戦争に命が懸けられるのは根深い社会問題が背景に横たわるからである。他方で、戦争はテクノロジーの問題でもあり、テクノロジーは戦争の形を変化させる。惨禍を何とかしようと思うならば、社会も、テクノロジーも管理するべきである。今回のテーマは、時代により戦争の原因と形態はいかに変化したかを例示しながら論じなさい、である。

戦争について述べる時、まず戦争を定義するべきである。ゲリラ戦は含まれるか? 革命下のアナーキーはどうか? あるいは、外国支援下の内戦はどうか?[1]

戦争についての初の科学的な研究はクインシー・ライトの『戦争の研究』(1942年)であった。この本のすごいところは1500年から1940年に至る近代文明のあらゆる戦争をリストにしたことである。本書は彼による戦争の定義は使わない。戦争とは国家が参加する交戦である、というところはよい。宣戦布告などの法的認定がなされたか、5万人以上の兵士が参戦したか、という基準も可としよう。しかし、これらをクリアすれば内戦であっても含まれる、という点は受け入れない[2]。国家間の戦争を焦点とする今回は、アメリカ南北戦争やロシア革命の内戦はエピソードとして言及するが、ピューリタン革命や戊辰戦争は割愛する。

筆者が念頭に置く戦争は、国家指導者の指揮命令下にある軍隊と別の国家のそうした軍隊との間の死者を伴う交戦である。死者がなくとも、一時的に現場の指揮官が勝手に行動したり、さしたる反撃なく越境進軍したりといった戦争状態が存在する場合も、破壊・制圧・占領の効果を伴う場合には含める。ゲリラとテロリズムは国際法では戦争行為から逸脱した違法行為であるとみなされるものの、南ベトナム解放戦線による北緯17度以南のゲリラ戦のように、他の国家が継続的に介入し、殺傷や破壊の効果があれば、戦争の一部をなすと認める。国家の定義には、近代的な主権国家にかぎらず、領土を有する独立した意思決定主体であれば封建諸侯であってもそれに含める。

戦争の定義が一段落したならば、次は戦闘員が誰であるかを確かめるべきである。なぜならば、戦闘員の違いは、交戦手段の主力が何であるかを左右するからである。国軍の正規兵であれば通常兵器か大量破壊兵器、ゲリラやテロリストであれば軽兵器と小型武器、デモ隊はせいぜい火炎瓶、日常生活の個人はまる腰が普通、といった見当になる。

戦争の歴史の本論に入る。

宗教改革時代の主な戦争は、マルティン・ルターの異議申し立てが引き起こした宗派の違いに基づく戦争であった。テクノロジー面ではマスケット銃が使われ始め、騎士道にのっとった牧歌的な時代と比べると、殺傷は猖獗をきわめた。

現代の研究者が作った戦争リストを見ると、宗教改革の初期には、キリスト教の分裂が主原因であるとはいえないものが混じっている。ハプスブルク家とバロワ家/ブルボン家との王朝的な対立が軸であったり、リューベックやリボニアと聞きなれない小国が登場したり、異教徒のトルコ人にたいする防衛戦があったりした[3]。中世の素朴さが近代の力強さより、戦争を特徴づけていた。

宗教改革の後期になると、ユグノー戦争と三十年戦争がカトリックとプロテスタントの決戦場となった。宗教戦争以外では、東ヨーロッパにおいてロシア・スウェーデン・ポーランドが覇を競った。トルコとの戦いは絶えることがなかった。カトリック勢力から目の敵にされていたエリザベス一世治下のイングランドがスペインの無敵艦隊を打ち破った[4]

交戦手段が非対称な場合、脆弱な側の犠牲者が往々にして激増する。宗教戦争では、庶民がしばしば巻き添えになった。ユグノーの市民がカトリック側の軍勢に蹂躙されたのが1572年のサンバルテルミの虐殺である。三十年戦争では、皇帝軍に町がほふられたマクデブルクの虐殺(1631年)が起きた。富裕なはずの皇帝側さえ、規律の低い傭兵を大量に使っていたからである。

