ゲーム理論におけるプレイヤーはエゴイスト、つまり、自分の利益をできるだけ大きくしようとする者、である。エゴイストが複数いて、それぞれ、どの選択肢をとるか、を考える。エゴイストは利益になれば協力し、ならなければ協力しない。今回のテーマは、国際政治における協力は得か損か、場合分けしたうえで、ゲーム理論の用語を使って議論しなさい、である。
ゲーム理論の先駆者といえば天才の評判があるジョン・フォン・ノイマンである。ハンガリー生まれの彼は「屋内ゲームの理論」という論文によってゲーム理論を始め、1930年に渡米した。1944年のオスカー・モルゲンシュテルンとの共著『ゲーム理論と経済行動』はゲーム理論という新しい学問分野の誕生とみなされる。第二次世界大戦が勃発してから彼は軍事研究に没頭し、ロスアラモス研究所で原爆の爆縮を研究した。1951年にはノイマン型コンピューターのEDVACを開発した。1954年、原子力委員会の委員となったものの、3年後に彼は亡くなった。
ゲーム理論の考え方に慣れるために、トマス・C・シェリングの調整ゲームを紹介する。その著『紛争の戦略』(1960年)が書かれた時、彼は空軍系のシンクタンク、ランド研究所、に勤めていた[1]。彼は2005年にノーベル経済学賞を受賞した。
調整ゲームとは、プレイヤー全員が得をする結果が存在するような設定である。その選択肢は一部のプレイヤーだけに選ばれても意味がなく、全員が同じものを選んではじめて利益が生じる。選択肢そのものに利益が含まれているのでなく、両プレイヤーの行動から利益が生まれるのである。実はこれが落とし穴である。つまり、選択肢そのものは何ら固有の利益を含まないので、選択肢を研究しても正解は見つからない。正解を見つけるには、他のプレイヤーがどれを選ぶか、に目を向ける必要がある。しかも、シェリングの設定では、コミュニケーションをつうじての調整は禁止され、暗黙の調整が義務づけられる。最も単純な実例を見る。
「あたま」と「しっぽ」のいずれかを選びなさい。あなたとパートナーが同じものを選んだならば、両方が勝ち[2]。
このゲームを実際にシェリングが行ったところ、「あたま」を選んだのは36人、「しっぽ」を選んだのは6人であった。 本来は「あたま」でも「しっぽ」でもどちらでもよいはずである。ゲーム理論においては、AとBの二人のプレイヤーが選んだ結果の利得を、(Aの利得,Bの利得)という形で表現する。ともに「あたま」を選べば、利得は(1,1)。Aが「あたま」でBが「しっぽ」であれば(0,0)。Aが「しっぽ」でBが「あたま」であれば(0,0)。ともに「しっぽ」であれば(1,1)になる。双方が「あたま」でも双方が「しっぽ」でも(1,1)であるから、どちらでもよい。これを共通利益の調整ゲームという。
どちらでもよいはずであるのに、シェリングの実験では圧倒的多数が「あたま」を選んだ。「あたま」が優先される、というおそらく人類共通の感覚があるからである。糸口があればコミュニケーションがない暗黙の調整でも成立しやすい。本来はどちらでもよいが、どちらかに決めておくことが大事であるものとして、交通ルールがある。実際、車両が右側通行である国も、左側通行である国も存在する。
「あたま」と「しっぽ」のゲームが勝ちやすいもう一つの理由は、プラスサム(正和)ゲームであることである。同じ選択肢を選ぶ場合の利得は(1,1)であり、ゲームをすれば総和が0から2に増える。利得の総和がゲームの前後で増加するゲームでは、全プレイヤーが同時に得をして勝者になることが起こりうるため、協力は容易であり、そうした結果をウィン・ウィンと呼ぶ。一方がウィンで他方もウィンであって、ウィン・ルーズやルーズ・ルーズではないという意味である。経済成長をゲームと考えれば、それによって勝者も敗者も出るであろうが、所得の再分配政策によって敗者に補償をすれば、ともに勝者になる。
これにたいして、ゼロサム(ゼロ和)ゲームでは、利得の総和はゲームの前後で変わらない。2人の参加者がいる場合、一方が得をすれば必然的に他方は損をし、勝者と敗者が現れる。例えば、二つの国の領土争いである。
調整ゲームを解くには糸口を見つけるとよい、と書いた。暗黙の調整では、糸口は何か、を見きわめにくい場合がある。シェリングの例を示す。
下の数字のうちひとつを○で囲みなさい。全員が同じ数を囲んだら勝ち。
7 100 13 261 99 555[3]
という問題で、41人中、初めの3つを37人が選んだが、そのなかでは、7>100>13、の順に選んだプレイヤーの数が多かった。7と100とでは、どちらを皆が選ぶか予想に悩むところである[4]。数学的単純性は糸口になりうるが、どちらが単純であるかにもさまざまな観点がありうる。
