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エスニック紛争

人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。

イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊を編成しところかまわずならず者をひっとらえ、この国の民衆に実例を示すのだ[1]

今回のテーマは、世界各地のエスニック紛争を3件挙げ、言語・宗教・人種など集団間における対立の概要を説明しなさい、である。ただし、それらの事例は本文で取り上げられるものに限定しない。さまざまな事例を検討し、新しい論点がないかを調べることが大事である。

政治にとどまらず、経済でも、文化でも、おそらく何でも、現代世界の基本単位はネイション・ステイト、つまり国民国家、である。国民とは何であるのか? どのように作られるのか?

国際政治学の古典的な学説にカール・W・ドイチュの国民統合論がある。彼は民族(a people)の本質はコミュニケーションであると見抜いた。民族、または国民、であるということは言語や文化への服従を迫られることである。国民国家の形成によって、支配民族とその他の民族が生まれる。政府・教育・経済制度など公式的組織でも、世論・威信・シンボルなど非公式的組織でも、使われる言語は支配民族の言語である。被支配民族は、それらの組織で使われる言語または文化におけるコミュニケーションの能力を獲得すること、すなわち同化、を強いられる。コミュニケーションに参加する機会はすべての住民が同じでなく、都市のほうが農村より高い。第一次産業より第二次産業が高く、第二次産業より第三次産業が高い。経済成長や技術革新によっても増加する。以上のコミュニケーションに参加する全体量のことをコミュニケーション動員とドイチュは呼ぶ[2]

ドイチュはオーストリアハンガリー帝国のもとにあったプラハに生まれ、アメリカ合衆国に移民した。生まれた時のチェコにおける支配民族はドイツ系であり、役所と新聞の言語はドイツ語であった。しかし、すでに非農業人口ではチェコ系がドイツ系を上回っていた。第一次世界大戦の結果、チェコスロバキアが独立すると、チェコ語が支配的な言語となった。劣勢となったドイツ系はドイツ語人口比率が高いズデーテン地方(チェコ語ではズデティ)において分離運動を始め、ナチスに期待した。1938年のミュンヘン会談でズデティはドイツに割譲された。ドイチュがアメリカ合衆国に移民したのはこの時である。ナチスが第二次世界大戦で敗れると、チェコのドイツ系はもはやそこに住み続けることはできなくなり、ドイツ語人口は全滅した[3]

ドイチュが挙げるフィンランドの例はこれほど劇的でない。もともとフィンランドを支配していたのはスウェーデンであり、1811年にロシア領になっても、支配的な言語はスウェーデン語であった。フィンランドの独自言語であるフィン語がそれと並んで公用語になったのは1863年であった。ゆっくりとした変化はありながらも、スウェーデン語は依然として支配的であった。

ドイチュは人口統計で説明する。1880年におけるフィンランドのスウェーデン語人口は29万5千人、フィン語人口は175万6千人であった。すでにフィン語が圧倒的に強いという印象を受けるが、都市人口だけを比較すると、スウェーデン語人口は6万6千人、フィン語人口は10万人であった。それまでの特権的な地位を考慮すると、スウェーデン語は劣勢といえない。これが60年後の1940年になると、総人口ではスウェーデン語が35万4千人、フィン語が332万7千人、都市人口では、スウェーデン語が13万9千人、フィン語が71万5千人であった[4]。フィンランドは1918年にロシアから独立し、第二次世界大戦ではソ連と戦うほど強烈なナショナリズムを育てた。

そのころには、フィン語はスウェーデン語を圧倒していたのでないか? 反証がある。ムーミンという架空の生き物が出てくる童話は1940年代に世に出た。それはスウェーデン語で書かれた。フィンランドのスウェーデン語は世界中の人々に長く親しまれる文芸作品を生み出す力を残していた。そのコミュニケーション動員は使用人口の多少にかかわらず、非常に高かったといえる。

ドイチュの次の世代の国民国家論といえば、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」である。彼はコミュニケーションというよりメディアの重要性に目を付け、グーテンベルクの活版印刷に象徴される出版資本主義を国民国家の起源とする。エリート向けのラテン語書籍だけでなく大衆向けの俗語書籍が流通し始めた。

―前略―この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし爆発的な相互作用であった[5]

書籍の流通は無限に広がるわけでなく、書かれた言語が使われる地理的な範囲のなかでしか広がらない。その範囲が国民国家の領土となる。ただし、『想像の共同体』という書名のとおり、共同体は想像されたものにすぎない。この留保がアンダーソンの特徴である。我々がナショナリズムとして思い浮かべる好戦的で排外的なものは公定ナショナリズムとアンダーソンは呼び、19世紀後半、民衆的国民運動への応戦として、「国民と王朝帝国の意図的合同」により作られたものとする[6]

ドイチュとアンダーソンを比較すると、前者は静的で理論としてはストイックであり、後者は動的で野心的に何でも説明しようとする。しかし、ここで指摘したいのは両者の共通点である。コミュニケーションにせよ、メディアにせよ、共通の言語が国民国家の基礎であるという点である。

確かに、ドイツとオーストリア、中華人民共和国と中華民国、アメリカ合衆国とイギリス、といった具合に、同一言語でありながら政治問題が原因で別個の2国民になったものがある。現在、政治的な理由がなくなればそれらは一つの国家に戻るかといえば、言語以外の文化やイデオロギーの違いが生まれていてそうとは言い切れない。国民の境界を規定する絶対的な差違はない一方で、別個の国家でありながら同じ言語であることが、双方の関係を特別にしている。

今回は、サブナショナルな、すなわち国民よりも小さい集団に注目する。サブナショナルな集団には、企業のように金銭的利益を争うもの、政党やNGOのように主義主張を争うもの、スポーツのチームのように勝敗を争うものなどがある。ここで扱われるのは、より基本的なアイデンティティの差異に基づくエスニック集団であるが、言語は差異の一つでありうるが、エスニシティを分ける唯一絶対の差異ではない。

エスニシティとは何か? 定義には客観的アプローチと主観的アプローチがある。客観的アプローチでは、祖先・文化・宗教・人種・言語の観点における差異がエスニシティの境界である[7]。主観的アプローチはフレドリック・バルトのものが知られるが、その焦点は「集団が囲い込む文化の中身ではなくて、集団を規定するエスニックの境界」である[8]

エスニック境界の維持に付随するものは、異なる文化を持つ人々が社会的に接触するという状況でもある。エスニック集団は、行動において顕著な差異を示す場合にのみ、すなわち文化的差異が継続している場合にのみ、有意な単位として存続するのである[9]

つまり差異を意識するようになればそれがエスニック集団の境界になるし、意識しなければ同じ集団のメンバーのままでいることになる。メンバー間に何らかの共通点があり、他者との間には境界が存在すると意識する集団がエスニック集団であり、そうした集団と他者との間で起こる紛争がエスニック紛争である。

エスニシティの差異そのものはなくならないので、紛争は多くの犠牲者を生み、当事者間で解決することが難しい。国際社会には、何ができるのか? 以下では強制措置、自決、自治、独立、選挙、普遍的人権、そして憲法を検討していく。

地球上のほとんどの陸地は主権国家に分けられている。国際社会がいかにエスニック紛争に介入するかという問題は、それらの主権といかに折り合いをつけるかという問題である。国際連合憲章第2条4が武力の行使を慎むことを義務づけることにも注意が必要である。

強制措置には経済制裁のような非軍事措置と武力行使を意味する軍事的措置があり、国連憲章第7章に基づき、安全保障理事会の決定として行われる。しかし、いくつか問題がある。まず、国際の平和および安全の維持・回復のためでなければならないので、大規模な暴力が発生していない段階でエスニック紛争に適用することは難しい。つぎに、国連憲章第2条7は国内管轄事項に国連は介入できないと定めるので、深刻な段階に至っていない政治論争などには使えない。もちろん、安保理の決定に拒否権を持つ常任理事国が反対したらおしまいである。

強制措置には実績がある。1962年以降、国連総会はアパルトヘイト非難決議を繰り返した。総会決議はアパルトヘイトが国際的関心事項であることを確認する意味はあったものの、解決に向けた即効性はなかった。1976年、学校でのアフリカーンス語の強制に反対するデモに参加した子供を射ち殺したことが発端で、ソウェト蜂起という暴動が起きた。翌年、安保理は南アフリカへの武器禁輸決議S/RES/418を行った。南アフリカをかばってきた常任理事国のアメリカ合衆国が同国を非難する側に回り、白人体制を揺さぶった。

自決・自治・独立でエスニック集団を守ることも国連憲章は予定していた。自決は第1条2に国際連合の目的の一つとして挙げられ、エスニック集団が国民国家として独立するか、国家内で自治を得るかの基礎であると考えられる。主権国家の地位は得られなくても、自治は国連も応援する義務であることを憲章第73条bは明らかにする。国際人権規約のA規約・B規約は、ともに第1条で人民の自決権を定め、それを促進し、尊重することを締約国の義務とする。

とはいえ、自治でさえ、すんなりと認められるわけでない。自治とは何かについて国連憲章が詳しく定義しているわけでないからである。例えば、中華人民共和国には自治区というものがある。その憲法第4条は少数民族が集まって住んでいる地方に区域自治を行うと定める。ところが、自治機関について具体的に定める憲法第6節には、自治区・自治州・自治県の住民がその意思を集約する方法、例えば選挙や住民投票といった手続き、の規定を見つけることができない[10]

もっとも、中国における自治の問題は「少数民族」にとどまらない。人口の大半が漢民族とされるものの、方言の間での会話が困難であるくらい、漢民族自体が多様性に富むからである。

こうした議論から、選挙が重要であることは明らかである。世界人権宣言第21条3は、定期的な普通選挙での秘密投票によって人民の意思は表明される、とする。同様の投票方法は国際人権規約B規約第25条でも定められている。自由主義と社会主義とが対立してきた国際連合は、冷戦が終わった1990年代に選挙や民主化を推進した[11]。協調的な時代が終わった今日では、グローバルな機関が民主化の推進で一致結束できる情勢にない。仮にできたとしても、多数決の手段である選挙は必ずしも少数派を守らないので、別の方法によりエスニック集団を保護することが必要である。

少数派の人権を守るよう、その国の政府に国際連合が要求しても、内政不干渉を理由に拒まれるかもしれない。しかし、国連憲章第1条3は人権の尊重を国連の目的の一つに挙げる。普遍的人権の擁護は「内政」ではないので、本来、加盟国は内政不干渉を口実に要求を拒むことはできない。ほかにも、世界人権宣言、ジェノサイド条約、人種差別撤廃条約、国際人権規約A規約・B規約をはじめ、枚挙にいとまがないほどの国際人権文書が引用できる。

自治・選挙・人権は、それらを盛り込んだ憲法を制定して守るのがベストである。自治・選挙・人権は補い合う関係にあり、セットで保障されるべきであるからである。もちろん、主権国家にたいし、理想的な憲法を押し付けることは容易でない。絶対君主制やイスラム国家は立憲主義そのものを否定する。一度はそうした憲法が制定されても、タリバンがふたたび政権を奪ったアフガニスタンのように、憲法は停止されるかもしれない。

これまで議論してきたもの以外にも、PKO(平和維持活動)、保護する責任、あるいは人道援助といった方法によって、人々を守ることができる。これらについては別の回に論じる。

以下ではエスニック紛争の実例をいくつか検討し、エスニシティの境界線がどこにあったかを確認する。

ナイジェリアは人口2億人を超える地域大国であり、多くのエスニック集団がある。宗教によって北部のムスリムと南部のキリスト教徒に大きく分けられるが、それらのなかで言語や文化により細分化される。最大の紛争は、1967年に南部のイボ族などがビアフラ共和国を建てて独立しようとしたビアフラ戦争である[12]。この戦争は鎮圧されたものの、南部には、石油産業の巨額な収益が地元に還元されていない、と不満が根強く、2000年ごろは、ニジェール川デルタ解放運動(MEND)をはじめとする抵抗団体がテロリズムを繰り返した。北部でも過激なイスラム・ゲリラであるボコハラムなどが非人道的な行為を続ける。

以前、ナイジェリアの首都はアフリカ大陸最大の都市と目される港町のラゴスに置かれた。あまりに南に偏っていたため、中央部のアブジャに1991年、首都移転が行われた。それにもかかわらず、エスニック集団間の距離は縮まっていない。

スリランカはシンハラ人の多くが仏教徒、タミル人の多くがヒンドゥー教徒である。ムスリムとキリスト教徒も、それぞれ全人口の一割弱を占める。シンハラ人とタミル人は言語も違うし、文化も違う。独立してしばらくたち、シンハラ側でも、タミル側でもナショナリズムが高まった。タミルイーラム解放の虎(LTTE)は自爆テロという激しい手段に訴えて独立を求めた。このグループは島の北部を実効支配していたが、2009年に政府軍が拠点を制圧し、内戦の終結を宣言した。

北アイルランドの紛争をめぐる境界線は、カトリックとプロテスタントの宗派の線に沿う。以前、カトリック側は王制のイギリスから分離し、共和制のアイルランドに帰属することを望んだことから、リパブリカンと呼ばれていた。その組織の軍事部門はアイルランド共和国軍(IRA)であり、政治部門はシンフェイン党である。他方のプロテスタントは、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国を支持することにちなんでユニオニストと呼ばれ、なかでも強硬派はロイヤリスト(Loyalist)と呼ばれた。王党派の意味のロイヤリストとはスペリングが違う。

リパブリカンは1922年のアイルランド自由国、すなわちのちのアイルランド共和国、の独立に取り残されたという感覚であった。人口の観点では少数派のカトリック側がアイルランドとの統合が幻想である現実を受け入れた結果、1998年に北アイルランド和平合意が成立した。アイルランド共和国軍は武装解除に応じ、流血は抑えられている。

クルド人の総数は正確には分からないが、トルコ、イラク、イラン、シリアなどに分布し、大多数はムスリムである。クルド語はイラン系の言語であるので、トルコ語またはアラビア語が支配的なトルコ・イラク・シリアでは少数派として認識され、過去には弾圧された。シーア派が多数であるイランでも、クルド人はスンナ派が多いことや、山岳民族であることから、独自のエスニシティであると認識されるのであろう。イラクにはクルド自治区があり、一大勢力を成す。2017年の住民投票では独立への賛成が多数を占めたものの、独立は達成されなかった。シリアでも、クルド人勢力は中央政府から自立して活動している。

多島海であるインドネシアには「想像の共同体」の言葉がよく当てはまる。島々の文化はそれぞれであり、首都ジャカルタがあるジャワ島の文化と異なっている。

1963年、インドネシアは、オランダの植民地であったイリアンジャヤの統治を始めた。ここには現在も独立運動がある。

1975年、ポルトガルの植民地であったティモールレステをインドネシアは侵略した。これをヨーロッパ諸国は強く非難し、アジア通貨危機後の2002年、ティモールレステは独立した。

アチェは20世紀初めまでスルタンが支配したムスリム国家であった。1970年代に独立闘争が激化した。2004年のスマトラ沖地震による大津波の影響で翌年、自由アチェ運動(GAM)は自治を定める和平協定を政府と結んだ。仲介したフィンランドの元大統領マルッティ・アハティサーリに2008年のノーベル平和賞が授与された。

モロとは、フィリピンのパラワン島やミンダナオ島に住むムスリムであり、キリスト教が主流のフィリピン政府に対する抵抗運動を行った。9・11事件後、アルカイダの一味として米軍に掃討されたアブサヤフのようなテロ組織もある。その一方で、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はフィリピン政府と和平交渉を行い、2012年、バンサモロ自治政府を樹立することに合意した。

コーカサスにはさまざまな紛争がある。ナゴルノカラバフ紛争は、ソ連解体後にアゼルバイジャン領であるナゴルノカラバフ自治州とその周囲の土地をアルメニアが奪取して占領した問題である。同州にはギリシャ語に近い言語を話す古い正教徒のアルメニア系住民が多いが、占領された周囲の土地には、トルコ語に近い言語を話すムスリムのアゼルバイジャン人も多く住む。アルメニアはロシアと親しく、アゼルバイジャンは手を出せなかったが、2020年と2023年に、アゼルバイジャンは武力によって土地を奪い取り。多くの住民が故郷を去ってアルメニアに向かった。2024年、アゼルバイジャンは実効支配を再開した。

ジョージアの主要な言語はコーカサス諸語の一つであるジョージア語で、宗教は正教である。その国境のなかに、南オセチアとアブハジアでの二つのエスニック紛争を抱える。南オセチアのオセット人は、多くはイラン語系の言語を話す正教徒である。アブハジアのアブハズ人はコーカサス語系のアブハズ語を話すスンナ派ムスリムまたは正教徒である。

ロシアは2008年に南オセチアに武力行使したジョージアを排除するため出兵し、逆に南オセチアとアブハジアを占領してしまった。さらに、両地域を国家として承認し、大使館さえ置く。日本ではかつてロシア語の「グルジア」という国名が使われたが、今は英語のジョージアが使われている。 世界にはきりがないほどエスニック紛争がある。近年、スコットランド、クルド、カタルーニャ、そしてニューカレドニアで、独立を問う住民投票が行われた。2014年にクリミアで行われた住民投票は、ロシア軍の介入によるものであったため、効果を認めない意見が強い。万が一、武力闘争になってしまっても、考え直して双方が相手の言うことに耳を傾けるべきである。


[1] アンドレ・マルロー、『ナポレオン自伝』、小宮正弘訳、朝日新聞社、2004年、202ページ。

[2] Karl W. Deutsch, Nationalism and Social Communication (Cambridge: The MIT Press, 1953, 1966).

[3] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 145.

[4] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 129.

[5] ベネディクト・アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、白石さや、白石隆訳、NTT出版、1997年、82ページ。

[6] アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、148ページ。

[7] ゼボルド・W・イサジフ、「さまざまなエスニシティ定義」、青柳まちこ編、『「エスニック」とは何か』、新泉社、1996年、86ページ。

[8] フレドリック・バルト、「エスニック集団の境界」、青柳編、『「エスニック」とは何か』、34ページ。

[9] バルト、「エスニック集団の境界」、35ページ。

[10] 「中華人民共和国憲法」、2018年3月11日修正。

[11] 杉浦功一、『国際連合と民主化』、法律文化社、2004年。

[12] 室井義雄、『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』、山川出版社、2004年。

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現代における世界の紛争はどのような状況にあるのか? スウェーデンにある世界最古の大学の一つ、ウプサラ大学、に最新の紛争データを作成し、それを分析するプログラムがある[1]。そこで見られる図表を眺めると、グローバルなトレンドが把握できる。

冷戦終結から2024年までの紛争発生地がプロットされた世界地図を眺めると、おなじみのパターンが目に入る。サハラ砂漠のふちと熱帯雨林にまたがる太い帯がアフリカ大陸を東西に横断し、アラビア半島の南端に至る。北へ地中海東岸に飛び、パレスチナ・レバノン・シリア・イラクとさらに北のウクライナに二つの塊がある。その東、太平洋まで連なるホットスポットは、アフガニスタンおよびパキスタンのタリバン支配地域を通り、ベンガル湾に沿ってマレー半島まで逆U字の弧を描き、フィリピン諸島とパプア島に至る。米州にはメキシコからコロンビアまで紛争地帯が中米を縦貫し、アマゾンまで続く[2]。サミュエル・P・ハンティントンが語った文明の断層線が見えるかのようである。

現代はアフリカ・アジア・中東・中米が紛争多発地帯であるが、過去はどうであったろうか? アジアとアフリカは一貫して多い。中東では1956年・1967年・1973年の戦争、イラン革命、湾岸戦争、イラク戦争、そしてアラブの春といった紛争の年に増えた。ヨーロッパは1990年代における旧ソ連と旧ユーゴスラビアの崩壊と2014年のウクライナ危機の時期に上昇している。米州は1980年代の中米紛争がピークを成した[3]

冷戦後に内戦が増えたという説がある。国家間紛争、国際化した国内紛争、そして国内紛争の構成比を追うと、冷戦後はまず国内紛争の比率が増え、2010年代に国際化した国内紛争が増えた[4]。東西対立を背景とした代理戦争がなくなり、内戦が目立つようになった。近年はかつてのベトナム戦争のように、内戦にロシアはじめ大国が介入する事例が増えている。

強靭な国家では国内紛争は起こらない。国際化した国内紛争も、外国がつけ入るスキが国家構造に存在したから起きた。現代の紛争を理解する鍵は脆弱国家にある。

カナダの学者カレビ・J・ホルスティといえば、生前には国際政治学の教科書の著者として名を成した。彼が晩年に著した『国家、戦争、戦争状態』は1996年当時に起きていた冷戦後の紛争を的確に分析した。彼の時代には脆弱国家という言葉は使われていなかった。それが使われるにはもう一つのステップがあったことはあとで触れる。彼は「弱い国家」という言葉を使った。破綻国家という言葉も使っているが、専門用語としては弱い国家が採用されている。

国家は「垂直的正統性」と「水平的正統性」が欠けると弱い国家になる、とホルスティは論じた。垂直的正当性は、社会科学を学んだ者にはなじみ深いマックス・ウェーバーの支配の3類型である。彼によると、支配者が一般人に及ぼす権威には、合理的支配、伝統的支配、そしてカリスマ的支配の三つがある。合理的支配の例は官僚制で、人は自分の生活を守ってくれると信じているから役所に税金を払い、言うこともきく。伝統的支配は家父長制で、子供は人生経験の長い親の言うことをきき、その延長として、長い歴史を持つ王朝に敬意を払う。カリスマ的支配の例は宗教指導者や革命家であり、常人にはなしえない奇跡を見せて、人々の批判を寄せつけない。

これにたいし、ホルスティが言うところの水平的正当性は通常、国民統合と呼ばれるものである。共同体のなかに複数のエスニック集団があるとしよう。部族主義がはびこって、共通の政府を作ることさえできない場合もある。集団間の関係が平等で公正であることも一種の正統性であるといえる。それがあれば、エスニック集団は独立を目指すことも、他の集団を支配しようとすることもなく、共通の政府のもとで共存することができる。

旧ユーゴスラビアの例を挙げてホルスティの正統性論を解説する。分裂以前には、スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、そしてマケドニアの六つの自治共和国があった。エスニック集団はより多く、しかも混住していた。主な宗教は正教、カトリック、そしてイスラムであった。言語はスラブ系とアルバニア系に大きく分けられるが、文字の違いがあってはるかに複雑であった。

「モザイク国家」の統合を可能としたのはヨシップ・ブロズ・チトー首相(のちに大統領)のカリスマ的支配であった。彼はヒトラーに抵抗するパルチザンを率いて勝利し、戦後はスターリンに歯向かった。スターリンの死後には非同盟運動の盟主として1980年の自身の死まで活躍した。国際的な名声が連邦をまとめるのに貢献した。

冷戦が終結すると連邦の解体は早かった。1991年にクロアチアとスロベニアが独立を宣言し、翌年1月にはEC(欧州共同体)が両国を承認した。これを青信号と理解したのか、3月、ボスニアヘルツェゴビナが独立を宣言した。ECが新国家を承認したのは早くも翌月であった。ボスニアヘルツェゴビナにはセルビア系の住民が多く住み、ムスリムとクロアチア系が独立を主導すればセルビア系が不安に感じるのは予想できたことであった。

ボスニアヘルツェゴビナ紛争は国際化した内戦であった。ユーゴスラビア軍、クロアチア軍、そしてムジャヒディンが参加した。国連やNATOといった国際機構も介入した[5]。ロシアがセルビア系住民に味方していれば、和平合意はさらに先延ばしされたであろう。現実には、ロシアは経済が混乱をきわめ、国際合意を妨げる余裕はなかった。それはともかく、垂直的正統性が水平的正統性を補えなくなった時、ユーゴスラビアは分裂した。

