「人類の議会」という言葉で国際連合を理解するのは、アメリカ合衆国の歴史家ポール・ケネディである。この言葉には逸話がある。ハリー・S・トルーマン大統領は国連創設の任を前任者から託された。その思いを伝えるために、詩の一節を引用した。イギリスの詩人アルフレッド・テニソンが1837年に作った「ロクスリーホール」という幻想的な詩であった。空飛ぶ船が戦い、血が流れたが、人類の議会に世界がまとまり、不満な国を常識の力によって抑えて、万国法により地上は安らかになった、と歌う。「人類の議会」が共通の人間性を育まなければ人類は自滅するのでないか?、という問題意識をケネディは吐露する[1]

筆者も国連総会における国々の対話をある程度、評価する。その一方でシニカルでもある。今回のテーマは、国連総会における「グループ」の離合集散について説明しなさい、である。

国連総会のイロハから始めよう。1年間の通常会期が活動の単位である。通常会期は9月の第3火曜日に開会する。冒頭に各国の大統領・首相・外相が一般討論演説をし、国際社会に対するメッセージを伝える。感染症の流行によってオンラインで行われるのでなければ、国連本部があるニューヨークには各国の要人が集まり、活発な外交が繰り広げられる。不定期の特別会期(特別総会)が開かれることもある。特別会期は何か重要な課題が持ち上がった時にかぎられる。

総会の表決は全加盟国による一国一票の投票によって行われる。重要問題の可決には全票中の3分の2の多数である特別多数が必要で、その他の問題は過半数で決められる。総会の決議は安全保障理事会のそれとは違い、法的拘束力がない。ただし、国連機関内部に関する決定には拘束力がある。予算はそうしたことの一つであり、「総会は、この機構の予算を審議し、且つ、承認する」(第17条1)と憲章で定められる。

議題のことを集合的にアジェンダという。アジェンダに載せることができるのは、国連憲章の範囲内にあること、または国連機関の権限・任務に関することである(第10条)。勝手に総会決議によって紛争を解決してしまうことはできない。憲章第12条1で「安全保障理事会がこの憲章によって与えられた任務をいずれかの紛争又は事態について遂行している間は、総会は、安全保障理事会が要請しない限り、この紛争又は事態について、いかなる勧告もしてはならない」と定められているからである。

近ごろは毎年、300本以上の決議が採択される。それらをすべて全体会議または本会議で議論する時間はない。よって、委員会で可決された決議案のみが全体会議にかけられるのが原則である。主要委員会は六つある。第1委員会は軍縮と国際安全保障を、第2委員会は経済と金融を、第3委員会は社会・人道・文化を、第4委員会は特別政治問題と脱植民地化を、第5委員会は行政と予算を、そして第6委員会は法律を扱う。

総会決議はインターネット上のODS(公式文書システム)やデジタルライブラリーを利用することにより、簡単に閲覧できる。知っておくと便利であるのが文書記号のルールである。具体例を挙げると、2021年12月1日に採択された「エルサレム」というタイトルの決議はA/RES/76/12である。先頭のAは総会という意味であり、スラッシュをはさんでのRESは決議の意味である。ふたたびスラッシュをはさんで数字が来るが、これは会期の番号である。その計算の仕方は、決議が採択された会期が始まった年の西暦の紀年から1945を引いた差である。2025から1945を引くと80になる。さらにスラッシュをはさんだ数字は、議事手続きの順番に付けられる。ただし、採択された順番とは前後していることがある。ちなみに、たいがいの決議はクリスマスの前に採択される。つまり、総会の繁忙期は10月から12月である。

国連決議には共通の構成がある。第何会期とか第何議題といった技術的なヘッダーとタイトルの後に、斜字体で“The General Assembly,”と機関名の主語が来る。続いて、前文が分詞構文で、踏まえるべき事実や以前の決議を挙げる。ここでやっと、述語動詞を先頭に主文が現れる。

