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日本はオットセイ保護の先進国だった?

(表紙の画像はAIによって作成された)

ワシントン条約というと、今でこそ絶滅のおそれのある野生動植物の取引に関する規制のことです。それより半世紀以上もまえに、絶滅のおそれがあった動物を守る条約があったのをご存じでしょうか?

それが1911年のオットセイ保護条約(膃肭獣保護条約)です。戦前の太平洋は五つの大国が中心となって管理しました。すなわちイギリス、アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)、フランス、そして日本です。このうちフランスを除く北太平洋の4か国が条約の締約国でした。

こんなに早くオットセイの保護に取り組んだ日本は、さぞかし動物愛護の先進国なのでしょう。いやいや、それはちょっとほめすぎです。

教科書での関連する記述

残念ながら、日本史教科書において関連する記述を見つけることはできない。政治・経済の教科書を見ても、温暖化のような現代の課題が書かれているだけだ。これでよいのか? SDGsは日本史に及ばないのか?

法律家の国務長官

エライフ・ルートはアメリカ合衆国の法律家だ。百年たっても、彼の理想と業績は尊敬されている。1912年のノーベル平和賞受賞者でもある。

ルートはシオドア・ローズベルト大統領に国務長官に任命された。オットセイというと、動物愛護で有名だったローズベルトの意向があったと思うかもしれない。テディベアというクマの人形があるが、テディはシオドアの愛称で、クマの子を助けたローズベルトに由来する。ただし、そうした大統領の意向があったとは今のところ私は確認していない。

なぜ、ルートはオットセイを保護しようと考えたのか? オットセイの乱獲を止めようとアメリカ合衆国は19世紀から求めてきた。ルートはカナダとの懸案解決を外交課題としており、オットセイ保護もそこに含まれた。当時、カナダはイギリスの自治領だった。イギリスの公文書に、1906年にルートがしたスピーチが引用されている。

エライフ・ルート

“The newspapers have said that at this dinner an announcement would be made that all existing questions between Canada and the United States had been settled. I wish it were so.”
“This can be said–that we are going to try to settle all existing questions–that we are trying to settle them, and that with a sincere and earnest purpose we believe that we shall settle them. The race of seals which has for so many years produced a most valuable product for the clothing of mankind is rapidly disappearing. We are going to try to stop the frightful waste which is involved in their destruction. The fish supply–the great food supply found in the fish of the Great Lakes–is being destroyed, because in these international waters neither country can by itself impose rules and regulations similar to those laws for game preservation which are maintained within our own jurisdiction and the Canadian jurisdiction. We are going to try to agree upon
Regulations which shall be binding on both sides of the dividing line. The northeastern fisheries questions have been under discussion ever since they were settled finally in the Treaty of Utrecht of 1713. We are going to try once more to settle them. There are boundaries remaining to be marked. There are many other questions that ought to be disposed of. And now while there is no controversy about them we are going to try to get rid of them.”

Inclosure 2 “Extract from a Report of the Committee of the Privy Council, approved by the
Governor-General on the 21st May, 1906,” FO 371/188/25, the National Archives of the UK (TNA), p. 297.

国際法を整備することによって、戦争を予防するというのがルートの理想だった。1909年に国務長官を辞したあとは、上院議員として取り組んだ。フィリップ・ジェサップという国際法学者が書いた彼の伝記がそう語る。

フィリップ・ジェサップ

So various are the matters to which a Senator must necessarily address himself that several more chapters could be filled with a chronical of Root’s activities in the Senate. He took a keen interest in the plans for celebrating the Centennial of Peace between the United States and Great Britain which would have taken place one hundred years after the signing of the Treaty of Ghent on December 24th, 1814, had not the outbreak of the World War necessitated the postponement of the project. It was the World War also which brought to naught Root’s efforts to arrange for the convocation of a Third Hague Peace Conference. Following the policy of adjusting all controversies with Canada, which he had done so much to promote as Secretary of State, he busied himself in the matter of the negotiation of a treaty and the passage of legislation for the further protection of the fur seals in Behring Sea. In this work, he cooperated closely with the State Department and with his old and trusted assistant, Chandler P. Anderson, who was adding another milestone to his long record of aid in the solution of Canadian-American difficulties. Root similarly was active in finding a way through a treaty with Canada to protect migratory birds.

Philip Jessup, _Elihu Root_, vol. II (New York: Dodd Mead, 1938), p. 284.

オットセイ保護条約の締結

オットセイは乱獲によって19世紀に激減し、国際紛争が起きていた。寒さをしのぐための良い毛皮がとれるからだ。オットセイを保護しようとするアメリカ合衆国と猟をやめたくないカナダとのあいだに紛争が起きた。カナダの宗主国であるイギリスとアメリカ合衆国は、この紛争を国際法学者の仲裁に付した。仲裁の結果、規制を設け、カナダ人もそれを守ることになった。それでも減少は止まらなかった。

海の上ではオットセイには敵が少なく、食べ物も豊富だ。そのため、海に囲まれた島に群がり、王国のようになる。アメリカ合衆国のプリビロフ諸島、ロシアのコマンドルスキー諸島、そして日本の海豹島だ。海豹島はポーツマス条約によって日本領となったが、敗戦に伴いその他の南樺太とともにふたたびソ連/ロシア領になる。

米英から持ち上がったオットセイ保護の主旨は海上猟獲の全面禁止だった。当時の国際法では領海は3カイリで、各国が漁業や狩猟の規制ができた。しかし、その外の島の近海には他国の船が入り込み、乱獲が止まらなかった。地球環境問題は「共有地の悲劇」という概念で説明されるが、まさにそれだった。

海上猟獲を禁止すれば、猟は陸上でしか行われない。国家の規制のもとで生息数を管理することができる。さらに、毛皮とその対価である金銭により、収入を得られなくなった他国の猟師に賠償をすることができる。

米英日ロの会議が開かれるまえに、実は米英の条約ができていた。カナダの立場からは、これまでは合法的だった猟から得られた収益が得られなくなった。米英の条約には、海上猟獲ができなくなった損害をアメリカ合衆国側が賠償する条文が含まれた。これを知った日ロは、賠償を得られるならば参加してもよい、とそろばんをはじいた。

こうして1906年5月にワシントンDCで会議が始まった。日本はアメリカ合衆国とロシアの近海で猟ができなくなることから、賠償を要求した。オットセイという種の保護という観点は終始なかったのだ。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0007/0001/0044/0791/0626/index.djvu

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埋まらない参加国の論争に、終止符を打ったと考えられるのが、議長国アメリカ合衆国のウィリアム・H・タフト大統領から明治天皇への親書だった。両国の友好関係を持ち出されたから、拒むことはできなかった。おまけに、他の海獣の国際的保護という理想まで唱えていた。原文は『日本外交文書』第44巻第1冊の番号172附属書「米国大統領より陛下宛御親電」にみえる。

完成した条約は高橋作衛の『国際法外交条規 : 纂註』に掲載されている。最終的に、損失分をいかに調節したかは第10条から第14条に書いてある。

https://dl.ndl.go.jp/pid/905873/1/99

不平等条約として廃棄

条約が結ばれたすぐあと、海豹島に大阪朝日新聞の記者だった高原操が訪れ、『極北日本 : 樺太踏査日録』というルポルタージュを書いた。そこに書かれているように、日本人にとって、オットセイは毛皮よりも精力剤の原料だった。

https://dl.ndl.go.jp/pid/932896/1/113

以上のように、日本は利害の問題としてオットセイ保護条約をとらえていた。動物に対する人類の義務という意識はなかった。

石井研堂は戦前の有名な出版人だった。彼は戦時中に亡くなるが、その翌年の1944年に『明治事物起原 下巻 改訂増補版』が出版された。子ども向けの教養書だ。オットセイの毛皮に頼らない日本にとって、条約は「彼にのみ有利にして、我に不利なる」とこの本に書かれている。「少国民」たちはそう信じてしまったろう。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1871417/1/436

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日本は1940年に条約の廃棄を通告し、1941年に失効した。

まとめ

日本にとってオットセイ保護条約は一貫して利害の問題だった。動物愛護の意識さえなく、生物の多様性の思想は育たなかった。そのころ、ニホンオオカミは絶滅し、トキも消えようとしていた。オットセイ保護条約は良いヒントのはずだった。しかし、日本人はそれに気づかず、大事な時間を失ってしまった。

課題

  1. Inclosure 2 “Extract from a Report of the Committee of the Privy Council, approved by the Governor-General on the 21st May, 1906,” FO 371/188/25, the National Archives of the UK (TNA)において、エライフ・ルートはオットセイという動物にはどのような意味があり、それがどうなろうとしているのでその消耗を止めよう、と呼びかけていますか? 整理して明確に答えなさい。

