ノーベル賞には権威がある。しかし、選考がつねに正しいわけでない。功績とされるもののなかには、平和に貢献しなかったもの、動機が不純なもの、なぜ平和への貢献であるのか分からないもの、もある。今回のテーマは、最新のノーベル平和賞受賞者について、経歴、授賞の理由とされた活動、そしてあなた自身の評価を書きなさい、である。

アルフレッド・ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。彼が巨万の富を築いたのは1867年にダイナマイトの特許を取得したからである。その材料であるニトログリセリンは液体で爆発しやすかったので、扱いが難しかった。爆発を管理しやすくしたダイナマイトは土木工事はもちろん、戦争においてももてはやされた。彼は1896年に亡くなったが、遺産の一部を基金にして賞を贈ることが遺書に書かれていた。

1901年、最初のノーベル賞が贈られた。平和賞ができたことには彼の友人であった平和運動家ベルタ・フォン・ズットナーの影響が大きかった。彼女には1905年に平和賞が授与された。

平和賞を選考するのは、遺言のとおり、ノルウェー・ノーベル委員会である。5人の委員はノルウェーの議会によって任命される。選考に偏りがあると感じる人は、ノルウェーの国会議員の価値観に違和感を持っていると考えられる。

以下では過去の受賞者について概観する。議論のために、平和運動、グローバルガバナンス、軍縮、人権、人道、和解、経済、そして環境への功績に分類する。

平和運動は、市井の人々による戦争への反対である。20世紀の前半にはこの分類での受賞者は多かったものの、冷戦時代に低調になった。そうした人々には、利害とか、名声とかいったものを超えた使命感があったであろうし、他の人々もそうした行動を英雄視した。今、平和運動がはやらないのは、国家権力をまえに、人々の声がいかにたやすく圧殺されるか歴史が示したからである。

この分類に含まれるのは、1902年のシャルル・ゴバとエリー・デュコマン、1905年のベルタ・フォン・ズットナー、1907年のエルネスト・モネータとルイ・ルノー、1910年の常設国際平和局、1921年のカール・ブランティングとクリスティアン・ランゲ、1927年のフェルディナン・ビュイソンとルートビヒ・クビデ、1930年のナータン・セーデルブロム、1931年のジェーン・アダムズとニコラス・バトラー、1935年のカール・フォン・オシエツキ、1946年のジョン・モットとエミリー・ボルチ、そして1976年のベティ・ウィリアムズとマイレッド・コリガン・マグワイアである。

グローバルガバナンスに分類されるのは、国際連盟とか、国際連合とか、世界秩序を司る仕組みの構想と運営に関わった受賞者たちである。先覚者たちは国際仲裁を提案していたが、現実主義が強くなった第二次世界大戦以降、理想主義者やユートピアンと彼らは酷評される。運営に携わった受賞者には、政治家、学者、そして国際機構とその高官の名が見える。

この分類に含まれるのは、1901年のフレデリック・パシー、1903年のウィリアム・クリーマー、1904年の万国国際法学会、1908年のフレデリック・バイエルとポントゥス・アルノルドソン、1909年のエストゥルネル・ド・コンスタン、1911年のトビアス・アッセルとアルフレッド・フリート、1912年のエリフ・ルート、1913年のアンリ・ラフォンテーヌ、1919年のT・ウッドロウ・ウィルソン、1920年のレオン・ブルジョワ、1929年のフランク・ケロッグ、1937年のロバート・セシル、1945年のコーデル・ハル、1957年のレスター・B・ピアソン、1988年の国連平和維持軍、2001年の国際連合とコフィ・アナン、そして2012年のEUである。

軍縮は、武器に対する市民の恐怖に訴えかけ、今も昔も、平和賞の大きな柱である。受賞者には市民運動家もいれば、最高意思決定者もいて、バランスが取れている。

1997年に受賞したNGOの地雷禁止国際キャンペーンとその中心人物ジョディ・ウィリアムズは当初は対人地雷でなく、地雷全体の禁止を目標にしていた。大国の米ロ中は対人地雷禁止条約にいまでも距離をとるものの、彼女たちは世論を盛り上げ、条約締結を成し遂げた。イギリスのダイアナ元妃が後押ししたのも印象深かった。

