私たちは国連事務総長を無力であると言いすぎでないか? 目標をバリバリと達成するのがカッコイイ指導者であると思っていないか? そうした劇画的な指導者は独裁者と紙一重ではないか? そもそも、執行責任者とは、与えられた権限のなかで物事がうまく進むよう工夫する者でないか? アメリカ合衆国大統領も、日本の内閣総理大臣も、中国共産党の総書記も、同じでないか?

国連の場合、憲章が事務総長に与える権限は非常に小さい。実際に彼がしていることの多くは、総会、安全保障理事会、あるいは経済社会理事会の決議によって加えられたものである。今回のテーマは、国連事務総長および国連事務局の「性質」について歴代事務総長の業績に言及しながら論じなさい、である。

国連の前身、とはいえ法的には赤の他人である国際連盟の事務総長はいかなるものであったろうか? 1919年の発足当初から1932年まで務めたエリック・ドラモンドは、イギリス外務省出身の有能な「公務員」であった。彼は黒子に徹して公然とは発言しない方針であったとされる。国連事務総長が総会はじめ、理事会、委員会などで発言するのはもちろん、テレビカメラにも語り掛けるのとは大違いである。2代目のジョゼフ・アベルノルはフランス人で1940年まで、3代目のショーン・レスターはアイルランド人で連盟の解散まで務めた[1]

国連本部はニューヨークに作られることになった。いくら孤立主義がアメリカ合衆国で頭をもたげようとも、自国の中心に本部がある組織からよもや脱退することはないであろう。マンハッタンを観光した人ならば分かるように、国連本部ビルは超一等地にある。資金を寄付したジョン・D・ロックフェラー二世の息子デイビッドの回顧録を引用する。

この地域はうらぶれた安売春宿や老朽化した商業ビルであふれかえっていたが、ビル[ウィリアム・ゼッケンドーフ-引用者]は国連をはじめとする関連事業によって、その地域が恒久的な変容を遂げると考えていた。わたしたちは、地価が急上昇する前にその区画を購入して、持ちビルを建てるよう助言された[2]

国連本部はいくつかの建物から成る。あのマッチ箱のような39階建てのビルに事務局は入っている。ロックフェラーセンターも手掛けたハリソン・アンド・アブラモビッツ社が設計した。建築家のチームにはル・コルビュジエやオスカー・ニーマイヤーが参加した。国連職員はこの高いビルだけにいるのでなく、マンハッタン島に数千人は散らばっている。別の敷地の小さな建物で、筆者は国連の公文書を調べたことがある。

世界各地にいる約4万人の職員のトップに立つのが事務総長である。国連憲章には、事務局は「一人の事務総長」と「職員」から構成されると書いてある(第97条)。事務総長の権限は、国際の平和および安全に対する脅威について安保理に注意喚起できること(第99条)、そして職員を任命すること(第101条1)である。これだけであれば、あまりにそっけない。実際には、主要機関における多くの決議に、事務総長に報告を要請する、などと書き添えられていて、それらに基づき、さまざまな主題の調査と対応を行っている。

事務総長とその部下である職員の行動によって国連の政策は一変するため、どこかの国をえこひいきしたり、差別したりすることがあれば、信頼はたちまち失墜する。それゆえに、「国際的な性質」がきわめて重要な規範である。憲章第100条1は、事務総長と職員はいかなる政府や当局からも指示を求めたり、受けたりしない、と定める。同条2は、加盟国は事務総長・職員の国際的な性質を尊重し、左右しようとしてはならない、とする。

職員についてのその他の憲章規定では、雇用と勤務条件の原則は最高水準の能率・能力・誠実であり、「なるべく広い地理的基礎」に基づいて採用は行われなければならない(101条3)。職員は特権・免除を享受するが(105条2)、所得税の免税は金額が大きいだけに、節税効果は大きい。間接税については、赴任先の国の方針により免除されないこともある[3]。外交官と国際公務員の特権には差があり、外交官に与えられる不逮捕特権は国際公務員には与えられない。

