には、従来の国連女性開発基金(UNIFEM)や女性の地位向上部を統合したUNウィメン(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)が国連総会により設置された。

このように制度は整備されたが、問題もある。条約が実施されるかどうか、つまり条約遵守の成否は加盟国の意欲頼みである。具体的には、留保の問題がある。留保とは、条約に加わる際に、特定の条項に縛られないことをあらかじめ宣言しておけば、履行しなくても違反にならないという仕組みである。これが濫用されると、条約の締約国であることの意味そのものが問われかねない。条約の核心部分での留保は許されるか?、には論争がある。

女子差別撤廃条約について言えば、第2条と第16条に対する留保は、条約の目的と両立しないため許されないと考えられている。しかし、少なからぬ国がそれらに対して留保している。例えば、第2条1(c)は「婚姻中及び婚姻の解消の際の同一の権利及び責任」についてのものである。婚姻での平等に留保を付して、男女平等と言えるであろうか? 婚姻における差別を許容できる女子差別撤廃条約とは何なのであろうか?

ほかには、締約国政府が報告書を社会権規約委員会または自由権規約委員会に提出し、委員会が報告書を審査する制度がある。これは締約国に何かを強制する目的のものではない。審査をつうじた言論の自由が国連にはあり、迅速な解決は期待できないかもしれないが、報告と答弁で自国の行いに対して説明責任を果たさなければならない、ということである。

人権委員会とその後身である人権理事会には、特別報告者という制度がある。彼または彼女は人権侵害について調査し、報告する。日本で有名になったのはクマラスワミ報告書である。ラディカ・クマラスワミ特別報告者により作成され、1996年に提出された。日本語での名称を「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」という。扱う内容は第二次世界大戦中の慰安婦に関することである。記述の真偽が激しく争われたのは「国家総動員法の一部である国民勤労報国会の下で、他の朝鮮人とともに、1000人もの女性を「慰安婦」として連行した奴隷狩り」という箇所である[3]

伝統ある国連人権委員会は2005年に廃止され、翌年、人権理事会が置かれた。両者の違いは選出母体である。人権委員会の委員が経済社会理事会により選出されたのにたいし、人権理事会は総会により選出される。経社理の理事国自体、総会により選出されるから、人権理事会の選出はより全加盟国の意思に近くなったと評価できる。

国連の人権における活動で最大の成果は何であったか?、と問われれば、アパルトヘイトへの取り組みと答えよう。総会でアジア・アフリカ諸国が多数派となったことを受け、1962年から、アパルトヘイト非難決議が行われた。1973年には、アパルトヘイト罪の禁止処罰に関する国際条約も採択された。情勢が本当に変わったのは、安保理が1977年に南アフリカに対する武器禁輸を決議して以降であった(S/RES/418)。南アフリカの味方であった西側諸国が同国と距離をとり始めたということであり、1985年にアメリカ合衆国の連邦議会が経済制裁を可決する前触れであった。1989年にフレデリック・ウィレム・デクラークの政権が成立し、南アフリカの改革は本格化した。初のアフリカ系大統領ネルソン・マンデラは1994年の選挙の結果、生まれた[4]

目を国連の外に転じよう。NGOの活躍が著しいのが人権問題の特徴である。有名なアムネスティインターナショナルが設立されたのは1961年である。「良心の囚人」と呼ばれる政治犯の釈放を求めたことが活動の出発点であった。

CSCE(欧州安全保障協力会議)は人権問題を人々の関心事にした。1975年に採択されたヘルシンキ最終議定書は三つのバスケット(分野)から成っていた。第1は安全保障、第2は経済・環境、そして第3が人的次元であった。人的次元は検閲・ジャミング・移動制限、交流・留学・交通、そして出版物の流布といった市民の自由をテーマとした。

CSCEの第3バスケットは緊張に満ちた東西関係のはざまで、あまり目立たないようでありながら、最も成果を上げたといえる。最終議定書の履行状況をチェックするために、ベオグラード、マドリード、そしてウィーンで再検討会議が開かれた。民間からも、人的次元の履行状況を監視する団体が現れ、1978年、フォード財団の支援でヘルシンキウォッチが設立された。これはのちにヒューマンライツウォッチというメジャーな団体に発展した[5]。CSCE自体も、冷戦が終わると、OSCE(欧州安全保障協力機構)に改組された[6]

人権が1970年代、新しい国際政治として注目されるなか、反体制派(異論派)が登場した。アレクサンドル・ソルジェニーツィンは1973年に『収容所群島』を著し、ソ連における自由の制限を暴いた。彼は翌年、国外追放の憂き目にあい、愛する祖国を離れなければならなかった。アンドレイ・サハロフは1975年、人権と軍縮への貢献を理由にノーベル平和賞を与えられたが、5年後にはゴーリキー(現ニジニノブゴロド)の町に流刑されてしまった。

ソ連以外でも、反体制知識人が現れ、冷戦の終わりとともに国家指導者に推戴された。ポーランドでは、労働者に協力する知識人の団体KOR(労働者擁護委員会。後に社会自衛委員会)が政府の戒厳令と戦った。チェコスロバキアでは、ヤン・パトチカ、バツラフ・ハベル、イジー・ハーイェクなどの知識人が1977年の元日に憲章77を公表した。

これらの規約[A規約とB規約―引用者]が保証しているさまざまな自由と権利は、歴史において多くの進歩的人々がその獲得を目指して努力し、その法制化がわが社会の人道的発展を著しく促進させうる、重要な文化価値である。したがってわれわれは、チェコスロヴァキア社会主義共和国がこれらの規約に加盟したことを歓迎するものである。

しかしながら、これらの好評はわれわれに、わが国でいま――残念ながら――いかに多くの基本的諸権利が単なる紙上の空文となっているかを、新たに緊急なものとして思い起こさせる[7]

こうした真剣な異議申し立てには裏もあった。現在では知らぬ者がない投資家ジョージ・ソロスが資金源であった。まじめな理想主義と不明朗な資金源との結びつきはスキャンダラスである。仮にアメリカ合衆国政府が依頼して資金を出させていたとすれば「他の手段をもってする政治」にほかならないが、私人が善意で人権活動を支援することには何も恥じるべきことはない。ソロスの自伝から引用する。

「同じく八〇年に、東欧の反体制派に奨学金を提供し始めた。人権擁護団体やポーランドの「連帯」、そして(スウェーデンの財団を通じて)チェコスロヴァキアの「憲章七七」に、またサハロフ博士の反体制運動にも援助を開始した。」(145ページ)

「当時はヘルシンキ・ウォッチと呼ばれていたヒューマン・ライツ・ウォッチ[人権擁護組織-訳注]にも首を突っ込み、毎週の会合に参加していた。―中略―ヒューマン・ライツ・ウォッチの指導者だったアライア・ナイアーは現在、私の財団の会長になっている。だが当時、オープン・ソサエティ・ファンドは実に小規模な試験的活動だった。南アフリカの試みの後、私の活動の中心は東欧の反体制派知識人にアメリカ訪問の機会を与えることに移っていた。反体制派の人を毎回一度に十数人ずつ招待し、そのうちの何人かと知り合いになった。」(145-146ページ)

「選考は秘密裏に行われ、反体制派の人間が選ばれていた。ある意味では、奨学金がむしろ彼らの名誉を傷つけてしまうわけだ。反体制であることを飯の種にしていると非難されかねないからね。」(146ページ)[8]

政治犯の問題とともに、移民の問題が浮上した。アメリカ合衆国議会は1974年通商法ジャクソン・バニック修正によって、外国への移民を認めない国には貿易上の最恵国待遇の資格がないと定めた。その後、就任したジミー・カーター大統領は、米ソの首脳外交でこの話題を持ちだした。

わたしが人権の問題に話を向けるたび、ブレジネフは非常に不愉快な顔になった。―中略―最も有名な反体制派ユダヤ人の指導者のひとり、アナトリー・シャランスキーの名前は、いつもわたしの協議課題のリストに載っていた。あるときソビエト外相のアンドレイ・グロムイコが、シャランスキーのような反体制派ユダヤ人など「誰にも何の影響もない、けしつぶのような一点」にすぎないと言ったのをおぼえている。―中略―ソ連から移住するユダヤ人の数が一九七六年の一四〇〇〇人から一九七九年には五一〇〇〇余人と、大きく増えたのだ[9]

カーターの努力でソ連からの出国者数が激増したということはなかった。それが起きたのはミハイル・ゴルバチョフが指導者になった1980年代以降である[10]。最終的にはロシアからイスラエルに約百万人のユダヤ人が移民した。人権外交といえばジミー・カーターと連想されるのは、表舞台で「声高な外交」を展開したからである。

アメリカ合衆国連邦議会は人権外交の発信地の一つであり、エドワード・M・ケネディのような有力な上院議員が熱心であった。有賀貞によると、ジャクソン・バニック修正以外にも注目に値する立法があった。対外援助法(1973年、1974年、1978年)は、人権を侵害する国に援助を禁止し、人権の尊重を援助の目的にする。国際金融機関法(1977年)は、人権を侵害する国への援助に国際機構で反対投票をすることを政府に義務づける。輸出入銀行法(1978年)は、融資に際して人権状況を考慮させる。1976年からは、国務省に「諸国の人権状況に関する報告書」を出させている[11]

カーターの人権外交によって、冷戦外交に変更が加えられたのは事実であった。それは声高な外交によってではなく、出先の大使館など目立たないチャネルを使った「静かな外交」によるものであった。ラテンアメリカでは、それまで軍事政権を含む保守政権を支持してきたアメリカ合衆国は、政権の人権抑圧を許さなくなった。ニカラグアのアナスタシオ・ソモサ親米独裁政権は1979年に倒れ、アルゼンチン・チリ・ブラジルの軍事政権は政治犯を釈放した[12]

韓国の軍事政権に対する静かな外交は、続くレーガン政権に引き継がれた。死刑判決を出された政治犯、金大中、の裁判に干渉し、1982年には釈放させた[13]。全斗煥政権の末期である1987年には、駐韓大使が大統領と会見し、人権抑圧に警告を発した。

全斗煥は、渡された親書に目を通した。信書の文面は、レーガンらしく親密な調子だった。まず最初に韓国に対する安全保障の約束を再確認し、政権の平和委譲の公約を賞賛し、政治犯の釈放、職権濫用の警察幹部らの訴追、報道の自由の促進など政治改革続行に向けた一連の追加措置をとるように助言していた。そうした措置を実施すれば「閣下ご自身が正しく『旧体制』と指摘していたものの束縛を決然と打破する意志を世界に示すことになるでしょう」とレーガンは訴えた。

これを補完して、私は自分の言葉で、親書の内容を一歩進め、事態の深刻さと戒厳令布告にたいする米国の明確かつ堅固な意思を伝えた。さらに米軍当局の意向も代表して「私たちは一致して、武力の不行使を提言します」と強調し、最後に、戒厳令が布告されることになれば、米韓関係は大きく損なわれ、一九八〇年の光州での惨事を繰り返す危険を冒すことになるとまで言い切った。―後略―

―前略―その日の午後の遅い時間に崔外相から電話が入った。崔外相の説明によると、全斗煥は私との会見後に戒厳令布告を断念したという[14]

アメリカ合衆国の人権外交はさながら間欠泉である。「中国のサハロフ」と呼ばれた方励之は1989年に北京の合衆国大使館に亡命したが、翌年、中国政府に出国許可を出させた。次のクリントン政権では「北京の春」の魏京生と天安門事件の王丹を出国させた。

うまくいったものばかりでない。08憲章はチェコスロバキアの77憲章を想起させるが、2008年に303人の中国人が自国の民主化と人権擁護をインターネット上で要求したものである。これに関し、翌年、反体制派作家の劉暁波が国家政府転覆扇動罪で起訴された。2010年、ノーベル平和賞が本人欠席のまま彼に授与され、その7年後、彼は獄中で亡くなった。

まとめると、人権外交は人権擁護を他国に求める外交一般を指すが、特に共産国や途上国に対して自由権の擁護を求める西側諸国からの圧力について用いられる傾向がある。ミャンマーにおけるアウンサンスーチーの軟禁や北朝鮮人民の人権も外国の関心を集めた。そのように外国が人権状況の改善を求め始めると、求められた国はより身構えて拒否するようになる。結局のところ、鉄のカーテンや竹のカーテンの向こう側にいる人々がどれだけ自由を求めているかが分かれ目である。 体制側が公認する「幸福」の見方に人々が従っている間は、声高な外交は効果を見込めない。


[1] 木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝―国連憲章と核軍縮に取り組んだ外交官』、社会評論社、2015年。

[2] LAB13/2409 295483.

[3] E/CN.4/1996/53/Add.1. ラディカ・クマラスワミ, “女性に対する暴力―戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書,” 女性のためのアジア平和国民基金, http://www.awf.or.jp/pdf/0031.pdf, accessed on February 9, 2026.

[4] 有賀貞、「南アフリカ政策と「アパルトヘイト体制」、有賀貞編、『アメリカ外交と人権』、日本国際問題研究所、1992年、266-314ページ。

[5] Paul Kennedy, The Parliament of Man: The Past, Present, and Future of the United Nations (New York: Random House, 2006).

[6] 百瀬宏、植田隆子編、『欧州安全保障協力会議(CSCE) 1975-1992』、日本国際問題研究所、1992年、98、317ページ。

[7] ヴァツラーフ・ハヴェル、『ハヴェル自伝』、佐々木和子訳、岩波書店、1991年、裏17ページ。

[8] ジョージ・ソロス、『ジョージ・ソロス』、テレコムスタッフ訳、七賢出版、1996年。

[9] ジミー・カーター、『平和を語る―次世代のためのヴィジョン』、高城恭子訳、近代文芸社、1994年、137ページ。

[10] 高橋和夫、『アラブとイスラエル』、講談社、1992年、153ページ。

[11] 有賀、「アメリカ外交における人権」、8-12ページ。

[12] 有賀、「アメリカ外交における人権」、 18-20ページ。

[13] 高松基之、「韓国に対する人権外交の展開」、有賀編、『アメリカ外交と人権』、 211-213ページ。

[14] ジェームズ・R・リリー、『チャイナハンズ』、西倉一喜訳、草思社、2006年、267ページ。

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人身売買

どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともありそうである。こういう場合、歴史に尋ねる、というやり方がある。何が許され、何が許されないか? 公然と論争が繰り広げられた過去がある。今回のテーマは、奴隷貿易や苦力貿易など人身売買の禁止と自由移民時代の到来をめぐる歴史について論じなさい、である。

人間そのものが商品である奴隷貿易は、まぎれもなく、人身売買である。18世紀、大西洋三角貿易の一辺にそれが組み込まれていた。貨物船で、ヨーロッパからガラス玉や銃器をアフリカに運び、それらと引き換えに奴隷を仕入れ、アメリカで砂糖やラム酒に積み替えて、ヨーロッパへ帰る。こうすれば、つねに船倉は満載され、効率的である。奴隷船では、人々は甲板の上で鎖でつながれ、垂れ流された糞尿を洗い流す時だけ体を動かすことができる。航海中の死亡率が数十パーセントに達したこともまれでない。

こうした風潮が変わったのは、人間の平等を謳ったフランス革命の人権宣言からである。奴隷貿易の禁止が奴隷制そのものの禁止よりも先行し、1807年にイギリスで、翌年にアメリカ合衆国で禁止された。さらに1815年にはウィーン会議において、大西洋奴隷貿易の禁止がヨーロッパの諸大国によって宣言された。1839年のアミスタッド号における奴隷の反乱はアメリカ合衆国とスペインとの国際紛争になり、スティーブン・スピルバーグ監督によって映画化された[1]

取り締まりには実力がいる。世界の警察官として奴隷貿易を摘発したのはロイヤルネイビーすなわちイギリス海軍であった。洋上で発見した奴隷船と交戦し、乗り込んで拿捕するのである。こうした覇権国の役割は、違法薬物取引やテロリストを取り締まる現在のアメリカ合衆国と重なる。

しかし、光が強ければ強いほど、闇も深い。カタバというギニア海岸の部族とイギリスとの関係を見よう。1841年に両者は条約を結んだ。目的は奴隷貿易の根絶である。具体的な権利義務については、イギリスの軍艦は奴隷船を捕獲することができ、また、戦争をしかけ、捕虜を奴隷とする隣接部族をカタバ王は防げないので、カタバはイギリスの保護下に入る。さらに、カタバ王はイギリス以外の国と同盟・交渉・通信しないことを約束する[2]。以上の内容は、カタバがイギリスの保護国に転落してしまったことを意味する。植民地化は奴隷貿易禁止により正当化されたのである。

奴隷制の廃止は進んだが、大量の流血を伴った。1833年にイギリスで、1848年にフランス植民地で廃止されたところまでは順調であった。しかし、アメリカ合衆国は南北戦争で二つに割れた。奴隷制の廃止は1862年の予備布告、1863年の最終布告を経て、1865年の憲法修正第13条で制度的には完成した。米州最後の奴隷制は1888年にブラジルで廃止され、それを実行した皇帝は位を逐われた。その後もアジアやアフリカで奴隷制が残存したことは忘れられがちである。

すでに、奴隷貿易の禁止が植民地化の口実になった先例を見た。それを、大規模かつシステマティックに実行したのがコンゴ自由国である。1876年、アフリカの貿易を促進し、奴隷貿易を一掃するため、ベルギー王レオポル二世は国際地理会議を招集した。翌年には、国際法協会も、「アフリカ中部の探検と文明化に携わるベルギー王のイニシアティブを称賛」した[3]

19世紀で最も劇的な出会いのシーンは、探検家デイビッド・リビングストンをアフリカで発見したヘンリー・M・スタンリーのものであろう。有名人になったスタンリーに、レオポル二世が援助してコンゴ探検を成功させた。国際法協会といい、スタンリーといい、最上級のお膳立てである。

さらに、レオポル二世は1882年に国際コンゴ協会を設立し、諸部族との条約を結ばせた。詰めは1884年に始まった第2回ベルリン会議であった。コンゴ自由国の設立と自らをその主権者とすることを会議は決定した[4]。国際社会の総意が彼の企みを支持したのである。

これは発想の転換であった。奴隷貿易がダメなのであれば、現地人をすべて奴隷に変えてしまう(=植民地にしてしまう)手を使えばよい。コンゴ自由国はベルギー王の私領であったが、天然ゴム園を軍隊と鎖を使って管理させた。搾取と暴力に対する国際的な非難が高まり、1908年にコンゴ自由国は王の私領から国家の植民地に改編された[5]

冒頭で触れたように、人身売買はさまざまな形をとる。女工といえば『女工哀史』(1925年)が有名であるが、同書には3年以上の勤務を承諾させられ、それを満たさず退社すると、借金の一括返済を迫られる証文類が掲載されている[6]。借金は給料から毎月、返済されることになっていたが、現在ではこれは違法である。労働基準法第17条は「使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。」と定める。また、附則第137条は、「当該労働契約の期間の初日から一年を経過した日以後においては、その使用者に申し出ることにより、いつでも退職することができる」とする。

身売奉公はもうない、と信じたいが、年季奉公のような長期の契約はなかなか消えなかった。問題の本質は何であるのか? 太平洋戦争が終わった翌年のことを法社会学者は証言する。

―前略―私が一九四六年の夏に山形県の飛島で調査しました時に聞きましたところでは、飛島へ売られてくる子供――「南京小僧」と言っているのですが――、そういうものは古くからの習慣だそうでありまして、山形県辺りの農村から売られてくるとのことで、いわば日常茶飯事になっていて、村の人もそういう事にわれわれほど神経を尖らせない。貧乏だから売るという、ただそれだけの茶飯事と思っているようでした。これと類似の現象としてもっとも代表的なものは、芸者、娼妓或いは私娼に女を売る。―中略―ともかく前借金・年期奉公という形式も非常に似ています[7]

さて、時間を南北戦争が終わったころまでさかのぼる。南北アメリカ大陸の労働力不足は相変わらずであった。同地では、前借金・年季奉公の契約形態がはびこっていた。1867年に渡米し、後に首相になった高橋是清は、自らの体験を次のように回顧する。

私は「暇を下さい、私はあんな奴と一緒にいるのは嫌です」と申出た。すると主人は、

「お前は勝手に暇を取って帰るわけには行かぬ。お前の身体は、三年間は金を出して買ってあるのだ。現にお前は友人と二人で、書附にサインまでしたではないか」

という。私は驚いてしまった。あの時署名したのは身売りの契約書であったのか、実にけしからぬことだ[8]

苦力貿易が奴隷制に代わる人身売買として蔓延し、イギリス海軍もその点に目を付けていた。苦力(クーリー)とはインド人・中国人の単純労働者であり、必ずしも契約が人身売買であるとはかぎらない。これが苦力貿易という言い方になると、もっぱら苦力の人身売買という意味になる。

苦力貿易の主な出発地は中国南部であった。日本が関わったマリアルス号事件は、1873年におけるマカオの苦力貿易禁止布告につながった。事件そのものは前年の1872年のことである。ペルー船がマカオで苦力230名を乗せ、天候の関係で横浜に寄港して発覚した。彼らはわが身の行く末を悲観していた。外国に連れていかれると知らずに契約した者、また、船上で懲罰として辮髪を切られた者など、人間的な扱いを受けていなかったからである。

マリアルス号の苦力が横浜港内で船から飛び降りたことから、問題があらわになった。助けられた彼の話はアメリカ合衆国とイギリスの公使館の知るところとなった。両国代理公使は虐待の究明を日本の外務省に訴えた。副島種臣外務卿は文明国としてあるまじき不名誉に憤り、大江卓神奈川県参事(のち権令)に取り調べを命令した。神奈川県は、虐待を行った被告の船長に有罪の刑事判決を下し、民事についても人身売買の契約書は無効とした。苦力は自由の身となり、清の使節に引き渡された。

毅然とした日本政府の対応も、外国人の目から見れば滑稽であったかもしれない。判決後に出された太政官布告295号は遊女解放令とも称されるが、人身売買一般を禁止した。弟子奉公は7年、奉公は1年で自由の身になり、娼妓・芸妓等年季奉公人は一切解放される、と定める[9]。しかし、この期に及んで布告が出たということは、そのまえには人身売買は日本で合法であったことになる。

