紛争が起きれば、戦闘員だけでなく非戦闘員の被害も大きい。誤射や誤爆の巻き添えになるばかりでなく、破壊や避難によって、衣食住に支障が出る。着の身着のまま逃げ出せば、着る物も雨風をしのぐ所もない。店が閉まり、食品も届かない。健康が損なわれるのは時間の問題である。こうした事態は地震や水害のような天災でも同じであるので、非紛争地域の人たちにも他人事でない。今回のテーマは、難民・国内避難民など紛争下の文民は何を必要とし、国際社会は何を提供できるのか?、そして、提供にあたっては何に注意しなければならないのか?、を論じなさい、である。
難民といえば人類の課題である。人類の課題といえば国際連合である。UNHCRは国連難民高等弁務官という役職のことでも、国連難民高等弁務官事務所という組織のことでもある。1950年に国連総会の決議によって設置された。日本人の緒方貞子は1991年から2000年にかけ、冷戦後の混乱下、高等弁務官を務めた。彼女は2003年から2012年には日本の対外援助の中心機関である国際協力機構(JICA)の理事長にもなった。
緒方貞子は総理大臣を務めた政治家、犬養毅、の曽孫であり、聖心女子大学を卒業後、アメリカ合衆国の名門大学院に学び、上智大学教授となった。なぜそのようなことを書くかというと、日本の人道活動はお嬢様たちに支えられているところがあるからである。緒方貞子は彼女たちのあこがれであったろう。
こうした人道活動の威信の高さは日本だけのことでない。UNHCRの本部があるジュネーブは国連人権理事会と赤十字国際委員会もあり、世界における人権と人道の首都と目される。世界でとりわけ物価の高い都市でもあるジュネーブの高邁な理想が人々を引きつける。
さて、UNHCRのウェブサイトによると、2025年6月末には世界には1億1730万人の避難民がおり、うち4,250万人が難民、6,780万人が国内避難民であった。ほかは、難民地位条約とは異なる法的地位にあるパレスチナ難民、庇護希望者、そしてさまざまな地位のもとにあるベネズエラからの国外避難民である。難民の出身国の上位3か国は、シリア、ウクライナ、そしてアフガニスタンである(パレスチナ難民とベネズエラ難民は除く)[1]。ウクライナではロシアによる突然の侵攻で、国土の東半分が危険な戦場になってしまった。シリアは内戦のために人口の3分の1以上が国内外に散った。アフガニスタンは40年以上、平和から遠ざかり、周辺国に難民があふれる。ほかでは、ミャンマーから逃げたロヒンギャの人々について覚えているであろう。仏教徒の多いこの国で、ラカイン州に住むムスリムは外国人とみなされ、迫害されている。
避難民とか、難民とか、庇護希望者とかいった言葉の使い分けに困惑を感じたかもしれない。パレスチナ難民には特別な定義があり、1948年の第一次中東戦争以前にパレスチナに住みながら、同戦争によって家を失った人と、そうした人の男系子孫を指す。
一般的に難民と呼ばれるのは、1951年に採択された難民地位条約第1条A(2)の定義を満たす人々である。条約には「千九百五十一年一月一日前に生じた事件の結果として」という要件が書かれているが、現在は1966年の難民地位議定書により、これにしばられない。それゆえ、難民の定義は次のとおりである。
―前略―人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの
常居所を有していた国に留まる者は、定義に含まれないため、難民と呼ばれず国内避難民(IDP)と呼ばれる。ほかにも、いわゆる「経済難民」や「環境難民」が難民に当たらないことが分かる。上で触れたベネズエラからの避難民には実は経済難民が含まれる。庇護希望者は、難民と認定されていない人々のことであり、難民よりもさらに不安定な地位にある。
難民地位条約によって、難民が手にした最大の権利はノン・ルフールマンの原則である。ルフールマンとは「送還」のことである。恐怖を感じる領域に難民を追放したり、送還したりすることは同条約第33条によって禁じられる。
ノン・ルフールマンの原則によって、恐怖を有する者の心配がすべてなくなるわけでない。避難を始めた者は、外国にたどり着けないかもしれない。あと一歩というところまで来ても、目的国から入国を阻まれるかもしれない。入国できたとしても、難民として認定されないかもしれない。認定されたとしても、衣食住と職にありつけないかもしれない。故郷に恐怖の原因がなくなり帰ろうとしても、生計を立てられないかもしれない。
そうした不安に応えたのが緒方貞子であった。1991年の湾岸戦争後、クルド人の反乱をイラク軍が鎮圧した。着の身着のまま逃げ惑う人々は、他国にたどり着けない国内避難民の地位にあった。 困ったことに、隣国のトルコにとって、クルド人は自国内で独立を目指す者たちの同胞であり、友好的な存在でなかった。安保理決議S/RES/688は、あらゆる資源を使って難民と避難民の必要に応えるよう国連に求めた。次の回想は、彼女がそうした求めに真剣に対応した表れである。