ほとんどの傭兵は長槍を持ってはせ参じた。銃の調達や軍事教練が個人では難しかったからである。マスケット銃の命中率は低く、長槍を一掃するには至らなかった。その一方で、長槍による槍ぶすまは敵の騎士を確実に串刺しにした。ランツクネヒトは長槍を使うドイツの傭兵である。テルシオは長槍でハリネズミのように守りを固め、方陣を組んだスペインの軍隊である。スイス傭兵は当時から今に至る何百年間も、教皇庁を警護する。

次の絶対主義の時代では、絶対的な権力を持つ君主たちが宗教・宗派の制約なしに、チェスのように軍隊を自由に動かして覇を競った。この時代、陸戦は芸術であった。歩兵・騎兵・砲兵を動かす三兵戦術は兵種の特長を活かす洗練された用兵であった。

歩兵はもはや槍を持たず、マスケット銃に短剣を付けて銃剣とした。銃の命中精度は低かったので横列を作って一斉射撃し、弾幕を張った。タイミングが合えば、多くの敵兵が崩れ落ち、万死に一生を得た兵士は潰走した。撃った側は銃剣を振りかざして追撃し、白兵戦に突入した。がまんと規律の競い合いであった。イギリスのレッドコート(赤服兵)は規律に優れたエリート部隊であった。騎兵は奇襲をかけ、砲兵は敵兵力を削る。司令官の機敏な采配が勝敗の鍵であった。

この時代の前半、西ヨーロッパではルイ十四世が積極的に動いたものの、他国から警戒され、スペイン継承戦争で包囲網をしかれて苦しんだ。東ヨーロッパでは、ロシアのピョートル一世がスウェーデンのカール十二世と北の覇者の地位を賭けて死闘を続けた。大洋でも、イギリスとオランダの海軍が争った。

絶対主義時代後半は、中央ヨーロッパにおけるプロイセンとオーストリアの一進一退を軸に、外洋では英帝国の拡大とアメリカ独立戦争におけるその挫折が見られた[5]。海上では、戦列艦の側面に並んだ大砲がティラノサウルスのように敵艦を砕いた[6]。海軍の莫大な維持費は重商主義で蓄えた金銀を充ててまかなわれた。

フランス革命とナポレオン戦争は絶対主義に冷や水を浴びせた。ナショナリズムが高揚した結果、動員された庶民は兵役と引き換えに選挙権を与えられ、気勢が上がった。戦死者の激増は絶対主義の王侯貴族にとって不利であったが、戦場で死ぬか、ギロチン台に送られるかの二者択一であったから、引くに引けない戦争であった。

ナポレオンは敗れ、絶対主義が一時的に天下を奪い返した。これがウィーン体制である。宮廷は自由主義者の反乱に目を光らせ、ナポリやスペインにおける反乱に対して干渉戦争を行った。ところが、ギリシャ人が自由を求め、オスマン帝国に反旗をひるがえした時には、宮廷は独立運動を応援した。独立したばかりのラテンアメリカにもヨーロッパ諸国は干渉した。カウボーイのような乱暴者の現地の大統領たちが気に食わなかったからである[7]

「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」の名言が発せられたのはこのころであった[8]。『戦争論』の著者カール・フォン・クラウゼビッツはナポレオン戦争に参加したプロイセンの軍人であった。この書の内容は前時代の戦争を表現しているように感じられる。彼の言う「政治」とは外交のことであり、特に他国の州県を外交交渉によって獲得することを想定した。つまり、戦争とは、交渉で決着できないことを武力により決着させることである。

領土紛争を戦争で解決するのはルイ十四世やフリードリヒ二世のような前世紀の絶対君主が得意としたことであった。ナショナリズムが高まった19世紀では、他民族の住む土地を戦争によって割譲させるのは時代遅れになりつつあった。

