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交渉の虚実

『宋名臣言行録』の話題を続けたい。今日は寇準について語ろう。

中華帝国の統治は中原と辺塞との両面がある。後者は外敵を防ぐために不可欠であるのはもちろん、中原の安寧にとっても決定的だ。なぜなら、兵馬を養う、というように、優秀な兵士と馬は辺塞でしか得られないからだ。

その意味で、北宋の統治は変則的だった。モンゴル系の遼が支配する燕雲十六州こそ、良質な兵馬の産地である3つの地域のうち、燕(現河北省)と雲(現山西省)の2つだった。残りの1つは隴(現甘粛省)であったが、チベット系の西夏と宋に分断されていた。

宋は軍事力の弱さを補うため、遼に貢いで平和を購った。その約束が1004年の澶淵の盟であり、立役者が寇準なのだ。

いきさつを朱熹の『宋名臣言行録』はこう描く。

――遼が侵入した、と矢継ぎ早に報せがあった。翌日、宰相の寇準は皇帝の真宗に奏したところ、真宗は早く解決したいと御意を伝えた。

寇準

陛下、了せんと欲せば、五日にすぎざらんのみ。その説は澶淵に幸せんことを請ふ。(朱熹、諸橋轍次、原田種成、『宋名臣言行録』、第3版、明徳出版社、1980年、p.59)

「陛下が解決したいのでしたら5日もかかりません。澶淵に行幸なさいませ。」と彼は真宗を促したものの、真宗は黙ったままだった。

他の高官は恐れて退出しようとした。寇準はそれを遮って言った。「君も帝に随行して北へ行くのだ」

――と、澶淵の盟は彼の気魄のなした偉業だった、と朱熹は言わんばかりだ。しかし、私は性格でなく計算高さがこの物語の真価だと思う。

真宗が行幸して遼軍に対峙したのは虚勢だった。遼が戦争を選んだらどうなったか? これは私もわからない。天子の車は、ほうほうのていで退かなければならなかったかもしれない。

一方、行幸はまちがいなく盟約の交渉を有利にした。ここぞ、というとき、度胸と労苦は惜しんでならない。それらがなければ腰砕けになり、宋は領土まで奪われたのでなかろうか。

日本の政治家に、こうした外交の大一番を張ることはできるか? と反語的に問うて締めとする。

はじめに

中学生の時分、私は年寄りじみているというか、渋いというか、漢籍に親しむという趣味があった。駿台予備校の夏季講習に向かうための小一時間の地下鉄で、そうした本を読みふけっていた。降りて、新御茶ノ水駅の長いエレベータを上がりながら、頭のなかは屹立した君子たちの振舞いでいっぱいだった。

漢籍のなかでも気に入っていたのは朱熹の『宋名臣言行録』だった。士大夫たちの鮮やかな処世術に感銘し、学校の読書感想文もそれで出したが、中学教員から返された困惑を訴えるようなコメントを読んでは、古人の気骨は伝わらなかったか……と落胆したものだ。

杜衍という丞相にまでなった大官に、次のエピソードがあり、ひときわ感銘を受けた。

朱子

門生、県令となるあり。公、これを戒めて曰く、「子の才器は、一県令は施すに足らざるなり。しかれども切にまさに韜晦して、圭角を露すことなかるべし。(朱熹、諸橋轍次、原田種成、『宋名臣言行録』、第3版、明徳出版社、1980年、p.74)

「君の才能と器量は県令ではものたりない。しかし、身を謹んで、才能をひけらかすようなことはしないようにしなさい。」

中学生には知るよしもないが、孤高の人が正当な評価を受けないのが実社会というものらしい。正論を吐いても、小人に善からぬ讒言をなされ、三国志の魏延のように身を亡ぼすことになりかねないのだ。人柄が丸くなって小人とも和合しなければならない。和して同ぜず、というやつだ。ーー朱熹という大儒に私はそう教わった。

それから40年の月日が流れた。

幸か不幸か、私の圭角は実を結ばない努力によってすり減っていき、そのかわり身を亡ぼすこともなかった。それでも、角の欠片のようなものが、まだ残っていたら……

そんな期待をこめて、このブログを立ち上げることにした。

2025年11月16日

鴨衣斎 または、尚論出版主人 木下郁夫

授業レポート(2024年度)

(表紙の画像はAIによって作成された)

ファイル名「天皇皇后両陛下中国御訪問(1992年)」(分類番号:2023-0628, https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2023/2023-0628.pdf)の54-74枚目にもとづき、天皇皇后両陛下の北京滞在(1992年10月23-25日)の要約を1600字程度(1400-1800字、全角換算)で作文しなさい。

形式:MS-WordまたはPDF(厳守)
提出先:UNIPA本科目課題提出
締切:2025年1月16日木曜日23時30分

今回をもちまして、国際関係史の授業は終わりです。履修者および一般読者の皆様、駄文をお読みくださり、どうもありがとうございました。

 

湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と

(表紙の画像はAIによって作成された)

地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。

地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。

日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。

教科書での関連する記述

教科書

湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見が対立したが、翌1992(平成4)年に宮沢喜一内閣のもとでPKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣が可能になった。その後、自衛隊は1993年にモザンビーク、94年にザイール(コンゴ民主共和国)、96年にゴラン高原、2002年に東ティモールなど派遣されている。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 360、n. 2。

感謝されない日本

1990年代、いや今世紀になってもよく聞かされたのは、湾岸戦争での国際貢献で日本は感謝されなかった、という言説だ。調べると、それは次のようなことのようだ。

手嶋龍一

三月十一日の朝、ワシントン郊外ペセスダの自宅で『ワシントン・ポスト』紙を広げた日本の外交官はわが目を疑った。幾度も三十ヵ国の国名をなぞり「JAPAN」の文字がどこかにないか探し続ける。しかし、日本の名はついに見当たらなかった。

在ワシントンのクウェート大使館は『ワシントン・ポスト』や『ニューヨーク・タイムズ』など全米の有力紙に派手な全面広告を掲載した。クウェートの国旗が風に颯爽とひるがえり、平和を回復した中東地域の地図が描かれている。遥か北方にはロシア、そしてイギリスの彼方には、自由の女神を戴くアメリカ。いずれの国も鮮やかな色彩に染められ、七ヵ月ぶりに国土をその手に取り戻したクウェートの浮き立つような気持ちが表れている。

<ありがとうアメリカ。そしてグローバル・ファミリーの国々>

見出しに大きな活字を組み込んで、クウェートの国土と主権を奪還してくれたアメリカに心からの謝辞を呈している。
手嶋龍一、『一九九一年 日本の敗北』、新潮社、1996年、395-396ページ。

『ニューヨーク・タイムズ』をウェブで講読すると、過去の紙面が広告を含めて閲覧できる。そこで確かめた。でも、どうしても見つからない。それらしきものは3月4日のクウェート情報省による広告で、次のように書かれている。

Kuwait

FROM THE PEOPLE OF KUWAIT…
TO THE PEOPLE OF
THE UNITED STATES OF America…

Thank you!
The advertisement by the Kuwaiti Ministry of Information, New York Times, March 4, 1991, A13.

しかし、どこかの新聞に手嶋氏が引用するクウェートの広告が載ったのはまちがいない。なぜなら、当の『ワシントン・ポスト』に次の記事があるからだ。

Washington Post

Then the government of Kuwait published a full-page advertisement in at least one American newspaper to say “thanks” to the United States and the “United Nations Coalition.” This became a news item here because Japan was not one of the countries thanked by Kuwait. Germany, which had shown some of the same hesitation as Japan about aiding the coalition, was mentioned in the advertisement.

