戦争はしないのが一番よい。第一次世界大戦と第二次世界大戦は何千万という単位の死者を出した。戦後でも朝鮮半島、カンボジア、ベトナム、エチオピア、ルワンダをはじめ、百万人以上の死者を出した紛争は9を数える[1]。国際法を整えれば、死者をどのくらい減らせるか?

武力紛争をめぐる国際法が本領を発揮するには、いくつものハードルがある。問題の行為を違法とする条約がない、とか、管轄権が否定されて裁判が行われない、といったものが代表的である。これらを克服して国際法が整備されても、犠牲者がなくなるわけでない。戦争は「クリーン」になっていくかもしれないが、それゆえに、戦場の悲惨さに鈍感になってしまうおそれもある。

とはいえ、戦争の犠牲を小さくしたい願望は理解できる。今回のテーマは、人道法と戦争法がいかに発達してきたか述べなさい、である。

十字軍の昔から、戦場には医療と看護がつきものであり、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)がその名残である。赤地に白十字の旗は何かに似ていないか? 修道女と修道士がキリスト教圏で傷ついた兵士を救ってきた歴史を変えた人物が二人いた。

フローレンス・ナイティンゲールは修道女が行った仕事を近代化し、専門の看護師がシステマティックにそれを行うことを進言した。軍人や医師とごちゃまぜになっていた指揮命令の系統を独立させ、給食・与薬・湿布貼りなどの任務を専門化した[2]。戦場では修道女のように中立的ではなく、彼女はイギリス軍に所属してイギリス兵を救う交戦当事者であった。クリミア戦争への従軍では、陸軍病院における女性看護師の総監督を務めた。

アンリ・デュナンは1859年にイタリアを旅行中、フランス軍とオーストリア軍の戦いに遭遇した。村人とともに両軍の兵士を分けへだてなく救護し、『ソルフェリーノの思い出』に体験を記した。これ自体は感動的な話ではあったが、兵士が民間人に化けて敵に近づく背信行為やスパイは各国に警戒され、中立の第三者が救護をするアイデアはなかなか採用されなかった[3]

デュナンのアイデアに基づく赤十字規約が決議されたのは1863年であった。現在の赤十字国際委員会(ICRC)に当たるジュネーブの赤十字委員会はこの規約で特別な役割を与えられ、各国で立ち上げられる赤十字社および赤新月社の仲立ちを任された。赤十字国際委員会の委員は交戦国にならない中立国スイスの国民のみであるので、敵対国の委員が口論するとか、紛争当事国の委員が自国政府の代弁をするとかいうことはないであろう。

各国の赤十字・赤新月社は自国の政府とふだんから連絡をとり、物資や要員も用意しておく。戦時には、交戦国の赤十字・赤新月社は自国軍を救護し、中立国の赤十字・赤新月社に支援を要請する。中立国から派遣された要員は赤十字の腕章を着用する。

1864年には、ジュネーブ条約がスイス政府の招いた国際会議で採択された。交戦国の義務は、救急車・病院・要員の中立を尊重する、傷病兵を国籍によって分けない、救急車・病院・退去者に旗を立てる、である。要するに、赤十字のマークを付けた人と物は攻撃の対象にしてはならない、ということである。

これら赤十字国際委員会、ジュネーブ条約締約国、各国赤十字・赤新月社、そして国際赤十字・赤新月社連盟が集まって、国際会議を開く。戦場における中立を支える制度の充実がうかがえる。

赤十字は傷病兵の救護だけでなく、多くの分野に活動範囲を広げた。1930年代のスペイン内戦では、交戦団体間における捕虜の交換を仲介した。第二次世界大戦では、飢餓に苦しむ占領下のギリシャに食糧を海上輸送した。ナチスの絶滅収容所からユダヤ人を救出した。広島の被爆者のため、進駐軍から供与された医薬品と医療器材を配給した[4]

交戦国からの中立が原点であったジュネーブ条約は1949年、ジュネーブ諸条約と総称される4本の条約へと発展した。第1条約は陸戦、第2条約は海戦、第3条約は捕虜、そして第4条約は文民を対象とする。これらには共通の第3条があり、内乱・内戦にも適用されると明記された。赤十字など人道団体によるさまざまな活動も認知された。