実際、フランス二月革命後に自由主義が勝利すると同時に、ナショナリズムの嵐が吹き荒れた。各地で、国民統一戦争やナショナリストの蜂起が相次いだ。イタリアとドイツの統一がその山場であった。ロシアの力はクリミア戦争で敗れたことで後退し、オスマン帝国の版図は複数の国民国家へと分裂を始めた。ナポレオン三世は、絶対君主のように兵を指揮しようとしたものの、最後はドイツのナショナリズムを見くびり敗北した。ラテンアメリカの混乱は国民国家を作る産みの苦しみであった。英仏はじめ一握りの海軍国は着々とアジア・アフリカ・ラテンアメリカの小勢力に砲艦外交を繰り広げた[9]

陸上戦闘でのテクノロジーで見るべきものはライフリングであった。銃の火力と精度が向上し、散兵という兵種を生んだ。弾幕を張らなくても命中するので、兵士は散開して匍匐前進し、敵陣を襲った。散兵は普墺戦争で優位を示し、日露戦争における二百三高地の死闘で大規模に投入された。ライフル銃の意義について、ウィリアム・H・マクニールの解説を引用する。

つまりプロイセンはすでに見たように、基本的な歩兵武器として後装ライフル銃を選んだのである。後装銃の第一の利点は、兵がそこらにある遮蔽物ならなんでも楯にとって、しゃがんで背をかがめたり、腹ばいになったりした姿勢から撃てることであった。この戦術により兵たちは、前装銃の銃口から弾込めをするために立ち上がる必要がある場合に比べて、敵銃火の標的となる度合いが一段と小さくなった。後装銃の第二の利点は、発射速度が格段に増すことであった[10]

産業革命の到来は戦争を変えた。海では、蒸気船や甲鉄艦の時代が到来した。最も有名な甲鉄鑑は南北戦争における北軍の軍艦モニターである。ナショナリズムは徴兵だけでなく、徴税も拡大し、砲艦外交の基礎となる軍事予算の増額を可能にした。

化学の発達とともに、自然資源の獲得は戦争の目的として重要性を増した。1879年の太平洋戦争はチリとペルー・ボリビア同盟との戦争であった。砂漠の領土の奪い合いであったが、地表ではなく、そこに埋まる硝石と銀が目的であった。硝石は火薬の原料である。第一次世界大戦中、ドイツが硝石の代用品であるアンモニアを人工合成することに成功した[11]

植民地戦争の舞台は近東・東アジア・中米カリブ・アフリカであった[12]。圧倒的優位にあったヨーロッパのテクノロジーが、いともたやすく現地の軍隊を屈服させた。

数か国の列強が産業も、植民地も、テクノロジーも19世紀末に支配してしまうと、それらの間で帝国主義の競争が熾烈になった。主力兵器である軍艦は大艦巨砲主義を邁進した。イギリスは最新鋭のドレッドノート級戦艦を建造したが、ド級や超ド級といった日本語に痕跡を残す[13]。新兵器の潜水艦と飛行機も就役した。1903年、ライト兄弟のライトフライヤーが空気よりも重い装置で初めて有人動力飛行に成功した。すぐに各国の軍隊は軍用機を発注した。

外交でも、列強は仮想敵国に勝つことだけを考えた。最終的には三国同盟と三国協商の二大陣営が形成された。苦心した同盟政治の帰結が第一次世界大戦であったのは皮肉である。イギリスのエドワード・グレイ外相はドイツがフランスに宣戦布告したのを知って、つぶやいた。

ヨーロッパ中の灯りがいま消えてゆく。生きているうちにまた灯りがともるのを見ることなどできそうもない――[14]

今となっては大げさな感傷とばかりには聞こえない。第一次世界大戦では、敵襲を塹壕にこもって待ち受け、来たら機関銃で蜂の巣にすることが4年間、繰り返された。塹壕を踏みにじるための新兵器が戦車であった。その初陣は1916年のソンムの戦いであった。

人命と資源を総動員し、力尽きた国々は白旗をあげた。正統性が地に堕ちた敗戦国で革命が起きた。ロシア・ドイツ・トルコでは、諸勢力が抗争し、外国は無慈悲に国土を蹂躙した。

内戦中のロシアに、戦勝国は兵隊を送った。日本ではシベリア出兵として知られる。本当の目的は共産主義が拡大することへの干渉であったと考えられる。パリ講和会議への次席全権であった牧野伸顕が語るように、当時は別の理由が付けられた。