そればかりではない。マリアルス号事件の裁判をしたのは神奈川県庁であるが、行政機関の県庁が裁判をするのは三権分立の観点からありえないことである。前身が神奈川奉行所である歴史的経緯を知れば、腑に落ちもするが、文明国の基準に照らせばおかしなことである。裁判長の大江卓はお奉行様の役を維新後に演じていたことになる。彼は幕末土佐の志士であり、陸援隊に属した[10]。法律の専門家とは認めがたい。

来るべきものが来て、翌年、上の両判決に納得しないペルーの特使が来日し、賠償を請求した。日本とペルーはロシア皇帝に仲裁を依頼する約定を取り決めた。1875年、アレクサンドル二世は日本に責任はない、とマリアルス号事件への判断を示し、日本政府と苦力貿易撲滅の大義は救われた[11]。これは樺太・千島交換条約が結ばれた直後のことであった。

その後も、人身売買が根絶されたわけでない。日本と韓国の間で意見の相違があった慰安婦問題は、日本側の公式見解では売春の延長線上にあると認識される。1993年の河野洋平内閣官房長官によるいわゆる河野談話の該当部分は次のとおりである。

慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった[12]

基本的な主張は、軍の要請を受けた業者が勝手にやったこと、という点にある。売春は人身売買であるかもしれないし、ないかもしれない。現に、それが合法であるヨーロッパの国もある。2014年に、日韓を周旋したバラク・オバマ合衆国大統領は朴槿恵韓国大統領と会談した際の記者会見で、慰安婦問題を「恐ろしい、おぞましい人権侵害」と呼んだ[13]。彼女たちをめぐる状況が悲惨であったことはまちがいない。人権侵害と言うからにはそれを違法とする法理論があったはずであるが、オバマは述べていない。

慰安婦に関する日韓合意は2015年に成立し、韓国政府が財団を設立して、日本政府が資金を拠出し、事業を行った。売春の延長線上にあったというアプローチは現代は通用しない。

具体的にどのようなものが人身売買に含まれるのか?、を考えるために、国際組織犯罪防止条約人身取引議定書(パレルモ議定書)の第3条(a)を引用する。

「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力若しくはその他の形態の強制力による脅迫若しくはこれらの行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくは弱い立場の悪用又は他人を支配下に置く者の同意を得る目的で行う金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を採用し、運搬し、移送し、蔵匿し又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他人を売春させて搾取すること若しくはその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器摘出を含める。

日本では2005年の刑法改正によって、人身売買罪が定められた(第226条2)。対応するのは警察と婦人相談所である。被害者は主に東アジア出身で性的に搾取された者たちである。上のパレルモ議定書は2017年に日本でも効力が発生した。

国際的に取り締まる方法には、アメリカ合衆国が調査し、それをもとに外交的圧力をかける、というものがある。同国国務省は人身取引報告書を毎年公表する。世界各国の状況、とりわけアジア・中東・アフリカの惨状が詳述される。日本については性的搾取が多かったが、最近は少年少女と技能実習生の記述が増えた[14]

ロイヤルネイビーは拿捕、国務省は事実調査、と方法は異なるが、人身売買を取り締まるのは相も変わらず覇権国の役割である。それらのお膝元において発覚したエプステイン事件は未成年者への大規模な性的な暴行・搾取であった。2026年には単なるゴシップ記事ではなく、国際秩序の正統性を揺るがしかねない疑惑として扱われ、全容解明が待たれている。

奴隷制の廃止から苦力貿易の蔓延を経て、自由移民の時代が到来した。自由移民を説明するメカニズムとしてプッシュ・プル理論がある。プッシュ要因とはその土地から人を離れさせる要因で、人口増加、低い生活水準、経済的機会の欠如、そして政治的抑圧がある。プル要因とはよそから人を迎え入れる要因で、労働需要、土地の利用可能性、よい経済的機会、そして政治的自由がある。S・カースルズとM・J・ミラーによると、これらは「単純すぎて現実の移動を説明できないし、将来の動向も予測できない」とも批判される[15]

実際のデータを見ると、プッシュ・プル理論にはうなずかされるところもある。1851年から1960年までの間に国々が送り出した移民数の総合順位は、イギリス、イタリア、ドイツ、スペイン、オーストリアハンガリー、ポーランド、と続く[16]。当時のアイルランド・イタリア・ドイツは貧しかった。逆に、イングランドとスコットランドからはビジネスチャンスを求めて世界に散った若者が多かった。

東ヨーロッパでは、ユダヤ人に対するポグロム(破壊)とホロコーストが移民を生んだ。『屋根の上のバイオリン弾き』(1964年)はミュージカルや映画として人気を博した作品である。その原作『牛乳屋テヴィエ』(1894年)という小説には、現在のウクライナに住むユダヤ人が役人に立ち退きを迫られる場面がある。

――べつに、おれの思いつきなんかじゃない。県当局の発案だ。

――当局だって? どうしてあたしに目が向いてこなくちゃならないんですかね?

――べつにあんた一人というわけじゃない。しかも、ここに限らず、この一円、すべての村から出て行ってもらおうということだ。ズロヂイェフカや、ラビレフカや、コストロメフカ、そして、これまでユダヤ人集落だったアナテフカからもだ。ここもこれからは村になる。要するに、あんたたちには全員出て行ってもらう……[17]

主人公は原作ではエルサレムに向かい、映画版ではニューヨークに移民した。

同じ期間におけるプルのほうの総合順位は、上からアメリカ合衆国、シベリア・極東ロシア、アルゼンチン、カナダ、ブラジル、そしてオーストラリアである[18]。これらはいずれも手つかずの豊かな自然が残されていたにもかかわらず、旺盛な投資と奴隷制の廃止により、労働力が不足していた。また、宗教的寛容と政治的自由がある国はユダヤ人や難民を迎え入れた。特に南米と太平洋では、公私にわたる斡旋活動が盛んで、移民会社が渡航から入植まで手配をした。

カースルズとミラーがプッシュ・プル理論の代わりとして提唱したのは「移民システム」アプローチであり、移民をマクロな構造とミクロな構造との相互作用の結果と捉える。マクロな構造とは、植民地・宗主国関係や米軍基地といった大規模な制度的な要因である。韓国やフィリピンからの対米移民や、カリブ海地域からの対英移民を説明するには適している。ミクロな構造はというと、移民自身のネットワーク、そして慣習や信条といったものである。

日本で親しまれたアニメ『母をたずねて三千里』の原作を引用しよう。アルゼンチンで出稼ぎをしている母親を追い、大西洋を渡ったジェノバの少年マルコ13歳が、持ち金がなくなり、途方に暮れていたところを老人が「イタリアの星」という宿屋に連れて行った場面である。

「―前略―どうだい、みんな。この子がおふくろさんに会いにコルドバまでいく汽車賃くらい、なんとかしてやれんもんかな? このまま犬みたいに、ほったらかしておくわけにはいくまい?」

―中略―

「おれたちの国の子じゃないか!」

―中略―

「さあ、みんな、金をだしてくれ」

「まあ、一杯やりな、お国のぼうや」

「おれたちが、おふくろさんのところまで送ってやる、心配するな」[19]

持続可能な選択の自由という観点から移民を眺めると、確かに移動の自由はあるものの、弱者が仕方なく移動せざるをえなかった例が多い。マクロな構造とミクロな構造は弱者が少しでも安全に移動するための目ぼしであったろう。草分けたちにはそれさえなかった。海外発展者と呼ばれた明治の日本人移民は次のようであった。醜業婦とは売春婦のことである。

日本人の方式は、全然其の反対で、新開地の瀬踏みをして、水先案内をする者は、必ず脛一本腕一本の無資無力の書生、水夫、職人、労働者、それに例の醜業婦! そこで政府や資本家の着眼し初めるのは、遥然と遅れて、五年か十年後の事である[20]

自由移民の最大の問題は、移動する人々がガバナンスの観点において著しく周縁化されてしまうことである。1954年まで、アメリカ合衆国の移民局はニューヨーク港のエリス島に本拠を置いた。その手前に位置する自由の女神を目指してきた人々は、図らずも、差別にさらされることになった。人種に基づく差別が特に激しかったことは移民制限の導入によって確認できる。中国人移民への排斥は19世紀末には存在した[21]。人種的観点があったことは、読み書きテスト導入を提案したヘンリー・C・ロッジ上院議員の演説(1896年)から明らかである。

この文盲テストはイタリア人、ロシア人、ポーランド人、ハンガリー人、ギリシア人、アジア人に最も重い負担となり、英語圏からの移民ないしドイツ人、スカンジナヴィア人、フランス人にはきわめてわずかしか、あるいはまったく負担にならないでありましょう[22]

議員の先生方と同郷の方は不利になりませんよ、と安心させるかのような口ぶりである。

第一次世界大戦後、そうした移民制限はいっそう激しくなった。1924年のいわゆる排日移民法は、アメリカ合衆国の市民となることのできない外国人は入国できないというものであった。当時の帰化法では「自由な白人」とアフリカ人以外は帰化できなかったので、アジア系が主な対象となった。日本人ももちろんそこに含まれた。当時の日本大使は日米関係に「重大なる結果」を招くと警告したものの、効果なく成立した。

1868年のハワイおよびグアムへの契約移民に始まった日本人移民は、南米と満州に行き先を転じた[23]。真珠湾攻撃が起きると、アメリカ合衆国の西海岸にいた日系人たちは日本軍に内通しないかと疑われ、強制収容所に送られた。そう決めたのは「四つの自由」を前年に説教したフランクリン・D・ローズベルト政権であった。


[1] Steven Spielberg, David Franzoni, Debbie Allen, Anthony Hopkins, Morgan Freeman, Colin Wilson, and DreamWorks Pictures. Amistad, ([United States]: DreamWorks, 1997).

[2] William H. Worger, Nancy L. Clark, and Edward A. Alpers, Africa and the West: A Documentary History from the Slave Trade to Independence (Phoenix: Arizona, 2001), pp. 138-139.

[3] Institut de droit international, Résolutions, régles, projets et réglements adoptés par l’Institut de droit international, tm. 1 [Tokyo: La Bureau des traités, Japon, 1942], p. 24.

[4] ジョルジュ=アンリ・デュモン、『ベルギー史』、村上直久訳、白水社、1997年、73-74ページ。

[5] Tod Olson, Leopold II: Butcher of the Congo (New York: Scholastic Inc., 2008).

[6] 細井和喜蔵、『女工哀史』、岩波書店、1954年、93ページ。

[7] 川島武宜、「人身売買の歴史的性格」、『川島武宜著作集 第一巻』、1982年、87ページ。

[8] 高橋是清、上塚司、『高橋是清自伝』、上、中央公論新社、1976年、58-59ページ。

[9] 牧英正、『人身売買』、岩波書店、1971年、194ページ。

[10] 雑賀博愛、『大江天也伝記』、大空社、1987年。

[11] 外務省編、『日本外交年表並主要文書(上)』、原書房、1978年。Watt Stewart, Chinese Bondage in Peru: A History of the Chinese Coolie in Peru, 1849-1874 (Durham: Duke University Press, 1951), p. 163.

[12] 河野洋平, “慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話,” 外務省, August 4, 1993, http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html, accessed on February 9, 2026.

[13] “Press Conference with President Obama and President Park of the Republic of Korea,” White House, April 25, 2014, https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2014/04/25/press-conference-president-obama-and-president-park-republic-korea, accessed on February 9, 2026.

[14] アメリカ合衆国国務省人身取引監視対策部, “2025年人身取引報告書(日本に関する部分),” 在日米国大使館と領事館, September 30, 2025, https://jp.usembassy.gov/ja/trafficking-in-persons-report-2025-japan-ja/, accessed on February 9, 2026.

[15] S・カースルズ、M・J・ミラー、『国際移民の時代』、関根政美、関根薫訳、名古屋大学出版会、1996年、21-22ページ。

[16] William Woodruff, Impact of Western Man: A Study of Europe’s Role in the World Economy, 1750-1960, 2nd ed. (Washington, D.C.: University Press of America, 1982), pp. 106-107.

[17] ショレム・アレイヘム、『牛乳屋テヴィエ』、西成彦訳、Kindle 版、岩波書店、2015年、Kindleの位置No. 4517-4526。

[18] Woodruff, Impact of Western Man: A Study of Europe’s Role in the World Economy, 1750-1960, pp. 108-109.

[19] E・デ・アミーチス、『クオーレ』、和田忠彦訳、新潮社、1999年、388ページ。

[20] 有磯逸郎[横山源之助]、『海外活動之日本人』、再版、松華堂、1903年、165-166ページ。

[21] ギ・リシャール編、『移民の一万年史』、藤野邦夫、新評論、2002年、242ページ。

[22] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『史料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、137ページ。

[23] 三田千代子、「ブラジルの移民政策と日本移民―米国排日運動の反響の一事例として―」、三輪公忠編、『日米危機の起源と排日移民法』、論創社、1997年。入江啓四郎、大畑篤四郎、『重訂 外交史提要』、成文堂、1964年、281-284ページ。

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Geminiさんの答案 研究各論(グローバル・ガバナンス)2024年度前期
国際博覧会事務局(BIE)に登録された国際博覧会は、今後、どのような企画を催せば、人類の文明を高めることができるであろうか? あなたの企画をできるだけ具体的に提示し、それがなぜ人々の幸福を高めるかを説明しなさい。(10点) (参考) 国際博覧会条約 第一条 定義 1.博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類…
ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
国連事務局
https://youtu.be/PsFF_ir1NpI 私たちは国連事務総長を無力であると言いすぎでないか? 目標をバリバリと達成するのがカッコイイ指導者であると思っていないか? そうした劇画的な指導者は独裁者と紙一重ではないか? そもそも、執行責任者とは、与えられた権限のなかで物事がうまく進むよう工夫する者でないか? アメリカ合衆国大統領も、日本の内閣総理大臣も、中国共産党の総書記も、同じでないか? 国連の場合、憲章が事務総長に与…
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https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…
湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と
(表紙の画像はAIによって作成された) 地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。 地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。 日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。 教科書での関連する記述 教科書 湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見…

21世紀の戦争

人は祖国のためなら命を捨てる。これは21世紀になっても変わらない。今回のテーマは、21世紀における武力紛争を例に挙げ、祖国を自衛するために使われる暴力において、戦闘員はどのような目標・手段・組織・理由を持つかについて論じなさい、である。

21世紀が始まった時、暴力といえばパレスチナ人の自爆テロであった。「イスラム原理主義組織」のメンバー、と言えばぎょうぎょうしいが、犯行そのものは個人的で、爆弾をベルトで体に固定し、上着を羽織っただけでユダヤ人の町にまぎれこみ、人ごみのなかで起爆し、殺傷する。

これは危険な行為である。まわりの人々とテロリストを見分けることは不可能である。自爆する前にテロリストを止める方法は、検問でみつけるか、分離壁で閉じ込めるかくらいである。目的地にたどり着いたら、TNT爆弾が群衆を吹き飛ばす。テロリストは十中八九、命を失う。命と引き換えにしてよい利益がどこにあるのか?

ヨルダン川西岸とガザはイスラエルに占領されている。国際法上、パレスチナ人の土地とされるが、将来の合意において、領土要求がすべて満たされるか分からない。

現在、占領地では自治が実施されている。イスラエルとパレスチナは1993年にパレスチナ暫定自治原則宣言、1994年にガザ・エリコ協定、1995年に暫定自治拡大合意、1997年にヘブロン議定書、1998年にワイ・リバー合意、1999年にシャルム・エル・シェイク覚書を結んだ。自治のエリアは狭く、パレスチナ側の権限は小さい。

パレスチナ自治政府は一つであるべきであるが、実際には二つに分裂している。ヨルダン川西岸地区を支配するのがファタハで、ガザ地区を支配するのがハマスである。ファタハはもはや戦う意思を失っている。

ハマスはオスロ合意後もしばしばイスラエルと戦火を交えた。後述のガザ戦争もそうした散発的な紛争と見る向きもあったが、同市を瓦礫の山に変えるほど徹底してイスラエルはガザ市街とハマスの組織を破壊している。イスラミックジハードとハマスはともにエジプトのムスリム同胞団に支援を受けた兄弟のような組織である。

三つの宗教の聖地であるエルサレムの旧市街は、実は西岸占領地の一部である。古代のユダヤ教神殿跡である西壁(嘆きの壁)とムハンマドが昇天した岩のドームは同じ神殿の丘にあるので、ユダヤ教とイスラムの礼拝者たちは日常的に緊張状態にある。キリスト教団体はそれを横目に礼拝をしている。

1967年までは旧市街西側の城壁が国境で、その東側はヨルダンの統治下にあった。イスラエルの主張では、東エルサレムはすでに併合したので自国の領土であり、首都の一部である。パレスチナ人の側は占領地からイスラエルは撤退しなければならない、と主張するが、それに応じる動きはない。東エルサレムには、ユダヤ人の入植地が次々と建てられている。

地図を見ると、占領地はコメ粒ほどの大きさである。しかし、2024年末には、パレスチナに住むパレスチナ人は549万人であった。自治区以外の西岸にいるパレスチナ人は完全にイスラエルの権威のもとにあり、人権を抑圧されている。難民を含む全世界のパレスチナ人は1,489万人いる。このうちアラブ諸国にいるのは640万人である。イスラエルの領土を1967年以前の境界内と解釈すると、そこには179万人が住む[1]

これらとは別に、イスラエル領内のアラブ人がいて、人種・言語・文化的にはパレスチナ人と何ら変わるところはない。イスラエルの市民権は持つものの、「ユダヤ人国家」と憲法が規定する同国において疎外感を抱きながら生きている。

自爆テロはパレスチナ人にとって、イスラエル政府に譲歩を求める最後の手段である。もはやナセルも、サダトもいないので、外国の正規軍が中東戦争を戦ってくれることはない。

2023年10月、ガザ地区を支配するハマスは近隣のイスラエル領内を攻撃し、市民など千数百人を殺し、多くの人質をとった。ハマスとイスラエルとの戦闘は、2007年にハマスがガザを制圧してから数回、起きている。2026年の新年、パレスチナ側の死者は7万人前後と考えられる。祖国のためならば流血を辞さない人々がそれでもいる。

20世紀、自爆テロで有名であったのは、レバノンのヒズボラとスリランカのタミルイーラム解放の虎(LTTE)であった。インドではパンジャブのシク教徒とカシミールのムスリム、トルコではクルド労働者党(PKK)、ロシアではチェチェン人が自爆テロを行った。

21世紀の幕を開いたのはアルカイダの9・11事件であった。旅客機をハイジャックしてタワーに激突し、航空燃料の炎上によって被害を与える手法は「自爆」にはあたらないかもしれない。飛行機を激突させれば生還できないので「自殺テロ」と呼ぶことはできる。太平洋戦争における日本兵による「カミカゼ」の特攻は当然、テロリストは知っている。共通するものは愛国のメンタリティであろうか?

2003年からのイラク内戦は血なまぐささの極みであった。米軍、イラク人、国際テロリスト、そしてその他の外国勢力が入り混じった暴力は無秩序そのものであった。さらに無秩序な、国境を無視するイスラミックステイト(IS)の暴力は中東を越え、世界に広がった。

自殺テロの諸事例に共通の特徴があることを指摘したのは、ロバート・A・ペイプの『勝つために死ぬ―自殺テロの戦略的論理』である。自殺テロはイスラム原理主義が原因なのでない、という彼の発見は衝撃的であった[2]。なぜなら、テロリストの通俗的なイメージは自動小銃を振り回し、不敵に生還する狂信的なマッチョマンであり、殺害されるべき犯罪者であるからである。

現実の自殺テロリストたちが使うのはカーボム(自動車爆弾)やベルト爆弾である。現場にたどり着き、起爆すればよいだけであるので、女性や子供にも実行できる。自殺テロリストには世俗的なタミル人やクルド人のテロリズムもいるので、敵が異教徒でなければならないわけでないが、ペイプによると、宗教の違いがあるほうが自殺テロは広がりやすい。殉教者がたたえられる文化があれば、この傾向はさらに強くなる[3]

自殺テロの目標は、民主国の外国軍を祖国から撤退させ、占領を終わらせることである、と『勝つために死ぬ―自殺テロの戦略的論理』は論じる。占領とは、外国軍が国土を支配していることである。それへの抗議によって自国民が命を失えば、民主国のメディアは報道し、世論が政府を動かすことがある。流血によって厭戦的になった国民は占領を続ける政府を支持しなくなるからである。つまり、自殺テロとは、民主国の占領軍に撤退を強制する戦略である、とペイプは結論する。非民主国は自殺テロに動じにくいので、s効果は薄い[4]

アメリカ合衆国の政策への意見をペイプは述べる。サラーフィズムはイスラム原理主義の一種であり、7世紀にアッラーからムハンマドに示されたクルアーン(コーラン)を文字どおり実践することを説く。米軍がアラビア半島に存在することは、サラーフィズムにとっては許せない。ウサマ・ビンラディンの出身地であるサウジアラビアは合衆国の同盟国であるが、国教はサラーフィズムのワッハーブ派である。米軍の駐留は次々と新しい世代のテロリストを生む。逆に、そうした国からアルカイダ・ネットワークがリクルートできなくなれば、脅威は減少するであろう。現世代のテロリストは撲滅する必要があるものの、新世代のテロリストを生まないためには、米軍は現地に足を踏み入れず、外部から諸勢力間のバランスを操る外交が最善である[5]。ペイプの処方箋は20年間、アメリカ合衆国が苦しんだ自殺テロを終わらせる秘訣であった。

イスラム原理主義、またはイスラム主義、は、クルアーンはじめイスラムの経典を絶対的なものと信奉し、厳格に実践しようとする運動、と定義できる。サウジアラビアの王家と関係が深いワッハーブ派もその一つであるが、ここではアルカイダに影響を与えたクトゥブ主義について見る。

サイード・クトゥブは20世紀にエジプトで活動したムスリム同胞団の理論家であった。主著「道しるべ」はアルカイダやイスラミックステイトの運動に理論的な支えを与えた。イスラム運動の目標は、自分たちの信仰・生活様式・共同体を守るだけでなく、全人類に向けて実践することである、と「道しるべ」は記す[6]

クトゥブの唱える運動の問題点は排他性にある。他宗教との共存や世俗国家の主権が許される余地はない。なぜなら、シャリーア、つまりイスラム法、があらゆる法に優越するからである。クトゥブの言葉を引用する。

