人は祖国のためなら命を捨てる。これは21世紀になっても変わらない。今回のテーマは、21世紀における武力紛争を例に挙げ、祖国を自衛するために使われる暴力において、戦闘員はどのような目標・手段・組織・理由を持つかについて論じなさい、である。
21世紀が始まった時、暴力といえばパレスチナ人の自爆テロであった。「イスラム原理主義組織」のメンバー、と言えばぎょうぎょうしいが、犯行そのものは個人的で、爆弾をベルトで体に固定し、上着を羽織っただけでユダヤ人の町にまぎれこみ、人ごみのなかで起爆し、殺傷する。
これは危険な行為である。まわりの人々とテロリストを見分けることは不可能である。自爆する前にテロリストを止める方法は、検問でみつけるか、分離壁で閉じ込めるかくらいである。目的地にたどり着いたら、TNT爆弾が群衆を吹き飛ばす。テロリストは十中八九、命を失う。命と引き換えにしてよい利益がどこにあるのか?
ヨルダン川西岸とガザはイスラエルに占領されている。国際法上、パレスチナ人の土地とされるが、将来の合意において、領土要求がすべて満たされるか分からない。
現在、占領地では自治が実施されている。イスラエルとパレスチナは1993年にパレスチナ暫定自治原則宣言、1994年にガザ・エリコ協定、1995年に暫定自治拡大合意、1997年にヘブロン議定書、1998年にワイ・リバー合意、1999年にシャルム・エル・シェイク覚書を結んだ。自治のエリアは狭く、パレスチナ側の権限は小さい。
パレスチナ自治政府は一つであるべきであるが、実際には二つに分裂している。ヨルダン川西岸地区を支配するのがファタハで、ガザ地区を支配するのがハマスである。ファタハはもはや戦う意思を失っている。
ハマスはオスロ合意後もしばしばイスラエルと戦火を交えた。後述のガザ戦争もそうした散発的な紛争と見る向きもあったが、同市を瓦礫の山に変えるほど徹底してイスラエルはガザ市街とハマスの組織を破壊している。イスラミックジハードとハマスはともにエジプトのムスリム同胞団に支援を受けた兄弟のような組織である。
三つの宗教の聖地であるエルサレムの旧市街は、実は西岸占領地の一部である。古代のユダヤ教神殿跡である西壁(嘆きの壁)とムハンマドが昇天した岩のドームは同じ神殿の丘にあるので、ユダヤ教とイスラムの礼拝者たちは日常的に緊張状態にある。キリスト教団体はそれを横目に礼拝をしている。
1967年までは旧市街西側の城壁が国境で、その東側はヨルダンの統治下にあった。イスラエルの主張では、東エルサレムはすでに併合したので自国の領土であり、首都の一部である。パレスチナ人の側は占領地からイスラエルは撤退しなければならない、と主張するが、それに応じる動きはない。東エルサレムには、ユダヤ人の入植地が次々と建てられている。
地図を見ると、占領地はコメ粒ほどの大きさである。しかし、2024年末には、パレスチナに住むパレスチナ人は549万人であった。自治区以外の西岸にいるパレスチナ人は完全にイスラエルの権威のもとにあり、人権を抑圧されている。難民を含む全世界のパレスチナ人は1,489万人いる。このうちアラブ諸国にいるのは640万人である。イスラエルの領土を1967年以前の境界内と解釈すると、そこには179万人が住む[1]。
これらとは別に、イスラエル領内のアラブ人がいて、人種・言語・文化的にはパレスチナ人と何ら変わるところはない。イスラエルの市民権は持つものの、「ユダヤ人国家」と憲法が規定する同国において疎外感を抱きながら生きている。
自爆テロはパレスチナ人にとって、イスラエル政府に譲歩を求める最後の手段である。もはやナセルも、サダトもいないので、外国の正規軍が中東戦争を戦ってくれることはない。
2023年10月、ガザ地区を支配するハマスは近隣のイスラエル領内を攻撃し、市民など千数百人を殺し、多くの人質をとった。ハマスとイスラエルとの戦闘は、2007年にハマスがガザを制圧してから数回、起きている。2026年の新年、パレスチナ側の死者は7万人前後と考えられる。祖国のためならば流血を辞さない人々がそれでもいる。
20世紀、自爆テロで有名であったのは、レバノンのヒズボラとスリランカのタミルイーラム解放の虎(LTTE)であった。インドではパンジャブのシク教徒とカシミールのムスリム、トルコではクルド労働者党(PKK)、ロシアではチェチェン人が自爆テロを行った。
21世紀の幕を開いたのはアルカイダの9・11事件であった。旅客機をハイジャックしてタワーに激突し、航空燃料の炎上によって被害を与える手法は「自爆」にはあたらないかもしれない。飛行機を激突させれば生還できないので「自殺テロ」と呼ぶことはできる。太平洋戦争における日本兵による「カミカゼ」の特攻は当然、テロリストは知っている。共通するものは愛国のメンタリティであろうか?
