我々の住む日本を一言で表現すれば、極東の大きな島国というところであろう。それが人類の使命を担っているかは分からないが、いっぱしの紆余曲折を経てここに至ったことはまちがいない。今回のテーマは、戦後日本の国際的地位について論じなさい、である。

第二次世界大戦の結果、敗戦国となった日本は、1952年4月28日に新たな一歩を踏み出した。この日、現代日本の出発点であるサンフランシスコ平和条約が発効した。海外領土の放棄(第2条)、沖縄の信託統治(第3条)、国際連合の尊重(第5条)、戦争犯罪(第11条)、賠償(第14条)などの条件は、裸一貫から日本がやり直さなければならないことを意味した。

また、サンフランシスコ平和条約は「かためんこうわ」(片面講和)であり、ソ連や中国を含む全面講和ではなかった。全面講和を望んだ国民は少なくなかったものの、冷戦はすでに始まり、アメリカ合衆国は日本を西側陣営に組みこんだ。

賠償は避けて通れない問題であった。日本の敗戦を確実と見るや、目ざとい現地の者たちは中間賠償として、工場や発電所の設備といった資本を持ち去った。その後、サンフランシスコ平和条約などの条約に基づき、フィリピン・ベトナム・ミャンマー・インドネシアに賠償が支払われた。日本に支払い能力がないと見たオーストラリア、オランダ、イギリス、そしてアメリカ合衆国は請求をしなかった。韓国と台湾は、アメリカ合衆国が処分した日本の現地資産を受け取った。このほか、アジア諸国には経済協力が行われた。のちに、サハリンに居住する朝鮮系の人々や元慰安婦の一部に金銭が渡された[1]。他方、ソ連は請求権を放棄したが、ひと月足らずの戦闘で千島列島と南サハリンを獲得し、捕虜を抑留して強制労働に従事させた。

主権を回復しても、憲法前文が述べる「名誉ある地位」に日本はしばらくたどり着けなかった。国連加盟が国際社会への復帰と考えられたからである。国連憲章において、加盟資格は憲章の義務を受諾し、履行の能力・意思を持つ平和愛好国とされる(第4条)。誰が平和愛好国であると認定するのであろうか? また、資格を満たすかを判定する厳格な審査があるのであろうか? 実際には、加盟の成否は、安保理の勧告に基づき、総会の3分の2の賛成を得られるかどうかによって決まる (第4条、第18条)。安保理が勧告を出すかは、常任理事国が拒否権を行使するかにかかっている。

当時の国連における最大の懸案の一つがこの加盟問題であった。西側は多くの未加盟国を入れたいと考えたが、ソ連は釣り合いをとるためにことごとく拒否し、逆に共産国の加盟を求めた。日本は主権回復に先立つ1951年にUNESCOへの加盟を果たし、国連への加盟を心待ちにした。スターリンが没すると東西間の緊張は緩和し、1955年に16か国が加盟を果たしたが、日本の名はなかった。ソ連と疎遠であったことが災いしたのである。翌年、日ソ共同宣言により国交を正常化した2か月後の12月、ようやく日本は加盟を果たした。日の丸を重光葵外務大臣がニューヨークの国連本部で揚げる写真はこの時のものである[2]

1年の遅れは大したことはなかったかもしれない。やはり国連加盟が速やかに果たされなかったモンゴルは1961年、東西ドイツは1973年、ベトナムは1977年、韓国と北朝鮮は1991年にならないと加盟できなかったからである。

こうして、日本外交の基本路線が敷かれた。外交三原則は『わが外交の近況』、すなわち外交青書、の第1号である1957年版において示された。第1の国連中心主義は説明は不要であろう。本当に国連が日本外交の「中心」かは疑問の余地がないわけでないが。第2は自由主義諸国との協調であり、北米と西ヨーロッパのG7との政策調整を優先することを意味する。第3はアジアの一員であり、世界大戦で危害を加えた国々と和解し協力しようという姿勢である。

韓国との国交樹立はなかなか進まなかった。竹島の領有権の問題は先送りしたものの、大きな争点が二つ残っていた。一つは、韓国の独立に伴い、当地における資産と請求権をめぐる紛争を解決しなければならなかったことである。日本側は経済協力にしたかったのにたいし、韓国側は賠償を求めた。もう一つは、韓国併合条約とそれ以前の条約の効力をいかに認定するかであった。日韓交渉の妥結後は無効とすることに双方異存はなかったものの、それらの条約が結ばれた当時から無効であったと韓国側は主張した。見解の相違は現在まで積み残されたものの、1965年、日韓基本条約が署名され、年内に発効した。

