地域統合とは何であろうか? 地域の区分に従った近隣諸国どうしの協力・依存・交流、またはそれらが深化・拡大していく過程、と定義できる。具体的には、アフリカ連合(AU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)、カリブ共同体(CARICOM)、中米統合機構(SICA)、湾岸アラブ諸国協力理事会(GCC)、中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、欧州連合(EU)、米州機構(OAS)、そしてアラブ連盟(LAS)がある。欧州サッカー連盟(UEFA)は政府間のものでない。イスラム協力機構(OIC)は地域的なものでない。最後の二つはここで扱わない。

今回のテーマは、地域統合の事例を具体的に挙げ、それらの任務を分類しつつ、統合の深化と拡大について論じなさい、である。

統合の深化には、二つの意味がある。一つは新しい分野が加わることであり、まるで液体が器からあふれ出るようであるので「スピルオーバー」と英語で表現されることがある。もう一つは、表決において国家主権を最大限に尊重する全員一致ではなく、地域単位の決定を容易にする多数決を採用することであり、ナショナリズムを超えるという意味でスプラナショナル(超国家的)と呼ばれる。カリフォルニア大学バークリー校教授のアーネスト・B・ハース教授により、スピルオーバーとスプラナショナリズムの用語は広められた[1]

他方、統合の拡大とは、参加する国の数が増えることである。これによって、統合された地域に住む人口も、土地の面積も増えることになる。

近代の歴史はグローバリズムと地域主義との争いであった。19世紀、世界の中心であったヨーロッパで絶対君主制が復活すると、米州ではモンロー・ドクトリンが唱えられた。20世紀には、ヨーロッパの国際連盟と西半球のパンアメリカン連合が並び立った。冷戦も、西側の自由世界と東側の社会主義共同体との地理的な競争と見ることができる。

第二次世界大戦後、国際連合と国際貿易レジームはいずれもグローバリズムを唱え、地域主義が強まることを警戒した。国連憲章の第8章はそれを反映し、平和と安全を維持するための地域的制度は存在してもかまわないが、してよいのは平和的紛争解決だけで武力行使はしてならない、と定めた。北大西洋地域を防衛する任務が国連憲章第8章と紛らわしいNATO(北大西洋条約機構)は憲章第51条に基づく同盟である。NATOが集団的自衛権の発現として武力行使を許されるのは、国連安保理の集団安全保障が働くまでの一期間にすぎない。

貿易については、冷戦が終わるまで、普遍的なGATT(関税及び貿易に関する一般協定)が大黒柱であった。地域内で関税をなくして財の移動を促す関税同盟および自由貿易地域は、同協定第24条において認められたものの、域外国との貿易を阻害しないよう釘を刺されてもいた。協定第24条のもと結成されたのが、欧州経済共同体(EEC)であり、EUにつながる源流の一つであった。

こういった法的根拠は第二次世界大戦以降のものであるが、欧州統合の前史ははるかに長い。カール大帝、アンリ・ド・サンシモン、ビクトル・ユゴー、リヒャルト・クーデンホーフカレルギー、そしてアリスティード・ブリアンらが先駆者として名が挙がる。

クーデンホーフカレルギーは母親が東京出身の日本人、青山みつ、であるのでマスコミで特集されることがある[2]。息子のリヒャルトは著書『パンヨーロッパ』を1923年に世に問い、思想界の寵児となった。パンヨーロッパ運動は彼とブリアンを主要人物として一定の支持者を得た。

民族自決が第一次世界大戦直後の風潮であり、それがもたらした東ヨーロッパの分裂にクーデンホーフカレルギーは危機感を抱いた。

最後にはロシア・ナポレオンがロシア革命に次ぐに至り、彼は東ヨーロッパの諸小国より彼のライン連邦を組織し、その援護下にヨーロッパに最後の一撃を与うるに至るであろう。ヨーロッパをこの運命より救うべくなお時は存する。この救済を称してパン・ヨーロッパという。すなわちポーランドよりポルトガルに至るすべての国家の国家連合への政治的経済的結合である[3]

つまり、ソビエト連邦が東ヨーロッパを傘下に収め、その勢いで西ヨーロッパまで征服してしまう、とクーデンホーフカレルギーは恐れた。そうならないためには、パンヨーロッパという国家連合を結成して、対抗しなければならない。