数値についての糸口では、平等すなわちフィフティ・フィフティも分かりやすい。シェリングの挙げる次の例題では、大多数が50ドルずつと答えた。
あなたは100ドルをAとBの二つの山に分ける。あなたのパートナーは100ドルをAとBの二つの山に分ける。もし、あなたがAの山とBの山のそれぞれに、あなたのパートナーと同じ額を割り振るならば、各人は100ドルを得る。もしあなたの額が彼のものと異なるならば、どちらも何も得ない[5]。
糸口は地理的なものかもしれない。川の流れている町で、橋が1本しかないとしよう。別の岸に住んでいて、コミュニケーションも取れない二人の人は落ち合う場所を見つけられるであろうか?、とシェリングは問う。筆者が答えるとすれば、橋、と言うであろう。
地理についての具体例には、どこから外に戦争を広げないかの問いがある。朝鮮半島は海と鴨緑江に囲まれていて、境ははっきりしている。朝鮮戦争はそこから外に飛び火しなかった。国共内戦については、台湾は台湾海峡により大陸から隔てられ、国民党が立てこもるにはもってこいであった。両事例の境界は安定しており、地理上の糸口はまちがえていなかった。
次の例における糸口は先例と呼ぶべきものである。もちろん、実験ではロビンソンが当選した。
第1回投票で、候補者は次の票を得た。
スミス……19
ロビンソン……29
ジョーンズ……28
ホワイト……9
ブラウン……15
第2回投票が行われようとしている。あなたは選挙結果には興味はない。第2回投票で多数を制する勝者に投票しさえすれば報酬が得られる。全投票者が多数派に投票することにしか関心がなく、皆がそれは皆の関心であることを知っている。あなたは第2回投票で誰に投票するか?[6]
糸口の種類としてシェリングが挙げるのは、数学的単純性、平等、比例(GNP等)、先例、仲介者・事実調査報告書、原状、地理、そしてオール・オア・ナッシングである。オール・オア・ナッシングの例で挙げられるのは兵種の不使用についてのもので、第二次世界大戦では毒ガスを戦闘で使うことが避けられた。ノー・ガスという標語が分かりやすかったからである[7]。
悩ましいのは、協力しあっても、プレイヤー間に報酬の乖離が生じる場合である。どちらが多くを獲ったか、つまり自他の相対的な利得の差である相対利得にこだわれば、ゲームは対立的なゼロサム・ゲームになる。これまで扱ってきた共通利益の調整では、自らの利得の絶対量、つまり絶対利得だけが問題であった。次の例を挙げる。
AとBがコミュニケーションなしで「あたま」か「しっぽ」を選ぶ。両方が「あたま」を選んだら、Aは3ドルを獲得し、Bは2ドルを獲得する。両方が「しっぽ」を選んだら、Aは2ドルを獲得し、Bは3ドルを獲得する。違うものを選んだら両方とも何も得られない[8]。
Aにとっては、多いほうの利得をパートナーに譲るか(2,3)、自らに譲らせるか(3,2)、押し通して共倒れになるか(0,0)、あるいは譲りあって共倒れになるか(0,0)、という問題である。共通利益の調整ゲームでは、「あたま」でも「しっぽ」でもどちらでもよかったのであるが、乖離利益のそれでは、たとえ1点の違いであっても、プレイヤーにとっては大問題である。
国際政治にも、乖離利益の問題が起こる。国際会議の議長はどの国から出すか、といった場合である。あらかじめ輪番をルールとしておけば、争いがこじれることはない。そうしたルールがない、または、ルールに従いたくない場合、駆け引き、またはバーゲニング、によって、思い通りの結果に導くことが重要になる。自らに有利な解決の糸口をさりげなく相手の頭にすべりこませれば、「自然な」解決へと導けよう。
調整ゲームにおいては、共通利益でも、乖離利益でも、調整が成功すれば正の絶対利得が両プレイヤーに与えられる。こうした結果をパレート効率的という。当たり前であるが、相手が「あたま」であれば「あたま」を選ぶのが最良の選択であり、相手が「しっぽ」であれば「しっぽ」を選ぶのが最良の選択である。こうした結果をナッシュ均衡という。
パレート効率性とナッシュ均衡については、まだ解説していないので、上の段落は理解できなかろう。以下で解説する。
パレート効率性はパレート最適ともいう。19世紀生まれのイタリアの社会学者ビルフレド・フェデリコ・ダマソ・パレートの名にちなむ。パレート効率的である、とは、ある人の効用を上げるのに、別の人の効用を下げなければならない状態のことである。これは全プレイヤーの効用を同時にそれ以上に高めることができない状態でもある。
