このまま経済開発を優先して、環境を破壊し続けたら、経済開発自体が持続できなくなる。将来の世代にツケを回さず、現世代のあいだに、持続できるようなやり方へ経済開発を軌道修正するべきである――持続可能な開発は本来、このようなスローガンであったはずである。それが今は違うらしい。
2016年以降における国連の目標である「持続可能な開発目標(SDGs)」は、経済・社会・環境の三つの次元を含む。もはや、経済と環境のバランスだけが焦点ではなく、社会の次元が加わった。A/RES/70/1という国連総会の決議には、繁栄は自然と調和しなければならない、そして、平和は持続可能な開発の条件であり、結果でもある、と書いてある。繁栄という言葉は経済のことで、平和という言葉は社会のことであろう。新しい持続可能な開発のビジョンは、経済開発のやりすぎは自然を損ない繁栄をもたらさない、というだけでなく、差別や搾取をなくして社会を良くしないと、平和は失われ、自然も繁栄も脅かされる、と語る。
これを信じるか、信じないか、はあなた次第である。人々には選択の自由があるのであるから。今回のテーマは、経済開発、人間開発、そして持続可能な開発の間には関係があるのか、あるとすれば、どのようなものか、あなたの考えを述べなさい、である。
環境問題それ自体は、人類の誕生にさかのぼる。また、田中正造の逸話でよく知られた足尾鉱毒事件のように、19世紀、すでに社会問題になっていた。しかし、政策として予防的に取り組まれるようになったのは比較的、近年のことである。レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』は1962年に出版され、人々に問題の深刻さを認識させた。殺虫剤のDDTなど化学薬品が、いかに生態系を破壊するか描いたものである[1]。
また、ローマクラブの報告書『成長の限界』の出版が1972年であったが、環境保護に必ずしも熱心でなかった経済界がその必要を認めたものであった。持続可能性の大切さを世間に伝えるうえで、最も功績があった研究でなかったろうか。人類が従来どおりの成長を続けると、資源の減少と汚染によって、1人当たりの食糧、1人当たりの工業生産、そして総人口の順に減少していく。これを防ぐために、産児制限と工業生産制限を行うことをローマクラブは求めた[2]。
同じ1972年には、記念碑的なグローバルな環境イベントのストックホルム国連人間環境会議(UNCHE)が開かれた。114か国、1,300人あまりが参加したものの、東側諸国は不参加であった。主な成果の一つは人間環境宣言の採択である。これはワシントン条約(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」)とボン条約(「移動性の野生動物の種の保存条約」)の作成につながった。もう一つは国連環境計画(UNEP)の設立であり、国連は環境問題の対策本部を持った。国連の内部機関であるので、設立の本決定は後日、総会で決議された[3]。
地球環境が人類の課題であるという認識は広まったものの、言行一致は簡単でない。ローカルな環境問題と違い、交渉当事者の主権国家は上から誰も命令できない存在である。その行動を縛るには、環境対策の意義を納得させ、約束してもらうほかない。しかし、誰しも自分の価値観や利害に反することはしたくないので、悲劇は終わらない。
「共有地の悲劇」という概念は、ギャレット・ハーディンによる1968年の同名論文によって世間に広まった。共有地には個人の所有権が及ばないので、皆が自分の家畜に牧草をたらふく食べさせて、牧草地は荒れ放題になる[4]。大気と海洋は最大の共有地であるため、この構図は地球環境問題にも当てはまる。人類は諸国家による外交という手段でそれらの問題を解決しようとしている。
ここで出てきた共有地、または共有資源、という財の類型にはなお説明が必要である。それは排除不可能性と競合性を特徴とする財である。村の牧草地は、すべての村人に放牧する権利があるから排除不可能である。食い尽くされた牧草は生えてくるまで食べられないから競合的である。
村でルールを作って制限するのは、資源管理の良い方法かもしれない。しっかり見張って、取り締まろう、と提案が出たとする。自家分の牧草が減ることになる村人は反対する。
共有地と似た財の類型に、公共財がある。公共財は排除不可能性は同じであるものの、非競合性という特徴が違っている。きれいな空気は公共財、という言われ方がされる。息を止めたままでいなさい、と、空気の消費から誰かを排除することは確かに不可能である。また、誰かが空気を吸ったからといって、別の誰かの呼吸と競合するわけでもない。地球環境問題に当てはめれば、純粋な空気が公共財である。問題は共有地の悲劇によって、空気に排ガスのような大気汚染物質、二酸化炭素のような温室効果ガス、そして、フロンガスのようなオゾン層破壊物質が混ざり、純粋でなくなることである。
