残虐な捕虜の扱いや武器の使用を見過ごせないのが人間である。利益だけでなく、正義を重んじる。死者や負傷者を減らすことだけ考えれば、そもそも戦争を行わないのが最善である。戦争がやむをえないのであるとすれば、正義にかなっているか、かなっていないか、厳しく吟味しなければならない。

残虐な捕虜の扱いは人道法、残虐な武器の使用は戦争法の守備範囲である。これらをまとめてラテン語でユス・イン・ベロという。戦争行為における合法性がその意味である。戦争そのものの正当性のことはラテン語でユス・アド・ベルムという。これら2種類の戦争に関する国際法をまとめて武力紛争法ともいう。これから見るのはユス・アド・ベルムつまり正戦論である[1]。今回のテーマは、現代の「正戦論」について論じなさい、である。

正戦は聖戦でない。聖戦は十字軍やジハードのように宗教上の理由で異教徒や異端者に対して宣言されるものである。正戦は不正を正す戦争のことであるが、ヨーロッパにおいてはキリスト教神学とともに始まったとされる。本来のキリストの教えは絶対平和主義に近かったであろう。しかし、それがローマ帝国の国教となると、現実の権力と折り合いをつけることが避けられなくなった。アウグスティヌスやトマス・アクィナスに起源をさかのぼるキリスト教神学において、平和とは単に国家間戦争がないことではなく、精神的に満たされた状態のことである。不義を討たなければ、満たされた状態はもたらされない。

主権国家が出現した近代初期、国際法の父と呼ばれる学者たちが現れた。フランシスコ・デ・ビトリアやフーゴー・グロティウスである。彼らは、相手の行動に一定の問題がある場合には戦争は許されるとした。そうして挙げられる戦争事由のことを、ラテン語でカスス・ベリという。攻撃された側には戦争事由は必要ない。自衛はつねに正当な事由であると考えられたであろう。

19世紀になると戦争事由は名目的なものになり、事実上、戦争に訴えることは自由になった。学説でいうと、開戦の理由に正不正はないとする無差別戦争観が主流になる。国家間における戦争は個人間における決闘に当たるものであり、国家間の紛争解決の方法である。正不正について論争があり、交渉で決着しないのであれば、仲裁が行われるのでないかぎり、戦争でカタをつけるほかない、という論理が幅を利かせた。

2度まで世界大戦の惨禍を経験した現代では、無差別戦争観は捨て去られた。国連憲章の第2章4が武力行使を禁止する一方で、憲章の第7章は集団安全保障と自衛権に基づく武力行使を認める。集団安全保障とは、五大国が一致して国際の平和および安全を守ることである。自衛権とは、五大国が一致しないがゆえに攻撃された国家は自力救済できるという権利である。

一部の国によって主張された正戦論に、ブレジネフ・ドクトリンまたは制限主権論がある。1968年に、チェコスロバキア政府がソビエト連邦の承認を得ず、勝手に民主化と中立化を始めた「プラハの春」が起きた。これをワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに攻め込み粉砕した。社会主義共同体を救うためには軍事介入も許されるという正当化の論理がソ連共産党書記長にちなみ、ブレジネフ・ドクトリンと称される。ソ連が武力行使をしても、核抑止力を持っているので誰も軍事力で止めることができない。大国が懲罰としての戦争をあえて行うことは今後も起こりえる。

国際法上の戦争とは、国家にたいする武力行使を伴うものである。海賊は国家から独立して活動するので、それを攻撃することは国際法上の戦争に該当しない。そのうえ、海賊は人類の敵とみなされており、その取り締まりは戦争ほど厳しく規制されてこなかった。慣習法や国連海洋法条約は海賊船の拿捕と海賊の逮捕を認める。ちなみに、国連海洋法条約第101条が定義する海賊行為とは、私有の船舶・航空機の乗組員・旅客が私的目的のために公海等にある人身・財産に対して行う不法な暴力行為・抑留・略奪行為である。

今回は正戦論のなかでも、特に人道的介入に注目したい。冷戦の終結から21世紀の初めにかけて、世界各地の紛争に外国が武力を使って介入をすることが少なからず行われた。そのたびに論争が巻き起こり、国際法上、合法か、違法か、をめぐって議論が戦わされた。

