主権国家によるガバナンスが失敗しているのであれば、別の類型のガバナンスによって置き換えるべきでないか? エスニック集団間で激しい紛争が起きたならば、その国の中央政府に公平な仲介者としての役割を期待するのは難しい。外国、例えばアメリカ合衆国、にそうした役割を求めることもあるが、紛争当事者が望まない場合がある。そこで、国際連合の出番になる。今回のテーマは、国際連合その他の国際的枠組みによる平和活動の起源と変遷について説明しなさい、である。ただし、朝鮮戦争や湾岸戦争などいわゆる「国家間戦争」における国連の活動は除く。

国際連合の平和維持活動はPKOの略称で知られる。自然環境の厳しい条件下で、制服を着た要員が緊張した面持ちで服務しているイメージがある。どこに派遣されてきたかを見ると、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、中米・カリブ、そしてバルカン半島といった政治が不安定である地域が多かったことが分かる。別の回で論じたように、それらの国々は「弱い国家」または脆弱国家である。また、冷戦後に急増したことにも気づかされるが、国連安全保障理事会の常任理事国であるソビエト連邦/ロシアが拒否権を使わなかった時期と重なる。

現在、PKOと呼ばれるものは、初めて派遣された時からPKOと呼ばれたわけでない。1948年から展開しているUNTSO(国際休戦監視機構)は最初のPKOであった、と目されるものの、ピース・キーピング・オペレーションという国連の活動類型としては認知されていなかった。「平和維持」という用語が流布したのは1960年代初頭といわれる。PKOの派遣は紛争の発生を未然に防ぐ「予防外交」の一つであるが、この言葉がダグ・ハマーショルド国連事務総長によって使われたのは1960年のことである[1]。そのころようやく、PKOを含む予防外交の価値が認められるようになり、この用語が流布した。

PKOの価値を世界に知らしめた出来事はUNEF(国連緊急軍)の派遣である。スエズで戦うエジプトとイスラエルの両軍の間に分け入り、それらを引き離すために送られたものであった。これに先立って朝鮮戦争に派遣された国連軍は戦闘するための強制措置であり、戦闘させないためのPKOとは根本的に目的が異なる。安全保障理事会が朝鮮国連軍の派遣を決めると、欠席してきたソ連が不利を悟り、米軍に国連が味方することを拒否権によって妨げる動きを見せた。国際平和の責任を安保理が果たすことはできなくなり、総会が代わって責任を担うことを表明したのが1950年に採択された総会決議「平和のための結集」(A/RES/377)であった。

こうしてUNEFの派遣に際し、国連総会の緊急特別会期が舞台となった。アイデアを出したのはカナダの外務大臣レスター・B・ピアソンであった。彼の名はトロントのピアソン国際空港に留められる。1956年11月1日の議事は深夜0時を回って、未明まで続いた。最後にピアソンはエジプトとイスラエルに停戦を守らせるための案について演説した。明石康は翌年、日本人初の国連職員となった人であるが、数時間後の様子を臨場感たっぷりに描く。いつ眠ったのであろう? ピアソンとハマーショルドは。

ピアソンは、一一月二日の昼食をハマショルドとともにしたが、国連軍を具体的に結成する上での複雑な問題に思いをはせていたハマショルド総長の眼は、国連ビルから見下ろされるイースト川の白々と輝く川面を、とかく追いがちであった。しかし、昼食が終るころには、国連軍をつくる上での主な問題は、二人の間で大体検討しつくされていた[2]

この三日後に、総会はUNEFの結成を決議した(A/RES/1000)。1957年のノーベル平和賞はピアソンに与えられた。

PKOは国連憲章に規定がない「6章半」の活動とされる。第6章と第7章のどちらでもない、それらの中間に当たる、という解釈からである。第6章は非強制的に紛争の平和的解決を図ることを勧める。平和的解決といっても、第三者による仲介や司法的解決が念頭にあり、これらはPKOとは違う。PKOは必ず軍事要員を含むからである。軍事要員を伴う国連の活動といえば、憲章の第7章において定められる安保理の決定に基づく軍事的な強制措置である。UNEFは安保理により結成されたわけでも、強制措置であったわけでもない。6章半という表現は、憲章上にぴったりの根拠規定がないPKOに何とか根拠を見つけようと苦慮した末の造語であろう。

