客観的幸福も、主観的幸福も、ガバナンスの指針としては不十分であると論じた。では、どのような指針が適当であるのか? 持続可能な選択の自由という考え方を筆者は支持する。長所も、短所も、それにはある。これを説明することが今回のテーマである。

手始めに、認識論での長所を説明する。選択の自由を論じることは幸福それ自体を論じるよりもたやすい。二つの理由がこれにはある。

一つは、幸福は主観性を排除するのが難しいが、選択の自由はそうではないことである。「幸福の追求」はアメリカ独立宣言において「不可侵の権利」として挙げられた。これはうまいやり方で、それぞれの市民が別の幸福を追求していても、平等に扱うことができるし、優劣をつける必要もめったにない。選択の自由というのは「幸福の追求」と非常に近い概念である。どのようなものが選択されるとしても、その選択自体は自由である、という理屈は共感を得られやすい。

もう一つは、選択の自由を評価するのに、社会における選択の全体を知る必要がないことである。最大多数の最大幸福は、人類なり、各国なり、幸福の総量が計算できなければ、どの政策が最大の幸福をもたらすかを判断できない。ある政策が個人にもたらす幸福量は、個人が属する国籍、階級、ジェンダー、エスニシティなどによって異なり、幸福最大化は不利な集団の犠牲のもとで行われる。多様な人々の自由な生き方を尊重するならば、無理な幸福最大化は回避されるであろう。

功利主義に基づく厚生経済学では、社会的余剰を幸福の総量とみなして、その最大化が共同体にとっての正解とされる。集計されるのは金銭的な尺度で測られた客観的幸福である。これを徹底的に適用すれば、きわめていびつな意味での幸福になる。極端な功利主義は命の価値さえも金銭的に表示する[1]。さすがに、金銭表示の幸福を唯一の原理とするべきである、と主張する者はいないはずである。

選択の自由も、どのくらいの数の人々が自由で、どのくらいの数の人々が自由でない、といったかたちで集計量を計算できないわけではない。アメリカ合衆国のフリーダムハウスという機関がしていることが、まさにこれである。しかし、社会全体の量を集計せずとも、特定の個人がより自由になったか、といった相対的変化が分かれば部分的な評価をすることができる。実は、功利主義でも最大多数と言いださなければ、部分的評価はできる。しかし、最大多数のスローガンがなければ、功利主義は単なる私利私欲であり、社会正義の観点がまったくなくなってしまって、ガバナンスの指針として論じるに値しない。

認識論を超え、実体論においても、持続可能な選択の自由という考え方に長所はあるか?、を以下で問う。実体論とは、選択の自由が人々と社会を実際にどう良くするのか、という観点である。

選択の自由からは三つの効果が派生する。第1に、多様な価値観の承認(機能主義)、第2に、選択する機会の増加(最適化)、そして第3に、知的進歩の加速(知性主義)である。

第1に、選択肢が増えるということは、選択肢の背後にある価値観も増えるということである。つまり、多様な価値観が選択の自由によって承認されることになる。社会が分業によって複雑になると、多種多様な職業が生まれ、そのそれぞれに独自の職業倫理が発達する。このように、選択の自由は社会における機能分化の前提であって、それがなければ経済成長は起こりえない。分業のすばらしさに気づいた社会学者はエミール・デュルケムである。

こうして、われわれはつぎの問題にみちびかれる。分業は、より広大な諸集団においても同じような役割をはたしていないだろうか。すなわち、周知のように分業の発達した現代社会では、分業の機能は社会体[コール・ソシアル-訳者注]を統合し、その統一を確保するところにあるのではないか、ということだ。われわれがいま観察してきた諸事実は、現代社会においてもさらに豊かに再生産されていること、これらの巨大な政治社会もまた、種々の仕事の専門化によってのみよく均衡を保ちえていること、分業は社会的連帯の唯一の根源とはいえないまでも、少なくともその主要な源泉であること、以上のことを想定することはきわめて正当である[2]

