人類の歴史では、ある集団が別の集団を支配したり、支配されたりする。帝国の興亡はローマやモンゴルが登場した古代や中世に限ったことでない。近代のヨーロッパにおいても、ナポレオンはイタリアの村を支配するために1806年、次のように命令した。

イタリアで治安を維持するには、お触れを出すだけではだめだ。私がビナスコでやったようにやるがよい。つまり大きな村を焼くのだ。反徒たちを一ダースほど銃殺させよ。そして遊撃隊を編成しところかまわずならず者をひっとらえ、この国の民衆に実例を示すのだ[1]

今回のテーマは、世界各地のエスニック紛争を3件挙げ、言語・宗教・人種など集団間における対立の概要を説明しなさい、である。ただし、それらの事例は本文で取り上げられるものに限定しない。さまざまな事例を検討し、新しい論点がないかを調べることが大事である。

政治にとどまらず、経済でも、文化でも、おそらく何でも、現代世界の基本単位はネイション・ステイト、つまり国民国家、である。国民とは何であるのか? どのように作られるのか?

国際政治学の古典的な学説にカール・W・ドイチュの国民統合論がある。彼は民族(a people)の本質はコミュニケーションであると見抜いた。民族、または国民、であるということは言語や文化への服従を迫られることである。国民国家の形成によって、支配民族とその他の民族が生まれる。政府・教育・経済制度など公式的組織でも、世論・威信・シンボルなど非公式的組織でも、使われる言語は支配民族の言語である。被支配民族は、それらの組織で使われる言語または文化におけるコミュニケーションの能力を獲得すること、すなわち同化、を強いられる。コミュニケーションに参加する機会はすべての住民が同じでなく、都市のほうが農村より高い。第一次産業より第二次産業が高く、第二次産業より第三次産業が高い。経済成長や技術革新によっても増加する。以上のコミュニケーションに参加する全体量のことをコミュニケーション動員とドイチュは呼ぶ[2]

ドイチュはオーストリアハンガリー帝国のもとにあったプラハに生まれ、アメリカ合衆国に移民した。生まれた時のチェコにおける支配民族はドイツ系であり、役所と新聞の言語はドイツ語であった。しかし、すでに非農業人口ではチェコ系がドイツ系を上回っていた。第一次世界大戦の結果、チェコスロバキアが独立すると、チェコ語が支配的な言語となった。劣勢となったドイツ系はドイツ語人口比率が高いズデーテン地方(チェコ語ではズデティ)において分離運動を始め、ナチスに期待した。1938年のミュンヘン会談でズデティはドイツに割譲された。ドイチュがアメリカ合衆国に移民したのはこの時である。ナチスが第二次世界大戦で敗れると、チェコのドイツ系はもはやそこに住み続けることはできなくなり、ドイツ語人口は全滅した[3]

ドイチュが挙げるフィンランドの例はこれほど劇的でない。もともとフィンランドを支配していたのはスウェーデンであり、1811年にロシア領になっても、支配的な言語はスウェーデン語であった。フィンランドの独自言語であるフィン語がそれと並んで公用語になったのは1863年であった。ゆっくりとした変化はありながらも、スウェーデン語は依然として支配的であった。

ドイチュは人口統計で説明する。1880年におけるフィンランドのスウェーデン語人口は29万5千人、フィン語人口は175万6千人であった。すでにフィン語が圧倒的に強いという印象を受けるが、都市人口だけを比較すると、スウェーデン語人口は6万6千人、フィン語人口は10万人であった。それまでの特権的な地位を考慮すると、スウェーデン語は劣勢といえない。これが60年後の1940年になると、総人口ではスウェーデン語が35万4千人、フィン語が332万7千人、都市人口では、スウェーデン語が13万9千人、フィン語が71万5千人であった[4]。フィンランドは1918年にロシアから独立し、第二次世界大戦ではソ連と戦うほど強烈なナショナリズムを育てた。

