領土保全は英語でテリトリアル・インテグリティという。インテグリティはここでは一体性や完全無欠の意味である。つまり、国境線は1ミリたりとも動かしてはならないという国際法の原則である。国際連盟規約にも、国際連合憲章にも掲げられていて、現代の国際社会における最重要の決まり事と言って言いすぎでない。ということで今回のテーマは、ベルサイユ体制下における領土紛争とそれらに対する諸国および国際連盟の対応について具体例を挙げながら論じなさい、である。

第二次世界大戦の原因は、領土を奪われ、「持たない者」になったドイツの不満が募り、ベルサイユ体制に挑戦したことにあるとされる。実際、かつてドイツの領土であったダンツィヒは両次大戦間期には自由市となり、戦後はポーランド領のグダニスクになった。ダンツィヒを囲む西プロイセンの一部はベルサイユ条約でポーランドに割譲され、ポーランド回廊と呼ばれた。さらに北では、旧ドイツ領メーメルがクライペダと改称されてリトアニア領になった。上シュレジエンは住民投票によってドイツとポーランドに分割され、ポーランド名のシロンスクで知られるようになった。独領であったエルザス・ロートリンゲンとは現在の仏領アルザス・ロレーヌのことである。

不満であったのはドイツだけでなかった。オーストリアハンガリーの領土は原形をとどめず切り分けられた。フィウメはイタリアとユーゴスラビアの取り合いになった。かつてのテッシェンであるチェシンはポーランドとチェコスロバキアに分割された。

おまけに、ロシアから独立した国どうしが争うようになった。リトアニア語でビリニュス、ポーランド語でビルノは、言語を異にする二つのエスニック集団間で奪い合いになった。

争いの一因は、T・ウッドロウ・ウィルソン合衆国大統領が唱えた民族自決の原則にあった。新しい国境の線引きは十分な調査に基づいたわけでなかった。次の文章はパリ講和会議における日本代表の一人であった牧野伸顕の回想である。

―前略―ルーマニア、ホンガリア、ユーゴースラヴィアもみな国境の変更を見た。―中略―前以て関係国の間に相談を纏めることは不可能であり、結局国境問題は、当事国側の意見も聴き主張も聴いたけれども、最後の決定は最高会議で極めてしまって、それを条約の本文に書入れたのである。媾和会議の最後の日にこの条約の全部を総会の議に附したとき、関係国は初めて自分の国境がこうなったということを知った[1]

フィウメをめぐる争いの経過はその後の歴史を暗示するものであった。国境線に不満な民族主義者は直接行動に訴えて人気を博す。さらに、その危険な正体に気づかない体制側に取り入り、政権を奪う。最後に、大衆を動員して全体主義を徹底し、権力を永続化する。

ガブリエーレ・ダンヌンツィオというイタリア人作家が私兵を率い、勝手にフィウメを占領してしまったのは1919年のことである。翌年にはイタリアとユーゴスラビアの間にラパッロ条約が結ばれ、フィウメは自由市とされた。ダンヌンツィオ自身はイタリア政府軍によって排除されたが、同じ手を使って、ベニト・ムッソリーニが率いる黒シャツを着たファシストの私兵が1922年にローマに進軍し、政権を握った。2年後、イタリアとユーゴスラビアはフィウメを分割し、市街はイタリア領に組み入れられた。第二次世界大戦でムッソリーニは処刑され、1945年にフィウメはユーゴスラビア領とされ、リエカという名前になった。

領土の不満が詰まったヨーロッパという伏魔殿のフタがベルサイユ条約であり、軍事力という重しで押さえることが不可欠であった。ベルサイユ条約が用意した処方箋はラインラントの非武装化であり、国境の外に撃ってでるまえに、内側を制圧する手間をドイツに負わせた。しかし、それはドイツが強い軍隊を再建するまでの時間稼ぎであった。

強い軍隊とバランスをとるには、強い軍隊で対抗するのが確実である。実はそうした協定を戦勝国は準備していた。ライン川以西にドイツ軍を進ませないための英仏保障条約と米仏保障協定に、ベルサイユ条約と同じ日、署名していたのである。ところが、アメリカ合衆国の連邦議会はベルサイユ条約の批准を拒否し、上の2本の約束も発効しなかった。

将来、現実となるかもしれない強いドイツにどうすれば対抗できるのか? 一つの答えは同盟であった。特にフランスはベルサイユ条約の擁護者として、自らを中心とする安全保障システムを張りめぐらした。