エルサレム決議A/RES/76/12を例にして、総会決議の意義を考える。この決議を取り上げるのは、国際社会の亀裂がいかに大きな紛争につながるか、を教えるからである。パレスチナの一勢力であるハマスが2023年に起こした襲撃は、イスラエル国防軍によるガザ地区の殲滅戦につながり、年を越して拡大した。パレスチナとイスラエルの和解を難しくしている一つの要因が聖地エルサレムである。

エルサレムには、ユダヤ教の聖地である西壁(嘆きの壁)、キリスト教の聖地である聖墳墓教会、そしてイスラムの聖地である岩のドームがある、とされる。実はこの記述は間違いを含んでいる。なぜなら、西壁はユダヤ教が聖地であると主張する一方で、イスラムもまたそう主張するからである。諸宗教は、他宗教も同じ聖地を礼拝している現状をたがいに認めあい、そうした了解をスタートゥスクオと呼んでいる。スタートゥスクオの存在は、エルサレムの旧市街を宗教ごとに分割して管理させてはならない根拠とされる。

行政については、イスラエルは1950年にエルサレムを首都と宣言した。ただし、この時点でイスラエルが実効支配していたのは西エルサレムだけで、歴史ある旧市街を含む東エルサレムはヨルダンの領土であった。クネセト(国会)、首相官邸、そして最高裁判所は西エルサレムにある。1967年の第三次中東戦争においてイスラエルが東エルサレムを占領しても、国際社会はそれを同国の領土とは認めなかった。イスラエルにとって、エルサレムはすでに併合した不可分の自国領土であり、アラブおよび国際社会にとって、それはイスラエルが撤退しなければならない占領地である。

こうした見解の相違のもと、現実は引き裂かれる一方である。イスラエルは西エルサレムと東エルサレムを統合し、エルサレム全体を自国の領土とした。他方、国連は加盟国がエルサレムに大使館を置くことを禁じながらも、アメリカ合衆国のドナルド・J・トランプ政権が2018年、大使館をエルサレムに移した。東エルサレムでユダヤ人に入植地の建設を認め、パレスチナ人の家を撤去するイスラエルの政策も批判されている。

これらの事実を踏まえてA/RES/76/12を読み直す。主文1は、占領地である聖地に対して法律を作り、行政を行うのは違法で無効なのでただちにやめるようにイスラエルに求める。イスラエルはこれを受け入れないであろう。主文2はエルサレム問題の解決を求めるが、そうした解決はパレスチナ人とユダヤ人の双方の懸念を考慮し、国際法に従い、宗教と良心を国際的に保障し、誰でも自由に聖地にアクセスできるようなものでなければならない、と注文を付ける。主文3は、宗教上、文化上、敏感な場所での挑発を控える必要を述べる。パレスチナ人とユダヤ人との衝突は戦争などにエスカレートしかねないため、何が何でも防がなければならない。主文4は、複数の宗教の聖地であるスタートゥスクオの尊重を求める。ささいな行動さえそれらの近くでは挑発になる。主文5は国連事務総長に決議の実施状況に関する報告を求める。

A/RES/76/12は賛成129、反対11、棄権31で可決された。採決に当たっては、スタートゥスクオについての主文4に批判が集まった。岩のドームと西壁を含む「神殿の丘」について、イスラム側の名称であるハラムアルシャリフだけが決議に記され、ユダヤ側の名称であるテンプルマウントは書かれなかったからである(GA/12390)。これが棄権の多さにつながった。全体として見れば、イスラエルによる聖地の管理に注文を付けるこの決議への賛成は129か国に上ることから、加盟国が現在の状況を心配していることが窺える。

なお、エルサレム決議は第77会期以降、採択されなくなった。ウクライナへのロシア侵攻とガザ地区での戦闘がエルサレム問題での歩み寄りを難しくしたからである。

このように観察すると、総会決議は諸国の意見を確かめる一種の世論調査であることが分かる。政治家たちは世論調査の結果を見て、人々の考えを知り、不人気な政策を避けて、混乱が広がらないようにする。「国連は外の世界をつねに映し出す鏡である、という。世界が変われば、鏡のなかの像も変わるのである。」とは国連の歴史を記す本からの引用である[2]。ロールコール、分割投票、あるいは修正案といった国連の議事手続きは複雑である。諸国の意見を知ることには、面倒を上回る計り知れない利益がある。

