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ブレトンウッズ諸制度

経済秩序に関する戦後構想は、フランクリン・D・ローズベルトが演説した四つの自由のうち、欠乏からの自由が始まりである。欠乏というのは、何かが足りないことである。足りないのがモノであるとすれば、生産、交換、売買、あるいは贈与によって補うことで、欠乏から自由になる。

四つの自由演説から7か月後の1941年8月、ローズベルトとイギリスのウィンストン・チャーチル首相は大西洋憲章に合意した。第4条は「すべての国家の貿易と原料へのアクセス」を謳った。これは自給自足に比べれば前進であった。しかし、取引の品目と量がどのように決まるのか、すなわち、市場メカニズムによるのか、計画によるのか、までは明記されていなかった。他方、第5条は、労働基準、経済発展、そして社会保障を向上するためにすべての国々が共同作業をすることに期待を示した。ローズベルト政権が始めたニューディールと福祉国家の政策を世界に広める意図が認められる。市場か、計画か、の二分法で言えば、計画よりの発想である。

これらの提案がどういう結末にたどり着いたか見届けることなく、ローズベルトは1945年4月に亡くなった。チャーチルもその年の7月に下野した。その間の6月に署名された国連憲章には経済条項が存在し、第55条aは「いっそう高い生活水準、完全雇用」の促進を国連の任務とした。

今回のテーマは、第二次世界大戦後の国際経済レジームを「覇権安定論」と「埋め込まれた自由主義」という二つの言葉を用いて論じなさい、である。覇権安定論については、アメリカ合衆国は孤立主義から脱し、世界の指導者としての責任を受け入れる決意はできていたものの、果たすべき具体的な役割は手探りで見つけていった。埋め込まれた自由主義については、戦後経済秩序が単純な自由主義とどこが違ったかを理解したい。

時間を巻き戻して、連合国の勝利が固まった1944年の状況を見よう。新旧覇権国の経済的な条件はどうであったか?

アメリカ合衆国は世界の軍需に応えてカネ、特に金(きん)、を貯め込み、空襲からは無傷のまま、突出した生産力を蓄えていた。外国には多額の債権を持ち、ドル紙幣は誰もが喉から手が出るほど欲しい安定した通貨であった。

他方、イギリスは金本位制から離脱し、ポンド紙幣は海外では余っていた。空襲で国力は消耗し、多額の債務を負っていた。

「大恐慌」の回で見た戦前の教訓は、カネ/金は天下の回り物ということである。これを応用するならば、アメリカ合衆国が蓄えたカネ/金を世界に還流し、流動性を高めることが戦後経済には必須であった。ところが、ブレトンウッズ会議に臨むにあたってアメリカ合衆国が用意した金額はなお十分でなく、英米の対立につながった。

イギリスが出した案はジョン・M・ケインズが考えたケインズ案であった。国際清算同盟を作り、そこに「バンコール」を単位とする巨額の当座借越枠260億ドルを設定する。そのドルを借りて、加盟国は国内経済を拡大できる。枠が使い尽くされれば、加盟国は経常収支を均衡させなければならないが、ケインズは赤字国に温情的であり、赤字国が支出を抑えるだけでなく、黒字国にも国内経済を調整して、黒字を減らす義務があるとした[1]。インフレーションの懸念はありながらも世界的に通貨量を増やし、景気を良くしようというのがケインズ案の狙いであった。

これにたいし、アメリカ合衆国のホワイト案はハリー・D・ホワイトという財務省職員によって作られた。日米開戦に関わったソ連のスパイとして知っている人もいるかもしれない。

ホワイト案の核心は連合国安定基金という制度であった。通貨危機において、そこから加盟国は自国が出資していた額(金・自国通貨・国債50億ドル)まで引き出すことができる。出資した分を返してもらうにすぎないので、信用創造によって有効需要を拡大しない緊縮的な制度である。通貨切り下げによる国際収支の改善は禁止されたので、赤字が出ないよう、国内経済を厳しく監督し、景気の過熱を抑える必要がある[2]。満ち足りた時代であればいざしらず、戦後復興が課題であった時期、この基金だけでは資金需要に応えられず、デフレーションに陥る懸念があった。復興の目的のためには、連合国復興銀行という別の機関を作ることをホワイトは提案した。

ケインズ案とホワイト案が戦わされたのは1944年7月のブレトンウッズ会議においてである。ブレトンウッズは、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州のリゾートである。

会議の結果、通貨ではIMF(国際通貨基金)、開発ではIBRD(国際復興開発銀行)という二つの国際機構が設立された。これらはまとめてブレトンウッズ諸制度と呼ばれる。IMFは、国際収支を国内経済より重視するという意味で、ホワイト案を多く採用した[3]。出資額もケインズ案ほどには巨額でなく、金が25パーセント、自国通貨が75パーセントの割合で計88億ドルであった[4]

為替相場の変更にはホワイト案では禁止されたが、より自由度の高い「調整可能な釘付け」というメカニズムが採用された。

大戦によって多くの国では金が枯渇し、不換紙幣を使いながら国際経済に復帰しなければならなくなった。そうした国々はドルを主な外貨準備とした。十分な金を保有するアメリカ合衆国だけが金本位制を採用した。つまり、金ドル本位制とは、金1オンスを35ドルと交換するアメリカ合衆国の金本位制と各国通貨のドル平価とを合体させたものである。

調整可能な釘付けとは、国際収支の状況を見ながらドル平価を柔軟に変えることができることである。通貨の切り下げによって、国際収支を改善し、国内産業のダメージを緩和することができる。ただし、輸入品の消費が減ることは避けられない。このように見れば、自国通貨の切り下げは本来、権利の享受であるはずである。ところが、悲しいことに、国家というものは二兎を追おうとする。輸入品の消費が減らされることに、消費者としての国民は不満を感じるからである。リチャード・N・ガードナーは次のように指摘する。

しかし、為替相場変更はつねに正しい時ないしは最も効果のある方法で実施されるとはかぎらなかったというのがひろく一致したところである。その威信にかけて、一国の指導者たちは、変更を必要以上に遠い先に引き延ばそうとする――そして結局は巨大な投機圧力の下で、変更を余儀なくされる[5]

こうして、各国は国際収支に合わせて通貨切り下げを行うことをしなかった。調整可能な釘付けは1950年代には事実上の固定相場制になった。やがて崩壊するブレトンウッズ体制の実態とは、そのようなものであった[6]

国際復興開発銀行については、世界銀行という通称があり、世界銀行グループの中核である。グループにはほかに、IDA(国際開発協会)、IFC(国際金融公社)、MIGA(多国間投資保証機関)、そしてICSID(投資紛争解決国際センター)があるが、IDAとICSIDは別の回で言及する。

IBRDはいまでこそ開発途上国を援助する機関であるが、かつては先進国をも援助していた。日本も、産業の必要に応じてインフラストラクチャーの援助を受けた。1950年代前半には火力発電所、同後半以降は製鉄所と水力発電所、1960年代には名神・東名高速道路と東海道新幹線がIBRDの資金で造られた[7]

創設当初、ブレトンウッズ諸制度はいかに機能したであろうか? イギリスでは、自由貿易が戦間期に衰退したことを受けて、ホイッグ党の伝統を継ぐ自由党も衰退した。大戦では保守党のチャーチルが強力な指導力を発揮したものの、国民は戦いに疲れていた。1945年7月、総選挙で労働党が勝利し、クレメント・R・アトリー政権が成立した。

労働党のマニフェストは完全雇用と国有化を掲げ、教育・健康・社会保険など生活水準向上を訴えた。こうして、ゆりかごから墓場までと言われた福祉国家の建設が始まった。国内経済がそれにより拡大したのは必然であった。経常収支は悪化の一途をたどった。

1946年にドル準備がイギリスから流出した原因は軍隊の国外駐留であった。1947年には輸入の激増によって赤字が増え、他方、戦前にあった海外からの利子・収益・配当の送金は減少した。結局、ポンドは交換停止に追い込まれた。ブレトンウッズ体制、すなわちIMF、はまだ動いていなかった。その代わりに対英借款を行ったのはアメリカ合衆国であった。借款と引き換えに、コモンウェルス諸国の対米関税は有無を言わせず引き下げられた[8]。英帝国はかくて解体された。

カネを天下に回すという点では、対英借款は一時的かつ局地的な処置でしかなかった。終戦から2年を経過すると、ソ連とアメリカ合衆国とのライバル関係が明らかになった。西ヨーロッパの復興という成果が、世界のリーダーと自認するアメリカ合衆国には必要であった。

アメリカ合衆国のジョージ・C・マーシャル国務長官は、ともすれば孤立主義に傾きがちな連邦議会と協力し、1948年にヨーロッパを対象とする経済援助法を成立させた。これが世にいうマーシャル・プランである。スペインとフィンランドを除いて、西ヨーロッパの全体と、戦略的に重要なギリシャおよびトルコが援助の対象であった。NATOとマーシャル・プランは車の両輪であり、それぞれ軍事と経済で、アメリカ合衆国がヨーロッパを支援した。

復興はヨーロッパの人々を貧困から救っただけでなく、資材の輸出によってアメリカ合衆国の産業に貢献した。ソ連はこれを、経済主権を侵害する合衆国の棍棒外交、と批判した。ところが、マーシャル・プランが実施された町々には、雨後のタケノコのように、近代的なビルディングが建てられ、ソ連の説明に疑いを突き付けた[9]

マーシャル・プランが可能であったのは、一つは圧倒的な経済力、もう一つはあらゆる妨害を排除するだけの軍事力をアメリカ合衆国が持っていたからである。

マーシャル・プランの受け皿機関OEEC(欧州経済協力機構)は1961年にOECD(経済協力開発機構)に発展した。日本も1964年に加盟した。現在は、アジア・中南米・太平洋に加盟国を増やし、先進国あるいは自由主義経済のクラブとして、経済・社会・開発の課題に取り組む。

マーシャル・プランの対象はヨーロッパ限定であった。日本への復興援助は、ガリオア(占領地域救済援助)とエロア(占領地域復興援助)という別の枠組みで行われた[10]

経済が正常化してくると、貿易の役割はますます重要になった。国際貿易機関(ITO)を設けるハバナ憲章は1948年に起草されたものの、国際連盟規約と同じく孤立主義者の餌食となり、アメリカ合衆国の上院が批准を拒否して、発効しなかった[11]。冷戦の始まりが国際主義への期待を下げていたことも災いした。

代わって、暫定適用された簡素な国際制度がGATT(関税及び貿易に関する一般協定)であった。これが数十年間、貿易レジームの屋台骨となる。世界最大のアメリカ市場に魅せられた国々は合衆国の指導に従うことにやぶさかでなかったので、簡素なメカニズムだけで十分であった。

GATTの基本原則は自由・無差別・多角である。関税率を下げるのが自由、特定の相手国だけを不利に扱ってはならないのが無差別、そして多くの締約国が参加してなされる関税交渉が多角である。多角的貿易交渉は「ラウンド」と呼ばれ、GATTのもとで数回、行われた。そのかいあって、世界の関税率は20世紀後半、急激に低下した[12]

大恐慌になすすべがなかった戦前の金本位制と違い、戦後の国際経済レジームはキンドルバーガーが言うところの覇権安定を実現した。まず、「比較的に開かれた市場を維持する」役割は、GATTのもとでアメリカ合衆国が果たした。つぎに、「景気調整的な長期貸付を行」ったのはマーシャル・プランであった。多国間のIBRDは1940年代にはまだ働いていなかったからである。最後に、対英借款が「手形を割引く」のと同じく、債務を軽くした。

ところで、戦後経済秩序については、「埋め込まれた自由主義」という言葉で説明されることがある。国際経済は自由主義であったものの、国内経済は介入主義であった、というのがその意味である[13]。金ドル本位制は金本位制とドル本位制との折衷であり、もはや自由主義的な金だけに縛られず、アメリカ合衆国ではケインジアンの経済政策が行われ、イギリスは福祉国家の建設をあきらめなかった。自由主義が埋め込まれたのはそうした介入主義の国内経済であった。

以下では、その後のブレトンウッズ諸制度について論じる。ただし、それは「ブレトンウッズ体制」、すなわち金ドル本位制、の話題ではなく、IMFとIBRDという法人格を持つ国際機構のことである。ブレトンウッズ体制の崩壊については「覇権の衰退」の回で扱う。

一元的な秩序は多様な要求に応えられない。IMFとIBRDがまさにこの理由で批判されてきた。

構造調整は、1980年代におけるIMFおよび世界銀行による融資の概念であった。そうした融資は新古典派経済学に従い、開発途上国の経済体質を改革しようとした。具体的には、緊縮財政、自由化、そして民営化の政策が融資の条件として求められた。これらの政策は福祉予算の切り捨てと、それにともなう悲惨な人道的な影響をもたらしたと論じられることがある。

それと前後して、東側諸国のIMF加盟が相次いだ。国名を挙げれば、1972年のルーマニア、1980年の中国、1982年のハンガリー、1986年のポーランド、1990年のブルガリア、そして1992年のロシアである。中国以外のこれらは、それまで経済相互援助会議(CMEA、スメア、セフ、コメコン)において、「振替ルーブル」という帳簿上の単位を使って貿易を行っていた。各国通貨に金平価はあったものの、それらは名目的で、交換性がなく、為替相場は恣意的であった。決済には相手国の承認が必要であったから、貨幣経済というよりも物々交換であった[14]。各国のIMF加盟によって経済相互援助会議は有名無実になり、ソ連の崩壊に先んじて廃止された。

冷戦後、移行諸国と呼ばれた旧共産国は勝ち組と負け組に二分した。チェコ、ポーランド、そしてハンガリーには西側からの投資が押し寄せ、勝ち組となった。ところが、民営化と自由化というIMFが主導した「ショック療法」はロシアなど移行国の一部に大混乱をもたらした[15]。当時、ロシア政府に助言を行っていたハーバード大学教授のジェフリー・サックスの本から引用する。

要するに、ビジネスマンと称する背徳的なグループ――のちに集団としてロシアの新しい政商「オリガルヒ」と呼ばれることになる――は百億ドルもの価値のある天然資源、おもにロシア国有の石油ガスをまんまと自分の懐に入れることができた[16]

1994年から1995年には、注目はメキシコの通貨危機に移った。アメリカ合衆国のクリントン政権の対応は早かったとされる。ロバート・E・ルービン財務長官はペソの暴落、インフレーション、景気後退、失業、さらには隣国アメリカ合衆国への違法薬物密輸といった悪影響を警告した[17]

1997年から1998年のアジア通貨危機は日本円の為替相場と関係がある、という説がある。プラザ合意による円高のため、1980年代後半、日本企業はアジアへの投資を増大させた。ところが、1990年代半ば円安に転じると、自国通貨をドルとの固定相場(ドルペッグ)にしていたアジア諸国からの輸出は減少し、ドル準備の不足を招いた[18]

円との関係はともかく、ドルとの固定相場がアジア通貨危機の決定的な原因であったことはまちがいない。何かの理由でアジアの国の経済見通しに不安が広まり、現地通貨の相場が落ち始めると、その通貨は投機的に売り浴びせられる。固定相場の防衛に失敗すれば、現地資産を保有することは不利になり、短期資金は一斉に国外に引き揚げられる。現地通貨の暴落は止めようがない。

アジア通貨危機に関しては、クローニー資本主義と呼ばれる政権の腐敗が原因であるとも言われた。クローニーとは政府に縁故がある人々のことであり、そうした人々が経営する企業を優遇しすぎて、政府のムダ遣いと輸出競争力のない産業を膨らませた、というのである。

アジア危機への対応はメキシコ危機の時より遅れたとされる。日本から新宮沢プランが提案され、結果的にIMF、日本、そしてアメリカ合衆国が中心となって支援が行われた[19]。回復はおおむね順調であったものの、インドネシアで政権崩壊と民主化が起き、不当支配をされていたティモールレステが独立した。その後、アジア諸国はチェンマイ・イニシアティブという通貨スワップ協定を結び、危機時にドルなど外貨を融通し合うことを約束した[20]。 IMFとIBRDへの毀誉褒貶は、しばしばアメリカ合衆国の制度的な優越と結び付けられる。IMFの場合、理事会での投票は、各国250票の基礎票に出資割当額10万SDR(特別引出権)ごとに1票ずつ加算する、という方法で計算される。これだけでも経済大国に有利である。さらに、重要な決定については70パーセントあるいは85パーセントの特別多数率が適用されることで、アメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、フランス、そしてイタリアが一致すれば、拒否権を行使することができる。しかし、近年、IBRDでも、IMFでも、増資のたびに中国の投票権が拡大している。時代は変わりつつあるが、一変するまでには至っていない。


[1] リチャード・N・ガードナー、『国際通貨体制成立史』、村野孝、加瀬正一訳、東洋経済新報社、1973年、193-235ページ。山本栄治、『国際通貨システム』、岩波書店、1997年、81ページ。

[2] ガードナー、『国際通貨体制成立史』、193-235ページ。山本、『国際通貨システム』、81ページ。

[3] ヘンリー・R・ナウ、『アメリカ没落の神話』、石関一夫訳、TBSブリタニカ、1994年。

[4] 山本、『国際通貨システム』、81ページ。

[5] ガードナー、『国際通貨体制成立史』、上、66ページ。

[6] 山本、『国際通貨システム』、83ページ。

[7] 大野健一、大野泉、『IMFと世界銀行』、日本評論社、201ページ。渡辺利夫、三浦有史、『ODA』、中央公論新社、2003年、47ページ。

[8] ガードナー、『国際通貨体制成立史』、下、512ページ。

[9] Library of Congress, “For European Recovery: The Fiftieth Anniversary of the Marshall Plan Online Exhibition,” Library of Congress, https://www.loc.gov/exhibits/marshall/marshexhibition.html, accessed on January 11, 2026.

[10] 村田良平、『OECD(経済協力開発機構)』、中央公論新社、2000年。永田実、『マーシャル・プラン』、中央公論社、1990年、157ページ。

[11] ガードナー、『国際通貨体制成立史』、下、565-608ページ。

[12] Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 40.

[13] John Gerard Ruggie, “International Regimes, Transactions, and Change: Embedded Liberalism in the Postwar Economic Order,” in Stephen D. Krasner, ed., International Regimes (Ithaca: Cornell University Press, 1983), p. 209.

[14] 永田実、『ルーブル―ソ連の国際経済戦略』、教育社、1986年。

[15] ジェフリー・サックス、『貧困の終焉』、鈴木主税、野中邦子訳、早川書房、2006年、194ページ。毛利良一、『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』、大月書店、2001年、213ページ。山下知志、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、講談社、2008年、14、176ページ。

[16] サックス、『貧困の終焉』、220ページ。

[17] ロバート・E・ルービン、ジェイコブ・ワイズバーグ、『ルービン回顧録』、古賀林幸、鈴木淑美訳、日本経済新聞社、2005年、14ページ。

[18] 毛利、『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』、227ページ。

[19] 毛利、『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』、251ページ。

[20] 小原雅博、『東アジア共同体』、日本経済新聞社、2005年、41ページ。『日本経済新聞』、朝刊、2010年3月24日。

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国家と市場とのバランスが最も前者の側に傾いたのは第二次世界大戦中であった。今回のテーマは、両次大戦間期から戦中期にかけての経済的ナショナリズムと人権および戦争との関係を、実例を挙げて解説しなさい、である。

この時代における経済的ナショナリズムの主な源泉は、社会主義/共産主義、ニューディール、ナチズム(戦争経済)、そして開発途上国のナショナリズムの四つに分けられる。それらの共通点は生産の国家統制である。

生産の国家統制にとって最大の障害は基本的人権、なかんずく財産権、である。日本国憲法において関係しそうな条文をいくつか挙げる。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。

財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

財産権の不可侵は基本的人権のなかでも基本的なものである。また、それは近代というものそのものでもある。二つの歴史文書がそれを如実に示す。一つ目は1789年8月26日のフランス人権宣言第17条である。

所有権は一つの不可侵で神聖な権利であるから、何人も適法に認められた公共の必要が、明白にそれを要求し、かつ正当で事前の補償をなすという条件のもとでなければその権利を奪わるべきではない[1]

もう一つの文書は1789年9月25日のアメリカ合衆国憲法修正第5条である。

―前略―何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。何人も、正当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない[2]

こうした近代の約束事に強く反対したのがマルクスであり、レーニンであった。革命が起きれば、財産は没収されなければならない、と彼らは主張した。かといって、最終的には国家のもとに集中される、というわけでもない。初期の社会主義者は実はユートピアンか、アナーキストであったから、自発的な共同体を作って、財産は共有にする、といった発想をする傾向があった。第1の経済的ナショナリズムの源泉は、社会主義と共産主義である。

マルクスより半世紀若いウラディミル・レーニンでさえ、革命後の国家像を緻密に構想していたわけでなかった。政権が転がってくるとみると、慌てて『国家と革命』を著した。そこで述べられたのが、名高い、いや悪名高い「国家の死滅」という概念である。

国家が現実に社会全体の代表として起こす最初の行動は、社会を代表して生産手段を手中に収めることであるが、それは同時に国家としての最後の独自行動なのである。こうして社会関係に対する国家権力の介入は、各領域において次々と無用のものとなり、自然に永眠を迎える。人間に対する統治は、事務処理および生産工程の管理に場所を譲る。国家は「廃絶される」のでなく、死滅するのである[3]

つまり、国有化を遂行するまでは、国家をなくすわけにはいかない。遂行後も、人為によって廃止することはしない。もはや、生産現場の役職は当番のようなものにすぎず、上から下に命令するのでなく、調整をしたり、世話を焼いたりするだけである。そうしたものは国家とは呼べないので、国家は自然に死滅していく。このように、新しくできたソビエト政府にとって、国有化は最初で最後の不可欠な仕事であった。ついでに言えば、現実には、国家は死滅どころか強化された。

革命が成就すると実際に国有化の布告が行われた。1917年には土地と銀行が、1918年には揚穀機と穀物倉庫、貿易、そして工業企業が接収された。国有化の少なからぬ部分は布告を待たず革命のなかで農民や労働者が勝手に強奪した自然発生的なものであった[4]

革命まえのロシアは外国からの投資を受け入れていたが、これらも国有化の対象であった。英仏は、その他の請求、すなわち、戦前のロシア公債の不履行と戦中・戦後の損失・損害と合わせて、国有化された財産への補償をソビエトに請求した。

この請求が、先送りのお手本のような成り行きをたどる。イギリスは輸出を拡大する欲望に勝てず、補償の請求は後回しにして1921年にソビエトと貿易を再開した。請求が立ち消えにならないよう念を押して、請求を相互に承認する宣言が付された。内容は2点あり、第1は、いずれの締約国国民の請求も正式な平和条約で扱われること、第2は、ソビエト政府は財・サービスを提供した私人への補償の責任があることを原則として承認すること、であった。

ところが、イギリスの対ソ関係は右翼と左翼との政争に巻き込まれた。1924年のジノビエフ書簡事件では、コミンテルン議長の書簡が捏造され、英ソ関係に冷や水を浴びせた。3年後に、イギリスはソ連との外交関係を断絶してしまった。通商は再開されることになったものの、平和条約が結ばれる気配などなかった。請求の問題は1934年には、口頭で権利・請求を留保する、とイギリスが一方的に宣言するところまで追いこまれた。ソ連外交の勝利であった。ドイツではヒトラー政権が生まれており、イギリスは外交上、モスクワに接近する必要があった。同様の先送りは日ロ間の北方領土問題でも観察される。

要するに、ソ連は国有化が実現したのみならず、外国からの補償請求まで、うやむやに終わらせた。これは以後の革命政府に模範となった。

次の経済的ナショナリズムはニューディールとケインジアニズムである。ニューディールは1933年のフランクリン・D・ローズベルトの大統領就任に始まり、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』は1936年の出版である。

百日議会という言葉が知られるように、ローズベルトは就任早々、矢継ぎ早に政策を打った。民間資源保存局(CCC)は、無職の青年にキャンプで働く仕事を与えた。連邦緊急救済法は、各州の失業対策を援助した。TVA(テネシー渓谷開発公社)は、水力発電所建設と灌漑で貧困を克服する試みであった。全国産業復興法は、包括的な競争政策、労働政策、そして公共事業政策を実施した。事業促進局(WPA)は膨大な公共事業を行った。銀行法は連邦準備制度理事会を強化した。そして、ワグナー法(全国労働関係法)は団結権・団体交渉権・団体行動権(争議権)の労働三権を確立した[5]

本当のところ、アメリカ合衆国の本格的な経済回復は第二次世界大戦を待たなければならなかったとされる。しかし、人権を謳い、大戦で戦勝国になり、国連を作ったことから、ローズベルトの政策からは闇の部分はあまり感じられない。戦後期に合衆国で人気があった経済学者ポール・A・サミュエルソンの教科書は、そうした政策を称賛する。

米国:1940年以後の時期にアメリカは、どのようにして「民主主義の兵器庫」になると同時に、それまでなく高い民需の水準を享受することができたのであろうか。それは、主として失業のたるみを活用することによってであった[6]

