(表紙の画像はAIによって作成された)

世界が合意する、というのは口で言うのは簡単ですが現実では難しいです。にもかかわらず、それに近いことができたことがありました。1978年の国連軍縮特別総会における最終文書がそれです。

最終文書の日本語訳は下のとおりです。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできません。

https://dl.ndl.go.jp/pid/11896416/1/194

英語原文は下のとおりです。

https://documents.un.org/doc/resolution/gen/nr0/107/51/pdf/nr010751.pdf

 最終文書のおかげで、1980年代、核軍縮の機運が大いに高まりました。アジェンダセッティング(課題設定)というやつです。

教科書での関連する記述

教科書

国連総会も核軍縮の必要を勧告する決議を多く採択し、1978年には国連軍縮特別総会[太字―引用者注]を開催した。

伊東光晴、『最新政治・経済』、新訂版、実教出版、2023年、p. 61。

日本史ではなく、政治・経済の教科書だが、国連軍縮特別総会のことが書いてあるとは驚き、感心した。1978年に小学生だった私の記憶にはないが、それよりまえの世代には感銘を与えたのだろう。

2024年、日本原水爆被爆者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞した。田中煕巳氏の演説を聴きながらこれを書いている。

受賞を伝えるニュースでよく流されたのは長崎の被爆者、山口仙二氏、が第2回国連軍縮特別総会で行なった「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説だった。NBC長崎放送のYouTube動画を貼る。

第2回国連軍縮特別総会は1982年のことで、反核運動は最も盛り上がりを見せた。欧米では核戦争が本気で恐れられていた。

この下地を作ったのが4年前の第1回国連軍縮特別総会でのコンセンサスだった。

拙著でごめん

合意を作り上げた指揮者はメキシコの外交官、アルフォンソ・ガルシアロブレスだった。彼の功績は知る人ぞ知ることだった。1982年のノーベル平和賞は彼とスウェーデンの学者、アルバ・ミュルダール、に授与されたからだ。両人はかつて国際連合本部で同僚だったことがある。

私はガルシアロブレスの伝記を書いた。彼が最終文書を作った意図を下のように記した。

木下

「軍縮哲学」を編む、という使命感に導かれていた。
後年、次のように語る。

国連憲章は核軍縮について一言も触れていない。サンフランシスコ会議から数週間後にヒロシマに原爆が落とされた。憲章は生まれた時から時代遅れであった、と。

その代わりとなる核軍縮の原則と目的を明らかにしたものが必要である。

毎年、通常会期には、大量の決議が審議される。そうした断片的な決議を反復するのではなく、宣言と行動計画の二本の文書にまとめねばならない、と準備委員会では発言した。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、181-182ページ。

しかし、意見の違いを埋めることはたやすくなかった。

木下

コンセンサスによる採択、というハードルは高かった。

言質を取られたくない核大国はもちろん、言質を取りたい非核兵器国も簡単には自らの主張を譲らなかったからである。

せっかく起草した文案も、異論がある箇所は角張った括弧[ ]で囲まれた。それらがすべて除去されない限り、コンセンサスの至上命題は達せられない。

「序文」は比較的に合意がやさしい節であった。四回の公式会合と、調整のための非公式協議を経て、起草部会は圧倒多数の同意によって、括弧が除去された草案を作業部会Aに引き渡した。

しかし、作業部会Bも含めて、他のすべての起草部会は、括弧を消すことができないままであった。

終盤に差しかかった六月二三日、交渉はアドホック委員会に引き渡された。残された多くの括弧を除去しなければ、コンセンサスには到達できない。

そこで、ガルシアロブレスを交渉の総責任者に指名し、他の調整役と一緒になって問題を解決するよう依頼した。

スーパーコーディネーター、の渾名を奉られた真の実力者が正体を現した瞬間であった。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、183-184ページ。

ところが、括弧の除去はスーパーコーディネーターをもってしても難事だった。特別委員会第14回会合の議事録が下のPDFだ。ヘッダーのA/S-10/AC.1/PV.14の下にパラグラフ番号の”39-40″と書いてあるページからがガルシアロブレスの発言だ。その”First”から始まるパラグラフで、彼は代表たちに何を頼んだか? 使われている比喩も興味深いので確かめてほしい。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-PV14.pdf

最終文書の採択までまだ紆余曲折はあるのだが、この話題で終わってしまわないように、それらは飛ばして最終局面だけ見よう。

木下

後がない木曜日、相次ぐ延期によって、開かれたのは午後一〇時四〇分であった。

もはや括弧は残されていなかった。

大団円と思いきや、ソ連の代表が、配布された決議案に異議を申し立てた。調整役たちとの合意事項が、そこに反映されていないというのである。

手直しを終えて、アドホック委員会が閉会したのは日付が変わった三〇日金曜日の午前三時すぎであった。今度こそ本当に最終文書は完成した。

その日の午後六時二五分、本会議が始まり、最終文書は採択された(A/RES/S-10/2)。

木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝』、社会評論社、2015年、186ページ。

政府代表の立場

日本代表団は第1回国連軍縮特別総会でいかなる役割を果たしたのか?