同じテーマを扱う複数の総会決議があるのは、国々の立場の違いがどこにあるのか浮き彫りにするためである。例えば核兵器のない世界というテーマでは、主な決議が2本ある。一つは日本案として報道されるものであり、第80会期では「核兵器のない世界に向けた共通のロードマップ構築のための取組」というタイトルであった(A/RES/80/48)。ウクライナ戦争の勃発後、もはや穏やかに核兵器不拡散条約の履行を呼びかけるだけでは時代から取り残されてしまう。主文1は核兵器国に核兵器の不使用を求めるものであった。主文11で北朝鮮の核兵器と弾道ミサイルを問題視するものの、優先順位は下がったままである。賛成147、反対5、棄権26のうち、反対した国は中国、北朝鮮、イラン、ニカラグア、そしてロシアであった。

日本が共同提案国に名を連ねる国連総会決議は、核兵器禁止条約の加盟国には物足りなかった。それらの国々は「核兵器禁止条約」(A/RES/80/54)という別の国連総会決議に結集した。賛成119、反対45、棄権12と反対がかなり多かった。日本も、五大国も、G7も、すべて反対である。核軍縮を推進する、と一口に言っても、立場はさまざまであると分かる。

これまで見たパレスチナ問題や核軍縮問題は国連において意見が分かれる典型的な争点である。ほかでは例えば人権問題がそうした争点である。これらの投票行動における分散を分析して、世界の国々を分類できないか、と考えた国際政治学者たちが1960年代にいた。著名なところでは、ヘイワード・R・アルカーとブルース・M・ラセットが『総会における世界政治』という本を出している。アルカーは当時、イエール大学の大学院生であり、ラセットは学位をとったばかりであった。二人は冷戦真っ盛りの時世であっても、東西対立だけでは世界は理解できないと感じていた。そこで、重要な決議におけるロールコール、つまり点呼投票、のデータを使って分析した。統計学の知識があれば、賛成・棄権・反対を順序変数にして主成分分析をする、と説明すれば、どのような手法を使ったか想像ができる人もいるかもしれない[3]

以下では国連総会における「グループ」の離合集散を振り返る。アルカーとラセットの研究を参考にして、筆者自身が5年ごと総会決議を統計分析した結果に基づく。

総会の第1会期は1946年に開かれた。まだ冷戦は始まっていなかったものの、ソ連とアメリカ合衆国の二つの超大国に世界は引き裂かれようとしていた。とはいえ、国連の主導権を握るのはやはりアメリカ合衆国とイギリスであった。1948年における世界人権宣言(A/RES/217 A)は、合衆国が後押ししたものであり、同国にとって最も輝かしい国連における成果になった。一方、ソ連と東ヨーロッパの社会主義国の投票行動は明らかに孤立していた。他の国々が独自の動きを始めるのに時間はかからなかった。1947年のパレスチナ分割決議(A/RES/181)は採択されたものの、すべてのイスラム諸国が反対した。アラブ、アジア、スカンディナビア、コモンウェルス、そしてラテンアメリカの諸国は、それぞれのグループにまとまっていった[4]

1950年の第5会期が開かれた時には、すでに朝鮮戦争の最中であった。極限に達した冷戦の分裂は、総会の議場でもソ連の孤立を際立たせた。これにたいし、西側陣営はラテンアメリカやアジアとも連携し、圧倒的な多数派を形作った。安全保障理事会はソ連が拒否権を発動する構えであったため、何も決めることができなくなった。これでは国際の平和と安全に対する責任を果たせないので、安保理がそのような状態に陥った際に、総会が加盟国に勧告できる、と総会自らが決めた。これが平和のための結集決議(A/RES/377)である。なお、国連本部の現在の建物はまだできていなかったので、この時代の総会はマンハッタン島ではなく、川をはさんだロングアイランド島クイーンズ地区の施設で行われた。今のクイーンズ美術館である。

