人権は進歩や文明のバロメータである。他人のためのものではない。人権がない国では、生活のあらゆる分野で取り残され、気づいた時には政府と軍隊の老朽化も手遅れになっている。人々が勝ち取ったのでなく、支配者が与えただけの人権であっても、ないよりはましである。このように考えるならば、人権の水準は自発的に上げていくべきものであり、他人が押しつけるものでない。

それにもかかわらず、こうした教訓に耳を貸さない国に、おせっかいにも民主化を受け入れさせようとする国がある。それはアメリカ合衆国である。同国には、政治的権利と市民的自由を推進するフリーダムハウスという機関がある。1941年にファーストレディのエレノア・ローズベルトが創設した。21世紀の初め、合衆国政府がその収入の80パーセントを負担している、と報じられた[1]。 政府そのものではないにせよ、その政策エリートが世界各国を、自由、部分的に自由、そして、自由でない、に分け、監視している。

今回のテーマは、民主主義はどのように国際規範として確立するようになったのか、歴史的背景を踏まえて述べなさい、である。

朕は国家なり、で知られる絶対君主の時代、戦争は私利私欲を実現するために君主が行うものであると理解された。領土は収入なり、称号なりをもたらしてくれる。私欲のなかでも最重要なものは地位の保全である。戦争で負けたり、暗殺されたり、クーデターを起こされたりしなければ、地位を脅かされることはないであろう。君主の保身を目的とする軍事優先思考のよりどころはニッコロ・マキアベッリの『君主論』であった。

これに対抗したのがイマヌエル・カントの『永遠平和のために』であった。民主主義の国では議会で承認を得られなければ戦争はできないが、市民は戦争に巻き込まれたくないので、戦争を始めることを認めない、というものである。この系統の命題は、現代のアメリカ合衆国では「民主主義の平和(デモクラティック・ピース)」論と呼ばれる。すこしアレンジが加えられた、民主国どうしが戦争をする確率はその他の組み合わせの場合と比較して低い、というブルース・ラセットの命題が代表的なものである[2]。民主国であるアメリカ合衆国は実際には非民主国とよく戦争をするので、民主国どうしの組み合わせでの命題にしないとつじつまが合わない。

カントの考えは19世紀には自由主義者に広く共有された。少なくとも、1830年と1848年の2度の革命を支持した人々は彼の命題を信じていた。共和派知識人でもあった文豪のビクトル・ユゴーはルイ・ナポレオン大統領のクーデターに反対して亡命した[3]。仇敵のナポレオン三世がプロイセンの捕虜となる半年前、彼は亡命先の地で次のように述べた。

アメリカ合衆国の隣にはヨーロッパ合衆国があるべきである。そしてこの新旧両世界は一個の共和国にならなければならないであろう。この日は訪れる。そしてそのとき、諸国民の平和がこの基礎、つまり唯一のしっかりした基盤である人間の自由のうえに築かれるであろう[4]

アメリカ合衆国とヨーロッパ合衆国が並び立つ、という発想は冷戦終結後のいわゆるユーフォリア(陶酔感)にもかいま見られた。民主的な国家の間にはわだかまりがなく、平和な世界になった、と皆、思ったものである。

19世紀は大きな目で見れば普通選挙に向かう流れにどの国も乗っていた。民主化の第1の波というのはサミュエル・P・ハンティントンの表現であるが、1828年から1926年まで続いた民主主義の拡散期である[5]

この時代、政治亡命の規範もできあがった。1948年の革命に敗れた自由主義者がスイスに亡命すると、フランスの外務大臣アレクシ・ド・トクビルは国際法上の庇護権における先例を残した。国家には庇護権があって政治犯を引き渡す義務はないが、引き渡してはならないという義務もない。スイスが武力で脅されるならば、スイスの庇護権をフランスが実力で守ってさしあげよう。ただし、治安を乱した危険な扇動者は追放しておかねばならない。とトクビルは申し出て、次のように続けた。

正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてにこうしてあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります[6]

戦争は独裁者が起こす、と説教するのが市民でなく、アメリカ合衆国であればどうであろうか? T・ウッドロウ・ウィルソン大統領は、第一次世界大戦はドイツの人々が皇帝の手駒のように扱われたから起きたもの、との立場をとった。ドイツ帝国憲法では、開戦は皇帝の一存で決められる。合衆国憲法では、開戦は議会の権限である。ウィルソンは公開外交を戦後秩序の基礎として14か条の提案に書き入れた。国際連盟規約第18条もその趣旨の定めであった。

