軍縮は英語のディスアーマメントが訳されたものである。普通はアームズリダクションのこととされ、そちらはより明確に軍備を削減することである。現実に軍縮と称されるものは必ずしも量的に兵器・兵員の縮小を伴うものばかりでない。軍縮の例として引かれる1922年のワシントン海軍軍備制限条約は保有する軍艦の上限を定めただけであった。
広く軍備の規制をいうために、軍備管理(アームズコントロール)という表現がある。内容は多岐にわたり、兵器・兵員の量的な縮小・制限について使われるほか、質的なさまざまな措置が含まれる。毒ガスには、保有は禁止されないが、使用だけが禁止された時代があった。ミサイルの射程のように、性能の制限が合意されることもある。軍備管理の手始めに、武器・技術・材料の移転が制限されることは多い。非武装・軽武装地帯には、朝鮮戦争の休戦ラインなどがある。1980年代における米ソの軍縮交渉で「信頼せよ、されど検証せよ」が合言葉になったように、監視・査察・臨検などの検証が実効的な制限・縮小に伴わなければならない。白書による情報開示は軍備管理の第一歩である。
今回のテーマは、なぜ軍縮や軍備管理が必要であるか論じなさい、である。本題に入る前に、核兵器登場以前の実例を見る。
近代における最初の軍縮条約は1817年のラッシュ・バゴット協定とされる。本来ならばアルファベット順にバゴット・ラッシュ協定とすべきであろうが、この英米間の合意はアメリカ合衆国にとっての意義のほうが大きかった。当時は英米戦争が終わったばかりであり、今のカナダとアメリカ合衆国との長い国境線は定まらず争いの種であった。再度、戦争となれば勝敗の帰趨は軍艦数の優劣によって大きく左右される。五大湖岸の北と南に英米の大都市が散在し、また合衆国のシャンプレーン湖からカナダに攻め下ることが可能であったからである。
こうした状況下で、英米は軍事情勢の安定に相互の利益を見いだし、軍艦の保有量に上限を定めた。五大湖・シャンプレーン湖において軍艦を排水量100トン以下18ポンド砲1門のものに制限し、各湖における隻数を制限した。現在では、ラッシュ・バゴット協定はカナダとアメリカ合衆国との非武装国境を象徴する歴史的偉業とみなされる。
このように、成功した軍備管理は現状の固定化に当事国が利益を見出した時に行われる。逆に失敗した例は、いずれかが不満足な現状を無理に固定化しようとしたものである。
顕著な例はドイツの報復主義である。世界大戦に敗れたドイツは1919年のベルサイユ条約によって、陸軍は10万人以下、海軍は1万5千人以下に兵員を削減され、排水量1万トン以上の軍艦を建造することを禁止された。それはすべての国の軍備制限を可能とするためという名目のもとであったが、実際にはドイツだけに課された。
戦間期における軍備管理はことごとく悪かったわけでない。主な海軍大国を巻き込んで、ワシントン海軍軍備制限条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約が結ばれた。1925年のジュネーブ毒ガス議定書では毒ガスの使用が禁止された。
いよいよ懸案であった陸軍の削減を行うため、ジュネーブ一般軍縮会議が始まったのは 1932年である。英仏は軍縮するつもりは毛頭なく、自国の優位を維持することにこだわった。翌年、ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、一般軍縮会議から脱退した。ベルサイユ条約をほごにしてその再軍備が始まったのは1935年である。不平等な国際体制にたいする怒りがヒトラーを権力の座に押し上げた。
核兵器が登場する以前の軍備管理の歴史から分かることは、それが自国の立場を有利にしようとする政治の延長であったことである。成功した多くの事例では、双方が合意に達したのは現状維持を受け入れる用意があったからである。失敗した例では、相手にあまりに過酷な条件を押し付け、逆恨みにあう結果になった。悪い軍備管理も存在するが、良い軍備管理は追求するに値する。
なぜ、筆者は軍縮・軍備管理を勧めるのか? 論拠は大きく言って二つある。一つは戦争の惨禍、もう一つは軍拡競争の防止である。軍拡競争を防止する利点は四つに分けられる。第1に国際関係上の利点、第2に経済上の利点、第3に環境上の利点、第4に健康上の利点である。
戦争の惨禍については、核戦争のもたらす災いについて述べるのが近道である。広島では1945年のうちに14万人が亡くなった、と広島市は推計する[1]。長崎市が述べるところでは、死者の数を73,884人とするのが通説である[2]。多数の犠牲者を出したのは、致死性の高い熱線、放射線、そして爆風へと核爆発のエネルギーが形を変え、熱線による高熱火災が追い打ちをかけたからである。
こうした惨禍はGHQに占領されていた時代には隠された。1952年の主権回復後まもなく、前年に出版された体験集に基づく映画『原爆の子』が公開された。新藤兼人監督は原爆投下と原爆症の実態を生々しく描いた[3]。
