どこからが人身売買で、どこまでは違うのか?、というのは難問である。子供を売るのはもってのほかとして、臓器を売るのも危険すぎて十分、反社会的である。では、髪の毛を売るのはどうなのか? 一生、奴隷としてこき使うのはもってのほかとしても、スポーツ選手と複数年契約を交わすのはどうなのか? 人身売買とそれ以外の実践とでは、微妙なところは明確に区別できず、程度の問題でしかないこともありそうである。こういう場合、歴史に尋ねる、というやり方がある。何が許され、何が許されないか? 公然と論争が繰り広げられた過去がある。今回のテーマは、奴隷貿易や苦力貿易など人身売買の禁止と自由移民時代の到来をめぐる歴史について論じなさい、である。

人間そのものが商品である奴隷貿易は、まぎれもなく、人身売買である。18世紀、大西洋三角貿易の一辺にそれが組み込まれていた。貨物船で、ヨーロッパからガラス玉や銃器をアフリカに運び、それらと引き換えに奴隷を仕入れ、アメリカで砂糖やラム酒に積み替えて、ヨーロッパへ帰る。こうすれば、つねに船倉は満載され、効率的である。奴隷船では、人々は甲板の上で鎖でつながれ、垂れ流された糞尿を洗い流す時だけ体を動かすことができる。航海中の死亡率が数十パーセントに達したこともまれでない。

こうした風潮が変わったのは、人間の平等を謳ったフランス革命の人権宣言からである。奴隷貿易の禁止が奴隷制そのものの禁止よりも先行し、1807年にイギリスで、翌年にアメリカ合衆国で禁止された。さらに1815年にはウィーン会議において、大西洋奴隷貿易の禁止がヨーロッパの諸大国によって宣言された。1839年のアミスタッド号における奴隷の反乱はアメリカ合衆国とスペインとの国際紛争になり、スティーブン・スピルバーグ監督によって映画化された[1]

取り締まりには実力がいる。世界の警察官として奴隷貿易を摘発したのはロイヤルネイビーすなわちイギリス海軍であった。洋上で発見した奴隷船と交戦し、乗り込んで拿捕するのである。こうした覇権国の役割は、違法薬物取引やテロリストを取り締まる現在のアメリカ合衆国と重なる。

しかし、光が強ければ強いほど、闇も深い。カタバというギニア海岸の部族とイギリスとの関係を見よう。1841年に両者は条約を結んだ。目的は奴隷貿易の根絶である。具体的な権利義務については、イギリスの軍艦は奴隷船を捕獲することができ、また、戦争をしかけ、捕虜を奴隷とする隣接部族をカタバ王は防げないので、カタバはイギリスの保護下に入る。さらに、カタバ王はイギリス以外の国と同盟・交渉・通信しないことを約束する[2]。以上の内容は、カタバがイギリスの保護国に転落してしまったことを意味する。植民地化は奴隷貿易禁止により正当化されたのである。

奴隷制の廃止は進んだが、大量の流血を伴った。1833年にイギリスで、1848年にフランス植民地で廃止されたところまでは順調であった。しかし、アメリカ合衆国は南北戦争で二つに割れた。奴隷制の廃止は1862年の予備布告、1863年の最終布告を経て、1865年の憲法修正第13条で制度的には完成した。米州最後の奴隷制は1888年にブラジルで廃止され、それを実行した皇帝は位を逐われた。その後もアジアやアフリカで奴隷制が残存したことは忘れられがちである。

すでに、奴隷貿易の禁止が植民地化の口実になった先例を見た。それを、大規模かつシステマティックに実行したのがコンゴ自由国である。1876年、アフリカの貿易を促進し、奴隷貿易を一掃するため、ベルギー王レオポル二世は国際地理会議を招集した。翌年には、国際法協会も、「アフリカ中部の探検と文明化に携わるベルギー王のイニシアティブを称賛」した[3]

19世紀で最も劇的な出会いのシーンは、探検家デイビッド・リビングストンをアフリカで発見したヘンリー・M・スタンリーのものであろう。有名人になったスタンリーに、レオポル二世が援助してコンゴ探検を成功させた。国際法協会といい、スタンリーといい、最上級のお膳立てである。

さらに、レオポル二世は1882年に国際コンゴ協会を設立し、諸部族との条約を結ばせた。詰めは1884年に始まった第2回ベルリン会議であった。コンゴ自由国の設立と自らをその主権者とすることを会議は決定した[4]。国際社会の総意が彼の企みを支持したのである。