大戦の真最中にも拘らず、このチェッコ・スロヴァック軍救済の問題は世界的に多大の関心の的となり、これまで日本の出兵に反対していた米国までが率先して、チェッコ・スロヴァック軍団の援助については特に聨合各国か一致してこれに当たるべしと熱心に主張し、この問題は当時列国間に緊急の案件として取り上げられたのである。しかし同時にまたの時分の戦局を綜合的に見るならば、欧州大陸における数百万の大軍の運命について各国が焦慮しつつある際に、露国内に所在する六万内外の特殊な部隊を救出することに聨合国側が挙って関心を寄せたというのは、いささか不釣合いな感じがし、殊に日本はこの事件のために、日本として戦争中における最大の動員をなし、少なからぬ出費を負担したのであって、それらの点についてここで説明しておきたいと思う[15]

第一次大戦後しばらくは局地戦が散発した。満州事変も、エチオピア侵攻も、そしてスペイン内戦もそうであった。国際連盟に止める力はなく、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、不満な国はいっそう大胆になった。各国の関心は、次の世界大戦をどう戦うか、にあった。ロジェ・カイヨワの『戦争論』はドイツ陸軍の公的機関誌を孫引きする。

平和は戦争の命ずるところに従わなければならない。戦争は今世紀の神秘的女王である。

平和はもはや、ふたつの戦争のあいだに位する、単なる休戦状態にすぎない[16]

各国は軍国主義を徹底させた兵営国家と化した。あらゆる資源を動員して、総力戦は遂行される。カイヨワは鋭い指摘をしている。

戦争を苛烈なものにするのは、勇猛さでも、敢闘精神でも、残酷さでもないということだ。それは国家というものの、機械化の度合いである。国家の持つ統制力と強制力であり、国家というものの持っている数多くの構造とそのきびしさである。人類の歴史全体を通じて、国家権力はきまって戦争を、おのれのために利用した[17]。 機械化を自動化と呼び換えるならば、殺人の究極の自動化はガス室と原子爆弾であった。テクノロジーが国家と戦争を変え、戦争が国家とテクノロジーを変えた。テクノロジーの進歩を止めることは難しい。個人の良心と市場の倫理だけでは不十分である。国家と国際社会がそれを管理し、悪い目的に使われないよう、人々は国家とテクノロジーの関係に注意を怠ってはならない。


[1] Cf. Jonathan R. White, Terrorism: An Introduction, 2nd ed. (Belmont: Wadsworth, 1998), p. 15.

[2] Quincy Wright, A Study of War, vol. I (Chicago: The University of Chicago Press, 1942), p. 636.

[3] 原田至郎、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、山本吉宣、田中明彦編、『戦争と国際システム』、東京大学出版会、1992年、287-317ページ。

[4] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[5] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[6] ウィリアム・H・マクニール、『戦争の世界史』、高橋均訳、刀水書房、2002年、329ページ。

[7] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、

287-317ページ。

[8] クラウゼヴィッツ、『戦争論』、上、篠田英雄訳、岩波書店、1968年、58ページ。

[9] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[10] マクニール、『戦争の世界史』、332-333ページ。

[11] ダニエル・ベル、『脱工業社会の到来』、上、内田忠夫、嘉治元郎、城塚登、馬場修一、村上泰亮、谷嶋喬四郎訳、第8版、ダイヤモンド社、1990年、32ページ。

[12] 原田、「1495年から1989年までの近代世界システムにおける戦争のデータ・リスト」、287-317ページ。

[13] マクニール、『戦争の世界史』、348-349、379、382ページ。

[14] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、上、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、 273ページ。

[15] 牧野伸顕、『回顧録』、下巻、第4版、中央公論社、1992年、152ページ。

[16] 『ドイツ防衛』。ロジェ・カイヨワ、『戦争論』、秋枝茂夫訳、法政大学出版局、1974年、210ページ、孫引きのさらに引用。

[17] カイヨワ、『戦争論』、10-11ページ。

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