南北問題という言葉の由来は、ロイズ銀行頭取オリバー・フランクスが1959年に開発途上国を「南」と表現したことにある。フランクスはイギリスの駐米大使を務めたことがあり、世界情勢に明るかった。「南」は最近、グローバルサウスと呼ばれる。地球の南部とわざわざ書き加えるのは、例えばアメリカ合衆国のそれのようなほかの南部と紛らわしいからであろう。今回のテーマは、南北問題の発生とそれに対してとられた諸対策について説明しなさい、である。
開発援助の対象は独立国であるから、脱植民地化後の課題である。植民地大国であったイギリスは率先して植民地を独立させ、帝国からコモンウェルスへと変身した。
コモンウェルスとは、1931年のウェストミンスター法の規定で「王冠への共通の忠誠により連合」した国々である。さっそくカナダ、アイルランド、ニューファンドランド、南アフリカ、オーストラリア、そしてニュージーランドにより採用され、イギリスの君主を元首としないインドのような共和国にも1949年に加盟の道が開かれた。転機は、1957年にアフリカ系の国であるガーナが加盟したことであった。その後、独立した旧イギリス植民地の多くがコモンウェルスに加盟した。
全世界でも、旧植民地が次々と独立を果たした。1955年、バンドン会議またはアジア・アフリカ会議が開かれ、存在をアピールした。1960年には、国連総会が植民地独立付与宣言を決議した(A/RES/1514)。その年はアフリカ17か国が独立し、「アフリカの年」と呼ばれる。わずか数年の間に、アジア・アフリカ諸国は国連総会の過半数を制した[1]。総会決議は法的拘束力こそないものの、「ソフト・ロー」とも呼ばれ、国際世論に無視できない影響を与えた。
最初期の援助は「緑の革命」であった。それは赤い革命、すなわち社会主義革命、に対抗し、農作物の品種改良をつうじて貧困を減少させようとした。フランクリン・D・ローズベルトが「欠乏からの自由」を唱えた。
1940年代には、高収量の小麦の開発がロックフェラー財団主導のもとメキシコで始まり、実用化された。1970年のノーベル平和賞は、国際トウモロコシ小麦改良センターのノーマン・E・ボーローグに贈られた。
緑の革命の「奇跡の種子」や「奇跡の稲」が作物の収量を上げたのは事実である。しかし、灌漑、電力、あるいは肥料を必要としたため、生態系を破壊し、水紛争を発生させ、伝統社会を引き裂いたという批判も強い[2]。資本がなければ作れないそんな麦を、本当に飢えた農民が食べられるのであろうか? 貧困削減の関連ではなく、アグリビジネスの関連で論じられるべきではなかろうか?
開発援助らしい開発援助、つまり農業分野以外のインフラストラクチャー建設に関わるものはというと、最初にコロンボ・プランが挙げられる。1950年にスリランカのコロンボで提唱された南アジア・東南アジアへの援助計画のことで、当初はコモンウェルス諸国だけが対象であった。のちに他の国々も参加するようになり、占領が終わった日本が初めて参加した援助になった。
国連関係では、SUNFED(国連経済開発特別基金)の設置構想があったが、実現しなかった。名称はUNFEDとなる予定であったが、英語で「食べ物を与えられない」という意味になるので改められたいわく付きである。立ち消えになったのは援助する側のコントロールが効きにくいからであった。国連のもとで機関を立ち上げると、途上国側の声が大きくなりすぎると考えられた。
その代わり、援助国側の力が強い世界銀行の一員として、IDA(国際開発協会)が1960年に設立された。「ブレトンウッズ諸制度」の回で見たIBRDよりも、緩和された(=譲許的な)条件で低所得国に融資する機関である。先進国を「大人」、途上国を「子供」に喩えよう。1980年代の統計では高・中・低所得国にまんべんなく融資をしたIBRDが大人向けのローンであるとすれば、未成年者向けの学資ローンのような感じである。IDAの融資は無利息で50年の償還期限であり、きわめて有利である。緑の革命にも、多額の援助をつぎ込んだ[3]。
世界銀行は多国間の国際機構であるが、個々の先進国と途上国の間では二国間援助が行われる。先進国はたがいの援助政策を調整するため、1961年、OECDの一機関としてのDAC(開発援助委員会)を立ち上げた。先進国の援助が交通、産業、保健、そして教育といった似た分野に振り向けられるのはこのためである。
