開発独裁は、政府と人々が同じ開発の夢を見ている間は幸せである。夢を共有できなくなれば、それは単なる独裁にすぎない。経済成長のない独裁は悲惨である。煎じ詰めれば、独裁者個人のための搾取であるからである。今回のテーマは、冷戦期および冷戦後の途上国における国家主導の開発と国有化をガバナンスの観点から論じなさい、である。
アジア・アフリカ諸国の独立後、新植民地主義という言葉が使われた。かつて、植民地主義者たちは、武力や金融の手段によって、資源や一次産品などの収入源を奪い取った。こうした公式的な植民地化は第二次大戦後には批判され、次々と独立が達せられた。
ところが、植民地主義者は新植民地主義者となって帰ってきた。もっと巧妙に、非公式に、操り人形の政権を利用して、富の収奪を続けている。と、批判する者が現れた。批判者たちは、これからは真の独立を果たし、国家主導の開発や国有化によって人々が富を享受できるようにしなければならない、と主張した。
そうした主張に後押しされ、ソ連に支配された東ヨーロッパで戦後の国有化が始まった。波はアジアとラテンアメリカに広がり、アフリカにまで及んだ[1]。ナショナリズムの理論で武装した権威主義体制は鉱業、交通、あるいはエネルギーのインフラストラクチャーを国有化した。国際連合憲章が武力行使を禁止したため、多国籍企業の母国である先進諸国は手を出すことができなかった。
そこで、ハリウッド映画でおなじみのCIAやMI6の支局が隠密に動いた。CIAとは1947年に設立されたアメリカ合衆国の中央情報局である。世界各地の合衆国大使館に支局が置かれているとされる。MI6はイギリスの秘密情報部である。『007』シリーズの作者イアン・フレミングは実際、そこに属した経歴があり、主人公のジェームズ・ボンドもその所属という設定である。
国有化が世界に波及するきっかけになった事件がスエズ戦争であった。ガマル・アブドゥル・ナセルはエジプト革命を起こし、大統領に就任した。彼はアスワン・ハイ・ダム建設への融資を英米に拒まれた。建設費を捻出するべく、スエズ運河の国有化を宣言した。スエズ運河の最大株主であるイギリスとフランスは、イスラエルの先制攻撃に乗る形でエジプトとの戦争に加わった。戦況はナセルに不利であったが、ソ連が介入して停戦が成立した。エジプトはスエズ金融会社に補償をしなければならなかったが、国有化は認められた[2]。
大国を相手に善戦したナセルはヒーローになり、ナセリズムともいうアラブ・ナショナリズムが勢いを得た。アラブ以外でも、社会主義を称する途上国が増えた。
20世紀、力ある男たちはダムを造ったものである。その代表がナセルであった。エジプトはナセル、いやナイルのたまもの、という。2,100メガワットの出力を持つアスワン・ハイ・ダムはソ連の援助を得て、1970年に完成した。古代のアブシンベル神殿はこの建設によって水没する位置にあったため、そのまま上方に引っ越しをした。ナセルは1967年に六日戦争で負け、失意のうちに死んだものの、彼が取り組んだ経済開発の収支は赤字ではなかったと考えられる。
時間は逆戻りするが、国有化の失敗にも触れなければならない。アングロイラニアンオイル事件は、イラン首相のモハンマド・モサデクが石油産業の国有化を企てたことに端を発した。1951年に就任した彼は他の2勢力、すなわち、「シャー」こと臆病な青年王モハンマド・レザー・パフラビーと共産主義政党トゥーデ党、との権力闘争に巻きこまれた。
アングロイラニアンオイルは名前のとおり、イギリス資本の石油企業であり、現在のBPである。虎の子の油田は優良なアバダン油田であった。それをあきらめきれないイギリスは、国有化問題を国際司法裁判所に訴えた。判決は、事件を扱う管轄権がない、と門前払いであった。資源ナショナリズムの立役者であったモサデクは国民の人気を獲得した。
イギリス政府はドワイト・D・アイゼンハワー政権のアメリカ合衆国を頼った。国務長官のジョンとCIA長官のアレンのダレス兄弟を中心に反モサデクのクーデターが立案された。現場の指揮は、シオドア・ローズベルトの孫でCIAに勤めるカーミット・ローズベルトが執った。政治家、メディア、聖職者、ギャングなどにカネが配られ、反モサデクのデマが流された。1953年8月、モサデクの解任と新首相の任命が書かれた勅令にシャーが署名し、モサデクは抵抗の末、降伏した[3]。
こうしてイランによる石油国有化の企みは水泡に帰した。翌年、イラン・コンソーシアム協定が結ばれ、最大の功労者であったアメリカ合衆国の企業に石油利権が分け与えられた[4]。新植民地主義理論に証拠を与える、身もふたもない結果であった。