第3の経済的ナショナリズムはナチズムである。ドイツではヒャルマル・シャハトが中心になって、失業対策が実施された。それは基本的に財政支出の拡大であった。すなわち、ラインハルト計画では住居・工場・機械を修理・改善し、同時にライヒス・アウトバーンを建設した。ベルサイユ条約を破り、再軍備を進めることも経済対策であった。ライヒス・アウトバーンの開通式において、子供のようにはしゃぐヒトラーの様子を彼は振り返る。

ともかくも私はフランクフルト・アム・マイン南方からダルムシュタットに向う最初の自動車道路開通式に、ヒトラーの車に同乗して処女運転に参加するようトットに招待されたが、もちろん私は喜んでこれを承諾した。私はヒトラーとともに、彼の車で、自動車道路の出発点に張られた白いテープを切り、ゆるやかに最初の自動車道路面に出た。至るところ両側には観衆が集り、熱狂した人々の歓迎をヒトラーは明らかに喜んでいた。

終点に着くとヒトラーは無数の扈従車が通過するのを見守っていたが、この車は三台づつ[訳書ママ]一列に並んで、後についてきたのであったから、ヒトラーは響きわたる声でこう叫んだ。

「三台づつ[訳書ママ]道に並んだって走れるんだ」と[7]

国家が介入して経済を立て直した点では変わらないが、この底流にある思想はニューディールとは正反対であった。ヒトラーは『わが闘争』において自らの経済観を次のように表明した。

「国家は経済的課題を実行するために、ある一定の制限された生活圏に経済的な契約者をまとめたものではなく、種の発展維持をいっそう可能ならしめ、摂理によって規定された自己存在の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織である」(220ページ)

「ドイツでは力の政策が高まったとき、いつも経済も隆盛になりはじめたが、経済側が民族の生活の唯一の内容となって、それによって理念的徳性が窒息したときは、ふたたび国家は崩壊し、やがて経済がそれにまきこまれたものである。

だが、国家を形成したりあるいはまた国家を維持するだけの力とは現実に何であるか、と問うならば、それを二、三のことばに要約しうる。すなわち全体のために個人を犠牲にする能力と意志である、と。」(223ページ)[8]

経済よりも国家、個人よりも全体を優先することがためらいなく宣言されている。戦争遂行のためにカネ・モノ・ヒトは捨てるようにつぎ込まれた。

サミュエルソンも、ドイツ人の選択を失業のショックによる一時の気の迷いがもたらした愚行のように論じる。

ドイツ:―中略―ヒトラーの戦争努力は、公式の宣戦がなされるはるか前、すなわち1933年にはじまっていた。その出発点は、彼が、暴力によることなく投票で権力の地位につくことができたほど失業が多い時期であった。そしてそれ以後の増産の大部分は、かねて失業状態にあった労働者や工場を活用することによって可能になったのであり、この増産部分は、民間消費を高めるためにではなく、ドイツの軍需品増強のために注ぎ込まれた[9]

ナチスのナンバー2といえば、国家元帥ヘルマン・ゲーリングであった。のちに占領地で絵画を略奪したことで悪名をはせたこの人物が、経済の責任者になった。1936年に始まった彼の四か年計画は、食料と原料の自給自足を目指し、価格統制を行った。もはや経済的合理性は一顧だにされず、経済相シャハトは抗議の辞任をした[10]

ドイツ版の国家総動員はナチズムに影響されて苛烈であった。それは一般的な収用でなく、ある特定の財産が対象であった。つまり、ユダヤ人財産の「アーリア化」であり、征服地財産の「ドイツ化」である。それは国有化でなく、私企業が「完全に独占化されカルテル化」された経済であった。この例としてゲーリング結合企業がある。それは持ち株会社のもとに、ヘルマン・ゲーリング鉱山冶金帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング武器・機械製造帝国工業所、ヘルマン・ゲーリング内陸水運帝国工業所を擁した。ゆすりと用心棒行為によって乗っ取った子会社に、見栄っ張りのゲーリングが自分の名前を付けたのがこの財閥であった[11]

労働者たちは基本的人権を失った。国民労働奉仕団において、18歳から25歳の男子は軍需産業で6か月の強制労働をさせられた。また、ドイツ労働戦線は名こそ労働組合であるものの争議はしなかった。よく知られているその活動は歓喜力行団(クラフト・デュルヒ・フロイデ)であり、遠足などのレクリエーションを催した。この活動のために、小型車フォルクスワーゲンが開発された[12]

経営と労働が体制に組み込まれ、協調するこうした体制はコーポラティズムと呼ばれる。使用者側においても、使用者団体、カルテル、そして業界団体は自律的な組織でなく、国家の指導に従う機関という性格が強かった[13]

戦争が始まると人権無視はますます苛烈になった。ユダヤ人、ロマ、そして外国人といった二級市民扱いされた人々がアウシュビッツなど収容所で強制労働に従事させられ、やがてジェノサイドの餌食となった。初期には、国家社会主義を歓迎したドイツ人労働者もいたであろうが、のちには雇用契約の無効化、最高賃金の設定、そして労働条件の改悪などに苦しむことになる[14]

ヒトラーがしたかったこと、それは「新秩序」として知られる。このヨーロッパ帝国の中心には、世界首都ゲルマニアに変身したベルリンがあり、そこからいくつかの中心都市にアウトバーンがつながる予定であった[15]。ヒトラーが毎晩、食卓で語る夢は秘書が書き留めた。

「クリミアは美しい。アウトバーンで行けるようになればクリミアはドイツ人にとってのリヴィエラになるだろう。クレタ島は暑くて乾燥している。キプロスもいいが、クリミアには車で行けるし、途中にはキエフがある! クロアチアも旅行者の天国だ。戦争が終われば娯楽には事欠くまい。

鉄道にはどことなく非人間的なところがあるが、道路は人を結びつける。新しいヨーロッパに向けての前進だ! アウトバーンのおかげでドイツ国内の境界が消滅したように、ヨーロッパ諸国の国境もなくなることだろう。

ウラル山脈を国境とすれば十分だろうかという質問があるが、今のところは十分だと答えておこう。ボルシェヴィズム[ロシア共産主義―訳者注]を根絶することが大切なのだ。」、1941年7月5日-6日(43ページ)

「ルーマニアは独自の工業を持とうなどできるだけ考えない方がいい。農産物、特に小麦をドイツの市場へ送ってくれればいいのだ。お返しにこちらから必要な工業製品を送ろう。

ベッサラビアは穀倉そのものだ。これでボルシェヴィズムに染まっているプロレタリアートもいなくなり、ルーマニアには何の不足もなくなるだろう。」、1941年7月25日(53ページ)

「そこの大衆を教育しようなどと愚かなことを考えてはいけない。大衆は道路標識が分かればいいのだ。現在彼らは読むことができないが、そのままにしておかねばならぬ。しかし大衆が身ぎれいに暮らすことは許されるし、それは我々も望むところだ。

ウクライナの南部とくにクリミアをおさえ、特別にドイツの植民地にしよう、現在住んでいる者は追い出せばいい。ドイツの植民者は農民兵となる。そのためには隊に関係なく古参兵を連れて行こう。」、1941年7月27日(57ページ)[16]

この目まいを催す計画には、冷徹さが同居した。反ナチスの経済学者が書いた『野蛮の経済学』は、新秩序の経済的意図を憶測している。それによると、ヨーロッパ各地の重工業をドイツが統制し、軍需を満たす。消費財はドイツに集中させ、他地域のものは空洞化させる。そして、ヨーロッパ各地の農業を奨励し、都市の抵抗運動を減らし、自給自足を成し遂げる[17]

戦争経済は自由主義のもとではありえない。特に、19世紀の遺物である金本位制は、ただちに財政と貿易を赤字に陥らせるであろう。フランツ・ノイマンはこう結論づける。「この経済体制の構造はプラグマティックである。それは、戦争を遂行するに必要なできるだけ高度な能率と生産性への要求によってのみ方向づけられている。」と[18]。価格統制、配給、為替管理、公債発行、不換紙幣、そして強制労働といったものが総力戦を可能にする。

しかし、広大な土地を占領したヒトラーの新秩序はもろくも崩壊した。それは選択の自由を許さない統制経済のもろさそのものでなかったろうか。

サミュエルソンの挙げる事例のなかで、ソ連のそれが最も悲惨である。米独のような失業率の低下という好影響もなく、独ソ戦の被害のみが注目される。

戦時のソ連の例は第三のケースをなす。ソ連の場合、戦前に失業者はほとんどなく、そのときすでにソ連経済は比較的低い生産可能性辺境線の上にあった。したがって、民需の犠牲の上に軍需をみたすよりほかなく、その結果として窮乏をともなったのである[19]

ところが、現実のソ連は「生産可能性辺境線」を超えて生産しようとした。ヨシフ・スターリンはラーゲリやグラークと呼ばれる強制収容所をたくさん作った。彼はそれらを効率的な生産方式であると信じていたので、できるだけ多くの人々の罪状をでっちあげて放りこんだ。囚人総数は一時、約200万人に達し、1929年から1953年までに1,800万人が収容所を経験した。特に、金の3分の1は収容所で産出されたものであった[20]

日本はどうであったろうか? 野口悠紀雄の1940年体制説は、この時期の総動員体制が伝統的企業を主体とする戦後の高度成長につながった、とする。例示されているのは、労使が協力する産業報国会(1937年)、株主の権利を制限する国家総動員法(1938年)、業界を統制する統制会(1941年)、自給と価格を管理するための食糧管理法(1942年)、そして、通貨・金融政策によって国家総力を発揮するために改正された日銀法(1942年)である[21]。そうした霞が関の護送船団方式またはディリジスムについては現在まで続いているという見方がある。

外国人労働者の虐待は日本でも行われた。秋田県で起きた花岡事件においては、連れてこられた中国人労働者が劣悪な待遇ゆえに、日本人を殺害し、逃亡を図ったものの、鎮圧された。このほか、徴用工や慰安婦の厳しい実態に関する報告は枚挙にいとまがない。

最後の経済的ナショナリズムは開発途上国のものである。発端はメキシコ革命が生んだ1917年憲法であった。その第27条は「地層中のあらゆる鉱物資源の所有権は国家に帰属する」と定めた[22]。同国の油田は当時、外国資本により支配されていた。帝国主義の最盛期であれば、むやみな国有化は違法性を問われ、欧米列強の武力行使を招くところであった。

ところが、1937年に事態が急変した。石油労働組合が賃金が低すぎるとゼネストを打った。翌年、メキシコの最高裁判所は労働者側を支持する判決を出した。あろうことか、石油会社は従わず、賃上げをしなかった。

ここで、ラサロ・カルデナスデルリオ大統領が石油産業の無補償国有化を命じた。それはマルクス・レーニン主義のようなイデオロギー的理由に発したものでなかった。途上国政府をなめてかかって、自分たちには手出しできまい、と驕った態度が原因である。収用された油田は、後に国営企業ペメックスになる。

裁判所に従わなかったのは外資の過ちであったものの、無補償であったことが素通りされるはずがなかった。米英の資本は補償を求めたので、メキシコ政府は1942年に米系企業と、1947年に英系企業と一定額での補償に合意した[23]

あっけない解決は、国際情勢に原因があったとみることができる。日本による真珠湾攻撃がメキシコとの和解をアメリカ合衆国に急がせた。メキシコは枢軸国に入らないまでも、それらに原油を売ることはできた。これは連合国側による禁輸に悩む日本には渡りに船となったはずである。うまくやれば、戦争も、経済制裁もなしに解決できることを示したこの国有化の意義は大きかった。

以上のように、第二次大戦期、経済的ナショナリズムは頂点に達した。歴史の転機となったのは、ローズベルトが1941年の一般教書演説で提唱した「四つの自由」である。第1は言論および表現の自由、第2は信教の自由である。第3の欠乏からの自由は個人の経済的な権利を確認した。すでに大恐慌からの景気回復ではなく、戦後の復興や人道的救済、さらには経済秩序そのものの建て直しが意図されていた。第4の恐怖からの自由は、戦争のない世界を作る決意であった。

四つの自由がいかに実現されるべきかをめぐっては、論争を経なければならなかった。戦後構想におけるナショナリズムと自由主義とのせめぎあいが始まった。

戦中におけるナショナリストの代表はイギリスのエドワード・H・カーである。開戦のころ、すでに『危機の20年』で、自由主義を批判していた。1942年の『平和の条件』では、より具体的に、ヨーロッパを単位とした計画経済を「ヨーロッパ計画庁」が中央集権的に行うことを唱えた。これはヒトラーの発想を継ぐものであると彼自らが明言している。また、新たな国際制度である原料・資源の国際プール機構、国際共同購入制度、生産様式の国際標準化、海運の国際共通管理、各国共通の必要に対する国際融資機構、そして、各国通貨の兌換のための国際機構を提案した。貿易は市場メカニズムでなく、価格統制まで行うと踏み込んだ[24]

対する自由主義者の代表はフリードリヒ・フォン・ハイエクである。1944年の『隷属への道』は正面からカーに論争を挑んだ。カーが考えている「未来社会の特徴をかいま見てみると、その社会は全面的に全体主義モデルに基づいているように思われる」[25]と歯に衣着せず指摘した。

介入主義が危険であるというハイエクの議論には説得力がある。まず、国家規模で計画化をすれば、資源は国家の独占的所有物とされ、私企業ではなく国家を交易主体とする流通へと統制される。これは国家間の摩擦や羨望を引き起こす。世界的に不足している資源を他国から買おうとしても、その国の当局からは、外国に回す分はない、とけんもほろろに断られよう。国家間で経済案件の交渉をすることは、市場での競り合いを、軍事力を背景にした脅し合いにしてしまう。他方、超国家的な当局による国際的経済計画は、会議の多数派により決められてしまうため、もっと危険である[26]。会議での多数派にイエスか、ノーか、と二者択一を迫られれば、不満な国はがまんするか脱退するしかない。市場での入札ならば、価格次第です、ということに収まろう。 『隷属への道』が出版された時には、すでにブレトンウッズ会議は開かれていた。IMFも、IBRDも、基本的には自由主義的な性格の国際機構であることは「ブレトンウッズ諸制度」の回で確認する。


[1] 横川新、『国際投資法序説』、千倉書房、1972年、64ページ。

[2] 米国大使館広報・文化交流部, “アメリカ合衆国憲法に追加され またはこれを修正する条項,” American Center Japan, https://americancenterjapan.com/aboutusa/laws/2569/, accessed on December 26, 2023.

[3] V・I・レーニン、『国家と革命』、角田安正訳、筑摩書房、2001年、36ページ。

[4] モーリス・ドッブ、『ソヴェト経済史』、上、野々村一雄訳、日本評論社、1974年、73-118ページ。E・H・カー、『ボリシェヴィキ革命 2』、宇高基輔訳、新装版、みすず書房、1999年。

[5] 新川健三編、「映像が語る20世紀 5 1933-1937」、DVD、セレプロ、n.d.。

[6] P・A・サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、都留重人訳、岩波書店、1981年、24ページ。

[7] H・シャハト、『我が生涯』、下、永川秀男訳、経済批判社、1954年、76ページ。

[8] アドルフ・ヒトラー、『わが闘争』、平野一郎、将積茂訳、角川書店、1998年。

[9] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、24-25ページ。

[10] シャハト、『我が生涯』、下、202ページ。フランツ・ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、みすず書房、1963年、205ページ。

[11] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、256、262-268ページ。

[12] A・J・Ryder、『ドイツ政治・外交史Ⅱ』、高橋通敏訳、新有堂、1981年、230-249ページ。

[13] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、209、212ページ。

[14] アラン・ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、鈴木主税訳、草思社、2003年、102ページ。

[15] ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、18-19ページ。

[16] アドルフ・ヒトラー、『ヒトラーのテーブル・トーク 1941-1944』、上、吉田八岑訳、三交社、1994年。

[17] J. Kuczynski and M. Witt, The Economics of Barbarism: Hitler’s New Economic Order in Europe (London: Frederick Muller, 1942).

[18] ノイマン、『ビヒモス ナチズムの構造と実際 1933-1944』、205ページ。

[19] サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、25ページ。

[20] アン・アプルホーム、『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』、川上洸訳、白水社、2006年、16ページ。ブロック、『対比列伝 ヒトラーとスターリン』、103ページ。

[21] 野口悠紀雄、『新版 1940年体制』、東洋経済新報社、2002年、25ページ。

[22] 梅野巨利、『国際資源企業の国有化』、白桃書房、1992年、25ページ。

[23] 梅野、『国際資源企業の国有化』、31-60ページ。入江啓四郎、『開発途上国における国有化』、早稲田大学比較法研究所、1974年、119-123ページ。横川、『国際投資法序説』、189ページ。

[24] エドワード・ハレット・カ、『平和の条件』、高橋甫訳、建民社、1954年。

[25] F・A・ハイエク、『隷属への道』、西山千明訳、春秋社、1992年、235ページ。

[26] ハイエク、『隷属への道』、305-319ページ。

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大恐慌

カネは天下の回り物という。本来は、金銭は人々の手を転々と渡っていくものであるから、その持つ、持たないは時とともに変化する、という意味である。しかし、ここでは、金銭は人々の手を渡っていく中で、初めて付加価値の発生に貢献する、という意味で使っている。

経済学には、 流動性(リクイディティ)という用語がある。資産の処分しやすさ、というのがもともとの意味である。素人の描いた絵には値段が付かないが、名画ならばすぐに売れる。土地、金銀、あるいは現金の流動性はすこぶる高い。金銀を貯めこんでも宝の持ち腐れであるとはアダム・スミスが指摘したことである。経済を拡大したければ、カネを回すことを考えるべきである。流動性は実際には、マクロ経済学において通貨量のこととして使われる。経済の統計データには名目と実質があるが、名目の値を大きく左右するのがこの流動性である。

ここで、金本位制についての議論に入る。これまで人類が掘った金(きん)はプール数杯分、という言われ方をする。つまり、1年や2年でそれほど増えるものではない。となれば、金本位制を採用すると、通貨量という意味での流動性は増えにくいので、経済成長のボトルネックになる。大人が子供の服を着ているようなものである。そこで、金の量をドル紙幣で補い、各国国内ではそれぞれの不換紙幣が通用する金ドル本位制という方法が第二次大戦後は採られることになった。それも矛盾があらわになり、不換紙幣のみが使われる管理通貨制が現在の制度である。

21世紀には、ビットコインなど暗号資産というものが現れた。供給量が「採掘」によって増える点で金と似ているが、地質からの採掘でなく、実は電子計算である。難しいことは私にも理解できないが、資産として金とビットコインは米ドルをヘッジするものであるとはいえる。

それはともかく、金本位制は、金という世界共通の交換手段をつうじて国際決済ができる非常に便利な制度であった。金を自国の兌換紙幣と結びつけるには、中央銀行のコミットメントが必要である。コミットメントとは、兌換紙幣の価値を金の量に釘づけること、私人と無制限に金を売買すること、そして、金を法定の国際準備として保有すること、である[1]。このコミットメントによって、各国通貨間の相対的関係、つまり為替相場、はほぼ決定する。「ほぼ」というのは、金の輸送費を加味していないからである。下に金本位制のもとの為替相場の例を挙げる。

金1オンス=20.67米ドル

金1オンス=4.247英ポンド

1ポンド=4.866ドル[2]

為替リスクが小さいので、金本位制は国境をまたいだ貿易と投資を助長する。さらに、それには貿易収支を自動的に調節する機能があるとされる。輸出が増加すれば、または、輸入が減少すれば、金が国内に流入してその量が増え、物価は上昇する。他国は高い自国の品を買わなくなるから、今度は輸出は減少し、輸入は増加する。逆に、輸出減少や輸入増加で金が外国に流出すれば、物価は下がり、今度は輸出が増えて、輸入が減る。このように、金の輸出入は自然に収束していき、IMFのような国際機構が経済政策に介入しなければならないということはない、とされる。

もちろん、国際収支は貿易収支だけから成るのでなく、投資や利子・配当の収支もある。輸出が好調な産業に外国から投資が押し寄せれば、輸出はさらに伸びるであろう。また、国境を越えて移動するのはカネとモノだけでなく、移民もある。物価水準が高いということは賃金も高いということであるから、輸入品の代わりに移民労働者が来る。すると長期的には、輸入はあまり増えず、輸出も減らない。金本位制のもとでの貿易収支の自動調節は、あくまで理論的なものである。

今回のテーマは、ベルサイユ条約の「経済的帰結」と大恐慌後における国際協調の失敗を、通貨(金融)と貿易の側面に着目して論じなさい、である。

第一次世界大戦後の惨状は人的損失もさることながら、経済もひどいものであった。ハイパーインフレーションはよく例に出されるが、開戦から1923年11月までに、ドイツの貨幣の価値は1兆分の1に下落した。

ハイパーインフレーションは、生活を困窮させるだけでなく、貿易も難しくする。仮に、外国から商品を仕入れ、それを売った代金で支払いをするとしよう。外国通貨建てで振り出された手形に対して後日、銀行をつうじて支払いをすることになる。ところが、期日までに外国通貨の相場が倍になれば、売り上げで仕入れ費用をまかなうことはできない。輸入は止まることになる。

ただし、外国の通貨を借りることができれば、貿易決済の代金を支払うことはできる。紙幣を増刷して、インフレーションを加速することもない。これを実際に行ったのがフランスであった。大戦において勝利に貢献したことが英米に評価されていたからできたことである。しかし、借金がいつまで続けられるかは不安であった[3]

当時、この指摘をしたのは、ジョン・M・ケインズであった。ドイツは賠償支払いのために、国際決済のための金を手放さなければならなくなった。他方、フランスはじめヨーロッパの国々は、戦費の調達を英米からの借款に頼り、返済の義務があった。ケインズは、立ち行かなくなると予言した。

―前略―満ち足りぬヨーロッパ諸国民が、ヨーロッパとアメリカ間のものであれ、ドイツと他のヨーロッパ諸国間のものであれ、自分たちの公正感や義務感から否応なく発しているのでもない理由に基づく外国への支払いのために、日々の生産物のかなりの部分を充当しうるように、今後一世代のあいだ自分たちの生活を律していこうなどという気に、いったいなるのであろうか[4]

ケインズは第一次大戦のパリ講和会議では、イギリス大蔵省の代表を務めたが、連合国の対独賠償要求に反対して辞任した。その経験をもとに著したのが『平和の経済的帰結』である。平和というのは、ドイツとの講和のことである。「平和条約は、ヨーロッパの経済的復興のための条項を何一つとして含んでいない」と彼は告発した。さらに次のように戦勝国の指導者たちを皮肉っている。クレマンソーとは当時のフランス首相、ロイド・ジョージとはイギリス首相、そして、大統領とはアメリカ合衆国大統領T・ウッドロウ・ウィルソンのことである。

―前略―クレマンソーは敵国の経済生活を粉砕することに、ロイド・ジョージはうまく取引して、一週間ぐらいは国民の気持ちを宥めておけそうな何物かを自国に持ち帰ることに、大統領は公明正大でないことはいっさい何事もすまいということに、心を奪われていた[5]

では、どうすれば経済は復興するとケインズは考えたのか? ベルサイユ条約を改正し、ドイツに対しては賠償を減額、ザール炭鉱を返還、上シュレジエンで住民投票、など報復色を薄める。連合国間では債務を棒引きする。アメリカ合衆国が世界各国に借款を与える。さらに、ソビエト連邦とは貿易を復活し、東ヨーロッパ・中央ヨーロッパにおいてドイツの経済的役割を認める、といった具合である。後世から振り返れば、穏当な提案であるものの、1919年当時においては寛大すぎた。

現実の世界は、時代の乱気流にもまれ、ついには統制を失った。1923年のルール占領は乱気流の一撃であった。賠償支払いが滞るドイツに対し、フランスとベルギーがルール地方を占領し、公私の財産を差し押さえ、その売却益を賠償の代わりとした。こうした経済生活の粉砕は憎しみを募らせるばかりで解決にならなかった。なぜなら、ドイツには金が本当になかったからである。

川に水を流そうとしても、源に水がなければ流れない。流れた先の海から水が蒸発し、雨になって源に降り注がなければならない。金は天下の回り物とはそのようなことで、どこかの国から金をドイツに持って行って、さらに世界経済のなかで幾度も回さなければ賠償は完済できなかった。

ルール占領の無益を知った1924年、恵みの雨をドイツに降らせる提案がアメリカ合衆国から発せられた。ドーズ案である。提案者のチャールズ・ドーズは後の副大統領であり、ノーベル平和賞にも選ばれた。ニューヨーク市場でドイツに対する公債を発行し、それを元手に稼いだ外貨で賠償の返済をさせる、というのが案の骨子であった。公債が募集されたニューヨーク外債市場は大いに発展した。

輸出の必要に駆り立てられるドイツにとって、ドーズ案は苦しかった。当時、ドイツのライヒスバンク総裁であったヒャルマル・シャハトは吐露している。

私には、ドイツがその産業を再建するには原料、食料、またある種の機械類を国外から輸入しなければならないことはよく分っていた。そのためには外国のクレディットを迎えることが絶対に賢明な策であった。―中略―ドーズ案によるわが国の支払年額は約二十億であった。これは外貨によらねばならなかった。その外貨の獲得は輸出超過による以外には道がなかった。さらに、今やこの新クレディットに対する利子と元金償却のための外貨を必要とするに到ったのであるから、わが国の対外債務は、あらゆる新外債をも含めて益々増大し、かくて我々の輸出努力の強化が益々必要となった[6]