つまり、自国内で住んでいる所から追われた人々は、法的に定義された、国際的な難民保護の枠組みの外にあると理解されていた。各国は迫害される恐れがある状況下に難民を送還してはならないとする義務はあるが、庇護を与えることを強制されるものではなかった。クルド難民問題は、UNHCRの難民保護の任務にとって、厳しい試金石となったのである。国境内では任務を行使しないという法的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか?[2]
こうした試練を経て、UNHCRの活動は国内避難民への援助にまで広がった。UNHCRはイラク、トルコ、そしてイランに拠点を構え、難民と国内避難民に保護を与えた。
冷戦後の紛争に対して、食糧援助の必死の努力がなされた。ボスニアヘルツェゴビナにおけるUNHCRによる食糧の空中投下を、緒方貞子は次のように述べる。
何千人もの人々が空中投下された援助物資を拾おうとして山腹に急いだが、通常、援助をもっとも必要としている人々、つまり女性、子ども、到着したばかりの人々は、非常食が入った包みを手にすることができなかった。不幸なことに、何人かが投下品の直撃を受けて亡くなり、また落下場所に殺到した人同士の衝突によっても命を落とした。
それでも、空中投下は包囲下にあったボスニア東部・中部の町や集落に食糧、医薬品、その他の必需物資を配布するための最後の手段として役に立った。時が経つにつれて、配布の手順は改善され、住民が秩序正しく物資を受け取れるように、前もって予告のビラが撒かれた。食糧もすぐに食べられる非常食のパックから、女性が調理すれば家族にも行き渡るよう穀類の大きな包みが投下された[3]。
WFP(世界食糧計画)による食糧支援は、公共広告機構のCMによって、一般人にもおなじみである。この機関は国連経済社会理事会(ECOSOC)とFAO(国連食糧農業機関)が主体となって1963年に設立された。主な任務は緊急事態での食糧援助である。2023年には約1億300万人を支援した[4]。
アフガニスタンでの対テロ戦争において、WFPは食糧援助の主役であった。小麦の入った袋はトラック輸送や空中投下で配られた。米軍も食糧を投下したが、きめ細かく対面で食糧を配る国連機関と違い、米軍は空中投下しかしなかったので、最も必要な人々に届かないと批判された[5]。
UNHCRは難民および国内避難民という「人」をめぐる総合的な機関であり、キャンプという「住」を提供する。「人」が「子供」であればUNICEF(国連児童基金)が参加し、「教育」にはUNESCO(国連教育科学文化機関)が携わる。WFPは「食」に特化し、WHO(世界保健機関)は医学の立場から「健康」について助言する。これらは現場における国際機構のパートナーである。WFPが農業技術を必要とすれば、同じくローマに本部があるFAOと連携する。WFPが挙げるパートナーは国際機構ばかりでなく、各国政府、NGO(非政府組織)、そして企業もある。
WFPが設立されるはるか以前、戦争に敗れ、子供たちが腹をすかせた日本の家庭に、アメリカ合衆国のNGOであるCAREから食糧が贈られた[6]。
そうした食糧援助の先駆者はイギリスのオックスファムである。1942年、ドイツに占領されたギリシャは飢餓で苦しんでいた。オックスフォードの町の人々が飢えた人々に食糧を送るため設立したのがオックスファムである。現在、それは紛争や自然災害に衣食住を提供するだけでなく、チャリティショップを営み、フェアトレードの産品や寄付された物を売る。
こうした諸アクター間のパートナーシップについて、緒方貞子の言葉を借りる。
国家再建には広範囲なアクター(行動主体)の揺るぎないパートナーシップが必要である。復興過程にあるさまざまな組織や地域社会の強化と結束に最も重要な影響をもつのは、国家そのものである。同様に、復興の成否に不可欠なのは、紛争直後に安全な環境を形成する役割を任された軍隊と警察である。人道機関は紛争を乗り越えた人々の生活を正常に戻すために、当面の短期的救援を提供する。UNHCRの場合、その役割は、難民・国内避難民が故郷に戻って、元の地域社会に再定住するよう、手助けをすることである。開発機関は初期段階に計画と資金などの資源を携えて参入し、復興の初期段階から確実な中・長期的にいたる持続可能な開発への任務を遂行することになる[7]。
日本におけるNGO・企業・政府間のパートナーシップには、ジャパン・プラットフォームという組織があり、企業および政府の資金・物資・サービス・人材を紛争や災害の被害者を救うNGOに支援するため仲介している。支援企業と受け入れNGOの名前には有名なところが多くある[8]。
