人権外交について具体例に言及しながら論じなさい、というのが今回のテーマである。人権は市民革命の時代から、もっぱら国内の法規範であった。普遍的人権、というのは、それを万国、全世界に広げようという発想である。これもローズベルトの四つの自由が発端であった。それ以来、行われてきた人権外交は、壮大な人類の実験と呼んでよい。

第二次世界大戦後の秩序を、アメリカ合衆国では国務省が立案することになった。世界の憲法を作る意気込みであった。憲法の構成要素は権利章典と統治機構の二つに分けられる。世界の憲法であれば、もちろん統治機構は国際連合である。国際的権利章典の試案も実は国務省は1943年夏に作っていた。

そこから迷走が始まった。1943年秋にイギリスとソ連とともに発したモスクワ宣言において、国連の目的は、国際の平和および安全に限定された。アメリカ合衆国の国内ではNGOを中心に、人権を国連の柱としようとする動きが噴きあがった。ナチスによる焚書とホロコーストが正義心をかきたてたからである。1944年秋のダンバートンオークス提案に、経済社会協力を国連の一機能にすると盛り込まれたのは朗報であった。サンフランシスコ会議でもNGOは圧力を加え、人権に関する条項を国連憲章に記載させるのに成功した[1]

人権は数か所、国連憲章で言及されている。前文では人権への信念が確認され、第1条3では国連の目的の一つに数えられた。第13条1では総会によりその尊重が助長され、第68条では人権委員会が設けられることになった。ただし、第2条7では、国内管轄事項に国連が干渉する権限は否定される。ある問題が国際関心事項か、国内管轄事項かの振り分けは、加盟国間の政治によって決まることである。

NGOが最も重視していたのは人権委員会の立ち上げであった。挫折した権利章典を人権委員会に起草させようと目論んでいたからである。国務省は同委員会の委員長に前大統領未亡人のエレノア・ローズベルトをすえた。彼女は政治経験があり、この分野に通じていた。世界人権宣言は完成し、1948年に国連総会で採択された。ただし、こうした総会決議には加盟国の行動を縛る法的拘束力はない。

法的拘束力がある条約によって人権を保障したい、という願望は絶えなかった。1966年に採択された国際人権規約は拘束力のある条約であるが、本当は2本の別個の条約である。A規約とも、社会権規約とも呼ばれる「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(ICESCR)と、B規約とも、自由権規約とも称される「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)がある。

なぜ、2本になったかといえば、自由権規約は西側諸国が積極的で、東側諸国は及び腰であったからである。世界人権宣言の採択時、この対立はなかったのか? あった。自由権が入っていても、法的拘束力がない宣言をソ連は危険視しなかった。国際法に対する態度の違いは西側と東側の間だけにあったわけでない。日本とて、自由権規約の選択議定書については個人通報制度に関する第一選択議定書にも、死刑廃止に関する第二選択議定書にも入っていない。

これ以外にも、国連のもとで、人種差別撤廃条約(1965年)、女子差別撤廃条約(1979年)、拷問等禁止条約(1984年)、児童の権利条約(1989年)、障害者権利条約(2006年)、強制失踪条約(2006年)などが採択された。その他、国連の制度として、1993年に国連人権高等弁務官が置かれた。これはNGOが30年間近く要求してきたものがようやく実ったものである[2]。さらに、2010年には、従来の国連女性開発基金(UNIFEM)や女性の地位向上部を統合したUNウィメン(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)が国連総会により設置された。

このように制度は整備されたが、問題もある。条約が実施されるかどうか、つまり条約遵守の成否は加盟国の意欲頼みである。具体的には、留保の問題がある。留保とは、条約に加わる際に、特定の条項に縛られないことをあらかじめ宣言しておけば、履行しなくても違反にならないという仕組みである。これが濫用されると、条約の締約国であることの意味そのものが問われかねない。条約の核心部分での留保は許されるか?、には論争がある。

女子差別撤廃条約について言えば、第2条と第16条に対する留保は、条約の目的と両立しないため許されないと考えられている。しかし、少なからぬ国がそれらに対して留保している。例えば、第2条1(c)は「婚姻中及び婚姻の解消の際の同一の権利及び責任」についてのものである。婚姻での平等に留保を付して、男女平等と言えるであろうか? 婚姻における差別を許容できる女子差別撤廃条約とは何なのであろうか?