2003年からのイラク内戦は血なまぐささの極みであった。米軍、イラク人、国際テロリスト、そしてその他の外国勢力が入り混じった暴力は無秩序そのものであった。さらに無秩序な、国境を無視するイスラミックステイト(IS)の暴力は中東を越え、世界に広がった。
自殺テロの諸事例に共通の特徴があることを指摘したのは、ロバート・A・ペイプの『勝つために死ぬ―自殺テロの戦略的論理』である。自殺テロはイスラム原理主義が原因なのでない、という彼の発見は衝撃的であった[2]。なぜなら、テロリストの通俗的なイメージは自動小銃を振り回し、不敵に生還する狂信的なマッチョマンであり、殺害されるべき犯罪者であるからである。
現実の自殺テロリストたちが使うのはカーボム(自動車爆弾)やベルト爆弾である。現場にたどり着き、起爆すればよいだけであるので、女性や子供にも実行できる。自殺テロリストには世俗的なタミル人やクルド人のテロリズムもいるので、敵が異教徒でなければならないわけでないが、ペイプによると、宗教の違いがあるほうが自殺テロは広がりやすい。殉教者がたたえられる文化があれば、この傾向はさらに強くなる[3]。
自殺テロの目標は、民主国の外国軍を祖国から撤退させ、占領を終わらせることである、と『勝つために死ぬ―自殺テロの戦略的論理』は論じる。占領とは、外国軍が国土を支配していることである。それへの抗議によって自国民が命を失えば、民主国のメディアは報道し、世論が政府を動かすことがある。流血によって厭戦的になった国民は占領を続ける政府を支持しなくなるからである。つまり、自殺テロとは、民主国の占領軍に撤退を強制する戦略である、とペイプは結論する。非民主国は自殺テロに動じにくいので、s効果は薄い[4]。
アメリカ合衆国の政策への意見をペイプは述べる。サラーフィズムはイスラム原理主義の一種であり、7世紀にアッラーからムハンマドに示されたクルアーン(コーラン)を文字どおり実践することを説く。米軍がアラビア半島に存在することは、サラーフィズムにとっては許せない。ウサマ・ビンラディンの出身地であるサウジアラビアは合衆国の同盟国であるが、国教はサラーフィズムのワッハーブ派である。米軍の駐留は次々と新しい世代のテロリストを生む。逆に、そうした国からアルカイダ・ネットワークがリクルートできなくなれば、脅威は減少するであろう。現世代のテロリストは撲滅する必要があるものの、新世代のテロリストを生まないためには、米軍は現地に足を踏み入れず、外部から諸勢力間のバランスを操る外交が最善である[5]。ペイプの処方箋は20年間、アメリカ合衆国が苦しんだ自殺テロを終わらせる秘訣であった。
イスラム原理主義、またはイスラム主義、は、クルアーンはじめイスラムの経典を絶対的なものと信奉し、厳格に実践しようとする運動、と定義できる。サウジアラビアの王家と関係が深いワッハーブ派もその一つであるが、ここではアルカイダに影響を与えたクトゥブ主義について見る。
サイード・クトゥブは20世紀にエジプトで活動したムスリム同胞団の理論家であった。主著「道しるべ」はアルカイダやイスラミックステイトの運動に理論的な支えを与えた。イスラム運動の目標は、自分たちの信仰・生活様式・共同体を守るだけでなく、全人類に向けて実践することである、と「道しるべ」は記す[6]。
クトゥブの唱える運動の問題点は排他性にある。他宗教との共存や世俗国家の主権が許される余地はない。なぜなら、シャリーア、つまりイスラム法、があらゆる法に優越するからである。クトゥブの言葉を引用する。
シャリーアはアッラーを根拠としており、それが最高の善であることは明白である。被造物による法は、創造主が定めた聖法と比較になるはずもない。シャリーアが最高の善であることが、人々にイスラームへの完全な帰依を呼びかける理由なのではない。イスラームの啓示の根本は、シャリーアを何の疑問もなく受け入れ、他のすべての法を放棄することである。それがイスラームなのだ。それ以外にイスラームはない[7]。
クトゥブの思想を文字どおりに受けとめれば、全世界がイスラム国家になるまでジハードは続く。9・11事件はこうしたイメージを与えたがゆえに、世界を恐怖におとしいれた。
クトゥブ主義とアルカイダとは、実際、無関係でなかった。エジプト生まれのアイマン・アル・ザワヒリはもともとクトゥブ主義者で、アルカイダのナンバー2であり、ビンラディンの後継者になった。エジプト生まれという点では、ワールドトレードセンターに突入した実行犯のムハンマド・アタもいた。ビンラディンは母国サウジアラビアに米軍が駐留していることに憤り、アルカイダを設立したが、エジプト人にとっても、サウジアラビアはイスラムの祖国であって、米軍を撤退させねばならなかった。アルカイダが主な敵としたのはイスラエルではない。