朝鮮戦争が終わると、旧植民地の諸民族がいっせいに主張し始めた。国連の外では、1955年にインドネシアのバンドンにおいてアジア・アフリカ会議が開かれた。立役者の一人、インド首相ジャワハルラル・ネルーはその年にソ連を訪問し、ニコライ・ブルガーニン首相やニキータ・フルシチョフ第一書記に会った。第三世界と東側陣営が接近したかのような光景であった。この時期の国連を特徴づけるのは大量加盟である。1955年に加盟した16か国は1960年の17か国と1992年の13か国と並んで多く、新時代を創りだした。

1960年には植民地独立付与宣言(A/RES/1514)が採択された。フランスの植民地であったアフリカの国々がこの「アフリカの年」に大量加盟し、アジア・アフリカ諸国が国連外交の鍵を握るようになった。開発が国連の主要テーマになったのは、1961年に国連開発の十年決議(A/RES/1710)がアメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領によって提案されてからである。1962年には、天然資源に対する永久的主権宣言(A/RES/1803)が採択された。

アジア・アフリカ諸国はラテンアメリカ諸国と合流し、最大のグループになった。このなかで、積極的に第三世界を組織し、共同戦線を張った諸国が「非同盟」である。これらは1961年に第1回非同盟諸国会議に集まった。非同盟の指導者たちは現在でもアメリカ合衆国と激しく対立する。

大半の開発途上国はそれほど声高でなかったものの、共通する経済的な利害が存在し、ともにそれを訴えるメリットに気がついた。1964年に国連総会はUNCTAD(国連貿易開発会議)を設立した(A/RES/1995)。集まった国の数が77か国であったのでグループオブ77、すなわちG77、と呼ばれる。今では130か国以上が加盟するが、呼称はそのままである。

1965年ごろ、国連の主導権は開発途上国に渡った。アメリカ合衆国はベトナム戦争にのめり込み、身動きがとれなかった。こうした現実に合わせて、世界秩序は再編成された。

冷戦の折り返し点における事件を三つ取り上げる。

第1は核兵器不拡散条約である。国連総会は18か国軍縮委員会に同条約の交渉を求め、米英ソが草案を作成した。1968年の総会決議A/RES/2373は核兵器不拡散条約を推奨し、加盟国に加入を求めた。核兵器の不拡散を国際社会全体のルールにしたかったからである。投票結果は賛成95、反対4、棄権21であった。棄権した国のなかにインド、アルゼンチン、ブラジル、そしてフランスがあったのが目立った。日本は賛成票を投じた(A/PV.1672, para. 63)。核兵器不拡散条約は不平等であったが、それでも、現状維持による軍事的な安定を大多数の国は望んでいた。

第2は、日本に国連改革への関心が生まれたことである。1969年、愛知揆一外相は一般討論演説を行って、「国際の平和および安全に最も実効的に貢献する立場にあり、世界のさまざまな地域を本当に代表してもいる」国が安保理理事国にふさわしいと述べた。国家の方針として日本が常任理事国入りを目指していた、とまでは言えないであろう[5]。しかし、五大国以外で、国際秩序における責任を担いたい、と考え始める国が現れたことは重要である。

第3は中国代表権問題である。中華民国は国連発足以来の原加盟国であったが、共産党が大陸を制して中華人民共和国を建てると、毎年、代表権の交代が総会の議題にかけられた。この問題は加盟のそれではないので安保理の可決は必要なかった。1965年には台北と北京への支持が入れ替わる兆しが現れた。

可決に3分の2の特別多数が必要な重要問題に指定できれば、中華人民共和国にそこまでの支持はなかったので、中国代表の交代は先送りできる。指定できるかどうかは総会の過半数で決まる。1970年には中国代表権問題を重要問題とするA/RES/2642が通った。中華人民共和国の代表権を認め、国民党政府を追放する決議案の表決は賛成51、反対41、棄権25であった。賛成は過半数であったものの、3分の2に届かなかったので否決であった(A/PV.1913, para.74)。