ICANという略称で知られる2017年の受賞者、核兵器廃絶国際キャンペーン、は核兵器の廃絶を実現していない。達成したのは核兵器禁止条約の締結である。宗教は信じる者には救世主が現れると説くが、受賞者が説く核兵器の廃絶は訪れるであろうか? 授賞はアドボカシーの意義を問いかけてもいる。

日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は被爆後、79年目にしてノーベル平和賞を授与された。3回の国連軍縮特別総会に駆けつけ、世界の人々に核兵器の恐ろしさを伝えた。戦争責任があった日本の国民であったことから、原爆を落としたアメリカ合衆国側の警戒もあった。不利な要因を無効にしたのは、止まらない戦争と軍拡への反感であった。

この分類に含まれるのは、1934年のアーサー・ヘンダーソン、1959年のフィリップ・ノエルベーカー、1962年のライナス・ポーリング、1974年の佐藤栄作、1982年のアルバ・ミュルダールとアルフォンソ・ガルシアロブレス、1985年の核戦争防止国際医師会議、1990年のミハイル・ゴルバチョフ、1995年のパグウォッシュ会議とジョセフ・ロートブラット、1997年の地雷禁止国際キャンペーンとジョディ・ウィリアムズ、2005年の国際原子力機関とムハンマド・エルバラダイ、2009年のバラク・オバマ、2013年の化学兵器禁止機関、2017年の核兵器廃絶国際キャンペーン、そして2024年の日本被団協である。

人権の分野での授与は、国連憲章と世界人権宣言ができて以降、増加した。受賞者は、他人のためでなく自分のために権利を主張する人々が多い。ロックスターのように、そうした自己主張の強さが現代人には魅力なのである。受賞者の住む国の政府や社会と衝突することもあるが、それにめげず闘う信念に人々は共感する。

1989年に受賞したダライラマ十四世は、非暴力によってチベット人民の権利を主張する。中国から逃げるまえには、彼は宗教指導者であり、事実上の君主であった。中国政府は彼の統治を批判する。彼が主張しなければ世界の誰もが中国政府の言い分を受け入れ、チベットの人々が選挙によって自ら政治指導者を選べないことに違和感を抱かないであろう。

2014年の受賞者マララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティは、ともに教育を受ける子供の権利を主張した。パキスタンの少女であるマララは宗教的な原理主義からの弾圧に屈せず、教育を受ける権利を主張した。インドの成人男性であるサティーアーティは、子供たちが教育を受けられるように活動した。

この分類に含まれるのは、1951年のレオン・ジュオー、1960年のアルバート・ルツーリ、1964年のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、1968年のルネ・カサン、1969年の国際労働機関、1974年のショーン・マクブライド、1975年のアンドレイ・サハロフ、1977年のアムネスティインターナショナル、1980年のアドルフォ・エスキベル、1983年のレフ・ワレサ、1984年のデズモンド・ムピロ・ツツ、1986年のエリー・ウィーゼル、1989年のダライラマ十四世、1991年のアウンサンスーチー、1992年のリゴベルタ・メンチュウ、1993年のネルソン・マンデラとフレデリック・デクラーク、1996年のカルロス・ベロとジョゼ・ラモスホルタ、2000年の金大中、2003年のシーリーン・エバーディー、2010年の劉暁波、2011年のレイマ・ボウィとタワックル・カルマン、2014年のマララ・ユスフザイとカイラシュ・サティーアーティ、2021年のマリア・レッサ、2022年のアレシ・ピャリャツキとメモリアルと市民的自由センター、そして2023年のナルゲス・モハンマディである。

人道は一貫してノーベル平和賞の授与対象である。人権と違って、自分ではなく、他人を救う活動である。1979年の受賞者であるマザー・テレサのように、自己犠牲のイメージが平和賞にあるとすれば、それはこの分野の成果である。

1901年の第1号受賞者は赤十字の父とされるアンリ・デュナンである。1917年には赤十字国際委員会、1944年にはふたたび赤十字国際委員会、1963年にはみたび赤十字国際委員会と赤十字・赤新月社連盟が受賞した。赤十字は傷病兵や捕虜を救うための組織であるから、人道に尽くすのは当然といえば当然である。1963年の受賞は、赤十字規約が決議されて百周年の記念である。

