ウランという名の金属がある。その同位体であるウラン235の原子核は分裂しやすく、分裂すると、熱エネルギーが発生する。これに伴い、中性子という粒子が放たれ、それが別の原子核にぶつかると、その原子核も分裂する。こうした核分裂の連鎖反応が制御されずに繰り返されれば核爆発になる。核爆発を軍事上の目的で人工的に起こす装置が核兵器である。今回のテーマは、核兵器の開発とそれがもたらした核抑止とはどのようなものか説明しなさい、である。

核分裂の連鎖反応に関する発見を核兵器の開発につなげたのは、アルバート・アインシュタインであった。彼が誰であるかについて説明はいるまい。時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズベルトに彼が手紙を送ったのは1939年8月のことであった。次の月が第二次世界大戦の始まりであるので、ヒトラーと戦う目的で、アインシュタインが新兵器の開発を進言したことは本当であろう。手紙のなかで、ウランの核連鎖反応から巨大なエネルギーが生じ、そのことがもたらす重大な意味を伝えた。「初めて発見されたこの現象は、結果として爆弾の製造にもつながります」と明言したのである[1]。進言を実際に取り計らったのは、ハンガリー出身の物理学者レオ・シラードとされる。この人もユダヤ人であった。ユダヤとナチスとの生死を賭けた戦いが、世界史のゲームチェンジャーとなったのである。

さっそく1939年10月、大統領部局として、ライマン・ブリッグズを委員長とするウラン諮問委員会が設置された。事業は1942年に陸軍に移管され、マンハッタン管区と名づけられた。マンハッタン計画といえば、アメリカ合衆国による原子爆弾の開発そのものを指すことになる。

具体的な人物で、原子爆弾の開発者として知れ渡っているのはJ・ロバート・オッペンハイマーである。彼はもともとカリフォルニア大学バークリー校で教える左翼的な傾向がある教授であった。高名なシカゴ大学教授からマンハッタン計画に誘われて、彼の人生は一変した。

一九四二年の春、コムプトンに呼ばれて私はシカゴへ行き、原爆そのものの仕事の状態を討論しました。この会合の際コムプトンは、この仕事の責任を負わないかと私に申し出ました。当時この仕事は、おびただしいバラバラの研究計画から成っていました。私にはそれまで行政的な経験はなかったし、実験物理学者でもなかったのですが、事情には十分明るいし、この問題は取り組み甲斐があると思っていましたので、喜んで引き受けました。このとき私は冶金研究所の職員になりました[2]

大規模プロジェクトを成し遂げたオッペンハイマーの行政能力は驚くべきものであった。1943年、彼を所長とするロスアラモス研究所が、陸軍代替材料開発計画司令官レスリー・グローブズの指揮下に設置された[3]。ロスアラモス研究所はニューメキシコ州にある。2年あまりたった1945年7月、最初の原爆実験であるトリニティ実験が同州のアラモゴードで行われた。20年後のテレビ番組で回想する彼の言葉がよく知られる。

世界は今までと同じ世界ではなくなったことを、われわれは知った。何人かは笑い、何人かは涙を流した。ほとんどの人が黙っていた。わたしは、ヒンズー教の聖書(バガバッド・ギーター)の一節を思い出した。ビィシュヌは義務を果たさなければならないことを王子に説得し、彼に感銘を与えようとして複数の腕を持つ姿に変わる。そして言う。『われ世界の破壊者たる死とならん』。だれもが、何らかの形でこれと同じことを考えたと、私は思う[4]

ビシュヌ神は日本では腕が2本になり、仁王像2体のうち阿形のほうになった。原爆の威力を自己の力と錯覚したオッペンハイマーは仁王のように人類史を変えてしまった。

広島への原爆投下は1945年8月6日に実行された。なぜハリー・S・トルーマン大統領は投下を決断したのか? 後世しばしば議論される問いである。日本を降伏させるためであれば、投下を待たず、7月のポツダム宣言において皇室の安泰(国体護持)を保証すれば可能であった、とも言われる。日本が8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏した決定的な原因は、同月9日にソ連が対日参戦をし、講和の仲介を図ってもらう見込みが消えたことであった。原爆投下の真の理由は、ソ連に対して戦後、優位な立場を得たかったから、というのが通説である。