「名誉ある地位」を目指した日本は1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博を成功させ、自信を付けた。1970年代にG7の一員に数えられ、経済大国と認められるまでになった。

そのような日本でも、軍事的にはアメリカ合衆国の手のひらの上から出ることができない。1993年に北朝鮮はノドン1号というミサイルの発射実験を行った。これが日本政府の背中を押し、同じ年に、戦域ミサイル防衛(TMD)の開発でアメリカ合衆国と協力することに合意した。東アジアでは冷戦が終わっていなかったことは、台湾の総統選挙を威嚇するかのような、中国による台湾海峡でのミサイル演習によって1996年、はっきりした。

沖縄で米兵3人が女子小学生を暴行した事件が起きたのは1995年である。米軍基地が沖縄にとって重い負担であることが認識された。当時は冷戦終結の余波で、以前はソ連を仮想敵国とした日米安全保障条約の意義が見失われかけていた。安保再定義とは、そうした風潮のもと、新しい意義を見いだそうとする努力であった。

1996年に、橋本龍太郎総理大臣とビル・クリントン大統領が会談し、日米安全保障共同宣言を出した。同じ年に、SACOと略称される沖縄に関する特別行動委員会が最終報告をまとめ、米軍は普天間基地などを返還することに合意した。翌年には、事実上の戦争計画である日米防衛協力のための指針が策定された[3]。新ガイドラインと当時は呼ばれた。

一連の動きの集大成が1999年に成立した周辺事態安全確保法であった。周辺事態とはいったい何であろうか? 安保条約が目的とする極東の平和と安全が脅かされることであろうか? それならば、朝鮮半島と台湾で米軍が戦うことがあるとすれば、日本はそれを後方支援するということなのか?

実は、周辺事態は新ガイドラインによってすでに定義されていた。ただし、定義が満足いくものかは意見が分かれよう。「周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」と融通無碍であり、定義されていないのと同じであった。そうであるなら、やはり朝鮮半島と台湾海峡を軸に周辺事態を捉えざるをえない。周辺事態安全確保法は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態に対し、自衛隊が人道的活動・船舶検査・後方支援などの措置をとることを定めた[4]

2001年9月11日のテロ事件は周辺事態か?、と問えば、否である。それは日本に関することでも、極東に関することでもなかった。

テロ対策特別措置法は2001年11月に成立したが、日本が2種類の措置をとるためのものであった。一つは「国際連合憲章の目的の達成に寄与する」米軍などの活動に対する措置である。米軍は自衛権を発動してアフガニスタンで戦っていたのであるから、国連憲章の目的うんぬんというのは牽強付会にすぎない、と思う。しかし、自衛隊を海外に派遣するには相応の大義名分が必要であった。もう一つの種類の措置は、国連機関の要請に基づいて「我が国が人道的精神に基づいて実施する措置」である。米軍に後れないよう急いで国会を通さなければならなかったので、専守防衛の国是に従って立法する必要があった。そこで、「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない」ことや、非戦闘地域において実施することを原則に入れた。実際の活動は、対テロ戦争に参加する外国の軍艦のために、インド洋で燃料の重油を補給することであった。

2003年のイラク支援法も、日本や極東とは関係がなかった。その任務はイラクの再建である。やはり武力による威嚇と武力の行使は禁じられ、戦闘地域では行われないことが強調された。ただし、内戦下のイラクが戦闘地域でない、と言うのは首肯しがたいことであった。自衛隊のイラクでの任務は2006年に終了した。

これら米軍の行動を補完した政策は自由民主党が与党であった時期と一致する。2009年における民主党政権の誕生は、この流れを休ませた。

普天間基地移設問題は民主党による政権運営の代表例である。自民党政権は2006年にアメリカ合衆国と合意し、海兵隊をグアムに、その航空部隊を沖縄県名護市辺野古に2014年までに移転することを目指した。沖縄県民の間では、県内での移転によっては、多くの基地を抱える県の負担は軽くならない、という不満が消えなかった。民主党の鳩山由紀夫党首は「最低でも県外」を掲げて2009年の総選挙に勝利した。彼は総理大臣に就任して諸案を検討したものの、万策尽きて翌年、2006年の合意に沿った日米共同声明を発したあと辞任した。