これは発想の転換であった。奴隷貿易がダメなのであれば、現地人をすべて奴隷に変えてしまう(=植民地にしてしまう)手を使えばよい。コンゴ自由国はベルギー王の私領であったが、天然ゴム園を軍隊と鎖を使って管理させた。搾取と暴力に対する国際的な非難が高まり、1908年にコンゴ自由国は王の私領から国家の植民地に改編された[5]

冒頭で触れたように、人身売買はさまざまな形をとる。女工といえば『女工哀史』(1925年)が有名であるが、同書には3年以上の勤務を承諾させられ、それを満たさず退社すると、借金の一括返済を迫られる証文類が掲載されている[6]。借金は給料から毎月、返済されることになっていたが、現在ではこれは違法である。労働基準法第17条は「使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。」と定める。また、附則第137条は、「当該労働契約の期間の初日から一年を経過した日以後においては、その使用者に申し出ることにより、いつでも退職することができる」とする。

身売奉公はもうない、と信じたいが、年季奉公のような長期の契約はなかなか消えなかった。問題の本質は何であるのか? 太平洋戦争が終わった翌年のことを法社会学者は証言する。

―前略―私が一九四六年の夏に山形県の飛島で調査しました時に聞きましたところでは、飛島へ売られてくる子供――「南京小僧」と言っているのですが――、そういうものは古くからの習慣だそうでありまして、山形県辺りの農村から売られてくるとのことで、いわば日常茶飯事になっていて、村の人もそういう事にわれわれほど神経を尖らせない。貧乏だから売るという、ただそれだけの茶飯事と思っているようでした。これと類似の現象としてもっとも代表的なものは、芸者、娼妓或いは私娼に女を売る。―中略―ともかく前借金・年期奉公という形式も非常に似ています[7]

さて、時間を南北戦争が終わったころまでさかのぼる。南北アメリカ大陸の労働力不足は相変わらずであった。同地では、前借金・年季奉公の契約形態がはびこっていた。1867年に渡米し、後に首相になった高橋是清は、自らの体験を次のように回顧する。

私は「暇を下さい、私はあんな奴と一緒にいるのは嫌です」と申出た。すると主人は、

「お前は勝手に暇を取って帰るわけには行かぬ。お前の身体は、三年間は金を出して買ってあるのだ。現にお前は友人と二人で、書附にサインまでしたではないか」

という。私は驚いてしまった。あの時署名したのは身売りの契約書であったのか、実にけしからぬことだ[8]

苦力貿易が奴隷制に代わる人身売買として蔓延し、イギリス海軍もその点に目を付けていた。苦力(クーリー)とはインド人・中国人の単純労働者であり、必ずしも契約が人身売買であるとはかぎらない。これが苦力貿易という言い方になると、もっぱら苦力の人身売買という意味になる。

苦力貿易の主な出発地は中国南部であった。日本が関わったマリアルス号事件は、1873年におけるマカオの苦力貿易禁止布告につながった。事件そのものは前年の1872年のことである。ペルー船がマカオで苦力230名を乗せ、天候の関係で横浜に寄港して発覚した。彼らはわが身の行く末を悲観していた。外国に連れていかれると知らずに契約した者、また、船上で懲罰として辮髪を切られた者など、人間的な扱いを受けていなかったからである。

マリアルス号の苦力が横浜港内で船から飛び降りたことから、問題があらわになった。助けられた彼の話はアメリカ合衆国とイギリスの公使館の知るところとなった。両国代理公使は虐待の究明を日本の外務省に訴えた。副島種臣外務卿は文明国としてあるまじき不名誉に憤り、大江卓神奈川県参事(のち権令)に取り調べを命令した。神奈川県は、虐待を行った被告の船長に有罪の刑事判決を下し、民事についても人身売買の契約書は無効とした。苦力は自由の身となり、清の使節に引き渡された。

毅然とした日本政府の対応も、外国人の目から見れば滑稽であったかもしれない。判決後に出された太政官布告295号は遊女解放令とも称されるが、人身売買一般を禁止した。弟子奉公は7年、奉公は1年で自由の身になり、娼妓・芸妓等年季奉公人は一切解放される、と定める[9]。しかし、この期に及んで布告が出たということは、そのまえには人身売買は日本で合法であったことになる。