PKOの原則というものがある。停戦合意とは、当事者間に争いをやめる意思がなければ、PKOを派遣しないということである。中立・不介入とは、いずれの当事者にも肩入れしないということである。非強制とは、軍事的な手段を使って当事者を屈服させないことである。自衛の場合のみの武器使用とは、武器を使ってこちらから攻撃しないことである。国際的性格とは、一国だけで行うのでなく、必ず複数の国で実施することである[3]。これら厳格な原則は帝国主義の記憶が残っていた当時、PKOへの警戒感を緩めることに役立ったであろう。

UNEFは停戦監視および兵力引き離しというPKOに託された古典的な役割の例であった。それが評価されて、1988年、PKOにノーベル平和賞が授与された。翌年に冷戦が終結するとPKOの役割は劇的に変化した。選挙監視、文民警察、人道援助支援、難民・避難民保護、武装解除、そして地雷除去が主な活動に格上げされた。古典的な役割が国家間戦争の予防であったのにたいし、これらは冷戦後に注目されるようになった内戦終結と国家建設の課題に応えるものであった。

そのころ、日本は経済大国の自意識が芽生え、国際貢献が必要であるとの意見が叫ばれた。日本初のPKOは1989年におけるナミビアへの選挙監視(UNTAG)であったとされる[4]。ナミビアは南アフリカの支配から独立することになっていた。初の派遣は1992年のUNTAC(国連カンボジア暫定機構)であったとする説もある。ナミビアに派遣された要員が31人であったのにたいし、こちらは1,300人あまりを数えた[5]

PKOへの派遣は大きな政治問題となったが、それは自衛隊の違憲論が根強く存在したからである。いわゆる国際平和協力法は1992年6月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」として成立した。その名の通り、同法は初めはPKOを念頭に置いたものであった。あとで触れるように、この法律は幾度も改正されることになる。

国際平和協力法に、日本のPKO五原則が定められる。当事者間の停戦合意、PKOの実施と日本の参加に対する受け入れ側の同意、PKOの中立性、以上の三つが満たされない場合の中断・撤収、そして必要最小限の武器使用である[6]。最後の必要最小限の武器使用は緩められたものの、五原則はともかくも維持されている。

UNTACへの参加は、カネだけでなく汗も流す、という対外政策の大転換として行われたはずであった。実際、UNTACは内戦が続いたカンボジアを民主国家として再建する壮大な使命を負い、日本人の要員は幅広い活動に従事した。すなわち、紛争当事者間の停戦・武装解除の監視、選挙の準備・実施、行政の管理、難民帰還の支援、そして復旧の支援がそれに当たる[7]

しかし、日本国民の記憶に残ったのは命をカンボジアで落とした二人の青年に関する報道であったろう。文民警察に参加した国連ボランティア1名と警察官1名が殉職した。平和のための犠牲が尊かったことはまちがいないが、汗のみならず血を流す心の準備が国民の多くになかった。

国連の側はPKOを冷戦後の時代に適応するべく、野心的な計画を立てた。ブトロス・ブトロスガリ事務総長による報告書はアジェンダ・フォー・ピース、すなわち平和への課題、という題であり、安保理理事国の首脳たちによって採択された[8]

アジェンダ・フォー・ピースは、ナショナリズムの新たな主張がエスニシティ、宗教、社会、文化、そして言語をめぐる紛争を巻き起こしている、という認識に立つ。平和のために国連がとるべき行動は、予防外交・平和創造・平和維持・平和構築である。分かりやすく言い直すと、紛争のまえにとられるものが予防外交、紛争を止めるために行われるのが平和創造、紛争を止めたままにするのが平和維持、そして、紛争後に再発しないようにするのが平和構築である。

論争を呼んだのは、停戦の回復・維持のため、憲章第7章第43条が定める国連軍による武力行使を提案したことである。これは平和強制部隊と呼ばれたが、PKOの非強制原則とたもとを分かつものであった。

ほかでは、PKOを紛争のまだ起きていない土地に送り込む予防展開が提案された。この新しい手法は1995年に北マケドニアで実現した(UNPREDEP)。あとで述べるように、平和構築は広く長く続く国連の活動分野となった。

