外務大臣は外交官のトップである。内政や軍事にも注意を払わなければならない首相や大統領といった行政長官とは違い、外交、すなわち平和的な交渉、に専念する。自国の在外公館からの報告を読み、必要な訓令を送る。本省のスタッフとともに、情勢を分析し、政策を練る。しかし、外務大臣は国民に直接選ばれることはない。元首や行政長官によって選ばれ、任じられる。業績を上げられるかどうか以前に、任命権者のお眼鏡にかなわなければ任を解かれる。今回のテーマは、過去と現在において、日本の外務大臣に与えられた課題と任命権者との関係はどうであったかについて論じなさい、である。

日本の外務省は1869年に設置された。長である初代の外務卿は公家出身の澤宣嘉であった。外務大臣という名称になっての初代は長州藩出身の井上馨であった。澤以降の外務卿・外務大臣はすでに150代を超える。以下では、歴代外相のなかから一握りの者を選んで、簡単な考察を加える。

副島種臣は第3代の外務卿である。出身は佐賀藩士であった。尊王攘夷に参加した幕末の志士のうちでは高齢であった。外交上の業績としては、1872年に人権問題であるマリアルス号事件を取り扱った。翌年には、清を訪れ、日清修好条規の批准書を交換した。政府のなかでも年長であったので、気兼ねせず外国事務を扱い、ときに感情的になることもあった。我々が彼の名を知るのは、退任後に提出した民撰議院設立建白書の署名によってでなかろうか。

井上馨は言わずと知れた長州閥の実力者である。「三井の番頭」と呼ばれるほど経済界と深いつながりがあり、現代での評判はかんばしくない。外交面では、いわゆる鹿鳴館外交を推進し、文明開化のために尽くした。折しも朝鮮では、開化派を支持する日本と事大派を支持する清との抗争である甲申政変が起き、井上はこの事件を処理するために、朝鮮と漢城条約を結んだ。

大日本帝国憲法は1889年に公布され、1890年に施行された。その憲法のもとでは、天皇と総理大臣以下の国務大臣との関係は、天皇と一対一の上下関係である。第4条では、「統治権ヲ総攬」するのは天皇であると定められる。大臣の任命権者も天皇であり、天皇が「文武官ヲ任免」する(第10条)。第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とだけあって、総理大臣とそれ以外の大臣との区別はない。

内閣官制は、大日本帝国憲法と同じ年に発せられた勅令である。総理大臣と他の大臣との違いはもっぱら機能的なものであり、前者は「同輩中の首班」として理解される。この表現は内閣官制第2条「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」の文言に由来する。総理大臣の特殊な役割は、今日風に言えば、閣内の総合調整にかぎられたわけである。

陸奥宗光は紀州藩士の家に生まれるも、脱藩し、幕府の海軍塾に入った。その後、海援隊に入隊したことから、土佐の志士とのつながりが深かった。維新後、二十代後半の若さで神奈川県知事になったものの、立志社の獄に巻き込まれて懲役刑に服した。出所後、留学を経て、明治政府に出仕し、駐米公使、農商務大臣、衆議院議員などを歴任して外務大臣に就いた。彼には条約改正と日清戦争の業績がある。1894年にイギリスとの通商航海条約に調印し、領事裁判権を撤廃した。

陸奥の『蹇蹇録』は日清戦争をめぐる外交の経過を記すが、戦後の朝鮮の地位に関する記事がある。戦争が始まって間もなくの1894年8月17日、彼はその問題を閣議に上げた。4つの選択肢があった。不干渉は、朝鮮の独立にすべての国が干渉しないというもの、単独保護は、日本だけで朝鮮の独立を助けるというもの、共同保障は、日本と清の両国がその独立を担うというもの、中立は、朝鮮を中立国とするというものである。閣議では、日本の単独保護を目的にするという結論になった[1]。さまざまな選択肢があって、一つ一つ吟味して悩んだが、単独保護に勝るものはなかった、と彼は言いたいのであろう。現実には、清を倒しても、この結論にロシアもイギリスも同意したわけでなく、日本の一存では決められなかった。

小村寿太郎はキャリア外交官の出身である。駐清公使を務めた経験がある。1902年に日英同盟を締結した。これを基礎に行われた日露戦争においては、ポーツマス講和会議の代表となり、1905年にポーツマス条約を結んだ。同じ年に韓国保護条約を、1910年には韓国併合条約を締結した。1911年に関税自主権を回復した。

小村外交の軸は戦争とその勝利であった。日本外交史随一の殊勲であったと評価されるのはもっともである。しかし、朝鮮と満州への深入りは国家の浮沈を運命づけた。

加藤高明は愛知県出身で東京帝国大学に進んだが、三菱社長の岩崎弥太郎の娘婿となった。外務大臣在任中の1915年に対華21か条要求を行った。

内田康哉の外相在任期間は長かった。初めはベルサイユ体制を支持していたが、後期は満州事変において時勢の赴くところに順応した。1933年、日本は国際連盟から脱退した。焼け野原になっても満州をあきらめないという姿勢は「焦土外交」と皮肉られたが、シャレですまなかった。

幣原喜重郎も三菱社長の岩崎弥太郎の娘婿である。興味本位で繰り返してるのではなく、戦前の政治家は幕末の志士上がりは別として、名門出身か、結婚によって閨閥に入るかしていなければ出世できなかったことを言いたいのである。話を戻すと、彼は国際協調路線のいわゆる幣原外交を推進した。1930年、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。敗戦後の占領期には総理大臣を務めた。

