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第二次世界大戦

1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。

第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、先行したのは枢軸国の形成であった。その呼び方はローマとベルリンの枢軸を叫んだベニト・ムッソリーニの演説に由来する。

枢軸国陣営の独伊以外への広がりは、防共協定への参加をつうじて行われた。防共協定は1936年に日本とドイツがコミンテルン、すなわちソビエト連邦、に対抗する目的で結ばれた。話し合って連携することを協議というが、その古い言い方が「協商」であり、防共協定は戦争への参加を約束する軍事同盟ではなかった。共産主義から国を守る、とは実は建前で、勝ち組になりたいのが本音の多数派工作であったと理解すべきである。

近代日本の最大の過ちが防共協定と三国同盟への参加と言って過言でない。三国同盟は軍事同盟であり、1940年に日本、ドイツ、そしてイタリアにより結ばれた。日本にとっては大東亜共栄圏を建設する際、他国の妨害を抑止するための弾除けのつもりであったろう。実際には逆効果で、英米は日本を信頼しなくなり、戦争準備に取り掛かった。交渉による和解は難しくなった。

防共協定は日独伊にとどまらず、多くの国に広がった。枢軸国にはユダヤ人への迫害や経済協力といったほかの共通の政策もあったものの、最も一般的であったのが防共政策であった。

防共政策をとる国の多くは非民主的な体制であった。ハンガリーは摂政という変わった肩書のホルティ・ミクロシュによる独裁のもとにあり、ファシスト政党の矢十字党が台頭した。ルーマニアも似たり寄ったりで、イオン・アントネスクの軍事政権がヒトラーの同盟者としてソ連と戦った。ブルガリアは国王ボリス三世の独裁下にあったものの、対ソ戦争には参加しなかった[1]

フィンランドは、その領土を狙うソ連に抗して冬戦争および継続戦争を戦った。同国は防共協定に加入したものの、ユダヤ人迫害には加担しなかった。

ピブーンソンクラーム政権のタイは、日本軍による東南アジアへの進撃に場当たり的に対処して、日本との同盟を選んだ。それにもかかわらず、戦後、連合国から旧敵国に数えられず、外交巧者の名を高めた。

対する連合国の結成は、真珠湾攻撃によって一気呵成に進んだ。翌1942年に発せられた連合国宣言は、三国同盟加盟国との戦争に軍事的・経済的な貢献をし、単独講和しないことを約束した。この宣言は米英ソ中を筆頭署名国とし、当初は26か国であったのが最終的には48か国にふくらんだ。国連憲章を採択するためのサンフランシスコ会議に参加するのに日独への宣戦布告が条件とされたためである。

第一次世界大戦では、米州とアジアのたいがいの国が中立を維持したにもかかわらず、第二次大戦で中立を選んだ世界の国は一握りにすぎなかった。交戦国の側には、中立国の存在は利用価値があった。そこに行けば敵国の外交官が駐在しており、接触することができた。それゆえ、ベルンやストックホルムは和平交渉の舞台になった。また、敵国における自国の資産を管理してもらう利益保護国の役目を中立国の在敵国大公使館に依頼した。

スイスは永世中立国の地位を人道活動のために利用した。ジュネーブに本部を置く赤十字国際委員会のメンバーはスイス人であるので、交戦国からそうした活動が許された。また、スイス政府はアメリカ合衆国の利益保護国として、枢軸国における財産と国民を保護した。さらに、首都ベルンには日本公使館もあったので、終戦をめぐってアメリカ合衆国は日本側と接触ができた。このダレス工作が実を結ばなかったのは、もう一つの中立国であったソ連の仲介に日本が一縷の望みをかけていたからであろう。

スウェーデンも19世紀初め以来、戦争に参加せず、板についた中立国であった。第二次世界大戦では日本の利益保護国を務めた。陸軍将官の小野寺信が同地で和平工作をしたことが知られる。

教皇庁は19世紀にローマを接収されて以来、イタリア政府と対立した。1929年にムッソリーニとラテラノ条約を結んだことにより、教皇庁はバチカン市国として領土を有する独立国の地位を得た。同条約で中立の義務を負ったことで、バチカンにはイタリアの敵国も外交使節団を派遣した。

第二次大戦中には、教皇庁にこれまで外交使節団を派遣してこなかった日本、アメリカ合衆国、そして中華民国が外交官を派遣するようになった。バチカンはただの中立国でなく、精神的な価値を唱えるカトリック教会の総本山である。ナチスによるホロコーストを見て見ぬふりをした、と戦後は非難された。ただし、アイルランド出身のヒュー・オフラアーティのように、捕虜とユダヤ人を救う活動をした教皇庁外交官もいた。

スペインは内戦でドイツとイタリアから軍事援助を受け、枢軸国寄りであった。しかし、ヒトラーとの同盟には応じず、中立国であった。主な連合国は内戦中、フランシス・フランコの勢力を支持しなかった過去があり、外交関係の正常化に及び腰であった。

スペインはムッソリーニとヒトラーの敗北には巻き込まれなかったものの、戦後、国際連合から排除された。1946年、総会で採択されたスペイン排斥決議A/RES/39は、フランコ政権の国連加盟を支持しないよう加盟国に勧告した。スペインは1955年に加盟を果たしたものの、孤立を脱したのはフランコが死んだ1975年になってからであった。

同じく独裁的な中立国ポルトガルも戦後、共産国から外交関係を拒否された。領土のアソレス諸島が大西洋上の中継地であったことから、米英との関係は悪くなかった。アフリカ東岸モザンビークもポルトガル領であったが、敵地に残留していた連合国と枢軸国の外交官・領事官・民間人はそこで交換されている。冷戦が始まると、原加盟国としてNATOの結成にポルトガルは参加した。

ソ連は1941年6月まではヒトラーのパートナーであり、東ヨーロッパの分割にあずかった。また、1945年8月に対日参戦するまで、日本にとっては中立国であった。同地駐在の佐藤尚武大使は連合国との講和の周旋を打診したが、すでに参戦の意を固めていたソ連に拒絶された。

その一方で、リベリアのような戦闘に加わらなかった国でも、連合国宣言に署名したものがあった。旗幟を明らかにするよう圧力がかけられたからである。永世中立国でもなく、中立を貫いたアイルランドとアフガニスタンは珍しい存在であった。

1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことをもって第二次世界大戦は始まった。電撃戦、すなわち戦車による突破と急降下爆撃による支援、は著しい成功を収めた。奇妙な戦争と呼ばれた静かな時期をはさみ、1940年5月、ドイツ軍はベルギーとフランスのアルデンヌの森を突破した。不意を突かれた英仏軍は翌月、ダンケルクからブリテン島に撤退した。7月には、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリスとの航空戦が始まった。戦闘機スピットファイアの健闘に出ばなを挫かれたヒトラーは上陸作戦を見合わせた。

他方、日中戦争は1937年に始まっていた。中華民国の介石総統が拠点とする重慶を日本軍は攻略できなかった。英領ビルマから援蒋ルートを通って送られる武器が日本の勝利を阻んだ。蒋を倒せないまま、日本は南京に汪兆銘を主席とする国民政府を樹立した。

日本は八方ふさがりであった。ソ連に対しては、1939年のノモンハン事件で苦戦した。1932年に建てた満州国は米英から承認されなかった。

ソ連と戦う北進と、東南アジアへと向かう南進の選択に日本は直面した。北進については1941年4月、日ソ中立条約を結んだことで可能性は消えた。南進を選べば、東南アジアに植民地を持つ米英との衝突は避けられなかった。近衛文麿総理大臣は野村吉三郎を駐米大使に充て、アメリカ合衆国との対立を解消しようとした。ところが、日本は今のベトナムに含まれる南部仏領インドシナを占領するという、和解とは矛盾する行動をとった。

1941年10月に東条英機が総理大臣に就いた。翌月、アメリカ合衆国は、中国からの撤兵など日本が受諾不能な内容であるハル・ノートを手渡した。

12月7日の日本による最後通牒は真珠湾攻撃に間に合わなかった。実松譲の著書から引用する。

午後二時二十分、ハル国務長官は野村、来栖の両大使と会見したが、白髪温容の彼の顔からは日頃の微笑が消え失せ、苦々しい表情を押へきれない様子であった。野村大使が「午後一時に此の覚書を貴長官に手交するよう訓令を受けた」と述べたところ、ハルは「何故に午後一時か?」と訊ね、野村は「何故なるかを知らず」と答えた。長官は我が覚書を一読した後、非常に激怒した面持で、「自分は過去九ヶ月間常に信実を語って居った。斯くの如く偽りと歪曲に満ちた公文書を見たことがない」と語った[2]

ドイツは何を目指したのであろうか? 新秩序という言葉が当時、はやっていた。ドイツはヨーロッパの完全制覇を前にして「大ドイツ帝国」と改称した。世界征服が実現したら、アメリカやアジアのユダヤ人までナチスは絶滅したであろうか? それは無謀で無意味な目的である。

東亜新秩序は日本が掲げた政策目標であった。1938年末、近衛が声明したものである。東亜とは日本・満州・支那から成るブロックのことで、支那は南京国民政府を指した。これを東南アジアまで発展させたのが大東亜共栄圏である。1940年夏に北部仏領インドシナの占領に先立ち、松岡洋右外相が談話した。

開戦後の1942年には占領地の拡大に合わせて、政府の担当部署を統合し、大東亜省を設けた。大東亜会議は米州のパンアメリカン連合をまねたものであろう。1943年、東条英機総理大臣と重光葵外相のもと、東京で開催された。操り人形と蔑まれながらも、南京国民政府、満州国、フィリピン、ミャンマー、タイ、そしてインドの代表を集めた意義はあった[3]

結論を言えば、ドイツも、日本も、戦争目的は地域レベルの秩序を自らが好むように作り直すことにあった。そうした目的は、国内統治の正統性がナチスと翼賛体制になかったがゆえに、それを補うべく、むりやりひねりだされたものであった。

第二次世界大戦の勝敗は、他のあらゆる戦争と同様、兵士、兵器、作戦、諜報、補給、そして政治リーダーシップの優劣で決まった。しかし、ここですべてを論じるわけにはいかない。見落とされがちな諜報について、それがいかに大事であったかだけを述べる。

諜報の大きな柱はヒュミントとシギントである。ヒュミントは生身の人間が敵地で情報を集めることである。シギントは電波や光などの信号を分析して敵情をつかむことである。

ゾルゲ事件はヒュミントの例である。リヒャルト・ゾルゲはソ連の赤軍第四部に所属するスパイであった。ドイツ人新聞記者の隠れ蓑をかぶり、ナチス党員の身分を得た。駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼をえて大使館内に個室まであてがわれた。日本人の協力者は、近衛文麿のブレーンであった朝日新聞記者尾崎秀実やアメリカ共産党員宮崎与徳であった。

ゾルゲの凄腕を示すのは、独ソ戦の開戦日をほぼ正確に予告したことである。また、日本は北進でなく、南進するであろうことを探り当てたことも見事であった。モスクワがいかにそれを活用したかはともかく、戦略立案の参考となる情報であったことはまちがいない。彼は1941年に逮捕され、1944年に死刑に処された。日本の要人の一族にまで逮捕は及び、防諜の失点となった[4]

アラン・M・チューリングはシギントの例である。数学者としての彼は1936年にチューリングマシンを考案したことで知られる。第二次世界大戦中はイギリスの政府暗号学校(ブレッチリーパーク)に勤務した。ドイツは暗号機エニグマで通信を暗号化し、安全性に自信を持っていた。チューリングの部署は機械を使ってそれらを迅速に解読し、連合国の勝利に貢献した。ところが戦後、彼は同性愛罪で有罪になり、自殺してしまった。この悲劇は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』の題で映画化された[5]

日本に対する暗号解読を担当したのはアメリカ合衆国であった。OSS(戦略サービス局)は電信傍受・解読をはじめ、さまざまなスパイ任務を遂行した。これが戦後にCIAへと発展する。

1942年から翌年にかけて、戦いはクライマックスを迎えた。1941年6月の独ソ戦がヨーロッパではそれに当たる。結局、レニングラード、モスクワ、そしてスターリングラードの防衛線をドイツ軍は抜くことができなかった。

