今はインターネットにおいて、モノでも、カネでも、ヒトでも、情報でも、世界中がつながっている。それ以前はさぞかし不便であったことであろう。

それでも、交通と通信は日々、発達していた。ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は、出版前年の1872年の世界を舞台とする。主人公はロンドンから、ドーバー、パリ、ブリンディシ、スエズ、ムンバイ、コルカタ、香港、横浜、サンフランシスコ、ニューヨーク、リバプール、そしてロンドンへと鉄道と船で移動した[1]

歴史学者のエリック・J・ホブズボームは1872年から24年まえの1848年であったなら、世界一周に11か月かかったであろう、と推測する[2]。その間に19世紀のグローバリゼーションが起きていた。グローバリゼーションの波は1度や2度ではなかったはずである。今回のテーマは、冷戦後の国際政治経済をグローバリゼーションという観点から論じなさい、である。

冷戦後のグローバリゼーションに先立って、大前研一がボーダレス・ワールドと呼んだ状況が生じていた。文字通り、国境のない世界であるが、「アメリカ、日本、ヨーロッパのいわゆる『トライアド』(三大戦略地域)で構成されているが、最近では台湾、香港、シンガポールなどの積極的な経済地域も参加するようになった」と解説される[3]。冷戦の終結に伴って、このトライアドに旧共産圏が吸収された。東側と深い関係にあった開発途上国はしばらく行き場を失い、混乱した。それが収拾に向かいだした時、グローバリゼーションは本番を迎えた。

以下では冷戦後を三つの時期に分けて論じる。第1期は、マルタ会談からITバブルの崩壊までの1989年から2001年であり、アメリカ合衆国の大統領ではブッシュ(父)政権とクリントン政権である。第2期は9・11テロから北京オリンピックまでの2001年から2008年までであり、ワシントンDCはブッシュ(子)政権である。第3期は世界経済危機からシリア内戦またはブレグジットまでの2008年から2016年であり、オバマ政権である。

モノのグローバリゼーションを決定づけたのは1993年におけるウルグアイ・ラウンドの妥結と1994年におけるマラケシュ協定の署名であった。成果を三つにまとめると、一に工業品関税の40パーセント低下、二にサービス貿易・貿易関連知的財産権(TRIP)・貿易関連投資(TRIM)の整備、三にWTO(世界貿易機関)の設立である[4]。にわかにグローバルな市場なるものが姿を現したわけであり、それに参加しない国は負け組に落ちることは必至であった。

WTOへの中国加盟が2001年、台湾加盟が2002年、そしてロシア加盟が2012年であり、これらをもってグローバルな市場は完成した。

商品(コモディティ)価格の下落をグローバリゼーションはもたらした。バナナ、コーヒー、ヤシ油、コメ、そして小麦の価格は1996年から2000年の間にいずれも長期的に低落した。それらの産地である開発途上国の交易条件は、ほぼ横ばいであった先進国に比べて明らかに低下した。バナナやコーヒーは生産国に収益が落ちる割合が低いため、生産者からの買取価格が不公正であるとの告発を長年、ぬぐえなかった。[5]

これを正すために、企業やNGOが直接、生産者から「公正な」価格で商品を買い入れ、小売りするフェアトレードが人気を博すようになった。すべてのバナナやコーヒーをフェアトレードで販売することはむろん不可能である。フェアトレード商品は利潤率が高いと言われるため、まだ広がっていく余地はある。

NGOのオックスファムは価格低下の問題について、自由貿易を掲げる先進国の農業補助金は二重基準であると批判し、一次産品機構を支持した[6]。補助金は農業か工業かを問わず、貿易パターンを混乱させる、という。

先進国の側は自由貿易の痛みを緩和しようと、一計を案じた。ヨーロッパと北米での地域主義がそれである。EC(欧州共同体)では、共通市場が1992年に成立した。共通市場はモノの移動だけを自由にする関税同盟よりも進んで、カネとヒトも自由に移動でき、それらのガバナンスと政策も共通化する。ユーロペシミズムと称された悲観論がささやかれた1980年代に、域外との競争に勝ち抜く切り札として、共通市場を成立させる単一欧州議定書(SEA)が合意された。この延長線上に1993年のEU発足があった。

示し合わせたかのように、カナダ、アメリカ合衆国、そしてメキシコの3か国は1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)を発足させた。すでにカナダと合衆国の間で存在していた自由貿易協定に、メキシコが加わったものであった。合衆国には、メキシコの安い労働力は自国の労働者にとって脅威であるとの認識があった。NAFTAの発足により、メキシコの製造業は繁栄したものの、アメリカ合衆国ではIT(情報技術)や金融といったニューエコノミーへの産業転換が進み、脅威にならなかった。