にもかかわらず、傷病兵・難船者・捕虜・文民の保護が十分であるかについては、現代も論争がある。9・11後の対テロ戦争で、アメリカ合衆国はテロ組織アルカイダの幹部とされる人物を勾留し、「水責め」と称される訊問を行った[5]。訊問を許可したジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が司法によって裁かれなかったことは言うまでもない。確かに、ジュネーブ第3条約の観点からは、テロリストは軍隊の構成員であるのか?、水責めは健康に重大な危険をもたらすのか?、CIA職員による訊問に戦時国際法は適用されるのか?、といった論争はある。しかし、仮に法に触れなかったとしても、法規範の迂回を試みる逃げの姿勢そのものが非難に値した。勾留先にグアンタナモ基地が選ばれたのは、合衆国の人権基準も、所在地のキューバの人権基準も適用されないからであった。

イラク戦争に関しても、アブグレイブ刑務所に収監された被拘禁者が虐待された。被拘禁者を米軍兵士が侮辱する姿を撮った写真はセンセーショナルであり、その兵士は有罪判決を受けた。

1948年のジェノサイド条約は、非人道的行為を違法化する点では戦時のジュネーブ諸条約に似るが、平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、ジェノサイド(集団殺害)は犯罪であると定める。犯罪という言葉が示すように、締約国はそれを処罰することを約束している。

ナチスの残党アドルフ・アイヒマンをイスラエルの諜報機関モサドはアルゼンチンで捕まえ、自国に連れて裁判にかけた。アルゼンチンの主権とジェノサイドの処罰をイスラエルは天秤にかけ、後者を選んだのである。

残念なことに、ジェノサイドはその後も行われた。1995年のスレブレニツァの虐殺では7千人が犠牲になった。当時、国連難民高等弁務官であった緒方貞子の回想を引用する。BSAとはボスニアヘルツェゴビナにおけるセルビア人の軍隊である。

七月一一日の朝六時ごろ、スレブレニツァはセルビア軍に制圧された。―中略―一万五〇〇〇人のボスニア系男性は飛び地を出て周辺のセルビア領地へと移動しはじめた。この避難民の集団に対して、BSAは女性、子ども、高齢者を男性たちと引き離し、車に乗せてスレブレニツァから追放した。―後略―

―前略―チームは国連保護軍とセルビア軍兵士が最後のムスリム人グループをセルビアのバスに連行するところを目撃した。途中で、チームのメンバーは地元のセルビア系住民から、大勢の人々がブラトナッツのサッカー場のそばに拘束されたままで、その方角からときどき銃声がした、と聞かされた[6]

子供も、エスニック集団に劣らず、戦場において保護すべき対象である。子供兵士、児童兵士、または少年兵が生まれる原因には、人身売買、貧困、宗教、ナショナリズム、誘拐、孤児、暴力、薬物などがあるとされる[7]。子供兵士は他の社会的な病理によってもたらされるもので、健全な社会であれば、親はわざわざ子供を兵士として差し出さない。

1989年に採択された児童の権利条約は、15歳未満の者を軍隊に採用することを差し控え、それ以上の者でも18歳未満の者は最年長者から採用することを締約国に求める(第38条3)。また、その選択議定書は18歳未満の者を敵対行為に参加させないことを定める。しかし、子供兵士がはびこっているところでは、国家でなくゲリラが子供たちに戦わせている。子供兵士を禁じる国際法はほかにもあるが、世界には国際法の力が及ばない土地が残っている。

人道法と並ぶ武力紛争法の流れに戦争法がある。人道法がジュネーブ法と呼ばれるのに対応し、戦争法はハーグ法ともいう。

プロレスに喩えると、ジュネーブ法とハーグ法の違いは理解しやすい。戦闘員はレスラーに当たり、リング内でルールに従って闘わなければならない。ジュネーブ法は戦闘外に置かれる者を指定する。レスラーがロープをつかんだり、リングから出たりすれば、攻撃してはならない。戦場で傷病兵を攻撃してはならないのと同じである。また、レフェリーや観客も攻撃してはならない。中立の赤十字や非戦闘員の市民を攻撃してならないのと同じである。

他方、ハーグ法は戦闘員間の闘う方法についてのルールである。それはリング内で相手レスラーを攻撃する際に、目・のど・股間を攻撃してはならないことや凶器を使ってならないことと似ている。

ハーグ法において、条約として先行したのは害敵手段、特に武器性能、に関する制限であった。

1868年のセント・ペテルスブルク宣言は、銃弾のなかに破裂・爆発・燃焼する物質を詰めて使うことを禁止した。それらが射ち込まれた体内で破裂・爆発・燃焼すると痛いし、生命に危険を与えるからである。なぜ禁止するかの理由が前文に書かれていて興味深い。戦闘の「唯一の正当な目的は敵の軍事力を弱めること」という。当時は無差別戦争観で、国家間の決闘として戦争は理解された。敵の兵士を戦闘不能にしたならば、それ以上の苦痛を与えたり、命を奪ったりすることは目的の範囲を超え、「人道の法に反する」と信じられた。