国家正統性には基礎があり、ホルスティは理念・制度・物理に分けて論じる。国家の理念を強化するのは社会契約やイデオロギーの共有である。実際になされていなくても、皆が同意するにちがいないルールが社会契約である。アメリカ合衆国のメイフラワー協約や明治政府の五箇条の御誓文のようなものを彼は意図したのでないか。共産主義や自由主義のような国家のイデオロギーに共感する者が多ければ、国家は強くなり、反発する者が多ければ、それは弱くなる。制度については、誰が権力を握るかのルールが定着していることが重要である。選挙による政権交代に国民の信頼があれば、暴力による権力奪取は失敗する。不公平な富・権力の分配や腐敗の蔓延は多くの国民を離反させる。文民統制がきかない国家では、軍がクーデターを繰り返し、国民は政治に無関心になる。国家の物理的基礎になるのは、特に領土の実効支配である。反政府勢力の支配地や無法地帯が広がれば、国家主権は疑われる。他国との境界がはっきりしていない場合も同様である[6]

分配の不公平という問題では、自然資源の分け前をめぐるものが紛争を招きやすい。かつてスーダン南部と呼ばれた土地では石油が出た。住民は北部のアラブ系ムスリムと違い、アフリカ系、つまり黒人、のキリスト教徒であった。数十年にわたってゲリラのSPLA(スーダン人民解放軍)が独立を求めて戦った。2005年に和平が成立し、2011年に住民投票の結果、南スーダンが独立した。その直後に国内の勢力の間で勃発した内戦は2018年まで続いた。石油の取り合いはコロンビア、チャド、ナイジェリア、そしてインドネシアでも紛争につながった[7]

シエラレオネの紛争ダイヤモンドは、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)をきっかけに知られるようになった[8]。背景にはアハメド・フォディ・サンコーを議長とするRUF(革命統一戦線)の反乱があった。RUFは隣国リベリアと民間軍事会社に支援され、ダイヤモンドを資金源にした。それが内戦の火に油を注いだことから、ダイヤモンド産業は密輸撲滅に真剣に取り組むようになった。キンバリー・プロセスは、輸出ダイヤモンドが紛争関連でないことを示す政府の証明書を付ける制度であり、企業・政府・国連・NGOが合意した。

鉱物が紛争の資金源になるのは石油とダイヤモンドだけでない。コンゴ民主共和国のコルタンは電子部品の材料で高値で売れる。企業の側には、紛争地産の鉱物を輸入しない社会的責任がある。

軍の統制も国家正統性の鍵である。文民の政府が国軍を統制できるか、という問題だけでない。私兵または民兵は規律が正規兵より劣り、非人道的な行為に及びやすい。古典的な例はナチスの突撃隊である。冷戦後では、ボスニアヘルツェゴビナにおいて警察が組織した突撃隊がムスリムを虐殺し、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)によりメンバーが有罪判決を受けた[9]。ルワンダでは、フトゥ族の団体インテラハムウェがラジオでプロパガンダを放送し、トゥツィ族の虐殺を扇動した。スーダンのダルフールでは、アフリカ系の住民をアラブ系民兵ジャンジャウィードが虐殺した。ロシアのワグネルはウクライナへの侵攻に従事する一方、自国政府に反乱を起こした。

弱い国家の状態から抜け出すのは簡単でない。ホルスティは、国家が強さを獲得しようとする際のディレンマを論じる。強権がかえって抵抗を招き、国家を弱くしてしまう。反抗的な地方政権・宗教集団・エスニック集団に対する強制措置は、国家の支配権利である垂直的正統性をむしばんでしまう。政治過程からの重要な集団の排除は水平的正統性を破壊する。強制と排除に対する人々の反応はさまざまである。忍耐する者、移民する者、アングラ化する者、発言する者、反乱する者がいる。「破綻国家」とはこうしたディレンマを解決できない国である。当時、ホルスティが挙げた国々はレバノン、ソマリア、チャド、ウガンダ、リベリア、モザンビークであった[10]

国民統合が絶望的である国々は現に存在する。代表例はレバノンである。レバノンの国民はキリスト教、イスラム、その他の宗教に分かれ、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム・スンナ派というように権力の分担が行われる。

宗派対立が決定的になった1975年、レバノン内戦が勃発し、シリア軍が進駐した。1978年に平和を回復し、政府を支援するため、国連平和維持活動のUNIFIL(国連レバノン暫定軍)が派遣された。そのかいなく、イスラエルがパレスチナ人ゲリラを掃討する目的で1982年、侵攻した。イスラエルが庇護するマロン派がパレスチナ難民を虐殺するサブラ・シャティーラ難民キャンプ虐殺事件が起きた。

レバノン内戦を終わらせるタイフ合意(国民和解憲章)は1989年に成立した。立法府の議席数はキリスト教宗派とイスラム教宗派に半分ずつ配分されることになった。多民族国家では選挙で勝利した政党が権力を独占することは許されない。平和は独占でなく挙国一致によりもたらされるからである。内戦中、国軍は弱いままに放置されたが、UNIFILが支援してそれを強化し、諸派を武装解除して、外国勢力を排除することが課題になっている。

破綻国家という呼称は、呼ばれる側の身に立てば、ずいぶん失礼である。破綻国家インデックスなるものがファンド・フォー・ピースという団体により作成され、『フォーリンポリシー』誌上で公表される。『フォーリンポリシー』はサミュエル・P・ハンティントン教授によって創刊され、カーネギー平和財団により発行される外交エリートが読む雑誌である。このインデックスは2014年に脆弱国家インデックスへと改称された。

脆弱国家インデックスの世界地図を見て気がつくのは、冒頭で挙げた紛争地図のプロットとインデックスの数値が高い地域が一致することである。アフリカ・中東・南アジア・東南アジア・中南米である。2024年のランキングでは、最下位はソマリアであり、スーダン、南スーダン、シリア、コンゴ民主共和国、イエメン、アフガニスタン、中央アフリカ共和国の順に続く[11]

脆弱国家インデックスは何に基づいて作成されるのか? 客観的な数値データばかりでなく、専門家の判断やメディアの文字情報に基づく内容分析が使われ、非常に広範な分野の指標から合成される、という。軍事・公安、代表制・派閥、和解・分断、マクロ経済、経済的平等、移民、政府・参政権、公務員・公共政策、人権・メディア、人口・健康、難民・国内避難民、そして外国の介入といった分野である[12]

紛争地域と認識されずとも脆弱な国家であった例としてジンバブエが挙げられる。2024年の脆弱国家インデックスでは18位とされる。1980年にジンバブエが独立した時、首相のロバート・G・ムガベは民族自決の英雄であった。大統領には1987年に就任し、アフリカではよくある長期政権を築いた。問題が知れ渡ったのは白人が所有する農地の強制収用を始めた2000年ごろからである。イギリス女王を盟主とするコモンウェルスから2003年に脱退した。彼をモデルにしたと思われる映画『ザ・インタープリター』は2005年に封切られた[13]。翌年、ジンバブエ・ドルのハイパーインフレーションは知らぬ者ないものとなった。最悪の経済情勢のもと行われた2008年の大統領選挙は不正選挙と外国で批判された。やっと2017年にムガベは辞任し、2年後、死去した。

ところで、ホルスティは、弱い国家と武力紛争とは関係があると、地域と紛争数の相関を示して主張した。戦争地帯はアフリカ・旧ソ連・中東・中米・南アジア・バルカン半島である。不戦地帯は東南アジアと東アジアである。平和地帯はカリブ・南太平洋・南米である。多元的安全共同体は北米・太平洋・西ヨーロッパである[14]。これも紛争の地図と脆弱国家の地図と一致する。四半世紀もまえの本であるが、現代とほとんど変わらない。 国家にはあるべき姿があり、それを満たせないと紛争が起こる、という仮説は正しそうである。しかし、国境線を引き直すようなことは特殊な事例では可能かもしれないが、一般的にやろうとするとパンドラの箱を開くことになる。無理な解決は、第2、第3のホロコーストやアパルトヘイトを生みかねない。脆弱国家をバラバラにしない最も手堅い方法は、対話と事実調査をつうじ、コンセンサスを築くことである。


[1] Uppsala Conflict Data Program, “UCDP Data,” https://ucdp.uu.se/, available on February 17, 2026.

[2] Shawn Davies, Therese Pettersson, Margareta Sollenberg and Magnus Öberg, “Organized Violence 1989-2024, and the Challenges of Identifying Civilian Victims,” Journal of Peace Research 62(4) (2025).

[3] Davies, Pettersson, Sollenberg and Öberg, “Organized Violence 1989-2023, and the Challenges of Identifying Civilian Victims.”

[4] Davies, Engström, Pettersson and Öberg, “Organized Violence 1989-2023, and the Challenges of Identifying Civilian Victims.”

[5] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年。

[6] Kalevi J. Holsti, The State, War, and the State of War (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), pp. 82-98.

[7] イヴ・ラコスト、『ラルース地図で見る国際関係 現代の地政学』、猪口孝、大塚宏子訳、原書房、2011年、250ページ。クリストファー・フレイヴィン、『地球白書2002-03』、家の光教会、255ページ。

[8] Edward Zwick, Leonardo Di Caprio, and Djimon Hounsou, Blood Diamond, Warner, 2006.

[9] 多谷千香子、『「民族浄化」を裁く―旧ユーゴ戦犯法廷の現場から』、岩波書店、2005年、114-115ページ。

[10] Holsti, The State, War, and the State of War, pp. 99-122.

[11] The Fund for Peace, “Global Data ,” https://fragilestatesindex.org/global-data/, accessed on February 17, 2026.

[12] The Fund for Peace, “Fragile States Index Annual Report 2021,” Washington, D.C., The Fund for Peace, 2021), pp. 4-5; and The Fund for Peace, “Fragile States Index and Cast Framework Methodology,” Washington, D.C., The Fund for Peace, 2017.

[13] Sydney Pollack, Nicole Kidman, Sean Penn, and Catherine Keener, The interpreter, Universal Studios, 2005.

[14] Holsti, The State, War, and the State of War, pp. 24, 141-149.

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暴力の原因

暴力というものの定義は非常に広い。狭義には、物理的な、直接的な破壊行為、つまり刑法でいえば暴行罪、傷害罪、殺人罪、不同意わいせつ罪、不同意性交罪、あるいは器物損壊罪に当たるものである。問題なのは、どこまで定義を広げるかである。

著名な平和学者、ヨハン・ガルトゥング、は「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する」と定義する。

ガルトゥングの暴力定義における一つ目の論点は、精神的な損傷が含まれることである。筆者は傷害罪に問われるほどの精神的苦痛は含まれると考えるが、侮辱罪に当たる行為は一概に判別することはできないと考える。

暴力定義におけるもう一つの論点は、ガルトゥングの言う影響力の行使が、直接に誰かが攻撃するものにとどまらず、主体を特定しがたい「構造的暴力」を含むことである。彼はそうした暴力を社会的不正義と言い換える[1]。貧富の差は寿命、学力、階級などの格差を生む。貧しい人の寿命が短いのであれば、それは傷害や殺人と同じではないか、という指摘は傾聴に値する。筆者は、政府による故意の政策が間接的であれ、寿命を縮め、かつ、そうした事態を避ける努力を政府が尽くさないのであれば暴力である、と考える。

今回のテーマは、暴力の諸原因を個人、国家、そして国際システムの諸レベルに分けて論じなさい、である。我々が知っている諸紛争の原因は異なるであろう。パレスチナ紛争は? アルジェリア戦争は? ベトナム戦争は? カンボジア内戦は? イラン・イラク戦争は? 湾岸戦争は? ソマリア内戦は? 旧ユーゴスラビア紛争は? ルワンダ虐殺は? 対テロ戦争は? イラク戦争は? シリア内戦は? イスラミックステイト(IS)は? ミャンマーは? ウクライナは?

最初に用語の整理をしておかなければならない。上の諸紛争には、戦争と呼ばれるものと内戦と呼ばれるものが含まれる。戦争は激しい殺し合い一般に使われるが、特に国家間のものを、ここではそう呼ぶ。サブナショナルな集団(国内集団)どうしの紛争は内戦である。内戦をシビルウォーというように、英語ではウォーすなわち戦争ではない。内戦は国家を代表する政府とサブナショナルな集団の間でも行われる。その他、サブナショナルな紛争にはクーデター・テロリズム・犯罪が含まれる。これらを総称してこの回では暴力と呼ぶ。

国際政治学においては、暴力の原因について古典的な教科書がある。新現実主義者ケネス・N・ウォルツが1959年に著した『人間、国家、そして戦争』である[2]。この本は分析レベルの考え方を紹介したことで知られる。レベルは三つあり、第1イメージすなわち人間の行動、第2イメージすなわち国家の構造、そして第3イメージすなわち国際システムから成る。ウォルツは、第3イメージの国際システムがアナーキーであることが戦争の原因である、と結論するが、筆者はそれにとらわれずに三つのイメージを議論する。

第1イメージの人間については、近代初期の哲学が人間本性を戦争の原因と考えた。代表例は言わずと知れたトマス・ホッブズの自然状態に対する見方である。彼の言葉として知られる「人間は人間に対して狼である」とか、「万人の万人に対する闘争」とかいったものが人間の好戦性を表現する。そうした闘争を止めるには、人々が政府に権力を与え、それを畏怖するようになること以外にない、と彼は論じた。こうした議論への反証は簡単であり、天使のように利他的な人も存在することを示せばよい。

精神分析にも人間の好戦性に関する知見がある。代表的なものは、ジクムント・フロイトの破壊衝動論である。1932年、ナチスが議会の第一党になると、ユダヤ人の身に危険が迫った。国際連盟の知的協力国際委員会が提案し、アルバート・アインシュタインからフロイトに書簡が送られた。彼からの返事に、破壊衝動のことが書いてある。

フロイトによると、人間の衝動には2種類ある。一つはエロスであり、これは愛への衝動である。もう一つがタナトスであり、破壊衝動であり、憎しみへの衝動である。憎しみが外面化すると戦争になり、内面化すると病理になる。そして、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない!」とフロイトはさじを投げる。ただし、破壊衝動を和らげる方法が一つある。それは文化の発展である。文化を吸収した人間は、性的な機能が失われていく。知性が強まり、衝動をコントロールし、攻撃本能を内に向けるようになる。フロイトは「戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と自らの発見に感嘆する[3]

文化によってタナトスを昇華する、という結論は、分かりやすく、一般的であり、処方箋もあって魅力的である。しかし、エロスはどう測定するのか?、実証できるのか?、と問われたら、答えに窮する。エロスとタナトスを適当に組み合わせて説明すれば、占いのように何でも当てられる、という批判が根強い。

心理学の他学派からの影響もある。ハロルド・ラスウェルといえば、アメリカ政治学を学ぶ者は必ず名を聞く政治学者である。彼は権力を追い求める心理を「価値剥奪に対する補完の一手段」であると分析した。価値剥奪というのは、人より自らが劣ると感じることがあって、本当は尊敬されたいのに、身のまわりでは満たされない状態である。そうした人は「私的動機を公の目的に転移し、公共の利益の名において合理化する」。彼は歴史上の人物たちが価値剥奪を補完するため権力を追求した、と例を挙げた。プロイセンのフリードリヒ二世は目のまえで友人を父に殺された。ロシアのピョートル一世はおじが暴徒に殺された。カール・マルクスは教職を得られなかった。ナポレオンは背が低かった。エリザベス一世は女性としての魅力に欠けると思っていた。ミラボーには天然痘の痕があった。フランクリン・D・ローズベルトは小児麻痺であった[4]

ラスウェルは好戦性の分析はしておらず、権力追求者の性格を強迫型・劇化型・冷徹型の三つに類型化した。強迫型性格の者は「人間関係を処理する仕方がきわめて窮屈で、何かに憑れているようなタイプ」であり、「綿密に一つ一つ区切りをつけ、その細部に至るまでいささかもゆるがせにしない」。これは官僚に向いた性格である。劇化型性格は「他人に即座の情緒的反応を要求」し、「自己顕示性、浮気性、挑発性、義憤性などの気味がある」。「色々な工作をしては他人を「アッと言わせる」ことに専ら関心のあるタイプ」であり、「仕事の細部の分類にはルーズであるが、その規模と豊かさにおいてまさっている」。向いているのは煽動家である。冷徹型性格は「完全に自覚しうるあらゆる情念がすっかり搗き固められ、感動を奪われてしまった」人であり、判事に適している[5]

ラスウェルの理論は森羅万象を説明できると自己主張せず、多様な事例を類型化する点で、経験主義または実証主義に則っている。彼の行動主義パラダイムは後続する研究を生み出し、そのなかにはシャイな人格と好戦性との相関を指摘するものもある[6]。アドルフ・ヒトラーの攻撃性とシャイなところは関係があるかもしれない、と言われれば、うーん、そんな気もしてくる。

行動主義政治学は指導者の人格類型に注目したが、そもそも、個人に紛争を起こすことなど可能なのであろうか? 世の中を動かすのは特定の個人の思想と行動であるという考え方をグレイトマン・セオリーという。ドイツがポーランドに攻めこんだことにヒトラーの人格は影響したであろうが、それだけであろうか? ドイツの政治制度や国際システムに問題はなかったであろうか?

実はウォルツの本にはあまり書いていないのであるが、宗教の違いも紛争の原因である。宗教その他の信仰は、個人の問題であると同時に国家の問題でもある。指導者の問題であると同時に、一般の人々の問題、あるいは指導者と人々との関係の問題である。

『旧約聖書』には、ユダヤ人がバアルやアシュトレトという外来の神々を信じたために、神がお怒りになり、他の部族にユダヤを略奪させた、という記述がある[7]。これが本当ならば、宗教は最も古く記された紛争の原因である。

宗教にとどまらず、人間のアイデンティティに根差す紛争は血なまぐさく、長期にわたりがちである。そのことを論じて話題となったのが、サミュエル・P・ハンティントンが著した『文明の衝突』である。

ハンティントンが論じたフォルトライン紛争とは、「異なる文明圏の国家や集団のあいだに起こる、共同社会間の紛争」である。村単位のより狭い地方で起きるコミューン戦争と違い、フォルトライン紛争は宗教の違いが最重要な原因で、別個の文化圏に属する集団間で起きる。フォルトラインというのは英語で「断層線」のことであり、ここがずれると大地震になる。20世紀末、そうした紛争が急増した。原因の一つは若者人口の増加であった、とハンティントンは指摘する[8]

宗教の違いは人間個人の内面に属するので第1イメージともいえるし、国家的広がりにおける異教の共存に紛争の種はあるから第2イメージともいえる。第1.5イメージという言い方が許されるならばそういうべきである。

宗教だけでなく、他者にたいする偏見一般が戦争の原因であり、ゆえに、文化の普及と平和教育は神聖な義務である、とするのはUNESCO(国連教育科学文化機関)憲章の前文である。定番の名文であるが引用する。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となつた。

ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによつて可能にされた戦争であつた。

第2イメージの暴力の原因に話題を戻す。

マルクス主義にとって暴力の原因は資本主義国家である。フリードリヒ・エンゲルスによると、有産階級と無産階級(プロレタリア)との対立は歴史的な必然であり、それは国家の起源にさかのぼる。太古、財産は共有であったが、財産を私物化する者が現れ、奪われないようにする目的で警察や軍隊を組織し、国家なるものが作られた。有産階級はこうして蓄えた私有財産を資本として、無産階級を不当に安い賃金で働かせた[9]。つまり国家とは搾取の道具である。

エンゲルスはこの理論を練り上げる以前の1848年、カール・マルクスとともに『共産党宣言』を発表した。個々の労働者がプロレタリア階級となり、共産党を結成するさまを描く。国家は資本家の道具であるから、労働者は祖国を持たない。革命が成就した暁には、国家間の敵対は消え失せる。マルクスとエンゲルスは「万国のプロレタリア団結せよ!」と世界の労働者に呼びかける[10]。資本主義国家がなくなれば、暴力もなくなるのである。

19世紀には、労働者の世界団体として第一インターナショナルと第二インターナショナルが設立された。第一次世界大戦が始まると、あろうことか、西ヨーロッパの社会主義政党は自分の国の戦争遂行に協力するようになった。ウラディミル・イリイチ・レーニンはこの事実を捉えて、日和見的な社会主義政党を非難した[11]

マルクス主義の古典に忠実であったのが、小林多喜二が1929年に出した『蟹工船』である。プロレタリア文学などというとシリアスに聞こえるが、漁船で革命が発生し、大日本帝国の軍艦が弾圧しに来る、という筋はむしろコミカルである。「金持ちの手先」である将校と漁船の上層部が毎晩、サロンでパーティを開くというベタな描写には失笑を禁じえない[12]

暴力の原因を、国家の政治体制に求める意見もある。ドイツ帝国では、連邦参議院の議決を経て、その議長であるドイツ皇帝が宣戦布告をするのが憲法の規定であった。連邦参議院の代表は構成国から派遣され、国民によって選ばれたわけでないので、その意味で民主的でなかった。

第一次世界大戦において、アメリカ合衆国が対独参戦した原因には潜水艦による無差別攻撃、メキシコへの反米的な働きかけ、あるいはアングロサクソンのきずななどいくつかある。T・ウッドロウ・ウィルソン大統領が国民への演説で選んだ開戦の理由はその非民主性であった。ドイツの人々は「チェスのポーンや道具のように」戦争に駆り出された、と述べた[13]。ポーンは将棋の「歩」に当たる。後ろに下がることもできなければ、進軍命令を「いやだ」と拒むこともできない。

戦争の原因を資本主義と独裁に求めることには共通点がある。それらが国家の属性に注目する点だけでない。平和な世の中を築くには、資本主義なり、独裁なりを絶やさなければならない。革命には多くの血が流れるであろう。マルクス主義も民主主義も一見、平和を唱えるようでありながら、非妥協的で血なまぐさい十字軍の顔も持つ。

今日では、暴力の原因を国民の欲求段階に求める諸説に勢いがあるが、起源はエイブラハム・H・マズローの基本的欲求のヒエラルヒー説と考えられる。

マズローによると、人間の最も基本的な欲求は生理的欲求である。水分、糖分、たんぱく質、脂肪、ホルモンなどの体内バランスが、渇き、食欲、睡眠欲、性欲等を呼ぶ。これに次ぐのが安全の欲求である。「安全で秩序だった予想できる法則性のある組織された世界」を人は欲する。宗教、世界観、科学、哲学、神経症、脳損傷、そして権威といった心理的な秩序もあれば、戦争、病気、天災、犯罪、社会の解体、そして疾患といった物理的・社会的なものもある。より高次の欲求は所属と愛の欲求である。友達、恋人、妻、子ども、近隣、一族、階級、そして同僚がほしくなる。その上に承認の欲求がある。評判、信望、地位、名声、栄光、優越、承認、注意、重視、威信、そして評価であるが、欠乏しても人は死なない贅沢な欲求である。これさえ超越すると、自己実現の欲求に至る。他人の愛情や評価を意に介せず、わが道を行くことであり、「自分がなりうるものにならなければならない」とマズローは表現する[14]

マズローの説は暴力の原因に応用できそうである。生理的欲求の段階では、他者と組織的に戦う元気はないが、水と食べ物のためならば個人レベルの暴力をいとわない。集団としての安全欲求が強まれば、軍備を怠らず、過剰防衛を辞さなくなる。もっぱら自己実現が関心であれば、他者との関係そのものはもはや紛争原因にならない。

基本的欲求のヒエラルヒーを国家単位で応用した先駆的研究は、ロナルド・イングルハートの『静かなる革命』(1977年)である。西側の先進国でも、20世紀の初めは貧しかった。第二次世界大戦のころには、貧しさに加えて戦争で命を奪われるリスクも大きかった。イングルハートが発見したことは、戦後の豊かさを経験した世代では、生理的欲求と安全欲求といった物質主義の価値観は弱く、所属・承認と自己実現の諸欲求、すなわち脱物質主義の価値観、が強いことである。実際、1970年代には、政治参加、環境保護、そしてジェンダーといった争点への関心が高まった[15]

国際的な文脈に欲求段階を置いたのは、田中明彦の『新しい中世』である。彼は平均寿命が60歳未満で、政治体制の自由度が低い国々を「混沌圏」と呼んだ。長生きができないのは生理的欲求と安全欲求が十分に満たされないからであり、飢餓や内戦に悩まされている可能性もある。より寿命が高い、または政治体制の自由度が高い国々は「近代圏」であり、人々は国家間の戦争が不安である。近代国家としての体裁を整えるためにナショナリズムが必要であり、外国との摩擦が生じやすい。「新中世圏」は所得水準が高く、政治体制の自由度も高い先進国である。人々はナショナリズムよりも個人の幸せを求め、相互依存とトランスナショナリズムでそれを手に入れようとする[16]

分析レベルに従って、人間、そして国家と見てきた。最後が第3イメージの国際システムである。ウォルツが引く鹿狩りの比喩はジャンジャック・ルソーの『人間不平等起原論』が出所である。

太古、約束を守ること、そして、それを破った者を罰すること、の重要性を人間は知らなかった、とルソーは想像する。一匹の鹿を村人たちは囲い込んで捕えようとした。輪を小さくしていき、一斉に捕まえようと身構えたその時、一羽の兎がある村人の足元で跳ねた。彼はその兎に夢中になり、持ち場から離れた。鹿は走り去った。彼に罪の意識はなく、他の村人も持ち場を離れたことを罰しようと思わなかった[17]。次の日、皆、忘れていた。

鹿狩りの村人たちに国際システムにおける諸国家は似ている。思いのままに行動しても、罪の意識もなければ、それを罰する裁判所や警察もない。法を作り、罪を罰する王が現れて、人類は進歩したというのが常識であるが、ルソーは逆にそれを悪徳への道と考えた。いずれにせよ、ウォルツにとっては国際システムのアナーキー、すなわち無政府状態、が戦争の究極的な原因であった。

一方、アナーキーであっても戦争状態とはかぎらないとする説もある。代表的なものは、イギリスの国際政治学者であるヘドリー・ブルの国際社会論である。アナーキーであるから戦争状態になる、という説を、ホッブズの受け売りであると批評した。政府に権力を渡して、人々がそれを畏怖する時だけ秩序が保たれる、という議論を、国際システムには政府がないので諸国家は戦争状態にある、と機械的に類推した、と批判したのである[18]

ブルは、近代国際システムはホッブズの戦争状態とは似ていない、と主張する。それはアナーキーではあるものの、社会を形成している。そのような国際社会では「一群の国家が共通利益と共通の価値を意識し、たがいの関係において自らがルールに拘束されている」と理解している[19]

ブルの見解にはうなずかされる。鹿狩りの村人たちと一緒にするのはやめてほしい。上に立つ王がいなくても、責任感に満ち、自発的に協力する優れた人々はいる。国家もそうであり、国際社会には一定のルールがある。ただし、それを破る国もあれば、ルール自体が不備であることもあるので戦争は起きる。国際社会という捉え方だけでなく、世界システムやグローバルシステムという捉え方もある。国家以外の個人や集団がいて、良かれ悪しかれ国家の権威に服さないことがある。 ウォルツの述べた国際アナーキーの言説は国連の力不足や国家の自衛権に関しては妥当ではあるものの、戦争のすべてを説明するものでない。暴力にはさまざまな原因があり、それらを複眼的に捉えることが必要である。分析レベルの概念は有用であるものの、第3イメージが国際システムの本質であると主張する意味においてではない。第1、第2、第3のそれぞれのイメージにおいて、まだ十分に認識されていない要因はないであろうか?、とブレインストーミングする道具として有用なのである。


[1] ヨハン・ガルトゥング、『構造的暴力と平和』、高柳先男、塩屋保、酒井由美子訳、中央大学出版部、1991 年、5、11-14ページ。

[2] Kenneth N. Waltz, Man, the State and War: A Theoretical Analysis (New York: Columbia University Press, 1959).

