(表紙の画像はAIによって作成された)
ワシントン条約というと、今でこそ絶滅のおそれのある野生動植物の取引に関する規制のことです。それより半世紀以上もまえに、絶滅のおそれがあった動物を守る条約があったのをご存じでしょうか?
それが1911年のオットセイ保護条約(膃肭獣保護条約)です。戦前の太平洋は五つの大国が中心となって管理しました。すなわちイギリス、アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)、フランス、そして日本です。このうちフランスを除く北太平洋の4か国が条約の締約国でした。
こんなに早くオットセイの保護に取り組んだ日本は、さぞかし動物愛護の先進国なのでしょう。いやいや、それはちょっとほめすぎです。
教科書での関連する記述
残念ながら、日本史教科書において関連する記述を見つけることはできない。政治・経済の教科書を見ても、温暖化のような現代の課題が書かれているだけだ。これでよいのか? SDGsは日本史に及ばないのか?
法律家の国務長官
エライフ・ルートはアメリカ合衆国の法律家だ。百年たっても、彼の理想と業績は尊敬されている。1912年のノーベル平和賞受賞者でもある。
ルートはシオドア・ローズベルト大統領に国務長官に任命された。オットセイというと、動物愛護で有名だったローズベルトの意向があったと思うかもしれない。テディベアというクマの人形があるが、テディはシオドアの愛称で、クマの子を助けたローズベルトに由来する。ただし、そうした大統領の意向があったとは今のところ私は確認していない。
なぜ、ルートはオットセイを保護しようと考えたのか? オットセイの乱獲を止めようとアメリカ合衆国は19世紀から求めてきた。ルートはカナダとの懸案解決を外交課題としており、オットセイ保護もそこに含まれた。当時、カナダはイギリスの自治領だった。イギリスの公文書に、1906年にルートがしたスピーチが引用されている。
エライフ・ルート
“The newspapers have said that at this dinner an announcement would be made that all existing questions between Canada and the United States had been settled. I wish it were so.”
“This can be said–that we are going to try to settle all existing questions–that we are trying to settle them, and that with a sincere and earnest purpose we believe that we shall settle them. The race of seals which has for so many years produced a most valuable product for the clothing of mankind is rapidly disappearing. We are going to try to stop the frightful waste which is involved in their destruction. The fish supply–the great food supply found in the fish of the Great Lakes–is being destroyed, because in these international waters neither country can by itself impose rules and regulations similar to those laws for game preservation which are maintained within our own jurisdiction and the Canadian jurisdiction. We are going to try to agree upon
Regulations which shall be binding on both sides of the dividing line. The northeastern fisheries questions have been under discussion ever since they were settled finally in the Treaty of Utrecht of 1713. We are going to try once more to settle them. There are boundaries remaining to be marked. There are many other questions that ought to be disposed of. And now while there is no controversy about them we are going to try to get rid of them.”
Inclosure 2 “Extract from a Report of the Committee of the Privy Council, approved by the
Governor-General on the 21st May, 1906,” FO 371/188/25, the National Archives of the UK (TNA), p. 297.
国際法を整備することによって、戦争を予防するというのがルートの理想だった。1909年に国務長官を辞したあとは、上院議員として取り組んだ。フィリップ・ジェサップという国際法学者が書いた彼の伝記がそう語る。
フィリップ・ジェサップ
So various are the matters to which a Senator must necessarily address himself that several more chapters could be filled with a chronical of Root’s activities in the Senate. He took a keen interest in the plans for celebrating the Centennial of Peace between the United States and Great Britain which would have taken place one hundred years after the signing of the Treaty of Ghent on December 24th, 1814, had not the outbreak of the World War necessitated the postponement of the project. It was the World War also which brought to naught Root’s efforts to arrange for the convocation of a Third Hague Peace Conference. Following the policy of adjusting all controversies with Canada, which he had done so much to promote as Secretary of State, he busied himself in the matter of the negotiation of a treaty and the passage of legislation for the further protection of the fur seals in Behring Sea. In this work, he cooperated closely with the State Department and with his old and trusted assistant, Chandler P. Anderson, who was adding another milestone to his long record of aid in the solution of Canadian-American difficulties. Root similarly was active in finding a way through a treaty with Canada to protect migratory birds.
Philip Jessup, _Elihu Root_, vol. II (New York: Dodd Mead, 1938), p. 284.
