1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。
第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、先行したのは枢軸国の形成であった。その呼び方はローマとベルリンの枢軸を叫んだベニト・ムッソリーニの演説に由来する。
枢軸国陣営の独伊以外への広がりは、防共協定への参加をつうじて行われた。防共協定は1936年に日本とドイツがコミンテルン、すなわちソビエト連邦、に対抗する目的で結ばれた。話し合って連携することを協議というが、その古い言い方が「協商」であり、防共協定は戦争への参加を約束する軍事同盟ではなかった。共産主義から国を守る、とは実は建前で、勝ち組になりたいのが本音の多数派工作であったと理解すべきである。
近代日本の最大の過ちが防共協定と三国同盟への参加と言って過言でない。三国同盟は軍事同盟であり、1940年に日本、ドイツ、そしてイタリアにより結ばれた。日本にとっては大東亜共栄圏を建設する際、他国の妨害を抑止するための弾除けのつもりであったろう。実際には逆効果で、英米は日本を信頼しなくなり、戦争準備に取り掛かった。交渉による和解は難しくなった。
防共協定は日独伊にとどまらず、多くの国に広がった。枢軸国にはユダヤ人への迫害や経済協力といったほかの共通の政策もあったものの、最も一般的であったのが防共政策であった。
防共政策をとる国の多くは非民主的な体制であった。ハンガリーは摂政という変わった肩書のホルティ・ミクロシュによる独裁のもとにあり、ファシスト政党の矢十字党が台頭した。ルーマニアも似たり寄ったりで、イオン・アントネスクの軍事政権がヒトラーの同盟者としてソ連と戦った。ブルガリアは国王ボリス三世の独裁下にあったものの、対ソ戦争には参加しなかった[1]。
フィンランドは、その領土を狙うソ連に抗して冬戦争および継続戦争を戦った。同国は防共協定に加入したものの、ユダヤ人迫害には加担しなかった。
ピブーンソンクラーム政権のタイは、日本軍による東南アジアへの進撃に場当たり的に対処して、日本との同盟を選んだ。それにもかかわらず、戦後、連合国から旧敵国に数えられず、外交巧者の名を高めた。
対する連合国の結成は、真珠湾攻撃によって一気呵成に進んだ。翌1942年に発せられた連合国宣言は、三国同盟加盟国との戦争に軍事的・経済的な貢献をし、単独講和しないことを約束した。この宣言は米英ソ中を筆頭署名国とし、当初は26か国であったのが最終的には48か国にふくらんだ。国連憲章を採択するためのサンフランシスコ会議に参加するのに日独への宣戦布告が条件とされたためである。
第一次世界大戦では、米州とアジアのたいがいの国が中立を維持したにもかかわらず、第二次大戦で中立を選んだ世界の国は一握りにすぎなかった。交戦国の側には、中立国の存在は利用価値があった。そこに行けば敵国の外交官が駐在しており、接触することができた。それゆえ、ベルンやストックホルムは和平交渉の舞台になった。また、敵国における自国の資産を管理してもらう利益保護国の役目を中立国の在敵国大公使館に依頼した。
スイスは永世中立国の地位を人道活動のために利用した。ジュネーブに本部を置く赤十字国際委員会のメンバーはスイス人であるので、交戦国からそうした活動が許された。また、スイス政府はアメリカ合衆国の利益保護国として、枢軸国における財産と国民を保護した。さらに、首都ベルンには日本公使館もあったので、終戦をめぐってアメリカ合衆国は日本側と接触ができた。このダレス工作が実を結ばなかったのは、もう一つの中立国であったソ連の仲介に日本が一縷の望みをかけていたからであろう。
スウェーデンも19世紀初め以来、戦争に参加せず、板についた中立国であった。第二次世界大戦では日本の利益保護国を務めた。陸軍将官の小野寺信が同地で和平工作をしたことが知られる。
教皇庁は19世紀にローマを接収されて以来、イタリア政府と対立した。1929年にムッソリーニとラテラノ条約を結んだことにより、教皇庁はバチカン市国として領土を有する独立国の地位を得た。同条約で中立の義務を負ったことで、バチカンにはイタリアの敵国も外交使節団を派遣した。