ドーズ案は1929年のヤング案によって改定される。大恐慌を受け、1931年のフーバー・モラトリアムによって賠償支払いは中断し、翌年のローザンヌ会議で消却された。この期に及んで、ケインズの言うことに耳を傾けなかったことを後悔した者もいたはずである。

希少な金をいかに確保するかは、日本にとっても課題であった。それは幣原外交の隠れた目的であった。幣原外交とは、1920年代から1931年まで外務大臣を務めた幣原喜重郎の政策である。国際協調路線などとくくられることもある。具体的には、中国に対する不干渉やロンドン海軍軍縮条約の締結のように、武力に訴えることを慎むことを基本とした。不干渉と軍縮によって、軍事費を削る経済的な意図があったとされる[7]

このように、国家は輸出マシンとなって、たがいに金を奪い合った。金の量は決まっているので、勝者の影に必ず敗者がいるゼロサム・ゲームである。それでも、金本位制は貿易の復興に欠かせないとの認識に立ち、1922年のジェノバ会議は早期に金本位制に各国が復帰する指針を決めた。1925年に復帰したイギリスを皮切りに、主要国は1930年の日本を最後に金本位制に復帰した。これを再建金本位制という。

人類には、海に落ちるレミングの群のように恐ろしいハザードが待ち構えていた。1927年のポンドの危機がその始まりであった。イギリスはゼネストがあり、労働者の生活苦に目が行っていたため、自国通貨であるポンドの相場を下げたくなかった。フランスによる金買いは、過大評価されたポンドの相場を容赦なく下落させた。英仏独米の中央銀行は四か国会議を開き、アメリカ合衆国の金融緩和によって金を市中に吐き出させ、ポンドの下落を止めようとした。ところが、金融緩和の副作用として、ニューヨークの株式相場は高騰し、やがてはじけるバブルが膨らんだ。

ニューヨーク株式市場の暴落は、1929年10月の24日が暗黒の木曜日、29日が暗黒の火曜日と呼ばれる。58年後の1987年に起きるのはブラックマンデーである。ウォール街の惨状を伝える文章を引用する。

USスティールの暴落はひどいパニックを引き起こした。人々が口汚くののしり、突き飛ばしたり、小突いたり、ひっかいたりするので、ブリッジマンは第二ポストのなかに避難しなくてはならなかった。

あるメッセンジャー・ボーイは、群衆をかきわけていくうちに、不意に髪をぐいとひっぱられて動けなくなった。彼をつかまえている男は、破産したと金切り声をあげて、手を離そうとしない。恐ろしくなった若者はかろうじて身を振りほどいたが、つかまれていた髪の束は男の手のなかに残った。あまりの痛さに泣き叫びながら、メッセンジャーは取引所を逃げ出した。彼の髪の毛は二度とはえてこなかった[8]

阿鼻叫喚の日から株価は各国で3年弱、下がり続けた。イギリスや日本は素早く戻したが、ほとんどの国は戦争が始まるまで回復しなかった[9]。これが大恐慌である。

長期的な不況の原因を、マネタリズムの指導者であり、シカゴ大学教授などを歴任したミルトン・フリードマンは金融政策の失敗という観点から説明する。すなわち、FRB(連邦準備制度理事会)の優柔不断、 銀行救済案の破棄、政府債の買いオペの拒否、そして公定歩合の引き上げである[10]。一言でまとめれば、市場に流動性を供給しなければならないところ、不足をもたらす真逆の政策を打ってしまった、ということである。

ケインジアンの説明を述べれば、有効需要を国家が積極的に作り出さなかったから長期的な不況になった、ということになる。その政策については「経済的ナショナリズム」の回で述べる。

これら経済学的な説明に対し、国際政治経済学は覇権安定論によって大恐慌を説明する。チャールズ・P・キンドルバーガーの有名な記述を引用する。

1929年不況が非常に広い地域に及び、著しく深刻であり、大へん長びいたのは、①投げ売りされる商品に対して比較的に開かれた市場を維持する、②景気調整的な長期貸付を行う、③恐慌のさいに手形を割引くという三点において、イギリスは国際経済を安定させるために責任を負う能力をもたず、アメリカはその責任を負う意思をもたず、そのため国際経済システムが不安定になったという理由によるものであった[11]

①は売れない品物を誰かが買ってくれたら、生産者は被用者に賃金を払うことができ、経済全体が回復する、ということである。貿易の近隣窮乏化を不況の元凶と理解する。②の長期貸付は、例えば道路や鉄道といった大規模インフラストラクチャーのために資金を貸すことで、貸された国の労働者を失業から救うことができる。これはケインジアンの説明である。③は流動性の供給である。手形割引とは債権買い取りのことで、現金が今すぐ必要な事業者は倒産から逃れられる。関東大震災の際、決済が滞った手形が震災手形と呼ばれ、日本銀行が買い取ったが、これと同じ発想である。マネタリストの説明がこれである。以上は、諸学派の説を並べただけで、キンドルバーガーの独自性はない。

覇権安定論の特徴は、長期的不況からの救い手を覇権国、すなわちリーダー国家、に見いだす点にある。イギリスは金流出に悩んだのであるから、外国のモノを買ったり、カネを貸したりすることは不可能であった。アメリカ合衆国のほうは、ベルサイユ条約を蹴って、孤立主義のもとで繁栄していた。他国に手を差し伸べることが自らを助ける、と言われても、成功体験に反する余計なおせっかいであった。同国が孤立の誤りを反省して、世界を引っ張るのはヒトラーが世界征服に乗りだしてからのことであった。

大恐慌は供給過剰を招き、生産低下をもたらした。特にひどかったのはアメリカ合衆国であり、1929年から1930年の1年間と、1937年から1938年の1年間に、それぞれ約2割、低下した。ドイツとオーストリアも1929年からの1年間には1割を大きく超えて低下した。これに伴い失業率も、ドイツは3割を大きく超え、アメリカ合衆国も3割に近づいた[12]

対策として多くの国では1930年代、経済的ナショナリズムの政策を採用した。それは大きく四つに分けられる。一つ目は. 近隣窮乏化あるいはブロック化によって貿易の扉を閉ざすことである。関税を上げて、他国の商品を自国で売れないようにする。具体例には、アメリカ合衆国のスムート・ホーリー法がある。自国通貨の為替を切り下げるのも、輸入品の価格を上げるので、同じ効果がある。いずれにせよ、他国は報復関税で応えるので、みるみる世界貿易は縮小した。キンドルバーガーが示したグラフでは、1929年1月から1933年1月までの4年間に世界貿易の金額は3分の1になった[13]。開かれた市場を維持する覇権国が存在しなかったからである。

ブロック化とは、自国の経済圏を拡大して自給自足を図ることである。もともと植民地を多く有していたイギリスは速やかにポンド・ブロックを築いた。すでに独立した元自治領との間でオタワ協定を施行して、低い帝国特恵関税を適用した。

ドイツと日本のブロックは、第二次大戦に直結した。ドイツはハンガリーやチェコスロバキアといった南東ヨーロッパに手を伸ばした。次の標的は東のポーランドであり、そこへの侵攻は世界大戦の序曲であった。日本はすでに植民地にしていた台湾と朝鮮に加え、満州と華北に侵攻した[14]

近隣窮乏化とブロック化が大恐慌の原因であったことはまちがいない。しかし、それらをうまくやった国々は経済的に一息つくことができた。

ナショナリズムの二つ目は金本位制からの離脱であった。1931年にはイギリスはじめ多くの国が離脱した。大恐慌が始まってから金本位制に復帰(金解禁)した日本は金の流出が止まらず、1931年暮れに高橋是清が大蔵大臣に就いた翌日、慌てて金輸出を再禁止した。

世界経済の再建を目指した1933年のロンドン世界経済会議は失敗し、もはや、元に戻る筋書きは描けなくなった。すべての国が金を国外に出さないので、貿易は縮小するほかない。そうならないようにするには、ドイツがとった為替管理のようなやり方があるにはあった。次の引用は経済相を兼ねるようになったシャハトの回想である。バルカン諸国の農産物を高く買ってやって親独的にした、と述べている。

その後一連の諸外国との間に締結した貿易契約で、ドイツ側が輸入した代金はその国から借りた形に記入し、これでドイツの商品が自由に買えるようにしたのが清算勘定である。この方式は、とくにバルカン諸国や南米諸国に適用された[15]

なぜ、金本位制から抜けなければならなかったか? 貴重な国際決済手段である金の流出を止めたいのはもちろんであるが、景気対策のためにも必要であったからである。金本位制のまま財政支出を増やすと、財政と貿易の収支が赤字になってしまう。金本位制から離脱すれば、不換紙幣を乱発し、財政赤字をインフレーションで軽減し、通貨安で貿易収支を改善できるからである。

高橋財政と呼ばれる日本の積極的な政策は、高橋是清の金輸出再禁止によって可能となった。低金利と日銀引受による国債発行によって流動性を供給したのはマネタリストの政策である。時局匡救と称する公共事業で有効需要を創出したのはケインジアンの政策である。これらはデフレーションからの脱却に一定の効果があった。ただし、国債でまかなわれた支出拡大のかなりの部分が軍事費に回され、対外関係の悪化という副作用まで生んだ。

他の二つのナショナリスティックな政策は、ニューディールまたはケインジアンの総需要政策と階級対立を緩和するための福祉国家政策である。繰り返すが、それらについては「経済的ナショナリズム」の回で述べる。

この回の最後に、カール・ポラニーの『大転換』(1944年)を取り上げ、大恐慌の意味を掘り下げる。その意味とは19世紀文明の崩壊である。

19世紀文明は四つの制度から成った。一つは勢力均衡であり、平和を望むロスチャイルド家などの金融業者が外交に影響力を行使し、平和の百年をもたらした。第2に、この回で論じた国際金本位制である。第3は自己調整的市場であり、商品価格・賃金・地代・利子といった諸価格が需要・供給で決まる。第4は自由主義国家である。

ポラニーによると、勢力均衡・金本位制・自己調整的市場・自由主義国家はユートピアであった。貿易ではゆっくりと保護主義が広がっていたが、ついに国際金本位制が崩壊すると、19世紀文明は次の文明へと大転換した。すなわち、勢力均衡は戦争へ、金本位制は国民通貨へ、市場と国家の自由主義は干渉主義・ファシズム・ニューディールへと移行した[16]。一言で表現するなら、市場の時代から国家の時代へと変わったのである。

若干、筆者の解釈を加えると、19世紀文明はユーロセントリズムであり、金地金はその上流階級の共有財産であった。ところが、ソ連の共産主義とアメリカ合衆国のパンアメリカニズムが台頭し、さらに労働者階級が政治進出を果たすと、平等な分け前を要求し、金本位制のルールは立ち行かなくなった。発言権を増した多種多様なアクターたちの利益を集約するメカニズムが本当は必要であった。ロスチャイルド家の広大な血脈でさえ不十分であり、国際連盟は各国の右翼に支持されなかった。新旧の勢力はそれぞれ共産主義とファシズムに身を投じ、新秩序を作ろうと企てた。そのさまを「経済的ナショナリズム」の回で見る。


[1] Paul R. Krugman and Maurice Obstfeld, International Economics: Theory and Policy, 4th (Reading: Addison-Wesley, 1997), p. 513.

[2] 山本栄治、『国際通貨システム』、岩波書店、1997年、9ページ。

[3] J・M・ケインズ、『平和の経済的帰結』、早坂忠訳、東洋経済新報社、1977年、154、191ページ。

[4] ケインズ、『平和の経済的帰結』、220ページ。

[5] ケインズ、『平和の経済的帰結』、143ページ。

[6] H・シャハト、『我が生涯』、上、永川秀男訳、経済批判社、1954年、421-422ページ 。

[7] 佐古丞、『未完の経済外交 幣原国際協調路線の挫折』、PHP研究所、2002年。

[8] G・トマス、M・モーガン=ウィッツ、『ウォール街の崩壊』、下、常盤新平訳、講談社、284-285ページ。

[9] C・P・キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-39』、東京大学出版会、1982年、98ページ。

[10] ミルトン・フリードマン、ローズ・D・フリードマン、『選択の自由 自立社会への挑戦』、西山千明訳、日本経済出版社、2002年、185-222ページ。

[11] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、264ページ。

[12] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、254ページ。Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 11.

[13] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、148ページ。

[14] キンドルバーガー、『大不況下の世界 1929-1939』、253、255ページ。

[15] シャハト、『我が生涯』、下、118ページ。

[16] カール・ポラニー、『大転換―市場社会の形成と崩壊』、吉沢英成、野口建彦、長尾史郎、杉村芳美訳、東洋経済新報社、1975年。

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帝国主義

人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化したからである。今回のテーマは、帝国主義時代の植民地化について、武力行使をめぐる国際規範と経済的背景に言及しながら論じなさい、である。

列強による世界の分割は帝国主義の一面にすぎなかった。それは工業、資源、海軍、陸軍、そして貨幣を融通無碍に変化させる錬金術でもあった[1]。典型的な例はインド・ベンガルからの収奪であった。ナワーブという操り人形のインド人君主がいたものの、イギリスの東インド会社が防衛、徴税、警察、そして司法の実権を握っていた。彼らはインド人からの税収で物産を購入し、海外で売りさばいて会社の利潤にするノーリスクの事業を行った。イギリス政府は東インド会社に、40万ポンドを本国に納めることを1767年に命令した。

1858年に東インド会社は解散した。しかし、20世紀初めにおいても、イギリスの経常収支はインドでの収奪を前提とした。北米およびヨーロッパに対する赤字をインド、日本、オーストラリア、そしてトルコに対する黒字で補填していたのである[2]

他方、投資という観点から見れば、ヨーロッパは必ずしも収奪ばかりをしたわけでなかった。ロンドンは一次産品の国際取引所となり、「世界の手形交換所」や「世界の銀行」と呼ばれた。銀行の間でも役割分担ができていた。例えば、ロスチャイルド家は外国政府のために外債を発行し、マーチャントバンクのベアリング商会は産業に投資する、といった具合である。イギリスは綿花についてはアメリカ合衆国とエジプトに、鉱業についてはラテンアメリカに投資した。フランスはシベリア鉄道をはじめ大陸ヨーロッパの事業に融資した。鉄道ネットワークは先進国だけでなく中南米やインドにおいても急速に広がった。

投資を受け入れた諸地域のうちでも、ラテンアメリカは19世紀後半、きわめて高い1人当たりGDP成長率を見せた。勢いはアジアとアフリカはもちろん、南ヨーロッパをはるかにしのいだ[3]。19世紀におけるカネのグローバリゼーションが途上国の開発に寄与した面もあった。

こうした経済現象を背景に進んだのが、植民地化、すなわち白人にとってのより快適な居住、であった。快適な居住というのは、気候風土に始まり、法制度、宗教を基盤とする習俗、新聞などのメディア、さらには競馬場といった娯楽に至る。夏の暑さが厳しければ、高原の避暑地や海辺のビーチを白人は開発した。

では、どのように白人は植民地を支配したのであろうか? 一つは操り人形の君主制である。現地人の支配階級は君主と一部官僚にすぎず、陰の実力者は宗主国の高等弁務官(あるいは大使・総領事・政務官・駐在官)と軍司令官であった。宗主国は利権と債権をつうじて財政までも支配した。もはや白人を脅かす現地勢力はなく、安心な暮らしが保証された。

快適な居住を約束する法制度は治外法権であった。白人には現地人と違い、文明世界のルールが適用された。白人の裁判が白人の領事官によって行われる領事裁判権の制度はとりわけ効果的であった。ほかにも、免税・不逮捕・国旗掲揚といった特権免除があった。これらは白人に雇われた現地人の被保護者(プロテジェ)にも、代理領事への任命をつうじて与えられた。不平等への憤りが、次世代のナショナリストたちを育てた。

中南米が植民地化されることなく、ほとんどが独立を保ちえたのは、比較的に小さな修正で白人が投資する環境が整えられたからである。スペインやポルトガルの植民地であった時代に、法制度や習俗の西洋化が進んでいた。たまに操り人形になるのを拒む大統領が現れ、ならず者の意味をこめてカウディーリョと呼ばれた。列強は砲艦外交によって紛争を解決した。

帝国主義の先触れはスエズ運河の建設である。それが所在するエジプトは形の上ではオスマン帝国の領土に含まれた。実際には、サイードというエジプト総督(後に副王)が支配者であった。彼はフランス人のフェルディナン・M・ド・レセップスに建設の特許状を発行した。運河が開通したのは1869年である。

サイード自身もスエズ運河会社の大株主であった。彼の死後、株をイギリス政府に売って後継者は自らの借金を返済した。時のイギリス首相デイビッド・ディズレイリは株を買い取る資金をロスチャイルド家から借り入れた。ウィットをきかせて、担保はイギリス政府である、と彼は伝えたが、政府を担保に入れるほど運河は重要であった。虎の子の植民地インドと地中海とをつなぐ大動脈が他国に支配されれば、インドの支配が脅かされるからである。イギリス政府は最大の株主となり、フランス人の小口株主たちとともにスエズ運河会社の経営権を握った。

運河の経営だけでイギリスは満足しなかった。1882年、エジプトで外国人が襲撃された。フランスが誘いに乗らなかったので、イギリスは単独で軍隊を派遣した。駐留軍が居座ったことで、エジプトの副王は操り人形になりさがり、イギリスの総領事兼外交事務官が真の支配者になった。白人の安心な暮らしとビジネスが保証され、綿花の生産がエジプトの主要産業に発展した。

第一次世界大戦でトルコが敵国になると、イギリスは遠慮なくトルコの宗主権を否認し、副王をスルタン(王)に昇格させた。真の支配者の階級も高等弁務官に格上げされた。その後、両国の関係は、保護権が廃止されて対等の主権国家になったり、同盟条約が結ばれたり、高等弁務官が大使に格上げされたり形は変わっても、エジプトは植民地のままであった。イギリス軍はカイロとアレクサンドリアに駐留し、運河地帯への駐兵権を持っていた。

スエズ国際海水運河株式会社の株主総会と理事会はパリで開かれた。しかし、特許状の定めにより、運河会社は1969年に解散され、資産はエジプトに移ることになっていた[4]。本当に運河はエジプトに返還されるのか? 1956年にスエズ戦争が起きるまえ、誰もこの疑問に答えられなかった。

植民地化のテクニックはこの事例で明かされている。1882年の外国人襲撃は決定的であった。白人を保護できなければ、国家責任を問うため武力行使するのが当時の常識であった。国家責任論、すなわち植民地化を「される側」が悪いという論理、が国際法の一部であった。国家は自らの不法行為、すなわち故意・過失による損害、に責任を負う。契約不履行、不法な殺傷・逮捕・財産権侵害、裁判拒否、そして反乱に対する相当な注意義務違反がそうした不法行為の典型的なものであった。債務不履行、公債不履行、そして役務代金不払も武力行使の理由になった。賠償金を払ったり、保護国化に同意したりすることが責任の取り方であった。

アメリカ合衆国はキューバでの武力行使の大義名分に圧制の除去と民主主義を挙げたが、付け足しの理由にすぎなかった。きっかけはスペインへの反乱から自国民を保護するために派遣された米国軍艦メイン号の爆発であった。原因は事故とも、スペイン側の仕掛けたものとも、アメリカ合衆国側の自作自演とも言われるが定かでない。イエロージャーナリズムと呼ばれた好戦的な世論が合衆国で高まり、ついに米西戦争(1898年)が勃発した。圧倒的な勝利の結果、合衆国はキューバを保護国化したのみならず、プエルトリコを属領化し、フィリピンを植民地化した。

義和団事件の端緒も自国民保護である。日清戦争以後、列強は鉄道敷設はじめ利権漁りを加速した。ドイツの場合は、ビールの名産地になる青島を含む山東省の膠州湾を自国民保護の理由で1897年に占領し、利益範囲とした。これが排外主義の火に油を注ぐ結果となり、義和団という武装勢力が宣教師や外交官を殺し、北京に迫った。清は義和団の側につき、列強に宣戦を布告した。列強の八か国連合軍は義和団と清を蹴散らし、翌1901年に北京議定書(辛丑和約)を結ばせた。

清が支払うことになった莫大な賠償額の算定に当たっては、清の関税徴収を取り仕切ってきたイギリス人官吏の意見を聴いた。つまり、いくらまでならば清は払えるかを見積もって、最大限、払わせたのである。まるで鶏が産む卵をことごとく横取りするようなもので、国家の家畜化であった。良心がとがめたのか、アメリカ合衆国は、受け取った額の一部を現在、中国一、二を争う名門である清華大学の設立に拠出した。

1902年のベネズエラ封鎖は債権回収を目的とした。ドイツは「威信」を守るためと称し、1898年以降の革命および反乱の期間に累積した債務不履行や損害の総額を請求した。大きなところでは、ドイツ国民が経営する食肉処理場とその債権者に対するカラカス知事の契約不履行や、大ベネズエラ鉄道をめぐる債務不履行といった経済取引をめぐるものがあった[5]

これに対する反発は米州から起きた。かねてより、債権回収に武力が行使されたラテンアメリカでは、カルボ・ドクトリンが叫ばれてきた。カルロス・カルボというアルゼンチンの国際法学者・外交官は、私人は外国政府との契約上の紛争において自国政府に介入を求めない、ということを国際法の原則として唱えた。

カルボの後輩に当たるアルゼンチン外相ルイス・ドラゴはベネズエラ封鎖に対し、「政府の債務は武力干渉もヨーロッパの国による米州諸国領土の占領も招かない」という原則を声明した[6]。政府が自国民の保護のための外交をすることを外交的保護権というが、債権回収のために武力を使う外交的保護権を否定するのがドラゴ・ドクトリンである。

次の年、アメリカ合衆国の仲介により、ドイツにイギリスとイタリアが加わった請求国とベネズエラの間に議定書が結ばれた。やはり関税収入を支払いに充て、混合請求委員会による仲裁で私人への分配額を決定することになった。

アメリカ合衆国大統領はシオドア・ローズベルトであった。前政権で海軍次官を務めていたところ米西戦争が起き、志願兵としてキューバに渡り、ラフライダーという部隊で戦った。大統領となってからの棍棒外交というあだ名からも知られるように、彼にはタカ派のイメージがある。ベネズエラ封鎖事件では、1904年暮れにローズベルト・コロラリーと呼ばれることになる発言をした。

慢性的な不法行為や無能が文明社会の絆にひびをいれれば、米州であれ、どこであれ、最終的にはどこかの文明国による干渉を必要とすることもある。合衆国は西半球でモンロー・ドクトリンを奉じており、こうした不法行為や無能が目に余れば、不本意ではあるが、国際警察権力の行使を余儀なくされるかもしれない[7]

これは単に不法行為や債務不履行を許さないということだけではない。モンロー・ドクトリンはヨーロッパによる米州の植民地化を禁じており、それにつながりかねない列強の干渉は好ましくない。よって、アメリカ合衆国自身が干渉をするというのである。いわば、米州を自らの勢力範囲であると宣言したようなものであった。一方で、ラテンアメリカがキューバとプエルトリコを除き植民地化を免れたのはこの原則の成果と言って過言でない。

モロッコにも列強は手荒く圧力をかけ、責任を果たせないと認定して独立を奪った。1905年にドイツ皇帝ビルヘルム二世はタンジールに上陸した。翌年、フランスは国政の改革を求めてアルヘシラス会議を開いた。次の年に外国人が襲撃され、フランス軍が居留民保護のために上陸したカサブランカ事件が起きた。これでモロッコはフランス保護領、スペイン保護領、そしてタンジールに三分割されていく。

露骨な帝国主義に対抗し、国際法で武力行使を禁止しようとする運動が高まりを見せた。1907年、ポーター条約(契約上の債務回収の為にする兵力使用の制限に関する条約)が結ばれた。契約上の紛争にかぎり武力行使を禁じたものである。実際の効果は疑わしく、適用範囲が契約に限定されたばかりか、第2条で、仲裁で解決する努力をすれば、それがうまくいかなくても武力行使をしてもよい、という抜け穴が用意されていた。

別の動きにカルボ条項があった。これは上のカルボ・ドクトリンを進出企業と現地政府との契約のなかに明記するものである。あらかじめ、自国政府に頼らないことを企業側に約束させて、外国の干渉を阻止しようと現地政府は企んだ。しかし、国際法の学説では、私人の利益を外交的に保護する権利は国籍がある国家の側にあり、国家の権利は私人により放棄できるものではない、とカルポ条項の効果を否定する意見がある。

より決定的な動きは1945年の国際連合憲章である。その第2条4に、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」とある。国家責任を問うための武力行使は国際連合の目的と両立しないであろうから許されないし、植民地化の結果も当然、政治的独立を奪うことになる。

さらに、外国人への特別扱いを否定する動きがあった。1974年に国連総会で決議された国家の経済的権利義務憲章(A/RES/3281)がそれである。総会決議であるため、それ自体で法的拘束力があるわけでないが、国際世論の状況を示すものではある。第2章第2条2(a)に、「いかなる国家も外国投資に対し特恵的待遇を与えることを強制されない。」という文言がある。つまり、自国民に与えないものを、なぜ外国人に与えなければならないのか、という国内標準主義の主張である。帝国主義時代に列強が、これはあなたの国の責任であるから償いなさい、と文明国標準主義に拠って弱者に押し付けたことを想起すると、弱者の意見に耳を傾けさせるこの条項は隔世の感がある。

これまで見てきたような帝国主義の原動力とは何であったのか?