トルーマンは民間人の虐殺は悪いことであると知っていた。彼は投下後の発表で、 広島を軍事基地と表現し、死者を6万人と述べた[5]。実際には広島は30万人弱の市民を擁する都市であった。トルーマンは嘘をついたか、部下に騙されたかのいずれかである。

広島に落とされた原爆と3日後、長崎に落とされた原爆とでは、基本的な設計が異なった。広島に落とされたのはガンアセンブリ型の「リトルボーイ」であり、長崎に落とされたのは爆縮型(インプロージョン型)の「ファットマン」であった。ガンアセンブリ型では、核分裂を促す中性子を出すための物質に弾丸を打ち込み、その物質の外側をリング状に囲むウラン235を分裂させる。爆縮型はその名のとおり、球状の火薬を内側に爆発させて圧力をかけ、仕込まれた物質に中性子を出させ、中心に位置するプルトニウムの核を分裂させる。材料についても、リトルボーイはウランであり、ファットマンはプルトニウムであった。ウランのまま核兵器に使うには、兵器級ウランと称されるきわめて濃度が高いウラン235が必要である。プルトニウムは、それほど濃度が高くないウランを原子炉で燃やした使用済み核燃料から抽出できる。

物理学者たちは、水素原子の核融合による爆発、すなわち水素爆弾の開発が可能であることを理論的に知っていた。開発に消極的であったオッペンハイマーに代わって、水爆開発の中心となったのは、かつてシラードの運転手をしていたハンガリー系ユダヤ人エドワード・テラーであった。折しも、ソビエト連邦が原爆の開発に成功し、思いのほか早かったキャッチアップはトルーマン大統領をあせらせた。彼は1950年1月末に、水爆の製造を指示した。テラーの同僚スタニスワフ・ウラムは核融合で二重水素と反応させるトリチウム(三重水素)を作るため、固体リチウムを使うことを思いついた。これを基礎に、彼らは、原爆を起爆剤としたエネルギーで核融合を起こす方法を発明した。これがテラー・ウラム・コンフィギュレーションと呼ばれる水爆の設計である。

南太平洋のエニウェトック環礁において1952年、アメリカ合衆国は熱核装置を爆発させた。このマイク・ショットはTNT火薬10メガトン分の威力であった。広島に投下されたリトルボーイは15キロトンの威力であったから、数字が3桁大きくなったことになる。しかし、この「装置」は実戦において爆弾としては使えないほど巨大であった。最初の水素「爆弾」はいつ実用化されたかというと、1954年3月に行われたビキニ環礁での実験であった。このブラボー・ショットはTNT火薬にして15メガトンの威力であった。あまりに巨大な爆発であったため、第五福竜丸事件など放射能汚染を広範囲にもたらした。

今度も、ソ連の追い上げはすさまじかった。テラーがアメリカ合衆国における水爆の父であるとすれば、アンドレイ・サハロフがソ連におけるそれであった。彼は功績を独り占めしなかった。「テラー・ウラム・コンフィギュレーション(第三のアイデア)は、理論部の数人の研究者がほとんど同時に考えついた」[6]と述べる。ソ連初の水爆実験は1955年11月のことであった。威力はTNT火薬にして1.6メガトンであり、リトルボーイの100倍であった。

核爆弾の破壊力は巨大化の一途をたどった。アメリカ合衆国の安全保障専門家グレアム・アリソンは次のように語る。

これまで製造された核兵器で最大のものと最小のものは何ですか?

ソ連が作った「ツァーリ・ボンバ」は、推定一〇〇メガトンの爆発力で最大です。これは広島と長崎に投下された原爆の六五〇〇倍の爆発力です。確認されたなかで最小なのは、アメリカが作った「デイビー・クロケット」で、〇・二五キロトンの爆発力で重さはわずか二二・五キロです[7]

ツァーリ・ボンバも、デイビー・クロケットも、実戦向きではない。ツァーリ・ボンバの破壊力は人類の滅亡を予感させる。インターネットに上げられたそれを映す動画では、巨大なキノコ雲を背景に、天を裂くような爆発音が響く。デイビー・クロケットは迫撃弾で、数キロ先の目標に打ち込まれる。押し寄せる敵の戦車部隊を破壊するようなことを想定して開発されたのであろう。自軍も放射能で汚染されることを考えると、使用はためらわざるをえない。