第二次大戦中には、教皇庁にこれまで外交使節団を派遣してこなかった日本、アメリカ合衆国、そして中華民国が外交官を派遣するようになった。バチカンはただの中立国でなく、精神的な価値を唱えるカトリック教会の総本山である。ナチスによるホロコーストを見て見ぬふりをした、と戦後は非難された。ただし、アイルランド出身のヒュー・オフラアーティのように、捕虜とユダヤ人を救う活動をした教皇庁外交官もいた。
スペインは内戦でドイツとイタリアから軍事援助を受け、枢軸国寄りであった。しかし、ヒトラーとの同盟には応じず、中立国であった。主な連合国は内戦中、フランシス・フランコの勢力を支持しなかった過去があり、外交関係の正常化に及び腰であった。
スペインはムッソリーニとヒトラーの敗北には巻き込まれなかったものの、戦後、国際連合から排除された。1946年、総会で採択されたスペイン排斥決議A/RES/39は、フランコ政権の国連加盟を支持しないよう加盟国に勧告した。スペインは1955年に加盟を果たしたものの、孤立を脱したのはフランコが死んだ1975年になってからであった。
同じく独裁的な中立国ポルトガルも戦後、共産国から外交関係を拒否された。領土のアソレス諸島が大西洋上の中継地であったことから、米英との関係は悪くなかった。アフリカ東岸モザンビークもポルトガル領であったが、敵地に残留していた連合国と枢軸国の外交官・領事官・民間人はそこで交換されている。冷戦が始まると、原加盟国としてNATOの結成にポルトガルは参加した。
ソ連は1941年6月まではヒトラーのパートナーであり、東ヨーロッパの分割にあずかった。また、1945年8月に対日参戦するまで、日本にとっては中立国であった。同地駐在の佐藤尚武大使は連合国との講和の周旋を打診したが、すでに参戦の意を固めていたソ連に拒絶された。
その一方で、リベリアのような戦闘に加わらなかった国でも、連合国宣言に署名したものがあった。旗幟を明らかにするよう圧力がかけられたからである。永世中立国でもなく、中立を貫いたアイルランドとアフガニスタンは珍しい存在であった。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことをもって第二次世界大戦は始まった。電撃戦、すなわち戦車による突破と急降下爆撃による支援、は著しい成功を収めた。奇妙な戦争と呼ばれた静かな時期をはさみ、1940年5月、ドイツ軍はベルギーとフランスのアルデンヌの森を突破した。不意を突かれた英仏軍は翌月、ダンケルクからブリテン島に撤退した。7月には、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるイギリスとの航空戦が始まった。戦闘機スピットファイアの健闘に出ばなを挫かれたヒトラーは上陸作戦を見合わせた。
他方、日中戦争は1937年に始まっていた。中華民国の蒋介石総統が拠点とする重慶を日本軍は攻略できなかった。英領ビルマから援蒋ルートを通って送られる武器が日本の勝利を阻んだ。蒋を倒せないまま、日本は南京に汪兆銘を主席とする国民政府を樹立した。
日本は八方ふさがりであった。ソ連に対しては、1939年のノモンハン事件で苦戦した。1932年に建てた満州国は米英から承認されなかった。
ソ連と戦う北進と、東南アジアへと向かう南進の選択に日本は直面した。北進については1941年4月、日ソ中立条約を結んだことで可能性は消えた。南進を選べば、東南アジアに植民地を持つ米英との衝突は避けられなかった。近衛文麿総理大臣は野村吉三郎を駐米大使に充て、アメリカ合衆国との対立を解消しようとした。ところが、日本は今のベトナムに含まれる南部仏領インドシナを占領するという、和解とは矛盾する行動をとった。
1941年10月に東条英機が総理大臣に就いた。翌月、アメリカ合衆国は、中国からの撤兵など日本が受諾不能な内容であるハル・ノートを手渡した。
12月7日の日本による最後通牒は真珠湾攻撃に間に合わなかった。実松譲の著書から引用する。