ここで主張されているように、分業する諸集団はそれぞれ足りないものがあるーー相互依存しているーーからこそ、それらを補うために、協力する。デュルケムによると、機能分化した社会は機能が未分化である社会よりも強制的措置に頼る必要がない。それにたいし、最大多数の最大幸福の原理に基づく社会は「多数派の専制」への誘惑に抗しきれず、少数派に抑圧的になるおそれがある。

いくら、価値観は多様だ、と言っても、あらゆる行為が容認されるべきである、という意味ではない。規制すべきか、そうでないか、は問題の性格を吟味してから判断されるべきである。

喫煙は代表的な例である。喫煙にはストレス解消の効果がある一方で、周囲の人の健康や感情を害する。このような場合、「自由主義国家モデル」の回で述べる外部性が生じているので、法規制をかけてしかるべきである。危険なスポーツや日々の飲酒のように、一見、他人に迷惑をかけないようでも、健康保険制度のもとで医療費の上昇をつうじて他人の負担になることには、ある程度の制限はかけてよいであろう。

では、昼寝や瞑想のように、他人の迷惑にならない選択はどうか? それらは無料であるので、GDP(国内総生産)を押し上げることはない。しかし、人によっては無上の快楽であり、心身の健康にもよい。選択の自由という指針が最も生きてくる実例である。

第2に、当たり前のことであるが、選択が自由になると、選択する機会が増加する。これがなぜ良いことなのかというと、選択のたびに最適化ということが行われるからである。ミクロ経済学の教科書には次のように解説されている。

経済学では、経済主体は最適化を試みると考える。すなわち、経済主体は利用しうる情報をもとにして、「実現可能」な最善の選択肢を選ぼうとする、と考える。ここで実現可能とは、予算の範囲内にあってかつ実際に選択しうる、という意味だ[3]

つまり、一定の費用内で、できるだけ高い便益を生む選択肢が選ばれる。これを費用便益分析という。便益を快楽、費用を苦痛、と読み替えるならば、ベンサムの功利主義と非常に似ている。違うのは、選択の自由という条件を重視するか、得られる功利性という結果を重視するか、である。

最適化の対象は、貨幣経済を前提とした財・サービスに限定されない。経済学でいうところの「財」は、哲学では「善」、つまりどちらも英語ではグッドかグッズである。財/善は売買だけでなく、物々交換によって、贈与によって、または、無料経済(フリーミアム)によっても入手できる。無料経済と命名したクリス・アンダーソンの著書から引用する。

無料経済とはこういうことである。ブログやSNSを無料で読んだり書いたりする。利用者が享受する楽しみは課金サービスから得られるものに引けを取らない。それらのサービスが広告料を払う企業を巻き込む「三者間市場」のビジネスモデルであれば、この活動はなお国民所得を増加させる。また、寄付によって運営されるWikipediaのような「贈与経済」であっても、それは誰かが稼いだ所得が寄付されたものである。しかし、純然たる個人の趣味で作成されたウェブサイトのような「無償の労働」にはそうしたことがない。金銭上の付加価値も、所得の移転も、一切、生まないのである。これはつまり、国民所得という概念では人々の幸福を一部しか捕捉できないことを意味する。GDP成長率を参考にするのは構わないが、もはやそれ自体が最優先の目標であってはならない[4]

昼寝や瞑想のように余暇に行う活動は、所得は生まなくても、幸福は生む。ミクロ経済学の機会費用という考え方を使えば、無料の財/善を経済価値に換算できる。この方法は権威ある教科書において紹介されている。

ネットサーフィンの例で言うと、それに費やす時間があれば、何か別のことができていたかもしれない。バスケットボール、ジョギング、空想にふける、寝る、友だちに電話する、たまった電子メールを読む、演習問題を解く、アルバイトの仕事をする、などだ。ネットサーフィンに時間を費やしている間、あなたはこうした別の活動をする時間を犠牲にしていることになる(有給の仕事をしながら並行してこっそりフェイスブックをしているならば別だが――その場合には、上司を友だちリストに入れないほうがいい)[5]

機会費用はあくまで物の考え方であって、逆に捉えれば経済価値に換算することの意義を疑問視させもする。時間当たりの報酬が高い人であれば、機会費用で換算した昼寝の価値も上がってしまう。これはおかしくないであろうか? これ以上、このテーマに深入りしない。選択の自由は最適化をつうじて、功利性を高める結果をもたらすことが伝われば十分である。