以上のように、排除不可能な財の消費を規制することは難しい。共有地は早い者勝ちで消費され、資源が枯渇してしまう宿命である。公共財は維持経費を払わないフリーライダーの出現ゆえに失われる。どちらが厄介か、は言うことはできない。前者では、人間の欲深さに嫌気が差し、後者では、理想の欠如が嘆かわしい、というニュアンスの違いがあるだけである。
排除可能な場合は、利用者にルールに従わせればよいので、財の管理は行いやすい。消費が競合する私的財であっても、個人の放牧地であれば、課金して利用者数を制限し、利潤を上げられる。競合しない排除可能な財はクラブ財と呼ばれ、会員はクラブのサービスを満喫できる。
こうした財の分類には政策上の意味がある。排除不可能な財を排除可能な財に転換できるのであれば、資源管理は容易になりそうである。共有地を民営化したり、国立公園にして入山料を課したりすれば、枯渇や荒廃を止めることができる。一見すると、良さそうなアイデアである。
ノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムは、必ずしもそうではないと議論した。共有地であっても民営化や行政命令によらず、自発的な組合によるガバナンスが成功する場合がある。ただし、それは利用者間にコミュニケーションとルール変更権限があり、小規模な利用者の場合にかぎられる[5]。会合は頻繁に、永続的に行われなければならない。日本語で、車座になって話し合う、というような状況がそれに当たろう。彼女の学説に弱点があるとすれば、ガバナンスが内輪の当事者によって行われるので、人権、繁栄、あるいは平和のような高邁な理想は考慮されないかもしれない、ということである。
地球環境のガバナンスは国境を越える必要がある。そうした問題に関しては国家間外交による対応が普通である。オストロムが論じるような小規模な自己組織的な共同体によるガバナンスのほうが、本来、共有地には適しているかもしれない。また、ガバナンスはできるだけ有権者と近いところで行われる必要がある、という本書の原則ともグローバルな調整は一致しない。
とはいえ、小規模な自己組織的な共同体によるグローバルガバナンスはできない相談である。グローバルガバナンスには、多様な価値観、多様な利害を持った人々が参加するからである。捕鯨の管理はその好例である。クジラを殺すことに対して、クジラがかわいそうと感じる人と重要な栄養源と考える人とが規制の方法を議論しても、妥協点を見つけることはまず不可能である。
以下では、国家間外交による地球環境ガバナンスの歴史を振り返る。が、共存共栄の成功物語を期待してはいけない。国益と国力をめぐるゲームのなかで、何とか合意点を探るのが関の山であるからである。
最初に取り組まれた国際的な環境問題は越境大気汚染である。工業地帯を擁するヨーロッパでの地域的協力が先行し、1979年、ジュネーブ長距離越境大気汚染条約が採択された。その実効性は1984年、31締約国中10か国が自発的に硫黄排出物の30パーセント削減を宣言して前進した。翌年、ヘルシンキ議定書が作成され、30パーセント削減は21か国による公式な約束になった[6]。
ジュネーブ条約とヘルシンキ議定書は、枠組み条約と議定書をつうじた国際ガバナンスのモデルケースである。進藤雄介の表現を借りれば、それは「協議ないし交渉の場(枠組み)の設定についてとりあえず合意するが、その結果として、いかなる議定書など国際的な約束が合意されるかは、今後の交渉次第という方式である」[7]。議定書が採択されるのは、枠組み条約の締約国会議という場合が多い。締約国会議の英語の頭文字をとったCOPをよく耳にする。
越境大気汚染は他地域でも起きている。ヨーロッパでは、工場の排煙が酸性雨になって、森を枯らし、湖の魚を殺している、というイメージで知れ渡った。東アジアでは1998年、東アジア酸性雨モニタリングネットワーク(EANET)の第1回政府間会合が開かれ、調査が続けられている[8]。中国では「空中鬼」と呼ばれるほどひどい被害があったそうであるが、その他の国ではそれほどの被害は報告されておらず、条約の作成に至っていない。微小粒子状物質(PM2.5)は人体の健康との関係で注目されている。日中韓三か国環境大臣会合(TEMM)のもと、対策がとられている。
1970年代には、開発経済の世界においても、成長優先への反省が語られだした。ODAが環境や人権を破壊していると告発され、イラン革命のように、近代化がかえって人々を反体制的にした事例が現れていた。世界は、ナショナリズムの英雄が巨大なインフラストラクチャーを建設するイメージで開発を論じることをやめた。