アラビア語でアルカイダは「基地」の意味である。フランチャイズやのれん分けのように、アルカイダはいくつもの地方組織を派生した。イラク・アルカイダ機構はイラク戦争後に強大化した。指導者のアブムサブ・アル・ザルカウィは米軍に殺された。アラビア半島のアルカイダはイエメンを拠点としたが、指導者アンワル・アル・アウラキもまたアメリカ合衆国に殺された。イスラム・マグレブ諸国のアルカイダはサハラ砂漠を越え、その南で活動するボコハラムを支援した。ほかにも、インドネシアのジェマーイスラミア、カシミールのラシュカレトイバ、そしてソマリアのアルシャバーブとアルカイダは協力した。
ビンラディンこそ、世界各地のムジャヒディンたちをネットワークにまとめあげた革新者であった。サウジアラビアの王家ともつながる豊富な資金力はもちろん、インターネットでの動画配信をはじめとしたテクノロジーの活用がジハードのグローバリゼーションを可能にした。
ウサマ・ビンラディンは米軍をペルシャ湾岸から撤退させるために9・11事件を起こした。アメリカ合衆国はテロリストを無力化するためにアフガニスタンを攻撃した。対テロ戦争はさほど難しくない正当なミッションと考えられた。ドナルド・ラムズフェルド国防長官は攻撃対象をイラクにまで広げようとしつこく主張したが、この意見は受け入れられなかった[8]。
2001年12月にアフガニスタンの暫定政権が発足し、翌年6月のロヤジルガで移行政権の大統領に選ばれたハミド・カルザイが年末に大統領に正式就任した。対テロ戦争への批判として知られるマイケル・ムーア監督の映画『華氏911』が公開されたのは、ようやく2004年であって、それとて戦争目的自体を批判したわけでなかった[9]。
泥沼化したアフガニスタンを理解するには、それが脆弱国家であることを理解しなければならない。2006年から、脆弱国家インデックス(旧破綻国家インデックス)はつねに10位以内にこの国をランクさせている[10]。アフガニスタンには人種・言語・宗派の亀裂があり、エスニック集団がパシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、そしてハザーラ人に分かれている[11]。
対テロ戦争の当初、米軍は北部同盟を操り、巧妙に戦争を遂行したようにみえた。パシュトゥン人中心のタリバン政権に対し、タジク人・ウズベク人・ハザーラ人が結集したのが北部同盟である。米軍が矢面に立たなければ、現地人に侵略と見なされない、とラムズフェルドは考えた[12]。
日本人が知るカルザイ大統領は、民族衣装の帽子と口・顎のヒゲがおしゃれな優しそうなおじさんであった。最大の人口を擁するパシュトゥン人で、滞米期間が長く、英語がうまい。彼をシンボルに国際的な支援を受けた民主的なアフガニスタンには明るい未来が約束されたように思われた。
タリバンという最大の問題は解決されていなかった。それはソビエト連邦による侵攻と戦うため、パキスタンの諜報機関に支援されたパシュトゥン人のイスラム学生が母体であった。1996年にカブールを制圧し、政権を建てた。ビンラディンが客人としてアフガニスタンに移住したのはそのころであった。タリバンはイスラム原理主義に基づく不寛容な政策を実行し、バーミヤンにそびえる大仏を爆破したり、女性の権利を弾圧したりした。国連難民高等弁務官であった緒方貞子の回想を引く。
タリバーンがアフガニスタンの町や都市を支配下に治[ママ―引用者]めると、即座にイスラム法にのっとった勅令に従うよう厳格に強要した。カブールの国連事務所で起きたナジブラとその実弟のむごたらしい処刑方法が示すように、残虐な力でタリバーン流の規律を徹底したのである。女性の就労を禁じ、女子校や女子大学を閉鎖した。テレビ、ビデオ、音楽、ゲームは禁止された。タリバーンの宗教警察はシャリアの教えを徹底するために残酷な懲罰を科した[13]。
タリバンもまたアメリカ合衆国による追討の対象であったが、パキスタンとは戦略的パートナーであった。パキスタンの北西部にもパシュトゥン人が住み、分離運動が起きれば、パキスタンの存立が危機に見舞われるからである。
パキスタンにおけるタリバンの行為で有名なのは、マララ・ユスフザイという少女への銃撃である。彼女は九死に一生を得て、2014年にノーベル平和賞を受賞した。なぜ彼女が目の敵にされたかといえば、女性が教育を受ける権利を主張してはばからなかったからである。
女性の社会進出はアメリカ合衆国がアフガニスタンで実施した最も野心的な政策であった。タリバンはシャリーアを理由にしてそれに反対し、隣国でマララ・ユスフザイに行ったようにテロリズムを繰り返した。それはペイプが指摘した「勝つために死ぬ」戦略の忠実な実践であった。フェミニズムとイスラム原理主義とは最悪の組み合わせであり、アフガニスタンの治安を悪化させた。