国際司法裁判所の管轄権は十分でなく、人道的介入の合法性をめぐる論争に決着をつけるだけの判例は積み重ねられていない。また、保護する責任をはじめとして新しい国際規範を定める動きも実を結ばなかった。ある国際法の教科書は、人道的な理由による武力行使が国際法上、許容されるに至ったと見ることには疑問がある、と記した[2]。繰り返し言うが、大国による武力行使の正否をめぐる論争はしばしばうやむやに終わる。

国際法で戦争の正不正を断じる代わりに、次善の策として、正不正を判断するためのいくつかの論点を検討することは無益でない[3]

まず、狭い意味での正戦論は、大義名分を問うことである。何百万人も犠牲となる虐殺をまえにして、手をこまねいていてよいか? 戦争の違法化という一般原則への例外として、武力介入しなければならないのでないか?

つぎに、国際社会の権威がお墨付きを与えれば、戦争をしてもよいと考えるかもしれない。集団安全保障は国際連合によるお墨付きである。では、地域的機構にそうした権限はないのか? この議論は国連憲章が起草された昔から存在したが、できた憲章は地域的機構の権限を否定した。

また、平和的に紛争を避けようと手を尽くしても、解決しなかった場合、最後の手段として戦争もやむをえない、という結論に至るかもしれない。国連憲章でも、非強制的な解決手続きがあり、非軍事的な強制措置があり、そのうえで、軍事的な措置が定められている。

さらに、コストの問題がある。これは経済的なものだけでなく、人的なものや環境的なものまである。犠牲者を減らすという人道法や戦争法の目的もここに含まれる。コストが大きいから一概に戦争は不可というわけではない。目的と手段が釣り合っていれば、犠牲を払う価値があるかもしれないからである。これを比例原則という。

最後に、負ける戦争を始めてはならない。当たり前のことと思われるかもしれないが、実際にはしばしば失敗する。兵力やテクノロジーに差があり負けるわけがないと思っている敵でも、いわゆる出口戦略を誤れば、犠牲が大きく、効果が小さい介入になってしまう。「任務遂行のためには、けちけちせずに必要なだけ送りこむ」という原則にはパウエル・ドクトリンという呼び名まである[4]

以上の論点から、冷戦後の主な戦争を吟味する。1991年における湾岸戦争の大義名分は、侵略からの解放であった。これは国連憲章に書かれた大目的であるのみならず、安全保障理事会があらゆる手段を使ってよいと権限を与えた。攻撃を始めるまえには、イラクに経済制裁を科し、サダム・フセイン大統領に世界の要人たちが会って和平の周旋をした。コストは決して小さいものでなく、油田が炎上したり、多くのイラク兵が殺傷されたりした。民間人への誤爆も報道された。劣化ウラン弾から発する放射線は、湾岸戦争症候群と呼ばれる兵士の体調不良の原因でないかと噂された。米軍のハイテク兵器に世界は目を見張り、作戦の成功を信じた。

1999年のコソボ戦争が大義名分としたエスニック・クレンジングの阻止は人道に対する罪に当たり、申し分のない理由である。ところが、ロシアと中国の理解が得られず、安保理決議は出なかった。NATOはランブイエ和平会議を開くなど努力はしたものの、集団的自衛権に基づく同盟であるので、国際法上はユーゴスラビアを攻撃する権利はなかった。それでも、NATO軍は圧倒的な軍事的優位を見せつけ、ユーゴスラビアを屈服させ、コソボから手を引かせた。攻撃により、ユーゴスラビアの橋や道路といったインフラが破壊されたが、NATO機は破壊しなくてよいベオグラードの中国大使館まで誤爆し、館員を殺してしまった。中国では「北約」、すなわちNATO、を非難するデモが起き、人道的介入に中国が賛成することは以後、なかった。