パンヨーロッパは段階を追って発達する。まず、会議を招集し、何をするか決める。つぎに事務局を立ち上げる。さらに、仲裁条約や保障条約を結び、関税同盟を組む。最終的には、ヨーロッパ合衆国という連邦になる。それは英語を公用語とし、アフリカを開発する[4]。思わず、植民地主義の本音が出てしまっているが、当時はそうするほうが受けが良かったのであろう。

第二次世界大戦後の欧州統合は、現実の課題に応じることから始まった。ザールラントには、ヨーロッパ有数の炭鉱が存在した。これが第一次大戦後、ドイツとフランスの間で取り合いになった。ザールラントは国際連盟のもと行政が行われ、炭鉱施設はフランスの所有になったが、住民投票の結果、ドイツの領土になった。

第二次大戦後、ドイツとフランスはザールラントの奪い合いを繰り返すのか? この疑問に答えたのがフランスのロベール・シューマン外務大臣であった。彼が声明を発したのは1950年5月9日である。第二次大戦のヨーロッパ戦線は1945年5月8日に終わった。現在、5月9日はヨーロッパの日に指定されている。

シューマン・プランは「フランスとドイツにおける石炭および鉄鋼の全生産を、他のヨーロッパ諸国も参加できる機構の共通最高機関のもとに置く」ことを提案した。最高機関の任務は何かというと、鉄鋼および生産の近代化と品質改善、共通の市場条件、共通の輸出政策、そして労働者の生活条件向上における均等化である。つまり、日本の経済産業省と厚生労働省労働基準局がしているような仕事である。

シューマン・プランをもとに1952年に発足したのがECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)である。初代の委員長はジャン・モネというフランスのエリートであった。シューマン・プランを考えたのもシューマンではなく、実はモネであった。

シューマン・プランの政治上の意義は明らかに平和である。石炭と鉄鉱石を組み合わせると鋼鉄になる。「産業のコメ」として鋼鉄の用途は広いが、当時は戦車や軍艦のような主力兵器に不可欠であった。フランスとしては、鋼鉄をドイツがとり戻せば枕を高くして眠れない。ザール炭田を両国が奪い合って、戦争を繰り返す時代に戻ることは避けねばならなかった。

シューマン・プランには経済上の目的もあった。フランスにおける鉄鋼の価格は国際市場よりも高かったので、それを引き下げて外国製品に駆逐されないようにする必要があった。また、鉄鋼は自動車などの材料でもあるので、自国製造業の競争力を上げるため、西ドイツとの市場統合により効率化しなければならなかった[5]

このように、シューマン・プランの目的は、政治的には加盟国を結束させること、経済的には世界市場での競争力を上げることであった。その後、統合の成果が加盟国にとって満足なものであるかぎりは、深化と拡大が繰り返されることになる。

1958年には分野を問わず、西ヨーロッパを関税同盟にするEECが発足した。同じ年には、原子力発電を導入するためユーラトム(欧州原子力共同体)が設立された。農業補助金をめぐる論争が絶えないCAP(共通農業政策)は1960年に始まった。ECSCの最高機関とEECおよびユーラトムの両委員会は1967年に統合されて欧州委員会となり、3共同体はまとめてEC(欧州共同体)と呼ばれることになった。

1980年代に日本が経済的にライバル視されるようになると、1987年に単一欧州議定書(SEA)がECでは作成され、1992年にモノの移動が自由である共通市場が完成した。スピルオーバーは自動的に進んだというよりも、国際環境の変化に適応してのものであった。

1990年代、欧州統合は共通市場から別の分野へと「あふれ出た」。共通外務・安全保障政策(CFSP)と呼ばれる政治分野や司法分野に活動の範囲を広げたのはマーストリヒト条約である。これが1993年に発効して、EUが発足した。

冷戦終結後、グローバリゼーションが競争を加速すると、EUは1999年の通貨統合で受けて立った。前年にはECB(欧州中央銀行)が設けられ、2002年に共通通貨ユーロの紙幣・硬貨が発行された。