国連職員への道において言語は大きな関門である。採用の条件からして、英語とフランス語のいずれかに堪能であることが求められる。国連の公用語はそれらに加え、アラビア語、中国語、ロシア語、そしてスペイン語の六つがある。6公用語のバランスと多言語主義を保つために、言語コミュニケーション訓練ユニット(LCTU)による授業とLPEという技能試験を職員は受ける。

以上が事務局のあらましであるが、国連職員になりたい、と考える人でなければ、さらに知る必要はないかもしれない。国連がルーティンワークを淡々とこなすだけの目立たない組織であればそれで問題ない。国連は平和や貧困に取り組み、危機や緊急事態に対処する世界組織である。事務総長の顔がニュースで映されるのは、課題の解決が事務総長の指導力にかかっている、と皆が信じているからである。

国連事務総長を評価するには、まず彼または彼女がいかに選ばれるかを知らねばならない。憲章は「安保理の勧告に基いて総会が任命」すると定める(第97条)。これは拒否権が使われる対象になるということである。常任理事国と事務総長が対立していては、円滑な運営はおぼつかない。各理事国にとっては、できるだけ自国と良い関係の人物を選びたい本音がある。自国の推す人物をごり押ししようと拒否権を濫用すれば、永久に安保理は勧告ができない。

実際、1976年に事務総長を選ぼうとしたところ、拒否権により選ぶことができない事態が起こりかけた。候補者はメキシコ前大統領のルイス・エチェベリアアルバレスと現国連事務総長のクルト・ワルトハイムであった。1回目投票において、すでにワルトハイムに圧倒的な賛成票が投じられていたが、代表権を得たばかりの中国が反対票を入れた。議長国が説得して、2回目の投票でワルトハイムの再選が確定した。こうしたことがないよう、数か月前からストローポルと呼ばれる模擬投票を繰り返し、落としどころを見つけておくことがその後、行われたようである[4]

歴代の国連事務総長は9人いる。うち、1期5年を務めた者が1人、2期目の途中で退任した者が1 人、2期目の途中で死亡した者が1人、2期約10年を務めあげた者が5人、2期目の任期中である者が1人である。

国連事務総長の出身地域は、最初の2人は西ヨーロッパ、3人目はアジア太平洋、4人目は西ヨーロッパ、5人目はラテンアメリカ、6人目と7人目はアフリカ、8人目はアジア太平洋、そして9人目は西ヨーロッパである。最近は「なるべく広い地理的配分」を満たす方向に向かっているものの、西ヨーロッパに偏っている印象は否めない。

初代のトリグベ・リーはノルウェーの国会議員や外務大臣を歴任した政治家であった。大国と摩擦を起こして途中で辞任した不器用な印象が拭い去れない。再選を賭けた安保理の投票ではソ連が反対したにもかかわらず、なぜか再選してしまった。ソ連と対立したばかりでなく、平和20年計画という構想にはアメリカ合衆国も冷淡であった。とはいえ、合衆国は彼の行動を容認できたであろう。朝鮮戦争での国連軍派遣に積極的であったし、マッカーシイズムに妥協してFBIに合衆国市民の職員への捜査を許してくれた。当時、懸案となっていたイラン、ギリシャ、パレスチナ、中国、そしてベルリンの問題に解決の意欲を示した[5]

第2代のダグ・ハマーショルドは金融や外交を専門とするスウェーデン政府の職員であった。父は母国の首相を務めたお坊ちゃんである。国連のなかに瞑想室を作ったり、職場で寝泊まりしたりした不思議な人物でもあった。事務総長としての業績は豊富である。朝鮮戦争が終わると、捕虜となっていた米兵を中国から帰還させた。スエズに初の平和維持活動(PKO)である国連緊急軍(UNEF)を派遣した。ヨルダン・レバノン・ラオス・タイ・カンボジアの問題にも対応した。