そればかりではない。マリアルス号事件の裁判をしたのは神奈川県庁であるが、行政機関の県庁が裁判をするのは三権分立の観点からありえないことである。前身が神奈川奉行所である歴史的経緯を知れば、腑に落ちもするが、文明国の基準に照らせばおかしなことである。裁判長の大江卓はお奉行様の役を維新後に演じていたことになる。彼は幕末土佐の志士であり、陸援隊に属した[10]。法律の専門家とは認めがたい。

来るべきものが来て、翌年、上の両判決に納得しないペルーの特使が来日し、賠償を請求した。日本とペルーはロシア皇帝に仲裁を依頼する約定を取り決めた。1875年、アレクサンドル二世は日本に責任はない、とマリアルス号事件への判断を示し、日本政府と苦力貿易撲滅の大義は救われた[11]。これは樺太・千島交換条約が結ばれた直後のことであった。

その後も、人身売買が根絶されたわけでない。日本と韓国の間で意見の相違があった慰安婦問題は、日本側の公式見解では売春の延長線上にあると認識される。1993年の河野洋平内閣官房長官によるいわゆる河野談話の該当部分は次のとおりである。

慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった[12]

基本的な主張は、軍の要請を受けた業者が勝手にやったこと、という点にある。売春は人身売買であるかもしれないし、ないかもしれない。現に、それが合法であるヨーロッパの国もある。2014年に、日韓を周旋したバラク・オバマ合衆国大統領は朴槿恵韓国大統領と会談した際の記者会見で、慰安婦問題を「恐ろしい、おぞましい人権侵害」と呼んだ[13]。彼女たちをめぐる状況が悲惨であったことはまちがいない。人権侵害と言うからにはそれを違法とする法理論があったはずであるが、オバマは述べていない。

慰安婦に関する日韓合意は2015年に成立し、韓国政府が財団を設立して、日本政府が資金を拠出し、事業を行った。売春の延長線上にあったというアプローチは現代は通用しない。

具体的にどのようなものが人身売買に含まれるのか?、を考えるために、国際組織犯罪防止条約人身取引議定書(パレルモ議定書)の第3条(a)を引用する。

「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力若しくはその他の形態の強制力による脅迫若しくはこれらの行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくは弱い立場の悪用又は他人を支配下に置く者の同意を得る目的で行う金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を採用し、運搬し、移送し、蔵匿し又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他人を売春させて搾取すること若しくはその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器摘出を含める。

日本では2005年の刑法改正によって、人身売買罪が定められた(第226条2)。対応するのは警察と婦人相談所である。被害者は主に東アジア出身で性的に搾取された者たちである。上のパレルモ議定書は2017年に日本でも効力が発生した。

国際的に取り締まる方法には、アメリカ合衆国が調査し、それをもとに外交的圧力をかける、というものがある。同国国務省は人身取引報告書を毎年公表する。世界各国の状況、とりわけアジア・中東・アフリカの惨状が詳述される。日本については性的搾取が多かったが、最近は少年少女と技能実習生の記述が増えた[14]

ロイヤルネイビーは拿捕、国務省は事実調査、と方法は異なるが、人身売買を取り締まるのは相も変わらず覇権国の役割である。それらのお膝元において発覚したエプステイン事件は未成年者への大規模な性的な暴行・搾取であった。2026年には単なるゴシップ記事ではなく、国際秩序の正統性を揺るがしかねない疑惑として扱われ、全容解明が待たれている。

奴隷制の廃止から苦力貿易の蔓延を経て、自由移民の時代が到来した。自由移民を説明するメカニズムとしてプッシュ・プル理論がある。プッシュ要因とはその土地から人を離れさせる要因で、人口増加、低い生活水準、経済的機会の欠如、そして政治的抑圧がある。プル要因とはよそから人を迎え入れる要因で、労働需要、土地の利用可能性、よい経済的機会、そして政治的自由がある。S・カースルズとM・J・ミラーによると、これらは「単純すぎて現実の移動を説明できないし、将来の動向も予測できない」とも批判される[15]

実際のデータを見ると、プッシュ・プル理論にはうなずかされるところもある。1851年から1960年までの間に国々が送り出した移民数の総合順位は、イギリス、イタリア、ドイツ、スペイン、オーストリアハンガリー、ポーランド、と続く[16]。当時のアイルランド・イタリア・ドイツは貧しかった。逆に、イングランドとスコットランドからはビジネスチャンスを求めて世界に散った若者が多かった。

東ヨーロッパでは、ユダヤ人に対するポグロム(破壊)とホロコーストが移民を生んだ。『屋根の上のバイオリン弾き』(1964年)はミュージカルや映画として人気を博した作品である。その原作『牛乳屋テヴィエ』(1894年)という小説には、現在のウクライナに住むユダヤ人が役人に立ち退きを迫られる場面がある。

――べつに、おれの思いつきなんかじゃない。県当局の発案だ。

――当局だって? どうしてあたしに目が向いてこなくちゃならないんですかね?