他方、開発途上国は冷戦後も飢餓・病気・債務・紛争に悩まされた。病気について言えば、本気になって国際社会が取り組み始めたのは21世紀になってからである。世界エイズ・結核・マラリア対策基金は、各国政府・NGO・国際機構のパートナーシップによって2002年に設けられた。翌年、アメリカ合衆国はエイズ救済のための大統領緊急計画(PEPFAR)を開始し、抗レトロウイルス薬の投与と禁欲・貞操・コンドームでエイズを予防することを支援した[7]

途上国の債務については、IMF・世界銀行が1996年に重債務貧困国(HIPC)を指定した。基準は、1993年時点で1人当たりGNPが695ドル以下、債務額が輸出額の2.2倍以上またはGNPの80パーセント以上の国であった[8]。これで債務救済が国際社会の取り組みになったことになる。

民間でも、さまざまなNGOが債務救済を目指して手を携えた。個人と違い、国家は破産できないので、債務を減免しないと貧困はなくならない、と主張した。この運動はジュビリー2000と名乗ったが、ジュビリーとはユダヤ教のヨベルの年のことで50年に1度、借金が帳消しになる。これにならい、西暦2000年を債務帳消しの年にしようと計画した。

主要国首脳会議でたびたびこの話題は取り上げられたものの、2000年は債務帳消しの年にならなかった。アフリカを中心とする18か国の債務帳消しが決まったのは、2005年のG8財務相会合においてであった。この成果を過小評価してならない。債務への不安がなくなって、開発途上国への投資が加速した。

このように、冷戦後の第1期において、先進国と開発途上国との間で所得の格差が広がった。格差拡大の代表的な告発に、世界銀行副総裁などを歴任した経済学者ジョセフ・E・スティグリッツによるものがある。ワシントン・コンセンサスが彼の批判の的であった。IMF・世界銀行・アメリカ合衆国財務省と、グローバルガバナンスを金融面で担う機関の本部は皆、ワシントンDCにある。それらに共通する思考パターンがワシントン・コンセンサスである。

ワシントン・コンセンサスの三本柱は、緊縮財政、民営化、そして市場の自由化である、とスティグリッツは指摘した。緊縮財政は債務返済を最重視して、教育や健康を犠牲にしてしまう。民営化はマフィアに国有財産を安く払い下げ、政治家に見返りの賄賂が渡る。市場の自由化によって、民族資本がグローバルな外資企業によって駆逐される。三本柱がいかに画一的に適用されたかの怪しげな噂話がある。ある国の報告書を作るのに別の報告書の文章をそっくりそのまま借用したところ、ワープロが「検索・置換」に失敗し、元の国名が残ったままの文書が配布されてしまった、という。まちがっているのは三本柱の原則自体でなく順序とペースで、金融界とアメリカ合衆国企業の利益ばかり図り、途上国の実情を考慮しないのが問題である、とスティグリッツは主張する[9]

格差拡大批判のきわめ付きはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「帝国」であろう。「帝国」はアメリカ合衆国を中心とするネットワーク状の権力であり、主権を境界内で行使してきた国民国家が衰退する間隙を縫い、地球全体を包摂する。この新たな主権者は法を定め、グローバライズする市場や生産を管理し、核兵器・貨幣・コミュニケーションを独占する[10]

ネグリとハートは、「帝国」は3層のピラミッド構造を成す、と主張する。第1の層には、G7、パリクラブ、ロンドンクラブ、そしてダボス会議に結束する国家のグループ、第2の層は、多国籍企業のネットワークとそれに従属する国家、第3の層は多種多様な人々を意味するマルティテュードであり、ネグリとハートはそれが「帝国」に抵抗することに期待を寄せる[11]

ネグリとハートは、「帝国」の指導者はどのように選ばれるのか?、意思決定はどのような過程で行われるのか?、といった具体的な細部を明かさない。これは陰謀論の特徴とも一致する。

世紀末に語られた、誰が決めたとも知れないグローバルスタンダードの噂は陰謀論と紙一重であった。ウィンドウズ95や英語はそうしたスタンダードの基本である。ISO(国際標準化機構)というNGOが決めた品質保証に関する規格であるISO9000シリーズと、環境システムに関する規格であるISO14000シリーズの認証を企業や公共機関は争うように取得した。BIS規制に至っては日本経済を破滅させるための陰謀として語られ、バーゼル1という銀行の自己資本比率を8パーセント以上とする基準は企業への貸し渋りによってバブル崩壊に追い打ちをかけた[12]。グローバルスタンダードへの批判は、純粋無垢な日本社会が負け組になった責任をすべて外国になすりつけた。