シャリーアはアッラーを根拠としており、それが最高の善であることは明白である。被造物による法は、創造主が定めた聖法と比較になるはずもない。シャリーアが最高の善であることが、人々にイスラームへの完全な帰依を呼びかける理由なのではない。イスラームの啓示の根本は、シャリーアを何の疑問もなく受け入れ、他のすべての法を放棄することである。それがイスラームなのだ。それ以外にイスラームはない[7]

クトゥブの思想を文字どおりに受けとめれば、全世界がイスラム国家になるまでジハードは続く。9・11事件はこうしたイメージを与えたがゆえに、世界を恐怖におとしいれた。

クトゥブ主義とアルカイダとは、実際、無関係でなかった。エジプト生まれのアイマン・アル・ザワヒリはもともとクトゥブ主義者で、アルカイダのナンバー2であり、ビンラディンの後継者になった。エジプト生まれという点では、ワールドトレードセンターに突入した実行犯のムハンマド・アタもいた。ビンラディンは母国サウジアラビアに米軍が駐留していることに憤り、アルカイダを設立したが、エジプト人にとっても、サウジアラビアはイスラムの祖国であって、米軍を撤退させねばならなかった。アルカイダが主な敵としたのはイスラエルではない。

アラビア語でアルカイダは「基地」の意味である。フランチャイズやのれん分けのように、アルカイダはいくつもの地方組織を派生した。イラク・アルカイダ機構はイラク戦争後に強大化した。指導者のアブムサブ・アル・ザルカウィは米軍に殺された。アラビア半島のアルカイダはイエメンを拠点としたが、指導者アンワル・アル・アウラキもまたアメリカ合衆国に殺された。イスラム・マグレブ諸国のアルカイダはサハラ砂漠を越え、その南で活動するボコハラムを支援した。ほかにも、インドネシアのジェマーイスラミア、カシミールのラシュカレトイバ、そしてソマリアのアルシャバーブとアルカイダは協力した。

ビンラディンこそ、世界各地のムジャヒディンたちをネットワークにまとめあげた革新者であった。サウジアラビアの王家ともつながる豊富な資金力はもちろん、インターネットでの動画配信をはじめとしたテクノロジーの活用がジハードのグローバリゼーションを可能にした。

ウサマ・ビンラディンは米軍をペルシャ湾岸から撤退させるために9・11事件を起こした。アメリカ合衆国はテロリストを無力化するためにアフガニスタンを攻撃した。対テロ戦争はさほど難しくない正当なミッションと考えられた。ドナルド・ラムズフェルド国防長官は攻撃対象をイラクにまで広げようとしつこく主張したが、この意見は受け入れられなかった[8]

2001年12月にアフガニスタンの暫定政権が発足し、翌年6月のロヤジルガで移行政権の大統領に選ばれたハミド・カルザイが年末に大統領に正式就任した。対テロ戦争への批判として知られるマイケル・ムーア監督の映画『華氏911』が公開されたのは、ようやく2004年であって、それとて戦争目的自体を批判したわけでなかった[9]

泥沼化したアフガニスタンを理解するには、それが脆弱国家であることを理解しなければならない。2006年から、脆弱国家インデックス(旧破綻国家インデックス)はつねに10位以内にこの国をランクさせている[10]。アフガニスタンには人種・言語・宗派の亀裂があり、エスニック集団がパシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、そしてハザーラ人に分かれている[11]

対テロ戦争の当初、米軍は北部同盟を操り、巧妙に戦争を遂行したようにみえた。パシュトゥン人中心のタリバン政権に対し、タジク人・ウズベク人・ハザーラ人が結集したのが北部同盟である。米軍が矢面に立たなければ、現地人に侵略と見なされない、とラムズフェルドは考えた[12]

日本人が知るカルザイ大統領は、民族衣装の帽子と口・顎のヒゲがおしゃれな優しそうなおじさんであった。最大の人口を擁するパシュトゥン人で、滞米期間が長く、英語がうまい。彼をシンボルに国際的な支援を受けた民主的なアフガニスタンには明るい未来が約束されたように思われた。

タリバンという最大の問題は解決されていなかった。それはソビエト連邦による侵攻と戦うため、パキスタンの諜報機関に支援されたパシュトゥン人のイスラム学生が母体であった。1996年にカブールを制圧し、政権を建てた。ビンラディンが客人としてアフガニスタンに移住したのはそのころであった。タリバンはイスラム原理主義に基づく不寛容な政策を実行し、バーミヤンにそびえる大仏を爆破したり、女性の権利を弾圧したりした。国連難民高等弁務官であった緒方貞子の回想を引く。

タリバーンがアフガニスタンの町や都市を支配下に治[ママ―引用者]めると、即座にイスラム法にのっとった勅令に従うよう厳格に強要した。カブールの国連事務所で起きたナジブラとその実弟のむごたらしい処刑方法が示すように、残虐な力でタリバーン流の規律を徹底したのである。女性の就労を禁じ、女子校や女子大学を閉鎖した。テレビ、ビデオ、音楽、ゲームは禁止された。タリバーンの宗教警察はシャリアの教えを徹底するために残酷な懲罰を科した[13]

タリバンもまたアメリカ合衆国による追討の対象であったが、パキスタンとは戦略的パートナーであった。パキスタンの北西部にもパシュトゥン人が住み、分離運動が起きれば、パキスタンの存立が危機に見舞われるからである。

パキスタンにおけるタリバンの行為で有名なのは、マララ・ユスフザイという少女への銃撃である。彼女は九死に一生を得て、2014年にノーベル平和賞を受賞した。なぜ彼女が目の敵にされたかといえば、女性が教育を受ける権利を主張してはばからなかったからである。

女性の社会進出はアメリカ合衆国がアフガニスタンで実施した最も野心的な政策であった。タリバンはシャリーアを理由にしてそれに反対し、隣国でマララ・ユスフザイに行ったようにテロリズムを繰り返した。それはペイプが指摘した「勝つために死ぬ」戦略の忠実な実践であった。フェミニズムとイスラム原理主義とは最悪の組み合わせであり、アフガニスタンの治安を悪化させた。

2009年、バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領に就いた。彼と副大統領のジョー・バイデンは自国のこれまでの政策を疑っていた。テロリストのアルカイダとタリバンを殲滅する目標は、多くの民間人を巻き添えにしていた。民主的な近代国家を建設する目標はイスラム原理主義者の戦闘意欲を刺激し、普通の民間人には理解されなかった。カルザイ大統領の権力は首都周辺にしか及んでおらず、政府は腐敗にまみれていた[14]

米軍をアフガニスタンに駐留させる目標をオバマ大統領は見直し、タリバンの殲滅は断念してアルカイダの殲滅に絞ることにした。理由は、パキスタンがタリバンへの支援を決してやめないからである。駐留軍のスタンリー・A・マクリスタル司令官はさらに兵士を送るように求めたものの、それでは資金がいくらあっても足りなかった[15]

タリバンと共存する、ということは、イスラム原理主義との関係をどうするか考え直さなければならないことを意味した。フェミニストのヒラリー・クリントン国務長官は反政府活動の鎮圧を続けるように主張した。それをやめたらどうなるか? 「女性が得た利益は消滅し、国連は追い出される」と彼女は予言した[16]

ビンラディンのゆくえは杳として知れなかった。CIAはトラボラというパキスタンとの国境地帯に彼が隠れていると考え、探索した[17]。就任して4か月後、オバマは賢明にも追跡を最優先課題とし、部下に30日ごとに進捗を報告させた。翌年の9月、なんとパキスタンの首都イスラマバードの郊外にあやしい人物が住んでいる、とCIAは報告した2011年5月、米軍特殊部隊はこの邸宅を襲撃し、ビンラディンを殺害した[18]

ビンラディンの殺害後も2021年まで米軍はアフガニスタンに駐留した。タリバンとの和平に踏み切ったのはドナルド・J・トランプ大統領であった。撤退は次のバイデン大統領のもとで実現した。彼は非難を浴びなければならなかったが、ロバート・A・ペイプの説くように、自殺テロは起きなくなった。世俗的なアフガニスタン政府は逃げ出し、タリバンが首都カブールを制圧した。イスラム原理主義が復活し、女性の社会進出は弾圧された。国際社会は、タリバンがアルカイダやイスラミックステイトと手を組まないか、常軌を逸した殺戮をしないか、注視している。

対テロ戦争の遂行が順風満帆で、イラクを次の標的にジョージ・W・ブッシュ(子)政権がすえたころに時間を巻き戻す。

イラク戦争ほど不思議なものはない。CIAは「悪の枢軸」イラクに大量破壊兵器が「スラムダンク」くらい確実に存在すると保証したのに、それは見つからなかった。「古いヨーロッパ」のフランスとドイツも、国際連合も、支持してくれなくてかまわない、と自信たっぷりに乗り込んだイラクでアメリカ合衆国は占領に失敗した[19]。そういったおかしなエピソードをつなげた映画がオリバー・ストーン監督の『ブッシュ』(2008年)であった[20]。対テロ戦争から生じた慢心が原因で、既成事実を突きつければ世界は追認するであろう、と彼らは高をくくっていた。ブッシュ自身は「だれも嘘をついていない。全員が間違っていただけだ。」と反省の色もない[21]

2003年3月に始まったイラク戦争において、目立った抵抗はサダムフェダイーンというゲリラによるものだけで、5月までに戦闘はやんだ。8月にバグダッドの国連事務所が爆弾テロで吹き飛ばされたものの、深刻な情勢とは考えられなかった。サダム・フセイン大統領は12月に拘束され、数年後に処刑されることになる。大量破壊兵器はなかったが、フセインを打倒し、民主主義を定着させれば、戦争は正当化される……とブッシュ政権は期待していた[22]

2004年、イラクが脆弱国家になったことが分かってきた。脆弱国家インデックスによると、イラクは2012年まで10位以内にランクされた[23]。エスニック集団と中央政府についての状況はアフガニスタンとそっくりであった。北部はクルディスタンであり、クルド人の自治政府が支配する。南部は最大の人口を持つシーア派の居住地域である。中部には首都バグダードのほか、サダム・フセインの出身地ティクリートがあり、スンナ派の拠点である。

アフガニスタンでタリバンが排除されたように、イラクではサダム・フセインの与党バース党を排除する脱バース化が図られ、5万人近いエリートが野に放たれた。同じく2003年5月、イラク軍も解散され、数十万人の戦闘員が野放しにされた[24]。決定の背景に、日本では公職追放のおかげで民主化と繁栄が成し遂げられた、という誤解がアメリカ側になかったであろうか? 真実は、大半の日本人は昭和天皇の「聖断」に従い、恭順であっただけであった。

2004年6月にイラクの主権が回復されると、多数派であるシーア派の人物たちが首相になった。特に、2006年に就任したヌリ・アル・マリキは8年以上にわたり政権を担った。政情が安定化したわけでない。スンナ派の疎外感はむしろ増してしまった。

こうして、不満勢力は増えたのに、脱バース化と国軍解散によりイラク政府の能力は低下した。米軍は勝利の慢心から、予定されていた9万人の追加兵力を送らないでいた。治安の悪化は2004年に始まった。反乱にイラク軍の元将校が加わり、激化した。駐留軍が増派を要求しても、ワシントンDCの反応は鈍かった[25]

反乱の火に油を注いだのはイラク・アルカイダ機構の参戦であった。抑圧されたスンナ派がテロリストの供給源になった。2006年、米軍戦闘機がザルカウィを空襲し、イラクの特殊部隊を指揮していたマクリスタル司令官自ら命中を確認した。社会を荒廃させるだけのアルカイダは住民の支持も得られなかった。ようやく増派が始まった米軍といっしょになって、アンバル州の住民はアルカイダを追放した[26]

2007年にブッシュ政権はイラクの内戦を終わらせる決意をした。駐留軍のデイビッド・ペトレイアス司令官が増派の戦略を練った。これが功を奏し、ブッシュ大統領は米軍撤退の期限を2011年末にするとマリキ政権と合意した。ペトレイアスは、撤退したら反乱が盛り返すという意見であった[27]。イスラミックステイトの勃興は、彼の正しさを一部、証明した。

2013年に21世紀の戦争は転換点を迎えた。ウラディミル・プーチンがロシアの大統領になり、地政学的な台風の目となった。2008年にジョージアの領土である南オセチアとアブハジアを占領したことが、ロシアへの不信感をアメリカ合衆国に与えていた。オバマ大統領はそうした対立を「リセット」し、協力関係を築くことを呼びかけた[28]。しかし、プーチンは別のことを考えた。

米ロの新たな対立はシリアから始まった。2011年のアラブの春により、バッシャール・アル・アサド大統領に対して民主化を求めるデモが始まった。中央政府の権威が失われて政情が不安定になり、エスニック集団間の内戦になった。アフガニスタンやイラクと同じである。シリアでは、最多数派はスンナ派アラブ人であり、少数派のアラウィー派にアサド自身は属した。北部にはクルド人が割拠した。

脆弱国家インデックスで、シリアは2015年から10位以内に転落した[29]。内戦が始まるまではアサド親子は鉄壁の独裁体制を築いていたのである。脆弱国家に落ちた理由は、国際関係のストレスにあったであろう。

アサド政権を支持するのはプーチンのロシアとシーア派のイランであった。アラウィー派とシーア派はともにスンナ派と対抗関係にあるからである。他方、反政府の自由シリア軍は欧米とトルコが支援した。自由シリア軍とアサド政権との内戦は米ロの代理戦争であり、紛争は長期化した。

2013年にはアメリカ合衆国が本格介入する寸前に至った。8月にアサド政権が化学兵器のサリンを使い、多数の死傷者が出た。バラク・オバマ大統領は攻撃をほのめかしたものの、ロシアは化学兵器を国際監視下で廃棄することを提案した。オバマは同意し、9月27日に国連安保アサドはS/RES/2118を決議し、危機は去った。

イスラミックステイトと称する集団が突然、現れた。前身はイラク・アルカイダ機構であった。内戦下のシリアで生まれた武装勢力を吸収し、両国にまたがる広大な土地を実効支配した。ISIS(イラクとシリアのイスラミックステイト)やISIL(イラクとレバントのイスラミックステイト)とも呼ばれた。

イスラミックステイトのイデオロギーは大胆にも主権国家システムを否定する。2014年6月、国家樹立を宣言し、指導者アブバクル・アル・バグダディはカリフに即位した。この国家を承認する国は現れていない。最盛期の首都はシリアのラッカであった。通貨ディナールを発行し、徴税もした。かつてはクウェート人やサウジアラビア人からの寄付に頼っていたとも言われるが、イラクの油田を勢力下に収め、独自の収入源を得た。

イスラミックステイトはサラーフィズムに従い、シャリーアを厳格に実施した。それは国際法を守らないということでもあり、人道法と戦争法に違反する野蛮な行為が頻発した。キリスト教徒の弾圧やヤジディ教徒女性の奴隷化が報告された。日本人2名が現地で斬首された。

歴史的文化財の破壊は戦闘行為中でないなら国際法違反でないとも考えられるが、国際道徳に反する行為と言うことはできる。2015年、世界遺産のパルミラ遺跡を爆破する画像をイスラミックステイトは公表した[30]

急速な勢力拡大の裏には、外国人戦闘員が世界中からはせ参じたこともあった。2014年の国連安保理決議S/RES/2178は外国人テロリストの移動を取り締まることを加盟国に課した。2週間後、日本の警視庁公安部は、大学生がシリアに渡航して戦闘に参加することを計画したとし、私戦予備・陰謀容疑で彼を捜査した[31]。イスラミックステイトという破天荒なテロ組織にロマンチックな思い入れを持つ者は多かったようである。

諸国家から成る社会において、イスラミックステイトは孤立無援であった。2014年末、オバマ大統領が空爆を決断したのは、虐殺を予防するための人道的介入であった。地上では、現地のクルド人勢力が米軍のパートナーになった[32]。クルド人の支配地がイラクとシリアの北部で強化される結果になった。

トルコとロシアはクルド人勢力の拡大に危機感を抱いた。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、国内のクルド人が国境を隔てた同胞に刺激され、独立運動を強めるのでないか、と警戒した。ロシアは、アサド政権がクルド人によって弱体化されるのでは、と心配になった。2015年になって、トルコとロシアは米軍の後を追ってイスラミックステイトへの攻撃に参加した[33]。ロシアの援助を得たアサド政権は自由シリア軍を攻撃し、勢力を挽回できた。トルコもシリア北部への影響力を強め、クルド人テロリストとの協力をやめるようアメリカ合衆国に迫った。

アメリカ合衆国は民主主義をシリアとイラクに押しつけるつもりはなかった。その一方で、2017年と2018年に化学兵器を使ったアサド政権を懲らしめるために武力を行使した。ついにイスラミックステイトの指導者バグダディを殺害し、駐留の成果を上げたのは2019年であった[34]

ホワイトハウスがイラクとシリアに居残った目的はイランの牽制であった。特に、イラク政府は米軍がいなくなれば全面的にテヘランに依存するであろう。これに次ぐ目的はクルド人の保護であった。トルコ、シリア、イラク、そしてイランはクルド人を倒す機会を手ぐすね引いて待っていた。さらに、アルカイダやイスラミックステイトといったテロリズムの種火も、いつ再燃するか知れなかった。

アサド政権が2024年に倒れたのは、ロシアがウクライナで手いっぱいになり、支援が得られなくなったからである。バッシャール・アル・アサドはロシアに逃げ、半世紀を超えるアサド家の支配は終わりを告げた。

ウクライナは人口4千万人を超え、本来ならば脆弱国家に分類されることはない。脆弱国家インデックスでは2023年に前年の92位から18位に落ちてしまった[35]。欧米とロシアのはざまに置かれた地政学的なストレスが、隠れていたこの国の亀裂を開いたのである。

現在のウクライナ領土は寄せ木細工に似て、第二次世界大戦までは東部はソ連領で、西部はポーランド領であった。冷戦中にクリミア半島が管内に入った。クリミアの軍港は冷戦後、ロシアが使うことになったが、将来も使い続けるのか?、が両国間の係争点となった。

独立時には希望に満ちたウクライナの進路であったが、20年を経過してみると、親欧米派と親ロシア派との争いで政治の不安定化は経済の足かせになっていた。

2014年に親ロシア派のビクトル・ヤヌコビッチ政権が崩壊した事件はマイダン革命と呼ばれる。EUとの連合協定に対する政権の態度への不満から、親欧米派がデモを行い、市街戦へと発展した。首都キーウは親欧米派が支配することになったものの、親ロシア派はクリミアとドンバスで巻き返しを図り、ロシアがそれを支援した。

ロシアの特殊部隊はクリミアを占領した[36]。半島の住民は大多数がロシア語を話す一方で、ムスリムであるクリミアタタール人が少数、存在する。住民投票でロシアへの帰属を支持する票が多数を占めると、親ロシア派が支配するクリミアは独立を宣言し、ロシアに編入された。プーチンは味を占めたであろう。

クリミアをめぐる一連の行動は国際法上、違法とされる。ロシアに綿密な計画があったわけでなく、ヤヌコビッチ大統領の逃亡から編入まではプーチンと側近がなりゆきまかせで決めた、とされる。親ロシア派は編入は当初、求めていなかったが、プーチンの示唆によって方針転換をした。彼はコソボがセルビアから独立した事例を引き合いに出した[37]。ロシアはコソボの独立を認めたか?、といえば、認めていない。二重の基準を平然と使い分けるのがプーチンのやり方である。

マイダン革命後、クリミアとともに、ウクライナ東部で親ロシア派が立ち上がった。ドネツクの町を中心としたドンバスと呼ばれる地域はロシアと経済関係が深く、ロシア語が支配的に話される[38]。住民はロシア人か?、ウクライナ人か?、ということは問題でない。遺伝子や形質にさしたる生物学上の違いはないはずである。宗教上の違いについては、ウクライナの正教会がロシア正教会から独立するかが争点であったという[39]。典礼での使用言語に関わるので、小さな問題とはいえないが、神についての異なる解釈をめぐり対立したわけでない。

ドンバスの親ロシア派も独立を宣言し、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を称した。ウクライナはこの反乱を鎮圧しようとしたが、ロシアが親ロシア派を援助したため、成功しなかった。両当事者は2014年と2015年の2度、ベラルーシのミンスクにおいて合意に達し、停戦に入ったが、小規模の交戦はなくならなかった。ウクライナとロシアとの係争点はドンバスの自治を大幅に認める連邦化であり、ロシアも二つの人民共和国の独立を承認しなかった。

8年後の2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。これも不思議な戦争である。プーチン大統領が「特別軍事作戦」と呼んだ戦争は、電撃的にキーウを落とし、ボロディミル・ゼレンスキーの政府を転覆するつもりであったとされる。ハンガリー動乱、プラハの春、ジョージア侵攻、そしてクリミア併合とソ連/ロシアの歴史には類似の作戦が散見される。既成事実を作り上げてしまえば、核兵器を持つ大国の行動を覆すことはできないという自信のなせる業である。

プーチン大統領がウクライナ戦争を始めるにあたって挙げた理由は三つある。一つはNATOへのウクライナの接近という地政学的な理由である。つぎに、ドンバスでジェノサイドが行われているという主張である。最後に、ウクライナのクリミア奪回計画である[40]

侵攻の直前、ロシアはドンバス2共和国の独立を承認し、同盟条約を結んだ。キーウへの奇襲が失敗すると、兵力をドンバスに集中し、同地域を含む占領地の併合手続きを行った[41]。こうした観察からは、ドンバスを中心とした領土の獲得が戦争の目的でないか、と仮説が立てられる。

筆者は、プーチン大統領はドンバスの併合以上の目的で戦争を始めたと考える。戦争前の2021年、彼は「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と題する論文を発表した。それを読むと、ウクライナが独立の国民国家であることを彼が否定していることが分かる。

ウクライナの真の主権は、ロシアとのパートナー関係にあってこそ可能であると確信している。我々の精神的、人間的、文明的な結びつきは、数百年にわたって形成されてきたのであり、一つのルーツにさかのぼり、共通の試練、偉業、勝利によって強められてきた。我々の同族性は世代から世代へ受け継がれている。それは、現代のロシアとウクライナに暮らす人々の心と記憶の中に、何百万もの我々の家族を結びつける血の絆の中にある。これまでも、そしてこれからも、我々はいつもともにあり、何倍も強くなり、成功していくだろう。なぜなら、我々は一つの民であるのだから[42]

ウクライナのゼレンスキー大統領は、ひるまずロシア軍の侵攻に対して迎え撃った。ウクライナ人にとってこの戦争は、国民国家として祖国を守る覚悟が問われる試練である。


[1] Europa World Year Book, 66th ed., vol. 3 (London: Routledge, 2025), p.3516.