ほかには、締約国政府が報告書を社会権規約委員会または自由権規約委員会に提出し、委員会が報告書を審査する制度がある。これは締約国に何かを強制する目的のものではない。審査をつうじた言論の自由が国連にはあり、迅速な解決は期待できないかもしれないが、報告と答弁で自国の行いに対して説明責任を果たさなければならない、ということである。

人権委員会とその後身である人権理事会には、特別報告者という制度がある。彼または彼女は人権侵害について調査し、報告する。日本で有名になったのはクマラスワミ報告書である。ラディカ・クマラスワミ特別報告者により作成され、1996年に提出された。日本語での名称を「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」という。扱う内容は第二次世界大戦中の慰安婦に関することである。記述の真偽が激しく争われたのは「国家総動員法の一部である国民勤労報国会の下で、他の朝鮮人とともに、1000人もの女性を「慰安婦」として連行した奴隷狩り」という箇所である[3]

伝統ある国連人権委員会は2005年に廃止され、翌年、人権理事会が置かれた。両者の違いは選出母体である。人権委員会の委員が経済社会理事会により選出されたのにたいし、人権理事会は総会により選出される。経社理の理事国自体、総会により選出されるから、人権理事会の選出はより全加盟国の意思に近くなったと評価できる。

国連の人権における活動で最大の成果は何であったか?、と問われれば、アパルトヘイトへの取り組みと答えよう。総会でアジア・アフリカ諸国が多数派となったことを受け、1962年から、アパルトヘイト非難決議が行われた。1973年には、アパルトヘイト罪の禁止処罰に関する国際条約も採択された。情勢が本当に変わったのは、安保理が1977年に南アフリカに対する武器禁輸を決議して以降であった(S/RES/418)。南アフリカの味方であった西側諸国が同国と距離をとり始めたということであり、1985年にアメリカ合衆国の連邦議会が経済制裁を可決する前触れであった。1989年にフレデリック・ウィレム・デクラークの政権が成立し、南アフリカの改革は本格化した。初のアフリカ系大統領ネルソン・マンデラは1994年の選挙の結果、生まれた[4]

目を国連の外に転じよう。NGOの活躍が著しいのが人権問題の特徴である。有名なアムネスティインターナショナルが設立されたのは1961年である。「良心の囚人」と呼ばれる政治犯の釈放を求めたことが活動の出発点であった。

CSCE(欧州安全保障協力会議)は人権問題を人々の関心事にした。1975年に採択されたヘルシンキ最終議定書は三つのバスケット(分野)から成っていた。第1は安全保障、第2は経済・環境、そして第3が人的次元であった。人的次元は検閲・ジャミング・移動制限、交流・留学・交通、そして出版物の流布といった市民の自由をテーマとした。

CSCEの第3バスケットは緊張に満ちた東西関係のはざまで、あまり目立たないようでありながら、最も成果を上げたといえる。最終議定書の履行状況をチェックするために、ベオグラード、マドリード、そしてウィーンで再検討会議が開かれた。民間からも、人的次元の履行状況を監視する団体が現れ、1978年、フォード財団の支援でヘルシンキウォッチが設立された。これはのちにヒューマンライツウォッチというメジャーな団体に発展した[5]。CSCE自体も、冷戦が終わると、OSCE(欧州安全保障協力機構)に改組された[6]

