広島と長崎に投下されたあと、終戦と同時に原子爆弾は使い道を失った。絶対兵器の後始末をどうするか? それが生まれたばかりの国際連合の初仕事になった。科学者たちは原子力の平和利用、特に発電、が自分たちの本来の使命であると考え始めた。原爆の後始末と原子力発電を統一して行う計画が原子力の国際管理案である。野心的なこの計画を委ねられた国連は、やがてそれをもてあますようになった。最終的に、統一的な国際管理案は放棄され、人類は核兵器の不拡散に課題を絞って取り組んだ。今回のテーマは、核兵器の不拡散を確保するレジームの構築と運営がいかなる困難に直面してきたかについて、バルーク案以来の歴史を例に引きつつ解説しなさい、である。
1945年11月、アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領、イギリスのクレメント・アトリー首相、そしてカナダのウィリアム・マッケンジー・キング首相が会談した。3か国はマンハッタン計画の参加国であり、カナダはウランの産地として重要であった。彼らが発したのが、国連原子力委員会の設置を求める米英加宣言である。同委員会の任務は、原子力の発見により生じた諸問題を扱うことであった。
翌年1月に、国連総会における最初の決議、A/RES/1、として原子力委員会を設けることが決められた。それを構成するのは安全保障理事会の理事国代表であるが、カナダが理事国でない場合にはカナダからの代表を加えるとされた。任務は原子力問題に関する勧告である。なすべき提案は、平和利用のための情報交換、原子力の国際管理、原子兵器等あらゆる大量破壊兵器の各国軍備からの除去、そして査察等による保障措置(セーフガード)であった。
アメリカ合衆国における保障措置立案の中心人物は原爆の父J・ロバート・オッペンハイマーであった。彼の構想では、原子力の平和利用は国家の手を離れて国際的な原子力開発機関のもとで厳しく管理され、大胆にも、国家主権の一部譲渡を伴うと表現された。原子力開発機関の主な任務は、ウランの採掘、原子力発電所の建設、そして同位元素の分離となることになっていた[1]。
原子爆弾の製造法を熟知したオッペンハイマーであったからこそ、何を管理すればよいかが分かっていた。鉱山から採掘されたウランは気体の六フッ化ウランに転換される。それを遠心分離機のドラムで回すと、質量の軽いウラン235は中心に集まり、それを吸い取って次の遠心分離機に送る。この作業を繰り返すと、ウラン235の濃度は高まる。非常に高濃度のウラン235は兵器級ウランと呼ばれ、六フッ化ウランから固体に戻すとそのまま原爆製造に使うことができる。
それほど高濃度でないウラン235でも、原子炉で連鎖反応が起きると、使用済み核燃料を再処理して原爆のもう一つの材料である高濃度のプルトニウムが取りだせる。原子炉が発電所として操業している今日では市民生活に欠かせないエネルギーの供給源でもある。保障措置の目的は、ウランの採掘から使用済み核燃料の処分に至る核燃料サイクルから抽出される高濃度のウランとプルトニウムが軍事利用に回されないようにすることである。
こうした趣旨がつぎに取り上げる報告書において「協力的開発をつうじての安全」と表現された。オッペンハイマーは、発電など原子力の平和利用によって、ナショナリズムは乗り越えられると想像した。米ソ間の不信感さえ原子力は溶かしてしまうと彼が信じたことが次の文から分かる。
わが国の提案の柱石となるものは、技術と政策に関して率直さと大幅の公開性とを要求する一つの制度であります。それには、国籍を度外視した、人々の間での仕事の協力が必要です。―中略―しかしこれらの提案によって―中略―ソヴェトが要求される犠牲と譲歩は一段と大きなものであります。―中略―この国家権力のイデオロギー的支柱、すなわちソヴェトと資本主義世界との間の衝突の不可避性に対する信念は、原子力管理のためにわが国の提案が要求しているような強度の、緊密な協力ができた暁には、放棄されることになるでしょう[2]。
国籍も、国境もなく、人々が世界のエネルギーを管理するために協力する、というオッペンハイマーの構想は無邪気にさえ聞こえる。原子力の利用法を会得したら、ソ連は人と資源をつぎ込んで、たやすく原子爆弾を製造してしまうのでないか? 無頓着にも、彼はそう懸念しなかった。
オッペンハイマーの国際原子力開発機関の構想は、アメリカ合衆国国務省が1946年3月に作成したアチソン・リリエンソール報告書の基礎になった。報告書は危険な活動を指定する。ウラン鉱石の採掘、ウラン235の濃縮、原子炉・再処理工場の操業、そして原子爆弾の研究・開発、という諸活動がそれである。原爆開発を除く危険な活動はすべて原子力開発機関が代わって行う。安全な活動については、機関による免許と査察を条件に、各国に開放される。ウラン等の危険な物質は国際原子力開発機関の所有のままで人々に貸与される。鉱山・工場・発電所・研究所も機関の所有下で世界中に設けられる[3]。