旧約聖書におけるヨハネの黙示録の昔から、人類を滅亡させる戦争が予言されてきた。20世紀には飛行機・戦車・毒ガスの登場によって、他を圧する新兵器が遠からず現れることは確実視された。満州事変の首謀者である日本陸軍の参謀、石原莞爾、は1940年の「最終戦争論」において将来の核戦争をほぼ正確に予想した。

一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。

もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません[8]

「世界をぐるぐる廻れる」というのはICBM(大陸間弾道ミサイル)を思い起こさせるし、「一発あたると何万人もがペチャンコにやられる」というのは核兵器による大量破壊そのものである。太平洋戦争も始まっていなかった時点で、彼が日米戦争を予想したのは正しかったが、マンハッタン計画の進行が速かったのは想定外であったにちがいない。

核兵器が実際に使用されると、それが世界をどう変えるか?、人々は想像力をたくましくした。従来のどんな兵器とも違うことを冷静に分析したのは、アメリカ合衆国の軍事専門家バーナード・ブロディであった。投下の翌年である1946年に『絶対兵器』という編著でその革新性を指摘した。

ブロディが核兵器を絶対兵器と呼んだことには、いくつもの理由があった。性能自体が、どんな都市も1~10発で破壊でき、完璧な防備は当分できない、と特別であった。この性能を活かすには、自領からどんな国へも攻撃できる新型または長射程の運搬手段が有効である。後世から見れば、それが戦略爆撃機やICBMのことであることは指摘するまでもない。1機/発でも防空網を突破し目標に到達すれば相手はおしまいで、空軍の優勢は安全を保証しない。

ブロディの洞察は、鉄と燃料をかき集めることで軍事力を築いてきた大国を頂点とする世界秩序への警告であった。爆弾は持ちすぎてもしかたない、と彼は述べた。それでも、米ソはオーバーキルと呼ばれるほどの核兵器を製造した。逆に言えば、一定水準以上の核戦力を持てば、小国でも大国の攻撃から身を守れる。ブロディは、スーツケースで爆弾を他国に持ち込むテロリストが現れる可能性さえ示唆した。当時、ウラン鉱脈は貴重であったものの、破壊力を考えれば原料は豊富という彼の評価も斬新で、5~10年後には原爆の共同開発国であった米英加以外の国も生産能力を獲得すると予想した。実際に、ソ連が原爆実験をしたのは出版から3年後であった[9]

核兵器に対する完璧な防備は当分できない、ということが、いかに革新的であったかを説明しよう。他の攻撃手段に対しては、十分な量の防備があれば、必ず守るすべがある。相手が素手でくれば、素手で備えることができ、矛でくれば、盾という守り専用の武器を使うことができる。弓には兜、銃には防弾チョッキ、戦艦には潜水艦、爆撃機には要撃機、といった具合である。

ところが、弾道ミサイルには完璧な防備はない。核弾頭は1発でも命中したら、当てられた側の負けである。弾道ミサイル防衛といわれるものとして、イージス艦やペトリオット・ミサイルといったものが取りざたされる。戦略核戦力が着弾する際には、落下速度はマッハ20くらいになる。これを打ち落とすには、第1に、敵弾の軌道を精密に計算して待ち受ける、第2に、こちらの迎撃兵器を高速化する、第3に、広範囲を破壊できる迎撃兵器を使う、などの方法が考えられる。第2の方法を実現するのがレールガン(電磁砲)とレーザービームであるが、いずれも未来技術である。

ミサイルの発射直後や宇宙空間を飛んでいる間に打ち落とせばよいでないか、と言うかもしれない。しかし、国境のはるか奥深くに発射基地があったり、宇宙空間に弾頭に見せかけた囮の物体をまいたり、再突入体を放物線軌道から外して滑空させてみたり、と敵も対策をとっているので、やはり困難である。つまり、核戦争は、敵に弾道ミサイルを発射された瞬間に「負け」である。戦争が起こる確率が高かった冷戦時代には、この恐怖感が米ソの指導者たちを駆り立てた。

核兵器の脅威に対しては、相手に攻撃させないことを心掛けなければならない。方法としては抑止がある。それは報復の耐えがたいコストを期待させることによって先制攻撃を思いとどまらせることである。確かに、核攻撃のコストは耐えがたいので、抑止には向いている。当然、相手も同じことを考えるので、核武装をする。抑止が核を持ってにらみあう双方に効いている状況またはそれを目指す政策を相互抑止という。恐怖の均衡ともそれはいう。核兵器を撃たれる恐怖ゆえに相手にも同じ恐怖を与える兵器を配備して、結果、平和が続いている状況である。