2001年の対テロ戦争は、被害を受けたアメリカ合衆国の自衛権に基づくとされ、安保理決議も同じ認識であった。アメリカ合衆国は9・11のテロ事件を起こした容疑者の身柄引渡しをアフガニスタンのタリバン政権に要求した。要求自体は正当であるものの、応じないことを見越した形だけの手続きであったかもしれない。大量の難民がアフガニスタンから流出し、米軍が撤退するまで20年もがかかったことは脇に置かれがちな戦争のコストである。

2003年のイラク戦争は大量破壊兵器の不拡散が大義名分であった。曖昧な安保理決議が出ていただけで、明確に武力行使を認める決議はついに出なかった。イラクに大量破壊兵器が存在することを示す説得力ある証拠をアメリカ合衆国が出せなかったからである。フセイン政権を倒したのちも、占領軍は大量破壊兵器を発見できず、治安の悪化によって何万もの命が奪われた。

2022年のウクライナ戦争はすべてがロシアのウラディミル・プーチン大統領の独断であった。ウクライナの現政権はネオナチであるという主張と、同国に中立化・非武装化・体制変化を迫る要求は国連憲章における政治的独立の原則を一顧だにしなかった。プーチンはそれ以前にクリミア半島を併合し、東ウクライナを分離独立させる行動をとっていたが、これらも憲章違反の領土保全侵害である。彼の戦争ならぬ「特別軍事作戦」にはお墨付きも紛争解決努力もなかった。緒戦の電撃戦が失敗したことにより、何百万人もの難民がウクライナを出た。飛行機とミサイルによる無差別爆撃は都市を破壊したのみならず、子供を含む多くの市民を殺傷した。ブチャという町でロシア兵がウクライナ市民を虐殺したという報道は世界を悲しませた。

上の諸例について、国際法学者の賛否は分かれた。合法性の要件を満たしたと考えられる湾岸戦争にさえ、多国籍軍は国連憲章に示された国連軍のモデルとかけ離れている、と皮肉がささやかれた。コソボ戦争は大義名分は申し分がなくても、国際法的には国連憲章違反であった。対テロ戦争の本来の目的はテロリズムの首謀者ウサマ・ビンラディンを捕まえることであったはずが、いつのまにか別の目的に置き換えられた。イラク戦争とウクライナ戦争に至っては、評価すべき点は何一つ見いだされない。

そもそも、純粋に、他人のためだけに戦争することなど、本当にあるのか? レーガン政権の国防長官キャスパー・W・ワインバーガーが演説した内容はワインバーガー・ドクトリンとして知られる。彼はアメリカ合衆国が派兵するに当たっての条件を挙げた。一に自国の国益、二に勝利の見通し、三に明確に定義された政治的・軍事的目標、四に継続的に再検討し、必要があれば修正されること、五に議会代表者の支持、六に最後の手段であること、である[5]。安保理決議による承認は含まれておらず、アメリカ合衆国の国益が第一にされている。演説が行われた冷戦中の1984年に国連安保理で米ソが折り合うのは現実的でなかったにせよ、自由も、民主主義も、人道さえ、判断基準にないのは注目に値する。

国益を最優先にすれば、国際法との両立が絶望的と思える状況がある。ブッシュ・ドクトリンは、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)政権が2002年に出した「国家安全保障戦略」(NSS)に記載された。通常弾頭であれば一発、国土に撃ち込まれたところで自衛権を発動し、反撃しても被害は軽微かもしれない。しかし、その一発が核兵器であったなら、人口密集地で爆発してから反撃するのでは遅すぎる。こうした大きな脅威にたいしては、いつどこで相手が攻撃してくるか予測できなくても、自衛のために先制攻撃をする方針がブッシュ・ドクトリンである[6]

ブッシュ・ドクトリンは翌2003年のイラク戦争を導く論理となった。理論的には、相手が核攻撃をしてくる可能性はつねに存在する。現実的には、核攻撃はナガサキ以降、起きていない。核攻撃の準備は当時でさえイラクより北朝鮮のほうができていた。ブッシュ・ドクトリンは戦争正当化のための言いがかりであった。

実際、意思決定者が何を考え、戦争をしているか、それは理論でなく、感情かもしれない。9・11事件の直後、ニューヨークの世界貿易センタービル跡を訪れたブッシュ大統領が感じたことを、記者のボブ・ウッドワードは次のように伝える。

