中東戦争は第一次から第四次まで数えられるが、そうした呼び方は日本独特のものである。欧米とイスラエルは、順に独立戦争、スエズ戦争、六日戦争、そしてヨムキプール戦争と呼ぶ。アラブ人は第一次をナクバ、第四次をラマダン戦争と呼ぶ。四つの戦争がひとからげにされるのは理由のないことでない。いずれもイスラエルとエジプトが交戦国に入っていた。今回のテーマは、シオニズムおよびアラブ・ナショナリズムと中東戦争との関係を論じなさい、である。
前近代の中東は多文化社会であった。聖典クルアーンに記された中世の言語であるアラビア語がリングアフランカ(共通語)であった。その一方、地域と時代によっては、トルコ語やペルシャ語が公用語であったり、アラビア語のなかでも文語のフスハーでなく方言が使われたりした。宗教も多様で、イスラムだけでも、スンナ派とシーア派をはじめ多くの宗派がある。キリスト教とユダヤ教への信仰は途絶えたことがない。多様性を平和裏に包容していたのが近世ではオスマン帝国であった。このイスラムの家はオスマン帝国の滅亡とともに10を超える国民国家へと分裂した。
ユダヤ人のナショナリズムはシオニズムの形をとった。シオニズムとは、民族の故郷エルサレムにあるシオンの山に帰って自らの国を作ろうという運動である。入植したヨーロッパのユダヤ人たちはアラビア語を理解しなかったので、よそ者たちは現地社会と摩擦を起こした。ユダヤ人は日常語として死語になっていたヘブライ語を生き返らせ、イスラエルの公用語とした。
オスマン帝国の崩壊は、アラブの反乱から始まった。1915年のマクマホン・フセイン書簡は、イギリスの駐エジプト高等弁務官が聖地メッカ(マッカ)の太守に反乱を要請し、アラブの独立を約束したものであった。それは第一次世界大戦の敵国であるトルコを撹乱する工作の一環であり、反乱軍を支援した情報将校は「アラビアのロレンス」ことトマス・E・ロレンスであった[1]。
ユダヤ人にたいして、パレスチナに「民族の本拠(ナショナルホーム)」を設けることをイギリスは約束した。これが1917年のバルフォア宣言である。上のマクマホン・フセイン書簡と並べて、イギリスの二枚舌外交として悪名高い。民族の本拠は曖昧な表現であり、ユダヤ人に主権国家を与える、とはっきり言ったわけでない。ユダヤ人のパレスチナ植民(アリヤー)は勢いを増した。ナチスによるホロコーストから逃避した避難民が加わり、建国の機は第二次世界大戦後に熟した。
アラブの側はというと、オスマン帝国が滅亡してただちに独立したのは、トルコ、サウジアラビア、そしてイエメンくらいであった。残りは、1919年の国際連盟規約第22条に基づき、英仏の委任統治のもとに置かれた。1916年に英仏のトルコ分割計画であるサイクス・ピコ協定が合意されていた。イギリスはイラク、パレスチナ、そしてトランスヨルダンを治め、フランスはシリアとレバノンを支配することになった。サイクス・ピコ協定をマクマホン・フセイン書簡およびバルフォア宣言に加えて、イギリスの三枚舌外交と呼ぶ人がいる。
第二次世界大戦が終わり、アラブの諸国民は名目的には独立したものの、真の独立はまだであった。皮肉なことに、アラブの目覚めを促したのはイスラエルの独立であった。
ユダヤ人は国際世論を味方につけ、1947年に国連総会のパレスチナ分割決議A/RES/181を勝ちとった。それはパレスチナ委任統治領をユダヤ人国家、アラブ人国家、そして国際管理地区の三つに分ける案であり、ユダヤ人国家は今日のイスラエルよりも狭く、アラブ人国家はヨルダン川西岸とガザ地区を合わせたより広く、エルサレムは国際管理下に置かれるというものであった[2]。
アラブ諸国はよそ者のユダヤ人に領土を与える理由が分からなかった。パレスチナ分割決議案の投票結果は賛成33、反対13、棄権10であり、アラブ諸国は当然のごとく反対票を入れた。
話し合いでの解決が絶望的であったがゆえに、翌年、イスラエルは一方的に独立を宣言した。アラブ世界はこれを認めず、全面戦争になった。軍事的に優勢であったイスラエルは国連総会の分割案よりも多くの支配地を確保し、休戦に持ち込んだ。旧市街の城壁の外側にある西エルサレムもそこに含まれた。1950年、イスラエルはエルサレムを首都と宣言した。