[3] アルバート・アインシュタイン、ジクムント・フロイト、『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡』、浅見昇吾編訳、花風社、2000年、23-59ページ。

[4] H・D・ラスウェル、『権力と人間』、永井陽之助訳、第19版、東京創元社、1985年、46-47、49ページ。

[5] ラスウェル、『権力と人間』、77-78、103ページ。

[6] Saul Friedlander and Raymond Cohen, “The Personality Correlates of Belligerence in International Conflict: A Comparative Analysis of Historical Case Studies,” Comparative Politics, vol. 7, no. 2 (January 1975): 155-186.

[7] 士師記2

[8] サミュエル・ハンチントン、『文明の衝突』、鈴木主税訳、集英社、1998年、383、386、394-399ページ。

[9] エンゲルス、『家族・私有財産・国家の起源』、土屋保男訳、新日本出版社、1999年、145ページ。

[10] マルクス、エンゲルス、『共産党宣言』、大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波書店、1971年、52ページ。

[11] レーニン、『国家と革命』、宇高基輔訳、岩波文庫、1957年、23ページ。

[12] 小林多喜二、『蟹工船・党生活者』、新潮社、2008年、132、134-135ページ。

[13] Ray Stannard Baker and William E. Dodd, eds., The Public Papers of Woodrow Wilson, War and Peace (New York: Harper & Brothers, 1927), Vol. I, pp. 11-12.

[14] A・H・マズロー、『人間性の心理学』、産能大学出版部、1987年、55-90ページ。

[15] R・イングルハート、『静かなる革命』、三宅一郎、金丸輝男、富沢克訳、東洋経済新報社、1978年。

[16] 田中明彦、『新しい中世―21世紀の世界システム』、日本経済新聞社、1996年。

[17] ルソー、『人間不平等起原論』、本田喜代治、平岡昇訳、岩波書店、1933年、88-89ページ。

[18] Hedley Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics (New York: Columbia University Press, 1977).

[19] Bull, The Anarchical Society: A Study of Order in World Politics.

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テロリズム
テロリズムは二つの意味で論争的な暴力である。一方で、それは勝ち負けでなく、論争の存在を公にさらすことが目的である。暴力による破壊には、当然視されていること、あるいは既定のことを疑わせる効果がある。他方で、暴力を振るうことは正当とも、不当とも、人によって評価が分かれる。意図または目的といった主観的な要素はテロリズムの定義からぬぐいされず、それらが正しいと思う人にはテロリズムは正当である。民族解放の…
脱植民地化
https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…
期末試験チャレンジ 研究各論(グローバル・ガバナンス)2024年度前期
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実証主義、批判理論、ポストモダン
国際政治学とは、諸国民間における力と平和を求める闘争に関する研究である。モーゲンソー流に言うとこのようになる。その一方で、こうした定義はしばしば批判されてきた。なぜ、人々の幸福なり、ウェルビーイングなりを研究の対象としないのか? 確かに、21世紀になって高まった持続可能な開発目標(SDGs)への注目にはそうした問題意識が反映されていた。 今回のテーマは、実証主義とポスト実証主義の間の方法論上の論争が、国際政…
ロンドン海軍会議と統帥権干犯問題
(表紙の画像はAIによって作成された) 軍艦を増やしたい海軍、軍事費を抑えようとする大蔵省出身者、ナショナリズムを導いて個人的プライドを満たそうとする右翼と政治家…… 今から見ると、1930年のロンドン軍縮会議は歴史の分かれ目でした。浜口総理暗殺、満洲事変、金輸出再禁止、そして五・一五事件と、政治は戦時体制にいっきょに傾きます。 教科書での関連する記述 教科書 また、軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年にロンドン…

N番目国問題

1番はアメリカ合衆国、2番はソ連、3番はイギリス、4番はフランス、5番は中国。ここまでは核兵器不拡散条約の認める核兵器国である。以下は推測となるが、6番はイスラエル、7 番はインド、8番は南アフリカ、9番はパキスタン、10番は北朝鮮であろう。N番目国問題というのは、Nは自然数、つまり1以上の整数、のことで、1、2、3、4、5……、と核保有国の数が増えていくという問題である。今回のテーマは、核兵器不拡散条約で定められた核兵器国以外に核保有が拡散するのを防ぐにはどうしたらよいか論じなさい、である。

この問題を考える際の着眼点として、核保有の動機が国によって違うことが挙げられる。近隣に核保有国がないにもかかわらず核兵器を持とうとする国は、政権存続の切り札であると考えている。指導者の威信は高まるし、米軍でさえ簡単には手が出せなくなる。ある国が核保有すると、その宿敵の国に拡散する傾向があることも注目に値する。覇権国は拡散を止めようとするものの、原子力の平和利用を援助した歴史があり、国益で政策がブレたのでないか?、と疑われる。

もう一点、加えると、核保有が容易であると考えられる理由の一つに、材料の集めやすさがある。著名な研究者のグレアム・アリソンによると、1発の核弾頭を作るのに、「ウラン235ならば十六キロ弱、プルトニウム239ならば四キロあれば、実用に耐える核兵器が作れ」るという[1]。これは一人の人間が持ち運ぶことができる重さである。

核分裂性物質が手に入れば、核爆弾の組み立てである。国家が核武装する場合でも、いきなり出力の大きな完成した水素爆弾ではなく、原子爆弾から実験を行うものである。沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』という映画では、中学校の理科教員が核兵器を製造していたが、それはないであろう[2]。大ざっぱな設計図からでは、特に爆縮を成功させるために、試行錯誤を要するからである。

冷戦が終わって、旧ソ連から核兵器関係の技術者が流出しないかが心配された時期があった。国際科学技術センター(ISTC)はそうした人材を雇ってつなぎ留めておくため、日本、アメリカ合衆国、EC(欧州共同体)、そしてロシアが資金を出して設立された。2006年には職員の数は200人を超えたという[3]。核兵器の秘密は守られている、と考えるほうが非現実的である。

以下では、今日まで拡散が懸念されたことがある国々について、動機と歴史を確認する。

北朝鮮の場合、韓国とその背後にいるアメリカ合衆国という宿敵がいた。最初の実験炉はソ連から提供され、1960年代に稼働した。韓国の側にも核兵器開発計画があったものの、1979年に朴正熙大統領が暗殺され、全斗煥政権が発足した時、アメリカ合衆国の圧力により中止されたという。

北朝鮮は核兵器不拡散条約に1985年、加入した。IAEAの保障措置受け入れは拒否したので、加入した意味はほぼない。薄く切ったサラミのように見せかけの譲歩を繰り返すことから、北朝鮮の外交戦術はサラミ・スライシングと表現される。

1991年、北朝鮮は韓国とともに、南北相互査察を含む朝鮮半島非核化宣言を出した。翌年にIAEAとの保障措置協定に署名したところまではよかったものの、1993年になってIAEAの特別査察要求を拒否し、さらに核兵器不拡散条約からの脱退を表明した。準中距離弾道ミサイルのノドン1号を発射し、周辺国に冷や水を浴びせた。

振り返れば、北朝鮮を守っていたソ連と中国の後ろ盾がなくなっていた。ソ連は国家自体が崩壊した。中国は1992年、核兵器不拡散条約に入り、北朝鮮に核兵器を持たせない陣営に加わった。

目まぐるしく事態は変わり、1993年の6月に北朝鮮は核兵器不拡散条約からの脱退を中断した。1年後、アメリカ合衆国の元大統領ジミー・カーターが金日成主席と会談した。驚きの展開が頂点に達したのは1994年7月における金日成の死であった。

一連の動きが行き着いた先が米朝枠組み合意であり、1994年10月に署名された。要点は、軽水炉への転換とその支援、朝鮮半島非核化、そして核兵器不拡散条約への服従である。翌年、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が設立された。これは12か国の国際コンソーシアムであり、北朝鮮の電力をまかなう軽水炉を操業するための組織であった。いわば縮小版の原子力の国際管理を北朝鮮に応用する試みである。この枠組みを窮屈すぎると感じてか、北朝鮮は1998年、準中距離弾道ミサイルのテポドン1号を発射した。衛星の打ち上げと発表されたのは国際世論への配慮からであろうが、実質において核弾頭と変わりはない。

2年後の2000年、平壌において、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記が南北首脳会談を行った。平和統一への期待を高める出来事であったものの、核兵器とミサイルについて不安を解消する実際の行動は何もなかった。

米朝枠組み合意が破綻したのには、いくつかの原因があった。一つはプルトニウムの再処理ばかりに気を取られ、ウラン濃縮を禁止しなかったことである。秘密に北朝鮮がウラン濃縮をした場合、遠心分離機を回す電力を送るたくさんの電線を偵察衛星で見つけることしか徴候をつかむ術はない。もう一つは、ミサイル実験を禁止しなかったことである。迎撃するのが難しい弾道ミサイルの開発は、周辺国に反感を生じ、北朝鮮の孤立を深めた。最後に、外交関係の正常化が進まなかったことが挙げられる。米朝枠組み合意に、両国関係は最終的に大使級に格上げされると明記されていたのに、米韓日は北朝鮮を国家として扱わなかった。

米朝枠組み合意の破綻は2003年、公然のものになった。核兵器不拡散条約からの脱退を声明した3か月後、北朝鮮は核保有を認めた。外交的な話し合いである六者協議がその年の夏に始まった。これは南北と米中日ロにより構成された。2005年には、核兵器・核計画の放棄と平和利用の権利を述べた共同声明が出されたものの、翌年、北朝鮮がしたことはテポドン2号の実験であった。それはテポドン1号より大幅に射程が長かったが、中距離ミサイルであるのか、あるいはそれ以上、飛ぶのかまでは分からなかった。薄切りのサラミのような譲歩をしつつ、約束の抜け穴を見つけて挽回をする。これが金一族の常套手段であった。

同じ2006年の秋、北朝鮮は初の核実験を行った。他国の怒りを六者協議での譲歩でかわしたばかりか、アメリカ合衆国から自国のテロ支援国家指定を解除させるという譲歩まで引き出した。2009年に六者協議は破綻し、2回目の核実験が行われた。

若い最高指導者、金正恩、の登場は世界を驚かせた。父の金正日が2011年に亡くなり、最高指導者の地位を継いだのである。2012年にミサイル実験、2013年に3回目の核実験、2016年に4回目(水爆と自称)と5回目の核実験、2017年にICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験と6回目の核実験、と意気軒高であった。

2018年と2019年に起きたことは幻であった。2018年の元日、平昌オリンピックへの参加を北朝鮮が表明したのに始まり、4月の南北板門店宣言につながった。韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長は、「完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標」を確認し、国際社会の支持と協力を得るため、積極的に努力すると合意した[4]

続いて6月、ドナルド・J・トランプ大統領と金正恩委員長がシンガポールで出した共同声明で、北朝鮮は板門店宣言を再確認し、半島の完全な非核化に向けて取り組むことを約束した。9月、金と文は具体的な非核化の措置を記した平壌共同宣言を発表したものの、限定的な措置しか記されておらず、翌年のハノイにおける米朝首脳会談も成果がなかった。今度のサラミは厚切りであっただけに、幻であったと知った世界の落胆は大きかった。トランプは任期を終えた。

日本はといえば、非核化の要求と専守防衛で北朝鮮の核兵器開発に対応してきた。非核化要求を裏打ちするのは経済制裁であり、それには国連安保理決議に基づくものと日本独自のものがある。他方、専守防衛の手段はミサイルの迎撃であり、巨額な予算を投じてイージス艦やペトリオットの整備が進められた。このほか、国民保護法が制定されてミサイル警報が鳴ったり、敵基地攻撃のためのミサイルが導入されたりした。現在も、タカ派は核武装や核シェアリングを求め、ハト派は非核地帯を議論している。

インドとパキスタンは北朝鮮に先んじて核保有をした。インドの宿敵は中国である。中国が1964年に原爆実験をすると、インドは核兵器の開発を始めた。

インドは核兵器不拡散条約には加わらず、原爆を製造した。1974年に、平和目的核爆発という名目で実験を行った。実際には戦争で使う核兵器の実験と変わりないのに、作戦名は「スマイリング・ブッダ」と平和主義者の名を騙った。

1998年に、水爆実験をインドは行った。17日後、宿敵であるパキスタンが原爆実験で応じた。

1974年のインド核実験の翌年に、パキスタンの核兵器の父アブドル・カディール・カーンがヨーロッパから帰国している。4年後、アメリカ合衆国が開発を断念させようと経済制裁を科したことから見て、研究は急速に進んだようである。当時はソ連とインドが親しかったので、対抗する合衆国とパキスタンも親しかった。

冷戦が終わると、アメリカ合衆国は容赦なく核兵器開発を理由にパキスタンへの武器援助を止めた。中国はインドを共通の敵とするパキスタンにミサイル技術を移転したが、それを理由にアメリカ合衆国は1990年代前半、経済制裁を科した。パキスタンの弾道ミサイルは北朝鮮が輸出したものともされる[5]

当時の日本には軍縮外交の意志と経済大国としての自信があり、1992年の政府開発援助大綱は「開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器およびミサイルの開発・製造、武器の輸出入等」への注意を促した。インドとパキスタンには核兵器不拡散条約と包括的核実験禁止条約に署名・批准するよう、日本は申し入れた。1998年の核実験への制裁として、日米のみならず、スウェーデン、ドイツ、そしてオランダが経済援助を控えた。G8サミット、ジュネーブ軍縮会議、国連安保理なども非難声明を出した。

2001年9月11日のテロが起きると、アルカイダが拠点とするアフガニスタンに近いインドとパキスタンは、対テロ戦争の重要なパートナーになった。小泉純一郎政権は経済援助を再開した[6]

イスラエルはより早く核武装していたはずである。国家存亡の分かれ目において、核兵器を自衛のために使う、という状況はこの国において最も起こりそうである。

1956年のスエズ動乱でソ連のミサイルに脅されたのは英仏ばかりでなかった。翌年、イスラエルにフランスが原子炉および再処理施設の建設を支援する秘密協定が結ばれたとされる。この原子炉をイスラエルは平和目的のものであると発表した。アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領はIAEAの査察を1961年に要求した。イスラエルはIAEAではなく合衆国の査察であればと受け入れた[7]。核分裂性物質の入手には成功し、核爆弾を作った。

1973年の第四次中東戦争では核攻撃が準備されたと言われる。曖昧に否定も肯定もしない、いわゆる曖昧戦略、が核保有に関するイスラエルの政策であり、正確なところは分からない。

近隣諸国の核武装にはイスラエルはきわめて神経質であった。引き合いにだされるのはイラクのフランス製オシラク炉を1981年に空爆した事件である。イスラエルは選択肢から武力行使を外さず、2007年にシリア、2025年にイランの核施設を空爆した。

武力行使のリスクについて、イスラエルは計算しているはずである。湾岸戦争において通常弾頭を載せたスカッドミサイルをイラクに撃ち込まれた時、反撃するのを思いとどまった。

イランはまだ核武装していないが、軍事力・経済力・人口・領土など地域大国としての資格を満たしている。日本もそうであるが、やればできる国を非保有国のままにしておくことは核不拡散レジームの重要な使命である。

イランはパフラビー朝のもと核兵器の開発をしていたとされ、アメリカ合衆国から導入した原子炉が稼働していた[8]。イラン革命後はアメリカ合衆国と敵対関係になり、開発は続けられた。

平和目的と称するウラン濃縮が国際社会で問題化したのは、対米強硬派として知られるマフムード・アフマディネジャド大統領が在任中の2006年のことであった。 国連安保理はその4年後、イランへの制裁を強化している。2012年、イランはフォルドゥのウラン濃縮施設において純度20パーセントのウラン235を製造し始めた。

2013年のイラン核合意は、イランのハサン・ロウハニ大統領とアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領のもと、それぞれの外相であるモハマド・ジャバド・ザリフとジョン・ケリーを含むP5+1が交渉した成果であった。P5+1とは安保理常任理事国およびドイツである。内容は、3.67パーセントを超える濃縮ウラン貯蔵の禁止、使用済み核燃料再処理の禁止、そして経済制裁の緩和であった。20パーセントよりも3.67パーセントのほうが兵器級ウランの材料には遠い。イラン核合意はイランが合意に従っている間は核兵器製造の一歩手前で止めておく効果があったが、トランプは2018年に合意から離脱した。

第2期トランプ政権は2025年にイランの核施設を攻撃した。2026年、米軍とイスラエル軍は最高指導者アリ・ハメネイを殺した。これによって新たな核合意に達するか、イランの体制変化が起こるか、といったことは殺害直後の段階では分からない。

ここまでは現在も続く諸懸案を検討した。以下では解決した問題を振り返る。

イラクの経験は、核兵器の拡散を力ずくで止めようとすることがいかに困難か、の教訓である。

核兵器不拡散条約の署名とソ連製の研究用原子炉の稼働をイラクが行ったのは1968年であった。サダム・フセイン大統領就任後の1981年、上述のオシラク炉がイスラエルに空爆された。それにもめげず、ウラン濃縮計画が1980年代半ばに始まった。

湾岸戦争に負け、核兵器開発が露見した。開けてびっくりで、予想よりも多い核関連施設が見つかった。1991年4月の安保理決議S/RES/687により、UNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)が設けられた。米国籍の査察官が追放されるなど、イラクとアメリカ合衆国はしばしば対立し、1998年には、クリントン政権の空爆計画をコフィ・アナン国連事務総長が回避するよう取り計らった。翌年にUNSCOMはUNMOVIC(国連監視検証査察委員会)に改組された[9]

大量破壊兵器は生物・化学兵器を含む。イラクはジュネーブ議定書を批准したので、それらの使用は国際法違反であったが、イラクはイラン・イラク戦争で化学兵器を使った。1988年、サリン、タブン、VXなどを混合したカクテル・ガスが撒かれるハラブジャ事件が起き、少数民族のクルド人が犠牲になったのである[10]。大量破壊兵器を現実に使ったことがあるという汚名は後年、サダム・フセイン大統領に不利に働いた。UNSCOMは化学兵器を徹底的に廃棄した[11]

対テロ戦争に勝利したかにみえたアメリカ合衆国は次の攻撃目標をイラクに定めた。国連安保理の承認を得ようとしたものの、2002年の安保理決議S/RES/1441は武力行使の権限を与えなかった。2003年、アメリカ合衆国はイラクが大量破壊兵器を開発している「証拠」を提示して開戦してしまい、年末にサダム・フセインを拘束した。案の定、大量破壊兵器は見つからず、翌年、多国籍軍の調査団であるイラクサーベイグループは、公式な開発計画はなかった、と結論した。

なぜ、独裁者は核兵器を持とうとするのか? アメリカ合衆国に対する抑止力を得て、国民に威信を示すためであろう。似た話はリビアにもあった。

リビアのカダフィ大佐は1970年代から1980年代に核兵器の開発を積極化した。2000年から2001年には、六フッ化ウランを濃縮し、核兵器の設計図を入手した。

イラク戦争は核兵器を秘密に開発していた国々を恐怖に陥れたらしく、2003年末からリビアは恭順の態度をとり始めた。大量破壊兵器の不開発と査察受け入れを宣言し、IAEA保障措置の追加議定書に翌年、署名した。さらに、北朝鮮などと武器取引はしないと宣言し、アメリカ合衆国から経済制裁の解除を引き出した[12]

カダフィにとって、核兵器開発の断念が正しい判断であったかは分からない。2011年の「アラブの春」において反乱が勃発し、彼は殺されてしまったからである。リビアはイラクと同様、内戦で地獄のようになった。

核兵器を全廃した例はないのか? ロシア以外の旧ソ連3か国を除くと、南アフリカが唯一の例である。

キューバ危機後にアフリカ統一機構(OAU)が出したアフリカの非核化に関する宣言に白人が支配する南アフリカは縛られなかった。むしろ反アパルトヘイト陣営との紛争が激しくなり、核兵器開発の徴候が見られた。1979年、アメリカ合衆国の人工衛星が南大西洋で2回の閃光を探知した事件は、南アフリカまたはイスラエルの核実験でなかったかと疑われた。いずれにせよ、南アフリカは核兵器を保有していた。1993年に、かつて6発ないし7発の核兵器を保有していた、と公表されたが、実は数十発のサッカーボール大の小型戦術核兵器であったとの証言がある[13]

アパルトヘイトの廃止は、核兵器がその役割を終えたことを意味した。1990年、フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領のもとで核兵器は解体された。翌年には核兵器不拡散条約への加入が閣議決定された。こうしたお膳立てができて1994年、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれた。アフリカ大陸全体の非核化は1996年に署名開放されたペリンダバ条約が実現した。 国力の強化を至上のこととする立場を採用すれば、核武装は一見、良い方法である。しかし、上の諸事例からうかがえることは、国民がそれで幸福になるのか?、自由になるのか?、非常に疑わしいということである。民主主義があるイスラエルとインドに関しては国防上、不可欠であり、国民を抑圧していない、という意見があるかもしれない。しかし、核武装によって安全保障が高まった証拠はない。北朝鮮、イラク、そしてリビアについては核武装の目的は国内での抑圧そのものにあるとしか考えられない。核兵器は国内外の矛盾を封じ込める手段であって、矛盾を解決する手段でない。矛盾を解決するほうが良い方法であることは言をまたない。


[1] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、256ページ。

[2] 長谷川和彦、レナード・シュナイダー原作、沢田研二、菅原文太、池上季実子、北村和夫、神山繁、佐藤慶、風間杜夫、『太陽を盗んだ男』、キティ・フィルム、1979年。

[3] “旧ソ連の科学者・技術者の流出に係る国際科学技術センター(ISTC)の協力・支援 (14-06-01-15),” 国立研究開発法人日本原子力研究開発機構, February 2008, https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-06-01-15.html, accessed on February 17, 2026.