  2. 『国際法外交条規 : 纂註』の次の文章を現代語訳しなさい。ただし、固有名詞と歴史的表記も現代的な表記に直すこと。「第一條 各締約國ハ左ノ事項ヲ約ス、各締約國ノ人民又ハ臣民及凡テ其ノ法令條約ニ服從スヘキ者竝其ノ船舶カ本條約ノ有效期間ベーリンク海勘察加海オコツク海及日本海ヲ包含スル北緯三十度以北ノ北太平洋ノ洋海ニ於テ膃肭獸ノ海上猟獲ヲ爲スヲ禁止スヘキコト。右ノ禁止ヲ犯シタル者及船舶ハ各締約國ノ海軍將校其ノ他ノ相當ノ權限アル官吏ニ於テ之ヲ拿捕抑留スルヲ得ルコト、但シ拿捕ハ他ノ締約國ノ領海內ニ非サル場合ニ限ル」

  3. IUCN 2024. The IUCN Red List of Threatened Species. Version 2024-2. https://www.iucnredlist.org を参照し、現在におけるキタオットセイ(Northern Fur Seal)の生息状況と保護体制を解説しなさい。

 

第2次日韓協約のご都合主義

(表紙の画像はAIによって作成された)

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で吉田松陰が伊藤博文を「周旋の才あり」と評したそうです。元ネタは何かな、と思いましたが、そういう趣旨を松陰が書いた手紙があるそうです(伊藤之雄、『伊藤博文』)。後世から見れば、伊藤のキャラクターを決定づけるほど的を射た評価です。しかし、第2次日韓協約ほど、この才能が痛惜な結果をもたらした例はなかったろう、と後世に生きる私は感じます。

教科書での関連する記述

教科書

まず1905(明治38)年、アメリカと非公式に桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定(第2次)して、両国に日本の韓国保護国化を承認させた。これらを背景として日本は、同年中に第2次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、漢城に韓国の外交を統括する統監府をおいて、伊藤博文が初代の統監となった。

佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 263。

教科書

朝鮮半島では、日本は日露戦争開始以降、3次にわたる日韓協約を結ぶなかで統監府を設置して韓国を保護国化し、支配を強めた。

木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 272。

保護国化のご都合主義

日本史教科書を読んで分かるように、保護国化=第2次日韓協約=韓国保護条約だ。その条文を『日本外交年表並主要文書』で確かめよう。

https://dl.ndl.go.jp/pid/3024866/1/274

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保護国化とは韓国から外交権を奪ったことだった。日本史教科書は親切にも、米英も協力したことを、桂・タフト協定と第2次日英同盟に触れて教えてくれる。事実だけを淡々と伝えて、「自虐」にならないよう気をつけているのだろう。自虐と自省は違うと思うのだが……

あるいは、保護国化と直接統治とでは大差があるという考え方もあるかもしれない。保護国化の影響は対外関係中心に発生するにすぎず、現地の制度や文化を根絶やしにする直接統治とは区別できる、とみなせばだ。モロッコやトンガの王室のように李朝が存続していたら、創氏改名もなかったろう。

しかし、保護国化から併合まで短期間で進んだことを考えると、李朝の存続に意義があると日本政府が見ていなかったことは明らかだ。

保護国化は落としどころだったのだろう。軍部にとっては、満洲の植民地を守るため、他の列強を排除した橋頭保が絶対に必要だった。他方で、英米はじめ列強は日本の経済的独占を許さないので直接統治は選択肢から排除される。しかも、いきなりそれを強行すれば韓国の民衆を立ち上がらせ、治安を悪化させてしまう。

伊藤博文個人は伊藤之雄氏の言うように理想の韓国統治を目指したかもしれない(『伊藤博文をめぐる日韓関係』)。しかし、自力で韓国をわが物としたのだから、と考えた陸海軍と内閣は、保護国化をゴールと考えなかったであろう。

伊藤博文の説得

韓国側は、なぜこんな保護国化を受け入れたのか? 受け入れてない、という答えが一方にある。協約の無効論には、強制があったという説と締結手続きに瑕疵があったという説がある。日本側では有効論が強いので、ナショナリズムとともからんで、論争は尽きない。国際法の論争については海野福寿氏の『韓国併合史の研究』が詳しい。

韓国の皇帝と大臣は保護国化を甘く見て、挽回できると考えたかもしれない。これは亡国への道だ、と察して協約への署名に抵抗した大臣もいたが、それほど思いつめずに同調した「親日派」が多数いた。実際、日本に内緒で外交を取り戻そうとしたハーグ密使事件が1907年に起きた。桂・タフト協定は秘密の合意だったから、アメリカ合衆国に助けを乞うことを韓国側は考えたかもしれない。

国際法の論争は世界法廷に訴えないかぎり解決しないし、韓国側の腹の内は今からのぞくことはできない。

署名の説得が実際にどう行われたかを知っておこう、というのが今回の話の趣旨だ。

説得の役割をかってでたのが、周旋の才があるとされる伊藤博文枢密顧問官だった。説得の様子が『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」に記録されている。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0005/0001/0038/0778/0353/index.djvu

https://www.epapyrus.jp/products/doc_viewer

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私には伊藤の説得が緊迫感を作りだし、署名を急かせようとしたものに感じられる。皆様の感想を伺いたい。

言葉も文化も違う外国人に彼の周旋テクニックが通じたとは思えない。よしんば大臣たちへの説得が成功だったとしても、外交は相手の国民を説得しなければならないものだ。その後、頻発することになる民衆の抵抗運動は保護国化の計画がそもそも実現不能だったことを証明した。

イギリス外交官はどう見たか

https://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C3653622

第2次日韓協約をアジアに駐在するイギリス外交官はどう見たか? イギリス国立公文書館(TNA)の外務省文書FO 881/8703で追う。

伊藤はソウルに出発するまえ、イギリスの駐日大使に自らの役割を語った。保護国化の手本はイギリスだ、と言ったのだ。それを聞いたクロード・マクドナルド大使は自身が有能な植民地経営者だった。 まるで、冒険をともに楽しむ仲間のようだ。エジプトでイギリスがどれだけ血を流してきたかを伊藤は知っていたのだろうか。知っていたとしても、関心外だったのだろう。

イギリス駐日公使

Marquis ITO informed me this afternoon in the course of an interview that
the Japanese Goverrnment had decided to approach the Corean Government with a view to entering into an agreement for taking over the foreign relation of that country. He was now proceeding to Corea mainly for this purpose, so as to explain the situation to the Corean Emperor and Government.
The Marquis insisted that he had no intention of interfering in any way with the functions of the Japanese Minister in Seoul, and he would not negotiate or sign the Agreement, but would confine himself to paving the way and explaining matters.
His Excellency further mentioned that before long a high official will doubtless be appointed as Resident or High Commissioner, with functions and powers similar to those exercised in Egypt by Lord Cromer.
The foregoing is confidential.

Sir C. MacDonald to the Marquis of Lansdowne, 1 November 1905, FO 881/8703, p. 24.

調印までの経過については、ジョン・ジョーダン駐韓弁理公使の報告がある。「日韓新協約調印始末」に対応する箇所を引用する。こちらの情報源は主に韓国側だという。

イギリス駐韓弁理公使

It should be mentioned that the approaches to the Palace were strongly guarded by Japanese gendarmes, that Japanese troops patrolled the streets all the day, and that a very formidable display of force was visible in all the more important quarters of the city.
In response to Mr. Hayashi’s summons, Marquis Ito and General Baron Hasegawa, attended by the members of their respective suites, arrived at the Palace shortly before midnight, and a peremptory request was made for an audience, coupled with at intimation that, if it were refused, they would proceed by force into the presence of the Emperor. This produced the desired effect, and all the members of the Cabinet, with the exception of the Prime Minister, who seems to have found refuge in an opportune fit of mental derangement, agreed to the Japanese demands. A telephone
message was sent to the Foreign Office for the seal, and the Agreement was signed at 1·30 this morning.

Sir J. Jordan to the Marquis of Lansdowne, 18 November 1905, FO 881/8703, p. 49.