自民党が政権に復帰して、普天間基地の辺野古への移転が進んだかというと、そうとも言い切れない。辺野古の工事は始まったものの、反対する沖縄県との争いなどにより、はかばかしい成果は上がらなかった。

鳩山を継いだ菅直人総理大臣のもとでは、尖閣諸島をめぐる中国との対立が厳しくなった。2010年9月、中国の漁船と日本の巡視船が接触し、漁船の船長が公務執行妨害の容疑で海上保安庁に逮捕された。2週間後、中国では、日本企業の社員が軍事管理区域に侵入したとして拘束された。この時は、船長と社員は釈放され、菅と中国の温家宝首相は国際会議で話をして、緊張は収まった。9月の満州事変の記念日と重なったのがよくなかった、との見解もあるが、それは先方の国内事情である。2年後、日本政府が尖閣諸島を国有化し、問題を再燃させる火種を事件は残した。

東日本大震災は、自然災害が日本の国際地位そのもののリスクであることを明らかにした。社会のきずなと同様に、国際的地位もまた強靭であることが証明された。海外からの救助チームと専門家チームは24か国・地域から1,200人以上に上った。多額の寄付と大量の物資も多くの国から贈られた。とりわけ米軍は24,500人から成る統合支援部隊(JSF)を結成し、トモダチ作戦を展開した。自衛隊と米軍が置いた日米調整所は戦争など有事における同盟のかなめになる組織である[5]

2012年末に、安倍晋三総理大臣が就任し、自民党が政権に復帰した。第2次安倍政権では、平和安全法制関連2法が2015年に成立した。

平和安全法制は自衛隊の権限を拡大した。まず、外国における邦人保護を任務に加えた。民間機をチャーターせずとも、自衛隊の航空機や船舶が現地から避難する邦人を連れ帰ることが可能になった。つぎに、PKOなど国際連携平和安全活動に携わる自衛隊員が、自らだけでなく友好的な現地民や外国軍隊の安全確保のため武器を使用できるようになった。さらに、上で述べた周辺事態という概念が改められ、重要影響事態と呼ばれることになった。そして、最も論争となったことであるが、存立危機事態という概念のもと、武器の使用ができるとされた。

存立危機事態概念の導入は、禁じられてきた集団的自衛権の発動を可能にするのでないか?、と議論されている。その定義は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」(自衛隊法第76条2)である。この文言から想像されるのは、米軍が攻撃されたような場合で、その結果、確実に国民生活が破壊される事態である。日本の自衛すなわち「我が国に対する外部からの武力攻撃」とならんで、防衛出動が認められ、武力行使の権限が自衛隊に与えられる(自衛隊法第88条1)。

以上のように、防衛の分野において、冷戦後の日本はアメリカ合衆国の背後にぴったりとついて、安全を確実にしようと努力した。ただし、米軍の行動、とりわけイラク戦争でのユニラテラリズム、は必ずしも評判がよいものでなかった。当時の指導者にとっても、対米追従は本意ではなかったのでなかろうか?

ところで、大国の地位は今日、国連安保理常任理事国が占めるとされる。経済大国となった日本が上を目指すとすれば、いわゆる「常任理事国入り」または「安保理入り」こそが次の目標でなければならなかった。折しも冷戦が終結した時には、安全保障理事会の構成は現実の国際社会を反映していない、と感じられた。外交官にとっては、実務の上でも大国の地位は魅力らしい。波多野敬雄元国連大使は次のように述べる。

しかし、残念ながら日本は安保理のメンバーではないから、会議が終わるのを会議場の外の廊下で待っていて――ということは、メディアの方、プレスの方と一緒に待っていて、会議場から大使が出てくると「どうだった?」「こうだった」と急いで聞いて、もっともらしく東京に報告して、責任を全うしていたということなんでございます[6]

