植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の原則について説明しなさい、である。
なお、今回は完全独立に至らない地域について様々なカテゴリーが登場する。それらを独立度の低いほうから並べると。植民地、非自治地域、信託統治地域、そして自由連合国家/提携国家の順となる[1]。
国連憲章には矛盾がある。第1条2では「人民の同権及び自決の原則」を尊重する。人民というのは原文では”peoples”となっていて、「諸民族」の意味である。それぞれの民族が自分のことを自分で決めるならば、今の国家から独立して自分たちの国家を建てたいと考えて不思議ない。武装闘争も独立の有効な手段である。
ところが、国連憲章は武装闘争をあおりながら、種火に水をかけもする。憲章第2条4は領土保全に反する武力の行使と武力の威嚇を禁じ、他国が独立戦争に加勢しないよう釘を刺す。つまり、強い宗主国から独立しようとする民衆に、国連は、がんばれ!、と声をかけるだけである。
実際、国連憲章は独立よりも自治のほうに手厚い規定を設ける。憲章が作られた時、植民地宗主国のイギリスに気兼ねをした。非自治地域とその人民の側に、例えば「進歩」の程度が低い、といった独立ができない事情があったかもしれない。国連憲章第11章の非自治地域に関する宣言の考え方は、当面、住民の福祉を高め、自治を発達させる、というものである。
ただし、非自治地域に関する宣言は空手形ではない。国連総会のもと、植民地独立付与宣言履行状況特別委員会が毎年、非自治地域の状況を記した報告書を出している。
2025年における非自治地域は17あった[2]。かつてスペイン領であった西サハラは多くの部分がモロッコに支配されたままである。カリブ海の多くの島々がイギリスが施政する非自治地域である。アンギラは一たび独立したにもかかわらず、イギリス領に戻った珍しい例である。ケイマン諸島(カイマン諸島)はタックスヘイブンとして知られる。英領バージン諸島、モントセラット、そしてタークスカイコスもカリブ海上のイギリス領である。大西洋の北部にはやや離れてバミューダが、赤道付近にはセントヘレナがある。大西洋南部のフォークランド諸島はマルビナス諸島ともいい、対岸のアルゼンチンと施政国のイギリスが帰属を争う。ジブラルタルもイギリスが施政国であり、陸続きのスペインと帰属を争う。イギリスは太平洋のピトケアンの施政国でもある。
アメリカ合衆国は太平洋のグアムと米領サモア、そして大西洋の米領バージン諸島を施政する。フランスは大西洋の仏領ポリネシアとニューカレドニアの施政国である。前者は人口が最も多いタヒチ島のほうがとおりがよい。最後にトケラウはニュージーランドが施政する。
これら以外にも植民地はある、という意見があるかもしれない。アメリカ合衆国のネイティブ・アメリカン居留地や中国のチベットについては、国家主権をたてに議論さえ許されないのは不正義である。北海道のアイヌ民族やハワイ州のポリネシア人も、多数派に戻る見込みがないとはいえ、問題が解決したわけでない。それらの「植民地主義」が議論されるのは自由であるべきである。
先住民の権利として、アイヌやポリネシアンの問題は国連で扱われる。2007年、総会は先住民権利宣言を可決した(A/RES/61/295)。これは先住民が平等な人権と自決権を持つことを確認した。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、そしてアメリカ合衆国は採決において反対に回った。先住民についての国際世論がいまだ法的拘束力を持たない宣言の段階にとどまっているのは国家主権と衝突することをおそれてである。
非自治地域のテーマに戻る。激しい国際的な論争の的となったのは西サハラである。植民地であった西サハラからスペインは1976年に撤退し、その地をモロッコとモーリタニアが分割した。しかし、現地勢力のポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国として独立を宣言した。モーリタニアが1979年に支配地を放棄すると、はじめてサハラ・アラブ民主共和国は実効支配地を得た[3]。
サハラ・アラブ民主共和国はアフリカ統一機構(OAU)に加盟し、現在はアフリカ連合(AU)の加盟国である。他方、モロッコは西サハラを手放さず、それを認めないOAUから脱退したが、2017年、OAUを継いだAUに加盟を認められた。