スパイを使った陰謀で一国の指導者が追い落とされた事実は知れ渡った。1979年、シャーが国外に逃亡し、神学者のルホッラー・ホメイニが帰国して暫定政権が樹立されるイラン革命が起きた。秋になって、シャーが病気療養を理由にアメリカ合衆国に入国すると、学生たちは合衆国大使館を占拠し、館員をスパイと批判して人質にした[5]。翌年のヘリコプターによる救出作戦は失敗し、人質の解放は1981年まで待たなければならなかった。
CIAが暗躍したことで知られるもう一つの舞台がグアテマラである。バナナ共和国という嘲りは、独立は名目的で、アメリカ合衆国の政府または多国籍企業に支配された国を軽蔑する場合に使われるが、グアテマラに対するCIAの陰謀は、その典型例である。
1954年、グアテマラのハコボ・アルベンス政権はCIAに支援された反乱軍により転覆された。現在のチキータ社であるユナイティッド・フルーツ社のバナナ農園が国有化されそうであったことが原因とされる。アイゼンハワー政権は国有化を共産主義者の陰謀と非難した[6]。
バナナの利潤は地元の栽培業者には1割強しか落ちず、残りは多国籍企業など外国に渡るとされ、新植民地主義による搾取のイメージにぴったり合う[7]。ただし、バナナは傷みやすく、ハエがたかりやすいので、実際に外国でかかる管理コストは高いであろう。
それはさておき、ナセルは「アフリカの輪」という思想も残した。彼が大統領になる前の1953年に表明した「革命の哲学」は次のように述べる。
私はわれわれの環境を検討し、われわれがいろいろの圏域のなかにすんでおり、そこがわれわれの活動の舞台であり、また、そのなかでできるだけうごきまわろうとしなければならないことをしるのである[8]。
エジプトにとっての圏域、すなわち輪、は何であったのか? 第1に、パレスチナや石油に関わるアラブの輪である。第2に、アフリカの輪である。第3にイスラムの輪である。アフリカの輪は1957年にサブサハラのガーナが独立すると意味を増した。ナセルはバンドンでのアジア・アフリカ会議に参加したが、スエズ戦争の政治的な勝利はアフリカの人々に感銘を与えていた。
アフリカの年と呼ばれる1960年の時点では、アフリカ諸国の路線は3派に分かれていた。急進派であるカサブランカ・グループ、穏健派であるモンロビア・グループ、そして、旧フランス植民地のブラザビル・グループである。急進派には、北アフリカのアラブ諸国、クワメ・ンクルマ大統領(当初は首相)のガーナ、そしてセク・トゥーレ大統領のギニアが含まれた。ガーナとギニアは「アフリカの統一」を唱え、小国分立の「バルカン化」に反対した。ンクルマはコンゴ動乱に対してパトリス・ルムンバをナセルやソ連とともに支持し、アフリカの輪の主役を演じた。
ンクルマの外交を支えたのはガーナの経済力である。ガーナといえばカカオであるが、当時は世界の3分の2の生産量を誇った。彼はカカオの政府買い取り価格を国際価格より安く設定した[9]。カカオの生産者であったアサンテ(アシャンティ)族には困ったことであったにちがいないが、ンクルマはその部族出身でなかった。彼は収益を別の部門に投資するほうが有益と考えた。
ンクルマが建てたダムはアコソンボ・ダムである。発電能力は912メガワットであった。ボルタ川計画はこのダムを核に工業、交通、漁業、そして農業からなる総合開発であった。ところが、現在、この計画への評価はかんばしくない[10]。1966年には、クーデターによってンクルマは失脚し、ガーナは短命な政権が続く政情不安の時代を迎えた。
脱植民地化の流れのもと、社会主義を唱えるアフリカの指導者は多かったが、必ずしもンクルマに似た者ばかりでなかった。タンザニアのジュリアス・ニエレレ大統領はウジャマー社会主義を実践した。そのアルーシャ宣言は、外資国有化・農業集団化・輸入代替工業化といった自力更生の政策を採用した。自力更生の本家は中国である。タンザニアと中国のパートナーシップは知れ渡った。マルクス・レーニン主義の親ソ政権も1988年末の時点で6か国あった。アンゴラ、エチオピア、コンゴ共和国、ブルキナファソ、ベナン、そしてモザンビークである[11]。
ナセルの後継者を自ら任じた若い軍人がリビアのカダフィ大佐(ムアンマル・アル・ガザフィ)である。軍人出身で自由将校団を称し、1969年にリビア革命を成功させた。さらに、英米軍の基地を撤去させ、BPの現地資産を国有化した。
カダフィは国名を大リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリヤと改めた。ジャマヒリヤとは大衆の体制という意味であるが、政治はまぎれもなく独裁であった。憲法に相当する『緑の書』は「統治機構の問題にかんして理論上の解決を究極的に与える」と大言壮語したが、書かれた内容は人民主権の装いを独裁に着せる空虚な理論である[12]。