――べつにあんた一人というわけじゃない。しかも、ここに限らず、この一円、すべての村から出て行ってもらおうということだ。ズロヂイェフカや、ラビレフカや、コストロメフカ、そして、これまでユダヤ人集落だったアナテフカからもだ。ここもこれからは村になる。要するに、あんたたちには全員出て行ってもらう……[17]

主人公は原作ではエルサレムに向かい、映画版ではニューヨークに移民した。

同じ期間におけるプルのほうの総合順位は、上からアメリカ合衆国、シベリア・極東ロシア、アルゼンチン、カナダ、ブラジル、そしてオーストラリアである[18]。これらはいずれも手つかずの豊かな自然が残されていたにもかかわらず、旺盛な投資と奴隷制の廃止により、労働力が不足していた。また、宗教的寛容と政治的自由がある国はユダヤ人や難民を迎え入れた。特に南米と太平洋では、公私にわたる斡旋活動が盛んで、移民会社が渡航から入植まで手配をした。

カースルズとミラーがプッシュ・プル理論の代わりとして提唱したのは「移民システム」アプローチであり、移民をマクロな構造とミクロな構造との相互作用の結果と捉える。マクロな構造とは、植民地・宗主国関係や米軍基地といった大規模な制度的な要因である。韓国やフィリピンからの対米移民や、カリブ海地域からの対英移民を説明するには適している。ミクロな構造はというと、移民自身のネットワーク、そして慣習や信条といったものである。

日本で親しまれたアニメ『母をたずねて三千里』の原作を引用しよう。アルゼンチンで出稼ぎをしている母親を追い、大西洋を渡ったジェノバの少年マルコ13歳が、持ち金がなくなり、途方に暮れていたところを老人が「イタリアの星」という宿屋に連れて行った場面である。

「―前略―どうだい、みんな。この子がおふくろさんに会いにコルドバまでいく汽車賃くらい、なんとかしてやれんもんかな? このまま犬みたいに、ほったらかしておくわけにはいくまい?」

―中略―

「おれたちの国の子じゃないか!」

―中略―

「さあ、みんな、金をだしてくれ」

「まあ、一杯やりな、お国のぼうや」

「おれたちが、おふくろさんのところまで送ってやる、心配するな」[19]

持続可能な選択の自由という観点から移民を眺めると、確かに移動の自由はあるものの、弱者が仕方なく移動せざるをえなかった例が多い。マクロな構造とミクロな構造は弱者が少しでも安全に移動するための目ぼしであったろう。草分けたちにはそれさえなかった。海外発展者と呼ばれた明治の日本人移民は次のようであった。醜業婦とは売春婦のことである。

日本人の方式は、全然其の反対で、新開地の瀬踏みをして、水先案内をする者は、必ず脛一本腕一本の無資無力の書生、水夫、職人、労働者、それに例の醜業婦! そこで政府や資本家の着眼し初めるのは、遥然と遅れて、五年か十年後の事である[20]

自由移民の最大の問題は、移動する人々がガバナンスの観点において著しく周縁化されてしまうことである。1954年まで、アメリカ合衆国の移民局はニューヨーク港のエリス島に本拠を置いた。その手前に位置する自由の女神を目指してきた人々は、図らずも、差別にさらされることになった。人種に基づく差別が特に激しかったことは移民制限の導入によって確認できる。中国人移民への排斥は19世紀末には存在した[21]。人種的観点があったことは、読み書きテスト導入を提案したヘンリー・C・ロッジ上院議員の演説(1896年)から明らかである。

この文盲テストはイタリア人、ロシア人、ポーランド人、ハンガリー人、ギリシア人、アジア人に最も重い負担となり、英語圏からの移民ないしドイツ人、スカンジナヴィア人、フランス人にはきわめてわずかしか、あるいはまったく負担にならないでありましょう[22]