[4] “板門店宣言全文,” 日本経済新聞, April 27, 2018, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29946230X20C18A4000000/, accessed on February 17, 2026.

[5] 吉田文彦、朝日新聞特別取材班、『核を追うテロと闇市場に揺れる世界』、朝日新聞社、2005年、15ページ。

[6] 下村恭民、中川敦司、斎藤淳、『ODA大綱の政治経済学』、有斐閣、1999年、135-136ページ。田中均、『外交の力』、日本経済新聞出版社、2009年、167ページ。

[7] 山崎雅弘、『中東戦争全史』、学習研究社、2001年、213ページ。

[8] テレビ朝日、朝日放送テレビ、「サンデープロジェクト」、2007年6月17日放送。

[9] ウィリアム・リバーズ、スコット・リッター、 『イラク戦争―ブッシュ政権が隠したい事実』、星川淳訳、2003年、50ページ。ジェシカ・スターン、『核・細菌・毒物兵器』、常石敬一訳、講談社、2002年。今井隆吉、『IAEA査察と核拡散』、日刊工業新聞社、1994年、82ページ。

[10] 中川喜与志、『クルド人とクルディスタン』、南方新社、2001年、35ページ。

[11] スターン、『核・細菌・毒物兵器』、58ページ。

[12] 吉田、朝日新聞特別取材班、『核を追う テロと闇市場に揺れる世界』、80ページ。

[13] 『朝日新聞』、2005年4月11日、朝刊。吉田、朝日新聞特別取材班、『核を追う』、89ページ。

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幸福を指針とするべきか?
幸福も、自由も、ともによいものである。哲学者も、政治家も、宗教家も、皆、よいと言うものであるから、もはや、ほめられも、けなされもされなくなった。しかし、よいものはよいものである。問題は、幸福と自由では、いずれがよいか?、である。グローバルガバナンスについて論じる本書は、その指針としてすぐれているのはいずれか?、の問いに答える義務がある。 今回は、幸福をガバナンスの指針とすることの長所と短所を吟味しな…
満洲事変は居留民保護の仕組みで拡大
(表紙の画像はAIによって作成された) 外国で身の危険を感じたら、最後は出国しなければならないでしょう。 しかし、かつては違いました。居残るのです。自国民保護は世界で認められた権利でした。 紛争のニュースを見ると、満洲事変の様子を私は思い浮かべます。満洲開拓は世界でよくある入植の一つでした。引っ越しでなく入植なのは、まわりに自分たちと同じ文化の集団がいないからです。 二つの集団が異なる忠誠の対象を持ち、…
朝鮮戦争
冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて…
平和的紛争解決
国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との…
湾岸戦争に国際貢献するぞ!、と
(表紙の画像はAIによって作成された) 地雷は土に埋まっている爆弾。機雷は海に沈んでいる爆弾。 地雷を除くことは地雷除去。機雷を除くことは掃海。掃海のために使う船が掃海艇。 日本史で掃海が注目されたことは何度かあります。授業の最終回は1991年の湾岸戦争が舞台です。 教科書での関連する記述 教科書 湾岸戦争後の1991(平成3)年、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、自衛隊の海外派遣の違憲性などをめぐって意見…

非核地帯

非核地帯とは核兵器の非武装地帯である。そこには核兵器はないので、核攻撃の発源地にはならない。この意味で平和に貢献するともいえるが、核攻撃の目標にはなりうるわけで、その抑止を希望するのであれば地帯外の国に抑止力を期待しなければならない。もちろん、抑止を希望しない場合にそうした必要はないが、被弾の不安がなくなることが条件である。不安を取り払うことは簡単でないわけで、やはり何がしかの努力が必要である。非核地帯を設けようとする場合に乗り越えなければならない課題とは何か議論しなさい、が今回のテーマである。

西ドイツを核武装させてよいのか?、が非核地帯が国際政治の争点になった端緒である。それをさせたくなかったのはソビエト連邦であった。西ヨーロッパで核拡散が広がれば、東西間のバランスが崩れてしまう。自陣営の衛星国に核武装を認め、力を持たせる気はさらさらなかった。

そうしたソ連の意向をくんでか、1957年10月、ポーランドの外相アダム・ラパツキが東西ドイツとポーランドをおおう非核地帯の設置を提案した。それでは西ドイツ側が受け入れなかろう、と推し量ってか、翌年2月、チェコスロバキアを含める第二次案をポーランドは提案した。これらがラパツキ案である。かいなく、次の月、西ドイツ議会は核武装を決議した[1]

事の展開を苦々しく眺めていたのはアメリカ合衆国である。もともと、ソ連は東西ドイツを統一して中立国にすることを求めていた。、チェコスロバキアとハンガリーが結局、共産化された教訓を踏まえて、アメリカ合衆国はソ連が統一ドイツに親ソ政権を樹立することを警戒した。

非核地帯提案への賛否を判断する4基準なるものをアメリカ合衆国は作成した。第1に、地域内からの発意であること、第2に、地域内の全国家が含まれること、第3に、軍事上のバランスを乱さないこと、第4に、適切な検証および査察の規定があること、である[2]。ラパツキ案については、3と4に難があった。第3の基準については、アメリカ合衆国は核兵器で西ドイツを防衛するつもりであったから、非核化によって核兵器を持ち込めなくなってはバランスが崩れてしまう。第4の基準に関しては、鉄のカーテンのなかに査察員を入れてもらえるとは信じなかった。

西ドイツが最終的に核の傘を受け入れたことは、アメリカ合衆国には望ましい結末であった。

最初の非核兵器地帯が設立されたのはラテンアメリカにおいてである。キーパーソンはメキシコの駐ブラジル大使アルフォンソ・ガルシアロブレスであった。出発点は1962年10月のキューバ危機である。ガルシアロブレス大使は非核化を呼びかけるラテンアメリカ5か国大統領の共同宣言を調整し、1963年4月に実現した。国連総会も秋にラテンアメリカ非核化決議A/RES/1911を反対票ゼロで採択した。外務次官となったガルシアロブレスはラテンアメリカ非核化準備委員会の議長となり、1965年に交渉が始まった。彼にはこの功績で1982年のノーベル平和賞が授けられた。

1967年、ラテンアメリカ核兵器禁止条約(現在はラテンアメリカ・カリブ核兵器禁止条約)が署名された。別名であるトラテロルコ条約は、アステカ文明の遺跡があるメキシコシティの一地区トラテロルコに由来し、アステカ時代は首都テノチティトランの隣町であった。

トラテロルコ条約は、その後の非核兵器地帯条約のモデルとなった。内容を挙げる。禁止されるのは、核兵器の実験・使用・製造・生産・取得・受領・貯蔵・設置・配備・所有・管理である(第1条)。適用地域は、西半球におけるアメリカ合衆国の大陸部分およびその領海を除くラテンアメリカ・カリブ境界内である(第4条)。ラテンアメリカ・カリブ核兵器禁止機関(OPANAL)がメキシコシティに設立され(第7条)、それを中心に締約国の義務履行を検証するための管理制度が設けられる(第12条)。IAEAと保障措置のための協定を締約国は結ぶ(第13条)。平和目的核爆発を行うための制度が設けられる(第18条)[3]

成功の鍵は、発効のためのユニークな手続きであった。初めはラテンアメリカには非核化に反対する国々があり、当面、加盟は見込めなかった。ガルシアロブレスは、そうした国々が入らなくても条約を発効させる条文を考え出した。建前では地帯内のすべての国とすべての核兵器国による批准を必要としたが、希望する国についてはただちに発効、という非常に甘い条件を認めたのである(第29条)。そのかいあって、メキシコは署名した年内にトラテロルコ条約を発効させた。遅れていたアルゼンチンについては1994年、キューバについては2002年に発効した。

もう一点、述べておかなければならないのは、核兵器国側が非核化を約束する附属議定書Ⅱである。核兵器国は、非核化を尊重し(第1条)、締約国にたいして核兵器を使用せず、威嚇しない消極的安全保証をする(第3条)。核兵器不拡散条約での義務と違い、適用範囲であるラテンアメリカとカリブには、核兵器の貯蔵も許されない。

キューバ危機では、ソ連の核ミサイルがアメリカ合衆国に向けられ、軍事的緊張が急上昇した。トラテロルコ条約はこの地域においてそうした核兵器の配備を防ぎ、緊張緩和に大いに貢献することになった。その価値はヨーロッパにおける中距離核戦力条約に匹敵した。両条約とも、核戦力の対峙を引き離す効果がある。ラテンアメリカ・カリブ地域に核の傘は差し掛けられていないものの、それは長距離核戦力の脅威がもともと存在しないからである。非核化はヨーロッパでは部分的、ラテンアメリカ・カリブ地域では全面的、と違いはあるが、共通点は少なくない。

他の地域でも非核兵器地帯が作られた。南太平洋非核地帯条約、すなわちラロトンガ条約、は1986年に発効した。放射性廃棄物の投棄の禁止を含むことが、核兵器だけを規制するトラテロルコ条約と異なる。そうなった背景には、フランスの核実験や日本の核物質投棄計画への反対があった。

東南アジア非核兵器地帯条約、すなわちバンコク条約、は1997年に発効した。中央アジア非核兵器地帯条約(セミパラチンスク条約)とアフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)はともに2009年に発効した[4]。これらすべてにおいて、核兵器国は消極的安全保証の約束をした。

ほかにも、モンゴルが一国で非核兵器地帯を宣言したものがあり、国連総会にも1998年に歓迎された(A/RES/53/77D)。2000年にモンゴル国会は非核兵器地帯の地位を国内法で定め、五つの核兵器国も非核兵器地帯を保証する共同宣言をした(A/RES/55/33S)。

構想段階のものとして、中東の非核化がある。こちらはイスラエルが事実上の核保有国であるうえ、イランがウラン濃縮を進めていて実現していない。

北東アジアの非核化も検討課題である[5]。日本は非核三原則を持つが、朝鮮半島の非核化は挫折している。台湾の位置づけも難しい。消極的安全保証をはじめ、中国が踏み込んだ約束をしなければバランスを欠いていると評価せざるをえない。

特定空間の非核化というものがある。1959年に署名された南極条約は南極での軍事基地の設置と核爆発を禁止する。宇宙条約(1967年署名)は宇宙への大量破壊兵器設置を禁止する。月協定(1979年署名)は、月における武力の不使用・不威嚇ならびに月軌道・月面上における軍事施設の不設置を定める。海底核兵器禁止条約(1971年署名)もある。

これらの非核化が進めば、将来、核保有国を除くすべての空間で核兵器がなくなるかもしれない。そうなれば、核保有国はそれらどうしで核戦争をするのであろうか? 核武装する意味を失った核保有国は自発的に核爆弾を捨てないであろうか? 楽しい空想にとどまらずに、ぜひ実現してほしい。


[1] 近藤和子、福田誠之郎編、『ヨーロッパ反核79-82』、新泉社、232、238-239ページ。

[2] Annex A “Criteria for Nuclear Free Zone,” in “Eighteen-Nation Disarmament Committee US Disarmament Measures Paper #20 Nuclear Free Zones,” January 27, 1964, p. 1; DEF 18-9 Demilitarized & Nuclear Free Zones, 1962-1964; Pol. Affairs and Relations China Nuclear Test to SP 1B Ban on Bombs U.S. and U.S.S.R., Box 7; Records Relating to Disarmament and Arms Control, 1961-1966; General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, MD.

[3] 藤田久一、浅田正彦編、『軍縮条約・資料集』、第3版、有信堂、2009年、282-287ページ。

[4] 梅林宏道編、『イアブック「核軍縮・平和2009-10―市民と自治体のために』、NPO法人ピースデポ、2010年、78-79ページ。

[5] 梅林宏道、『非核兵器地帯―核なき世界への道筋』、岩波書店、2011年、150ページ。

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核の傘

旧約聖書に「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。」[1]という節がある。もちろん、武具を捨てて平和的な道具を作ることをいう。これをもじって、『鋤から剣へ―民生核エネルギーの軍事的潜在力』という本が1977年に著された。すでに1974年、インドが核実験を成功させており、さらに核武装を行う国が現れる、と懸念されていた。この本は、3~6発の核兵器を製造するのに必要なプルトニウムを持つ国として、西ドイツ、イスラエル、ベルギー、南アフリカ、そして日本を挙げた。イスラエルと南アフリカはすでに核武装していたであろう。平和目的の原子炉のなかでプルトニウムは生成される。著者たちは「有用かつ安全な核活動と危険な核活動を分ける明確な線があったなら、すばらしかったろう」と記した[2]

この本の著者の一人はアルバート・ウォールステッターであった。彼は核拡散を極度に恐れるネオコンまたは新保守主義の先覚者である。ランド研究所に籍を置いた経歴がある専門家でもある。ネオコンたちはしばしばまちがいを犯したものの、鋤から剣へ、の警告自体は正しかった。その一方で、現実の核拡散はネオコンたちが懸念した速度では進まなかった。今回のテーマは、核の傘の長所と短所について、核兵器の保有国と非保有国の立場に分けて論じなさい、である。

核の傘とは、核大国が同盟国に差し掛ける拡大された抑止である。傘の下は、抑止が効いていれば攻撃されないので安全かもしれない。万が一、攻撃されてしまったならば高確率で火の海である。傘とはいっても、それは物理的にミサイルから守ってくれるわけではない。敵にミサイルを撃たせない心理的な傘である。

1956年のスエズ戦争において、ソ連は核兵器を使う威嚇をした。「ロケット兵器がイギリスとフランスに使われたら、あなたはこれは野蛮な行為とでも呼ぶのでしょう」とアメリカ合衆国に書簡を送り、運河地帯に派兵をした英仏を止めさせた。ソ連の威嚇は政治指導者たちに瀬戸際外交の現実を知らしめた。西ヨーロッパで原爆を持っていたのはイギリスだけであった。

西ドイツのコンラート・アデナウアー首相は核武装に傾いた。同国の科学者たちは異を唱え、「ドイツ軍を原子兵器で装備する計画は、下記に署名する原子科学者の憂慮に堪えない」と1957年4月、ゲッティンゲン宣言を発表した。「われわれは、水素爆弾に対する東西両陣営の恐怖の念が今日全世界の平和と一部における自由とを維持することに根本的に寄与していることを否定するものではない」と、核抑止により西ドイツの自由な体制が守られていることを理解していた。「西ドイツのごとき小国にとっては、今日明確に、かつ、自発的にすべての種類の原子兵器の所有を断念することが最もよく国を護り、世界の平和を促進する途であると信ずる。」と西ドイツの核武装を支持しなかった。同時に、原子力の平和利用はむしろ推進するつもりであると強調したが、中心となったのは不確定性原理で有名な物理学者ベルナー・ハイゼンベルクであった[3]

核武装を西ドイツは実行しなかった。西ベルリン市民はソ連に人質にとられていた。強引に核武装すれば、災難は西ベルリン市民のうえに降りかかったろう。

フランスはスエズ戦争で撤退し、アルジェリア戦争で苦しんだ。1960年、原爆実験に成功した。指導力に欠けた第四共和政を廃したシャルル・ドゴール大統領は国家威信を回復する目的で核武装を利用した。

しかし、多くのNATO加盟国は核保有をしなかった。米英仏は核保有国であり、西ヨーロッパの防衛のためにはNATO軍として核兵器も使うと言っている。保有していない加盟国が要求すれば、この3国は核攻撃をしてくれるのか? 核兵器の引き金を引くかを決める権利は、やはり3国だけが持つのでないか?

1962年、核戦力を加盟国が提供し、それを共同の指揮系統のもとに置く多角的核戦力(MLF)をNATOに設けることで米英が合意した。ところが翌年、これが編成された際に、フランスは参加しなかった。

ついに1966年、フランスはNATOの統合軍事機構から離脱した。NATOに加盟したままで、共同防衛に参加することは変わりない。しかし、フランス軍を外国人の指揮下には入れないし、外国軍が国土に駐留することもない。NATOの本部はパリからブリュッセルに移転した。フランスが軍事機構に復帰したのはニコラ・サルコジが大統領を務めた2009年になってからであった。

1970年代、米ソの長距離核戦力に上限が設けられた一方、中距離核戦力の強化が図られた。1977年にソ連のミサイルSS-20が配備される見通しであることがNATOで報告され、危険性が認識され始めた。やはり中距離の航続距離を持つバックファイア爆撃機も就役し、脅威を高めた。米ソ間のMADによって戦争は相互抑止されているはずであるのに、西ヨーロッパでは核戦力が増殖する奇妙な状況になった。

1977年、西ドイツのヘルムート・シュミット首相はデカプリングのおそれを指摘した。デカプリングとは、核保有国が同盟国への拡大抑止をとりやめることである。アメリカ合衆国に置かれたICBMは、ヨーロッパの都市や軍隊が核攻撃を受けても、報復攻撃してくれないかもしれない。ソ連もあえてアメリカ合衆国の本土に核攻撃を加えて、自領への報復を招くことは控えるであろう。米ソの間でそうした暗黙の合意ができてしまえば、廃墟となるのはヨーロッパだけである。

折しも交渉中のSALT IIでは、SS-20やバックファイアは規制の外になり、ソ連の中距離核戦力が一方的にヨーロッパを攻撃できる事態になりかねなかった。シュミットの指摘に、米ソも耳を傾けなければならなかった。SALT IIのもと、バックファイア爆撃機の生産を制限する、とソ連は声明したものの、SS-20は依然、規制の外であった。

NATOの二重決定は、SS-20とバックファイアにどう対応するかの答えであった。それは1979年12月の外相・国防相会合で行われた二つの決定である。第1の「近代化」とは、アメリカ合衆国の中距離核ミサイル、パーシングⅡ、のヨーロッパへの配備である。第2の「軍備管理」は、中距離核戦力の制限交渉を始めることである[4]

中距離核戦力の軍備管理交渉は1981年に開始され、1987年、それを全廃する中距離核戦力条約(INF条約)が署名された[5]。その間、ヨーロッパでの核戦争が本気で恐れられた時期があり、交渉が急進展したのはミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者に就いてからであった。

30年間、安心をもたらした中距離核戦力条約は2019年、アメリカ合衆国のドナルド・J・トランプ政権による通告に基づき失効した。安全保障担当補佐官であったジョン・ボルトンは述べる。

肝心なのは、INF条約に縛られている国が2カ国だけで、そのうちの一国が不正に違反を繰り返していた点だ。中距離ミサイルの開発が事実上阻まれているのは、世界でただ一国、すなわち米国だけだった。1980年代半ばにこの条約が発効した時点ではこの条約の存在は有意義なものだったとしても、現在ではすっかりその意味が失われている[6]

核の傘または拡大抑止についてのまとめをする。核保有国にとっての長所は核拡散を防ぎ、核の寡占を維持できること、短所は他国の核戦争に巻き込まれるリスクがあることである。

非核保有国にとっては、他国の抑止力に依存でき、核拡散を防いで世界平和に寄与するという長所が核の傘にある。短所では、第1にデカプリングのリスク、第2に同盟国への従属、第3に核廃絶の失速、が挙げられる。

日本の非核政策は西ドイツのものと重なる。ともに第二次世界大戦の敗戦国であり、平和国家である。1947年に施行された日本国憲法の第9条2はこう定める。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

平和憲法を持ちながら核兵器を持つことはできるであろうか? 固有の権利である自衛権の範囲のなかで、上陸してきた敵を水際で核防衛することは可能という人もいるかもしれない。

歴史的に、核武装にかぎらず、専守防衛を広く解釈することには自制が働いてきた。敵基地攻撃論に関して、1956年に社会党の石橋政嗣は「敵の基地から攻撃を受けた場合、報復攻撃はできるのか」と衆議院防衛委員会において質問した。防衛庁長官の船田中は、外国にある「敵の基地を攻撃することは憲法違反ではない。しかし、基地を攻撃するための長距離ミサイルや爆撃機を保有することは憲法に反する」と答えた。鳩山一郎総理大臣は「困りましたね。ミサイルを空中でぱっと受けとめる手はないですかね」とお茶を濁すしかなかった[7]。本音では、報復攻撃は日米安保条約のもと米軍の仕事であって、自衛隊が立ち入れる範囲ではない、という感覚があったろう。

他方、原子力発電では、自主が唱えられた。物理学者の武谷三男が1952年に示した原子力三原則、すなわち「自主、公開、民主」、が大きな影響を与えた。翌年のドワイト・D・アイゼンハワー大統領によるアトムズ・フォー・ピース演説は、各国による原子力の平和利用を援助するという意味で、自主の流れの追い風となった。アメリカ合衆国が日本に核物質を提供する枠組みである日米原子力協定が結ばれた1955年、読売新聞の主催により東京で原子力平和利用博覧会が開かれ、世論が盛り上がった[8]

その直後の1955年12月、原子力三原則を盛り込んだ原子力基本法と原子力委員会及び原子力安全委員会設置法が公布された。「公開」と「民主」という原則は、原子力委員会の任命に衆参両院の同意が必要という規定に反映された。1958年には、日米動力協定と日英動力協定が結ばれた。東海村で、コールダーホール型の原子炉が運転を始めたのは1966年のことであった。

発電が自主であれば国防は従属であった。中国の原爆実験は1964年であった。翌年、アメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領は日本にたいする核の傘を保証している。当時の池田勇人と佐藤栄作という二人の総理大臣はともに本心では核武装を望み、合衆国側にもそれを隠さず、それがジョンソンの発言につながったという[9]。これは不拡散政策を具申した1965年のギルパトリック報告書と同時期であり、核武装の企てはまったく手遅れであった。

1967年12月、佐藤栄作総理大臣は「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まない」と声明した。保有と製造の否定は、翌年の核兵器不拡散条約が求めるところでもあるので不思議はない。問題であるのは「持ち込まない」である。それはすでに署名が始まっていたラテンアメリカにおけるトラテロルコ条約なみに日本を「非核地帯」にするのに前向きである。

誰の核兵器を持ち込まないのか?、と問われれば、米軍のものとしか考えられない。米軍はどこで核戦争をするのか?、と問われれば、それは日本の領域ではなく、朝鮮半島か、台湾海峡か、インドシナ半島かである。その場合、日本は後方支援の拠点であり、核兵器は軍艦に載せたままで、横須賀なり、佐世保なりに寄港するだけでよかった。寄港は「持ち込み」ではない、というのが政府の見解で、その点は他の地域、例えばトラテロルコ条約のラテンアメリカ、でも曖昧である。

つまり、「持ち込み」は米軍の問題で、日本にとっての関心事でない。それでいて、日米安保条約があるので、日本政府としてはアメリカ合衆国の要求に従わざるをえない。万が一、国土を守るために米軍の核兵器を使うとしても、非核三原則は法律でないので、やめてしまえばそれまでだ、という心づもりであったにちがいない。