カダフィ大佐はアメリカ合衆国との対決姿勢を強めた。米軍相手のテロリズムを支援したため、 1986年に報復の空爆を受けた。それにも懲りず、1988年、パンナム機を爆破して多数の死者を出すロッカビー事件を起こした。最期は、反乱軍によって2011年に殺された。彼の行動とりわけ反米は政権を保つための演技であったかのようである。
チリでは、サルバドル・アジェンデ大統領の左翼政権が主産業である銅山の国有化に着手した。当初、補償が公約されたものの、やがて課徴金と相殺されて無補償にされてしまった。経済が混乱しはじめ、ストが起きた。1973年、CIAが関与したクーデターの最中、アジェンデは自殺したとされる。翌年、大統領に就任したアウグスト・ピノチェトのもとで、ミルトン・フリードマンのシカゴ学派経済学を学んだマネタリストたち、すなわちシカゴボーイズ、がインフレーションを終息させた[13]。その一方で、ピノチェトは大規模な人権侵害を行ない、後年、その罪で訴追された。
外国資産の国有化をめぐる紛争を円滑に解決するため、2種類の制度が発達した。一つは非国家間の国際商事仲裁であり、もう一つは多国間の投資保護条約である。前者を後押ししたのは、1958年に作成されたニューヨーク条約(外国仲裁判断の承認及び執行に関する条約)である。紛争を当事者双方が合意して第三者機関に付託した場合、そこで出された仲裁判断を裁判所の判決のように法的拘束力があるものとして扱うよう、この条約は規定する。
後者の多国間投資保護条約の代表例は、1965年に署名された「国家と他の国家の国民との間の投資紛争の解決に関する条約」である。これに基づき、世界銀行グループの一員としてICSID(国際投資紛争解決センター)が設けられた。
もっとも、紛争が起きてから「どうしようか?」ではなく、カントリー・リスクが高い国にはそもそも投資しないほうがよい、という見方がある。カントリー・リスクとは、ある国への投資に伴う収益の下方リスクである。地震などの自然災害はもちろん、労働組合やNGOの活動による社会のリスク、接収・国有化・契約違反・為替管理・貿易制限など政策のリスク、体制変化・内戦・戦争など政治のリスク、そして成長率・物価・交易条件・産業・企業などの経済のリスクがある。
途上国の資源ナショナリズムに、先進国なかんずくアメリカ合衆国はいかなる態度をとったであろうか? スティーブン・D・クラスナーは、合衆国の資源政策について三つの国家観を検証した。第1のステイティズムは、国家は統一的に国益を追求する、という見方である。合衆国の資源政策は、安定供給、市場競争による低価格、そしてイデオロギーや安全保障といった一般的な目標を追求していると認識し、クラスナーもこの見方に同意する。第2のマルクス主義は、資本主義の搾取的関係の維持が国家の任務であるという見方、第3の自由主義または多元主義は、企業やNGOなど個々の利益集団からの圧力を反映するという見方である[14]。
CIA 対 ならず者国家は、スパイ映画でおなじみの構図である。ならず者国家というほどではなかったチリのアジェンデ政権に対する陰謀は、後世からは厳しく批判される。判定が難しいのは、途上国側の言い分に傾聴すべき点があることである。特に国家主権からの立場の主張である。ならず者か、主権の擁護者か、観察者の置かれた立場によって評価は左右される。
これまで述べてきた国々は、本当は、開発独裁と呼ばれることはあまりない。開発独裁の例として挙げられる政権は、投資か、援助か、を問わず、外国資本の導入に積極的である。ならず者国家は国有化してしまうので、先進国から新規の投資が来ることは期待できない。政治体制の観点からは、開発独裁もならず者も権威主義であり、大差ない。
世界銀行が1993年に出した報告書『東アジアの奇跡』は、「高いパフォーマンスを示している東アジア経済」(HPAEs)に関する研究である。香港、韓国、シンガポール、そして台湾の「四匹の虎」が1960年から1980年の間に高いGDP成長率を記録したことに注目する。四匹の虎は上位2位から6位の間を占め、そのすき間に香港が入り、後を7位の日本が追った。ちなみに、エジプトは10位であり、決して低成長でなかった[15]。
『東アジアの奇跡』は、四匹の虎が官僚優位であったことが高成長の原因であった、とする。官僚による行政指導、予算編成、法案提出、あるいは人事制度が民間からの悪い干渉を遮断した、というのである。官僚は能力主義に基づき採用され、給与水準は高く、関係法人や民間企業に天下りが行われ、民間事業を助成し、審議会で政策を方向づけた[16]。