ハマーショルドが人生を賭けた仕事はコンゴ動乱への対応であった。1960年6月、コンゴ民主共和国が独立すると、ただちにカタンガ州が分離独立する動きを見せ、旧宗主国ベルギーの軍隊がそれを支援した。ソ連の外相は、西側の狙いは銅・ダイヤモンド・ウラニウム・金といった地下資源であったと批判する[6]。安保理はベルギー軍に撤退を要求し、コンゴ国連軍(ONUC)を派遣した(S/RES/143; S/RES/145; and S/RES/146)。パトリス・ルムンバ首相はこのONUCに対してカタンガの鎮圧を要求したが、受け入れられなかった。9月、彼はジョゼフ・カサブブ大統領に罷免され、カタンガに引き渡されたのち、殺された。このニュースに世界は愕然とした。

ルムンバの悲劇は論争をもたらした。コンゴ情勢に不満であったソ連のニキータ・フルシチョフ首相はハマーショルドを国連総会で批判し、西側・東側・中立国から一人ずつ事務総長を選任するというトロイカ提案をした。机をたたいて批判をアピールするフルシチョフの姿は話題になった。

批判にハマーショルドは毅然と反論し、議場は喝采に包まれた。国際公務員は中立でなければならない、というのは自らの立場を持たないという意味ではない。それは「国家利益やグループの利益、さてはイデオロギーの影響から完全に自由でなければならない」という意味である、と[7]

1961年9月、ハマーショルドはカタンガの指導者と会うために、ローデシア、つまり現在のザンビア、に向かった。搭乗した飛行機が墜落し、彼は命を失った。墜落の原因は不明とされる。その後、ノーベル平和賞が贈られたが、死後の受賞は生前受賞の原則への唯一の例外である。

3代目のウタントはミャンマーの国連代表から事務総長になった。キューバ危機ではフィデル・カストロ首相と会談し、ミサイル撤去の査察を話し合った。西イリアン問題、キプロス問題、印パ戦争、第三次中東戦争、ベトナム戦争、そしてナイジェリア内戦にも取り組んだものの、うまくいかなかったものも多い。このころから国連は財政問題に悩むようになった。

4代目のクルト・ワルトハイムはオーストリアの駐カナダ大使、国連代表、そして外務大臣を歴任した。彼は退任後、ナチスにおける軍歴が明らかになり、スキャンダルになった。取り組んだ出来事には、キプロス、イエメン、そしてイランの問題があった。任期中に、アメリカ合衆国の分担金が予算に占める割合は31.5パーセントから25パーセントに下げられた。その後、彼はオーストリアの大統領に就任した。

5代目のハビエル・ペレスデクエヤルはペルーの駐ソ連大使などを務めた。ペレス以下が姓であるため、デクエヤルと略すのは誤りである。彼は冷戦とソ連の終わりを見届け、イラン・イラク戦争、中米和平、カンボジア内戦、そしてアパルトヘイト問題に取り組んだ。退任後、アルベルト・フジモリに対抗して大統領選挙に出馬したものの、落選した。

6代目のブトロス・ブトロスガリもガリ事務総長と呼ばれたが、ブトロスガリが姓である。エジプトの学者であり、外交の要職も歴任した。彼について必ず言及されるのが報告書『アジェンダ・フォー・ピース』、訳すと『平和への課題』である。ハイチ、ソマリア、旧ユーゴスラビア、そしてカンボジアにおいて平和活動を積極的に推進したが、それらがうまくいかなかったので1期だけで退任させられたと言われる。

7代目のコフィ・アナンは国連事務局生え抜きの職員で初の事務総長であった。PKO担当事務次長の在任時には、ルワンダ虐殺への対応に失敗した。ガーナ生まれの彼は事務総長選挙で英米に推され、フランスが支持する候補者と争った。事務総長選挙の裏側には英語圏とフランス語圏との対立があるとされる。アメリカ合衆国の分担金滞納への対策として彼は経費削減に努め、行政費用や人件費を減らした。また、公式文書を検索する便利なウェブサイトを開発した[8]

それ以外では、ミレニアム開発目標(MDGs)、平和構築、保護する責任、そしてグローバル・コンパクトといった政策をアナン事務総長は取りまとめた。しかし、イラク戦争とその後の内戦では、そもそもアメリカ合衆国が勝手に始めたものとはいえ、何もできなかった。バグダードでは、セルジオ・ビエイラデメロ事務総長特別代表が爆殺された[9]