難民問題が始まったのはこの時からである。大量のアラブ人がイスラエルの支配地から追われた。UNRWA(国連パレスチナ救済事業機関)は1950年に75万人の難民のために活動を開始した。2026年現在、この機関の救済対象である実際に移住した人の子孫を含むパレスチナ難民は590万人とされる[3]。一つの中規模国家がまるごと難民の地位にあるようなものである。グローバルガバナンスの観点からは、政治的権利をはじめ、さまざまな自由を奪われている人々がこれだけいることは見過ごしてよいはずがない。
アラブ人にとって、はるかに少ない人口のユダヤ人に負けたことは悪夢であった。王制下で1951年に独立したリビアのような、形ばかりの独立を遂げた国は増えていた。真の独立とアラブの人々に受け止められたのは1952年のエジプト革命であった。軍人のガマル・アブドゥル・ナセルは自由将校団の一員として、イギリスの操り人形と目された国王を追放した。彼はイギリス中心の同盟であるバグダード条約機構に反対し、「日の沈まない」イギリスの帝国を維持するのに不可欠であったスエズ運河を国有化した。
スエズ運河の最大株主であるイギリス、小口ではあるがまとまれば株主総会で多くの票を動かすフランス、そして、アラブと休戦しただけのイスラエルはエジプトを共通の敵とした。三国は示し合わせ、まず、イスラエルがエジプトを先制攻撃し、英仏がそれに加わる形で第二次中東戦争の火ぶたを切った。この戦争は帝国主義を終わらせた。国際世論からの非難に耐えられない英仏は撤退を迫られた。
第二次中東戦争は冷戦の始まりでもあった。エジプトはソ連の力を頼らなければ軍事も、経済も立ち行かなかったからである。スエズ戦争でソ連がエジプトに肩入れしたのは、東西間のパワーゲームでうまく立ち回っただけかもしれないが、ナイル川のダム建設ではソ連の資金と技術は不可欠であった。社会主義の評判が高まり、イラクとシリアも、ソ連陣営に加わった。
カリスマを得たナセルはアラブ・ナショナリズムの盟主になった。その目標はアラブ人が一つの民族として一つの国家を作ることであった。手始めに、エジプトはシリアと1958年にアラブ連合共和国を結成した。すぐにシリアが脱落して、実体は失われたものの、エジプトはナセルの時代、この国名で通すことになる。
高い目標は、ナセル自身のみならず、アラブ世界にも重荷になった。イスラエル国家の承認を拒否するがゆえに、無謀な戦争が繰り返された。次善の策として、アラブ・ボイコットと称される経済戦争が実行された。それは第三国とイスラエルとの取引を監視し、前者に圧力をかけ、やめさせようとするものである。これも目的を達成するにはほど遠かったが、アラブ連盟の結束の証にはなった。アラビア語の共通性は疑いようのないきずなであった。
ナセルの行き過ぎた攻勢が高転びを招いたのは、1967年6月の第三次中東戦争である。イスラエルへの包囲を厳しくしたことが、逆にその奇襲攻撃を呼び、取り返しのつかないダメージを被った。国連緊急軍(UNEF)を撤退させ、エジプト軍をイスラエル軍の矢面に立たせた。アカバ湾の入り口にあるティラン海峡を封鎖し、イスラエル唯一の紅海への出口であるエイラート港を使えなくした。ヨルダンおよびイラクとともに防衛協定を結んだ。すべて裏目に出て、イスラエルからの奇襲を許すことになった。
モシェ・ダヤン国防相とイツハク・ラビン参謀総長のもと、イスラエルはエジプトの空軍基地を爆撃し、航空戦力を完全に無力化した。六日間で停戦したため、第三次中東戦争は六日戦争ともいう。
第三次中東戦争によって得られた占領地がパレスチナ紛争の原因である。その一つ、エルサレムの旧市街を含むヨルダン川西岸は、第一次中東戦争においてヨルダンが占領した土地である。古代、ユダヤ教の神殿があった西壁(嘆きの壁)は、キリストの墓である聖墳墓教会とムハンマドが昇天した岩のドームとともに、この旧市街にある。