ハーグ法と呼ばれるゆえんは、1899年にオランダのハーグで第一回ハーグ平和会議が開かれ、ハーグ陸戦規則が作成されたからである。その前文であるマルテンス条項は戦争法の精神を謳ったものとされる。すなわち、戦争法の行動規範はまだ完備していないが、そうなるまえでも文明国間の慣習や人道の法則、公共の良心に従って、人々や交戦者は保護されなければならない。本当にこれが守られていたならば虐殺は歴史のなかの偶発的な事故にすぎなかったであろうが、原子爆弾は意図的に都市を目標として使われた。

毒ガスは第一次世界大戦において実戦使用が始まった。窒息剤の塩素やホスゲンに始まり、殺傷性が高く、イーペルというベルギーの町で1917年に使われたイペリットガスのようなものまで現れた[8]。毒ガスと窒息剤を総称して化学兵器という。1925年には、これらと細菌兵器の使用を禁止するジュネーブ議定書が署名された。締約国であったイタリアはエチオピアとの戦争でイペリットガスを使った[9]

日本について、化学兵器を日中戦争で使ったという説がある。イラン・イラク戦争ではクルド人に対してイラク軍により使われた。使用ばかりでなく、生産も貯蔵も不可とした化学兵器禁止条約は1993年に署名された。

非人道的な武器の規制では、対人地雷とクラスター爆弾に対するものがある。対人地雷は人間の接近や接触で爆発する地雷で、車両によって爆発する地雷は含まない。紛争が終わっても地中に残され、それを踏んだ普通の人々から手足を奪い続けている。対人地雷禁止条約は特に大国からの反対が強く、国連の会議ではなく、有志の国々を集めたオタワ・プロセスをつうじて作成された。オタワ・プロセスはカナダ主催のオタワ会議において1996年に始まり、翌年、ノルウェーのオスロで条約を採択した。使用・貯蔵・生産・移譲を禁止し、すでに設置されたものは廃棄するのが締約国の義務である。

クラスター爆弾は収束爆弾ともいわれ、爆弾のなかに子爆弾が入っていて、空中で散らばる。やはり、紛争後も子爆弾の不発弾が破裂し、人体を傷つける。2007年、ノルウェー主催の会議でオスロ・プロセスが始まった。翌年のダブリン会議でクラスター爆弾禁止条約が採択され、その年末にオスロで署名された。

対人地雷禁止条約とクラスター爆弾禁止条約には、米中ロといった大国が入っていない。核兵器禁止条約もそうであるが、大国とそれ以外との断絶は広がっている。

次は何が禁止されるであろう? 2013年に、キラーロボット、すなわち完全自律型兵器、を禁止させるため、ヒューマンライツウォッチらNGOがストップ・キラーロボット・キャンペーンを結成した。それとも、放射線が人体に悪影響を与える劣化ウラン弾が禁止されるであろうか? いずれにせよ、実戦用に配備されている間は、なかなか国家はその兵器の禁止に加わらないものである。

ハーグ法が規制するものは非人道的な武器ばかりでない。ハーグ陸戦規則の第25条は無防守都市の攻撃を禁止する。第27条は宗教・技芸・学術・慈善のための建物、歴史的記念物、そして病院にはなるべく損害を与えないように、と定めた。第一次世界大戦において、さっそく、それらの施設は損害を受けた[10]

原爆を投下された広島は無血開城する無防守都市でなかったものの、軍事目標でなかったことはまちがいない。一発の原爆によって14万人の犠牲者が巻き添えとなり、多くの建物や文物が破壊された。より小さな規模で類似のことがその後の歴史で繰り返されている。巻き添えや誤爆の問題に国際法が十分に対応しているとは思えない。それらについても、ノーモア・ヒロシマである。

単に条約を結ぶだけでなく、違反者を裁くようになれば、人道法に知らんぷりを決めこむわけにいかなくなる。第二次世界大戦後、勝者による敗者の裁判が行われた。ニュルンベルク裁判と東京裁判である。それらにおいて、戦争犯罪は平和に対する罪、通例の戦争犯罪、そして人道に対する罪に分けられた。平和に対する罪を犯した者がA級戦犯であるが、開戦を導いた政治指導者たちのことであるので、今回は論じない。通例の戦争犯罪とは、ハーグ陸戦規則など戦争法への違反であり、その違反者がB級戦犯である。最後の人道に対する罪は、文民に対する殺人、絶滅、奴隷化、追放などの非人道的な行為であり、違反者はC級戦犯である。