ジブラルタルは海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合うヨーロッパの要塞都市である。1713年、スペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約によりスペイン領からイギリス領になった。1967年の住民投票によって、イギリス領に残留を決めた。2001年にはイギリスが共同主権を提案したものの、スペインに拒否された。
グアムの領有権を主張する国はアメリカ合衆国のほかにない。19世紀末の米西戦争によって合衆国領になった。地方自治体として、グアムは未編入地域の地位にあり、プエルトリコや北マリアナ諸島のような自治領(コモンウェルス)でない。独立についての議論はあるものの、今のところ、実現する勢いはない。
ニューカレドニアは1856年からフランス領である。独立運動が活発であり、20世紀末に15 年後から20年後までの間に独立への賛否を問う住民投票を実行するヌメア協定が結ばれた。実際には2018年、2020年、そして2021年に3回の住民投票が行われた。いずれも独立反対票が多数を占めた。
以上のように、西サハラのような徹底した抑圧は少数であり、多くの非自治地域では住民自治や場合によっては独立を問う住民投票が行われている。
そもそも植民地の独立を目標としていなかった国連において、その目標をすえたのは総会による1960年の決議、植民地独立付与宣言、であった(A/RES/1514)。そこには、準備不足は独立を遅らせる言い訳にならない、と書いてあり、特殊事情だの、進歩段階だのと言ってきた非自治地域に関する宣言とは明らかに異なる。植民地独立付与宣言履行状況特別委員会が1961年に設けられ、そこで準備される数本の決議が毎年、総会で採択されている。
脱植民地化の活動に力強さを与えたのは非同盟諸国であった。1961年になされた非同盟の定義によると、「民族解放運動を無条件に支持すること」がいくつかある非同盟諸国の要件の一つとされる[4]。とりわけ1973年の民族解放闘争に関する宣言は激しいうえに、歯に衣着せず、ポルトガル、南アフリカ、南ローデシア、そしてイスラエルを非難した。
ただし、非独立の地域がすべて非自治地域というわけでない。それらのなかにも、自治を獲得した自由連合国家/提携国家があるからである。かつて植民地の地位にあったものの、いまや高度な自治を達成し、独立まであと一歩、というところまできた地域である。
自由連合国家/提携国家とは、独立するかそうしないかにかかわらず完全な自治を有する人民と、特に旧施政国との間に結ばれた人民の自決権に基づく一定の政治的結合である。独立していない場合でも、旧施政国への依存は外交や安全保障といった一部の分野にかぎられる。
自由連合国家には、どのような例があるであろうか?
プエルトリコは1952年にアメリカ合衆国の自治領になった。市民には合衆国憲法が適用される。
蘭領アンティルは1954年のオランダ王国憲章に基づく自治領である。総督はオランダ女王が任命する。現在はアルバ、キュラソー、そしてシントマールテンの3つの自治領に分割されている。
クック諸島は1965年に自治を獲得した。住民はニュージーランドの市民権を保持している。
最後に、ニウエは1974年、ニュージーランドの市民権を住民が保持しつつ自治を獲得した。日本はクック諸島およびニウエと外交関係を樹立したが、どちらも国際連合には加盟していない。
他方、信託統治制度の目的は「独立に向っての住民の漸進的発達を促進すること」(第76条2) と国連憲章に書かれている。自治だけでなく、独立にまで踏み込むのは、敗戦国の旧領を戦勝国が引き取ったり、国際連盟の委任統治領を引き継いだりしたからである。
国連憲章の起草に際し、信託統治が設けられたいきさつはこうである。アメリカ合衆国は非自治地域つまり植民地一般を独立させようとした。しかし、イギリスに反対されてトーンダウンせざるをえなかった。代わりに、イギリスは独立でなく自治を施政国が援助することを主張し、合衆国もこれを支持した。ところが、ソ連、中華民国、そして小さな国々が独立を入れることを働きかけた。フィリピン代表のカルロス・ロムロは「嫌われ者、ウシアブ、害虫」のように「廊下を徘徊し、代表団に話しかけ、乗り気でない犠牲者たちをコーナーに追い詰めた」と、まるでボクサーのように回想する。結局、信託統治のところにだけ、「独立」を入れる妥協案をアメリカ合衆国が出し、それが採用された[5]。
