冷戦を「長い平和」と呼んだのはジョン・L・ギャディスであった[1]。冷戦にせよ、長い平和にせよ、それは大国どうしの関係であって、小国においては朝鮮戦争やベトナム戦争といった弾丸が飛び交う本物の戦闘が起きた。代理戦争とも呼ばれる「熱戦」では、現地勢力の背中を超大国が押し、その脇で、超大国の同盟国および友好国が殺戮に手を貸した。もっとも冷戦期であっても、脱植民地化やアラブ・ユダヤの対立は東西関係と分けて考えなければならない。

今回のテーマは、冷戦下における国際紛争の特徴と、それに対する平和五原則の意義について論じなさい、である。

冷戦の始まりは1947年3月のトルーマン・ドクトリンに求められる。アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン大統領は次のように述べた。

武装した少数分子、あるいは外部からの圧迫による征服に抵抗しつつある自由諸国民を援助するのは、合衆国の政策でなければならないと私は信じている。

われわれは自由諸国民が、彼ら自身の方法で築くのを援助しなければならないと信じている[2]

自由な人々と自由でない人々との二分法が冷戦の本質であった。しかし、トルーマンが本当に関心があったのはそこではない。ギリシャとトルコは19世紀以降、戦略的な要衝であった。特にイギリスにとって東地中海はスエズ運河からインド洋の植民地に通じる大動脈であった。衰退するイギリスに代わって、共産ゲリラを背後で操るソ連に支配権が移る可能性があった。それを防ぐため、テコ入れできるのはアメリカ合衆国しかなかった。トルーマンの演説は、こうした地政学の観点から、経済援助の意義を自由の理念に託して表現したものであった。

ソ連の影響が広がらないように、その周辺に反共の防波堤を築くことを「封じ込め」という。実際にそれを立案したのはモスクワで代理大使を務めたことがある対ソ政策の専門家ジョージ・F・ケナンであった。彼は国務省の政策企画委員会部長という身分を隠し、ミスターXとして『フォーリンアフェアーズ』誌に論文を寄せた。トルーマン・ドクトリンの4か月後のことである。

この事実とあわせて考慮されるべきは、ソビエトが、西側世界全体とくらべれば、まだひどく弱い相手であること、ソビエトの政策がきわめて柔軟であること、ソビエト社会は自らの潜在的能力を最終的に損なうような弱点を内包している可能性が高いということだ。これらのことは、妥当な自信をもって、平和で安定した世界の利益を脅かすような兆候のあるすべての地域において、揺るぎない対抗力をもってソビエトと対峙することを目的とする、堅固な封じ込め政策をとる根拠となる[3]

つまり、封じ込めは世界を自由と不自由の二つに分け、自由の領域を死守する政策であった。移民の国であるアメリカ合衆国の人々に、地政学の言葉で語りかけることはできなかった。ロシアを含む東ヨーロッパに愛着を感じる人々もいるからである。多様な人々に共通するのは、自由の女神に導かれて渡って来たという国民神話だけであった。

なぜ、あんな無謀な戦いを北朝鮮はしたのか? 朝鮮戦争の原因についてはたびたび議論になる。1950年6月の開戦の遠因としては、そもそも2年前の8月と9月に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が別々に成立したことを挙げねばならない。米ソが1949年に韓国と北朝鮮から撤退して「力の空白」が生じていたこと、また、同じ年にソ連が原爆実験を成功させたこと、そして、中華人民共和国の成立をアメリカ合衆国が止めなかったことも影響した。

外交史家たちが朝鮮戦争の原因として指摘するのはアチソン・ライン(不後退防衛線)である。1950年1月、アメリカ合衆国のディーン・アチソン国務長官は、アリューシャン列島から日本の北を回り、日本海を通って、琉球列島までを含む線を引き、その内側の防衛に米軍が責任を負うと明言した。注目すべきは、次の発言である。

太平洋における他の地域の安全保障に関するかぎり、何人も―中略―軍事攻撃に対して保障し得ないことは明らかである―後略―[4]

朝鮮半島はアチソン・ラインの外側に置かれ、その安全は保障できないと明言された。北朝鮮とソ連が、韓国を米軍は守らない、と誤解したとしても無理はない。急速に共産陣営は結束を固め、2月に中ソ友好同盟相互援助条約が署名、3月に金日成がソ連を訪問、5月に同じく彼が中国を訪問、とお膳立てが整った[5]。6月に起きた北朝鮮による侵攻は合理的と感じられる。

ところが、アメリカ合衆国の反応は東側諸国が期待していたものと違った。7月7日に国連軍の派遣を国連安全保障理事会は決議した。つまり、軍事介入で北朝鮮の挑戦に受けて立った。