パレート効率性の思想は、誰かの幸福が別の誰かのそれに優先され、ないがしろにされることは許されない、という個人主義の社会的厚生の基準であり、現代人に受け入れやすい。
他方のナッシュ均衡は、ランド研究所に勤めたことがあり、1994年にノーベル経済学賞を受けたジョン・F・ナッシュにちなむ。統合失調症との闘いは伝記『ビューティフル・マインド』で描かれ、映画化された[9]。天才の頭脳から生み出されたナッシュ均衡は決して分かりやすいものでない。
ナッシュ均衡のキーコンセプトは最良反応であり、他のプレイヤーの戦略を所与、つまり確定しているもの、とする時、最も高い利得が得られる選択肢を選ぶことである[10]。共通利益の調整ゲームの場合、相手が「あたま」であれば最良反応は「あたま」、相手が「しっぽ」であれば「しっぽ」である。『ビューティフル・マインド』に、ナッシュ均衡を解説するシーンがある。美人を奪い合う男たちを尻目に、ノーマークの他の女性にアプローチするのが最良反応であるという。これは、不美人のほうを確保しておけ、という乖離利益のゲームの教えである。
ナッシュ均衡とは、プレイヤー「全員」の戦略が相手の戦略に対して最良反応になっている結果である[11]。初めに挙げた調整ゲームの例では、相手が「あたま」であれば、自分の最良反応は「あたま」である組み合わせである。相手が「しっぽ」であれば自分も「しっぽ」であるので、今度は「しっぽ」の組み合わせである。
注意しなければならないことがある。相手の選択を所与とし、それへの最良反応からナッシュ均衡は導きだされる。相手がどう選択するか分からない段階では、プレイヤーの選択は定まらず、ゲームが行われる前に結果の予想を一つに絞ることができない場合がある。
一つの結果をどうしても予想したいならば、支配戦略という概念が使える。ただし、ゲームによっては支配戦略が存在しないものがある。なぜなら、支配戦略とは、一つの選択肢が相手のあらゆる選択に対して最良である反応のことであり、例えば共通利益の調整ゲームにそうした反応は存在しないからである[12]。調整ゲームでは、相手と同じ選択をする必要があるので、どの自分の選択肢にも、必ず適合しない相手の選択肢がある。
プレイヤー全員に支配戦略が存在し、実際にそれらの戦略が採用された結果を支配戦略均衡という。この考え方は予想力は非常に強いものの、問題もある。その問題は後で論じる。
両性の闘い、というゲームを例にして、パレート効率性とナッシュ均衡についての理解を深める。そのまえに、ゲーム自体を理解しなければならない。
両性の闘いゲームは乖離利益のそれとよく似ていて、女性と男性が待ち合わせ場所も決めずにデートする、というむちゃな設定がされている。女性は映画館に行きたい。男性は野球場に行きたい。二人が映画館で落ち合うことができたら(3,2)である。また、野球場で落ち合うことができたら(2,3)である。これらの結果において、男女のどちらかは多少、退屈ではあるものの、デートは成り立つ。ところが、女性が映画館に、男性が野球場に行ってしまったら、デートは不成立である。それでも、それぞれ好きなものが観られるので、(1,1)の得点がある。逆に、女性が野球場に、男性が映画館に行ってしまったら、(0,0)にしかならない。
両性の闘いゲームでパレート効率的であるのは、映画館または野球場でのデート成立の場合である。ナッシュ均衡も同じである。しかし、調整ゲームと似て、相手に合わせることが大切であるので、支配戦略はない。暗黙の調整における糸口となるものはないか? 案外、レディファーストがそれかもしれない。
類似の話に、オー・ヘンリーの短編小説「賢者の贈り物」がある。夫婦がクリスマスのために、男は自慢の懐中時計を売って妻に櫛を買い、妻は自慢の髪の毛を売って懐中時計の鎖を買った。ともにプレゼントは使い物にならなかったが、愛情を確かめあえた、という美談である。この行き違いは、両性の闘いでは野球場と映画館の組み合わせ(0,0)に相当する。しかし、オー・ヘンリーにとって、この結果は(100,100)の価値がある。ゲーム理論では、表示された利得の数値を再解釈や反省によって書き直してはならない。あくまで、はじめの数値で結果を予想しなければならない。それが方法論的個人主義におけるアクターの合理性の仮定であるからである。
最も有名なゲームの種類は囚人のディレンマである。ランド研究所のメリル・フラッドとメルビン・ドレッシャーが1950年に考案し、ナッシュの師であったアルバート・W・タッカーが命名したものという[13]。なぜ有名であるか、というと、パレート効率的な結果と、ナッシュ均衡が一致しないからである。