2009年、バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領に就いた。彼と副大統領のジョー・バイデンは自国のこれまでの政策を疑っていた。テロリストのアルカイダとタリバンを殲滅する目標は、多くの民間人を巻き添えにしていた。民主的な近代国家を建設する目標はイスラム原理主義者の戦闘意欲を刺激し、普通の民間人には理解されなかった。カルザイ大統領の権力は首都周辺にしか及んでおらず、政府は腐敗にまみれていた[14]。
米軍をアフガニスタンに駐留させる目標をオバマ大統領は見直し、タリバンの殲滅は断念してアルカイダの殲滅に絞ることにした。理由は、パキスタンがタリバンへの支援を決してやめないからである。駐留軍のスタンリー・A・マクリスタル司令官はさらに兵士を送るように求めたものの、それでは資金がいくらあっても足りなかった[15]。
タリバンと共存する、ということは、イスラム原理主義との関係をどうするか考え直さなければならないことを意味した。フェミニストのヒラリー・クリントン国務長官は反政府活動の鎮圧を続けるように主張した。それをやめたらどうなるか? 「女性が得た利益は消滅し、国連は追い出される」と彼女は予言した[16]。
ビンラディンのゆくえは杳として知れなかった。CIAはトラボラというパキスタンとの国境地帯に彼が隠れていると考え、探索した[17]。就任して4か月後、オバマは賢明にも追跡を最優先課題とし、部下に30日ごとに進捗を報告させた。翌年の9月、なんとパキスタンの首都イスラマバードの郊外にあやしい人物が住んでいる、とCIAは報告した2011年5月、米軍特殊部隊はこの邸宅を襲撃し、ビンラディンを殺害した[18]。
ビンラディンの殺害後も2021年まで米軍はアフガニスタンに駐留した。タリバンとの和平に踏み切ったのはドナルド・J・トランプ大統領であった。撤退は次のバイデン大統領のもとで実現した。彼は非難を浴びなければならなかったが、ロバート・A・ペイプの説くように、自殺テロは起きなくなった。世俗的なアフガニスタン政府は逃げ出し、タリバンが首都カブールを制圧した。イスラム原理主義が復活し、女性の社会進出は弾圧された。国際社会は、タリバンがアルカイダやイスラミックステイトと手を組まないか、常軌を逸した殺戮をしないか、注視している。
対テロ戦争の遂行が順風満帆で、イラクを次の標的にジョージ・W・ブッシュ(子)政権がすえたころに時間を巻き戻す。
イラク戦争ほど不思議なものはない。CIAは「悪の枢軸」イラクに大量破壊兵器が「スラムダンク」くらい確実に存在すると保証したのに、それは見つからなかった。「古いヨーロッパ」のフランスとドイツも、国際連合も、支持してくれなくてかまわない、と自信たっぷりに乗り込んだイラクでアメリカ合衆国は占領に失敗した[19]。そういったおかしなエピソードをつなげた映画がオリバー・ストーン監督の『ブッシュ』(2008年)であった[20]。対テロ戦争から生じた慢心が原因で、既成事実を突きつければ世界は追認するであろう、と彼らは高をくくっていた。ブッシュ自身は「だれも嘘をついていない。全員が間違っていただけだ。」と反省の色もない[21]。
2003年3月に始まったイラク戦争において、目立った抵抗はサダムフェダイーンというゲリラによるものだけで、5月までに戦闘はやんだ。8月にバグダッドの国連事務所が爆弾テロで吹き飛ばされたものの、深刻な情勢とは考えられなかった。サダム・フセイン大統領は12月に拘束され、数年後に処刑されることになる。大量破壊兵器はなかったが、フセインを打倒し、民主主義を定着させれば、戦争は正当化される……とブッシュ政権は期待していた[22]。
2004年、イラクが脆弱国家になったことが分かってきた。脆弱国家インデックスによると、イラクは2012年まで10位以内にランクされた[23]。エスニック集団と中央政府についての状況はアフガニスタンとそっくりであった。北部はクルディスタンであり、クルド人の自治政府が支配する。南部は最大の人口を持つシーア派の居住地域である。中部には首都バグダードのほか、サダム・フセインの出身地ティクリートがあり、スンナ派の拠点である。
アフガニスタンでタリバンが排除されたように、イラクではサダム・フセインの与党バース党を排除する脱バース化が図られ、5万人近いエリートが野に放たれた。同じく2003年5月、イラク軍も解散され、数十万人の戦闘員が野放しにされた[24]。決定の背景に、日本では公職追放のおかげで民主化と繁栄が成し遂げられた、という誤解がアメリカ側になかったであろうか? 真実は、大半の日本人は昭和天皇の「聖断」に従い、恭順であっただけであった。