フランスはドイツを囲むため、その北西のベルギー、東のポーランド、そして東南のチェコスロバキアと個別に防御同盟を結んだ。本来、東部戦線では、北方の熊というべきロシアがフランスのパートナーとなるはずであったが、共産主義のソビエト連邦は仲間外れにされていた。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島では、フランスは小協商を支援した。それはチェコスロバキア、ユーゴスラビア、そしてルーマニアの3国間の防御同盟である。しかし、フランス語でプティタンタントといい、華奢な印象を与えるその同盟は、ドイツという猛虎と張り合うには、さしずめウサギの群のように頼りなかった。

そうこうしているうちに、1922年、ヨーロッパに衝撃が走った。つまはじきにされたドイツとソ連がラパッロ条約を結んで、手を握ったのである。同じラパッロという海辺の観光地で結ばれたものの、イタリアとユーゴスラビアとの条約とは別物である。表向きの内容は相互の賠償放棄と外交関係再開であったが、秘密付属書はドイツ軍をソ連で訓練するというベルサイユ条約違反のきな臭い約束を含んでいた。

ドイツと対抗しなければならない、という固定観念は1923年にはフランスとベルギーによるルール地方の占領と国際連盟における相互援助条約の交渉を引き起こした。1924年になると、より宥和的な姿勢がドーズ案やジュネーブ議定書の交渉となって現れた。敵を封じ込めるという考えがもともとなかったアメリカ合衆国だけでなく、イギリスまでも、フランスの執念と一線を画するようになった。

フランスとドイツの和解として名高いのが1925年のロカルノ条約である。このスイスの町の名を冠した条約は、複数の条約から成り立っていた。その中心は、ドイツの西部国境とラインラントの非武装化をイギリス、イタリア、ドイツ、フランス、そしてベルギーが相互に保障する条約である。ドイツが軍隊をラインラントに入れたり、さらにベルギーやフランスに越境したりすることがこれに違反する(もちろんベルサイユ条約にも違反する)。また、ドイツとベルギー、またはドイツとフランスとの戦争も禁じられる。つまり、違反国になりうるのはドイツだけでなく、ベルギーとフランスにもその可能性があった。違反国に対し、イギリスとイタリアを含めた他の全締約国が協力して戦うことが定められている。

保障条約を支えるのが、ドイツを一方の締約国とする二国間仲裁条約の束である。他方の締約国は同国と境を接するチェコスロバキア、フランス、ベルギー、そしてポーランドである。戦争の原因となりうる紛争は仲裁法廷または常設国際司法裁判所に付託されて解決されると期待される。

ロカルノ条約はヨーロッパ諸国に友好的な雰囲気を醸しだした。ドイツには経済の混乱から立ち直る休息の機会が与えられ、1926年には国際連盟にも加盟した。フランスのアリスティード・ブリアン外相とドイツのグスタフ・シュトレーゼマン外相に、ノーベル平和賞が与えられた。

和解の空気が頂点に達したのは1928年にパリ不戦条約が結ばれた時である。日本語の正式名称は「戦争抛棄に関する条約」である。抛棄は「ほうき」と読む。締結の発端となったフランスとアメリカ合衆国の外相の名をとって、ブリアン・ケロッグ条約とか、ケロッグ・ブリアン条約とか呼ばれることもある。日本を含む当時の主要6か国とベルギー・ポーランド・チェコスロバキアが署名に臨み、ほとんどの国が加入した。内容は第1条に尽きるので、それを引用する。

締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス

読んですぐに分かるように、日本国憲法の第9条の雛型とされる。すなわち第1項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という部分である。不戦条約は個人の刑事責任を問う規定を含まないにもかかわらず、日本の政治指導者たちをA級戦犯として裁く根拠となった。戦後日本の原点と言ってよい。

ところが、招かれなかった国があった。ソ連である。深い孤立感を抱いた同国は周辺国とリトビノフ議定書を取り決めた(1929年)。続いて、中立条約・不可侵条約を個別に結び、1933年には侵略定義条約を結んだ。これらにおけるソ連のパートナーはポーランドやバルト諸国であった。周辺諸国との平和を固めておくことは、陸上の国境で囲まれたソ連またはロシアにとって伝統的な政策である。

1932年に至ると、ソ連は西ヨーロッパの資本主義国であるフランスとも不可侵条約を結んだ。大恐慌により先行きに不安を感じるヨーロッパ各国にとって、沈黙を守り、何を考えているか分からないソ連との同盟が現実の選択肢になりつつあった。

目をアジア太平洋に転じる。そこで領土保全の原則を定めたのは1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議であり、できた秩序はワシントン体制という。その柱である太平洋に関する四国条約と中国に関する九国条約はともに地域の領土保全を謳う。