そうしたプラグマティック(実際的)な姿勢が実は問題である。日本政府の側に、なぜ外国の核兵器を国家主権にかけて領土に置かせないのか、の理由がない。核兵器は敵の核兵器の標的になることが隠されている。

佐藤栄作は非核三原則によって1974年にはノーベル平和賞まで与えられた。非核三原則の表明は、彼を国内政治の風圧から救ったであろう。1968年、米海軍の原子力空母エンタープライズが佐世保に入港することに反対し、激しい学生運動が起きた。学生たちにとっては細かいことを抜きに、ベトナムの人々を苦しめている米軍に加担することは、闘って阻止しなければならなかった。反米的な風潮に政権が対抗するには、非核三原則が風よけになった。

沖縄への持ち込みの密約はプラグマティズムが著しく現れた例である。1967年に日米首脳会談で沖縄返還が決定し、1969年に、有事における沖縄への核兵器持ち込みの密約があったとされる。当の密約とは、佐藤の密使としてアメリカ合衆国と交渉した大学教授の若泉敬が証言した合意議事録のことである[10]

証言された合意議事録と佐藤栄作の遺品から見つかった合意議事録とはほぼ同一であった[11]。遺品の合意議事録には、極東諸国の緊急事態に際し、米軍が当時の「核兵器貯蔵地である沖縄の嘉手納、那覇、辺野古、ナイキ・ハーキュリーズ基地」を使うことができる、と書かれている。

有事に、武器のストックを戦地の周辺に置いておきたい、とか、沖縄の米軍基地に飛来する弾道ミサイルを迎撃するために核弾頭が必要だ、といった米側の希望を佐藤は受け入れたのであろう。署名の日の彼の日記には「後は後世史家の批評にまつのみ。」と書いてある[12]。1971年に沖縄返還協定が結ばれ、翌年、沖縄は返ってきた。佐藤はプラグマティズムの人であるので、しばらくは沖縄返還の祝賀気分が密約の噂をかき消してくれる、と見越したのであろう。

1968年1月、佐藤栄作総理大臣は核軍縮、核抑止への依存、そして原子力の平和利用を非核三原則に加えた四本柱を主張した。同じ年の7月に採択される核兵器不拡散条約と「持ち込まない」の突出を除けばこれは一致する。

非核兵器国の地位に甘んじたくないという反発が政府内でくすぶっていた。外務省は同じような立場にある西ドイツ政府に、非核兵器国の地位が固定化されることから生ずる懸念をぶつけてみた。1980年ごろまでに起こりうる事態として、インドの核武装と米中接近を挙げた。それらは条約から脱退する権利を与える至高の利益を危うくする事態である、と日本側は述べた[13]。インドは関係あるのか? 米中接近は国益を害するのか? これらの理由で核武装するのは無理筋であろう。

核保有への未練は政府内で消えなかった。核兵器不拡散条約採択の前年、それが禁止する平和目的核爆発を実施したいと外務大臣がアメリカ合衆国側に語ったという[14]。防衛庁長官は核武装の可能性を庁内で議論させた。中曽根康弘の回顧録から引用する。

私が防衛庁長官をやっていた一九七〇年、いまから三十年以上も前のことですが、実は日本の核武装の可能性について研究させたことがあります。当時、伊藤博文の孫が防衛庁の技官としてこの問題について一番勉強しているというので、彼をチーフにして専門家を集め現実の必要を離れた試論として核武装をするとすれば、どれぐらいのお金がかかるか、どのぐらいの時間でできるかといった日本の能力試算の仮定問題を中心に内輪で研究させたのです。

その結論は、当時の金で二千億円、五年以内でできる、というものでした。ただし、日本には核実験場がありませんでした[15]

誰から日本を守るため、米軍の核の傘が必要であったのか? 冷戦中はソ連であったろうか? 第三次世界大戦の危機は現実とも幻想とも正体がつかめないものであった。具体的な日ソ間の紛争とは、こちらから北方領土を奪回しないのであれば何があったのか?

現在の中国に関しては、尖閣諸島や東シナ海に具体的な緊張の要因がある。台湾や東南アジア諸国に肩入れして、中国との紛争に巻き込まれることも考えられる。中国は、毛沢東が「中国はズボンをはかなくても核を持つ」と言ったとされるほど核兵器にこだわりを持つ[16]。アメリカ合衆国と中国は核ミサイルの照準を相互に外すことに1998年、合意したというが、それは一昔前のことである[17]。習近平国家主席の時代になり、中国は空母も核ミサイルも増やしている[18]

通常兵器には通常兵器で備える手だては日本にあるが、核兵器には立ち向かいようがない。戦略核戦力には、日米安全保障体制のもとでの核の傘に依存するが、そもそも米中の撃ち合いである。他方、中距離核戦力を使う交戦では、日本は戦場の一部になる。台湾有事にアメリカ合衆国が軍事介入すれば、米軍基地がある日本は自動的に巻き込まれる。かつてのヨーロッパをめぐる論争を踏まえれば、中距離核戦力は本質的に危険である。敵のミサイルが着弾するまでの時間的余裕がなく、抑止は信用できない。

日本の国益は核軍縮・軍備管理にあるにもかかわらず、それに慎重な意見がある。佐藤行雄元国連大使は自著のなかで、「国の安全保障に不可欠な拡大抑止の効果を弱めないように注意していくことも、日本の核軍縮外交の重要な課題だ。」と書く[19]。確かに、米中をライバルと見る時、アメリカ合衆国の側が一方的に核兵器を減らせば、日本の安全保障を損なうであろう。

では将来、米中の積極的安全保証と消極的安全保証のもとで、両国を除く東アジアが非核化する動きが出た場合、日本は反対するべきであろうか? 軍縮に反対する論者は、日本はデカプリングされ、核の傘は外される、と言うであろう。しかし、中距離核戦力以外によって、日本が核兵器の標的となる状況はかなり特殊な場合と考えられる。

ここで想起されるのが1994年に国連総会が核兵器使用の違法性についての勧告的意見をICJ(国際司法裁判所)に求めた際の日本政府の陳述書である。なぜか、当初は違法性を否定していた。梅林宏道は、核兵器の使用は「「実定国際法に違反するとまでは言えない」と、結局は削除に追い込まれた部分を、なぜ外務省条約局長は書きたかったのだろうか。それは、「核の傘」を守り、アメリカを守るために必要であったからである。」[20]と分析する。

米中ともに、核兵器を維持したいばかりか、使う権利も維持したいと考えている。核不拡散レジームにおける核兵器国の責任感というものが欠けている。 核戦争を戦うことを前提に、そこから逆算して安全保障を追求すれば、軍縮の可能性はほとんどない。国防の最終段階における自衛権の行使は否定しないが、ふだんは他国と軍事的緊張に陥らないよう相互に間合いをとり、方向を調整するほうがむしろ国防の強化になる。喩えるなら、終末時計を逆回転させるような達観した外交ができるという意味での「自主」であれば歓迎できる。


[1] イザヤ書、2、4。

[2] Albert Wohlstetter, Thomas A. Brown, Gregory Jones, David C. McGarvey, Henry Rowen, Vince Taylor, and Roberta Wohlstetter, Swords from Plowshares: The Military Potential of Civilian Nuclear Energy (Chicago: The University of Chicago Press, 1977), pp. 16 and 47.

[3] 久野収、『核の傘に覆われた世界』、平凡社、1967年、345-347ページ。

[4] 佐瀬昌盛、『NATO―21世紀からの世界戦略』、文芸春秋、1999年。

[5] シベリアおよび極東では中距離核戦力は半減で済まされるというのが、交渉途中での見立てであった。ソ連全土において全廃されることになったのは日本政府の要求によるとされる。五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編、『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』、朝日新聞出版、2008年、149-150ページ。

[6] ジョン・ボルトン、『ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日』、梅原季哉、関根光宏、三宅康雄訳、Kindle版、朝日新聞出版、253-254ページ。

[7] 石橋政嗣、『「五五年体制」内側からの証言』、田畑書店、1999年、101-102ページ。

[8] 日本放送協会、「BS1 スペシャル 核の“平和利用”知られざるもうひとつの東西冷戦」、2014年11月30日。

[9] 松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、194-195ページ。

[10] 若泉敬、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』、文芸春秋、1994年。有識者委員会、「いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告書」、外務省、2010年3月9日。

[11] 外務省の公文書から合意議事録は発見されていない。

[12] 伊藤隆監修、『佐藤栄作日記』、朝日新聞社、1998年、539ページ。

[13] 「“核”を求めた日本」報道において取り上げられた文書等に関する外務省調査報告書」、外務省、2010年11月29日、2ページ。

[14] 『日本経済新聞』、朝刊、2012年8月1日。

[15] 中曽根康弘、『自省録 歴史法廷の被告として』、新潮社、224-225ページ。

[16] 防衛システム研究所編、『核神話の返上』、内外出版、2009年、63ページ。

[17] 五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編、『岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』、朝日新聞出版、2008年、149-150ページ。

[18] 防衛省、『令和2年度版防衛白書』、2020年、63ページ。

[19] 佐藤行雄、『差し掛けられた傘 米国の核抑止力と日本の安全保障』、 Kindle版、時事通信、2017年、Kindleの位置No.2846-2847。

[20] 梅林、『非核兵器地帯―核なき世界への道筋』、131ページ。

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普遍的人権
https://youtu.be/52BYfykXUDI 人権外交について具体例に言及しながら論じなさい、というのが今回のテーマである。人権は市民革命の時代から、もっぱら国内の法規範であった。普遍的人権、というのは、それを万国、全世界に広げようという発想である。これもローズベルトの四つの自由が発端であった。それ以来、行われてきた人権外交は、壮大な人類の実験と呼んでよい。 第二次世界大戦後の秩序を、アメリカ合衆国では国務省が立…
覇権の衰退
https://youtu.be/6YeeFFKYP-o 紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経…
N番目国問題
1番はアメリカ合衆国、2番はソ連、3番はイギリス、4番はフランス、5番は中国。ここまでは核兵器不拡散条約の認める核兵器国である。以下は推測となるが、6番はイスラエル、7 番はインド、8番は南アフリカ、9番はパキスタン、10番は北朝鮮であろう。N番目国問題というのは、Nは自然数、つまり1以上の整数、のことで、1、2、3、4、5……、と核保有国の数が増えていくという問題である。今回のテーマは、核兵器不拡散条約で定められた…
日本はオットセイ保護の先進国だった?
(表紙の画像はAIによって作成された) ワシントン条約というと、今でこそ絶滅のおそれのある野生動植物の取引に関する規制のことです。それより半世紀以上もまえに、絶滅のおそれがあった動物を守る条約があったのをご存じでしょうか? それが1911年のオットセイ保護条約(膃肭獣保護条約)です。戦前の太平洋は五つの大国が中心となって管理しました。すなわちイギリス、アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)、フランス、そして日本です。こ…
消費社会
https://youtu.be/WFPud-QUSm4 週末の家族客で賑わうショッピングモールは欧米はもちろん、アラビアでも、中国でも、アフリカでも、世界のどこでも見られる光景である。何でも揃い、何でも買え、クレジットカードが利用でき、美的センスのある春の気候の遊歩道をぶらぶら歩きすることは楽しい。「快適さと美と効率のこの結びつき」を「幸福の物質的諸条件」と述べたのは、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールであった。ここで…

核軍縮・軍備管理レジーム

唯一の被爆国である日本は核軍縮から腰が引けていて、「究極的廃絶」とか、「現実的かつ漸進的なアプローチ」とか、「実際的かつ効果的な措置」とか唱えている。一歩ずつ進んでいこう、という趣旨であろうが、日暮れて途遠しの喩えどおり、ゴールにたどり着くか疑わしい。その点では、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領が唱えた「核兵器のない世界」も大差なかった。日米の核軍縮政策の実態は、廃絶でも虐殺でもなく、「核兵器とともに生きる」といったところである[1]

冷戦後、核軍縮が進まないことにしびれを切らし、核保有国に廃絶を実行するよう要求した諸国は新アジェンダ連合と称した。ブラジル、エジプト、アイルランド、メキシコ、ニュージーランド、スロベニア、南アフリカ、そしてスウェーデンがそれであるが、スロベニアとスウェーデンは抜けてしまった。

今回のテーマは、核兵器廃絶と既存の軍縮・軍備管理レジームとの関係について論じなさい、である。それらのレジームがすべて前進すればいつか廃絶は可能かもしれない、と希望を抱かせる。しかし、歴史が教えたことはこれまでの道のりの困難と、持ち続けたい核保有国の執念であった。

ビキニ環礁での水爆実験はヒロシマとナガサキ以来、初めての大規模な民間人の被害を伴った。1954年に起きた放射能汚染によって、島民は病気や死に苦しみ、別の島に移住し、その後、帰ることはできなかった[2]

この惨事は日本で第五福竜丸事件として知られる。第五福竜丸は東京都の夢の島に打ち捨てられ、のちに建てられた展示館に今も保存されている。もともとマグロ漁船で、静岡県の焼津が母港であった。ビキニ環礁付近で操業中、放射性降下物を浴び、船員に脱毛などの症状が出た。この年のうちに、1名が死亡した。放射線被曝は新聞やニュース映画で報道され、日本各地で核実験禁止の署名運動が行われた[3]

文化をつうじても、放射能の恐怖は広まった。1959年の映画『渚にて』は、第三次世界大戦で絶滅寸前の世界が舞台である。シアトルも放射線によって死に絶えたはずであったが、そこから電信が送られてくる。内容は意味不明である。かろうじて人が生きているオーストラリアから調査団が派遣された。彼が見たものは……、というのがあらすじである。

日本では、井伏鱒二による小説『黒い雨』が1965年に出た。広島で起きた実話に基づいて被曝による体の変調を描く。中学や高校の教科書にも採用され、悲惨さを人々に知らしめた。今村昌平監督によって1989年に映画化された[4]

放射線への恐怖は全世界的に大気圏内核実験への向かい風となった。1958年にソ連が始めた核実験の一時停止にはアメリカ合衆国も追随し、1961年にソ連が再開するまで続いた。他国を畏怖させる示威効果のメリットを、国際世論を険しくするデメリットが上回った。

1963年に部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名・発効されたのは、放射線への恐怖感が原因であった。この条約は大気圏内、宇宙空間、そして水中での核実験を禁止したものの、地下核実験は禁止されなかった。

核実験を行えば、地震波なり、放射線なり、閃光なり、チリの発生なりで事実を隠すことができない。これが条約遵守の検証をたやすくし、部分的核実験禁止条約の締結につながった。ソ連水爆の父、アンドレイ・サハロフ、は次のように条約を評価する。

私は、部分的核実験停止条約が歴史的意義を持っていると見ている。この条約は、もし大気圏、水中、大気圏外で核実験が続行された場合犠牲となるであろう数十万、おそらくは数百万の人命を救ったことになる。だがもっと重要なことは、おそらくこの条約が熱核戦争の危険回避への第一歩であったことである。私は、この部分的核実験停止条約に自分が関係したことを誇りに思っている[5]

地下核実験は冷戦中は継続された。冷戦が終結して、ようやく大国は重い腰を上げ、1990年末のソ連を皮切りに、中国を除く国連安保理常任理事国が核実験モラトリアムに入った。

日本も1992年に閣議決定した政府開発援助大綱(ODA大綱)において、大量破壊兵器およびミサイルの開発・製造には注意を払うとした。ところが、中国は1995年の5月と8月に核実験を行った。日本は無償資金協力の凍結を決定した。翌年、中国は実験はあと2回でやめることを事前通告した[6]。日本の圧力が効いた背景には、まだ中国が日本の援助を必要としていたこともあったが、核実験への風当たりが世界的に強まっていたことが決定的であった。

包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択は、核兵器国と非核兵器国とのギブアンドテイクの産物であった。1995年に発効25年を迎える核兵器不拡散条約を、核兵器国は無期限に延長したかった。非核兵器国は、持つ国々の核実験を苦々しく眺めてきた。双方は譲歩して、核兵器不拡散条約を無期限延長する代わりに、包括的核実験禁止条約を採択することにした。

1996年に国連総会で採択された包括的核実験禁止条約は未発効である。核兵器国の核実験は止まっているので、条約の精神だけは尊重されていると言うことはできる。

包括的核実験禁止条約は「核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を実施」しないと約束する条約である(第2条1)。核兵器の実験は禁止されるが、実戦における核爆発は禁止されない。ほんのわずかなエネルギーを放出する流体核実験は禁止される。平和目的爆発も禁止される。爆発を伴わないで核分裂性物質の挙動を観察する「未臨界実験」には沈黙し、見解の相違がある。アメリカ合衆国は条約採択の翌年、採択後初の未臨界実験を行い、広島市長はこれに抗議した[7]

未発効といえども、包括的核実験禁止条約機関準備委員会(CTBTO)がすでにウィーンに存在し、発効後には包括的核実験禁止条約機関(同じくCTBTO)になる予定である。CTBTOはIAEAと協力しながら核実験を検証することになるが、監視の方法には地震波、放射性核種、水中音響、そして微気圧変動の観察がある[8]

包括的核実験禁止条約の発効が容易でないのは、要件として、指定された44か国すべての批准が必要とされるからである。うち未批准国は2025年8月現在、北朝鮮、中国、イスラエル、イラン、インド、パキスタン、アメリカ合衆国、ロシア、そしてエジプトの9か国である[9]

包括的核実験禁止条約発効要件国の不批准国は三つのグループに分けられる。一つは五大国であり、アメリカ合衆国・中国・ロシアである。二つ目は事実上の核保有国であり、核武装を自国の権利と考えている。最後のイランとエジプトは不保有国で、イスラエルにこれ以上、出し抜かれることを潔しとしない。三つのグループを批准させるには、強い平和の風が吹かなければならない。十年、数十年、半世紀、待ってみる価値のあることである。

カットオフ条約、あるいは核分裂性物質生産禁止条約、はつぎに作られるべきレジームとして長らく語られてきた。それは核兵器の材料となる高濃縮ウランとプルトニウムの生産を禁止するものである。核保有国といえども、手持ちのウランやプルトニウムがなければ、さらに爆弾を作ることができない。非核保有国がそれらなしで核武装できないのはもちろんである。とはいえ、核保有国を増やさないという目的のためには、すでに核兵器不拡散条約が存在する。カットオフ条約まで作る意味はあるのか?

ウランを濃縮したり、使用済み核燃料からプルトニウムを再処理したりすることは、アチソン・リリエンソール報告以来、原子力国際管理または核兵器不拡散の観点において、危険な活動に分類されてきた。ところが、核兵器不拡散条約はそれらの活動を禁止しない。単に、非核兵器国はIAEAと協定を結び、保障措置を受けることを約束する。核兵器国に至っては、IAEAの査察さえ受けない。多国間条約によって、ウラン濃縮とプルトニウム分離に強い規制をかけることがカットオフ条約の狙いである。

カットオフ条約の目的自体に異議はないが、物事には優先順位というものがある。カットオフ条約より厳しい義務を課すわけでない包括的核実験禁止条約さえ、まだ発効していない。ウラン濃縮とプルトニウム分離を国家主権の一部と主張する諸国を説得するのは並大抵でない。包括的核実験禁止条約の発効をタイムテーブルの先頭に置き、カットオフ条約はその次でよいのでないか。

さて、核軍縮・軍備管理の最も華やかな成果は、超大国間のそれであった。超大国というのは米ソまたは米ロのことである。2国は地球上の核兵器の大半を保有し、それらが合意すれば大量の核兵器を削減または規制できる。

最初の核軍備管理レジームはPTBTでなかった。キューバ危機によって核戦争が不可能であると判明した翌年の1963年、PTBTに先んじて結ばれた米ソのホットライン了解覚書がそれである。ホットラインといっても、ホワイトハウスとクレムリンとの直通電話でなく、テレタイプといってタイプライターで打った文字が電送され、印字される方法であった。スマートフォンのショートメッセージと似ている。目的は偶発的な交戦やそのエスカレーションを防ぐことである。

核軍拡が極限に達すると、これ以上の軍拡は無意味、というオーバーキル論が米ソ間で共有されるようになった。たがいに敵を殺し尽くすだけの兵器は持っているのであるから、不合理な軍拡をやめ、兵器の制限や削減をしよう、という結論に双方が至る。パリティが崩壊して情勢が不安定化する忌まわしい事態を防ぐ意義もある。

MADレジームの考えを条約にしたものがSALT I、すなわち第一次戦略兵器制限条約、である。署名は1972年であった。制限されたのは発射基の数であり、弾頭や重爆撃機の数は制限されなかった。それゆえ、1発射基あたりの弾頭数を増やせるMIRVと重爆撃機は有利であった。両機種に強いアメリカ合衆国にとって有利な条約であった。

「アメリカ側の資料では、米ソ両国は相手をいく度も破壊し尽くすほどの武器を準備しました」とリチャード・M・ニクソン合衆国大統領が言ったのを受け、「われわれも同じ結論に達しました」とソ連共産党のレオニード・ブレジネフ書記長が返した[10]。双方が核戦争で「勝つ」ことをあきらめ、戦略的安定性を共通の利益としたからこそ、MADレジームであるSALT Iに合意できた[11]

戦略的安定性を脅かしかねない一つの要因が、敵の弾道ミサイルを迎撃するABM(弾道弾迎撃ミサイル)であった。ABM条約はSALT Iと同じ日に署名された。米ソそれぞれ、首都周辺に100基、そしてICBMサイト周辺に100基、と、配備できるABM数を制限する内容である。当初は2か所であった配備地は、のちに1か所に減らされた。アメリカ合衆国がICBMサイト周辺を、ソ連がモスクワ周辺を選んだことは言うまでもない。

サハロフによると、ABMにソ連が見切りをつけた理由は二つあった。一つは、核ミサイルの迎撃を失敗させる技術的な方法が低費用でいくつもあることである。囮をバラまくのが代表的な方法である。もう一つは、ABMで敵の攻撃から守り切ることができるのであれば、MADが成立しなくなるからである[12]

1979年には、SALT II(第二次戦略兵器制限条約)が署名された。ところが、アメリカ合衆国の議会が批准しなかったため、不発効に終わった。その年末に始まったアフガニスタン侵攻がソ連への悪感情を高めてしまったからである。米ソ関係は新冷戦と呼ばれるまでに冷えこんだ。1年後に就任したロナルド・レーガン合衆国大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだ。

ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長の登場が事態を動かした。1987年、中距離核戦力条約(INF条約)が署名された。それは一つの武器種を「制限」から「削減」を超えて「全廃」までしてしまった。双方の信頼感は高まり、冷戦の終結につながった。アメリカ合衆国の通告に基づき、中距離核戦力条約が失効したのは2019年であった。

START I(第一次戦略兵器削減条約)は1994年に発効してから2009年に失効するまで、15年間の長きにわたって核軍縮レジームの屋台骨であった。米ソはそれまでおのおの1万発くらいの核弾頭を持っていたのを、6,000発に削減することに合意した。この条約にゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ(父)が署名したのは1991年であり、その年のうちにソ連が崩壊したため、ロシアだけが新独立諸国のなかで締約国となった。ベラルーシ・カザフスタン・ウクライナに配備されていた核兵器は、すべて撤去された。

START II(第二次戦略兵器削減条約)は核弾頭をさらに3,000~3,500発まで削減するため、米ロが1993年に署名した。当時は大ニュースであったものの、発効には至らなかった。

2002年のモスクワ条約は、SORTとも、戦略攻撃兵器削減条約とも称される。アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)大統領とロシアのウラディミル・プーチン大統領が署名した翌年に発効した。戦略核弾頭を2012年末までに1,700~2,200発へと大幅に削減するものであったが、これには裏があり、外した核弾頭は貯蔵でき、2013年以降は再配備できるとなっていた。新STARTの発効によってモスクワ条約は効力を失った。

新STARTは新戦略核兵器削減条約とも呼ばれる。START Iが失効した翌年の2010年に、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領とロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領が署名し、翌年、発効した。双方が核弾頭を1,550発に削減した。ウクライナ戦争によって米ロ関係が悪化し、アメリカ合衆国は無規制な中国の核兵器に不満であったことから、2026年に新STARTを失効させた。

前途は不安であるものの、現在まで米ロの戦略核兵器は削減される趨勢にある。最終的に、それらは廃絶されるのであろうか? それとも、ある一定数で固定されるのであろうか? 一定の数で固定されるとすれば、抑止またはMADに必要な数が目標水準の有力候補であろう。そうした弾頭数を見積もる試みは以前からあった。

例えば、このように考える。軍事目標、産業目標、そして予備戦力を積算すると、500~750発の核弾頭が必要である。奇襲攻撃によってそれらが破壊されることを考慮した保険措置として同数の弾頭を持っておく。1,000~1,500発が抑止に必要な数ということになる[13]。興味深いことに、これは新STARTの定める数とほぼ一致する。

核廃絶、あるいは核兵器のない世界、への道には、進歩的アプローチと包括的アプローチがあるとされてきた。進歩的アプローチとは、核不拡散レジームのような既存の諸レジームのもとで核兵器廃絶の目標に向かうものである。核兵器が非常に少量になった「最少化点」に到達してから、「グローバル・ゼロ」のための実効的な検証措置を備える核軍縮枠組みを検討することになる。これはアメリカ合衆国とその同盟国が支持している。包括的アプローチとは、廃絶までの諸局面を定める1本の包括的核兵器条約を交渉するものである。推進してきたのはコスタリカである[14]。言うまでもなく、後者のアプローチの結末が2017年に採択された核兵器禁止条約である。

アメリカ合衆国側と核兵器禁止条約側との対立は当分なくなりそうもない。米ロばかりでなく、英仏、そして中国が核兵器削減に合意するのは、CTBTを発効させるよりも難しい。

国際政治の順風が吹くのは「百年河清をまつ」より遠い未来であるかもしれない。それは人間の意思の力と科学の力との力比べである。核兵器を無能かつ陳腐にする兵器が発明されれば、人類は核兵器を棄てるであろうからである。廃絶でもなく、発明でもない可能性がある。それは人類が絶滅している場合である。


[1] Albert Carnesale, Paul Doty, Stanley Hoffman, Samuel P. Huntington, Joseph S. Nye, Jr., and Scott D. Sagan, Living with Nuclear Weapons (New York: Bantam Book, 1983).