2004年6月にイラクの主権が回復されると、多数派であるシーア派の人物たちが首相になった。特に、2006年に就任したヌリ・アル・マリキは8年以上にわたり政権を担った。政情が安定化したわけでない。スンナ派の疎外感はむしろ増してしまった。
こうして、不満勢力は増えたのに、脱バース化と国軍解散によりイラク政府の能力は低下した。米軍は勝利の慢心から、予定されていた9万人の追加兵力を送らないでいた。治安の悪化は2004年に始まった。反乱にイラク軍の元将校が加わり、激化した。駐留軍が増派を要求しても、ワシントンDCの反応は鈍かった[25]。
反乱の火に油を注いだのはイラク・アルカイダ機構の参戦であった。抑圧されたスンナ派がテロリストの供給源になった。2006年、米軍戦闘機がザルカウィを空襲し、イラクの特殊部隊を指揮していたマクリスタル司令官自ら命中を確認した。社会を荒廃させるだけのアルカイダは住民の支持も得られなかった。ようやく増派が始まった米軍といっしょになって、アンバル州の住民はアルカイダを追放した[26]。
2007年にブッシュ政権はイラクの内戦を終わらせる決意をした。駐留軍のデイビッド・ペトレイアス司令官が増派の戦略を練った。これが功を奏し、ブッシュ大統領は米軍撤退の期限を2011年末にするとマリキ政権と合意した。ペトレイアスは、撤退したら反乱が盛り返すという意見であった[27]。イスラミックステイトの勃興は、彼の正しさを一部、証明した。
2013年に21世紀の戦争は転換点を迎えた。ウラディミル・プーチンがロシアの大統領になり、地政学的な台風の目となった。2008年にジョージアの領土である南オセチアとアブハジアを占領したことが、ロシアへの不信感をアメリカ合衆国に与えていた。オバマ大統領はそうした対立を「リセット」し、協力関係を築くことを呼びかけた[28]。しかし、プーチンは別のことを考えた。
米ロの新たな対立はシリアから始まった。2011年のアラブの春により、バッシャール・アル・アサド大統領に対して民主化を求めるデモが始まった。中央政府の権威が失われて政情が不安定になり、エスニック集団間の内戦になった。アフガニスタンやイラクと同じである。シリアでは、最多数派はスンナ派アラブ人であり、少数派のアラウィー派にアサド自身は属した。北部にはクルド人が割拠した。
脆弱国家インデックスで、シリアは2015年から10位以内に転落した[29]。内戦が始まるまではアサド親子は鉄壁の独裁体制を築いていたのである。脆弱国家に落ちた理由は、国際関係のストレスにあったであろう。
アサド政権を支持するのはプーチンのロシアとシーア派のイランであった。アラウィー派とシーア派はともにスンナ派と対抗関係にあるからである。他方、反政府の自由シリア軍は欧米とトルコが支援した。自由シリア軍とアサド政権との内戦は米ロの代理戦争であり、紛争は長期化した。
2013年にはアメリカ合衆国が本格介入する寸前に至った。8月にアサド政権が化学兵器のサリンを使い、多数の死傷者が出た。バラク・オバマ大統領は攻撃をほのめかしたものの、ロシアは化学兵器を国際監視下で廃棄することを提案した。オバマは同意し、9月27日に国連安保アサドはS/RES/2118を決議し、危機は去った。
イスラミックステイトと称する集団が突然、現れた。前身はイラク・アルカイダ機構であった。内戦下のシリアで生まれた武装勢力を吸収し、両国にまたがる広大な土地を実効支配した。ISIS(イラクとシリアのイスラミックステイト)やISIL(イラクとレバントのイスラミックステイト)とも呼ばれた。
イスラミックステイトのイデオロギーは大胆にも主権国家システムを否定する。2014年6月、国家樹立を宣言し、指導者アブバクル・アル・バグダディはカリフに即位した。この国家を承認する国は現れていない。最盛期の首都はシリアのラッカであった。通貨ディナールを発行し、徴税もした。かつてはクウェート人やサウジアラビア人からの寄付に頼っていたとも言われるが、イラクの油田を勢力下に収め、独自の収入源を得た。
イスラミックステイトはサラーフィズムに従い、シャリーアを厳格に実施した。それは国際法を守らないということでもあり、人道法と戦争法に違反する野蛮な行為が頻発した。キリスト教徒の弾圧やヤジディ教徒女性の奴隷化が報告された。日本人2名が現地で斬首された。
歴史的文化財の破壊は戦闘行為中でないなら国際法違反でないとも考えられるが、国際道徳に反する行為と言うことはできる。2015年、世界遺産のパルミラ遺跡を爆破する画像をイスラミックステイトは公表した[30]。
急速な勢力拡大の裏には、外国人戦闘員が世界中からはせ参じたこともあった。2014年の国連安保理決議S/RES/2178は外国人テロリストの移動を取り締まることを加盟国に課した。2週間後、日本の警視庁公安部は、大学生がシリアに渡航して戦闘に参加することを計画したとし、私戦予備・陰謀容疑で彼を捜査した[31]。イスラミックステイトという破天荒なテロ組織にロマンチックな思い入れを持つ者は多かったようである。