1922年のノーベル平和賞は、難民のための活動に贈られた。フリチョフ・ナンセンは北極点を目指したノルウェーの探検家であったが、第一次大戦後の混乱下で捕虜の帰還と食糧の配給に身をささげた。1922年からは国際連盟の事業として、彼は難民救護を指導した。死後の1938年、彼にちなんで名づけられた国際連盟のナンセン国際難民事務所に平和賞は授与された。

1954年と1981年に、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)にノーベル平和賞は授与されたが、実績というよりも期待に対して贈られたと評するべきである。1954年にUNHCRは資金難で、そのことを各国政府に訴えるための授与であったからである[1]。1981年の受賞は、1970年代におけるアジア・アフリカ・ラテンアメリカでの実績が認められたことによる。

2018年には、ともに戦時における性暴力と闘ったコンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲとイラクのナーディーヤ・ムラードが授与された。ムクウェゲは医者であり、暴力がはびこる同国で被害者の治療に当たった。ムラードは少数派のヤジディ教徒であるが、イスラミックステイト(IS)に性奴隷にされてしまった。彼女は他の女性のために声を上げて、人々に惨状を知らしめた。

この分類に含まれるのは、1901年のアンリ・デュナン、1917年の赤十字国際委員会、1922年のフリチョフ・ナンセン、1938年のナンセン国際難民事務所、1944年の赤十字国際委員会、1947年の米国フレンズ奉仕団と英国フレンズ奉仕団、1952年のアルベール・シュバイツァー、1954年の国際連合難民高等弁務官事務所、1958年のドミニク・ピール、1963年の赤十字国際委員会と赤十字赤新月社連盟、1965年の国際連合児童基金、1979年のマザー・テレサ、1981年の国際連合難民高等弁務官事務所、1999年の国境なき医師団、2018年のドニ・ムクウェゲとナーディーヤ・ムラード、そして2020年の世界食糧計画である。

和解は敵対していた者どうしが仲直りしたり、仲直りを第三者が助けたりすることである。実際に殺し合いを止めた功績には説得力がある。ただし、和解を導くには一定の政治力が必要であるので、一般市民は受賞するのが難しい。

1906年の受賞者はアメリカ合衆国の大統領シオドア・ローズベルトであった。日露戦争の講和を仲介し、疲れ切った日本とロシアにポーツマス条約を結ばせた。すでに日本とイギリスは日英同盟を結び、ロシアとフランスには露仏同盟があったことから、ヨーロッパの国には仲介は難しかった。受賞によって彼のタカ派的、帝国主義的な棍棒外交は中和された感じになり、平和への積極姿勢は合衆国外交のレガシーとなった。

1925年のオースティン・チェンバレンと、1926年のアリスティード・ブリアンおよびグスタフ・シュトレーゼマンは、それぞれ英仏独の外相としてノーベル平和賞を授与された。なぜ、チェンバレンだけ早かったか?、というと、1925年には受賞の該当者がいなかったので、1926年になってからドーズ案のチャールズ・ドーズとともに受賞が決まったのである。フランスとドイツの和解をイギリスが仲介したロカルノ条約締結は1925年10月のことであった。

1961年のダグ・ハマーショルドもイレギュラーな受賞であった。ノーベル賞は生前授与が原則であるが、彼の受賞は死後であった。彼は国連事務総長として、中東やコンゴ民主共和国の紛争の解決に取り組んだ。その最中にコンゴの隣国である現在のザンビアにおいて、乗っていた飛行機が墜落して亡くなった。

1971年のビリー・ブラントは西ドイツの首相であった。第二次世界大戦や冷戦において対立関係にあったソ連やポーランドとデタント、つまり緊張緩和、を試みる東方政策を採用した。受賞の翌年には、分断国家の片割れであった東ドイツと相互に政府承認をする両ドイツ基本条約を結んだ。

1973年には、アメリカ合衆国大統領補佐官であったヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムの政治家であったレドゥクトへの授与が発表された。授与理由は、ベトナムから米軍が撤退する条件を定めるパリ協定の交渉に二人が功績があったからである。和平と言いつつ、米軍が支えていた南ベトナムの政権はのちに崩壊した。レドゥクトは受賞を辞退したが、北ベトナムは戦争を続けていたからである。

1978年に受賞したのは、イスラエルの首相メナヘム・ベギンとエジプトの大統領アンワル・アル・サダトであった。2002年には、彼らのキャンプデイビッド合意を仲介した功績でアメリカ合衆国元大統領ジミー・カーターが受賞した。この合意は両国間の平和の土台となった。

