なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。

いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]

共産主義の波は北ベトナムまで南下していた。南ベトナムに防波堤を築いて、その洪水を防ぐことが必要である、と大統領は考えた。当時、終わったばかりの朝鮮戦争では、半島の真ん中で共産主義の波を止めることに成功した。終わってみると、南ベトナムの首都サイゴンは波に飲み込まれ、カンボジアとラオスまで共産化してしまった。この結末からアメリカ合衆国は何を学んだのか? 今回のテーマは、ベトナム戦争の結末とキッシンジャー外交の関係について論じなさい、である。

インドシナ半島の東側を植民地支配していたフランスは1954年、ディエンビエンフーにおいて敗退した。北ベトナムと南ベトナムという分断国家が生まれた。前者は社会主義で、後者は自由主義である。南では、「ベトコン」とあだ名が付けられる南ベトナム民族解放戦線が1960年に結成され、テロリズムとゲリラ戦を開始した。南ベトナムの政情は混乱し、ゴディンディエム大統領は1963年に暗殺された。アメリカ合衆国のCIAが暗殺に手を貸していた。南北の間は停戦していたので、戦闘は南ベトナムの内戦という形で継続した。

米軍の関与が高まったのは1964年のトンキン湾事件からである。自国の駆逐艦が北ベトナムに攻撃されたというので、アメリカ合衆国の上下両院はトンキン湾事件特別措置法(トンキン湾決議)を圧倒的多数で可決した。これにより、ハノイを首都とする北ベトナムへの爆撃、つまり北爆、が始まった。トンキン湾事件についてハノイ政府は、現場指揮官が勝手に命令した、と主張する。もう1回、別の攻撃があった、という米軍の報告があるが、こちらは虚報であった[2]

米軍は最大54万人の兵力を投入したものの、解放戦線を鎮圧できなかった。逆に、普通の人々を虐殺したり、人体に有害な枯葉剤を撒いたり、といった悪評ばかりが広がった。

元来は内戦であったものは国際化し、東西両陣営がぶつかり合った。南ベトナム政府側には米軍、韓国軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、そしてタイ軍が加わり、南ベトナム民族解放戦線の側には、北ベトナム政府軍、中国人民解放軍、そしてソ連軍が加わった。犠牲者の推定値にはばらつきがあるので、兵士と民間人を合計して、おおよそ150万人としておく[3]

米軍敗退の始まりは1968年のテト攻勢である。「テト」は漢字で書くと「節」であり、春節すなわち旧正月のことである。南ベトナム解放戦線は基地や大使館を襲撃し、そのニュースは合衆国市民を憂鬱にした。その年のうちにアメリカ合衆国は撤退を決め、戦闘の主力を南ベトナム政府軍に移すことにした。これを「ベトナム化」という。新たに就任したリチャード・M・ニクソン大統領はグアムでの声明で撤退の方針を明らかにした。1972年、米軍は地上軍の撤退を終え、翌年、パリ和平協定が結ばれた。1975年にサイゴンは陥落し、南北は統一された。

南ベトナムと北ベトナムの境界には非武装地帯があったため、北からの物資や兵員は隣のラオスとカンボジアをとおって南に送り込まれた。この隣国での輸送路がホーチミン・トレイルやホーチミン・ルートと呼ばれるものであった。カンボジアでは元国王のシハヌークが中立を装いながら武器の輸送を助けた。しかし、彼は1970年に軍人のロン・ノルによるクーデターで失脚した。

ロン・ノルのクーデターに呼応して、米軍と南ベトナム軍がカンボジアに攻め込み、北ベトナム軍と戦った。翌年には、ラオスにも米軍は侵攻している[4]

ポル・ポト派はクメール・ルージュと呼ばれ、教師をしていた共産主義者のポル・ポトが指導者であった。政権を追われたシハヌークと組み、1975年に首都プノンペンを制圧した。ポル・ポト派とシハヌーク派を背後で結びつけたのは中国であった。中国の文化大革命がそうであったように、あるいはそれ以上に、イデオロギーの教化にポル・ポトは力を入れた。彼が行った強制労働と虐殺は惨をきわめ、映画『キリング・フィールド』によって世界中に知れ渡った[5]

ベトナム戦争への反対は、平和運動など左翼からだけでなく、パワーポリティクスを支持する現実主義者からも声が上がった。シカゴ大学教授のハンス・J・モーゲンソーが1967年に『フォーリンアフェアーズ』誌に書いた論文から引用する。

一九六二年のキューバ危機の妥結の一部分としてキューバへの不介入を約束した結果、今日、キューバは軍事的にも政治的にもソビエトの前哨基地となっているだけでなく、西半球における反政府活動や軍事介入の拠点でもあり、アメリカの国益を直接的に脅かしている。しかし一方でベトナムがアメリカに及ぼす共産主義の脅威は微々たるもので、キューバによる共産主義の脅威と比べればかぎりなく小さい。にもかかわらず、われわれは大規模な戦争の危険を冒してまで、ベトナムに大掛かりな介入を行っている[6]

ドミノ理論は彼の言うところの「やみくもな反共主義」であり、成功したとしても国益にはならない。現実主義が勧める「アメリカの国益を政策判断の基準とする政策」はベトナムの革命を阻止することでなく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの革命運動をアメリカ合衆国の味方にすることである[7]。モーゲンソーの助言によって、その後に起こった世界の諸革命にたいするアメリカ合衆国の態度は修正された。

インドネシアのスカルノ大統領といえば、日本では夫人の一人が有名である。アジア・アフリカ会議のホストとなり、非同盟諸国運動の立ち上げに貢献した彼はスハルトに権力を譲るまえに何をしたのか?