常任理事国の椅子に中華人民共和国が座ることは止められない、とはっきりしたのは、アメリカ合衆国のヘンリー・A・キッシンジャー大統領補佐官が北京を訪問した1971年のことであった。その年の第26会期では、代表権問題を重要事項とする決議が否決され、中華人民共和国を中国代表とするアルバニア決議案(A/RES/2758)が賛成76、反対35、棄権17で可決された[6]

中国の参入によって、「南」の最盛期がやってきた。1974年における新国際経済秩序(NIEO)の宣言(A/RES/3201; A/RES/3202)はそれを象徴する出来事であった。守る側の先進国は翌年、フランスのランブイエ城に集まり、主要国首脳会議を立ち上げた。同じ1975年に、これまで中東戦争で押されっぱなしであったアラブ諸国がイスラエルに一矢報いて、シオニズムを人種差別の一形態とする決議(A/RES/3379)を通したこともアメリカ合衆国には不愉快であった。

新冷戦は1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻して始まった。ソ連はアラブの目覚めに多大な貢献をしたにもかかわらず、イスラム諸国からの信頼は無に帰した。他方、アメリカ合衆国は開発途上国が支配する国連に分担金を滞納することで反撃した。カセバウム修正という法律は、国連の一国一票による多数決に業を煮やして連邦議会が制定したものである。

しかし、1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任したことで東西間の緊張は緩み、1989年に冷戦は終わった。彼の新思考外交で、ソ連の国連政策は角が取れ、波風が立たなくなった。東側ブロックは消滅した。

アメリカ合衆国のジョージ・H・W・ブッシュ(父)政権はイスラエル寄りの政策を変えなかった。とはいえ、湾岸戦争の勝利がアメリカ合衆国の孤立を覆い隠した。

1995年は国連にとって創設50周年記念に当たった。また、それはグローバリズムと呼ぶにふさわしい国際協調の頂点であった。総会決議に関しても、世界は一つであった。パレスチナ問題は1993年のオスロ合意によって、明るい展望が開けていた。グローバルガバナンスについて多くのことが語られた。それにもかかわらず、総会が期待されることはほとんどなく、画期的な決議が採択されることもなかった。ニューヨークの主役であった開発途上国は1990年代、紛争と貧困にあえぎ、リオデジャネイロで開かれた地球サミット(国連環境開発会議)に注目は移っていった。

2000年における第55会期の冒頭にはミレニアムサミットが開かれ、ミレニアム宣言が採択された(A/RES/55/2)。それに基づき示されたミレニアム開発目標(MDGs)は、21世紀において国連が向かう方向をしっかりと示し、15年間にわたって世界を導いた。

それにもかかわらず、翌年9月11日のテロ事件は戦争を時代のメインステージに上げた。アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ(子)大統領とネオコン(新保守主義者)たちはウサマ・ビンラディンに対する対テロ戦争とサダム・フセインに対するイラク戦争を同時進行した。ネオコンには親イスラエルの傾向があり、国連総会での投票行動で合衆国は孤立した。

第60会期には、2005年世界サミット成果文書(A/RES/60/1)が出された。その内容は「保護する責任」であり、国際社会が紛争に介入する際の原則をめぐる長い論争のきっかけとなった。グローバリズムが復活することはなく、BRICSと称されるブラジル、ロシア、インド、中国、そして南アフリカは国際主義よりもナショナリズムを吹聴した。BRICS諸国の主張はまちまちで、国連総会の多数派を率いて、決議を通すことには無関心であった。