「囚人」と日本語訳されるが、舞台設定を反映したプリズナーの訳としては「被疑者」が正しい。強盗をした共犯の二人が黙秘を通せば、別件の交通事故か何かで微罪で済み、利得は(3,3)になる。片方の被疑者Aが裏切って自白し、罪を相棒Bになすりつければ(4,1)になる。被疑者B が裏切れば(1,4)である。裏切りが成功したほうは無罪になるので、その誘惑は非常に高い。両方が自白してしまえば、ともに強盗の共犯となり、利得は(2,2)である。黙秘すれば相手に出し抜かれるかもしれず、自白すれば共倒れになるかもしれないから、板挟み、すなわちディレンマ、なのである。
ともに黙秘を貫く(3,3)がパレート効率的であるのは疑問の余地がない。A・Bの利得の総計は6と最大でもあるし、何よりも信義が守られる。しかし、片方だけが自白する(4,1)と(1,4) も、(3,3)よりパレート非効率であるというわけでない。別件で微罪になるよりも無罪で済むほうが利得は高く、裏切られるマヌケが悪い、という無慈悲な考え方もあるからである。すなわち、囚人のディレンマにおいてパレート効率的になるのは(3,3)、(4,1)、そして(1,4)の結果である。
ナッシュ均衡については、Bが黙秘した場合、Aの利得は黙秘が3、自白が4であり、自白が最良反応である。Bが自白した場合は、Aの利得は黙秘が1、自白が2になり、自白が最良反応である。自白が相手のあらゆる選択に対して最良反応であるので、それが支配戦略である。Bについても同様である。AもBも相手のあらゆる選択にたいして自白が最良反応であるので、ナッシュ均衡は双方が自白する(2,2)である。
AとBの支配戦略が自白であるということは、囚人のディレンマにおける支配戦略均衡は(2,2)、すなわち両者の自白である。良心が裏切り者をいかに深く悩まそうとも、神様が助け舟を出してくれることはない。テレパシーも使えないので、黙秘を貫こうと調整することもできない。ゲームの仕様が二人を自白(2,2)させる。双方が黙秘するパレート効率的な(3,3)は合理性の仮定のために阻まれる。
本質的な問題は、ナッシュ均衡は何を意味するのか?、である。それは相手の選択を受けての反応であり、後手後手の場当たり的な対応の結果である。相手の選択の前に前向きに措置を取れるかもしれないし、熟慮すれば協力の利得はもっと大きいかもしれない。負け確定の状況である囚人のディレンマは、アナーキーである国際システムにおいて陥りやすい悲劇である。
核兵器の拡散を例にとろう。核兵器の保有はそれを持たない別の国に対して軍事的な優勢を与える。囚人のディレンマに当てはめると、不保有は黙秘、保有は自白に相当する。二つの国がともに持たなければ、万が一、戦争が起きても大量破壊は起こらないので、利得は双方が黙秘するのと同じ(3,3)である。ともに持ってしまったら、核戦争の恐怖におびえて生活しなければならない(2,2)であり、双方が自白する場合に等しい。片方だけが核兵器を保有する場合は、相手は核攻撃におびえるばかりか、交渉でつねに譲歩を強いられるので、一方的に裏切られる(4,1)と(1,4)と同じである。アメリカ合衆国とソ連、中国とインド、そしてインドとパキスタンのように、核武装の連鎖が起こりやすいのは、ともに核保有するのがナッシュ均衡であるからである。
核兵器の拡散を止める一つの方法が核兵器不拡散条約(NPT)である。新規の核保有に国際法違反の汚名を着せ、制裁することで、裏切った国の利得を2や1にできる。あるいは、そうなるぞ、という脅迫が事前に効けば、両者不保有の(3,3)は維持される。
核保有と核戦争は違うことを忘れてならない。冷戦中、米ソの核戦争はMAD、すなわち相互確証破壊、を伴うと考えられた。双方が先制攻撃しなければ (3,3) の平和な状態が保たれる。しかし、先制攻撃をする側も、される側も、同時に攻撃を命令しても、結果は一つ、つまりMADの(1,1)になる。パレート効率性とナッシュ均衡における正解は(3,3)であり、支配戦略均衡は存在しない。米ソはMADが起きないことを最優先に調整するMADレジームに従うことを選ぶ。MADが安定しているという論理はゲーム理論から導きだされる。
有名なゲームにチキン・ゲームがある。ジェイムズ・ディーン主演の1955年の映画『理由なき反抗』で取り上げられた[14]。悪役は勇気あるところを見せ、崖に突進し、ブレーキが間にあわずに死んでしまった。これは愚か者だけが熱中できる欠陥ゲームであった。