諸国家から成る社会において、イスラミックステイトは孤立無援であった。2014年末、オバマ大統領が空爆を決断したのは、虐殺を予防するための人道的介入であった。地上では、現地のクルド人勢力が米軍のパートナーになった[32]。クルド人の支配地がイラクとシリアの北部で強化される結果になった。
トルコとロシアはクルド人勢力の拡大に危機感を抱いた。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、国内のクルド人が国境を隔てた同胞に刺激され、独立運動を強めるのでないか、と警戒した。ロシアは、アサド政権がクルド人によって弱体化されるのでは、と心配になった。2015年になって、トルコとロシアは米軍の後を追ってイスラミックステイトへの攻撃に参加した[33]。ロシアの援助を得たアサド政権は自由シリア軍を攻撃し、勢力を挽回できた。トルコもシリア北部への影響力を強め、クルド人テロリストとの協力をやめるようアメリカ合衆国に迫った。
アメリカ合衆国は民主主義をシリアとイラクに押しつけるつもりはなかった。その一方で、2017年と2018年に化学兵器を使ったアサド政権を懲らしめるために武力を行使した。ついにイスラミックステイトの指導者バグダディを殺害し、駐留の成果を上げたのは2019年であった[34]。
ホワイトハウスがイラクとシリアに居残った目的はイランの牽制であった。特に、イラク政府は米軍がいなくなれば全面的にテヘランに依存するであろう。これに次ぐ目的はクルド人の保護であった。トルコ、シリア、イラク、そしてイランはクルド人を倒す機会を手ぐすね引いて待っていた。さらに、アルカイダやイスラミックステイトといったテロリズムの種火も、いつ再燃するか知れなかった。
アサド政権が2024年に倒れたのは、ロシアがウクライナで手いっぱいになり、支援が得られなくなったからである。バッシャール・アル・アサドはロシアに逃げ、半世紀を超えるアサド家の支配は終わりを告げた。
ウクライナは人口4千万人を超え、本来ならば脆弱国家に分類されることはない。脆弱国家インデックスでは2023年に前年の92位から18位に落ちてしまった[35]。欧米とロシアのはざまに置かれた地政学的なストレスが、隠れていたこの国の亀裂を開いたのである。
現在のウクライナ領土は寄せ木細工に似て、第二次世界大戦までは東部はソ連領で、西部はポーランド領であった。冷戦中にクリミア半島が管内に入った。クリミアの軍港は冷戦後、ロシアが使うことになったが、将来も使い続けるのか?、が両国間の係争点となった。
独立時には希望に満ちたウクライナの進路であったが、20年を経過してみると、親欧米派と親ロシア派との争いで政治の不安定化は経済の足かせになっていた。
2014年に親ロシア派のビクトル・ヤヌコビッチ政権が崩壊した事件はマイダン革命と呼ばれる。EUとの連合協定に対する政権の態度への不満から、親欧米派がデモを行い、市街戦へと発展した。首都キーウは親欧米派が支配することになったものの、親ロシア派はクリミアとドンバスで巻き返しを図り、ロシアがそれを支援した。
ロシアの特殊部隊はクリミアを占領した[36]。半島の住民は大多数がロシア語を話す一方で、ムスリムであるクリミアタタール人が少数、存在する。住民投票でロシアへの帰属を支持する票が多数を占めると、親ロシア派が支配するクリミアは独立を宣言し、ロシアに編入された。プーチンは味を占めたであろう。
クリミアをめぐる一連の行動は国際法上、違法とされる。ロシアに綿密な計画があったわけでなく、ヤヌコビッチ大統領の逃亡から編入まではプーチンと側近がなりゆきまかせで決めた、とされる。親ロシア派は編入は当初、求めていなかったが、プーチンの示唆によって方針転換をした。彼はコソボがセルビアから独立した事例を引き合いに出した[37]。ロシアはコソボの独立を認めたか?、といえば、認めていない。二重の基準を平然と使い分けるのがプーチンのやり方である。
マイダン革命後、クリミアとともに、ウクライナ東部で親ロシア派が立ち上がった。ドネツクの町を中心としたドンバスと呼ばれる地域はロシアと経済関係が深く、ロシア語が支配的に話される[38]。住民はロシア人か?、ウクライナ人か?、ということは問題でない。遺伝子や形質にさしたる生物学上の違いはないはずである。宗教上の違いについては、ウクライナの正教会がロシア正教会から独立するかが争点であったという[39]。典礼での使用言語に関わるので、小さな問題とはいえないが、神についての異なる解釈をめぐり対立したわけでない。