古典中の古典と言うべきジョン・A・ホブソンの『帝国主義論』(1902年)は、帝国主義の原因は私的な特殊利益である、と論じる。具体的には、牧場経営者、銀行家、高利貸し、投資家、醸造業者、鉱山所有者、製鉄業者、造船業者、海運業者、輸出品製造業者、貿易商、宣教師、学校、労働組合、陸海軍人、在外公館員、そして技術者など得をする者たちが団結した結果とする[8]

ホブソンの説としてほかに有名であるのは、帝国主義は過剰生産のはけ口という理論である。国内の富裕層は消費性向が低いので、国外に市場を作って買わせなければならない。市場を求めて、という点は、カルテルやトラストが国内の独占・寡占を維持しながら外国で商品を売りさばく必要を論じたヨゼフ・A・シュンペーターの説明と共通する[9]

経済的利益のなかでも、金融資本を帝国主義の元凶とする見方が根強い。金融資本の影響があったことは事実である。帝国主義末期に「ドル外交」という言葉が流行した。そのころのエピソードに次のようなものがある。ちなみに、シフは日露戦争の際、高橋是清の融資依頼に応じたユダヤ人として有名である。

―前略―クーン・ローブ商会が関税を担保にドミニカ共和国への融資を検討した際、同商会のジェーコブ・シフがロンドンの業務提携先に「向こうが借金を返さない場合、誰がこの関税を徴収するのだ?」と問い合わせたら、「お宅の国か、わが国の海軍さ」と答えが返ってきたという[10]

金融資本への警戒は古くからあり、1879年、世界一周中のユリシーズ・S・グラント前アメリカ合衆国大統領が明治天皇に謁見した折、次のように助言した。

凡そ国の最も厭うべきは外国に債を負うより大なるは無し―中略―誠に埃及西班牙又は土耳古を見よ其景況実に憐む可し一国の財源は皆悉く外国の抵当と為り一も我所有と称するを得へきものなきに至る而て埃及の藩王は外国に其譲位を迫られ又西班牙の如きは莫大なる外債の為に各種の内国税を非常に増収し加之上下の税吏私曲を逞し堂々たる富国も殆ど将に衰亡せんとするの勢なり[11]

ウラディミル・レーニンの壮大な理論も金融資本を重視する。1916年に書かれたものであるから世界大戦はすでに始まっていたが、世界の分割を金融の論理がもたらしたと彼は説明する。国内への投資ではもはや利潤率が低下したため、金融資本は高い利潤率を求めて外国に出ていかなければならない。投資は保護されなければならないので政治的な支配が必要になる。こうして、資本主義の最終段階としての帝国主義が進んでいく[12]

投資と政治的な支配との関係が強く主張された分野といえば鉄道の敷設である。ドイツの帝国主義として知られる3B政策は、ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、そしてバグダッドを鉄道で結ぶ構想であった。第一次世界大戦においてドイツ、オーストリアハンガリー、そしてトルコは中央同盟諸国としてともに戦うことになった。

オーストリアハンガリーは仮想敵国ロシアの友邦セルビアを通らずに、ヨーロッパとトルコを結ぶ計画を立てた。その路線は1908年に併合したばかりのボスニアヘルツェゴビナを通って、コソブスカ・ミトロビツァからテッサロニキに至るものであった[13]。次の皇帝となる予定であったフランツフェルディナント大公が暗殺された場所がボスニアヘルツェゴビナのサラエボであったことはよく知られる。同国が無理をしてでもボスニアヘルツェゴビナを支配する必要があった理由が鉄道計画の存在であったとしても不自然でない。

投資ではなく、資源獲得の必要が、国家を対外進出させ、紛争につながるという学説もある。アメリカ合衆国では、ナズリ・シュクリとロバート・C・ノースが計量分析を行った。人口でも、GDPでも、エネルギーでも、国家の成長は資源需要を増大させる。するとその国は対外進出を図り、軍事力を増強する。国々は衝突し合うようになり、ライバルの国も軍事力増強によって応える。シュクリとノースは、ドイツの成長とその結果としての第一次大戦に注目した[14]

以上のように、帝国主義においては、巧妙に経済的利益と政治的支配が両立される。日清戦争後、帝国主義に参加した日本はどうであったか? 必死に政治的支配を確立しようとしたが、それで多くのものを失ってしまった。韓国併合を振り返ってこの回を締める。

日清戦争によって朝鮮を清の属国から独立国にする目的を果たした日本であったが、陸奥宗光外相が『蹇蹇録』でどう述べようと、それが真の最終目的であったかは疑わしい。清に代わって、ロシアという強敵が現れた。親ロシアの王妃である閔氏を三浦梧楼公使が首謀者となって殺害したことで、王はますますロシアに頼ることになってしまった。さらに、ロシアは義和団事件に世界が目を奪われている間に、満州を占領し、軍事圧力を強化した。

対する日本はイギリスと同盟を結び、どうにか日露戦争に勝利できた。戦中に第一次日韓協約、戦後に第二次日韓協約で保護権を確立した。

ところが、朝鮮の支配は完成しなかった。保護権にもかかわらず、韓国皇帝は独自外交を目指し、第2回ハーグ平和会議に代表を送ったのである。日本はこれを残念として、第三次日韓協約を押し付け、統監を送って直接統治に切り替えた。さらに、統監の伊藤博文が暗殺されると、韓国を併合した。李氏の王朝を操り人形にすることに失敗したのである。 その後も宣川事件や三一事件といった抵抗は収まらなかった。以上の歴史は、政治的支配と経済的利益を両立させる帝国主義の目標を日本が達成できなかったことを物語る。


[1] See Paul Kennedy, Strategy and Diplomacy, 1870-1945 (London: Fontana Press, 1984).

[2] S・B・ソウル、『イギリス海外貿易の研究』、久保田英夫訳、文真堂、1980年、81ページ。

[3] アンガス・マディソン、『世界経済の成長史1820-1992年』、金森久雄監訳、政治経済研究会訳、東洋経済新報社、2000年、9ページ。

[4] 今尾登、『スエズ運河の研究』、有斐閣、1957年。小林元、『国際政治と中東問題』、故小林元教授遺著刊行会、1964年。

[5] Holger H. Herwig, Germany’s Vision of Empire in Venezuela, 1871-1914 (Princeton: Princeton University Press, 1986), p. 99.

[6] The United States Department of State, Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, with the Annual Message of the President, 1903 (Washington: Government Printing Office, 1904), p. 4.

[7] Theodore Roosevelt’s Annual Message to Congress, December 6, 1904.

[8] ホブスン、『帝国主義論』、上、矢内原忠雄訳、岩波書店、1951年。ホブスン、『帝国主義論』、下、矢内原忠雄訳、岩波書店、1952年。

[9] ホブスン、『帝国主義論』、上。ホブスン、『帝国主義論』、下。シュンペーター、『帝国主義と社会階級』、都留重人訳、岩波書店、1956年。

[10] ロン・チャーナウ、『モルガン家』、上巻、青木栄一訳、日本経済新聞社、1993年、176-177ページ。

[11] 外務省編、『日本外交年表並主要文書 上』、原書房、第5版、1988年、76ページ。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に改めた。

[12] レーニン、『戦争と平和、帝国主義』、平野義太郎編、大月書店、1970年。

[13] ハーバート・ファイス、『帝国主義外交と国際金融 1870-1914』、柴田匡平訳、筑摩書房、1992年、238ページ。

[14] Nazli Choucri and Robert C. North, Nations in Conflict: National Growth and International Violence (San Francisco: W. H. Freeman and Co., 1975), p. 29.

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グローバリゼーション
https://youtu.be/uxriMZOqqiE 今はインターネットにおいて、モノでも、カネでも、ヒトでも、情報でも、世界中がつながっている。それ以前はさぞかし不便であったことであろう。 それでも、交通と通信は日々、発達していた。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は、出版前年の1872年の世界を舞台とする。主人公はロンドンから、ドーバー、パリ、ブリンディシ、スエズ、ムンバイ、コルカタ、香港、横浜、サンフランシスコ、ニ…
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核戦略
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は絶対兵器である原子爆弾の独占に安心し、ヨーロッパからの撤兵を進めた。ところが、東西の緊張が高まるやいなや、ソビエト連邦の戦車をはじめとした陸上戦力が脅威として映るようになった。1948年ごろ、実際には180万人しかいなかったソ連の兵力を250万人と西側は誤認していた[1]。東アジアで朝鮮戦争が行われていた1951年、合衆国を代表する国際政治学者ハンス・J・モーゲンソーは次のように…

相互依存

関税は商品の代金とは別にかかる費用である。関税を下げれば、国境を越えて商品は移動しやすくなる。これが自由貿易の考え方である。自由貿易が行われる国々の住民は、余計な費用をかけずに商品を売ったり、買ったりでき、選択の自由は飛躍的に増す。

しかし、同じ商品を国内で作っていた業者にとっては、外国からより低い価格で商品が買えるとなると、自分が作ったものが売れなくなってしまう。輸入を減らして国民の仕事を守れ、という保護主義の要求は、選挙をつうじて意思決定者に直接、伝えられる。市場メカニズムのメリットが保護主義のそれに勝ることを国民に説得するのも政治家の責任であるが、これがなかなか行われない。

今回のテーマは、19世紀中葉、自由貿易がいかなる歴史的過程を経て実現し、またそれが契機となって生まれた相互依存をめぐる言説がいかなる展開をたどったか、である。

保護主義の例としては穀物法が引き合いに出される。ナポレオン没落後、大陸封鎖が崩壊したことにより、イギリスへのヨーロッパ大陸からの穀物輸入が再開され、地代に依存する地主には生産物の値崩れが懸念された。そこで1815年に穀物法が定められ、外国産穀物に輸入制限を課した。穀物価格の高値安定は、中産階級と労働者階級には不評であった。家計の消費支出に占める飲食費の割合をエンゲル係数といい、家計の貧困度合いを示す指標として使われる。食費が上がるとエンゲル係数は上がる。

ちょうどそのころ世に出たのが、デイビッド・リカードの比較優位説または比較生産費説であった。『経済学および課税の原理』から、ポルトガルとイギリスの分業が有利であると論じる該当の部分を引用する。

イギリスは、毛織物を生産するのに一年間に100人の労働を要し、またぶどう酒を醸造しようとすれば、同一期間に120人の労働を要するような事情のもとにあるとしよう。したがって、イギリスは毛織物の輸出によってぶどう酒を輸入し、購入することが、自国の利益であるとみなすであろう。

ポルトガルは毛織物を90人の労働で製造しうるにもかかわらず、その生産に100人の労働を要する国からそれを輸入するであろう。なぜなら、ポルトガルにとっては、その資本の一部分をぶどう栽培から毛織物製造へと転換することによって生産しうるよりも、一層多くの毛織物をイギリスから交換入手するぶどう酒の生産にその資本を投下する方が、むしろ有利だからである[1]

リカードが言う通りかどうか、厳密には、通貨の交換レートや人口比の情報を教えてもらうまで結論を持ち越すべきである。しかし、ここでは彼に敬意を払い、ポルトガルはぶどう酒に特化し、イギリスは毛織物に特化すると双方に便益がある、と信じよう。関税を下げて貿易を活発にすれば、国際的に、最適化、すなわち最善な選択肢の探索、が進む。国民単位で物事を見れば、消費を最大にするのはいずれの国民にとっても自由貿易である。

その一方で、イギリスの土地貴族たちは地代が下がれば、少ない所得しか手にすることができなくなる。現実には、その心配はなかった。なぜなら、議会には多くの土地貴族が選ばれており、穀物法を守ることができたからである。カール・マンハイムは、イデオロギーを観念の存在拘束性の一例とした[2]。地主としての存在に拘束された土地貴族たちは、都合のよいイデオロギーを世間に広め、穀物法を続けさせた。

イデオロギーであるという点では、マンチェスター学派の経済学も異なるところはない。穀物すなわち飲食費が安くなれば、労働者の賃金も安くなる、と彼らは主張した。当然、賃金が安くなれば企業の利潤は大きくなる。現代における最低賃金の制度を知る者には理解しがたい考え方ではあるが……

マンチェスター学派の代表は、キャラコ捺染業を営み、庶民院に選出されていたリチャード・コブデンである。彼の拠点がマンチェスターであった。同じくこの工業都市に拠点を置いたジョン・ブライトとともに、反穀物法同盟の中心人物となった。コブデンとブライトはブルジョワジーを代表するといえる。中産階級、とも呼ばれるが、それは王侯貴族から見ればそうなるというだけで、実際には富裕層である。

最後に、労働者階級のイデオロギーはどうであったろうか? 貴族という共通の敵がいたために、19世紀前半にはブルジョワジーとプロレタリアートは共闘の関係にあった。カール・マルクスは当時を振り返って、次のように書く。

―前略―工場主であるコブデンやブライトを先頭に立てた穀物法反対同盟が世間にまき散らしたあつかましいパンフレット類でさえ、土地所有貴族にたいするその攻撃によって、けっして科学的ではないにしても歴史的ではある関心を示した[3]

ブルジョワジーと労働者の共闘といえば、選挙法改革の争点もそうである。国民の多数派が支持する候補者が議員に当選し、議会の多数派が法律を改廃するようになれば、穀物法もなくなるであろう。それは最大多数の最大幸福にはちがいないが、土地貴族という敗者が明らかにいた。

自由貿易への最後のひと押しとなったのは、じゃがいも飢饉、つまり1845年から1846年にかけてのアイルランド大飢饉であった。国内で飢えている人がいるのに、穀物輸入に制限を課し続けることはできなかった。風刺漫画の雑誌には、長身のコブデンが子供姿のロバート・ピール首相を自由貿易に連れていく姿が載った。ついに、穀物法は廃止された。今度は、自由貿易によって肥え太ったライオンの姿、つまり王者イギリスの数年後を描いた漫画がそこに載った[4]

ここまでは、国内政治の話である。つまり、イギリスが一方的に外国からの穀物輸入を増やした。次は、二国間条約が自由貿易を推し進めた話である。

フランスのナポレオン三世は戦争によって多くの敵を作り、イギリスとの友好を必要としていた。そこで、イギリスとの関税引き下げ協議に着手し、フランスはミシェル・シュバリエを、イギリスはコブデンを代表に選んだ。1860年に結ばれたのが英仏通商条約の特恵貿易協定である。これはコブデン条約とも呼ばれ、自由貿易のシンボルとして人々の心に刻まれた。新たな関税率は両国の産業構造に変化をもたらし、イギリスは工業に、フランスは農業に特化した。

自由貿易は最盛期を迎えた。通商条約は全ヨーロッパ大陸とアメリカ合衆国に伝播し、1870年代には40本を数えた[5]。1875年には工業製品に対するイギリスの関税は0パーセントに低下した[6]。これこそ19世紀のグローバリゼーションであった。

ただし、通商のグローバリゼーションは、主権国家の自由意思だけに基づき、広がったわけでない。半文明国、例えば当時の中国や日本、にとって、自由貿易は押し付けられたものであった。自由貿易帝国主義という用語でそれが解説されることがある。なぜなら、砲艦外交という軍事的な脅迫によって、国家主権を奪ったからである。

中国の場合、アロー戦争が行われ、その講和のために、1858年の天津条約が結ばれた。日本においてこれに対応する内容を持つのは、黒船来航の翌年に結ばれた日米和親条約とアロー戦争を見ながら交渉された日米修好通商条約である。後者は天津条約同様、片務的最恵国待遇、領事裁判権、そして協定関税を伴う不平等条約であった。半文明国と文明国との関係は、文明国どうしのものとは異質であった。

自由貿易は有無を言わせぬ勢いで広がったが、自国産業を守る動きも広がった。経済学における国民学派、すなわちナショナリスト、の興隆である。ドイツでは、ゲオルク・フリードリヒ・リストが1841年に『政治経済学の国民的システム』を書いた。そこで説かれた幼稚産業の保護を目的とする輸入代替工業化は、工業を農業より優先し、完全な農業国が、いかに外国工業品を締めだし、国内工業品を輸出するまでになるか、を段階を追い描く[7]

リスト自身、ドイツ関税同盟を設立するために奔走した経験があり、輸出大国のイギリスから国内市場を守るため、関税同盟が大きな役割を果たすことを知っていた。ドイツの諸国は関税同盟を結ぶだけでなく、1871年にはプロイセン王国を中心とする統一国家に合体した。ドイツ帝国は1879年に新関税政策を採用し、保護主義を強化した。これに追随して、他の国々も工業製品の関税率を上げ、自由貿易の時代は終わりを告げた[8]

話題を相互依存、英語でインターデペンデンス、に転じよう。それは自由貿易の状況を国際関係に応用した理論である。次のコブデンの手紙において、理論としてすでに完成している。

―前略―ヨーロッパの植民地政策は過去150年の間、戦争の主要な源泉であったのです。他方、自由貿易は交流を促進し、国々が互いに依存する(mutually dependent)ことを確かにすることによって、必然的に、政府から人民を戦争に駆りたてる力を奪います[9]

相互依存論は、貴族主義に対抗してブルジョワジーが作ったイデオロギーであった。貴族主義は保護関税によって国富を減少させる。貴族の子弟である軍人は戦争を起こす。植民地は増え、防衛費がかかり、関税を上げねばならない。国富はさらに減少する。

それにたいし、民主主義は自由貿易をもたらして、国富を増大させる。国際紛争を仲裁によって平和的に解決する不干渉政策を貫けば、自由貿易は維持できる。平和は軍縮による減税を可能とし、国富は増大する。

第一次世界大戦のころ、相互依存を宣伝したのがジャーナリストのラルフ・ノーマン・エンジェルであった。彼は「大いなる幻想」(1910年)において、領土を増やせば富も増える、と見るのは楽観的な幻想である、と唱えた。ところが、時を置かずに世界大戦が起きたことで、現実主義者の引き立て役として教科書に登場させられることになった。

しかし、エンジェルはまちがえていたわけでなかった。例えば、ドイツは征服しても損をする、と書いているが、理由はもっともなことばかりである。敵の人命を奪うことは、自らの市場を破壊することである。敵の財産を差し押さえても、こちらの被害を償えるわけでない。敵の領土を併合しても、その土地の富の所有者はその土地の住民のままである。敵の領土を植民地にしても、それを防衛するのに費用がかかり、経済的には損である。エンジェルは、戦争は起きない、と言ったわけではない。戦争は損である、と言ったにすぎない。

エンジェルは1933年にノーベル平和賞を贈られた。次の文章は複合的相互依存という概念を説明したものであるが、現在でも色あせない。

―前略―近代金融の複合性はニューヨークをロンドンに依存させ、ロンドンをパリに依存させ、パリをベルリンに依存させたが、それは史上かつてない程度である。この相互依存は以下のような昨日できたばかりの文明の利器を日常で使用した結果である。それらは、速達、電信による金融・商業情報の即時伝達、そして一般的に通信速度の信じられない進歩であり、百年も経っていない前のイギリスの主要都市間よりも半ダースのキリスト教国の首都を金融的により密接に連絡できるようにし、相互に依存させている[10]

日本の自由貿易論者といえば、東洋経済新報社主幹で、戦後、内閣総理大臣になった石橋湛山が挙げられる。満州事変に際して彼が書いた記事は、資源確保が軍事活動の目的である、という論拠の弱点を見抜いていた。

そしてわが国には鉄、石炭等々の原料が乏しいから、満蒙の地を、その供給地としてわが国に確保することが、国民経済上必要欠くべからざる用意だと称うる。これも現在までの事実においては全く違う。満蒙は何等わが国に対して原料供給の特殊の便宜を与えていない。が仮に右の説が正しとするも、もしただそれだけの事ならば、敢て満蒙にわが政治的権力を加うるに及ばず、平和の経済関係、商売関係で、優々目的を達しえる事である[11]

コブデンから石橋湛山に至る考え方は、古典的自由主義と称される。その特徴は、国家は国内の支配的集団に代表され、その利益が満たされれば国際関係は調和する、と見ることである。支配的集団とはベンサムのいう「最大多数」であり、具体的には中産階級である。国家は力関係で競うことはない。戦争は一部の特殊利益が自分たちの利益だけを図った結果である。

それにたいし、20世紀末にアメリカ合衆国で広まったのが新自由主義である。利己的な国家どうしも自己利益のためには協力する、というのがその中心的な主張である。古典的自由主義が前提とした個人や集団、あるいはマルクス主義が依って立つ階級ではなく、新自由主義は国家そのものを単位とみなす。また、国家間に対立が存在する場合でも、国際法や国際機構といった制度によって協力するよう仕向けることができる、と考える。後者の立場は新制度主義と呼ばれる。

新自由主義と学界の支持を競ったライバルの新現実主義も、国家中心の見方をする。違いは、国際制度を重視するか、軍事力を重視するか、といった程度しかないという議論さえ出た[12]。相互依存に対する見解をめぐっては、古典的自由主義と新現実主義とが対極にあり、新自由主義は折衷的な位置にある。

新現実主義の代表はケネス・N・ウォルツである。彼は相互依存を「神話」と呼んで批判する。それは平和につながるのでなく、国どうしの接触や交流が増えることで、偶発的な紛争を起きやすくする。相互依存という言葉そのものにも欠陥がある。それは国力が不均衡であるのを曖昧にし、互恵的な相互依存関係が存在するかのような幻覚を与えてしまうからである[13]

要するに、強者は依存せず、依存は弱者だけがするものである、とウォルツは言いたい。大国は外国に対して統制力を行使しうると同時に、自国を隔離することもでき、それが国際関係の安定を実現する。地理的に広大で経済的にも先進国である国は資源が一時的に不足しても、速やかに自足体勢を整えることができる。供給元の多様さ、備蓄、そして技術進歩といったものは大国のほうが勝っている。例えば、アメリカ合衆国は天然ゴムの供給が滞った時に、技術力によって、合成ゴム産業を育成できた[14]

新自由主義は、新現実主義の主張を一部認めつつ、強者はつねに有利、というような結論は巧みに避ける。ロバート・O・コヘインとジョセフ・S・ナイに、『力と相互依存』という共著がある。わざわざ、力、という言葉を題に入れ込んで、新現実主義と折り合いをつけるかのようである。

コヘインとナイが考案した概念が「脆弱性(バルネラビリティ)」である。それは、政策変更が可能という条件下で、国外に起因する費用の影響、と定義される。政策次第で外国の影響を緩和できる国、例えば大国、は脆弱でない、つまり、依存はしていないことになる。ただし、「敏感性(センシティビティ)」、つまり、政策変更が不能という条件下で、国外に起因する費用の影響、は、大国であっても小さくないかもしれない[15]。その場合、短期的に敏感性が大きくても、長期的には非脆弱であり、依存とはいえない。

天然ゴムの供給が止まった時、合成ゴム産業を育成する政策で切り抜けた、というウォルツの挙げる例は、アメリカ合衆国が脆弱でなかったことを示す。また、ウォルツの挙げる例ではないが、原油価格が上昇した場合、産油国の王様に、増産をよろしく、と電話をかけたり、中東に空母を派遣して力を誇示したりして価格高騰を抑えることは、同国の大統領がよく使う手である。こうした対策をとる時間がなく、ショックで一時的に価格が高騰している状態が敏感性である。脆弱性と敏感性という概念は巧妙に練られている。

つまり、新自由主義は非脆弱性という意味での大国の力については新現実主義にたいして異論はない。脆弱性や敏感性は国際協力でカバーできると主張する点が違うだけである。そうした共通性から、両者を「総合」して一本化する可能性がしばしば唱えられてきた。しかし、それで統一理論ができあがると考えるのは早計である。それぞれが関心を寄せる軍事力の世界と国際制度の世界がそもそも違う。研究関心が異なれば、理論も異なってしかるべきである。

最後に相互依存論の二つの亜種を紹介する。一つは天谷直弘の「町人国家」であり、1980年に発表された。彼は通商産業審議官であり、エネルギー問題に造詣が深かった。当時は高度成長を遂げた日本を経済大国ともてはやす風潮もあったが、日本の限界をわきまえた謙虚な所説を述べた。

今日の国際社会を見ると、そこには徳川社会の構造と一脈相通じるものがあるように思われる。たとえば、日本は商工をもって立ち、米国やソ連は士農工商を兼備し、多くの発展途上国は農をもって立っている[16]

必要あれば、産油国に対して「油乞い」もしなければならず、時には七重の膝を八重に折っても「武士」に許しを乞わねばならぬこともあるであろう[17]

もう一つは、リチャード・ローゼクランスの「貿易国家」(1986年)である。

一方には、ソ連と(ある程度)までアメリカを主役とする、ルイ十四世の時代にまでさかのぼる領土主義の世界があり、他方には、大西洋と太平洋の周辺に形成された、一八五〇年代のイギリスの政策に由来する海洋主義と貿易の世界がある。―中略―海洋主義と貿易の世界に属する国々は、自給自足が幻想であることを認識している。貿易が比較的自由で開放的でありさえすれば、経済を発展させ生活の必需物資を手に入れるのに新しく領土を獲得する必要はない、と考えている。今日の西ドイツと日本は、一九三〇年代に武力で獲得しようとした原材料と石油を、国際貿易で手に入れ、平和のうちに繁栄している[18]

いずれの考察も米ソの衰退が喧伝されていた1980年代に発表された。当時は、軽武装で経済を優先するいわゆる吉田ドクトリンの立場から、軍事偏重の米ソを冷ややかに見る風潮が特に日本で強かった。その一方で、非大国が協力して、良いグローバルガバナンスが維持できるかには戒める意見があった。「フリーライダー(ただ乗り)」と日本は批判され、ウォルツが説くような大国の統制力への畏敬が残っていた。21世紀の今日においても、大国によるガバナンスか?、小国によるガバナンスか?、という問いは未解決である。


[1] リカードウ、『経済学および課税の原理』、上巻、羽鳥卓也、吉澤芳樹訳、岩波書店、1987年、191-192ページ。

[2] カール・マンハイム、「イデオロギーとユートピア」、『マンハイム オルテガ』、高橋徹訳、第4版、中央公論社、1988年。

[3] カール・マルクス、『資本論』、1、岡崎次郎訳、大月書店、1972年、33ページ。

[4] ジャグディシュ・バグワティ、『保護主義』、渡辺敏訳、サイマル出版会、1988年、23、35ページ。

[5] David Lazer, “The Free Trade Epidemic of the 1860s and Other Outbreaks of Economic Discrimination,” World Politics, 51 (4) (1999), p. 473.