勝敗への影響もさりながら、独ソ戦の特徴は、領土といった講和条件をめぐってせめぎ合う通常戦争から逸脱した点にある。第1に、それは収奪であった。これはヒトラーの生存圏論に端を発した。占領した地において、石油、穀物、そして家畜をドイツ軍は略奪した。第2に、それは絶滅であった。ナチスは捕まえた共産党政治将校とユダヤ人を全員殺害した。第3に、国際法を顧みず、捕虜を虐待した。第4に、レニングラードの兵糧攻めなどで飢餓が発生した。これらの結果、戦闘以外で数百万人が死亡した。

1943年2月、スターリングラードで逆包囲されたドイツ軍が降伏し、ソ連側が攻勢に転じた[6]。他の戦線でも、ヒトラーの快進撃は終わった。アフリカでは「砂漠のキツネ」ことエルビン・ロンメルがエジプトに拠点を置くイギリス軍と一進一退の攻防をしていた。1942年には、リビアからイギリス軍を駆逐するところまでいったものの、翌年、現地のドイツ軍はイギリスに一掃された。

日本も支配地を急速に広げたものの、限界の訪れは早かった。1942年6月のミッドウェイ海戦に敗れてからは守勢をしいられ、ガダルカナル島の戦い、インパール作戦、そしてレイテ沖海戦と連戦連敗に陥った。

「失敗の本質」を作戦レベルの問題に求めるのが戦後は主流である。すなわち、兵力の逐次追加、陸軍と海軍の不連携、中央と現地のコミュニケーション不足、そしてコンティンジェンシー・プランの欠如といった点が批判された[7]。作戦がましであったとしても、勝てはしなかったであろう。本当の「本質」は戦前・戦中における軍隊への度を越した信頼であり、反戦を叫ぶ勇気ある者がいなかったことであった。

勝敗を超えた絶滅戦争であったこの大戦に、法はあったのであろうか? ホロコーストはナチス・ドイツによるユダヤ人の殺戮であり、アウシュビッツなどの絶滅収容所において実行された。国家による「最終的解決」として行われたのは1941年以降である。

連合国の側では、ローズベルトの四つの自由演説に見られるようにユダヤ人を保護する動きがあった。絶滅の現場では収容所が解放されるまで、実業家のオスカー・シンドラーのようなライティアス・ピープルまたは「義人」が自発的にユダヤ人を救うしかなかった。

特に、特権免除を持つ外交官・領事官はそうしたことをしやすい立場にあった。杉原千畝は日本の在カウナス領事館領事代理であった。彼は迫害から逃げるユダヤ人に通過ビザを発給した。ドイツのポーランド侵攻により、ユダヤ人たちは安全な地に逃げようとさまよっていた。カウナスのあるリトアニア自体が1940年6月にソ連に併合されていた。

ラウル・G・ワレンバーグは中立国スウェーデンの外交官であった。在ハンガリー公使館に勤務し、救出を行った。ユダヤ人を公使館保護下の家にかくまい、スウェーデンのパスポートを発給した。ところが、ソ連の赤軍により逮捕された後、行方不明になってしまった。

日本軍による戦争犯罪で目立つのは捕虜の虐待である。なかでも「バターン死の行進」はアメリカ合衆国の対日感情を大きく悪化させた。1941年、日本軍に投降し、収容所に移動中の多数の米兵・フィリピン兵が死亡した。ビルマにおける泰緬鉄道の建設では、強制労働させられた多くの連合国軍捕虜が死亡した。映画『戦場にかける橋』では、この鉄道を爆破するイギリスの特殊工作が描かれる。

逆に日本人の捕虜も人道的といえない待遇を受けたが、勝者は罰せられなかったので、戦後、不公平感を抱く日本人は少なくなかった。好例はシベリア抑留である。日本兵・軍属など約60万人がソ連とモンゴルに抑留され、強制労働に従事した。

その他の日本の戦争犯罪には、南京を攻略した日本軍が民間人を多数殺害した南京事件、731部隊による生物兵器の使用と人体実験、インドネシアでオランダ人女性を慰安婦にしたスマラン慰安所事件などがある。

連合国の側にも、ドイツ系住民の追放、ドレスデンや東京への戦略爆撃、広島・長崎への原爆投下など非人道的な行為があった。世界大戦においては国際法が守られる保証はない。こちらが守りたいと思っても、相手が守らなければ引きずられるからである。

戦後処理は1943年から本格化した。1943年11月、米英中首脳がエジプトのカイロで会談した。対日戦はアメリカ合衆国が中心となって進めていたため、満州を含む中国から日本を追い出すスティムソン・ドクトリンとハル・ノートが基礎となった。台湾は中国に返され、朝鮮は独立することもカイロ宣言で謳われた。

1943年の11月末から翌月にかけ、ローズベルト、ウィンストン・チャーチル、そしてヨシフ・スターリンがテヘランで会った。しかし、ヨーロッパでは、英米とソ連が、それぞれどこを占領するか定まっていなかった。

1944年の夏にはフランスとルーマニアが連合国の手に落ちた。あとは東ヨーロッパとドイツをどうするか、が課題であった。

歴史の後知恵で、東ヨーロッパはソ連圏に組み込まれることを私たちは知っている。この年の10月、チャーチルはモスクワを訪れてスターリンと会い、パーセンテージ協定に合意した。これはバルカン半島の諸国に対して、ギリシャとユーゴスラビア以外は、ソ連の影響力が勝ることを確認する結果になった。占領した国がその土地に対して影響力を持つ、というのは分かりやすいと言えば分かりやすいが、アメリカ合衆国には異論があった[8]。同国にとっては、勢力範囲の画定でなく、あくまで自由が戦争の目的であることになっていた。

ヤルタ会談は1945年1月から2月にかけ開かれた。ドイツは分割して占領することを決めた。ロシアが占領したポーランドは自由選挙をすることにした。日本との関係では、カイロ宣言の内容に加え、南樺太、千島列島、そして満州の諸権益をソ連が得ることを認めた。かわりに、ソ連は対日参戦を約束した。ヤルタ体制という言葉は、大国によるヨーロッパの分断という意味で使われる。ドイツは分割され、ポーランドの自由選挙はついに行われなかった。分断への動きを止められなかった、という意味であれば、この会談はその汚名に値する。

4月30日、アドルフ・ヒトラーが自殺した。5月8日に、ドイツは降伏文書に署名した。

7月から翌月にかけ、ベルリン郊外の町ポツダムで連合国の首脳会談が持たれた。占領下にあったドイツに関して、賠償、占領、そして国境の重要な決定がなされた。もめたのはポーランドの親ソ政権を承認するかの問題であった。もちろん、日本に降伏を求めたポツダム宣言も公表された。 日本軍は3月に始まった沖縄戦が6月に終息すると、本土決戦の備えにかかった。しかし、8月に入っての広島・長崎への原子爆弾投下とソ連の参戦により、御前会議はポツダム宣言の受諾を決めた。8月15日、玉音放送が流され、9月2日、降伏文書が署名された。


[1] 矢田俊隆編、『東欧史』、新版、山川出版社、1977年。

[2] 実松譲、『幻の最後通牒』、五月書房、1995年、151ページ。

[3] 外務省外交資料館日本外交史辞典編纂委員会、『日本外交史辞典』、山川出版社、1992年。山本有造、『「大東亜共栄圏」経済史研究』、名古屋大学出版会、2011年、22ページ。

[4] F・W・ディーキン、G・R・ストーリィ、『ゾルゲ追跡』、上、下、河合秀和訳、岩波書店、2003年。

[5] アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、上、Kindle 版、勁草書房、2021年。アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、下、Kindle 版、勁草書房、2021年。Morten Tyldum, Benedict Cumberbatch, Keira Knightley, and Matthew Goode, Imitation Game, [s.l.]: Twentieth Century Fox Home Entertainment, 2015.

[6] 大木毅、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』、岩波書店、2017年。

[7] 戸部良⼀、寺本義也、鎌⽥伸⼀、杉之尾孝⽣、村井友秀、野中郁次郎、『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』、ダイヤモンド社、1984年。

[8] コーデル・ハル、『ハル回顧録』、宮地健次郎訳、中央公論新社、2001年、237ページ。

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帰省

年末から旅をしてきた。

江ノ島、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、秋葉原、アメ横、雷門、丸善本店、ポケモンストア……

賑わっているとこばかりだった。ずっと、そうでありますように。

領土保全

領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸国および国際連盟の対応について具体例を挙げながら論じなさい、である。

第二次世界大戦の原因は、領土を奪われ、「持たない者」になったドイツの不満が募り、ベルサイユ体制に挑戦したことにあるとされる。実際、かつてドイツの領土であったダンツィヒは両次大戦間期には自由市となり、戦後はポーランド領のグダニスクになった。ダンツィヒを囲む西プロイセンの一部はベルサイユ条約でポーランドに割譲され、ポーランド回廊と呼ばれた。さらに北では、旧ドイツ領メーメルがクライペダと改称されてリトアニア領になった。上シュレジエンは住民投票によってドイツとポーランドに分割され、ポーランド名のシロンスクで知られるようになった。独領であったエルザス・ロートリンゲンとは現在の仏領アルザス・ロレーヌのことである。

不満であったのはドイツだけでなかった。オーストリアハンガリーの領土は原形をとどめず切り分けられた。フィウメはイタリアとユーゴスラビアの取り合いになった。かつてのテッシェンであるチェシンはポーランドとチェコスロバキアに分割された。

おまけに、ロシアから独立した国どうしが争うようになった。リトアニア語でビリニュス、ポーランド語でビルノは、言語を異にする二つのエスニック集団間で奪い合いになった。

争いの一因は、T・ウッドロウ・ウィルソン合衆国大統領が唱えた民族自決の原則にあった。新しい国境の線引きは十分な調査に基づいたわけでなかった。次の文章はパリ講和会議における日本代表の一人であった牧野伸顕の回想である。

―前略―ルーマニア、ホンガリア、ユーゴースラヴィアもみな国境の変更を見た。―中略―前以て関係国の間に相談を纏めることは不可能であり、結局国境問題は、当事国側の意見も聴き主張も聴いたけれども、最後の決定は最高会議で極めてしまって、それを条約の本文に書入れたのである。媾和会議の最後の日にこの条約の全部を総会の議に附したとき、関係国は初めて自分の国境がこうなったということを知った[1]

フィウメをめぐる争いの経過はその後の歴史を暗示するものであった。国境線に不満な民族主義者は直接行動に訴えて人気を博す。さらに、その危険な正体に気づかない体制側に取り入り、政権を奪う。最後に、大衆を動員して全体主義を徹底し、権力を永続化する。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオというイタリア人作家が私兵を率い、勝手にフィウメを占領してしまったのは1919年のことである。翌年にはイタリアとユーゴスラビアの間にラパッロ条約が結ばれ、フィウメは自由市とされた。ダンヌンツィオ自身はイタリア政府軍によって排除されたが、同じ手を使って、ベニト・ムッソリーニが率いる黒シャツを着たファシストの私兵が1922年にローマに進軍し、政権を握った。2年後、イタリアとユーゴスラビアはフィウメを分割し、市街はイタリア領に組み入れられた。第二次世界大戦でムッソリーニは処刑され、1945年にフィウメはユーゴスラビア領とされ、リエカという名前になった。

領土の不満が詰まったヨーロッパという伏魔殿のフタがベルサイユ条約であり、軍事力という重しで押さえることが不可欠であった。ベルサイユ条約が用意した処方箋はラインラントの非武装化であり、国境の外に撃ってでるまえに、内側を制圧する手間をドイツに負わせた。しかし、それはドイツが強い軍隊を再建するまでの時間稼ぎであった。

強い軍隊とバランスをとるには、強い軍隊で対抗するのが確実である。実はそうした協定を戦勝国は準備していた。ライン川以西にドイツ軍を進ませないための英仏保障条約と米仏保障協定に、ベルサイユ条約と同じ日、署名していたのである。ところが、アメリカ合衆国の連邦議会はベルサイユ条約の批准を拒否し、上の2本の約束も発効しなかった。