議員の先生方と同郷の方は不利になりませんよ、と安心させるかのような口ぶりである。

第一次世界大戦後、そうした移民制限はいっそう激しくなった。1924年のいわゆる排日移民法は、アメリカ合衆国の市民となることのできない外国人は入国できないというものであった。当時の帰化法では「自由な白人」とアフリカ人以外は帰化できなかったので、アジア系が主な対象となった。日本人ももちろんそこに含まれた。当時の日本大使は日米関係に「重大なる結果」を招くと警告したものの、効果なく成立した。

1868年のハワイおよびグアムへの契約移民に始まった日本人移民は、南米と満州に行き先を転じた[23]。真珠湾攻撃が起きると、アメリカ合衆国の西海岸にいた日系人たちは日本軍に内通しないかと疑われ、強制収容所に送られた。そう決めたのは「四つの自由」を前年に説教したフランクリン・D・ローズベルト政権であった。


[1] Steven Spielberg, David Franzoni, Debbie Allen, Anthony Hopkins, Morgan Freeman, Colin Wilson, and DreamWorks Pictures. Amistad, ([United States]: DreamWorks, 1997).

[2] William H. Worger, Nancy L. Clark, and Edward A. Alpers, Africa and the West: A Documentary History from the Slave Trade to Independence (Phoenix: Arizona, 2001), pp. 138-139.

[3] Institut de droit international, Résolutions, régles, projets et réglements adoptés par l’Institut de droit international, tm. 1 [Tokyo: La Bureau des traités, Japon, 1942], p. 24.

[4] ジョルジュ=アンリ・デュモン、『ベルギー史』、村上直久訳、白水社、1997年、73-74ページ。

[5] Tod Olson, Leopold II: Butcher of the Congo (New York: Scholastic Inc., 2008).

[6] 細井和喜蔵、『女工哀史』、岩波書店、1954年、93ページ。

[7] 川島武宜、「人身売買の歴史的性格」、『川島武宜著作集 第一巻』、1982年、87ページ。

[8] 高橋是清、上塚司、『高橋是清自伝』、上、中央公論新社、1976年、58-59ページ。

[9] 牧英正、『人身売買』、岩波書店、1971年、194ページ。

[10] 雑賀博愛、『大江天也伝記』、大空社、1987年。

[11] 外務省編、『日本外交年表並主要文書(上)』、原書房、1978年。Watt Stewart, Chinese Bondage in Peru: A History of the Chinese Coolie in Peru, 1849-1874 (Durham: Duke University Press, 1951), p. 163.

[12] 河野洋平, “慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話,” 外務省, August 4, 1993, http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html, accessed on February 9, 2026.

[13] “Press Conference with President Obama and President Park of the Republic of Korea,” White House, April 25, 2014, https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2014/04/25/press-conference-president-obama-and-president-park-republic-korea, accessed on February 9, 2026.

[14] アメリカ合衆国国務省人身取引監視対策部, “2025年人身取引報告書(日本に関する部分),” 在日米国大使館と領事館, September 30, 2025, https://jp.usembassy.gov/ja/trafficking-in-persons-report-2025-japan-ja/, accessed on February 9, 2026.

[15] S・カースルズ、M・J・ミラー、『国際移民の時代』、関根政美、関根薫訳、名古屋大学出版会、1996年、21-22ページ。

[16] William Woodruff, Impact of Western Man: A Study of Europe’s Role in the World Economy, 1750-1960, 2nd ed. (Washington, D.C.: University Press of America, 1982), pp. 106-107.

[17] ショレム・アレイヘム、『牛乳屋テヴィエ』、西成彦訳、Kindle 版、岩波書店、2015年、Kindleの位置No. 4517-4526。

[18] Woodruff, Impact of Western Man: A Study of Europe’s Role in the World Economy, 1750-1960, pp. 108-109.

[19] E・デ・アミーチス、『クオーレ』、和田忠彦訳、新潮社、1999年、388ページ。

[20] 有磯逸郎[横山源之助]、『海外活動之日本人』、再版、松華堂、1903年、165-166ページ。

[21] ギ・リシャール編、『移民の一万年史』、藤野邦夫、新評論、2002年、242ページ。

[22] 大下尚一、有賀貞、志邨晃佑、平野孝編、『史料が語るアメリカ』、有斐閣、1989年、137ページ。

[23] 三田千代子、「ブラジルの移民政策と日本移民―米国排日運動の反響の一事例として―」、三輪公忠編、『日米危機の起源と排日移民法』、論創社、1997年。入江啓四郎、大畑篤四郎、『重訂 外交史提要』、成文堂、1964年、281-284ページ。

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