貧困削減が開発政策の新しいパラダイムになった。工業化をすれば、経営者と従業員、そして国家の運営に当たる官僚は豊かになるが、その他の人々はどうであろうか? 成長すれば貧困は解消するというトリクルダウンの説は疑われ始めた。代わって、ロバート・S・マクナマラ総裁が率いる世界銀行はベイシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)を1970年代初頭から掲げるようになった。何が人間の基本的なニーズか、というと、栄養・健康・教育である。
こうした流れは『人間開発報告書』の公刊によって加速された。 UNDP総裁特別顧問であるパキスタンのマブーブル・ハク博士の指揮で、1990年に最初の報告書が出た。彼と協力したアマルティア・センは次のように述べた。
このアプローチのちょっと否定的な面はPRに頼りすぎ、公衆の注目を得るためマブーブルはとてつもなく単純化せざるをえなかったことです[9]。
人間開発の定義は、人間の選択の幅を広げること、である。その指数は、三つの機能である健康・知識・所得の諸指標から合成される。これらが大きくなれば人間ができることは拡大する。それが単なる経済開発と違うことは、1人当たりの年間所得が同じであっても、寿命と知識の水準に差がある国どうしを比べれば理解できる。1人当たりの年間所得が同じ500ドルでも、平均寿命が71歳で識字率が89パーセントの国もあれば、それぞれ44歳と27パーセントの国もある[10]。あなたは、どちらの国に生まれたいであろうか? これらの国の間では、人間の可能性に雲泥の差がある。
ただし、健康や教育は開発政策においてもてはやされるようになったものの、重視する理由は立場によってまちまちである。ハクやセンの立場では、寿命・知識・所得などから成るウェルビーイングそれ自体が目的であり、それらが欠如していることこそ貧困であると定義される。
それにたいし、健康や教育を経済成長という目的のための手段として扱う立場がある。寿命・知識は人的資本または「人材」としてくくられ、設備・不動産など物的資本や資源・環境など自然資本とともに経済成長の要因である[11]。新古典派経済学がこれである。貧困削減の理論と経済成長の理論とでは、同じ言葉を使っていても本質的な違いが隠れている。教育を手段と見る場合、それは長期的成長の決定的要因ではないという消極的な評価もある[12]。この評価を採れば、人間開発は実証的アプローチでなく、規範的なアプローチである。
同じように、成長の限界と持続可能な開発とは似て非なるものである。前者においては、成長を緩やかにするための産児制限と生産規制は全世界に求められ、途上国だけが免除されることはない。後者は、これから途上国が環境破壊を招く工業化をしないように、先進国が農業補助金の廃止や技術の移転によって途上国の成長率を高めることを要求する。途上国の出生率を下げることは、成長の限界論が主張する産児制限でなく、女性の地位向上によって成し遂げられねばならない。
こうした違いは、持続可能な開発の概念が国連総会に由来することから生じた。総会が設置を決めた通称ブルントラント委員会、つまり、環境と開発に関する世界委員会、は4年後の1987年に報告書「我ら共有の未来」においてこの概念を提唱した。ブルントラントというのは委員長を務めたノルウェーの政治家グロ・ハルレム・ブルントラントにちなむ。国連総会は多数派である途上国の意見を強く反映するために、報告書の真意は「持続可能」よりも「開発」の強調であった。
持続可能な開発は「衡平(エクイティ)」を先進国と途上国との関係に打ち立てようとする指針である。ここでの衡平とは、環境保護という抽象的な理念を途上国における開発の緊急性という特別な事情を考慮して、より広い正義の観点から補正することである。
例えば、国際制度を設計する際、両者の間で義務の格差を設ける。オゾン層の保護のためのウィーン条約の枠組みでは、フロンガスなどの削減率を具体的に定めるモントリオール議定書が作成された。そのスケジュールでは、途上国が規制を実施する時期を先進国より10年遅らせる。
また、技術と資金を先進国から移転するために、地球環境ファシリティ(GEF)という融資枠が世界銀行のもと1991年に設けられたのも、衡平を打ち立てる意図に発したことである[13]。
持続可能な開発は、先進国と途上国との関係だけでなく、あらゆる関係を衡平にする概念へと発展した。それを実現する舞台としてリオデジャネイロ国連環境開発会議が1992年に用意された。英語の頭文字ではUNCEDであるが、地球サミットやリオサミットという通称でも知られる。