1987年の受賞者はコスタリカの大統領オスカル・アリアスサンチェスであった。彼は中米紛争の終結に向け努力し、合意の成立に貢献した。コスタリカは非武装中立を宣言した国として知られる。なかなか真似できないユニークな政策である。

1994年にはパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤセル・アラファト、イスラエル首相のイツハク・ラビン、そして同国外相のシモン・ペレスが受賞した。3人はオスロ合意によってパレスチナの自治とイスラエルの国家承認を約束した。キャンプデイビッド合意をイスラエルは守っていた。

1998年は北アイルランドの政治家であるジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブルに与えられた。二人は北アイルランドをめぐるイギリスとアイルランドの合意を主導した。北アイルランドの和平は、そこに住むカトリックとプロテスタントのうち、前者がイギリスから分離してアイルランド共和国に併合されることをあきらめる代償であった。

2008年の受賞者マルッティ・アハティサーリはフィンランドの元大統領ではあるが、国連の特使として、インドネシアのアチェに自治を与える和平合意に貢献した。国連の高官の受賞者にはハマーショルドのほか、パレスチナ問題に取り組んだ1950年の受賞者ラルフ・バンチがいる。

2016年の平和賞はコロンビアの大統領であるフアン・マヌエル・サントスに贈られた。彼は長年にわたる政府とコロンビア革命軍との戦争を和平に導き、後者を武装解除した。彼は大統領に就任するまえから、紛争の終結に向けて努力していた。

以上のように、和解に対するノーベル平和賞受賞者たちの功績はいずれも見事なものであった。ところが、近年、名声を傷つけることが起きた。

2019年のノーベル平和賞はエチオピアの首相アビー・アハメド・アリに贈られた。彼は国境紛争を抱える長年の敵、隣国エリトリア、と2018年、和平協定を結んだ。エリトリアと境界を接するエチオピアの州がティグレ州である。アビー・アハメド・アリは大胆にも2020年、同州を支配するティグレ人民解放戦線(TPLP)を攻撃した。受賞理由となった和平協定が戦争の原因になってしまった。エチオピアの北部では飢餓と難民が発生した。

この分類に含まれるのは、1906年のシオドア・ローズベルト、1925年のオースティン・チェンバレン、1926年のアリスティード・ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマン、1936年のカルロス・ラマス、1950年のラルフ・バンチ、1961年のダグ・ハマーショルド、1971 年のビリー・ブラント、1973年のヘンリー・キッシンジャーとレドゥクト、1978年のメナヘム・ベギンとアンワル・アル・サダト、1987年のオスカル・アリアスサンチェス、1994年のヤセル・アラファトとシモン・ペレスとイツハク・ラビン、1998年のジョン・ヒュームとデイビッド・トリンブル、2002年のジミー・カーター、2008年のマルッティ・アハティサーリ、2011年のエレン・ジョンソン・サーリーフ、2015年のチュニジア国民対話カルテット、2016年のフアン・マヌエル・サントス、そして2019年のアビー・アハメド・アリである。

経済と環境の分野はピースビルディング、すなわち平和構築、と称される活動に含まれる。富を循環させたり、乱開発を止めたりすることが平和の礎になるという考え方である。

2004年の受賞者はケニアのワンガリ・マータイである。彼女は国境を越え、アフリカの大地に植林した。「持続可能な開発、民主主義、そして平和への貢献」が受賞の理由であったが、彼女は女性と民主主義のためにも戦った。日本では「もったいない」という言葉とともに有名である。

ヌハマド・ユヌスは、貧しい人々のビジネスに少額融資を行い、生活を助けるマイクロクレジット機関のグラミン銀行をバングラデシュで広め、2006年のノーベル平和賞を授与された。

この分類に含まれるのは、1925年のチャールズ・ドーズ、1949年のジョン・オア、1953年のジョージ・マーシャル、1970年のノーマン・ボーローグ、2004年のワンガリ・マータイ、2006年のグラミン銀行とムハマド・ユヌス、そして2007年の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とアル・ゴアである。


[1] “Office of the United Nations High Commissioner for Refugees Facts,” Nobel Prize Outreach, https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1954/refugees/facts/, accessed on February 24, 2026.

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