これを強制と呼んでよいのか? 宮殿と街が軍隊に制圧されていたのをどう評価するか? 皇帝に謁見してはなぜいけないのか? 必ず意見が分かれる論点なので、私自身は判断しない。ソウルという街は数十年間、政争ですさんでいたので、一触即発の何かがあったかもしれない。

アナロジーを使えば、王政復古の大号令を発した京都御所と同じ状況だった。雄藩の兵隊が、幕府への温情を求める松平春嶽と山内容堂を黙らせた。「玉」すなわち君主を手中に収めてしまえば、重臣たちは言われるがままだ。体のいい人質になるだからだ。言うまでもなく、主権国家を相手にした政略ではない。

外交権の東京への移動にともない、ソウルにあったイギリスの公使館は撤収し、同国は領事館を残すだけになった。イギリスは日本政府の方針に当然のごとく従っている。本当は、第三国と韓国との紛争でイギリスは周旋の労をとる、という条約が19世紀に結ばれていた。なんでそれをしてくれないのか、という韓国側の抗議は黙殺された(FO 881/8703, pp. 35-37)。

まとめ

「日韓新協約調印始末」では、協約の署名に反対した韓国の首相を、伊藤は南宋の政治家、文天祥、の名を挙げて慰めた。モンゴルの侵略に最後まで抵抗し、殉じた愛国者になぞらえたのだ。文天祥の「正気の歌」を愛吟したのは幕末の志士たちだった。愛国心に異なるところがあろうか? 雲の上の高みから見下ろす伊藤に、坂の下で斃れた攘夷の同志たちはいかに見えたろう。文明化が激しく非難される時代が来るとは想像もしなかったにちがいない。

課題

  1. 『日本外交年表並主要文書』で明治38年11月17日に調印された日韓協約を確認し、この協約下で韓国と第三国との関係において「統監」が果たす役割をあなた自身の言葉で解説したうえで、韓国の国益はそれで十分に実現されるのかについて議論しなさい。

  2. 『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」において、伊藤博文は「普通採決ノ常規」と称し、多数決で可決したと言っているが、各大臣の発言内容や閣議の状況からいって賛成と反対は何人対何人であったとあなたは考えるか? どの大臣が賛成でどの大臣が反対かをできるだけ理由を示して特定し、何人対何人であったかあなたの意見を書きなさい。

  3. 1905年までの時点で、いかなる人的犠牲をエジプトに与えながらイギリスはエジプトを植民地化し、統治したのか調べて解説しなさい。

高陞号の撃沈はギャンブルだった

(表紙の画像はAIによって作成された)

東郷平八郎は神として崇められる対象です。日本海海戦の功績は圧倒的でした。日本は大国になりました。

すこし前の日清戦争でも、東郷平八郎は正しい判断をしたとされます。本当にそう言ってよいのでしょうか?

戦争はギャンブルです。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝敗は確率の掛け算で、サイコロを振るのは神です。日本は常勝の神国じゃなかった、と思い知ったときには遅すぎました。

教科書での関連する記述

教科書

1894(明治27)年、朝鮮で東学の信徒を中心に減税と排日を要求する農民の反乱(甲午農民戦争、東学の乱)がおこると、清は朝鮮政府の要請を受けて出兵するとともに、天津条約に従って日本に通知し、日本もこれに対抗して出兵した。農民軍はこれをみて急ぎ朝鮮政府と和解したが、日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、交戦状態に入った。当初は日本の出兵に批判的だったイギリスが、日英通商航海条約に調印すると態度をかえたので、国際情勢は日本に有利になった。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 258。

日本史教科書に「高陞号事件」の文字はない。図に「豊島沖海戦」の文字があるだけだ。

日本史教科書は、都合の悪いことを口ごもっていないか? 「交戦状態に入った」とは何だ? 宣戦布告はどうしたのだ? 宣戦布告なき開戦は日本のお家芸と世界が認識してしまったことを、しっかり国民に教えるべきでないか。

日清戦争の開戦をめぐって、私はそれを国際法違反とか言うつもりはない。世界法廷が決める情勢でもなかったから、権威的に当否を確定することは不可能だったからだ。結局、勝てば官軍、だったから、戦争はギャンブルだ、と私は言う。

正式な宣戦布告は1894年8月1日だ。宣戦布告なき開戦は違法、という意見は当時からあったが、国際法が未発達だった時代なので、「国際世論」や「実力」によって結果は左右された。高陞号がイギリス船籍だったから助かったようなもので、宣戦布告にこだわる国ならば、こじれに、こじれたろう。

高陞号事件発生時にすでに日清は戦争状態にあった、とイギリスはしてくれた。事件と同じ7月25日に近くの黄海上で日清の軍艦が砲火を交えた。これを豊島沖海戦という。先に撃ったのがいずれだったか?、の真相ははっきりしないらしい。この交戦をイギリスは事実上の開戦と認めてくれたので、日本側が臨検して捕獲した理由が成立した。

このように考えると、高陞号事件はラッキーな展開をたどったといえる。平時に外国船籍の輸送船を撃沈し、千人の命を奪ったなら、たとえ兵士を載せていようとも、明らかに過剰な行為だからだ。

スマートな東郷平八郎

東郷平八郎はイギリスの海員学校に留学したので、海のルールに通じていたとされる。巡洋艦「浪速」の艦長だった彼は高陞号を捕獲しようとしたが、乗っていた千人あまりの清の部隊がイギリス人船長に従わなかった。船長らは海に飛び込んで逃げ、日本側に助けられた。その一方で、清兵であふれて「敵船」となった高陞号に魚雷を放ち、側砲で沈め、清の将兵のみならず、多くの西洋人も死亡した。板子一枚下は地獄だ。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0003/0001/0027/0601/0168/index.djvu

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そのいきさつは、『日本外交文書』第27巻第2号の番号727附属書「高陞号事件報告」に書かれたとおりのようだ。

日本側は在京の外交団に詳しい情報を提供し、他国を説得することに成功した。ロンドンでは、青木周蔵公使が説明に努めた。

国際法学者の援護

ただし、日本側のストーリー上では撃沈は正当だった、というだけで、他者の目から見てそうだったとはかぎらない。事件時、戦争状態にあったか?、はもちろん重要な論点だったが、高陞号が中立国イギリスの国旗を掲げていたのに攻撃されたことも不利だった。国旗への侮辱――かつてアロー号の旗が降ろされたことを、イギリスは清との戦争の口実とした――はあまりに不吉な事実だった。世論が高陞号の撃沈に激高すれば、イギリスが清側につくことはありえた。

世論の激高を静めたのは、国際法の権威たちの意見だった。ケンブリッジ大学教授ジョン・ウェストレイクとオックスフォード大学教授トマス・E・ホランドが8月上旬に、撃沈は正当だったと表明してくれた。9年後に国際法学者の高橋作衛が著した『高陞号之撃沈』が両教授の説を紹介している。ちなみに、高橋らの推薦により、勲章が両教授に授与されていた。

https://dl.ndl.go.jp/pid/785530/1/50

とはいえ、両教授は覇権国イギリスの海軍力を最大限、活かせる国際法を主張したにすぎなかったろう。宣戦布告の有無にとらわれず武力行使できるほうが、海軍強国には都合がよいからだ。

それはそうと、覇権国が敵側につかなかったことによって、日本は清との戦闘に専念できた。戦争になったら、ひたすら覇権国に迎合せよ! こざかしいこの知恵は今でも力を失っていない。

1903年まで長引いた清への請求

こうした世論の変化があってか、日本に対するイギリスの非難は収まった。しかし、船の所有者で船員の雇い主だったインドシナ汽船航海会社は賠償請求への助力をイギリス政府に求めた。年が改まり1895年になって、日本でなく、清への賠償請求に助力する、とイギリス政府は決定した。弱り目に祟り目、泣きっ面にハチ、というが、千人殺されたうえ、賠償金まで要求された北京政府はさぞかし不条理に感じたろう。年が改まった、ということは、東郷は国際法に詳しいから、ですんだわけでなかった、ということでもある。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I6545860

私はこの国際紛争を調べたことがある。若気だけで書いた上の紀要論文だ。もとにした文書は筆記体が読みにくいが、読者ご自身で調べることもできるだろう。このファイルはTNAサイトに登録すれば無料でダウンロードできる。

https://discovery.nationalarchives.gov.uk/details/r/C4236602

清にとっても、汽船会社にとっても、解決までは苦しい道のりだった。義和団事件以降、清は抵抗をあきらめたようだ。

事件から8年半が経った1903年2月26日、33,411ボンドが上海のイギリス領事に送金され、インドシナ汽船は3月7日に受けとった(FO 17/1666, The National Archives of the UK (TNA), pp. 216, 219, 226)。

ウェストレイクとホランドがタイミングよく日本の肩を持たなかったら、イギリスは日本を見放し、日清戦争は苦しい戦いになったろう。日英同盟も日露戦争もなかったかもしれない。日本という国家を船に喩えるなら、その板子一枚下は地獄だった。

事件から半世紀後、実力のない国が無分別なことをすると末路は哀れだと日本は思い知ることになる。経済も、世論も、支配する覇権国とたもとを分かってしまっては、単独で戦争をしても勝てる見通しは立たないものだ。