国連における開発の記念碑は、ジョン・F・ケネディが提案した「国連開発の十年」である。1961年の国連総会演説で、「だから、わが国は資本と技術を他国の自活を手伝うために自由に共有し、いま公式にこの1960年代を国連開発の十年と指定することを提案」すると彼は謳い上げた。
第1次開発の十年の成果はまずまずであった。途上国の最低成長率5パーセントという目標を途上国人口の約半分に当たる50か国が達成し、GNP平均成長率は5.5パーセントであった。第2次、第3次、そして第4次と開発の十年が更新されるにつれ、成長率目標こそ上げられたものの、それらが達成されることはなくなった。第2次における途上国の平均GDP成長率は5.6パーセント、第3次におけるそれは4パーセント、そして第4次のそれは4.7パーセントであった[4]。先進国では援助疲れが語られ始め、21世紀には開発の十年は指定されなくなった。
ケネディ大統領はほかにも開発関連の実績を上げている。 平和部隊(ピースコー)は、平和と友好を促進するため、支援を求める世界各国にボランティアを派遣する独立政府機関である。日本のJICA協力隊(旧青年海外協力隊)のように、開発を人々になじみやすいものにした。進歩のための同盟は、キューバ革命の発生に危機感を覚えたアメリカ合衆国が、米州諸国の社会改革と経済開発のために援助することを申し出たものである。
ケネディ政権に参加した開発経済学者にウォルト・W・ロストウがいた。彼の学説は近代化論の名で知られる。
ロストウの近代化論は、経済の成長速度には段階があり、近代化された段階に達しないと成長軌道に乗ることはできない、と主張する。最初の段階である伝統的社会は「ニュートン以前の科学と技術とに基礎を置く、限られた生産函数の枠内」にとどまる。次の離陸のための先行条件は、「近代科学の成果を開発し、収穫の逓減を防ぎ、その結果複利的関係の進行によって展開される祝福と選択とを享受する」ための助走期間である。ロストウのいう離陸とは産業革命のことであろうが、この段階で「着実な成長に対する古い妨害物や抵抗が最終的に克服」される。続く成熟への前進の段階で、「今や常時成長する経済が、近代技術を経済活動の全戦線にわたって押しひろめ」る[5]。
ロストウが示した最後の段階が高度大衆消費社会である。その社会の主導部門は耐久消費財とサービスである。分かりやすい指標は自家用自動車の普及率である。1950年代末、すでにアメリカ合衆国では3人に1人が保有していたのに、日本は500人に1台にすぎなかった[6]。アメリカ的生活様式こそ、他国が追い求めるべきモデルとされた。実際、21世紀における中国の発展ぶりは、かつてのアメリカ合衆国をほうふつとさせる物質文明の繁栄である。
ところが、開発途上国側が求めるものはアメリカ合衆国側の考えとは違っていた。交易条件という概念がある。輸出品価格を輸入品価格で割ったものがそれである。ある国の輸出品と輸入品について、輸出品の価格が輸入品の価格より上がるならば、その国にとっては有利である。これは先進国か、途上国かを問わない。であるから、途上国も交易条件を良くして、かつ、できるだけ多く売ろうとすることに何の不思議もない。
そうした考えから、1960年に石油輸出国機構(OPEC)が設立された。かつて、先進国のセブンシスターズこと7大メジャーが石油市場を支配していた。これら巨大多国籍企業に単独で交渉をしてもらちが明かない、と決意を固めた産油国の石油大臣たちがOPECを設立した。
石油同様、銅・天然ゴム・ボーキサイト・バナナ・水銀・木材・鉄鉱石でもこうした一次産品生産国機構が作られた[7]。ただし、石油ほど成功を収めた商品はなかった。
産油国は主導権を握り、石油産業を国有化した。アラムコはメジャーの共同会社であったが、1988年、サウジアラムコという国営企業になった。国有化は国際政治上、センシティブな行為であるが、そのリスクを下げたのは1962年に採択された天然資源に対する恒久主権に関する国連総会決議(A/RES/1803)であった。タイミングは途上国が総会の過半の票数を制した時と一致した。自国の資源を自らの支配下に置こうとする動きを資源ナショナリズムという。