[2] Howard French, “Dark Side of Security Quest: Squalor on an Atoll,” New York Times, June 11, 2001, p. 3.

[3] 第五福竜丸平和協会編、『母と子でみる第五福竜丸』、草土文化、1985年、17ページ。

[4] 井伏鱒二、『黒い雨』、新潮社、1966年。今村昌平、井伏鱒二、石堂淑朗、飯野久、田中好子、北村和夫、市原悦子、原ひさ子、『黒い雨』、東映、1989年。

[5] アンドレイ・サハロフ、『サハロフ回想録』、上、金光不二夫訳、中央公論新社、2002年、376ページ。

[6] 下村恭民、中川敦司、斎藤淳、『ODA大綱の政治経済学』、有斐閣、1999年、134-135ページ。

[7] “アメリカの臨界前核実験に対する抗議文(1997年7月3日),” 広島市, April 4, 2025,  https://www.city.hiroshima.lg.jp/atomicbomb-peace/1036662/1003073/1026932/1008481.html, accessed on February 16, 2026.

[8] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年、84ページ。

[9] 外務省, “CTBT署名・批准-地域別の状況,” August 2025, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000021240.pdf, accessed on February 16, 2026.

[10] アンドレイ・グロムイコ、『グロムイコ回想録』、読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年、424ページ。

[11] 斎藤直樹、『戦略兵器削減交渉―冷戦の終焉と新たな戦略関係の構築』、慶応通信、1994年、33-34ページ。

[12] サハロフ、『サハロフ回想録』、上、371ページ。

[13] 小川伸一、『「核」軍備管理・軍縮のゆくえ』、芦書房、1996年、313ページ。

[14] A/71/371, para. 33-46,

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暴力というものの定義は非常に広い。狭義には、物理的な、直接的な破壊行為、つまり刑法でいえば暴行罪、傷害罪、殺人罪、不同意わいせつ罪、不同意性交罪、あるいは器物損壊罪に当たるものである。問題なのは、どこまで定義を広げるかである。 著名な平和学者、ヨハン・ガルトゥング、は「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこ…
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核兵器の不拡散

広島と長崎に投下されたあと、終戦と同時に原子爆弾は使い道を失った。絶対兵器の後始末をどうするか? それが生まれたばかりの国際連合の初仕事になった。科学者たちは原子力の平和利用、特に発電、が自分たちの本来の使命であると考え始めた。原爆の後始末と原子力発電を統一して行う計画が原子力の国際管理案である。野心的なこの計画を委ねられた国連は、やがてそれをもてあますようになった。最終的に、統一的な国際管理案は放棄され、人類は核兵器の不拡散に課題を絞って取り組んだ。今回のテーマは、核兵器の不拡散を確保するレジームの構築と運営がいかなる困難に直面してきたかについて、バルーク案以来の歴史を例に引きつつ解説しなさい、である。

1945年11月、アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領、イギリスのクレメント・アトリー首相、そしてカナダのウィリアム・マッケンジー・キング首相が会談した。3か国はマンハッタン計画の参加国であり、カナダはウランの産地として重要であった。彼らが発したのが、国連原子力委員会の設置を求める米英加宣言である。同委員会の任務は、原子力の発見により生じた諸問題を扱うことであった。

翌年1月に、国連総会における最初の決議、A/RES/1、として原子力委員会を設けることが決められた。それを構成するのは安全保障理事会の理事国代表であるが、カナダが理事国でない場合にはカナダからの代表を加えるとされた。任務は原子力問題に関する勧告である。なすべき提案は、平和利用のための情報交換、原子力の国際管理、原子兵器等あらゆる大量破壊兵器の各国軍備からの除去、そして査察等による保障措置(セーフガード)であった。

アメリカ合衆国における保障措置立案の中心人物は原爆の父J・ロバート・オッペンハイマーであった。彼の構想では、原子力の平和利用は国家の手を離れて国際的な原子力開発機関のもとで厳しく管理され、大胆にも、国家主権の一部譲渡を伴うと表現された。原子力開発機関の主な任務は、ウランの採掘、原子力発電所の建設、そして同位元素の分離となることになっていた[1]

原子爆弾の製造法を熟知したオッペンハイマーであったからこそ、何を管理すればよいかが分かっていた。鉱山から採掘されたウランは気体の六フッ化ウランに転換される。それを遠心分離機のドラムで回すと、質量の軽いウラン235は中心に集まり、それを吸い取って次の遠心分離機に送る。この作業を繰り返すと、ウラン235の濃度は高まる。非常に高濃度のウラン235は兵器級ウランと呼ばれ、六フッ化ウランから固体に戻すとそのまま原爆製造に使うことができる。

それほど高濃度でないウラン235でも、原子炉で連鎖反応が起きると、使用済み核燃料を再処理して原爆のもう一つの材料である高濃度のプルトニウムが取りだせる。原子炉が発電所として操業している今日では市民生活に欠かせないエネルギーの供給源でもある。保障措置の目的は、ウランの採掘から使用済み核燃料の処分に至る核燃料サイクルから抽出される高濃度のウランとプルトニウムが軍事利用に回されないようにすることである。

こうした趣旨がつぎに取り上げる報告書において「協力的開発をつうじての安全」と表現された。オッペンハイマーは、発電など原子力の平和利用によって、ナショナリズムは乗り越えられると想像した。米ソ間の不信感さえ原子力は溶かしてしまうと彼が信じたことが次の文から分かる。

わが国の提案の柱石となるものは、技術と政策に関して率直さと大幅の公開性とを要求する一つの制度であります。それには、国籍を度外視した、人々の間での仕事の協力が必要です。―中略―しかしこれらの提案によって―中略―ソヴェトが要求される犠牲と譲歩は一段と大きなものであります。―中略―この国家権力のイデオロギー的支柱、すなわちソヴェトと資本主義世界との間の衝突の不可避性に対する信念は、原子力管理のためにわが国の提案が要求しているような強度の、緊密な協力ができた暁には、放棄されることになるでしょう[2]

国籍も、国境もなく、人々が世界のエネルギーを管理するために協力する、というオッペンハイマーの構想は無邪気にさえ聞こえる。原子力の利用法を会得したら、ソ連は人と資源をつぎ込んで、たやすく原子爆弾を製造してしまうのでないか? 無頓着にも、彼はそう懸念しなかった。

オッペンハイマーの国際原子力開発機関の構想は、アメリカ合衆国国務省が1946年3月に作成したアチソン・リリエンソール報告書の基礎になった。報告書は危険な活動を指定する。ウラン鉱石の採掘、ウラン235の濃縮、原子炉・再処理工場の操業、そして原子爆弾の研究・開発、という諸活動がそれである。原爆開発を除く危険な活動はすべて原子力開発機関が代わって行う。安全な活動については、機関による免許と査察を条件に、各国に開放される。ウラン等の危険な物質は国際原子力開発機関の所有のままで人々に貸与される。鉱山・工場・発電所・研究所も機関の所有下で世界中に設けられる[3]

ディーン・G・アチソン国務次官とともに報告書に名を冠せられたデイビッド・E・リリエンソールTVA(テネシー渓谷開発公社)長官は水力発電事業で実績を上げた。TVAはアメリカ合衆国の経済と社会を一挙に電化した。これから原子力発電をつうじ、全世界を電化することになろう。

原子力が国際管理されると、アメリカ合衆国による原爆の独占はどうなるのか? 報告書は合衆国がいつ原爆を棄てるかを示さない。あたかも、それは重要でないかのようである。アチソン・リリエンソール報告には耳を疑いたくなることが書かれてある。時がたてば、原爆についての知識は広がり、知識でのアメリカ合衆国の独占は失われる。そうした世界には原爆はもちろん、ウランや原子炉を所有する国家は存在しない。突然、ある国が自国の領土にある原子力開発機関の施設を奪い、原爆を作ろうとするとしよう。戦争の意図があると知られたその国は他国によって対抗されることになる[4]

アチソン・リリエンソール報告書は明言しないが、原子力開発機関の鉱山や施設は世界中に存在するので、残りの国は奪った国よりも多くの原爆を作ることができる。世界を敵に回して核戦争をする国は現れないであろう、と見込んでいたのでなかろうか?

この暗示を信じられない者は、アメリカ合衆国の国内にも、国外にもいた。違法に原爆を作った国家と本当に戦争をする気なのか? 嘘も方便ということわざがある。アメリカ合衆国は原爆を棄てない、と考えさえすれば、すべてのつじつまが合う。アメリカ合衆国が核兵器を独占することによって将来の違反は抑止され、永遠の平和がもたらされるのである。アチソン・リリエンソール報告書の読み方として、こちらのほうが正しそうである。

アメリカ合衆国の国連原子力委員会代表にはバーナード・バルークが任命されていた。ニューヨークの成功したビジネスマンであり、歴代の大統領は政策の遂行に彼の力を借りた。彼もアチソン・リリエンソール報告書を信じていない一人であった。

バルーク案は1946年6月、国連原子力委員会に出された。国際原子力開発機関を作り、査察を行うところまでは、アチソン・リリエンソール報告書と同じであった。アメリカ合衆国の原爆を処分し、原爆およびその材料の保有・製造を違法にすることもほとんど同じであった。

義務に違反した国を罰することに話題が及ぶと、バルーク案はアチソン・リリエンソール報告書が求めたことを踏み越えた。国連憲章に従えば、違反国を罰するには五大国が一致しなければならない。バルーク案は、原子力の国際管理に違反した国を罰するため、この拒否権を原子力問題では認めないことを要求した[5]

拒否権の否認は国連の本質に関わる大問題である。アメリカ合衆国内でも異論が出た。リリエンソールは「世界政府の教義」とバルーク案を批判した[6]。ディーン・アチソンによる次の回顧はソ連の立場に同情的である。

ソヴィエト連邦が、その時点において、力の許すかぎり原子力開発につとめていることは疑いのないところであった―中略―。そうだとすれば、「迅速にして確実な処罰」条項はモスクワにおいて、ソヴィエト連邦がその(核開発)努力をやめないかぎり、合衆国の戦争に訴えるという脅迫を支持することにおいて国連を同盟者に化そうとする試みに過ぎないと解釈されるに違いない[7]

ソ連の国連代表であったアンドレイ・グロムイコは後にこう振り返った。

私は答えた。「―中略―核兵器をどう管理すべきか、そしてその将来をどのように決定すべきか、という問題です。これらは安保理の五大国が決定すべき事柄です。この原則は、最近国連憲章で保障され、したがって、安保理によって創設された原子力委員会についても適用されます。―後略―」

―前略―アメリカは核兵器製造の独占体制を築いており、これを維持したがっていたのだ[8]

はじめから、核兵器廃絶・国際原子力開発機関・拒否権否認は夢物語であった。核独占によって得られた軍事的な優勢を手放すことは、アメリカ人は深層心理で拒んでいた。バルーク案はアチソン・リリエンソール案のように悠長に待とうとせず、ただちにソ連を屈服させようと勇み足を踏んだ。いずれにせよ、ソ連は3年後、核実験に成功し、核独占は終わることになる。

自由な国際査察も、原子力をめぐる米ソの主要な係争点であった。査察が脚光を浴びたのは、1955年7月のジュネーブ四巨頭会談である。ドワイト・D・アイゼンハワー合衆国大統領は奇襲攻撃を予防するための空中査察を提案した。当時は人工衛星がなかったので、偵察機のカメラから地上を撮影する方法がとられていた。これは相手の奇襲攻撃を察知するには有効であったが、自ら奇襲攻撃を仕掛けるのにも有効であった。信頼醸成措置(CBM)という言葉ができたように、信頼がない相手には自らの空間を見せたくないものである。5年後、ソ連はアメリカ合衆国のU-2偵察機を撃墜し、パイロットを捕まえた。アメリカ合衆国は面目を失った。

以上のように、原子力の国際管理案は失敗した。ローズベルト時代に存在した米ソの信頼関係はトルーマンとアイゼンハワーの時代には消えていた。ヒロシマ・ナガサキを見たソ連は必死に原爆を開発した。朝鮮戦争は第三次世界大戦に至る前哨戦でないか?、と人々は考えた。スプートニク・ショックがダメ押しとなり、恐怖の均衡ともいう相互核抑止に基づく二極対立へと完全に移行した。次代に追求されるのは米ソ共通の利益である核兵器の不拡散である。

原子、つまりアトム、といえば、手塚治虫のマンガが思い浮かぶ。彼の自伝はこう記す。

―前略―クリスマス島で水爆実験が行なわれたことを思い出し、ああ、この科学技術を平和利用できたらなと憂い、原子力を平和に使う架空の国の話を描こうと思って、題名を「アトム大陸」とつけた。アトムとは、もちろん単に原子の意味である[9]

「アトム大使」の連載が始まったのは1951年である。クリスマス島での初の水爆実験は1957年である。何かの思い違いで、水爆実験に触発されて「アトム大使」を描いた、という記述になったのであろう。いずれにせよ、1951年に原子力の平和利用に思いをはせたのは、かなり早かった。放射線が人体に与える悪影響は、占領軍の情報統制による無知のために、アニメ「鉄腕アトム」では描かれなかった。

原子力の平和利用が本格的に動き始めたのは、1953年の暮れ、アイゼンハワーが国連総会で演説した時であった。アトムズ・フォー・ピース、すなわち平和のための原子力、という題のもと、自国と他国との信頼に基づいて原子力の平和利用を進めることが提案された。アメリカ合衆国の側は、ウランなど核分裂性物質を提供する。その一方で、各国は鉱石の採掘から使用済み燃料の処分に至るまでの核燃料サイクルを査察と管理のもとに置き、核兵器は製造しない。しっかり検証しつつも、原子力発電を各国に認める点が国際管理と違った。

そのころ、石炭による火力発電と原子力発電との費用が比べられ、夢のエネルギーに対する期待が高まっていた[10]。世界初の原子力発電所はソ連のオブニンスク発電所であり、1954年に稼働した。翌年、第1回ジュネーブ原子力平和利用国際会議が開かれ、アトムズ・フォー・ピースの機運を盛り上げた。翌年、イギリスでコールダーホール発電所第1号炉が操業を始め、ついに原子力は商業利用されるまでになった[11]

アイゼンハワーが提唱した原子力機関はIAEA(国際原子力機関)として設立された。1956年にその憲章の署名が開放され、翌年、発効した。2005年に、ノーベル平和賞がIAEAおよびその事務局長に与えられたのは、査察が平和に貢献したと認められたからである。

似た趣旨で、1957年にはユーラトム(欧州原子力共同体)の設立条約が採択された。ヨーロッパの諸国は自分たちで核分裂性物質を融通し、それが転用されないよう監督することにした。

かつて、アチソン・リリエンソール報告書やバルーク案は原子力発電を原子力開発機関の独占にしようとした。現実はそうとはならず、原子力発電は各国における官民の企業が行い、IAEAは原子力施設にたいする保障措置を担当する。ところが、平和利用をする国家が自領内に査察を受け入れる義務は当初、曖昧であった。それが問題の種であった。

アトムズ・フォー・ピースは親米的な国々を平和利用にいざなうには適していたものの、核武装によって自主防衛をしたい国々には手足を縛られるものであった。1960年、国家の偉大さを求めたフランスは核実験を行った。1962年のキューバ危機は、開発途上国が他国の核兵器を使って自国を防衛しようと企てた事例であった。1964年に中国が核実験を成功させたことは、自前で核武装をしようと考える国々を勇気づけた。

核兵器の拡散を苦々しく見ていたのはアメリカ合衆国である。中国に続いて核実験をする国が現れることは止めなければならなかった。

1965年のギルパトリック委員会報告書は、インド・日本・イスラエル・エジプト・西ドイツが核武装するのを阻止する方法を検討した。日本については、核攻撃に対する防衛、核武装の代わりとしての国家威信向上、そして世界の指導者としての役割分担をアメリカ合衆国が支持することを提案した。二国間での対策だけでなく、核兵器不拡散条約、包括的核実験禁止条約(CTBT)、そして非核地帯といった多国間合意もこの報告書は推奨した[12]。アメリカ合衆国が最も力を入れたのは核兵器不拡散条約であった。

ソ連もまた不拡散に利益を見ていた。1966年に非核兵器国に消極的安全保証を与えるコスイギン提案を行った。非核兵器国には核攻撃をしない、という表明は、自衛のために核武装しなければならない、という主張の正当性を弱めた。他方で、超大国が核兵器の寡占を推し進めることは、米ソ共同支配という批判を招きもした。フランスと中国は駆け込み乗車に成功して核武装を遂げ、多極化と称した。

核兵器不拡散条約(NPT)は1968年に採択され、1970年に発効した。一言で言えば、それは核兵器国と非核兵器国を区別し、固定化する条約である。核兵器国は1967年になるまえに装置を爆発させたアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランス・中国(PRC)の五大国である(第9条3)。どのようにして区別を固定化するかというと、核爆発装置の移譲・受領、製造などによる取得、そして取得についての援助を禁じることによってである(第1条、第2条)。もっとも、核兵器国は核兵器の上であぐらをかいていればよいわけでなく、軍備競争の停止と軍備の縮小のために誠実に交渉する義務がある(第6条)。

非核兵器国には義務と権利がある。それらはIAEAの保障措置を受けることを約束しなければならないが(第3条)、平和利用の権利もあり(第4条)、平和裏に行われる爆発の利益を受けることもできる(第5条)。

核兵器不拡散条約には「不平等条約」という評判が付きまとう。署名が始まった日に、日本、ブラジル、西ドイツ、インドなどは署名しなかった[13]。核兵器国は大国、非核兵器国は小国、という構図ができ、それが固定化することを恐れたからである。日本はようやく1976年に条約を批准して加入した。条約そのものは1970年に発効していたが、その25年後に、無期限延長するか、一定期間延長するか、を決めることが定められた(第10条2)。

冷戦中にはインドの核実験や、イスラエルと南アフリカによる秘密裏の核保有があったものの、拡散のペースを落とすことに核兵器不拡散条約は成功した。冷戦後には条約への服従が進んだ。1991年に、核兵器を解体した南アフリカが加入し、翌年、多極化の旗を振っていたフランスと中国が加入した。

この勢いで、核兵器不拡散条約の無期限延長が決まった。条約が交渉された1960年代、核兵器国と非核兵器国の不平等が固定化されるのを恐れたイタリアなどが無期限の効力を拒否した。そして第10条2に従い、発効から25年後の1995年、再検討会議が開かれた。無期限延長に反対したのはインドネシア、ナイジェリア、そしてアラブ諸国であった。過半数の国々は無期限化に賛成し、核兵器国が包括的核実験禁止条約の交渉を進めることを条件に、その流れを後押しした[14]。この5年後、2000年の再検討会議では、最終文書に「核廃絶への明確な約束」が英語で難解な表現ながら書き込まれ、廃絶を待ち望む人々に希望を持たせた。

こうした希望はジョージ・W・ブッシュ(子)がアメリカ合衆国大統領になると急速にしぼんだ。次のバラク・オバマ大統領が就任すると、希望はまた膨らんだ。彼は2009年、プラハにおいて、「核兵器のない世界」を掲げた演説をした。それは同国が核兵器に頼らずに安全保障政策を組み立てていくことを表明したにすぎなかったが、核軍縮の第一歩ではあった。

非核兵器国の側は1990年代以降、核軍縮に成果がなく、しびれを切らしていた。停滞を打ち破るかのように、核兵器禁止条約が2017年に署名開放され、2021年に発効した。それは核兵器不拡散条約のように、核爆発装置の移譲・受領・取得を禁じるだけでなく、自国の領域のなかに他国の核爆発装置を置くことを認めることも禁じる(第1条)。核兵器国と非核兵器国の差別を固定化せず、加入した国は核爆発装置を廃棄しなければならない(第4条2)。さらに、他国の核爆発装置が自国の領域内に置かれている国は、核爆発装置が撤去されることを確保しなければならない(第4条4)[15]

核保有国とその同盟国にとって、核兵器禁止条約は実に悩ましい。核保有国の加入は核兵器を廃棄する意思が前提である。また、有事に核兵器を自国の領域に持ち込もうと考えているその同盟国、特にNATO加盟国と日本・韓国も、条約への加入に踏み切れない。結果として、たいていの締約国は大国の同盟国でない非核保有国である。核兵器を禁止するために締約国が協力し、援助しあうことが奨励され(第7条)、2年ごとに締約国会議が開かれる(第8条)。非核保有国がワンボイスで核軍縮を求めれば、核保有国とその同盟国は守勢となる。

一般的に、テクノロジーの進歩は歓迎すべきことである。しかし、だいぶ遅れてでないと、個々の技術をどう扱えばよいか、人間は見定めることができない。バルーク案が実現していたら、原子力発電の普及に伴って、急激なグローバリゼーションが起きていたであろう。巨大な公共事業は巨大な権力を生むからである。こうした「グローバル・ニューディール」がどのように支持され、または、どのように反発されるか、これは反実仮想の世界である。同様に、原子力の国際管理や核兵器の不拡散さえ試みられなかったなら、カプランが空想した一国拒否権システムや核テロリズムの世界、それどころがハルマゲドンになってしまったかもしれない。 現実はこの間にあって、拡散と不拡散の間を世界は揺れ動く。これからどう動くかは、単に軍事や安全保障の観点だけでは予想できない。経済、社会、そして環境などの問題でどのように国際統合が進んでいくか? とりわけグローバリゼーションがどうなるか? そうしたことを見きわめようとすることで、近い未来について何とか見当をつけるのがせいぜいである。


[1] J・ロバート・オッペンハイマー、「原子力の国際管理」、モートン・グロッジンス、ユージン・ラビノビッチ編、『核の時代』、岸田純之助、高榎尭訳、みすず書房、1965年、53-63ページ。

[2] ロバート・オッペンハイマー、『原子力は誰のものか』、美作太郎、矢島敬二訳、中央公論新社、2002年、53-54ページ。

[3] David E. Lilienthal, Chairman, “The Acheson-Lilienthal Report on the International Control of Atomic Energy,” Washington, D. C., March 16, 1946, pp. 23-49.