国際刑事裁判がつぎに注目を浴びたのは、半世紀後のユーゴスラビア紛争においてであった。国連安保理決議S/RES/827は、1991年以来の旧ユーゴスラビア領域における国際人道法違反を裁く国際法廷を1993年に設立した。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)は2001年、ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ前大統領をハーグ郊外スヘフェニンヘンの拘置所に収監した。ベオグラードでは抗議のデモが起きた。彼は2006年に死去したため、判決は出なかった。

2016年、ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人指導者ラドバン・カラジッチにICTYは、スレブレニツァでのジェノサイドに関して禁錮40年の判決を下した。ところで、「旧」ユーゴスラビアとなぜ呼ぶか?、というと、それが解体した後に「新」ユーゴスラビアが編成されたからである。

国際法違反への処罰は順調にルール化されているようにみえた。1994年には、安保理決議S/RES/955に基づき、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)がタンザニアのアルーシャに設けられた。ルワンダで1994年に犯されたジェノサイドその他の罪を裁くのが任務である。

いうまでもなく、安全保障理事会は「国際の平和及び安全」に責任を持つ大国中心の機関である。そうした大国の意向が強く働く機関の決定で、裁判所が作られたり、作られなかったりしてよいのか? 法の支配に反しないのか?

これ以上、安保理決議によって作るのはよくないと考えてか、常設的な国際刑事裁判所(ICC)を設立するための国際会議がローマで開かれた。国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が1998年に採択され、60か国の批准を得て、2002年に発効した。

自国民がICCに訴えられることを嫌がる国もある。そういう国は規程に入らなければよい、というだけではすまない。ICCの管轄権は、容疑者・被告人が国籍を持つ国が規程締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合だけでなく、犯罪が発生した国が締約国であったり、管轄権を受諾していたりする場合にも及ぶ。こうしたことから、他国への派兵が多いアメリカ合衆国は、自国民を告訴しないよう各国に求める。ビル・クリントン大統領は国際刑事裁判所規程に署名したものの、次のジョージ・W・ブッシュ(子)政権は書名を撤回した[11]

ICCに対しては一部の国に不公平感がある。スーダンの大統領であったオマル・ハサン・アフマド・アル・バシルは就任中、ダルフール紛争について人道に対する罪・戦争犯罪・ジェノサイドの容疑で逮捕状が出された。ヨーロッパ人が裁く側で、その他は裁かれる側でないか、という認識が広がっている。当初、積極的であったアメリカ合衆国がそうであるように、国際刑事裁判に対する熱意は1990年代よりも冷え込んでいる。

国内における大規模な暴力を裁判で処罰しようとすると、対立が再燃しかねない。真実和解委員会は国際刑事裁判へのオルタナティブである。南アフリカのネルソン・マンデラ大統領は1995年、デズモンド・ムピロ・ツツ大主教を議長とする17人の委員を任命した。

白人とアフリカ人、アフリカ人と白人、そしてアフリカ人とアフリカ人の間の暴力を、公開ですべて明らかにする、というのが南アフリカ真実和解委員会の任務であった。しかし、刑罰を科すと人種間の対立が再燃するので、犯人は免罪とすることにした。1998年に報告書が出て、多数の暴行が明らかになった[12]

ネバー・アゲイン!をコンセプトとする真実和解委員会はシエラレオネでも設けられた。シエラレオネ内戦といえば、反政府勢力であるRUF(革命統一戦線)が市民の腕を切断する残虐な行為で1990年代後半に世界を震え上がらせた。RUF側はこれは真実でないと反論している[13]。反論のすべてが真実でないにしても、RUFの側には言い分がある。

シエラレオネでは、真実和解委員会ですべてを許すことはしなかった。別にシエラレオネ特別裁判所を国連と共同で2002年に設置し、戦争犯罪に最大の責任がある13人だけを訴追した。RUF議長のアハメド・フォディ・サンコーも13人に入っていたが、彼は審理が始まるまえに死んでしまった。隣国リベリアの大統領で、反乱を支援したチャールズ・テイラーも裁判にかけられた。彼は判決が下された9人のうちの一人であり、2012年に禁固50年の判決を受けた[14]

このやり方に続いたのはカンボジアであった。1970年代の虐殺を裁くポル・ポト派特別裁判所は同国と国連との合意により、外国人を裁判官に加え、21世紀になって設けられた。ポル・ポト派がプノンペンを支配していた時代の国家元首が人道に対する罪やジェノサイドの容疑で訴追され、有罪判決が下された[15]