ディーン・G・アチソン国務次官とともに報告書に名を冠せられたデイビッド・E・リリエンソールTVA(テネシー渓谷開発公社)長官は水力発電事業で実績を上げた。TVAはアメリカ合衆国の経済と社会を一挙に電化した。これから原子力発電をつうじ、全世界を電化することになろう。
原子力が国際管理されると、アメリカ合衆国による原爆の独占はどうなるのか? 報告書は合衆国がいつ原爆を棄てるかを示さない。あたかも、それは重要でないかのようである。アチソン・リリエンソール報告には耳を疑いたくなることが書かれてある。時がたてば、原爆についての知識は広がり、知識でのアメリカ合衆国の独占は失われる。そうした世界には原爆はもちろん、ウランや原子炉を所有する国家は存在しない。突然、ある国が自国の領土にある原子力開発機関の施設を奪い、原爆を作ろうとするとしよう。戦争の意図があると知られたその国は他国によって対抗されることになる[4]。
アチソン・リリエンソール報告書は明言しないが、原子力開発機関の鉱山や施設は世界中に存在するので、残りの国は奪った国よりも多くの原爆を作ることができる。世界を敵に回して核戦争をする国は現れないであろう、と見込んでいたのでなかろうか?
この暗示を信じられない者は、アメリカ合衆国の国内にも、国外にもいた。違法に原爆を作った国家と本当に戦争をする気なのか? 嘘も方便ということわざがある。アメリカ合衆国は原爆を棄てない、と考えさえすれば、すべてのつじつまが合う。アメリカ合衆国が核兵器を独占することによって将来の違反は抑止され、永遠の平和がもたらされるのである。アチソン・リリエンソール報告書の読み方として、こちらのほうが正しそうである。
アメリカ合衆国の国連原子力委員会代表にはバーナード・バルークが任命されていた。ニューヨークの成功したビジネスマンであり、歴代の大統領は政策の遂行に彼の力を借りた。彼もアチソン・リリエンソール報告書を信じていない一人であった。
バルーク案は1946年6月、国連原子力委員会に出された。国際原子力開発機関を作り、査察を行うところまでは、アチソン・リリエンソール報告書と同じであった。アメリカ合衆国の原爆を処分し、原爆およびその材料の保有・製造を違法にすることもほとんど同じであった。
義務に違反した国を罰することに話題が及ぶと、バルーク案はアチソン・リリエンソール報告書が求めたことを踏み越えた。国連憲章に従えば、違反国を罰するには五大国が一致しなければならない。バルーク案は、原子力の国際管理に違反した国を罰するため、この拒否権を原子力問題では認めないことを要求した[5]。
拒否権の否認は国連の本質に関わる大問題である。アメリカ合衆国内でも異論が出た。リリエンソールは「世界政府の教義」とバルーク案を批判した[6]。ディーン・アチソンによる次の回顧はソ連の立場に同情的である。
ソヴィエト連邦が、その時点において、力の許すかぎり原子力開発につとめていることは疑いのないところであった―中略―。そうだとすれば、「迅速にして確実な処罰」条項はモスクワにおいて、ソヴィエト連邦がその(核開発)努力をやめないかぎり、合衆国の戦争に訴えるという脅迫を支持することにおいて国連を同盟者に化そうとする試みに過ぎないと解釈されるに違いない[7]。
ソ連の国連代表であったアンドレイ・グロムイコは後にこう振り返った。
私は答えた。「―中略―核兵器をどう管理すべきか、そしてその将来をどのように決定すべきか、という問題です。これらは安保理の五大国が決定すべき事柄です。この原則は、最近国連憲章で保障され、したがって、安保理によって創設された原子力委員会についても適用されます。―後略―」
―前略―アメリカは核兵器製造の独占体制を築いており、これを維持したがっていたのだ[8]。
はじめから、核兵器廃絶・国際原子力開発機関・拒否権否認は夢物語であった。核独占によって得られた軍事的な優勢を手放すことは、アメリカ人は深層心理で拒んでいた。バルーク案はアチソン・リリエンソール案のように悠長に待とうとせず、ただちにソ連を屈服させようと勇み足を踏んだ。いずれにせよ、ソ連は3年後、核実験に成功し、核独占は終わることになる。