そのころには、フィン語はスウェーデン語を圧倒していたのでないか? 反証がある。ムーミンという架空の生き物が出てくる童話は1940年代に世に出た。それはスウェーデン語で書かれた。フィンランドのスウェーデン語は世界中の人々に長く親しまれる文芸作品を生み出す力を残していた。そのコミュニケーション動員は使用人口の多少にかかわらず、非常に高かったといえる。

ドイチュの次の世代の国民国家論といえば、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」である。彼はコミュニケーションというよりメディアの重要性に目を付け、グーテンベルクの活版印刷に象徴される出版資本主義を国民国家の起源とする。エリート向けのラテン語書籍だけでなく大衆向けの俗語書籍が流通し始めた。

―前略―この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし爆発的な相互作用であった[5]

書籍の流通は無限に広がるわけでなく、書かれた言語が使われる地理的な範囲のなかでしか広がらない。その範囲が国民国家の領土となる。ただし、『想像の共同体』という書名のとおり、共同体は想像されたものにすぎない。この留保がアンダーソンの特徴である。我々がナショナリズムとして思い浮かべる好戦的で排外的なものは公定ナショナリズムとアンダーソンは呼び、19世紀後半、民衆的国民運動への応戦として、「国民と王朝帝国の意図的合同」により作られたものとする[6]

ドイチュとアンダーソンを比較すると、前者は静的で理論としてはストイックであり、後者は動的で野心的に何でも説明しようとする。しかし、ここで指摘したいのは両者の共通点である。コミュニケーションにせよ、メディアにせよ、共通の言語が国民国家の基礎であるという点である。

確かに、ドイツとオーストリア、中華人民共和国と中華民国、アメリカ合衆国とイギリス、といった具合に、同一言語でありながら政治問題が原因で別個の2国民になったものがある。現在、政治的な理由がなくなればそれらは一つの国家に戻るかといえば、言語以外の文化やイデオロギーの違いが生まれていてそうとは言い切れない。国民の境界を規定する絶対的な差違はない一方で、別個の国家でありながら同じ言語であることが、双方の関係を特別にしている。

今回は、サブナショナルな、すなわち国民よりも小さい集団に注目する。サブナショナルな集団には、企業のように金銭的利益を争うもの、政党やNGOのように主義主張を争うもの、スポーツのチームのように勝敗を争うものなどがある。ここで扱われるのは、より基本的なアイデンティティの差異に基づくエスニック集団であるが、言語は差異の一つでありうるが、エスニシティを分ける唯一絶対の差異ではない。

エスニシティとは何か? 定義には客観的アプローチと主観的アプローチがある。客観的アプローチでは、祖先・文化・宗教・人種・言語の観点における差異がエスニシティの境界である[7]。主観的アプローチはフレドリック・バルトのものが知られるが、その焦点は「集団が囲い込む文化の中身ではなくて、集団を規定するエスニックの境界」である[8]

エスニック境界の維持に付随するものは、異なる文化を持つ人々が社会的に接触するという状況でもある。エスニック集団は、行動において顕著な差異を示す場合にのみ、すなわち文化的差異が継続している場合にのみ、有意な単位として存続するのである[9]

つまり差異を意識するようになればそれがエスニック集団の境界になるし、意識しなければ同じ集団のメンバーのままでいることになる。メンバー間に何らかの共通点があり、他者との間には境界が存在すると意識する集団がエスニック集団であり、そうした集団と他者との間で起こる紛争がエスニック紛争である。

エスニシティの差異そのものはなくならないので、紛争は多くの犠牲者を生み、当事者間で解決することが難しい。国際社会には、何ができるのか? 以下では強制措置、自決、自治、独立、選挙、普遍的人権、そして憲法を検討していく。