ただし、21世紀になってからはつまずきも少なくない。EU加盟国は連邦にかぎりなく近づく欧州憲法制定条約に2004年に署名した。それはEU大統領と呼ばれる理事会常任議長と、EU外相と呼ばれる外務・安全保障政策上級代表を置くなど野心的な内容であったが、フランスとオランダでの国民投票で批准が否決されてしまった。代わって、ヨーロッパの旗や歌の部分を憲法条約から削除したリスボン条約(改革条約)が2007年に署名された。理事会常任議長と外務・安全保障政策上級代表の規定はリスボン条約に残ったため、EU大統領とEU外相は置かれている。

拡大の面では、2026年の時点でEUの加盟国は27か国である。1972年までは6か国であった。加盟国は多様性に富むが、よいことばかりでない。第1に、貧しい国も抱え込んだため、2009年の世界経済危機後にはギリシャの債務問題に取り組まなければならなくなった。第2に、東ヨーロッパへの拡大によって、隣接するウクライナでクリミア半島と東ウクライナの問題が起きると、政治的な対応が必要になった。第3に、域内からの移民流入に戸惑うイギリスは2016年に国民投票を行い、離脱を支持する票が多数を占め、2020年に離脱した(ブレグジット)。

ロシアはヨーロッパに含まれないのか? OSCE(欧州安全保障協力機構)は、全欧という点をセールスポイントにする組織である。それどころか、北米のアメリカ合衆国とカナダまで入っていて、冷戦時代の西側、東側、そして中立・非同盟諸国の対話を引き継いでいる。1970年代はデタント(緊張緩和)が進み、1973年に中部欧州相互兵力削減交渉(MRFA)が始まった流れである。

東西間における対話の動きが最高潮に達したのが1975年、中立国フィンランドの首都ヘルシンキにおいて開かれたCSCE(欧州安全保障協力会議)である。この会議は安全保障だけでなく、人権においても成果を上げた[6]

ベルリンの壁が崩壊して、冷戦終結の晴れ晴れとした雰囲気がヨーロッパを覆った。1991年に東側の同盟であるワルシャワ条約機構は解散した。空白地帯となった東ヨーロッパに、どのような安全保障の秩序を立て直すのか注目された。

CSCEは一つのヨーロッパの担い手になると信じられた。1995年には、もはや会議でなく、国際機構としてのOSCEへと衣替えをした。その後しばらくは、ロシアとその他の共通の枠組みとして一定の意義があるという評価もあった。

冷戦崩壊の立役者であるミハイル・ゴルバチョフ大統領をはじめ、ソ連/ロシアの人々はNATOの解散を信じていた。そうなっていれば、本当の意味での全欧が欧州統合のゴールになったであろうが、NATOの側は必死に生き残ろうとした。

初めにNATOが主張したのは、自らは協調的安全保障のための組織である、という自己理解であった。1990年の首脳会議は、友好の手を中東欧にまで拡大し、協力することを提案した。そして、そのための機関や枠組みが、まるで手品のように次々と繰り出された。例えば、北大西洋協力理事会(NACC)、平和のためのパートナーシップ(PfP)、NATO・ロシア常設合同理事会(PJC)、欧州大西洋パートナーシップ理事会(EAPC)、そしてNATO・ロシア理事会(NRC)である。特に、平和のためのパートナーシップはウクライナにも適用された。これはNATOによる善意の表れであったろうか? それとも、NATO拡大の布石であったろうか? 客観的に言えることは、ソ連崩壊からの数年間、東ヨーロッパにロシア中心の同盟が復活するのを阻む効果があったことである。

NATOの次の自分探しは新戦略概念であった。1991年の首脳会議は、紛争予防・危機対応を主眼とする新戦略概念を採択した。ボスニアヘルツェゴビナ紛争においては、NATOによる空爆が1995年の和平合意を促した。さらに、紛争後の治安を守るため、NATO主導のIFOR(実施部隊)が同地に展開した。翌年にこれがSFOR(安定化部隊) になり、2004年にEUが責任を引き継ぐまでNATOの役割は続いた。

EUの側はNATOの強化にいかに対応したであろう? EUの共通外務・安全保障政策はフランスが後押しして設けられた。NATOが強くなりすぎると、米英の発言力が高まるので、それに対抗するのが狙いであった[7]。現実には、対抗するにはアメリカ合衆国は強すぎたし、逆に弱くなればなったで対抗する意味がない。このディレンマゆえに、EUの役割は中途半端であった。

