上の気の弱そうな高校生が私です。竜のキャラクターに1988と書いてありますね。写真は祖母がとったのだと思います。天壇公園のあたりでは牛が歩いていました。目まぐるしく北京は変わりました。

天安門から見える風景はというと、ネットで検索すると当時も今も変わりません。すごいですね。共産党政権がいかにこの景観を大事にしているか分かります。
天安門広場の南は平安京では朱雀大路に当たります。この北側も含めた「北京中軸線」は2024年にUNESCOの世界遺産に登録されました。中国統治の正統性を象徴するがゆえに、景観を残すのでしょう。
それだけに、天安門のまえで政府に意見を表明することは重大な意味を持ちます。政権に天命があるのかを問うことだからです。
教科書での関連する記述
教科書
しかし、学生や知識人のあいだでは共産党の一党支配の持続や、民主化なき経済改革への不満もつのっていった。1989年、彼らは北京の天安門広場に集まり、民主化を要求したが、政府はこれを武力でおさえ(天安門事件)、民主化運動に理解を示した趙紫陽総書記を解任して、江沢民を後任に任命した。
木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 346。
国際情勢は緊迫をきわめていた。東ヨーロッパ諸国の民主化運動にソ連のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長はどう反応するか? 世界はかたずをのんで見守った。その彼が前月に中国を訪問し、北京でも民主化への期待が高まった。
民主化に進めば地獄、退いても地獄。鄧小平はじめ共産党指導部の置かれた状況はそんなだった。中国で民主化? その帰結は、選挙? それとも内戦? と指導部にとっては失脚のリスクが高くてとれない選択肢だった。退いて体制固めをするほうが安全策だ。
体制固めというのは、すなわち学生たちの排除であって、多少なりとも実力行使を伴うだろう。そういった民主化の弾圧は国際世論からの批判にも腹をくくらなければならなかった。
鮮やかといえば鮮やかだった。夜陰に乗じて人民解放軍が広場に突入し、発砲音が聞こえるだけだった。6月4日になって流れた映像は歩道橋からつるされた死体や戦車のまえに立ちふさがる男の映像だった。天安門事件の真相は闇に包まれ、何人が亡くなったか今でも不明だ。
日本政府の対応
外務省外交史料館は30年経過した外交記録の目録を公開しているが、毎年12月には文書のコピーそのものを閲覧できるようにしている。アメリカ合衆国はジョージ・H・W・ブッシュ政権のフォーリン・リレイションズ・オブ・ザ・ユナイティッド・ステイツを公開していないので、日本のほうが進んでいるところもある。
https://history.state.gov/historicaldocuments/bush-ghw
外務省の公開外交記録をもとに、六四天安門事件を外務省がいかに認識し、いかにそれに対応したかを確認しよう。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0545_03_01.pdf
戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」は横書きのものと縦書きのものの2種類があるが、ここでは初めの横書きのほうを話題にする。文書の表紙に記されたところでは、6月7日付だ。
冒頭の「中国の現状」という見出しのもとでは、鄧小平・楊尚昆・李鵬の強硬派ラインが勝ちつつあることを指摘する。改革派と呼ばれた趙紫陽らは2週間後に失脚したので、この見方は正しかったのだろう。
私が興味深く受け止めたのは、2とナンバリングされた文だ。
外務省
2. いずれは、より穏健な政策を追及する中国に戻ることが望ましいが、中国における民主化要求の力を過大評価することは誤り。農民を中心に中国人の大多数は政治的自由に無関心。
戦後外交記録HB門1類10項3目分類番号2020-0545「天安門事件(現地情勢と日本の対応)」の「中国情勢 ―日米外相会談大臣発言要領―」
体制に打撃を与える火の手は広がらない、という外務省の観測は正しかった。他方、政治的自由に関心を持つ人々は少数派だから無視できる、とも読めるわけで冷徹な印象を与える。
新しい総書記には上海市長だった江沢民が就任し体制固めに区切りがついた。
改革・開放はそんなに偉いのか?
1989年のG7サミット(主要国首脳会議)はアルシュサミットだった。アルシュはパリの新開発地区に作られた奇抜なアーチ型のビルだ。この年はフランス革命二百周年にあたり、東ヨーロッパ情勢と絡みあい、自由の祭典となった。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_01.pdf
サミットでは7月15日、中国に関する宣言が合意された。上のリンク先には議長国のフランスが作った原案が載っている(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(1)「仏側原案 7.4」)。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf
上のファイルの諸文書では、原案における非難をできるだけ抑え、対中制裁を実害のないものにしようと努力した(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の2(5)「仏側案への対応」など)。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_03.pdf
最終的に合意された中国に関する宣言がこれだ(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0555「サミット第15回アルシュ会議(中国に関する宣言)」)の3「討議及び宣言」)。原案と見比べてどのような印象を受けるだろうか?
日本の働きかけの背景にあった考え方とは何だろう? サミットを締めくくる記者会見のために作られたと思われる想定問答がある(戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」)。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0554_05_04.pdf
外務省
我が国としては、今次サミットの機会に次の二つのメッセージを中国に正しく伝えることが必要との立場を表明した。第一は、中国の学生運動に対する弾圧、就中武器を持たない学生、一般市民に対する武力の行使は、西側先進民主主義諸国が奉ずる基本的価値観に照らして容認し得るものではなく、それ故に、中国との関係を制約せざるを得ないということである。第二は、しかしながら、我々は、中国を孤立に追いやることを欲しておらず、中国が、単に言葉の上だけではなく、実際の行動により国際世論に耳を傾け、従来の「改革・開放」政策へのコミットメントが変わらない姿勢を示すのであれば、我々はこれに対する支援と協力を再開する用意があるということである。
戦後外交記録SB門20類2項0目分類番号 2020-0554「サミット第15回アルシュ会議(個別問題)」)の5(4)「擬問擬答等」
まるでモンロードクトリンのような気負った文章だ。「二つのメッセージ」のうち、一つ目は当面は関係を制約し、さらなる弾圧は許さないという態度の表明だ。
問題は第二のメッセージだ。中国が弾圧をやめるならば、「改革・開放」を条件として「支援と協力」を再開する、と言っている。改革とは農業・工業・国防・科学技術の4個の現代化であり、開放とは経済協力と外資誘致だ。「孤立」という言葉をヒントにすれば、世界市場の相互依存のなかに中国をからめとることで、文化大革命のような排外的、攻撃的な政策をやめさせることができると日本は考えた、と解釈できる。
つまり、人権と民主主義はもとより中国には期待しない。平和共存さえ得られればよしとした。
まとめ
その後、中国は日本政府の期待どおり改革・開放につとめ、アメリカ合衆国に次ぐ経済規模を誇るまでになった。その一方、和平演変として平和のうちでの体制変化を恐れ、人権と民主主義に背を向けた。
市場を信奉しない中国は操作と寄生によって国家資本主義を営んでいるが、あまりに大きくなりすぎたゆえに世界市場のメカニズムを機能不全におとしいれている。相互依存による平和共存の夢も継続困難だろう。
天安門は変わらなくても、世界は変わるのだ。
課題
北京中軸線と総称される建築物群は何を象徴するのか? またはそれはどのような意味を持つのか? あなたの意見を300字以内で書きなさい。
1989年のアルシュサミットにおける中国に関する宣言のフランス原案にあった”continuations of executions”の句を日本政府は削除するよう求めたがそれはどのような理由によるものか? 300字以内で解説しなさい。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/pdfs/2020/0555_02_05.pdf
六四天安門事件発生後、日本政府は何を期待して中国政府に経済協力を行ったのか?、300字以内で解説しなさい。