T. R. Reid, “Japan’s New Frustration:
Tokyo Says Its Gulf Role Was Misunderstood,” _Washington Post_, March 17, 1991, available at https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1991/03/17/japans-new-frustration/e5ea50e0-, December 5, 2024.    56f1-4380-a8f0-5e6b009b44a8/

版や地域によって、掲載される広告は違うのだろう。気になるのは、”in at least one American newspaper”と1紙以外の掲載は確認していない、ということだ。仮にワシントンDC周辺だけで、感謝の相手に日本が含まれない広告を載せる新聞が配達されたとして、それがどうというのだろう?

日本は米軍中心の多国籍軍に130億ドルを支払い、応分の国際貢献を行なった。クウェートの在ワシントンDC大使館は折衝の蚊帳の外だったと思われる。それはともかく、自らの自由意思で行動して、悔いなし、と誇れる国民でありたいものだ。

リターンマッチ

実のところ、外務省は手をこまねいていたわけでなかった。

イラン・イラク戦争に際して、ペルシャ湾に掃海艇を派遣するよう1987年にアメリカ合衆国から要請されたことがあった。思いやり予算の増額など、選択肢から選ぶことを求める厳しいものだった(戦後外交記録HB門5類2項45目分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ243)。中曽根康弘総理大臣は派遣に前向きだったが、「カミソリ」こと後藤田正晴官房長官の説得により思いとどまった。GPSを使った安全航行システムの建設に資金を援助し、掃海艇派遣の代わりとした。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2022/2022-0603.pdf

後藤田の著書『内閣官房長官』(講談社、1989年)が外交史料館の戦後外交記録に抜粋されている(HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ250-253)。彼の意見とそれを支える見識には賛否あろうが、私には、彼への評価も、彼自身も、日本特有のセクショナリズムに拘束され、冷静な批評の対象となりえない気がする。そのうえ、有力政治家と官僚専門家のいずれが正しいか?、は永遠の問いだ。

イラクがクウェートに侵攻した1990年8月、さっそく外務省は掃海艇の派遣を検討し始めた。ところが、法的な問題が起こり、身動きがとれなくなった(戦後外交記録HB門5類2項45目分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ210-241)。それが招いた事態が『ワシントン・ポスト』の広告(?)と記事が示した「感謝されない日本」だった。

https://digitallibrary.un.org/record/102245/files/S_RES_678%281990%29-EN.pdf?ln=en

法的な問題とはこういうことだ。有名な国連安保理決議S/RES/678はクウェート解放のためのあらゆる措置を容認し、武力行使授権決議として知られる。同決議はまた、そうした措置への支援をあらゆる国に求めるが、自衛隊を支援に差し向けることは武力行使と一体化するとみられた。憲法9条が早期の派遣に二の足を踏ませた。

https://digitallibrary.un.org/record/110709/files/S_RES_687%281991%29-EN.pdf?ln=en

武力行使とみなされないためには、休戦条件を示した決議S/RES/687をイラクが受諾するのを待たなければならなかった。そして正式な休戦が確認されたのは1991年4月11日で、3月の感謝広告より掃海艇派遣の決定は遅れることになった。

他方で、掃海艇の派遣を急がなければならない事情があった。1200個敷設された機雷の除去は4月の時点で米英軍により半分程度、済まされていたからだ。

掃海艇派遣の決定についての政府声明は外交史料館の戦後外交記録に載っている。私が注目したのは次の部分だ。

日本政府

この海域における船舶の航行の安全の確保に努めることは、今般の湾岸危機により災害を被った国の復興等に寄与するものであり、同時に、国民生活、ひいては国の存立のために必要不可欠な原油の相当部分をペルシャ湾岸地域からの輸入に依存する我が国にとっても、喫緊の課題である。

戦後外交記録HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」のPDFページ141。

その後の対テロ戦争でも、イラク戦争でも、海賊対策でも、自衛隊が海外派遣されるたび繰り返し唱えられることになる原油の中東依存というフレーズはこの時に始まったのだろう。米軍が日本に駐留している原因の半分はこれであり、極東の平和および安全は残りの半分なのだ。

ただし、今回も後藤田のような意見が出てくる可能性があったので、外務省は機先を制して世論工作を入念に施した。経済団体連合会、船主協会、海員組合、そして中東君主国の湾岸協力会議(GCC)に派遣待望論を出させたのだ(分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ273)。

こうして、掃海艇4隻、掃海母艦1隻、そして補給艦1隻は現地へ旅立った。

まとめ

1992年、国連平和維持活動(PKO)への自衛隊の派遣を可能とするPKO法が成立し、同年、UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)に参加した。

しかし、UNTACの文民警察として勤務した日本人2名が殺害され、国民に衝撃を与えた。国際貢献の高い志にもかかわらず、国連PKOへの日本からの参加は活発とはいえない現状だ。

2010年ごろから、世界の分断は修復困難となり、国際社会の総意を体しての国際貢献の機会はますます減ることになった。

課題

  1. 後藤田正晴『内閣官房長官』(講談社、1989年、HB門5類2項45目の分類番号2022-0603「湾岸危機への貢献/掃海艇派遣」PDFページ250-253所収)を読み、1987年にペルシャ湾への掃海艇派遣に反対した後藤田官房長官の論拠をまとめ、あなた自身がその論拠に賛成するか、反対するかを述べて、それはなぜかを300字以内で議論しなさい。https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2022/2022-0603.pdf

  2. 国際情勢によって原油価格が値上がりすると、日本経済全体にとっていかなる影響があるとあなたは考えるか? 300字以内で議論しなさい。

  3. 1991年における湾岸戦争後の自衛隊掃海艇ペルシャ湾派遣と同じ種類の活動は、現行の「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(国際平和協力法、PKO協力法)ではいかなる枠組みで行われうるとあなたは考えるか? 「国際連合平和維持活動」または「国際連携平和安全活動」または「人道的な国際救援活動」または「国際的な選挙監視活動」からいずれか一つを選び、300字以内で議論しなさい。https://hourei.net/law/404AC0000000079.html

六四天安門事件と日本政府

上の気の弱そうな高校生が私です。竜のキャラクターに1988と書いてありますね。写真は祖母がとったのだと思います。天壇公園のあたりでは牛が歩いていました。目まぐるしく北京は変わりました。

1988年木下郁夫撮影

天安門から見える風景はというと、ネットで検索すると当時も今も変わりません。すごいですね。共産党政権がいかにこの景観を大事にしているか分かります。

天安門広場の南は平安京では朱雀大路に当たります。この北側も含めた「北京中軸線」は2024年にUNESCOの世界遺産に登録されました。中国統治の正統性を象徴するがゆえに、景観を残すのでしょう。

それだけに、天安門のまえで政府に意見を表明することは重大な意味を持ちます。政権に天命があるのかを問うことだからです。

教科書での関連する記述

教科書

しかし、学生や知識人のあいだでは共産党の一党支配の持続や、民主化なき経済改革への不満もつのっていった。1989年、彼らは北京の天安門広場に集まり、民主化を要求したが、政府はこれを武力でおさえ(天安門事件)、民主化運動に理解を示した趙紫陽総書記を解任して、江沢民を後任に任命した。

木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 346。

国際情勢は緊迫をきわめていた。東ヨーロッパ諸国の民主化運動にソ連のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長はどう反応するか? 世界はかたずをのんで見守った。その彼が前月に中国を訪問し、北京でも民主化への期待が高まった。

民主化に進めば地獄、退いても地獄。鄧小平はじめ共産党指導部の置かれた状況はそんなだった。中国で民主化? その帰結は、選挙? それとも内戦? と指導部にとっては失脚のリスクが高くてとれない選択肢だった。退いて体制固めをするほうが安全策だ。

体制固めというのは、すなわち学生たちの排除であって、多少なりとも実力行使を伴うだろう。そういった民主化の弾圧は国際世論からの批判にも腹をくくらなければならなかった。

鮮やかといえば鮮やかだった。夜陰に乗じて人民解放軍が広場に突入し、発砲音が聞こえるだけだった。6月4日になって流れた映像は歩道橋からつるされた死体や戦車のまえに立ちふさがる男の映像だった。天安門事件の真相は闇に包まれ、何人が亡くなったか今でも不明だ。