国内に知識が行き渡るには、まだ足りなかった。1950年代には放射能に無頓着な『鉄腕アトム』というマンガが人気を博した。1954年の第五福竜丸事件も、恐怖を部分的に伝える一過性のニュースにすぎなかった。中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』が1973年から1983年まで刊行され、ようやく原爆投下の悲惨さは老若男女の常識になった。被爆国日本でさえ、である。
現代の大量破壊兵器はどのくらいの破壊力を持つのか? アメリカ合衆国の中規模都市に20キロトンの核兵器が使われたら4万人の死者が出る、という試算があるそうである[4]。広島と長崎より数が少ないのは、両市で火災を広げた木造家屋が少なく、人口密度が低いからである。
メガトン級の水爆では火球がはるかに大きいので、1発の被弾で桁違いの人々が命を失うであろう。現代の広島上空で1メガトンの威力の爆弾が爆発したら、37万2千人の死者が出るという推計があるそうである[5]。「政治の継続」、つまり何らかの対外的な目的を達成するための手段、としての核戦争というものは考えにくい。
惨禍を軽減するために、民間防衛というものが提案された。戦闘員、兵器、そして軍事施設の防衛だけでなく、非戦闘員を防衛しようとする計画である。1950年代末以降は家庭防衛としての地下核シェルターやその他の公衆核シェルターの設置が試みられたほか、疎開などの対策が計画された。核戦争が市民生活に与える影響を調査・研究する目的で、核実験さえ行われた。
現代の日本でも、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)に基づくJアラートという警報が北朝鮮によるミサイル/ロケット発射のたびに発せられている。核弾頭がミサイルに載せられていたら、警報を聞いた市民は核シェルターなしで爆発の猛威から逃げることができるであろうか?
惨禍は地球環境さえ変化させると考えられるようになった。核の冬という説が広まったのは1983年、核戦争後の世界という会議が催されたことがきっかけであった。その参加者で、売れっ子のサイエンスライターであったカール・セーガンら科学者によると、核戦争は長期にわたって世界の生物に大きな影響を与える。基準シナリオでは、総破壊力5,000メガトンの対兵力攻撃および対価値攻撃の影響がシミュレートされる。初期の熱線・放射線・爆風・火災の影響は1か月程度で収まる。しかし、暗黒・寒気・凍結・放射線・感染症は半年間から2年間、持続する[6]。地球上には、何十度も気温が下がる地点が現れると予測され、これが核の冬と喩えられた。
核の冬を描いたテレビドラマが『ザ・デイ・アフター』(1983年)である。放射能に覆われた大地では生きとし生けるものは病み、人々は絶望に打ちひしがれる。政府は惨状の把握さえできず、停戦した[7]。このドラマの影響は大きく、核戦争に勝者はいない、という命題は世界の常識になった。
つぎに、軍拡競争の防止について述べる。第1の観点は国際関係上のものである。軍拡競争の理論として有名なのはリチャードソン・モデルであるが、ルイス・F・リチャードソンは20世紀前半のイギリスの物理学者であり、反戦運動で知られるクエーカーでもあった。リチャードソン・モデルは微分方程式で表現される。A国(x)とB国(y)という2国で考えると、下のように表現できる。
dx/dt=ky-αx+g
dy/dt=lx-βy+h
t:時間、x:A国の軍事支出、y:B国の軍事支出、k,l:各国の防衛係数、α,β:各国の疲労感を表す定数、g,h:各国の悲願または野望
自国の軍事支出がどれだけ増えるか、つまり軍備拡張率、は基本的には現在における自他の軍事支出の比較から求められる。ライバルのほうが支出が多ければ増やさなければならないし、逆ならば減らすことができる。これを補正する係数・定数が三つある。第1に、ライバルの脅威にたいする防衛意識はどれだけ高いか。第2に、自国の現在の支出による経済的負担の疲労感はどの程度か。第3に、自国の悲願や野望が軍拡を後押ししているか、である。失地回復のためなら臥薪嘗胆もできるのであれば、軍備拡張率は高くなる。
リチャードソン・モデルが教えることは、「備え増やせば憂いなし」でも「備え減らせば憂いなし」でもない。安心感は彼我の相互作用による。
近年、日本の巨大な隣国、中国、の軍事支出の増大が著しい。モデルに従えば、日本の軍事支出を増加させる原因になる。ところが、実際のそれは2022年度まで著しい増大を見せなかった。日本の防衛費にはGNPやGDPの1パーセント以下という枠がはめられていたからである。