[2] Robert Anthony Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism (New York: Random House, 2005).

[3] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.

[4] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.

[5] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.

[6] サイイド・クトゥブ、『イスラーム原理主義の「道しるべ」 発禁”アルカイダの教本”全訳+解説』、岡島稔、座喜純訳、第三書館、2008年、90-91ページ。

[7] クトゥブ、『イスラーム原理主義の「道しるべ」 発禁”アルカイダの教本”全訳+解説』、46ページ。

[8] ボブ・ウッドワード、『ブッシュの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2003年、182ページ。

[9] Michael Moore, Jim Czarnecki, Kathleen R. Glynn, James Addison Baker, Al Gore, Thomas Daschle, George W. Bush, et al., Fahrenheit 9/11, Columbia TriStar Home Entertainment, 2004.

[10] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.

[11] 永田雄三、加賀谷寛、勝藤猛、『中東現代史I』、山川出版社、1982年、317-318ページ。

[12] ドナルド・ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、江口泰子、月沢李歌子、島田楓子訳、幻冬舎、2012年、438ページ。

[13] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、335ページ。

[14] バラク・オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、山田文、三宅康雄、長尾莉紗、高取芳彦、藤田美菜子、柴田さとみ、山田美明、関根光宏、芝瑞紀、島崎由里子訳、Kindle版、集英社、2021、294-296ページ。ボブ・ウッドワード、『オバマの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞出版社、106-107ページ。

[15] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、572ページ。バラク・オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、山田文、三宅康雄、長尾莉紗、高取芳彦、藤田美菜子、柴田さとみ、山田美明、関根光宏、芝瑞紀、島崎由里子訳、Kindle版、集英社、2021年、Kindleの位置No.2651-2668、2771-2808。ウッドワード、『オバマの戦争』、516-517ページ。

[16] ウッドワード、『オバマの戦争』、154ページ。

[17] ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、473-474ページ。

[18] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、Kindleの位置No.8143-8180、8615-8616。

[19] ボブ・ウッドワード、『攻撃計画』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2004年、114、203-204、247-248、322、369-370、385ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、523、529ページ。

[20] Stanley Weiser, Oliver Stone, Bill Block, Eric Kopeloff, Paul Hanson, Moritz Borman, Phedon Papamichael, et al., W., Lionsgate, 2009.

[21] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、64ページ。

[22] ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、546-547、581ページ。

[23] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.

[24] ボブ・ウッドワード、『ブッシュのホワイトハウス』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞出版社、2007年、294-297ページ。

[25] ウッドワード、『ブッシュのホワイトハウス』、下、26-27、94-95ページ。

[26] ブッシュ、『決断のとき』、下、238ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、792、800-802ページ。

[27] ブッシュ、『決断のとき』、下、246-247ページ。オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、296-300ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、819-820ページ。太田順尚、「イラク米軍が戦闘任務終了 マリキ首相 「主権と独立得た」 政情安定には課題山積」、『日本経済新聞』、朝刊、2010年9月1日、インターネット版。

[28] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、Kindleの位置No.3310-3316。

[29] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.

[30] 押野真也、「「イスラム国」パルミラ爆破画像公開 シリアの遺跡」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年8月26日、インターネット版。

[31] 「イスラム国参加を企てか 北大生「戦闘員として」警視庁任意聴取 私戦予備・陰謀容疑 関係先を捜査」、『日本経済新聞』、朝刊、2014年10月7日、インターネット版。

[32] 吉野直也、「米、イラク限定空爆承認 大統領「過激派の虐殺防止」 」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年8月8日、インターネット版。吉野直也、「米、シリアに空爆拡大 大統領表明 「イスラム国を壊滅」有志連合づくり主導」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年9月11日、インターネット版。

[33] 佐野彰洋、「対「イスラム国」有志連合参加 トルコ、クルド勢力を意識 台頭に危機感、方針転換」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年8月26日、インターネット版。古川英治、「ロシア「イスラム国」空爆 混迷、一段と深まる恐れ」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年10月1日、インターネット版。

[34] ジョン・ボルトン、『ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日』、梅原季哉、関根光宏、三宅康雄訳、Kindle版、朝日新聞出版、92-100、331-332ページ。

[35] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.

[36] 松里公孝、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、Kindle版、筑摩書房、2023年、209ページ。

[37] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、202、210-214ページ。

[38] 田中孝幸、「ウクライナ東部、クリミアとの違いは 自治要求、編入支持は少数 経済面でロシアと密接」、『日本経済新聞』、朝刊、2014年4月16日。

[39] 高橋沙奈美、『迷えるウクライナ宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』、扶桑社、Kindle版、215ページ。

[40] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、398ページ。

[41] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、389-390、396-397、408ページ。

[42] ウラジーミル・プーチン、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」、2021年7月12日、原口房枝訳、池上彰、佐藤優、『プーチンの10年戦争』、Kindle版、東京堂出版、296ページ。

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正戦論

残虐な捕虜の扱いや武器の使用を見過ごせないのが人間である。利益だけでなく、正義を重んじる。死者や負傷者を減らすことだけ考えれば、そもそも戦争を行わないのが最善である。戦争がやむをえないのであるとすれば、正義にかなっているか、かなっていないか、厳しく吟味しなければならない。

残虐な捕虜の扱いは人道法、残虐な武器の使用は戦争法の守備範囲である。これらをまとめてラテン語でユス・イン・ベロという。戦争行為における合法性がその意味である。戦争そのものの正当性のことはラテン語でユス・アド・ベルムという。これら2種類の戦争に関する国際法をまとめて武力紛争法ともいう。これから見るのはユス・アド・ベルムつまり正戦論である[1]。今回のテーマは、現代の「正戦論」について論じなさい、である。

正戦は聖戦でない。聖戦は十字軍やジハードのように宗教上の理由で異教徒や異端者に対して宣言されるものである。正戦は不正を正す戦争のことであるが、ヨーロッパにおいてはキリスト教神学とともに始まったとされる。本来のキリストの教えは絶対平和主義に近かったであろう。しかし、それがローマ帝国の国教となると、現実の権力と折り合いをつけることが避けられなくなった。アウグスティヌスやトマス・アクィナスに起源をさかのぼるキリスト教神学において、平和とは単に国家間戦争がないことではなく、精神的に満たされた状態のことである。不義を討たなければ、満たされた状態はもたらされない。

主権国家が出現した近代初期、国際法の父と呼ばれる学者たちが現れた。フランシスコ・デ・ビトリアやフーゴー・グロティウスである。彼らは、相手の行動に一定の問題がある場合には戦争は許されるとした。そうして挙げられる戦争事由のことを、ラテン語でカスス・ベリという。攻撃された側には戦争事由は必要ない。自衛はつねに正当な事由であると考えられたであろう。

19世紀になると戦争事由は名目的なものになり、事実上、戦争に訴えることは自由になった。学説でいうと、開戦の理由に正不正はないとする無差別戦争観が主流になる。国家間における戦争は個人間における決闘に当たるものであり、国家間の紛争解決の方法である。正不正について論争があり、交渉で決着しないのであれば、仲裁が行われるのでないかぎり、戦争でカタをつけるほかない、という論理が幅を利かせた。

2度まで世界大戦の惨禍を経験した現代では、無差別戦争観は捨て去られた。国連憲章の第2章4が武力行使を禁止する一方で、憲章の第7章は集団安全保障と自衛権に基づく武力行使を認める。集団安全保障とは、五大国が一致して国際の平和および安全を守ることである。自衛権とは、五大国が一致しないがゆえに攻撃された国家は自力救済できるという権利である。

一部の国によって主張された正戦論に、ブレジネフ・ドクトリンまたは制限主権論がある。1968年に、チェコスロバキア政府がソビエト連邦の承認を得ず、勝手に民主化と中立化を始めた「プラハの春」が起きた。これをワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに攻め込み粉砕した。社会主義共同体を救うためには軍事介入も許されるという正当化の論理がソ連共産党書記長にちなみ、ブレジネフ・ドクトリンと称される。ソ連が武力行使をしても、核抑止力を持っているので誰も軍事力で止めることができない。大国が懲罰としての戦争をあえて行うことは今後も起こりえる。

国際法上の戦争とは、国家にたいする武力行使を伴うものである。海賊は国家から独立して活動するので、それを攻撃することは国際法上の戦争に該当しない。そのうえ、海賊は人類の敵とみなされており、その取り締まりは戦争ほど厳しく規制されてこなかった。慣習法や国連海洋法条約は海賊船の拿捕と海賊の逮捕を認める。ちなみに、国連海洋法条約第101条が定義する海賊行為とは、私有の船舶・航空機の乗組員・旅客が私的目的のために公海等にある人身・財産に対して行う不法な暴力行為・抑留・略奪行為である。

今回は正戦論のなかでも、特に人道的介入に注目したい。冷戦の終結から21世紀の初めにかけて、世界各地の紛争に外国が武力を使って介入をすることが少なからず行われた。そのたびに論争が巻き起こり、国際法上、合法か、違法か、をめぐって議論が戦わされた。

国際司法裁判所の管轄権は十分でなく、人道的介入の合法性をめぐる論争に決着をつけるだけの判例は積み重ねられていない。また、保護する責任をはじめとして新しい国際規範を定める動きも実を結ばなかった。ある国際法の教科書は、人道的な理由による武力行使が国際法上、許容されるに至ったと見ることには疑問がある、と記した[2]。繰り返し言うが、大国による武力行使の正否をめぐる論争はしばしばうやむやに終わる。

国際法で戦争の正不正を断じる代わりに、次善の策として、正不正を判断するためのいくつかの論点を検討することは無益でない[3]

まず、狭い意味での正戦論は、大義名分を問うことである。何百万人も犠牲となる虐殺をまえにして、手をこまねいていてよいか? 戦争の違法化という一般原則への例外として、武力介入しなければならないのでないか?

つぎに、国際社会の権威がお墨付きを与えれば、戦争をしてもよいと考えるかもしれない。集団安全保障は国際連合によるお墨付きである。では、地域的機構にそうした権限はないのか? この議論は国連憲章が起草された昔から存在したが、できた憲章は地域的機構の権限を否定した。

また、平和的に紛争を避けようと手を尽くしても、解決しなかった場合、最後の手段として戦争もやむをえない、という結論に至るかもしれない。国連憲章でも、非強制的な解決手続きがあり、非軍事的な強制措置があり、そのうえで、軍事的な措置が定められている。

さらに、コストの問題がある。これは経済的なものだけでなく、人的なものや環境的なものまである。犠牲者を減らすという人道法や戦争法の目的もここに含まれる。コストが大きいから一概に戦争は不可というわけではない。目的と手段が釣り合っていれば、犠牲を払う価値があるかもしれないからである。これを比例原則という。

最後に、負ける戦争を始めてはならない。当たり前のことと思われるかもしれないが、実際にはしばしば失敗する。兵力やテクノロジーに差があり負けるわけがないと思っている敵でも、いわゆる出口戦略を誤れば、犠牲が大きく、効果が小さい介入になってしまう。「任務遂行のためには、けちけちせずに必要なだけ送りこむ」という原則にはパウエル・ドクトリンという呼び名まである[4]

以上の論点から、冷戦後の主な戦争を吟味する。1991年における湾岸戦争の大義名分は、侵略からの解放であった。これは国連憲章に書かれた大目的であるのみならず、安全保障理事会があらゆる手段を使ってよいと権限を与えた。攻撃を始めるまえには、イラクに経済制裁を科し、サダム・フセイン大統領に世界の要人たちが会って和平の周旋をした。コストは決して小さいものでなく、油田が炎上したり、多くのイラク兵が殺傷されたりした。民間人への誤爆も報道された。劣化ウラン弾から発する放射線は、湾岸戦争症候群と呼ばれる兵士の体調不良の原因でないかと噂された。米軍のハイテク兵器に世界は目を見張り、作戦の成功を信じた。

1999年のコソボ戦争が大義名分としたエスニック・クレンジングの阻止は人道に対する罪に当たり、申し分のない理由である。ところが、ロシアと中国の理解が得られず、安保理決議は出なかった。NATOはランブイエ和平会議を開くなど努力はしたものの、集団的自衛権に基づく同盟であるので、国際法上はユーゴスラビアを攻撃する権利はなかった。それでも、NATO軍は圧倒的な軍事的優位を見せつけ、ユーゴスラビアを屈服させ、コソボから手を引かせた。攻撃により、ユーゴスラビアの橋や道路といったインフラが破壊されたが、NATO機は破壊しなくてよいベオグラードの中国大使館まで誤爆し、館員を殺してしまった。中国では「北約」、すなわちNATO、を非難するデモが起き、人道的介入に中国が賛成することは以後、なかった。

2001年の対テロ戦争は、被害を受けたアメリカ合衆国の自衛権に基づくとされ、安保理決議も同じ認識であった。アメリカ合衆国は9・11のテロ事件を起こした容疑者の身柄引渡しをアフガニスタンのタリバン政権に要求した。要求自体は正当であるものの、応じないことを見越した形だけの手続きであったかもしれない。大量の難民がアフガニスタンから流出し、米軍が撤退するまで20年もがかかったことは脇に置かれがちな戦争のコストである。

2003年のイラク戦争は大量破壊兵器の不拡散が大義名分であった。曖昧な安保理決議が出ていただけで、明確に武力行使を認める決議はついに出なかった。イラクに大量破壊兵器が存在することを示す説得力ある証拠をアメリカ合衆国が出せなかったからである。フセイン政権を倒したのちも、占領軍は大量破壊兵器を発見できず、治安の悪化によって何万もの命が奪われた。

2022年のウクライナ戦争はすべてがロシアのウラディミル・プーチン大統領の独断であった。ウクライナの現政権はネオナチであるという主張と、同国に中立化・非武装化・体制変化を迫る要求は国連憲章における政治的独立の原則を一顧だにしなかった。プーチンはそれ以前にクリミア半島を併合し、東ウクライナを分離独立させる行動をとっていたが、これらも憲章違反の領土保全侵害である。彼の戦争ならぬ「特別軍事作戦」にはお墨付きも紛争解決努力もなかった。緒戦の電撃戦が失敗したことにより、何百万人もの難民がウクライナを出た。飛行機とミサイルによる無差別爆撃は都市を破壊したのみならず、子供を含む多くの市民を殺傷した。ブチャという町でロシア兵がウクライナ市民を虐殺したという報道は世界を悲しませた。

上の諸例について、国際法学者の賛否は分かれた。合法性の要件を満たしたと考えられる湾岸戦争にさえ、多国籍軍は国連憲章に示された国連軍のモデルとかけ離れている、と皮肉がささやかれた。コソボ戦争は大義名分は申し分がなくても、国際法的には国連憲章違反であった。対テロ戦争の本来の目的はテロリズムの首謀者ウサマ・ビンラディンを捕まえることであったはずが、いつのまにか別の目的に置き換えられた。イラク戦争とウクライナ戦争に至っては、評価すべき点は何一つ見いだされない。

そもそも、純粋に、他人のためだけに戦争することなど、本当にあるのか? レーガン政権の国防長官キャスパー・W・ワインバーガーが演説した内容はワインバーガー・ドクトリンとして知られる。彼はアメリカ合衆国が派兵するに当たっての条件を挙げた。一に自国の国益、二に勝利の見通し、三に明確に定義された政治的・軍事的目標、四に継続的に再検討し、必要があれば修正されること、五に議会代表者の支持、六に最後の手段であること、である[5]。安保理決議による承認は含まれておらず、アメリカ合衆国の国益が第一にされている。演説が行われた冷戦中の1984年に国連安保理で米ソが折り合うのは現実的でなかったにせよ、自由も、民主主義も、人道さえ、判断基準にないのは注目に値する。

国益を最優先にすれば、国際法との両立が絶望的と思える状況がある。ブッシュ・ドクトリンは、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)政権が2002年に出した「国家安全保障戦略」(NSS)に記載された。通常弾頭であれば一発、国土に撃ち込まれたところで自衛権を発動し、反撃しても被害は軽微かもしれない。しかし、その一発が核兵器であったなら、人口密集地で爆発してから反撃するのでは遅すぎる。こうした大きな脅威にたいしては、いつどこで相手が攻撃してくるか予測できなくても、自衛のために先制攻撃をする方針がブッシュ・ドクトリンである[6]

ブッシュ・ドクトリンは翌2003年のイラク戦争を導く論理となった。理論的には、相手が核攻撃をしてくる可能性はつねに存在する。現実的には、核攻撃はナガサキ以降、起きていない。核攻撃の準備は当時でさえイラクより北朝鮮のほうができていた。ブッシュ・ドクトリンは戦争正当化のための言いがかりであった。

実際、意思決定者が何を考え、戦争をしているか、それは理論でなく、感情かもしれない。9・11事件の直後、ニューヨークの世界貿易センタービル跡を訪れたブッシュ大統領が感じたことを、記者のボブ・ウッドワードは次のように伝える。

そこにいた人々が、疲れた顔で、こちらの目を覗き込み、『やつらを叩きつぶせ』というんだ。だから、やつらを叩きつぶす。疑問の余地はない」その時点では、ブッシュは国民の強い圧力を感じていなかった。「いっぽうで、わたしの体、わたしの時計は――自分でもどうしようもない――本能だけになっている―中略―やる気満々になっている[7]

犠牲者に共感することが指導者の資質の一つであることは否定しない。しかし、このように発言すれば、自衛よりも復仇、すなわち仇討ち、が真の戦争目的であるかのように受け止められる。国民国家のバイタリティという観点からは、名誉や威信にかけて戦うのは正解であるが、それらだけで戦争を始める国が続けば、各国の不平不満が爆発して世界大戦になることは避けられない。やはり、国益だけを戦争の基準とするのでなく、国際社会も納得できる理由がなければ戦争はできないという基準にしなければならない。言い換えれば、正戦論は必要である。

では、戦争の基準とは何であるべきか? 正戦論のなかでも、人道的介入は一定の国際的理解を得ており、考察する価値がある。

人道的介入に始まりというものがあったとすれば、1991年にさかのぼる。場所はイラクにおけるクルド人の居住地域である。イラクのクルド人には、化学兵器を使って虐殺された過去がある。そうした人々に、多国籍軍はフセイン政権への反乱を呼びかけた。ところが、湾岸戦争が終わると、イラク軍は反乱を鎮圧し、クルド人を見殺しにできない多国籍軍は困り果てた。そこで、安保理はS/RES/688を決議し、人道組織による援助を許容するようイラクに要求し、全国連加盟国に人道的救済への貢献を訴えた。武力行使の権限を与えられていないにもかかわらず、米英仏軍がクルド人の避難地を保護するために展開した。イラクの主権が及ぶ同国の領土に軍隊を送ることは武力行使とみなされる。米英仏は地上だけでなく、クルド人が住むイラク北部と、同じく反乱の呼びかけに応じたシーア派住民がいるイラク南部にも飛行禁止区域を設定した[8]

主要国のマスメディアはこの人道的介入に喝采した。当時はソ連と中国は西側への批判を表沙汰にしなかった。サダム・フセインに味方することが分が悪かったばかりでなく、ゴルバチョフは国内政治で精一杯で、鄧小平は天安門事件によって国際的に孤立したからである。赤十字、UNHCR、そして国境なき医師団は難民キャンプを建て、クルド人を収容した。

次の舞台はボスニアヘルツェゴビナであった。1992年4月に紛争が始まってから、1995年11月のデイトン合意とその翌月のデイトン協定まで、実に3年半続いた。紛争を終わらせたのはNATO軍の空爆であったとされる。当時、国連難民高等弁務官であった緒方貞子は軍事介入ではなく人道援助をする当事者であったが、意外なことに、人道的介入を評価していたと振り返る。

―前略―武力を後ろ盾とした政治行動がなければ、ボスニアにおける戦争を人道活動だけでは終結できないことは明白であった。私は人道援助を迅速にするための武力行使には反対であったが、政治解決を後押しし、戦争を終結させるための武力行使には、特定の立場をとらなかった。―中略―結局、デイトン和平協定へ導いたものは、ゴラジュデの安全地域を攻撃したセルビア系勢力の軍事行動に対抗したNATO軍の航空攻撃であった[9]

どういうことかというと、ユーゴスラビアからの支援を受けたセルビア系住民の勢力は、自分たちが他を圧倒しているうちは戦闘をやめない。交渉のテーブルにセルビア系をつかせるには、NATO軍がその勢力を弱めなければならなかった、と言うのである。実際、ムスリム住民とクロアチア系住民が盛り返したところで和平は成った[10]

もちろん、NATO軍の空爆は合法であったか?、という論点は解決されていない。1993年6月の安保理決議S/RES/836は、NATOにではなく国連保護軍(UNPROFOR)に、安全地域に対する砲撃への反撃として、武力行使の権限を与えていた。1995年7月まで、NATO軍による空爆は飛行禁止区域の維持、国連保護軍の保護、そして安全地域周辺からの重火器撤去といった抑制の利いた任務にかぎられた。1995年8月からは重火器撤去にとどまらず、その移動阻止のための橋の破壊やセルビア軍の指揮系統・ミサイルシステムの破壊まで、なりふりかまわないものになった。その際、空爆の主体であるべき明石康国連事務総長代表の事前承認さえ得なかった[11]

このように、ボスニアヘルツェゴビナ紛争において、NATO軍は疑わしい権限のもとであったにせよ、他の手段では達せられない成果を残すことができた。結果よければすべてよし、でないのか? それでも人道的介入の正当性を拒む理由は何であるのか?