平和強制のテストケースとして注目されたのはソマリア紛争である。ソマリアはクラン、すなわち氏族、が社会の基本単位であるとされ、国家は脆弱であった。冷戦崩壊に伴う社会主義の権威失墜とともにムハンマド・シアド・バレ大統領の政権は倒れ、内戦になった。国際社会は当初、慎重に対処した。1992年に派遣されたPKOのUNOSOM(国連ソマリア活動)は、それほど難しくない停戦監視と人道援助物資輸送を任務とした。ならんで結成された多国籍軍のUNITAF(統一任務部隊)に加わった米軍も慎重であった。

ソマリアに平和が訪れる可能性が万にひとつでもあるとすれば、そのためには族長に武装を解除するよう呼びかける必要がある、国連はそう考えていた(ブトラス・ガリ[ママ―引用者]はそう表明していた)が、アメリカはこの要請をそっけなく拒絶した。―中略―アメリカ軍がソマリアに入った一週間後、部下がソマリア人から機関銃を没収しているのをみた将校は、即座にそれを返すように命じたくらいだ[9]

人道援助だけでは暴力そのものを止めることはできない。1993年、安保理決議S/RES/814が派遣を決めたUNOSOM II(第2次国連ソマリア活動)はアジェンダ・フォー・ピースの平和強制を実現したものであった。前文で憲章第7章を根拠に挙げ、本文で、武器禁輸ならびに難民および避難民の帰還・再定住のためには兵力を利用できる、と明記した。武器が手に入らなくなれば、暴力は収まるはずであった。

国際社会はソマリア人の抵抗を見くびっていた。1993年6月、パキスタン兵25人が殺害された。その後、米軍艦がソマリアに向かう映像が報じられた。10月になって、事件の犯人を捕らえるために米軍の特殊部隊であるレンジャー部隊およびデルタフォースが出動した。そのヘリコプター2機が墜落したショッキングな様子は映画『ブラックホーク・ダウン』で再現された[10]。兵士を救出するために起きた市街戦で米兵18人が死亡した。死体はさらしものにされ、侮辱を受けた。

ソマリアでは、大多数の人々はソマリ語を話し、イスラム・スンナ派を信じる。なぜエスニック紛争が起きるのか? 国家への帰属意識よりも、共通の祖先を持つとされる氏族への帰属意識のほうが強いからである。氏族といっても、実際には、日本の源氏や平家のように血脈のつながりはフィクションであろう。しかし、人々が国連決議や米軍の目的よりも氏族の立場から物事を考え、行動したことは本当である。高野秀行によれば、パキスタン兵殺害犯と同じ氏族の人間が米軍のスタッフに紛れ込んでいた。そうしたスタッフは情報を漏らして米軍の作戦を失敗に導いたであろう。米軍は肝心な犯人を取り逃がしたばかりでなく、氏族の長老を多数、殺してしまい、怒りに油を注いだとされる[11]。ソマリア人は自分たちの社会の規範に従って生きる。国連の権威と軍事力で人々を屈服できると発想したことがまちがいであった。

アメリカ合衆国の市民たちは、国連の平和強制はもうたくさん、と感じた。ブラックホークの墜落は国連への期待を失わせた。PKOの発展形として平和強制部隊がある、という道筋は閉ざされた。ブトロスガリ事務総長は続投できずに、1期だけで退任した。

国連の平和活動は別の道に活路を開いた。日本研究者のラインハルト・ドリフテは次のように分析する。

『平和への課題』はPKOの境界線を拡張し、一九九〇年代前半には各地に頻繁に展開されたが、ソマリア、アンゴラ、旧ユーゴスラビアにおける挫折によって加盟国は目を覚まし、また国連の財政難と政治的対立によってその後の任務は減少した。代りに平和構築(peace-building)、経済援助、停戦監視任務などに重点が移った。

この新しいアプローチは人道援助や紛争後の経済復興のような巨額の資金を要する事業活動が含まれるため、日本の経済力が役立ち、その意味で歓迎された。日本は一九九二年一二月の総会決議を経て「平和維持活動準備基金」を創設した[12]