まとめ

高陞号事件での成功は長期的には失敗の起原だった。神業の連発で得た勝利ほど危ういものはない。本物の神がサイコロを振ったら悪い目も出ることを忘れさせるからだ。悪材料はすべて無視し、好材料がすべてうまくいく机上の空論で、日本は日中戦争・太平洋戦争に突入した。作戦の一部が失敗しても取り戻せる代替案のことをコンティンジェンシーブランという。10,000パーセント万全、と言えるくらいの余裕がなければ戦争はしてはならない。一つの観点で100パーセントであっても、他の観点で50パーセントということがあるからだ。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001683679

課題

  1. 『日本外交文書』第27巻第2号の番号727附属書「高陞号事件報告」によると、浪速が高陞号に「ヒーヴ、ツー、オーア、テーキ、ゼ、コンセクヱンセス」と答えてから、高陞号が砲撃を受けるまでの4時間のあいだ、浪速は高陞号をどのような状態でどのようにさせようとし、高陞号はそれにどのように反応したか? 報告に記載されている内容のとおりに答えなさい。

  2. 高橋作衛が著した『高陞号之撃沈』(70-71ページ)において、ウェストレイク(ウェストレーキ)教授は開戦の宣言がないことは戦争状態の有無にいかなる影響がある、またはない、と述べたと紹介されているか? 彼の説を整理して解説しなさい。

  3. 「第12話 高陞号の撃沈はギャンブルだった(授業第6回)」を読んで、戦争をギャンブルにしないために、いかなる心がけが必要か? あなたの考えを論理的に述べなさい。

 

琉球の境界は人民の幸福に基づいて引かれようとしたか?

(表紙の画像はAIによって作成された)

尖閣諸島は日本が実効支配をしていますが、中国と台湾は領有権を主張しています。1895年に日本が領有を宣言してから、日本人はそれが沖縄県に属すると信じていますが、Wikepediaに書いてあるのは、中国と台湾は台湾省だと言っているということです。

これから述べる分島交渉の時代には、これらの観念はありませんでした。日本が領有を宣言したのは1895年ですし、台湾と尖閣諸島のあいだには何の関係もなかったのですから。

教科書での関連する記述

教科書

琉球王国は、江戸時代以来、事実上薩摩藩に支配されながら、名目上は清を宗主国にするという複雑な両属関係にあった。政府はこれを日本領とする方針をとって、1872(明治5)年に琉球藩をおいて政府直属とし、琉球国王の尚泰を藩王とした。
1871年に台湾で琉球漂流民殺害事件が発生した。この際、清が現地住民の殺傷行為に責任を負わないとしたため、軍人や士族の強硬論におされた政府は、1874(明治7)年に台湾に出兵した(台湾出兵)。これに対して清は、イギリスの調停もあり、日本の出兵を正当な行動と認め、事実上の賠償金を支払った。まもなく、政府は琉球に清との関係断絶を命じたが、琉球の宗主権を主張する清は強く抗議した。しかし政府は1879(明治12)年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置し、尚泰は東京に移されて琉球王国は消滅した(琉球処分)。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、pp. 244-245。

琉球処分では終わらずに分島交渉へ

「両属関係」という上の言葉のなかに、琉球の地位を日本の一つの県とすることが当然、という日本側の意識が反映されている。ペリー提督は1854年に琉球王国と琉米条約を結んでいて、これにこだわればアメリカ合衆国にとって、琉球は独立国だった。日本は琉球を臣従させていても、中国への臣従も黙認し、勝手に両属だと理解した。しかし、自ら宗主国であることを疑わなかった清は日本に属することを決して認めなかった。「両属関係」というより、単に「複雑な関係」があったと言うほうが適切だろう。

清は琉球藩の廃止を決して承認しなかった。日本はいわゆる毅然とした外交で、琉球王朝の廃絶を決して譲らなかった。日本側の主張は『日本外交文書』第12巻の番号106附属書2で知ることができる。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0002/0001/0012/0266/index.djvu

https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm

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意見の衝突は激しく、戦争の危機でないか、と関係国は息をのんだ。1879年8月10日に、来日中の前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・S・グラントは明治天皇に示談で解決することを求めた。彼が日本の財政を気にしてくれたのは親切心もあろうが、軍備増強を止めたかったからかもしれない。グラントの発言の日本語訳は下のとおり。

https://dl.ndl.go.jp/pid/3024866/1/184

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日本は沖縄県の設置という既成事実を得ていたから、戦争する理由がなかった。清の北洋大臣、李鴻章、は怒っていたものの、琉球を奪還するまでの海軍力がなかった。放っておいても、すぐに熱い戦争になることなく、日清は冷戦になって、朝鮮半島と琉球・台湾を両にらみする状態になったろう。しかし、グラント前大統領による周旋の労にかんがみ、琉球王朝の廃絶を外交問題とすることに日本は応じた。

現地人のことを考えずに分けちゃっていいの?

こうして始まったのが、いわゆる分島交渉だ。日本史教科書の関連では、資料集に掲載された年表に記されている。

1879 3首里城の接収(尚泰は東京居住)。4琉球藩を廃し沖縄県を設置(琉球処分)
8グラントによる先島分島案の提示
1880 10分島・改約案の合意(のち廃案)

詳説日本史図録編集委員会、『山川 詳説日本史図録』、第10版、山川出版社、2023年、p. 226。

この年表には注釈が必要だ。「グラントによる先島分島案の提示」とある。グラントは明治天皇との謁見で、清に滞在中、人から聞いた話を伝えた。その話とは、「該島嶼間ノ疆界ヲ分画シ太平洋ニ出ル広闊ナル通路ヲ彼ニ与フルノ議」になれば清側は承諾するだろう、ということだ。これが先島分島案と表記されているのだろうが、先島とは言っていない。先島は琉球諸島の西部にあたり、宮古列島と八重山列島を合わせた呼称だ。彼は事前に日光で伊藤博文、西郷従道と会っていて、それをもとに日本政府は、先島分島案なら清側は受け入れる、という感触を得たらしい。

注目されるのは、清が琉球処分に反対する理由が宗主権や人民の幸福でなく、通商の利益ということだ。これはグラントの意図か、北洋軍閥の意図か、伊藤の意図か? 私は知らない。本当は、琉球王朝の家臣が清に渡って王朝の存続に援助を求めていて、宗主国としての威信が清には最も重大だった。

交渉ははじめからボタンのかけ違いだった。実力者の李鴻章は天津にいたのに、日本は北京の総理衙門という役所と交渉してしまった。そもそも、宮古・八重山だけを清に割譲すれば承諾するとは李鴻章は言っておらず、琉球を三分割して沖縄本島に琉球王朝を残す意図だったらしい。『日本外交文書』第13巻の番号126「竹添進一郎派遣ニツキ打チ合ワセ有リ度旨ニ通知ノ件」を読んでほしい。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0002/0001/0013/0290/index.djvu

それでも、宮古・八重山の領有を清に認めるのだから日本は気前がよいじゃないか、と思うかもしれない。実はこれには裏があった。年表にある「改約」がそれだ。日清修好条規には最恵国待遇がなかったので、欧米各国が持つ利権のなかには日本人が享受できないものがあった。念願だった最恵国待遇条項の追加を実現できるなら、宮古・八重山の代償として損ではない、と日本は考えたのだ。

分島・改約案はできたものの、李鴻章が反対して清は署名を拒んだ。分島案の理解に隔たりがあったのだからしかたがない。その隔たりの大きさが分からず介入したグラントに非があるが、それに踊らされた日清にも思い当たるところがあろう。相手を出し抜いて、あわよくば利益をせしめようとしたのだ。

ちなみに、グラントが不用意な提案をしたのは、大統領在任中、アラバマ号事件の仲裁を提案した体験があったからだろう。この時の彼の敵はマサチューセッツ州の上院議員であったが、後者の隠れた狙いはカナダ併合という突拍子もないものだった。全米はそんなものは相手にせず、イギリスとの平和を是認した。

閑話休題

分島案、それどころか、三分割案は無理なアイデアだったと思われるかもしれないが、帝国主義列強は無理なことを平気でした。アジア・アフリカ・太平洋で、こういう国境線をたくさん引いたのだ(ベトナム、モロッコ、サモア)。日本は列強にも反抗するようになっていて、そうした仲介を受け付けなかった。沖縄の一体性が損なわれずにそれでよかったじゃない、日本はつねに正しいよね、と無邪気に言える人は、その後、沖縄がたどった歴史を知らないのだろう。

まとめ

分島交渉が失敗して、沖縄県は軌道に乗った。井上馨外相はイギリスのハリー・パークス公使に、沖縄の物質的状態は改善した、と説明した。下はパークスから同僚の駐清公使ウェイドへの報告だ。

ハリー・パークス

The Foreign Minister has further observed to me that the people of Loochoo are perfectly satisfied with the present state of things. The change in the mode of administration has, he says, brought about a material improvement in their condition, as, instead of being obliged to follow the old practice of disposing of their surplus produce as a sort of tribute to the clan Satsuma–to which, under the Shogun’s Government, the islands were considered to belong–the Loochooans are now free to buy and sell in the open market of Japan, and thus a considerable impetus has been given to their trade. They export much more sugar than before, and import considerable quantities of yarn, which they weave into a particular kind of cloth that is in request in Japan. Their taxes have been greatly lessened, as they have been relieved of the cost of maintaining a Court and a large non-productlve aristocratic class, with which the labouring people have probably little sympathy. A single company of troops suffices to maintain order among the population, which
numbers, according to a recent census, 310,000 souls.