難民や国内避難民の生活に対して、国連や外国の援助があることは心強い一方、重要な意思決定が現場から離れた国際機構の本部や先進国のNGOによってなされることへの批判がある。
代表的なそうした議論はペシャワール会の中村哲医師によって語られた。彼は1980年代にハンセン病を治療するためにパキスタンのペシャワールに移住した。医療活動においては、「外国人のショーで終わる」ことがないよう、現地人とチームを組んだ[9]。ペシャワール会は当初、ハンセン病を診る中村を日本から支援するための組織であったが、現地にいるのはハンセン病患者だけでないので広く患者を診ることになり、病院が建てられた。紛争が続くアフガニスタンに近いペシャワールには、絶えず難民が押し寄せた。
21世紀になると、対テロ戦争が始まり、アフガニスタンの復興が課題になった。ペシャワール会は病院の経営だけでなく、アフガニスタンの灌漑と農業に取り組むようになった。用水路の建設という途方もない事業が活動の中心になった。
現場の必要に応えることを第一とした中村哲は、国際機構や先進国の援助に違和感を抱き続けた。1980年代末に、軍事介入していたソ連が撤退すると、アフガニスタンに援助ブームが訪れた。その際の国連の人道援助について、中村は苦言を呈する。
「国連の難民帰還の青写真によれば、パキスタン三五〇万人の難民を出身地方別に分け、数十万人単位に管理施設を設置、一年分の食糧と耕作に必要な農具と種籾をあたえて帰す、というものであった。これは事情を知らぬものには説得力があったが、現地の国連職員自身がやるせない気持ちをかこっていた。その声はジュネーブまで届かなかった。
難民がのこのこと種籾をかついで帰れる状態ではなかった。アフガニスタン内部で全農村の半分が壊滅、無数の地雷の埋設、戦死した労働力、不安定な政治的受け入れ態勢は、人びとをのっけから国連不信におとしいれた。」(103-104ページ)
「ソ連軍撤退以前に四〇をこえなかった難民援助団体は、一九八九年には二百団体に上り、復興援助ラッシュがはじまった。例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。」(105ページ)[10]
中村哲は2019年にアフガニスタンにおいて殺されてしまった。彼の思想に触れると、人道援助をめぐるパートナーシップについて考え直さなければならないと実感する。我々はつい、国連を中心に置いた構図を考えてしまう。しかし、本当は個々の難民を中心に置かなければならない。
ルワンダの虐殺は、難民と人道援助というテーマを論じるうえで避けて通れない。それはエスニシティ間の対立に端を発した。歴史的に、遊牧民であったトゥツィ族と農耕民であったフトゥ族の間には因縁がある。ルワンダがベルギーの植民地であった時には、少数派のトゥツィ族が優遇されて、外国の支配に協力した。独立を達成すると、多数派のフトゥ族が権力を握った。
紛争の導火線に火をつけたのは1994年の事件であり、ルワンダ大統領の乗った飛行機が墜落した。フトゥ族によるトゥツィ族の虐殺が始まり、100万人ともいわれる死者が出た。ところが、トゥツィ族系の反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)が逆襲に転じ、加害者と被害者の構図が入れ替わった。
ルワンダ虐殺の加害者であった旧政府要人とフトゥ族が追われる立場になった。この時点で、論争の的になるフランス軍による人道的介入、すなわちトルコ石作戦、が行われた。
介入の背景には、フランスに本拠を置く有名なNGO、国境なき医師団(MSF)、の影響があったとされる。このNGOは、ビアフラ紛争において赤十字が内政不干渉の立場から現地政府に妥協したことに不満で1968年、結成された。しかし、ベルナール・クシュネルらが脱退し、1980年に世界の医療団を結成した。政治的に、国境なき医師団は保守であり、世界の医療団は革新である。保守系の内閣がトルコ石作戦が実行された時点で政権を担っていた[11]。
トルコ石作戦の背景には、従来からのフトゥ族政権に対するフランス政府の肩入れもあったとされる。トゥツィ族が殺されている最中には、国連は平和維持軍(PKF)の増派を渋り、各国は軍隊を送らなかった。加害者であったフトゥ族をあえてフランスが助けたのには理由があった、と緒方貞子が述べている。
フランスはすでにルワンダに深く関わっており、フツ族政権に対する肩入れは強かった。一九七五年に締結した軍事協力協定に基づき、フランスは何年にもわたりルワンダ政府に軍事訓練を行い、装備を提供してきた。また、武器禁輸措置が発動されたにもかかわらず、一九九四年六月までルワンダ政府軍に武器を供給していた。四月と五月にキガリから外国人が国外退去した際、フランスはフランス人だけではなく、ルワンダの支配層である多数のエリートがザイールやフランスや他の「友好的な」国々に脱出する手助けもした。一九九四年六月二二日、安保理決議九二九は、フランスに二カ月間の人道援助活動を承認した[12]。