敗北した日本から国土を受け継いだスカルノは、旧宗主国であるオランダとの独立戦争に勝たねばならなかった。それを成し遂げると、中央集権と領土獲得に邁進した。イギリス領であったカリマンタン島北部の北ボルネオを反乱させ、マレーシア連邦の成立を妨害もした。彼にとっては、マレーシアは新帝国主義者の傀儡であり、それとのコンフロンタシ(対決)は正義の戦争であった。

スカルノが行ったユニークな外交は1965年における国際連合からの脱退である。実は国連憲章には脱退の規定がないので、国連の歴史ではなかったことになっている。国連の代表権を否定されていた中華人民共和国と連携し、CONEFO(新興勢力会議)を同年、立ち上げた。

ところが、1965年にCIAの後押しを受けた軍部が共産党を弾圧する9・30事件が起きた。大統領と軍の力関係は逆転し、翌年、スカルノは軍人のスハルトに全権を委譲した。

ベトナムでも、カンボジアでも、インドネシアでも、冷戦の東西対立は血なまぐさい結果を生んだ。モーゲンソーの言うとおり、ベトナムとカンボジアでは「やみくもな反共主義」をアメリカ合衆国は実行する必要はなかったろう。

アメリカ合衆国は政策を転換し、東南アジアの中立化に取り組み始めた。1969年に表明されたグアム・ドクトリンまたはニクソン・ドクトリンがドミノ理論に代わる新しい原則であった。もはや、東南アジア諸国には反共の防波堤ではなく、主権国家として責任ある行動をとることを期待することにした。ドクトリンの一部を引用する。

しかし、第二に、国内の治安問題に関するかぎり、その軍事的防衛問題に関するかぎり、核兵器をともなう大国からの脅威が生じる場合を除いては、アメリカは、この問題をアジア諸国自身が、今後ますます、みずから負担し、その責任をみずから負うように助長していくつもりだし、それを期待する権利もある、と考えている[8]

1967年、ASEAN(東南アジア諸国連合)が結成された。インドネシア、かつてはその仇敵であったマレーシア、フィリピン、シンガポール、そしてタイが当初の加盟国であった。東南アジアを「平和・自由・中立地帯」とすることを謳ったのは1971年のクアラルンプール宣言である。東南アジア友好協力条約(1976年)はそうした精神を集大成し、独立・主権・領土保全・国家一体性・不干渉・武力不行使・平和的紛争処理を原則とした。これらが平和五原則を継承するものであったことは言うまでもない。親米同盟であるSEATO(東南アジア条約機構)は1977年に解散した。

ヘンリー・A・キッシンジャーは世界情勢を鋭く見きわめた。彼はニクソン政権の安全保障担当補佐官に就任し、1973年に国務長官に昇進する。中国およびエジプトとの和解は、彼を世界史上の大人物にした。彼の訪中は友好国であるはずの日本にも内緒であり、佐藤栄作首相は1971年7月16日の日記にこう書いた。

今日のビッグ・ニュースは何と云ってもワシントンと北京とで同時に発表された、米ニクソン大統領が来年の五月までに北京を訪問すると発表された事だ。キッシンジャーが国務省をぬいてカラチから北京入りしたものだが、発表までよく秘密が保たれた事だ。牛場大使に対しては、発表前僅か二時間ばかり前にロジャーズ長官から通報をうけ、日本や国府との干係にはかわりないとの事。中身はわからぬが、ベトナム戦を早くやめ度い、それが主眼か。―中略―すなほに慶賀すべき事だが、これから台湾の処遇が問題で、一層むつかしくなる[9]

1971年10月に、国連代表権が北京に移った。国際社会における孤立感はかつて北京とジャカルタにCONEFOを作らせた。もはやそれを覚えている者とてなく、世界の国々は我さきと北京と国交を結ぼうと動きだした。

1972年にニクソンは中国と上海コミュニケに合意した。半年後に来た田中角栄は日中共同声明を発して国交正常化を成し遂げ、1978年に日中平和友好条約で日中関係は発展した。米中は1979年に国交を樹立し、中国はソ連との友好同盟相互援助条約を破棄した。

日中平和友好条約には、有名な「反覇権条項」(第2条)がある。暗に意図されているのはソ連に対する共闘であるとされている。

エジプトでは、ナセルは1967年の六日戦争に敗れ、失意のうちに亡くなった。彼を継いだアンワル・アル・サダト大統領は和解を探り、シグナルを送った。イスラエルとの平和条約の可能性に言及したり、ソ連の軍事顧問団を追放したりしたものの、キッシンジャーはとり合わず、「エジプトが敗者で、イスラエルが勝者の座にある限り、残念ではあるが、アメリカはエジプトを助けるために何もできない」と挑発した[10]