Harry S. Parkes to Thomas Francis Wade, 8th March 1880, FO 405/26, The National Archives of the UK (TNA).

こう正当化する支配者は古今東西、跡を絶たない。本当に状態は改善したのか? 日本史教科書には下の注がついている。

教科書

沖縄県では、土地制度・租税制度・地方制度などで旧制度が温存され、衆議院議員選挙が実施されたのも1912(大正元)年からであった。本土との経済的格差は大きく、県民所得も全般的に低かったので、本土への出稼ぎや海外移住で流出した人口も少なくなかった。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 245、n. 3。

過去の失敗はやり直すことはできないが、反省することはできる。経済格差が大きいならば、独立させるか、大きな自治を与えて、地域に最適な民主的ガバナンスが行われるようにすべきだ。最適なガバナンスができなくとも、現地人に責任を負わせるべきだ。そのためには、小国が安全に存立できる世界秩序を作らなければならない。確かに歴史は非情だったが、未来も非情だと決めつけるべきではない。

課題

  1. 『日本外交文書』第12巻の番号106附属書2「説略」は琉球人の「言語」および「神教」をどのようなものであると述べているか? それぞれ原文の語句を適切に引用して解説しなさい。

  2. 『日本外交文書』第13巻の番号131「李鴻章ノ意向情報ノ件」には、李鴻章が分島・改約案に不快を表明し反対したことが述べられているが、四つ目の理由について、グラントが李鴻章に述べたと李鴻章が考えている内容とグラントが伊藤博文らに述べたと日本側が考えている内容との違いを明らかにして解説しなさい。

  3. Harry S. Parkes to Thomas Francis Wade, 8th March 1880, FO 405/26, The National Archives of the UK (TNA)において、井上馨外相はパークス公使に”the people of Loochoo are perfectly satisfied with the present state of things”と琉球処分の結果について語ったとされる。あなたは井上の言う琉球人民の満足はその後の歴史において沖縄の人々の幸福として完成されたと考えるか、また、その理由は何か、議論しなさい。もちろん、評価基準は論理的かどうかであり、特定の答えのみを正解とするものではない。

マリアルス号事件には黒幕がいた?

(表紙の画像はAIによって作成された)

人身売買は人類の重いテーマなのにあまり教えられません。現在の日本においてたくさんの人身売買が起きているのだから、文部科学省はしっかりと教えるべきです。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0004/0064/index.djvu

https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm

(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)

ハワイやグアムへの最初の日系移民も人身売買に近いものだったとされます。上はグアム移民に関する外務省文書ですが、「奴婢売買」や「苦役」といった表現が見えます。教科書は「肉体労働」という言葉を選んだことで、それを「におわせた」つもりかもしれません。しかし、伝わらないでしょう。

大切なことは感情移入することです。そして、そのチャレンジを耐え抜いた人々をたたえるべきです。

教科書での関連する記述

教科書

19世紀末以降には、日本からも移民が到来して、ハワイ(→p. 267)や合衆国本土の西岸地帯で肉体労働に従事した。こうした大量の移民流入が社会問題となったため、19世紀末から20世紀初めに合衆国は移民法による移民の制限を開始した。
木村靖二、岸本美緒、小松久男、『詳説世界史』、山川出版社、2024年、p. 237、n. 5。

そもそもマリアルス号事件とは?

私家版の教科書に書いたことがあるので、それを引用する。

木下

……苦力(クーリー)とはインド人・中国人の単純労働者であり、必ずしも契約が人身売買であるとはかぎらない。これが苦力貿易という言い方になると、もっぱら苦力の人身売買という意味になる。
苦力貿易の主な出発地は中国南部であった。日本が関わったマリアルス号事件は、1873年におけるマカオの苦力貿易禁止布告につながった。事件そのものは前年の1872年のことである。ペルー船がマカオで苦力230名を乗せ、天候の関係で横浜に寄港したことから発覚した。彼らはわが身の行く末を悲観していた。外国に連れていかれると知らずに契約した者、また、船上で懲罰として辮髪を切られた者など、人間的な扱いを受けていなかったからである。
マリアルス号の苦力が横浜港内で船から飛び降りたことから、問題があらわになった。助けられた「モクヒン」の話は、アメリカ合衆国とイギリスの公使館の知るところとなった。両国代理公使は、虐待の究明を日本の外務省に訴えた。副島種臣外務卿は文明国としてあるまじき不名誉に憤り、大江卓神奈川県参事(のち権令)に取り調べを命令した。神奈川県は、虐待を行った被告の船長に有罪の刑事判決を下し、民事についても人身売買の契約書は無効とした。苦力は自由の身となり、清の使節に引き渡された。
こうした毅然とした日本政府の対応も、外国人の目から見れば滑稽であったかもしれない。判決後に出された太政官布告295号は遊女解放令とも称されるが、人身売買一般を禁止した。弟子奉公は7年、奉公は1年で自由の身になり、娼妓・芸妓等年季奉公人は一切解放される、と定める 。しかし、この期に及んで布告が出たということは、その前には人身売買は日本で合法であったことになる。
木下郁夫、『グローバルガバナンスはどうなっているのか? そして、どうなるべきなのか? 2024年版』、尚論出版、2024年、265ページ。

要点を書く。

  • 苦力貿易は少なくとも数年以上の労務を借金の対価として提供する人身売買の一種。

  • 奴隷貿易を取り締まっていたイギリスは南北戦争後は苦力貿易に目を光らせていた。

  • マカオで乗船した中国人たちは数年間、ペルーで働かされ、故郷に帰る見込みはなかった。

  • 米英の駐日機関が苦力船の寄港に気づき、文明国の義務として外務省に取り締まりを要求した。

  • 日本政府は神奈川県に裁判をさせ、中国人の解放と船長の処罰の判決が出た。

  • 裁判によって、日本国内にも人身売買が存在することが明らかになり、遊女解放令を日本政府は出した。

  • ペルーは裁判に不満で、日本とペルーは事件をロシア皇帝の仲裁に付託したが、皇帝は裁判を問題なしとした。

外務省文書では

外務省にはマリアルス号事件についての文書がたくさんある。日本外交文書へのリンクを貼る。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0005/0093/index.djvu

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0006/0124/index.djvu

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0007/0147/index.djvu

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0008/0169/index.djvu

これらを読んで、私がいちばん疑問に感じたのはどうでもよいことだった。横浜港に飛びこんだ中国人は「モクヒン」というが、漢字でどう書くのだろう? マカオ出身ならば広東語じゃないか?

マリアルス号の船長とモクヒンを神奈川県参事の大江卓が「吟味」した文書が一番上のリンクの番号201「「マリヤ、ルス」号船長並ニ乗客支那人「モクヒン」吟味書」だ。「吟味」なんて、まるで江戸町奉行所でないか!

謎の人物エドマンド・ホーンビー

マリアルス号事件は外務省の文書がそろっており、全容をつかみやすい。しっかりと事件を糾明したので、外務省に隠したい文書はないはずだ。

それにもかかわらず、私は「モクヒン」にこだわっていた。外務省外交史料館に赴き、真実を究明しようとした。

結果を言えば、モクヒンではなく、別の資料に私の目は釘づけになった。しかも、それは外交文書ではなく、新聞記事だった。『ジャパンタイムズ&メール』(1929年4月3日号)の書籍紹介記事だ。「条約未済秘露国風帆船「マリヤ、ルーツ」号清国拐民攪載横浜ヘ入港ニ付処置一件 第七巻」に収められていて、今では国立公文書館の下のリンクから閲覧できる。”Japan’s First Diplomatic Triumph”と題されたものだ。

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B11092384300

この新聞記事が紹介したのはエドマンド・ホーンビーというイギリス人の自伝だった。彼は上海と横浜を巡回して、極東におけるイギリスの領事裁判を統括する中国・日本高等裁判所所長だった。衝撃的な真実がそこには暴露されているように思われた。

https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89090370974&seq=319

ホーンビーの主張どおりなら、関係者たちに国際法の知恵をつけたのは彼自身だった。日本外交文書では代理公使や艦長だけで事件を解明し、彼らが外相に訴えて、裁判が開かれたことになっている。ところがホーンビーは、代理公使や艦長に指図したのは彼自身で、外相ばかりか首相にまで彼は訴えた、と言う。当時の「首相」は……三条実美か?