別の占領地であるガザは、第一次中東戦争においてエジプトが占領したが、今度は南に連なるシナイ半島とともにイスラエルの手に渡った。シナイ半島のすぐ西はスエズ運河であり、その対岸がエジプトの人口密集地帯であるナイル川の三角州である。
最後に、ゴラン高原は、駆け下ればシリアの首都ダマスカスである。シリアは喉元の戦略的高地を押さえられたことになる。イスラエルにとっては、淡水湖であるガリラヤ湖の岸をシリアから切り離したことが大きかった。両国の対立は水資源の奪い合いでもある。
イスラエル支配の拡大により、さらに多くの難民が発生した。PLO(パレスチナ解放機構)は1964年に設立されていたが、その一翼、ヤセル・アラファト率いるファタハはシリアを拠点として果敢にイスラエルを攻撃した。第三次中東戦争はPLOのゲリラ戦とテロリズムを拡大し、占領地から放逐された難民を加えて戦闘員の数は膨れあがった。西岸から逃避した人々はヨルダンに流れこんだが、国ごと乗っ取られることを恐れたヨルダン政府により弾圧された。1970年代、難民とPLOはレバノンに移って根拠地とし、レバノン内戦を引き起こした。
敗戦によって、理想と現実のギャップが広がったアラブ諸国は、2か月後の首脳会議で、3つのノーに合意した。すなわち、イスラエルと講和しない、承認しない、交渉しない、である。さらに、1967年11月には安保理決議S/RES/242が占領地からの撤退と諸国家の平和共存を求めた[4]。
第三次中東戦争では、アメリカ合衆国は明らかにイスラエルの肩を持っていた。ユダヤ系市民がイスラエル・ロビーまたはユダヤ・ロビーを形成し、イスラエルを支持するよう圧力をかけたと信じられている。中東は、超大国と現地勢力が連携する代理戦争の鉄火場になった。スエズ運河もさることながら、地下に埋まった石油にアメリカ合衆国は食指を動かした。
ナセルが失意のうちに亡くなると、後継者のアンワル・アル・サダト大統領は失ったものを取り返そうとした。
1973年、サダトはソ連の武器供与を受けたシリアから参戦の同意を取りつけ、サウジアラビアからは資金提供と石油戦略の約束を得た。初めてエジプトの先制という形で、第四次中東戦争は勃発した。エジプトはシナイ半島に進撃したものの、すぐにイスラエルに押し戻された。これまでの中東戦争と同様、アラブの敗北をつくろうように、国際社会が交渉のお膳立てをして終戦を迎える、と思われた。
従来と違ったのは、第一次オイルショックが発生したことである。OPECとは別に、アラブは独自にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)を作っていた。非アラブのベネズエラ、イラン、ナイジェリアなどの国々は後者の加盟国でない。エジプトとシリアはOPECに入っていなかったものの、OAPECには入っていた。OAPECはアメリカ合衆国への石油の全面禁輸、その他の国々への部分禁輸を発表した。ヨーロッパ諸国は友好国と認定されたものの、日本は非友好国として部分禁輸の対象となった。驚いた日本政府は親アラブ政策に転換した[5]。石油を使ったアラブ・ボイコットはよく効いた。先進国は翌年、原油価格の高騰に対処するためIEA(国際エネルギー機関)を設立した。
サダトはアラブ・ナショナリズムを終わらせた。ナセルの構想では、アラブ統一国家は当然、パレスチナを自らの領土として含み、イスラエルは消滅するはずであった。加盟国の国家主権を前提とする国連においてイスラエルの消滅に広い支持を得る可能性は皆無であった。
サダトの最大の業績は、イスラエルのメナヘム・ベギン首相とのキャンプデイビッド合意(1978年)である。それはヨルダン川西岸およびガザに自治を樹立することと、エジプト・イスラエル間で平和条約を結ぶことを目指すものであった。エジプトはシナイ半島を返還されるものの、ガザは放棄することになる。合意を仲介したのは、アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領であった。エジプトはアメリカ合衆国とも和解したことになる。彼はアラブ世界から裏切り者と罵られ、1981年に暗殺された。エジプトとイスラエルが戦う「中東戦争」はこれで終わった。