ドンバスの親ロシア派も独立を宣言し、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を称した。ウクライナはこの反乱を鎮圧しようとしたが、ロシアが親ロシア派を援助したため、成功しなかった。両当事者は2014年と2015年の2度、ベラルーシのミンスクにおいて合意に達し、停戦に入ったが、小規模の交戦はなくならなかった。ウクライナとロシアとの係争点はドンバスの自治を大幅に認める連邦化であり、ロシアも二つの人民共和国の独立を承認しなかった。
8年後の2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。これも不思議な戦争である。プーチン大統領が「特別軍事作戦」と呼んだ戦争は、電撃的にキーウを落とし、ボロディミル・ゼレンスキーの政府を転覆するつもりであったとされる。ハンガリー動乱、プラハの春、ジョージア侵攻、そしてクリミア併合とソ連/ロシアの歴史には類似の作戦が散見される。既成事実を作り上げてしまえば、核兵器を持つ大国の行動を覆すことはできないという自信のなせる業である。
プーチン大統領がウクライナ戦争を始めるにあたって挙げた理由は三つある。一つはNATOへのウクライナの接近という地政学的な理由である。つぎに、ドンバスでジェノサイドが行われているという主張である。最後に、ウクライナのクリミア奪回計画である[40]。
侵攻の直前、ロシアはドンバス2共和国の独立を承認し、同盟条約を結んだ。キーウへの奇襲が失敗すると、兵力をドンバスに集中し、同地域を含む占領地の併合手続きを行った[41]。こうした観察からは、ドンバスを中心とした領土の獲得が戦争の目的でないか、と仮説が立てられる。
筆者は、プーチン大統領はドンバスの併合以上の目的で戦争を始めたと考える。戦争前の2021年、彼は「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と題する論文を発表した。それを読むと、ウクライナが独立の国民国家であることを彼が否定していることが分かる。
ウクライナの真の主権は、ロシアとのパートナー関係にあってこそ可能であると確信している。我々の精神的、人間的、文明的な結びつきは、数百年にわたって形成されてきたのであり、一つのルーツにさかのぼり、共通の試練、偉業、勝利によって強められてきた。我々の同族性は世代から世代へ受け継がれている。それは、現代のロシアとウクライナに暮らす人々の心と記憶の中に、何百万もの我々の家族を結びつける血の絆の中にある。これまでも、そしてこれからも、我々はいつもともにあり、何倍も強くなり、成功していくだろう。なぜなら、我々は一つの民であるのだから[42]。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、ひるまずロシア軍の侵攻に対して迎え撃った。ウクライナ人にとってこの戦争は、国民国家として祖国を守る覚悟が問われる試練である。
[1] Europa World Year Book, 66th ed., vol. 3 (London: Routledge, 2025), p.3516.
[2] Robert Anthony Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism (New York: Random House, 2005).
[3] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.
[4] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.
[5] Pape, Dying to Win: The Strategic Logic of Suicide Terrorism.
[6] サイイド・クトゥブ、『イスラーム原理主義の「道しるべ」 発禁”アルカイダの教本”全訳+解説』、岡島稔、座喜純訳、第三書館、2008年、90-91ページ。
[7] クトゥブ、『イスラーム原理主義の「道しるべ」 発禁”アルカイダの教本”全訳+解説』、46ページ。
[8] ボブ・ウッドワード、『ブッシュの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2003年、182ページ。
[9] Michael Moore, Jim Czarnecki, Kathleen R. Glynn, James Addison Baker, Al Gore, Thomas Daschle, George W. Bush, et al., Fahrenheit 9/11, Columbia TriStar Home Entertainment, 2004.