核軍拡競争についても、リチャードソン・モデルは当てはまりがよくないかもしれない。大量破壊の恐怖や核戦略上の必要は、微分方程式が表現する連続的な予算の増減には表れず、突発的・非連続的な急変をもたらすからである。ソ連の原爆実験を知ったアメリカ合衆国はNSC-68により軍事費を急上昇させた。ロシアのウクライナ侵攻がNATO・日本に同じ効果を与えている。
国際関係が悪化した歴史的な事例といえば、第一次世界大戦に至る英独建艦競争である。第二次シュレスビヒ・ホルシュタイン戦争(1864年)の結果、キール軍港を獲得したプロイセンは、海軍の充実に着手した。地政学的には、キール運河が1895年に開通したことは画期的な意味を持った。それはアメリカ合衆国にとってのパナマ運河に喩えることができる。バルト海と北海との間で外敵に妨害されずに艦隊を回すことができるようになったからである。
ドイツ海軍の強化を主導したのは1897年に海軍大臣に任じられたアルフレート・フォン・ティルピッツであった。翌年に第一次艦隊法、1900年に第二次艦隊法が成立し、世界に冠たるドイツを目指す野望は軍事支出を押し上げた。
19世紀における海の王者は言うまでもなくイギリスである。第2位の海軍国と第3位のそれが束になっても勝てるだけの軍艦を保有する二国標準主義を採用していた。そのころの2位はフランスで、3位はロシアであったが、ここにドイツが分け入った。
ドイツのキャッチアップにイギリスは大艦巨砲主義で応じ、1906年、戦艦ドレッドノートが竣工した。以後、これと同じ排水量の艦をド級、超えるものを超ド級と呼ぶ。さすがに二国標準主義は難しくなったので、対独6割優勢に修正された。第一次世界大戦の海上決戦になった1916年のユトラント沖海戦はイギリスの決定的勝利でなかったものの、ドイツ海軍は外洋に出られなくなり一定の成果を収めた[8]。
英独建艦競争は、ライバルの軍備の規模を見て軍事支出を決めるリチャードソン・モデルの予想と一致する。国家は敵側の同盟より優位に立とうと軍事支出を上げる。平和条約が結ばれ、野望のようなものが収まれば、軍備管理に参加して軍事支出を下げることが可能になる。
ワシントン会議は第一次世界大戦が終わって間もない1921年から1922年にかけて開かれ、海軍国はワシントン海軍軍備制限条約に合意した。主力艦の比率はイギリス、アメリカ合衆国、日本、フランス、イタリアの順に、5:5:3:1.67:1.67に決められた。
第二次世界大戦で英米を敵に回した日本の立場から見れば、日本と英米との比率は不公平であった。当時から、日本の海軍は将来の艦隊決戦を前提にして国策を練り、続くロンドン海軍軍縮条約の交渉では補助艦の対米7割を要求した。これが実現できないと、軍部は不満をあらわにし、ファシズムへの入り口を開いた5・15事件の原因を作った。冷静に考えよう。英米との軍備競争になれば、より多くの軍艦を造る経済的余裕があったのはアメリカ合衆国の側であった。軍縮をしようがしまいが、第二次大戦の勝敗は日米間における圧倒的な経済力の差がつけてしまった。
つぎに、軍縮・軍備管理の経済的な利点について述べる。バターと鉄砲、という有名な比喩では、社会全体の生産力は与えられていて、いかなる比率で民生品のバターと軍需品の鉄砲に配分するか、を決める[9]。国防にどれだけの費用をかけるか?、は、生命保険をどれだけかけるか?、と同じくらい難問である。他方、バターのような民生品には回せるだけ回すに越したことはない。
第一次世界大戦後、「我が国防費は国力不相当」と糾弾し、軍備制限を訴えた代議士がいた。憲政の神様とたたえられることになる尾崎行雄である。日本の軍事支出は大戦が終わっても増え続け、国民所得にたいしても、政府の歳出にたいしても、その占める割合は英米と比べて2~3倍に達した[10]。義憤を感じた尾崎は1921年2月に軍縮決議案を衆議院に上程した。
一、帝国の海軍軍備は、英米二国と協定して之を制限すること
一、陸軍軍備は、国際連盟規約に基き、之を整理緊縮すること
右茲に決議して、本院の意旨を表明す。
記名投票の結果、賛成38票、反対285票となり、247票差で否決されてしまった[11]。その後、アメリカ合衆国の提案によってワシントン会議が開かれ、海軍費は減少に転じた。陸軍費についても、山梨軍縮と宇垣軍縮が行われた。グローバルな考え方をした尾崎の言う通りの結果になったわけである。
核兵器についても、その開発・製造・配備には莫大な費用がかかることをスティーブン・I・シュウォルツという専門家が調べた。彼が1940年から1996年の半世紀を超える累計を調べ上げた結果、アメリカ合衆国政府予算における核兵器関連費は保健、教育、環境、農業などに費やされた金額より多かった。それは全軍事支出の29パーセント、全政府支出の11パーセント、合衆国全人口に分ければ一人あたり2万1千ドル(1996年のドルの価値に換算)、一ドル紙幣で積み重ねれば月まで1往復に近かった。巨額になったのは、わずか7パーセントしかかからなかった実際の爆弾・弾頭の開発・実験・製造のせいではなく、他の費用が膨らんだからである。航空機・ミサイル・潜水艦などの運搬システムに全体の56パーセント、核攻撃からの防衛(防空・ミサイル防衛・対潜戦・民間防衛)に16パーセント、指揮統制通信情報に15パーセントがかかった[12]。