アメリカ合衆国の公開外交の歴史はさらにさかのぼる。エイブラハム・リンカーン大統領の在任中の19世紀半ばから、外交文書が『フォーリン・リレーションズ・オブ・ザ・ユナイティッド・ステイツ』として公刊されている。

第一次世界大戦後の秩序はウィルソンが望んだようにはならなかった。一時的に、民主主義は世界に広がったものの、1930年代には日本とドイツをはじめ、全体主義に転じた国々が相次いだ。これがハンティントンの言うところの第1の揺り戻しの波である[7]

第二次世界大戦が勃発し、アメリカ合衆国は勝者の側に再び立った。大戦中の1943年から戦後の1962年までが、民主化の第2の短い波である[8]

アメリカ合衆国は、非民主国であるとみなすソビエト連邦と共存しなければならなかった。米ソ関係について洞察力ある発言をしたのが、在モスクワ大使館の参事官を務め、後に栄転して、政策企画委員長、駐ソ大使などを歴任するジョージ・F・ケナンであった。彼もまた民主主義の色眼鏡でソ連を眺め、ソ連共産党の指導部は国内でも、国外でも、敵に取り囲まれていると警戒している、と指摘した。彼らの行動様式は独裁権力を築くことを人々の幸福より優先するものであるが、自らが弱い立場にいると自覚しているからこそ、ソ連からは攻撃してこない、ともケナンは述べ、ソ連を封じ込めることを献策した。

1958年から1975年まで、第2の揺り戻しの波を民主主義は経験した。植民地が独立した時、民主的でない体制で新国家が出発する場合が多かったからである。西側、すなわち民主主義を結束のシンボルとする先進諸国にとって、こうした事態は試練であった。

7月4日はアメリカ合衆国のインデペンデンス・デイ、日本語では独立記念日である。1962年のその日にジョン・F・ケネディ大統領は独立宣言をもじり、西ヨーロッパとのインターデペンデンス宣言、つまり相互依存宣言をする用意があると演説した。それは大西洋パートナーシップともいうが、自由な国民であるアメリカ合衆国と西ヨーロッパは結束していこう、という呼びかけであった。共同防衛、途上国への開発援助、貿易障壁の減少、通商・商品・通貨問題における一致・協力が求められた[9]

1974年、第3の波が民主化に始まった[10]。起きた場所はイベリア半島であった。ポルトガルでは1970年に独裁者アントニオ・オリベイラ・デ・サラザールが死に、4年後に後継者の政府がクーデターにより崩壊した。スペインの独裁者フランシスコ・フランコも1975年に死んで、政治改革が始まった。続いてアジアでは1986年、不正選挙に手を染めたフェルディナンド・E・マルコスが出国し、代わってコラソン・アキノがフィリピンの大統領に就任した。これはピープルパワー革命と呼ばれる。1990年代になると、タイとインドネシアで民主化が起きた。

最も高い民主化の波は東ヨーロッパを襲った。今になって振り返れば、ミハイル・ゴルバチョフが唱えたヨーロッパ共通の家という考えは根源的であるがゆえに、破壊的であった。ゴルバチョフ自身はこう説明していた。

われわれはあなたたちと共にこのヨーロッパに住んでいます。―中略―われわれには明確な伝統があります。われわれには歴史があります。―中略―ある者はそちらから、またある者はこちらからと、出入口はちがっても、われわれは同じ家に住んでいるのです。この家の中で協力し、コミュニケーションを調整することが、われわれには必要なのです[11]

多元主義・民主主義・市場経済を共有するヨーロッパ大西洋共同体をウラジオストクにまで拡大する、とソ連に言われても半信半疑の受け止めが多かった。ロシア自体がそれらを取りこめなかったし、西側もNATOやECの運命をロシアに託するつもりはなかった。

1989年の時点では、未来は不確実ではあったが、皆が明るい未来を信じて行動した。ポーランドでは、自由選挙でレフ・ワレサ率いる連帯が圧勝した。東ドイツでは、ベルリンの壁が取り壊された。チェコスロバキアでは、バツラフ・ハベルが大統領に就任した。ルーマニアでは、ニコラエ・チャウシェスク大統領が処刑された。その年、ゴルバチョフの地位は安定していた。

ところが、1991年にボリス・エリツィンというライバルが現れた。彼はロシアの大統領となって、ゴルバチョフとソ連の権威を脅かした。その年末、ついにソ連は終わりを迎えた。この間に何があったのか?