1997年のアジア通貨危機により、「東アジアの奇跡」モデルは説得力を失った。クローニー、つまり縁故者たち、のビジネスを育て、それが一時的に成長率を高めた、というのが奇跡の真相であったろう。日本を含めて、東アジアの官僚たちが清廉潔白であるとはもはや信じられていない。
とはいえ、中国は21世紀も成長した。鄧小平は白猫黒猫論、すなわち「白猫であれ黒猫であれ、ネズミを捕るのが良い猫である」と言ったとされる。先富論、すなわち一部の者がまず豊かになり落伍した者を助ける、という思想も彼に帰せられる。これらは、水が滴るように最終的には最貧層にも経済成長は行き渡る、というトリクルダウンの説に近い。白猫黒猫論が功を奏してか、中国は政治的な不満を経済成長によって抑え込んだ。
中国の成功は、世界のどこでも当てはまる一般的な原因で説明できるであろうか? シンガポールの外交官キショール・マブハニは、アジアが台頭した原因について、西洋の知恵の7本の柱を学んだという説を唱る。7つの柱とは、市場経済、科学技術、実力主義、プラグマティズム、平和の文化、法の支配、そして教育である[17]。科学技術とプラグマティズムと教育についてはうなずけるが、その他は中国には当てはまらない。
中国はやはり特殊な例である。中国は国家の無謬性、すなわち神のような全知全能、を信じ、間違えているのは反体制派と外国であるというスタンスを崩さない。
元来、民主主義か、社会主義か、を融資の判断材料にしてはいけないのがブレトンウッズ諸制度の建前である。国際復興開発銀行協定の第4条10は次のとおりである。
銀行及びその役員は、加盟国の政治問題に関与してはならず、また、決定を行うに当つて関係加盟国の政治的性格に影響されてはならない。その決定は、経済的事項のみを考慮して行うものとし、これらの事項は、第一条に掲げる目的の達成のため公平に考慮されなければならない。
しかし、政府のあり方が投資の効果に影響を与えると考えることは合理的である。そこで、融資につけられる条件、つまりコンディショナリティ、として、政治的コンディショナリティの是非が議論された[18]。政治的コンディショナリティと並んで、グッドガバナンス(良い統治)という用語も使われるようになった。
グッドガバナンスはグッドガバメントと似ているが、違いもある。グッドガバナンスの要素として挙げられるものとしては、政府の効率性、説明責任(アカウンタビリティ)、汚職の抑制、透明性、市民やNGOの参加、そして法の支配がある。これらのうち、政府の効率性、説明責任、汚職の抑制、そして透明性については、主に政府に関わる。しかし、市民やNGOの参加は政府とは完全に独立して行われる場合がある。法の支配についても、政府の原則であることはもちろん、企業・NGOなどの規範でもあり、コンプライアンス(法令遵守)と称される[19]。
グッドガバナンスは、すでに日本が政府開発援助を供与する際の条件となっている。2015年に閣議決定された開発協力大綱は次のようであった。
法の支配の確立,グッドガバナンスの実現,民主化の促進・定着,女性の権利を含む基本的人権の尊重等は,効果的・効率的かつ安定した経済社会活動の基礎をなし,経済社会開発を支えるものであると同時に,格差の是正を始め,公正で包摂的な社会を実現するための鍵である。この観点から,実定法の整備や法曹,矯正・更生保護を含む司法関係者の育成等の法制度整備支援,経済社会制度整備支援,公務員の人材育成,不正腐敗対策を含む行政能力向上支援等のガバナンス支援,選挙制度等の民主的政治体制構築支援,メディア支援や民主化教育等の民主化支援等,必要な支援を行う。
包摂的、またはインクルーシブ、ということは、ジェンダー、エスニシティ、障害などが原因で社会の片隅に追いやられてきた人たちに参加してもらうことである。
ただし、良好な経済的パフォーマンスをもたらすのは、民主主義か、開発独裁か、という論争は決着がついていない。民主主義である、とする側には、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』(2013年)がある。インクルーシブな制度が成長をもたらす、というのが彼らの主張である[20]。
他方、開発独裁が成長をもたらすとする側には、ポール・コリアーの『民主主義がアフリカ経済を殺す』(2010年)がある。その主張は徹底的な現実主義である。選挙をしても現職側は不正をし、説明責任や正統性がある政府は生まれず、部族の間の権力闘争に終わる。また、独裁のほうが公共財と安全保障を提供できる。さらに、リーダーシップ(場合によっては独裁)があるほうが、国民アイデンティティの確立とネーション・ビルディングは達成しやすくなる、と論じる[21]。