さて、1999年のコソボ戦争においても空爆したのはNATOであり、同地にNATO主体のKFOR(国際安全保障部隊)が展開した。対テロ戦争では、アフガニスタンの首都カブールは2003年からNATOのISAF(国際治安支援部隊)が治安の指揮・調整を担った。

NATOは不要論を封じ込めることに成功したものの、東側陣営の崩壊によって生じた力の空白は埋められておらず、そこに敵対的な新勢力が台頭する可能性は消えていなかった。

東方拡大、という冷戦終結の総決算がついに始まった。1997年の首脳会議はチェコ共和国・ハンガリー・ポーランドを招き、加入の交渉に取り掛かった。ロシアの承諾を得たかったビル・クリントン合衆国大統領はその年、国内の混乱から抜け出せないロシアのボリス・エリツィン大統領に取引を持ち掛けた。

わたしがエリツィンに、NATOの拡大にロシアの合意を得たいという要望を伝えると、エリツィンは、内密――本人の言葉を使うなら「クローゼットのなかで」――の約束で、NATOの拡大を旧ワルシャワ条約機構加盟国までに限定してほしい、旧ソ連のバルト諸国やウクライナを除いてほしい、と言った。わたしは、それには応じられなかった。―後略―

―前略―わたしはエリツィンに、NATOの拡大とNATOとのパートナーシップに同意するなら、新加盟国の領内に当面軍隊やミサイルを配備しないことと、新G8や世界貿易機関(WTO)などの国際組織へのロシアの加盟を後押しすることを約束するという提案を述べた。この提案が受け入れられて、交渉は成立した[8]

チェコ・ハンガリー・ポーランドのNATO加盟は1999年に実現した。21世紀になって、旧ソ連のバルト3国を含むほとんどの東ヨーロッパ諸国が加盟した。東方拡大によってロシアとNATOを隔てる緩衝地帯は消失した。

ウラディミル・プーチンが大国の復活という課題を担ってロシアの大統領に就任したのは2000年のことである。アメリカ合衆国がイラク戦争に手こずっているのを見きわめ、逆襲を開始した。

プーチンが目をつけたのは1990年に署名された欧州通常戦力条約(CFE)である。NATOの東方拡大によって東西のバランスが崩れた以上、条約が定める兵力は現実に合わなくなった。適合化合意というものが1999年に署名されたものの、これは未発効のままであった。それを理由に、プーチンは欧州通常戦力条約の履行を2007年に停止し、最終的に、ロシアは条約から脱退した。

旧ソ連諸国は、ロシアへの求心力と遠心力によってかき回された。CIS(独立国家共同体)は、ソ連崩壊とともに独立した諸国から成る経済共同体であるが、脱退が相次いだ。今もなお求心力が働く諸国はCSTO(集団安全保障条約機構)の加盟国であり、ロシアと親ロシアのアルメニア・ベラルーシ・カザフスタン・キルギス・タジキスタンから成る領土保全のための機構である。

ロシアからの遠心力が強く働く国々は、民主主義と経済発展のための機構GUAMに集う。この友好組織にはジョージア・ウクライナ・アゼルバイジャン・モルドバが加盟する。ロシアまたはその友好国であったアルメニアによって領土を占領された経験が、遠心力の原動力である。

こうした構図も、2022年に始まったウクライナ戦争によって決定的に変化しようとしている。中立国であったフィンランドは2023年に、スウェーデンは2024年にNATOに加盟した。旧ソ連諸国の間でも、ベラルーシは戦争協力をつうじてロシアに引き寄せられた一方、アゼルバイジャンに領土を奪還されたアルメニアはロシアから決別するかもしれない。

ヨーロッパ、そして「モンロー・ドクトリン」の回で扱った米州以外の諸地域で、国際統合はどうなっているであろうか?