[6] Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 40.

[7] フリードリッヒ・リスト、『経済学の国民的体系』、小林昇訳、岩波書店、1970年、60ページ。

[8] Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes, p. 40.

[9] Cobden to Henry Ashworth, April 12, 1842, quoted in John Morley, The Life of Richard Cobden, 13th ed. (London: T. Fisher Unwin, 1906), pp. 230-231.

[10] Norman Angell, The Great Illusion: A Study of the Relation of Military Power in Nations to Their Economic and Social Advantage, 1911 (New York: Garland Publishing, 1972), pp. 46-47.

[11] 石橋湛山、『小日本主義 石橋湛山外交論集』、増田弘編、草思社、1984年、108-109ページ。

[12] Robert O. Keohane, “Institutional Theory and the Realist Challenge After the Cold War,” in David A. Baldwin, ed., Neorealism and Neoliberalism: The Contemporary Debate (New York: Columbia University Press, 1993). Joseph M. Grieco, “Anarchy and the Limits of Cooperation: A Realist Critique of the Newest Liberal Institutionalism,” in Baldwin, ed., Neorealism and Neoliberalism: The Contemporary Debate.

[13] ケネス・N・ワルツ、「国家間の相互依存という神話」、C・P・キンドルバーガー編、『多国籍企業―その理論と行動』、藤原武平太、和田和訳、日本生産性本部、1971年。Kenneth N. Waltz, “The Myth of National Interdependence,” in Charles P. Kindleberger, ed., The International Corporation (Cambridge: M.I.T Press, 1970), pp. 205-223.

[14] ワルツ、「国家間の相互依存という神話」。Waltz, “The Myth of National Interdependence,” pp. 205-223.

[15] Robert O. Keohane and Joseph S. Nye, Power and Interdependence, 2nd ed. (New York: HarperCollins, 1989), p. 14.

[16] 天谷直弘、『日本町人国家論』、PHP研究所、1989年、45ページ。

[17] 天谷、『日本町人国家論』、48ページ。

[18] リチャード・ローズクランス、『新貿易国家論』、土屋政雄訳、中央公論社、1987年、25-26ページ。

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集団安全保障
https://youtu.be/py3TVxAbaL8 集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。 集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦…
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なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
開発独裁
https://youtu.be/kJWpeD5WVaE 開発独裁は、政府と人々が同じ開発の夢を見ている間は幸せである。夢を共有できなくなれば、それは単なる独裁にすぎない。経済成長のない独裁は悲惨である。煎じ詰めれば、独裁者個人のための搾取であるからである。今回のテーマは、冷戦期および冷戦後の途上国における国家主導の開発と国有化をガバナンスの観点から論じなさい、である。 アジア・アフリカ諸国の独立後、新植民地主義という言葉が…
Geminiさんの答案 研究各論(国際政治学)2024年後期
どこか一つの国をとりあげ、その国の地政学的な特徴を軍事・安全保障の観点から具体的に議論しなさい。 提出回答:ポーランドの地政学的特徴と安全保障 ポーランドは、歴史的に「欧州の戦場」と呼ばれてきました。その理由は、この国が持つ独特の地形と、大国に挟まれた配置という地政学的宿命にあります。軍事・安全保障の観点から、以下の3点を中心に議論します。 1. 「北欧州平原」という地形的脆弱性 ポーランドの国土の大部…
領土保全
https://youtu.be/f6AEKT52dDg 領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸…

世界システム

中世イタリアの物語『デカメロン』はペストの流行から避難する話である。この流行は何年もかけてユーラシア大陸を横切り、物語が始まった1348年には、エジプトからヨーロッパに広まったところであった[1]。2009年のインフルエンザ・パンデミック(H1N1)はメキシコから、2020年のコロナウイルス・パンデミック(COVID-19)は中国から、あっというまに全世界に広まった。地球はもはや一つの感染システムである。

今回のテーマは世界システムである。その概念と歴史を国民国家と市場に言及しながら説明してみよう。

まずは、システムという概念に注目する。『広辞苑』によると、「複数の要素が有機的に関係しあい、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合体。組織。系統。仕組み。」とある[2]。ソーラーシステムは英語で「太陽系」のことで、発電装置のことではない。太陽系は単なる物体としての星々の集合体ではなく、恒星の周りを惑星が公転する、とか、惑星の周りを衛星が回る、とか「全体としてまとまった機能を発揮する要素の集合体」である。

世界システムは宇宙を含むか?、という問いはチャレンジングである。イーロン・マスクであれば、イエス、と言うであろう。しかし、彼はふつうでない。大多数の人々の意識が向かう先は地球上にかぎられる。多数決に従えば、世界システムは大気・海洋・陸から成る地球と生物を含む生態系である。人間活動に着目すれば、政治・軍事のサブシステム、経済・生産のサブシステム、そして社会・人格のサブシステムに分けられる。

国境線は宇宙からは見えないが、世界システムの理解にきわめて重要である。なぜなら、主権国家とそれらのネットワーク、すなわち国際システムこそが基本枠組みであり、世界の動きを考える際の手がかりであるからである。侵すことのできない国境が主権国家の領域をとり囲み、例外として、南極や公海といった共有地、そしてパレスチナのような線引きできないでいる紛争地帯がある。

中世には、これは違っていた。全国レベルの支配者は、狭い所領を一所懸命と守る封建領主に反抗され、不安定な存在であった。彼または彼女は宗教勢力とも権力を分かち合わなければならなかった。生産力は低く、王さえ、強大な軍隊をいつも手元に置いておけなかった。徒歩や馬での移動は妨害に遭いままならず、地の果ての安全はドラゴンや鬼などの魔物によって阻まれた。

近代では、暴力によって国土を分裂させるような反抗は常態でない。生産力は上がり、中央政府の実効支配は地の果てに及ぶ。ヒト・モノ・カネ・情報の移動を妨げる土着勢力はもはやない。

近代世界システムの概念が生まれるきっかけを作ったのは、フランス史アナール学派のフェルナン・ブロデルである。彼の『世界時間1』という本に、ヨーロッパ「世界-経済」の拡大を示す図が載っている。正距方位図法で描かれた世界地図の上に引かれた海上交易路の線は、1500年では地中海・大西洋・北海・バルト海をつなぐだけであったのが、1775年には大西洋とインド洋の一帯に伸び、中国とメキシコの間の太平洋航路も点線ながら描かれている[3]

ヨーロッパ世界拡大のクライマックスは、新大陸の征服であった。そのテーマでは、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』が読まれている。今のペルーにあったインカ帝国はスペイン人に滅ぼされた。168人のスペイン人にインカ軍8万人が敗れたのは、持ち込まれた天然痘、鉄の武器、そして馬のせいであった。さらなる根本原因は、ユーラシアが南北アメリカよりも動植物が多様で、面積が大きく、人口が多く、地理的な障壁が低いからであった。つまり、凶悪な病原菌への抵抗力がつき、人を乗せて戦うのに適した動物が進化できた。また、大規模な文明の誕生が早く、人々の経験が蓄積し、鉄器が発明された。ユーラシア大陸のなかでも世界の主導権を握りえたのは、政治的に統一されておらず、それゆえに文明の硬直化が起きていなかったヨーロッパ諸国であった[4]

さて、世界システム論といえば、イマニュエル・ウォーラーステインの名前が思い浮かぶ。彼の認識枠組みは近代社会の特徴をうまく言い当てている。経済と政治をその広がりによって国民単位と世界単位に分けた。理論的には、国民経済、世界経済、国民国家、そして世界帝国の四つの類型があることになる。現実の近代世界システムは、このうち、世界経済と国民国家の組み合わせであり、国民経済として単独で存立したり、世界帝国として自己完結したりはしない。一国において不足した資源があれば、通常、世界経済のなかで、貿易によって市場をつうじ、調達される。歴史上、国民経済を拡大して帝国を作ろうとする試みがあった。しかし、ナポレオン帝国とヒトラーの「生存圏」といったものはいずれも失敗した[5]。日本の満州・モンゴルの「生命線」もそうなった。ドナルド・J・トランプのMAGAはどうであろう?

資本主義世界経済論もまたウォーラーステインの研究を魅力的にしている。他の従属論と呼ばれる学派では、先進地域と開発途上地域とに世界を二分するのが普通であるが、彼の場合は、中核、半辺境、そして辺境に三分する。生産要素や原料が生産される段階から最終生産物が売られる段階までの一連の流れを、商品連鎖というが、先進的な地域である中核と開発途上である辺境との間を半辺境が結びつけ、中核と半辺境の間、そして半辺境と辺境の間で不等価交換が発生する。マージンの大きい商品は先進的な中核で生産される。投資は利潤が目的であるから、マージンの大きい商品の生産に集まり、やがてその商品は過剰生産になり、最終的には、マージンの小さい辺境あるいは半辺境の生産物に転落してしまう。転落が起きる前に技術革新を成し遂げた地域のみが、中核の地位を維持し続ける[6]

具体的な製品を想像すれば、世界システム論に同意できるかもしれない。白黒テレビはカラーテレビに駆逐され、カラーテレビはハイビジョンに追いやられ、ブラウン管は液晶・有機ELパネルに取って代わられた。電話では、はじめに固定電話があり、携帯電話が現れ、スマートフォンが広まった。古くなったテクノロジーでも、半辺境の国で作られ続け、安い価格で売られている。

この理論の面白いところはほかにもある。一つは半辺境という地位を設定することにより、従属論のように先進地域と開発途上地域との格差は広がる一方でないことが織り込まれたことである。1980年代から1990年代、アジアNIES(新興工業経済地域)のような新興国をうまく説明できると世界システム論は評価されたものである。それから、やはり当時、はやっていた大国の興亡論とともに、技術革新が国家の栄枯盛衰と関係あることを人々に意識させた。

再度、ブロデルに注目したい。彼は時間を三つに分けた。一つは「事件(エベーヌマン)」である。自身の言葉では「歴史的大事件と並べて、日常生活の平凡な出来事、たとえば火事、鉄道事故、小麦価格、犯罪、芝居、洪水」と表現されている。二つ目は「変動局面、重合局面(コンジョンクテュール)」である。これは1回きりの出来事ではなく、「10年、四半世紀、―中略―半世紀」にわたり、「価格曲線、人口動態、賃金動向、利率変化、生産調査―中略―厳密な流通分析」といった統計をつうじて認識される。三つ目は「長期的持続(ロングデュレ)」であり、 何世紀にもわたる。それはゆったりとした歴史の大きな枠組みであり、「構造」、「地理的束縛」、「ラテン文明」などと記述されることがある。資本主義もそうした一種の文明である[7]

ブロデルの時間観はウォーラーステインの研究に大きな影響を与えた。特に、変動局面に相当するコンドラチェフの波に、二人とも注目した。それは経済活動の上下運動でありながら、いわゆる景気循環よりも周期が長く、半世紀を1周期とするので、長期波動とも呼ばれる[8]

ウォーラーステインは、覇権国の交代とコンドラチェフの波とを結びつける。新しいテクノロジーの活用によって成長の波に乗った国は、世界戦争に勝って覇権国になる。覇権国は突出した海軍力によって世界貿易を支配する。やがて覇権に挑戦する国が現れるが、次の覇権が誰に帰するかは世界戦争の過程で決まる[9]。コンドラチェフの波は半世紀周期で、覇権国は1世紀が単位であるため、この相関関係を実証するだけのデータが足りない。また、フェリペ二世のスペインやルイ十四世およびナポレオンのフランスといった陸の覇者を外してよいのか?、あるいは、三十年戦争や七年戦争を覇権戦争としないのか?、といった論者による理論構成の違いがある。覇権循環論は科学と呼べるほどの緻密さはないが、興味深い歴史哲学である。

上のように近代世界システムは非常に大きな分析枠組みであり、本書の内容はほとんどそこに収まってしまう。本書は重商主義から自由主義に転換して以後を扱うが、その前史に触れておく。

大航海時代の駆動力は貴金属(金銀)の略奪と採掘であった。略奪と採掘が一段落すると、経済取引によって貴金属を得ることが目的になった。貴金属の蓄積を優先する経済政策を重商主義という。輸入を制限し、輸出を奨励すると、金貨と銀貨が手元に残る。しかし、航路と植民地は海賊と敵国に狙われるので、通商は海軍によって守られなければならなかった。軍事費をまかなうためにも、貴金属が国庫から尽きないことが必要であった。通商、海軍、そして植民地経営を総合的に行ったのが、フランスの財務大臣であったジャンバティスト・コルベールであった。

イギリスも、航海法によって貿易を規制した。第1に、輸出入は自国の船で行わなければならなかった。第2に、植民地は本国としか貿易できなかった。植民地側は反発し、アメリカ十三植民地の独立を招くことになる。第3に、高い輸入関税が課せられた。これらの保護主義政策はライバルのオランダから海軍と植民地を守るのが目的であり、自由貿易の父アダム・スミスさえ支持した[10]

スミスの『諸国民の富』(1776年)は、重商主義の全盛期に著された。彼の自由貿易論が実現したのは七十余年後、彼の死後のことであった。一つには平和が、もう一つには国内政治の変化が必要であった。そこに至るまでの道のりは「相互依存」の回で述べる。 では、18世紀後半までは、持続可能な選択の自由に、何も進展はなかったのか? そうではない。国民国家が主役となったのは、封建領主がもはや個人を縛ることができなくなったからである。領主に個人の内面を縛る力を貸してきたローマ教会が弱体化したのが原因であった。個人の知的レベルは上がり、聖職者は人々の疑問に答えられなくなった。科学者ガリレオ・ガリレイは物理現象をよりよく説明した。個人は経済活動や娯楽に関してまで、聖職者の言うことを聴くのは窮屈であったし、国家の側は、領主と教会から権威を奪って、実効支配を強化した。ともに力を高めた個人と国家であったが、両者のバランスは時とともに変化することになる。それはこれから述べる国際政治経済の一大テーマである。


[1] ボッカッチョ、『デカメロン』、上、平川祐弘訳、Kindle 版、河出書房新社、2017年。

[2] 新村出編、『広辞苑』、第5版、岩波書店、1998年、1171ページ。

[3] フェルナン・ブローデル、『世界時間1』、村上光彦、みすず書房、1996年、20-21ページ。

[4] ジャレド・ダイアモンド、『銃・病原菌・鉄』、上、倉骨彰訳、草思社、2012年、153、327ページ。

[5] I・ウォーラーステイン、『史的システムとしての資本主義』、川北稔訳、岩波書店、1997年。

[6] ウォーラーステイン、『史的システムとしての資本主義』。

[7] フェルナン・ブローデル、「長期持続」、井上幸治編、『フェルナン・ブローデル 1902~1985』、新評論、1989年、15-68ページ。

[8] ブローデル、『世界時間1』、93ページ。イマニュエル・ウォーラーステイン『脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界』、本多健吉、高橋章訳、藤原書店, 1993年。J・S・ゴールドスティン、『世界システムと長期波動論争』、岡田光正訳、世界書院、1997年、346ページ。

[9] ゴールドスティン、『世界システムと長期波動論争』。

[10] アダム・スミス、『諸国民の富 (三)』、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1965年、72ページ。

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ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題
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帝国主義
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主権国家によるガバナンスが失敗しているのであれば、別の類型のガバナンスによって置き換えるべきでないか? エスニック集団間で激しい紛争が起きたならば、その国の中央政府に公平な仲介者としての役割を期待するのは難しい。外国、例えばアメリカ合衆国、にそうした役割を求めることもあるが、紛争当事者が望まない場合がある。そこで、国際連合の出番になる。今回のテーマは、国際連合その他の国際的枠組みによる平和活動の起…

第二次世界大戦

1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。

第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、先行したのは枢軸国の形成であった。その呼び方はローマとベルリンの枢軸を叫んだベニト・ムッソリーニの演説に由来する。

枢軸国陣営の独伊以外への広がりは、防共協定への参加をつうじて行われた。防共協定は1936年に日本とドイツがコミンテルン、すなわちソビエト連邦、に対抗する目的で結ばれた。話し合って連携することを協議というが、その古い言い方が「協商」であり、防共協定は戦争への参加を約束する軍事同盟ではなかった。共産主義から国を守る、とは実は建前で、勝ち組になりたいのが本音の多数派工作であったと理解すべきである。

近代日本の最大の過ちが防共協定と三国同盟への参加と言って過言でない。三国同盟は軍事同盟であり、1940年に日本、ドイツ、そしてイタリアにより結ばれた。日本にとっては大東亜共栄圏を建設する際、他国の妨害を抑止するための弾除けのつもりであったろう。実際には逆効果で、英米は日本を信頼しなくなり、戦争準備に取り掛かった。交渉による和解は難しくなった。

防共協定は日独伊にとどまらず、多くの国に広がった。枢軸国にはユダヤ人への迫害や経済協力といったほかの共通の政策もあったものの、最も一般的であったのが防共政策であった。

防共政策をとる国の多くは非民主的な体制であった。ハンガリーは摂政という変わった肩書のホルティ・ミクロシュによる独裁のもとにあり、ファシスト政党の矢十字党が台頭した。ルーマニアも似たり寄ったりで、イオン・アントネスクの軍事政権がヒトラーの同盟者としてソ連と戦った。ブルガリアは国王ボリス三世の独裁下にあったものの、対ソ戦争には参加しなかった[1]

フィンランドは、その領土を狙うソ連に抗して冬戦争および継続戦争を戦った。同国は防共協定に加入したものの、ユダヤ人迫害には加担しなかった。

ピブーンソンクラーム政権のタイは、日本軍による東南アジアへの進撃に場当たり的に対処して、日本との同盟を選んだ。それにもかかわらず、戦後、連合国から旧敵国に数えられず、外交巧者の名を高めた。

対する連合国の結成は、真珠湾攻撃によって一気呵成に進んだ。翌1942年に発せられた連合国宣言は、三国同盟加盟国との戦争に軍事的・経済的な貢献をし、単独講和しないことを約束した。この宣言は米英ソ中を筆頭署名国とし、当初は26か国であったのが最終的には48か国にふくらんだ。国連憲章を採択するためのサンフランシスコ会議に参加するのに日独への宣戦布告が条件とされたためである。

第一次世界大戦では、米州とアジアのたいがいの国が中立を維持したにもかかわらず、第二次大戦で中立を選んだ世界の国は一握りにすぎなかった。交戦国の側には、中立国の存在は利用価値があった。そこに行けば敵国の外交官が駐在しており、接触することができた。それゆえ、ベルンやストックホルムは和平交渉の舞台になった。また、敵国における自国の資産を管理してもらう利益保護国の役目を中立国の在敵国大公使館に依頼した。

スイスは永世中立国の地位を人道活動のために利用した。ジュネーブに本部を置く赤十字国際委員会のメンバーはスイス人であるので、交戦国からそうした活動が許された。また、スイス政府はアメリカ合衆国の利益保護国として、枢軸国における財産と国民を保護した。さらに、首都ベルンには日本公使館もあったので、終戦をめぐってアメリカ合衆国は日本側と接触ができた。このダレス工作が実を結ばなかったのは、もう一つの中立国であったソ連の仲介に日本が一縷の望みをかけていたからであろう。

スウェーデンも19世紀初め以来、戦争に参加せず、板についた中立国であった。第二次世界大戦では日本の利益保護国を務めた。陸軍将官の小野寺信が同地で和平工作をしたことが知られる。

教皇庁は19世紀にローマを接収されて以来、イタリア政府と対立した。1929年にムッソリーニとラテラノ条約を結んだことにより、教皇庁はバチカン市国として領土を有する独立国の地位を得た。同条約で中立の義務を負ったことで、バチカンにはイタリアの敵国も外交使節団を派遣した。

第二次大戦中には、教皇庁にこれまで外交使節団を派遣してこなかった日本、アメリカ合衆国、そして中華民国が外交官を派遣するようになった。バチカンはただの中立国でなく、精神的な価値を唱えるカトリック教会の総本山である。ナチスによるホロコーストを見て見ぬふりをした、と戦後は非難された。ただし、アイルランド出身のヒュー・オフラアーティのように、捕虜とユダヤ人を救う活動をした教皇庁外交官もいた。

スペインは内戦でドイツとイタリアから軍事援助を受け、枢軸国寄りであった。しかし、ヒトラーとの同盟には応じず、中立国であった。主な連合国は内戦中、フランシス・フランコの勢力を支持しなかった過去があり、外交関係の正常化に及び腰であった。

スペインはムッソリーニとヒトラーの敗北には巻き込まれなかったものの、戦後、国際連合から排除された。1946年、総会で採択されたスペイン排斥決議A/RES/39は、フランコ政権の国連加盟を支持しないよう加盟国に勧告した。スペインは1955年に加盟を果たしたものの、孤立を脱したのはフランコが死んだ1975年になってからであった。

同じく独裁的な中立国ポルトガルも戦後、共産国から外交関係を拒否された。領土のアソレス諸島が大西洋上の中継地であったことから、米英との関係は悪くなかった。アフリカ東岸モザンビークもポルトガル領であったが、敵地に残留していた連合国と枢軸国の外交官・領事官・民間人はそこで交換されている。冷戦が始まると、原加盟国としてNATOの結成にポルトガルは参加した。

ソ連は1941年6月まではヒトラーのパートナーであり、東ヨーロッパの分割にあずかった。また、1945年8月に対日参戦するまで、日本にとっては中立国であった。同地駐在の佐藤尚武大使は連合国との講和の周旋を打診したが、すでに参戦の意を固めていたソ連に拒絶された。

その一方で、リベリアのような戦闘に加わらなかった国でも、連合国宣言に署名したものがあった。旗幟を明らかにするよう圧力がかけられたからである。永世中立国でもなく、中立を貫いたアイルランドとアフガニスタンは珍しい存在であった。

1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことをもって第二次世界大戦は始まった。電撃戦、すなわち戦車による突破と急降下爆撃による支援、は著しい成功を収めた。奇妙な戦争と呼ばれた静かな時期をはさみ、1940年5月、ドイツ軍はベルギーとフランスのアルデンヌの森を突破した。不意を突かれた英仏軍は翌月、ダンケルクからブリテン島に撤退した。7月には、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリスとの航空戦が始まった。戦闘機スピットファイアの健闘に出ばなを挫かれたヒトラーは上陸作戦を見合わせた。

他方、日中戦争は1937年に始まっていた。中華民国の介石総統が拠点とする重慶を日本軍は攻略できなかった。英領ビルマから援蒋ルートを通って送られる武器が日本の勝利を阻んだ。蒋を倒せないまま、日本は南京に汪兆銘を主席とする国民政府を樹立した。

日本は八方ふさがりであった。ソ連に対しては、1939年のノモンハン事件で苦戦した。1932年に建てた満州国は米英から承認されなかった。

ソ連と戦う北進と、東南アジアへと向かう南進の選択に日本は直面した。北進については1941年4月、日ソ中立条約を結んだことで可能性は消えた。南進を選べば、東南アジアに植民地を持つ米英との衝突は避けられなかった。近衛文麿総理大臣は野村吉三郎を駐米大使に充て、アメリカ合衆国との対立を解消しようとした。ところが、日本は今のベトナムに含まれる南部仏領インドシナを占領するという、和解とは矛盾する行動をとった。