抑止など核戦略について見ていくに当たっては、独特の用語に慣れる必要がある。先制攻撃のことを第一撃、報復攻撃のことを第二撃という。攻撃目標については、敵の兵力を攻撃して報復能力を奪おうとする戦略を対兵力戦略(カウンターフォース)という。敵の都市を攻撃することにより、戦争継続能力を奪ったり、心理的打撃を与えたりしようとすることは対都市戦略(カウンターシティ)である。都市だけでなく、工業地帯を破壊しようとすることは、対価値戦略(カウンターバリュー)である。攻撃目標の上空にミサイルや爆撃機などの運搬手段が到達する能力は浸透能力という。脆弱性とは、軍事目標の兵力・産業能力・都市などに十分な防御手段がないことである。

つぎは、ミサイルの種類について学ぶ。推進力の違いによって、弾道ミサイルと巡航ミサイルに分けられる。弾道ミサイルは、ブースト段階、すなわち打ち上げ時、に与えられたエネルギーのみにより推進力が与えられ、野球のバッターがはじき返したフライのように、放物線を描く。

弾道ミサイルはさらに射程によって呼び分けられる。短距離ミサイルは射程1,000キロメートル未満、準中距離弾道ミサイルは射程1,000~3,000 キロメートル、中距離ミサイルは射程3,000~5,500キロメートル、そして長距離ミサイルは射程5,500キロメートルより長いものである。着弾時の速度は射程が長いものほど速く、撃ち落としにくい。

巡航ミサイルは、ブースト段階後に与えられたエネルギーによって推進力が維持される。ジェットエンジンで進む飛行機のように、針路は比較的自由に変えられる。速度が弾道ミサイルよりも遅いので撃ち落とされやすく、あまり長い距離を飛ぶことはできない。

極超音速滑空兵器は2010年代から話題にのぼるようになった。放物線を描いて落下するのでなくグライダーのように滑空し、軌道を予測させないようにしたものである。速度はマッハ5以上で、迎撃は困難とされる。

運搬手段に注目する場合、戦略核戦力の三本柱と言われるが、ICBM、SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)、そして戦略爆撃機のことである。保有国によって編成に重点の違いがある。

核弾頭数について2023年のデータでは、ロシアはICBM用を834発、SLBM用を640発、戦略爆撃機用を200発、それぞれ作戦配備する。広い国土に発射手段を分散できるので、ICBMが多い。鉄道上を走らせて、敵の対兵力攻撃をかわそうとするものもある。アメリカ合衆国は世界一の海軍国であり、SLBMが970発と最多である。日本を空襲したB-29以来、つちかわれた信頼性がある航空爆撃用の弾頭が300発、内陸部の地下サイロに格納されたICBMが400発、それぞれ配備されている。英仏はSLBMが中心である。国土が狭く、人口密度が高いゆえに、地上ミサイル発射基が対兵力攻撃された場合の人口へのダメージが恐いのであろう。他の保有国は配備はせずに、弾頭を貯蔵しているらしい。中国は陸海空軍用の弾頭を410発持つ。インド、パキスタン、イスラエル、そして北朝鮮は地上発射の弾道ミサイルを主力とする[10]

ここで挙げた国々が現在、核兵器を保有するとされる。保有国の数が増えていくことを核拡散と呼ぶ。古代ギリシャの神話で、プロメテウスが人類のために神から火を盗んだことが罪とされるのになぞらえ、禁断の行為とみなされる。核兵器不拡散の規範のために存在する政策と規則をまとめて核不拡散レジームと呼ぶ。

岩田修一郎は、核拡散を予防するための政策について整理する。彼によると、説得外交、経路妨害、軍備管理、そして国際圧力の手段がある[11]。このうち、NPT(核兵器不拡散条約)の維持・強化などの軍備管理、そして経済制裁などの国際圧力については、別の回で詳しく述べる。ここでは説得外交と経路妨害について解説する。