第四次中東戦争はサダトの気概を示すチャレンジであったと理解できる。1973年のエジプトによる奇襲は成功し、軍はスエズ運河を渡った。早くもその翌日、彼は停戦条件を示した。しかし、イスラエルの逆襲は成功し、進軍は止まった。ここでキッシンジャーが仲介に入り、兵力引き離しの協定が結ばれた。

アメリカ合衆国の政権が民主党の手に移り、キッシンジャーが外交の舞台から降りても、和解の動きは止まらなかった。1978年、ジミー・カーター大統領の仲介により、キャンプデイビッド合意がエジプトとイスラエルの間に成し遂げられた。中国ばかりかエジプトまで西側に鞍替えしたのである。サダト個人にとってそのツケは重く、1981年に暗殺された。

このように中東では、かつての仇敵は歩み寄ったものの、同盟の組み替えにとどまっただけで、中立化は起きなかった。東アジアにおいても、冷戦はまったく解消したわけでなかった。

1979年の中越戦争は、血で血を洗うの比喩が当てはまる。前年の暮れ、ベトナムはプノンペンのポル・ポト派政権を崩壊させ、親ベトナムの社会主義政権を樹立した。ポル・ポト派を支持する西側についた中国は冷戦の論理でポル・ポト派、シハヌーク派、そしてソン・サン派に三派連合を組ませて、プノンペンに対抗した。1978年10月、訪日していた中国の鄧小平副首相は福田赳夫総理大臣にこれらの動きを暗示することを語った。

現在ヴィエトナムはカンボディアを侵攻しようとしている。その戦争の規模は抗米戦争、グエンバンチューに対する戦争のそれよりも上回っている。このような状況の下では、中国の援助の意義は全くなくなってしまった。―中略―われわれは、東方のキューバをこれ以上強大化したくなかったので、援助を停止したが、そうすることによりかえってヴィエトナムをソ連の方へ追いやってしまうのではないかとの心配も真剣に考慮した。しかし、検討の結果ヴィエトナムは、とうの昔にソ連の基地になってしまっているということが分った。従って、ソ連の方に追いやってしまうという問題は既になかった[11]

中国にとって、敵であるソ連の味方になったベトナムは敵であった。何万人もの犠牲者を出した中越戦争はベトナムを懲らしめるための戦争であった。

カンボジアについて、パリ和平合意がまとまったのは冷戦後の1991年である。翌年、国連の平和維持活動であるUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が派遣され、再建に取り組んだ。 これまで見てきたように、代理戦争は紛争の惨禍を何倍にもする。武器はふんだんに援助されるので、人の命がいくつあっても足りない。では、冷戦が終わったら、東西のバランスを考慮しなくてよくなって、平和は容易になったのか? そうした予想に反し、1990年代も悲惨な戦争は絶えなかった。


[1] ロバート・マクナマラ編、『果てしなき論争』、仲晃訳、共同通信社、2003年、65ページ。

[2] 三野正洋、『わかりやすいベトナム戦争』、光人社、1999年。マクナマラ編、『果てしなき論争』、289-295、341-346ページ。

[3] ドン・オーバードーファー、『テト攻勢』、鈴木主税訳、草思社、1973年。三野、『わかりやすいベトナム戦争』、245、248ページ。ケンブリッジ現代社会国際研究所、猪口孝編、『ヴィジュアル・データ百科 現代の世界』、原書房、2008年、103ページ。

[4] 松岡完、広瀬佳一、竹中佳彦、『冷戦史』、同文館出版、2003年、142ページ。三野、『わかりやすいベトナム戦争』、118ページ。ノロドム・シアヌーク、バーナード・クリッシャー、『私の国際交遊録―現代のカリスマとリーダーシップ』、仙名紀訳、恒文社、1990年、86ページ。

[5] Bruce Robinson, David Puttnam, Roland Joffé, Sam Waterston, Haing Ngor, John Malkovich, Julian Sands, et al., The killing fields, 1984.

[6] ハンス・J・モーゲンソー、「介入すべきか、介入せざるべきか」、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編、『フォーリン・アフェアーズ傑作選1922-1999 アメリカとアジアの出会い』、上、朝日新聞社、2001年、274ページ。

[7] モーゲンソー、「介入すべきか、介入せざるべきか」、275-276ページ。

[8] ヘンリー・キッシンジャー、『キッシンジャー秘録』、第1巻、桃井真、斎藤弥三郎、小林正文、大朏人一、鈴木康雄訳、小学館、1979年、295ページ。

[9] 伊藤隆監修、『佐藤栄作日記』、朝日新聞社、1997年、377ページ。

[10] アンワル・エル・サダト、『サダト自伝』、朝日新聞外報部訳、1978年、279ページ。

[11] 「福田総理・鄧総理会談記録(第一回目)」、1978年、10月23日、情報公開法にもとづく開示、14-15ページ。

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