1941年10月に東条英機が総理大臣に就いた。翌月、アメリカ合衆国は、中国からの撤兵など日本が受諾不能な内容であるハル・ノートを手渡した。

12月7日の日本による最後通牒は真珠湾攻撃に間に合わなかった。実松譲の著書から引用する。

午後二時二十分、ハル国務長官は野村、来栖の両大使と会見したが、白髪温容の彼の顔からは日頃の微笑が消え失せ、苦々しい表情を押へきれない様子であった。野村大使が「午後一時に此の覚書を貴長官に手交するよう訓令を受けた」と述べたところ、ハルは「何故に午後一時か?」と訊ね、野村は「何故なるかを知らず」と答えた。長官は我が覚書を一読した後、非常に激怒した面持で、「自分は過去九ヶ月間常に信実を語って居った。斯くの如く偽りと歪曲に満ちた公文書を見たことがない」と語った[2]

ドイツは何を目指したのであろうか? 新秩序という言葉が当時、はやっていた。ドイツはヨーロッパの完全制覇を前にして「大ドイツ帝国」と改称した。世界征服が実現したら、アメリカやアジアのユダヤ人までナチスは絶滅したであろうか? それは無謀で無意味な目的である。

東亜新秩序は日本が掲げた政策目標であった。1938年末、近衛が声明したものである。東亜とは日本・満州・支那から成るブロックのことで、支那は南京国民政府を指した。これを東南アジアまで発展させたのが大東亜共栄圏である。1940年夏に北部仏領インドシナの占領に先立ち、松岡洋右外相が談話した。

開戦後の1942年には占領地の拡大に合わせて、政府の担当部署を統合し、大東亜省を設けた。大東亜会議は米州のパンアメリカン連合をまねたものであろう。1943年、東条英機総理大臣と重光葵外相のもと、東京で開催された。操り人形と蔑まれながらも、南京国民政府、満州国、フィリピン、ミャンマー、タイ、そしてインドの代表を集めた意義はあった[3]

結論を言えば、ドイツも、日本も、戦争目的は地域レベルの秩序を自らが好むように作り直すことにあった。そうした目的は、国内統治の正統性がナチスと翼賛体制になかったがゆえに、それを補うべく、むりやりひねりだされたものであった。

第二次世界大戦の勝敗は、他のあらゆる戦争と同様、兵士、兵器、作戦、諜報、補給、そして政治リーダーシップの優劣で決まった。しかし、ここですべてを論じるわけにはいかない。見落とされがちな諜報について、それがいかに大事であったかだけを述べる。

諜報の大きな柱はヒュミントとシギントである。ヒュミントは生身の人間が敵地で情報を集めることである。シギントは電波や光などの信号を分析して敵情をつかむことである。

ゾルゲ事件はヒュミントの例である。リヒャルト・ゾルゲはソ連の赤軍第四部に所属するスパイであった。ドイツ人新聞記者の隠れ蓑をかぶり、ナチス党員の身分を得た。駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼をえて大使館内に個室まであてがわれた。日本人の協力者は、近衛文麿のブレーンであった朝日新聞記者尾崎秀実やアメリカ共産党員宮崎与徳であった。

ゾルゲの凄腕を示すのは、独ソ戦の開戦日をほぼ正確に予告したことである。また、日本は北進でなく、南進するであろうことを探り当てたことも見事であった。モスクワがいかにそれを活用したかはともかく、戦略立案の参考となる情報であったことはまちがいない。彼は1941年に逮捕され、1944年に死刑に処された。日本の要人の一族にまで逮捕は及び、防諜の失点となった[4]

アラン・M・チューリングはシギントの例である。数学者としての彼は1936年にチューリングマシンを考案したことで知られる。第二次世界大戦中はイギリスの政府暗号学校(ブレッチリーパーク)に勤務した。ドイツは暗号機エニグマで通信を暗号化し、安全性に自信を持っていた。チューリングの部署は機械を使ってそれらを迅速に解読し、連合国の勝利に貢献した。ところが戦後、彼は同性愛罪で有罪になり、自殺してしまった。この悲劇は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』の題で映画化された[5]

日本に対する暗号解読を担当したのはアメリカ合衆国であった。OSS(戦略サービス局)は電信傍受・解読をはじめ、さまざまなスパイ任務を遂行した。これが戦後にCIAへと発展する。

1942年から翌年にかけて、戦いはクライマックスを迎えた。1941年6月の独ソ戦がヨーロッパではそれに当たる。結局、レニングラード、モスクワ、そしてスターリングラードの防衛線をドイツ軍は抜くことができなかった。

勝敗への影響もさりながら、独ソ戦の特徴は、領土といった講和条件をめぐってせめぎ合う通常戦争から逸脱した点にある。第1に、それは収奪であった。これはヒトラーの生存圏論に端を発した。占領した地において、石油、穀物、そして家畜をドイツ軍は略奪した。第2に、それは絶滅であった。ナチスは捕まえた共産党政治将校とユダヤ人を全員殺害した。第3に、国際法を顧みず、捕虜を虐待した。第4に、レニングラードの兵糧攻めなどで飢餓が発生した。これらの結果、戦闘以外で数百万人が死亡した。

1943年2月、スターリングラードで逆包囲されたドイツ軍が降伏し、ソ連側が攻勢に転じた[6]。他の戦線でも、ヒトラーの快進撃は終わった。アフリカでは「砂漠のキツネ」ことエルビン・ロンメルがエジプトに拠点を置くイギリス軍と一進一退の攻防をしていた。1942年には、リビアからイギリス軍を駆逐するところまでいったものの、翌年、現地のドイツ軍はイギリスに一掃された。

日本も支配地を急速に広げたものの、限界の訪れは早かった。1942年6月のミッドウェイ海戦に敗れてからは守勢をしいられ、ガダルカナル島の戦い、インパール作戦、そしてレイテ沖海戦と連戦連敗に陥った。

「失敗の本質」を作戦レベルの問題に求めるのが戦後は主流である。すなわち、兵力の逐次追加、陸軍と海軍の不連携、中央と現地のコミュニケーション不足、そしてコンティンジェンシー・プランの欠如といった点が批判された[7]。作戦がましであったとしても、勝てはしなかったであろう。本当の「本質」は戦前・戦中における軍隊への度を越した信頼であり、反戦を叫ぶ勇気ある者がいなかったことであった。

勝敗を超えた絶滅戦争であったこの大戦に、法はあったのであろうか? ホロコーストはナチス・ドイツによるユダヤ人の殺戮であり、アウシュビッツなどの絶滅収容所において実行された。国家による「最終的解決」として行われたのは1941年以降である。

連合国の側では、ローズベルトの四つの自由演説に見られるようにユダヤ人を保護する動きがあった。絶滅の現場では収容所が解放されるまで、実業家のオスカー・シンドラーのようなライティアス・ピープルまたは「義人」が自発的にユダヤ人を救うしかなかった。

特に、特権免除を持つ外交官・領事官はそうしたことをしやすい立場にあった。杉原千畝は日本の在カウナス領事館領事代理であった。彼は迫害から逃げるユダヤ人に通過ビザを発給した。ドイツのポーランド侵攻により、ユダヤ人たちは安全な地に逃げようとさまよっていた。カウナスのあるリトアニア自体が1940年6月にソ連に併合されていた。

ラウル・G・ワレンバーグは中立国スウェーデンの外交官であった。在ハンガリー公使館に勤務し、救出を行った。ユダヤ人を公使館保護下の家にかくまい、スウェーデンのパスポートを発給した。ところが、ソ連の赤軍により逮捕された後、行方不明になってしまった。

日本軍による戦争犯罪で目立つのは捕虜の虐待である。なかでも「バターン死の行進」はアメリカ合衆国の対日感情を大きく悪化させた。1941年、日本軍に投降し、収容所に移動中の多数の米兵・フィリピン兵が死亡した。ビルマにおける泰緬鉄道の建設では、強制労働させられた多くの連合国軍捕虜が死亡した。映画『戦場にかける橋』では、この鉄道を爆破するイギリスの特殊工作が描かれる。

逆に日本人の捕虜も人道的といえない待遇を受けたが、勝者は罰せられなかったので、戦後、不公平感を抱く日本人は少なくなかった。好例はシベリア抑留である。日本兵・軍属など約60万人がソ連とモンゴルに抑留され、強制労働に従事した。

その他の日本の戦争犯罪には、南京を攻略した日本軍が民間人を多数殺害した南京事件、731部隊による生物兵器の使用と人体実験、インドネシアでオランダ人女性を慰安婦にしたスマラン慰安所事件などがある。

連合国の側にも、ドイツ系住民の追放、ドレスデンや東京への戦略爆撃、広島・長崎への原爆投下など非人道的な行為があった。世界大戦においては国際法が守られる保証はない。こちらが守りたいと思っても、相手が守らなければ引きずられるからである。

戦後処理は1943年から本格化した。1943年11月、米英中首脳がエジプトのカイロで会談した。対日戦はアメリカ合衆国が中心となって進めていたため、満州を含む中国から日本を追い出すスティムソン・ドクトリンとハル・ノートが基礎となった。台湾は中国に返され、朝鮮は独立することもカイロ宣言で謳われた。

1943年の11月末から翌月にかけ、ローズベルト、ウィンストン・チャーチル、そしてヨシフ・スターリンがテヘランで会った。しかし、ヨーロッパでは、英米とソ連が、それぞれどこを占領するか定まっていなかった。

1944年の夏にはフランスとルーマニアが連合国の手に落ちた。あとは東ヨーロッパとドイツをどうするか、が課題であった。

歴史の後知恵で、東ヨーロッパはソ連圏に組み込まれることを私たちは知っている。この年の10月、チャーチルはモスクワを訪れてスターリンと会い、パーセンテージ協定に合意した。これはバルカン半島の諸国に対して、ギリシャとユーゴスラビア以外は、ソ連の影響力が勝ることを確認する結果になった。占領した国がその土地に対して影響力を持つ、というのは分かりやすいと言えば分かりやすいが、アメリカ合衆国には異論があった[8]。同国にとっては、勢力範囲の画定でなく、あくまで自由が戦争の目的であることになっていた。

ヤルタ会談は1945年1月から2月にかけ開かれた。ドイツは分割して占領することを決めた。ロシアが占領したポーランドは自由選挙をすることにした。日本との関係では、カイロ宣言の内容に加え、南樺太、千島列島、そして満州の諸権益をソ連が得ることを認めた。かわりに、ソ連は対日参戦を約束した。ヤルタ体制という言葉は、大国によるヨーロッパの分断という意味で使われる。ドイツは分割され、ポーランドの自由選挙はついに行われなかった。分断への動きを止められなかった、という意味であれば、この会談はその汚名に値する。

4月30日、アドルフ・ヒトラーが自殺した。5月8日に、ドイツは降伏文書に署名した。

7月から翌月にかけ、ベルリン郊外の町ポツダムで連合国の首脳会談が持たれた。占領下にあったドイツに関して、賠償、占領、そして国境の重要な決定がなされた。もめたのはポーランドの親ソ政権を承認するかの問題であった。もちろん、日本に降伏を求めたポツダム宣言も公表された。

日本軍は3月に始まった沖縄戦が6月に終息すると、本土決戦のための決号作戦を準備した。しかし、8月に入っての広島・長崎への原子爆弾投下とソ連の参戦により、御前会議はポツダム宣言の受諾を決めた。8月15日、玉音放送が流され、9月2日、降伏文書が署名された。


[1] 矢田俊隆編、『東欧史』、新版、山川出版社、1977年。

[2] 実松譲、『幻の最後通牒』、五月書房、1995年、151ページ。

[3] 外務省外交資料館日本外交史辞典編纂委員会、『日本外交史辞典』、山川出版社、1992年。山本有造、『「大東亜共栄圏」経済史研究』、名古屋大学出版会、2011年、22ページ。

[4] F・W・ディーキン、G・R・ストーリィ、『ゾルゲ追跡』、上、下、河合秀和訳、岩波書店、2003年。

[5] アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、上、Kindle 版、勁草書房、2021年。アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、下、Kindle 版、勁草書房、2021年。Morten Tyldum, Benedict Cumberbatch, Keira Knightley, and Matthew Goode, Imitation Game, [s.l.]: Twentieth Century Fox Home Entertainment, 2015.

[6] 大木毅、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』、岩波書店、2017年。

[7] 戸部良⼀、寺本義也、鎌⽥伸⼀、杉之尾孝⽣、村井友秀、野中郁次郎、『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』、ダイヤモンド社、1984年。

[8] コーデル・ハル、『ハル回顧録』、宮地健次郎訳、中央公論新社、2001年、237ページ。

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Geminiさんの答案 研究各論(国際紛争)2023年後期
パレスチナをイスラエルから独立させて国家として扱うのと、現在の自治を維持または拡大するのとでは、どちらが真の平和に近づくと考えますか? あなたの答えとその答えを選んだ理由を書きなさい。 私の答え:パレスチナを独立国家として扱うこと 私は、現在の自治の維持や拡大よりも、**パレスチナをイスラエルから独立させて「国家」として扱うこと(二国家解決)**の方が、長期的には「真の平和」に近づくと考えます。 その答え…
ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題
(表紙の画像はAIによって作成された) 軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼と政治家…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。 教科書での関連する記述 教科書 また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン…
ゲーム理論
ゲーム理論におけるプレイヤーはエゴイスト、つまり、自分の利益をできるだけ大きくしようとする者、である。エゴイストが複数いて、それぞれ、どの選択肢をとるか、を考える。エゴイストは利益になれば協力し、ならなければ協力しない。今回のテーマは、国際政治における協力は得か損か、場合分けしたうえで、ゲーム理論の用語を使って議論しなさい、である。 ゲーム理論の先駆者といえば天才の評判があるジョン・フォン・ノイマ…
期末試験チャレンジ 研究各論(国際政治経済)2024年度前期
読み込んでいます…
機能的国際機構
https://youtu.be/b8ERLTL_dyI 「人間というものは、なんらかの社会的紐帯ですでに結ばれている程度においてしか、平和の欲求をもたないものである」とエミール・デュルケムは言う[1]。個人をメンバーとするグローバル社会のきずなは家族ほどには緊密でない。人種や言語の壁がある。国家をメンバーとする国際社会のきずなも平和を保証するまでではない。国々は軍隊を養い、戦争に備えている。であるので、国際連盟や国際連合の安…

領土保全

領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸国および国際連盟の対応について具体例を挙げながら論じなさい、である。

第二次世界大戦の原因は、領土を奪われ、「持たない者」になったドイツの不満が募り、ベルサイユ体制に挑戦したことにあるとされる。実際、かつてドイツの領土であったダンツィヒは両次大戦間期には自由市となり、戦後はポーランド領のグダニスクになった。ダンツィヒを囲む西プロイセンの一部はベルサイユ条約でポーランドに割譲され、ポーランド回廊と呼ばれた。さらに北では、旧ドイツ領メーメルがクライペダと改称されてリトアニア領になった。上シュレジエンは住民投票によってドイツとポーランドに分割され、ポーランド名のシロンスクで知られるようになった。独領であったエルザス・ロートリンゲンとは現在の仏領アルザス・ロレーヌのことである。

不満であったのはドイツだけでなかった。オーストリアハンガリーの領土は原形をとどめず切り分けられた。フィウメはイタリアとユーゴスラビアの取り合いになった。かつてのテッシェンであるチェシンはポーランドとチェコスロバキアに分割された。

おまけに、ロシアから独立した国どうしが争うようになった。リトアニア語でビリニュス、ポーランド語でビルノは、言語を異にする二つのエスニック集団間で奪い合いになった。

争いの一因は、T・ウッドロウ・ウィルソン合衆国大統領が唱えた民族自決の原則にあった。新しい国境の線引きは十分な調査に基づいたわけでなかった。次の文章はパリ講和会議における日本代表の一人であった牧野伸顕の回想である。

―前略―ルーマニア、ホンガリア、ユーゴースラヴィアもみな国境の変更を見た。―中略―前以て関係国の間に相談を纏めることは不可能であり、結局国境問題は、当事国側の意見も聴き主張も聴いたけれども、最後の決定は最高会議で極めてしまって、それを条約の本文に書入れたのである。媾和会議の最後の日にこの条約の全部を総会の議に附したとき、関係国は初めて自分の国境がこうなったということを知った[1]

フィウメをめぐる争いの経過はその後の歴史を暗示するものであった。国境線に不満な民族主義者は直接行動に訴えて人気を博す。さらに、その危険な正体に気づかない体制側に取り入り、政権を奪う。最後に、大衆を動員して全体主義を徹底し、権力を永続化する。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオというイタリア人作家が私兵を率い、勝手にフィウメを占領してしまったのは1919年のことである。翌年にはイタリアとユーゴスラビアの間にラパッロ条約が結ばれ、フィウメは自由市とされた。ダンヌンツィオ自身はイタリア政府軍によって排除されたが、同じ手を使って、ベニト・ムッソリーニが率いる黒シャツを着たファシストの私兵が1922年にローマに進軍し、政権を握った。2年後、イタリアとユーゴスラビアはフィウメを分割し、市街はイタリア領に組み入れられた。第二次世界大戦でムッソリーニは処刑され、1945年にフィウメはユーゴスラビア領とされ、リエカという名前になった。

領土の不満が詰まったヨーロッパという伏魔殿のフタがベルサイユ条約であり、軍事力という重しで押さえることが不可欠であった。ベルサイユ条約が用意した処方箋はラインラントの非武装化であり、国境の外に撃ってでるまえに、内側を制圧する手間をドイツに負わせた。しかし、それはドイツが強い軍隊を再建するまでの時間稼ぎであった。

強い軍隊とバランスをとるには、強い軍隊で対抗するのが確実である。実はそうした協定を戦勝国は準備していた。ライン川以西にドイツ軍を進ませないための英仏保障条約と米仏保障協定に、ベルサイユ条約と同じ日、署名していたのである。ところが、アメリカ合衆国の連邦議会はベルサイユ条約の批准を拒否し、上の2本の約束も発効しなかった。

将来、現実となるかもしれない強いドイツにどうすれば対抗できるのか? 一つの答えは同盟であった。特にフランスはベルサイユ条約の擁護者として、自らを中心とする安全保障システムを張りめぐらした。

フランスはドイツを囲むため、その北西のベルギー、東のポーランド、そして東南のチェコスロバキアと個別に防御同盟を結んだ。本来、東部戦線では、北方の熊というべきロシアがフランスのパートナーとなるはずであったが、共産主義のソビエト連邦は仲間外れにされていた。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島では、フランスは小協商を支援した。それはチェコスロバキア、ユーゴスラビア、そしてルーマニアの3国間の防御同盟である。しかし、フランス語でプティタンタントといい、華奢な印象を与えるその同盟は、ドイツという猛虎と張り合うには、さしずめウサギの群のように頼りなかった。

そうこうしているうちに、1922年、ヨーロッパに衝撃が走った。つまはじきにされたドイツとソ連がラパッロ条約を結んで、手を握ったのである。同じラパッロという海辺の観光地で結ばれたものの、イタリアとユーゴスラビアとの条約とは別物である。表向きの内容は相互の賠償放棄と外交関係再開であったが、秘密付属書はドイツ軍をソ連で訓練するというベルサイユ条約違反のきな臭い約束を含んでいた。

ドイツと対抗しなければならない、という固定観念は1923年にはフランスとベルギーによるルール地方の占領と国際連盟における相互援助条約の交渉を引き起こした。1924年になると、より宥和的な姿勢がドーズ案やジュネーブ議定書の交渉となって現れた。敵を封じ込めるという考えがもともとなかったアメリカ合衆国だけでなく、イギリスまでも、フランスの執念と一線を画するようになった。

フランスとドイツの和解として名高いのが1925年のロカルノ条約である。このスイスの町の名を冠した条約は、複数の条約から成り立っていた。その中心は、ドイツの西部国境とラインラントの非武装化をイギリス、イタリア、ドイツ、フランス、そしてベルギーが相互に保障する条約である。ドイツが軍隊をラインラントに入れたり、さらにベルギーやフランスに越境したりすることがこれに違反する(もちろんベルサイユ条約にも違反する)。また、ドイツとベルギー、またはドイツとフランスとの戦争も禁じられる。つまり、違反国になりうるのはドイツだけでなく、ベルギーとフランスにもその可能性があった。違反国に対し、イギリスとイタリアを含めた他の全締約国が協力して戦うことが定められている。

保障条約を支えるのが、ドイツを一方の締約国とする二国間仲裁条約の束である。他方の締約国は同国と境を接するチェコスロバキア、フランス、ベルギー、そしてポーランドである。戦争の原因となりうる紛争は仲裁法廷または常設国際司法裁判所に付託されて解決されると期待される。

ロカルノ条約はヨーロッパ諸国に友好的な雰囲気を醸しだした。ドイツには経済の混乱から立ち直る休息の機会が与えられ、1926年には国際連盟にも加盟した。フランスのアリスティード・ブリアン外相とドイツのグスタフ・シュトレーゼマン外相に、ノーベル平和賞が与えられた。

和解の空気が頂点に達したのは1928年にパリ不戦条約が結ばれた時である。日本語の正式名称は「戦争抛棄に関する条約」である。抛棄は「ほうき」と読む。締結の端緒を開いたフランスとアメリカ合衆国の外相の名をとって、ブリアン・ケロッグ条約とか、ケロッグ・ブリアン条約とか呼ばれることもある。日本を含む当時の主要6か国とベルギー・ポーランド・チェコスロバキアが署名に臨み、ほとんどの国が加入した。内容は第1条に尽きるので、それを引用する。

締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス

読んですぐに分かるように、日本国憲法の第9条の雛型とされる。すなわち第1項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という部分である。不戦条約は個人の刑事責任を問う規定を含まないにもかかわらず、日本の政治指導者たちをA級戦犯として裁く根拠となった。戦後日本の原点と言ってよい。

ところが、招かれなかった国があった。ソ連である。深い孤立感を抱いた同国は周辺国とリトビノフ議定書を取り決めた(1929年)。続いて、中立条約・不可侵条約を個別に結び、1933年には侵略定義条約を結んだ。これらにおけるソ連のパートナーはポーランドやバルト諸国であった。周辺諸国との平和を固めておくことは、陸上の国境で囲まれたソ連またはロシアにとって伝統的な政策である。

1932年に至ると、ソ連は西ヨーロッパの資本主義国であるフランスとも不可侵条約を結んだ。大恐慌により先行きに不安を感じるヨーロッパ各国にとって、沈黙を守り、何を考えているか分からないソ連との同盟が現実の選択肢になりつつあった。

目をアジア太平洋に転じる。そこで領土保全の原則を定めたのは1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議であり、できた秩序はワシントン体制という。その柱である太平洋に関する四国条約と中国に関する九国条約はともに地域の領土保全を謳う。

ワシントン体制は国際連盟のような常設的な集団安全保障の機関は持たず、紛争は外交交渉か国際会議かによって解決することとされた。記すべきことは、日中戦争中の1937年、中国が提訴してブリュッセル会議が開かれたことくらいである。貧弱な制度であったにもかかわらず、太平洋に関する四国条約が発効すると同時に、日本にとって重要であった日英同盟は終了した。

満州事変にワシントン体制はいかに対処したろうか? 1931年9月18日の柳条湖事件から4か月後の翌年1月、つまり満州国樹立の2か月まえに発せられたのが、アメリカ合衆国のスティムソン・ドクトリンであった。日本軍は占領地を広げ、満州支配の既成事実を作っていた。それが中国に関する九国条約が定めた「中華民国の主権、独立、領土・統治権の保全、あるいは門戸開放政策」への違反であり、この違反を承認しない決意を表明したのがこのドクトリンであった[2]

スティムソン・ドクトリンは第二次世界大戦が終わるまで維持された。これによって、真珠湾攻撃直前の日米交渉で、中国を犠牲にして日米が宥和することが不可能になった。このように検討すると、アメリカ合衆国の不承認政策はむしろ全面的に勝利した、とも言える。

しかし、1945年までに失われた人命の損失を減らす別の方法はなかったか? アメリカ合衆国が採用したのは不承認主義でなく、単に孤立主義でなかったか? こうした疑問も吟味すべきである。

アジアで領土保全の原則がないがしろにされたことを見届けて、ヨーロッパ政治では地殻変動が始まった。総選挙でナチスが第1党になったのは1932年、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、全権を委任されたのは翌年であった。この年にドイツは「軍備平等」の要求が通らず、国際連盟を脱退した。次の年、大統領の死に伴い、ヒトラーは首相と大統領を兼ねて「総統」となった。

以後は報復の連鎖によって、世界大戦まで一気に進む。ドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。フランスはこれをドイツ包囲網の破れと捉え、ソ連との相互援助条約、すなわち同盟、を結んだ。ドイツは背信行為としてこれを受けとめ、1936年、ロカルノ条約を破棄し、軍隊をラインラントに華々しく進駐させた。その前年にドイツは再軍備を宣言しており、ベルサイユ体制の崩壊は決定的であった。