冷戦初期の東アジアは戦争地帯であった。ソ連と中国が一緒になってアメリカ合衆国に対抗し、朝鮮戦争、インドシナ戦争、あるいはその他の領土紛争により引き裂かれた。事態を変えたのは1967年に5か国の外相が発したバンコク宣言によるASEANの結成である。

ASEAN結成初期の主な原則を二つ挙げる。一つ目は国家強靭性である。国家が破壊活動により脅かされないよう加盟国は努める、ということであり、内戦とクーデターに悩む東南アジアでは有効な戦略であった。反面、民主主義や自由は二の次とされた。

もう一つのASEANの原則は、加盟国の領域を中立地帯とすることである。東南アジアにおける紛争の多くは米ソの代理戦争であったので、外部勢力の干渉を排除することは紛争を鎮める上で役に立った。特に、中国がソ連と手を切ってアメリカ合衆国側についてからはうまくいった。

しかし、ASEANの周囲は、なおパッチワーク状であった。アメリカ合衆国との「同盟」が日米安全保障条約・米韓相互防衛条約・米比相互防衛条約と三つ残った。各国のイデオロギーは自由主義のところもあれば、共産主義のところもあった。イスラムが政治に影響を与える国もある。

冷戦後はASEANが東アジアの中核となって、多様な国々がさまざまな分野で対話する舞台となった。安全保障対話の枠組みはASEAN地域フォーラム(ARF)である。南沙諸島、またの呼び名をスプラトリー諸島、という南シナ海の海域の領有権が争われる。中国による軍事拠点化が周辺国の懸念を招き、ARFの場を使って協議が行われた。

ASEANを核とした枠組みを発展させ、東アジア首脳会議(EAS)が毎年、行われている。冷戦が終わってすぐの1990年、マレーシアのマハティール首相が東アジアを単位とした経済グループを提案し、EAEC(東アジア経済協議体)という仮の名前で議論された。これにはアメリカ合衆国を外す意図がかいま見られ、また、経済における日本脅威論が唱えられて実を結ばなかった。15年たつと、日本脅威論は(幸か不幸か)すっかり影を潜めた。2005年にクアラルンプールで第1回の東アジア首脳会議が開かれた。2011年からはアメリカ合衆国とロシアも参加した。

上海協力機構(SCO)は中国とロシアという二つの大国と、カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタンの中央アジア5か国から成る組織であった。旧ソ連の中央アジアと中国の新疆ウイグル自治区はムスリムが多く、イスラム主義の拡大を加盟国は恐れる。また、対テロ戦争に伴い、地域に接するアフガニスタンに進出したアメリカ合衆国の影響力もそれらは懸念したであろう。このような次第で、上海協力機構は安全保障、特にテロ対策、に力を入れる。

2024年までにベラルーシ・インド・パキスタン・イランがに加わり、SCOは10か国の組織となった[9]。ユーラシア大陸の大半が加盟国の領土で覆われた。西側のG7に対抗する枠組みが発展するとすれば、BRICSとならぶ有力候補がこれである。

アジアの地域統合として南アジア地域協力連合(SAARC)やアジア太平洋経済協力(APEC) も取り上げるべきかもしれない。ASEANやヨーロッパのEUに比べれば、協力の度合いはどうひいき目で見ても見劣りがする。他の地域についてもそれらに勝る地域統合は存在しない。

最後に、アフリカ連合(AU)と湾岸アラブ諸国協力理事会(GCC)に触れてこの回を終える。

AUはアフリカ全域を覆う地域機構である。前身であるOAU(アフリカ統一機構)は1963年に発足した。本部はエチオピアのアディスアベバである。「アフリカの統一」はアフリカの年と言われた1960年ごろのスローガンであったので、2002年にAUと呼び名を変え、イメージを一新した。

AUの目標は設立規約を読むと、政治・経済・社会・文化・開発・科学・保健と壮大と呼べるほどすべてを含む。設立以来の共同事業では、アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)という開発計画やダルフールにおける平和維持活動が記憶に残る。グローバリゼーションをめぐるアフリカの態度が知りたい時、何かと気になる存在である。

GCCは、中東の地域大国であるエジプト・イラク・イランに囲まれた湾岸の君主国から成る。加盟国はオマーン・クウェート・カタール・サウジアラビア・バーレーン・アラブ首長国連邦である。イラン・イラク戦争が勃発した翌年の1981年に設立された。サダム・フセイン大統領の絶頂期には、イラク・エジプト・北イエメン・ヨルダンがACC(アラブ協力会議)を結成し、GCCと対抗関係にあった[10]。 GCCは時々、活性化して経済での統合に進むことがある。加盟各国にはそれぞれの事情があって、ニュースで聞こえてくるのは国家間の不協和音ばかりである。ただし、アラブのイスラム君主国というきずなは強いので、関係が薄れることはない。


[1] Ernst B. Haas, The Uniting of Europe: Political, Social and Economical Forces (London: Stevens & Sons, 1958); and Ernst B. Haas, Beyond the Nation-State: Functionalism and International Organization (Stanford: Stanford University Press, 1964).