持続可能な開発目標(SDGs)に世界の目を向けたのは2015年に採択された決議A/RES/70/1である。「人類の議会」とまでは言わずとも、国連総会は時代に一石を投じることができた。 サミュエル・P・ハンティントンが「文明の衝突」を語ったように、文化の違いはどうしても政策の違いにつながる[7]。国連総会は小異を捨てて大同につくべきである。似た意味の言葉に中国語の求同存異があり、同じきを求めて異なるを存す、と読めるが、中国の本音は違いを残すことのほうのようである。核兵器大国ともなれば、気に入らないことはすべて抑止や威嚇をして黙らせておけばよい、と考えるかもしれない。そうした対応は一時的な取り繕いにすぎず、対外政策の矛盾はめぐりめぐって内政の矛盾となり、放置できなくなる。協力こそ国益である、と信じることが成功への確かな道である。


[1] Paul Kennedy, The Parliament of Man: The Past, Present, and Future of the United Nations (New York: Random House, 2006), pp. xi-xii.

[2] Evan Luard, A History of the United Nations, vol. 1 (London: Macmillan, 1982), p. 93.

[3] Hayward R. Alker, Jr. and Bruce M. Russett, World Politics in the General Assembly (New Haven: Yale University Press, 1965).

[4] D. W. Wainhouse to David H. Popper, December 16, 1949, enclosed in David H. Popper, “Memorandum,” pp. 5-6; Post-GA Meetings; Box 5; Bureau of United Nations Affairs: Subject File Relating to Palestine, Political, Security, and Trusteeship Matters, 1946-1951; General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, MD.

[5] ラインハルト・ドリフテ、『国連安保理と日本』、吉田康彦訳、岩波書店、2000年、36ページ。See also Liang Pan, The United Nations in Japan’s Foreign and Security Policymaking, 1945-1992: National Security, Party Politics, and International Status (Cambridge: Harvard University Asia Center, 2005), pp. 326-327.

[6] A/PV.1976, para. 477; and A. LeRoy Bennett and James K. Oliver, International Organizations: Principles and Issues, 7th ed. (Upper Saddle River: Prentice Hall, 2002), p. 90.

[7] サミュエル・P・ハンティントン、『文明の衝突』、鈴木主税訳、集英社、1998年。

プライバシーポリシー

© 2026 Ikuo Kinoshita

期末試験チャレンジ  研究各論(国際政治経済)2025年度前期
読み込んでいます…
武器移転と傭兵
人を殺したり、傷つけたりすることは特別なことであるはずである。よほどのこと、例えば疑いえない正義、のようなものがなければ、正当化の余地さえない。であれば、殺人や傷害のために使われた武器や兵士には罪があるのでなかろうか? 金儲けのために武器や兵士を売るならなおさらである。今回のテーマは、武器移転と傭兵(民間軍事会社を含む)をめぐる諸問題について論じなさい、である。 この70年あまり、現実に人を殺してきた武…
マリアルス号事件には黒幕がいた?
(表紙の画像はAIによって作成された) 人身売買は人類の重いテーマなのにあまり教えられません。現在の日本においてたくさんの人身売買が起きているのだから、文部科学省はしっかりと教えるべきです。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0004/0064/index.djvu https://chromewebstore.google.com/detail/djvujs-viewer/bpnedgjmphmmdgecmklcopblfcbhpefm (私のPCでは、なぜかEdgeに「Google …
ベトナム戦争
なぜ、アメリカ合衆国はベトナムに介入したのか? その説明の一つがドミノ理論である。1954年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は次の発言をした。 いわゆる“ドミノ倒し”の原理は知っているだろう。ここに一列に並べたドミノがある。最初のを倒せば、最後のまでどうなるかははっきりしている。あっという間に倒れていくのだ。―中略―したがって[ベトナムを]失うことになれば、自由世界には計り知れない打撃となる[1]。 共産主義…
覇権の衰退
https://youtu.be/6YeeFFKYP-o 紙幣はなぜ通用するのか? 皆がそれを別の商品の代わりとして受け取るから、私もそれを受け取り、それで払う、というのは少し安易な説明である。紙幣は、その価値を維持するために行われるサービスの結晶として価値を保つのでないか? 財政規律を守って過剰な通貨供給をしないことは、そうしたサービスの一つである。金融当局による金利の目標設定もそうである。政府自体が収税や調達に関わる巨大な経…