中東から戦争がなくなったわけでなかった。同盟関係の変化は世界のどこでも起こりうるが、石油の産出地であるがために、大国はつねに介入してくる。ソ連またはロシアにとっては自領の隣に当たるため、アメリカ合衆国と常時、向かい合わなければならない。
キャンプデイビッド合意と時を同じくして、イラン革命(1978-1979年)が起きた。近代化を目指す親米の王国が、いわゆるイスラム原理主義の反米・神政国家に急転回してしまった。
1980年には、サダム・フセイン大統領のイラクがイランを攻撃した。アメリカ合衆国は、本来は敵であるはずの親ソ連の社会主義国であったイラクに武器を援助した。第三国をつうじてひそかに与えたばかりでなく、ヘリコプターなど軍民両用物資を直接に輸出し、化学プラントを含む外国の売却まで黙認した[6]。化学プラントは大量破壊兵器に分類される化学兵器の製造に使われる可能性があった。
最大のスキャンダルとなるイラン・コントラ事件は「二股膏薬」の実例であった。アメリカ合衆国はイランにも武器を密売し、その利益をニカラグアの反政府勢力コントラに提供した。敵どうしのイラクとイランにアメリカ合衆国は武器を与えたことになる。
イラン革命に伴う第二次オイルショックを背景にして、目立たなかったペルシャ湾岸の君主国が自己主張を始めた。湾岸協力会議(湾岸協力理事会、GCC)の設立は1981年である。エジプト・イラク・イランに囲まれたオマーン、クウェート、カタール、サウジアラビア、バーレーン、そしてアラブ首長国連邦には、どちらかと言えば弱小国のイメージがあった。潤沢な石油収入のおかげで、各国は人口が急増し、いまやサウジアラビアは押しも押されもせぬ地域大国である。
PLOが拠点としたレバノンは混乱をきわめた。内戦が1975年に始まり、北部にはシリア軍、南部にはUNIFIL(国連レバノン暫定軍)が駐留した。中部は、キリスト教徒の最大勢力であるマロン派が優勢であった。
1982年にイスラエルがレバノン戦争を仕掛けたのは、反イスラエルのPLOとシリアの戦闘員を掃討するためであった。その過程で起きたのが、マロン派民兵がパレスチナ難民を虐殺したサブラ・シャティーラ難民キャンプ事件である。虐殺を止めなかったイスラエル兵の心理は映画『戦場でワルツを』(2008年)の主題となった[7]。暴力の応酬は、その後もシーア派組織ヒズボラやアメリカ合衆国の諸機関を巻き込んで止まらなかった。
レバノンの政治は1943年の国民協約によって規定されていた。1989年にそれを修正するタイフ合意(国民和解憲章)がなされ、内戦は一応、終結した。しかし、2006年にイスラエルがふたたび侵攻するなど、危機は数年おきに繰り返される。
冷戦終結の翌年、世界を驚かせたのはイラクによるクウェート併合であった。サダム・フセインはイランと戦ったことで、アメリカ合衆国の覚えがよくなったと誤解したかもしれない。アメリカ合衆国の大使が彼に「クウェートとの境界争いのような、アラブ・アラブ間の紛争に意見することはありません」[8]と語ったのは事実であろうが、併合してよい、とまでは言っていないのである。
湾岸戦争(1991年)は、米軍等により編成された多国籍軍のクウェート解放作戦であった。ミッションは難なく達成され、最新兵器の展示会のようなものと記憶されているであろう。F-117ステルス戦闘機による精密な外科的攻撃の映像から、ニンテンドー戦争とも呼ばれた。対空ミサイルのペトリオットはイラクからのスカッドミサイルを有効に撃ち落としたと宣伝された。
その一方で、殺傷手段の残忍さが垣間見られた。劣化ウラン弾はウランという重く、発火しやすい材質であったがゆえに、兵器の装甲を貫通しやすかった。劣化ウラン弾は放射線を発し、アメリカ合衆国の帰還兵に健康の異常を訴える者があったことから湾岸戦争症候群と呼ばれた。燃料気化爆弾(FAE)は空気に燃料を散布し、ガス爆発を起こして広範囲に人間を攻撃する。クラスター爆弾(収束爆弾)は中から小爆弾が散らばり、それらが破裂して人体を突き刺す。不必要な殺傷の疑惑には、イラクの軍事車両2千台と兵士の死体数万が散乱した「死のハイウェイ」もあった[9]。