[4] Lilienthal, “The Acheson-Lilienthal Report on the International Control of Atomic Energy,” pp. 52-54.

[5] 杉江栄一、樅木貞雄編、『国際関係資料集』、法律文化社、1997年、21-30ページ。

[6] デイビッド・E・リリエンソール、『リリエンソール日記 2』、末田守、今井隆吉訳、みすず書房、1969年、205ページ。

[7] ディーン・アチソン、『アチソン回顧録 1』、吉沢清次郎訳、恒文社、1979年、194ページ。

[8] アンドレイ・グロムイコ、『グロムイコ回想録』、読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年、221ページ。

[9] 手塚治虫、『ぼくはマンガ家』、角川書店、2000年、144ページ。

[10] フィリップ・ノエルベーカー、『軍備競争』、前芝確三、山手治之訳、岩波書店、1963年、98ページ。

[11] 日本放送協会、「BS1 スペシャル 核の“平和利用”知られざるもうひとつの東西冷戦」、2014年11月30日。

[12] The Committee on Nuclear Proliferation, “A Report to the President,” January 21, 1965; DEF 18-10 Non-Proliferation, Gilpatric Committee, 1964, 1 of 3; DEF 18-10 Non-Proliferation, Gilpatric Co., 1964, 1; DEF Non-Proliferation, Japan to Def. Assurances, India and Germany, Box 11; Records Relating to Disarmament and Arms Control, 1961-1966; General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, MD.

[13] 「一年後発効見込む」、『朝日新聞』、夕刊、1968年7月2日、1面。

[14] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年。

[15] “核兵器の禁止に関する条約(暫定的な仮訳),” 外務省, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000433139.pdf, accessed on February 16, 2026.

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核戦略

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は絶対兵器である原子爆弾の独占に安心し、ヨーロッパからの撤兵を進めた。ところが、東西の緊張が高まるやいなや、ソビエト連邦の戦車をはじめとした陸上戦力が脅威として映るようになった。1948年ごろ、実際には180万人しかいなかったソ連の兵力を250万人と西側は誤認していた[1]。東アジアで朝鮮戦争が行われていた1951年、合衆国を代表する国際政治学者ハンス・J・モーゲンソーは次のように記した。

ロシア人が今日まで第二次世界大戦の終結時に占めていた線にとどまつているのは、原子爆弾の蓄積がなければ合衆国のおそるべき潜在力を破ることができないからであり、そしてまたアメリカが原子爆弾を独占し、あるいはより多く蓄えているがために、ソ連勢力の中枢部が破壊されることを恐れていたからなのである[2]

この状況は非対称な相互抑止と表現できる。ソ連の戦車部隊がバルト海からアドリア海まで結ぶ線を越えれば、B-29がモスクワやレニングラードの上空を飛行して原爆を投下することになる。しかし、ソ連はいつのまにか原爆実験に成功し、アメリカ合衆国は次の手を打たなければならなかった。ということで、今回のテーマは、アメリカ合衆国の核戦略の変遷を論じなさい、である。

ソ連が核武装した翌年の1950年、アメリカ合衆国はNSC-68を発し、巨額の軍事予算を伴う軍拡へと舵を切った。軍備における冷戦の始まりである。当時の国務長官ディーン・G・アチソンは回顧録に次のように記す。

NSC-68は経費の見積もりを含んでいなかったが、それはわれわれがそれを論議しなかったことを意味するものではなかった。われわれが勧告したような再軍備と戦力復元計画とを―中略―また同盟国のための援助も考えて遂行することは、―中略―推計では、年約五百億ドルという巨額の軍事予算を必要とするはずであった[3]

1953年、アメリカ合衆国の政権は、民主党のハリー・S・トルーマンから共和党のドワイト・D・アイゼンハワーに交代した。国務長官にはジョン・F・ダレスが就任した。1954年に彼が公表した大量報復戦略(またはニュールック)はソ連の侵略に「我らの選ぶ場所と手段で」反応することを宣言した。ソ連にとって、自国の原爆と戦略爆撃機は合衆国に比べてまだ劣勢であったから、一方的に大量の原爆を落とされることは脅威であった。アメリカ合衆国側には、大量報復を高官自ら公言することによって、抑止の明確なメッセージを送る意図があった。

大量報復戦略は長くは続かなかった。ソ連のキャッチアップにより、それから20年間、絶えず核戦略の見直しが迫られた。最初の変化はソ連の戦略爆撃能力が強化されたことであった。1950年代後半に実戦配備が始まった爆撃機が、1回の給油でアメリカ合衆国領土のほとんどを攻撃範囲に収めたのである。ニューヨークやロサンゼルスのような大都市の住民が水爆の恐怖にさらされることをこれは意味した。

この事態に、大量報復による全面核戦争は犠牲が大きすぎる、と気づいた学者がいた。若き日のヘンリー・A・キッシンジャーであった。核戦争は勝敗ではなく国家の生存を問題にすることを彼は見抜いた。全面勝利できたとしてもコストが高すぎ、もはや、戦争は政治の継続である、と言えなくなった。こうした認識のもと、1950年代後半に彼は限定戦争論を唱えた。強力すぎる抑止力は逆に使用の意思を疑わせてしまうので、大量報復戦略は適当でない。実際、記憶に新しかった朝鮮戦争やスエズ危機において、アメリカ合衆国は核兵器を使えなかったではないか。ソ連の爆撃機はまだこちらの本土を奇襲する能力を持たない。1960年代の初頭にICBMが主力となって、それが獲得されるであろう。より小規模で、機動的な核部隊がアジア、中東、そしてヨーロッパの局地防衛を行う限定戦争を追求すべきである、とキッシンジャーは主張した[4]

このころの核戦争をイメージしたのが、スタンリー・キューブリック監督の長い副題で知られる映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)である[5]。物語の発端は一人の軍人の狂気であり、彼はソ連に爆弾を落とす命令を勝手に出した。受信したB-35の飛行士たちはコードブックを使って標的を確認した。作戦計画に基づき、攻撃目標はすでに決まっていたのである。米ソの首脳はホットラインで破壊の拡大を止めようと話し合うもののムダであった。ソ連は核攻撃を受けたら自動的に放射能をまき散らす装置を配備していたからである。

現実に戻ろう。ついにその日は来た。原爆と水爆の開発ではアメリカ合衆国が先行したが、ICBMではソ連が先、と世界に確信させる事件が起きた。スプートニク・ショックである。

スプートニク1号は人工衛星の名称であり、運搬手段であるロケットはソ連ではR-7、アメリカ合衆国ではSS-6という。人工衛星であれ、核弾頭であれ、ペイロード、つまり載せるもの、が宇宙空間まで射ち出されれば、慣性の法則でどこまでも飛んでいく。石原莞爾が「世界最終戦争論」において予言した「世界をぐるぐる廻れるような飛行機」であった。1957年10月4日、打ち上げは成功し、人工衛星から発信されたピー、ピー、ピーという音は流行語になった。話題になったライカ犬が乗せられたのは、スプートニク1号でなく、ひと月後に打ち上げられた2号であった。

ICBMではソ連が先行している、という先入観が植え付けられた。同じ年の暮れに行われたアメリカ合衆国の打ち上げは、トラウマになるような無残な失敗であった。ICBM開発の進捗度をめぐり、米ソの優劣を議論するミサイル・ギャップ論争が過熱した。もっとも、翌年、アメリカ合衆国でも人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げが成功している。

宇宙の軍事化に歯止めがなかったわけでなく、国際連合において、宇宙空間の平和利用が議論されていた。ユーリー・ガガーリンによる初の有人飛行やアポロ11号による初の月面着陸は平和利用を標榜していた。全体的に宇宙開発のテクノロジーが進歩しつつあったなか、軍事利用では、ミサイルが大型化し、威力の強い水爆を運べるようになった。ソ連の急速な核軍拡は大量報復戦略への強烈な仕返しであった。目には目を、歯には歯を、というように、大量報復に大量報復で一矢報いようとするのは道理である。通常兵器による攻撃には通常兵器で対応できように、核兵器で報いるのが大量報復戦略であった。ソ連に巨大なICBMで先行されたのは自業自得でなかったか。

このことに気づいたジョン・F・ケネディ政権の国防長官、ロバート・S・マクナマラ、は柔軟反応戦略を考案した。彼は後に次のように回顧する。

―前略―ケネディ政権としては、核兵器へのこのような依存が、核兵器を使わない他国からの大規模な攻撃に対して、アメリカ自身の自殺をともなわない形での反撃の道をなくしていることに憂慮しました。ケネディ大統領は「アメリカは危機に直面した場合、不名誉な退却か、無制限の(核による)報復かを選ばなければならない立場に自国を置いているのだ」と語りました。そこでわれわれは、非核戦争を戦うための米軍の能力を強化し近代化することで、選択の幅を広げることに決めました。これには従来の大量報復戦略から、のちに柔軟対応戦略の名で知られることになる方針への移行が含まれています[6]

柔軟反応は手段だけでなく、攻撃目標にも応用される。報復対象は対都市でなく、対兵力であるかもしれない、としておけば、敵側も、対都市の核攻撃を避けて、兵力だけを攻撃してくれるかもしれない。大量報復戦略では、次の戦争はいきなりヨハネの黙示録のような第三次世界大戦になってしまう。柔軟反応戦略には、エスカレートせずに局地戦で終わる期待があった。

当時、ベルリンの壁が築かれ、世界はヨーロッパにおける緊張を注視した。しかし、核戦争が起きる最大の危機はカリブ海の島国で発生した。大統領の弟であったロバート・F・ケネディは次のように記す。

十月十七日、水曜日に撮影された写真を調べると、他にも数ヶ所の基地があり射程千マイル(千六百キロ)以上のミサイルを少なくとも十六基、おそらくは三十二基を持っていることがわかった。軍事専門家はこれらのミサイルは一週間以内にも実際に使用可能になるだろうとの意見を述べた。翌十八日、木曜日、われわれの情報部門は、キューバに持ち込まれたミサイルはソ連全体が現有するICBM(大陸間弾道弾)能力の約二分の一にあたる核弾頭を装備し得るものだと推定した。写真はミサイルが米国のいくつかの都市に向けられていることを示しており、それらが発射されると数分を経ずして八千万人の米国人が死ぬだろうと見積もられた[7]

実際には、ミサイル32基どころか、同国にはソ連の核弾頭162発が置かれていた[8]。ケネディ政権による海上封鎖の措置により、1962年のキューバ・ミサイル危機は平和裏に解決した。ソ連が妥協しなければ、アメリカ合衆国はキューバ侵攻を辞さなかったであろう。合衆国市民は核戦争の恐怖を十分に味わった。ソ連においても時の首相であるニキータ・フルシチョフが失脚した。軽率な政策が核政策にはなじまないことが明らかになった。

皮肉なことに、キューバ危機を経て核戦略は安定期に入った。中国の核実験が米ソに不拡散の共通利益を認識させたことが大きかったろう。核の傘という言葉が使われ始めたことから知られるように、核兵器は同盟国を守るための安全保障で、実際には使えない兵器である、と考えられるようになった。その背景にあったものが相互確証破壊の状況および政策であった。

核兵器を使おうとする者は、先制の対兵力攻撃が成功するかを検討する。敵が態勢を整えるまえに奇襲すれば、第二撃、つまり反撃、を完全に無力化し、核戦争に「勝てる」からである。敵の爆撃機がむきだしのまま基地に並べられていたり、液体燃料を時間をかけてミサイルに注ぎ入れる仕組みであったり、と攻撃対象が脆弱であることを偵察機で確認したら、奇襲しても安全だ、と結論する。

こうした先手必勝をなくし、にらみ合いを安定化する方法の一つが核戦力の非脆弱化である。ICBMを地下のサイロに格納し、フタを強化して、核爆発の熱や爆風から守るようにする。SLBMを搭載する戦略原子力潜水艦を海中に潜ませ、正確な位置が知られぬようにする。奇襲をこれら第二撃能力ならば生き残り、報復にとりかかる。国民が死に絶えても、生き残った核兵器が敵を死滅させるとは、あたかもゾンビどうしが殴り合うかのようである。

第二撃の応酬が行われたのちには、双方が確実に廃墟となっている。これが相互確証破壊である[9]。英語の頭文字を取ったMADという呼称もよく知られるが、このスペリングには「狂っている」という意味もあり、本質を言い当てている。狂っていたのは殺戮の能力ばかりでなく、MADを相互抑止の手段として肯定的に捉える態度もであった。MADを支障なく機能させることが、米ソの核外交の基調となった。これがMADレジームである。

相互確証破壊という言葉が示すように、米ソの核戦力はアメリカ合衆国の核独占からパリティ(均勢)へと変化した。弾頭の数についていえば、ソ連のそれがアメリカ合衆国のそれを超えたのは1970年代後半であった。しかし、威力では、その十年前に超えていた。ソ連の水爆は1960年代、急速に大型化した一方で、アメリカ合衆国はその選択を採らなかったからである。

1970年代、アメリカ合衆国が熱心に取り組んだのはミサイルのMIRV化であった。MIRVとは個別誘導複数目標弾頭のことで、ミサイルにいくつもの核弾頭が載っていて、それぞれが別の目標に向け、分かれて飛んでいく。多いものでは10発以上の弾頭を搭載できるミサイルもあった。ただし、それぞれの弾頭はミサイルの放物線軌道から大きくそれることはできず、着弾地点はおのずと一定の範囲内になる[10]

MIRV化の目的は、第二撃能力の非脆弱化、すなわち生き残り、である。奇襲によって多くのミサイルが破壊されても、MIRV化されたミサイル1基が残れば、いくつもの目標に攻撃を加えることができる。MIRV化はMADレジームの強化を意味した。

それでも、絶対兵器である核兵器には完璧な防備はない、という鉄則を乗り越えようとする試みは存在した。その一つがABM(弾道弾迎撃ミサイル)である (本当は弾道ミサイル迎撃ミサイルと訳すべきであるが、言いにくいのでこうしておく)。1960年代に、アメリカ合衆国ではICBMに対する迎撃システム、特に、研究が始まっていたナイキX、の開発は可能か?、が論争になっていた。ナイキXの開発は結局、断念され、ABMはICBMへの効率的な防備でないことが明白になった。当時の技術では速度・精度・破壊力のすべてで迎撃ミサイルはまったく実戦に耐えなかった。

ソ連側も1964年、モスクワ周辺に配備されるガロッシュABMシステムを公開した。これが改良されたゴーゴンとガゼルというミサイルは10キロトンほどの核弾頭を装備していた。核の火の玉によって敵の核弾頭を無力化する意図であった。実態は「モスクワ上空で爆発すると、その下の二〇〇平方キロメートルを破壊し、モスクワ人口の一〇パーセントが死亡するという推測がなされている」という代物であった[11]。首尾よく迎撃に成功したとしても、地上の生活は地獄と化すことが避けられなかった。

米ソ合意の上でABMは制限されることになった。1972年に署名されたABM条約は双方の発射基数に上限を設けた。ABMの信頼性はMADの信頼性に勝てなかったのである。これと同時に、オーバーキルの水準に達していた戦略核戦力を制限するSALT Iが結ばれた。これらをもって、MADレジームは制度化された。

なおもミサイル防衛への誘惑は十数年おきに頭をもたげた。1983年、核軍拡を掲げるロナルド・レーガン政権は、核兵器にたいする国民の不安を鎮めようと、SDI(戦略防衛構想)を発表したが、宇宙基地やレーザービームといった未来技術を用いるものであったため、映画タイトルを借りて「スターウォーズ計画」とあだ名された[12]。レーガンは演説でSDIは核兵器を「無能かつ陳腐」にすると表現したが、とてもまじめとは思えないユーモアの一種として世間は受け止めた。

ソ連は自国の停滞する経済と社会を立て直すことができずに崩壊した。核兵器と大国の地位を引き継いだロシアは十分な量の核戦力は持っていたため、ミサイル技術の質的向上に努力を傾けた。MADが今後もレジームであることは、ロシアにとって信念であると同時に願望でもある。他方のアメリカ合衆国にとり、すでにそれは最重要の関心分野ではない。

「激動」の冷戦終結とソ連崩壊は、アメリカ合衆国ではジョージ・H・W・ブッシュ(父)大統領の任期中であった。レーガン前政権と同じく共和党であったため、SDIを引き継ぎつつ、その未来技術の部分は削り、事業名はGPALSと改めた。目玉兵器であるブリリアントぺブルズは、衛星軌道にまかれた「小石」に喩えられる多数の物体が、来襲するICBMに向かってぶつかっていき、破壊するものであった。こうした奇想天外な計画は、冷戦終結、SDI縮小、そしてイラクのような新しい脅威の出現といった過渡期において、米軍が方向性を見失った結果であった。

ウィリアム・J・クリントン大統領の時代になると、新たな脅威の姿が見え始めた。イランや北朝鮮といった、いわゆる「ならず者国家」のミサイルから同盟国およびそこに置かれた米軍を守ることが課題になった。これがTMD(戦域ミサイル防衛)である。「T」はシアターの頭文字であるが、「劇場」ではなく地球表面の一地域を指す「戦域」の意味である。アメリカ合衆国がTMDを推進するには壁があった。ABM条約では配備できる弾道弾迎撃ミサイルの発射基の数が定められていたからである。世界が同情したのは、ひたすら自国の軍事的利益を追い求めるアメリカ合衆国よりも、経済的苦境下で足元を見られたロシアのほうであった。

1997年、アメリカ合衆国はロシアとTMDについて合意した。その前提はNMD(国家ミサイル防衛)とTMDは明確に分けることができるということであった。NMDは合衆国の本土を守る防衛であり、迎え撃つのは主にロシアのICBMであった。TMDはイランや北朝鮮の中距離ミサイルから同盟国や米軍基地を守る。射程が長いICBMのほうが落下速度が速く、撃ち落としにくい。ということは、性能をNMDに必要なもの未満にすれば、TMDを配備してもそれは米ソの核戦争を想定したABM条約に違反しない、とアメリカ合衆国は主張した。実際に合意では、射程3,500キロメートルまたは秒速5キロを超えるミサイルにたいする実験を行わないことにした。また、宇宙配備やレーザーなど他の物理原理のシステムを開発しないことも決められた[13]

日本は1999年からTMDの共同研究に参加し、イージス艦から発射されるSM-3というミサイルの開発を担当した。SM-3は敵のミサイルをまだ加速が十分についていない大気圏外で撃ち落とす。北朝鮮は国土が狭く、日本に近接しているので、打ち上がったところで捉えれば、弾頭の速度はそれほどでない。1998年に北朝鮮が行ったテポドン1号の実験が、共同研究への日本の参加を促したのであろう。北朝鮮より国土が広く、日本から距離がある国からの防衛にSM-3は適さないかもしれない。

TMDの推進には、北朝鮮や中国のように中距離ミサイルを強化していた国は依然、反対した。アメリカ合衆国と同盟を結ぶNATO諸国はTMDには賛成したものの、日本と異なり、NMDには反対した[14]。NMDが急速に進歩すれば、いずれABM条約はもちろん、MADさえ形だけのものになりかねない。それは米ロがこれまで達成してきた軍縮の過程そのものを否定することである。しかし、NATOの盟友は冷たすぎはしなかったであろうか? 自分たち同盟国だけには安全保障を求めておいて、当のアメリカ合衆国がMADの恐怖のもとに置き去りにされてよいのであろうか? 合衆国ががまんし続けるはずがなかったのである。

増長する北朝鮮によるミサイル実験は大きな反響を呼んだ。1998年から翌年には、ラムズフェルド委員会と呼ばれるアメリカ合衆国にたいする弾道ミサイルの脅威に関する委員会が設けられた。ついに、2001年に発足したジョージ・W・ブッシュ(子)大統領の政権は同年暮れにABM条約から脱退し、NMDの実験が可能になった。ロシアを説得するために作られたNMDとTMDの区別は無意味になり、両者はミサイル防衛(MD)または弾道ミサイル防衛(BMD)へと一本化された。

では、悲願であったアメリカ合衆国のミサイル防衛はフリーハンドを得て急進展したのか? そのような話は聞いたことがない。個々の技術ではブレイクスルーはあっても、絶対兵器である核ミサイルを「無能かつ陳腐」にする可能性はいまだ開けていない。光速のレーザービームであれば弾頭がいかに速く落下してきても迎撃できるイメージがあるが、核爆弾を破壊するには、莫大なエネルギー出力が必要である。飛行機にレーザービーム発射装置を搭載したABL(航空機搭載レーザー)という兵器が実験されたが、それだけの出力を持つ装置を飛行機に載せることは簡単でない。できたとしても、敵陣深くからミサイルを発射すれば、ABLからは地平線のはるか向こうである。レーザーは直進することを忘れてならない。

逆に、絶対兵器としての核ミサイルの地位を安泰にするようなブレイクスルーのニュースはよく耳にする。代表は極超音速滑空兵器である。アバンガルドというロシアのミサイルは、目標到達時にはマッハ20に達するという。従来の弾道ミサイルのように放物線を描くのでなく、最終的には滑空するので軌道計算が難しい。配備の意図はMADレジームの強化であろう。

中国との関係はMADだけでは捉えられない。中国はその経済力を使って、未来技術を中長期的に実現していくであろう。それは宇宙テクノロジーかもしれないし、ITやAIかもしれないし、それら以外かもしれない。2023年、北米大陸上空に正体不明の気球が現れる騒動があった。未来技術の開発を許せば、中国が世界の支配者になる可能性がある。であるからこそ、アメリカ合衆国はABMやINFに関するロシアとの約束に縛られてならないと考えた。

最後に、日本のミサイル防衛を見て、この回を締める。実戦配備されているのはペトリオットとイージス艦である。ペトリオットPAC-3は核ミサイルが目標に到達する直前の低空で迎え撃つ。2007年、入間と習志野にある航空自衛隊の拠点に配備された。その後、数は増えたものの、射程は半径20キロメートルほどと言われ、また、自衛隊の拠点がないところには配備されない。人口密集地をすべて護りきれるわけでない。

イージス艦は高い防空能力を有する巡洋艦として以前から存在していたが、2007年、海上自衛隊のそれがSM-3によるミサイル迎撃の実験に成功したことで、ミサイル防衛の任務が加わった。現在は数隻が配備され、小規模な攻撃には対応できるかもしれない。撃ち漏らしがないとは言い切れず、極超音速兵器への備えも疑問である。 以上のように、日本のミサイル防衛は北朝鮮の核兵器に対応することが想定されている。ロシアと中国のそれに対しては米軍の能力に全面的に依存しているのが真相である。今後、対基地攻撃や第二撃を目的とする中距離巡航ミサイルを装備に加えることになるが、やはりロシアと中国の核ミサイルには対応できない。彼を知り、己を知らば、百戦殆うからず、というが、生兵法はけがのもとになる。


[1] 松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、25ページ。

[2] H・J・モーゲンソー、『世界政治と国家理性』、鈴木成高、湯川宏訳、創文社、1954年、165ページ。

[3] ディーン・アチソン、『アチソン回顧録』、1、恒文社、1979年、20ページ。

[4] H・A・キッシンジャー、『核兵器と外交政策』、田中武克、桃井真訳、日本外政学会、1958年、127、136ページ。

[5] Peter Sellers, George C. Scott, Slim Pickens, Stanley Kubrick, and Peter Bryant, Dr. Strangelove, or, How I learned to stop worrying and love the bomb, [New York]: Columbia Pictures Corp., 1963.

[6] ロバート・S・マクナマラ、『マクナマラ回顧録』、仲晃、共同通信社、1997年、47ページ。

[7] ロバート・ケネディ、『13日間 キューバ危機回顧録』、毎日新聞社外信部訳、中央公論新社、2001年、26ページ。

[8] Robert S. McNamara, “Apocalypse Soon,” Foreign Policy (148) (2005): 33.