フランス生活が長い重光哲明医師は人道援助を伴う外国の介入を批判する。それは犠牲者を作り、隠蔽する。介入の内容は被害者の求めと無関係である。介入の目的は現状維持と原状回復でしかない。その方針は、現場から離れた組織の条件に基づいて決定される。援助される技術、機器、そして資源は介入後は放棄されてしまう。現場における既存の権力ヒエラルヒーは温存されたままである。介入した者がまとめた報告は客観性に乏しい。介入する強者を頂点とするヒエラルヒーは強化されさえする。介入する側に身体的危険性があれば、介入が実行されることはない[13]。
トゥツィ族のルワンダ愛国戦線が内戦に勝ち、人道ゾーンは消滅し、フランス軍の作戦は終わった。フトゥ族はザイールと当時、呼ばれた隣のコンゴ民主共和国に逃げた。ゴマという町に難民キャンプが設けられ、国連平和維持軍が展開し、NGOが援助に加わった。こう書くと、危機も一服したように聞こえるが、きれいな水が不足していたために衛生状態は悪く、病人が出た。UNHCRは死者を4万人と推定する[14]。異常であったのは肉体的な健康状態だけでなかった。信じがたいことにルワンダにおける権力構造がキャンプ内に温存されていた。これも緒方貞子が証言する。
難民はみな旧体制の政府関係者たちに寄付金を支払う義務があり、それは彼らがいつかルワンダ新政権に反撃をしかけ、勝利して本国に帰るという最終目的のためであった。世帯ごとに毎月、献金が強要された。必要とあれば、人道援助組織から配布された食糧や物資を売ってでもこの支払いを捻出しなければならなかった。キャンプで小売業を営んで得た利益や非合法取引で得た収益にも同じシステムが適用された[15]。
『ホテル・ルワンダ』のような映画では、トゥツィ族はかわいそうな被害者として描かれる[16]。観客の多くは、今でもフトゥ族が悪玉で、トゥツィ族が善玉であると理解しているであろう。上のように、1996年には加害者と被害者は完全に逆転していた。ルワンダの新政府軍がゴマの難民キャンプを攻撃したのである。ここでも緒方貞子に頼る。
キャンプが襲撃されて、ルワンダに戻らなかった難民が四方八方に逃げ回っているのが現状であった。マシシを越えて北へ向かい、ウガンダ国境を越えた難民もいれば、南方へ逃げ、フィジを経由してタンザニアへ向かった難民もいた。しかし、大多数は西へ向かい、散り散りになってザイール奥地に姿を消した。難民の多くは、あるいは守られるのを当てにし、あるいは残るよう強要されて、軍事指導者とともに行動しつづけた。さらに多くの難民が次々に命を落とした[17]。
ジャングルに消えたフトゥ族の残党は、アナーキーなコンゴ民主共和国東部に存在する武装勢力の一つ、FDLR-FOCA、となった[18]。ルワンダのトゥツィ族政権は、一つには復讐を恐れて、もう一つはこの土地の豊富な地下資源にひかれて、直接攻撃したり、武器支援をしたりと介入を続けた。支援対象の一つは武装勢力M23とされる。
コンゴ民主共和国東部におけるアナーキーの被害者は女性たちであった。それを世界に伝えたのはドニ・ムクウェゲ医師である。2018年のノーベル平和賞は戦争における性暴力の被害者たちを治療した彼に与えられた。
ようやくフランスのエマニュエル・マクロン大統領は2021年にルワンダ虐殺をめぐる自国の責任を認めた。そこに至るまで、ルワンダはフランスと外交関係を断絶し、イギリスの植民地でないにもかかわらずコモンウェルスに加盟した。人道援助をしたがためにフランスは憎まれた。
食糧を与え、医療を施すというところだけ見れば、人道援助は非の打ち所がないかのようである。しかし、それも人間社会の一部である以上、過ちは起こる。過ちが判明したならば、たださなければならない。
UNHCRのデータによると、2025年6月末において、難民およびベネズエラ国外避難民のうち71パーセントは低所得国か中所得国に滞在し、66パーセントは隣国にいる[19]。これが意味することは、先進国や第三国は難民をあまり受け入れていないということである。第三国とは、難民の出身地と認定地以外の国であり、アメリカ合衆国やオーストラリアが代表例として思い浮かぶ。安い労働力の需要がそれほど高くなければ、難民の受け入れは経済的負担はもちろん、治安や排外主義など受け入れ国に重苦しい社会問題をもたらす。豊かな国は、資金拠出のみでグローバルな人道危機をやりすごす誘惑に勝つことができない。
しかし、内戦であるにしても、紛争の責任はグローバル社会全体にある。難民の問題をカネだけで済ますことは国際感覚の麻痺であり、こうした麻痺は国の将来に暗い影を投げかける。
この回の最後に、緒方貞子が日本の難民政策をいかに認識していたかを引用する。「伝統」という言葉に彼女がこめた意味は何であろうか?
