(表紙の画像はAIによって作成された)
尖閣諸島は日本が実効支配をしていますが、中国と台湾は領有権を主張しています。1895年に日本が領有を宣言してから、日本人はそれが沖縄県に属すると信じていますが、Wikepediaに書いてあるのは、中国と台湾は台湾省だと言っているということです。
これから述べる分島交渉の時代には、これらの観念はありませんでした。日本が領有を宣言したのは1895年ですし、台湾と尖閣諸島のあいだには何の関係もなかったのですから。
教科書での関連する記述
教科書
琉球王国は、江戸時代以来、事実上薩摩藩に支配されながら、名目上は清を宗主国にするという複雑な両属関係にあった。政府はこれを日本領とする方針をとって、1872(明治5)年に琉球藩をおいて政府直属とし、琉球国王の尚泰を藩王とした。
1871年に台湾で琉球漂流民殺害事件が発生した。この際、清が現地住民の殺傷行為に責任を負わないとしたため、軍人や士族の強硬論におされた政府は、1874(明治7)年に台湾に出兵した(台湾出兵)。これに対して清は、イギリスの調停もあり、日本の出兵を正当な行動と認め、事実上の賠償金を支払った。まもなく、政府は琉球に清との関係断絶を命じたが、琉球の宗主権を主張する清は強く抗議した。しかし政府は1879(明治12)年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置し、尚泰は東京に移されて琉球王国は消滅した(琉球処分)。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、pp. 244-245。
琉球処分では終わらずに分島交渉へ
「両属関係」という上の言葉のなかに、琉球の地位を日本の一つの県とすることが当然、という日本側の意識が反映されている。ペリー提督は1854年に琉球王国と琉米条約を結んでいて、これにこだわればアメリカ合衆国にとって、琉球は独立国だった。日本は琉球を臣従させていても、中国への臣従も黙認し、勝手に両属だと理解した。しかし、自ら宗主国であることを疑わなかった清は日本に属することを決して認めなかった。「両属関係」というより、単に「複雑な関係」があったと言うほうが適切だろう。
清は琉球藩の廃止を決して承認しなかった。日本はいわゆる毅然とした外交で、琉球王朝の廃絶を決して譲らなかった。日本側の主張は『日本外交文書』第12巻の番号106附属書2で知ることができる。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0002/0001/0012/0266/index.djvu
https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
意見の衝突は激しく、戦争の危機でないか、と関係国は息をのんだ。1879年8月10日に、来日中の前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・S・グラントは明治天皇に示談で解決することを求めた。彼が日本の財政を気にしてくれたのは親切心もあろうが、軍備増強を止めたかったからかもしれない。グラントの発言の日本語訳は下のとおり。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3024866/1/184
(ログインして個人送信することが必要)
日本は沖縄県の設置という既成事実を得ていたから、戦争する理由がなかった。清の北洋大臣、李鴻章、は怒っていたものの、琉球を奪還するまでの海軍力がなかった。放っておいても、すぐに熱い戦争になることなく、日清は冷戦になって、朝鮮半島と琉球・台湾を両にらみする状態になったろう。しかし、グラント前大統領による周旋の労にかんがみ、琉球王朝の廃絶を外交問題とすることに日本は応じた。
現地人のことを考えずに分けちゃっていいの?
こうして始まったのが、いわゆる分島交渉だ。日本史教科書の関連では、資料集に掲載された年表に記されている。
1879 3首里城の接収(尚泰は東京居住)。4琉球藩を廃し沖縄県を設置(琉球処分)
8グラントによる先島分島案の提示
1880 10分島・改約案の合意(のち廃案)
この年表には注釈が必要だ。「グラントによる先島分島案の提示」とある。グラントは明治天皇との謁見で、清に滞在中、人から聞いた話を伝えた。その話とは、「該島嶼間ノ疆界ヲ分画シ太平洋ニ出ル広闊ナル通路ヲ彼ニ与フルノ議」になれば清側は承諾するだろう、ということだ。これが先島分島案と表記されているのだろうが、先島とは言っていない。先島は琉球諸島の西部にあたり、宮古列島と八重山列島を合わせた呼称だ。彼は事前に日光で伊藤博文、西郷従道と会っていて、それをもとに日本政府は、先島分島案なら清側は受け入れる、という感触を得たらしい。
注目されるのは、清が琉球処分に反対する理由が宗主権や人民の幸福でなく、通商の利益ということだ。これはグラントの意図か、北洋軍閥の意図か、伊藤の意図か? 私は知らない。本当は、琉球王朝の家臣が清に渡って王朝の存続に援助を求めていて、宗主国としての威信が清には最も重大だった。
交渉ははじめからボタンのかけ違いだった。実力者の李鴻章は天津にいたのに、日本は北京の総理衙門という役所と交渉してしまった。そもそも、宮古・八重山だけを清に割譲すれば承諾するとは李鴻章は言っておらず、琉球を三分割して沖縄本島に琉球王朝を残す意図だったらしい。『日本外交文書』第13巻の番号126「竹添進一郎派遣ニツキ打チ合ワセ有リ度旨ニ通知ノ件」を読んでほしい。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0002/0001/0013/0290/index.djvu
それでも、宮古・八重山の領有を清に認めるのだから日本は気前がよいじゃないか、と思うかもしれない。実はこれには裏があった。年表にある「改約」がそれだ。日清修好条規には最恵国待遇がなかったので、欧米各国が持つ利権のなかには日本人が享受できないものがあった。念願だった最恵国待遇条項の追加を実現できるなら、宮古・八重山の代償として損ではない、と日本は考えたのだ。
分島・改約案はできたものの、李鴻章が反対して清は署名を拒んだ。分島案の理解に隔たりがあったのだからしかたがない。その隔たりの大きさが分からず介入したグラントに非があるが、それに踊らされた日清にも思い当たるところがあろう。相手を出し抜いて、あわよくば利益をせしめようとしたのだ。