ワシントン体制は国際連盟のような常設的な集団安全保障の機関は持たず、紛争は外交交渉か国際会議かによって解決することとされた。記すべきことは、日中戦争中の1937年、中国が提訴してブリュッセル会議が開かれたことくらいである。貧弱な制度であったにもかかわらず、太平洋に関する四国条約が発効すると同時に、日本にとって重要であった日英同盟は終了した。

満州事変にワシントン体制はいかに対処したろうか? 1931年9月18日の柳条湖事件から4か月後の翌年1月、つまり満州国樹立の2か月まえに発せられたのが、アメリカ合衆国のスティムソン・ドクトリンであった。日本軍は占領地を広げ、満州支配の既成事実を作っていた。それが中国に関する九国条約が定めた「中華民国の主権、独立、領土・統治権の保全、あるいは門戸開放政策」への違反であり、この違反を承認しない決意を表明したのがこのドクトリンであった[2]

スティムソン・ドクトリンは第二次世界大戦が終わるまで維持された。これによって、真珠湾攻撃直前の日米交渉で、中国を犠牲にして日米が宥和することが不可能になった。このように検討すると、アメリカ合衆国の不承認政策はむしろ全面的に勝利した、とも言える。

しかし、1945年までに失われた人命の損失を減らす別の方法はなかったか? アメリカ合衆国が採用したのは不承認主義でなく、単に孤立主義でなかったか? こうした疑問も吟味すべきである。

アジアで領土保全の原則がないがしろにされたことを見届けて、ヨーロッパ政治では地殻変動が始まった。総選挙でナチスが第1党になったのは1932年、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、全権を委任されたのは翌年であった。この年にドイツは「軍備平等」の要求が通らず、国際連盟を脱退した。次の年、大統領の死に伴い、ヒトラーは首相と大統領を兼ねて「総統」となった。

以後は報復の連鎖によって、世界大戦まで一気に進む。ドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。フランスはこれをドイツ包囲網の破れと捉え、ソ連との相互援助条約、すなわち同盟、を結んだ。ドイツは背信行為としてこれを受けとめ、1936年、ロカルノ条約を破棄し、軍隊をラインラントに華々しく進駐させた。その前年にドイツは再軍備を宣言しており、ベルサイユ体制の崩壊は決定的であった。

破綻を止めようとする動きがなかったわけでない。ヒトラーに対抗するため、英仏伊が共同戦線を張った。1935年のストレーザ戦線がこれである。イタリア北部のストレーザという町に面したマッジョーレ湖に浮かぶ島にボッローメオ宮殿があり、首脳たちが集まった。

こうした試みを無に帰したのが、イタリアによるエチオピア侵攻である。1935年暮れ、思わぬことが起きた。本来ならばエチオピアの領土保全を守るはずのイギリスとフランスがイタリアと裏取引をしようとした。両国ともアフリカに植民地を持っていたので、イタリアに有利に領土を交換し、エチオピアという国を形だけ残そうとしたのである。これは善意に発したかもしれないが、帝国主義の秘密外交そのものであった。

ベルサイユ体制から脱落した日本・ドイツ・イタリアが共闘関係になるまで時間はかからなかった。スペイン内戦は1936年、フランシスコ・フランコの反乱軍がモロッコから海を渡って上陸し、政府側の共和国軍と戦闘になった。フランコ軍には独伊が、共和国軍にはソ連が付き、他は中立を保った。ゲルニカへのドイツの空爆はパブロ・ピカソの名画を生んだ(1937年)。

ヒトラー自身の侵略は1938年に始まった。その3月、独墺合邦が行われた。オーストリアとドイツが一つになることはベルサイユ条約で禁止されたことであった。次の標的はチェコスロバキアであった。その北西部のチェコ語ではズデティ、ドイツ語ではズデーテンという地方にはドイツ系の人々がいて、分離してドイツに帰属したい、と運動した。これに応えてヒトラーが同地方の割譲をチェコスロバキアに求めた。

1938年9月にミュンヘン会談が開かれた。ヒトラーとムッソリーニに加え、イギリスのネビル・チェンバレン首相とフランスのエドゥアール・ダラディエ首相がテーブルに着いた。割譲はもちろん領土保全の原則に反する。いまさらながら、ベルサイユ条約はドイツに厳しすぎる、という世論もあった。これが最後のヒトラーへの妥協であると決意し、チェンバレンとダラディエも割譲を認めるミュンヘン協定に署名した。

