官房長官は「女房役」といわれる。総理大臣にとって、気心の知れた友人が任命されるからだ。ただし、地位や見識は最高というわけでない。江戸幕府ならば老中でなく側用人にあたる。

中華帝国にも、しばしばそうした人物が現れた。君主がのしあがった創業期によくあることだ。蜀漢の場合は「水魚の交」の諸葛亮ではない。河北省出身の劉備と湖北省を拠点とした諸葛亮とがツーカーだったというのは考えにくいからだ。地味だが、同郷の簡雍あたりが劉備の女房役だったのでないか。

女房役の条件は、君主と日常会話が通じることだ。漢の蕭何は劉邦と同郷だったけれども、別行動が多く、大宰相となってしまって女房役の枠に収まらなかった。呂不韋は秦王政とは対等以上の父親役だった。唐高祖の相棒は息子の李世民(太宗)だったが、野心家だった息子に早々と譲位させられた。

宋太祖、趙匡胤、の女房役は趙普だった。彼は下役人あがりだったが、周の将軍だった趙匡胤に見いだされ、信任された。後世、理想化された蕭何とちがい、人間臭い逸話が残る。朱熹は『宋名臣言行録』で士大夫の模範を示そうとしたが、次の逸話では、趙普の気骨と皇帝趙匡胤の寛大さを称えたかったのだろう。

朱子

普かつて某の人を除して某の官となさんと欲するも、太祖の意に合はずして用ひられず。明日、普またこれを奏す。また用ひられず。明日またこれを奏す。太祖怒りその奏を取り壊裂して地に投ず。普、顔色自若として、おもむろに奏を拾ひて帰り、補綴して明日またこれを進む。上すなはち寤りてこれを用ふ。(朱熹、諸橋轍次、原田種成、『宋名臣言行録』、第3版、明徳出版社、1980年、p.28)

4日連続で趙普が同じ人事案件を提案し、太祖は上奏文を破ったものの、ついに認められた、という筋だ。

考えてみてほしい。他の高官が同じ上奏をして受け入れられただろうか? もちろん否だ。士大夫の気骨を顕彰する朱熹の思惑とは逆に、他人がこれをマネたら身を亡ぼすだろう。女房役という趙普と皇帝との関係性があって成り立つ逸話なのだ。

耳の痛いことを直言する女房役は必要だ。もっとも有名なのは唐の魏徴だろう。李世民はそれが必要だとわかっていて、敵方の人間だった魏徴を重用した。出世目的の人や遠慮がある人には務まらないからだ。

守成の時代になると、君主は安逸に流れ、側近は宦官が占めるようになった。権力はそうして腐敗するものだ。