地球上のほとんどの陸地は主権国家に分けられている。国際社会がいかにエスニック紛争に介入するかという問題は、それらの主権といかに折り合いをつけるかという問題である。国際連合憲章第2条4が武力の行使を慎むことを義務づけることにも注意が必要である。

強制措置には経済制裁のような非軍事措置と武力行使を意味する軍事的措置があり、国連憲章第7章に基づき、安全保障理事会の決定として行われる。しかし、いくつか問題がある。まず、国際の平和および安全の維持・回復のためでなければならないので、大規模な暴力が発生していない段階でエスニック紛争に適用することは難しい。つぎに、国連憲章第2条7は国内管轄事項に国連は介入できないと定めるので、深刻な段階に至っていない政治論争などには使えない。もちろん、安保理の決定に拒否権を持つ常任理事国が反対したらおしまいである。

強制措置には実績がある。1962年以降、国連総会はアパルトヘイト非難決議を繰り返した。総会決議はアパルトヘイトが国際的関心事項であることを確認する意味はあったものの、解決に向けた即効性はなかった。1976年、学校でのアフリカーンス語の強制に反対するデモに参加した子供を射ち殺したことが発端で、ソウェト蜂起という暴動が起きた。翌年、安保理は南アフリカへの武器禁輸決議S/RES/418を行った。南アフリカをかばってきた常任理事国のアメリカ合衆国が同国を非難する側に回り、白人体制を揺さぶった。

自決・自治・独立でエスニック集団を守ることも国連憲章は予定していた。自決は第1条2に国際連合の目的の一つとして挙げられ、エスニック集団が国民国家として独立するか、国家内で自治を得るかの基礎であると考えられる。主権国家の地位は得られなくても、自治は国連も応援する義務であることを憲章第73条bは明らかにする。国際人権規約のA規約・B規約は、ともに第1条で人民の自決権を定め、それを促進し、尊重することを締約国の義務とする。

とはいえ、自治でさえ、すんなりと認められるわけでない。自治とは何かについて国連憲章が詳しく定義しているわけでないからである。例えば、中華人民共和国には自治区というものがある。その憲法第4条は少数民族が集まって住んでいる地方に区域自治を行うと定める。ところが、自治機関について具体的に定める憲法第6節には、自治区・自治州・自治県の住民がその意思を集約する方法、例えば選挙や住民投票といった手続き、の規定を見つけることができない[10]

もっとも、中国における自治の問題は「少数民族」にとどまらない。人口の大半が漢民族とされるものの、方言の間での会話が困難であるくらい、漢民族自体が多様性に富むからである。

こうした議論から、選挙が重要であることは明らかである。世界人権宣言第21条3は、定期的な普通選挙での秘密投票によって人民の意思は表明される、とする。同様の投票方法は国際人権規約B規約第25条でも定められている。自由主義と社会主義とが対立してきた国際連合は、冷戦が終わった1990年代に選挙や民主化を推進した[11]。協調的な時代が終わった今日では、グローバルな機関が民主化の推進で一致結束できる情勢にない。仮にできたとしても、多数決の手段である選挙は必ずしも少数派を守らないので、別の方法によりエスニック集団を保護することが必要である。

少数派の人権を守るよう、その国の政府に国際連合が要求しても、内政不干渉を理由に拒まれるかもしれない。しかし、国連憲章第1条3は人権の尊重を国連の目的の一つに挙げる。普遍的人権の擁護は「内政」ではないので、本来、加盟国は内政不干渉を口実に要求を拒むことはできない。ほかにも、世界人権宣言、ジェノサイド条約、人種差別撤廃条約、国際人権規約A規約・B規約をはじめ、枚挙にいとまがないほどの国際人権文書が引用できる。

自治・選挙・人権は、それらを盛り込んだ憲法を制定して守るのがベストである。自治・選挙・人権は補い合う関係にあり、セットで保障されるべきであるからである。もちろん、主権国家にたいし、理想的な憲法を押し付けることは容易でない。絶対君主制やイスラム国家は立憲主義そのものを否定する。一度はそうした憲法が制定されても、タリバンがふたたび政権を奪ったアフガニスタンのように、憲法は停止されるかもしれない。