チキン・ゲームをゲーム理論として洗練したのがイギリスの数学者であり、哲学者、そして社会運動家でもあったバートランド・ラッセルであった。彼は核兵器をめぐる外交をチキン・ゲームに喩えた。チキンは鶏のおびえる様子から、弱虫という意味で使われている。
核の手詰まり状態がはっきりして以来、東西の政府は、ダレス氏の言うところのいわゆる「瀬戸際政策」を取り始めた。この政策の名称は、不良青年たちのやる一種の遊びのイメージから取られたものと聞いている。この遊びは「弱虫!」というゲームだ。まず中央に白線の引かれている長いまっすぐな道路を選び、左右の端に分かれた二台の車を同時に発車させ、猛スピードで互いに接近していく。どちらの車も、左右の車輪のどちらか一方は、白線の上を走らせなければならない。二台の車が接近するにつれて、正面衝突の危険も増大していく。もしどちらかが、先に白線からはずれて相手をよけたら、その相手はすれ違いざまに「弱虫!」と叫び、よけてしまった少年は軽蔑の対象となる……[15]。
ラッセルの文章が書かれたのは1959年であるから、瀬戸際外交の代表であるキューバ危機よりもまえである。二人の少年がともに対向車をよける運転をすれば(3,3)であって、名誉を傷つけられることもない。一方の少年だけがよければ、彼はチキンと笑われるが、二人の命は救われるので、(2,4)か(4,2)の結果になる。ところが、つまらない名誉のためにどちらもよけないと、負傷または死亡という(1,1)の悲劇が待つ。パレート効率的であるのは(1,1)を除くすべてである。ナッシュ均衡は(2,4)と(4,2)の二つである。相手がよける場合の最良反応はよけないことであり、相手がよけない場合の最良反応はよけることである。よけることも、よけないことも支配戦略でないので予想ができない。予想ができないということは、偶然に双方がよけて(3,3)の結果になる可能性もある。
チキン・ゲームでは、MADと同様、両者にとって避けるべき最悪の結果が共通している。囚人のディレンマでは双方の自白が支配戦略均衡であり、それは選択でなく運命であり、ディレンマというより悲劇である。チキン・ゲームでも押し通せば勝機はないわけでない。しかし、妥協を拒まず、リスクを嫌う性格の人であれば、最悪の結果だけは避けるにちがいない。実際、キューバ危機では、ミサイル基地をソ連が撤収するという解決の障害は不名誉だけであった。13日間の外交的な忍耐が、不名誉を自ら負うことをソ連に決意させた。
最後に、反復囚人のディレンマを見る。一見、協力できない運命を示唆する囚人のディレンマには希望がない。現実には、ゲームの後にもゲームがあって、裏切って逃げおおせることができるとはかぎらない。次回のゲームでは、古代のハムラビ法典が、「目には目を、歯には歯を」と復讐の罰を科したように、裏切りは裏切りで報いられるかもしれない。その罰は容赦ないようにも聞こえるが、過度な復讐を禁じる比例原則に従ってもいる。
ロバート・アクセルロッドはロシアに生まれ、アメリカ合衆国で育った政治学者である。彼はコンピューターを使って、さまざまな戦略を競わせた。ゲームの種類は囚人のディレンマであり、研究者たちが考案した14の戦略にランダムに反応する戦略を加えた15の戦略がリーグ戦を行った。2プレイヤーが毎回、「協力」か「離反」を選ぶゲームを200回、繰り返した。
アクセルロッドが定めた囚人のディレンマのルールでは、ともに協力すると両者に3点、出し抜くと5点、出し抜かれると0点、そしてともに出し抜こうとして失敗すれば1点が入る[16]。互恵の関係が続けば3点は入るものの、どこかで出し抜きたくなる誘惑が生じる。それに成功すれば手に入る5点は小さくない。出し抜かれて0点の苦杯をなめた相手が、次は離反で応えると、以後は両者1点が続き、いずれかが協力を再開しなければそのまま終わりを迎える。
研究者が持ち寄った戦略のうち、ティット・フォー・タット、つまり「目には目を」、は相手が前回とった行動をまねすることであり、日本語では「しっぺ返し」や「おうむ返し」と訳されることがある。協力には協力で報いる互恵の関係が続きやすいものの、一度、離反されると、相手の戦略に協力再開のプログラムが組みこまれていないかぎり、互恵の関係が再開することはない。
「ヨッス」という戦略は、基本は「目には目を」と同じであるものの、協力すべき手番の1割で裏切るように作られている。その回では協力より2点多く得るものの、次回以降は相手が「目には目を」ならば離反で応えるので、毎回、2点少なくなる。