伝統と政策が相まって、日本が受け入れた難民はほとんどいなかった。人道的配慮から難民と認定されるか、長期在留資格を与えられたアフガン人の総数は二〇〇一年末で六二人である。難民資格の認定を求める庇護希望者にとって、最終決定は地方裁判所レベルの訴訟に委ねられている。二〇〇二年に私がアフガニスタン復興に積極的に関わるようになった後に、難民認定を却下されたケースについて非公式の弁護を法務省に対して行った。日本がアフガニスタン再建に重要な貢献を行い、私も個人的に復興努力に関与している肝心なときに、難民申請者を国外に追放しないように法務省に要請したのである。日本政府は判決を遅らせて、アフガニスタンが平和と安定の達成にさらに近づいてから、申請者を帰国させることはできないのであろうか? とはいえ私は法廷審理に直接影響を与えることはできなかった。入国管理局は難民と認定されなかった庇護希望者を国外追放の手段に訴えるよりも、むしろ自主的に帰国するように圧力をかける傾向があった[20]。
[1] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.
[2] 緒方貞子、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、集英社、2006年、49-50ページ。
[3] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、107ページ。
[4] “Emergency Relief,” World Food Program, https://www.wfp.org/emergency-relief, accessed on February 21, 2026.
[5] 「空爆恐れず、援助再開へ―アフガンで活動の国連各機関」、『朝日新聞』、朝刊、2001年11月3日。
[6] 渡部茂己、阿部浩己、『国際組織』、ポプラ社、2006年、164ページ。
[7] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、397ページ。
[8] “オールジャパン体制の緊急支援を世界へ届ける日本発の仕組み,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/first.html, accessed on February 21, 2026; “加盟NGO一覧,” ジャパン・プラットフォーム, December 2025, https://www.japanplatform.org/about/ngo/index.html, accessed on February 21, 2026; “支援企業・団体,” ジャパン・プラットフォーム, https://www.japanplatform.org/about/company.html, accessed on February 21, 2026.
[9] 中村哲、『アフガニスタンの診療所から』、筑摩書房、1993年、106ページ。
[10] 中村、『アフガニスタンの診療所から』。
[11] 重光哲明、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、勝俣誠編、『グローバル化と人間の安全保障』、日本経済評論社、2001年。
[12] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、213ページ。
[13] 重光、「フランス緊急医療NGOにみる人道的介入」、85-108ページ。
[14] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、217ページ。
[15] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、236ページ。
[16] Terry George, A. Kitman Ho, Keir Pearson, Don Cheadle, Sophie Okonedo, Joaquin Phoenix, Desmond Dube, et al., Hotel Rwanda, 2005.
[17] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、237ページ。
[18] “Highlights: Key Findings and Chapter Summaries of Small Arms Survey,” in Small Arms Survey 2015 (Cambridge: Cambridge University Press, 2015), p. 19.
[19] The United Nations High Commissioner on Refugees, “Mid-Year Trends 2025,” November 4, 2025, https://www.unhcr.org/media/mid-year-trends-2025, accessed on February 21, 2026.
[20] 緒方、『紛争と難民 緒方貞子の回想』、343-344ページ。
© 2026 Ikuo Kinoshita