まず、説得外交とは、拡散が懸念される国に、持たないように説得することである。日本のような非保有国は、ODAの供与と引き換えに、持たないことを相手に約束させることができるかもしれない。しかし、ODAでは満たすことができない安全保障上の要求がある。積極的安全保証と消極的安全保証の要求は、応じられるのは核兵器保有国だけである。

積極的安全保証は、非保有国にたいする外部からの核攻撃に核兵器で報復する約束である。これは核の傘、あるいは拡大抑止、という言葉と非常に似ているが、同盟国だけに保証されるのでなく、すべての国に保証される。両者の違いは集団安全保障と集団防衛との関係に近い。

国連安全保障理事会の常任理事国はすべて核保有国であり、拡大抑止の責任があることを強調することをつうじて、自らの核保有を正当化してきた。1968年には、核兵器国と非核兵器国との不平等を固定するNPTへの署名が始まった。非核兵器国への攻撃に安保理は対応する、と約束する決議S/RES/255が決定されたのは、署名の半月前のことであった。自ら核武装しなくても守ってあげるので安心ですよ、だからNPTに入りましょう、という説得のための甘い言葉であった。NPTの無期限延長を決めた1995年にも、同様の内容を含む決議S/RES/984が採択された[12]

消極的安全保証は、核保有国が非核保有国との戦争では核兵器を使用しない、と約束することである。正直なところ、戦争中の敵に手加減してやるという約束は信じてよいものか疑わしい。とはいえ、核保有国が自分たちだけ核武装する後ろめたさを感じていることを示す一証拠である。1966年、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相が非核兵器国に消極的安全保証を与える提案を行った[13]。日本が1967年に発した非核三原則をこの提案は後押しし、一定の効果があった。NPTが無期限延長されるかの分かれ道にあった1995年、五大国は自らが攻撃された場合を除き、NPTの締約国である非核兵器国への核兵器不使用を保証すると声明した。

経路妨害とは、拡散が懸念される国に、核兵器そのものやその材料が移転されることを妨げることである。これは大きく輸出管理と輸送阻止に分けられる。輸出管理とは、核兵器関連品目の輸出を非合法にしてしまうことであり、日本の場合、外国為替及び外国貿易法により規制される。その大本にはNPTがあり、さらに有志の国による原子力供給国グループ(NSG)やミサイル技術管理レジーム(MTCR)がある。1974 年、インドが核実験をした翌年にロンドン会議が開かれ、その参加国を中心に1978年、核施設・核物質・核技術の供給国の間で同グループが発足した[14]

輸送阻止とは、大量破壊兵器とその運搬手段・材料の輸送を、拡散が懸念される国への経路上で阻止することである。現に、日本は「拡散に対する安全保障構想(PSI)」または「拡散防止構想」に参加し、他国とともに合同阻止訓練を行っている[15]。問題点は、公海上における疑わしい船への臨検である。なぜなら、臨検は武力の行使を伴う可能性があり、確実な証拠なく実行すれば、国際的な緊張が高まるからである。

不拡散の努力は決して小さくはないが、北朝鮮のようにそのハードルを越えてしまった国が現れている。そもそもロシアや中国から陸路で輸送されてしまえば、合同阻止訓練は無意味である。核兵器の廃絶が難しいのは、本気でそれを製造したり、隠したりしようと国家が決意すれば、できてしまうからである。

最後に、核拡散はむしろ好ましいという説もあるので、それを見る。

新現実主義学派の巨頭であり、アメリカ合衆国の国防界に多大な影響力を持ったケネス・N・ウォルツは冷戦後、論争に火を付けた。核拡散によって多極の国際システムにおいても戦争は起こりにくくなる、と主張したからである。

ウォルツの論理は、核戦争はリスクが大きく、誤算が起こりようがないので、抑止は必ず効く、というものである。かつての中国とソ連のように、国境を接した宿敵どうしでも核戦争が起こらなかったことがその根拠である。中国は国内で過激な政策を追求し、外国に対しても過激であったが、核兵器を使うリスクは知っていたので、それを使わなかった。他の独裁体制や軍事政権でも同じように核抑止は働くであろう、というのである[16]

しかし、核拡散がもたらすものは抑止だけではない。まず、非国家主体による核テロリズムの危険がヒロシマ・ナガサキの翌年に知られていたことはすでに見た。また、秘密裏に核保有をしていた国を通常兵器で攻撃してしまうという誤算は考えられないであろうか? やられた国は核兵器を使って反撃するであろう。さらに、個人としての人間は自殺をするのであるから、国家も例えば名誉や誇りのために、自殺的な核の奇襲をしないとはかぎらない。 最後に、あなたに問いかけたい。核武装が国家どうしの関係を疑心暗鬼にし、相互依存や交流を取り払ってしまう国際社会で本当によいのですか?