そこにいた人々が、疲れた顔で、こちらの目を覗き込み、『やつらを叩きつぶせ』というんだ。だから、やつらを叩きつぶす。疑問の余地はない」その時点では、ブッシュは国民の強い圧力を感じていなかった。「いっぽうで、わたしの体、わたしの時計は――自分でもどうしようもない――本能だけになっている―中略―やる気満々になっている[7]

犠牲者に共感することが指導者の資質の一つであることは否定しない。しかし、このように発言すれば、自衛よりも復仇、すなわち仇討ち、が真の戦争目的であるかのように受け止められる。国民国家のバイタリティという観点からは、名誉や威信にかけて戦うのは正解であるが、それらだけで戦争を始める国が続けば、各国の不平不満が爆発して世界大戦になることは避けられない。やはり、国益だけを戦争の基準とするのでなく、国際社会も納得できる理由がなければ戦争はできないという基準にしなければならない。言い換えれば、正戦論は必要である。

では、戦争の基準とは何であるべきか? 正戦論のなかでも、人道的介入は一定の国際的理解を得ており、考察する価値がある。

人道的介入に始まりというものがあったとすれば、1991年にさかのぼる。場所はイラクにおけるクルド人の居住地域である。イラクのクルド人には、化学兵器を使って虐殺された過去がある。そうした人々に、多国籍軍はフセイン政権への反乱を呼びかけた。ところが、湾岸戦争が終わると、イラク軍は反乱を鎮圧し、クルド人を見殺しにできない多国籍軍は困り果てた。そこで、安保理はS/RES/688を決議し、人道組織による援助を許容するようイラクに要求し、全国連加盟国に人道的救済への貢献を訴えた。武力行使の権限を与えられていないにもかかわらず、米英仏軍がクルド人の避難地を保護するために展開した。イラクの主権が及ぶ同国の領土に軍隊を送ることは武力行使とみなされる。米英仏は地上だけでなく、クルド人が住むイラク北部と、同じく反乱の呼びかけに応じたシーア派住民がいるイラク南部にも飛行禁止区域を設定した[8]

主要国のマスメディアはこの人道的介入に喝采した。当時はソ連と中国は西側への批判を表沙汰にしなかった。サダム・フセインに味方することが分が悪かったばかりでなく、ゴルバチョフは国内政治で精一杯で、鄧小平は天安門事件によって国際的に孤立したからである。赤十字、UNHCR、そして国境なき医師団は難民キャンプを建て、クルド人を収容した。

次の舞台はボスニアヘルツェゴビナであった。1992年4月に紛争が始まってから、1995年11月のデイトン合意とその翌月のデイトン協定まで、実に3年半続いた。紛争を終わらせたのはNATO軍の空爆であったとされる。当時、国連難民高等弁務官であった緒方貞子は軍事介入ではなく人道援助をする当事者であったが、意外なことに、人道的介入を評価していたと振り返る。

―前略―武力を後ろ盾とした政治行動がなければ、ボスニアにおける戦争を人道活動だけでは終結できないことは明白であった。私は人道援助を迅速にするための武力行使には反対であったが、政治解決を後押しし、戦争を終結させるための武力行使には、特定の立場をとらなかった。―中略―結局、デイトン和平協定へ導いたものは、ゴラジュデの安全地域を攻撃したセルビア系勢力の軍事行動に対抗したNATO軍の航空攻撃であった[9]

どういうことかというと、ユーゴスラビアからの支援を受けたセルビア系住民の勢力は、自分たちが他を圧倒しているうちは戦闘をやめない。交渉のテーブルにセルビア系をつかせるには、NATO軍がその勢力を弱めなければならなかった、と言うのである。実際、ムスリム住民とクロアチア系住民が盛り返したところで和平は成った[10]

