紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経済主体であるという理由もある。印刷局と造幣局による偽造防止などの品質管理は言うまでもない。国家が丹精込めて作り上げた商品はほかに教育と国防くらいである。

もう一つ、重要なサービスを忘れてならない。それは他通貨との為替管理である。1970年代、金ドル本位制という一種の固定相場制が崩壊し、変動相場制に移行した。ファンダメンタルズ、または基礎的諸条件、が異なる諸国家の通貨が市場メカニズムに従って交換されるようになった。完全に市場メカニズムに任されるわけでなく、政策金利の調整を含め、今でも管理の努力は払われている。以上のことをアメリカ合衆国の苦労という観点から眺めるのが今回のテーマである。すなわち、1960年代以降、アメリカ合衆国は経常収支の赤字を拡大させないため、いかなる対策をとってきたか説明しなさい、がそれである。

歴史上、少なくとも、英米という覇権国が存在し、ともに衰退を経験した。イギリスについては、ジャグディシュ・バグワティが引く資料によると、世界の工業生産高に占める割合は1870年の31.8パーセントから1913年の14.0パーセントに落ちた。重化学工業で、アメリカ合衆国とドイツに追いつかれたのである。アメリカ合衆国はどうかというと、1950年の40.3パーセントから1980年の21.8パーセントに落ちた[1]

ハーバード大学教授ジョセフ・S・ナイは、生産と通貨準備を1950年と1988年の間で比較した。アメリカ合衆国の生産は世界の33パーセントから23パーセントに落ち、通貨準備は何と50パーセントから9パーセントに落ちた[2]。実は、通貨準備を国力の指標とするのは誤りである。1988年には、もはや変動相場制のもと、通貨の金平価は撤廃されている。極言すれば、アメリカ合衆国は基軸通貨であるドルを刷ればよいので、金(きん)や外貨の準備は必要ない。

生産力においてアメリカ合衆国の割合が下がってきたのは確かである。下で見るように、金の枯渇も1973年までは深刻な問題であった。危機に際して国際協力が行われなかった戦間期の過ちは繰り返さなかった。どのような問題が起き、どのように対処したかを以下で検討する。

最初の問題は、ストップ・アンド・ゴー政策である。この言葉は場あたり的なケインジアンの景気対策について使われる。公共支出を増やして国内の総需要が高まることは、景気がよくなることであるので一般的には良いことである。しかし、手放しには歓迎できない。輸入品も買われてしまい、外貨準備が減り始める、同時に、国産品の価格が上がりだす。貿易収支の悪化と物価の上昇が行き過ぎると、当局は需要を抑制しにかかる。これが「ストップ」である。景気と物価が落ち着いたら、今度は「ゴー」の番である。政府は支出を増加する。

ストップの政策もゴーの政策も、打つタイミングを見きわめるのが難しく、まちがえることがある。また、公共事業をムダな出費とみなす向きもある。批判が嫌だから、とやらなければ、今度は低成長や高失業率が批判される。通貨切り下げも選択肢であるが、輸入品価格が上昇するので、消費や原料供給に痛みが走る。ストップ・アンド・ゴー政策は、進むも地獄、引くも地獄である。

より本質的な問題は流動性のディレンマである。これを理解するには、金ドル本位制のもと、外貨準備とは何であり、いかなる役割を果たしたか、を理解しなければならない。金属の金は人類が数千年にわたって採掘してきたもので、世界に通貨として存在する量はほとんど変わらない。アメリカ合衆国の金準備は大戦中に独り占めしたものが少しずつ吐き出されていた。戦後しばらくは、世界の流動性を増やすのにそれで十分である。外貨準備はいわば輸出入の「財布」の役割を果たすので、財布の中身が増えれば取引も増え、世界経済は成長する。

金の量には上限があり、イギリスのポンドは交換停止になった。そこで、ドル紙幣が流動性を担う主力になり、ブレトンウッズ体制を支えた。これを示す数字がある。世界におけるドル準備の額は1947年を100とすると1955年には400を超えた。その効果があって、世界貿易の額は1.5倍を超えて急伸していた[3]。金に代わって、ドルが通貨への需要を満たしたのである。成長を続けるにはさらなるドルの散布が必要であった。

しかし、特定国の通貨を外貨準備として使用する不条理に気づいた男がいた。ベルギーの経済学者ロバート・トリフィン(ベルギーの国語であるフランス語ではロベール・トリファン)である。