8代目の潘基文は韓国の駐オーストリア大使や外務大臣を歴任した。彼の貢献は内部機関の充実にあったといえる。女性問題の機関をまとめたUNウィメンの設置、そしてPKOや政治ミッションへの支援を効率化するフィールド支援局の設置を挙げることができる。

9代目のアントニオ・グテーレスはポルトガル首相を務めた後、難民高等弁務官(UNHCR)の重責を2015年まで担った。その最後の3年間には、シリアをはじめとして大量の難民・国内避難民が発生した。事務総長として、2017年に始まる1期目の課題は新型コロナウイルス(COVID-19)への対応であったが、医薬については専門機関であるWHOに道を譲った。国際的な往来が途絶える中、できることはかぎられた。

グテーレス事務総長の2期目にはロシアによるウクライナへの侵攻という、領土保全と政治的独立の大原則を踏みにじる事件が起きた。2022年4月、グテーレスはロシアを訪れてウラディミル・プーチン大統領と会い、非戦闘員の避難に国連と赤十字が関与することを認めさせた[10]。ガザ紛争でもパレスチナ人の人道状況の改善を訴えたが、聞き届けられなかった。

事務総長を支えるのは国連幹部、英語ではシニア・マネジメント・グループ(SMG)、である。これはいわば内閣に当たり、事務総長と副事務総長のほか、UNDPやUNEPのような計画、UNICEFのような基金、UNHCRのような事務所、そして直属の局の長官がメンバーである。政策の形成と調整の中枢を担うことを期待されるが、運営の実態が報道されることはほとんどない。2026年1月現在、日本からは中満泉軍縮担当上級代表がSMGに名を連ねる[11]

日本の国連職員に目を向けると、外務省が出している『外交青書2025』によると、国連関係機関で働く日本人の数は2023年末時点で、専門職以上の者は958人を数える[12]。これは外務省によるプロモーションの成果でもあるし、留学などで確実に英語力が上がっている若者の努力のたまものでもある。識者の意見には、「職員は出身国の政府を意識し、その働きかけや圧力のもとで、愛国的な行動をとることが多いのが、国連の現実である」というものもあるから、良いニュースである[13]

このように「世界政府」にはほど遠いが、国連は国際的で中立的でなければならないという前提のもと、実効的で、効率的であろうと努力している。これは正しい方向であるので、透明性と説明責任が下がらないよう注意しながら、育てていくべきである。


[1] Thant Myint-U and Amy Scott, The UN Secretariat: A Brief History (1945-2006) (New York: International Peace Academy, 2007), pp. 1-3.

[2] デイヴィッド・ロックフェラー、『ロックフェラー回顧録』、楡井浩一訳、新潮社、2007年、197ページ。

[3] 朝倉弘教、『国際機関事務局―20年の体験がつづる』、日本関税協会、1999年、87-89ページ。

[4] 辛雄鎮、『努力の証―第八代国連事務総長 潘基文物語』、足立康、辛美鎮訳、ダイヤモンド社、2008年、168-169ページ。

[5] 明石康、『国際連合』、1985年、岩波書店、236-238ページ。

[6] アンドレイ・グロムイコ、『グロムイコ回想録』、読売新聞社外報部訳、読売新聞社、1989年、402ページ。

[7] 明石、『国際連合』、270ページ。

[8] Thant Myint-U, The UN Secretariat: A Brief History (1945-2006), pp. 97-108.

[9] Thant Myint-U, The UN Secretariat: A Brief History (1945-2006), pp. 97-117.

[10] “Russia agrees ‘in principle’ to UN and Red Cross involvement in evacuations from Mariupol,” United Nations, April 26, 2022, https://news.un.org/en/story/2022/04/1116932, accessed on February 15, 2025.

[11] “Senior Management Group,” https://www.un.org/sg/en/content/senior-management-group, accessed on January 29, 2026.

[12] 外務省、『外交青書2025』、2025年、311ページ。

[13] 勝野正恒、二村克彦、『国連再生と日本外交』、国際書院、2000年、143ページ。

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