ちなみに、グラントが不用意な提案をしたのは、大統領在任中、アラバマ号事件の仲裁を提案した体験があったからだろう。この時の彼の敵はマサチューセッツ州の上院議員であったが、後者の隠れた狙いはカナダ併合という突拍子もないものだった。全米はそんなものは相手にせず、イギリスとの平和を是認した。
閑話休題
分島案、それどころか、三分割案は無理なアイデアだったと思われるかもしれないが、帝国主義列強は無理なことを平気でした。アジア・アフリカ・太平洋で、こういう国境線をたくさん引いたのだ(ベトナム、モロッコ、サモア)。日本は列強にも反抗するようになっていて、そうした仲介を受け付けなかった。沖縄の一体性が損なわれずにそれでよかったじゃない、日本はつねに正しいよね、と無邪気に言える人は、その後、沖縄がたどった歴史を知らないのだろう。
まとめ
分島交渉が失敗して、沖縄県は軌道に乗った。井上馨外相はイギリスのハリー・パークス公使に、沖縄の物質的状態は改善した、と説明した。下はパークスから同僚の駐清公使ウェイドへの報告だ。
ハリー・パークス
The Foreign Minister has further observed to me that the people of Loochoo are perfectly satisfied with the present state of things. The change in the mode of administration has, he says, brought about a material improvement in their condition, as, instead of being obliged to follow the old practice of disposing of their surplus produce as a sort of tribute to the clan Satsuma–to which, under the Shogun’s Government, the islands were considered to belong–the Loochooans are now free to buy and sell in the open market of Japan, and thus a considerable impetus has been given to their trade. They export much more sugar than before, and import considerable quantities of yarn, which they weave into a particular kind of cloth that is in request in Japan. Their taxes have been greatly lessened, as they have been relieved of the cost of maintaining a Court and a large non-productlve aristocratic class, with which the labouring people have probably little sympathy. A single company of troops suffices to maintain order among the population, which
numbers, according to a recent census, 310,000 souls.
Harry S. Parkes to Thomas Francis Wade, 8th March 1880, FO 405/26, The National Archives of the UK (TNA).
こう正当化する支配者は古今東西、跡を絶たない。本当に状態は改善したのか? 日本史教科書には下の注がついている。
教科書
沖縄県では、土地制度・租税制度・地方制度などで旧制度が温存され、衆議院議員選挙が実施されたのも1912(大正元)年からであった。本土との経済的格差は大きく、県民所得も全般的に低かったので、本土への出稼ぎや海外移住で流出した人口も少なくなかった。
佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳、『詳説日本史』、山川出版社、2024年、p. 245、n. 3。
過去の失敗はやり直すことはできないが、反省することはできる。経済格差が大きいならば、独立させるか、大きな自治を与えて、地域に最適な民主的ガバナンスが行われるようにすべきだ。最適なガバナンスができなくとも、現地人に責任を負わせるべきだ。そのためには、小国が安全に存立できる世界秩序を作らなければならない。確かに歴史は非情だったが、未来も非情だと決めつけるべきではない。
課題
『日本外交文書』第12巻の番号106附属書2「説略」は琉球人の「言語」および「神教」をどのようなものであると述べているか? それぞれ原文の語句を適切に引用して解説しなさい。
『日本外交文書』第13巻の番号131「李鴻章ノ意向情報ノ件」には、李鴻章が分島・改約案に不快を表明し反対したことが述べられているが、四つ目の理由について、グラントが李鴻章に述べたと李鴻章が考えている内容とグラントが伊藤博文らに述べたと日本側が考えている内容との違いを明らかにして解説しなさい。
Harry S. Parkes to Thomas Francis Wade, 8th March 1880, FO 405/26, The National Archives of the UK (TNA)において、井上馨外相はパークス公使に”the people of Loochoo are perfectly satisfied with the present state of things”と琉球処分の結果について語ったとされる。あなたは井上の言う琉球人民の満足はその後の歴史において沖縄の人々の幸福として完成されたと考えるか、また、その理由は何か、議論しなさい。もちろん、評価基準は論理的かどうかであり、特定の答えのみを正解とするものではない。