コフィ・アナン事務総長に提出された2000年のブラヒミ報告は、もはや平和強制を唱えなかった(A/55/305-S/2000/809)。重点は平和構築に置かれ、なかでもDDR、すなわち武装解除・動員解除・社会復帰プログラム、に注目した。また、PKOをはじめとするミッションの早期展開が必要であると強調され、要員の提供をあらかじめ加盟国と取り決めておく国連待機制度(UNSAS)が提言された。日本政府もアフガニスタンの復興支援に際して「平和の定着」という言葉を使ってDDRほか平和構築への貢献を表明した[13]

平和構築というものは際限がない。なぜならば、平和に寄与するとされるものは何でも含まれるからである。例を挙げると、文化交流、開発援助、経済改革、共同プロジェクト、保健支援、農業プログラム、人道支援、難民および国内避難民の帰還・再定住、政治改革、選挙監視、市民社会支援、公務員訓練、人権擁護、憲法制定、戦争犯罪裁判、司法・法制改革、警察改革、先住民支援、メディア支援、教育支援、そして平和教育がある[14]

単なるビジネスであっても、異なるエスニシティに属する二人の人間が同じ職場で働けば平和構築になる。緒方貞子はボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRの事業を紹介する。

こうした状況下で、UNHCRは民族間の壁を克服するために、新たな措置を講じなければならなかった。組織体間を行き来するバスの運行、少数派を受け入れる自治体に優先的に追加援助を与える「開放宣言都市」プロジェクト、女性の職業訓練の促進をめざした「女性イニシアティヴ」、民族の和解をはかる「共生の想像」などを、次々と立ち上げた。とくに重要なことは、おびただしい残虐行為を体験した地域社会を再建するために、救済的なモデルを模索することであった。これは「復讐と赦し」、すなわち過度の追憶と過度の忘却の中間点を探ることであった。雇用の分かち合いからレクリエーションの共同参加まで、試験プロジェクト「共生の想像」は、和解に向けた最も独創的で建設的な準備段階を示すものであった[15]

平和強制への道は閉ざされたものの、PKOが衰退したわけでない。21世紀の初めには要員の数は増加した[16]。経費も膨らんだ。むしろ、平和活動の顕著な変化は、派遣する主体の間で役割分担が進んだことにあった。NATOやアフリカ連合(AU)のような地域的な国際機構や随時の連合の役割が増した。派遣されたミッションの数が増えたことから、そういえる[17]

平和活動における地域的枠組みの活用を旧ユーゴスラビア地域を例に見る。旧ユーゴスラビア全域を対象としたUNPROFORは1995年に再編され、クロアチアを対象とするUNCRO、ボスニアヘルツェゴビナを対象とするUNPROFOR II、そして北マケドニアを対象とするUNPREDEPに三分された。このうち、UNPROFOR IIは国連からNATOに翌年、移管され、IFOR(平和履行部隊)という名称になった。さらにそれは同年中にSFOR(平和安定化部隊)と改称され、2004年にEufor AlteaとしてEUに引き継がれた[18]。国連からNATOそしてEUへの移管はヨーロッパ諸国からの関心を反映した結果である。ロシアや中国との勢力争いもなかったので平穏に行われた。

対テロ戦争以後のアフガニスタンにおける役割分担は異なる形であった。2002年に送られたUNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)は軍隊を伴わない政治ミッションであったが、国連は大規模な平和構築事業を遂行した。緒方貞子は回想する。

安保理はISAFの配置を承認はしたが、国連自体は、カンボジア、コソヴォ、東ティモールの場合と違い、移行期間の行政責任を負わなかったことは重要である。アフガニスタン暫定行政機構は唯一の責任機関であり、ブラヒミが率いる国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が補佐にあたった。いくつかの国は特定の分野に関する主導的役割をすすんで引き受けた。アメリカとフランスはアフガン国軍を訓練し、立て直すことになった。ドイツは国家警察を訓練し、英国は麻薬産業の取り締まりを担当することになった。また、イタリアは司法改革の責任を負うことになり、日本は元兵士の動員解隊と社会復帰事業の支援を行うことになった[19]

そのかたわらで、米軍はテロとの戦い、すなわち「不朽の自由」作戦を続けた。ウサマ・ビンラディンは捕まっていなかったからである。カブール周辺の治安はNATOが指揮するISAF(国際治安支援部隊)に委ねられた[20]。それはアジェンダ・フォー・ピースが提案した平和強制の一種と呼べるかもしれない。YouTubeに上げられた動画を観ると、激しい銃撃戦によって反乱勢力を制圧したことが分かる。そうした戦闘はPKOの原則とは明らかに相いれない。国連は本当に強制措置がとれるのか? 兵士が国際法に違反したら、誰が裁判をするのか? 現在の国連と国家との一般的な関係を踏まえると、そうした仕事は国家に委ねてしまうのが短期的には無難である。