将来、現実となるかもしれない強いドイツにどうすれば対抗できるのか? 一つの答えは同盟であった。特にフランスはベルサイユ条約の擁護者として、自らを中心とする安全保障システムを張りめぐらした。

フランスはドイツを囲むため、その北西のベルギー、東のポーランド、そして東南のチェコスロバキアと個別に防御同盟を結んだ。本来、東部戦線では、北方の熊というべきロシアがフランスのパートナーとなるはずであったが、共産主義のソビエト連邦は仲間外れにされていた。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島では、フランスは小協商を支援した。それはチェコスロバキア、ユーゴスラビア、そしてルーマニアの3国間の防御同盟である。しかし、フランス語でプティタンタントといい、華奢な印象を与えるその同盟は、ドイツという猛虎と張り合うには、さしずめウサギの群のように頼りなかった。

そうこうしているうちに、1922年、ヨーロッパに衝撃が走った。つまはじきにされたドイツとソ連がラパッロ条約を結んで、手を握ったのである。同じラパッロという海辺の観光地で結ばれたものの、イタリアとユーゴスラビアとの条約とは別物である。表向きの内容は相互の賠償放棄と外交関係再開であったが、秘密付属書はドイツ軍をソ連で訓練するというベルサイユ条約違反のきな臭い約束を含んでいた。

ドイツと対抗しなければならない、という固定観念は1923年にはフランスとベルギーによるルール地方の占領と国際連盟における相互援助条約の交渉を引き起こした。1924年になると、より宥和的な姿勢がドーズ案やジュネーブ議定書の交渉となって現れた。敵を封じ込めるという考えがもともとなかったアメリカ合衆国だけでなく、イギリスまでも、フランスの執念と一線を画するようになった。

フランスとドイツの和解として名高いのが1925年のロカルノ条約である。このスイスの町の名を冠した条約は、複数の条約から成り立っていた。その中心は、ドイツの西部国境とラインラントの非武装化をイギリス、イタリア、ドイツ、フランス、そしてベルギーが相互に保障する条約である。ドイツが軍隊をラインラントに入れたり、さらにベルギーやフランスに越境したりすることがこれに違反する(もちろんベルサイユ条約にも違反する)。また、ドイツとベルギー、またはドイツとフランスとの戦争も禁じられる。つまり、違反国になりうるのはドイツだけでなく、ベルギーとフランスにもその可能性があった。違反国に対し、イギリスとイタリアを含めた他の全締約国が協力して戦うことが定められている。

保障条約を支えるのが、ドイツを一方の締約国とする二国間仲裁条約の束である。他方の締約国は同国と境を接するチェコスロバキア、フランス、ベルギー、そしてポーランドである。戦争の原因となりうる紛争は仲裁法廷または常設国際司法裁判所に付託されて解決されると期待される。

ロカルノ条約はヨーロッパ諸国に友好的な雰囲気を醸しだした。ドイツには経済の混乱から立ち直る休息の機会が与えられ、1926年には国際連盟にも加盟した。フランスのアリスティード・ブリアン外相とドイツのグスタフ・シュトレーゼマン外相に、ノーベル平和賞が与えられた。

和解の空気が頂点に達したのは1928年にパリ不戦条約が結ばれた時である。日本語の正式名称は「戦争抛棄に関する条約」である。抛棄は「ほうき」と読む。締結の発端となったフランスとアメリカ合衆国の外相の名をとって、ブリアン・ケロッグ条約とか、ケロッグ・ブリアン条約とか呼ばれることもある。日本を含む当時の主要6か国とベルギー・ポーランド・チェコスロバキアが署名に臨み、ほとんどの国が加入した。内容は第1条に尽きるので、それを引用する。

締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス

読んですぐに分かるように、日本国憲法の第9条の雛型とされる。すなわち第1項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という部分である。不戦条約は個人の刑事責任を問う規定を含まないにもかかわらず、日本の政治指導者たちをA級戦犯として裁く根拠となった。戦後日本の原点と言ってよい。

ところが、招かれなかった国があった。ソ連である。深い孤立感を抱いた同国は周辺国とリトビノフ議定書を取り決めた(1929年)。続いて、中立条約・不可侵条約を個別に結び、1933年には侵略定義条約を結んだ。これらにおけるソ連のパートナーはポーランドやバルト諸国であった。周辺諸国との平和を固めておくことは、陸上の国境で囲まれたソ連またはロシアにとって伝統的な政策である。

1932年に至ると、ソ連は西ヨーロッパの資本主義国であるフランスとも不可侵条約を結んだ。大恐慌により先行きに不安を感じるヨーロッパ各国にとって、沈黙を守り、何を考えているか分からないソ連との同盟が現実の選択肢になりつつあった。

目をアジア太平洋に転じる。そこで領土保全の原則を定めたのは1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議であり、できた秩序はワシントン体制という。その柱である太平洋に関する四国条約と中国に関する九国条約はともに地域の領土保全を謳う。

ワシントン体制は国際連盟のような常設的な集団安全保障の機関は持たず、紛争は外交交渉か国際会議かによって解決することとされた。記すべきことは、日中戦争中の1937年、中国が提訴してブリュッセル会議が開かれたことくらいである。貧弱な制度であったにもかかわらず、太平洋に関する四国条約が発効すると同時に、日本にとって重要であった日英同盟は終了した。

満州事変にワシントン体制はいかに対処したろうか? 1931年9月18日の柳条湖事件から4か月後の翌年1月、つまり満州国樹立の2か月まえに発せられたのが、アメリカ合衆国のスティムソン・ドクトリンであった。日本軍は占領地を広げ、満州支配の既成事実を作っていた。それが中国に関する九国条約が定めた「中華民国の主権、独立、領土・統治権の保全、あるいは門戸開放政策」への違反であり、この違反を承認しない決意を表明したのがこのドクトリンであった[2]

スティムソン・ドクトリンは第二次世界大戦が終わるまで維持された。これによって、真珠湾攻撃直前の日米交渉で、中国を犠牲にして日米が宥和することが不可能になった。このように検討すると、アメリカ合衆国の不承認政策はむしろ全面的に勝利した、とも言える。

しかし、1945年までに失われた人命の損失を減らす別の方法はなかったか? アメリカ合衆国が採用したのは不承認主義でなく、単に孤立主義でなかったか? こうした疑問も吟味すべきである。

アジアで領土保全の原則がないがしろにされたことを見届けて、ヨーロッパ政治では地殻変動が始まった。総選挙でナチスが第1党になったのは1932年、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、全権を委任されたのは翌年であった。この年にドイツは「軍備平等」の要求が通らず、国際連盟を脱退した。次の年、大統領の死に伴い、ヒトラーは首相と大統領を兼ねて「総統」となった。

以後は報復の連鎖によって、世界大戦まで一気に進む。ドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。フランスはこれをドイツ包囲網の破れと捉え、ソ連との相互援助条約、すなわち同盟、を結んだ。ドイツは背信行為としてこれを受けとめ、1936年、ロカルノ条約を破棄し、軍隊をラインラントに華々しく進駐させた。その前年にドイツは再軍備を宣言しており、ベルサイユ体制の崩壊は決定的であった。

破綻を止めようとする動きがなかったわけでない。ヒトラーに対抗するため、英仏伊が共同戦線を張った。1935年のストレーザ戦線がこれである。イタリア北部のストレーザという町に面したマッジョーレ湖に浮かぶ島にボッローメオ宮殿があり、首脳たちが集まった。

こうした試みを無に帰したのが、イタリアによるエチオピア侵攻である。1935年暮れ、思わぬことが起きた。本来ならばエチオピアの領土保全を守るはずのイギリスとフランスがイタリアと裏取引をしようとした。両国ともアフリカに植民地を持っていたので、イタリアに有利に領土を交換し、エチオピアという国を形だけ残そうとしたのである。これは善意に発したかもしれないが、帝国主義の秘密外交そのものであった。

ベルサイユ体制から脱落した日本・ドイツ・イタリアが共闘関係になるまで時間はかからなかった。スペイン内戦は1936年、フランシスコ・フランコの反乱軍がモロッコから海を渡って上陸し、政府側の共和国軍と戦闘になった。フランコ軍には独伊が、共和国軍にはソ連が付き、他は中立を保った。ゲルニカへのドイツの空爆はパブロ・ピカソの名画を生んだ(1937年)。

ヒトラー自身の侵略は1938年に始まった。その3月、独墺合邦が行われた。オーストリアとドイツが一つになることはベルサイユ条約で禁止されたことであった。次の標的はチェコスロバキアであった。その北西部のチェコ語ではズデティ、ドイツ語ではズデーテンという地方にはドイツ系の人々がいて、分離してドイツに帰属したい、と運動した。これに応えてヒトラーが同地方の割譲をチェコスロバキアに求めた。

1938年9月にミュンヘン会談が開かれた。ヒトラーとムッソリーニに加え、イギリスのネビル・チェンバレン首相とフランスのエドゥアール・ダラディエ首相がテーブルに着いた。割譲はもちろん領土保全の原則に反する。いまさらながら、ベルサイユ条約はドイツに厳しすぎる、という世論もあった。これが最後のヒトラーへの妥協であると決意し、チェンバレンとダラディエも割譲を認めるミュンヘン協定に署名した。

ズデティと平和を交換する宥和政策は翌年の1939年3月に破綻した。ヒトラーはチェコスロバキアの解体を実行した。チェコ全体がドイツの保護領にされ、スロバキアは切り離されて独立国とされた。つまり、英仏は騙されたのである。

ミュンヘン協定の結果、東ヨーロッパはドイツとイタリアの勢力範囲に落ちた。前者のヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と後者のガレアッツォ・チアノ外相は好き勝手に国境線を引き直した。それは一応、仲裁という形はとったが、実際には枢軸国による命令であった。日記にチアノは「ドナウとバルカンにおける仏英のいかなる影響力も永久に失墜させる」と狙いを書いた[3]

1938年の第1回ウィーン判断は、分離されたスロバキアからさらにその南部をはぎ取り、ハンガリーにこれを与えた。1940年の第2回ウィーン判断は、ルーマニアのトランシルバニア地方をやはりハンガリーに割譲させた。民族自決と言えば正義のようであるが、実際はえこひいきであった。なぜなら、トランシルバニアの割譲された土地にはルーマニア系住民の比率が高い地区が含まれたからである[4]

1939年、ついに独伊が正式な同盟を締結した。これがいわゆる鋼鉄同盟である。すでに1936年、日独防共協定が結ばれ、イタリアとハンガリーも加入していた。鋼鉄同盟の前の年に、ムッソリーニは「ドイツとイタリアはヨーロッパが盲目的に運命を託したユートピアに背を向けてきた。他国をも含めて、正義、安全、そして平和のより実効的な保障を平等に回復する国際親善体制を模索するためである。」と演説していた[5]。ベルサイユ体制は非実効的で、不平等であったかのような言いようである。では、実効的で、平等な体制とはいかなるものなのであろうか? ぜひ聞きたい。

エドワード・H・カーの『危機の20年』はその一つの答えであった。戦後の版では消されているが、第二次世界大戦が始まる直前に書かれた初版において、宥和政策をこの「名著」は称賛している。「1938年9月2日のミュンヘン協定に至る交渉は、平和的変更の手続きによる一大国際争点の処理に、近年では最も近いアプローチ」と述べる。軍事力をはじめとする力こそ、発言力の強化につながり、現実を作り出す、という彼の現実主義理論であれば、ヒトラーであれ、ローズベルトであれ、スターリンであれ、老練な力の使い手を称賛したとしても不思議はない。しかし、「ヨーロッパにおける実力の均衡の変化と、国際道徳の受け入れられた正典の両方に一致した」と彼は続けて言う。ヒトラーに道徳まで期待したのは、カーの無い物ねだりでなかったろうか?[6]

大戦への最終局面は独ソ不可侵条約であった。ソ連の中立を確かにしたうえで、ドイツは東への征服を進めることができた。実際、署名日の1939年8月23日から9日後にポーランドへの侵攻が始まっている。

単にドイツを利するために、ソ連は不可侵条約に応じたわけでなかった。それには秘密付属議定書が付けられ、ドイツが攻めるポーランドだけでなく、東ヨーロッパ全体を両国で山分けすることが書かれていた。長らく、ソ連は秘密付属議定書の存在を否定していた。第二次世界大戦はスターリンの罪でもあったことを認めたくなかったからである。

これまで見てきた両次大戦間期の歴史は、領土保全の原則が一たびないがしろにされれば、国際社会は紛争で満ちあふれ、収拾がつかなくなることを教える。それにもかかわらず、パレスチナをはじめ、ナゴルノカラバフ、コソボ、南オセチア、アブハジア……、といくつもの問題が起きている。2014年に発生したウクライナでの紛争は2022年になって世界秩序を揺るがすまでになった。領土保全を誰が保障するのか?、という問題は現代における未解決の問題である。なぜなら、国際連合は拒否権を有する五大国の単独行動に対して実効的な手を打つことができないからである。


[1] 牧野伸顕、『回顧録』、下巻、第4版、中央公論社、1992年、194ページ。

[2] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、176-177ページ。

[3] Galeazzo Ciano, Diary 1937-1943 (New York: Enigma Books, 2002), p. 149.

