(表紙の画像はAIによって作成された)
人身売買は人類の重いテーマなのにあまり教えられません。現在の日本においてたくさんの人身売買が起きているのだから、文部科学省はしっかりと教えるべきです。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0004/0064/index.djvu
https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
ハワイやグアムへの最初の日系移民も人身売買に近いものだったとされます。上はグアム移民に関する外務省文書ですが、「奴婢売買」や「苦役」といった表現が見えます。教科書は「肉体労働」という言葉を選んだことで、それを「におわせた」つもりかもしれません。しかし、伝わらないでしょう。
大切なことは感情移入することです。そして、そのチャレンジを耐え抜いた人々をたたえるべきです。
教科書での関連する記述
教科書
19世紀末以降には、日本からも移民が到来して、ハワイ(→p. 267)や合衆国本土の西岸地帯で肉体労働に従事した。こうした大量の移民流入が社会問題となったため、19世紀末から20世紀初めに合衆国は移民法による移民の制限を開始した。
木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 237、n. 5。
そもそもマリアルス号事件とは?
私家版の教科書に書いたことがあるので、それを引用する。
木下
……苦力(クーリー)とはインド人・中国人の単純労働者であり、必ずしも契約が人身売買であるとはかぎらない。これが苦力貿易という言い方になると、もっぱら苦力の人身売買という意味になる。
苦力貿易の主な出発地は中国南部であった。日本が関わったマリアルス号事件は、1873年におけるマカオの苦力貿易禁止布告につながった。事件そのものは前年の1872年のことである。ペルー船がマカオで苦力230名を乗せ、天候の関係で横浜に寄港したことから発覚した。彼らはわが身の行く末を悲観していた。外国に連れていかれると知らずに契約した者、また、船上で懲罰として辮髪を切られた者など、人間的な扱いを受けていなかったからである。
マリアルス号の苦力が横浜港内で船から飛び降りたことから、問題があらわになった。助けられた「モクヒン」の話は、アメリカ合衆国とイギリスの公使館の知るところとなった。両国代理公使は、虐待の究明を日本の外務省に訴えた。副島種臣外務卿は文明国としてあるまじき不名誉に憤り、大江卓神奈川県参事(のち権令)に取り調べを命令した。神奈川県は、虐待を行った被告の船長に有罪の刑事判決を下し、民事についても人身売買の契約書は無効とした。苦力は自由の身となり、清の使節に引き渡された。
こうした毅然とした日本政府の対応も、外国人の目から見れば滑稽であったかもしれない。判決後に出された太政官布告295号は遊女解放令とも称されるが、人身売買一般を禁止した。弟子奉公は7年、奉公は1年で自由の身になり、娼妓・芸妓等年季奉公人は一切解放される、と定める 。しかし、この期に及んで布告が出たということは、その前には人身売買は日本で合法であったことになる。
木下郁夫、『グローバルガバナンスはどうなっているのか? そして、どうなるべきなのか? 2024年版』、尚論出版、2024年、265ページ。
要点を書く。
苦力貿易は少なくとも数年以上の労務を借金の対価として提供する人身売買の一種。
奴隷貿易を取り締まっていたイギリスは南北戦争後は苦力貿易に目を光らせていた。
マカオで乗船した中国人たちは数年間、ペルーで働かされ、故郷に帰る見込みはなかった。
米英の駐日機関が苦力船の寄港に気づき、文明国の義務として外務省に取り締まりを要求した。
日本政府は神奈川県に裁判をさせ、中国人の解放と船長の処罰の判決が出た。
裁判によって、日本国内にも人身売買が存在することが明らかになり、遊女解放令を日本政府は出した。
ペルーは裁判に不満で、日本とペルーは事件をロシア皇帝の仲裁に付託したが、皇帝は裁判を問題なしとした。
外務省文書では
外務省にはマリアルス号事件についての文書がたくさんある。日本外交文書へのリンクを貼る。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0005/0093/index.djvu
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0006/0124/index.djvu
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0007/0147/index.djvu
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0008/0169/index.djvu
これらを読んで、私がいちばん疑問に感じたのはどうでもよいことだった。横浜港に飛びこんだ中国人は「モクヒン」というが、漢字でどう書くのだろう? マカオ出身ならば広東語じゃないか?
マリアルス号の船長とモクヒンを神奈川県参事の大江卓が「吟味」した文書が一番上のリンクの番号201「「マリヤ、ルス」号船長並ニ乗客支那人「モクヒン」吟味書」だ。「吟味」なんて、まるで江戸町奉行所でないか!