イラクでは、アメリカ合衆国が安全保障理事会の承認なく戦争を始めたことにより、国連に目立った役割は与えられなかった。多国籍軍とその暫定統治機構(CPA)がイラクを全般的に支配したからである。日本は2003年にイラク支援法(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)を定め、自衛隊を派遣した。占領行政は安保理に認知されたものの、国連自体の活動ではなかった。

ソマリア沖・アデン湾での海賊退治にも自衛隊が派遣されている。日本の海賊対処法(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律)は2009年に成立した。そこで定義された海賊行為とは、船舶強取・運航支配、船舶内の財物強取、船舶内にある者の略取、人質強要、そしてこれらのための準備行動である。ここにも国連の役割はない。

安倍晋三政権のもと、平和安全法制として2015年に国際平和協力法が改正された。もはやPKOばかりが自衛隊が参加する平和活動ではなくなった。国際連携平和安全活動への協力が新たに定められた。「国際連携」とは米軍や地域的国際機構と連携することである。治安や平和強制を主に実行するのはこれらの主体である。平和安全法制によって、自衛隊の武器使用が緩和された。それまでは自衛のためだけであったのが、現地の住民、活動関係者、そして同じ宿営地の外国軍隊を守るためにも認められることになった。 以上、見たように、冷戦後に期待された国連中心の「新国際秩序」は実現しなかった。代わりに、米軍や地域的国際機構による武力行使の後始末として、国連は治安や平和構築を引き受けることが多かった。大国はグローバルガバナンスの責任を負うつもりはなく、国益を追求するなかで応分の責任を果すにすぎない。それでも、平和は公共の利益であり、誰かが平和に関する説明責任を果たさなければならない。これこそ、他の主体にはできない国連の唯一無二の役割である。


[1] 香西茂、『国連の平和維持活動』、有斐閣、1991年。

[2] 明石康、『国際連合』、岩波書店、1985年、85ページ。

[3] 神余隆博、「国際平和協力とは何か」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年。

[4] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、 54ページ。

[5] “カンボジア和平及び復興への日本の協力,” 外務省, January 2007, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/kyoryoku.html, accessed on February 21, 2026.

[6] 神余、「国際平和協力とは何か」、193ページ。

[7] 中島久宜、「日本の参加実績」、神余隆博編、『国際平和協力入門』、有斐閣、1995年、223、225、229、232ページ。

[8] DPI/1247.

[9] リンダ・ポルマン、『だから、国連はなにもできない』、富永和子訳、アーティストハウス、2003年、 54ページ。

[10] Ridley Scott, Black Hawk down, 2001.

[11] 高野秀行、『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』、本の雑誌社、2013年、310-311ページ。

[12] ドリフテ、『国連安保理と日本』、111ページ。

[13] “Statement by H.E. Ms. Yoriko Kawaguchi, Minister for Foreign Affairs of Japan at the Tokyo Conference on Consolidation of Peace (DDR) in Afghanistan,” Ministry of Foreign Affairs, February 22, 2003, https://www.mofa.go.jp/region/middle_e/afghanistan/pv0302/ddr_state1.html, accessed on February 21, 2026.

[14] Michael Lund, “A Toolbox for Responding to Conflicts and Building Peace,” in Luc Reychler and Thania Paffenholz, eds., Peacebuilding: A Field Guide (Boulder: Lynne Reinner, 2001), pp. 17-18.

[15] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、394ページ。

[16] 東大作、『平和構築アフガン東ティモールの現場から』、岩波書店、2009年、35ページ。

[17] Sharon Wiharta and Kirsten Soder, “Appendix 3A. Multilateral Peace Missions in 2006,” in Stockholm International Peace Research Institute, SIPRI Yearbook 2007: Armaments, Disarmament and International Security (Oxford: Oxford University Press, 2007), p.130.

[18] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年、136ページ。緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、129ページ。

[19] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、352ページ。

[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、353ページ。

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