ズデティと平和を交換する宥和政策は翌年の1939年3月に破綻した。ヒトラーはチェコスロバキアの解体を実行した。チェコ全体がドイツの保護領にされ、スロバキアは切り離されて独立国とされた。つまり、英仏は騙されたのである。

ミュンヘン協定の結果、東ヨーロッパはドイツとイタリアの勢力範囲に落ちた。前者のヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と後者のガレアッツォ・チアノ外相は好き勝手に国境線を引き直した。それは一応、仲裁という形はとったが、実際には枢軸国による命令であった。日記にチアノは「ドナウとバルカンにおける仏英のいかなる影響力も永久に失墜させる」と狙いを書いた[3]

1938年の第1回ウィーン判断は、分離されたスロバキアからさらにその南部をはぎ取り、ハンガリーにこれを与えた。1940年の第2回ウィーン判断は、ルーマニアのトランシルバニア地方をやはりハンガリーに割譲させた。民族自決と言えば正義のようであるが、実際はえこひいきであった。なぜなら、トランシルバニアの割譲された土地にはルーマニア系住民の比率が高い地区が含まれたからである[4]

1939年、ついに独伊が正式な同盟を締結した。これがいわゆる鋼鉄同盟である。すでに1936年、日独防共協定が結ばれ、イタリアとハンガリーも加入していた。鋼鉄同盟の前の年に、ムッソリーニは「ドイツとイタリアはヨーロッパが盲目的に運命を託したユートピアに背を向けてきた。他国をも含めて、正義、安全、そして平和のより実効的な保障を平等に回復する国際親善体制を模索するためである。」と演説していた[5]。ベルサイユ体制は非実効的で、不平等であったかのような言いようである。では、実効的で、平等な体制とはいかなるものなのであろうか? ぜひ聞きたい。

エドワード・H・カーの『危機の20年』はその一つの答えであった。戦後の版では消されているが、第二次世界大戦が始まる直前に書かれた初版において、宥和政策をこの「名著」は称賛している。「1938年9月2日のミュンヘン協定に至る交渉は、平和的変更の手続きによる一大国際争点の処理に、近年では最も近いアプローチ」と述べる。軍事力をはじめとする力こそ、発言力の強化につながり、現実を作り出す、という彼の現実主義理論であれば、ヒトラーであれ、ローズベルトであれ、スターリンであれ、老練な力の使い手を称賛したとしても不思議はない。しかし、「ヨーロッパにおける実力の均衡の変化と、国際道徳の受け入れられた正典の両方に一致した」と彼は続けて言う。ヒトラーに道徳まで期待したのは、カーの無い物ねだりでなかったろうか?[6]

大戦への最終局面は独ソ不可侵条約であった。ソ連の中立を確かにしたうえで、ドイツは東への征服を進めることができた。実際、署名日の1939年8月23日から9日後にポーランドへの侵攻が始まっている。

単にドイツを利するために、ソ連は不可侵条約に応じたわけでなかった。それには秘密付属議定書が付けられ、ドイツが攻めるポーランドだけでなく、東ヨーロッパ全体を両国で山分けすることが書かれていた。長らく、ソ連は秘密付属議定書の存在を否定していた。第二次世界大戦はスターリンの罪でもあったことを認めたくなかったからである。

これまで見てきた両次大戦間期の歴史は、領土保全の原則が一たびないがしろにされれば、国際社会は紛争で満ちあふれ、収拾がつかなくなることを教える。それにもかかわらず、パレスチナをはじめ、ナゴルノカラバフ、コソボ、南オセチア、アブハジア……、といくつもの問題が起きている。2014年に発生したウクライナでの紛争は2022年になって世界秩序を揺るがすまでになった。領土保全を誰が保障するのか?、という問題は現代における未解決の問題である。なぜなら、国際連合は拒否権を有する五大国の単独行動に対して実効的な手を打つことができないからである。


[1] 牧野伸顕、『回顧録』、下巻、第4版、中央公論社、1992年、194ページ。

[2] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『資料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、176-177ページ。

[3] Galeazzo Ciano, Diary 1937-1943 (New York: Enigma Books, 2002), p. 149.

[4] Silviu Dragomir, La Transylvanie avant et après l’arbitrage de Vienne (Sibiu : Centrul de Studii Şi Cercetări Privitoare la Transilvania, 1943), pp. 10-11, 15.

[5] Monica Curtis, ed., Documents on International Affairs, 1938, vol. II (London: Oxford University Press, 1943), p. 32.

[6] Edward Hallett Carr, The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations (London: Macmillan, 1940), p. 282.

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