国際収支の黒字とは普通、経常収支の黒字であり、金とドルが流入することである。悪いことではなさそうであるが、流入する先がアメリカ合衆国自体であると、良いことでない。世界各国の外貨準備は輸出入の財布である、と上で書いた。アメリカ合衆国に金とドルが還流すれば、世界各国の財布は小さくなってしまう。それは世界経済が縮小するということである。

では、ドルがどんどん散布されればよいのか? それも違う。誰かが散布されたドルをアメリカ合衆国財務省に持っていき、金に替えてくれ、と言うとする。財務省は35ドルを金1オンスに替えなければならない。あまりにも大量のドルが持ち込まれるとアメリカ合衆国政府の金が枯渇してしまう。要するに、世界経済が成長し続ければ、いずれアメリカ合衆国の金準備は枯渇し、ブレトンウッズ体制は崩壊する。こうトリフィンは考えた[4]

トリフィンは、流動性のディレンマは二重のディレンマである、と言った。上とは異なるディレンマがあるということである。普通の国は景気が悪くなると金利を下げる政策をとる。これはたいがい正しい判断である。しかし、アメリカ合衆国に関してはそうではない。アメリカ合衆国にあるドル預金が金利低下により流出してしまうため、国内の資本が減り、逆効果になる。

アメリカ合衆国の金準備を枯渇させずに、世界経済が拡大する方法はないのであろうか? 根本的な改革として、彼はいわゆるトリフィン案を提示した。実はこれはブレトンウッズ会議のケインズ案がモデルである。各国の外国為替準備を帳簿上、IMFに対する預託金残高にしてしまう。彼の文章を引用する。

各加盟国は、当面自ら使用することを欲しない余剰外貨資源をもっている場合に、この資源を全体のためにプールして、承認された目的のために使用をゆるすということに、一般的同意を与えさえすればよいのである[5]

「承認された目的のために使用をゆるす」というが、どのような目的であるのか? 結局は、貿易収支の赤字を垂れ流す不節制な国のやりたい放題になるのでないか? どこかうさん臭い。

トリフィンは手近な処方箋というものも考えた。いずれも、ドルがアメリカ合衆国に帰ってくることを目的とする。第1に、技術開発による貿易競争力の強化によってアメリカ合衆国の輸出を増やす。米系企業の商品が売れれば、ドルが舞い戻る。第2に、ヨーロッパにおける貿易・金融の自由化によってヨーロッパにドルが滞留しないようにする。ドル預金としてドルは還流する。第3に、アメリカ合衆国の生産者が販売を促進する。外国の店頭でメイドインUSAの商品がますます売れれば、メーカーや農場が手にするドルは増える。第4に、ヨーロッパから途上国への開発援助を「ひもつき」から多角化する。援助品の調達を米社が受注すれば、代金はアメリカ合衆国に向かう。第5に、海外に置かれた米軍基地の防衛負担を減少し、ドルによる出費を減らす。基地周辺の商店で使われるオフショアのドルが減る。以上の赤字減少策は現在も応用できる。

不公正貿易の除去も、ドル流出を止める手段である、とアメリカ合衆国政府は考えた。GATTでは、その方法が関税引き下げとともに話し合われた。

ダンピングの「ダンプ」はダンプカーのそれと同じくゴソッと物を落とすという意味であるが、派生して、投げ売り、つまり不当廉売、の意味もある。ダンピング防止関税はそれを防ぐための関税のことで、不当廉売と認定された外国産の物品に対して国内品が不利にならないよう、価格をつり上げるために課される。GATTでは、ケネディ・ラウンド(1964-1967年)で制度化された。

相殺関税も、国内品を不公正貿易から守るという点では同じである。外国で補助金を与えられ、採算度外視で作られた物品が輸入されては、国内品は太刀打ちできない。補助金で割安になった分を無効にするための方法が相殺関税である。ダンピング防止関税に少し遅れて、1973年から1979年まで持たれた東京ラウンドで合意された[6]

こうした努力にもかかわらず、1960年、第一次ドル危機が発生した。誤解されがちであるが、原因はアメリカ合衆国の貿易赤字ではなかった。むしろそれは黒字であり、赤字であったのは金融収支のほうであった[7]。多国籍企業がニューヨークで債券や株式を発行し、得たドルを国外に持ち出したのである。こうしたドル需要は基軸通貨にとっての宿命であり、ビジネスの国際化のために避けられなかった。窮余の策として、外国人による債券・株式の発行に課税する利子平衡税(金利平衡税とも)が1963年に導入された。加えて、銀行による対外融資も規制された。