人権が1970年代、新しい国際政治として注目されるなか、反体制派(異論派)が登場した。アレクサンドル・ソルジェニーツィンは1973年に『収容所群島』を著し、ソ連における自由の制限を暴いた。彼は翌年、国外追放の憂き目にあい、愛する祖国を離れなければならなかった。アンドレイ・サハロフは1975年、人権と軍縮への貢献を理由にノーベル平和賞を与えられたが、5年後にはゴーリキー(現ニジニノブゴロド)の町に流刑されてしまった。

ソ連以外でも、反体制知識人が現れ、冷戦の終わりとともに国家指導者に推戴された。ポーランドでは、労働者に協力する知識人の団体KOR(労働者擁護委員会。後に社会自衛委員会)が政府の戒厳令と戦った。チェコスロバキアでは、ヤン・パトチカ、バツラフ・ハベル、イジー・ハーイェクなどの知識人が1977年の元日に憲章77を公表した。

これらの規約[A規約とB規約―引用者]が保証しているさまざまな自由と権利は、歴史において多くの進歩的人々がその獲得を目指して努力し、その法制化がわが社会の人道的発展を著しく促進させうる、重要な文化価値である。したがってわれわれは、チェコスロヴァキア社会主義共和国がこれらの規約に加盟したことを歓迎するものである。

しかしながら、これらの好評はわれわれに、わが国でいま――残念ながら――いかに多くの基本的諸権利が単なる紙上の空文となっているかを、新たに緊急なものとして思い起こさせる[7]

こうした真剣な異議申し立てには裏もあった。現在では知らぬ者がない投資家ジョージ・ソロスが資金源であった。まじめな理想主義と不明朗な資金源との結びつきはスキャンダラスである。仮にアメリカ合衆国政府が依頼して資金を出させていたとすれば「他の手段をもってする政治」にほかならないが、私人が善意で人権活動を支援することには何も恥じるべきことはない。ソロスの自伝から引用する。

「同じく八〇年に、東欧の反体制派に奨学金を提供し始めた。人権擁護団体やポーランドの「連帯」、そして(スウェーデンの財団を通じて)チェコスロヴァキアの「憲章七七」に、またサハロフ博士の反体制運動にも援助を開始した。」(145ページ)

「当時はヘルシンキ・ウォッチと呼ばれていたヒューマン・ライツ・ウォッチ[人権擁護組織-訳注]にも首を突っ込み、毎週の会合に参加していた。―中略―ヒューマン・ライツ・ウォッチの指導者だったアライア・ナイアーは現在、私の財団の会長になっている。だが当時、オープン・ソサエティ・ファンドは実に小規模な試験的活動だった。南アフリカの試みの後、私の活動の中心は東欧の反体制派知識人にアメリカ訪問の機会を与えることに移っていた。反体制派の人を毎回一度に十数人ずつ招待し、そのうちの何人かと知り合いになった。」(145-146ページ)

「選考は秘密裏に行われ、反体制派の人間が選ばれていた。ある意味では、奨学金がむしろ彼らの名誉を傷つけてしまうわけだ。反体制であることを飯の種にしていると非難されかねないからね。」(146ページ)[8]

政治犯の問題とともに、移民の問題が浮上した。アメリカ合衆国議会は1974年通商法ジャクソン・バニック修正によって、外国への移民を認めない国には貿易上の最恵国待遇の資格がないと定めた。その後、就任したジミー・カーター大統領は、米ソの首脳外交でこの話題を持ちだした。

わたしが人権の問題に話を向けるたび、ブレジネフは非常に不愉快な顔になった。―中略―最も有名な反体制派ユダヤ人の指導者のひとり、アナトリー・シャランスキーの名前は、いつもわたしの協議課題のリストに載っていた。あるときソビエト外相のアンドレイ・グロムイコが、シャランスキーのような反体制派ユダヤ人など「誰にも何の影響もない、けしつぶのような一点」にすぎないと言ったのをおぼえている。―中略―ソ連から移住するユダヤ人の数が一九七六年の一四〇〇〇人から一九七九年には五一〇〇〇余人と、大きく増えたのだ[9]