12歳のカナダ人少女セバン・スズキが演説に立ち、環境破壊を続ける大人たちに若者の怒りをぶつけた。世代間にも衡平が必要である、との理解が広がったのは地球サミットの成果であった。
国連環境開発会議において、気候変動枠組み条約が署名開放された。気候変動はその後30年間、地球環境をめぐる論争において最大の争点になった。
二酸化炭素が地球を温める、と温室効果理論をスウェーデンのスバンテ・アレニウスが提唱したのは百年以上まえである。1985年以降、世界気象機関(WMO)とUNEPの会議で取り上げられてふたたび脚光を浴びた。データや研究結果を科学的に検証するため、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が1988年に立ち上げられた。第1次評価報告書は1990年に出されたが、温暖化の進行と懸念が明記され、翌年の条約交渉開始を後押しした。温暖化の真偽がその後も争われるなかで、一連の評価報告書は取り組みを促す起爆剤であった。
政策策定に役立つ情報を提供する科学者あるいは専門家のネットワークを、国際政治学者のピーター・M・ハースはエピステミック・コミュニティ(認識共同体)と命名した。IPCCはまさにそうしたものであるが、2007年にノーベル平和賞を獲得した。ところが、2009年には関係する科学者の電子メールが流出し、クライメイトゲート事件と呼ばれる騒動に発展した。温暖化対策は、科学への信頼の上に成り立っているのであるから、科学者は倫理的な責任を負う。
温室効果ガスを削減する具体的な目標を定めた京都議定書は1997年のCOP3(第3回締約国会議)で採択され、1990年を基準として、日本は6パーセント、アメリカ合衆国は7パーセント、そしてEUは8パーセント減らすことを約束した。EUの目標は高いように見えるものの、それまで対策が不十分であった東ヨーロッパには削減の余地が残っていた。
アメリカ合衆国はアル・ゴア副大統領が京都議定書の採択に尽力したものの、ジョージ・W・ブッシュ(子)大統領が就任した2001年に参加しないと決断した。中国とインドを含む開発途上国に温室効果ガス削減の義務がないことが理由であった。それでも議定書は発効した。日本は目標を国内の排出削減だけで達成することはできなかったが、営林事業(森林吸収源)ならびに他国での削減プロジェクト(京都メカニズムクレジット)に参入することにより義務を全うした[14]。
アメリカ合衆国では2009年にバラク・オバマ大統領が就任し、温暖化対策を再開した。グリーン・ニューディールは世界金融危機で落ち込んだ経済を再建し、石油への依存を終わらせる二兎を追った。
オバマ政権は、京都議定書に続く国際合意としてパリ協定が2015年のCOP21で採択されるのを後押しした。パリ協定は世界全体で産業革命以降における気温上昇の目標を2度未満とした。各国は任意の目標を設けて5年ごとに取り組みを報告、さらに、国家間で支援を行う。途上国による目標の設定は、義務づけられずに、奨励されるにとどまった。ドナルド・J・トランプ政権は2019年にパリ協定から脱退したものの、ジョー・バイデン政権は2021年に再加入した。
生物多様性条約は、地球サミットにおいて気候変動枠組み条約とともに署名開放された。目的は生物多様性の保全、その持続可能な利用、そして、遺伝資源から得られる利益の公正かつ衡平な配分である。保全については、戦略計画をCOPで採択して、保護区の指定などの目標を示す。
生物多様性条約にはカルタヘナ議定書と名古屋議定書がある。カルタヘナ議定書は遺伝子組み換え生物の越境移動を規制する目的で作られた。名古屋議定書は遺伝資源の利用から得られた利益の公正・衡平な配分が目的であり、2010年に名古屋市で開かれたCOP10において採択された。
国際連合の推進する価値観は、「我ら共有の未来」から持続可能な開発目標に至るまで、驚くほど変わっていない。簡潔に表現すれば人間開発・衡平・持続可能性であり、この回の初めに述べた経済・社会・環境と見事に重なる。持続可能な開発の概念が登場した背景には、環境の重視はもちろん、開発途上国と先進国、女性と男性、そして労働者と経営者といったパートナーシップを衡平なものにしようという問題意識があった。この延長線上に、ミレニアム開発目標(MDGs)と持続可能な開発目標がある。
ミレニアム開発目標は、2000年のミレニアムサミットで採択されたミレニアム宣言に基づき、事務総長報告などを踏まえて作られた。2015年までに達成されるべき8つの目標とは、1に貧困、2に教育、3にジェンダー、4に乳幼児、5に妊産婦、6に感染症、7に環境、8にパートナーシップである。1・2・4・5・6は人間開発、3・8は衡平、そして7が持続可能性である。