ニクソン・ショックというくらいであるから、サプライズであった。1971年、リチャード・M・ニクソン大統領は金とドルの間の交換停止を発表した。その後、ドルを金1オンス=38ドルに切り下げたスミソニアン体制をつうじ、世界は固定相場制をやり直そうとした。これもかなわず、ついに1973年、変動相場制への移行が決まった。キングストン体制と呼ばれることもある。

この時まで、国際通貨レジームは覇権国であるアメリカ合衆国の独壇場であった。新たな変動相場制では、各国の基礎的諸条件と政策目標に応じ、為替相場はより自由に動く。つねに主要国間で政策を調整しなければ、それぞれがわが道を歩み、共倒れに陥りかねない。

通貨政策を調整する場となったのは主要国首脳会議(または先進国首脳会議)であった。第1回のランブイエ・サミットは1975年に、仏・米・英・西独・日・伊の6か国で行われた。翌年からカナダが加わり、G7が固定した。

政策調整が難しいのは、各国それぞれの国益があるからである。実際には、国家の利益といえないような首脳個人の利益まで追求された。一例に、大統領再選のための景気対策がある。政治的景気循環とは、アメリカ合衆国大統領選挙の年は好景気になる現象である。代表的論者はノーベル経済学賞を授与されたウィリアム・D・ノードハウスである。現職候補は任期前半に緊縮財政をし、選挙前になって大盤振る舞いをして失業率を下げる、という[8]。エドワード・R・タフトにも、このテーマを論じた著書がある。選挙前に社会保障費を増やして実質可処分所得を上げ、現職大統領への投票へと導く、という。実例として、1972年のニクソン政権による過剰な景気刺激が挙げられる。1972年第4四半期には、11パーセント台の高成長が記録された[9]

国家としての保護主義か?、あるいは首脳の個人的利益か?、判然としない例もある。ニクソンの地元カリフォルニア州は繊維産業を擁した。沖縄返還は「糸で縄を買った」と皮肉られる。日本が繊維輸出を自主的に控えることとの交換条件で沖縄を返還する、というのがニクソン政権の認識であった。ところが、日本の佐藤栄作政権は約束を破り、自主規制をしなかった。1974年に多角的繊維取り決め(MFA)が結ばれ、問題は一応、決着した。しかし、激怒したニクソンの意趣返しが日本に秘した中国への接近であった、と語られる。

変動相場制はアメリカ合衆国に貿易赤字をもたらした。ドルを世界にまき散らしても、もはや金の枯渇を心配しなくてよいからである。貿易赤字の拡大とともに、保護主義が高まった。1974年通商法は、緊急輸入制限要件の緩和と不公正貿易国への制裁(いわゆる301条)を盛り込んだ[10]

財政赤字も拡大し、双子の赤字と称された。社会保障費は長期にわたり膨張したが1980年代の前半にピークを打った。その後はロナルド・レーガン大統領のもとで国防費が上昇し、赤字は莫大になった[11]。貿易でも、財政でも、打ち出の小づちを振るように、カネ遣いは膨らんだ。

自由貿易はGATTのルールであり、一方的に関税を上げたり、規制をかけたりすることはできなかった。グレーなやり方ではあったが、輸出を自主的に規制してもらうことで相手と合意するのが可能な代替策であった。これを輸出自主規制(VER)という。

日米間で最大の懸案になったのが対米自動車輸出自主規制である。1980年における日本車の輸出実績は182万台であった。ところが上院でダンフォース法案が提出されており、アメリカ合衆国側は1981年度、バン・ワゴン込みかつプエルトリコ向けを含め、160万台に日本車の輸入を抑えることを求めた。これは貿易戦争に発展しかねなかった。そこで合衆国通商代表(USTR)が来日し、東京を舞台に交渉した。1981年春、料亭の吉兆と金田中で、通産大臣が通商代表を接待し、1981年度の輸出を170万台に自主規制する案を示した。その後、自動車業界要人に「若干の譲歩は交渉上のテクニック」と一任を取り付け、翌日、日米は、1981年度は168万台とし1982年度も抑制することで決着した[12]

貿易赤字が天井知らずに拡大する中、1985年、プラザ合意がG5で成立した。それは、市場が決める、という原則を破った国際協調であった。船橋洋一は次のようにレポートする。