冷戦後世界における最強の産業は、ソフトウェア、インターネット、そして金融を代表とするニューエコノミーの業界であった。これらは作れば作るほど生産費が低くなり、経済学でいうところの収穫逓増になる。こうした産業は、企業の規模が大きければ大きいほど、自社商品の価格を下げることができるので、一人勝ち、つまり独占になりやすい。特に、ソフトウェアはダウンロード販売にすれば在庫を持たなくてよく、販売見込みを誤って生産管理につまずくことがない。経済全体でも、景気循環は緩やかになり、従来のような景気後退もない、ともてはやされた。

第1期が終わる兆候は現れていたが、一つはアメリカ合衆国におけるITバブルの崩壊であった。1990年代後半から、インターネット関連ベンチャー企業への過剰な投資が行われ、電子株式市場ナスダックはじめ世界の株価は軒並み高騰した。2001年、IT企業の株価はついに暴落し、ネット取引を活用して急成長したエネルギー企業エンロンは粉飾決算を暴露されて破綻した。ニューエコノミーは実体経済を反映しないバブルであった。

別の兆候は反グローバリゼーション・デモとWTOの挫折である。1999年、シアトルで開かれる予定であったWTO閣僚会議は新たな交渉であるミレニアム・ラウンドを立ち上げようとした。それに先行して、反グローバリゼーションのデモが市街地で発生し、環境・労働・人道・農業・平和・先住民・女性など700以上の世界中から駆け付けた団体が気勢を上げた。当局は催涙ガスとゴム弾を使用し、逮捕者が出た。シアトルに到着した閣僚たちは帰国せざるをえなかった[13]

改めてWTOでは、2001年に新貿易交渉であるドーハ開発アジェンダが立ち上がったものの、2011年に交渉は停止された。農業への補助金の問題で、先進国と開発途上国との歩み寄りが見られなかったからである。

環境保護論者もグローバリゼーションには懐疑的で、WTOは貿易をとるのか?、環境をとるのか?、と決断を迫った。食糧の貿易が増えれば、農薬の大量使用につながる。海産物の貿易が増えれば、漁業資源が枯渇する。木材の貿易が増えれば、森林が破壊される。野生生物の貿易が増えれば、絶滅の危険が生じる。交通手段が発達すれば、外来生物と感染症が侵入する。金融にも注文が付いた。IMFと世界銀行がコンディショナリティを付けると、緊縮財政のために自然保護の予算まで切り詰められてしまう。収益を上げようと、資源開発の規制を緩和すると、森林が伐採され、絶滅危惧種が密漁されてしまう[14]。これらの主張は論理的であったものの、経済と環境の二者択一を迫り、妥協を難しくした。

冷戦後の第2期は、対テロ戦争とイラク戦争という泥沼のなかでアメリカ合衆国が身動きのとれない状況で進行した。バラク・オバマが次期大統領に選ばれるまでに、アメリカ合衆国は消耗しつくした。

9・11事件が起きる以前から、グローバリゼーションとその推進者であるアメリカ合衆国への敵意は聞こえていた。1999年のユーゴスラビア空爆によって、ロシアと中国は合衆国との和解は無理であると悟り、伝統的な多極化の政策に戻った。ウサマ・ビンラディンが有名になるまえから、イスラム文明と西洋文明との衝突は話題になっていた。

21世紀には、自由貿易協定(FTA)がWTOの代わりに経済の開放性を担った。それは地域的または二国間のものであり、EUとNAFTAに触発されて広がった。

それまで多角主義を主張してきた日本もFTAの波に乗ることにした。ただし、単なる関税の引き下げや撤廃を取り決めた純粋なFTAではなく、経済連携協定(EPA)と称する「投資、人の移動、知的財産の保護や競争政策におけるルール作り」であった[15]。人の移動については、最初にインドネシアおよびフィリピンと看護師・介護福祉士の受け入れを合意した。FTAを称さない理由は上のものだけではなかったろう。選挙の票田である稲作農家を敵に回したくない政治家たちにとって、自由貿易を名乗らないほうが好都合であったからである。