国際刑事裁判所と真実和解委員会に加えて、国内裁判所を使う場合もある。ティモールレステは三本立ての実例であり、国際刑事裁判所に当たる重大犯罪パネルと真実和解委員会は国連PKOであるUNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)によって組織され、それとは別にインドネシアの国内裁判所も自国民の裁判を行った。

国内裁判所を人道法の裁判のために使うことには懸念もある。イラクの大統領であったサダム・フセインは米軍の捕虜となったあと、イラクの国内裁判所が出した判決によって2006年、処刑された。権威が失墜した政治家の裁判はその国の政治情勢に左右されてしまう。 武力紛争の分野で法の支配が完成するのは当分、先であろう。手探りながらも、経験を積むことはムダでないと信じたい。


[1] ケンブリッジ現代社会国際研究所、猪口孝編、『ヴィジュアル・データ百科 現代の世界』、原書房、2008年、103ページ。

[2] ナイチンゲール、『ナイチンゲール著作集』、湯槙ます監修、第2版、現代社、1983年、35-140ページ。

[3] 井上忠夫、『戦争と救済の文明史』、PHP研究所、2003年、58ページ。

[4] マルセル・ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、丸山幹正訳、増補版、勁草書房、1991年、86-87、165、266ページ。

[5] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、257-260ページ。

[6] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、120-121ページ。

[7] P・W・シンガー、『子ども兵の戦争』、小林由香利訳、日本放送出版協会、2006年。

[8] 井上尚英、『生物兵器と化学兵器』、中央公論新社、2003年、27ページ。

[9] ジュノー、『ドクター・ジュノーの戦い』、42ページ。

[10] バーバラ・W・タックマン、『八月の砲声』、下、山室まりや訳、筑摩書房、2004年、185ページ。

[11] ビル・クリントン、『マイライフ クリントンの回想』、下、楡井浩一訳、朝日新聞社、2004年、741ページ。

[12] Robert I. Rotberg, “Truth Commissions and the Provision of Truth, Justice, and Reconciliation,” in Robert I. Rotberg and Dennis Thompson, eds., Truth v. Justice: The Morality of Truth Commissions (Princeton: Princeton University Press, 2000), p.5.

[13] Philippe Diaz, Philippe Peccatier, and Richie Havens, The Empire in Africa, Cinema Libre Studio, 2007.

[14] “Eleventh and Final Report of the President of the Special Court for Sierra Leone,” The Hague (2013).

[15] 伊藤学、「ポル・ポト派元最高幹部2人に終身刑 カンボジア、特別法廷が判決」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年8月7日。

プライバシーポリシー

© 2026 Ikuo Kinoshita

ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
集団安全保障
https://youtu.be/py3TVxAbaL8 集団安全保障がない国際平和は、警察がない治安と同じである。その心は、非常に危うい、ということである。集団安全保障の本質は、武力行使の違法化とその違反に対する社会からの制裁にある。 集団安全保障の発案者は、18世紀初めのフランスの学者サンピエール神父である。彼が構想したことはこうであった。ある国が違法に武力を行使したとする。その国はヨーロッパ社会全体の敵とみなされる。交戦…
非核地帯
非核地帯とは核兵器の非武装地帯である。そこには核兵器はないので、核攻撃の発源地にはならない。この意味で平和に貢献するともいえるが、核攻撃の目標にはなりうるわけで、その抑止を希望するのであれば地帯外の国に抑止力を期待しなければならない。もちろん、抑止を希望しない場合にそうした必要はないが、被弾の不安がなくなることが条件である。不安を取り払うことは簡単でないわけで、やはり何がしかの努力が必要である。…
帝国主義
https://youtu.be/YQf68SlZnnk 人間の注意が自らの周囲にしか行き届かないのであれば、よその国まで経営する帝国主義は資源を有効活用できない。それゆえ、抑圧された人々が一斉に立ち上がることになれば、経営の損得勘定はたちまち行き詰まる。それにもかかわらず、一時代、世界を覆いつくしたのは、単に戦争に勝っただけでなく、経済的利益と政治的支配を巧妙に両立し、強者に都合よい思想、つまりヘゲモニー、を使って正当化し…
世界システム
https://youtu.be/d2KE8CA3_qQ 中世イタリアの物語『デカメロン』はペストの流行から避難する話である。この流行は何年もかけてユーラシア大陸を横切り、物語が始まった1348年には、エジプトからヨーロッパに広まったところであった[1]。2009年のインフルエンザ・パンデミック(H1N1)はメキシコから、2020年のコロナウイルス・パンデミック(COVID-19)は中国から、あっというまに全世界に広まった。地球はもはや一つの感染システ…