1989年7月の米ソ外相会談において、ソ連のエドゥアルド・シェワルナゼ外相が語った言葉が予言的であった。この言葉に従っていれば、政権維持の綱渡りができたのである。

武力を行使すれば、それでペレストロイカは終わりだ。われわれは失敗したことになる。将来への希望も絶たれる[12]

武力を使わないという原則への最大の試練はベルリンの壁であった。それはゴルバチョフが唱えた「共通の家」を遮断する最大の障害でもあった。

1989年8月のパンヨーロッパ・ピクニックはベルリンの壁を取り除く予行練習であった。欧州議会議員オットー・フォン・ハプスブルクとハンガリー政府がハンガリーとオーストリアの国境の町ショプロンでのイベントを組織した。ここで驚くべきことが起きた。ソ連の同意を得たハンガリー政府が鉄条網をとり払ってしまった。チラシを見てイベント会場に来ていた東ドイツ国民が自由なオーストリアに出国した。ベルリンの壁を迂回して、東ドイツから西側への移住が成功したのである。東ドイツ国内は騒然となった[13]

東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長はソ連に大量出国を止めることを要求したが、ソ連に無視された。東ドイツ各地にデモは広がった。ホーネッカーは鎮圧を命令したものの、国家治安本部長エゴン・クレンツは消極的であった。失脚したのは20年以上、権力を握り続けたホーネッカーのほうであった。デモの拡大はやまなかったので、ゴルバチョフは壁の開放を助言した。なし崩し的に壁の検問は廃止された。11月のことであった。

1989年12月、米ソ首脳はマルタ会談において、冷戦は終結した、と宣言した。ルーマニアを除いて武力が使われなかった東ヨーロッパの革命はビロード革命と呼ばれる。

武力がソ連で行使されてしまったのが1991年1月にリトアニアのビリニュスで起きた「血の日曜日」事件である。ソ連軍が15人を殺害し、数百人が負傷した。ジョージ・H・W・ブッシュ(父)大統領はゴルバチョフ宛に親書を送り、経済援助を打ち切るぞ、と警告した。ゴルバチョフの退場を運命づけたのは8月クーデターで、彼は副大統領らにより監禁された。ブッシュはクーデターを違憲、違法と表現し、ゴルバチョフの側についたものの、本心では「彼の役割は終わったのかもしれない」と考えた[14]。9月にバルト3国は独立し、12月にソ連は廃止された。

ヨーロッパ、少なくともロシア周辺以外、では民主主義は地域の規範になっている。国際レジームと呼んでよい。1990年におけるCSCEのパリ憲章は「民主主義を唯一の統治システムとして建設・定着・強化することを約束」した。西半球でも、米州機構(OAS)はボゴタ憲章第5条において「代表制民主主義の有効な実施に基礎をおくこれらの諸国の政治機構を必要とする」[15]と述べる。

東アジアではそうした地域レジームはできていない。確かに、中国でも民主化の動きはあった。1976年に、四人組に反対した第一次天安門事件のデモが起きた。1978年の「北京の春」では、魏京生らが民主化を要求した。

地方の人民代表選挙に直接選挙が1979年に導入されている。全国・省・市の人民代表大会の代表は間接選挙であるので、県の人民代表大会が市の人民代表大会を選び、市の人民代表大会が省の人民代表大会を選び、省の人民代表大会が全国の人民代表大会を選ぶ。直接選挙の場合でも、候補者の擁立に共産党のコントロールが加わることが圧倒的多数である。

1989年、第二次天安門事件(六四天安門事件)が起きた。学生と市民が民主化を要求し、武力によって鎮圧された。これに米欧は厳しい対応をとった。

シンガポールで首相を務めたリー・クアンユーやマレーシア首相マハティール・ビン・モハマドら、東アジアの指導者たちは米欧の天安門事件に対するいする反応に抗議した。マハティールと石原慎太郎の『「NO」と言えるアジア』を引用する。4年後に失脚するスハルトへの評価が興味深い。

じつは実際に成功している国は逆にリベラルすぎるデモクラシーを採用していない国、あるいは政府が経済面においても重要な役割を果たしている国です。政治的安定は、明確な長期的ビジョン、一貫性といったものが不可欠で、これがゆえにリー・クアンユー現上級相により花開き今ゴー・チョクトン現首相により継承されているシンガポールの成功物語があるわけですし、同様にほぼ三十年の長期にわたって政権の座にあるスハルト大統領によるインドネシアの成功物語があるのだと私は考えます[16]