軍備競争はどこか適当な水準に抑えておいたほうがよいことはまちがいない。冷戦終結後、年々の軍事支出は減少し、財政への負担が軽くなったことを平和の配当と呼んで歓迎した。21世紀になって、そうした風潮は弱まり、増加のトレンドに転じた国が多い。
軍縮の環境上、健康上の利点は、放射性物質を扱う核兵器の管理において群を抜く。マンハッタン計画において兵器級プルトニウムを生産したワシントン州のハンフォード・サイトでは、コロンビア川をはじめとする環境に放射性物質が漏れるとともに、放射性廃棄物が大量に残された[13]。
健康についても、核実験場の周辺にはさまざまな悲劇があったとさまざまな国で報じられている。あろうことか意図的に、悪質な人体実験が行われたこともある。アメリカ合衆国では、有害な放射性物質や放射線が環境に故意に放出されたり、人体に照射・注入・摂取されたり、といったことが本当にあった[14]。民主国でさえ行われるのであるから、核兵器の関わるところでは人権感覚は麻痺してしまうと考えるべきである。 以上の議論から、軍縮・軍備管理の目標を次のようにまとめることができる。至上命令は、世界大戦を起こさない、あるいは、大量破壊兵器を使った戦争を起こさない、である。努力目標は次の四つである。第1に、国際関係を軍拡により不安定化させない。第2に、経済的負担を軽くする。第3に、環境・健康問題を起こさない。第4に、いかなる戦争も起こさない。
[1] “死者数,” 広島市, February 15, 2025, https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/48/9400.html, accessed on February 15, 2026.
[2] “原爆の威力,” 長崎市, https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/iryoku.html, accessed on February 15, 2026.
[3] 新藤兼人、齋藤美和、北林谷栄、下元勉、伊藤武雄、伊福部昭、『原爆の子』、近代映画協会、1952年。
[4] 小都元、『ミサイル防衛の基礎知識』、新紀元社、2002年、195ページ。
[5] 梅林宏道編、『イアブック「核軍縮・平和2008―市民と自治体のために』、NPO法人ピースデポ、2008年、34ページ。
[6] カール・セーガン、パウル・エールリッヒ、ドナルド・ケネディ、ウォルター・オール・ロバーツ、『核の冬』、野本陽代訳、光文社、1985年、63ページ。
[7] John Lithgow, Jason Robards, JoBeth Williams, Robert A Papazian, Edward Hume, Nicholas Meyer, Steven Guttenberg, John Cullun, and American Broadcasting Companies dirs., The Day After, Roadshow Home Video distributor, 1983.
[8] 伊藤正徳、『軍縮』、春陽堂、1929年、130-131ページ。
[9] P・A・サムエルソン、『新版サムエルソン経済学』、上、都留重人訳、岩波書店、1981年。
[10] 小林龍夫、「海軍軍縮条約(1921年~1936年)」、『太平洋戦争への道 開戦外交史 1』、朝日新聞社、1987年、18-19ページ。
[11] 尾崎行雄、『軍備制限』、日本評論社、1929年、97-132ページ。
[12] Stephen I. Schwartz, Atomic Audit: The Costs and Consequences of U.S. Nuclear Weapons since 1940 (Washington D.C.: The Brookings Institution, 1998), pp. xxii and 5.
[13] エリック・ゲレ、『放射性廃棄物 : 終わらない悪夢』、ロール・ヌアラ共同制作、竹書房、2011年。
[14] Schwartz, Atomic Audit: The Costs and Consequences of U.S. Nuclear Weapons since 1940, pp. 425-426.
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