第2期には、低下していた商品価格は一転して急上昇した。小麦・大豆・とうもろこしといった農産物はもちろん、原油やレアメタルといった鉱物でもそうであった[16]。一次産品のインフレーションは開発途上国の交易条件を改善したが、原因はつぎに述べるBRICSの台頭と、対テロ戦争やイラク戦争に伴う軍事費の上昇であった。

BRICSという言葉は、証券会社ゴールドマンサックスによる調査報告「BRICsについての大胆な予測:2050年への道程」で初めて使われた。その時は、ブラジル・ロシア・インド・中国の英語頭文字を並べたBRICに複数形の小文字sをつけてBRICsと総称していた。この報告書では、2050年までにBRICsは、カナダを除くG7の6か国の経済規模を超えると予想した。BRICs側もこうした評判を意識し始め、2009年から首脳会議を開いた。これに2011年、南アフリカが加わり、Sが大文字のBRICSが使われるようになった。

中国では、鄧小平が先富論を指導したことが功を奏し、世界の工場の様相を呈した。ほかにも、新興国または新興市場(エマージングマーケッツ)と呼ばれる国々が現れたが、先進国と途上国の中間に位置し、中南米、東アジア、そして東ヨーロッパに多く分布した。かつてそうした国々の開発は国際金融機関かODAの資金かによってまかなわれていたが、21世紀になると急速に民間資本の流入が増大した[17]。資金面でも、先進国から自立したのである。

自然資源の価格上昇は資源争奪をもたらしたが、アメリカ合衆国の高官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは1997年にそれを予言していた。旧ソ連のユーラシア内陸部には石油・ガス資源が埋蔵されており、世界から熱い視線が注がれた。その様子はチェス盤を前にして地理上の戦略を練るかのようであり、石油とガスを運ぶパイプラインがどこを通るのか?、が国際政治の重要な争点になった[18]。ウラディミル・プーチン大統領が治めるロシアは、パイプラインが通るチェチェンで起きた反乱を鎮圧し、資源国として繁栄を誇った。

第3期は、2008年の世界金融危機で始まった。当時、アメリカ合衆国の貧困層に貸し出されたサブプライムローンは、3年目から金利が跳ね上がる不利な金融商品であった。貧困層があえてそれを借りたのは、ローンで買った不動産の値上がりを見込んでいたからである。このローンの返済を組み込んで証券化したサブプライム債を、世界の投資家が買った。もし住宅価格が暴落したらどうなるか? 貧困層は返済できなくなり、世界の投資家は大損を被る。

リスクが現実になったのがサブプライム危機である。危機の拡大はベアスターンズ投資銀行の破綻で明白になった。2008年9月に、リーマンブラザーズ投資銀行が破綻し、このリーマン・ショックで世界金融危機は本格化した。翌年、ドバイ・ショックによって中小国の財政に不安が高まった。アラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国の政府系企業が債務返済の繰り延べを要請したのである。中小国の危機は拡大せず、先進国の危機と合流することはなかった。これは「切り離し」を意味するデカプリングと呼ばれた。

世界は、どう対応するかを模索した。BRICSのところで述べたように、G7の相対的な経済力は低下していた。リーマン・ショックの2か月後、第1回のG20金融サミットがワシントンDCで開かれた。参加したのはG7(プラスEU)とBRICSに加え、新興国のアルゼンチン・メキシコ・インドネシア・韓国・サウジアラビア・トルコ・オーストラリアであり、2011年までは年2回のペースで開かれた。危機への対策は金融政策、つまり、各国が政策金利を緩和して景気を刺激すること、に尽きた。中国のように、独自に大規模な公共投資を行う国もあった。

先進国から成るEUの経済は世界金融危機によって手痛い打撃を受けた。ポルトガル・イタリア・アイルランド・ギリシャ・スペインは財政不安がささやかれ、まとめてPIIGSと呼ばれた。それにつられて、ユーロの対ドル相場は長期的な低下の局面へと転じた。EUは南ヨーロッパ諸国を救済するため、資金をユーロ圏諸国、IMF、そして市場から調達した。さらに常設的な制度として、財政危機に陥った国への支援を目的に、欧州安定メカニズム(ESM)を立ち上げた。それでもギリシャは2015年にIMFからの債務を延滞した[19]

EUは下り坂の時代を迎えた。それまで加盟国が増えたことだけで、経済力と政治力が肥大化したが、新規加盟が一段落し、経済不安がささやかれると、求心力はたちまち失われた。ついに2016年、イギリスにおいてEU離脱を問う国民投票が行われ、離脱賛成が多数を制した。紆余曲折を経て、2020年にイギリスはEUを抜けた。これがブレグジットである。