パレスチナ問題はアラブ諸国の支持を得るためにサダム・フセインによって利用された。戦争は領土欲ゆえのものであったとしか考えられないが、通常弾頭をイスラエルに向けて発射し、いわゆるアラブの大義を装った。
キャンプデイビッド合意におけるパレスチナの自治は未着手であった。1987年には、戦闘員でない普通の人々が爆弾ではなく、石を投げるインティファーダ(投石革命)が始まっていた。エジプトのガザ放棄に続いて、1988年、ヨルダンがヨルダン川西岸の領有権を放棄した。これは大きな一歩であり、アラブ人でもなく、エジプト人でもなく、ヨルダン人でもなく、パレスチナ人こそ人民の権利の主体であることがはっきりした。
湾岸戦争後、米ソ共催のマドリード会議が開かれた。この中東和平プロセスに、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、そしてシリアが参加した。ヨルダンは1994年、イスラエルとの平和条約を結ぶに至る。
パレスチナ暫定自治原則宣言(1993年)はオスロ合意とも称される。交渉が行われたのがノルウェーの首都オスロであったからである。世界の人々の目を釘付けにしたのは、イスラエルのラビン首相とパレスチナのアラファト議長がワシントンDCのホワイトハウスでビル・クリントン大統領をまえに握手した署名式の映像である。翌年、暫定自治政府が発足した。
パレスチナ自治といっても、西岸全土が自治政府のコントロール下に置かれたわけでない。西岸のエリアAとガザはパレスチナ側がコントロールするが、西岸のエリアBはイスラエルとの共同コントロール下にある。西岸のエリアCに至ってはイスラエルのコントロール下にあり、自治は行われていない。イスラエルは、ヨルダン川の対岸であるヨルダンとの交通を遮断することが安全保障上、不可欠であると考え、そのコントロールを渡すつもりは毛頭ない。川から少しの淡水もパレスチナ人のために引かせたくないという理由もある。自治区の道路は検問所によって寸断される。ユダヤ人入植地が占領地のなかに侵入し、それが止まらない。エルサレム郊外には住宅地が、ヨルダン川の渓谷では果樹園が、死海のビーチでは観光施設が違和感を与える。
パレスチナは独立宣言を1988年に行った。国連においても、オブザーバー国家としての地位が2012年に認められた。しかし、一定の領土に主権を実効的に行使しているわけではない。西岸では、エリアAは面積のごくわずかにすぎない。主権と自治とでは雲泥の差がある。主権を持てば、軍も、自衛権も持てるであろう。西岸の奥深くまで、どこの国のものであれ、軍隊が入り込み、ユダヤ国家の存立を脅かすであろう。イスラエルはそれを許すであろうか? 和平交渉はクリントン政権が終わる直前まで続けられた[10]。
たとえパレスチナが独立したとしても、エルサレムや国境付近を切り取られ、国民は狭い土地に押し込められるであろう。かつて、南アフリカはアパルトヘイトを永続化させるため、アフリカ系住民を一定地域に住まわせて形だけ独立させ、人種差別を「外国人管理」に見せかけようとした。この同工異曲を、アラブの人々はもちろん、世界も見たくない。
最終地位交渉が行われていた2000年の秋、イスラエルの政治家アリエル・シャロンが神殿の丘に登り、パレスチナ人を挑発した。アルアクサ・インティファーダが発生し、暴力的な抗議が数年間続いた。ユダヤ人居住地の安全のためという理由で、分離壁(フェンスや有刺鉄線)が占領地との間に2002年から建設された。問題は、それが占領地側に深く食い込むように建てられ、将来におけるパレスチナ国家との国境として主張されるのでないか、という懸念である。国際司法裁判所(ICJ)は2003年、壁は違法であり、すべての国は壁を承認しない義務を負う、という勧告的意見を発した[11]。