破綻を止めようとする動きがなかったわけでない。ヒトラーに対抗するため、英仏伊が共同戦線を張った。1935年のストレーザ戦線がこれである。イタリア北部のストレーザという町に面したマッジョーレ湖に浮かぶ島にボッローメオ宮殿があり、首脳たちが集まった。

こうした試みを無に帰したのが、イタリアによるエチオピア侵攻である。1935年暮れ、思わぬことが起きた。本来ならばエチオピアの領土保全を守るはずのイギリスとフランスがイタリアと裏取引をしようとした。両国ともアフリカに植民地を持っていたので、イタリアに有利に領土を交換し、エチオピアという国を形だけ残そうとしたのである。これは善意に発したかもしれないが、帝国主義の秘密外交そのものであった。

ベルサイユ体制から脱落した日本・ドイツ・イタリアが共闘関係になるまで時間はかからなかった。スペイン内戦は1936年、フランシスコ・フランコの反乱軍がモロッコから海を渡って上陸し、政府側の共和国軍と戦闘になった。フランコ軍には独伊が、共和国軍にはソ連が付き、他は中立を保った。ゲルニカへのドイツの空爆はパブロ・ピカソの名画を生んだ(1937年)。

ヒトラー自身の侵略は1938年に始まった。その3月、独墺合邦が行われた。オーストリアとドイツが一つになることはベルサイユ条約で禁止されたことであった。次の標的はチェコスロバキアであった。その北西部のチェコ語ではズデティ、ドイツ語ではズデーテンという地方にはドイツ系の人々がいて、分離してドイツに帰属したい、と運動した。これに応えてヒトラーが同地方の割譲をチェコスロバキアに求めた。

1938年9月にミュンヘン会談が開かれた。ヒトラーとムッソリーニに加え、イギリスのネビル・チェンバレン首相とフランスのエドゥアール・ダラディエ首相がテーブルに着いた。割譲はもちろん領土保全の原則に反する。いまさらながら、ベルサイユ条約はドイツに厳しすぎる、という世論もあった。これが最後のヒトラーへの妥協であると決意し、チェンバレンとダラディエも割譲を認めるミュンヘン協定に署名した。

ズデティと平和を交換する宥和政策は翌年の1939年3月に破綻した。ヒトラーはチェコスロバキアの解体を実行した。チェコ全体がドイツの保護領にされ、スロバキアは切り離されて独立国とされた。つまり、英仏は騙されたのである。

ミュンヘン協定の結果、東ヨーロッパはドイツとイタリアの勢力範囲に落ちた。前者のヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と後者のガレアッツォ・チアノ外相は好き勝手に国境線を引き直した。それは一応、仲裁という形はとったが、実際には枢軸国による命令であった。日記にチアノは「ドナウとバルカンにおける仏英のいかなる影響力も永久に失墜させる」と狙いを書いた[3]

1938年の第1回ウィーン判断は、分離されたスロバキアからさらにその南部をはぎ取り、ハンガリーにこれを与えた。1940年の第2回ウィーン判断は、ルーマニアのトランシルバニア地方をやはりハンガリーに割譲させた。民族自決と言えば正義のようであるが、実際はえこひいきであった。なぜなら、トランシルバニアの割譲された土地にはルーマニア系住民の比率が高い地区が含まれたからである[4]

1939年、ついに独伊が正式な同盟を締結した。これがいわゆる鋼鉄同盟である。すでに1936年、日独防共協定が結ばれ、イタリアとハンガリーも加入していた。鋼鉄同盟の前の年に、ムッソリーニは「ドイツとイタリアはヨーロッパが盲目的に運命を託したユートピアに背を向けてきた。他国をも含めて、正義、安全、そして平和のより実効的な保障を平等に回復する国際親善体制を模索するためである。」と演説していた[5]。ベルサイユ体制は非実効的で、不平等であったかのような言いようである。では、実効的で、平等な体制とはいかなるものなのであろうか? ぜひ聞きたい。

エドワード・H・カーの『危機の20年』はその一つの答えであった。戦後の版では消されているが、第二次世界大戦が始まる直前に書かれた初版において、宥和政策をこの「名著」は称賛している。「1938年9月2日のミュンヘン協定に至る交渉は、平和的変更の手続きによる一大国際争点の処理に、近年では最も近いアプローチ」と述べる。軍事力をはじめとする力こそ、発言力の強化につながり、現実を作り出す、という彼の現実主義理論であれば、ヒトラーであれ、ローズベルトであれ、スターリンであれ、老練な力の使い手を称賛したとしても不思議はない。しかし、「ヨーロッパにおける実力の均衡の変化と、国際道徳の受け入れられた正典の両方に一致した」と彼は続けて言う。ヒトラーに道徳まで期待したのは、カーの無い物ねだりでなかったろうか?[6]

大戦への最終局面は独ソ不可侵条約であった。ソ連の中立を確かにしたうえで、ドイツは東への征服を進めることができた。実際、署名日の1939年8月23日から9日後にポーランドへの侵攻が始まっている。

単にドイツを利するために、ソ連は不可侵条約に応じたわけでなかった。それには秘密付属議定書が付けられ、ドイツが攻めるポーランドだけでなく、東ヨーロッパ全体を両国で山分けすることが書かれていた。長らく、ソ連は秘密付属議定書の存在を否定していた。第二次世界大戦はスターリンの罪でもあったことを認めたくなかったからである。

これまで見てきた両次大戦間期の歴史は、領土保全の原則が一たびないがしろにされれば、国際社会は紛争で満ちあふれ、収拾がつかなくなることを教える。それにもかかわらず、パレスチナをはじめ、ナゴルノカラバフ、コソボ、南オセチア、アブハジア……、といくつもの問題が起きている。2014年に発生したウクライナでの紛争は2022年になって世界秩序を揺るがすまでになった。領土保全を誰が保障するのか?、という問題は現代における未解決の問題である。なぜなら、国際連合は拒否権を有する五大国の単独行動に対して実効的な手を打つことができないからである。


[1] 牧野伸顕、『回顧録』、下巻、第4版、中央公論社、1992年、194ページ。

[2] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、176-177ページ。

[3] Galeazzo Ciano, Diary 1937-1943 (New York: Enigma Books, 2002), p. 149.

[4] Silviu Dragomir, La Transylvanie avant et après l’arbitrage de Vienne (Sibiu : Centrul de Studii Şi Cercetări Privitoare la Transilvania, 1943), pp. 10-11, 15.

[5] Monica Curtis, ed., Documents on International Affairs, 1938, vol. II (London: Oxford University Press, 1943), p. 32.

[6] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 282.

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平和的紛争解決
国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…
対外政策
単なる印象としての対外政策論 対外政策論はそれだけで一つの科目になる。意義も、内容もある。アメリカはこうだ、中国はそうだ、ロシアはああだ、日本はどうだ、と素人がやる。多くは的を射ている。 https://amzn.asia/d/0bhZiNbn プロがそれをやったらどうなるか?、というのがハロルド・ニコルソンの『外交』だ。ニコルソンはイギリスの外交官だが、紳士服のモデルのように見かけのよい人だ。まぁ外交官というものは見かけで説…
人身売買
https://youtu.be/hvD0L3wud-g どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともあ…
非核地帯
非核地帯とは核兵器の非武装地帯である。そこには核兵器はないので、核攻撃の発源地にはならない。この意味で平和に貢献するともいえるが、核攻撃の目標にはなりうるわけで、その抑止を希望するのであれば地帯外の国に抑止力を期待しなければならない。もちろん、抑止を希望しない場合にそうした必要はないが、被弾の不安がなくなることが条件である。不安を取り払うことは簡単でないわけで、やはり何がしかの努力が必要である。…
中東戦争
中東戦争は第一次から第四次まで数えられるが、そうした呼び方は日本独特のものである。欧米とイスラエルは、順に独立戦争、スエズ戦争、六日戦争、そしてヨムキプール戦争と呼ぶ。アラブ人は第一次をナクバ、第四次をラマダン戦争と呼ぶ。四つの戦争がひとからげにされるのは理由のないことでない。いずれもイスラエルとエジプトが交戦国に入っていた。今回のテーマは、シオニズムおよびアラブ・ナショナリズムと中東戦争との関…

集団安全保障

集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。

集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦状態はこの敵が武装解除されるまで続けられる。

国際連盟ができるまでの二百年間、そのような国家間の連合が本当にできるのか?、は人類最大の難問であった。これに、可能である、と納得できる説明を与えたのがカントである。

1795年に公刊されたカントの『永遠平和のために』は社会契約論における「自然状態」の論法を利用する。自然状態というのは架空の世界であり、この場合、諸国家はいまだに社会を成さず、ゆえに法も秩序もなく、ただ、にらみ合っている。自然状態では、国家はいつも戦争の口実を探している。理性が命じるのは、戦争を断固として処罰することを諸国家の義務とすることである。よって、すべての戦争を永遠に終結させる平和連合が存在しなければならない[1]

ここで注目すべきであるのは「理性が命じるのは」というくだりである。カントは以上の論理が理想にすぎないことを自覚している。しかし、彼は太陽系の起源について星雲説を唱えた科学者であったように、単なる理想主義者でない。

国家を強制して平和連合に加盟させることはできない、とカントは認めて、それが形成される別の過程を考える。平和連合に喜んで入る国は本性上、平和を愛する国である。そのような国は共和国である。こうした共和国が中心となって、諸国家が数珠つなぎになって平和連合を形成していく。共和国だけでなく、君主国も加わっていくであろう。こうして、平和連合は遠くにまで広がっていく[2]。これは現実に平和連合が形成されるであろうシミュレーションにほかならない。

1冊の『永遠平和のために』が二つの意味を持つことが分かったろう。一つは集団安全保障の理想であり、多国間の国際機構を作って、違反国を制裁する構想である。これは国際連盟や国際連合の設計図となった。もう一つは「民主主義の平和」であり、民主国間の同盟により侵略を抑止する構想である。こちらはNATOや日米安全保障条約の理念である。

今回のテーマは、同盟の問題点と集団安全保障の理想との関係について第一次世界大戦前後の例を引きながら論じなさい、である。国際連合の時代については「集団安全保障と自衛権」の回で扱われる。

国際連盟の設立に至るまでには、第一次世界大戦とそれに先立つ外交があった。19世紀後半、ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは巧みな外交手腕を発揮し、フランスを孤立させることに成功した。彼は1872年の三帝同盟によりロシアとオーストリアハンガリーを味方とし、1879年の独墺二国同盟でオーストリアハンガリーとのきずなを深め、1882年の独墺伊三国同盟をつうじイタリアをフランスに対抗させた。オーストリアハンガリーの同盟国であるドイツは、この同盟国がロシアと仲違いすると、巻きこまれないよう、1887年にロシアと再保障条約を結んだ。

ところが、辞任したビスマルクに替わって外交の指揮を執った皇帝ビルヘルム二世は成果を台無しにした。露仏同盟が1894年に結ばれ、逆にドイツは包囲される側になった。19世紀末に日本公使としてロシアに駐在した林董は次のように振り返る。

仏露同盟は、久しき前より世に聞こえたる所なるが、仏大統領訪問の時露帝が仏艦にて午餐の饗応を受けられし際の演説に於て、初めて我同盟国の語を公に用いられたりと云う[3]

つまり、露仏同盟は秘密条約であった。秘密といってもバレバレなのではあるが、秘め事を作る行為によって、国家間の疑心暗鬼を深めた。その後、林董は駐英公使になり、日英同盟を1902 年に締結することになる。なぜ、イギリスとの同盟が必要であったのか? 林は自らが清に赴任した際に起きた三国干渉に、その理由があるとした。彼の解説を引用する。

我輩は、日清戦争後、欧羅巴の列強合縦の結果が、極東に影響を及ぼし、三国干渉となって我に圧迫を加えたことを、直接に経験したのであるから、日本の孤立が到底不可能であるを感ずるの念も、特に痛切であったから、是非とも合縦の策を講ずるの必要を認め、―中略 ―「外交の大方針を定む可し」と題する一篇の論説を起草し、―中略―『時事新報』の社説に載せられたのである[4]

20世紀に入ると、同盟をめぐる世界の動きは激しくなった。1904年に英仏協商が結ばれた。日露戦争後に日本とロシアは接近し、1907年の日仏協商・日露協商・英露協商によって、露仏同盟と日英同盟が合流する形になった。これで第一次世界大戦の協商国対同盟国の対立構図ができあがった。

サラエボ事件と七月危機は外交史で最もよく取り上げられるテーマの一つである。オーストリアハンガリーの帝位継承者フランツフェルディナント大公がサラエボの町で、セルビア人青年により射殺された。オーストリアハンガリーにとっては、帝位継承者が暗殺されただけで屈辱である。オーストリアハンガリーは、犯行に使われた銃はセルビア軍将校から供与されたものと主張し、陰謀加担者を裁判し、それに自国の代表も参加させることなど要求した。セルビア側がこの要求を拒否したために、戦争の危機におちいった。

7月28日、オーストリアハンガリーはセルビアに宣戦布告をした。セルビアはヨーロッパの片隅である。なぜ、ここから世界大戦に発展したのか?

セルビアはロシアと同じスラブ民族であり、ロシアとしては見捨てるわけにいかなかった。ロシアとオーストリアハンガリーが戦争になれば、後者はドイツの同盟国であるので、今度はロシアとドイツが戦争になるであろう。実際、ドイツが、同盟責務を果たすつもりだ、とオーストリアハンガリーに伝えたのは、早くも7月5日であった。オーストリアハンガリーに和戦の選択を委ねたので、歴史家はこれを「白紙委任状」と呼ぶ。

ドイツとロシアが戦争になれば、後者との同盟義務にしたがい、フランスがドイツと戦争になる。全ヨーロッパを爆発させた火薬庫の導火線がサラエボ事件であったのはこうした理由による。

とはいえ、セルビアが攻撃されて、すぐにロシアは戦争にとりかかったわけでなかった。局地戦争で止めようと思えば、どこかで止められたかもしれない。それを妨げたのは、同盟の義務と軍事計画であったとされる。同盟の義務とは上で述べた「白紙委任状」のことである。軍事計画の弊害については、ドイツのシュリーフェン・プランの問題が知られている。

ドイツ陸軍の参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは露仏同盟に対応した作戦を立案した。ロシアも、フランスも、世界屈指の軍事大国であった。いくらドイツといえども、それらを一手に引き受けるのは容易でなかった。歴史家バーバラ・W・タックマンの文章を引用する。

彼が引退した一九〇六年に立案を完了したシュリーフェンの計画によると、戦争の期間は六週間とし、ドイツ軍の八分の七をフランス粉砕につかい、仕事がすんでこのドイツの大軍が引き返して来るまで、ロシアという第二の敵を東部戦線にくいとめておくために、残り八分の一を割り当てようというものだった。―中略―ドイツもフランスも動員完了には二週間あれば足りる。動員第五日目には大攻撃戦を開始できる態勢にある。―中略―ロシアは面積が広く、人口が多いうえに鉄道が少なく、大攻撃を開始するまでに六週間はかかる。それまでにはフランスを負かすことができるというのである[5]

実際には彼の引退後、シュリーフェン・プランは本来のものから手直しされた。とはいえ、ドイツが、難事業を遂げるためには先手を打たなければならない、と思いつめていたことは変わらない。

ロシアの立場になってみれば、国土が広大であるがゆえに、兵隊を動員して前線に連れてくるまでに長い時間が必要である。それゆえ、やはり先手先手で動かざるをえなかった。

7月31日にロシアが総動員令を発したことは、ドイツにとってはロシアを急いで片づけなければならないことはもちろん、その同盟国であるフランスとの戦争が不可避になることをも意味した。それゆえ、ドイツは8月1日にロシアに、同3日にフランスに対して宣戦布告した。「動員は戦争を意味する」、すなわち、ロシアの総動員がヨーロッパ大戦を決定づけた、と言われるのはこのためである。

イギリスは日英同盟以外では、戦争に参加する義務を負わなかった。それにもかかわらず、イギリスは第一次世界大戦に引きずり込まれることになった。理由は意外なところにあった。ドイツがベルギーの中立を侵した、というのである。フランスとドイツが直接、国境を共有しているところでは、ドイツの侵攻に対してフランス軍が迎え撃とうと身構えていた。そこで、ドイツ軍は守りが手薄なベルギーを横断して、フランス領に侵入した。

確かに、ベルギーを永世中立国としたのは、1839年に結ばれたロンドン条約であった。その名称からも分かるように、オランダから独立したばかりのベルギーに、イギリスが肩入れして結ばれたものであった。名誉を傷つけられたというのは、当時の感覚では戦争事由になりえた。ただし、数百年前からこのかた、大陸ヨーロッパの統一を防ぐのがイギリスの勢力均衡政策であったから、中立侵犯は後付けの理由であった。

8月7日にイギリスと同盟を結ぶ日本が参戦した。真意は疑いなく、ドイツがアジアと太平洋に持っていた領土と利権を奪うためであった。ヨーロッパへの派兵は申し訳程度に行われた。

ドイツのシュリーフェン・プランは、パリを目の前にしたマルヌでの戦闘でドイツが敗れたことで挫折した。ロシアには、タンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍が勝利を収めたものの、全体の戦況は膠着した。1916年におけるソンムの戦いは決戦というにふさわしい大会戦であったものの、イギリスの攻勢は死体の山を築いただけで、勝敗を決するには至らなかった。

こうして、セルビアに対する局地戦争は全ヨーロッパを巻き込む大戦争へと拡大した。

アメリカ合衆国が1917年、参戦して、ヨーロッパ大戦は名実ともに世界大戦になった。合衆国の戦争事由は、貨物船ばかりか旅客船をも含むUボート、すなわちドイツの潜水艦、による無差別攻撃であった。戦況は協商国側に有利に傾き、話題は戦後構想に移った。

T・ウッドロウ・ウィルソンは、再選を賭けた1916年の大統領選挙で、ヨーロッパの戦争に自国を加わらせないために市民が選んだ候補者であった。翌年、ウィルソンが探し出した戦争に介入する口実が「勝利なき平和」であった。彼は、勝者と敗者の不平等な講和でなく、軍縮のような永遠の平和をもたらす講和を提案した。自陣営の英仏はすでに多くの兵士が命を失っていたのに、「勝利なき平和」で両国民は納得できたであろうか?

ウィルソンの提案は1918年、14か条にまとめられた。その1は公開外交であり、「公開の平和の規約」を求めた。その4は「各国の軍備が国内の安全を満たすだけの最低限度に削減される十分な保障の取り決め」である。最後の14番目は「大国か小国かを問わず、政治的・経済的独立と領土保全の相互保障を与える目的で具体的な規約のもと作られる諸国民の一般的結びつき」である。これらが国際連盟規約と軍縮条約をもたらすことになる。

ウィルソン的な理想主義はアメリカ外交全般の傾向であるとも言われる。有名なのはジョージ・F・ケナンの『アメリカ外交50年』における解説である。

外国政府に勧めて、崇高な道徳的・法律的原則の宣言に署名させることによって、われわれの外交政策上の目的を達成しようとする傾向は、アメリカの外交のやり方に強力かつ永続的な力を及ぼしているように思われる[6]

実際には、ウィルソンの理想主義は他の交戦国との交渉が始まる前から後退していた。彼はハウス大佐という個人的な友人を対外的な交渉者に任じた。停戦の直前、ハウスは14か条の後退を許してもらおうとウィルソンに問い合わせた。公開の規約は秘密交渉を排除しない、とか、公海の自由といっても封鎖はよい、とかは残念ではあるが後退が必然的な事項であった。しかし、イタリアに南ティロルを、イギリスにパレスチナ・アラビア・イラクを、ギリシャにイズミルを、といった他国の領土要求の容認は「勝利なき平和」の大義名分を台無しにした[7]

パリ講和会議は1919年の1月から6月まで開かれた。議事を牛耳ったのは戦勝国の諸大国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、そして日本であり、最高理事会と称された。その他22の主権国家も会議に参加した。交渉はケドルセー、すなわちパリのフランス外務省、で進められたものの、合意の署名式は郊外のベルサイユ宮殿「鏡の回廊」で行われた。

平和の基盤となるべきベルサイユ条約は15編から成る。第1編は国際連盟規約であり、以下、ドイツとヨーロッパに関する規定が続き、第13編にILO(国際労働機関)の憲章が組み込まれた。

集団安全保障という観点では、ベルサイユ条約のなかでも国際連盟規約、特に戦争の違法化と制裁に関わる部分が問題となる。「締約国は 戦争に訴へさるの義務を受諾し」という一節があるのであるが、それは前文、つまり法的拘束力がないところ、に書かれている。これが当てにならないということが、後に不戦条約が作られる原因となった。

他方、侵略を許さない、ということであれば第10条が国際連盟のバックボーンである。条文を示すと、「聯盟国は、聯盟各国の領土保全及現在の政治的独立を尊重し、且外部の侵略に対し之を擁護することを約す」とある。確かに、後段は違反国への制裁を約束している。

この規約第10条が積極的に適用されれば、満州事変も、エチオピア侵攻も、チェコスロバキア解体も、連盟は対応できたはずである。それができなかったのは、軍事力が心もとなかったからで、連盟規約そのものの問題ではなかった。軍事力が足りなかったのは後で見るようにアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。

連盟規約の特徴の一つは、平和的紛争解決のために第12条から第15条までの条項を充実させたことである。ただし、それらは加盟国間の紛争にかぎられた手続きである。

国際連盟による紛争の平和的解決は、外交交渉がうまくいかなければ仲裁または司法的解決に、それらもうまくいかなければ理事会による審査で解決する、というものである。理事会の審査においては、その場で解決できなければ、報告書に勧告を記す。勧告は紛争当事国以外の全会一致によって合意あるものとなり、それを遵守する国と戦争することは禁じられる。紛争当事国のいずれかが要求すれば、紛争の審査は総会に回される。当事国は仲裁判断・常設国際司法裁判所判決・理事会報告書が出てから3か月間は戦争に訴えてはならない。

以上のとおり、連盟による平和的紛争解決の手続きは窮屈なくらい緻密に作られていた。理想主義が法律主義的と評されるのはこのためである。

リットン審査委員会、またはリットン調査団、は満州事変に関しての理事会審査の過程で設けられた。1931年9月18日に柳条湖事件が起きた。南満州鉄道の線路が何者かにより爆破されたと伝えられたが、実は日本の関東軍による自作自演であった。これに乗じて、関東軍は翌日、大都市の奉天を占領した。日本は当初、こうした軍事行動は領土獲得を目的としたものではないとし、撤退の方針を明らかにしていたため、連盟の理事会はその主張を承認した。

ところが翌年、満州国が樹立され、紛争は長引いた。リットン審査委員会の報告書は1932年9月に署名された。内容は、第1に線路の爆破は軍事行動を正当化しない、第2に連盟の指導のもと満州の自治と中立を実施する、というものであった[8]。その趣旨は満州を国際管理下に置くことにあり、中国側による主権の主張とも完全には一致しなかった。

満州事変の審査は理事会から総会へと移されていたが、リットン報告書よりも厳しい決議が1933年2月に採択された。それが不満で、日本代表の松岡洋右は退場した。数日後に、日本は連盟からの脱退を通告した。

当時の日本は大国とみなされていたが、大国を一方の当事者とする紛争解決は連盟でなくても簡単でない。連盟の対応で問題であったのは、極東情勢への介入をその後やめてしまったことである。連盟から脱退した国との紛争解決やそうした国への制裁がやりにくい、という規約の欠陥を、悪しき形式主義が助長してしまった。

平和的紛争解決が失敗すれば、制裁を国際連盟はすることになっていた。それが定められた連盟規約第16条は問題が山積であった。まず、制裁の対象は紛争解決の手続きを守らずに戦争した国だけであった。紛争解決の義務があるのは加盟国だけであるから、非加盟国は制裁の対象にならない、とも主張できてしまう。つぎに、制裁の内容である。きちんと書かれているのは通商・金融関係の断絶と交通の防止だけであり、腰が引けた印象を与える。そうした関係断絶や交通防止に使う兵力の分担は理事会が勧告することになっていたが、海軍と空軍で往来を遮断する程度の、とても全面戦争とは呼べない制裁が想定されていた。

これらの懸念が現実になったのがイタリアへの制裁であった。イタリアは現在のソマリアの南部を植民地としていた。そこと境を接するエチオピアは当時、アビシニアと呼ばれ、連盟国であった。

1934年、ソマリアとエチオピアの境界付近でイタリアとエチオピアの武力衝突が起きた。これをワルワル事件という。翌年、両者に事件の責任はない、という仲裁判断が出た。真の紛争解決は、ワルワルがどちらの領土に属するか?、を判断するものでなければならなかったはずである。

このように中途半端な解決が図られた挙句、その2か月後にイタリアはエチオピアに侵攻した。ただちに、連盟総会は、経済制裁を調整する委員会の設置を勧告した。その結果、金融制裁とゴム・すず・アルミ・マンガンの禁輸が実行された。禁輸品目には、鉄、石炭、そして石油といった本当の意味での戦略物資は入っていなかった。制裁の効果はなく、1936年にエチオピアは併合されてしまい、連盟の制裁は終了した[9]