もちろん、NATO軍の空爆は合法であったか?、という論点は解決されていない。1993年6月の安保理決議S/RES/836は、NATOにではなく国連保護軍(UNPROFOR)に、安全地域に対する砲撃への反撃として、武力行使の権限を与えていた。1995年7月まで、NATO軍による空爆は飛行禁止区域の維持、国連保護軍の保護、そして安全地域周辺からの重火器撤去といった抑制の利いた任務にかぎられた。1995年8月からは重火器撤去にとどまらず、その移動阻止のための橋の破壊やセルビア軍の指揮系統・ミサイルシステムの破壊まで、なりふりかまわないものになった。その際、空爆の主体であるべき明石康国連事務総長代表の事前承認さえ得なかった[11]

このように、ボスニアヘルツェゴビナ紛争において、NATO軍は疑わしい権限のもとであったにせよ、他の手段では達せられない成果を残すことができた。結果よければすべてよし、でないのか? それでも人道的介入の正当性を拒む理由は何であるのか?

さらなる舞台はユーゴスラビア連邦共和国を構成するセルビア共和国の、さらにその一部であるコソボ自治州であった。南スラブ国を意味するユーゴスラビアであったが、コソボ人は非スラブ系のアルバニア語を話すムスリムが多数派であった。

冷戦が終わってから、コソボ人は独立運動を始め、セルビア人がこれにエスニック・クレンジングを行った。つまり、村々に殺人、傷害、放火、そして強姦を加えることによって独立運動を弾圧した。欧州安全保障協力機構(OSCE)がそれが事実かを調べるため、調査団を派遣した。1999年1月に、調査団は45人のアルバニア系住民が虐殺されたことを示す証拠を見つけた[12]

こうした事態を前に、アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領はセルビア治安軍によるコソボへの進軍に警告を発し、スロボダン・ミロシェビッチに最後の機会を与える特使をユーゴスラビアに派遣した[13]。開戦を決意したクリントンは次の演説をした。

考えてもらいたいことがある。コソボについてあまりご存じないかもしれないが、そのことについて今日は少し話してみたい。これを大きな構図で見てほしい。子供たちにどういうヨーロッパを持ってほしいか。ここにいる少女には、より安全で安らかで繁栄した世界で育ってほしい。そうするには分断されておらず、民主的で、自由なヨーロッパが必要である。他人と違っても、たがいに仲良くやっていく世界、これから40年間、世界のどこかのエスニック・クレンジングのシーンを毎晩みることを心配しなくてよい世界に住みたいものだ。(喝采)[14]

この戦争の結果、コソボでは国連が暫定統治を行い、NATOが治安維持を担当する体制がしばらく続いた。最終的には2008年、コソボは独立を宣言した。ほとんどのNATO加盟国や日本は国家承認をした。しかし、西側の軍事介入を脅威に感じるロシアと中国はしていない。両国は安保理の常任理事国であるので、それらが反対しているうちはコソボは国連に加盟できない。

人道的介入が必要でありながら、国際的な原則として確立しないのも、ロシアと中国が感じている安全保障上の脅威が原因である。つまるところ、安保理の拒否権があるかぎり、人道的介入の合法性については結論が出ないことになる。

こうした見方は現実主義と近い。人道的介入をクリントン・ドクトリンというレッテルで批判したのはアメリカ合衆国の評論家チャールズ・クラウトハマーである。ソマリア・ハイチ・アイルランド・中東・ボスニアヘルツェゴビナ・コソボ・セルビアへの派兵は「道徳主義的で普遍的」と彼が述べるのは、カーによる国際連盟への批判や、モーゲンソーによるドミノ理論への批判につうじる。クラウトハマーは道徳主義を貫かないクリントン・ドクトリンの言行不一致を指摘する。クロアチアは一方的な被害者ではなく、自国のクライナ地方でセルビア人を無差別砲撃したからである。逃げたセルビア系住民は生涯、故郷に戻れないであろう。また、ルワンダでのジェノサイドが放置されたことも見逃さなかった。彼は、「対外政策の本質は、どちらの外道を支持してどちらの外道に反対するか」である、と断言する。外道は、1941年にはヒトラーかスターリンか、1972年にはブレジネフか毛沢東か、1979年にはソモサかオルテガか、であった[15]