カーターの努力でソ連からの出国者数が激増したということはなかった。それが起きたのはミハイル・ゴルバチョフが指導者になった1980年代以降である[10]。最終的にはロシアからイスラエルに約百万人のユダヤ人が移民した。人権外交といえばジミー・カーターと連想されるのは、表舞台で「声高な外交」を展開したからである。

アメリカ合衆国連邦議会は人権外交の発信地の一つであり、エドワード・M・ケネディのような有力な上院議員が熱心であった。有賀貞によると、ジャクソン・バニック修正以外にも注目に値する立法があった。対外援助法(1973年、1974年、1978年)は、人権を侵害する国に援助を禁止し、人権の尊重を援助の目的にする。国際金融機関法(1977年)は、人権を侵害する国への援助に国際機構で反対投票をすることを政府に義務づける。輸出入銀行法(1978年)は、融資に際して人権状況を考慮させる。1976年からは、国務省に「諸国の人権状況に関する報告書」を出させている[11]

カーターの人権外交によって、冷戦外交に変更が加えられたのは事実であった。それは声高な外交によってではなく、出先の大使館など目立たないチャネルを使った「静かな外交」によるものであった。ラテンアメリカでは、それまで軍事政権を含む保守政権を支持してきたアメリカ合衆国は、政権の人権抑圧を許さなくなった。ニカラグアのアナスタシオ・ソモサ親米独裁政権は1979年に倒れ、アルゼンチン・チリ・ブラジルの軍事政権は政治犯を釈放した[12]

韓国の軍事政権に対する静かな外交は、続くレーガン政権に引き継がれた。死刑判決を出された政治犯、金大中、の裁判に干渉し、1982年には釈放させた[13]。全斗煥政権の末期である1987年には、駐韓大使が大統領と会見し、人権抑圧に警告を発した。

全斗煥は、渡された親書に目を通した。信書の文面は、レーガンらしく親密な調子だった。まず最初に韓国に対する安全保障の約束を再確認し、政権の平和委譲の公約を賞賛し、政治犯の釈放、職権濫用の警察幹部らの訴追、報道の自由の促進など政治改革続行に向けた一連の追加措置をとるように助言していた。そうした措置を実施すれば「閣下ご自身が正しく『旧体制』と指摘していたものの束縛を決然と打破する意志を世界に示すことになるでしょう」とレーガンは訴えた。

これを補完して、私は自分の言葉で、親書の内容を一歩進め、事態の深刻さと戒厳令布告にたいする米国の明確かつ堅固な意思を伝えた。さらに米軍当局の意向も代表して「私たちは一致して、武力の不行使を提言します」と強調し、最後に、戒厳令が布告されることになれば、米韓関係は大きく損なわれ、一九八〇年の光州での惨事を繰り返す危険を冒すことになるとまで言い切った。―後略―

―前略―その日の午後の遅い時間に崔外相から電話が入った。崔外相の説明によると、全斗煥は私との会見後に戒厳令布告を断念したという[14]

アメリカ合衆国の人権外交はさながら間欠泉である。「中国のサハロフ」と呼ばれた方励之は1989年に北京の合衆国大使館に亡命したが、翌年、中国政府に出国許可を出させた。次のクリントン政権では「北京の春」の魏京生と天安門事件の王丹を出国させた。

うまくいったものばかりでない。08憲章はチェコスロバキアの77憲章を想起させるが、2008年に303人の中国人が自国の民主化と人権擁護をインターネット上で要求したものである。これに関し、翌年、反体制派作家の劉暁波が国家政府転覆扇動罪で起訴された。2010年、ノーベル平和賞が本人欠席のまま彼に授与され、その7年後、彼は獄中で亡くなった。