この自伝の説は数年後に出た副島外務卿の伝記にも採用されているから、「発見」ではない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1230807/1/122

ホーンビーは嘘をついたのか? 彼はマリアルス号事件が発覚する前には事件糾明を求めた代理公使とともに北海道と新潟を旅していた。佐渡では相川銀山を見学し、描写は細かい。まだ鉄道もない時代だ。こうした親密な仲だったから、マリアルス号事件について助言したとしても不思議でない。事件が発覚したときに横浜にいた確率が高かっただろうことはイギリス公文書にみえる彼の動静から推測できる。自伝の内容と客観的な状況のあいだに矛盾はない。ホーンビーは「サー」の称号を与えられるほどの高官だ。

ただし、彼の日本旅行記はいただけない。牛肉を食べたい、とか、田舎の女性は醜い、とか、東洋人を見下す高慢な西洋人の態度だ。しかし、函館と新潟の領事館を訪れ、日本の経済や文化を自分の目で確かめようとするのは領事官の鏡だと言える。

ホーンビーらが活躍した中国・日本高等裁判所に関しては、今世紀になって本が出ている。マリアルス号事件についてその本はホーンビーの自伝を信用していない。著者が引用するのはイエール大学の教授による論文だ。この肩書に日本人は弱い。その教授は、自伝が同時代資料でないことを問題にしている(Daniel V. Botsman, “Freedom without Slavery? ‘Coolies,’ Prostitutes, and Outcastes in Meiji Japan’s ‘Emancipation Moment,'” _The American Historical Review_, vol. 116, no. 5, p. 1331, fn. 28.)。

そのように、ホーンビーはアカデミックな歴史学者に扱われている。興味深いが資料としては使えない、と。『副島種臣伯』に続く文献が現れなかったのもこの理由によるだろう。

まとめ

ホーンビーの自伝が本当であれば、19世紀の覇権国イギリスは軍事力ばかりでなく国際法をも使って、世界を見事に操っていたことになる。魅力的な仮説だが、検証を続けなければならない。私がイギリスの公文書を調べたかぎりでは彼が関与した直接の証拠は発見できない。条約未済国ペルーのマリアルス号における事件は領事裁判所の職権外だ。指示を仰ぎ、報告を上げる上官もいない。もっとも、自国の代理公使が太政官に掛け合ううしろで名乗らずに質問に答えただけだったら証拠は残らなかったろう。

課題

  1. 最初のグアムへの日本人移民のうち、一緒に帰国した菊蔵、茂七、太助、勝五郎、惣助、兼五郎、安五郎、孝次郎、庄吉はどのようにして帰国したか? 日本外交文書に基づいて300字以内で説明しなさい。

  2. 『日本外交文書』第5巻「9 秘露国風帆船「マリヤ、ルス」号ニ関スル件」の番号201「「マリヤ、ルス」号船長並ニ乗客支那人「モクヒン」吟味書」に基づき、マリアルス号において清国人の髪を切る行為はどの程度、行なわれていたのか、そして大江卓はどのような理由でそれをモクヒンと船長に問うているのか、300字以内で解説しなさい。

  3. エドマンド・ホーンビーの_Sir Edmund Hornby: an autobiography_の307ページ18行目から始まる段落で、ホーンビーはマリアルス事件における自らの役割はどのようなものだったと主張しているか、さらに、あなた自身はその主張は史実だったと考えるか、あわせて300字以内で書きなさい。

いろいろ意味がある生麦事件

(表紙の画像はAIによって作成された)

早口言葉じゃありません。歴史の話です。日本外交史をここから始めることには意味があります。ペリー来航は前近代の事件でしたが、近代への歩みは生麦事件から急加速しました。

教科書での関係する記述

教科書

1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦で、江戸から帰る途中の島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷された(生麦事件)。この事件はのちに薩英戦争(→p.226)をまねく原因となった。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 224、n. 2。

薩英戦争とその謝罪

生麦事件の最大の意義は、もちろん攘夷の高まりにあった。無鉄砲な浪人ばかりでなく、藩主の父として責任ある立場にあった島津久光のような人でさえ、その断行に味方したからだ。

しかし、事件の意義はそればかりでない。高校教科書にも、薩英戦争を招いた、と書いてある。戦争だから、それ自体、大事件だ。薩摩藩の城下町、鹿児島、は破壊され、多くの人が死んだ。

鹿児島の破壊については、イギリス庶民院(下院)がそれを陳謝したという説がある。自由貿易論者のリチャード・コブデンも鹿児島の破壊を非難し、私自身、かつてコブデンに研究上の関心があったことから、紀要論文に陳謝の決議が下院を通過した、と書いたことがあった。

http://id.ndl.go.jp/bib/030001513

この説は疑われている。例えば上の細川道久氏の論文のように、遺憾表明決議は通過していない、という分析がある。本当のところは、今でも私は分からない。議事記録を読むと、内容がよく分からない決議が否決されている。修正案が否決されて、原案がとおった、と誤解されやすいのだが、原案もとおらなかったと解釈するほうに分はありそうだ。かつて誤解していた私は遺憾の意を表さなければなるまい。

それはともかく、イギリス議会の議事記録である『ハンサード』を読むと、原案に反対して艦隊司令官による攻撃を正当とした議員たちも、鹿児島の破壊自体は遺憾だった、と認めている。これはどういうことなのか?

https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1864/feb/09/kagosima-japan-bombardment-of-kagosima

遺憾決議が通過した、というのは誤解だったようだ。しかし、地球は動いている、じゃなくて、イギリスは遺憾を表明した、というのは事実なのだ。往生際が悪いように聞こえるかもしれないが。

https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1864/feb/04/the-lords-commissioners-speech

なぜなら、遺憾を表明したのはビクトリア女王だったからだ。下院決議案の採決は1864年2月9日だが、2月4日に大法官が女王の遺憾の意を両院に対して読み上げた。つまり、下院は政府や軍人の責任を問わないために決議案をつぶしたものの、女王の意思まではつぶせなかったのだ。

遺憾なのなら、鹿児島の被害者のためにイギリスは賠償しないのか、という気にもなるが、そうならないのは、なぜ原爆投下を謝罪しないのか、という論争と似た理由からだろう。先に手を出したほうが悪いという論理だ。

生麦事件は攘夷の頂点でもあり限界でもあった。薩英戦争に敗れた薩摩藩は、遅れて下関戦争に敗れた長州藩と同じくイギリスと手を結んだ。薩長が倒幕について合意したとき、内戦は不可避になった。

二重の請求をめぐって

薩英戦争はイギリスが自国民殺害の実行犯の処罰を薩摩藩に請求した結果だった。実は、イギリスは幕府と薩摩藩の両者に「二重の請求」をしていて、幕府はすでに賠償金を払っていたのだ。実行犯の処罰を求めるのはよいが、言うことを聞かないと砲撃をするのはやりすぎだ。当時のパーマストン首相は自らの市民を必ず守るとしたローマ帝国にならい、自国民の生命・財産を保護するためなら武力行使を辞さないことを政策とした。

https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1864/feb/09/kagosima-japan-bombardment-of-kagosima

二重の請求が正しかったか?、は庶民院での争点だった。賠償金で勘弁してやる、とイギリスは言うべきだったと私は思うが、そうしなかったのは親切心ゆえだったかもしれない。イギリスの軍事力で反抗的な大名を屈服させれば幕府の権威が上がると考えたからだ(石井孝氏の次の本を参照。国立国会図書館の登録利用者(本登録)の方はログインして閲覧可)。長い目では、それが近代化であり、主権国家の形成というものだった。

https://dl.ndl.go.jp/pid/3018823/1/100

長期的な真理と短期的な真理はしばしば異なる。雄藩の屈服は家康さえできなかった難題で、長州征伐に失敗した幕府は権威を立て直せなかった。近代化というイギリスが課した宿題は幕府には高すぎたが、かといって、あきらめるべきだったわけでない。なぜなら、この宿題を越えられなかった諸人民は植民地に落ちていったからだ。