これまで議論してきたもの以外にも、PKO(平和維持活動)、保護する責任、あるいは人道援助といった方法によって、人々を守ることができる。これらについては別の回に論じる。

以下ではエスニック紛争の実例をいくつか検討し、エスニシティの境界線がどこにあったかを確認する。

ナイジェリアは人口2億人を超える地域大国であり、多くのエスニック集団がある。宗教によって北部のムスリムと南部のキリスト教徒に大きく分けられるが、それらのなかで言語や文化により細分化される。最大の紛争は、1967年に南部のイボ族などがビアフラ共和国を建てて独立しようとしたビアフラ戦争である[12]。この戦争は鎮圧されたものの、南部には、石油産業の巨額な収益が地元に還元されていない、と不満が根強く、2000年ごろは、ニジェール川デルタ解放運動(MEND)をはじめとする抵抗団体がテロリズムを繰り返した。北部でも過激なイスラム・ゲリラであるボコハラムなどが非人道的な行為を続ける。

以前、ナイジェリアの首都はアフリカ大陸最大の都市と目される港町のラゴスに置かれた。あまりに南に偏っていたため、中央部のアブジャに1991年、首都移転が行われた。それにもかかわらず、エスニック集団間の距離は縮まっていない。

スリランカはシンハラ人の多くが仏教徒、タミル人の多くがヒンドゥー教徒である。ムスリムとキリスト教徒も、それぞれ全人口の一割弱を占める。シンハラ人とタミル人は言語も違うし、文化も違う。独立してしばらくたち、シンハラ側でも、タミル側でもナショナリズムが高まった。タミルイーラム解放の虎(LTTE)は自爆テロという激しい手段に訴えて独立を求めた。このグループは島の北部を実効支配していたが、2009年に政府軍が拠点を制圧し、内戦の終結を宣言した。

北アイルランドの紛争をめぐる境界線は、カトリックとプロテスタントの宗派の線に沿う。以前、カトリック側は王制のイギリスから分離し、共和制のアイルランドに帰属することを望んだことから、リパブリカンと呼ばれていた。その組織の軍事部門はアイルランド共和国軍(IRA)であり、政治部門はシンフェイン党である。他方のプロテスタントは、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国を支持することにちなんでユニオニストと呼ばれ、なかでも強硬派はロイヤリスト(Loyalist)と呼ばれた。王党派の意味のロイヤリストとはスペリングが違う。

リパブリカンは1922年のアイルランド自由国、すなわちのちのアイルランド共和国、の独立に取り残されたという感覚であった。人口の観点では少数派のカトリック側がアイルランドとの統合が幻想である現実を受け入れた結果、1998年に北アイルランド和平合意が成立した。アイルランド共和国軍は武装解除に応じ、流血は抑えられている。

クルド人の総数は正確には分からないが、トルコ、イラク、イラン、シリアなどに分布し、大多数はムスリムである。クルド語はイラン系の言語であるので、トルコ語またはアラビア語が支配的なトルコ・イラク・シリアでは少数派として認識され、過去には弾圧された。シーア派が多数であるイランでも、クルド人はスンナ派が多いことや、山岳民族であることから、独自のエスニシティであると認識されるのであろう。イラクにはクルド自治区があり、一大勢力を成す。2017年の住民投票では独立への賛成が多数を占めたものの、独立は達成されなかった。シリアでも、クルド人勢力は中央政府から自立して活動している。

多島海であるインドネシアには「想像の共同体」の言葉がよく当てはまる。島々の文化はそれぞれであり、首都ジャカルタがあるジャワ島の文化と異なっている。

1963年、インドネシアは、オランダの植民地であったイリアンジャヤの統治を始めた。ここには現在も独立運動がある。

1975年、ポルトガルの植民地であったティモールレステをインドネシアは侵略した。これをヨーロッパ諸国は強く非難し、アジア通貨危機後の2002年、ティモールレステは独立した。