[4] Silviu Dragomir, La Transylvanie avant et après l’arbitrage de Vienne (Sibiu : Centrul de Studii Şi Cercetări Privitoare la Transilvania, 1943), pp. 10-11, 15.

[5] Monica Curtis, ed., Documents on International Affairs, 1938, vol. II (London: Oxford University Press, 1943), p. 32.

[6] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 282.

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集団安全保障

集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。

集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦状態はこの敵が武装解除されるまで続けられる。

国際連盟ができるまでの二百年間、そのような国家間の連合が本当にできるのか?、は人類最大の難問であった。これに、可能である、と納得できる説明を与えたのがカントである。

1795年に公刊されたカントの『永遠平和のために』は社会契約論における「自然状態」の論法を利用する。自然状態というのは架空の世界であり、この場合、諸国家はいまだに社会を成さず、ゆえに法も秩序もなく、ただ、にらみ合っている。自然状態では、国家はいつも戦争の口実を探している。理性が命じるのは、戦争を断固として処罰することを諸国家の義務とすることである。よって、すべての戦争を永遠に終結させる平和連合が存在しなければならない[1]

ここで注目すべきであるのは「理性が命じるのは」というくだりである。カントは以上の論理が理想にすぎないことを自覚している。しかし、彼は太陽系の起源について星雲説を唱えた科学者であったように、単なる理想主義者でない。

国家を強制して平和連合に加盟させることはできない、とカントは認めて、それが形成される別の過程を考える。平和連合に喜んで入る国は本性上、平和を愛する国である。そのような国は共和国である。こうした共和国が中心となって、諸国家が数珠つなぎになって平和連合を形成していく。共和国だけでなく、君主国も加わっていくであろう。こうして、平和連合は遠くにまで広がっていく[2]。これは現実に平和連合が形成されるであろうシミュレーションにほかならない。

1冊の『永遠平和のために』が二つの意味を持つことが分かったろう。一つは集団安全保障の理想であり、多国間の国際機構を作って、違反国を制裁する構想である。これは国際連盟や国際連合の設計図となった。もう一つは「民主主義の平和」であり、民主国間の同盟により侵略を抑止する構想である。こちらはNATOや日米安全保障条約の理念である。

今回のテーマは、同盟の問題点と集団安全保障の理想との関係について第一次世界大戦前後の例を引きながら論じなさい、である。国際連合の時代については「集団安全保障と自衛権」の回で扱われる。

国際連盟の設立に至るまでには、第一次世界大戦とそれに先立つ外交があった。19世紀後半、ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは巧みな外交手腕を発揮し、フランスを孤立させることに成功した。彼は1872年の三帝同盟によりロシアとオーストリアハンガリーを味方とし、1879年の独墺二国同盟でオーストリアハンガリーとのきずなを深め、1882年の独墺伊三国同盟をつうじイタリアをフランスに対抗させた。オーストリアハンガリーの同盟国であるドイツは、この同盟国がロシアと仲違いすると、巻きこまれないよう、1887年にロシアと再保障条約を結んだ。

ところが、辞任したビスマルクに替わって外交の指揮を執った皇帝ビルヘルム二世は成果を台無しにした。露仏同盟が1894年に結ばれ、逆にドイツは包囲される側になった。19世紀末に日本公使としてロシアに駐在した林董は次のように振り返る。

仏露同盟は、久しき前より世に聞こえたる所なるが、仏大統領訪問の時露帝が仏艦にて午餐の饗応を受けられし際の演説に於て、初めて我同盟国の語を公に用いられたりと云う[3]

つまり、露仏同盟は秘密条約であった。秘密といってもバレバレなのではあるが、秘め事を作る行為によって、国家間の疑心暗鬼を深めた。その後、林董は駐英公使になり、日英同盟を1902 年に締結することになる。なぜ、イギリスとの同盟が必要であったのか? 林は自らが清に赴任した際に起きた三国干渉に、その理由があるとした。彼の解説を引用する。

我輩は、日清戦争後、欧羅巴の列強合縦の結果が、極東に影響を及ぼし、三国干渉となって我に圧迫を加えたことを、直接に経験したのであるから、日本の孤立が到底不可能であるを感ずるの念も、特に痛切であったから、是非とも合縦の策を講ずるの必要を認め、―中略 ―「外交の大方針を定む可し」と題する一篇の論説を起草し、―中略―『時事新報』の社説に載せられたのである[4]

20世紀に入ると、同盟をめぐる世界の動きは激しくなった。1904年に英仏協商が結ばれた。日露戦争後に日本とロシアは接近し、1907年の日仏協商・日露協商・英露協商によって、露仏同盟と日英同盟が合流する形になった。これで第一次世界大戦の協商国対同盟国の対立構図ができあがった。

サラエボ事件と七月危機は外交史で最もよく取り上げられるテーマの一つである。オーストリアハンガリーの帝位継承者フランツフェルディナント大公がサラエボの町で、セルビア人青年により射殺された。オーストリアハンガリーにとっては、帝位継承者が暗殺されただけで屈辱である。オーストリアハンガリーは、犯行に使われた銃はセルビア軍将校から供与されたものと主張し、陰謀加担者を裁判し、それに自国の代表も参加させることなど要求した。セルビア側がこの要求を拒否したために、戦争の危機におちいった。

7月28日、オーストリアハンガリーはセルビアに宣戦布告をした。セルビアはヨーロッパの片隅である。なぜ、ここから世界大戦に発展したのか?

セルビアはロシアと同じスラブ民族であり、ロシアとしては見捨てるわけにいかなかった。ロシアとオーストリアハンガリーが戦争になれば、後者はドイツの同盟国であるので、今度はロシアとドイツが戦争になるであろう。実際、ドイツが、同盟責務を果たすつもりだ、とオーストリアハンガリーに伝えたのは、早くも7月5日であった。オーストリアハンガリーに和戦の選択を委ねたので、歴史家はこれを「白紙委任状」と呼ぶ。

ドイツとロシアが戦争になれば、後者との同盟義務にしたがい、フランスがドイツと戦争になる。全ヨーロッパを爆発させた火薬庫の導火線がサラエボ事件であったのはこうした理由による。

とはいえ、セルビアが攻撃されて、すぐにロシアは戦争にとりかかったわけでなかった。局地戦争で止めようと思えば、どこかで止められたかもしれない。それを妨げたのは、同盟の義務と軍事計画であったとされる。同盟の義務とは上で述べた「白紙委任状」のことである。軍事計画の弊害については、ドイツのシュリーフェン・プランの問題が知られている。

ドイツ陸軍の参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは露仏同盟に対応した作戦を立案した。ロシアも、フランスも、世界屈指の軍事大国であった。いくらドイツといえども、それらを一手に引き受けるのは容易でなかった。歴史家バーバラ・W・タックマンの文章を引用する。

彼が引退した一九〇六年に立案を完了したシュリーフェンの計画によると、戦争の期間は六週間とし、ドイツ軍の八分の七をフランス粉砕につかい、仕事がすんでこのドイツの大軍が引き返して来るまで、ロシアという第二の敵を東部戦線にくいとめておくために、残り八分の一を割り当てようというものだった。―中略―ドイツもフランスも動員完了には二週間あれば足りる。動員第五日目には大攻撃戦を開始できる態勢にある。―中略―ロシアは面積が広く、人口が多いうえに鉄道が少なく、大攻撃を開始するまでに六週間はかかる。それまでにはフランスを負かすことができるというのである[5]

実際には彼の引退後、シュリーフェン・プランは本来のものから手直しされた。とはいえ、ドイツが、難事業を遂げるためには先手を打たなければならない、と思いつめていたことは変わらない。

ロシアの立場になってみれば、国土が広大であるがゆえに、兵隊を動員して前線に連れてくるまでに長い時間が必要である。それゆえ、やはり先手先手で動かざるをえなかった。

7月31日にロシアが総動員令を発したことは、ドイツにとってはロシアを急いで片づけなければならないことはもちろん、その同盟国であるフランスとの戦争が不可避になることをも意味した。それゆえ、ドイツは8月1日にロシアに、同3日にフランスに対して宣戦布告した。「動員は戦争を意味する」、すなわち、ロシアの総動員がヨーロッパ大戦を決定づけた、と言われるのはこのためである。

イギリスは日英同盟以外では、戦争に参加する義務を負わなかった。それにもかかわらず、イギリスは第一次世界大戦に引きずり込まれることになった。理由は意外なところにあった。ドイツがベルギーの中立を侵した、というのである。フランスとドイツが直接、国境を共有しているところでは、ドイツの侵攻に対してフランス軍が迎え撃とうと身構えていた。そこで、ドイツ軍は守りが手薄なベルギーを横断して、フランス領に侵入した。

確かに、ベルギーを永世中立国としたのは、1839年に結ばれたロンドン条約であった。その名称からも分かるように、オランダから独立したばかりのベルギーに、イギリスが肩入れして結ばれたものであった。名誉を傷つけられたというのは、当時の感覚では戦争事由になりえた。ただし、数百年前からこのかた、大陸ヨーロッパの統一を防ぐのがイギリスの勢力均衡政策であったから、中立侵犯は後付けの理由であった。

8月7日にイギリスと同盟を結ぶ日本が参戦した。真意は疑いなく、ドイツがアジアと太平洋に持っていた領土と利権を奪うためであった。ヨーロッパへの派兵は申し訳程度に行われた。

ドイツのシュリーフェン・プランは、パリを目の前にしたマルヌでの戦闘でドイツが敗れたことで挫折した。ロシアには、タンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍が勝利を収めたものの、全体の戦況は膠着した。1916年におけるソンムの戦いは決戦というにふさわしい大会戦であったものの、イギリスの攻勢は死体の山を築いただけで、勝敗を決するには至らなかった。

こうして、セルビアに対する局地戦争は全ヨーロッパを巻き込む大戦争へと拡大した。

アメリカ合衆国が1917年、参戦して、ヨーロッパ大戦は名実ともに世界大戦になった。合衆国の戦争事由は、貨物船ばかりか旅客船をも含むUボート、すなわちドイツの潜水艦、による無差別攻撃であった。戦況は協商国側に有利に傾き、話題は戦後構想に移った。

T・ウッドロウ・ウィルソンは、再選を賭けた1916年の大統領選挙で、ヨーロッパの戦争に自国を加わらせないために市民が選んだ候補者であった。翌年、ウィルソンが探し出した戦争に介入する口実が「勝利なき平和」であった。彼は、勝者と敗者の不平等な講和でなく、軍縮のような永遠の平和をもたらす講和を提案した。自陣営の英仏はすでに多くの兵士が命を失っていたのに、「勝利なき平和」で両国民は納得できたであろうか?