2011年にアラブの春が起きた。チュニジアではベンアリ政権が崩壊し、ジャスミン革命と呼ばれた。イエメンでもデモが始まり、最終的にアリー・アブドゥッラー・サレハ大統領が権力移譲に同意した。エジプトではムバラク政権が崩壊した。バーレーンではデモ隊と警官隊が衝突した。リビアではデモが内戦に発展し、カダフィ大佐が殺害された。シリアでもアサド政権に対するデモが内乱に発展した。

数年後、民主化の成功が明白であったのは、指導者たちに2015年のノーベル平和賞が贈られたチュニジアだけであった。他の多くでは混乱のほうが目立ち、アラブの終わらない冬になった。

実は、中国も、アラブも、ロシアも、さらにはイランも、問題の根源は同じである。政権は、人々が直接選挙で最高指導者を選ぶことをどうにかして阻もうとする。一つの方法は、間接選挙を積み重ねることによって、人々の意思が政治に反映されないようにすることである。もう一つの方法は、候補者資格を審査すると称して、権力者に反抗的な人物の立候補を認めないことである。選挙を制限する公式な理由はイデオロギーによってさまざまである。マルクス・レーニン主義でもよい。イスラム原理主義でもよい。開発主義であってもよい。反植民地主義でもよい。

民主主義が持続可能な選択の自由を保障する強力な制度であることはまちがいない。しかし、民主的な選挙が絶対的であることを信じない人々は多い。民主主義をとるとされる国でさえ、長い物には巻かれろ、とか、寄らば大樹の蔭、とかいった世上の権力に抗わない風潮がある。当分の間は、こうした現実を現実として受け止めつつも、理想のともし火を掲げ続けなければならない。ジョン・F・ケネディの言葉でこの回を締める。

世界じゅうの市民諸君、アメリカが諸君のためになにをなし得るかを問わず、われわれが、ともに人類の自由のためになにをなし得るかを問いたまえ[17]


[1] “When freedom stumbles,” The Economist, January 19th, 2008, https://www.economist.com/international/2008/01/17/when-freedom-stumbles, accessed on February 9, 2026.

[2] ブルース・ラセット『パクス・デモクラティア―冷戦後世界への原理』、鴨武彦訳、東京大学出版会、1996年。

[3]  木下郁夫、「民主主義と平和のレトリック―マキアベリズムとポピュリズムのはざま」、山本武彦編、『国際安全保障の新展開』、早稲田大学出版部、1999年。

[4] Victor Hugo, “Washington,” in Œuvre complète, t. XIV (Paris: Club français du livre, 1970), p. 873.

[5] S・P・ハンチントン、『第三の波―20世紀後半の民主化』、坪郷實、中道寿一、藪野祐三訳、三嶺書房、1995年。

[6] トクヴィル、『フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録』、喜安朗訳、岩波書店、1988年、407-408ページ。

[7] ハンチントン、『第三の波―20世紀後半の民主化』。

[8] ハンチントン、『第三の波―20世紀後半の民主化』。

[9] 高村暢児編、『絶叫するケネディ』、学習研究社、1964年。

[10] ハンチントン、『第三の波―20世紀後半の民主化』。

[11] ミハイル・ゴルバチョフ、『ゴルバチョフ回想録』、下、工藤精一郎、鈴木康雄訳、新潮社、1996年、83ページ。

[12] ストローブ・タルボット、マイケル・R・ベシュロス、『最高首脳交渉』、上、浅野輔訳、同文書院インターナショナル、1993年、159-160ページ。

[13] NHK、「こうしてベルリンの壁は崩壊した」、DVD、NHKエンタープライズ、2000年。タルボット、ベシュロス、『最高首脳交渉』、上、212-216ページ。

[14] タルボット、ベシュロス、『最高首脳交渉』、上、492、514-515、688、697ページ。

[15] 香西茂、安藤仁介編、『国際機構条約・資料集』、第2版、東信堂、2002年、413ページ。

[16] マハティール、石原慎太郎、『「NO」と言えるアジア 対欧米への方策』、光文社、1994年、121ページ。

[17] 高村編、『絶叫するケネディ』、52、54-55ページ。

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