クラウトハマーに反論するとすれば、選択的な介入であったとしても、ボスニアヘルツェゴビナとコソボの人命が救えたのであるから、しないよりよかったではないか、と言える。不介入にメリットがあったとしたら、ロシアと中国の顔を立てて、その後の西側との対立を抑えられたかもしれないことが挙げられようが、どだい不介入は西側の世論が許さなかったであろうし、21世紀におけるロシアと中国の勃興は止めようがなかった。

国際法では解決できない正戦論の問題に、政治哲学はいかに取り組んだであろうか? アメリカ合衆国の高名な学者であるマイケル・ウォルツァーは許される戦争として、自衛、集団安全保障、安全保障にたいする十分な脅威への予防、民族解放闘争への介入、外国による介入に対抗する介入、そして奴隷化または大量虐殺にたいする介入を挙げる[16]。最後のものが人道的介入に当たる。安全保障にたいする十分な脅威への予防はブッシュ・ドクトリンと通底し、そのことが彼の基準をかなり緩くしている。各論には異論もあろうが、自衛と集団安全保障だけに正戦を厳選する国際法学者が埋めることができなかったうやむやな部分を、冷静に考察した点は評価できる。

民主主義を守るために介入できるか?、は正不正の判断に迷うグレイな争点である。国際法では、そうした介入の権利は定着していない。1983年にアメリカ合衆国はグレナダに侵攻し、革命政権を転覆した。冷戦中で休眠状態にあった国連安保理の承認を得る努力は行われなかった。1989年に米軍はパナマに侵攻し、エドゥアルド・ノリエガ大統領を逮捕した。安保理でアメリカ合衆国はノリエガの麻薬密輸から合衆国市民を自衛するためと強調したものの、国連総会と米州機構は同国を非難した。1994年にアメリカ合衆国はハイチに軍隊を派遣し、軍事政権を逃亡させたが、事前に安保理は多国籍軍の編成を認めていた。1997年のシエラレオネへの介入は、米軍によるものでなく、ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)という地域機構がナイジェリア軍を主体とする兵力を派遣したものであった。安保理は非難決議は行わなかったものの、承認もしなかった[17]。トランプ政権は2026年にベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を違法薬物密輸の容疑でアメリカ合衆国に連行したが、彼が独裁者と呼ばれていなければそうしたであろうか?

これらの事例が教えることは、ソ連のブレジネフ・ドクトリンと同じく、安保理常任理事国が介入する場合、正不正はうやむやになってしまうことである。しかも、パナマとシエラレオネの事例において民主主義が最重要な争点であったか?、というと、真の目的は前者は麻薬取り締まりであり、後者は反乱鎮圧であった。ハイチの事例は民主主義の勝利と認められるが、現在の視点から振り返れば、冷戦後の一時的な米ロ和解のなせる業であった。ベネズエラの事件は石油が目的でなかったかと取り沙汰されている。

人道的介入に対するシニカルな見方を合法性の問題とともに支えるのが、選択的介入の問題である。この見方からすれば、「石油が出るから」、「いいビジネスだから」、「政権の支持率を上げるから」、「イカした兵器が使えるから」、「CNNに映るから」といったところが介入の真の理由である[18]。確かに、コソボ問題が注目を浴びたころには、クリントン大統領はホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーとの不倫疑惑で嘘をついたとして、下院によって弾劾裁判が行われていた。国民の目をそこからそらすために戦争しようとしていると受け止めた者は少なくなかった。

選択的介入は介入する場合だけでなく、介入しない場合にも批判される。ルワンダでの紛争では、虐殺が始まった時には十分な軍隊が派遣されず、虐殺を止められなかった。虐殺の加害者が逃亡した次の局面では、何らかの意図をもって行われたフランス軍の介入が非難された。アフリカ大湖地帯に難民があふれかえった最終段階で支援の手を差し伸べた国は不十分であった[19]

人道的介入は国連憲章に違反するか?、という問題を解決するかもしれないと注目されたのは、保護する責任の理論である。2000年にNATO加盟国であるカナダは介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)を設けて、介入を正当なものにしようとした。