[2] 木村毅、『クーデンホーフ光子伝』、鹿島出版会、1976年。

[3]ーデンホーフ・カレルギー、『クーデンホーフ・カレルギー全集1』、鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会、1970年、54-55ページ。

[4] クーデンホーフ・カレルギー、『クーデンホーフ・カレルギー全集1』、164-166ページ。

[5] Matthias Kipping, La France et le origines de l’Union europeénne: Intégration économique et compétitivité internationale, traduit par Olivier Mannoni (Paris: Comité pour l’histoire économique et financiére, 2002).

[6] 植田隆子編、『欧州安全保障協力会議(CSCE) 1975-92』、日本国際問題研究所、1992年。

[7] Stanley Hoffmann, “French Dilemmas and Strategies in the New Europe,” in Robert O. Keohane, Joseph S. Nye, and Stanley Hoffmann, ed., After the Cold War: International Institutions and State Strategies in Europe, 1989-1991 (Harvard University Press, 1993).

[8] ビル・クリントン、『マイライフ クリントンの回想』、下、楡井浩一訳、朝日新聞社、2004年、436ページ。

[9] The Shanghai Cooperation Organisation, “About Shanghai Cooperation Organisation,” https://eng.sectsco.org/20170109/192193.html, accessed on March 4, 2026.

[10] 小串敏郎、『王国のサバイバル』、日本国際問題研究所、1996年、531-532ページ。

プライバシーポリシー

© 2026 Ikuo Kinoshita

ゲーム理論
ゲーム理論におけるプレイヤーはエゴイスト、つまり、自分の利益をできるだけ大きくしようとする者、である。エゴイストが複数いて、それぞれ、どの選択肢をとるか、を考える。エゴイストは利益になれば協力し、ならなければ協力しない。今回のテーマは、国際政治における協力は得か損か、場合分けしたうえで、ゲーム理論の用語を使って議論しなさい、である。 ゲーム理論の先駆者といえば天才の評判があるジョン・フォン・ノイマ…
なぜ自由を指針とするべきか?
客観的幸福も、主観的幸福も、ガバナンスの指針としては不十分であると論じた。では、どのような指針が適当であるのか? 持続可能な選択の自由という考え方を筆者は支持する。長所も、短所も、それにはある。これを説明することが今回のテーマである。 手始めに、認識論での長所を説明する。選択の自由を論じることは幸福それ自体を論じるよりもたやすい。二つの理由がこれにはある。 一つは、幸福は主観性を排除するのが難しいが…
21世紀の戦争
人は祖国のためなら命を捨てる。これは21世紀になっても変わらない。今回のテーマは、21世紀における武力紛争を例に挙げ、祖国を自衛するために使われる暴力において、戦闘員はどのような目標・手段・組織・理由を持つかについて論じなさい、である。 21世紀が始まった時、暴力といえばパレスチナ人の自爆テロであった。「イスラム原理主義組織」のメンバー、と言えばぎょうぎょうしいが、犯行そのものは個人的で、爆弾をベルトで…
普遍的人権
https://youtu.be/52BYfykXUDI 人権外交について具体例に言及しながら論じなさい、というのが今回のテーマである。人権は市民革命の時代から、もっぱら国内の法規範であった。普遍的人権、というのは、それを万国、全世界に広げようという発想である。これもローズベルトの四つの自由が発端であった。それ以来、行われてきた人権外交は、壮大な人類の実験と呼んでよい。 第二次世界大戦後の秩序を、アメリカ合衆国では国務省が立…
第二次世界大戦
https://youtu.be/DDg5DXORD3U 1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。 第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、…