日本政府の対応

外務省外交史料館は30年経過した外交記録の目録を公開しているが、毎年12月には文書のコピーそのものを閲覧できるようにしている。アメリカ合衆国はジョージ・H・W・ブッシュ政権のフォーリン・リレイションズ・オブ・ザ・ユナイティッド・ステイツを公開していないので、日本のほうが進んでいるところもある。

https://history.state.gov/historicaldocuments/bush-ghw

外務省の公開外交記録をもとに、六四天安門事件を外務省がいかに認識し、いかにそれに対応したかを確認しよう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0545_03_01.pdf

戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」は横書きのものと縦書きのものの2種類があるが、ここでは初めの横書きのほうを話題にする。文書の表紙に記されたところでは、6月7日付だ。

冒頭の「中国の現状」という見出しのもとでは、鄧小平・楊尚昆・李鵬の強硬派ラインが勝ちつつあることを指摘する。改革派と呼ばれた趙紫陽らは2週間後に失脚したので、この見方は正しかったのだろう。

私が興味深く受け止めたのは、2とナンバリングされた文だ。

外務省

2. いずれは、より穏健な政策を追及する中国に戻ることが望ましいが、中国における民主化要求の力を過大評価することは誤り。農民を中心に中国人の大多数は政治的自由に無関心。

戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」

体制に打撃を与える火の手は広がらない、という外務省の観測は正しかった。他方、政治的自由に関心を持つ人々は少数派だから無視できる、とも読めるわけで冷徹な印象を与える。

新しい総書記には上海市長だった江沢民が就任し体制固めに区切りがついた。

改革・開放はそんなに偉いのか?

1989年のG7サミット(主要国首脳会議)はアルシュサミットだった。アルシュはパリの新開発地区に作られた奇抜なアーチ型のビルだ。この年はフランス革命二百周年にあたり、東ヨーロッパ情勢と絡みあい、自由の祭典となった。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_01.pdf

サミットでは7月15日、中国に関する宣言が合意された。上のリンク先には議長国のフランスが作った原案が載っている(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(1)「仏側原案 7.4」)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf

上のファイルの諸文書では、原案における非難をできるだけ抑え、対中制裁を実害のないものにしようと努力した(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(5)「仏側案への対応」など)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_03.pdf

最終的に合意された中国に関する宣言がこれだ(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の3「討議及び宣言」)。原案と見比べてどのような印象を受けるだろうか?

日本の働きかけの背景にあった考え方とは何だろう? サミットを締めくくる記者会見のために作られたと思われる想定問答がある(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0554_05_04.pdf

外務省

我が国としては、今次サミットの機会に次の二つのメッセージを中国に正しく伝えることが必要との立場を表明した。第一は、中国の学生運動に対する弾圧、就中武器を持たない学生、一般市民に対する武力の行使は、西側先進民主主義諸国が奉ずる基本的価値観に照らして容認し得るものではなく、それ故に、中国との関係を制約せざるを得ないということである。第二は、しかしながら、我々は、中国を孤立に追いやることを欲しておらず、中国が、単に言葉の上だけではなく、実際の行動により国際世論に耳を傾け、従来の「改革・開放」政策へのコミットメントが変わらない姿勢を示すのであれば、我々はこれに対する支援と協力を再開する用意があるということである。

戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」

まるでモンロードクトリンのような気負った文章だ。「二つのメッセージ」のうち、一つ目は当面は関係を制約し、さらなる弾圧は許さないという態度の表明だ。

問題は第二のメッセージだ。中国が弾圧をやめるならば、「改革・開放」を条件として「支援と協力」を再開する、と言っている。改革とは農業・工業・国防・科学技術の4個の現代化であり、開放とは経済協力と外資誘致だ。「孤立」という言葉をヒントにすれば、世界市場の相互依存のなかに中国をからめとることで、文化大革命のような排外的、攻撃的な政策をやめさせることができると日本は考えた、と解釈できる。

つまり、人権と民主主義はもとより中国には期待しない。平和共存さえ得られればよしとした。

まとめ

その後、中国は日本政府の期待どおり改革・開放につとめ、アメリカ合衆国に次ぐ経済規模を誇るまでになった。その一方、和平演変として平和のうちでの体制変化を恐れ、人権と民主主義に背を向けた。

市場を信奉しない中国は操作と寄生によって国家資本主義を営んでいるが、あまりに大きくなりすぎたゆえに世界市場のメカニズムを機能不全におとしいれている。相互依存による平和共存の夢も継続困難だろう。

天安門は変わらなくても、世界は変わるのだ。

課題

  1. 北京中軸線と総称される建築物群は何を象徴するのか? またはそれはどのような意味を持つのか? あなたの意見を300字以内で書きなさい。

  2. 1989年のアルシュサミットにおける中国に関する宣言のフランス原案にあった”continuations of executions”の句を日本政府は削除するよう求めたがそれはどのような理由によるものか? 300字以内で解説しなさい。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf

  3. 六四天安門事件発生後、日本政府は何を期待して中国政府に経済協力を行ったのか?、300字以内で解説しなさい。

国連軍縮特別総会最終文書のコンセンサス

(表紙の画像はAIによって作成された)

世界が合意する、というのは口で言うのは簡単ですが現実では難しいです。にもかかわらず、それに近いことができたことがありました。1978年の国連軍縮特別総会における最終文書がそれです。

最終文書の日本語訳は下のとおりです。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできません。

https://dl.ndl.go.jp/pid/11896416/1/194

英語原文は下のとおりです。

https://documents.un.org/doc/resolution/gen/nr0/107/51/pdf/nr010751.pdf

 最終文書のおかげで、1980年代、核軍縮の機運が大いに高まりました。アジェンダセッティング(課題設定)というやつです。

教科書での関連する記述

教科書

国連総会も核軍縮の必要を勧告する決議を多く採択し、1978年には国連軍縮特別総会[太字―引用者注]を開催した。

伊東光晴、『最新政治・経済』、新訂版、実教出版、2023年、p. 61。

日本史ではなく、政治・経済の教科書だが、国連軍縮特別総会のことが書いてあるとは驚き、感心した。1978年に小学生だった私の記憶にはないが、それよりまえの世代には感銘を与えたのだろう。

2024年、日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した。田中煕巳氏の演説を聴きながらこれを書いている。

受賞を伝えるニュースでよく流されたのは長崎の被爆者、山口仙二氏、が第2回国連軍縮特別総会で行なった「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説だった。NBC長崎放送のYouTube動画を貼る。

第2回国連軍縮特別総会は1982年のことで、反核運動は最も盛り上がりを見せた。欧米では核戦争が本気で恐れられていた。

この下地を作ったのが4年前の第1回国連軍縮特別総会でのコンセンサスだった。

拙著でごめん

合意を作り上げた指揮者はメキシコの外交官、アルフォンソ・ガルシアロブレスだった。彼の功績は知る人ぞ知ることだった。1982年のノーベル平和賞は彼とスウェーデンの学者、アルバ・ミュルダール、に授与されたからだ。両人はかつて国際連合本部で同僚だったことがある。

私はガルシアロブレスの伝記を書いた。彼が最終文書を作った意図を下のように記した。

木下

「軍縮哲学」を編む、という使命感に導かれていた。
後年、次のように語る。

国連憲章は核軍縮について一言も触れていない。サンフランシスコ会議から数週間後にヒロシマに原爆が落とされた。憲章は生まれた時から時代遅れであった、と。

その代わりとなる核軍縮の原則と目的を明らかにしたものが必要である。

毎年、通常会期には、大量の決議が審議される。そうした断片的な決議を反復するのではなく、宣言と行動計画の二本の文書にまとめねばならない、と準備委員会では発言した。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、181-182ページ。