アチェは20世紀初めまでスルタンが支配したムスリム国家であった。1970年代に独立闘争が激化した。2004年のスマトラ沖地震による大津波の影響で翌年、自由アチェ運動(GAM)は自治を定める和平協定を政府と結んだ。仲介したフィンランドの元大統領マルッティ・アハティサーリに2008年のノーベル平和賞が授与された。

モロとは、フィリピンのパラワン島やミンダナオ島に住むムスリムであり、キリスト教が主流のフィリピン政府に対する抵抗運動を行った。9・11事件後、アルカイダの一味として米軍に掃討されたアブサヤフのようなテロ組織もある。その一方で、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はフィリピン政府と和平交渉を行い、2012年、バンサモロ自治政府を樹立することに合意した。

コーカサスにはさまざまな紛争がある。ナゴルノカラバフ紛争は、ソ連解体後にアゼルバイジャン領であるナゴルノカラバフ自治州とその周囲の土地をアルメニアが奪取して占領した問題である。同州にはギリシャ語に近い言語を話す古い正教徒のアルメニア系住民が多いが、占領された周囲の土地には、トルコ語に近い言語を話すムスリムのアゼルバイジャン人も多く住む。アルメニアはロシアと親しく、アゼルバイジャンは手を出せなかったが、2020年と2023年に、アゼルバイジャンは武力によって土地を奪い取り。多くの住民が故郷を去ってアルメニアに向かった。2024年、アゼルバイジャンは実効支配を再開した。

ジョージアの主要な言語はコーカサス諸語の一つであるジョージア語で、宗教は正教である。その国境のなかに、南オセチアとアブハジアでの二つのエスニック紛争を抱える。南オセチアのオセット人は、多くはイラン語系の言語を話す正教徒である。アブハジアのアブハズ人はコーカサス語系のアブハズ語を話すスンナ派ムスリムまたは正教徒である。

ロシアは2008年に南オセチアに武力行使したジョージアを排除するため出兵し、逆に南オセチアとアブハジアを占領してしまった。さらに、両地域を国家として承認し、大使館さえ置く。日本ではかつてロシア語の「グルジア」という国名が使われたが、今は英語のジョージアが使われている。 世界にはきりがないほどエスニック紛争がある。近年、スコットランド、クルド、カタルーニャ、そしてニューカレドニアで、独立を問う住民投票が行われた。2014年にクリミアで行われた住民投票は、ロシア軍の介入によるものであったため、効果を認めない意見が強い。万が一、武力闘争になってしまっても、考え直して双方が相手の言うことに耳を傾けるべきである。


[1] アンドレ・マルロー、『ナポレオン自伝』、小宮正弘訳、朝日新聞社、2004年、202ページ。

[2] Karl W. Deutsch, Nationalism and Social Communication (Cambridge: The MIT Press, 1953, 1966).

[3] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 145.

[4] Deutsch, Nationalism and Social Communication, p. 129.

[5] ベネディクト・アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、白石さや、白石隆訳、NTT出版、1997年、82ページ。

[6] アンダーソン、『増補 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、148ページ。

[7] ゼボルド・W・イサジフ、「さまざまなエスニシティ定義」、青柳まちこ編、『「エスニック」とは何か』、新泉社、1996年、86ページ。

[8] フレドリック・バルト、「エスニック集団の境界」、青柳編、『「エスニック」とは何か』、34ページ。

[9] バルト、「エスニック集団の境界」、35ページ。

[10] 「中華人民共和国憲法」、2018年3月11日修正。

[11] 杉浦功一、『国際連合と民主化』、法律文化社、2004年。

[12] 室井義雄、『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』、山川出版社、2004年。

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