さらなる舞台はユーゴスラビア連邦共和国を構成するセルビア共和国の、さらにその一部であるコソボ自治州であった。南スラブ国を意味するユーゴスラビアであったが、コソボ人は非スラブ系のアルバニア語を話すムスリムが多数派であった。

冷戦が終わってから、コソボ人は独立運動を始め、セルビア人がこれにエスニック・クレンジングを行った。つまり、村々に殺人、傷害、放火、そして強姦を加えることによって独立運動を弾圧した。欧州安全保障協力機構(OSCE)がそれが事実かを調べるため、調査団を派遣した。1999年1月に、調査団は45人のアルバニア系住民が虐殺されたことを示す証拠を見つけた[12]

こうした事態を前に、アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領はセルビア治安軍によるコソボへの進軍に警告を発し、スロボダン・ミロシェビッチに最後の機会を与える特使をユーゴスラビアに派遣した[13]。開戦を決意したクリントンは次の演説をした。

考えてもらいたいことがある。コソボについてあまりご存じないかもしれないが、そのことについて今日は少し話してみたい。これを大きな構図で見てほしい。子供たちにどういうヨーロッパを持ってほしいか。ここにいる少女には、より安全で安らかで繁栄した世界で育ってほしい。そうするには分断されておらず、民主的で、自由なヨーロッパが必要である。他人と違っても、たがいに仲良くやっていく世界、これから40年間、世界のどこかのエスニック・クレンジングのシーンを毎晩みることを心配しなくてよい世界に住みたいものだ。(喝采)[14]

この戦争の結果、コソボでは国連が暫定統治を行い、NATOが治安維持を担当する体制がしばらく続いた。最終的には2008年、コソボは独立を宣言した。ほとんどのNATO加盟国や日本は国家承認をした。しかし、西側の軍事介入を脅威に感じるロシアと中国はしていない。両国は安保理の常任理事国であるので、それらが反対しているうちはコソボは国連に加盟できない。

人道的介入が必要でありながら、国際的な原則として確立しないのも、ロシアと中国が感じている安全保障上の脅威が原因である。つまるところ、安保理の拒否権があるかぎり、人道的介入の合法性については結論が出ないことになる。

こうした見方は現実主義と近い。人道的介入をクリントン・ドクトリンというレッテルで批判したのはアメリカ合衆国の評論家チャールズ・クラウトハマーである。ソマリア・ハイチ・アイルランド・中東・ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ・セルビアへの派兵は「道徳主義的で普遍的」と彼が述べるのは、カーによる国際連盟への批判や、モーゲンソーによるドミノ理論への批判につうじる。クラウトハマーは道徳主義を貫かないクリントン・ドクトリンの言行不一致を指摘する。クロアチアは一方的な被害者ではなく、自国のクライナ地方でセルビア人を無差別砲撃したからである。逃げたセルビア系住民は生涯、故郷に戻れないであろう。また、ルワンダでのジェノサイドが放置されたことも見逃さなかった。彼は、「対外政策の本質は、どちらの外道を支持してどちらの外道に反対するか」である、と断言する。外道は、1941年にはヒトラーかスターリンか、1972年にはブレジネフか毛沢東か、1979年にはソモサかオルテガか、であった[15]

クラウトハマーに反論するとすれば、選択的な介入であったとしても、ボスニアヘルツェゴビナとコソボの人命が救えたのであるから、しないよりよかったではないか、と言える。不介入にメリットがあったとしたら、ロシアと中国の顔を立てて、その後の西側との対立を抑えられたかもしれないことが挙げられようが、どだい不介入は西側の世論が許さなかったであろうし、21世紀におけるロシアと中国の勃興は止めようがなかった。

国際法では解決できない正戦論の問題に、政治哲学はいかに取り組んだであろうか? アメリカ合衆国の高名な学者であるマイケル・ウォルツァーは許される戦争として、自衛、集団安全保障、安全保障にたいする十分な脅威への予防、民族解放闘争への介入、外国による介入に対抗する介入、そして奴隷化または大量虐殺にたいする介入を挙げる[16]。最後のものが人道的介入に当たる。安全保障にたいする十分な脅威への予防はブッシュ・ドクトリンと通底し、そのことが彼の基準をかなり緩くしている。各論には異論もあろうが、自衛と集団安全保障だけに正戦を厳選する国際法学者が埋めることができなかったうやむやな部分を、冷静に考察した点は評価できる。

民主主義を守るために介入できるか?、は正不正の判断に迷うグレイな争点である。国際法では、そうした介入の権利は定着していない。1983年にアメリカ合衆国はグレナダに侵攻し、革命政権を転覆した。冷戦中で休眠状態にあった国連安保理の承認を得る努力は行われなかった。1989年に米軍はパナマに侵攻し、エドゥアルド・ノリエガ大統領を逮捕した。安保理でアメリカ合衆国はノリエガの麻薬密輸から合衆国市民を自衛するためと強調したものの、国連総会と米州機構は同国を非難した。1994年にアメリカ合衆国はハイチに軍隊を派遣し、軍事政権を逃亡させたが、事前に安保理は多国籍軍の編成を認めていた。1997年のシエラレオネへの介入は、米軍によるものでなく、ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)という地域機構がナイジェリア軍を主体とする兵力を派遣したものであった。安保理は非難決議は行わなかったものの、承認もしなかった[17]。トランプ政権は2026年にベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を違法薬物密輸の容疑でアメリカ合衆国に連行したが、彼が独裁者と呼ばれていなければそうしたであろうか?

これらの事例が教えることは、ソ連のブレジネフ・ドクトリンと同じく、安保理常任理事国が介入する場合、正不正はうやむやになってしまうことである。しかも、パナマとシエラレオネの事例において民主主義が最重要な争点であったか?、というと、真の目的は前者は麻薬取り締まりであり、後者は反乱鎮圧であった。ハイチの事例は民主主義の勝利と認められるが、現在の視点から振り返れば、冷戦後の一時的な米ロ和解のなせる業であった。ベネズエラの事件は石油が目的でなかったかと取り沙汰されている。

人道的介入に対するシニカルな見方を合法性の問題とともに支えるのが、選択的介入の問題である。この見方からすれば、「石油が出るから」、「いいビジネスだから」、「政権の支持率を上げるから」、「イカした兵器が使えるから」、「CNNに映るから」といったところが介入の真の理由である[18]。確かに、コソボ問題が注目を浴びたころには、クリントン大統領はホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーとの不倫疑惑で嘘をついたとして、下院によって弾劾裁判が行われていた。国民の目をそこからそらすために戦争しようとしていると受け止めた者は少なくなかった。

選択的介入は介入する場合だけでなく、介入しない場合にも批判される。ルワンダでの紛争では、虐殺が始まった時には十分な軍隊が派遣されず、虐殺を止められなかった。虐殺の加害者が逃亡した次の局面では、何らかの意図をもって行われたフランス軍の介入が非難された。アフリカ大湖地帯に難民があふれかえった最終段階で支援の手を差し伸べた国は不十分であった[19]

人道的介入は国連憲章に違反するか?、という問題を解決するかもしれないと注目されたのは、保護する責任の理論である。2000年にNATO加盟国であるカナダは介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)を設けて、介入を正当なものにしようとした。

カナダの動きは2005年の世界サミット成果文書の記述に影響を与えた。国家は「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪からその国の人々を保護する責任」を負う。国家が責任を果たせなかった場合、国連は「適時かつ断固とした方法で、安全保障理事会をつうじ、第7章を含む憲章に従って、集団的行動を取る用意がある」と記された[20]。真意は「安全保障理事会をつうじ」にあり、常任理事国が反対したままなされる人道的介入は憲章違反であると示唆された。ふりだしに議論は戻ったわけである。

21世紀になって人道的介入は低調となったが、リビアとシリアに西側諸国は派兵した。リビアに対する介入の根拠は安保理決議であった。2011年の「アラブの春」では、リビアでカダフィ政権への反乱が起きた。安保理決議S/RES/1973は、ベンガジなどで文民を保護するための武力行使を加盟国に認めた。表決では棄権が多かった(中国、ロシア、ドイツ、インド、そしてブラジル)。NATOの空爆は、その後の政権崩壊と内戦激化の流れを方向づけた。

シリアについてはアメリカ合衆国が軍事介入を示唆していた。2013年に現地で化学兵器使用が報告された際は、シリアが化学兵器禁止条約に加入し、米ロが同兵器を廃棄する合意が成って、一度は収拾された。翌年、アメリカ合衆国が軍事介入に踏みきったのは、イスラミックステイト(IS)と戦う大義名分でであった。

最後に、国際法から完全に離れ、人道的介入を純粋なヒューマニズムの立場で考える。それは人情の問題であり、古今東西の哲学と関連がある。『論語』の「義を見て為ざるは勇なきなり」とか、『孟子』の「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」とかは東洋版の自然法論である。後者は、赤ちゃんが井戸に落ちようとするのを見てかわいそうに感じなければ人間でない、という話である。人助けのためになら他国の領土に入っても許されるであろう、という人道的介入とこの話には一脈つうじるところがある。また、最上敏樹はフランスの哲学者であるポール・リクールの「人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」という言葉を引くが、これも同根の発想である[21]

見てかわいそうに感じれば反射的に介入してよいのか?、というと一度立ち止まるべきである。なぜなら、情報はそれを扱う者によって意図的に操作されるからである。ユーゴスラビアをめぐる一連の紛争において印象操作を行った「戦争広告代理店」の実態が、NHKの取材によって明らかになった。アメリカ合衆国の広告代理店がクロアチア政府、ボスニアヘルツェゴビナ政府、そしてアルバニア系コソボ人のために、コンサルティングをしていたのである。ボスニアヘルツェゴビナ外相であったハリス・シライジッチ本人はほとんどサラエボの惨劇を見ていなかったにもかかわらず、「テレジェニック」な映りになるように演技指導を受け、彼の語りは視聴者の心を打った。「エスニック・クレンジング」という言葉を広め、セルビア人をナチスと並ぶ悪玉に仕立てあげたのもこの広告代理店であった[22]。 戦争は多くの人命を奪う。戦争をするのであれば、最低でも比例原則に従い、介入しなかった場合よりも多くの人命を直接、救うことが確実な武力行使でなければならない。志願兵は自らの命をそうした使い方をすることに同意している。非戦闘員の犠牲は極力なくすべきである。もちろん、戦争の犠牲者を開戦前に予測することは難しい。それゆえにこそ、開戦の決断はきわめて厳しい基準をクリアしたものでなければならない。今回、これを暫定的な結論としたい。


[1] 筒井若水、『戦争と法』、東京大学出版会、1971年、19ページ。

[2] 杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映、『現代国際法講義』、第3版、有斐閣、2006年、78-79ページ。

[3] 以下の記述をするために、次を参照した。Conway W. Henderson, International Relations: Conflict and Cooperation at the Turn of the 21st Century (New York: McGraw-Hill, 1998), p. 144.

[4] ボブ・ウッドワード、『司令官たち』、石山鈴子、染田屋茂訳、文芸春秋、1991年、232ページ。

[5]ウッドワード、『司令官たち』、126ページ。

[6] The President of the United States of America, “National Security Strategy of the United States,” September 2002, p. 15.

[7] ボブ・ウッドワード、『ブッシュの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2003年、192ページ。

[8] Christine Gray, International Law and the Use of Force (Oxford: Oxford University Press, 2000), pp. 28-44.

[9] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、361ページ。

[10] フランソワ・ジェレ、『地図で読む現代戦争事典』、山本光久訳、河出書房新社、2003年、91ページ。

[11] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年、116-118、138ページ。

[12] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、166ページ。

[13] “Remarks by the President on the Situation in Kosovo,” The American Presidency Project, https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-the-situation-kosovo, accessed on February 3, 2026.

[14] “3/23/99 President Clinton at AFSCME Convention,” Department of State, https://1997-2001.state.gov/policy_remarks/1999/990323_clinton_afscme.html, accessed on February 15, 2025.

[15] Charles Krauthammer, “The Clinton Doctrine,” Time, April 5, 1999, https://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/time/1999/03/29/doctrine.html, accessed on February 15, 2025. 緒方、『紛争と難民』、123-124ページ。

[16] マイケル・ウォルツァー、『正しい戦争と不正な戦争』、萩原能久訳、風行社、2009年、135-258ページ。

[17] Gray, International Law and the Use of Force, pp. 42-44.

[18] Henderson, International Relations: Conflict and Cooperation at the Turn of the 21st Century, p. 399.

[19] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、240-241ページ。

[20] “2005 World Summit Outcome,” para. 138 and 139, quoted in A/RES/60/1.

[21] 最上敏樹、『人道的介入』、岩波書店、2001年、ixページ。

[22] NHKスペシャル「民族浄化」(2000年10月29日放送)。高木徹、『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』、講談社、2002年。

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国連事務局
https://youtu.be/PsFF_ir1NpI 私たちは国連事務総長を無力であると言いすぎでないか? 目標をバリバリと達成するのがカッコイイ指導者であると思っていないか? そうした劇画的な指導者は独裁者と紙一重ではないか? そもそも、執行責任者とは、与えられた権限のなかで物事がうまく進むよう工夫する者でないか? アメリカ合衆国大統領も、日本の内閣総理大臣も、中国共産党の総書記も、同じでないか? 国連の場合、憲章が事務総長に与…
琉球の境界は人民の幸福に基づいて引かれようとしたか?
(表紙の画像はAIによって作成された) 尖閣諸島は日本が実効支配をしていますが、中国と台湾は領有権を主張しています。1895年に日本が領有を宣言してから、日本人はそれが沖縄県に属すると信じていますが、Wikepediaに書いてあるのは、中国と台湾は台湾省だと言っているということです。 これから述べる分島交渉の時代には、これらの観念はありませんでした。日本が領有を宣言したのは1895年ですし、台湾と尖閣諸島のあいだには何…
核の傘
旧約聖書に「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。」[1]という節がある。もちろん、武具を捨てて平和的な道具を作ることをいう。これをもじって、『鋤から剣へ―民生核エネルギーの軍事的潜在力』という本が1977年に著された。すでに1974年、インドが核実験を成功させており、さらに核武装を行う国が現れる、と懸念されていた。この本は、3~6発の核兵器を製造するのに必要なプルトニウムを持つ国として、西ドイ…
武器移転と傭兵
人を殺したり、傷つけたりすることは特別なことであるはずである。よほどのこと、例えば疑いえない正義、のようなものがなければ、正当化の余地さえない。であれば、殺人や傷害のために使われた武器や兵士には罪があるのでなかろうか? 金儲けのために武器や兵士を売るならなおさらである。今回のテーマは、武器移転と傭兵(民間軍事会社を含む)をめぐる諸問題について論じなさい、である。 この70年あまり、現実に人を殺してきた武…
人身売買
https://youtu.be/hvD0L3wud-g どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともあ…

ベトナム戦争

なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。

いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]

共産主義の波は北ベトナムまで南下していた。南ベトナムに防波堤を築いて、その洪水を防ぐことが必要である、と大統領は考えた。当時、終わったばかりの朝鮮戦争では、半島の真ん中で共産主義の波を止めることに成功した。終わってみると、南ベトナムの首都サイゴンは波に飲み込まれ、カンボジアとラオスまで共産化してしまった。この結末からアメリカ合衆国は何を学んだのか? 今回のテーマは、ベトナム戦争の結末とキッシンジャー外交の関係について論じなさい、である。

インドシナ半島の東側を植民地支配していたフランスは1954年、ディエンビエンフーにおいて敗退した。北ベトナムと南ベトナムという分断国家が生まれた。前者は社会主義で、後者は自由主義である。南では、「ベトコン」とあだ名が付けられる南ベトナム民族解放戦線が1960年に結成され、テロリズムとゲリラ戦を開始した。南ベトナムの政情は混乱し、ゴディンディエム大統領は1963年に暗殺された。アメリカ合衆国のCIAが暗殺に手を貸していた。南北の間は停戦していたので、戦闘は南ベトナムの内戦という形で継続した。

米軍の関与が高まったのは1964年のトンキン湾事件からである。自国の駆逐艦が北ベトナムに攻撃されたというので、アメリカ合衆国の上下両院はトンキン湾事件特別措置法(トンキン湾決議)を圧倒的多数で可決した。これにより、ハノイを首都とする北ベトナムへの爆撃、つまり北爆、が始まった。トンキン湾事件についてハノイ政府は、現場指揮官が勝手に命令した、と主張する。もう1回、別の攻撃があった、という米軍の報告があるが、こちらは虚報であった[2]

米軍は最大54万人の兵力を投入したものの、解放戦線を鎮圧できなかった。逆に、普通の人々を虐殺したり、人体に有害な枯葉剤を撒いたり、といった悪評ばかりが広がった。

元来は内戦であったものは国際化し、東西両陣営がぶつかり合った。南ベトナム政府側には米軍、韓国軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、そしてタイ軍が加わり、南ベトナム民族解放戦線の側には、北ベトナム政府軍、中国人民解放軍、そしてソ連軍が加わった。犠牲者の推定値にはばらつきがあるので、兵士と民間人を合計して、おおよそ150万人としておく[3]

米軍敗退の始まりは1968年のテト攻勢である。「テト」は漢字で書くと「節」であり、春節すなわち旧正月のことである。南ベトナム解放戦線は基地や大使館を襲撃し、そのニュースは合衆国市民を憂鬱にした。その年のうちにアメリカ合衆国は撤退を決め、戦闘の主力を南ベトナム政府軍に移すことにした。これを「ベトナム化」という。新たに就任したリチャード・M・ニクソン大統領はグアムでの声明で撤退の方針を明らかにした。1972年、米軍は地上軍の撤退を終え、翌年、パリ和平協定が結ばれた。1975年にサイゴンは陥落し、南北は統一された。

南ベトナムと北ベトナムの境界には非武装地帯があったため、北からの物資や兵員は隣のラオスとカンボジアをとおって南に送り込まれた。この隣国での輸送路がホーチミン・トレイルやホーチミン・ルートと呼ばれるものであった。カンボジアでは元国王のシハヌークが中立を装いながら武器の輸送を助けた。しかし、彼は1970年に軍人のロン・ノルによるクーデターで失脚した。

ロン・ノルのクーデターに呼応して、米軍と南ベトナム軍がカンボジアに攻め込み、北ベトナム軍と戦った。翌年には、ラオスにも米軍は侵攻している[4]

ポル・ポト派はクメール・ルージュと呼ばれ、教師をしていた共産主義者のポル・ポトが指導者であった。政権を追われたシハヌークと組み、1975年に首都プノンペンを制圧した。ポル・ポト派とシハヌーク派を背後で結びつけたのは中国であった。中国の文化大革命がそうであったように、あるいはそれ以上に、イデオロギーの教化にポル・ポトは力を入れた。彼が行った強制労働と虐殺は惨をきわめ、映画『キリング・フィールド』によって世界中に知れ渡った[5]

ベトナム戦争への反対は、平和運動など左翼からだけでなく、パワーポリティクスを支持する現実主義者からも声が上がった。シカゴ大学教授のハンス・J・モーゲンソーが1967年に『フォーリンアフェアーズ』誌に書いた論文から引用する。

一九六二年のキューバ危機の妥結の一部分としてキューバへの不介入を約束した結果、今日、キューバは軍事的にも政治的にもソビエトの前哨基地となっているだけでなく、西半球における反政府活動や軍事介入の拠点でもあり、アメリカの国益を直接的に脅かしている。しかし一方でベトナムがアメリカに及ぼす共産主義の脅威は微々たるもので、キューバによる共産主義の脅威と比べればかぎりなく小さい。にもかかわらず、われわれは大規模な戦争の危険を冒してまで、ベトナムに大掛かりな介入を行っている[6]

ドミノ理論は彼の言うところの「やみくもな反共主義」であり、成功したとしても国益にはならない。現実主義が勧める「アメリカの国益を政策判断の基準とする政策」はベトナムの革命を阻止することでなく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの革命運動をアメリカ合衆国の味方にすることである[7]。モーゲンソーの助言によって、その後に起こった世界の諸革命にたいするアメリカ合衆国の態度は修正された。

インドネシアのスカルノ大統領といえば、日本では夫人の一人が有名である。アジア・アフリカ会議のホストとなり、非同盟諸国運動の立ち上げに貢献した彼はスハルトに権力を譲るまえに何をしたのか?