介入の骨格を記した文書は存在しないことにされており、それ故に関係者の間では、「ノン・ペーパー」と呼ばれている。

―前略―為替について、ノン・ペーパーは、「近い将来に、ドルを現行水準から一〇~一二%下方調整させることは管理可能(manageable)であろう」と述べていた。これだと、IMF方式で円・ドル相場は一ドル=二四〇円から二一八~二一四円、DM・ドル相場は一ドル=二・八五DMから二・五九~二・五四DMに切り上がることになる[13]

イギリスの国際政治経済学者スーザン・ストレンジによると、通貨問題については、国家が決定するか、国家は決定せずに市場に任せるか、のいずれかである。続けて、こう述べる。

概して、非決定が積極的決定よりも一般的である。これには二つの理由がある。一つは市場のグローバリゼーション(世界化)である。もう一つは技術変化の加速である。最初の点についてみると、市場が、特に金融市場が一国的である限り、各国権力が市場をコントロールし、どれだけ規制するべきかを決定できる。しかし、市場が密接に統合され、相互に依存し合うようになると、つまりグローバル化すると、各国はしばしば当該国間の合意によって、あるいは時には支配国家の影響を受けることになる。支配国家が行動することを望まない場合、あるいは影響力を持つ国が協調を拒否する場合、たとえ他の国が同意したとしても、非決定となる[14]

その支配国家つまり覇権国は、貿易問題でも他国を威圧した。アメリカ合衆国は通商法301条を強化するため、スーパー301条を1988年包括通商法に組みこんだ。不公正な貿易障壁の撤廃による輸出増大がその目的であり、相手側には3年以内に改善の結果が求められる。当事者からの訴えがなくても、通商代表部に調査と交渉の義務がある[15]。これは日本に譲歩を迫る脅しの「棍棒」として使われ、日米構造協議(SII)を設けて貿易障壁を撤廃することが話し合われた。

1980年ごろ、覇権安定論が注目されたのは偶然でない。この理論については「大恐慌」、「ブレトンウッズ諸制度」、「覇権」などの回でも扱われている。

国際レジーム論が国際政治学に現れて、覇権安定論と華々しく論争したのはこの時代である。1982年に『インターナショナル・オーガニゼーション』誌上で国際レジームが特集された。そこに掲載されたスティーブン・D・クラスナーの定義が最も使われるものになった。

国際関係における所与の争点領域において諸行為主体の期待が収斂するところの暗黙的ないし明示的な原則や規範、ルール、意思決定手続きの総体[16]

レジームは条約のような公式の国際法にかぎられない。たとえば、主要国サミットは設立条約もなく、暗黙的な意思決定手続きに則って運営されてきた。また、プラザ合意のノンペーパーは、市場と国家の論理のはざまで本来、言語化してならないことを、先進諸国が苦心して取りまとめた文書であった。レジームへの注目には、覇権国が衰退しても、主要国が協力することによって秩序は保たれる、との期待がこめられていた。

レジームへの期待を明言したのはロバート・O・コヘインであった。彼が1984年に著した『アフター・ヘジェモニー』はエネルギーの争点領域でレジームの機能を証明しようとした[17]。しかし、レジームを作ったものこそ覇権でなかったか?、と反論されれば、ぐうの音も出ないであろう。

日米の摩擦は単なる貿易収支の問題から、社会体制の本質的な違いの問題へと深まった。リビジョニズム(修正主義)は1980年代から1990年代に流行した日本論で、カレル・ファン・ウォルフレンらは日本を民主主義および資本主義を原理とする西洋とは異質な社会とした。日本株式会社とあだ名された官民一体の事業展開というイメージはとりわけ刺激的であった。これは、西洋の側も変化して、産業政策や管理貿易の採用を検討しなければならないという示唆につながる。

戦略的貿易理論はそうした影響の一つである。ハイテク産業を振興するには管理貿易が必要であると主張する。

戦略的貿易理論の代表的な論者、ローラ・D・タイソン、はクリントン政権の経済諮問委員会(CEA)委員長に就いた。彼女によると、伝統的産業では輸出品は自然条件や国民性で決まったのにたいし、ハイテク産業では政府調達、補助金、研究開発、政府主導の共同研究、規格、基準、検査、知的財産権、独占禁止法、企業系列、そして雇用といった産業政策と非関税障壁によって振興することができる。ハイテク産業は高賃金であり、安全保障に貢献するので振興する価値がある。その方法には、報復関税、ダンピング防止関税、自主的輸入拡大(VIE)、相互市場開放、そして安全保障産業育成といったものがある[18]