カナダの動きは2005年の世界サミット成果文書の記述に影響を与えた。国家は「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪からその国の人々を保護する責任」を負う。国家が責任を果たせなかった場合、国連は「適時かつ断固とした方法で、安全保障理事会をつうじ、第7章を含む憲章に従って、集団的行動を取る用意がある」と記された[20]。真意は「安全保障理事会をつうじ」にあり、常任理事国が反対したままなされる人道的介入は憲章違反であると示唆された。ふりだしに議論は戻ったわけである。

21世紀になって人道的介入は低調となったが、リビアとシリアに西側諸国は派兵した。リビアに対する介入の根拠は安保理決議であった。2011年の「アラブの春」では、リビアでカダフィ政権への反乱が起きた。安保理決議S/RES/1973は、ベンガジなどで文民を保護するための武力行使を加盟国に認めた。表決では棄権が多かった(中国、ロシア、ドイツ、インド、そしてブラジル)。NATOの空爆は、その後の政権崩壊と内戦激化の流れを方向づけた。

シリアについてはアメリカ合衆国が軍事介入を示唆していた。2013年に現地で化学兵器使用が報告された際は、シリアが化学兵器禁止条約に加入し、米ロが同兵器を廃棄する合意が成って、一度は収拾された。翌年、アメリカ合衆国が軍事介入に踏みきったのは、イスラミックステイト(IS)と戦う大義名分でであった。

最後に、国際法から完全に離れ、人道的介入を純粋なヒューマニズムの立場で考える。それは人情の問題であり、古今東西の哲学と関連がある。『論語』の「義を見て為ざるは勇なきなり」とか、『孟子』の「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」とかは東洋版の自然法論である。後者は、赤ちゃんが井戸に落ちようとするのを見てかわいそうに感じなければ人間でない、という話である。人助けのためになら他国の領土に入っても許されるであろう、という人道的介入とこの話には一脈つうじるところがある。また、最上敏樹はフランスの哲学者であるポール・リクールの「人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」という言葉を引くが、これも同根の発想である[21]

見てかわいそうに感じれば反射的に介入してよいのか?、というと一度立ち止まるべきである。なぜなら、情報はそれを扱う者によって意図的に操作されるからである。ユーゴスラビアをめぐる一連の紛争において印象操作を行った「戦争広告代理店」の実態が、NHKの取材によって明らかになった。アメリカ合衆国の広告代理店がクロアチア政府、ボスニアヘルツェゴビナ政府、そしてアルバニア系コソボ人のために、コンサルティングをしていたのである。ボスニアヘルツェゴビナ外相であったハリス・シライジッチ本人はほとんどサラエボの惨劇を見ていなかったにもかかわらず、「テレジェニック」な映りになるように演技指導を受け、彼の語りは視聴者の心を打った。「エスニック・クレンジング」という言葉を広め、セルビア人をナチスと並ぶ悪玉に仕立てあげたのもこの広告代理店であった[22]。 戦争は多くの人命を奪う。戦争をするのであれば、最低でも比例原則に従い、介入しなかった場合よりも多くの人命を直接、救うことが確実な武力行使でなければならない。志願兵は自らの命をそうした使い方をすることに同意している。非戦闘員の犠牲は極力なくすべきである。もちろん、戦争の犠牲者を開戦前に予測することは難しい。それゆえにこそ、開戦の決断はきわめて厳しい基準をクリアしたものでなければならない。今回、これを暫定的な結論としたい。


[1] 筒井若水、『戦争と法』、東京大学出版会、1971年、19ページ。

[2] 杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映、『現代国際法講義』、第3版、有斐閣、2006年、78-79ページ。

[3] 以下の記述をするために、次を参照した。Conway W. Henderson, International Relations: Conflict and Cooperation at the Turn of the 21st Century (New York: McGraw-Hill, 1998), p. 144.

[4] ボブ・ウッドワード、『司令官たち』、石山鈴子、染田屋茂訳、文芸春秋、1991年、232ページ。

[5]ウッドワード、『司令官たち』、126ページ。

[6] The President of the United States of America, “National Security Strategy of the United States,” September 2002, p. 15.

[7] ボブ・ウッドワード、『ブッシュの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2003年、192ページ。

[8] Christine Gray, International Law and the Use of Force (Oxford: Oxford University Press, 2000), pp. 28-44.

