言いたいことは言いつくせた――個人的な思いであるが、本著は筆者にとってそれだけの価値がある。

国際ガバナンスという概念に筆者が触れたのは渡辺昭夫東京大学教授の『アジア・太平洋の国際関係と日本』(1992年)が最初であった。学部生時代は同書とほぼ同時に世に出たローズノー教授、チェンピール教授共編『ガバナンス・ウィザウト・ガバメント』を熟読した。渡辺氏の著書で言及されたフィンケルステイン教授のペーパーもご本人から取り寄せて読んだ。ここまでは順調であった。

修士課程に進学してから、泥沼にはまってしまった。ガバナンスという概念そのものは現実世界の動きや制度から導きだされるものでなく、アプリオリな認識カテゴリーにすぎない。よって、ガバナンスを学んだところで現実世界について予言ができるようになるわけでもなく、解決策を示して人様のお役に立てるわけでもない。そんな認識カテゴリーについて大学院研究科の紀要論文を書いてみたものの、冷笑的になった筆者自身が懐疑的で会心作にはならなかった。

アプリオリな認識カテゴリーについての問いは形而上学や存在論が扱うもので「科学研究」とは認められないだろうな、と出世はあきらめた。国際関係論は地域と争点からできている、という言い方はいまも通用しているのでなかろうか。

俗事でもいろいろあって、三十年あまりかかり、到達したゴールがこの『グローバルガバナンスの教科書』というわけである。

本著は大学で筆者が担当する四つの授業の内容をまとめたものである。各授業のテーマは国際政治学、国際政治経済、グローバルガバナンス、そして国際紛争である。講義録として学生にはPDFファイルを配っているが、「グローバルガバナンス」に関心を持つ一般の方もいるであろう、と思いたち、公開を決意した。Kindle本としては2022年の『総解説 グローバルガバナンス 上』と2023年の『グローバルガバナンス講義』をすでに出し、オンデマンド書籍として2024年の『グローバルガバナンスはどうなっているのか? そして、どうなるべきなのか?』と2025年の『私家版教科書グローバルガバナンス どうなっているのか?、どうなるべきか?』を公表した。題名は異なるが内容はおおむね同一である。

ガバナンスの概念そのものは認識カテゴリーにすぎないものの、そのカテゴリーに含まれる諸事象は豊かであり、複雑に相互依存している。それらのつながりは、理論や法則のような真理として確立されているものばかりでなく、微弱な相関関係しか観察できないものがある。ああだ、こうだ、と多くの人がコメントを付け、意味を与える。流布されている理論や法則さえ、でたらめなことがある。本著はこうした言説のなかで、講じるに値する、と筆者が考えるものを選んだものである。正しい、正しくない、は最終的には読者自身で判断してもらうしかない。

人間社会とそれをとり巻く環境の大半はグローバルガバナンスと関わりを持つ。社会と環境をコントロールすることがガバナンスであるが、そうできるのは神や仏だけだ、という人もいる。超越的で、絶対的で、崇高なことにまで足を踏みいれるつもりはない。孔子は「怪力乱神を語らず」と言った。イエスは「カエサルのものはカエサルに」と言った。しょせん、神仏には及ばないのであるから、人間は持てる知識の範囲内で最善を尽くせばよい。イエスが現代に生きていたら、「グローバルガバナンスのものはグローバルガバナンスに」と突き放すのでないか。

より難しい問題は、80億人もいる人類の、誰の、誰による、誰のためのガバナンスか?、という問いである。エイブラハム・リンカーンは、人民の、人民による、人民のための政治と言った。彼が治めたアメリカ合衆国では人民が選挙で大統領を選ぶから、人民の、人民による、人民のための政治と言って許される。もちろん、連邦政府だけがガバナンスの主体であるわけでないが、大統領制という制度が機能しているあいだは、それに頼ることは許されよう。

他方、グローバルな規模での普通選挙はないので、人民の、人民による、人民のためのグローバルガバナンスはイマジンできるだけである。上述のように、ガバナンスの概念は認識カテゴリーにすぎない。制度化されている部分である国際連合は不完全性ゆえに批判を浴びている。イデアと現実との不一致は放置できないが、その絶望こそ究明されるべきである。

イマジンだの、イデアだの、そんなものはしょせん主観的で、非科学的であるから研究と呼ぶに値しない、という意見がある。実際、昔からあった弁証法やイデオロギーといった「主観」を分析する社会科学の方法論はほとんど壊滅状態である。知識は客観的な真理でなければならず、検証に耐えない絵空事は非科学的と排斥される。しかし、21世紀には、生成系AIやフェイクニュースのような、幽霊か、フランケンシュタインかといったものが現れ、主観的どころか、人間的でさえない機械による創作物に、人間と社会が愚弄されている。

イデオロギーやフィクションが紛れこむかもしれない知識に対しては、疑ってかかるべきである。しかし、それらは少なくとも人間的であり、疑うばかりではいけない。対話、検証、慎慮、そして合意の積み重ねで不満なところは補正できる。積み重ねていくうちに、方向性が見えてくるものである。グローバルガバナンスについてもそうである。

ナショナリズムか、国際主義か、という方向性をめぐる論争は国際関係論の中核にある。まさにそれこそ賢者の知恵の世界であり、短期的な結果に右往左往する常人は、木を見て森を見ず、である。

上で述べた趣旨は、性急に結論だけを求める世間の風潮からは歓迎されない。しかし、分かってほしい。そもそもグローバルガバナンスに客観的な絶対唯一の真理はなく、主観的あるいはせいぜい間主観的なものしかないのである。参考になった、と、どなたかに感じていただけたら、それだけで筆者と本著の幸せである。

編集と校閲は素人の筆者一人で行うため、大手出版社が出す書籍の品質には及ばない。ご容赦を乞う。

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