輸出自主規制は貿易を抑えるが、自主的輸入拡大は逆に促すものなので好ましい、という議論はことのほか支持された。しかし、両者は結果重視という点で同じ穴のムジナである。公正なルールのもと自由競争するのであれば、フェアプレイの結果はいかなるものであれ受け入れなければならない。特定の目標を設定してしまうと、結果が目標に達しないことが悪い、となり、さらに、悪いから是正しろ、となる。目標に届かないのが、科学的には合理的であるにせよ、である。

実例は半導体の自主的輸入拡大である。日米間で、合衆国製品を日本に買わせる目標が1986年に合意された。それには日本政府からの非公式なサイドレターが添付された。日本市場シェア20パーセントという表現の解釈をめぐって、日本はアメリカ合衆国の期待を支援する個人的書簡としたのにたいし、アメリカ合衆国は20パーセントを保証した政府間協定とした。この数字が達成されないと分かった1987年、アメリカ合衆国は制裁を発動した。1991年の新協定には、シェア20パーセントを保証しているわけでない、と明記され、1996年には協定は役割を終えた[19]

1990年代には、いくら日本を叩いても、かわりに韓国・中国・台湾からの輸出が増えるだけであった。日本市場開放の要求は繰り返されたものの、1980年代のように両国間の関係を揺るがす大問題にはならなかった[20]。 戦略的貿易理論の本質的な問題点は、国家が競争力のある輸出産業を見きわめることができるのか?、という点にある。国家主導では、官僚主義と腐敗によって税金が食いつぶされる危険がある。確かに、韓国や中国のように複数の産業で成功を収めた例もある。日本の場合、政府は産業を選ぶふりをして、企業を先に選んでいないであろうか? 科学的に産業を選び、政策を立案できる国になれないのであろうか?


[1] ジャグディシュ・バグワティ、『保守主義』、渡辺敏訳、サイマル出版会、1988年、81ページ。

[2] Joseph S. Nye, Jr., Bound to Lead: The Changing Nature of American Power (New York: Basic Books, 1990), p. 2.

[3] R・トリフィン、『金とドルの危機―新国際通貨制度の提案』、村野孝、小島清監訳、勁草書房、1961年、90-91ページ。

[4] トリフィン、『金とドルの危機―新国際通貨制度の提案』、114ページ。

[5] トリフィン、『金とドルの危機―新国際通貨制度の提案』。

[6] 布施克彦、『これでわかる! TPPのすべて』、晋遊舎、2012年、81ページ。

[7] 西川潤、『世界経済入門』、岩波書店、1988年、53ページ。

[8] William D. Nordhaus, “The Political Business Cycle,” The Review of Economic Studies, 42 (2), pp. 169-190.

[9] Edward R. Tufte, Political Control of the Economy (Princeton: Princeton University Press, 1978).

[10] 中本悟、『現代アメリカの通商政策』、有斐閣、1999年、39-41ページ。

[11] 西川、『世界経済入門』、14ページ。

[12] 天谷直弘、『日本町人国家論』、PHP研究所、1989年、99-114ページ。

[13] 船橋洋一、『通貨烈烈』、朝日新聞社、1988年、29ページ。

[14] スーザン・ストレンジ、『カジノ資本主義』、小林襄治訳、岩波書店、2007年、43-44ページ。

[15] 中本悟、『現代アメリカの通商政策』、有斐閣、1999年、39-41ページ。

[16] Stephen D. Krasner, “Structural Causes and Regime Consequences: Regimes as Intervening Variables,” in Stephen D. Krasner, ed., International Regimes (Ithaca: Cornell University Press, 1983), p. 2.

[17] Robert O. Keohane, After Hegemony: Cooperation and Discord in the World Political Economy (Princeton: Princeton University Press, 1984).

[18] ローラ・D・タイソン、『誰が誰を叩いているのか―戦略的管理貿易は、アメリカの正しい選択?』、竹中平蔵監訳、安部司訳、ダイヤモンド社、1993年

[19] 大矢根聡、『日米韓半導体摩擦―通商交渉の政治経済学』、有信堂高文社、2002年。

[20] 関岡英之、『拒否できない日本―アメリカの日本改造が進んでいる』、文芸春秋、2004年。

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