[10] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.
[11] 永田雄三、加賀谷寛、勝藤猛、『中東現代史I』、山川出版社、1982年、317-318ページ。
[12] ドナルド・ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、江口泰子、月沢李歌子、島田楓子訳、幻冬舎、2012年、438ページ。
[13] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、335ページ。
[14] バラク・オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、山田文、三宅康雄、長尾莉紗、高取芳彦、藤田美菜子、柴田さとみ、山田美明、関根光宏、芝瑞紀、島崎由里子訳、Kindle版、集英社、2021、294-296ページ。ボブ・ウッドワード、『オバマの戦争』、伏見威蕃訳、日本経済新聞出版社、106-107ページ。
[15] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、572ページ。バラク・オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、山田文、三宅康雄、長尾莉紗、高取芳彦、藤田美菜子、柴田さとみ、山田美明、関根光宏、芝瑞紀、島崎由里子訳、Kindle版、集英社、2021年、Kindleの位置No.2651-2668、2771-2808。ウッドワード、『オバマの戦争』、516-517ページ。
[16] ウッドワード、『オバマの戦争』、154ページ。
[17] ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、473-474ページ。
[18] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、Kindleの位置No.8143-8180、8615-8616。
[19] ボブ・ウッドワード、『攻撃計画』、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2004年、114、203-204、247-248、322、369-370、385ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、523、529ページ。
[20] Stanley Weiser, Oliver Stone, Bill Block, Eric Kopeloff, Paul Hanson, Moritz Borman, Phedon Papamichael, et al., W., Lionsgate, 2009.
[21] ジョージ・W・ブッシュ、『決断のとき』、下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2011年、64ページ。
[22] ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、546-547、581ページ。
[23] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.
[24] ボブ・ウッドワード、『ブッシュのホワイトハウス』、上、伏見威蕃訳、日本経済新聞出版社、2007年、294-297ページ。
[25] ウッドワード、『ブッシュのホワイトハウス』、下、26-27、94-95ページ。
[26] ブッシュ、『決断のとき』、下、238ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、792、800-802ページ。
[27] ブッシュ、『決断のとき』、下、246-247ページ。オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、上、296-300ページ。ラムズフェルド、『真珠湾からバグダッドへ ラムズフェルド回想録』、819-820ページ。太田順尚、「イラク米軍が戦闘任務終了 マリキ首相 「主権と独立得た」 政情安定には課題山積」、『日本経済新聞』、朝刊、2010年9月1日、インターネット版。
[28] オバマ、『約束の地 大統領回顧録1』、下、Kindleの位置No.3310-3316。
[29] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.
[30] 押野真也、「「イスラム国」パルミラ爆破画像公開 シリアの遺跡」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年8月26日、インターネット版。
[31] 「イスラム国参加を企てか 北大生「戦闘員として」警視庁任意聴取 私戦予備・陰謀容疑 関係先を捜査」、『日本経済新聞』、朝刊、2014年10月7日、インターネット版。
[32] 吉野直也、「米、イラク限定空爆承認 大統領「過激派の虐殺防止」 」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年8月8日、インターネット版。吉野直也、「米、シリアに空爆拡大 大統領表明 「イスラム国を壊滅」有志連合づくり主導」、『日本経済新聞』、夕刊、2014年9月11日、インターネット版。
[33] 佐野彰洋、「対「イスラム国」有志連合参加 トルコ、クルド勢力を意識 台頭に危機感、方針転換」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年8月26日、インターネット版。古川英治、「ロシア「イスラム国」空爆 混迷、一段と深まる恐れ」、『日本経済新聞』、朝刊、2015年10月1日、インターネット版。
[34] ジョン・ボルトン、『ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日』、梅原季哉、関根光宏、三宅康雄訳、Kindle版、朝日新聞出版、92-100、331-332ページ。
[35] “Country Dashboard,” The Fund for Peace, https://fragilestatesindex.org/country-data/, accessed on February 4, 2026.
[36] 松里公孝、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、Kindle版、筑摩書房、2023年、209ページ。
[37] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、202、210-214ページ。
[38] 田中孝幸、「ウクライナ東部、クリミアとの違いは 自治要求、編入支持は少数 経済面でロシアと密接」、『日本経済新聞』、朝刊、2014年4月16日。
[39] 高橋沙奈美、『迷えるウクライナ宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』、扶桑社、Kindle版、215ページ。
[40] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、398ページ。
[41] 松里、『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』、389-390、396-397、408ページ。
[42] ウラジーミル・プーチン、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」、2021年7月12日、原口房枝訳、池上彰、佐藤優、『プーチンの10年戦争』、Kindle版、東京堂出版、296ページ。
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