米軍は仁川への上陸に成功し、釜山周辺から一挙に中朝国境まで押し返した。こうした動きに身構えたのが中国である。38度線以北に国連軍は進軍するな、と米中が大使館を置くニューデリーでアメリカ合衆国に警告した。

インドの首相はジャワハルラル・ネルーであった。彼は、単に戦争や同盟に参加しないだけでなく、第三者として、当事者間の紛争解決に努力する積極中立主義の立場をとった。安保理の非常任理事国であったインドは、朝鮮半島に派兵する決議に棄権した。国連軍が北緯38度線を越えることについても、双方の間を周旋し、たがいのメッセージを伝えた。結局は、半島の統一を前提とする国連総会の決議を口実に国連軍は進撃し、中国はソ連の要請を受けて参戦した。

南北の軍勢は北緯38度線付近で拮抗し、戦争は終わらなかった。ヨシフ・スターリンが死んだ1953年、休戦協定は結ばれた。

朝鮮戦争の遂行には、日本も協力したことが知られる。特別調達庁は兵器を供給し、輸送は国内では国鉄が、半島までは官民の船舶が行った。日本赤十字社の看護師は日本国内の国連軍病院に派遣された。自治体は灯火管制や港湾使用に協力した。海上保安庁は上陸予定地近海で掃海したものの、掃海艇が機雷に触れて沈没し、1人が死亡した[6]

アチソン・ラインが生んだ誤解により戦争が起きた、という説を見たが、アメリカ合衆国の前方展開戦略はそうした事態への対策とみなすことができる。川上高司は「米軍を海外の同盟国もしくは友好国に駐留させ、その海外駐留米軍と洋上移動兵力および米本土兵力を目的に応じて組み合わせて展開させること」と同戦略を定義する[7]。合衆国の空軍基地がどこに配置されているかの地図を見ると、ロシアと中国を取り囲むかのようである[8]。軍隊を置いてその土地を守りとおす決意を伝える点で、前方展開は冷戦における封じ込めの名残である。

平和五原則は、前方展開と対照的な平和へのアプローチである。それは中国の周恩来首相とインドのネルー首相が1954年に出した共同声明である。五原則の第1は領土・主権の相互尊重、第2は相互不侵略、第3は相互内政不干渉、第4は平等互恵、第5は平和共存である[9]。これは世界を自由と不自由の二つに分けるやり方とは根本的に異なり、それぞれの国の国家主権を尊重して侵さなければ、平和がもたらされる、という思想である。

翌1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、平和五原則は平和十原則に拡張された。加わったのは、基本的人権と国連憲章の尊重、国連憲章に基づく個別的・集団的自衛権の尊重、大国を利する集団防衛体制への反対、国際紛争の平和的解決、協力の促進、そして正義と国際義務の尊重である[10]

バンドン会議の参加国には、自主外交の可能性を探っていた日本の鳩山一郎政権を含めて、米ソの属国のようなものになることを拒みたいのが真意で参加した国があった。インドはSEATO(東南アジア条約機構)の結成に危機感を抱いた。その加盟国はオーストラリア、フランス、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ、イギリス、そしてアメリカ合衆国であったから、インドは包囲されたと感じた[11]

エジプトのガマル・アブドゥル・ナセル大統領はバグダード条約機構に反対したが、ネルーがSEATOに反対したのと似ていて、イギリス主導の旧体制に反旗をひるがえすためであった。万事休す、と思われた1956年のスエズ戦争を停戦にもちこんだことで、不死身のナセルの伝説は確固たるものになり、脱植民地化のヒーローに彼は祭り上げられた。

実は、平和五原則には弱点がある。領土の相互尊重はよいのであるが、そもそも領土の帰属に争いがある場合には機能しない。その実例はほかならぬ英領インドの解体に見られた。

英領インドはイギリスの直轄地と藩王国から成っていた。マハラジャというのはヒンドゥー教徒の藩王、ナワーブはムスリムの藩王の呼称であった。独立に際して、ムスリムの居住地はパキスタンとして分離独立した。藩王国がインドに入るか、パキスタンに入るかについて、藩王国のことは藩王が決める、と指針を示したのがマウントバッテン計画であった[12]

1947年8月、インドとパキスタンは独立した。両国に分割されたパンジャブではただちに暴力と難民が発生した。10月、カシミールの藩王はインドとの併合文書に署名した。藩王はヒンドゥー教徒であったものの、住民はムスリムであったため、そこをムスリムの土地と考えるパキスタンとインドとの間で戦争になった。これが第一次印パ戦争である。1949年に双方が国連の停戦ラインを受諾し、戦争は終結した[13]