「堪忍袋」という戦略は「ヨッス」に食い物にされるであろう。それは「目には目を」よりも寛大であり、相手が連続で離反しないかぎり離反しないからである[17]。しかし、「ヨッス」の裏切りに目をつぶるので、増えた互恵の機会の9割は「目には目を」に勝る得点を挙げるかもしれない。
リーグ戦の結果、「目には目を」が最高得点を獲得した。持ち寄られた他の戦略も、互恵をつうじて繰り返し3点を手中にしていくことを重視したからである[18]。エゴイストも協力する、というアクセルロッドのメッセージは1回かぎりの囚人のディレンマと異なる結果である。
エゴイストの協力という結論に影響されたのが、ネオリベラル制度主義または新制度主義であった。ロバート・O・コヘインによる国際レジームの機能理論は、アクターの期待を形成し、協力を容易にするものとしてレジームを理解する。レジームとは条約その他の制度のことである。パレート効率的な選択に報酬を与え、そうでない選択には制裁を科すような制度を定めれば、社会的厚生を高めることができるであろう。
もっとも、パレート効率的な選択を促すのは制度だけでない。新約聖書から引用する。
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい[19]。
宗教と道徳も人々の行動を導くことができる。個人主義か、集団主義か、と問えば、それらは後者の傾向があろう。囚人のディレンマは極度な個人主義の思考が作り出したものである。 物は考えよう、というように、利得の配列は考え方次第で変化する。国際社会においても、健全な世論や意識を育て、誠実に行動することを評価し、コミュニケーションを欠かさない風潮を作ることはたいへん有効である。
[1] Thomas C. Schelling, The Strategy of Conflict (Cambridge: Harvard University Press, 1980).
[2] Schelling, The Strategy of Conflict, p. 56.
[3] Schelling, The Strategy of Conflict, p. 56.
[4] Schelling, The Strategy of Conflict, pp. 54-55.
[5] Schelling, The Strategy of Conflict, pp. 56-57.
[6] Schelling, The Strategy of Conflict, p. 57.
[7] Schelling, The Strategy of Conflict, pp. 64-80.
[8] Schelling, The Strategy of Conflict, p. 60.
[9] Sylvia Nasar, Beautiful Mind: A Biography of John Forbes Nash, Jr. (New York: Touchstone, 1998).
[10] ダロン・アセモグル、デヴィッド・レイブソン、ジョン・リスト、『ミクロ経済学』、電子版、東洋経済新報社、2020年、492ページ。
[11] アセモグル、レイブソン、リスト、『ミクロ経済学』、497ページ。
[12] アセモグル、レイブソン、リスト、『ミクロ経済学』、493ページ。
[13] ウィリアム・パウンドストーン、『囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論』、松浦俊輔ほか訳、青土社、1995年、21ページ。
[14] Leonard Rosenman, James Dean, Nicholas Ray, Natalie Wood, David Weisbart, Ernest Haller, Stewart Stern, and Dennis Hopper, Rebel without a cause, United States: Warner Bros., 1955.
[15] パウンドストーン、『囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論』、257ページ。
[16] ロバート・アクセルロッド、『つきあい方の科学』、松田裕之訳、HBJ出版局、1987年、8ページ。
[17] アクセルロッド、『つきあい方の科学』、36-39ページ。
[18] アクセルロッド、『つきあい方の科学』、41-55ページ。
[19] マタイによる福音書、5.38-39。
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