自由な国際査察も、原子力をめぐる米ソの主要な係争点であった。査察が脚光を浴びたのは、1955年7月のジュネーブ四巨頭会談である。ドワイト・D・アイゼンハワー合衆国大統領は奇襲攻撃を予防するための空中査察を提案した。当時は人工衛星がなかったので、偵察機のカメラから地上を撮影する方法がとられていた。これは相手の奇襲攻撃を察知するには有効であったが、自ら奇襲攻撃を仕掛けるのにも有効であった。信頼醸成措置(CBM)という言葉ができたように、信頼がない相手には自らの空間を見せたくないものである。5年後、ソ連はアメリカ合衆国のU-2偵察機を撃墜し、パイロットを捕まえた。アメリカ合衆国は面目を失った。
以上のように、原子力の国際管理案は失敗した。ローズベルト時代に存在した米ソの信頼関係はトルーマンとアイゼンハワーの時代には消えていた。ヒロシマ・ナガサキを見たソ連は必死に原爆を開発した。朝鮮戦争は第三次世界大戦に至る前哨戦でないか?、と人々は考えた。スプートニク・ショックがダメ押しとなり、恐怖の均衡ともいう相互核抑止に基づく二極対立へと完全に移行した。次代に追求されるのは米ソ共通の利益である核兵器の不拡散である。
原子、つまりアトム、といえば、手塚治虫のマンガが思い浮かぶ。彼の自伝はこう記す。
―前略―クリスマス島で水爆実験が行なわれたことを思い出し、ああ、この科学技術を平和利用できたらなと憂い、原子力を平和に使う架空の国の話を描こうと思って、題名を「アトム大陸」とつけた。アトムとは、もちろん単に原子の意味である[9]。
「アトム大使」の連載が始まったのは1951年である。クリスマス島での初の水爆実験は1957年である。何かの思い違いで、水爆実験に触発されて「アトム大使」を描いた、という記述になったのであろう。いずれにせよ、1951年に原子力の平和利用に思いをはせたのは、かなり早かった。放射線が人体に与える悪影響は、占領軍の情報統制による無知のために、アニメ「鉄腕アトム」では描かれなかった。
原子力の平和利用が本格的に動き始めたのは、1953年の暮れ、アイゼンハワーが国連総会で演説した時であった。アトムズ・フォー・ピース、すなわち平和のための原子力、という題のもと、自国と他国との信頼に基づいて原子力の平和利用を進めることが提案された。アメリカ合衆国の側は、ウランなど核分裂性物質を提供する。その一方で、各国は鉱石の採掘から使用済み燃料の処分に至るまでの核燃料サイクルを査察と管理のもとに置き、核兵器は製造しない。しっかり検証しつつも、原子力発電を各国に認める点が国際管理と違った。
そのころ、石炭による火力発電と原子力発電との費用が比べられ、夢のエネルギーに対する期待が高まっていた[10]。世界初の原子力発電所はソ連のオブニンスク発電所であり、1954年に稼働した。翌年、第1回ジュネーブ原子力平和利用国際会議が開かれ、アトムズ・フォー・ピースの機運を盛り上げた。翌年、イギリスでコールダーホール発電所第1号炉が操業を始め、ついに原子力は商業利用されるまでになった[11]。
アイゼンハワーが提唱した原子力機関はIAEA(国際原子力機関)として設立された。1956年にその憲章の署名が開放され、翌年、発効した。2005年に、ノーベル平和賞がIAEAおよびその事務局長に与えられたのは、査察が平和に貢献したと認められたからである。
似た趣旨で、1957年にはユーラトム(欧州原子力共同体)の設立条約が採択された。ヨーロッパの諸国は自分たちで核分裂性物質を融通し、それが転用されないよう監督することにした。
かつて、アチソン・リリエンソール報告書やバルーク案は原子力発電を原子力開発機関の独占にしようとした。現実はそうとはならず、原子力発電は各国における官民の企業が行い、IAEAは原子力施設にたいする保障措置を担当する。ところが、平和利用をする国家が自領内に査察を受け入れる義務は当初、曖昧であった。それが問題の種であった。
アトムズ・フォー・ピースは親米的な国々を平和利用にいざなうには適していたものの、核武装によって自主防衛をしたい国々には手足を縛られるものであった。1960年、国家の偉大さを求めたフランスは核実験を行った。1962年のキューバ危機は、開発途上国が他国の核兵器を使って自国を防衛しようと企てた事例であった。1964年に中国が核実験を成功させたことは、自前で核武装をしようと考える国々を勇気づけた。
核兵器の拡散を苦々しく見ていたのはアメリカ合衆国である。中国に続いて核実験をする国が現れることは止めなければならなかった。
1965年のギルパトリック委員会報告書は、インド・日本・イスラエル・エジプト・西ドイツが核武装するのを阻止する方法を検討した。日本については、核攻撃に対する防衛、核武装の代わりとしての国家威信向上、そして世界の指導者としての役割分担をアメリカ合衆国が支持することを提案した。二国間での対策だけでなく、核兵器不拡散条約、包括的核実験禁止条約(CTBT)、そして非核地帯といった多国間合意もこの報告書は推奨した[12]。アメリカ合衆国が最も力を入れたのは核兵器不拡散条約であった。