午後二時二十分、ハル国務長官は野村、来栖の両大使と会見したが、白髪温容の彼の顔からは日頃の微笑が消え失せ、苦々しい表情を押へきれない様子であった。野村大使が「午後一時に此の覚書を貴長官に手交するよう訓令を受けた」と述べたところ、ハルは「何故に午後一時か?」と訊ね、野村は「何故なるかを知らず」と答えた。長官は我が覚書を一読した後、非常に激怒した面持で、「自分は過去九ヶ月間常に信実を語って居った。斯くの如く偽りと歪曲に満ちた公文書を見たことがない」と語った[2]。
ドイツは何を目指したのであろうか? 新秩序という言葉が当時、はやっていた。ドイツはヨーロッパの完全制覇を前にして「大ドイツ帝国」と改称した。世界征服が実現したら、アメリカやアジアのユダヤ人までナチスは絶滅したであろうか? それは無謀で無意味な目的である。
東亜新秩序は日本が掲げた政策目標であった。1938年末、近衛が声明したものである。東亜とは日本・満州・支那から成るブロックのことで、支那は南京国民政府を指した。これを東南アジアまで発展させたのが大東亜共栄圏である。1940年夏に北部仏領インドシナの占領に先立ち、松岡洋右外相が談話した。
開戦後の1942年には占領地の拡大に合わせて、政府の担当部署を統合し、大東亜省を設けた。大東亜会議は米州のパンアメリカン連合をまねたものであろう。1943年、東条英機総理大臣と重光葵外相のもと、東京で開催された。操り人形と蔑まれながらも、南京国民政府、満州国、フィリピン、ミャンマー、タイ、そしてインドの代表を集めた意義はあった[3]。
結論を言えば、ドイツも、日本も、戦争目的は地域レベルの秩序を自らが好むように作り直すことにあった。そうした目的は、国内統治の正統性がナチスと翼賛体制になかったがゆえに、それを補うべく、むりやりひねりだされたものであった。
第二次世界大戦の勝敗は、他のあらゆる戦争と同様、兵士、兵器、作戦、諜報、補給、そして政治リーダーシップの優劣で決まった。しかし、ここですべてを論じるわけにはいかない。見落とされがちな諜報について、それがいかに大事であったかだけを述べる。
諜報の大きな柱はヒュミントとシギントである。ヒュミントは生身の人間が敵地で情報を集めることである。シギントは電波や光などの信号を分析して敵情をつかむことである。
ゾルゲ事件はヒュミントの例である。リヒャルト・ゾルゲはソ連の赤軍第四部に所属するスパイであった。ドイツ人新聞記者の隠れ蓑をかぶり、ナチス党員の身分を得た。駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼をえて大使館内に個室まであてがわれた。日本人の協力者は、近衛文麿のブレーンであった朝日新聞記者尾崎秀実やアメリカ共産党員宮崎与徳であった。
ゾルゲの凄腕を示すのは、独ソ戦の開戦日をほぼ正確に予告したことである。また、日本は北進でなく、南進するであろうことを探り当てたことも見事であった。モスクワがいかにそれを活用したかはともかく、戦略立案の参考となる情報であったことはまちがいない。彼は1941年に逮捕され、1944年に死刑に処された。日本の要人の一族にまで逮捕は及び、防諜の失点となった[4]。
アラン・M・チューリングはシギントの例である。数学者としての彼は1936年にチューリングマシンを考案したことで知られる。第二次世界大戦中はイギリスの政府暗号学校(ブレッチリーパーク)に勤務した。ドイツは暗号機エニグマで通信を暗号化し、安全性に自信を持っていた。チューリングの部署は機械を使ってそれらを迅速に解読し、連合国の勝利に貢献した。ところが戦後、彼は同性愛罪で有罪になり、自殺してしまった。この悲劇は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』の題で映画化された[5]。
日本に対する暗号解読を担当したのはアメリカ合衆国であった。OSS(戦略サービス局)は電信傍受・解読をはじめ、さまざまなスパイ任務を遂行した。これが戦後にCIAへと発展する。
1942年から翌年にかけて、戦いはクライマックスを迎えた。1941年6月の独ソ戦がヨーロッパではそれに当たる。結局、レニングラード、モスクワ、そしてスターリングラードの防衛線をドイツ軍は抜くことができなかった。