選択の機会が増えることにも短所はある。「幸福を指針とするべきか?」で紹介した幸せな農民と不満な成功者の例のように、心配のしすぎや、上には上があることを知ることで主観的幸福感が下がることがある[6]。こう考えてはどうであろうか? 幸せな農民は、取り越し苦労はしないほうがよい、と正しく選択しているのかもしれない。ただし、政府の情報統制や愚民政策によって無知であるだけであれば、そもそも選択の自由は存在しなかったことになる。それどころか、将来的にこの農民は、それまで政府に従ってきたことで享受した幸福感を無にするような不幸に陥るリスクが高い。例えば、自然災害や戦争が起きた時である。

第3に、選択の自由は知的進歩を加速する。批判や代替案の提示が知的進歩の前提であるからである。単なる思想の自由だけでは不十分で、選択して行動するなかから次の展開が生まれてくる。こうした主張の先鋭さでは、ジョン・スチュアート・ミルに肩を並べる論客はいない。

人間が高貴で美しい観照の対象となるのは、彼自身のうちにある個性的なものをすべて磨りへらして画一的なものにしてしまうことによってではなくて、他人の権利と利益によって課された限界の範囲内で、個性的なものを開発し喚起することによるのである。そして、およそ人間の事業はそれを行なう人々の性格を分けもつものであるから、右と同じ過程を経て、人間の生活もまた、豊富で多彩で生気溌剌としたものとなり、高い思想と崇高な感情とに対してより豊かな栄養を与えるものとなり、さらに、民族を、限りなく所属するに値するものとすることによって、すべての個人を民族に結びつけるところの紐帯を一層強固なものとするのである。各人の個性の成長するに比例して、彼は彼自身にとって一層価値あるものとなりうるのである。そこに彼自身の生存に一層大きな生命の充実が存在する。そして諸々の構成単位によりおおくの生命が宿るとき、それらの単位から成っている集合体もまたより多くの生命をもつ。人一倍強い人間性の持主に、他人の権利を侵害させないようにするために必要なかぎりの抑圧は、これを欠くことができないが、しかしこれに対しては、人間の成長という観点から見ても、十分にこれを償うものがあるのである[7]

社会全体のなかで摩耗しない個性を許容することは、斬新な商品の開発に結び付く。典型例といえば、Apple社創業者の一人であるスティーブ・ジョブズであろう。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の言葉通り、違法薬物を評価し、フルーテリアン(くだもの中心の食生活をする人)であった[8]。それらは彼がきわめて個性的であったことを示すエピソードにすぎないが、カリグラフィーへの興味に表れたデザインセンスの鋭さは否定しようもない。彼の生んだ商品は世界中で売れ、富をアメリカ合衆国に吸い上げている。

技術革新とはどのようなものか?、という問いは、ヨゼフ・A・シュンペーターの「新結合の遂行」という言葉によって解説される。従来の結合を解体し、新しい組み合わせで財貨、生産方法、販路、供給源、そして組織を創造することである[9]。そうした新結合を実践するのが企業者の役割である。例えば、トマス・エディソンは一流の企業者であった。彼のような天才が周囲の凡人によってつぶされず、「1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」が許容される社会でなければ、知的進歩は加速しない。

他方、選択の自由を指針とすることには短所もある。何より、GDPのような精密に数値化された一義的な政策目標を提示することができない。GDPには経済統計が存在するが、自由は抽象的で、多義的で、解釈的であるために測定できない。

事実、自由主義は政治思想の用語として手あかが付いている。しかも、レセフェール(自由放任)から、進歩的なリベラル、そして、アナーキズムに近いリバテリアンなどさまざまである。

これら主義主張には、それぞれ弱点がある。レセフェールは高い成長率をもたらすものの、環境や社会への負の外部性が高い。リベラルは社会の目標がはっきりしていることには理解をえられやすいが、財政負担が重く、また、腐敗の温床になる。リバテリアンは個人が孤立したソーシャルディスタンスのもと最高水準の自由が得られるが、アナーキーのもとでは緊急事態に対応できず、生命が脅かされることもある。