ウィルソンの提案は1918年、14か条にまとめられた。その1は公開外交であり、「公開の平和の規約」を求めた。その4は「各国の軍備が国内の安全を満たすだけの最低限度に削減される十分な保障の取り決め」である。最後の14番目は「大国か小国かを問わず、政治的・経済的独立と領土保全の相互保障を与える目的で具体的な規約のもと作られる諸国民の一般的結びつき」である。これらが国際連盟規約と軍縮条約をもたらすことになる。

ウィルソン的な理想主義はアメリカ外交全般の傾向であるとも言われる。有名なのはジョージ・F・ケナンの『アメリカ外交50年』における解説である。

外国政府に勧めて、崇高な道徳的・法律的原則の宣言に署名させることによって、われわれの外交政策上の目的を達成しようとする傾向は、アメリカの外交のやり方に強力かつ永続的な力を及ぼしているように思われる[6]

実際には、ウィルソンの理想主義は他の交戦国との交渉が始まる前から後退していた。彼はハウス大佐という個人的な友人を対外的な交渉者に任じた。停戦の直前、ハウスは14か条の後退を許してもらおうとウィルソンに問い合わせた。公開の規約は秘密交渉を排除しない、とか、公海の自由といっても封鎖はよい、とかは残念ではあるが後退が必然的な事項であった。しかし、イタリアに南ティロルを、イギリスにパレスチナ・アラビア・イラクを、ギリシャにイズミルを、といった他国の領土要求の容認は「勝利なき平和」の大義名分を台無しにした[7]

パリ講和会議は1919年の1月から6月まで開かれた。議事を牛耳ったのは戦勝国の諸大国、すなわちアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、そして日本であり、最高理事会と称された。その他22の主権国家も会議に参加した。交渉はケドルセー、すなわちパリのフランス外務省、で進められたものの、合意の署名式は郊外のベルサイユ宮殿「鏡の回廊」で行われた。

平和の基盤となるべきベルサイユ条約は15編から成る。第1編は国際連盟規約であり、以下、ドイツとヨーロッパに関する規定が続き、第13編にILO(国際労働機関)の憲章が組み込まれた。

集団安全保障という観点では、ベルサイユ条約のなかでも国際連盟規約、特に戦争の違法化と制裁に関わる部分が問題となる。「締約国は 戦争に訴へさるの義務を受諾し」という一節があるのであるが、それは前文、つまり法的拘束力がないところ、に書かれている。これが当てにならないということが、後に不戦条約が作られる原因となった。

他方、侵略を許さない、ということであれば第10条が国際連盟のバックボーンである。条文を示すと、「聯盟国は、聯盟各国の領土保全及現在の政治的独立を尊重し、且外部の侵略に対し之を擁護することを約す」とある。確かに、後段は違反国への制裁を約束している。

この規約第10条が積極的に適用されれば、満州事変も、エチオピア侵攻も、チェコスロバキア解体も、連盟は対応できたはずである。それができなかったのは、軍事力が心もとなかったからで、連盟規約そのものの問題ではなかった。軍事力が足りなかったのは後で見るようにアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。

連盟規約の特徴の一つは、平和的紛争解決のために第12条から第15条までの条項を充実させたことである。ただし、それらは加盟国間の紛争にかぎられた手続きである。

国際連盟による紛争の平和的解決は、外交交渉がうまくいかなければ仲裁または司法的解決に、それらもうまくいかなければ理事会による審査で解決する、というものである。理事会の審査においては、その場で解決できなければ、報告書に勧告を記す。勧告は紛争当事国以外の全会一致によって合意あるものとなり、それを遵守する国と戦争することは禁じられる。紛争当事国のいずれかが要求すれば、紛争の審査は総会に回される。当事国は仲裁判断・常設国際司法裁判所判決・理事会報告書が出てから3か月間は戦争に訴えてはならない。

以上のとおり、連盟による平和的紛争解決の手続きは窮屈なくらい緻密に作られていた。理想主義が法律主義的と評されるのはこのためである。

リットン審査委員会、またはリットン調査団、は満州事変に関しての理事会審査の過程で設けられた。1931年9月18日に柳条湖事件が起きた。南満州鉄道の線路が何者かにより爆破されたと伝えられたが、実は日本の関東軍による自作自演であった。これに乗じて、関東軍は翌日、大都市の奉天を占領した。日本は当初、こうした軍事行動は領土獲得を目的としたものではないとし、撤退の方針を明らかにしていたため、連盟の理事会はその主張を承認した。

ところが翌年、満州国が樹立され、紛争は長引いた。リットン審査委員会の報告書は1932年9月に署名された。内容は、第1に線路の爆破は軍事行動を正当化しない、第2に連盟の指導のもと満州の自治と中立を実施する、というものであった[8]。その趣旨は満州を国際管理下に置くことにあり、中国側による主権の主張とも完全には一致しなかった。

満州事変の審査は理事会から総会へと移されていたが、リットン報告書よりも厳しい決議が1933年2月に採択された。それが不満で、日本代表の松岡洋右は退場した。数日後に、日本は連盟からの脱退を通告した。

当時の日本は大国とみなされていたが、大国を一方の当事者とする紛争解決は連盟でなくても簡単でない。連盟の対応で問題であったのは、極東情勢への介入をその後やめてしまったことである。連盟から脱退した国との紛争解決やそうした国への制裁がやりにくい、という規約の欠陥を、悪しき形式主義が助長してしまった。

平和的紛争解決が失敗すれば、制裁を国際連盟はすることになっていた。それが定められた連盟規約第16条は問題が山積であった。まず、制裁の対象は紛争解決の手続きを守らずに戦争した国だけであった。紛争解決の義務があるのは加盟国だけであるから、非加盟国は制裁の対象にならない、とも主張できてしまう。つぎに、制裁の内容である。きちんと書かれているのは通商・金融関係の断絶と交通の防止だけであり、腰が引けた印象を与える。そうした関係断絶や交通防止に使う兵力の分担は理事会が勧告することになっていたが、海軍と空軍で往来を遮断する程度の、とても全面戦争とは呼べない制裁が想定されていた。

これらの懸念が現実になったのがイタリアへの制裁であった。イタリアは現在のソマリアの南部を植民地としていた。そこと境を接するエチオピアは当時、アビシニアと呼ばれ、連盟国であった。

1934年、ソマリアとエチオピアの境界付近でイタリアとエチオピアの武力衝突が起きた。これをワルワル事件という。翌年、両者に事件の責任はない、という仲裁判断が出た。真の紛争解決は、ワルワルがどちらの領土に属するか?、を判断するものでなければならなかったはずである。

このように中途半端な解決が図られた挙句、その2か月後にイタリアはエチオピアに侵攻した。ただちに、連盟総会は、経済制裁を調整する委員会の設置を勧告した。その結果、金融制裁とゴム・すず・アルミ・マンガンの禁輸が実行された。禁輸品目には、鉄、石炭、そして石油といった本当の意味での戦略物資は入っていなかった。制裁の効果はなく、1936年にエチオピアは併合されてしまい、連盟の制裁は終了した[9]

以上のように、国際連盟の集団安全保障は、とりあえずは実行されるものの、手心が加えられ、実効性に乏しいものであった。仏作って魂入れず、の喩えどおり、大切であるのは手続きよりも意志であり、それがあれば第10条によって侵略に立ち向かうこともできたであろう。

サラエボ事件後の七月危機を反省して国際連盟規約は作られた。七月危機の原因である同盟政治は繰り返してならない過ちであった。規約の第20条は規約と両立しない連盟国間の条約は今後は結ばず、以前のものは廃棄する、と定めた。

例えば、A国とB国に紛争があって、これから理事会で審査しよう、という状況になったとする。本来は、現場や書類を調べて報告書に公正な勧告を書き込むべきである。しかし、第三者のC国がA国の同盟国であったとすれば、C国は審査結果を待たずにA国の味方となろう。A・C同盟が十分に強ければ、連盟は制裁を思いとどまるか、負け戦覚悟で制裁しなければならない。

このように、集団安全保障と同盟とは並び立たない。同盟を禁止するか、集団安全保障を同盟より優先するかしなければならない。連盟規約第20条の「功績」は、しいて言えば日英同盟を廃棄させたことにある。第二次世界大戦後、国際連合が同盟をどう扱ったかについては「集団安全保障と自衛権」の回で述べる。

2度目の世界大戦を国際連盟が防げなかった最大の原因は、提唱者であり、最強の国でもあったアメリカ合衆国が加盟しなかったからである。では、なぜ加盟しなかったかというと、上院に反対派がいて規約を批准できなかったからである。反対派の一部はベルサイユ条約に留保を付して骨抜きにしようとした。その代表は孤立主義者として知られたヘンリー・C・ロッジ上院議員であった。さらに極端に、国際連盟自体が許せない、という和解不能派という議員たちもいた。代表はウィリアム・E・ボーラ上院議員であった。

孤立主義者たちがロッジ留保と呼ばれる留保を付けようとした条項はいくつもあった。なかでも、侵略に対して領土および独立を守るという第10条が激しく批判された。なぜなら、それは連盟理事会に侵略から守る手段を具申するように求めるからである。孤立主義者にとっては、戦争を宣言するのはアメリカ合衆国の連邦議会の権限であり、軍隊の最高司令官はアメリカ合衆国の大統領であることは自国憲法に書いてあって、妥協できなかった。言い換えれば、連盟が勝手に戦争を命じたり、軍事作戦を立てたりすることは国家主権の侵害であった。

第10条をめぐるもの以外でロッジ留保が要求された条項には、委任統治、国内管轄権、そして山東半島の権益があった。山東半島のものは、ドイツから奪った権益を日本が得ることに中国が不満で、アメリカ合衆国に働き掛けた結果であった。ウィルソンが任期を終えたのち、ボーラ議員が提案して開かれたワシントン会議で問題は話し合われ、日本は権益を返すことになる。それはともかく、ウィルソンがベルサイユ条約を守るために留保を許さなかったため、批准できなかった。

アメリカ合衆国が連盟に入らなかったせいで、軍事力による制裁の実効性は怪しくなった。「仲裁、安全保障、軍縮」の平和殿堂の三本柱が唱えられ、基本戦略の練り直しが行われた。このうち「安全保障」を強化しようとした1923年の相互援助条約草案が失敗してからは、「仲裁」に期待が寄せられた。仲裁に国際法上の紛争だけでなく、あらゆる紛争を付託するのを国家の義務としよう、というジュネーブ議定書が1924年に作成された。エドワード・H・カーは手厳しく当時の雰囲気を書いている。

抽象的な合理主義が優勢になり、だいたい1922年からはジュネーブの潮流はユートピア的な方角に力強く向いた[10]

もちろん、ジュネーブは国際連盟の本部があった町である。

国際連盟における集団安全保障の問題点を復習する。第1にアメリカ合衆国の不加盟、第2に理事会と総会の間の任務の重複である。満州事変とエチオピア侵攻の決議がともに総会で行われたように、何のために理事会が置かれているのか分からなくなった。第3に全会一致の議決である。もっとも、国際連合でも、安全保障理事会での拒否権によってしばしば決定が妨げられる似た問題がある。第4に脱退が容易であること、第5に軍事的な制裁が限定的であることである。これらの結果、加盟国は集団安全保障に不安を感じ、ふたたび同盟に頼っていくことになった。

その一方で、同盟にも欠点がある。ジョン・H・ハーツという学者が言った「安全保障のディレンマ」がそれである。ある国が軍拡に励んでも、他国も軍拡でそれに応じ、世界全体の軍備支出と戦時の犠牲者は増大する。あるいは、ある国が同盟の構築に励んでも、他国もまた対抗する同盟を構築する[11]。 やはり集団安全保障や軍縮は必要なのである。国際連盟の失敗を理想主義者の愚かさと片づけられない理由がそこにある。


[1] カント、『永遠平和のために』、宇都宮芳明訳、岩波書店、1984年。

[2] カント、『永遠平和のために』。

[3] 林董、『後は昔の記他―林董回顧録』、由比正臣校注、平凡社、1970年、284-285ページ。

[4] 林、『後は昔の記他―林董回顧録』、306ページ。

[5] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、上、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、6-7、61-62ページ。

[6] ジョージ・F・ケナン、『アメリカ外交50年』、近藤晋一、飯田藤次、有賀貞訳、岩波書店、2000年、67ページ。

[7] Harold Nicolson, Peacemaking 1919 (Safety Harbor: Simon Publication, 2001), pp. 13-15, 34.