敗北した日本から国土を受け継いだスカルノは、旧宗主国であるオランダとの独立戦争に勝たねばならなかった。それを成し遂げると、中央集権と領土獲得に邁進した。イギリス領であったカリマンタン島北部の北ボルネオを反乱させ、マレーシア連邦の成立を妨害もした。彼にとっては、マレーシアは新帝国主義者の傀儡であり、それとのコンフロンタシ(対決)は正義の戦争であった。

スカルノが行ったユニークな外交は1965年における国際連合からの脱退である。実は国連憲章には脱退の規定がないので、国連の歴史ではなかったことになっている。国連の代表権を否定されていた中華人民共和国と連携し、CONEFO(新興勢力会議)を同年、立ち上げた。

ところが、1965年にCIAの後押しを受けた軍部が共産党を弾圧する9・30事件が起きた。大統領と軍の力関係は逆転し、翌年、スカルノは軍人のスハルトに全権を委譲した。

ベトナムでも、カンボジアでも、インドネシアでも、冷戦の東西対立は血なまぐさい結果を生んだ。モーゲンソーの言うとおり、ベトナムとカンボジアでは「やみくもな反共主義」をアメリカ合衆国は実行する必要はなかったろう。

アメリカ合衆国は政策を転換し、東南アジアの中立化に取り組み始めた。1969年に表明されたグアム・ドクトリンまたはニクソン・ドクトリンがドミノ理論に代わる新しい原則であった。もはや、東南アジア諸国には反共の防波堤ではなく、主権国家として責任ある行動をとることを期待することにした。ドクトリンの一部を引用する。

しかし、第二に、国内の治安問題に関するかぎり、その軍事的防衛問題に関するかぎり、核兵器をともなう大国からの脅威が生じる場合を除いては、アメリカは、この問題をアジア諸国自身が、今後ますます、みずから負担し、その責任をみずから負うように助長していくつもりだし、それを期待する権利もある、と考えている[8]

1967年、ASEAN(東南アジア諸国連合)が結成された。インドネシア、かつてはその仇敵であったマレーシア、フィリピン、シンガポール、そしてタイが当初の加盟国であった。東南アジアを「平和・自由・中立地帯」とすることを謳ったのは1971年のクアラルンプール宣言である。東南アジア友好協力条約(1976年)はそうした精神を集大成し、独立・主権・領土保全・国家一体性・不干渉・武力不行使・平和的紛争処理を原則とした。これらが平和五原則を継承するものであったことは言うまでもない。親米同盟であるSEATO(東南アジア条約機構)は1977年に解散した。

ヘンリー・A・キッシンジャーは世界情勢を鋭く見きわめた。彼はニクソン政権の安全保障担当補佐官に就任し、1973年に国務長官に昇進する。中国およびエジプトとの和解は、彼を世界史上の大人物にした。彼の訪中は友好国であるはずの日本にも内緒であり、佐藤栄作首相は1971年7月16日の日記にこう書いた。

今日のビッグ・ニュースは何と云ってもワシントンと北京とで同時に発表された、米ニクソン大統領が来年の五月までに北京を訪問すると発表された事だ。キッシンジャーが国務省をぬいてカラチから北京入りしたものだが、発表までよく秘密が保たれた事だ。牛場大使に対しては、発表前僅か二時間ばかり前にロジャーズ長官から通報をうけ、日本や国府との干係にはかわりないとの事。中身はわからぬが、ベトナム戦を早くやめ度い、それが主眼か。―中略―すなほに慶賀すべき事だが、これから台湾の処遇が問題で、一層むつかしくなる[9]

1971年10月に、国連代表権が北京に移った。国際社会における孤立感はかつて北京とジャカルタにCONEFOを作らせた。もはやそれを覚えている者とてなく、世界の国々は我さきと北京と国交を結ぼうと動きだした。

1972年にニクソンは中国と上海コミュニケに合意した。半年後に来た田中角栄は日中共同声明を発して国交正常化を成し遂げ、1978年に日中平和友好条約で日中関係は発展した。米中は1979年に国交を樹立し、中国はソ連との友好同盟相互援助条約を破棄した。

日中平和友好条約には、有名な「反覇権条項」(第2条)がある。暗に意図されているのはソ連に対する共闘であるとされている。

エジプトでは、ナセルは1967年の六日戦争に敗れ、失意のうちに亡くなった。彼を継いだアンワル・アル・サダト大統領は和解を探り、シグナルを送った。イスラエルとの平和条約の可能性に言及したり、ソ連の軍事顧問団を追放したりしたものの、キッシンジャーはとり合わず、「エジプトが敗者で、イスラエルが勝者の座にある限り、残念ではあるが、アメリカはエジプトを助けるために何もできない」と挑発した[10]

第四次中東戦争はサダトの気概を示すチャレンジであったと理解できる。1973年のエジプトによる奇襲は成功し、軍はスエズ運河を渡った。早くもその翌日、彼は停戦条件を示した。しかし、イスラエルの逆襲は成功し、進軍は止まった。ここでキッシンジャーが仲介に入り、兵力引き離しの協定が結ばれた。

アメリカ合衆国の政権が民主党の手に移り、キッシンジャーが外交の舞台から降りても、和解の動きは止まらなかった。1978年、ジミー・カーター大統領の仲介により、キャンプデイビッド合意がエジプトとイスラエルの間に成し遂げられた。中国ばかりかエジプトまで西側に鞍替えしたのである。サダト個人にとってそのツケは重く、1981年に暗殺された。

このように中東では、かつての仇敵は歩み寄ったものの、同盟の組み替えにとどまっただけで、中立化は起きなかった。東アジアにおいても、冷戦はまったく解消したわけでなかった。

1979年の中越戦争は、血で血を洗うの比喩が当てはまる。前年の暮れ、ベトナムはプノンペンのポル・ポト派政権を崩壊させ、親ベトナムの社会主義政権を樹立した。ポル・ポト派を支持する西側についた中国は冷戦の論理でポル・ポト派、シハヌーク派、そしてソン・サン派に三派連合を組ませて、プノンペンに対抗した。1978年10月、訪日していた中国の鄧小平副首相は福田赳夫総理大臣にこれらの動きを暗示することを語った。

現在ヴィエトナムはカンボディアを侵攻しようとしている。その戦争の規模は抗米戦争、グエンバンチューに対する戦争のそれよりも上回っている。このような状況の下では、中国の援助の意義は全くなくなってしまった。―中略―われわれは、東方のキューバをこれ以上強大化したくなかったので、援助を停止したが、そうすることによりかえってヴィエトナムをソ連の方へ追いやってしまうのではないかとの心配も真剣に考慮した。しかし、検討の結果ヴィエトナムは、とうの昔にソ連の基地になってしまっているということが分った。従って、ソ連の方に追いやってしまうという問題は既になかった[11]

中国にとって、敵であるソ連の味方になったベトナムは敵であった。何万人もの犠牲者を出した中越戦争はベトナムを懲らしめるための戦争であった。

カンボジアについて、パリ和平合意がまとまったのは冷戦後の1991年である。翌年、国連の平和維持活動であるUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が派遣され、再建に取り組んだ。 これまで見てきたように、代理戦争は紛争の惨禍を何倍にもする。武器はふんだんに援助されるので、人の命がいくつあっても足りない。では、冷戦が終わったら、東西のバランスを考慮しなくてよくなって、平和は容易になったのか? そうした予想に反し、1990年代も悲惨な戦争は絶えなかった。


[1] ロバート・マクナマラ編、『果てしなき論争』、仲晃訳、共同通信社、2003年、65ページ。

[2] 三野正洋、『わかりやすいベトナム戦争』、光人社、1999年。マクナマラ編、『果てしなき論争』、289-295、341-346ページ。

[3] ドン・オーバードーファー、『テト攻勢』、鈴木主税訳、草思社、1973年。三野、『わかりやすいベトナム戦争』、245、248ページ。ケンブリッジ現代社会国際研究所、猪口孝編、『ヴィジュアル・データ百科 現代の世界』、原書房、2008年、103ページ。

[4] 松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、142ページ。三野、『わかりやすいベトナム戦争』、118ページ。ノロドム・シアヌーク、バーナード・クリッシャー、『私の国際交遊録―現代のカリスマとリーダーシップ』、仙名紀訳、恒文社、1990年、86ページ。

[5] Bruce Robinson, David Puttnam, Roland Joffé, Sam Waterston, Haing Ngor, John Malkovich, Julian Sands, et al., The killing fields, 1984.

[6] ハンス・J・モーゲンソー、「介入すべきか、介入せざるべきか」、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編、『フォーリン・アフェアーズ傑作選1922-1999 アメリカとアジアの出会い』、上、朝日新聞社、2001年、274ページ。

[7] モーゲンソー、「介入すべきか、介入せざるべきか」、275-276ページ。

[8] ヘンリー・キッシンジャー、『キッシンジャー秘録』、第1巻、桃井真、斎藤弥三郎、小林正文、大朏人一、鈴木康雄訳、小学館、1979年、295ページ。

[9] 伊藤隆監修、『佐藤栄作日記』、朝日新聞社、1997年、377ページ。

[10] アンワル・エル・サダト、『サダト自伝』、朝日新聞外報部訳、1978年、279ページ。

[11] 「福田総理・鄧総理会談記録(第一回目)」、1978年、10月23日、情報公開法にもとづく開示、14-15ページ。

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相互依存
https://youtu.be/irF7qyRV4-4 関税は商品の代金とは別にかかる費用である。関税を下げれば、国境を越えて商品は移動しやすくなる。これが自由貿易の考え方である。自由貿易が行われる国々の住民は、余計な費用をかけずに商品を売ったり、買ったりでき、選択の自由は飛躍的に増す。 しかし、同じ商品を国内で作っていた業者にとっては、外国からより低い価格で商品が買えるとなると、自分が作ったものが売れなくなってしまう。輸…
湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と
(表紙の画像はAIによって作成された) 地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。 地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。 日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。 教科書での関連する記述 教科書 湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見…
鴨衣斎「無露圭角」コンテンツの休止について
皆様におかれましてはご愛顧ありがとうございます。 お楽しみくださっている鴨衣斎名義でのブログについてですが、誠に恐れ入りますがしばらく休止することにいたしました。 サイト運営費用を調達するためGoogle社のAdSenseを導入することを検討してまいりましたが、あまりに自由なブログの形式と内容が同社の規定になじまないようでございます。 とりあえずはAdSenceの審査に通ることに専心し、ブログは何らかの形で再開できるよ…
平和的紛争解決
国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…
会議外交
https://youtu.be/QMvumq8NaYA 永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。 今回のテーマは、19世…

中東戦争

中東戦争は第一次から第四次まで数えられるが、そうした呼び方は日本独特のものである。欧米とイスラエルは、順に独立戦争、スエズ戦争、六日戦争、そしてヨムキプール戦争と呼ぶ。アラブ人は第一次をナクバ、第四次をラマダン戦争と呼ぶ。四つの戦争がひとからげにされるのは理由のないことでない。いずれもイスラエルとエジプトが交戦国に入っていた。今回のテーマは、シオニズムおよびアラブ・ナショナリズムと中東戦争との関係を論じなさい、である。

前近代の中東は多文化社会であった。聖典クルアーンに記された中世の言語であるアラビア語がリングアフランカ(共通語)であった。その一方、地域と時代によっては、トルコ語やペルシャ語が公用語であったり、アラビア語のなかでも文語のフスハーでなく方言が使われたりした。宗教も多様で、イスラムだけでも、スンナ派とシーア派をはじめ多くの宗派がある。キリスト教とユダヤ教への信仰は途絶えたことがない。多様性を平和裏に包容していたのが近世ではオスマン帝国であった。このイスラムの家はオスマン帝国の滅亡とともに10を超える国民国家へと分裂した。

ユダヤ人のナショナリズムはシオニズムの形をとった。シオニズムとは、民族の故郷エルサレムにあるシオンの山に帰って自らの国を作ろうという運動である。入植したヨーロッパのユダヤ人たちはアラビア語を理解しなかったので、よそ者たちは現地社会と摩擦を起こした。ユダヤ人は日常語として死語になっていたヘブライ語を生き返らせ、イスラエルの公用語とした。

オスマン帝国の崩壊は、アラブの反乱から始まった。1915年のマクマホン・フセイン書簡は、イギリスの駐エジプト高等弁務官が聖地メッカ(マッカ)の太守に反乱を要請し、アラブの独立を約束したものであった。それは第一次世界大戦の敵国であるトルコを撹乱する工作の一環であり、反乱軍を支援した情報将校は「アラビアのロレンス」ことトマス・E・ロレンスであった[1]

ユダヤ人にたいして、パレスチナに「民族の本拠(ナショナルホーム)」を設けることをイギリスは約束した。これが1917年のバルフォア宣言である。上のマクマホン・フセイン書簡と並べて、イギリスの二枚舌外交として悪名高い。民族の本拠は曖昧な表現であり、ユダヤ人に主権国家を与える、とはっきり言ったわけでない。ユダヤ人のパレスチナ植民(アリヤー)は勢いを増した。ナチスによるホロコーストから逃避した避難民が加わり、建国の機は第二次世界大戦後に熟した。

アラブの側はというと、オスマン帝国が滅亡してただちに独立したのは、トルコ、サウジアラビア、そしてイエメンくらいであった。残りは、1919年の国際連盟規約第22条に基づき、英仏の委任統治のもとに置かれた。1916年に英仏のトルコ分割計画であるサイクス・ピコ協定が合意されていた。イギリスはイラク、パレスチナ、そしてトランスヨルダンを治め、フランスはシリアとレバノンを支配することになった。サイクス・ピコ協定をマクマホン・フセイン書簡およびバルフォア宣言に加えて、イギリスの三枚舌外交と呼ぶ人がいる。

第二次世界大戦が終わり、アラブの諸国民は名目的には独立したものの、真の独立はまだであった。皮肉なことに、アラブの目覚めを促したのはイスラエルの独立であった。

ユダヤ人は国際世論を味方につけ、1947年に国連総会のパレスチナ分割決議A/RES/181を勝ちとった。それはパレスチナ委任統治領をユダヤ人国家、アラブ人国家、そして国際管理地区の三つに分ける案であり、ユダヤ人国家は今日のイスラエルよりも狭く、アラブ人国家はヨルダン川西岸とガザ地区を合わせたより広く、エルサレムは国際管理下に置かれるというものであった[2]

アラブ諸国はよそ者のユダヤ人に領土を与える理由が分からなかった。パレスチナ分割決議案の投票結果は賛成33、反対13、棄権10であり、アラブ諸国は当然のごとく反対票を入れた。

話し合いでの解決が絶望的であったがゆえに、翌年、イスラエルは一方的に独立を宣言した。アラブ世界はこれを認めず、全面戦争になった。軍事的に優勢であったイスラエルは国連総会の分割案よりも多くの支配地を確保し、休戦に持ち込んだ。旧市街の城壁の外側にある西エルサレムもそこに含まれた。1950年、イスラエルはエルサレムを首都と宣言した。

難民問題が始まったのはこの時からである。大量のアラブ人がイスラエルの支配地から追われた。UNRWA(国連パレスチナ救済事業機関)は1950年に75万人の難民のために活動を開始した。2026年現在、この機関の救済対象である実際に移住した人の子孫を含むパレスチナ難民は590万人とされる[3]。一つの中規模国家がまるごと難民の地位にあるようなものである。グローバルガバナンスの観点からは、政治的権利をはじめ、さまざまな自由を奪われている人々がこれだけいることは見過ごしてよいはずがない。

アラブ人にとって、はるかに少ない人口のユダヤ人に負けたことは悪夢であった。王制下で1951年に独立したリビアのような、形ばかりの独立を遂げた国は増えていた。真の独立とアラブの人々に受け止められたのは1952年のエジプト革命であった。軍人のガマル・アブドゥル・ナセルは自由将校団の一員として、イギリスの操り人形と目された国王を追放した。彼はイギリス中心の同盟であるバグダード条約機構に反対し、「日の沈まない」イギリスの帝国を維持するのに不可欠であったスエズ運河を国有化した。

スエズ運河の最大株主であるイギリス、小口ではあるがまとまれば株主総会で多くの票を動かすフランス、そして、アラブと休戦しただけのイスラエルはエジプトを共通の敵とした。三国は示し合わせ、まず、イスラエルがエジプトを先制攻撃し、英仏がそれに加わる形で第二次中東戦争の火ぶたを切った。この戦争は帝国主義を終わらせた。国際世論からの非難に耐えられない英仏は撤退を迫られた。

第二次中東戦争は冷戦の始まりでもあった。エジプトはソ連の力を頼らなければ軍事も、経済も立ち行かなかったからである。スエズ戦争でソ連がエジプトに肩入れしたのは、東西間のパワーゲームでうまく立ち回っただけかもしれないが、ナイル川のダム建設ではソ連の資金と技術は不可欠であった。社会主義の評判が高まり、イラクとシリアも、ソ連陣営に加わった。

カリスマを得たナセルはアラブ・ナショナリズムの盟主になった。その目標はアラブ人が一つの民族として一つの国家を作ることであった。手始めに、エジプトはシリアと1958年にアラブ連合共和国を結成した。すぐにシリアが脱落して、実体は失われたものの、エジプトはナセルの時代、この国名で通すことになる。

高い目標は、ナセル自身のみならず、アラブ世界にも重荷になった。イスラエル国家の承認を拒否するがゆえに、無謀な戦争が繰り返された。次善の策として、アラブ・ボイコットと称される経済戦争が実行された。それは第三国とイスラエルとの取引を監視し、前者に圧力をかけ、やめさせようとするものである。これも目的を達成するにはほど遠かったが、アラブ連盟の結束の証にはなった。アラビア語の共通性は疑いようのないきずなであった。

ナセルの行き過ぎた攻勢が高転びを招いたのは、1967年6月の第三次中東戦争である。イスラエルへの包囲を厳しくしたことが、逆にその奇襲攻撃を呼び、取り返しのつかないダメージを被った。国連緊急軍(UNEF)を撤退させ、エジプト軍をイスラエル軍の矢面に立たせた。アカバ湾の入り口にあるティラン海峡を封鎖し、イスラエル唯一の紅海への出口であるエイラート港を使えなくした。ヨルダンおよびイラクとともに防衛協定を結んだ。すべて裏目に出て、イスラエルからの奇襲を許すことになった。

モシェ・ダヤン国防相とイツハク・ラビン参謀総長のもと、イスラエルはエジプトの空軍基地を爆撃し、航空戦力を完全に無力化した。六日間で停戦したため、第三次中東戦争は六日戦争ともいう。

第三次中東戦争によって得られた占領地がパレスチナ紛争の原因である。その一つ、エルサレムの旧市街を含むヨルダン川西岸は、第一次中東戦争においてヨルダンが占領した土地である。古代、ユダヤ教の神殿があった西壁(嘆きの壁)は、キリストの墓である聖墳墓教会とムハンマドが昇天した岩のドームとともに、この旧市街にある。

別の占領地であるガザは、第一次中東戦争においてエジプトが占領したが、今度は南に連なるシナイ半島とともにイスラエルの手に渡った。シナイ半島のすぐ西はスエズ運河であり、その対岸がエジプトの人口密集地帯であるナイル川の三角州である。

最後に、ゴラン高原は、駆け下ればシリアの首都ダマスカスである。シリアは喉元の戦略的高地を押さえられたことになる。イスラエルにとっては、淡水湖であるガリラヤ湖の岸をシリアから切り離したことが大きかった。両国の対立は水資源の奪い合いでもある。

イスラエル支配の拡大により、さらに多くの難民が発生した。PLO(パレスチナ解放機構)は1964年に設立されていたが、その一翼、ヤセル・アラファト率いるファタハはシリアを拠点として果敢にイスラエルを攻撃した。第三次中東戦争はPLOのゲリラ戦とテロリズムを拡大し、占領地から放逐された難民を加えて戦闘員の数は膨れあがった。西岸から逃避した人々はヨルダンに流れこんだが、国ごと乗っ取られることを恐れたヨルダン政府により弾圧された。1970年代、難民とPLOはレバノンに移って根拠地とし、レバノン内戦を引き起こした。

敗戦によって、理想と現実のギャップが広がったアラブ諸国は、2か月後の首脳会議で、3つのノーに合意した。すなわち、イスラエルと講和しない、承認しない、交渉しない、である。さらに、1967年11月には安保理決議S/RES/242が占領地からの撤退と諸国家の平和共存を求めた[4]

第三次中東戦争では、アメリカ合衆国は明らかにイスラエルの肩を持っていた。ユダヤ系市民がイスラエル・ロビーまたはユダヤ・ロビーを形成し、イスラエルを支持するよう圧力をかけたと信じられている。中東は、超大国と現地勢力が連携する代理戦争の鉄火場になった。スエズ運河もさることながら、地下に埋まった石油にアメリカ合衆国は食指を動かした。

ナセルが失意のうちに亡くなると、後継者のアンワル・アル・サダト大統領は失ったものを取り返そうとした。

1973年、サダトはソ連の武器供与を受けたシリアから参戦の同意を取りつけ、サウジアラビアからは資金提供と石油戦略の約束を得た。初めてエジプトの先制という形で、第四次中東戦争は勃発した。エジプトはシナイ半島に進撃したものの、すぐにイスラエルに押し戻された。これまでの中東戦争と同様、アラブの敗北をつくろうように、国際社会が交渉のお膳立てをして終戦を迎える、と思われた。

従来と違ったのは、第一次オイルショックが発生したことである。OPECとは別に、アラブは独自にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)を作っていた。非アラブのベネズエラ、イラン、ナイジェリアなどの国々は後者の加盟国でない。エジプトとシリアはOPECに入っていなかったものの、OAPECには入っていた。OAPECはアメリカ合衆国への石油の全面禁輸、その他の国々への部分禁輸を発表した。ヨーロッパ諸国は友好国と認定されたものの、日本は非友好国として部分禁輸の対象となった。驚いた日本政府は親アラブ政策に転換した[5]。石油を使ったアラブ・ボイコットはよく効いた。先進国は翌年、原油価格の高騰に対処するためIEA(国際エネルギー機関)を設立した。

サダトはアラブ・ナショナリズムを終わらせた。ナセルの構想では、アラブ統一国家は当然、パレスチナを自らの領土として含み、イスラエルは消滅するはずであった。加盟国の国家主権を前提とする国連においてイスラエルの消滅に広い支持を得る可能性は皆無であった。

サダトの最大の業績は、イスラエルのメナヘム・ベギン首相とのキャンプデイビッド合意(1978年)である。それはヨルダン川西岸およびガザに自治を樹立することと、エジプト・イスラエル間で平和条約を結ぶことを目指すものであった。エジプトはシナイ半島を返還されるものの、ガザは放棄することになる。合意を仲介したのは、アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領であった。エジプトはアメリカ合衆国とも和解したことになる。彼はアラブ世界から裏切り者と罵られ、1981年に暗殺された。エジプトとイスラエルが戦う「中東戦争」はこれで終わった。

中東から戦争がなくなったわけでなかった。同盟関係の変化は世界のどこでも起こりうるが、石油の産出地であるがために、大国はつねに介入してくる。ソ連またはロシアにとっては自領の隣に当たるため、アメリカ合衆国と常時、向かい合わなければならない。

キャンプデイビッド合意と時を同じくして、イラン革命(1978-1979年)が起きた。近代化を目指す親米の王国が、いわゆるイスラム原理主義の反米・神政国家に急転回してしまった。

1980年には、サダム・フセイン大統領のイラクがイランを攻撃した。アメリカ合衆国は、本来は敵であるはずの親ソ連の社会主義国であったイラクに武器を援助した。第三国をつうじてひそかに与えたばかりでなく、ヘリコプターなど軍民両用物資を直接に輸出し、化学プラントを含む外国の売却まで黙認した[6]。化学プラントは大量破壊兵器に分類される化学兵器の製造に使われる可能性があった。

最大のスキャンダルとなるイラン・コントラ事件は「二股膏薬」の実例であった。アメリカ合衆国はイランにも武器を密売し、その利益をニカラグアの反政府勢力コントラに提供した。敵どうしのイラクとイランにアメリカ合衆国は武器を与えたことになる。

イラン革命に伴う第二次オイルショックを背景にして、目立たなかったペルシャ湾岸の君主国が自己主張を始めた。湾岸協力会議(湾岸協力理事会、GCC)の設立は1981年である。エジプト・イラク・イランに囲まれたオマーン、クウェート、カタール、サウジアラビア、バーレーン、そしてアラブ首長国連邦には、どちらかと言えば弱小国のイメージがあった。潤沢な石油収入のおかげで、各国は人口が急増し、いまやサウジアラビアは押しも押されもせぬ地域大国である。

PLOが拠点としたレバノンは混乱をきわめた。内戦が1975年に始まり、北部にはシリア軍、南部にはUNIFIL(国連レバノン暫定軍)が駐留した。中部は、キリスト教徒の最大勢力であるマロン派が優勢であった。