勝敗への影響もさりながら、独ソ戦の特徴は、領土といった講和条件をめぐってせめぎ合う通常戦争から逸脱した点にある。第1に、それは収奪であった。これはヒトラーの生存圏論に端を発した。占領した地において、石油、穀物、そして家畜をドイツ軍は略奪した。第2に、それは絶滅であった。ナチスは捕まえた共産党政治将校とユダヤ人を全員殺害した。第3に、国際法を顧みず、捕虜を虐待した。第4に、レニングラードの兵糧攻めなどで飢餓が発生した。これらの結果、戦闘以外で数百万人が死亡した。
1943年2月、スターリングラードで逆包囲されたドイツ軍が降伏し、ソ連側が攻勢に転じた[6]。他の戦線でも、ヒトラーの快進撃は終わった。アフリカでは「砂漠のキツネ」ことエルビン・ロンメルがエジプトに拠点を置くイギリス軍と一進一退の攻防をしていた。1942年には、リビアからイギリス軍を駆逐するところまでいったものの、翌年、現地のドイツ軍はイギリスに一掃された。
日本も支配地を急速に広げたものの、限界の訪れは早かった。1942年6月のミッドウェイ海戦に敗れてからは守勢をしいられ、ガダルカナル島の戦い、インパール作戦、そしてレイテ沖海戦と連戦連敗に陥った。
「失敗の本質」を作戦レベルの問題に求めるのが戦後は主流である。すなわち、兵力の逐次追加、陸軍と海軍の不連携、中央と現地のコミュニケーション不足、そしてコンティンジェンシー・プランの欠如といった点が批判された[7]。作戦がましであったとしても、勝てはしなかったであろう。本当の「本質」は戦前・戦中における軍隊への度を越した信頼であり、反戦を叫ぶ勇気ある者がいなかったことであった。
勝敗を超えた絶滅戦争であったこの大戦に、法はあったのであろうか? ホロコーストはナチス・ドイツによるユダヤ人の殺戮であり、アウシュビッツなどの絶滅収容所において実行された。国家による「最終的解決」として行われたのは1941年以降である。
連合国の側では、ローズベルトの四つの自由演説に見られるようにユダヤ人を保護する動きがあった。絶滅の現場では収容所が解放されるまで、実業家のオスカー・シンドラーのようなライティアス・ピープルまたは「義人」が自発的にユダヤ人を救うしかなかった。
特に、特権免除を持つ外交官・領事官はそうしたことをしやすい立場にあった。杉原千畝は日本の在カウナス領事館領事代理であった。彼は迫害から逃げるユダヤ人に通過ビザを発給した。ドイツのポーランド侵攻により、ユダヤ人たちは安全な地に逃げようとさまよっていた。カウナスのあるリトアニア自体が1940年6月にソ連に併合されていた。
ラウル・G・ワレンバーグは中立国スウェーデンの外交官であった。在ハンガリー公使館に勤務し、救出を行った。ユダヤ人を公使館保護下の家にかくまい、スウェーデンのパスポートを発給した。ところが、ソ連の赤軍により逮捕された後、行方不明になってしまった。
日本軍による戦争犯罪で目立つのは捕虜の虐待である。なかでも「バターン死の行進」はアメリカ合衆国の対日感情を大きく悪化させた。1941年、日本軍に投降し、収容所に移動中の多数の米兵・フィリピン兵が死亡した。ビルマにおける泰緬鉄道の建設では、強制労働させられた多くの連合国軍捕虜が死亡した。映画『戦場にかける橋』では、この鉄道を爆破するイギリスの特殊工作が描かれる。
逆に日本人の捕虜も人道的といえない待遇を受けたが、勝者は罰せられなかったので、戦後、不公平感を抱く日本人は少なくなかった。好例はシベリア抑留である。日本兵・軍属など約60万人がソ連とモンゴルに抑留され、強制労働に従事した。
その他の日本の戦争犯罪には、南京を攻略した日本軍が民間人を多数殺害した南京事件、731部隊による生物兵器の使用と人体実験、インドネシアでオランダ人女性を慰安婦にしたスマラン慰安所事件などがある。
連合国の側にも、ドイツ系住民の追放、ドレスデンや東京への戦略爆撃、広島・長崎への原爆投下など非人道的な行為があった。世界大戦においては国際法が守られる保証はない。こちらが守りたいと思っても、相手が守らなければ引きずられるからである。
戦後処理は1943年から本格化した。1943年11月、米英中首脳がエジプトのカイロで会談した。対日戦はアメリカ合衆国が中心となって進めていたため、満州を含む中国から日本を追い出すスティムソン・ドクトリンとハル・ノートが基礎となった。台湾は中国に返され、朝鮮は独立することもカイロ宣言で謳われた。