しかし、意見の違いを埋めることはたやすくなかった。

木下

コンセンサスによる採択、というハードルは高かった。

言質を取られたくない核大国はもちろん、言質を取りたい非核兵器国も簡単には自らの主張を譲らなかったからである。

せっかく起草した文案も、異論がある箇所は角張った括弧[ ]で囲まれた。それらがすべて除去されない限り、コンセンサスの至上命題は達せられない。

「序文」は比較的に合意がやさしい節であった。四回の公式会合と、調整のための非公式協議を経て、起草部会は圧倒多数の同意によって、括弧が除去された草案を作業部会Aに引き渡した。

しかし、作業部会Bも含めて、他のすべての起草部会は、括弧を消すことができないままであった。

終盤に差しかかった六月二三日、交渉はアドホック委員会に引き渡された。残された多くの括弧を除去しなければ、コンセンサスには到達できない。

そこで、ガルシアロブレスを交渉の総責任者に指名し、他の調整役と一緒になって問題を解決するよう依頼した。

スーパーコーディネーター、の渾名を奉られた真の実力者が正体を現した瞬間であった。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、183-184ページ。

ところが、括弧の除去はスーパーコーディネーターをもってしても難事だった。特別委員会第14回会合の議事録が下のPDFだ。ヘッダーのA/S-10/AC.1/PV.14の下にパラグラフ番号の”39-40″と書いてあるページからがガルシアロブレスの発言だ。その”First”から始まるパラグラフで、彼は代表たちに何を頼んだか? 使われている比喩も興味深いので確かめてほしい。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-PV14.pdf

最終文書の採択までまだ紆余曲折はあるのだが、この話題で終わってしまわないように、それらは飛ばして最終局面だけ見よう。

木下

後がない木曜日、相次ぐ延期によって、開かれたのは午後一〇時四〇分であった。

もはや括弧は残されていなかった。

大団円と思いきや、ソ連の代表が、配布された決議案に異議を申し立てた。調整役たちとの合意事項が、そこに反映されていないというのである。

手直しを終えて、アドホック委員会が閉会したのは日付が変わった三〇日金曜日の午前三時すぎであった。今度こそ本当に最終文書は完成した。

その日の午後六時二五分、本会議が始まり、最終文書は採択された(A/RES/S-10/2)。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、186ページ。

政府代表の立場

日本代表団は第1回国連軍縮特別総会でいかなる役割を果たしたのか?

園田直外務大臣が5月30日の全体会合で演説した。園田というとこれに続いて日中平和友好条約で歴史に名を留めたが、大臣に再任されたことから知られるように、自民党の群雄の一人だった。

ただし、演説の内容は「非核三原則」、「唯一の被爆国」、「核兵器不拡散条約」、そして「核兵器廃絶」と定番であって、わずかに「非核地帯」への言及がリップサービスを感じさせるくらいだ(A/S-10/PV.9, para. 100-142)。もっとも、核兵器不拡散条約を日本は批准したばかりだから、定番の始まりという意義は大きいかもしれない。

キャリア外交官の小木曽本雄氏は特別委員会で発言した。それはインド決議案に対する修正案を提起するものだった。

軍縮の哲学を編む、というのがガルシアロブレスの意図であり、それゆえ軍縮に関する決議は最終文書の1本にまとめられる予定だった。インドはどうして別に独自案を提起したのか?

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L10.pdf

さらなる核兵器実験の停止が緊急に必要だ、とインド案は求めた。たった1条項の短い決議で、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める内容だ。

まことに結構な決議案にみえる。インドが提案したことを除けば。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

小木曽氏の修正案は「あらゆる核兵器国」を「あらゆる国家、特にあらゆる核兵器国」に直し、「核兵器のさらなる実験」の「核兵器」に言葉を足して「核兵器および他の核爆発装置のさらなる実験」と改めるものだった。

小木曽氏が修正を求めたのはなぜか? 考えよう。

結局、インド案は最終文書第51パラグラフのなかに吸収された。

最終文書

51. 効果的な核軍縮の過程の枠組における全ての国による核兵器実験の停止は、人類の利益に合致しよう。それは、核兵器の質的改善及び新型のかかる兵器の開発を停止し、また核兵器の拡散を防止するという上記の目的に顕著な貢献をなすであろう。この関連において、「核兵器実験を禁止する条約、及び本条約と不可分の一体をなす平和目的核爆発についての議定書」に関する目下進行中の交渉は速やかに締結されるべきであり、その結果は、条約案の国連総会への可及的速やかなる提出を目途として、多国間交渉機関による完全なる検討にゆだねるため提出されるべきである。総会による確認に次いで、可能な限り広汎なる加盟を誘引することのできる協定を達成するため、交渉当事者により全ゆる努力がなされるべきである。この関連において、本条約の締結までの間、仮に全ての核兵器国が核兵器実験を慎むこととなれば、国際社会は勇気づけられるであろうとの種々の見解が非核兵器国によって表明された。これとの関連で若干の核兵器国は異なった見解を表明した。

国際連合事務局編、『国連軍縮年鑑』、1978年版、外務省国連局軍縮課、[1980年]。

NGO代表の立場

日本のNGOが登壇したのは6月12日だった。田中里子氏は全国地域婦人団体連絡協議会の事務局長で、広島・長崎の被爆者ではない。地婦連は502人を擁する日本のNGOの代表団派遣連絡調整会議の事務局を担った。彼女が演説の冒頭で述べたところでは、2千万人の署名を集めたというから、その組織力はいかんなく発揮されたことだろう。『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に日本語で演説が掲載されている。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2273845/1/5?keyword=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%87%8C%E5%AD%90

田中氏の演説はNGO代表団のコンセンサスを反映したものだろう。しかし、それは日本政府の政策とは違っていた。「一日も早く核兵器の実験、使用、製造、貯蔵、拡散、配備を全面的に禁止する条約をつくること」を署名は要請した。2021年に発効した核兵器禁止条約と同じ内容だ。現在も、日本政府のほうはこの条約には参加しない方針だ。政府とNGOとのギャップは時に広がり、時に縮まり、つねに存在してきた。

同じ日には、立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)会長が演説した。ただし、世界宗教者平和会議という国際NGOの代表としてであった。

被爆者たちは総会で演説するのでなく、各国代表団などと個別に会っていた。この苦節何十年があっての2024年だったのだ。

まとめ

世界が一つになる、というのは世界政府ができることでも、地球連邦ができることでもない。我々の視界にある唯一のビジョンは、それぞれの政策に限ってコンセンサスができることだ。国際連合憲章の採択は、日本は不在だったが、初めてのそうした事件だった。近年では気候変動枠組条約の締約国会議(COP)が、温暖化防止のコンセンサスを目指している。

第1回国連軍縮特別総会における最終文書も、核兵器のない世界のおぼろげなビジョンを示した。それは立場の違う政府とNGOに共有され、ゴルバチョフとレーガンを結びつけたのだ。

課題

  1. 山口仙二氏による第2回国連軍縮特別総会における「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説は世界の人々が抱く核兵器・核軍縮に対する認識に関していかなる意義があったとあなたは考えるか? 1945年には世界の人々はこの問題についてまったく無知であったことを踏まえて300字以内で説明しなさい。

  2. 1978年の第1回国連軍縮特別総会において、インド政府代表は、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める決議案(A/S-10/AC.1/L10)を動議した。それに対し、日本政府代表の小木曽本雄氏は修正案(A/S-10/AC.1/L.13)を動議した。小木曽氏はインド決議案のどのような点が不満だったのか? 1970年代に起きた具体的な事件に言及して300字以内で解説しなさい。小木曽氏の修正案 https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

  3. 『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に掲載された第1回国連軍縮特別総会における田中里子氏の演説を読んで、「いいね!」と思った箇所を引用し、なぜ「いいね!」と思ったかを300字以内で説明しなさい。

日系カナダ人はWWIIにほとんど従軍できなかった

(表紙の画像はAIによって作成された)

日系人にアメリカ合衆国政府は謝罪と賠償をした、といいます。実はカナダも自国日系人に謝罪と賠償をしました。

日本人ではこうした報道は他人事のように扱われます。たしかに、日系人はすでに他国の市民だったわけですから、日本政府にとっては保護義務の対象外でした。他方、特定の先祖を持つ市民だけを差別して強制移住させたカナダ政府は非難されるべきです。

第二次世界大戦について、日本も謝罪と賠償をしました。しかし、自国民ではなくアジア太平洋の人々に対してです。生命・財産を奪ってしまったのですから当然です。

では、かつての同胞である日系アメリカ人・カナダ人に汚名を着せたことを謝らなくてよいのでしょうか?