[8] 臼井勝美、『満洲国と国際連盟』、吉川弘文館、1995年。

[9] F. P. Walters, A History of The League of Nations, reprint (London: Oxford University Press,

1969).

[10] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan and co., 1940), p. 40.

[11] John H. Herz, “Idealist Internationalism and the Security Dilemma.” World Politics 2, no. 2 (1950): 157–80.

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主権国家
なぜ存在するのか?、と、すでに存在する国家について問うのは哲学者くらいである。アリストテレスは、国家は人々が「よく生きるために存在する」と述べた。他の動物と違い、人間は、善と悪から善を、正と不正から正を選ぶことができる。そして、他人とその選択を共有することができ、国家を作る。ゆえに人間は政治的(ポリス的、国家的)動物である、と彼は導く[1]。 このように、古代ギリシャの国家には強い存在理由があった。個人…
第二次世界大戦
1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。 第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、先行したのは枢軸国の形成であっ…
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西部劇のようでも、十字軍のようでもある

スターウォーズをDisney+で時系列順に全部観る、という計画だが、マンダロリアンまで来た。

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平和的紛争解決

国家主権は至高の権利である。では、それをそなえた主権国家は上位の権威に服さないのか? 服する場合もある。五大国が一致した国連安全保障理事会の決議は加盟国に対して法的な拘束力がある。しかし、今回は安保理の話でなく、仲裁や司法の話である。神の裁きであれば受けなければならないと感じるかもしれないが、国際社会の法廷の言うことに服さなければならないであろうか? 今回のテーマは、国際裁判所の管轄権と国家主権との関係を国際制度の変遷に言及しながら論じなさい、である。

国際の平和と安全を危うくするおそれがある紛争は平和的に解決しなければならない、と国連憲章第6章第33条1は定める。当事者どうしの交渉で解決できればよいものの、たがいに妥協を拒否してしまうとうまくいかない。そこで、第33条1は「審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他」を挙げて、平和的解決を催促する。これらはいずれも第三者を交えた過程である。それに続く第33条2・第34条・第35条・第36条は、安全保障理事会に第三者として紛争解決に関わってもらおうと設けられた仕組みである。

国際裁判の起源は諸説ある。古代ギリシャのアンピクテュオニアは有力候補の一つである。それは神殿への信仰に基礎を置くポリスの集団であり、日本語で「隣保同盟」と訳される。古代ギリシャの神殿というと、その一つで開かれたオリンピックを思い出す。諸ポリスは競技大会の開催中には休戦をした。また、デルポイのアポロン神殿は神託によってギリシャ世界の政治に大きな影響を与えた。日本の神社が祭りや武芸の奉納とならんで、神託や氏子の紛争解決を行ったのと同類のことである。アンピクテュオニアは確かにポリス間の紛争を仲裁した。しかし、宗教的な権威を背景とする点で現代の国際裁判と本質的に異なる。

中世の仲裁としては、ローマ教皇が行ったものが知られる。1493年、教皇のアレクサンデル六世は大西洋上に教皇子午線を引いた。「余は、福者ペテロにおいて余に与えられし全能の神の権威と、余が地上において執行するイエス=キリストの代理者職の権威において」、と彼はスペイン王に土地を与えた[1]。これに従うと、全アメリカはすべてスペイン側に入るはずであった。

ところが、海の覇者であったポルトガルは教皇子午線を認めなかった。1494年、ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約に合意した。この条約はブラジルをポルトガル側に組み入れた。ブラジルでポルトガル語が話されるのはこれが原因である。教皇の神通力はルネサンスによって衰え、近代の国際裁判は宗教的要素を極力、排することになった。

最初の近代的な国際裁判は1794年のジェイ条約によって付託された。英米間で委員会が作られ、領土紛争や個人の賠償事件を解決した。ただし、この「裁判」は今日的意味でのそれと趣を異にする。私たちは裁判というと、裁判所が存在し、裁判官がいて、そこに当事者が事件を持ち込めば手続きが始まり、法律に基づいて判決が出て、判決に当事者が従い、公的機関がそれを執行する、と考える。これは国際裁判においては司法的解決と呼ばれる方式に近い。

ジェイ条約に基づく国際裁判は司法的解決でなく、仲裁という方式のものであった。仲裁には大きく二つの特徴がある。第1に、事件の付託には当事国の同意が必要である。付託合意のことを、コンプロミーとフランス語起源の用語でいうことがある。第2に、常設的な裁判所に訴えるわけでなく、アドホックに、すなわち付託合意のたびに、裁判所が組織される。この二つ目の特徴は、仲裁人または仲裁裁判官は付託合意のたびに選ばれる、と言い直せる。ジェイ条約に基づく英米間の委員会は実はこの点で例外的であった。なぜなら、国際仲裁の場合は中立的な第三国の仲裁人にキャスティングボートを持たせるのが普通であるが、この委員たちは当事国である英米の国民であったからである。

仲裁の意義を世界に認めさせたのはアラバマ号事件であった。アラバマ号は南北戦争で合衆国の船を60隻以上も仕留めた南部連合の軍艦である。南部連合の軍艦は、リバプールなど中立であるはずのイギリス本国で建造されていた。アメリカ合衆国はこれを中立義務への違反と非難し、賠償を請求した。

英米は戦争の危機に瀕した。両国は1869年にジョンソン・クラレンドン条約を結んで、事件を仲裁に付託しようとした。ところが、条約は批准されなかった。合衆国の上院外交委員長であったチャールズ・サムナーが条約に反対したからである。

背景には、カナダがイギリス領であり、そこと接するアメリカ合衆国の北東部ニューイングランドに根強い反英感情が存在したことがあった。サムナーはマサチューセッツ州選出であった。

手詰まりを打開したのは政治情勢の変化であった。イギリスのウィリアム・E・グラッドストン首相は、普仏戦争に伴う他国の勝手な動きに対応できずにいた。他方、アメリカ合衆国ではユリシーズ・S・グラント大統領が目ざわりなサムナーの追い落としを狙っていた。政敵たちを出し抜こうと、グラッドストンとグラントはワシントン条約を1871年に締結した。

1871年のワシントン条約は領土、漁業権、私有財産、そして中立法に関わる事件を、ジュネーブに置かれた国際仲裁法廷に付託した。アラバマ号事件に対する仲裁判断は1,550万ドルの賠償金をイギリスに科した。参考までに、ロシアからアラスカを1867年にアメリカ合衆国が購入した代価は720万ドルであった。賠償額は戦争を防いだ「道徳的価値と比べれば、天秤のうえのホコリのようにつまらぬもの」とグラッドストンは自画自賛した。アラバマ号事件に触れた冒険小説の『八十日間世界一周』は、事件がいかに話題になったかを描く。

この「世界一周の件」は、あたかも新たなアラバマ号事件でも起きたかのごとき情熱と熱狂をもって論じられ、語られ、解剖された。ある者はフィリアス・フォッグの側についた。他の者は彼に反対の立場を表明し、この人々がほどなく圧倒的多数となるのだった[2]

ワシントン条約の成功は、国際仲裁への付託を増やした。1880年代から1930年代まで、それは主要な国際制度であり、戦争を避けることに貢献した。

日本もそうしたグローバルな傾向から自由でなかった。仲裁における日本の履歴は、苦力貿易の違法性を争った1873年のマリアルス号事件に始まった。これは勝訴と評価される。事実上の奴隷貿易を取り締まった行為はロシアの皇帝によって、合法と認められた。

続く1902年の家屋税事件は図らずも、外国人に対する不信感を生む結果になった。有能な外交官であった石井菊次郎は後年、回想して、「之より我国に於ては内外紛争を仲裁裁判に付託するも公平なる裁判は得られないとの感想が起こった」と述べる[3]

外国人を居留地に閉じ込めていた時代、外国人に土地所有権を認めなかったかわりに、永代借地権を認め、その土地の上に建てられた家屋での収入を非課税とした。明治政府は宿願であった条約改正を果たし、居留地を廃止して、外国人に土地所有権を認めることになった。もはや土地所有権も認められるので、日本政府は永代借地上の家屋に課税を始めた。意外にも、ヨーロッパ諸国はこれに異を唱えた。勝訴する自信があった日本が常設仲裁裁判所に付託したところ、敗訴してしまった。それから一世紀近く、日本は仲裁から遠ざかった。

1999年のみなみまぐろ事件は、国際海洋法裁判所における手続きと仲裁裁判所における手続きの二つがともに国連海洋法条約に基づき、同時に進んだので混乱しやすい。みなみまぐろは高度回遊性の種であるので、日本は生息域に近いオーストラリアおよびニュージーランドと、みなみまぐろ保存条約を結んだ。この条約のもと、調査漁獲の計画を作ることになったが、計画ができないまま、日本は調査漁獲を行った。オーストラリアとニュージーランドは国際海洋法裁判所と仲裁裁判所に訴えた。国際海洋法裁判所は日本の調査漁獲は違反であると暫定措置を出した。ところが、仲裁裁判所のほうは、自裁判所は日本の調査漁獲を扱う管轄権を持たないとし、国際海洋法裁判所の暫定措置は無効と判断した[4]。日本が勝訴であったか、敗訴であったか、判断しがたい。

さて、武力紛争は非武力紛争がエスカレートして起こるものである、という前提に立てば、非武力紛争を仲裁によって解決できれば、戦争は起こらない。この観点を平和的紛争解決という。

平和的紛争解決の難点は、非武力紛争を仲裁に付託する合意がなかなかできないことである。逆に言えば、付託合意が容易になれば、平和的紛争解決は成功しやすくなる。義務的一般仲裁条約では、一方の締約国が訴えれば、自動的に他方の締約国との仲裁手続きが開始されることにして、紛争解決の難点をとり除く。19世紀の終わりから、たくさんの義務的一般仲裁条約が結ばれた。

付託合意ができたならば、第2段階として仲裁裁判所が組織されねばならない。その制度化のために結ばれたのが国際紛争平和的処理条約であった。この条約は1899年の第1回ハーグ平和会議で採択された。この会議はオランダのハーグ市にある宮殿ハウステンボスにおいて開かれたが、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけにこたえたものであった。

国際紛争平和的処理条約に基づいて、常設仲裁裁判所(PCA)が設立された。その仲裁裁判官は固定しておらず、次のように選ばれる。締約国が出した候補者の名簿があり、そこから紛争当事国が各2名の仲裁裁判官を選ぶ。この4名が1名の上級仲裁裁判官を選ぶ。選ばれた5名の仲裁裁判官がその事件の裁判部を構成する。常設仲裁裁判所は、「常設」でも、「裁判所」でもない、と皮肉られるが、それは当たっている[5]

第1回ハーグ平和会議は、戦争法と人道法の進歩でも大きな成果を上げた。ハーグ陸戦条約、ジュネーブ条約を海戦に適用する条約、そして、交戦手段に関する三つの宣言(毒ガス・ダムダム弾・気球からの爆撃)が採択された。

ところが、第1回ハーグ平和会議の3か月後、イギリスはボーア戦争を始め、平和の理想は傷ついた。会議に参加していたアメリカ合衆国の海軍教官、アルフレッド・T・マハン、は義務的一般仲裁条約に反対した。それは自国の国益に反するから、という理由であった[6]

PCAはピースパレス(平和宮)というマンションのような名前の建物に入居している。このハーグに建てられた城館風の擬古的な近代建築は、アメリカ合衆国の鉄鋼王にして慈善家のアンドルー・カーネギーによる150万ドルの寄付をもとに建てられ、1913年に彼も参列して開館した[7]

PCAは21世紀になっても注目される。南シナ海問題では、中国が岩や暗礁を占拠し、領有を主張する。フィリピンは国連海洋法条約に基づき、常設仲裁裁判所に付託した。2016年、ミスチーフ礁など中国が「島」と称して領有を主張するものは「低潮高地」であり、領海および排他的経済水域を設定できない、とPCAは判断を示した。