第一次オイルショックは先進国の心胆を寒からしめた。エジプトのアンワル・アル・サダト大統領は、石油を兵器として使おう、とアラブの産油国と謀った。パレスチナを占領し続けるイスラエルへの反感から、アラブ諸国は同意した。第四次中東戦争において、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は原油価格引き上げと一部の国への禁輸によって、エジプトを応援した。困った先進国はアラブ側にすり寄り、アメリカ合衆国もあからさまなイスラエル支持を改めた。
1979年の第二次オイルショックは、前年末のイラン革命の影響による原油価格の暴騰である。OPECの動きを世界は注視した。それを伝えるニュースにサウジアラビアの石油相アハマド・ザキ・ヤマニはしばしば登場し、お茶の間の顔になった。
2度のオイルショックによって、確かに産油国の交易条件は改善した。ところが、原油を産出しない途上国の交易条件は改善しなかった[8]。
先進国の側においては、輸入品の価格上昇を原因とする輸入インフレーションが起きて、経済成長率が低下した[9]。停滞を意味するスタグネーションとインフレーションが組み合わされ、スタグフレーションという言葉が造語された。
産油国の行動は華々しかった。しかし、開発途上国全体の運動は地味であるか、悲壮であるかのいずれかであった。UNCTAD (国連貿易開発会議)が作られ、1964年に第1回総会が開かれた。G77(Group of 77)はこの時に結成された。当初の参加国が77か国であったからこう呼ばれる。現在は中国を加え、G77プラス中国として開発途上国の一致した意見を発する。
UNCTAD第1回総会で行われたプレビッシュ報告は、ラウル・プレビッシュUNCTAD事務局長の出身国アルゼンチンの歴史をなぞる。大恐慌をきっかけに、先進国は保護貿易に転じ、途上国からの一次産品輸出が減った。途上国側は輸出と輸入の不均衡を輸入代替、つまり輸入品の国産化、で解決しようとした。ところが、国産化に伴う機械など資本財の輸入はかえって対外不均衡を広げてしまった。途上国にも国内改革が必要であるが、先進国も途上国からの輸入拡大をしてほしい。プレビッシュ報告が求めた「援助ではなく貿易を」の主張はUNCTADのスローガンになった。カネをよこせ、とドラ息子のようなことを途上国は主張してきたわけでない。
新国際経済秩序(NIEO)は資源ナショナリズムが盛り上がった頂点である。開発途上国が問題としたテーマは、内政不干渉、天然資源に対する主権、植民地主義、多国籍企業、交易条件、通貨、援助、科学技術、資源浪費、そして一次産品生産国機構と非常に広かった。1974年の国連特別総会で、「新国際経済秩序の樹立に関する宣言」(A/RES/3201)が採択された。その年の総会通常会期では、「諸国家の経済的権利義務憲章」(A/RES/3281)が採択された。これに「帝国主義」の回で触れたカルボ・ドクトリンが組み込まれた。
NIEOの盛り上がりと急速な落ち着きを冷笑的に見る人は多い。しかし、頂上から、急坂を転げ落ちたのかといえば、明らかに違う。坂の前は植民地主義の世界であり、坂の先は脱植民地主義の世界であった。開発途上国は現在でも国連総会の最大勢力の地位を保っている。
途上国の立場を代弁した開発理論はプレビッシュのものも含めて従属論と呼ばれ、なかにはマルクス主義の影響を受けた非妥協的なものもある。アンドレ・グンダー・フランクは「低開発の開発」の概念で知られるが、彼がメトロポリス(中心)と呼ぶ先進国とサテライト(衛星)と呼ぶ途上国とは同時に両方が栄えることができない関係とされる。サミル・アミンもまた途上国の自力更生を主張する。資本主義において、周辺としての低開発国は中心としての先進国に搾取されるだけであるので、低開発国は社会主義体制をとって中心と切断しなければならない。やはり従属理論家として知られたフェルナンド・エンリケ・カルドーゾはブラジルの大統領になったことで有名である。
解放の神学は、カトリック教会に属するラテンアメリカの司祭たちによる貧困救済を促す発言である。グスタボ・グティエレス司祭が1972年に著した『解放の神学』は、神学は歴史的実践に対する批判的考察でなければならない、と主張する。IMFなどの推進する開発主義は抑圧される貧しい民衆を救わない。貧困は先進資本主義国への従属によるものであるから、追求するべきことは開発でなく解放である。教会は不正な政治体制と手を切り、民衆とともに解放に参与する必要があり、それはチャリティ(愛)を追求することになる[10]。保守的なカトリックの影響が強いとされるラテンアメリカにこうした立場が現れたことは注目を集めた。