1982年にイスラエルがレバノン戦争を仕掛けたのは、反イスラエルのPLOとシリアの戦闘員を掃討するためであった。その過程で起きたのが、マロン派民兵がパレスチナ難民を虐殺したサブラ・シャティーラ難民キャンプ事件である。虐殺を止めなかったイスラエル兵の心理は映画『戦場でワルツを』(2008年)の主題となった[7]。暴力の応酬は、その後もシーア派組織ヒズボラやアメリカ合衆国の諸機関を巻き込んで止まらなかった。

レバノンの政治は1943年の国民協約によって規定されていた。1989年にそれを修正するタイフ合意(国民和解憲章)がなされ、内戦は一応、終結した。しかし、2006年にイスラエルがふたたび侵攻するなど、危機は数年おきに繰り返される。

冷戦終結の翌年、世界を驚かせたのはイラクによるクウェート併合であった。サダム・フセインはイランと戦ったことで、アメリカ合衆国の覚えがよくなったと誤解したかもしれない。アメリカ合衆国の大使が彼に「クウェートとの境界争いのような、アラブ・アラブ間の紛争に意見することはありません」[8]と語ったのは事実であろうが、併合してよい、とまでは言っていないのである。

湾岸戦争(1991年)は、米軍等により編成された多国籍軍のクウェート解放作戦であった。ミッションは難なく達成され、最新兵器の展示会のようなものと記憶されているであろう。F-117ステルス戦闘機による精密な外科的攻撃の映像から、ニンテンドー戦争とも呼ばれた。対空ミサイルのペトリオットはイラクからのスカッドミサイルを有効に撃ち落としたと宣伝された。

その一方で、殺傷手段の残忍さが垣間見られた。劣化ウラン弾はウランという重く、発火しやすい材質であったがゆえに、兵器の装甲を貫通しやすかった。劣化ウラン弾は放射線を発し、アメリカ合衆国の帰還兵に健康の異常を訴える者があったことから湾岸戦争症候群と呼ばれた。燃料気化爆弾(FAE)は空気に燃料を散布し、ガス爆発を起こして広範囲に人間を攻撃する。クラスター爆弾(収束爆弾)は中から小爆弾が散らばり、それらが破裂して人体を突き刺す。不必要な殺傷の疑惑には、イラクの軍事車両2千台と兵士の死体数万が散乱した「死のハイウェイ」もあった[9]

パレスチナ問題はアラブ諸国の支持を得るためにサダム・フセインによって利用された。戦争は領土欲ゆえのものであったとしか考えられないが、通常弾頭をイスラエルに向けて発射し、いわゆるアラブの大義を装った。

キャンプデイビッド合意におけるパレスチナの自治は未着手であった。1987年には、戦闘員でない普通の人々が爆弾ではなく、石を投げるインティファーダ(投石革命)が始まっていた。エジプトのガザ放棄に続いて、1988年、ヨルダンがヨルダン川西岸の領有権を放棄した。これは大きな一歩であり、アラブ人でもなく、エジプト人でもなく、ヨルダン人でもなく、パレスチナ人こそ人民の権利の主体であることがはっきりした。

湾岸戦争後、米ソ共催のマドリード会議が開かれた。この中東和平プロセスに、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、そしてシリアが参加した。ヨルダンは1994年、イスラエルとの平和条約を結ぶに至る。

パレスチナ暫定自治原則宣言(1993年)はオスロ合意とも称される。交渉が行われたのがノルウェーの首都オスロであったからである。世界の人々の目を釘付けにしたのは、イスラエルのラビン首相とパレスチナのアラファト議長がワシントンDCのホワイトハウスでビル・クリントン大統領をまえに握手した署名式の映像である。翌年、暫定自治政府が発足した。

パレスチナ自治といっても、西岸全土が自治政府のコントロール下に置かれたわけでない。西岸のエリアAとガザはパレスチナ側がコントロールするが、西岸のエリアBはイスラエルとの共同コントロール下にある。西岸のエリアCに至ってはイスラエルのコントロール下にあり、自治は行われていない。イスラエルは、ヨルダン川の対岸であるヨルダンとの交通を遮断することが安全保障上、不可欠であると考え、そのコントロールを渡すつもりは毛頭ない。川から少しの淡水もパレスチナ人のために引かせたくないという理由もある。自治区の道路は検問所によって寸断される。ユダヤ人入植地が占領地のなかに侵入し、それが止まらない。エルサレム郊外には住宅地が、ヨルダン川の渓谷では果樹園が、死海のビーチでは観光施設が違和感を与える。

パレスチナは独立宣言を1988年に行った。国連においても、オブザーバー国家としての地位が2012年に認められた。しかし、一定の領土に主権を実効的に行使しているわけではない。西岸では、エリアAは面積のごくわずかにすぎない。主権と自治とでは雲泥の差がある。主権を持てば、軍も、自衛権も持てるであろう。西岸の奥深くまで、どこの国のものであれ、軍隊が入り込み、ユダヤ国家の存立を脅かすであろう。イスラエルはそれを許すであろうか? 和平交渉はクリントン政権が終わる直前まで続けられた[10]

たとえパレスチナが独立したとしても、エルサレムや国境付近を切り取られ、国民は狭い土地に押し込められるであろう。かつて、南アフリカはアパルトヘイトを永続化させるため、アフリカ系住民を一定地域に住まわせて形だけ独立させ、人種差別を「外国人管理」に見せかけようとした。この同工異曲を、アラブの人々はもちろん、世界も見たくない。

最終地位交渉が行われていた2000年の秋、イスラエルの政治家アリエル・シャロンが神殿の丘に登り、パレスチナ人を挑発した。アルアクサ・インティファーダが発生し、暴力的な抗議が数年間続いた。ユダヤ人居住地の安全のためという理由で、分離壁(フェンスや有刺鉄線)が占領地との間に2002年から建設された。問題は、それが占領地側に深く食い込むように建てられ、将来におけるパレスチナ国家との国境として主張されるのでないか、という懸念である。国際司法裁判所(ICJ)は2003年、壁は違法であり、すべての国は壁を承認しない義務を負う、という勧告的意見を発した[11]

2001年に9・11事件が起き、犯人がイスラム原理主義者らしいと語られた。文明の衝突が起きている、と考えると、理解できた気になった。文明の衝突は、サミュエル・P・ハンティントンというハーバード大学の教授が、冷戦後における国際紛争のパターンは文化的なものになろう、と予言したものである[12]。初めの論文が書かれた1993年は米ソの対立が終わり、グローバルガバナンスが叫ばれようとした時であった。なぜ、新たな敵を作らなければならないのか?、と不審に受けとめる意見が多数あった。

アメリカ合衆国の対外政策においてはテロリストとサダム・フセインは明白な敵で、石油は必要であったし、イスラエルは守らなければならなかったし、イランをのさばらせてはならなかった。予言を言うことで本当にそのことが起こってしまうことを自己成就的予言という。文明の衝突という予言と9・11事件とはそのような関係にあったと考えられないであろうか? ガバナンスはできるだけ住民に近いところで行われるべきである。中東において、それを許さないのは過度なナショナリズムであり、大国の介入であり、国連の無力である。そうした認識が広がり、事態が改善することを願う。


[1] スティーヴン・E・タバクニック、クリストファー・マセスン、『アラビアのロレンスを探して 揺れる英雄像』、八木谷涼子、浜田すみ子、加藤祐子訳、平凡社、1991年。牟田口義郎、『アラビアのロレンスを求めて』、中央公論新社、1999年。

[2] 木村申二、『パレスチナ問題研究序説 国連の分割決議成立過程と紛争の激化―1945~51年』、丸善プラネット、2000年、167ページ。

[3] “Palestine Refugees,” UNRWA, https://www.unrwa.org/palestine-refugees, accessed on February 3, 2026.

[4] シドニー・D・ベイリー、『中東和平と国際連合』、木村申二訳、第三書館、1992年。

[5] 小串敏郎、『王国のサバイバル』、日本国際問題研究所、1996年、428ページ。中曽根康弘、『自省録 歴史法廷の被告として』、新潮社、102-103ページ。

[6] Murray Waas, “What Washington Gave Saddam for Christmas,” in Micah L. Sifry and Christopher Cerf, eds., The Iraq War Reader: History, Documents, Opinions (New York: Simon & Schuster, 2003), pp. 30-40.

[7] Ari Folman, Serge Lalou, Bridgit Folman, Film Gang, Films d’ici, and Razor Filmproduktion, Waltz with Bashir, 2008.

[8] “Glaspie Transcript,” in Sifry and Cerf, eds., The Iraq War Reader: History, Documents, Opinions, p. 68.

[9] ラムゼイ・クラーク、『アメリカの戦争犯罪』、戦争犯罪を告発する会訳、柏書房、1992年、117-121ページ。

[10] 阿部俊哉、『パレスチナ―紛争と最終的地位問題の歴史』、ミネルヴァ書房、2004年、177ページ。

[11] 松井芳郎編、『判例国際法』、第2版、東信堂、2006年、630-635ページ。臼杵陽、『イスラエル』、岩波書店、2009年、201ページ。

[12] Samuel P. Huntington, “The Clash of Civilizations?” Foreign Affairs 72 (Summer 1993): 22-49. サミュエル・ハンチントン、『文明の衝突』、鈴木主税訳、集英社、1998年、371ページ。

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朝鮮戦争

冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて考えなければならない。

今回のテーマは、冷戦下における国際紛争の特徴と、それに対する平和五原則の意義について論じなさい、である。

冷戦の始まりは1947年3月のトルーマン・ドクトリンに求められる。アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領は次のように述べた。

武装した少数分子、あるいは外部からの圧迫による征服に抵抗しつつある自由諸国民を援助するのは、合衆国の政策でなければならないと私は信じている。

われわれは自由諸国民が、彼ら自身の方法で築くのを援助しなければならないと信じている[2]

自由な人々と自由でない人々との二分法が冷戦の本質であった。しかし、トルーマンが本当に関心があったのはそこではない。ギリシャとトルコは19世紀以降、戦略的な要衝であった。特にイギリスにとって東地中海はスエズ運河からインド洋の植民地に通じる大動脈であった。衰退するイギリスに代わって、共産ゲリラを背後で操るソ連に支配権が移る可能性があった。それを防ぐため、テコ入れできるのはアメリカ合衆国しかなかった。トルーマンの演説は、こうした地政学の観点から、経済援助の意義を自由の理念に託して表現したものであった。

ソ連の影響が広がらないように、その周辺に反共の防波堤を築くことを「封じ込め」という。実際にそれを立案したのはモスクワで代理大使を務めたことがある対ソ政策の専門家ジョージ・F・ケナンであった。彼は国務省の政策企画委員会部長という身分を隠し、ミスターXとして『フォーリンアフェアーズ』誌に論文を寄せた。トルーマン・ドクトリンの4か月後のことである。

この事実とあわせて考慮されるべきは、ソビエトが、西側世界全体とくらべれば、まだひどく弱い相手であること、ソビエトの政策がきわめて柔軟であること、ソビエト社会は自らの潜在的能力を最終的に損なうような弱点を内包している可能性が高いということだ。これらのことは、妥当な自信をもって、平和で安定した世界の利益を脅かすような兆候のあるすべての地域において、揺るぎない対抗力をもってソビエトと対峙することを目的とする、堅固な封じ込め政策をとる根拠となる[3]

つまり、封じ込めは世界を自由と不自由の二つに分け、自由の領域を死守する政策であった。移民の国であるアメリカ合衆国の人々に、地政学の言葉で語りかけることはできなかった。ロシアを含む東ヨーロッパに愛着を感じる人々もいるからである。多様な人々に共通するのは、自由の女神に導かれて渡って来たという国民神話だけであった。

なぜ、あんな無謀な戦いを北朝鮮はしたのか? 朝鮮戦争の原因についてはたびたび議論になる。1950年6月の開戦の遠因としては、そもそも2年前の8月と9月に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が別々に成立したことを挙げねばならない。米ソが1949年に韓国と北朝鮮から撤退して「力の空白」が生じていたこと、また、同じ年にソ連が原爆実験を成功させたこと、そして、中華人民共和国の成立をアメリカ合衆国が止めなかったことも影響した。

外交史家たちが朝鮮戦争の原因として指摘するのはアチソン・ライン(不後退防衛線)である。1950年1月、アメリカ合衆国のディーン・アチソン国務長官は、アリューシャン列島から日本の北を回り、日本海を通って、琉球列島までを含む線を引き、その内側の防衛に米軍が責任を負うと明言した。注目すべきは、次の発言である。

太平洋における他の地域の安全保障に関するかぎり、何人も―中略―軍事攻撃に対して保障し得ないことは明らかである―後略―[4]

朝鮮半島はアチソン・ラインの外側に置かれ、その安全は保障できないと明言された。北朝鮮とソ連が、韓国を米軍は守らない、と誤解したとしても無理はない。急速に共産陣営は結束を固め、2月に中ソ友好同盟相互援助条約が署名、3月に金日成がソ連を訪問、5月に同じく彼が中国を訪問、とお膳立てが整った[5]。6月に起きた北朝鮮による侵攻は合理的と感じられる。

ところが、アメリカ合衆国の反応は東側諸国が期待していたものと違った。7月7日に国連軍の派遣を国連安全保障理事会は決議した。つまり、軍事介入で北朝鮮の挑戦に受けて立った。

米軍は仁川への上陸に成功し、釜山周辺から一挙に中朝国境まで押し返した。こうした動きに身構えたのが中国である。38度線以北に国連軍は進軍するな、と米中が大使館を置くニューデリーでアメリカ合衆国に警告した。

インドの首相はジャワハルラル・ネルーであった。彼は、単に戦争や同盟に参加しないだけでなく、第三者として、当事者間の紛争解決に努力する積極中立主義の立場をとった。安保理の非常任理事国であったインドは、朝鮮半島に派兵する決議に棄権した。国連軍が北緯38度線を越えることについても、双方の間を周旋し、たがいのメッセージを伝えた。結局は、半島の統一を前提とする国連総会の決議を口実に国連軍は進撃し、中国はソ連の要請を受けて参戦した。

南北の軍勢は北緯38度線付近で拮抗し、戦争は終わらなかった。ヨシフ・スターリンが死んだ1953年、休戦協定は結ばれた。

朝鮮戦争の遂行には、日本も協力したことが知られる。特別調達庁は兵器を供給し、輸送は国内では国鉄が、半島までは官民の船舶が行った。日本赤十字社の看護師は日本国内の国連軍病院に派遣された。自治体は灯火管制や港湾使用に協力した。海上保安庁は上陸予定地近海で掃海したものの、掃海艇が機雷に触れて沈没し、1人が死亡した[6]

アチソン・ラインが生んだ誤解により戦争が起きた、という説を見たが、アメリカ合衆国の前方展開戦略はそうした事態への対策とみなすことができる。川上高司は「米軍を海外の同盟国もしくは友好国に駐留させ、その海外駐留米軍と洋上移動兵力および米本土兵力を目的に応じて組み合わせて展開させること」と同戦略を定義する[7]。合衆国の空軍基地がどこに配置されているかの地図を見ると、ロシアと中国を取り囲むかのようである[8]。軍隊を置いてその土地を守りとおす決意を伝える点で、前方展開は冷戦における封じ込めの名残である。

平和五原則は、前方展開と対照的な平和へのアプローチである。それは中国の周恩来首相とインドのネルー首相が1954年に出した共同声明である。五原則の第1は領土・主権の相互尊重、第2は相互不侵略、第3は相互内政不干渉、第4は平等互恵、第5は平和共存である[9]。これは世界を自由と不自由の二つに分けるやり方とは根本的に異なり、それぞれの国の国家主権を尊重して侵さなければ、平和がもたらされる、という思想である。

翌1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、平和五原則は平和十原則に拡張された。加わったのは、基本的人権と国連憲章の尊重、国連憲章に基づく個別的・集団的自衛権の尊重、大国を利する集団防衛体制への反対、国際紛争の平和的解決、協力の促進、そして正義と国際義務の尊重である[10]

バンドン会議の参加国には、自主外交の可能性を探っていた日本の鳩山一郎政権を含めて、米ソの属国のようなものになることを拒みたいのが真意で参加した国があった。インドはSEATO(東南アジア条約機構)の結成に危機感を抱いた。その加盟国はオーストラリア、フランス、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ、イギリス、そしてアメリカ合衆国であったから、インドは包囲されたと感じた[11]

エジプトのガマル・アブドゥル・ナセル大統領はバグダード条約機構に反対したが、ネルーがSEATOに反対したのと似ていて、イギリス主導の旧体制に反旗をひるがえすためであった。万事休す、と思われた1956年のスエズ戦争を停戦にもちこんだことで、不死身のナセルの伝説は確固たるものになり、脱植民地化のヒーローに彼は祭り上げられた。

実は、平和五原則には弱点がある。領土の相互尊重はよいのであるが、そもそも領土の帰属に争いがある場合には機能しない。その実例はほかならぬ英領インドの解体に見られた。

英領インドはイギリスの直轄地と藩王国から成っていた。マハラジャというのはヒンドゥー教徒の藩王、ナワーブはムスリムの藩王の呼称であった。独立に際して、ムスリムの居住地はパキスタンとして分離独立した。藩王国がインドに入るか、パキスタンに入るかについて、藩王国のことは藩王が決める、と指針を示したのがマウントバッテン計画であった[12]

1947年8月、インドとパキスタンは独立した。両国に分割されたパンジャブではただちに暴力と難民が発生した。10月、カシミールの藩王はインドとの併合文書に署名した。藩王はヒンドゥー教徒であったものの、住民はムスリムであったため、そこをムスリムの土地と考えるパキスタンとインドとの間で戦争になった。これが第一次印パ戦争である。1949年に双方が国連の停戦ラインを受諾し、戦争は終結した[13]

中国とインドは平和五原則に合意しながら、1962年に国境紛争が起きた。1950年に中国がチベットに侵攻し、実効支配を始めたことにより、インドと境を接した。1959年に中国は支配を強め、ダライラマ十四世はインドに亡命した。中印紛争の結果、中国はカシミールの東部にあるアクサイチンを確保し、チベットと新疆をつなぐ道路の建設に成功した。同じ土地を複数の当事者が自分の領土であると言い張るならば、平和五原則は通用しないのである。

このあと、パキスタンとインドが2回戦った。1965年の第二次印パ戦争はカシミールをめぐる戦いであり、国連安保理の停戦決議で終結した。

1971年の第三次印パ戦争では、それまでパキスタンの一部であったバングラデシュをインドが助けて独立に導いた。大量の難民が発生し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民キャンプを作ったり、飛行機で帰還させたりした[14]。1972年のシムラ協定は印パ関係を大きく変えた。パキスタンがバングラデシュの独立を認めただけでなく、カシミール問題は外国や国際機構など第三者を交えず、印パ間の交渉で合意を図ることになった。その後も、紛争はいく度も再燃した。

インドには多くの分離運動がある。パンジャブ州では今度はシク教徒が分離を求めた。シク教徒は、いかにもインド人らしいターバンをかぶった人々である。1984年、インド軍が聖地ゴールデンテンプルを襲撃し、シク教徒がネルーの娘のインディラ・ガンディー首相を暗殺した。マニプル州、アッサム州、ナガランド州などインドの北東部諸州にも分離運動がある。

インドの憲法には、言論・表現の自由を主権や領土保全のために制限する法律を作ることができる、とする規定がある。そうした制限は好ましいわけではないが、大量の流血と難民の歴史を振り返ると、南アジアではそれも一つの方法かもしれないとも思う。

国家主権を重視し、大国の同盟を非難する動きは、非同盟諸国首脳会議に結実した。初期にはソ連との関係に苦労したユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー大統領が中心となった。チトー、ナセル、スカルノ、そしてネルーのもと自決権、反帝国主義闘争、植民地主義一掃などを議題とすることに決め、1961年に第1回の非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開かれた[15]。2024年までに19回の首脳会議が持たれた。それらで活躍した首脳たちのなかには毀誉褒貶がある者も少なくないが、運動としての初志は貫かれている。 前方展開戦略か、平和五原則か、は冷戦後の今日に至るまで大きなテーマである。第三世界の国々では、大国が関わる代理戦争は朝鮮戦争のように泥沼化する傾向がある。そのことはベトナム戦争とその後の展開を観察することによって確かめられる。


[1] ジョン・L・ギャディス、『ロング・ピース』、五味俊樹、坪内淳、阪田恭代、太田宏、宮坂直史訳、芦書房、2002年、416ページ。

[2] ジョージ・F・ケナン、『ジョージ・F・ケナン回顧録―対ソ外交に生きて』、上、清水俊雄訳、読売新聞社、1973年、303ページ。

[3] X、「ソビエト対外行動の源泉」、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編、『フォーリンアフェアーズ傑作選1922-1999 アメリカとアジアの出会い』、上、朝日新聞社、2001年、173-174ページ。

[4] ディーン・アチソン、『アチソン回顧録』、1、恒文社、1979年、431ページ。

[5] A・V・トルクノフ、『朝鮮戦争の謎と真実』、下斗米伸夫、金成浩訳、草思社、2001年、24、57-58、91、120-121、142-144、168、229-230ページ。

[6] 小野節雄、『自衛隊はどのようにして生まれたか』、学習研究社、2003年、160-161ページ。山崎静雄、『史実で語る朝鮮戦争協力の全容』、本の泉社、1998年。