[1] 「アルベルト・アインシュタインからローズベルト大統領にあてた書簡」、山極晃、立花誠逸編、『資料 マンハッタン計画』、岡田良之助訳、大月書店、1993年、4ページ。

[2] ロバート・オッペンハイマー、『原子力は誰のものか』、美作太郎、矢島敬二訳、中央公論新社、2002年、156ページ。

[3] 山極、立花編、『資料 マンハッタン計画』、689-698ページ。

[4] カイ・バード、マーティン・シャーウィン、『オッペンハイマー 上 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』、河辺俊彦訳、PHP研究所、2007年、302ページ。

[5]  長谷川毅、『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』、中央公論社、2006年。

[6] アンドレイ・サハロフ、『サハロフ回想録』、上、金光不二夫訳、中央公論新社、2002年、293ページ。

[7] グレアム・アリソン、『核テロ 今ここにある恐怖のシナリオ』、秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳、2006年、262ページ。

[8] 石原莞爾、『最終戦争論』、中央公論新社、2001年、37ページ。

[9] Bernard Brodie, ed., The Absolute Weapon: Atomic Power and World Order (Harcourt: Brace and Co., 1946).

[10] ピース・アルマナック刊行委員会、梅林宏道編、『ピース・アルマナック2024―核兵器と戦争のない地球へ』、緑風出版、2024年、112-113ページ。

[11] 岩田修一郎、『核戦略と核軍備管理―日本の非核政策の課題』、日本国際問題研究所、1996年、172-173ページ。

[12] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年、131ページ。

[13] 黒崎輝、『核兵器と日米関係』、有志舎、2006年、82-83ページ。

[14] 黒崎、『核兵器と日米関係』、250-252ページ。

[15] “拡散に対する安全保障構想(Proliferation Security Initiative: PSI)の概要,” 外務省, January 9, 2026, https://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/n_s_ne/page24_000720.html, accessed on February 15, 2026.

[16] Scott D. Sagan and Kenneth N. Waltz, The Spread of Nuclear Weapons: A Debate (New York: W. W. Norton & Company, 1995), ch. 1, pp. 1-45.

プライバシーポリシー

© 2026 Ikuo Kinoshita

脱植民地化
https://youtu.be/NwOVM6vQIEU 植民地化の歴史は大航海時代にさかのぼる。港、鉱山、あるいは農園から収入を得たいという動機から、四百年の長きにわたり続いた。T・ウッドロウ・ウィルソンが民族自決を唱えて作られたベルサイユ体制さえ、トルコとドイツの植民地を戦勝国に山分けした。脱植民地化の起点は、国際連合憲章の採択まで時代を下らなければならなかった。今回のテーマは、国連憲章のもとにおける「自治」と「独立」の…
覇権の衰退
https://youtu.be/6YeeFFKYP-o 紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経…
ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
対外政策
単なる印象としての対外政策論 対外政策論はそれだけで一つの科目になる。意義も、内容もある。アメリカはこうだ、中国はそうだ、ロシアはああだ、日本はどうだ、と素人がやる。多くは的を射ている。 https://amzn.asia/d/0bhZiNbn プロがそれをやったらどうなるか?、というのがハロルド・ニコルソンの『外交』だ。ニコルソンはイギリスの外交官だが、紳士服のモデルのように見かけのよい人だ。まぁ外交官というものは見かけで説…
第二次世界大戦
https://youtu.be/DDg5DXORD3U 1918年、敗戦の報を聞いたドイツの兵士たちは、まだ戦えるのに祖国の反戦勢力に裏切られ、「背中を刺された」と信じた。しかし1945年には、ベルリンは瓦礫の山に、東京は焼け野原に変わり、両国民に戦う気力は残っていなかった。今回のテーマは、第二次世界大戦は何がいけなかったのか、あなたの考えを書きなさい、である。 第二次世界大戦中、世界は枢軸国・連合国・中立国に分かれた。このうち、…