統計指標でミレニアム開発目標の達成度を検証すると、つねに下位にくるのはサハラ砂漠以南のアフリカと南アジアであり、開発途上国に努力を促す結果であった。ちょうど中国とインドが高成長をしていた時期と目標期間が重なったことから、人口が圧倒的に多い両国が豊かになると、大多数の目標が達成されたように見えてしまう問題があった。
持続可能な開発目標は、国連総会が2015年に決議した「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(A/RES/70/1)に基づく17の目標である。1に貧困、2に飢餓、3に健康、4に教育、5にジェンダー、6に水、7にエネルギー、8に雇用、9に産業、10に平等、11に居住、12に持続可能性、13に気候、14に海洋、15に生態系、16に平和、17にパートナーシップである。1・2・3・4・6・8・9・11が人間開発、5・10・16・17が衡平、そして7・12・13・14・15が持続可能性、と大まかに分けられよう。
持続可能な開発目標はミレニアム開発目標と比較して、持続可能性の割合は確かに増した。ミレニアム開発目標は開発途上国向け、と陰口をたたいたが、その点は改良された。持続可能な開発目標は「誰一人取り残さない」と決意し、人口の多い国への過剰な依存をやめた。また、目標がより高いものになり、先進国の課題に対応した。
このように、持続可能な開発目標は多様化した。とはいえ、まだ欠けているものがある。一つに、それは選択の自由である。確かに、ウェルビーイングは十分に盛り込まれているものの、人間には娯楽、進歩、冒険、そして自己実現も必要である。もう一つ欠けているものは論争である。パートナーシップは重要であるが、目標を採用するか、しないかを決めるのは各レベルの主体である。批判が許されなければ、目標達成を口実にして権力にしがみつく専制政治家の思うつぼである。
[1] レイチェル・カーソン、『沈黙の春―生と死の妙薬』、新潮文庫、1974年。
[2] ドネラ・H・メドウズ、デニス・L・メドウズ、ヨルゲン・ランダース、ウィリアム・W・ベアランズ三世、『成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』、大来佐武郎監訳、第52版、1994年、105、151ページ。
[3] 百瀬宏、『北欧現代史』、山川出版社、1980年。
[4] G. Hardin, “The Tragedy of Commons,” Science 162 (3859) (1968):1243-1248.
[5] Elinor Ostrom, Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action (Cambridge: Cambridge University Press, 2015).
[6] ピーター・H・サンド、『地球環境管理の教訓』、信夫隆司、高村ゆかり訳、国際書院、1994年、40ページ。
[7] 進藤雄介、『地球環境問題とは何か』、時事通信社、2000年、27ページ。
[8] 環境庁、『環境白書(総説)(平成12年度版)』、2000年、228ページ。
[9] Richard Jolly, Louis Emmerij, and Thomas G. Weiss, The Power of UN Ideas: Lessons from the First 60 Years (New York: United Nations Intellectual History Project, 2005).
[10] マルーブル・ハク、『人間開発戦略 共生への挑戦』、日本評論社、1997年、65ページ。
[11] ビノッド・トーマスほか、『経済成長の「質」』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2002年、4ページ。
[12] ウィリアム・イースタリー、『エコノミスト 南の貧困と闘う』、小浜裕久、織井啓介、富田陽子訳、東洋経済新報社、2003年、105ページ。
[13] L・E・サスカインド、『環境外交―国家エゴを超えて』、吉田庸光訳、1996年、170-171ページ。
[14] 環境省, “京都議定書第一約束期間の削減目標達成の正式な決定について(お知らせ),” April 5, 2016, https://www.env.go.jp/press/102374.html, accessed on February 23, 2026.
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