幕府が賠償金を払うまで、事件から半年が経っていた。日本は引き延ばしを図る一方、イギリスの要求は強硬だった。アメリカ合衆国の弁理公使は海軍を背景としたイギリスの態度に批判的で、自国大統領か、ロシア皇帝かによる仲裁への付託さえ考えた。

https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1863p2/d379

幕閣はそれなりに切れ者だったので、引き延ばしは見通しのないことではなかった。賠償金を払えなかったのは、将軍の徳川家茂と後見の一橋慶喜が京都で攘夷を約束させられていたからだ。外国の圧力で賠償金を払わされた、という不面目な真実が最悪のタイミングで明らかにならないよう引き延ばしたのだ(洞富雄氏の本を参照。国立国会図書館の登録利用者(本登録)の方はログインして閲覧可)。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12279480/1/17

まとめ

生麦事件には様々な意味があった。鹿児島の破壊、薩摩とイギリスの接近、攘夷から文明開化への転向、長州征伐などだ。日本の近代化という観点では、幕藩体制を終わらせ、雄藩の台頭と戊辰戦争という内戦を招き、明治維新という中央集権化の勝利をもたらすことになった。宿題はやり遂げられたのだ。

うーん。どうでしょう。難しいのか、やさしいのか? 成績評価はFormsへの回答に基づいて出します。

課題

  1. 一般的に『ハンサード(Hansard)』は、どこで、何について書かれているかを300字以内で解説しなさい。

  2. 次の文において、幕府がイギリス政府の請求に応じたのはかなりの時間が経ってからであるが、どのような要因がそうした遅れをもたらしたかを300字以内で解説しなさい。”THE Government of the Tycoon complied with the Demand made upon them by Her Majesty’s Government, and full Satisfaction having been made, the friendly Relations between the Two Governments have continued unbroken,- but the Daimio Prince of Satsuma refused to comply with the just and moderate Demands which were made upon him.”

  3. 次の文において、強制措置と服従合意とは何を意味するか、そしてビクトリア女王は鹿児島の破壊についてどのように感じているか、を300字以内で解説しなさい。”His Refusal rendered Measures of Coercion necessary, and Her Majesty regrets that while those Measures have brought this Daimio to an Agreement for Compliance, they led incidentally to the Destruction of a considerable Portion of the Town of Kagosima.”

 

 

 

対外政策

単なる印象としての対外政策論

対外政策論はそれだけで一つの科目になる。意義も、内容もある。アメリカはこうだ、中国はそうだ、ロシアはああだ、日本はどうだ、と素人がやる。多くは的を射ている。

https://amzn.asia/d/0bhZiNbn

プロがそれをやったらどうなるか?、というのがハロルド・ニコルソンの『外交』だ。ニコルソンはイギリスの外交官だが、紳士服のモデルのように見かけのよい人だ。まぁ外交官というものは見かけで説得するものだ。

イギリス、ドイツ、フランス、そしてイタリアの外交についてニコルソンがイメージしたことをスライドにした。

ニコルソンのイギリス外交のイメージ

イギリスは自分の国だけに、スマートなイメージが前面に出ている。

ニコルソンのドイツ外交のイメージ

つぎにドイツは「敬して遠ざく」といったところ。信用できないし、少し危ない。

ニコルソンのフランス外交のイメージ

恐いドイツのことで頭がいっぱい、という当時のフランスの様子が表現されている。意外にも、太陽がいっぱい、とか、デモがいっぱい、というイメージは当時なかった。

ニコルソンのイタリア外交のイメージ

イタリアにいたっては、軽蔑を吐露した以外の何物でもない。

要するに、ニコルソンが表現した各国対外政策のイメージは帝国主義と両次大戦間期の歴史を観察して得た感想そのものなのだ。AIに表現させても同じような結果が得られるかもしれない。個々のケースについてのイメージを答えて、頻繁に出てきた概念を抜き出したものが対象国についてのニコルソンのイメージというわけだ。未来が過去に似ていれば、その国がこれからどう出てくるか、を予想するのに役立つが、新機軸や革命的変化には対応できない。

科学的アプローチ

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ニコルソンの例のように、対外政策をイメージや印象に基づいて論じることはたやすい。しかし、科学的、体系的に教えようとすると、これほど難しいものはない。体系的な枠組みを示したものとしては、花井等ほかが整理したものがある。

一. 外交政策の諸要因
二. 政策決定過程
三. 外交政策スタイルの特徴

花井等、「序章 比較外交政策とは」、花井等、須藤真志編、『新比較外交政策論』、学陽書房、1992年、4ページ。

私なりの理解を書くと、一つ目の「外交政策の諸要因」は環境要因であり、特に「国力」や「地政学」として論じられるものだ。いわゆる現実主義がこれを主な分析対象にする。国力のテーマも授業1回分になるので、ここでは扱わない。

他方、三つ目の「外交政策スタイルの特徴」は上で見たニコルソンのイメージに近いものと考えられる。アウトプットから支配的な印象を抜き出したものだ。日本外交にはどういう傾向があるか?、は学生さんたちに考えていただくことにして、ここでは割愛する。

そこで、二つ目の「政策決定過程」ということになる。Decision-makingは意思決定、Policy-makingは政策形成や政策策定と訳される。「政策決定」とは、両者の意味を合わせたものだろう。 

システム理論やサイバネティクスと政策決定過程は相性が良い。環境からのインプットを情報処理し、政策としてアウトプットする。政策がうまくいったか否かを判断し、次の政策へとフィードバックする。こうしたフローが政策決定過程だ。(ただし、花井ほかの著作ではシステム理論は採用されていない。)

つまり、政策決定過程は諸アクターが所与の制度のもとでいかに政策に影響を与えるか?、というゲームだ。研究の方法としては、アクターと制度を分析することが中心だ。

システム理論を政策決定過程に応用するメリットは、独裁国、民主国、共産国、前近代国家など、政治体制を選ぶことなく記述できる点にある。蒙古襲来を調伏する祈祷も、国連安保理への訴えも、等しく対外政策であり、機能的等価物ということになる。

システム理論は比較には役立つものの、一国だけを分析する場合は、皮肉にも、ほぼ必要ない。一国の政策形成を説明するのが上手か下手かは、各国の政治制度をいかに熟知しているかに大きく依存する。

日本の政策形成

ということで、日本外交を分析するには、その政治制度がいかに変化し、その枠組みの中で諸アクターがいかに行動したか、を細かく論じることが重要だ。

時代区分を日本外交の政策決定過程に施せば、幕末、明治憲法以前、明治憲法下、そして現行憲法下に分けられよう。明治憲法下までは制度・慣行は激しく変化した。

外務大臣が外交を主導するのが大日本帝国憲法のもとではふつうだった。総理大臣、軍部、議会、あるいは枢密院が大きな役割を果たした時期もあったものの、天皇に直接、外務大臣は外政の責任を負った。実務でも、在外公館や部局からの報告を外相が読み、それに対して返事を書く、というのが基本的な流れで、他国でも大同小異だった。

第二次世界大戦後、総理大臣が外交も事実上、ワンマンで責任を負うようになった。大臣の人事権も「彼」が握った。

アクターの分析も制度の分析と同様、掘り下げがいがある。吉田茂など総理大臣がどのようなパーソナリティだったか、は単に物語として面白いだけでなく、対外政策アクターの研究として意義深い。

こうした政府内の政策決定過程は、どう概念化できるのか?

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世界一、有名なのはグレアム・アリソンの対外政策モデルだろう。

  • 合理的行為者(古典)モデル
    統一的な国家・政府による価値の極大化

  • 官僚政治モデル
    立場のことなる閣僚プレイヤー間の駆け引き

  • 組織過程モデル
    政府を構成する巨大組織のルーティンな過程・手続き

合理的行為者モデルは、どちらかというと政府内の過程に左右されない。意思決定はこうあるべし、という理念として捉えられる。

アリソンのものの真骨頂は残りの2モデルだ。閣議室での高官間の駆け引きが官僚政治モデルでは描かれる。他方、それぞれの省庁での立案が下からの圧力で上がってくることをイメージさせるのが組織過程モデルだ。

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日本の政策形成は、組織過程モデルに近いのでないか、という印象を私は持っている。なぜなら、丸山真男が指摘したタコツボ型の「巨大な組織体が昔の藩のように割拠する」というイメージが日本社会の特徴として染みついているからだ。総理大臣が国益を第一に沈思黙考して日本の未来を決断する、というのは劇画的な世界観に感じるし、閣議で合理的で冷静な議論が行われ、その結果として最適解が出されているとも想像しがたい。最近は丸山真男を読む人はあまりいないと思うので、『日本の思想』から引用しておく。