国民の消費欲は、独裁のもとでは育たない。なぜなら、開発独裁においては、私的目標は公的目標の下に置かれ、公的目標が達成されない事態が起こると、真っ先にしわ寄せの対象とされるからである。消費欲は民主主義の諸国民のモノマネで植え付けられるのであるが、それはもはや内発的なものではなく単なる見栄である。技術革新は止まり、個人は働く動機を失ってしまう。
[1] 横川新、『国際投資法序説』、千倉書房、1972年、90-94ページ。
[2] 小林元、『国際政治と中東問題』、故小林元教授遺著刊行会、1964年。
[3] H. W. Brands, Inside the Cold War: Loy Henderson and the Rise of the American Empire, 1918-1961 (New York: Oxford University Press, 1991); and Tim Weiner, Legacy of Ashes: The History of the CIA (New York: Doubleday, 2007).
[4] 小林、『国際政治と中東問題』。
[5] マーク・ボウデン、『ホメイニ師の賓客 イラン米大使館占拠事件と果てしなき相克』、上、伏見威蕃訳、早川書房、2007年。
[6] Stephen D. Krasner, Defending the National Interest: Raw Materials Investments and U.S. Foreign Policy (Princeton: Princeton University Press, 1978), pp. 279-286.
[7] ジェラール・ガロウ、『武器としての食糧』、 黒木寿時、TBSブリタニカ、1981年、 73-75ページ。
[8] ナセル、『革命の哲学』、西野照太郎、角川書店、1971年、70ページ。
[9] ウィリアム・イースタリー、『エコノミスト 南の貧困と闘う』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2003年、 33、360-362ページ。
[10] イースタリー、『エコノミスト 南の貧困と闘う』、34-36ページ。David Rooney, Kwame Nkrumah: Vision and Tragedy (Accra: Sub-Saharan Publishers, 1988), pp. 216-236.
[11] 吉田昌夫、「アフリカ社会主義の矛盾」、歴史学研究会編、『第三世界の挑戦―独立後の世界』、東京大学出版会、1996年。小田英郎、『アフリカ現代政治』、東京大学出版会、1989年、44ページ。
[12] アンマル・アル・カッザーフィ、『緑の書―アル・キターブ・アル・アフダル』、増補新版、藤田進訳、第三書館、1993年、8ページ。
[13] 梅野巨利、『国際資源企業の国有化』、白桃書房、1992年、124-128ページ。
[14] Krasner, Defending the National Interest: Raw Materials Investments and U.S. Foreign Policy.
[15] 世界銀行、『東アジアの奇跡』、白鳥正喜、海外経済協力基金開発問題研究会訳、東洋経済新報社、1994年。
[16] 世界銀行、『東アジアの奇跡』。
[17] キショール・マブハニ、『「アジア半球」が世界を動かす』、北沢格訳、日経BP社、2010年。
[18] 大芝亮、『国際組織の政治経済学』、有斐閣、1994年、が詳しい。
[19] ビノッド・トーマスほか、『経済成長の「質」』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2002年、157、167ページ。
[20] ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソン、『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』、上、下、早川書房、2013年。
[21] ポール・コリアー、『民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実』、甘粕智子訳、日経BP社、2010年。
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