2001年に9・11事件が起き、犯人がイスラム原理主義者らしいと語られた。文明の衝突が起きている、と考えると、理解できた気になった。文明の衝突は、サミュエル・P・ハンティントンというハーバード大学の教授が、冷戦後における国際紛争のパターンは文化的なものになろう、と予言したものである[12]。初めの論文が書かれた1993年は米ソの対立が終わり、グローバルガバナンスが叫ばれようとした時であった。なぜ、新たな敵を作らなければならないのか?、と不審に受けとめる意見が多数あった。
アメリカ合衆国の対外政策においてはテロリストとサダム・フセインは明白な敵で、石油は必要であったし、イスラエルは守らなければならなかったし、イランをのさばらせてはならなかった。予言を言うことで本当にそのことが起こってしまうことを自己成就的予言という。文明の衝突という予言と9・11事件とはそのような関係にあったと考えられないであろうか? ガバナンスはできるだけ住民に近いところで行われるべきである。中東において、それを許さないのは過度なナショナリズムであり、大国の介入であり、国連の無力である。そうした認識が広がり、事態が改善することを願う。
[1] スティーヴン・E・タバクニック、クリストファー・マセスン、『アラビアのロレンスを探して 揺れる英雄像』、八木谷涼子、浜田すみ子、加藤祐子訳、平凡社、1991年。牟田口義郎、『アラビアのロレンスを求めて』、中央公論新社、1999年。
[2] 木村申二、『パレスチナ問題研究序説 国連の分割決議成立過程と紛争の激化―1945~51年』、丸善プラネット、2000年、167ページ。
[3] “Palestine Refugees,” UNRWA, https://www.unrwa.org/palestine-refugees, accessed on February 3, 2026.
[4] シドニー・D・ベイリー、『中東和平と国際連合』、木村申二訳、第三書館、1992年。
[5] 小串敏郎、『王国のサバイバル』、日本国際問題研究所、1996年、428ページ。中曽根康弘、『自省録 歴史法廷の被告として』、新潮社、102-103ページ。
[6] Murray Waas, “What Washington Gave Saddam for Christmas,” in Micah L. Sifry and Christopher Cerf, eds., The Iraq War Reader: History, Documents, Opinions (New York: Simon & Schuster, 2003), pp. 30-40.
[7] Ari Folman, Serge Lalou, Bridgit Folman, Film Gang, Films d’ici, and Razor Filmproduktion, Waltz with Bashir, 2008.
[8] “Glaspie Transcript,” in Sifry and Cerf, eds., The Iraq War Reader: History, Documents, Opinions, p. 68.
[9] ラムゼイ・クラーク、『アメリカの戦争犯罪』、戦争犯罪を告発する会訳、柏書房、1992年、117-121ページ。
[10] 阿部俊哉、『パレスチナ―紛争と最終的地位問題の歴史』、ミネルヴァ書房、2004年、177ページ。
[11] 松井芳郎編、『判例国際法』、第2版、東信堂、2006年、630-635ページ。臼杵陽、『イスラエル』、岩波書店、2009年、201ページ。
[12] Samuel P. Huntington, “The Clash of Civilizations?” Foreign Affairs 72 (Summer 1993): 22-49. サミュエル・ハンチントン、『文明の衝突』、鈴木主税訳、集英社、1998年、371ページ。
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