法的責任という点では、謝る理由はないことになります。海軍の手先としてスパイに仕立てようとした、といった疑惑はありましたが、両国についてはほとんどは濡れ衣で、目立った事件は起きませんでした。

となると、道義的責任が中心になります。日本への悪い評判が、血縁や同じ社会的特性を有する日系人への悪い評判を招いたことの責任です。家族や会社への悪い評判が、それらの関係者にまで悪評をもたらすのと同じ筋道です。

グローバリゼーションによって、国家と国家の権利義務だけでなく、個人と個人とのコミュニケーションにおける道徳観を調節することが必要になっています。日系人への偏見や汚名を招いたことに、日本側は反省をし、道義的責任を負うべきです。海外の謝罪報道を他人事のように受け流すことは許されません。

教科書での関連する記述

残念ながら見当たらない。国籍から離脱した者は「日本」という集合自我から外れるのが扱わない理由だろう。実際、スポーツでも、外国代表になった日本人や日系人はそう扱われる。

カナダの排日

明治の末から大正をはさみ昭和のはじめまで、日本人移民の排斥に関する記事が『日本外交文書』にたくさん現れる。その多くはカリフォルニア州とブリティッシュコロンビア州におけるものだった。もちろん、前者はアメリカ合衆国、後者はカナダに所在する。

1907年にバンクーバーで日本人の商店55戸のガラスが割られる事件が起きた(『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1747「晩香坡ニ於ケル日韓人排斥同盟会ノ示威運動及被害ノ件」(179ページ)。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0005/0001/0040/0784/0486/index.djvu

https://www.epapyrus.jp/products/doc_viewer

生活や文化への偏見や仕事を奪われた労働者の反感が背景にあったのだろう。それらとともに、日露戦争で見せた帝国海軍の精強さが、領土を奪われるのでないか、という恐怖感を与えるようになっていた。

この事件の処理のためにカナダから使節としてロドルフォ・ルミューが派遣された。迫害事件が理由だったものの、日本政府にとってはうれしくない使節だった。上の理由は表向きで、日本と移民制限を設ける交渉にとりかかるのが真の目的だったからだ。

林・ルミュー協定またはルミュー協約が結ばれた。書簡の形式をとった合意で、その本文が『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1799附属書7「協定済案文」(239ページ)に載っている。

書簡の最後に、移民制限の数値約束が言い忘れかけたように記されている。有名な歴史文書、例えば軍縮における1818年のラッシュ・バゴット協定や日米半導体協定サイドレターも書簡形式だ。このサイドレターは数値目標が義務かどうかで争いの種となった。書簡形式のこうした国際合意は禍根を残すことが少なくない。堅苦しい条文でないだけに、定義と解釈をあいまいにしたままで気軽に約束してしまうのだ。

林・ルミュー協定もしばしば解釈をめぐる争いを招くことになる。これは日系人移民への反感が消えなかった裏返しでもあった。

強制移住

日本人はやっぱり悪い奴らだった、という濡れ衣を真珠湾攻撃は証明してしまうことになった。悪いのは太平洋の西向かいの人々であって、一世でも二世でもなかった。

強制移住の布告を、Roy MikiとCassandra Kobayashiの_Justice in Our Time: The Japanese Canadian Redress Settlement_ (Vancouver: Talonbooks, 1991)の記述に従って見ていく。

http://central.bac-lac.gc.ca/.redirect?app=cangaz&id=7380&lang=eng

この官報の発行日は1942年2月27日だが、布告の日付は26日だ。日本人種のすべての者が太平洋岸から100マイルと設定された保護地域から立ち去ることが命じられた。正確には、日本人種のすべての者とは両親またはいずれかの親が日本人の者だ。

Roy MikiとCassandra Kobayashiがカナダとアメリカ合衆国の日系人の扱いを比較した表が興味深いので訳して引用する。

カナダ
-文民警察が強制移住(uprooting)を指導
-22,000人が100マイル地帯から強制移住
-政府が土地と個人財産を押収して売却
-ゴーストタウンが収容に使われた
-収容者が貯蓄と財産売却収入から衣食住を支出
-1945年1月まで軍務を許されず、その後も通訳のみ
-人権保護の立法がカナダ生まれの者にさえない
-1949年4月1日まで太平洋岸への帰還を許されない
-バード委員会が120万ドルを財産損失に支払った
-家族の解体
-日本への追放と東方への分散の政策が第二次世界大戦後も1949年3月31日まで続く

アメリカ合衆国
-軍が強制移住を指導
-12万人が西海岸から強制移住
-パニック下で売却、略奪、減価、しかし憲法の保護により政府による財産売却はない
-収容キャンプで有刺鉄線と武装警備
-住居と食料は支給
-徴兵され志願を許された
-憲法がアメリカ市民は正当な理由なく拘留されないと定める
-アメリカ市民は1945年1月に太平洋岸に帰還し始めた
-政府の押収と財産売却がなかったにもかかわらず3,700万ドルが支払われたがそれは請求された損失の10分の1にすぎなかった
-家族集団で収監
-第二次世界大戦中もそのあとも追放と分散の類似の政策はない

Roy Miki and Cassandra Kobayashi, _Justice in Our Time: The Japanese Canadian Redress Settlement_ (Vancouver: Talonbooks, 1991), p. 51.

カナダの日系人が最後になって従軍できたのは、東南アジアの戦場で必要だ、とインド軍とオーストラリア軍から要請があったからだ。この実態については武田珂代子氏の『太平洋戦争 日本語諜報戦』 (ちくま新書、2018年)に詳しい。

1949年まで太平洋岸に戻れなかったということは、世界人権宣言が国連総会で採択されても差別は続いた、ということだ。

他方、アメリカ合衆国の日系市民は政府への忠誠が堅く、勇猛に戦い、日本語力によって勝利に大きく貢献した。

相手を間違えている

第二次世界大戦後、日本は復興し、「経済大国」といわれるまでになった。1976年11月、ピエール・E・トルドー首相が来日し、三木武夫総理大臣と会談した。

TOKYO — Praising many Japanese qualities, including that of forgiveness, Prime Minister Trudeau has apologized for Canadian wartime detention and forceful relocation of 23,000 Japanese-Canadians.
The wartime decision “was not a proud one,” Trudeau said Monday at a banquet for Premier Takeo Miki on the eve of Trudeau’s return to Ottawa.
“No more exmplary was the decision taken by the federal government in the heat and fright of World War II to evacuate Japanese-Canadians inland from coastal communities and to deprive to many of their civil rights,” Trudeau said.
Tracing the growth of the Japanese-Canadian community, Trudeau said men and women of Japanese origin have made tremendous contributions in tenacity, industry and skills out of all proportion to their numbers. 

“PM Apologizes for Wartime Detention,” _The Ottawa Citizen_, October 26, 1976, p. 33, available at https://www.newspapers.com/image/463304595/, downloaded on October 13, 2024.