オットセイ保護条約の締結
オットセイは乱獲によって19世紀に激減し、国際紛争が起きていた。寒さをしのぐための良い毛皮がとれるからだ。オットセイを保護しようとするアメリカ合衆国と猟をやめたくないカナダとのあいだに紛争が起きた。カナダの宗主国であるイギリスとアメリカ合衆国は、この紛争を国際法学者の仲裁に付した。仲裁の結果、規制を設け、カナダ人もそれを守ることになった。それでも減少は止まらなかった。
海の上ではオットセイには敵が少なく、食べ物も豊富だ。そのため、海に囲まれた島に群がり、王国のようになる。アメリカ合衆国のプリビロフ諸島、ロシアのコマンドルスキー諸島、そして日本の海豹島だ。海豹島はポーツマス条約によって日本領となったが、敗戦に伴いその他の南樺太とともにふたたびソ連/ロシア領になる。
米英から持ち上がったオットセイ保護の主旨は海上猟獲の全面禁止だった。当時の国際法では領海は3カイリで、各国が漁業や狩猟の規制ができた。しかし、その外の島の近海には他国の船が入り込み、乱獲が止まらなかった。地球環境問題は「共有地の悲劇」という概念で説明されるが、まさにそれだった。
海上猟獲を禁止すれば、猟は陸上でしか行われない。国家の規制のもとで生息数を管理することができる。さらに、毛皮とその対価である金銭により、収入を得られなくなった他国の猟師に賠償をすることができる。
米英日ロの会議が開かれるまえに、実は米英の条約ができていた。カナダの立場からは、これまでは合法的だった猟から得られた収益が得られなくなった。米英の条約には、海上猟獲ができなくなった損害をアメリカ合衆国側が賠償する条文が含まれた。これを知った日ロは、賠償を得られるならば参加してもよい、とそろばんをはじいた。
こうして1906年5月にワシントンDCで会議が始まった。日本はアメリカ合衆国とロシアの近海で猟ができなくなることから、賠償を要求した。オットセイという種の保護という観点は終始なかったのだ。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0007/0001/0044/0791/0626/index.djvu
https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
埋まらない参加国の論争に、終止符を打ったと考えられるのが、議長国アメリカ合衆国のウィリアム・H・タフト大統領から明治天皇への親書だった。両国の友好関係を持ち出されたから、拒むことはできなかった。おまけに、他の海獣の国際的保護という理想まで唱えていた。原文は『日本外交文書』第44巻第1冊の番号172附属書「米国大統領より陛下宛御親電」にみえる。
完成した条約は高橋作衛の『国際法外交条規 : 纂註』に掲載されている。最終的に、損失分をいかに調節したかは第10条から第14条に書いてある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/905873/1/99
不平等条約として廃棄
条約が結ばれたすぐあと、海豹島に大阪朝日新聞の記者だった高原操が訪れ、『極北日本 : 樺太踏査日録』というルポルタージュを書いた。そこに書かれているように、日本人にとって、オットセイは毛皮よりも精力剤の原料だった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/932896/1/113
以上のように、日本は利害の問題としてオットセイ保護条約をとらえていた。動物に対する人類の義務という意識はなかった。
石井研堂は戦前の有名な出版人だった。彼は戦時中に亡くなるが、その翌年の1944年に『明治事物起原 下巻 改訂増補版』が出版された。子ども向けの教養書だ。オットセイの毛皮に頼らない日本にとって、条約は「彼にのみ有利にして、我に不利なる」とこの本に書かれている。「少国民」たちはそう信じてしまったろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1871417/1/436
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日本は1940年に条約の廃棄を通告し、1941年に失効した。
まとめ
日本にとってオットセイ保護条約は一貫して利害の問題だった。動物愛護の意識さえなく、生物の多様性の思想は育たなかった。そのころ、ニホンオオカミは絶滅し、トキも消えようとしていた。オットセイ保護条約は良いヒントのはずだった。しかし、日本人はそれに気づかず、大事な時間を失ってしまった。
課題
Inclosure 2 “Extract from a Report of the Committee of the Privy Council, approved by the Governor-General on the 21st May, 1906,” FO 371/188/25, the National Archives of the UK (TNA)において、エライフ・ルートはオットセイという動物にはどのような意味があり、それがどうなろうとしているのでその消耗を止めよう、と呼びかけていますか? 整理して明確に答えなさい。
『国際法外交条規 : 纂註』の次の文章を現代語訳しなさい。ただし、固有名詞と歴史的表記も現代的な表記に直すこと。「第一條 各締約國ハ左ノ事項ヲ約ス、各締約國ノ人民又ハ臣民及凡テ其ノ法令條約ニ服從スヘキ者竝其ノ船舶カ本條約ノ有效期間ベーリンク海勘察加海オコツク海及日本海ヲ包含スル北緯三十度以北ノ北太平洋ノ洋海ニ於テ膃肭獸ノ海上猟獲ヲ爲スヲ禁止スヘキコト。右ノ禁止ヲ犯シタル者及船舶ハ各締約國ノ海軍將校其ノ他ノ相當ノ權限アル官吏ニ於テ之ヲ拿捕抑留スルヲ得ルコト、但シ拿捕ハ他ノ締約國ノ領海內ニ非サル場合ニ限ル」
IUCN 2024. The IUCN Red List of Threatened Species. Version 2024-2. https://www.iucnredlist.org を参照し、現在におけるキタオットセイ(Northern Fur Seal)の生息状況と保護体制を解説しなさい。