ソ連もまた不拡散に利益を見ていた。1966年に非核兵器国に消極的安全保証を与えるコスイギン提案を行った。非核兵器国には核攻撃をしない、という表明は、自衛のために核武装しなければならない、という主張の正当性を弱めた。他方で、超大国が核兵器の寡占を推し進めることは、米ソ共同支配という批判を招きもした。フランスと中国は駆け込み乗車に成功して核武装を遂げ、多極化と称した。
核兵器不拡散条約(NPT)は1968年に採択され、1970年に発効した。一言で言えば、それは核兵器国と非核兵器国を区別し、固定化する条約である。核兵器国は1967年になるまえに装置を爆発させたアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランス・中国(PRC)の五大国である(第9条3)。どのようにして区別を固定化するかというと、核爆発装置の移譲・受領、製造などによる取得、そして取得についての援助を禁じることによってである(第1条、第2条)。もっとも、核兵器国は核兵器の上であぐらをかいていればよいわけでなく、軍備競争の停止と軍備の縮小のために誠実に交渉する義務がある(第6条)。
非核兵器国には義務と権利がある。それらはIAEAの保障措置を受けることを約束しなければならないが(第3条)、平和利用の権利もあり(第4条)、平和裏に行われる爆発の利益を受けることもできる(第5条)。
核兵器不拡散条約には「不平等条約」という評判が付きまとう。署名が始まった日に、日本、ブラジル、西ドイツ、インドなどは署名しなかった[13]。核兵器国は大国、非核兵器国は小国、という構図ができ、それが固定化することを恐れたからである。日本はようやく1976年に条約を批准して加入した。条約そのものは1970年に発効していたが、その25年後に、無期限延長するか、一定期間延長するか、を決めることが定められた(第10条2)。
冷戦中にはインドの核実験や、イスラエルと南アフリカによる秘密裏の核保有があったものの、拡散のペースを落とすことに核兵器不拡散条約は成功した。冷戦後には条約への服従が進んだ。1991年に、核兵器を解体した南アフリカが加入し、翌年、多極化の旗を振っていたフランスと中国が加入した。
この勢いで、核兵器不拡散条約の無期限延長が決まった。条約が交渉された1960年代、核兵器国と非核兵器国の不平等が固定化されるのを恐れたイタリアなどが無期限の効力を拒否した。そして第10条2に従い、発効から25年後の1995年、再検討会議が開かれた。無期限延長に反対したのはインドネシア、ナイジェリア、そしてアラブ諸国であった。過半数の国々は無期限化に賛成し、核兵器国が包括的核実験禁止条約の交渉を進めることを条件に、その流れを後押しした[14]。この5年後、2000年の再検討会議では、最終文書に「核廃絶への明確な約束」が英語で難解な表現ながら書き込まれ、廃絶を待ち望む人々に希望を持たせた。
こうした希望はジョージ・W・ブッシュ(子)がアメリカ合衆国大統領になると急速にしぼんだ。次のバラク・オバマ大統領が就任すると、希望はまた膨らんだ。彼は2009年、プラハにおいて、「核兵器のない世界」を掲げた演説をした。それは同国が核兵器に頼らずに安全保障政策を組み立てていくことを表明したにすぎなかったが、核軍縮の第一歩ではあった。
非核兵器国の側は1990年代以降、核軍縮に成果がなく、しびれを切らしていた。停滞を打ち破るかのように、核兵器禁止条約が2017年に署名開放され、2021年に発効した。それは核兵器不拡散条約のように、核爆発装置の移譲・受領・取得を禁じるだけでなく、自国の領域のなかに他国の核爆発装置を置くことを認めることも禁じる(第1条)。核兵器国と非核兵器国の差別を固定化せず、加入した国は核爆発装置を廃棄しなければならない(第4条2)。さらに、他国の核爆発装置が自国の領域内に置かれている国は、核爆発装置が撤去されることを確保しなければならない(第4条4)[15]。
核保有国とその同盟国にとって、核兵器禁止条約は実に悩ましい。核保有国の加入は核兵器を廃棄する意思が前提である。また、有事に核兵器を自国の領域に持ち込もうと考えているその同盟国、特にNATO加盟国と日本・韓国も、条約への加入に踏み切れない。結果として、たいていの締約国は大国の同盟国でない非核保有国である。核兵器を禁止するために締約国が協力し、援助しあうことが奨励され(第7条)、2年ごとに締約国会議が開かれる(第8条)。非核保有国がワンボイスで核軍縮を求めれば、核保有国とその同盟国は守勢となる。