まとめると、人権外交は人権擁護を他国に求める外交一般を指すが、特に共産国や途上国に対して自由権の擁護を求める西側諸国からの圧力について用いられる傾向がある。ミャンマーにおけるアウンサンスーチーの軟禁や北朝鮮人民の人権も外国の関心を集めた。そのように外国が人権状況の改善を求め始めると、求められた国はより身構えて拒否するようになる。結局のところ、鉄のカーテンや竹のカーテンの向こう側にいる人々がどれだけ自由を求めているかが分かれ目である。 体制側が公認する「幸福」の見方に人々が従っている間は、声高な外交は効果を見込めない。


[1] 木下郁夫、『賢者ガルシアロブレス伝―国連憲章と核軍縮に取り組んだ外交官』、社会評論社、2015年。

[2] LAB13/2409 295483.

[3] E/CN.4/1996/53/Add.1. ラディカ・クマラスワミ, “女性に対する暴力―戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書,” 女性のためのアジア平和国民基金, http://www.awf.or.jp/pdf/0031.pdf, accessed on February 9, 2026.

[4] 有賀貞、「南アフリカ政策と「アパルトヘイト体制」、有賀貞編、『アメリカ外交と人権』、日本国際問題研究所、1992年、266-314ページ。

[5] Paul Kennedy, The Parliament of Man: The Past, Present, and Future of the United Nations (New York: Random House, 2006).

[6] 百瀬宏、植田隆子編、『欧州安全保障協力会議(CSCE) 1975-1992』、日本国際問題研究所、1992年、98、317ページ。

[7] ヴァツラーフ・ハヴェル、『ハヴェル自伝』、佐々木和子訳、岩波書店、1991年、裏17ページ。

[8] ジョージ・ソロス、『ジョージ・ソロス』、テレコムスタッフ訳、七賢出版、1996年。

[9] ジミー・カーター、『平和を語る―次世代のためのヴィジョン』、高城恭子訳、近代文芸社、1994年、137ページ。

[10] 高橋和夫、『アラブとイスラエル』、講談社、1992年、153ページ。

[11] 有賀、「アメリカ外交における人権」、8-12ページ。

[12] 有賀、「アメリカ外交における人権」、 18-20ページ。

[13] 高松基之、「韓国に対する人権外交の展開」、有賀編、『アメリカ外交と人権』、 211-213ページ。

[14] ジェームズ・R・リリー、『チャイナハンズ』、西倉一喜訳、草思社、2006年、267ページ。

プライバシーポリシー

© 2026 Ikuo Kinoshita

非核地帯
非核地帯とは核兵器の非武装地帯である。そこには核兵器はないので、核攻撃の発源地にはならない。この意味で平和に貢献するともいえるが、核攻撃の目標にはなりうるわけで、その抑止を希望するのであれば地帯外の国に抑止力を期待しなければならない。もちろん、抑止を希望しない場合にそうした必要はないが、被弾の不安がなくなることが条件である。不安を取り払うことは簡単でないわけで、やはり何がしかの努力が必要である。…
難民と人道援助
紛争が起きれば、戦闘員だけでなく非戦闘員の被害も大きい。誤射や誤爆の巻き添えになるばかりでなく、破壊や避難によって、衣食住に支障が出る。着の身着のまま逃げ出せば、着る物も雨風をしのぐ所もない。店が閉まり、食品も届かない。健康が損なわれるのは時間の問題である。こうした事態は地震や水害のような天災でも同じであるので、非紛争地域の人たちにも他人事でない。今回のテーマは、難民・国内避難民など紛争下の文民…
集団安全保障と自衛権
https://youtu.be/K7VHDCunF9k 国際連合を作る第一歩は、アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズベルトによる「四つの自由」演説(1941年1月)であった。自由の一つ、「恐怖からの自由」、とは軍縮のことであると説明されたが、軍縮が可能になる平和な世界を作るには軍縮以上の何かが必要であった。 平和のためには何が必要か? 同じ1941年の8月、ローズベルトはイギリスのウィンストン・チャーチル首相とともに、大西洋憲章を…
朝鮮戦争
冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて…
ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…