第一次世界大戦の結果、国際連盟が設立され、やや遅れて常設国際司法裁判所(PCIJ)が開廷した。PCAと違い、PCIJでは固定した裁判官たちがピースパレスで勤務した。その意味で、真に「常設」的な「裁判所」であり、仲裁と司法的解決の違いはここにある。

国内システムの裁判所と似てきたが、一方の当事者が訴えても他方が裁判所の管轄権を受け入れなければ、審理が行われない問題が解決されたわけでない。PCIJの設立に伴い、義務的一般仲裁条約と同じように義務的一般司法的解決条約を結んで付託の自動化を約束する国々が現れた。

それとともに、PCIJ規程では新しい自動化の方式が発明された。特別議定書の手続きを定めるその第36条2にしたがうと、紛争が発生する以前に、裁判所の権限を受け入れる旨の宣言を特別議定書でした国は訴訟の被告となった時に裁判を拒めない。

PCIJの後身である国際司法裁判所(ICJ)においても、やはり規程の第36条2に、強制管轄権受諾に関する宣言の定めがあり、それを受諾し、他国に訴えられた国はICJの管轄権に服することになる。日本は1958年にこの宣言をした。

国際連盟によって平和的紛争解決は「平和殿堂の三本柱」の一つとされた。三本柱とは、紛争解決(仲裁)、安全保障、そして軍縮である。紛争が起きたならば、まずは仲裁など平和的解決の努力をする。仮にそれが失敗しても、軍縮をしていればすぐには侵略はできない。それでも情勢がよくならないならば、連盟の加盟国が力を合わせて侵略を制裁――集団安全保障――する。

平和の三本柱を組み込んだものが、1924年に署名されたジュネーブ議定書、すなわち国際紛争平和的処理議定書、であった。しかし、この議定書はイギリスが批准しなかったため反故になり、平和殿堂は幻と消えた。

審査と調停は、仲裁および司法的解決と同様、第三者による紛争解決手続きである。審査は合法や違法を判断せずに、事実認定のみを行う点が両者と異なる。

1904年のドガーバンク事件は日露戦争中、バルティック艦隊が日本海に来る途中に起きた。同艦隊が北海でイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して撃沈したのである。イギリスと日本には日英同盟があったので一時は英露関係のゆくえが心配された。両国を周旋したフランスの努力のかいあって、国際審査委員会が作られ、砲撃を正当化する事実はなかった、と審判した。ロシアは賠償し、事なきを得た。

ドガーバンク事件の解決により、審査が平和のために有用であると分かり、注目された。ブライアン条約は第一次世界大戦の直前、アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・J・ブライアンがワシントン駐在の外国使節団に呼びかけて結ばれた一連の条約である。それは常設の審査委員会を締約国間に設置する、という内容であった。二十いくつも、この提案に応じる国があったが、平和には貢献しなかったと考えられる。

調停は第三者が調停案を勧告する方式である。家庭裁判所の調停ならば、知っている人は多いであろう。調停案には仲裁判断と違って法的拘束力がない。調停役を買って出る国はあまりない。紛争当事者の恨みを買うことがあり、また、よほどの威信や権威が調停役にないと、せっかくの案が尊重されないからである。それゆえ、世界機構にこそ調停役を果たすことが期待される。国際連盟規約の第15条と国連憲章の第36条は、それぞれ連盟理事会と安全保障理事会による勧告について定める。

「1丁目1番地」という言葉は「第1の前提」や「最優先されるべきこと」といった意味である。国連憲章の第1条1は何であろうか? それは国連の目的の第1である国際の平和および安全の維持である。その方法の一つが「平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること」という条文である。このように高い期待が寄せられる国際司法裁判所(ICJ)は十分に活用されてきたか?

第二次世界大戦後、国際連盟が国際連合に取って代わられたのと対応し、PCIJはICJに置き換えられた。PCIJの日本人裁判官のなかには裁判長を務めた安達峰一郎がいた。ICJの裁判官には、前職が最高裁判所長官の田中耕太郎、同じく東北大学教授の小田滋、国連大使の小和田恒、そして東京大学教授の岩沢雄司がいる。

国際司法裁判所の15人の判事は加盟国が指名した候補者の名簿から、安保理と総会によって選挙される。裁判所の最終的な決定には判決と勧告的意見がある。判決は、当事国により付託される争訟事件に対してのものである。勧告的意見は、総会や国連専門機関によって尋ねられた問題へのものである。以下では、判決と勧告的意見の実例をいくつか見る。

初めての争訟事件はコルフ海峡事件であった。事件は1946年に起きた。イギリスの軍艦がアルバニアの領海であるコルフ海峡を通った際に、機雷に触れて爆発した。国際司法裁判所は1949年に、イギリス軍艦による無害通航権を認めてアルバニアに賠償を命じた。その一方で、イギリスがアルバニア領海の機雷を掃海する権利は認めなかった[8]。当事国が出るところに出て、解決できた、という点では国際裁判所の役割が果されたと評価できる。

領土紛争の例としてプレアビヒア寺院事件を取り上げる。これはタイとカンボジアとの争訟であるが、カンボジアがフランスの植民地であった1904年に、タイとフランスとのあいだで条約が結ばれ、これに基づき作成された1908年の地図では、プレアビヒア寺院の遺跡はカンボジア側に含まれた。この遺跡に対して、タイが領有権を主張した。

タイは1954年に遺跡を占拠し、そこにあった骨董品を移動させてしまった。国際司法裁判所は1962年、寺院はカンボジアに帰属し、タイは骨董品を返還しなければならないと判決した。ところが紛争は収まらず、武力衝突さえ発生した。2011年、カンボジアは1962年の判決の意味と範囲を説明するよう国際司法裁判所に要請した。2013年の判決は、遺跡周辺の土地の帰属については裁判所は判断しない、というものであった[9]

2025年、カンボジアとタイのあいだに大規模な国境紛争が起きた。国境問題そのものを解決することが重要であるが、これまでタイはその問題での管轄権を国際司法裁判所に認めていない。

1984年に提訴されたニカラグア事件は、超大国がICJを侮辱して痛々しい記憶を残した。アメリカ合衆国は自国が過去に行った強制管轄権の受諾をいとも簡単に覆した。

ニカラグアの左翼政権を揺さぶるため、アメリカ合衆国はニカラグアの領海と内水に機雷を敷設するなど主権侵害を行った。両国は国際司法裁判所の強制管轄権を受諾していたため、前者が提訴しようとしたところ、その間際にアメリカ合衆国が受諾を撤回した。それでも、裁判は始まり、機雷敷設等の行為を集団的自衛権の発動とするアメリカ合衆国の主張をICJは認めなかった。

日本が当事者となった争訟に、南極海捕鯨事件がある。国際捕鯨委員会(IWC)は商業捕鯨を禁止したため、日本は科学的研究のための調査捕鯨としてクジラを獲っていた。捕鯨の禁止を主張するオーストラリアは2010年、日本が科学的調査と称しているものは商業捕鯨であるとして、南極海での捕鯨を中止させるよう国際司法裁判所に訴えた。国際司法裁判所は2014 年、オーストラリアの主張を認め、日本に中止するよう命令した。2019年、日本は国際捕鯨委員会を脱退した。

勧告的意見については、パレスチナ占領地壁構築事件を取り上げる。ヨルダン川西岸地区は第三次中東戦争の占領地である。2000年のインティファーダ、すなわち人民の武力闘争、はその土地のユダヤ人の安全を脅かした。イスラエル政府は2002年、ユダヤ人居住地を囲うフェンスや有刺鉄線を建設した。しかし、これは、壁によってユダヤ人の土地とパレスチナ人の土地を分割し、イスラエルによる領有の主張を既成事実にする企てではないか?、と危惧された。そこで、国連総会は国際司法裁判所にその違法性について勧告的意見を求めた。国際司法裁判所からの答えは、壁は違法であり、すべての国は壁を承認しない義務を負う、というものであった[10]。 国際司法裁判所の紛争解決はつねに明快な結果をもたらしたわけでない。仮に判決や勧告的意見にたどり着いたとしても、紛争の根源は未解決であったり、不満な当事国は回避策を探したりしたからである。


[1] 大沼保昭、藤田久一訳、『国際条約集 2003年度版』、有斐閣、2003年、757ページ。

[2] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年、74ページ。

[3] 石井菊次郎、『外交余録』、岩波書店、1930年、256ページ。

[4] “国際海洋法裁判所 (ITLOS:International Tribunal for the Law of the Sea),” 外務省, January 4, 2024, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaiyo/itlos.html, accessed on February 15, 2025.

[5] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 246.

[6] バーバラ・W・タックマン、『世紀末のヨーロッパ―誇り高き塔・第一次世界大戦前夜』、大島かおり訳、筑摩書房、1990年。A. T. Mahan, Armaments and Arbitration, or the Place of Force in the International Relations of States (New York: Harpers & Brothers, 1912), pp. 93-94.

[7] アンドリュー・カーネギー、『カーネギー自伝』、坂西志保訳、中央公論新社、2002年、288-289ページ。

[8] 松井芳郎編、『判例国際法』、第2版、東信堂、2006年、150-155ページ。

[9] 松井編、『判例国際法』、136-140ページ。

[10] 松井編、『判例国際法』、630-635ページ。臼杵陽、『イスラエル』、岩波書店、2009年、201ページ。

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帝国主義
人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化したからである。今回のテーマは…
会議外交
永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。 今回のテーマは、19世紀外交を旧外交および会議外交…
経済的ナショナリズム
国家と市場とのバランスが最も前者の側に傾いたのは第二次世界大戦中であった。今回のテーマは、両次大戦間期から戦中期にかけての経済的ナショナリズムと人権および戦争との関係を、実例を挙げて解説しなさい、である。 この時代における経済的ナショナリズムの主な源泉は、社会主義/共産主義、ニューディール、ナチズム(戦争経済)、そして開発途上国のナショナリズムの四つに分けられる。それらの共通点は生産の国家統制である…

2025年の終わり

とても平和な年だったとは言えない。2010年ごろ、第1期のオバマ政権のころには、世界はだいたい平和だ、と言って一年の締めくくりをしたように記憶している。

国際秩序が崩壊を始めたのだろう。転換期といってもよさそうだが、まだ次の秩序は見えない。

そういう不確実な時代に向けての知恵になれば、と「グローバルガバナンスの教科書」と「国際関係史」には期待している。

会議外交

永遠平和の功利性に対する異議は、実行できないこと以外には何もない、とベンサムは書いた。そして、それを実現するには、議会を作って各国から代議士を出し、意見交換させればよい、と提案した[1]。もちろん、それは実現しなかった。なぜなら、死後、出版されたその論文が実際に書かれたのはフランス革命が始まろうとしていたころで、まだ絶対君主の時代であったからである。

今回のテーマは、19世紀外交を旧外交および会議外交の観点から論じなさい、である。19世紀は旧外交のもとであったものの、会議外交が国際秩序を定める一つの方式として定着した。ベンサムが提案した「議会」が実現に一歩、近づいたことになる。

しかし、会議外交の話題に進む前に旧外交について知っておく必要がある。この用語はイギリスの外交官、ハロルド・ニコルソン、によって広められた。彼自身の解説を引用する。

絶対君主制の時代には、国はその住民とともに、支配君主の絶対的所有物とみなされていた。かくして、[フランスの-訳者注]ルイ十四世や、それ以上に、[ロシアの-訳者注]エカテリーナ二世や[プロシアの-訳者注]フリードリヒ大王は、対外政策の遂行、平和か戦争かの問題を自己の掌中に保持していたのである[2]

つまり、旧外交とは、戦争・平和・同盟などに関する意思決定権を絶対君主が握っていたことをいう。これは17世紀と18世紀には統治一般の原則でもあり、民主主義と相反した。

閨房外交という用語がある。閨房が寝室という意味であることから、君主の私生活により影響される外交のことである。ニコルソンはマムズベリー伯ジェイムズ・ハリスの回想録を引用する。1779年、ロシアのエカチェリーナ二世を誘って同盟を結ぶため、イギリス政府はハリスをサンクトペテルブルクに派遣した。容姿がよかったので、女帝のお気に入りになったという。ハリスの日記からの引用である。