日本の自信の背景には、国連の資金源として自らの経済力が期待されたことがあった。日本の大使もそう公言していたと言われ、アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領も日独が常任理事国になることと自国の負担軽減とをリンクさせたふしがあるという[7]。実際、2000年における日本の通常予算分担率は20.673パーセントに達した(ST/ADM/SER.B/551)。2019年に中国にその座を明け渡すまで、日本の分担率はアメリカ合衆国に次いで2位を維持した。

冷戦が終わってから、国連改革の必要は世界中で叫ばれながら、はかばかしい進展は見られなかった。21世紀になって、川口順子外務大臣は有識者たちに国連改革について意見を求めた。その答申では、第1に拒否権を持つ安保理常任理事国を増やし、第2に敵国条項を削除し、第3に分担金のバランスを加盟国間でとるようにし、第4に経済社会分野における組織を整理し、第5に総会を活性化し、第6にNGOや民間企業と協力すること、を提案した[8]

常任理事国入りは他者の推薦を待っていては実現しないであろう。小泉純一郎代議士はもともと常任理事国入りには反対であったが、総理大臣になると立場を改めて積極的になった。彼は2004年の国連総会一般討論の場において、安保理改革の決意を明らかにした[9]

現行の安保理の構成は、P5、すなわち常任理事国、とE10、すなわち非常任理事国、で計15か国である。小泉の演説の2か月後、コフィ・アナン事務総長の諮問委員会による報告書「より安全な世界」は、新理事国に拒否権を認めず、理事会の規模を9議席増やし、24か国とすることを提案した。そのうえで二つの選択肢を示した。一つは拒否権なしの常任理事国を6、非常任理事国を3、それぞれ広げる。もう一つは常任・非常任とは別に、4年任期の再選可能な議席を設け、それを8と非常任理事国を1、それぞれ増やす。地域構成はアフリカ、アジア太平洋、ヨーロッパ、そして米州から各6国とする、というものであった[10]

外交的な動きが加速した。ともに常任理事国入りを目指すブラジル・ドイツ・インド・日本は「G4」を結成し、2005年7月に決議案を提出した(A/59/L.64)。現在のP5に新しいP6を加えるが、後者の拒否権は15年間凍結する。非常任理事国は4か国増やして14か国にする。理事会全体の議席は25になる。

アフリカ連合が出してきた決議案はさらなる大盤振る舞いを求めた(A/59/L.67)。アフリカとアジアに2ずつ、ヨーロッパとラテンアメリカ・カリブに1ずつ、拒否権付き新P6を選ぶ。非常任理事国は5議席増やして、安保理全体は26か国から構成されるようにする。

最後に、コンセンサス・グループ案が出た(A/59/L.68)。コンセンサスのために結集した、と自称するだけあり、G4の常任理事国入りに反対する国々から成るのがこのグループであった。G4にはそれぞれライバル国があり、ブラジルはアルゼンチンとメキシコ、ドイツはイタリア・スペイン・トルコ、インドはパキスタン、そして日本は韓国であった。カナダもグループの一員であった。コンセンサス・グループはG4の常任理事国入を拒み、非常任理事国のみの拡大を要求した。

G4案は加盟国の多数票を得ることができず採決に付されることさえなかった。それは「ギャング・オブ・フォー」(四人組)と陰口をたたかれ、改革を求める勢いは失速した。ちょうどBRICsという言葉が広まり、新興国の台頭が唱えられようとした時期の出来事であった。

常任理事国入りが前向きの国連改革であるとすれば、敵国条項の削除は第二次世界大戦という失点を挽回するための改革である。国連憲章の第107条は「第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であつた国」への連合国による戦後処理の効力を承認する。常識的にはいまさら削除しても実益はないであろうが、「この敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定される」強制行動を容認する憲章第53条1は油断ならない。万が一、日本に悪意を抱く国があって、この条文を口実に地域機構で反日的措置をとるようなことがあれば、どうであろうか?