カナダ紙

TOKYO — Praising many Japanese qualities, including that of forgiveness, Prime Minister Trudeau has apologized for Canadian wartime detention and forceful relocation of 23,000 Japanese-Canadians.
The wartime decision “was not a proud one,” Trudeau said Monday at a banquet for Premier Takeo Miki on the eve of Trudeau’s return to Ottawa.
“No more exmplary was the decision taken by the federal government in the heat and fright of World War II to evacuate Japanese-Canadians inland from coastal communities and to deprive to many of their civil rights,” Trudeau said.
Tracing the growth of the Japanese-Canadian community, Trudeau said men and women of Japanese origin have made tremendous contributions in tenacity, industry and skills out of all proportion to their numbers. 

“PM Apologizes for Wartime Detention,” The Ottawa Citizen, October 26, 1976, p. 33, available at https://www.newspapers.com/image/463304595/, downloaded on October 13, 2024.

戦時中の日系カナダ人を拘留し、強制移住させたことに対する謝罪を帰国前日の席で三木に伝えた。

二つの意味で間違えていた。まず、謝る相手は三木でなく日系人たちであるべきだった。11月6日の_Vancouver Sun_には”The Japanese-Canadians: ‘Will our government never learn?'”という見出しのもとに、同紙に寄せられた批判の投書が掲載された(P. 5, available at https://vancouversun.newspapers.com/image/492702211/, downloaded on October 13, 2024)。

もう一つ間違えていたのは、三木こそ、日系人に謝るべきだった。日系人もカナダ人だから、その謝罪は戦争への反省を含むはずだ。

人々の日常的な道徳観なら、三木も謝るべきという感覚はおかしなものでないと思う。しかし、国際社会の常識では三木は日系人に謝る法的責任はないのだ。カナダでは、政府に謝罪を求める日系人のキャンペーンが始まろうとしていた。法的には、日本政府は傍観を決めこむことができた。世界秩序のあり方を根源から問い直すことが必要だ、と私は思う。

まとめ

正式なカナダ政府からの謝罪と補償は1988年9月に行われた。カナダのテレビ局CBCのウェブサイトへのリンクを貼る。

https://www.cbc.ca/archives/government-apologizes-to-japanese-canadians-in-1988-1.4680546

これを調べた私の感想は、まだ知らないことが多すぎる、ということだ。あと10年勉強しても、20年勉強しても、そうだろう、と思う。

課題

  1. 『日本外交文書』第40巻第3冊「44 加奈陀ニ於テ本邦移民渡航制限ノ件」の番号1746「晩香坡ニ於ケル日韓人排斥同盟会ノ示威運動開始ノ件」(178ページ)には、いつ、だれが、どこで、何を破壊したかが書かれている。いつ、誰が、どこで、何を破壊したかを詳しく解説しなさい。

  2. 次のウェブサイトを参考にしてニューデンバー収容施設の概要を日本語で詳しく描写しなさい。 https://www2.gov.bc.ca/assets/gov/driving-and-transportation/driving/japanese-internment-signs/new_denver_internment_camp.pdf

  3. 有名な日系カナダ人を1名挙げ、その人物の姓名、生まれた年、そして有名になった理由をできるだけ具体的に書きなさい。

満洲事変は居留民保護の仕組みで拡大

(表紙の画像はAIによって作成された)

外国で身の危険を感じたら、最後は出国しなければならないでしょう。

しかし、かつては違いました。居残るのです。自国民保護は世界で認められた権利でした。

紛争のニュースを見ると、満洲事変の様子を私は思い浮かべます。満洲開拓は世界でよくある入植の一つでした。引っ越しでなく入植なのは、まわりに自分たちと同じ文化の集団がいないからです。

二つの集団が異なる忠誠の対象を持ち、一つの土地に住むと、もめごとが起こります。それほど共生は難しいです。

教科書での関連する記述

教科書

関東軍が参謀の石原莞爾を中心として、1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始し、満洲事変が始まった。第2次若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは軍の行動を支持した。関東軍は、全満洲を軍事的制圧下におこうと戦線を拡大したため、事態の収拾に自信を失った若槻内閣は総辞職した。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 305。

第1文の主語は「関東軍」だ。関東軍は大連と満洲鉄道沿線を守備するために、そこにいた。中国が統一され、主権を自ら行使するのが当然だと考えるようになると、いずれ撤兵を求めてこよう。そうはいかないぞ、と関東軍は満洲を独立させようと謀略を立てた。

軍隊を抑えられない日本政府も日本政府だが、関東軍のやり方も巧妙だった。そこを理解しよう。

あっけにとられて……

軍部の一部門がデマ、流言、フェイクニュース……、どれでもよいが、嘘に基づいて満洲全土を占領した。初動の対応がどうだったか、『日本外交文書 満州事変』第1巻第1冊の「一 満州事変の勃発」で確認しよう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/manshujihen1_1_02.pdf

https://www.epapyrus.jp/products/doc_viewer

番号1が外務省での第1報なのだろう。「付記」が憲兵隊からの通報だ。奉天(瀋陽)駐在の林久治郎総領事は変なことになっていると気づいていた。読み進めると、板垣征四郎参謀の発言に距離をとっていることが分かる。例えば番号7だ。

不拡大方針の閣議決定は事件翌日の番号57だ。何の効果もなかったが、二の矢、三の矢が必要だった。長文の日本政府声明は9月24日の番号146だ。

番号60は内田康哉満洲鉄道総裁から幣原喜重郎外務大臣への意見だが、関東軍の陰謀だと推定している。ここに至って、真実は明らかだ。軍隊の反乱だ。鎮圧するのが本来の行動だ。専制君主ならば、まさかりを将軍に授けて賊徒を討たせるべき状況だ。

番号71は関東大震災後における甘粕事件の甘粕正彦ら大陸浪人がハルピンに来たとの情報だ。大陸浪人は関東軍に協力し、自作自演の工作によって世情不安を作りだした。甘粕については、満洲国で大出世して満洲映画協会の理事長になった。

不安と虚報が、武力にすがりつきたいという居留民の衝動を生みだした。この衝動は日本本土にも広がった。本来、政府は、冷静になって政府の情報を待つように呼びかけるべきだったのだ。

番号120は柳条湖事件を「事変」とみなすという閣議決定だ。自国の軍隊が言うことをきかないのが問題の本質なのに、戦争でもなく、反乱でもない、得体のしれない「何か」としての事変を政府は演出した。

中国軍も現地にいたが、中華民国の実効支配は弱かった。もちろん爆破は身に覚えがないことだったので、抵抗しなかった。この不抵抗主義は国際世論に対して大きな意義があった。

こうして、満洲は中国人、満洲人、朝鮮人、そして日本人が混住し、関東軍、各省政府、馬賊、大陸浪人などが割拠する無政府状態におちいった。

居留民保護の口実

領事官の任務は自国民の保護だ。旅行者も自国民だが、満洲の場合はおおぜいの居留民がいた。愛知県には多くの外国人が住むが、それらの領事館はまるで市役所のようだ。日常生活には市役所や領事館で十分と感じても、大規模な暴力や災害が起きたときにはそれでは頼りなく、国家主権にすがりつきたくなる。満洲の日本人居留民にとって、それが関東軍だった。

上で見たように、満鉄の線路が中国軍によって爆破された、という情報そのものが不確かだった。領事館がこの事態にいかに対処したか、を吉林駐在だった石射猪太郎総領事がのちに書いている(『現代日本記録全集』、第20、筑摩書房、1969)。ただし、下のリンクには国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2987675/1/107

石射元総領事は、自らが居留民、関東軍、吉林省政府、馬賊、大陸浪人などのあいだで、いかに立ち回ったかを描く。強い意志を持っていたのは関東軍だけで、その前に立ちふさがる勢力は現れなかった。