広田弘毅は駐ソ大使などを歴任した外交官であった。初めての外務大臣の任期では、協和外交を推進した。その後、総理大臣を経ての2度目の外務大臣時代に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まった。東京裁判では、文官のA級戦犯として唯一、死刑の判決が下され、執行された。

松岡洋右といえば、国際連盟総会において全権代表として演説したのち退場したことで知らぬ者はない。その後、外務大臣に出世した。特筆すべきは1940年の日独伊三国同盟条約と1941年の日ソ中立条約の締結である。これらは枢軸国側に立っての日本の戦争参加を決定づけた。

重光葵は駐華公使在任中の1932年、上海で天長節の日に爆弾テロに見舞われ、片足を失った。外務大臣の職にあった戦中の1943年、大東亜会議を行い、1945年には戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した。戦後は鳩山一郎内閣で外務大臣を務め、1956年、ソ連との国交回復交渉を進め、国際連合への加盟を果たした。困難な時期に必ず成果を残した仕事師であった。

敗戦は外務大臣の地位を一変させた。1946年に公布され、1947年に施行された日本国憲法は、天皇を「統治権ヲ総攬」する者から、内閣の助言と承認のもとで国事行為を行う者へと、政治の主役の座から降ろした(第7条)。国務大臣の任免を認証することも国事行為に含まれる。行政権は内閣が握ることになった(第65条)。内閣総理大臣は天皇が任命するものの、国会の指名に基づかなくてはならない(第6条1)。総理大臣は内閣の首長であり(第66条)、もはや国務大臣の「同輩中の首班」ではない。総理大臣は国務大臣を任命することも、罷免することもできる(第68条)。

こうして、外務大臣は他の国務大臣と同じく、総理大臣との上下関係に置かれることになった。航空機の発達により、首脳自らが外国に出かけ、外交の表舞台で活躍することが重要になった。外交の大仕事は総理大臣のものであり、外務大臣は地ならしに甘んじなければならない。

吉田茂は敗戦直後の東久邇内閣と幣原内閣で外務大臣を務めたばかりでなく、自ら総理大臣に就いても外務大臣を兼任した。ワンマン宰相は彼のあだ名であるが、外交分野では完全にそうであった。当時は占領下にあったから、外交も、内政も、連合国軍総司令部(GHQ)との関係が中心であった。彼はサンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約を締結した。

藤山愛一郎は岸信介内閣の外務大臣である。1960年、アメリカ合衆国と新安全保障条約を結んだ。

大平正芳は2度、外務大臣に就いた。池田勇人総理大臣のもと1962年、韓国との請求権問題に関して、大平・金メモに合意した。田中角栄総理大臣のもとでは、1972年、田中と大平は中華人民共和国の周恩来および姫鵬飛とともに、日中共同声明を発した。これら大きな業績は池田と田中という強い指導者のもとであったから可能であった。大平は総理大臣の在任中、1979年の東京サミットにおいてホストを務めた。

椎名悦三郎は佐藤栄作内閣で外務大臣となった。1965年、日韓基本条約を結んだ。

愛知揆一は佐藤内閣で外相を務めた一人である。1971年、アメリカ合衆国との沖縄返還協定に署名した。

園田直は福田赳夫総理大臣のもと、1978年、中国と平和友好条約を締結した。

川口順子は対テロ戦争中の2002年に就任し、アフガニスタンにおける平和の定着のために尽力した。珍しく、国会議員でない外務大臣であったが、官僚出身の事務能力を活かし、大任を果たした。

岸田文雄は安倍晋三内閣において外務大臣を務めた。2015年、韓国と慰安婦に関する合意を行った。

戦後の外務大臣は少数の例を除けば、国会議員である。必ずしも就任以前から外交に関心を持っていた者ばかりではない。そのうえ、政治的には総理大臣に依存し、功績はほとんど政治決断を下す総理大臣のものとされる。そうした意味で、外相の職は立身出世の一里塚でしかない。外交の実績で、選挙の票をとれるかは分からない。とにかく、外交は国内政治に従属している。

外交がグローバルガバナンスに従属する日は来るであろうか? 国際連合やEUのような国際機構に、誰が代表として参加するかが目安になる。現状では、行政長官が選んだ大使が国の代表になる。場合によっては、行政長官自らが代表になることもある。国際連盟でのブリアン、チェンバレン、シュトレーゼマンがそうであった。この段階までは、国政の指導者が外交を統制する。

アメリカ合衆国の州に注目しよう。元来、それぞれ国家であった州が自らの上に連邦を作り、その一部になった。州の政治を担うのは知事であり、連邦への代表は2名の上院議員である。これらはともに州民から直接、選ばれる。つまり、州政治の指導者は連邦への代表を指揮・統制しない。 国家がアメリカ合衆国の州のようになれば、外交の責任者を国民が直接、選挙する。国民は最も外交能力が高い者を選ぶチャンスを手にするかもしれない。ただし、国政指導者と外交指導者の方針が大きく異なれば、国は論争で割れ、ナショナリズムは低下し、対外政策は漂流し始めることになる。


[1] 陸奥宗光、『蹇蹇録』、岩波書店、1983年、158-160ページ。

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