丸山真男

ただ日本の特殊性はどこにあるかというと、ヨーロッパですとこういう機能集団の多元的な文化が起っても、他方においてはそれと別のダイメンジョン、それと別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがございます。たとえば教会、あるいはクラブとかサロンとかいったものが伝統的に大きな力をもっていて、これが異った職能に従事する人々を横断的に結びつけ、その間のコミュニケーションの通路になっているわけです。ところが日本では教会あるいはサロンといったような役割をするものが乏しく、したがって民間の自主的なコミュニケーションのルートがはなはだ貧しい。明治以後、近代化が進むにつれて、封建時代の伝統的なギルド、講、寄合といったものに代って、近代的な機能集団が発達しますが、そういう組織体は会社であれ、官庁であれ、教育機関であれ、産業組合であれ、程度の差はありますが、それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう傾向がある。巨大な組織体が昔の藩のように割拠するということになるわけです。
丸山真男、『日本の思想』、岩波書店、1961年、137-138ページ。

日本の歴史で最も猛威を振るったタコツボが軍部だった。「関東軍」というと、満洲事変を強行して国全体を世界のつまはじきにした組織だが、内部の論理だけで動き、外部の声を聞かない人々を指す普通名詞でもある。

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稟議制については、下僚が起案した稟議書が上司の同意を得ながら最終的には大臣の決裁を経て法令となるさまを辻清明の『新版日本官僚制の研究』が描いた。こうしたやり方は集団主義につながり、対外政策でもタコツボ化をもたらしていることだろう。以上、20年以上前に勉強した内容なので、今でもこれでよいのか心もとなくもない。

さらに、政治制度内での政策決定過程を「システム」と呼ぶならば、世論や外国といった外部からのインプットも考慮に入れる必要がある。

日本はタコツボの集合体だ。すべてが「関東軍」のように暴れまわったら、内部崩壊してしまう。そこで、それぞれのタコツボからの要求を集約することが必要になる。このゲートキーパーの役割、つまり集約機能、を果たすのが政党だ。日本では自民党が長期政権を握り、固定客を優遇する政策を続けている。そうしたお客さんの対応をしているのが族議員たちだ。

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「鉄の三角形」という言葉がある。政・官・財というように、政界・官界・財界の特殊利益がタッグを組み、自分たちの利益になる政府政策を支持しているという分析だ。対外政策ならば、「軍産複合体」による軍拡や日本のコメ農家を守るための通商政策に見られる。

だんだん、対外政策から離れてきたような気がする。対外政策というと、平和政策と武力行使といった政策手段のテーマもある。ローレン、クレイグ、ジョージのこの本はもう古いのか?

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ここまで書いて、対外政策を講義することは大洋に乗り出すがごとき事業だ、と悟った。それに比し、我が身は水面にただよう落ち葉のようになんと頼りないことか!

と考え、筆を止めることにした。

課題

  1. 戦後における日本外交の傾向またはイメージを20字程度でまとめて鍵括弧にくくって示し、どうしてそのような傾向またはイメージとして表現されるのか、できれば具体例をあげながら300字以内で説明しなさい。

  2. 13デイズの会議シーンにおける文民と軍人の発言内容や身振りを比較し、それぞれの特徴を述べなさい。

  3. 対外政策でなくてもよいので、「鉄の三角形」の具体例を、それを構成する①政策、②政界の特殊利益、③官界の特殊利益、そして④財界の特殊利益(財界でなくても民間の利益集団ならばよい)のすべてを挙げて解説しなさい。

 

資料

公開外交

資料というのは文字に書かれたものでも、録音でも、録画でも何でもいえることだが、説得のための道具だ。これをソフトパワーと呼ぶ人もいる(服部龍二氏『外交を記録し、公開する』)。特に、権利とか、義務とか、社会で他人に自らの正当性を認めさせるのには欠かせない。

外交、すなわち英語でディプロマシー、も元の意味は書類のことという。この場合の書類は、他国に対して自国の正当性を納得させるためだけでなく、過去の自国の行動から学び、教訓にすることにも使われる。

https://history.state.gov/historicaldocuments

19世紀には、アメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカンが外交文書を出版し、公開外交を実践した。いつからかは知らないが、イギリス議会にはブルーブックという名で自国の外交文書が資料として提出される慣習ができていた。

外交に限られず、国家の事務は書類を使って行われる。確かに、稗田阿礼のように記憶力が抜群な人が宮廷にいても、覚えられる量は書籍数冊分くらいだろうし、内容も語るたびに変わっては信頼がおけない。そんな人たちを並べておくより、書庫を設けるほうがコンパクトだ。

近代では、公文書に依拠して歴史を書くことをドイツのレオポルト・フォン・ランケが推奨した。特に外交史では、断然、ドキュメンティッドな(参考文献が示してある)著作が主流となった。

https://www.msz.co.jp/book/detail/08592

第一次世界大戦はあまりに被害が大きかったがゆえに、指導者たちの責任を問う動きが見られた。ドイツの元皇帝を刑事裁判にかけることは結局、実現しなかったものの、外交文書の公開は積極的に試みられるようになった。日本の元外交官、鹿島守之助、も『世界大戦原因の研究』という本を出版した。(なんで、こんなにたくさん今でも出品されているのだろう?)

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第二次世界大戦後、ドイツと日本が占領されると外交文書は公開され、その他の国々でも知る権利が広まって、公文書は一定期間経過後、原則として公開されることになっている。知る権利は英語でフリーダム・オブ・インフォメーションだ。日本の外交文書については服部龍二氏の著作が詳しい。

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各国の公文書館

本ページの写真は私が2007年に撮った外交史料館のものだ。日本の東京都港区麻布台に所在し、隣の飯倉公館とは境界が分からないくらい一体感がある。

調査中、昼食をとりたくなったらどうするか? 館内では食べられなかったと思う。地方から上京する者にとって、昼食をがまんして時間を有効に使うことも大切だ。しかし、六本木が近いので外出してもよかったかな、と思う。

日本にはほかに国立公文書館と防衛研究所があるが、私は残念ながらどちらも赴いたことはない。都道府県や国立大学にもそれぞれ公文書館がある。

イギリス国立公文書館、2002年木下郁夫撮影

上の写真はロンドンのキューガーデンにあるイギリス国立公文書館(TNA)だ。これを撮った時点ではPROと呼ぶのが一般的だった。実際に通ったのは2002年の夏だけで、以後はインターネットでデータを購入している。昼食は、売店でサンドイッチのようなものを買って食べた記憶がある。

合衆国公文書館、2013年木下郁夫撮影

こちらはワシントンDC郊外のカレッジパークにあるアメリカ合衆国公文書館(NARA)で、2013年に撮影した。DCの中心部に独立宣言などが展示されている本館があり、アーカイブズという地下鉄の駅もある。カレッジパークのほうはアーカイブⅡと区別する。託児所があったのが衝撃的だったが、素晴らしいレストランがあって、昼食は至福のひと時だった。ただし、外部者は割増料金だったと思う(連邦議会図書館もそうだった)。

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資料の探し方や扱い方が分からなかったとき、NARAの職員の方に教えてもらったのが仲本和彦氏のご著書。分類、閲覧、複写……などで右往左往したので、日本から持っていくべきだった。思えば恥多き人生だ。

日本、イギリス、アメリカ合衆国の公文書館に収められている資料を比較すると、日本には残念な点がある。私が調べた文書についてだけにいえるのかもしれないが、日本は全省、イギリスは部署、合衆国は個人の単位で職務で触った文書を保管しているように感じられる。

日本の外交史料館において、文書は全省レベルでテーマごとに編纂される。それは内部の職員が先例を調べるにはよいかもしれないものの、重要と考えられないテーマの文書や原稿段階の文書、あるいは細々とした事柄の文書は廃棄された。

これにたいし、英米ではとりあえず全部保管するつもりであるようで、文書の意味や重要性を後世の人間が判断するのを可能にしている。特にアメリカ合衆国では、文書はパブリックドメインにある公共物であり、機関や職員の所有物でないという意識がある。 

国連公文書記録管理部、2013年木下郁夫撮影

ちなみに、国際連合の公文書記録管理部(ARMS)はニューヨークのマンハッタン島にあるが、11年前には規模は大きくなかった。政策形成にかかわる文書が意識して保管されている印象も受けなかった。

公文書館を利用するにはカネと時間がかかるが、十分にそれに報いる価値があるものだ。

課題

  1. Minister Newel to the Secretary of State, October 3, 1904を読んで、いつ、どこで、だれが、だれに、何のために書いたかを300字以内で答えなさい。https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1905/d705 (3 点)

  2. 「海軍兵曹長鈴田茂一任官ノ件」を読み、鈴田茂一がなぜ中尉に任官したかの理由を原文を引用して300字以内で説明しなさい。https://www.digital.archives.go.jp/img/2684626 (3 点)

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