外部性、腐敗、そして緊急事態が生じている場合には、持続可能性のために自由な選択は抑制されざるをえない。持続可能性の問題については、「自由主義国家モデル」と「持続可能な開発」の回において、より深く考える。

最後に、伝統的共同体において、自由な選択は可能であろうか?、というテーマに触れて、この回を閉じる。自由な社会は近代になって現れた。それ以前の共同体において、取引というものはまったく異なる意味を帯びていた。贈与論で知られるマルセル・モースは次のように解説する。

現代に先行する時代の経済や法において、取引による財、富、生産物のいわば単純な交換が、個人相互の間で行われたことは一度もない。第一に、交換し契約を交わす義務を相互に負うのは、個人ではなく集団である。契約に立ち会うのは、クラン(氏族)、部族、家族といった法的集団である。ある時は集団で同じ場所に向かい合い、ある時は両方の長を仲介に立て、またある時は同時にこれら二つのやり方で互いに衝突し対立する。さらに、彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つ物だけではない。それは何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市であり、経済的取引は一つの項目に過ぎない。そこでの富の流通は、いっそう一般的で極めて永続的な契約の一部に過ぎない。最後に付け加えたいのは、このような給付と反対給付は、進物や贈り物によってどちらかといえば任意な形で行われるが、実際にはまさに義務的な性格のものであり、これが実施されない場合、私的あるいは公的な戦いがもたらされるようなものであるということである。われわれは、これらすべてを「全体的給付体系」と呼ぶことを提案した[10]

伝統的社会では、取引は義務であって自由な選択ではなかった。宗教と同じように、現状に満足している者の主観的幸福感は強烈であろうが、不満を抱く者には逃げ道がなかった。満足な者と不満な者を分ける主な要因は共同体内の身分であった。それはタテの関係であって、ヨコの関係ではなかった。不自由のもとで、機能主義、功利主義、そして知性主義は本来の力を発揮しなかった。

共同体に不満な者が自由な社会の存在を知ったならば、どうなったであろうか? 自由をうらやみ、忠誠は揺らぎ、最終的には離反に至ったろう。

伝統的共同体は、自由化とは別の方法で進歩を見せ、離反を止めるかもしれない。それは上からの改革と呼ばれる。しかし、日本の幕末や帝政ロシア末期の改革は、旧体制が進化しきれずに崩壊した例である。離反を防ぐために効果的であるのは、やはり、宗教改革時代の異端審問官やジョージ・オーウェルが考えた「真実省」のような思想弾圧である。 自由な社会においても、伝統文化や宗教は息づいている。それは伝統的社会においてとは逆に、社会の多様性や寛容を高めるであろう。また、民族衣装、宗教施設、あるいは伝統芸能は観光業や文化産業にとってビジネスになる。その一方で、もはや社会の主流の座から降りた宗教界の側では、原理主義者やカルト教団によるテロリズムの形をとって、自由への反発は表面化する。


[1] マイケル・サンデル、『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』、鬼澤忍訳、早川書房、2010年、57-66ページ。

[2] エミール・デュルケーム、『社会分業論』、田原音和、筑摩書房、2017年、117ページ。

[3] ダロン・アセモグル、デヴィッド・レイブソン、ジョン・リスト、『ミクロ経済学』、電子版、東洋経済新報社、2020年、11ページ。

[4] クリス・アンダーソン、『フリー』、小林弘人訳、NHK出版、2011年、を見よ。

[5] アセモグル、レイブソン、リスト、『ミクロ経済学』、13ページ。

[6] グラハム、『幸福の経済学』、77ページ。

[7] J・S・ミル、『自由論』、塩尻公明、木村健康訳、岩波書店、1971年、127ページ。

[8] ウォルター・アイザックソン、『スティーブ・ジョブズ』、I、井口耕二訳、講談社、2012年、84、119、151ページ。

[9] シュムペーター、『経済発展の理論』、上、塩野谷祐一、中山伊知郎、東畑精一訳、岩波書店、1977年、183、198-199ページ。

[10] マルセル・モース、『贈与論』Kindle 版、筑摩書房、Kindle の位置No.125-135。

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