[9] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、361ページ。

[10] フランソワ・ジェレ、『地図で読む現代戦争事典』、山本光久訳、河出書房新社、2003年、91ページ。

[11] 千田善、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』、勁草書房、1999年、116-118、138ページ。

[12] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、166ページ。

[13] “Remarks by the President on the Situation in Kosovo,” The American Presidency Project, https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-the-situation-kosovo, accessed on February 3, 2026.

[14] “3/23/99 President Clinton at AFSCME Convention,” Department of State, https://1997-2001.state.gov/policy_remarks/1999/990323_clinton_afscme.html, accessed on February 15, 2025.

[15] Charles Krauthammer, “The Clinton Doctrine,” Time, April 5, 1999, https://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/time/1999/03/29/doctrine.html, accessed on February 15, 2025. 緒方、『紛争と難民』、123-124ページ。

[16] マイケル・ウォルツァー、『正しい戦争と不正な戦争』、萩原能久訳、風行社、2009年、135-258ページ。

[17] Gray, International Law and the Use of Force, pp. 42-44.

[18] Henderson, International Relations: Conflict and Cooperation at the Turn of the 21st Century, p. 399.

[19] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、240-241ページ。

[20] “2005 World Summit Outcome,” para. 138 and 139, quoted in A/RES/60/1.

[21] 最上敏樹、『人道的介入』、岩波書店、2001年、ixページ。

[22] NHKスペシャル「民族浄化」(2000年10月29日放送)。高木徹、『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』、講談社、2002年。

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トランスナショナリズム
国家は一枚岩でない。最高指導者の命令一下、すべてが整然と動くイメージの国もある。しかし、個人の欲求は個人の選択と努力により満たされるのが基本でないか? 国家はまず個人から成り、さらに、中間団体と呼ばれるさまざまな非国家の集団が存在する。今日、それらは市民社会と総称されるか、個々に市民社会組織(CSO)と呼ばれるかする。CSOは主に企業とNGOを指すとされるが、NGOもさまざまであり、組織が緩いものもある。歴史的…
Geminiさんの答案 研究各論(グローバル・ガバナンス)2022年度前期
国際連合が存在するのに、なぜ、同盟は必要であるのか? 国際連合憲章の諸規定と具体的な国際情勢に言及しながら論じなさい。 1. 国連憲章第51条:同盟の法的根拠 国連憲章は本来、すべての加盟国が協力して侵略を防ぐ**「集団安全保障」を理想としています。しかし、その限界を自ら認める形で第51条**を置いています。 憲章第51条: 加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な…
ブレトンウッズ諸制度
https://youtu.be/ulheun5RbKc 経済秩序に関する戦後構想は、フランクリン・D・ローズベルトが演説した四つの自由のうち、欠乏からの自由が始まりである。欠乏というのは、何かが足りないことである。足りないのがモノであるとすれば、生産、交換、売買、あるいは贈与によって補うことで、欠乏から自由になる。 四つの自由演説から7か月後の1941年8月、ローズベルトとイギリスのウィンストン・チャーチル首相は大西洋憲章に合意し…
南北問題
https://youtu.be/3Lm2lZn0ePE 南北問題という言葉の由来は、ロイズ銀行頭取オリバー・フランクスが1959年に開発途上国を「南」と表現したことにある。フランクスはイギリスの駐米大使を務めたことがあり、世界情勢に明るかった。「南」は最近、グローバルサウスと呼ばれる。地球の南部とわざわざ書き加えるのは、例えばアメリカ合衆国のそれのようなほかの南部と紛らわしいからであろう。今回のテーマは、南北問題の発生とそれに…
戦争の歴史
戦争に命が懸けられるのは根深い社会問題が背景に横たわるからである。他方で、戦争はテクノロジーの問題でもあり、テクノロジーは戦争の形を変化させる。惨禍を何とかしようと思うならば、社会も、テクノロジーも管理するべきである。今回のテーマは、時代により戦争の原因と形態はいかに変化したかを例示しながら論じなさい、である。 戦争について述べる時、まず戦争を定義するべきである。ゲリラ戦は含まれるか? 革命下のアナ…