―前略―仮装舞踏会で、コルサコフ氏が余の許へやってきた。そして、自分のあとについて来て欲しいと言って、裏道を女帝陛下専用のお化粧室へと余を案内した。そして余を女帝陛下に御紹介申し上げるやただちに退室した[3]

フランスのベルサイユ宮殿を訪れれば、寝室が公務の場であった光景を思い浮かべることができる。閨房外交は常態であったのである。

宗教改革までは、封建的な序列がそのまま通用した。教皇が諸国をリストに載せる際の1504年における順序が残されている。それによると、ローマ教皇が首位で、神聖ローマ帝国皇帝がそれに次ぎ、皇帝の推定相続人、フランス王、スペイン王、アラゴン王、イングランド王……と続いた。

ところが、宗教改革後、プロテスタントに転じた国々は、これまで絶対的な基準であった教皇の権威を認めなかった。国家の地位を上げるためには、もはや各国の自助努力によるしかなかった。

各国は都合の良い根拠を示して、自己の地位を主張した。例えば、王号の古さを根拠として持ち出す国があった。フランスは482年におけるクロービスのフランク王即位、スペインは718年におけるアストゥリアス王国成立、イングランドは827年におけるエグバートのイングランド統一、とまるで小学生の口げんかのように競いあった。これは国際法秩序のなかでの古さであり、東洋のオスマン帝国や日本は19世紀にそこに入ってからの年数しかカウントされなかった。

席次争いの熾烈さを伝える事件がある。1661年、ロンドンでフランスとスペインの使節団が馬車の順番をめぐって暴力事件を起こした。この争いはちょうど百年後に、ブルボン家内の格式の問題として解決された[4]

こうした封建主義を根底から覆したのがナポレオン・ボナパルトであった。彼は神聖ローマ帝国を1806年に滅ぼした。最高位の外交官である大使の交換はフランス宮廷と大国とのものに限定し、ボナパルト家を頂点とする事実上のヨーロッパ帝国を築こうとした[5]。彼は旧外交のパーツを使って自らのピラミッドを組み立てたのである。しかし、家柄的には成り上がり者であり、また、国境を好き放題に改編したので、結局、旧勢力の包囲網によって彼は倒された。

ナポレオンの没落後、封建秩序が復古された。舞台となったのは1814年から翌年にかけてのウィーン会議であり、ナポレオンと戦った大同盟が戦後処理を行った。

物見遊山の客を含めるとウィーン会議のために10万人が押し寄せた。政府関係者だけでなく、今でいうNGOやロビイストも来ており、ドイツ書籍商組合は出版の自由や著作権の保護を訴えた[6]

「会議は踊る」といった遊びにかまけたイメージがウィーン会議には付きまとう。ホストであったオーストリア外相クレメンス・フォン・メッテルニヒは次のように弁解する。

元帥リーニュ大公の言葉、「<会議>は踊る、されど進まず」は、当時の新聞がこぞって取りあげた。<会議>のあいだ、ウィーンの市中には大勢の供揃えを引き連れた多数の君侯とたくさんの観光客がいた。これらの客人に社交界の慰めと楽しみを供するのは帝国宮廷の義務だった。しかし、祝宴と<会議>の仕事とに共通するものは何もなく、祝宴によって仕事に支障が生じることなど少しもなかった。<会議>の期間が短かったことがその具体的証拠である[7]

1931年のドイツ映画『会議は踊る』は、メッテルニヒが敵役のロシア皇帝アレクサンドル一世を遊興にうつつを抜かせるため、会議を踊らせた、という筋書きである。オーストリアとロシアが対立したことは史実である。では、何をめぐって対立したかというと、領土的解決の問題であった。

戦後処理の大方針は、戦争の惨禍と自由主義の蔓延を反省し、旧来の絶対君主に領土を回復させて安定したヨーロッパを再建することであったが、これにはコンセンサスが存在した。

細部で五大国の意見が鋭く対立したのは個別の領土的変更であった。ロシアはポーランドの領有を求め、プロイセンはザクセンを求めた。ザクセン王は親ナポレオンであったことがあだとなり、国を奪われようとしていた。

オーストリアとしては正統主義を貫くことで会議を成功させたかったので、正統な領土請求権があると考えられないロシアとプロイセンに屈するわけにいかなかった。思い通りにいかないロシア皇帝がメッテルニヒに決闘を申し込む、と噂さえ立った。ザクセンについては、策謀家として知られるフランス外相のタレランがザクセン王から金銭を受け取り、領土回復を取り計らったという[8]

オーストリア、フランス、そしてイギリスは攻守同盟の三国秘密協定を結んで、ロシアとプロイセンに対抗した。結局、ポーランドはロシア皇帝を国王とする同君連合に組み入れられ、かろうじて国家体制だけが残された。ザクセンは北半分がプロイセンに割譲されることで妥協が成った。

高坂正尭は、会議は踊るとはコンセンサスができるまで「待つため」、全体会議を開催するかわりに舞踏会を開催したことであると解説する[9]。仲間割れにより会議が決裂することを避ける機能を舞踏会は担ったことになる。

ウィーン会議で合意された最終議定書は、正統主義に基づきながらも戦勝国に戦利品を与える領土的変更を主な内容とした。その一方で、附属書で定められたことにも、見るべきものがあった。ドイツ連合憲法、スイスの永世中立、アフリカ人奴隷貿易廃止列国宣言、国際河川の自由航行、そして外交使節席次規則がそれである。

外交使節席次規則は第1条において、外交使節を大使、公使、そして代理公使の三つの階級に分けた。席次もこの順を原則としつつ、同一階級内では着任が早い順とされた。つまり、同一階級内では王号の古さも宗教への信心も無関係とされた。

ただし、大国と小国との峻別は残った。そもそも、大使か、公使か、を決めるのは双方の合意によるのであるから、一方が他方に、あなたの国は大使を派遣する資格がない、と言えば、大使は派遣できないことになる。つまり、自他ともに大国と認める国どうしだけが大使を交換できる。ビクトリア朝の初め、イギリスはフランス、ロシア、そしてトルコのみからしか大使を接受しなかった。そして、大使会議が行われる場合には、公使は出席を拒否された。

メッテルニヒはウィーン会議について後年、「こうして、ヨーロッパは可能な範囲内で、恒久的な平和を保証されたのだ」と自画自賛した[10]。それは五大国によるコンサート、つまり協調、であり、1818年のエクス・ラ・シャペル(アーヘン)、1820年のトロッパウ(オパバ)、1821年のライバッハ(リュブリャナ)、そして1822年のベローナと一連の会議へと引き継がれた。

ウィーン体制はさまざまな部品からできているが、ドイツ連合もその一つである。フランクフルトに連合議会があり、「連邦」と呼んでしまいたくなる。実際、ドイツ語では連合と連邦の区別はない。

ドイツ連合の主な役割は、ナポレオンを生んだフランスからの防衛である。連合軍にはプロイセンのような軍事大国から、田舎町くらいの極小国までが兵力を出す。

他方で、ドイツ連合は自由主義思想に対する防波堤でもあった。1819年のカールスバート決議は、危険思想の教育者を解雇し、図書・新聞を検閲し、そして革命運動を監視する委員会を置くという内容であった[11]

自由主義とは何か?、というと、政治的には、普通選挙で選ばれた議会の多数で法律を定める国家体制である。絶対君主の後継者たちは、身分制議会や制限選挙で自由主義の波をしのぎたかった。しかし、1848年にヨーロッパに広がった革命は容赦なく正統主義とウィーン体制を終わらせてしまった。

ところが、革命の波はロシアによって東から押し返された。そのロシアを西ヨーロッパの国々が負かしたのが1853年に始まったクリミア戦争である。聖地エルサレムの管理をめぐってロシアとオスマン帝国が対立し、オーストリアが仲介しようとしたものの、イスタンブールに駐在していたイギリスの大使がスルタンをたきつけて、ロシアとの軍事衝突が起きた。イギリス、フランス、そしてサルデーニャがオスマン帝国側に立って参戦し、勝負を付けた。

その講和会議が1856年のパリ会議である。結ばれたパリ条約は、オスマン帝国の独立と領土保全を他の締約国が保障し、さらにモルダビアとワラキアの自治が決められた。ロシアについては、黒海の非武装化が押し付けられた。パリ宣言という、交戦国と中立国との海洋における戦争法も作られた。

戦争の後始末という点では、1878年の第1回ベルリン会議も同じである。バルカン半島の領土をめぐって露土戦争が起きた。その講和であるサンステファノ条約では、ブルガリアの巨大な領土が構想されており、オスマン帝国が形だけの存在になる、とイギリスとオーストリアが危機感を持った。仲介人を買って出たのはドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクであった。当時の大国すべてがこの会議に参加した。オーストリアハンガリー、フランス、ロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、そしてオスマン帝国である。これらはたがいに大使を送る大国クラブであった。こうして、オスマン帝国はふたたび救われた。

パリ会議と第1回ベルリン会議は東方問題、すなわちオスマン帝国の問題、を扱った。1884年から翌年にかけての第2回ベルリン会議は、アフリカ大陸の分割を議題とした。コンゴを植民地にしようとするベルギーのレオポル二世が、大陸南部を支配下に収めようとするイギリスおよびポルトガルの動きに危惧を抱き、ビスマルクを頼って開かれたものである。これをきっかけに、それまで沿岸部だけであったアフリカの植民地化が内陸にまで及んでしまった。

ところで、日本語では同じくベルリン会議と呼ばれるものの、英語では、第1回のものはコングレスで、第2回のものはコンファレンスである。20世紀初頭まで、コングレスのほうが平和条約の交渉といった重要な議題を扱い、威厳のある印象を与える会議であった[12]。第一次大戦後には、コンファレンスのほうが一般的になる。

以上のように旧外交は、国内では絶対主義、国際的には大国と小国の峻別、という身分制を前提とした。20世紀に現れる「新外交」は、ニコルソンによると、国民全体を代表しての外交であり、平等な主権国家間のフラットな関係を前提とする。二国間の外交でも、国際連合等の多国間の外交でも、現代では新外交が一般的である。 外交官の出自についても旧外交と新外交には違いがある。旧外交では外交官は貴族の職業であった。007ことジェイムズ・ボンドに出くわしそうなゴージャスなホテルやリゾートのイメージである。パーティは私費でまかなわれ、自邸に招待するものであったので、外交官になるには財産資格まであった。他方、現代の外交官は庶民でかまわない。ただし、積極的に庶民を採用するか、これまでどおり名家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんを採用するか、は国により方針に違いがある。


[1] Jeremy Bentham, “Plan for an Universal and Perpetual Peace,” in Saint-Pierre, Rousseau, and Bentham, Peace Projects of the Eighteenth Century (New York: Garland, 1974), pp. 26-31.

[2] H・ニコルソン、『外交』、斎藤真、深谷満雄訳、東京大学出版会、1968年、54ページ。

[3] ニコルソン、『外交』、55ページ。

[4] Ernest Mason Satow, Satow’s Guide to Diplomatic Practice, edited by Lord Gore-Booth and Desmond Pakenham, 5th. ed. (London: Longman, 1979), pp. 21-22.

[5] 木下郁夫、『大使館国際関係史―在外公館の分布で読み解く世界情勢』、社会評論社、2009年、53-55ページ。

[6] 幅健志、『帝都ウィーンと列国会議』、講談社、2000年、136-137ページ。

[7] メッテルニヒ、『メッテルニヒの回想録』、安斎和雄、安藤俊次、貴田晃、菅原猛訳、恒文社、1994年、241ページ、原著者注。

[8] ジャン・オリユー、『タレラン伝』、下、宮沢泰訳、藤原書店、1998年、995ページ。

[9] 高坂正尭、『古典外交の成熟と崩壊』、第4版、中央公論社、1994年、358ページ。

[10] メッテルニヒ、『メッテルニヒの回想録』、252ページ。

[11] Frederick K. Lister, The Later Security Confederations: The American, “New” Swiss, and German Unions (Westport: Greenwood Press, 2001), p. 122.

[12] Ernest Satow, A Guide to Diplomatic Practice, vol. II (London: Longmans, Green and Co., 1917), pp. 1-2.

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