園田直外務大臣が5月30日の全体会合で演説した。園田というとこれに続いて日中平和友好条約で歴史に名を留めたが、大臣に再任されたことから知られるように、自民党の群雄の一人だった。

ただし、演説の内容は「非核三原則」、「唯一の被爆国」、「核兵器不拡散条約」、そして「核兵器廃絶」と定番であって、わずかに「非核地帯」への言及がリップサービスを感じさせるくらいだ(A/S-10/PV.9, para. 100-142)。もっとも、核兵器不拡散条約を日本は批准したばかりだから、定番の始まりという意義は大きいかもしれない。

キャリア外交官の小木曽本雄氏は特別委員会で発言した。それはインド決議案に対する修正案を提起するものだった。

軍縮の哲学を編む、というのがガルシアロブレスの意図であり、それゆえ軍縮に関する決議は最終文書の1本にまとめられる予定だった。インドはどうして別に独自案を提起したのか?

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L10.pdf

さらなる核兵器実験の停止が緊急に必要だ、とインド案は求めた。たった1条項の短い決議で、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める内容だ。

まことに結構な決議案にみえる。インドが提案したことを除けば。

https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

小木曽氏の修正案は「あらゆる核兵器国」を「あらゆる国家、特にあらゆる核兵器国」に直し、「核兵器のさらなる実験」の「核兵器」に言葉を足して「核兵器および他の核爆発装置のさらなる実験」と改めるものだった。

小木曽氏が修正を求めたのはなぜか? 考えよう。

結局、インド案は最終文書第51パラグラフのなかに吸収された。

最終文書

51. 効果的な核軍縮の過程の枠組における全ての国による核兵器実験の停止は、人類の利益に合致しよう。それは、核兵器の質的改善及び新型のかかる兵器の開発を停止し、また核兵器の拡散を防止するという上記の目的に顕著な貢献をなすであろう。この関連において、「核兵器実験を禁止する条約、及び本条約と不可分の一体をなす平和目的核爆発についての議定書」に関する目下進行中の交渉は速やかに締結されるべきであり、その結果は、条約案の国連総会への可及的速やかなる提出を目途として、多国間交渉機関による完全なる検討にゆだねるため提出されるべきである。総会による確認に次いで、可能な限り広汎なる加盟を誘引することのできる協定を達成するため、交渉当事者により全ゆる努力がなされるべきである。この関連において、本条約の締結までの間、仮に全ての核兵器国が核兵器実験を慎むこととなれば、国際社会は勇気づけられるであろうとの種々の見解が非核兵器国によって表明された。これとの関連で若干の核兵器国は異なった見解を表明した。

国際連合事務局編、『国連軍縮年鑑』、1978年版、外務省国連局軍縮課、[1980年]。

NGO代表の立場

日本のNGOが登壇したのは6月12日だった。田中里子氏は全国地域婦人団体連絡協議会の事務局長で、広島・長崎の被爆者ではない。地婦連は502人を擁する日本のNGOの代表団派遣連絡調整会議の事務局を担った。彼女が演説の冒頭で述べたところでは、2千万人の署名を集めたというから、その組織力はいかんなく発揮されたことだろう。『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に日本語で演説が掲載されている。ただし、国立国会図書館の登録利用者でないとアクセスできない。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2273845/1/5?keyword=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%87%8C%E5%AD%90

田中氏の演説はNGO代表団のコンセンサスを反映したものだろう。しかし、それは日本政府の政策とは違っていた。「一日も早く核兵器の実験、使用、製造、貯蔵、拡散、配備を全面的に禁止する条約をつくること」を署名は要請した。2021年に発効した核兵器禁止条約と同じ内容だ。現在も、日本政府のほうはこの条約には参加しない方針だ。政府とNGOとのギャップは時に広がり、時に縮まり、つねに存在してきた。

同じ日には、立正佼成会の庭野日敬(にっきょう)会長が演説した。ただし、世界宗教者平和会議という国際NGOの代表としてであった。

被爆者たちは総会で演説するのでなく、各国代表団などと個別に会っていた。この苦節何十年があっての2024年だったのだ。

まとめ

世界が一つになる、というのは世界政府ができることでも、地球連邦ができることでもない。我々の視界にある唯一のビジョンは、それぞれの政策に限ってコンセンサスができることだ。国際連合憲章の採択は、日本は不在だったが、初めてのそうした事件だった。近年では気候変動枠組条約の締約国会議(COP)が、温暖化防止のコンセンサスを目指している。

第1回国連軍縮特別総会における最終文書も、核兵器のない世界のおぼろげなビジョンを示した。それは立場の違う政府とNGOに共有され、ゴルバチョフとレーガンを結びつけたのだ。

課題

  1. 山口仙二氏による第2回国連軍縮特別総会における「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」の演説は世界の人々が抱く核兵器・核軍縮に対する認識に関していかなる意義があったとあなたは考えるか? 1945年には世界の人々はこの問題についてまったく無知であったことを踏まえて300字以内で説明しなさい。

  2. 1978年の第1回国連軍縮特別総会において、インド政府代表は、包括的核実験禁止条約が結ばれるまで、さらなる核兵器実験を控えることをあらゆる核兵器国に求める決議案(A/S-10/AC.1/L10)を動議した。それに対し、日本政府代表の小木曽本雄氏は修正案(A/S-10/AC.1/L.13)を動議した。小木曽氏はインド決議案のどのような点が不満だったのか? 1970年代に起きた具体的な事件に言及して300字以内で解説しなさい。小木曽氏の修正案 https://front.un-arm.org/documents/library/A-S10-AC1-L13.pdf

  3. 『月刊婦人展望』276号(1978年7月、6-7ページ)に掲載された第1回国連軍縮特別総会における田中里子氏の演説を読んで、「いいね!」と思った箇所を引用し、なぜ「いいね!」と思ったかを300字以内で説明しなさい。