ピストルポイントの独立とか、生理的需要とか、溥儀の凶相とか、よく書いたものだ。上海時代も面白そうだが、残りは各自、お読みくだされたい。

まとめ

出兵経験が豊富な陸軍は満洲で不安を広げれば、居留民保護の名目で一定地域を占領できるともくろんだのだろう。そして、それは成功した。

世界のエスニック紛争がいまだ解決しないのは、集団ごとに頼る権威が異なり、中立的、客観的な判断を受け入れないからだ。いろいろと応用できるモデル、それが満洲事変だ。

課題

  1. 『日本外交文書 満州事変』第1巻第1冊「一 満州事変の勃発」の番号60は内田康哉満洲鉄道総裁から幣原喜重郎外務大臣への意見だが、「領事館員ニ対スル板垣参謀ノ口吻」から事件の拡大を予想している。「領事館員ニ対スル板垣参謀ノ口吻」を伝える電報の文書番号を示し、板垣参謀が事件の拡大をいかなる発言内容で示唆したかを具体的に書きなさい。

  2. 石射猪太郎駐吉林総領事がのちに書いた「外交官の一生」(『現代日本記録全集』、第20、筑摩書房、1969)のなかの「軍の反感、居留民の離反」という節を読み、居留民が「二師団進駐の瞬間、私から離反した」ことを示す具体的な事例を解説しなさい。

  3. 満洲で生活したことがある有名な日本人を1名挙げ、その人物が満洲のどこで何をしたかを具体的に述べなさい。

ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題

(表紙の画像はAIによって作成された)

軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼と政治家…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。

教科書での関連する記述

教科書

また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン会議に参加した。会議では、主力艦建造禁止をさらに5年延長することと、ワシントン海軍軍備制限条約で除外された補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量が取り決められた。当初の日本の要求のうち、補助艦の総トン数の対イギリス・アメリカ約7割は認められたものの、大型巡洋艦の対米7割は受け入れられないまま、日本政府は条約調印に踏みきった(ロンドン海軍軍備制限条約)。
これに対し、野党の立憲政友会・海軍軍令部・右翼などは、海軍軍令部長の反対をおしきって政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯であると激しく攻撃した。政府は枢密院の同意を取りつけて、条約の批准に成功したが、1930(昭和5)年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年4月に退陣し、まもなく死亡した。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、pp. 304-305。

教科書

軍の最高指揮権である統帥権は天皇に属し、内閣が管掌する一般国務から独立し、その発動には参謀総長・海軍軍令部長が直接参与した。憲法解釈上の通説では、兵力量の決定は憲法第12条の編成大権の問題で、内閣の輔弼事項であり、第11条の統帥大権とは別であった。しかし、帝国国防方針では、海軍軍令部が国防に要する兵力に責任をもつべきであるとされた。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 305、n. 2。

さすが教科書! 重要な事件だけあって、展開も、背景も、詳しく書かれている。

しかし気になるのは、「ロンドン海軍軍備制限条約」という略称はどこから来たのか? しっかり「削減」したのだから、英語から直訳して海軍軍備制限削減条約、またはシンプルに海軍軍縮条約でよいと思うのだが。日本語訳では「千九百三十年ロンドン海軍条約」だから、それとも違う。

ここをあいまいにすると、核兵器のSALT(戦略兵器制限条約)とSTART(戦略兵器削減条約)との区別がつかない。「軍縮」という忌まわしい言葉は使いたくないのかな?

もう一点、編成大権は内閣の輔弼事項というのは憲法学者の一学説ということはないのか?、ということが気になる。むしろ、それに反対する学説なり、意見なりがあったことこそ、下の鳩山の説が受け入れられた素地だったのでないか。

統帥権干犯説は事実上、国体を変質させたのだから、それに貢献した鳩山の働きはA級戦犯以上だったと考えることができる。ところが、戦後、彼は公職追放にされたが、主権回復後、保守政治家間での声望ゆえに総理大臣に押し上げられた。

対米7割

海軍記者といえば伊藤正徳。神保町の書泉グランデで陳列された著書を見かけた気がする。今はどうなったのだろう。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1171450/1/139

ロンドン海軍会議の前年、来るべき会議に臨んで、伊藤は詳しく軍縮について解説した(『軍縮?』、春陽堂、1929年)。そこにはアメリカ合衆国に対して7割の兵力が必要だと縷々、つづられている。理由については、皆さんが読んで確かめてもらいたい。

伊藤正徳は海軍の拡声器だった。海軍は対米7割を宣伝して、日本の国論を一本化しようとしたのだろう。海軍といえども官僚組織なので、組織防衛に必死だった。1922年のワシントン軍備制限条約が八八艦隊計画を葬ったのでトラウマになっていた。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_1_04.pdf

交渉の代表たちに本国から与えられる命令を「訓令」という。英語ではインストラクション。補助艦全体でも、20センチ(8インチ)砲搭載大型巡洋艦に限っても、対米7割が命じられている。「三 会議招請及び非公式交渉関係」(外務省編、『日本外交文書 一九三〇年ロンドン海軍会議 上』、1983年、304-310ページ)に見える。

納得しない海軍

日本の全権は元総理大臣の若槻礼次郎、海軍大臣の財部彪(たけし)、駐英大使の松平恒雄、そして駐ベルギー大使の永井松三だ。他国との交渉は職業外交官だった松平が担当した。会津藩主松平容保の子息で、戦後は初代の参議院議長になった。

日本代表団は対米7割の一本やりだった。愚直で誠実ではある。エリートぞろいの高級官僚は自己の正しさを疑わないから、至誠天に通ず、相手も分かってくれる、と信じこむ。しかし、外交の常識は「足して二で割る」なので、結局、討ち死にして悲憤慷慨することになる。

アメリカ合衆国の全権と松平が非公式に交渉して、松平・リード妥協案と呼ばれる日米妥協案ができた。対米7割、すなわち0.7にわずかに届かない0.6975だった。決裂の選択もなくはなかったが、ここらへんが潮時だったと私は考える。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_2_02.pdf

これでよいか、と代表団は東京に承認を求めた。外交用語で本国の指示を求めることを請訓という。資料では、「四 会議の経過」、外務省編、『日本外交文書 一九三〇年ロンドン海軍会議 下』の番号391「米国側は補助艦総括的七割の我が要求を承認しこれ以上譲歩せしむるは困難の旨具申について」(131-132ページ)に「何分ノ御回訓アランコトヲ希望ス」という文句が見える。

請訓を本国が受け取ると大騒ぎになった。海軍省は勝手に交渉内容を公表して批判した。各国の新聞はそれを伝え、異例な事態に他国の代表団は不審をあらわにした。

ここで、日本史教科書に書いてあった統帥権の話になる。内閣側は兵力は編成の事項なので、海軍の同意はいらないとする。確かに、代表団には財部海軍大臣がいて、専門的観点を反映させるよう配慮されている。

海軍側は作戦の責任者である軍令部長の加藤寛治が先頭に立って反対した。兵力をどうするかは統帥権に含まれると言う。彼は帷幄上奏までしようとしたが果たせなかった。統帥権を有する天皇を手中に収めて、内閣を屈伏させようという意図だった。

こうした海軍側の反発を抑え、政府は松平・リード妥協案を承認した。ロンドン海軍条約は4月22日に署名された。

https://dl.ndl.go.jp/pid/3452237/1/9

青木得三の『海軍縮少の崩壊過程』が上の展開を分かりやすく整理している。概括的対米7割はほぼ達成していたが、20センチ(8インチ)砲搭載大型巡洋艦については7割に遠く及ばなかった。

統帥権干犯問題

これで終わりではなかった。署名から2、3日後の4月25日、衆議院で野党党首の犬養毅が、対米7割に不足したら国防はおぼつかない、と政府を攻撃した(第58回帝国議会衆議院本会議第3号、昭和5年4月25日、発言番号008、010)。

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=005813242X00319300425&spkNum=8&single

そのあとに、政友会のニューリーダーだった鳩山一郎が、統帥権干犯、だと二の矢を継いだ(第58回帝国議会衆議院本会議第3号、昭和5年4月25日、発言番号044)。

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=005813242X00319300425&spkNum=44&single