国際関係の変調はヨーロッパだけでなかった。TPP(環太平洋経済連携協定)はそもそも2006年にシンガポール・ニュージーランド・チリ・ブルネイの4か国が締結した経済自由化の合意であった。これにアメリカ合衆国が加わる意思があると分かると、拡大の機運が高まり、2016年にオーストラリア・カナダ・日本・マレーシア・メキシコ・ペルー・アメリカ合衆国・ベトナムが加わって12か国が新協定に署名した。

ドナルド・J・トランプに大統領が代わった2017年、アメリカ合衆国は不参加を表明した。ブレグジットの場合もそうであったが、国内に孤立主義者と国際主義者の両方がいて、政策の綱引きをしている。同国を除く11か国は2018年、CPTPP協定(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)に署名し、2023年にそれらすべてで発効した。

唯一、安定した成長を続けたのが中国であった。国際関係においては、鄧小平の韜光養晦の教訓に従い、胡錦濤国家主席の時代まで隠忍自重した。東アジアにおいては他国の上に立とうとするのでなく、ASEANを核とする会議やフォーラムへの参加を重視した。2005年に初めて開かれた東アジアサミット(東アジア首脳会議)にも、アメリカ合衆国とロシアに先んじて、参加した。

ところが、2008年の北京オリンピックと2010年の上海万国博覧会を成功させたあたりから、様子が変わり始めた。習近平が次期の指導者としての地位を確実にし、2013年、正式に共産党総書記に就任すると、毛沢東にならって独裁者としてふるまい、アメリカと対決した。

経済について見ると、2014年のBRICS開発銀行と2016年のAIIB(アジアインフラ投資銀行)の設立は、世界銀行やアジア開発銀行のような既存の国際金融機関への挑戦であった。2017年に北京で一帯一路会議が開かれ、中央アジアとインド洋一帯に巨額な資金が投じられた。中国が世界を指導する「中国の夢」にアメリカ合衆国は警戒し、トランプ政権は2018年、米中貿易戦争に踏み切った。

トランプ第1期政権の誕生をもってグローバリズムは終わったと表現するべきである。この政権は具体的な成果を残すことができなかったが、民主党のジョセフ・R・バイデン大統領も保護主義から脱却できなかった。


[1] ジュール・ヴェルヌ、『八十日間世界一周』、鈴木啓二訳、岩波書店、2001年。

[2] E・J・ホブズボーム、『資本の時代 1848-1875』、I、みすず書房、1981年、73-74ページ。

[3] 大前研一、『ボーダレス・ワールド』、田口統吾訳、プレジデント社、1990年、12ページ。

[4] 野林健、大芝亮、納家政嗣、長尾悟、『国際政治経済学・入門』、有斐閣、1996年、118-119ページ。

[5] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』、渡辺龍也訳、新評論、2006年、204、205ページ。マイケル・バラット・ブラウン、『フェア・トレードー公正なる貿易を求めて』、青山薫、市橋秀夫訳、新評論、1998年、128ページ。

[6] オックスファム・インターナショナル、『貧富・公正貿易・NGO』。

[7] ジェフリー・サックス、『貧困の終焉』、鈴木主税、野中邦子、早川書房、2006年。ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年。

[8] 橋本光平、『国際情勢早わかり2002年版』、PHP研究所、2002年、93ページ。

[9] ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、鈴木主税訳、徳間書店、2002年。

[10] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水島一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳、以文社、2003年。原著は2000年出版。

[11] ネグリ、ハート、『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』。

[12] 東谷暁、『グローバル・スタンダードの罠』、日刊工業新聞社、1998年。

[13] Janet Thomas, The Battle in Seattle: The Story Behind and Beyond the WTO Demonstrations (Golden: Fulcrum Publishing, 2000), pp. 7-8.

[14] レスター・R・ブラウン、『地球白書2000-01』、浜中裕徳監訳、ダイヤモンド社、317、332ページ。

[15] “我が国の経済連携協定(EPA/FTA)等の取組,” Ministry of Foreign Affairs of Japan, January 8, 2026, https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fta/, accessed on February 23, 2026.

[16] 山下知志、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、講談社、2008年、52、72、83ページ。

[17] 山下、『図解 世界のお金の動きが一目でわかる本』、90ページ。

[18] Z・ブレジンスキー、『ブレジンスキーの世界はこう動く』、山岡洋一訳、日本経済新聞社、1998年、173ページ。

[19] 『日本経済新聞』、夕刊、2012年6月11日。『日本経済新聞』、朝刊、2015年7月12日。

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