一般的に、テクノロジーの進歩は歓迎すべきことである。しかし、だいぶ遅れてでないと、個々の技術をどう扱えばよいか、人間は見定めることができない。バルーク案が実現していたら、原子力発電の普及に伴って、急激なグローバリゼーションが起きていたであろう。巨大な公共事業は巨大な権力を生むからである。こうした「グローバル・ニューディール」がどのように支持され、または、どのように反発されるか、これは反実仮想の世界である。同様に、原子力の国際管理や核兵器の不拡散さえ試みられなかったなら、カプランが空想した一国拒否権システムや核テロリズムの世界、それどころがハルマゲドンになってしまったかもしれない。 現実はこの間にあって、拡散と不拡散の間を世界は揺れ動く。これからどう動くかは、単に軍事や安全保障の観点だけでは予想できない。経済、社会、そして環境などの問題でどのように国際統合が進んでいくか? とりわけグローバリゼーションがどうなるか? そうしたことを見きわめようとすることで、近い未来について何とか見当をつけるのがせいぜいである。
[1] J・ロバート・オッペンハイマー、「原子力の国際管理」、モートン・グロッジンス、ユージン・ラビノビッチ編、『核の時代』、岸田純之助、高榎尭訳、みすず書房、1965年、53-63ページ。
[2] ロバート・オッペンハイマー、『原子力は誰のものか』、美作太郎、矢島敬二訳、中央公論新社、2002年、53-54ページ。
[3] David E. Lilienthal, Chairman, “The Acheson-Lilienthal Report on the International Control of Atomic Energy,” Washington, D. C., March 16, 1946, pp. 23-49.
[4] Lilienthal, “The Acheson-Lilienthal Report on the International Control of Atomic Energy,” pp. 52-54.
[5] 杉江栄一、樅木貞雄編、『国際関係資料集』、法律文化社、1997年、21-30ページ。
[6] デイビッド・E・リリエンソール、『リリエンソール日記 2』、末田守、今井隆吉訳、みすず書房、1969年、205ページ。
[7] ディーン・アチソン、『アチソン回顧録 1』、吉沢清次郎訳、恒文社、1979年、194ページ。
[8] アンドレイ・グロムイコ、『グロムイコ回想録』、読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年、221ページ。
[9] 手塚治虫、『ぼくはマンガ家』、角川書店、2000年、144ページ。
[10] フィリップ・ノエルベーカー、『軍備競争』、前芝確三、山手治之訳、岩波書店、1963年、98ページ。
[11] 日本放送協会、「BS1 スペシャル 核の“平和利用”知られざるもうひとつの東西冷戦」、2014年11月30日。
[12] The Committee on Nuclear Proliferation, “A Report to the President,” January 21, 1965; DEF 18-10 Non-Proliferation, Gilpatric Committee, 1964, 1 of 3; DEF 18-10 Non-Proliferation, Gilpatric Co., 1964, 1; DEF Non-Proliferation, Japan to Def. Assurances, India and Germany, Box 11; Records Relating to Disarmament and Arms Control, 1961-1966; General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, MD.
[13] 「一年後発効見込む」、『朝日新聞』、夕刊、1968年7月2日、1面。
[14] 黒沢満、『核軍縮と国際平和』、有斐閣、1999年。
[15] “核兵器の禁止に関する条約(暫定的な仮訳),” 外務省, https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000433139.pdf, accessed on February 16, 2026.
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