以上のように、国際連盟の集団安全保障は、とりあえずは実行されるものの、手心が加えられ、実効性に乏しいものであった。仏作って魂入れず、の喩えどおり、大切であるのは手続きよりも意志であり、それがあれば第10条によって侵略に立ち向かうこともできたであろう。

サラエボ事件後の七月危機を反省して国際連盟規約は作られた。七月危機の原因である同盟政治は繰り返してならない過ちであった。規約の第20条は規約と両立しない連盟国間の条約は今後は結ばず、以前のものは廃棄する、と定めた。

例えば、A国とB国に紛争があって、これから理事会で審査しよう、という状況になったとする。本来は、現場や書類を調べて報告書に公正な勧告を書き込むべきである。しかし、第三者のC国がA国の同盟国であったとすれば、C国は審査結果を待たずにA国の味方となろう。A・C同盟が十分に強ければ、連盟は制裁を思いとどまるか、負け戦覚悟で制裁しなければならない。

このように、集団安全保障と同盟とは並び立たない。同盟を禁止するか、集団安全保障を同盟より優先するかしなければならない。連盟規約第20条の「功績」は、しいて言えば日英同盟を廃棄させたことにある。第二次世界大戦後、国際連合が同盟をどう扱ったかについては「集団安全保障と自衛権」の回で述べる。

2度目の世界大戦を国際連盟が防げなかった最大の原因は、提唱者であり、最強の国でもあったアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。では、なぜ加盟しなかったかというと、上院に反対派がいて規約を批准できなかったからである。反対派の一部はベルサイユ条約に留保を付して骨抜きにしようとした。その代表は孤立主義者として知られたヘンリー・C・ロッジ上院議員であった。さらに極端に、国際連盟自体が許せない、という和解不能派という議員たちもいた。代表はウィリアム・E・ボーラ上院議員であった。

孤立主義者たちがロッジ留保と呼ばれる留保を付けようとした条項はいくつもあった。なかでも、侵略に対して領土および独立を守るという第10条が激しく批判された。なぜなら、それは連盟理事会に侵略から守る手段を具申するように求めるからである。孤立主義者にとっては、戦争を宣言するのはアメリカ合衆国の連邦議会の権限であり、軍隊の最高司令官はアメリカ合衆国の大統領であることは自国憲法に書いてあって、妥協できなかった。言い換えれば、連盟が勝手に戦争を命じたり、軍事作戦を立てたりすることは国家主権の侵害であった。

第10条をめぐるもの以外でロッジ留保が要求された条項には、委任統治、国内管轄権、そして山東半島の権益があった。山東半島のものは、ドイツから奪った権益を日本が得ることに中国が不満で、アメリカ合衆国に働き掛けた結果であった。ウィルソンが任期を終えたのち、ボーラ議員が提案して開かれたワシントン会議で問題は話し合われ、日本は権益を返すことになる。それはともかく、ウィルソンがベルサイユ条約を守るために留保を許さなかったため、批准できなかった。

アメリカ合衆国が連盟に入らなかったせいで、軍事力による制裁の実効性は怪しくなった。「仲裁、安全保障、軍縮」の平和殿堂の三本柱が唱えられ、基本戦略の練り直しが行われた。このうち「安全保障」を強化しようとした1923年の相互援助条約草案が失敗してからは、「仲裁」に期待が寄せられた。仲裁に国際法上の紛争だけでなく、あらゆる紛争を付託するのを国家の義務としよう、というジュネーブ議定書が1924年に作成された。エドワード・H・カーは手厳しく当時の雰囲気を書いている。

抽象的な合理主義が優勢になり、だいたい1922年からはジュネーブの潮流はユートピア的な方角に力強く向いた[10]

もちろん、ジュネーブは国際連盟の本部があった町である。

国際連盟における集団安全保障の問題点を復習する。第1にアメリカ合衆国の不加盟、第2に理事会と総会の間の任務の重複である。満州事変とエチオピア侵攻の決議がともに総会で行われたように、何のために理事会が置かれているのか分からなくなった。第3に全会一致の議決である。もっとも、国際連合でも、安全保障理事会での拒否権によってしばしば決定が妨げられる似た問題がある。第4に脱退が容易であること、第5に軍事的な制裁が限定的であることである。これらの結果、加盟国は集団安全保障に不安を感じ、ふたたび同盟に頼っていくことになった。

その一方で、同盟にも欠点がある。ジョン・H・ハーツという学者が言った「安全保障のディレンマ」がそれである。ある国が軍拡に励んでも、他国も軍拡でそれに応じ、世界全体の軍備支出と戦時の犠牲者は増大する。あるいは、ある国が同盟の構築に励んでも、他国もまた対抗する同盟を構築する[11]。 やはり集団安全保障や軍縮は必要なのである。国際連盟の失敗を理想主義者の愚かさと片づけられない理由がそこにある。


[1] カント、『永遠平和のために』、宇都宮芳明訳、岩波書店、1984年。

[2] カント、『永遠平和のために』。

[3] 林董、『後は昔の記他―林董回顧録』、由比正臣校注、平凡社、1970年、284-285ページ。

[4] 林、『後は昔の記他―林董回顧録』、306ページ。

[5] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、上、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、6-7、61-62ページ。

[6] ジョージ・F・ケナン、『アメリカ外交50年』、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波書店、2000年、67ページ。

[7] Harold Nicolson, Peacemaking 1919 (Safety Harbor: Simon Publication, 2001), pp. 13-15, 34.

[8] 臼井勝美、『満洲国と国際連盟』、吉川弘文館、1995年。

[9] F. P. Walters, A History of The League of Nations, reprint (London: Oxford University Press,

1969).

[10] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan and co., 1940), p. 40.

[11] John H. Herz, “Idealist Internationalism and the Security Dilemma.” World Politics 2, no. 2 (1950): 157–80.

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平和的紛争解決

国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との関係を国際制度の変遷に言及しながら論じなさい、である。

国際の平和と安全を危うくするおそれがある紛争は平和的に解決しなければならない、と国連憲章第6章第33条1は定める。当事者どうしの交渉で解決できればよいものの、たがいに妥協を拒否してしまうとうまくいかない。そこで、第33条1は「審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他」を挙げて、平和的解決を催促する。これらはいずれも第三者を交えた過程である。それに続く第33条2・第34条・第35条・第36条は、安全保障理事会に第三者として紛争解決に関わってもらおうと設けられた仕組みである。

国際裁判の起源は諸説ある。古代ギリシャのアンピクテュオニアは有力候補の一つである。それは神殿への信仰に基礎を置くポリスの集団であり、日本語で「隣保同盟」と訳される。古代ギリシャの神殿というと、その一つで開かれたオリンピックを思い出す。諸ポリスは競技大会の開催中には休戦をした。また、デルポイのアポロン神殿は神託によってギリシャ世界の政治に大きな影響を与えた。日本の神社が祭りや武芸の奉納とならんで、神託や氏子の紛争解決を行ったのと同類のことである。アンピクテュオニアは確かにポリス間の紛争を仲裁した。しかし、宗教的な権威を背景とする点で現代の国際裁判と本質的に異なる。

中世の仲裁としては、ローマ教皇が行ったものが知られる。1493年、教皇のアレクサンデル六世は大西洋上に教皇子午線を引いた。「余は、福者ペテロにおいて余に与えられし全能の神の権威と、余が地上において執行するイエス=キリストの代理者職の権威において」、と彼はスペイン王に土地を与えた[1]。これに従うと、全アメリカはすべてスペイン側に入るはずであった。

ところが、海の覇者であったポルトガルは教皇子午線を認めなかった。1494年、ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約に合意した。この条約はブラジルをポルトガル側に組み入れた。ブラジルでポルトガル語が話されるのはこれが原因である。教皇の神通力はルネサンスによって衰え、近代の国際裁判は宗教的要素を極力、排することになった。

最初の近代的な国際裁判は1794年のジェイ条約によって付託された。英米間で委員会が作られ、領土紛争や個人の賠償事件を解決した。ただし、この「裁判」は今日的意味でのそれと趣を異にする。私たちは裁判というと、裁判所が存在し、裁判官がいて、そこに当事者が事件を持ち込めば手続きが始まり、法律に基づいて判決が出て、判決に当事者が従い、公的機関がそれを執行する、と考える。これは国際裁判においては司法的解決と呼ばれる方式に近い。

ジェイ条約に基づく国際裁判は司法的解決でなく、仲裁という方式のものであった。仲裁には大きく二つの特徴がある。第1に、事件の付託には当事国の同意が必要である。付託合意のことを、コンプロミーとフランス語起源の用語でいうことがある。第2に、常設的な裁判所に訴えるわけでなく、アドホックに、すなわち付託合意のたびに、裁判所が組織される。この二つ目の特徴は、仲裁人または仲裁裁判官は付託合意のたびに選ばれる、と言い直せる。ジェイ条約に基づく英米間の委員会は実はこの点で例外的であった。なぜなら、国際仲裁の場合は中立的な第三国の仲裁人にキャスティングボートを持たせるのが普通であるが、この委員たちは当事国である英米の国民であったからである。

仲裁の意義を世界に認めさせたのはアラバマ号事件であった。アラバマ号は南北戦争で合衆国の船を60隻以上も仕留めた南部連合の軍艦である。南部連合の軍艦は、リバプールなど中立であるはずのイギリス本国で建造されていた。アメリカ合衆国はこれを中立義務への違反と非難し、賠償を請求した。

英米は戦争の危機に瀕した。両国は1869年にジョンソン・クラレンドン条約を結んで、事件を仲裁に付託しようとした。ところが、条約は批准されなかった。合衆国の上院外交委員長であったチャールズ・サムナーが条約に反対したからである。

背景には、カナダがイギリス領であり、そこと接するアメリカ合衆国の北東部ニューイングランドに根強い反英感情が存在したことがあった。サムナーはマサチューセッツ州選出であった。

手詰まりを打開したのは政治情勢の変化であった。イギリスのウィリアム・E・グラッドストン首相は、普仏戦争に伴う他国の勝手な動きに対応できずにいた。他方、アメリカ合衆国ではユリシーズ・S・グラント大統領が目ざわりなサムナーの追い落としを狙っていた。政敵たちを出し抜こうと、グラッドストンとグラントはワシントン条約を1871年に締結した。

1871年のワシントン条約は領土、漁業権、私有財産、そして中立法に関わる事件を、ジュネーブに置かれた国際仲裁法廷に付託した。アラバマ号事件に対する仲裁判断は1,550万ドルの賠償金をイギリスに科した。参考までに、ロシアからアラスカを1867年にアメリカ合衆国が購入した代価は720万ドルであった。賠償額は戦争を防いだ「道徳的価値と比べれば、天秤のうえのホコリのようにつまらぬもの」とグラッドストンは自画自賛した。アラバマ号事件に触れた冒険小説の『八十日間世界一周』は、事件がいかに話題になったかを描く。

この「世界一周の件」は、あたかも新たなアラバマ号事件でも起きたかのごとき情熱と熱狂をもって論じられ、語られ、解剖された。ある者はフィリアス・フォッグの側についた。他の者は彼に反対の立場を表明し、この人々がほどなく圧倒的多数となるのだった[2]

ワシントン条約の成功は、国際仲裁への付託を増やした。1880年代から1930年代まで、それは主要な国際制度であり、戦争を避けることに貢献した。

日本もそうしたグローバルな傾向から自由でなかった。仲裁における日本の履歴は、苦力貿易の違法性を争った1873年のマリアルス号事件に始まった。これは勝訴と評価される。事実上の奴隷貿易を取り締まった行為はロシアの皇帝によって、合法と認められた。

続く1902年の家屋税事件は図らずも、外国人に対する不信感を生む結果になった。有能な外交官であった石井菊次郎は後年、回想して、「之より我国に於ては内外紛争を仲裁裁判に付託するも公平なる裁判は得られないとの感想が起こった」と述べる[3]

外国人を居留地に閉じ込めていた時代、外国人に土地所有権を認めなかったかわりに、永代借地権を認め、その土地の上に建てられた家屋での収入を非課税とした。明治政府は宿願であった条約改正を果たし、居留地を廃止して、外国人に土地所有権を認めることになった。もはや土地所有権も認められるので、日本政府は永代借地上の家屋に課税を始めた。意外にも、ヨーロッパ諸国はこれに異を唱えた。勝訴する自信があった日本が常設仲裁裁判所に付託したところ、敗訴してしまった。それから一世紀近く、日本は仲裁から遠ざかった。

1999年のみなみまぐろ事件は、国際海洋法裁判所における手続きと仲裁裁判所における手続きの二つがともに国連海洋法条約に基づき、同時に進んだので混乱しやすい。みなみまぐろは高度回遊性の種であるので、日本は生息域に近いオーストラリアおよびニュージーランドと、みなみまぐろ保存条約を結んだ。この条約のもと、調査漁獲の計画を作ることになったが、計画ができないまま、日本は調査漁獲を行った。オーストラリアとニュージーランドは国際海洋法裁判所と仲裁裁判所に訴えた。国際海洋法裁判所は日本の調査漁獲は違反であると暫定措置を出した。ところが、仲裁裁判所のほうは、自裁判所は日本の調査漁獲を扱う管轄権を持たないとし、国際海洋法裁判所の暫定措置は無効と判断した[4]。日本が勝訴であったか、敗訴であったか、判断しがたい。

さて、武力紛争は非武力紛争がエスカレートして起こるものである、という前提に立てば、非武力紛争を仲裁によって解決できれば、戦争は起こらない。この観点を平和的紛争解決という。

平和的紛争解決の難点は、非武力紛争を仲裁に付託する合意がなかなかできないことである。逆に言えば、付託合意が容易になれば、平和的紛争解決は成功しやすくなる。義務的一般仲裁条約では、一方の締約国が訴えれば、自動的に他方の締約国との仲裁手続きが開始されることにして、紛争解決の難点をとり除く。19世紀の終わりから、たくさんの義務的一般仲裁条約が結ばれた。

付託合意ができたならば、第2段階として仲裁裁判所が組織されねばならない。その制度化のために結ばれたのが国際紛争平和的処理条約であった。この条約は1899年の第1回ハーグ平和会議で採択された。この会議はオランダのハーグ市にある宮殿ハウステンボスにおいて開かれたが、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけにこたえたものであった。

国際紛争平和的処理条約に基づいて、常設仲裁裁判所(PCA)が設立された。その仲裁裁判官は固定しておらず、次のように選ばれる。締約国が出した候補者の名簿があり、そこから紛争当事国が各2名の仲裁裁判官を選ぶ。この4名が1名の上級仲裁裁判官を選ぶ。選ばれた5名の仲裁裁判官がその事件の裁判部を構成する。常設仲裁裁判所は、「常設」でも、「裁判所」でもない、と皮肉られるが、それは当たっている[5]

第1回ハーグ平和会議は、戦争法と人道法の進歩でも大きな成果を上げた。ハーグ陸戦条約、ジュネーブ条約を海戦に適用する条約、そして、交戦手段に関する三つの宣言(毒ガス・ダムダム弾・気球からの爆撃)が採択された。

ところが、第1回ハーグ平和会議の3か月後、イギリスはボーア戦争を始め、平和の理想は傷ついた。会議に参加していたアメリカ合衆国の海軍教官、アルフレッド・T・マハン、は義務的一般仲裁条約に反対した。それは自国の国益に反するから、という理由であった[6]

PCAはピースパレス(平和宮)というマンションのような名前の建物に入居している。このハーグに建てられた城館風の擬古的な近代建築は、アメリカ合衆国の鉄鋼王にして慈善家のアンドルー・カーネギーによる150万ドルの寄付をもとに建てられ、1913年に彼も参列して開館した[7]

PCAは21世紀になっても注目される。南シナ海問題では、中国が岩や暗礁を占拠し、領有を主張する。フィリピンは国連海洋法条約に基づき、常設仲裁裁判所に付託した。2016年、ミスチーフ礁など中国が「島」と称して領有を主張するものは「低潮高地」であり、領海および排他的経済水域を設定できない、とPCAは判断を示した。

第一次世界大戦の結果、国際連盟が設立され、やや遅れて常設国際司法裁判所(PCIJ)が開廷した。PCAと違い、PCIJでは固定した裁判官たちがピースパレスで勤務した。その意味で、真に「常設」的な「裁判所」であり、仲裁と司法的解決の違いはここにある。

国内システムの裁判所と似てきたが、一方の当事者が訴えても他方が裁判所の管轄権を受け入れなければ、審理が行われない問題が解決されたわけでない。PCIJの設立に伴い、義務的一般仲裁条約と同じように義務的一般司法的解決条約を結んで付託の自動化を約束する国々が現れた。

それとともに、PCIJ規程では新しい自動化の方式が発明された。特別議定書の手続きを定めるその第36条2にしたがうと、紛争が発生する以前に、裁判所の権限を受け入れる旨の宣言を特別議定書でした国は訴訟の被告となった時に裁判を拒めない。

PCIJの後身である国際司法裁判所(ICJ)においても、やはり規程の第36条2に、強制管轄権受諾に関する宣言の定めがあり、それを受諾し、他国に訴えられた国はICJの管轄権に服することになる。日本は1958年にこの宣言をした。

国際連盟によって平和的紛争解決は「平和殿堂の三本柱」の一つとされた。三本柱とは、紛争解決(仲裁)、安全保障、そして軍縮である。紛争が起きたならば、まずは仲裁など平和的解決の努力をする。仮にそれが失敗しても、軍縮をしていればすぐには侵略はできない。それでも情勢がよくならないならば、連盟の加盟国が力を合わせて侵略を制裁――集団安全保障――する。

平和の三本柱を組み込んだものが、1924年に署名されたジュネーブ議定書、すなわち国際紛争平和的処理議定書、であった。しかし、この議定書はイギリスが批准しなかったため反故になり、平和殿堂は幻と消えた。

審査と調停は、仲裁および司法的解決と同様、第三者による紛争解決手続きである。審査は合法や違法を判断せずに、事実認定のみを行う点が両者と異なる。

1904年のドガーバンク事件は日露戦争中、バルティック艦隊が日本海に来る途中に起きた。同艦隊が北海でイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して撃沈したのである。イギリスと日本には日英同盟があったので一時は英露関係のゆくえが心配された。両国を周旋したフランスの努力のかいあって、国際審査委員会が作られ、砲撃を正当化する事実はなかった、と審判した。ロシアは賠償し、事なきを得た。

ドガーバンク事件の解決により、審査が平和のために有用であると分かり、注目された。ブライアン条約は第一次世界大戦の直前、アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・J・ブライアンがワシントン駐在の外国使節団に呼びかけて結ばれた一連の条約である。それは常設の審査委員会を締約国間に設置する、という内容であった。二十いくつも、この提案に応じる国があったが、平和には貢献しなかったと考えられる。

調停は第三者が調停案を勧告する方式である。家庭裁判所の調停ならば、知っている人は多いであろう。調停案には仲裁判断と違って法的拘束力がない。調停役を買って出る国はあまりない。紛争当事者の恨みを買うことがあり、また、よほどの威信や権威が調停役にないと、せっかくの案が尊重されないからである。それゆえ、世界機構にこそ調停役を果たすことが期待される。国際連盟規約の第15条と国連憲章の第36条は、それぞれ連盟理事会と安全保障理事会による勧告について定める。

「1丁目1番地」という言葉は「第1の前提」や「最優先されるべきこと」といった意味である。国連憲章の第1条1は何であろうか? それは国連の目的の第1である国際の平和および安全の維持である。その方法の一つが「平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること」という条文である。このように高い期待が寄せられる国際司法裁判所(ICJ)は十分に活用されてきたか?

第二次世界大戦後、国際連盟が国際連合に取って代わられたのと対応し、PCIJはICJに置き換えられた。PCIJの日本人裁判官のなかには裁判長を務めた安達峰一郎がいた。ICJの裁判官には、前職が最高裁判所長官の田中耕太郎、同じく東北大学教授の小田滋、国連大使の小和田恒、そして東京大学教授の岩沢雄司がいる。

国際司法裁判所の15人の判事は加盟国が指名した候補者の名簿から、安保理と総会によって選挙される。裁判所の最終的な決定には判決と勧告的意見がある。判決は、当事国により付託される争訟事件に対してのものである。勧告的意見は、総会や国連専門機関によって尋ねられた問題へのものである。以下では、判決と勧告的意見の実例をいくつか見る。

初めての争訟事件はコルフ海峡事件であった。事件は1946年に起きた。イギリスの軍艦がアルバニアの領海であるコルフ海峡を通った際に、機雷に触れて爆発した。国際司法裁判所は1949年に、イギリス軍艦による無害通航権を認めてアルバニアに賠償を命じた。その一方で、イギリスがアルバニア領海の機雷を掃海する権利は認めなかった[8]。当事国が出るところに出て、解決できた、という点では国際裁判所の役割が果されたと評価できる。

領土紛争の例としてプレアビヒア寺院事件を取り上げる。これはタイとカンボジアとの争訟であるが、カンボジアがフランスの植民地であった1904年に、タイとフランスとのあいだで条約が結ばれ、これに基づき作成された1908年の地図では、プレアビヒア寺院の遺跡はカンボジア側に含まれた。この遺跡に対して、タイが領有権を主張した。

タイは1954年に遺跡を占拠し、そこにあった骨董品を移動させてしまった。国際司法裁判所は1962年、寺院はカンボジアに帰属し、タイは骨董品を返還しなければならないと判決した。ところが紛争は収まらず、武力衝突さえ発生した。2011年、カンボジアは1962年の判決の意味と範囲を説明するよう国際司法裁判所に要請した。2013年の判決は、遺跡周辺の土地の帰属については裁判所は判断しない、というものであった[9]

2025年、カンボジアとタイのあいだに大規模な国境紛争が起きた。国境問題そのものを解決することが重要であるが、これまでタイはその問題での管轄権を国際司法裁判所に認めていない。

1984年に提訴されたニカラグア事件は、超大国がICJを侮辱して痛々しい記憶を残した。アメリカ合衆国は自国が過去に行った強制管轄権の受諾をいとも簡単に覆した。

ニカラグアの左翼政権を揺さぶるため、アメリカ合衆国はニカラグアの領海と内水に機雷を敷設するなど主権侵害を行った。両国は国際司法裁判所の強制管轄権を受諾していたため、前者が提訴しようとしたところ、その間際にアメリカ合衆国が受諾を撤回した。それでも、裁判は始まり、機雷敷設等の行為を集団的自衛権の発動とするアメリカ合衆国の主張をICJは認めなかった。

日本が当事者となった争訟に、南極海捕鯨事件がある。国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨を禁止したため、日本は科学的研究のための調査捕鯨としてクジラを獲っていた。捕鯨の禁止を主張するオーストラリアは2010年、日本が科学的調査と称しているものは商業捕鯨であるとして、南極海での捕鯨を中止させるよう国際司法裁判所に訴えた。国際司法裁判所は2014 年、オーストラリアの主張を認め、日本に中止するよう命令した。2019年、日本は国際捕鯨委員会を脱退した。

勧告的意見については、パレスチナ占領地壁構築事件を取り上げる。ヨルダン川西岸地区は第三次中東戦争の占領地である。2000年のインティファーダ、すなわち人民の武力闘争、はその土地のユダヤ人の安全を脅かした。イスラエル政府は2002年、ユダヤ人居住地を囲うフェンスや有刺鉄線を建設した。しかし、これは、壁によってユダヤ人の土地とパレスチナ人の土地を分割し、イスラエルによる領有の主張を既成事実にする企てではないか?、と危惧された。そこで、国連総会は国際司法裁判所にその違法性について勧告的意見を求めた。国際司法裁判所からの答えは、壁は違法であり、すべての国は壁を承認しない義務を負う、というものであった[10]。 国際司法裁判所の紛争解決はつねに明快な結果をもたらしたわけでない。仮に判決や勧告的意見にたどり着いたとしても、紛争の根源は未解決であったり、不満な当事国は回避策を探したりしたからである。


[1] 大沼保昭、藤田久一訳、『国際条約集 2003年度版』、有斐閣、2003年、757ページ。

[2] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年、74ページ。

[3] 石井菊次郎、『外交余録』、岩波書店、1930年、256ページ。

[4] “国際海洋法裁判所 (ITLOS:International Tribunal for the Law of the Sea),” 外務省, January 4, 2024, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaiyo/itlos.html, accessed on February 15, 2025.

[5] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 246.

[6] バーバラ・W・タックマン、『世紀末のヨーロッパ―誇り高き塔・第一次世界大戦前夜』、大島かおり訳、筑摩書房、1990年。A. T. Mahan, Armaments and Arbitration, or the Place of Force in the International Relations of States (New York: Harpers & Brothers, 1912), pp. 93-94.

[7] アンドリュー・カーネギー、『カーネギー自伝』、坂西志保訳、中央公論新社、2002年、288-289ページ。

[8] 松井芳郎編、『判例国際法』、第2版、東信堂、2006年、150-155ページ。

[9] 松井編、『判例国際法』、136-140ページ。

[10] 松井編、『判例国際法』、630-635ページ。臼杵陽、『イスラエル』、岩波書店、2009年、201ページ。

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