存在感を増したと思われたラテンアメリカであったが、本当のところは、累積債務と「失われた十年」の入り口に立っていた。原油高の恩恵を受けたメキシコは、1982年に原油価格が低下すると債務不履行が懸念されるようになった。追い打ちをかけるように、1985年にメキシコ大地震が起きた。同じ年には、アルゼンチンが債務繰り延べをし、累積債務問題は金融界の頭痛の種になった。1989年のブレイディ・プランにより、債務削減が行われた。
一般的に、資源が豊富な国は必ずしも豊かでなく、この現象は資源の呪いと呼ばれる。原因として、国民が勤勉である必要がない、ブーム後に過剰消費と過少貯蓄が起きる、製品は輸入すればよいので製造業が縮小する、そして、ブームで得られた収入を政府が次の世代のために活用しないことが挙げられる[11]。製造業の縮小は、 天然ガスの開発によりそれが起きた国の名をとってオランダ病と称される。大航海時代に新世界から金銀が流入したスペインも似ている。
資源の呪いへの対策として、資源で稼いだ収入を元手に国家ファンドを立ち上げ、将来の成長産業に投資することが実践されている。例えば、液化天然ガス(LNG)の世界有数の生産国であるカタールは観光等に投資している。
南北問題とは何であったのか? それは、南が見えるようになったことである。そして、南が何を欲しているか分かるようになったことである。さらに、南が自らの強さを知らしめたことである。 開発途上国は1980年代以降、分化した。産油国は石油を武器にすることにより、獲得した地位を維持できた。NIES(新興工業経済地域)と呼ばれた韓国、台湾、香港、シンガポール、ブラジル、メキシコなどは、現代における重商主義を実践し、繁栄した。しかし、最貧国と後発開発途上国(LDC)は苦しみから抜け出せない。それらの発言の拠点である国連総会は、法的拘束力が決議になく、非力なままである。
[1] 松井芳郎、「国際連合・NGO」、歴史学研究会編、『第三世界の挑戦』、東京大学出版会、1996年、375ページ。
[2] ヴァナダナ・シヴァ、『緑の革命とその暴力』、浜谷喜美子訳、日本経済評論社、1997年、31ページ。
[3] 世界銀行、『IDA歴史と回顧 国際開発協会の20年』、オックスフォード大学出版部、1982年、18ページ。
[4] Richard Jolly, Louis Emmerij, Dharam Ghai, and Frédéric Lapeyre, UN Contributions to Development Thinking and Practice (Bloomington: Indiana University Press, 2004), pp. 259-260.
[5] W・W・ロストウ、『経済成長の諸段階』、木村健康、久保まち子、村上泰亮訳、第20版、ダイヤモンド社、1968年、7-14ページ。
[6] ロストウ、『経済成長の諸段階』、15、114ページ。
[7] 経済企画庁、『昭和51年 年次世界経済報告』、1976年、第1部第2章第4節。Available at https://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/wp-we76/wp-we76-01204.html, accessed on February 15, 2025.
[8] Paul Bairoch, Economics and World History: Myths and Paradoxes (Chicago: The University of Chicago Press, 1993), p. 40.
[9] 西川潤、『世界経済入門』、岩波書店、1988年、11ページ。
[10] G・グティエレス、『解放の神学』、関望、山田経三訳、岩波書店、1985年。
[11] デイヴィッド・N・ワイル、『経済成長』、第2版、早見弘、早見均訳、ピアソン、2010年、423-429ページ。
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