中国とインドは平和五原則に合意しながら、1962年に国境紛争が起きた。1950年に中国がチベットに侵攻し、実効支配を始めたことにより、インドと境を接した。1959年に中国は支配を強め、ダライラマ十四世はインドに亡命した。中印紛争の結果、中国はカシミールの東部にあるアクサイチンを確保し、チベットと新疆をつなぐ道路の建設に成功した。同じ土地を複数の当事者が自分の領土であると言い張るならば、平和五原則は通用しないのである。

このあと、パキスタンとインドが2回戦った。1965年の第二次印パ戦争はカシミールをめぐる戦いであり、国連安保理の停戦決議で終結した。

1971年の第三次印パ戦争では、それまでパキスタンの一部であったバングラデシュをインドが助けて独立に導いた。大量の難民が発生し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が難民キャンプを作ったり、飛行機で帰還させたりした[14]。1972年のシムラ協定は印パ関係を大きく変えた。パキスタンがバングラデシュの独立を認めただけでなく、カシミール問題は外国や国際機構など第三者を交えず、印パ間の交渉で合意を図ることになった。その後も、紛争はいく度も再燃した。

インドには多くの分離運動がある。パンジャブ州では今度はシク教徒が分離を求めた。シク教徒は、いかにもインド人らしいターバンをかぶった人々である。1984年、インド軍が聖地ゴールデンテンプルを襲撃し、シク教徒がネルーの娘のインディラ・ガンディー首相を暗殺した。マニプル州、アッサム州、ナガランド州などインドの北東部諸州にも分離運動がある。

インドの憲法には、言論・表現の自由を主権や領土保全のために制限する法律を作ることができる、とする規定がある。そうした制限は好ましいわけではないが、大量の流血と難民の歴史を振り返ると、南アジアではそれも一つの方法かもしれないとも思う。

国家主権を重視し、大国の同盟を非難する動きは、非同盟諸国首脳会議に結実した。初期にはソ連との関係に苦労したユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー大統領が中心となった。チトー、ナセル、スカルノ、そしてネルーのもと自決権、反帝国主義闘争、植民地主義一掃などを議題とすることに決め、1961年に第1回の非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開かれた[15]。2024年までに19回の首脳会議が持たれた。それらで活躍した首脳たちのなかには毀誉褒貶がある者も少なくないが、運動としての初志は貫かれている。 前方展開戦略か、平和五原則か、は冷戦後の今日に至るまで大きなテーマである。第三世界の国々では、大国が関わる代理戦争は朝鮮戦争のように泥沼化する傾向がある。そのことはベトナム戦争とその後の展開を観察することによって確かめられる。


[1] ジョン・L・ギャディス、『ロング・ピース』、五味俊樹、坪内淳、阪田恭代、太田宏、宮坂直史訳、芦書房、2002年、416ページ。

[2] ジョージ・F・ケナン、『ジョージ・F・ケナン回顧録―対ソ外交に生きて』、上、清水俊雄訳、読売新聞社、1973年、303ページ。

[3] X、「ソビエト対外行動の源泉」、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編、『フォーリンアフェアーズ傑作選1922-1999 アメリカとアジアの出会い』、上、朝日新聞社、2001年、173-174ページ。

[4] ディーン・アチソン、『アチソン回顧録』、1、恒文社、1979年、431ページ。

[5] A・V・トルクノフ、『朝鮮戦争の謎と真実』、下斗米伸夫、金成浩訳、草思社、2001年、24、57-58、91、120-121、142-144、168、229-230ページ。

[6] 小野節雄、『自衛隊はどのようにして生まれたか』、学習研究社、2003年、160-161ページ。山崎静雄、『史実で語る朝鮮戦争協力の全容』、本の泉社、1998年。

[7] 川上高司、『米軍の前方展開と日米同盟』、同文館出版、2004年、5ページ。

[8] イヴ・ラコスト、『ラルース 地図で見る国際関係 現代の地政学』、猪口孝、大塚宏子訳、原書房、2011年、63ページ。

[9] 安藤正士、「平和五原則」、『スーパーニッポニカ』、小学館、1998年。

[10] 安藤、「平和十原則」。

[11] 室井義雄、『南北・南南問題』、山川出版社、2001年、26、27ページ。

[12] 中村平治、『南アジア現代史I』、山川出版社、1977年、170ページ。

[13] 中村、『南アジア現代史I』、175ページ。

[14] 国連高等難民弁務官事務所、『世界難民白書2000―人道行動の50年史』、時事通信社、2001年、61、70ページ。

[15] 岡倉古志郎編、『非同盟運動基本文献集』、新日本出版社、1979年、480ページ。

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