[9] 山田浩、「相互確証破壊」、川田侃、大畠英樹編、『国際政治経済辞典』、東京書籍、1993年、 614-615ページ。

[10] 小都元、『核兵器事典』、新紀元社、2005年、134ページ。小都元、『ミサイル防衛の基礎知識』、新紀元社、2002年、61ページ。和田長久、原水爆禁止日本国民会議編、『原子力・核問題ハンドブック』、七つ森書館、2011年、151ページ。

[11] 江畑謙介、「GMD計画の構想と技術―その中間段階および終端段階迎撃システムを中心に」、森本敏編、『ミサイル防衛―新しい安全保障の構図』、日本国際問題研究所、2002年、101ページ。

[12] 永田実、『謎とき・もめごとの世界地図』、日本経済新聞社、1985年、122ページ。

[13] 小川伸一、「米国の戦域ミサイル計画」、森本編、『ミサイル防衛―新しい安全保障の構図』、70ページ。

[14] 橋本光平、『国際情勢早わかり2002年版』、PHP研究所、2002年、43ページ。

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Geminiさんの答案 研究各論(グローバル・ガバナンス)2022年度前期
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絶対兵器

ウランという名の金属がある。その同位体であるウラン235の原子核は分裂しやすく、分裂すると、熱エネルギーが発生する。これに伴い、中性子という粒子が放たれ、それが別の原子核にぶつかると、その原子核も分裂する。こうした核分裂の連鎖反応が制御されずに繰り返されれば核爆発になる。核爆発を軍事上の目的で人工的に起こす装置が核兵器である。今回のテーマは、核兵器の開発とそれがもたらした核抑止とはどのようなものか説明しなさい、である。

核分裂の連鎖反応に関する発見を核兵器の開発につなげたのは、アルバート・アインシュタインであった。彼が誰であるかについて説明はいるまい。時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズベルトに彼が手紙を送ったのは1939年8月のことであった。次の月が第二次世界大戦の始まりであるので、ヒトラーと戦う目的で、アインシュタインが新兵器の開発を進言したことは本当であろう。手紙のなかで、ウランの核連鎖反応から巨大なエネルギーが生じ、そのことがもたらす重大な意味を伝えた。「初めて発見されたこの現象は、結果として爆弾の製造にもつながります」と明言したのである[1]。進言を実際に取り計らったのは、ハンガリー出身の物理学者レオ・シラードとされる。この人もユダヤ人であった。ユダヤとナチスとの生死を賭けた戦いが、世界史のゲームチェンジャーとなったのである。

さっそく1939年10月、大統領部局として、ライマン・ブリッグズを委員長とするウラン諮問委員会が設置された。事業は1942年に陸軍に移管され、マンハッタン管区と名づけられた。マンハッタン計画といえば、アメリカ合衆国による原子爆弾の開発そのものを指すことになる。

具体的な人物で、原子爆弾の開発者として知れ渡っているのはJ・ロバート・オッペンハイマーである。彼はもともとカリフォルニア大学バークリー校で教える左翼的な傾向がある教授であった。高名なシカゴ大学教授からマンハッタン計画に誘われて、彼の人生は一変した。

一九四二年の春、コムプトンに呼ばれて私はシカゴへ行き、原爆そのものの仕事の状態を討論しました。この会合の際コムプトンは、この仕事の責任を負わないかと私に申し出ました。当時この仕事は、おびただしいバラバラの研究計画から成っていました。私にはそれまで行政的な経験はなかったし、実験物理学者でもなかったのですが、事情には十分明るいし、この問題は取り組み甲斐があると思っていましたので、喜んで引き受けました。このとき私は冶金研究所の職員になりました[2]

大規模プロジェクトを成し遂げたオッペンハイマーの行政能力は驚くべきものであった。1943年、彼を所長とするロスアラモス研究所が、陸軍代替材料開発計画司令官レスリー・グローブズの指揮下に設置された[3]。ロスアラモス研究所はニューメキシコ州にある。2年あまりたった1945年7月、最初の原爆実験であるトリニティ実験が同州のアラモゴードで行われた。20年後のテレビ番組で回想する彼の言葉がよく知られる。

世界は今までと同じ世界ではなくなったことを、われわれは知った。何人かは笑い、何人かは涙を流した。ほとんどの人が黙っていた。わたしは、ヒンズー教の聖書(バガバッド・ギーター)の一節を思い出した。ビィシュヌは義務を果たさなければならないことを王子に説得し、彼に感銘を与えようとして複数の腕を持つ姿に変わる。そして言う。『われ世界の破壊者たる死とならん』。だれもが、何らかの形でこれと同じことを考えたと、私は思う[4]

ビシュヌ神は日本では腕が2本になり、仁王像2体のうち阿形のほうになった。原爆の威力を自己の力と錯覚したオッペンハイマーは仁王のように人類史を変えてしまった。

広島への原爆投下は1945年8月6日に実行された。なぜハリー・S・トルーマン大統領は投下を決断したのか? 後世しばしば議論される問いである。日本を降伏させるためであれば、投下を待たず、7月のポツダム宣言において皇室の安泰(国体護持)を保証すれば可能であった、とも言われる。日本が8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏した決定的な原因は、同月9日にソ連が対日参戦をし、講和の仲介を図ってもらう見込みが消えたことであった。原爆投下の真の理由は、ソ連に対して戦後、優位な立場を得たかったから、というのが通説である。

トルーマンは民間人の虐殺は悪いことであると知っていた。彼は投下後の発表で、 広島を軍事基地と表現し、死者を6万人と述べた[5]。実際には広島は30万人弱の市民を擁する都市であった。トルーマンは嘘をついたか、部下に騙されたかのいずれかである。

広島に落とされた原爆と3日後、長崎に落とされた原爆とでは、基本的な設計が異なった。広島に落とされたのはガンアセンブリ型の「リトルボーイ」であり、長崎に落とされたのは爆縮型(インプロージョン型)の「ファットマン」であった。ガンアセンブリ型では、核分裂を促す中性子を出すための物質に弾丸を打ち込み、その物質の外側をリング状に囲むウラン235を分裂させる。爆縮型はその名のとおり、球状の火薬を内側に爆発させて圧力をかけ、仕込まれた物質に中性子を出させ、中心に位置するプルトニウムの核を分裂させる。材料についても、リトルボーイはウランであり、ファットマンはプルトニウムであった。ウランのまま核兵器に使うには、兵器級ウランと称されるきわめて濃度が高いウラン235が必要である。プルトニウムは、それほど濃度が高くないウランを原子炉で燃やした使用済み核燃料から抽出できる。

物理学者たちは、水素原子の核融合による爆発、すなわち水素爆弾の開発が可能であることを理論的に知っていた。開発に消極的であったオッペンハイマーに代わって、水爆開発の中心となったのは、かつてシラードの運転手をしていたハンガリー系ユダヤ人エドワード・テラーであった。折しも、ソビエト連邦が原爆の開発に成功し、思いのほか早かったキャッチアップはトルーマン大統領をあせらせた。彼は1950年1月末に、水爆の製造を指示した。テラーの同僚スタニスワフ・ウラムは核融合で二重水素と反応させるトリチウム(三重水素)を作るため、固体リチウムを使うことを思いついた。これを基礎に、彼らは、原爆を起爆剤としたエネルギーで核融合を起こす方法を発明した。これがテラー・ウラム・コンフィギュレーションと呼ばれる水爆の設計である。

南太平洋のエニウェトック環礁において1952年、アメリカ合衆国は熱核装置を爆発させた。このマイク・ショットはTNT火薬10メガトン分の威力であった。広島に投下されたリトルボーイは15キロトンの威力であったから、数字が3桁大きくなったことになる。しかし、この「装置」は実戦において爆弾としては使えないほど巨大であった。最初の水素「爆弾」はいつ実用化されたかというと、1954年3月に行われたビキニ環礁での実験であった。このブラボー・ショットはTNT火薬にして15メガトンの威力であった。あまりに巨大な爆発であったため、第五福竜丸事件など放射能汚染を広範囲にもたらした。

今度も、ソ連の追い上げはすさまじかった。テラーがアメリカ合衆国における水爆の父であるとすれば、アンドレイ・サハロフがソ連におけるそれであった。彼は功績を独り占めしなかった。「テラー・ウラム・コンフィギュレーション(第三のアイデア)は、理論部の数人の研究者がほとんど同時に考えついた」[6]と述べる。ソ連初の水爆実験は1955年11月のことであった。威力はTNT火薬にして1.6メガトンであり、リトルボーイの100倍であった。

核爆弾の破壊力は巨大化の一途をたどった。アメリカ合衆国の安全保障専門家グレアム・アリソンは次のように語る。

これまで製造された核兵器で最大のものと最小のものは何ですか?

ソ連が作った「ツァーリ・ボンバ」は、推定一〇〇メガトンの爆発力で最大です。これは広島と長崎に投下された原爆の六五〇〇倍の爆発力です。確認されたなかで最小なのは、アメリカが作った「デイビー・クロケット」で、〇・二五キロトンの爆発力で重さはわずか二二・五キロです[7]

ツァーリ・ボンバも、デイビー・クロケットも、実戦向きではない。ツァーリ・ボンバの破壊力は人類の滅亡を予感させる。インターネットに上げられたそれを映す動画では、巨大なキノコ雲を背景に、天を裂くような爆発音が響く。デイビー・クロケットは迫撃弾で、数キロ先の目標に打ち込まれる。押し寄せる敵の戦車部隊を破壊するようなことを想定して開発されたのであろう。自軍も放射能で汚染されることを考えると、使用はためらわざるをえない。

旧約聖書におけるヨハネの黙示録の昔から、人類を滅亡させる戦争が予言されてきた。20世紀には飛行機・戦車・毒ガスの登場によって、他を圧する新兵器が遠からず現れることは確実視された。満州事変の首謀者である日本陸軍の参謀、石原莞爾、は1940年の「最終戦争論」において将来の核戦争をほぼ正確に予想した。

一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。

もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません[8]

「世界をぐるぐる廻れる」というのはICBM(大陸間弾道ミサイル)を思い起こさせるし、「一発あたると何万人もがペチャンコにやられる」というのは核兵器による大量破壊そのものである。太平洋戦争も始まっていなかった時点で、彼が日米戦争を予想したのは正しかったが、マンハッタン計画の進行が速かったのは想定外であったにちがいない。

核兵器が実際に使用されると、それが世界をどう変えるか?、人々は想像力をたくましくした。従来のどんな兵器とも違うことを冷静に分析したのは、アメリカ合衆国の軍事専門家バーナード・ブロディであった。投下の翌年である1946年に『絶対兵器』という編著でその革新性を指摘した。

ブロディが核兵器を絶対兵器と呼んだことには、いくつもの理由があった。性能自体が、どんな都市も1~10発で破壊でき、完璧な防備は当分できない、と特別であった。この性能を活かすには、自領からどんな国へも攻撃できる新型または長射程の運搬手段が有効である。後世から見れば、それが戦略爆撃機やICBMのことであることは指摘するまでもない。1機/発でも防空網を突破し目標に到達すれば相手はおしまいで、空軍の優勢は安全を保証しない。

ブロディの洞察は、鉄と燃料をかき集めることで軍事力を築いてきた大国を頂点とする世界秩序への警告であった。爆弾は持ちすぎてもしかたない、と彼は述べた。それでも、米ソはオーバーキルと呼ばれるほどの核兵器を製造した。逆に言えば、一定水準以上の核戦力を持てば、小国でも大国の攻撃から身を守れる。ブロディは、スーツケースで爆弾を他国に持ち込むテロリストが現れる可能性さえ示唆した。当時、ウラン鉱脈は貴重であったものの、破壊力を考えれば原料は豊富という彼の評価も斬新で、5~10年後には原爆の共同開発国であった米英加以外の国も生産能力を獲得すると予想した。実際に、ソ連が原爆実験をしたのは出版から3年後であった[9]

核兵器に対する完璧な防備は当分できない、ということが、いかに革新的であったかを説明しよう。他の攻撃手段に対しては、十分な量の防備があれば、必ず守るすべがある。相手が素手でくれば、素手で備えることができ、矛でくれば、盾という守り専用の武器を使うことができる。弓には兜、銃には防弾チョッキ、戦艦には潜水艦、爆撃機には要撃機、といった具合である。

ところが、弾道ミサイルには完璧な防備はない。核弾頭は1発でも命中したら、当てられた側の負けである。弾道ミサイル防衛といわれるものとして、イージス艦やペトリオット・ミサイルといったものが取りざたされる。戦略核戦力が着弾する際には、落下速度はマッハ20くらいになる。これを打ち落とすには、第1に、敵弾の軌道を精密に計算して待ち受ける、第2に、こちらの迎撃兵器を高速化する、第3に、広範囲を破壊できる迎撃兵器を使う、などの方法が考えられる。第2の方法を実現するのがレールガン(電磁砲)とレーザービームであるが、いずれも未来技術である。

ミサイルの発射直後や宇宙空間を飛んでいる間に打ち落とせばよいでないか、と言うかもしれない。しかし、国境のはるか奥深くに発射基地があったり、宇宙空間に弾頭に見せかけた囮の物体をまいたり、再突入体を放物線軌道から外して滑空させてみたり、と敵も対策をとっているので、やはり困難である。つまり、核戦争は、敵に弾道ミサイルを発射された瞬間に「負け」である。戦争が起こる確率が高かった冷戦時代には、この恐怖感が米ソの指導者たちを駆り立てた。

核兵器の脅威に対しては、相手に攻撃させないことを心掛けなければならない。方法としては抑止がある。それは報復の耐えがたいコストを期待させることによって先制攻撃を思いとどまらせることである。確かに、核攻撃のコストは耐えがたいので、抑止には向いている。当然、相手も同じことを考えるので、核武装をする。抑止が核を持ってにらみあう双方に効いている状況またはそれを目指す政策を相互抑止という。恐怖の均衡ともそれはいう。核兵器を撃たれる恐怖ゆえに相手にも同じ恐怖を与える兵器を配備して、結果、平和が続いている状況である。

抑止など核戦略について見ていくに当たっては、独特の用語に慣れる必要がある。先制攻撃のことを第一撃、報復攻撃のことを第二撃という。攻撃目標については、敵の兵力を攻撃して報復能力を奪おうとする戦略を対兵力戦略(カウンターフォース)という。敵の都市を攻撃することにより、戦争継続能力を奪ったり、心理的打撃を与えたりしようとすることは対都市戦略(カウンターシティ)である。都市だけでなく、工業地帯を破壊しようとすることは、対価値戦略(カウンターバリュー)である。攻撃目標の上空にミサイルや爆撃機などの運搬手段が到達する能力は浸透能力という。脆弱性とは、軍事目標の兵力・産業能力・都市などに十分な防御手段がないことである。

つぎは、ミサイルの種類について学ぶ。推進力の違いによって、弾道ミサイルと巡航ミサイルに分けられる。弾道ミサイルは、ブースト段階、すなわち打ち上げ時、に与えられたエネルギーのみにより推進力が与えられ、野球のバッターがはじき返したフライのように、放物線を描く。

弾道ミサイルはさらに射程によって呼び分けられる。短距離ミサイルは射程1,000キロメートル未満、準中距離弾道ミサイルは射程1,000~3,000 キロメートル、中距離ミサイルは射程3,000~5,500キロメートル、そして長距離ミサイルは射程5,500キロメートルより長いものである。着弾時の速度は射程が長いものほど速く、撃ち落としにくい。

巡航ミサイルは、ブースト段階後に与えられたエネルギーによって推進力が維持される。ジェットエンジンで進む飛行機のように、針路は比較的自由に変えられる。速度が弾道ミサイルよりも遅いので撃ち落とされやすく、あまり長い距離を飛ぶことはできない。

極超音速滑空兵器は2010年代から話題にのぼるようになった。放物線を描いて落下するのでなくグライダーのように滑空し、軌道を予測させないようにしたものである。速度はマッハ5以上で、迎撃は困難とされる。

運搬手段に注目する場合、戦略核戦力の三本柱と言われるが、ICBM、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)、そして戦略爆撃機のことである。保有国によって編成に重点の違いがある。

核弾頭数について2023年のデータでは、ロシアはICBM用を834発、SLBM用を640発、戦略爆撃機用を200発、それぞれ作戦配備する。広い国土に発射手段を分散できるので、ICBMが多い。鉄道上を走らせて、敵の対兵力攻撃をかわそうとするものもある。アメリカ合衆国は世界一の海軍国であり、SLBMが970発と最多である。日本を空襲したB-29以来、つちかわれた信頼性がある航空爆撃用の弾頭が300発、内陸部の地下サイロに格納されたICBMが400発、それぞれ配備されている。英仏はSLBMが中心である。国土が狭く、人口密度が高いゆえに、地上ミサイル発射基が対兵力攻撃された場合の人口へのダメージが恐いのであろう。他の保有国は配備はせずに、弾頭を貯蔵しているらしい。中国は陸海空軍用の弾頭を410発持つ。インド、パキスタン、イスラエル、そして北朝鮮は地上発射の弾道ミサイルを主力とする[10]

ここで挙げた国々が現在、核兵器を保有するとされる。保有国の数が増えていくことを核拡散と呼ぶ。古代ギリシャの神話で、プロメテウスが人類のために神から火を盗んだことが罪とされるのになぞらえ、禁断の行為とみなされる。核兵器不拡散の規範のために存在する政策と規則をまとめて核不拡散レジームと呼ぶ。

岩田修一郎は、核拡散を予防するための政策について整理する。彼によると、説得外交、経路妨害、軍備管理、そして国際圧力の手段がある[11]。このうち、NPT(核兵器不拡散条約)の維持・強化などの軍備管理、そして経済制裁などの国際圧力については、別の回で詳しく述べる。ここでは説得外交と経路妨害について解説する。

まず、説得外交とは、拡散が懸念される国に、持たないように説得することである。日本のような非保有国は、ODAの供与と引き換えに、持たないことを相手に約束させることができるかもしれない。しかし、ODAでは満たすことができない安全保障上の要求がある。積極的安全保証と消極的安全保証の要求は、応じられるのは核兵器保有国だけである。

積極的安全保証は、非保有国にたいする外部からの核攻撃に核兵器で報復する約束である。これは核の傘、あるいは拡大抑止、という言葉と非常に似ているが、同盟国だけに保証されるのでなく、すべての国に保証される。両者の違いは集団安全保障と集団防衛との関係に近い。

国連安全保障理事会の常任理事国はすべて核保有国であり、拡大抑止の責任があることを強調することをつうじて、自らの核保有を正当化してきた。1968年には、核兵器国と非核兵器国との不平等を固定するNPTへの署名が始まった。非核兵器国への攻撃に安保理は対応する、と約束する決議S/RES/255が決定されたのは、署名の半月前のことであった。自ら核武装しなくても守ってあげるので安心ですよ、だからNPTに入りましょう、という説得のための甘い言葉であった。NPTの無期限延長を決めた1995年にも、同様の内容を含む決議S/RES/984が採択された[12]

消極的安全保証は、核保有国が非核保有国との戦争では核兵器を使用しない、と約束することである。正直なところ、戦争中の敵に手加減してやるという約束は信じてよいものか疑わしい。とはいえ、核保有国が自分たちだけ核武装する後ろめたさを感じていることを示す一証拠である。1966年、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相が非核兵器国に消極的安全保証を与える提案を行った[13]。日本が1967年に発した非核三原則をこの提案は後押しし、一定の効果があった。NPTが無期限延長されるかの分かれ道にあった1995年、五大国は自らが攻撃された場合を除き、NPTの締約国である非核兵器国への核兵器不使用を保証すると声明した。

経路妨害とは、拡散が懸念される国に、核兵器そのものやその材料が移転されることを妨げることである。これは大きく輸出管理と輸送阻止に分けられる。輸出管理とは、核兵器関連品目の輸出を非合法にしてしまうことであり、日本の場合、外国為替及び外国貿易法により規制される。その大本にはNPTがあり、さらに有志の国による原子力供給国グループ(NSG)やミサイル技術管理レジーム(MTCR)がある。1974 年、インドが核実験をした翌年にロンドン会議が開かれ、その参加国を中心に1978年、核施設・核物質・核技術の供給国の間で同グループが発足した[14]

輸送阻止とは、大量破壊兵器とその運搬手段・材料の輸送を、拡散が懸念される国への経路上で阻止することである。現に、日本は「拡散に対する安全保障構想(PSI)」または「拡散防止構想」に参加し、他国とともに合同阻止訓練を行っている[15]。問題点は、公海上における疑わしい船への臨検である。なぜなら、臨検は武力の行使を伴う可能性があり、確実な証拠なく実行すれば、国際的な緊張が高まるからである。

不拡散の努力は決して小さくはないが、北朝鮮のようにそのハードルを越えてしまった国が現れている。そもそもロシアや中国から陸路で輸送されてしまえば、合同阻止訓練は無意味である。核兵器の廃絶が難しいのは、本気でそれを製造したり、隠したりしようと国家が決意すれば、できてしまうからである。

最後に、核拡散はむしろ好ましいという説もあるので、それを見る。

新現実主義学派の巨頭であり、アメリカ合衆国の国防界に多大な影響力を持ったケネス・N・ウォルツは冷戦後、論争に火を付けた。核拡散によって多極の国際システムにおいても戦争は起こりにくくなる、と主張したからである。

ウォルツの論理は、核戦争はリスクが大きく、誤算が起こりようがないので、抑止は必ず効く、というものである。かつての中国とソ連のように、国境を接した宿敵どうしでも核戦争が起こらなかったことがその根拠である。中国は国内で過激な政策を追求し、外国に対しても過激であったが、核兵器を使うリスクは知っていたので、それを使わなかった。他の独裁体制や軍事政権でも同じように核抑止は働くであろう、というのである[16]

しかし、核拡散がもたらすものは抑止だけではない。まず、非国家主体による核テロリズムの危険がヒロシマ・ナガサキの翌年に知られていたことはすでに見た。また、秘密裏に核保有をしていた国を通常兵器で攻撃してしまうという誤算は考えられないであろうか? やられた国は核兵器を使って反撃するであろう。さらに、個人としての人間は自殺をするのであるから、国家も例えば名誉や誇りのために、自殺的な核の奇襲をしないとはかぎらない。 最後に、あなたに問いかけたい。核武装が国家どうしの関係を疑心暗鬼にし、相互依存や交流を取り払ってしまう国際社会で本当によいのですか?


[1] 「アルベルト・アインシュタインからローズベルト大統領にあてた書簡」、山極晃、立花誠逸編、『資料 マンハッタン計画』、岡田良之助訳、大月書店、1993年、4ページ。

[2] ロバート・オッペンハイマー、『原子力は誰のものか』、美作太郎、矢島敬二訳、中央公論新社、2002年、156ページ。

[3] 山極、立花編、『資料 マンハッタン計画』、689-698ページ。

[4] カイ・バード、マーティン・シャーウィン、『オッペンハイマー 上 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』、河辺俊彦訳、PHP研究所、2007年、302ページ。

[5]  長谷川毅、『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』、中央公論社、2006年。

[6] アンドレイ・サハロフ、『サハロフ回想録』、上、金光不二夫訳、中央公論新社、2002年、293ページ。

[7] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、262ページ。

[8] 石原莞爾、『最終戦争論』、中央公論新社、2001年、37ページ。

[9] Bernard Brodie, ed., The Absolute Weapon: Atomic Power and World Order (Harcourt: Brace and Co., 1946).

[10] ピース・アルマナック刊行委員会、梅林宏道編、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、緑風出版、2024年、112-113ページ。

[11] 岩田修一郎、『核戦略と核軍備管理―日本の非核政策の課題』、日本国際問題研究所、1996年、172-173ページ。

[12] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年、131ページ。

[13] 黒崎輝、『核兵器と日米関係』、有志舎、2006年、82-83ページ。

[14] 黒崎、『核兵器と日米関係』、250-252ページ。

[15] “拡散に対する安全保障構想(Proliferation Security Initiative: PSI)の概要,” 外務省, January 9, 2026, https://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/n_s_ne/page24_000720.html, accessed on February 15, 2026.

[16] Scott D. Sagan and Kenneth N. Waltz, The Spread of Nuclear Weapons: A Debate (New York: W. W. Norton & Company, 1995), ch. 1, pp. 1-45.

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