とはいっても、子孫でもなければ同郷でもない。まったくの赤の他人だ。

しかし、言っておきたいことがある。北条早雲にせよ、斎藤道三にせよ、前半生が定かでなかった戦国大名の出自はほぼ作り話だった。伊勢新九郎は素浪人でなく、名家のおぼっちゃんだったし、油売りは道三本人でなく、父のイメージだった。

このように、文献にはごちゃごちゃ書かれているが、当事者以外が書いたもの以外はあてにならない。人間を描くにはその根幹部分を理解する必要がある。

木下藤吉郎の場合、頭角を露わした根幹は墨俣築城や調略など美濃攻めだ。となれば、美濃に隣接した土地が拠点であるべきだ。例えば、犬山城はかつて木下城といったが、美濃攻めの拠点としては最適だ。

また、Wikipediaに次の記述がある。

Wikipedia

秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓を農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説がある。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、小和田哲男は、秀吉は元々苗字持ちでなく、木下家利の婿養子の名目で木下祐久と改名した杉原定利の娘おねと結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという説を紹介している[148][注釈 48]。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性が指摘されている[注釈 49](ただし、おねの実家の苗字については天正12年に杉原氏宗家が秀吉から改易処分を受けたことにより、木下氏を名乗るようになったとする堀越祐一の指摘がある[20])。黒田基樹は、確定するのは困難であるものとしつつ、母・仲については加藤清正などの縁戚による人脈出身者の多さから彼女の出自は有力百姓の出身と考えられ、その彼女の婚姻相手である弥右衛門もまた一定の上層百姓であったのではないかと推測している[150]。黒田はその後の著作でこの問題を再検討し、百姓身分で結婚が可能であったのは江戸時代でも年貢・公事などの租税の対象となる耕地を所有していることが前提であり戦国期も同様であることから、元は一定の上層階層の百姓の家であったのが後日没落したと考えた方が妥当であるとしている。また、黒田は当時の社会では没落して社会的身分を喪失すると名字も喪う(名乗れなくなる)ことに留意すべきと述べている[25]。その上で『明智軍記』に記された「当初”中村藤吉郎”を称して木下雅楽助の組に配属され、後に信長から直臣に取り立てられた際に寄親の木下雅楽助から”木下”の名字を与えられた」という記述に一定の整合性を認め、秀吉あるいは父親が出身地から「中村」を称していたが、秀吉が父からの世襲ではなく自ら家を興したことを強調するために当時の寄親とされる木下雅楽助から「木下」の名字を授かって「中村」から名字を変えた可能性、もしくは家の没落によって一度は名字を失ったために織田家に仕官するにあたって「中村」を称し、後に改めて「木下」の名字を授かった可能性があるとしている[30]

豊臣秀吉 – Wikipedia

織田一門ともされる名家の木下家を斎藤道三のように乗っ取ってのし上がったと考えるのが、封建時代の出世のしかたとしては自然だろう。道三もそうだがお家乗っ取りは評判が悪いので、徹底的に痕跡を消したのだろう。

織田一門の木下家が犬山の領主だったとすれば、鳥肌物の一致だが……いずれにせよ、物語としては面白くない。史実は往々に砂をかむような話だ。