それから半年後、浜口雄幸総理大臣は右翼の青年に狙撃された。時代の人気は明らかに軍部と右翼の側にあった。

歴史の後知恵では、対米7割あったなら太平洋戦争に勝てたろう、なんてことはなかった。相手は諜報で日本の出方をつかんで、その5割増しの兵力で待ち受ければ負けることはなかった。正義の味方気取りで敵を必殺技で一撃で仕留めるような幼稚な戦争観は一億総懺悔しなければ改まらなかった。

まとめ

私が大学院生のころ、幣原喜重郎の自伝を読んでいた。ロンドン会議のときの外相だ。大正生まれの祖父がそれを見て、男、と評した。戦前の協調外交よりも戦後の総理時代のことを評したのかもしれない、と思った。後日、私は若槻礼次郎の自伝を読んでいた。祖父は、汚い、というようなことを吐き捨てるように言った。二人の違いが分からない私は悩んでしまった。今でも分からない。世間の評価とは理解できないものだ。

課題

  1. 伊藤正徳は『軍縮?』(春陽堂、1929年)において、漸減作戦によっていかに敵の海軍兵力を7割まで帝国海軍は削ることができると議論したか? 300字以内で簡潔に要約しなさい。

  2. 外務省編、『日本外交文書 一九三〇年ロンドン海軍会議 下』の番号448「日英米三国間妥協案承認の旨回訓について」(189-192ページ)において、第112号電報の二(帝国政府ハ……)および三(帝国海軍カ……)の箇所は、ロンドン海軍条約は1935年に予定される次回の海軍会議における日本の主張または立場にどのような影響を与える、または与えない、と述べているか? 幣原外務大臣がそのように述べる理由を添えて解説しなさい。

  3. 大日本帝国憲法の条文を引用し、海軍軍令部長が反対するロンドン海軍条約を締結したことは統帥権を干犯したか、しなかったか、あなたの意見とその理由を書きなさい。

参考 大日本帝国憲法
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス 但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第56条 枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
第64条 国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ
2 予算ノ款項ニ超過シ又ハ予算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝国議会ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
第65条 予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ
第67条 憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス

関東大震災と外交

(表紙の画像はAIによって作成された)

災害は忘れたころにやってくる、といいます。永久に忘れたくてもそうはさせてくれません。せっかくの経験ですから、それを次に活かすことを考えましょう。

教科書での関連する記述

教科書

地震と火災によって東京市・横浜市の大部分が廃墟と化したほか、死者・行方不明者は10万人以上を数えた。社会不安が高まる中で、朝鮮人が暴動をおこしたという流言を信じた人々が自警団をつくり、彼らや軍隊・警察の手で、多数の朝鮮人や中国人が殺害された。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、pp. 276-277。

教科書

流言により多くの朝鮮人が殺害された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 277、n. 3。

忘れてならない過ち

関東大震災のさなか、朝鮮人・中国人が人の手で何人、殺されたかは確定しがたいが、数十人単位、数百人単位の報告がいくつもあることから、集計すればそれぞれ千人以上と数百人に上ったと考えられる。

朝鮮は植民地とされて、虐殺の真相を追及できるだけの有力な主体がなかった。他方、中国は軍閥の割拠で弱っていたものの主権国家だった。1923年12月、調査団を日本に北京政府が派遣した。当地の新聞によって、多くの同胞が被害にあった情報が報じられていた。地震と火災によって死んだ者がいたことはもちろん、流言を信じた自警団など民間人の手により殺された者がいた。さらに、軍隊・警察によって不当に殺された者もいだ。

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2006092117125066626&ID=M2006092117125066630&REFCODE=B04013322800

上は、外務省に保管された書類であり、国立公文書館のウェブサイトで見ることができる。「0184」と下に記されたコマは「支那人ニ関スル報道」と題し、大地震5日後の9月6日に警視庁外事課長が語ったものだ。流言に基づく虐殺は真実だったのだ(「本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係 2.大島町事件其他支那人殺傷事件 分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013322800、本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係(I.6.0.0.5-2)(外務省外交史料館))。

こうした事実の検証は今井清一氏の『関東大震災と中国人虐殺事件』に詳しく挙げられてれている。同書によると、軍人によって中国人労働運動家が殺害された王希天事件は真実だった。日本人の社会主義者を軍人が危険人物とみなして殺した甘粕事件と同じ構図だ。

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2006092117125066626&ID=M2006092117125166631&REFCODE=B04013322900

調査団の王正廷団長は相当の高官だったので、山本権兵衛総理大臣に会い、王希天事件についての対応を求めた。

リンク先の「0280」から「0284」だ。後日の東京駅での会話というのは、こりゃ何だ?  しっかりした捜査の結果とは思えない(「本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係 2.大島町事件其他支那人殺傷事件 分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013322900、本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係(I.6.0.0.5-2)(外務省外交史料館))。

もし会話のとおりなら、書類が残されていようから、それを見せればよいだけだ。お茶を濁すとはこういうことだろう。

日本は見事、隠しおおせた、ということになろうか。私はこれで日本は嘘つきになってしまったように思えてならない。とっくにそうなっていなかったならの話だが。

忘れてならない恩

人付き合いはありがたいと感じることもあれば、重たいと感じることもある。物をもらったら、重く受け止めるべきか、気にしないほうがよいか、悩んでしまう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/taisho12_1_13.pdf

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/taisho12_1_14.pdf

https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1923v02/ch32

日本は多くのものを受け取った。『日本外交文書』と『フォーリン・リレーションズ・オブ・ザ・ユナイティッド・ステイツ』には、アメリカ合衆国の赤十字から大量の物資が贈られたことが書かれている。

https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/general/about/history/history_0/history_2/kizo

目立って援助を集めたのは東京帝国大学の附属図書館だった。多くの本が焼け、多くの国が本を寄贈した。

図書だけでなく、建物そのものを寄付する者が現れた。アメリカ合衆国のジョン・ロックフェラー・ジュニアだ。同図書館のウェブサイトに下の記述がある。

https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/general/about/history/history_0/history_2

建設をめぐる斎藤博駐ニューヨーク総領事と幣原喜重郎外相のやりとりも、国立公文書のウェブサイトで閲覧できる(「5.東京帝国大学図書館復興ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12082010400、図書館関係雑件(3.10.2.30)(外務省外交史料館))。断片的な記録でなく、まとまった記録もどこかに所蔵されているかもしれない。

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2012081315153571809&ID=M2012081315153671818&REFCODE=B12082010400

さらに、ロックフェラー財団は教育研究施設である国立公衆衛生院も提供した。こちらについては内務省を巻き込んで大量の文書が残っている。

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2012081315190772864&ID=M2012081315190772866&REFCODE=B12082171200

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2012081315354676498&ID=M2012081315354976533&REFCODE=B12082501900

まとめ

災害時には自分のことで精いっぱいになる。国家は引っ越しができないし、死にもしない。それだけ、個人よりも、今後の交際を考えて、苦境を乗り越える必要がある。

記録はどうしても残ってしまうのだから。「崔杼、其の君を弑す」だ。

課題

  1. 「本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係 2.大島町事件其他支那人殺傷事件 分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013322800、本邦変災並救護関係雑件/関東地方震災関係(I.6.0.0.5-2)(外務省外交史料館)におけるコマ0184「「支那人ニ関スル報道」にもとづき、「大島町支那人殺害事件」の口実とされた朝鮮人による放火は確認されたか、されなかったかを述べなさい。さらに、確認されたか、されなかったか、は同文書のいかなる表現から判断されるか、直接引用したうえで解説しなさい。

  2. The Secretary of State to the British Chargé (Chilton), November 24, 1923, _Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, 1923, Volume II ( https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1923v02/d433 )には、いつ、誰が、どこで、どのような活躍をしたか、が述べられているか? できるだけ詳しく描写しなさい。

  3. 立教大学教授だったポール・ラッシュは関東大震災後における聖路加国際病院の再建に対し、いかなる活動によって貢献したか? 調べて書きなさい。

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