帝政時代のドイツの植民地が第一次世界大戦後、国際連盟の委任統治領となり、さらに国連に引き継がれて信託統治地域になった例がある。そうしたアフリカの地域は国連が住民投票を行い、独立への道を歩んだ。住民投票はトーゴランドで1956年、カメルーンで1959年と1961年、そしてルワンダウルンディで1961年と1962年に実施された[6]。
ドイツの元植民地で、国連の信託統治地域に引き継がれなかった例外がある。かつて南西アフリカと呼ばれたナミビアである。国際連盟のもとでは南アフリカの委任統治領とされたものの、第二次世界大戦後、信託統治下に南西アフリカを置くことを南アフリカが拒んだ。白人入植者とその子孫を優遇するアパルトヘイトを続けるためであった。国連総会は1966年、南アフリカによる委任統治を終了した(A/RES/2145)。
1970年代後半、安全保障理事会は国連監視下の自由選挙を要求し、実施計画を立てた(S/RES/385 and S/RES/435)。そのころ西側諸国が反アパルトヘイト陣営に加わり、カナダ、フランス、西ドイツ、イギリス、そしてアメリカ合衆国がコンタクト・グループを結成した。自由選挙は1989年に実現し、翌年、ナミビアとして南西アフリカは独立した[7]。
信託統治は、必ずしも自由を約束された日なたの道であったわけでない。比較的にオープンであったのは非戦略地区のそれであった。
非戦略地区は総会が信託統治を監督し、信託統治理事会がそれを援助する。信託統治理事会の任務は、施政国からの報告書や住民からの請願を審査し、地域を視察することである。理事国の構成は、半分が施政国であり、もう半分は施政国以外の安保理常任理事国である。施政国以外の常任理事国の数が施政国の数よりも少なければ、足りない議席は総会から選挙する(国連憲章第13章)。
これにたいし、戦略地区は信託統治の闇の部分であった。アメリカ合衆国、特にその陸軍、は日本の委任統治領を戦後は自国の基地として使い続けるために、それを提案した。戦略地区の監督は安全保障理事会だけが行う。他国が施政国に不都合な提案をしても、拒否権によってそれをはね返すことができる[8]。戦略地区に指定されたのは太平洋諸島信託統治地域であった。
マーシャル諸島共和国とその一部のクウェジェリン島といえば、大戦中に日本軍が玉砕したことで知られる。1944年に米軍が占領し、1947年に信託統治地域になった。戦略地区として閉鎖され、外国人の視察を受けなかった。有名なビキニ環礁などで核実験が行われ、住民の健康を損ない、環境を破壊した。
1982年、マーシャル諸島はアメリカ合衆国と15年ごとに更新する自由連合盟約を結んだ。合衆国側には防衛・安全保障と経済援助の責任があり、マーシャル諸島側は基地を供与し、外交上の制約が課される。1986年に盟約は発効し、マーシャル諸島は独立した。信託統治は1990年に終わり、翌年、国連加盟が果たされた。自由連合盟約はその後も更新されている。経済がアメリカ合衆国の援助により支えられる一方で、米軍のミサイル基地が置かれる。
アメリカ合衆国と盟約を結ぶ自由連合国家は三つある。ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、そしてパラオ共和国である。3か国とも、合衆国に国防・安全保障を委任し、財政を依存している。独立国であるので、外交は独自のものである。パラオは、非核憲法をめぐる激しい政争を経て独立したことで有名である。それは最後の信託統治地域であったため、独立した1994年をもって信託統治理事会は活動を停止した。
これらと同じく、日本が委任統治をし、敗戦とともにアメリカ合衆国の信託統治地域になったのが北マリアナ諸島である。日本では、島々のうちで最も人口が多いサイパンのほうが通りがよい。1978年、合衆国の主権のもとに自治領の地位を獲得し、信託統治から抜けた。しかし、隣のグアムとの統合を望んでいて、独立には至っていない。
信託統治との関係で、沖縄についても触れなければならない。第二次大戦中、南西諸島は米軍に占領された。アメリカ合衆国は日本の旧委任統治領だけでなく、南西諸島までも信託統治地域にすることを目論み、そのことをサンフランシスコ平和条約の第3条をつうじて、日本に認めさせた。アメリカ合衆国が本気でそれを実行しようとしたならば止めることはできなかったろう。そうしない間は、日本に残存主権、または潜在主権、があると言われた。