謎の人物エドマンド・ホーンビー
マリアルス号事件は外務省の文書がそろっており、全容をつかみやすい。しっかりと事件を糾明したので、外務省に隠したい文書はないはずだ。
それにもかかわらず、私は「モクヒン」にこだわっていた。外務省外交史料館に赴き、真実を究明しようとした。
結果を言えば、モクヒンではなく、別の資料に私の目は釘づけになった。しかも、それは外交文書ではなく、新聞記事だった。『ジャパンタイムズ&メール』(1929年4月3日号)の書籍紹介記事だ。「条約未済秘露国風帆船「マリヤ、ルーツ」号清国拐民攪載横浜ヘ入港ニ付処置一件 第七巻」に収められていて、今では国立公文書館の下のリンクから閲覧できる。”Japan’s First Diplomatic Triumph”と題されたものだ。
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B11092384300
この新聞記事が紹介したのはエドマンド・ホーンビーというイギリス人の自伝だった。彼は上海と横浜を巡回して、極東におけるイギリスの領事裁判を統括する中国・日本高等裁判所所長だった。衝撃的な真実がそこには暴露されているように思われた。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89090370974&seq=319
ホーンビーの主張どおりなら、関係者たちに国際法の知恵をつけたのは彼自身だった。日本外交文書では代理公使や艦長だけで事件を解明し、彼らが外相に訴えて、裁判が開かれたことになっている。ところがホーンビーは、代理公使や艦長に指図したのは彼自身で、外相ばかりか首相にまで彼は訴えた、と言う。当時の「首相」は……三条実美か?
この自伝の説は数年後に出た副島外務卿の伝記にも採用されているから、「発見」ではない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1230807/1/122
ホーンビーは嘘をついたのか? 彼はマリアルス号事件が発覚する前には事件糾明を求めた代理公使とともに北海道と新潟を旅していた。佐渡では相川銀山を見学し、描写は細かい。まだ鉄道もない時代だ。こうした親密な仲だったから、マリアルス号事件について助言したとしても不思議でない。事件が発覚したときに横浜にいた確率が高かっただろうことはイギリス公文書にみえる彼の動静から推測できる。自伝の内容と客観的な状況のあいだに矛盾はない。ホーンビーは「サー」の称号を与えられるほどの高官だ。
ただし、彼の日本旅行記はいただけない。牛肉を食べたい、とか、田舎の女性は醜い、とか、東洋人を見下す高慢な西洋人の態度だ。しかし、函館と新潟の領事館を訪れ、日本の経済や文化を自分の目で確かめようとするのは領事官の鏡だと言える。
ホーンビーらが活躍した中国・日本高等裁判所に関しては、今世紀になって本が出ている。マリアルス号事件についてその本はホーンビーの自伝を信用していない。著者が引用するのはイエール大学の教授による論文だ。この肩書に日本人は弱い。その教授は、自伝が同時代資料でないことを問題にしている(Daniel V. Botsman, “Freedom without Slavery? ‘Coolies,’ Prostitutes, and Outcastes in Meiji Japan’s ‘Emancipation Moment,'” _The American Historical Review_, vol. 116, no. 5, p. 1331, fn. 28.)。
そのように、ホーンビーはアカデミックな歴史学者に扱われている。興味深いが資料としては使えない、と。『副島種臣伯』に続く文献が現れなかったのもこの理由によるだろう。
まとめ
ホーンビーの自伝が本当であれば、19世紀の覇権国イギリスは軍事力ばかりでなく国際法をも使って、世界を見事に操っていたことになる。魅力的な仮説だが、検証を続けなければならない。私がイギリスの公文書を調べたかぎりでは彼が関与した直接の証拠は発見できない。条約未済国ペルーのマリアルス号における事件は領事裁判所の職権外だ。指示を仰ぎ、報告を上げる上官もいない。もっとも、自国の代理公使が太政官に掛け合ううしろで名乗らずに質問に答えただけだったら証拠は残らなかったろう。
課題
最初のグアムへの日本人移民のうち、一緒に帰国した菊蔵、茂七、太助、勝五郎、惣助、兼五郎、安五郎、孝次郎、庄吉はどのようにして帰国したか? 日本外交文書に基づいて300字以内で説明しなさい。
『日本外交文書』第5巻「9 秘露国風帆船「マリヤ、ルス」号ニ関スル件」の番号201「「マリヤ、ルス」号船長並ニ乗客支那人「モクヒン」吟味書」に基づき、マリアルス号において清国人の髪を切る行為はどの程度、行なわれていたのか、そして大江卓はどのような理由でそれをモクヒンと船長に問うているのか、300字以内で解説しなさい。
エドマンド・ホーンビーの_Sir Edmund Hornby: an autobiography_の307ページ18行目から始まる段落で、ホーンビーはマリアルス事件における自らの役割はどのようなものだったと主張しているか、さらに、あなた自身はその主張は史実だったと考えるか、あわせて300字以内で書きなさい。