1994年の総会決議は前文で敵国条項を「陳腐になっている」と認識し、本文で国連憲章からの削除について検討の手続きをとる、と記載した(A/RES/49/58)。翌年の決議は敵国条項を削除する憲章改正の手続きを始める、と表明した(A/RES/50/52)。ところが、憲章改正には総会構成国の3分の2以上による総会での採択と、3分の2以上の加盟国とすべての常任理事国の批准が必要である。せっかく憲章を改正するのであるから、常任理事国入りのような画期的な改正を一緒に行いたいと考える国も出よう。

常任理事国入りも敵国条項の削除も成功しなかった。これは当然の結果であった。日本が大国であると世界に認められる夢を見たい、という欲求に指導者も国民も動かされての「国連改革」であったからである。

本当のところ、国連は日本にとって有用なものなのであろうか? 北朝鮮による核兵器とミサイルの開発の問題は、国連の有用性を示す一例である。国連の制裁がなければ、北朝鮮の軍事大国化を見習い、核武装する国が続出したであろう。

北朝鮮に対する2006年の安保理決議は1回目の核実験への反応であった。核実験を非難し、核兵器・ミサイルの実験をしないよう要求し、NPT・IAEAへの復帰を求め、開発計画の放棄を義務づけ、他の加盟国には北朝鮮への武器輸出を規制させ、北朝鮮に六者協議に復帰するよう求めた(S/RES/1718)。

その後も、北朝鮮が核実験を行うたびに制裁が追加された。2回目の核実験を受けて、2009 年の決議は武器禁輸と金融制裁を強化した(S/RES/1874)。3回目の核実験後にも2013年に決議が発せられた(S/RES/2094)。水爆実験と称する4回目の核実験への反応は、2016年の決議であり、北朝鮮への航空燃料の輸出禁止などを追加した(S/RES/2270)。2017年には決議S/RES/2321、S/RES/2356、S/RES/2371、そしてS/RES/2375が、2018年にはS/RES/ 2397が、石油その他の対北輸出と北朝鮮労働者の受け入れを禁止した。日本が非常任理事国であった年には決議の採択に貢献することができた。

ただし、核実験のたびに制裁決議を打つことは対症療法である。非核化のためには制裁だけでなく、立ち入った北朝鮮との関わりを避けて通れない。拉致問題の調査を徹底してもらうことはもちろんであるが、北朝鮮の安全も一緒に考えなければならないし、エネルギー支援も必要であろう。非核化のめどが立てば、国交樹立が視野に入る。過去に韓国との国交樹立に際して行ったような経済協力を実行しなければならない。歴史認識問題にも直面することになろう。 「名誉ある地位」という表現が適切かは分からないが、日本が国際社会において一人前の存在になったことはまちがいない。さらに大国になろうと常任理事国に立候補したこともあったが、現状の国力とはギャップがある。歴史を顧みれば、拒否権そのものが行き過ぎた特権である。拒否権の存在は大国と小国を峻別し、国際構造の平和的な改革を著しく困難にしている。問題は安保理改革のような小さなことでなく、人類の存亡にかかわっている。


[1] 永野慎一郎、近藤正臣編、『日本の戦後賠償アジア経済協力の出発』、勁草書房、1999年、11-13ページ。

[2] Evan Luard, An History of the United Nations, vol. 1 (London: Macmillan, 1982), pp. 361-372. 財団法人日本国際連合協会、『Today’s Guide to the United Nations』、講談社、1998年、18ページ。

[3] 西原正、土山實男編、『日米同盟Q&A100』、亜紀書房、1998年。

[4] 朝雲出版社、『防衛ハンドブック 平成21年版』、朝雲出版社、2009年、451ページ。

[5] 『日本経済新聞』、朝刊、2011年4月17日。「世界が応援団届いたエール…日本とともに!」, 外務省国内広報課, December 2011, https://web.archive.org/web/20140629000800/http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/ pub/pamph/pdfs/ouendan.pdf, accessed on February 11, 2022.

[6] アジア調査会、『日本人は「国連」を知らない』、本の出版社、1995年、82ページ。

[7] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、178-179、213ページ。

[8] 国連改革に関する有識者懇談会, 「21世紀における国連の役割と強化策」, 外務省, June 28, 2004, https://web.archive.org/web/20070709173426/http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_ kaikaku/pdfs/ykaigo_final.pdf, accessed on February 11, 2022.

[9] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、113、167ページ。“第59回国連総会における小泉総理大臣一般討論演説新しい時代に向けた新しい国連(「国連新時代」)(仮訳),” 外務省、November 21, 2004, https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/16/ekoi_0921.html, accessed on March 5, 2026.

[10] High-Level Panel on Threats, Challenges and Change, “A More Secure World: Our Shared Responsibility,” A/59/565, at 66-69, para. 244-260.

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