1946年、沖縄の施政の責任者は極東軍総司令官になった。具体的に誰かというとダグラス・マッカーサーである。彼は施政の責任者としては琉球民政長官という肩書を持っていたが、主に東京や韓国にいて、那覇には別に軍人の副長官がいた。統治の初期、沖縄は非自治地域であったといえる。1952年には沖縄の住民を行政主席とする琉球政府と民選の立法院が作られた。さらに、1957年に、施政の責任者は、国防長官に任命され、那覇に拠点を置く高等弁務官に改められた。行政主席を任命するのは高等弁務官であったが、沖縄の住民から選ばれる立法院は徐々に発言権を増していき、最後は行政主席の直接選挙までできるようになった[9]。
琉球政府は自治の度合いを増していったようにみえるかもしれないが、高等弁務官の権限は強大なままであった。冷戦が始まり、安保理での対立が深刻になると、アメリカ合衆国が南西諸島を信託統治地域にする利点はなくなった。グアムやハワイのように併合もできないのであれば、基地を残したまま日本に返還することが合衆国の利益になった。
最後に、パレスチナはなぜ国連の非自治地域リストに入っていないか?、を考える。1994年以降、自治が行われていることになっているが、大部分の土地はいまだにイスラエルの管理が強いため、実質的には非自治地域といえなくもない。
では、なぜ非自治地域に分類されないのか?、というと、歴史認識と国際法上の地位が原因でないか、と考えられる。非自治地域という言葉は、植民地というネガティブな表現を和らげたものである。イギリスによる委任統治は確かに植民地支配であったが、第一次中東戦争後に、現在、イスラエルに占領されているヨルダン川西岸はヨルダン領になり、同じくガザはエジプト領になった。ヨルダン人も、エジプト人も、パレスチナ人も皆、同じアラブ人である、と考えれば、この時点で脱植民地化は完了したことになる。
国際法上の地位にも、パレスチナが非自治地域に分類されない原因がある。というのは、そこがいまだに戦時国際法における占領のもとにある、と国連決議はみなすからである。非自治地域は平時の地位であって、占領地を非自治地域リストに入れることはできない。 国連は2012年、パレスチナに国連非加盟のオブザーバー国家という地位を与えた(A/RES/67/19)。PLO(パレスチナ解放機構)が独立宣言を発したのは1988年である。エジプトはガザの、ヨルダンは西岸の領有権をすでに放棄していて、事情が異なるゴラン高原を除けば、占領地に対して主権を主張する主体はパレスチナ人民だけになっている。アラブ諸国は国連に先んじてパレスチナを国家として扱ってきた。あとは、イスラエルが主権国家としてパレスチナを認めるかの問題である。国際社会、特に安保理の理事国、には、「人民の同権及び自決の原則」という憲章の言葉を噛みしめて、対話の責任を果たす義務がある。
[1] 提携国家については、五十嵐正博、『提携国家の研究―国連による非植民地化の一つの試み』、風行社2002年、を参照。
[2] A/80/63.
[3] 宮治一雄、『アフリカ現代史 Ⅴ』、山川出版社、1978年、233ページ。
[4] 杉江栄一、樅木貞雄編、『国際関係資料集』、法律文化社、1997年、79ページ。
[5] Stephen C. Schlesinger, Act of Creation: The Founding of the United Nations (Boulder: Westview Press, 2003), pp. 235-236.
[6] 杉浦功一、『国際連合と民主化』、法律文化社、2004年。
[7] Jochen Prantl and Jean E. Krasno, “Informal Groups of Member States,” in Jean E. Krasno, The United Nations: Confronting the Challenges of a Global Society (Boulder: Lynn Rienner Publishers, 2004), pp. 327-331.
[8] Schlesinger, Act of Creation: The Founding of the United Nations, pp. 232-234.
[9] 大田昌秀、『沖縄の帝王 高等弁務官』、朝日新聞社、1996年。
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