[7] 川上高司、『米軍の前方展開と日米同盟』、同文館出版、2004年、5ページ。

[8] イヴ・ラコスト、『ラルース 地図で見る国際関係 現代の地政学』、猪口孝、大塚宏子訳、原書房、2011年、63ページ。

[9] 安藤正士、「平和五原則」、『スーパーニッポニカ』、小学館、1998年。

[10] 安藤、「平和十原則」。

[11] 室井義雄、『南北・南南問題』、山川出版社、2001年、26、27ページ。

[12] 中村平治、『南アジア現代史I』、山川出版社、1977年、170ページ。

[13] 中村、『南アジア現代史I』、175ページ。

[14] 国連高等難民弁務官事務所、『世界難民白書2000―人道行動の50年史』、時事通信社、2001年、61、70ページ。

[15] 岡倉古志郎編、『非同盟運動基本文献集』、新日本出版社、1979年、480ページ。

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資料
公開外交 資料というのは文字に書かれたものでも、録音でも、録画でも何でもいえることだが、説得のための道具だ。これをソフトパワーと呼ぶ人もいる(服部龍二氏『外交を記録し、公開する』)。特に、権利とか、義務とか、社会で他人に自らの正当性を認めさせるのには欠かせない。 外交、すなわち英語でディプロマシー、も元の意味は書類のことという。この場合の書類は、他国に対して自国の正当性を納得させるためだけでなく、過…
脆弱国家
脆弱国家はフラジャイル・ステイトと英語でいうが、ワレモノ国家という意味である。国家が壊れてしまっては国民を守ることができず、また、国土もバラバラになってしまう。今回のテーマは、脆弱国家とはどのようなものかを解説し、紛争との関係を議論しなさい、である。 現代における世界の紛争はどのような状況にあるのか? スウェーデンにある世界最古の大学の一つ、ウプサラ大学、に最新の紛争データを作成し、それを分析するプ…
朝鮮戦争
冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて…
機能的国際機構
https://youtu.be/b8ERLTL_dyI 「人間というものは、なんらかの社会的紐帯ですでに結ばれている程度においてしか、平和の欲求をもたないものである」とエミール・デュルケムは言う[1]。個人をメンバーとするグローバル社会のきずなは家族ほどには緊密でない。人種や言語の壁がある。国家をメンバーとする国際社会のきずなも平和を保証するまでではない。国々は軍隊を養い、戦争に備えている。であるので、国際連盟や国際連合の安…
ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題
(表紙の画像はAIによって作成された) 軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼と政治家…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。 教科書での関連する記述 教科書 また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン…

Geminiさんの答案 研究各論(グローバル・ガバナンス)2022年度前期

国際連合が存在するのに、なぜ、同盟は必要であるのか? 国際連合憲章の諸規定と具体的な国際情勢に言及しながら論じなさい。

1. 国連憲章第51条:同盟の法的根拠

国連憲章は本来、すべての加盟国が協力して侵略を防ぐ**「集団安全保障」を理想としています。しかし、その限界を自ら認める形で第51条**を置いています。

憲章第51条: 加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛権を行使する固有の権利を妨げない。

この「集団的自衛権」こそが、NATO(北大西洋条約機構)や日米安全保障条約などの同盟関係を支える法的な柱です。つまり、国連が動くまでの「空白の時間」を埋めるための正当な防衛手段として、同盟は憲章上も許容されています。


2. 安全保障理事会の機能不全(拒否権の壁)

国連が有効に機能するためには、安全保障理事会の常任理事国(P5)の不一致が不可欠です。しかし、現実には第27条3項に定められた「拒否権」により、大国が関与する紛争では安保理がしばしば麻痺します。

  • 具体的な事象: ウクライナ情勢において、常任理事国であるロシアが当事者であるため、安保理は非難決議すら採択できず、軍事的な強制措置(憲章第7章)を発動できません。
  • 結論: 安保理が機能しない「万が一」に備え、自国の安全を確保するためには、価値観や利害を共有する特定の国々と同盟を結び、確実な抑止力を構築しておく必要があるのです。

3. 抑止力の「即応性」と「信頼性」

国連による制裁や軍事行動は、決定までに時間がかかり、また各国が提供する軍隊の調整も複雑です(憲章第43条の特別協定は未だ成立していません)。

一方、同盟は以下の点で優れています。

  • 事前の準備: 平時から共同訓練を行い、司令部を統合することで、有事の際に即座に対応できます。
  • 自動介入条項: 例えばNATO条約第5条のように「一国への攻撃は全加盟国への攻撃とみなす」という強いコミットメントがあるため、侵略国に対する強力な抑止力となります。

現在の緊迫する東アジア情勢においても、国連の議論を待つだけでは不十分であり、日米同盟やAUKUS、QUADといった多層的な枠組みが地域の安定を維持する実質的な装置となっています。


結論

国際連合が「全人類の平和のための包括的なプラットフォーム」であるならば、同盟は「特定の脅威から身を守るための、より確実で即応性のある保険」と言えます。国連憲章第51条が認める通り、この両者は対立するものではなく、国際社会の安全を維持するための補完関係にあるのが現実的な解釈です。

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集団安全保障
https://youtu.be/py3TVxAbaL8 集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。 集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦…
自由主義モデル
グローバルガバナンスについて語ることは、神や仏を語ることと、さほど変わらない。災害、貧困、病気、あるいは戦争などの苦しみを人類はまだ克服していない。数千年間、神や仏の救いを求める人々が聖像に託したものを、現在、グローバルガバナンスの概念が引き受けようとしている。 一握りの人々にとっては、グローバルガバナンスは理想主義的な国際連合のイメージである。それは慈悲深く、人類を救う世界政府である。理事会、総…
中東戦争
中東戦争は第一次から第四次まで数えられるが、そうした呼び方は日本独特のものである。欧米とイスラエルは、順に独立戦争、スエズ戦争、六日戦争、そしてヨムキプール戦争と呼ぶ。アラブ人は第一次をナクバ、第四次をラマダン戦争と呼ぶ。四つの戦争がひとからげにされるのは理由のないことでない。いずれもイスラエルとエジプトが交戦国に入っていた。今回のテーマは、シオニズムおよびアラブ・ナショナリズムと中東戦争との関…
覇権
覇権国は古代ギリシャのヘゲモンが語源で、他国を軍事的に支配する国のことである。それを好意的に解釈して、人々を導く指導国のことと理解することもある。今回のテーマは、「次の覇権国」について論じなさい、である。 大国の興亡は権力者たちのむなしい栄枯盛衰にすぎないと思われるかもしれない。しかし、これもグローバルガバナンスと大いに関係がある。 現実主義の父は誰かと問えば、マキアベッリか、ホッブズか、カーか、…
脱植民地化
https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…

戦争の歴史

戦争に命が懸けられるのは根深い社会問題が背景に横たわるからである。他方で、戦争はテクノロジーの問題でもあり、テクノロジーは戦争の形を変化させる。惨禍を何とかしようと思うならば、社会も、テクノロジーも管理するべきである。今回のテーマは、時代により戦争の原因と形態はいかに変化したかを例示しながら論じなさい、である。

戦争について述べる時、まず戦争を定義するべきである。ゲリラ戦は含まれるか? 革命下のアナーキーはどうか? あるいは、外国支援下の内戦はどうか?[1]

戦争についての初の科学的な研究はクインシー・ライトの『戦争の研究』(1942年)であった。この本のすごいところは1500年から1940年に至る近代文明のあらゆる戦争をリストにしたことである。本書は彼による戦争の定義は使わない。戦争とは国家が参加する交戦である、というところはよい。宣戦布告などの法的認定がなされたか、5万人以上の兵士が参戦したか、という基準も可としよう。しかし、これらをクリアすれば内戦であっても含まれる、という点は受け入れない[2]。国家間の戦争を焦点とする今回は、アメリカ南北戦争やロシア革命の内戦はエピソードとして言及するが、ピューリタン革命や戊辰戦争は割愛する。

筆者が念頭に置く戦争は、国家指導者の指揮命令下にある軍隊と別の国家のそうした軍隊との間の死者を伴う交戦である。死者がなくとも、一時的に現場の指揮官が勝手に行動したり、さしたる反撃なく越境進軍したりといった戦争状態が存在する場合も、破壊・制圧・占領の効果を伴う場合には含める。ゲリラとテロリズムは国際法では戦争行為から逸脱した違法行為であるとみなされるものの、南ベトナム解放戦線による北緯17度以南のゲリラ戦のように、他の国家が継続的に介入し、殺傷や破壊の効果があれば、戦争の一部をなすと認める。国家の定義には、近代的な主権国家にかぎらず、領土を有する独立した意思決定主体であれば封建諸侯であってもそれに含める。

戦争の定義が一段落したならば、次は戦闘員が誰であるかを確かめるべきである。なぜならば、戦闘員の違いは、交戦手段の主力が何であるかを左右するからである。国軍の正規兵であれば通常兵器か大量破壊兵器、ゲリラやテロリストであれば軽兵器と小型武器、デモ隊はせいぜい火炎瓶、日常生活の個人はまる腰が普通、といった見当になる。

戦争の歴史の本論に入る。

宗教改革時代の主な戦争は、マルティン・ルターの異議申し立てが引き起こした宗派の違いに基づく戦争であった。テクノロジー面ではマスケット銃が使われ始め、騎士道にのっとった牧歌的な時代と比べると、殺傷は猖獗をきわめた。

現代の研究者が作った戦争リストを見ると、宗教改革の初期には、キリスト教の分裂が主原因であるとはいえないものが混じっている。ハプスブルク家とバロワ家/ブルボン家との王朝的な対立が軸であったり、リューベックやリボニアと聞きなれない小国が登場したり、異教徒のトルコ人にたいする防衛戦があったりした[3]。中世の素朴さが近代の力強さより、戦争を特徴づけていた。

宗教改革の後期になると、ユグノー戦争と三十年戦争がカトリックとプロテスタントの決戦場となった。宗教戦争以外では、東ヨーロッパにおいてロシア・スウェーデン・ポーランドが覇を競った。トルコとの戦いは絶えることがなかった。カトリック勢力から目の敵にされていたエリザベス一世治下のイングランドがスペインの無敵艦隊を打ち破った[4]

交戦手段が非対称な場合、脆弱な側の犠牲者が往々にして激増する。宗教戦争では、庶民がしばしば巻き添えになった。ユグノーの市民がカトリック側の軍勢に蹂躙されたのが1572年のサンバルテルミの虐殺である。三十年戦争では、皇帝軍に町がほふられたマクデブルクの虐殺(1631年)が起きた。富裕なはずの皇帝側さえ、規律の低い傭兵を大量に使っていたからである。

ほとんどの傭兵は長槍を持ってはせ参じた。銃の調達や軍事教練が個人では難しかったからである。マスケット銃の命中率は低く、長槍を一掃するには至らなかった。その一方で、長槍による槍ぶすまは敵の騎士を確実に串刺しにした。ランツクネヒトは長槍を使うドイツの傭兵である。テルシオは長槍でハリネズミのように守りを固め、方陣を組んだスペインの軍隊である。スイス傭兵は当時から今に至る何百年間も、教皇庁を警護する。

次の絶対主義の時代では、絶対的な権力を持つ君主たちが宗教・宗派の制約なしに、チェスのように軍隊を自由に動かして覇を競った。この時代、陸戦は芸術であった。歩兵・騎兵・砲兵を動かす三兵戦術は兵種の特長を活かす洗練された用兵であった。

歩兵はもはや槍を持たず、マスケット銃に短剣を付けて銃剣とした。銃の命中精度は低かったので横列を作って一斉射撃し、弾幕を張った。タイミングが合えば、多くの敵兵が崩れ落ち、万死に一生を得た兵士は潰走した。撃った側は銃剣を振りかざして追撃し、白兵戦に突入した。がまんと規律の競い合いであった。イギリスのレッドコート(赤服兵)は規律に優れたエリート部隊であった。騎兵は奇襲をかけ、砲兵は敵兵力を削る。司令官の機敏な采配が勝敗の鍵であった。

この時代の前半、西ヨーロッパではルイ十四世が積極的に動いたものの、他国から警戒され、スペイン継承戦争で包囲網をしかれて苦しんだ。東ヨーロッパでは、ロシアのピョートル一世がスウェーデンのカール十二世と北の覇者の地位を賭けて死闘を続けた。大洋でも、イギリスとオランダの海軍が争った。

絶対主義時代後半は、中央ヨーロッパにおけるプロイセンとオーストリアの一進一退を軸に、外洋では英帝国の拡大とアメリカ独立戦争におけるその挫折が見られた[5]。海上では、戦列艦の側面に並んだ大砲がティラノサウルスのように敵艦を砕いた[6]。海軍の莫大な維持費は重商主義で蓄えた金銀を充ててまかなわれた。

フランス革命とナポレオン戦争は絶対主義に冷や水を浴びせた。ナショナリズムが高揚した結果、動員された庶民は兵役と引き換えに選挙権を与えられ、気勢が上がった。戦死者の激増は絶対主義の王侯貴族にとって不利であったが、戦場で死ぬか、ギロチン台に送られるかの二者択一であったから、引くに引けない戦争であった。

ナポレオンは敗れ、絶対主義が一時的に天下を奪い返した。これがウィーン体制である。宮廷は自由主義者の反乱に目を光らせ、ナポリやスペインにおける反乱に対して干渉戦争を行った。ところが、ギリシャ人が自由を求め、オスマン帝国に反旗をひるがえした時には、宮廷は独立運動を応援した。独立したばかりのラテンアメリカにもヨーロッパ諸国は干渉した。カウボーイのような乱暴者の現地の大統領たちが気に食わなかったからである[7]

「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」の名言が発せられたのはこのころであった[8]。『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼビッツはナポレオン戦争に参加したプロイセンの軍人であった。この書の内容は前時代の戦争を表現しているように感じられる。彼の言う「政治」とは外交のことであり、特に他国の州県を外交交渉によって獲得することを想定した。つまり、戦争とは、交渉で決着できないことを武力により決着させることである。

領土紛争を戦争で解決するのはルイ十四世やフリードリヒ二世のような前世紀の絶対君主が得意としたことであった。ナショナリズムが高まった19世紀では、他民族の住む土地を戦争によって割譲させるのは時代遅れになりつつあった。

実際、フランス二月革命後に自由主義が勝利すると同時に、ナショナリズムの嵐が吹き荒れた。各地で、国民統一戦争やナショナリストの蜂起が相次いだ。イタリアとドイツの統一がその山場であった。ロシアの力はクリミア戦争で敗れたことで後退し、オスマン帝国の版図は複数の国民国家へと分裂を始めた。ナポレオン三世は、絶対君主のように兵を指揮しようとしたものの、最後はドイツのナショナリズムを見くびり敗北した。ラテンアメリカの混乱は国民国家を作る産みの苦しみであった。英仏はじめ一握りの海軍国は着々とアジア・アフリカ・ラテンアメリカの小勢力に砲艦外交を繰り広げた[9]

陸上戦闘でのテクノロジーで見るべきものはライフリングであった。銃の火力と精度が向上し、散兵という兵種を生んだ。弾幕を張らなくても命中するので、兵士は散開して匍匐前進し、敵陣を襲った。散兵は普墺戦争で優位を示し、日露戦争における二百三高地の死闘で大規模に投入された。ライフル銃の意義について、ウィリアム・H・マクニールの解説を引用する。

つまりプロイセンはすでに見たように、基本的な歩兵武器として後装ライフル銃を選んだのである。後装銃の第一の利点は、兵がそこらにある遮蔽物ならなんでも楯にとって、しゃがんで背をかがめたり、腹ばいになったりした姿勢から撃てることであった。この戦術により兵たちは、前装銃の銃口から弾込めをするために立ち上がる必要がある場合に比べて、敵銃火の標的となる度合いが一段と小さくなった。後装銃の第二の利点は、発射速度が格段に増すことであった[10]

産業革命の到来は戦争を変えた。海では、蒸気船や甲鉄艦の時代が到来した。最も有名な甲鉄鑑は南北戦争における北軍の軍艦モニターである。ナショナリズムは徴兵だけでなく、徴税も拡大し、砲艦外交の基礎となる軍事予算の増額を可能にした。

化学の発達とともに、自然資源の獲得は戦争の目的として重要性を増した。1879年の太平洋戦争はチリとペルー・ボリビア同盟との戦争であった。砂漠の領土の奪い合いであったが、地表ではなく、そこに埋まる硝石と銀が目的であった。硝石は火薬の原料である。第一次世界大戦中、ドイツが硝石の代用品であるアンモニアを人工合成することに成功した[11]

植民地戦争の舞台は近東・東アジア・中米カリブ・アフリカであった[12]。圧倒的優位にあったヨーロッパのテクノロジーが、いともたやすく現地の軍隊を屈服させた。

数か国の列強が産業も、植民地も、テクノロジーも19世紀末に支配してしまうと、それらの間で帝国主義の競争が熾烈になった。主力兵器である軍艦は大艦巨砲主義を邁進した。イギリスは最新鋭のドレッドノート級戦艦を建造したが、ド級や超ド級といった日本語に痕跡を残す[13]。新兵器の潜水艦と飛行機も就役した。1903年、ライト兄弟のライトフライヤーが空気よりも重い装置で初めて有人動力飛行に成功した。すぐに各国の軍隊は軍用機を発注した。

外交でも、列強は仮想敵国に勝つことだけを考えた。最終的には三国同盟と三国協商の二大陣営が形成された。苦心した同盟政治の帰結が第一次世界大戦であったのは皮肉である。イギリスのエドワード・グレイ外相はドイツがフランスに宣戦布告したのを知って、つぶやいた。

ヨーロッパ中の灯りがいま消えてゆく。生きているうちにまた灯りがともるのを見ることなどできそうもない――[14]

今となっては大げさな感傷とばかりには聞こえない。第一次世界大戦では、敵襲を塹壕にこもって待ち受け、来たら機関銃で蜂の巣にすることが4年間、繰り返された。塹壕を踏みにじるための新兵器が戦車であった。その初陣は1916年のソンムの戦いであった。

人命と資源を総動員し、力尽きた国々は白旗をあげた。正統性が地に堕ちた敗戦国で革命が起きた。ロシア・ドイツ・トルコでは、諸勢力が抗争し、外国は無慈悲に国土を蹂躙した。

内戦中のロシアに、戦勝国は兵隊を送った。日本ではシベリア出兵として知られる。本当の目的は共産主義が拡大することへの干渉であったと考えられる。パリ講和会議への次席全権であった牧野伸顕が語るように、当時は別の理由が付けられた。

大戦の真最中にも拘らず、このチェッコ・スロヴァック軍救済の問題は世界的に多大の関心の的となり、これまで日本の出兵に反対していた米国までが率先して、チェッコ・スロヴァック軍団の援助については特に聨合各国か一致してこれに当たるべしと熱心に主張し、この問題は当時列国間に緊急の案件として取り上げられたのである。しかし同時にまたの時分の戦局を綜合的に見るならば、欧州大陸における数百万の大軍の運命について各国が焦慮しつつある際に、露国内に所在する六万内外の特殊な部隊を救出することに聨合国側が挙って関心を寄せたというのは、いささか不釣合いな感じがし、殊に日本はこの事件のために、日本として戦争中における最大の動員をなし、少なからぬ出費を負担したのであって、それらの点についてここで説明しておきたいと思う[15]

第一次大戦後しばらくは局地戦が散発した。満州事変も、エチオピア侵攻も、そしてスペイン内戦もそうであった。国際連盟に止める力はなく、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、不満な国はいっそう大胆になった。各国の関心は、次の世界大戦をどう戦うか、にあった。ロジェ・カイヨワの『戦争論』はドイツ陸軍の公的機関誌を孫引きする。

平和は戦争の命ずるところに従わなければならない。戦争は今世紀の神秘的女王である。

平和はもはや、ふたつの戦争のあいだに位する、単なる休戦状態にすぎない[16]

各国は軍国主義を徹底させた兵営国家と化した。あらゆる資源を動員して、総力戦は遂行される。カイヨワは鋭い指摘をしている。

戦争を苛烈なものにするのは、勇猛さでも、敢闘精神でも、残酷さでもないということだ。それは国家というものの、機械化の度合いである。国家の持つ統制力と強制力であり、国家というものの持っている数多くの構造とそのきびしさである。人類の歴史全体を通じて、国家権力はきまって戦争を、おのれのために利用した[17]。 機械化を自動化と呼び換えるならば、殺人の究極の自動化はガス室と原子爆弾であった。テクノロジーが国家と戦争を変え、戦争が国家とテクノロジーを変えた。テクノロジーの進歩を止めることは難しい。個人の良心と市場の倫理だけでは不十分である。国家と国際社会がそれを管理し、悪い目的に使われないよう、人々は国家とテクノロジーの関係に注意を怠ってはならない。


[1] Cf. Jonathan R. White, Terrorism: An Introduction, 2nd ed. (Belmont: Wadsworth, 1998), p. 15.

[2] Quincy Wright, A Study of War, vol. I (Chicago: The University of Chicago Press, 1942), p. 636.

[3] 原田至郎、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、山本吉宣、田中明彦編、『戦争と国際システム』、東京大学出版会、1992年、287-317ページ。

[4] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[5] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[6] ウィリアム・H・マクニール、『戦争の世界史』、高橋均訳、刀水書房、2002年、329ページ。

[7] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、

287-317ページ。

[8] クラウゼヴィッツ、『戦争論』、上、篠田英雄訳、岩波書店、1968年、58ページ。

[9] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[10] マクニール、『戦争の世界史』、332-333ページ。

[11] ダニエル・ベル、『脱工業社会の到来』、上、内田忠夫、嘉治元郎、城塚登、馬場修一、村上泰亮、谷嶋喬四郎訳、第8版、ダイヤモンド社、1990年、32ページ。

[12] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[13] マクニール、『戦争の世界史』、348-349、379、382ページ。

[14] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、上、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、 273ページ。

[15] 牧野伸顕、『回顧録』、下巻、第4版、中央公論社、1992年、152ページ。

[16] 『ドイツ防衛』。ロジェ・カイヨワ、『戦争論』、秋枝茂夫訳、法政大学出版局、1974年、210ページ、孫引きのさらに引用。

[17] カイヨワ、『戦争論』、10-11ページ。

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平和的紛争解決
国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…
エスニック紛争
人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。 イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊…
集団安全保障と自衛権
https://youtu.be/K7VHDCunF9k 国際連合を作る第一歩は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズベルトによる「四つの自由」演説(1941年1月)であった。自由の一つ、「恐怖からの自由」、とは軍縮のことであると説明されたが、軍縮が可能になる平和な世界を作るには軍縮以上の何かが必要であった。 平和のためには何が必要か? 同じ1941年の8月、ローズベルトはイギリスのウィンストン・チャーチル首相とともに、大西洋憲章を…
民主化
https://youtu.be/cJ_n5jFKJ2g 人権は進歩や文明のバロメータである。他人のためのものではない。人権がない国では、生活のあらゆる分野で取り残され、気づいた時には政府と軍隊の老朽化も手遅れになっている。人々が勝ち取ったのでなく、支配者が与えただけの人権であっても、ないよりはましである。このように考えるならば、人権の水準は自発的に上げていくべきものであり、他人が押しつけるものでない。 それにもかかわらず、…
消費社会
https://youtu.be/WFPud-QUSm4 週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここで…
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