1943年の11月末から翌月にかけ、ローズベルト、ウィンストン・チャーチル、そしてヨシフ・スターリンがテヘランで会った。しかし、ヨーロッパでは、英米とソ連が、それぞれどこを占領するか定まっていなかった。
1944年の夏にはフランスとルーマニアが連合国の手に落ちた。あとは東ヨーロッパとドイツをどうするか、が課題であった。
歴史の後知恵で、東ヨーロッパはソ連圏に組み込まれることを私たちは知っている。この年の10月、チャーチルはモスクワを訪れてスターリンと会い、パーセンテージ協定に合意した。これはバルカン半島の諸国に対して、ギリシャとユーゴスラビア以外は、ソ連の影響力が勝ることを確認する結果になった。占領した国がその土地に対して影響力を持つ、というのは分かりやすいと言えば分かりやすいが、アメリカ合衆国には異論があった[8]。同国にとっては、勢力範囲の画定でなく、あくまで自由が戦争の目的であることになっていた。
ヤルタ会談は1945年1月から2月にかけ開かれた。ドイツは分割して占領することを決めた。ロシアが占領したポーランドは自由選挙をすることにした。日本との関係では、カイロ宣言の内容に加え、南樺太、千島列島、そして満州の諸権益をソ連が得ることを認めた。かわりに、ソ連は対日参戦を約束した。ヤルタ体制という言葉は、大国によるヨーロッパの分断という意味で使われる。ドイツは分割され、ポーランドの自由選挙はついに行われなかった。分断への動きを止められなかった、という意味であれば、この会談はその汚名に値する。
4月30日、アドルフ・ヒトラーが自殺した。5月8日に、ドイツは降伏文書に署名した。
7月から翌月にかけ、ベルリン郊外の町ポツダムで連合国の首脳会談が持たれた。占領下にあったドイツに関して、賠償、占領、そして国境の重要な決定がなされた。もめたのはポーランドの親ソ政権を承認するかの問題であった。もちろん、日本に降伏を求めたポツダム宣言も公表された。 日本軍は3月に始まった沖縄戦が6月に終息すると、本土決戦の備えにかかった。しかし、8月に入っての広島・長崎への原子爆弾投下とソ連の参戦により、御前会議はポツダム宣言の受諾を決めた。8月15日、玉音放送が流され、9月2日、降伏文書が署名された。
[1] 矢田俊隆編、『東欧史』、新版、山川出版社、1977年。
[2] 実松譲、『幻の最後通牒』、五月書房、1995年、151ページ。
[3] 外務省外交資料館日本外交史辞典編纂委員会、『日本外交史辞典』、山川出版社、1992年。山本有造、『「大東亜共栄圏」経済史研究』、名古屋大学出版会、2011年、22ページ。
[4] F・W・ディーキン、G・R・ストーリィ、『ゾルゲ追跡』、上、下、河合秀和訳、岩波書店、2003年。
[5] アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、上、Kindle 版、勁草書房、2021年。アンドルー・ホッジス、『エニグマ アラン・チューリング伝』、土屋俊、土屋希和子訳、下、Kindle 版、勁草書房、2021年。Morten Tyldum, Benedict Cumberbatch, Keira Knightley, and Matthew Goode, Imitation Game, [s.l.]: Twentieth Century Fox Home Entertainment, 2015.
[6] 大木毅、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』、岩波書店、2017年。
[7] 戸部良⼀、寺本義也、鎌⽥伸⼀、杉之尾孝⽣、村井友秀、野中郁次郎、『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』、ダイヤモンド社、1984年。
[8] コーデル・ハル、『ハル回顧録』、宮地健次郎訳、中央公論新社、2001年、237ページ。
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